2011年01月08日

◆あり得る仙谷留任

渡部亮次郎

<国会召集28日軸に…首相ら協議
菅首相(民主党代表)は6日午前、首相官邸で民主党の岡田幹事長らと会談し、通常国会の召集日程や小沢一郎元代表の衆院政治倫理審査会(政倫審)招致問題などを協議した。

召集日について結論は持ち越したが、28日を軸に調整している。

小沢氏の招致問題では、岡田氏が「小沢氏に(政倫審出席を)働きかけていく」と経過を説明した。内閣改造・党役員人事は議題に上らなかったという。>
読売新聞 1月6日(木)14時35分配信

この通りだろう。内閣改造は既定の方針だから、中身は菅首相の胸先三寸、最早秘中の秘。余人は口を出せない段階に至った。おそらく民主党大会の13日以降に具体化するだろうが、更迭の対象と予想されていた官房長官がこのところ欝状態と思いきや、なんと躁状態とも言いえるほど張り切っている。

民主党内部には野党批判の及ばない党代表代行への転出という予想があるが、私は予想外!官房長官留任がありうると思う。大変な賭け。外れたら怖いから新聞もテレビ、ラジオも書けない。

留任説の根拠は、菅内閣における仙谷氏の「位置」である。政策のすべてについて情報を収集し、内閣としての決断を下しているのは首相ではなく官房長官たる仙谷氏である。

この事は普天間問題はともかく、菅内閣にとって危機的外交決断のすべてを仕切ったのが首相ではなく仙谷氏だったことが如実に証明している。

菅氏はそれなりに政治家として経歴は伸ばしてはいるが、政府与党責任者として懸案を決断し、責任を負った経験は少ない。

そこへ行くと仙谷氏は弁護士としての経験から「懸案処理」には自信を持って立ち向かえる。だからこそ尖閣事件の処理に率先して先頭に立ったのである。

事ほど左様に、いまや仙谷「官房長官」抜きの菅政権歯考えられなくなっている。自民党政権では、官房長官が首相抜きに政権の生殺与奪の権を握ったと言う例はなかった。

しかし、初めて政権を握った民主党だからこそあり得る現象なのだ。
市民運動の経験は政局運営には全く役に立たない。そこへ行くと「法廷闘争」で「権力」と具体的に戦った仙谷氏の弁護士経験は、菅氏の政権維持に必要欠くべからざる「核」である。

仙谷官房長官を失えば菅は倒れる。いまや 菅首相はそれを強烈に意識せざるを得ないところへ追い込まれている。

これに対して党内からは対立する小沢グループや、民主党出身の西岡参院議長が仙谷氏の交替を求めている。野党も参院で問責決議をうけた仙谷氏らが辞任しなければ通常国会の審議を拒否するといっている。

ここに重点を置いて改造劇を展望すれば仙谷更迭がけつろんになるが、菅首相が「政権しがみつき」を優先する以上、仙谷残留は十分考えられる。野党の「審議拒否」も長続きはしない。2011・1・6

◆本稿は、1月8日(土)刊の「頂門の一針」2148号に
掲載されました。他の卓見もご高覧ください。
◆<2148号 目次>
・あり得る仙谷留任:渡部亮次郎
・菅首相:揺れる胸の内 焦点の仙谷処遇は:古澤 襄
・西岡参院議長が「菅・仙谷には国を任せられない」:古澤 襄
・中国、「分散投資」を展開:宮崎正弘
・梅ヶ枝の手水鉢:上西俊雄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2011年01月03日

◆糖尿あってこその息災

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。その夜だけははやはりイン・ポテンツになった。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代に既に発症していた。また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという自覚もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病院。現在は慶応義塾大学の支配下にある。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ東京高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから22年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて5月27日に受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった)といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。(その友人が10月、脳梗塞のため58と言う若さで先に逝ってしまった)。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きるこうした「合併症」で死ぬのだ。

それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して、結果として半身不随などの後遺症が残るが、3時間以内にTPAを処方すれば無事だとか。

血栓が出来ないように、血液をさらさらにする薬「ワーファイン」を2年まえから服用している。薬の効果を維持する為禁止されている食物がある。それが納豆、乾燥若布、クロレラ。納豆はもともと嫌いだから問題は無い。

糖尿があればこそ、1日2回での1万歩散歩など医師の言いつけを守っている。ここ20年は風邪も引かない。植物性乳酸水で業病「花粉」も克服した。2011年を迎え、1月13日には晴れて「後期高齢者」となる。当に「一病息災」である。2010・12・31


2011年01月01日

◆内閣改造の危険性

渡部亮次郎

<内閣改造が政局にもたらす影響は「両刃の剣」とされ、過去の政権では寿命を縮めた「失敗例」も少なくない。>と以下の読売は指摘している。しかも首相は大規模な改造に前向きだ。仙谷氏の交代も考えているのではないかと受け止められている。危険を知らないのだ。

自民党時代、福田赳夫内閣で初代の官房長官だった園田直氏に聞いたことがある。「内閣改造で首相は何人ぐらいを候補者として挙げるのか」「ずばり80人だ」。私は30人ぐらいと予想していたので驚いたものだ。

実を言えば赳夫内閣発足後、1年経っての改造だったが、当の本人が足元をすくわれて官房長官を更迭され、ただ1人とはいえ横滑りで外務大臣にはなったが、更迭はよほどハラに据えかねたと見え、陰では露骨な反福田になって行った。

園田氏は何をしたか。昔からライバルだった田中角栄氏に急接近、大平正芳政権の樹立に尽力することになる。外務大臣としては懸案だった日中平和友好条約の締結に積極的だったので福田首相も油断していた。

じつは首相の首席秘書官をしていた長男康夫氏が度々私を呼び出して福田氏の総裁再選への園田氏の協力を求めたが、私は園田氏の動きの真実は絶対明らかにしなかった。

園田氏が田中角栄氏と会うのは必ず午前5時の田中邸。記者は一人も張っていなかったから秘密は守られた。田中氏への連絡役は、初めは政務次官(田中派)だったが次からは私と、相手は早坂茂三氏になった。

私は若い頃、田舎の警察周りを勤めた時、警察車庫のパトカー前に寝たことがある。それで実績を挙げても野田が、政治記者も試しにあのころ午前5時の田中邸を見張れば特種が取れたろう。

それで1年後の秋、マスコミの予想を大きく覆して総裁選は大平氏の大勝。赳夫氏は「天の声にもたまには変な声がある」と迷文句を吐いて官邸を後にした。

改造は80人に希望を持たせるが辞めてゆく20人には敵意を抱かせる。古狸は敵意に注意するが、初心者は希望だけを感じてしまって、その後のカジ取りを間違う。

菅氏にその危険を感じる。改造と聞いて近寄ってくる人の多いのに迷ってしまうのだ。飛んでもないチョンボ人事をやってしまったりする。

読売が報じたところに依れば、支持率低迷期に内閣改造を行なって失敗した例は幾つもある。新しいところでは、08年8月、福田康夫首相が伊吹文明幹事長を財務大臣に起用、後任の幹事長に麻生太郎氏を指名し、支持率は27%から41%に上がったものの30日後に退陣せざるを得なかった例。

その前の安倍内閣では官房長官に与謝野馨氏を起用するなどの改造をしたが結局は健康状態の悪化は食い止められず16日後に退陣した。

森喜朗内閣。2000年12月、行政改革相に橋本元首相を起用。支持率は若干回復したが、内閣は力尽き4ヵ月後に退陣を余儀なくされた。

改造は内閣の精力を補強する特効薬に見えて結局、命取りにもなり得るのだ。桑原、桑原。

<改造の風そわそわ、官房長官・法相…飛ぶ憶測
菅首相が来年の通常国会召集前に内閣改造を検討する考えを示したことで、民主党内がざわついてきた。内閣改造が政局にもたらす影響は「両刃の剣」とされ、過去の政権では寿命を縮めた「失敗例」も少なくない。

参院で問責決議が可決された仙谷官房長官や馬淵国土交通相の処遇や、仙谷氏が兼務を続ける法相人事などを含め、様々な観測が飛び交い始めた。

ただ、首相は29日から年末年始の休暇に入った。この日昼には首相公邸に江田五月前参院議長ら菅グループの所属議員約30人を招き、約3時間にわたって懇談。

出席者によると、首相は今後の政権運営について、「いろいろ長期戦になる。一個一個片づけていく。まずは小沢さんの問題だ」と述べ、小沢一郎元代表の国会招致問題の早期決着に最優先で取り組む考えを示した。

出席者の一人は「首相は大規模な改造に前向きだ。仙谷氏の交代も考えているのではないか」と受け止めた。>

(読売新聞 12月30日(木)13時59分配信)

2010年12月31日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。

それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革はトウ小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞってトウを避けようとした。

トウの3度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

3度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活したトウ小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。
2010・12・30


2010年12月30日

◆小沢・仙谷刺し違いなるか

渡部亮次郎

小沢氏から「政倫審には出る」という返球を受けて、菅首相は通常国会前の内閣改造に言及せざるを得なくなった。口の軽いカンのこと、そのうち仙谷更迭にまで言及しかねない。

西村眞悟氏(前衆院議員)によれば12月27日、名古屋で会った塚本三郎元民社党委員長は「菅は、自分のことしか考えていない男だ。ただ、人を利用してのし上がってきた男だ。

人の世話はせず、ただ自分の保身のことだけを考えている。利用した人がどうなろうと知ったことではない。國がどうなっても彼の知ったことではない。

このたびの「たちあがれ日本」への連立申し込みも、彼の保身から出たことだ。これに乗れば、國を滅ぼすことになる」といったそうだ(「頂門の一針」12月29日号)

組閣以来、仙谷官房長官を最も頼りにしてきた菅首相だが、塚本説によれば、当座の苦境を脱せるならと、仙谷を簡単に捨てることも当然あり得るわけだ。

小沢氏が28日述べた中で政倫審出席が国会審議円滑化の条件となるのであれば通常国会冒頭に出席すると言う事は、仙谷氏が事前に更迭されていることを前提にしたものだからだ。

参院における問責決議案の可決の事情からすれば菅首相が仙谷氏を更迭する事はもはや不可避だが、他の閣僚ポストへの横滑りも可能性は無い。やれば野党の反発は今以上に厳しくなるからだ。

<菅首相(党代表)や岡田幹事長らは28日、首相官邸で行った協議で、「通常国会前に小沢氏の政倫審出席を議決する」とした27日の党役員会決定に基づき、手続きを進める方針を確認した。協議では小沢氏への批判が相次ぎ、出席者の一人は「『小沢切り』の流れに変わりはない」と明言した。

小沢氏は28日夜、側近議員に「条件を付けた覚えはない」と漏らし、首相らの対応に不満を示した。

しかし、首相たちには小沢氏に厳しい姿勢をとり続けることで「政治とカネ」の問題解決に積極的だとアピールする狙いがある。

執行部は政倫審への対応とは別に、小沢氏が強制起訴された時点で離党勧告を突きつけることも検討しており、「処分の方が重要な目標だ」との声もある。

ただ、執行部も、参院で問責決議が可決された仙谷官房長官らの進退問題の判断を迫られている。首相は28日夜、首相官邸で記者団に内閣改造について「次の通常国会までに強力な体制をつくりたいと、今考えているところだ」と述べ、通常国会召集前の内閣改造の可能性に改めて言及した。

首相周辺では、「内閣改造で仙谷氏が閣外に退くと同時に、小沢氏を離党に追い込む手もある」と、仙谷氏と小沢氏の刺し違えによって事態打開を図る案も浮上しているが、首相と岡田氏らの協議は1月5日に再開するとしており、民主党内からは「党を取り巻く状況は日々悪化しているのに、危機感がなさ過ぎる」と嘆く声も出ている。> (読売新聞 12月29日(水)13時6分配信)

菅首相は元日、小沢邸の向こうを張るかのように首相公邸で新年宴会を挙行するそうだが、官房長官の仙谷氏を欠いた新年の政局運営は元日が三途の川になっていないとも限りない。2010・12・29

-◆本稿は、12月30日(木)刊の「頂門の一針」2139号に
掲載されたものです。他の卓見もご欄下さい。

◆<2139号 目次>
・政倫審出席をめぐる小沢氏の深謀:花岡信昭
・小沢・仙谷刺し違いなるか:渡部亮次郎
・打倒!動物政権:MoMotarou
・日本は独立自尊の国:加瀬英明
・キリスト教はカルトである:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月29日

◆小沢を嫌悪 菅には唖然

渡部亮次郎


小澤は菅を嵌めた。端(はな)からハラを固めていたのだ。バカを見たのは岡田原理主義者。小澤は屈服したように見せて逃げおおせる心算だ。執行部の方針を受け入れることで、参院で問責決議が可決され、野党が国会審議に絡めて交代を求めている仙谷由人官房長官に対し、「けじめ」を迫る狙いもあるのだ。

だから以下の報道は後ろから先に読まなければならない。前から読むと「小沢屈服」に読め、後ろから読むと「小沢勝利」と読める。

<政倫審出席を表明=執行部方針受け入れ―小沢氏

民主党の小沢一郎元代表は28日午後、衆院議員会館で記者会見し、自身の政治資金の問題を説明するため、「衆院政治倫理審査会に出席する決意をした」と表明した。

その上で「私が(政倫審に)出席しないと国会審議が開始されない場合は、通常国会冒頭に出席する。そうでない場合は予算成立後、速やかに出席したい」と述べた。

小沢氏は会見に先立ち、都内の事務所に鳩山由紀夫前首相を訪ねて政倫審出席の考えを伝えた。

年明けにも強制起訴される小沢氏の国会招致をめぐっては、菅直人首相や岡田克也幹事長ら党執行部は繰り返し、政倫審への出席を要請。

これに対し、小沢氏は「裁判で潔白を証明する」などとして、拒否する姿勢を示していた。このため、同党は27日の役員会で、出席に応じなければ、1月召集の通常国会までに政倫審で招致の議決をする方針を確認。首相は出席できないなら、小沢氏に自発的な離党を暗に求めていた。

小沢氏は党内外の自身への厳しい空気を踏まえ、出席せざるを得ないと判断したとみられる。

一方で、執行部の方針を受け入れることで、参院で問責決議が可決され、野党が国会審議に絡めて交代を求めている仙谷由人官房長官に対し、「けじめ」を迫る狙いもありそうだ。>(時事通信 12月28日(火)14時12分配信)

菅首相を始め民主党執行部は「政倫審への出席を要請」と言う要求を小沢氏に飲ませたことで祝杯でも挙げかねない。だが小沢氏にしてみれば政倫審に出たところで何も解明されなければ欠席したのと同様。

多分、小沢氏は滔々と弁舌をふるうだろうが、検察庁でさえ破ることのできない小沢壁を破れる人物が国会にいるはずが無い。小沢氏はだから「渋々ながら」とみせて菅首相らの要求を受け入れた。だが、それだけの話。事態はなんら変わっていない。

小沢氏の本心は仙谷斬りにある。小沢氏も実は左翼だ。同じ左翼の仙谷との喧嘩は「近親憎悪」。だから仙谷氏の「小沢切り」は本気であり、厳しいものがある。小沢氏はそれに気づいている。

そこでここは屈服したように見せながら、「俺がケジメをつけたと同様、仙谷の問責可決問題にもケジメをつけろ」と菅首相に迫るハラ。それが実現しないまま党を追われたりしたら末代の恥になってしまうから、屈服したように見せて党に留まるハラを固めたわけだ。

「騒動」はこれで一応決着したように見えるが、これは喜劇ではなく悲劇の始まりに過ぎない。民主党の凋落が待っているからである。

菅氏らは小沢切りを徹底すれば内閣も党の支持率もV字型に回復すると思っているようだが、人気は回復しない。

地方選挙の情況を分析してみると、確かに昨年、民主党を支持した有権者は、確かに小沢の金権体質を嫌ってはいるが、それよりも呆れているのが菅首相の政治家としての能力の欠如なのである。

選挙には当選する術は心得ているが政治家としては無能力者だったことを知らされた慨嘆が感じられる。

小沢切りは、ここ数日囁かれている、連立問題の条件だったかもしれない。斡旋に走っている人物が拘っているのかもしれない。しかし27日に「たちあがれ日本」が連立参加を拒否して、一旦は終わりになった。たちあげれの断った連立を自民や公明が受けるはずが無い。菅内閣は完全に泥舟になった。           2010・12・28

◆本稿は、12月29日(水)刊の「頂門の一針」2138号に
掲載されました。他の寄稿者の卓見もご覧下さい。

◆<2138号 目次>
・小沢を嫌悪 菅には唖然:渡部亮次郎
・菅との連立などあり得ない:西村眞悟
・1月13日の民主党大会は大荒れ?:古澤 襄
・中国のアフリカ進出は侵略的で悪質:宮崎正弘
・スナックの時代終わる:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月27日

◆虎の威を借る

渡部 亮次郎


虎の威を借る狐、と習った。それを虎の威を借りる狐、と覚えている方もいらっしゃる。パソコンは古語軽視だから「刈る」と出て物議を醸す。

「故事 俗信 ことわざ大辞典」【小学館 昭和60年1月21日 第1版 第11刷発行】を引いて見た。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

他の権勢に頼って威張る小人物のたとえ。「虎の威を借る狐とは、きょろつく顔に現れたり」{浄瑠璃・壇浦兜軍記}

出典:「嘗不知鼠憑社貴 狐藉虎威」(沈約 恩倖伝論)

「借る」は「借りる」の古語でしょう。

岩波書店が2000年10月18日に1945年生まれ、早稲田大学文学部卒業の「ことわざ研究会会員」時田昌瑞著「岩波ことわざ辞典」を刊行した。それは上記を参考にしたかどうかは知らないが、現代語訳の文章で詳しく説明している。

!)狐、虎の威を借る !)虎の威を借りる狐 弱者が強いものの権威をかさに着て、威張ることのたとえ。「借」は「仮」とも当てる。中国・漢代の『戦国策』(楚策)にある寓話に基づく。

狐が虎に食われようとした時、狐が虎に言う。自分は天の神に百獣の長になるように命ぜられている。自分の後についてくれば分るはずだ、と。虎が狐に従って行くと、他の動物は虎を見て逃げ出してしまう。それを見た虎は、なるほど狐の言う通りだと納得したというもの。

この話は、北方の国が楚の将軍を怖れているようだが、という楚王の問いに対して、北方の国は、虎である王の軍隊を怖れるのであって、将軍は、その威を借りた狐に過ぎないと臣下が説明するのに引き合いに出したものであった。

日本でも平安後期(説話『注好選』)・鎌倉時代から盛んに用いられたが、古くは異表現!)のように狐が先にくる形のものが多かった。

引用した以上を読むと、馬鹿は虎だ。百獣が逃げたのは、虎を見たからなのに、狐を怖れたとの誤解。どこかの国の大統領が狐、虎は中●じゃないか。


2010年12月24日

◆琉球主席公選の裏工作

渡部亮次郎


<沖縄返還前の68(昭和43)年11月に行われた初の琉球政府行政主席公選で、日米両政府が米軍基地存続を容認する保守系候補を当選させるため、沖縄県民の悲願だった国政選挙への参加を同候補の実績として選挙戦に利用しようと画策していたことが22日公開の外交文書で分かった。>

今から42年前、この選挙の取材で筆者はNHK政治部記者ながら「特派員」として那覇に派遣され、日額38ドルを支給され、田辺昌雄先任記者指導の下、沖縄中を駆け巡った。

立会い演説会を見に行くと、突然琉球弁に切り替わり全く取材できなくなった。要は日本政府の悪口を言っていると判断。そんなことを繰り返しているうちに、本土政府寄りの主張を繰り返している
西銘候補の勝ち目は無いと即断できた。

これに対して当時、沖縄を管轄していたアメリカ高等弁務官事務所は執拗に私を尾行。終始、スパイをつけた。私の下宿の電話を盗聴していると高言し、NHKに送る「情報」のすべてを「監視」していた。

<公選は、沖縄自民党総裁の西銘(にしめ)順治氏と、無条件の即時返還などを訴えた革新系の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏との接戦が予想されていた。

外務省北米局作成の極秘文書などによると、日本側は68年5月14日の協議で、「選挙前に実現すれば西銘候補が勝てる」として国政参加の実現などを提案。

米国側は6月7日、国政参加の実現について「選挙戦の一つの武器として使用したい」と同意したうえで、「表向きにはいかに困難かを指摘しつつ、実現時にはそれが西銘氏の力によるところが大なるがごとき印象を与えるよう取り運ぶ」

「(選挙直前の)10月ごろ、日本政府より『西銘案』を基礎にした国政参加実現の提案を行い、米側が同意する」などのシナリオを提案した。

佐藤栄作内閣の三木武夫外相は7月25日、ジョンソン駐日大使と「選挙に効果的な時期に発表する」などと打ち合わせを行った。日米両政府は10月9日、沖縄から衆院に5人、参院に2人の計7人が国会審議に参加することで合意した。

また、68年6月18日付の下田武三駐米大使の公電によると、米国務省のスナイダー日本部長らが外務省幹部に「本土自民党の援助が手遅れになることを最も心配し、沖縄への選挙資金送金方法改善について申し入れを行った」と自民党に金銭的支援を促していた。

日米両政府の裏工作にもかかわらず、公選では、屋良氏が約2万8000票差で当選した。>毎日新聞 12月22日(水)11時7分配信

こうした「工作」が成されていた事は、一切知らなかったが、私の取材では両候補の「差」は4万票、と言うのが結論だった。ただし
NHKはこれを放送する事はしなかった。にも拘らず米側は「放送した」と主張した。私の電話を盗聴していたことを告白したようなものだった。

当時の沖縄の「世論」はすべてが「祖国復帰」、「日の丸掲揚」に尽きた。国政参加の実現についてなど無関心だった。だから日本の外務省もアメリカ側も沖縄の「心」を理解できていなかった。

この事はあれから40年以上経った今も変わらない。民主党は更に判っていないだろう。
   2010・12・22

◆本稿は、12月24日(金)刊の「頂門の一針」2133号に
掲載されています。<同号 目次>ご覧の上、他の卓見も、
下記からお手続きの上、拝読下さい。

◆<2133号 目次>
・琉球主席公選の裏工作:渡部亮次郎
・大主筆が拘る理由の仮説:阿比留瑠比
・角さんのメディア感覚、「弱かった」:岩見隆夫
・韓国も中国と経済的には関係を深める:古澤 襄
・出番待つ自民党の選手団(中):平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
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2010年12月23日

◆憚るプラタナス

渡部亮次郎

江東区毛利2丁目に広がる都立猿江恩賜公園は、昭和天皇の婚約記念に下賜された南部と、木場だった北部地域からなり、私は北部だけを散歩コースとしている。

北部は樹木が多いから秋から冬にかけては落ち葉でいっぱいになる。特に欅(けやき)はうず高く積もる。ほぼ毎日のように掃除の業者がビニールの袋に詰めているが、詰めても詰めても翌日には積もっているのが秋だ。

12月にはいると欅は殆どの葉を落としてしまった。そこで20日過ぎには、清掃業者も人海作戦で根こそぎ集めて去った。ところが憚るのがプラタナス(鈴懸=スズカケ)である。いつまでも葉を落としきらず、広場を汚している。

公園では櫻が夏から葉を落とし始めて11月中には殆ど落葉。桂もそう。この公園特有の中国渡来、メタセコイアも針状の葉を12月までに落とし終える。だからプラタナスは憚って目立つのだ。

なるほど9月から落葉を始めはする。グローブのような大きな葉だ。
だが一斉には落葉しない。さすが11月ともなれば盛んに落ちるが、纏まっては落ちない。

落ち葉を片付ける係りの人。「大きな声では言えませんけど、欅の落ち葉はきれいだけど鈴懸は汚いんだよね。だから早く片付けたいんだけど、片付けても片付けても翌日には、また散らばってるんだ」とこぼしている。

プラタナス、別名スズカケノキはバルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布市。紀元前から既にイタリアに入った。16〜17世紀にはフランス、イギリスで街路樹に用いられた。

わが国に入ってきたのは明治の初め。東京の小石川植物園に植えられたのが始まり。秋に実る実が山伏の着る篠懸の衣についている房の形に似ているから「鈴懸」と日本語の名前が付けられた。

灰田勝彦の「鈴懸の径」という歌を若い頃歌った。鈴懸がプラナスとは知らなかった。

この歌は古い歌だが、実にモダンな歌だ。

この歌が発売されたのが、昭和17(1942)年9月というから、まさに戦争の最中。軍歌一色の時代によくもまあこんなモダンな歌が出たものだ。

<灰田勝彦「鈴懸の径」>

「鈴懸の径」
  作詞:佐伯孝夫
  作曲:灰田晴彦

 友と語らん
 鈴懸の径
 通いなれたる
 学校(まなびや)の街
 やさしの小鈴
 葉かげに鳴れば
 夢はかえるよ
 鈴懸の径

この単純とも言える歌詞。そこには戦争の影は無い。学徒出陣は昭和18年という。その前年に「友と語らん・・・」とは・・・。それさえも難しくなってきた時代を先読みしていたのだろうか? 戦争とこの歌詞に、何か違和感を感じる。

歌手灰田勝彦はハワイ・ホノルル生まれの二世だ。作曲は兄の灰田有紀彦(灰田晴彦)。灰田兄弟はハワイで父親が急逝したあと、帰国。勝彦は立教大学に入った。この歌は立教大学の道をモデルに作曲されたそうで、立教大学には歌碑がある。

幼少の頃育った秋田市に植わっていたかどうか記憶が無いが、東京の街路樹は公孫樹(いちょう)鈴懸、唐楓だから、鈴懸は馴染の木ではある。

しかし各地の街路樹は12月末になっても裸にはなっていない。猿江公園の鈴懸は年を越しても裸にはならないのじゃないか。

2010・12・21

2010年12月21日

◆笑顔で人を殺す国

渡部 亮次郎

「中国首脳の来日には、相手を懐柔するトウ小平型と、激しく威嚇する江沢民型がある。しかし、来日した温家宝首相のニコニコ顔に惑わされてはいけない。来日に水をさすようだが、微笑外交は腹に一物ありなのだ」と12日の産経抄は過去の経験を踏まえて戒めている。

そうなのだ、!)(とう)小平は私の前に、にこやかに現れた。北京の人民大会堂。1978年8月10日、の本時間午後4時。6年越しの懸案だった日中平和友好条約にやっと目途をつけた我々交渉団は同行記者団と北京ダックの昼食をして一息入れたあとだった。

人民大会堂の玄関からテレビのライトに照らされながら1人の小男がゆったりと歩いてきた。それが「あの」!)(とう小平)だった。合計3度の失脚から甦り、いまや最高実力者になろうとする副主席。小平は小男だからついた元は綽名。150Cmに満たない。

丸顔。既に74歳だが老人シミはひとつも無い。失脚と復活を繰り返した自信からか余裕綽々の雰囲気が出ていた。これが貫禄と言うものなのだ。

会談の冒頭、カーツ、ペッと痰壷にツバを吐き、下から園田直日本外相を見上げた。園田は睨(ね)めつけられた、気おされちゃいかんからオレもやろうとしたんだけどタンが出てこない。やったのは大分経ってからだった。

その2日後に会談する華国鋒国家主席や前日まで会談した黄華外相はメモを読みながら言葉を発するが、トウ氏はメモ一切なし。園田外相が「監獄に入っているときはどうでした?」と失礼なことを聞いても「俺は毛沢東にかばわれて軟禁だった、1日2時間の重労働はしたがね」と平然たるものだった。

老練。外相が思わず突っ込んでゆくと「ときにあんたは歳はいくつかね」ときて「あ、それならオレより十何歳も下だ、下だ」なんて言ってはぐらかしたりした。

尖閣列島をテーマにした時もにこやかに「今までどおり、20年でも30年でも放っておけ」と言ったから、日本側は実効支配が認められたと解釈してしまった。尤もあそこで更に詰めようと言う雰囲気が双方に無かった。

日中平和友好条約とは!)(トウ)小平による中国4つの近代化と経済の改革、解放化を実質的に梃入れする担保であった。あの年から中国経済が飛躍的に伸びた事は誰も否定できない事実である。

にも拘らず、トウは日本から受けた莫大な経済援助について人民に一言も言っていない、ひた隠しして死んだ。死ぬ前に1989年6月4日、北京の天安門広場に集まっていた市民、学生に対して、人民解放軍に一斉射撃させ、何百人も殺したのも!)(トウ)小平だったのだ。

尤も、あの時に市民、学生の自由化要求を認めていたならば、中国共産党は滅亡に追い込まれた事は確実である。つまり中国共産党は自己を守り貫くためには、時に応じて笑いもするし殺しもする、断乎として。にこやかに殺すのである。騙されてはいけない。

<中国首脳の来日には、相手を懐柔するトウ小平型と、激しく威嚇する江沢民型がある。30年ほど前に来日したトウさんは、新幹線に乗って科学技術の水準の高さを褒めあげ、トウブームを起こした。コワモテの江さんは歴史認識で説教をたれ、尖閣諸島はおれたちのものだと欲張った。

 ▼きのう来日した温家宝首相は、表面的にはトウさんタイプかもしれない。国会で演説し、西京極球場では立命館大野球部員とキャッチボールに興じる予定だ。テレビは「これは絵になる」と大挙して押しかけ、彼に翻弄(ほんろう)されることだろう。

 ▼しかし、ニコニコ顔に惑わされてはいけない。日本のコメ輸入で合意したところで、恭しく調印したのはわずか25トンだ。大型トラック2台分で大きな顔はされたくない。東シナ海の資源開発で譲歩したわけでも、巨大軍事力を減らすといったわけでもない。

 ▼なぜか、温さんは記者会見を予定していない。大国の指導者らしからぬ。その理由は明かさないから、こちらで勝手に推測する。日中の「氷をとかす旅」なので、余計なボロは出したくないのがホンネだ。自虐的な日本人記者から、慰安婦問題や首相の靖国参拝の質問が出れば批判をせざるをえない。

 ▼すると中国内に跳ね返って、大衆の反日気分に火を付ける。中国経済のひずみを是正するのに、日本経済が役立つと考えているから、いまは困るのだ。

 ▼自著が発禁処分をうけた何清漣さんによると、小紙連載の「トウ小平秘録」を抄訳掲載したブログがネット上から削除されている。天安門事件はいまも「教えたくない歴史」なのだろう。

歴史を鑑(かがみ)とするとは彼の国の主張だが、自国には適用されないようだ。来日に水をさすようだが、微笑外交は腹に一物ありなのだ。>(産経抄 Sankei Web 2007/04/12 05:01)
2007・04・12(再掲)




2010年12月19日

◆藤 純子がいいと三島由紀夫

渡部亮次郎
三島さんが1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。

バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後、割腹自殺した(三島事件)、45歳没。

現在、忌日は、三島由紀夫研究会による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派諸団体が追悼の慰霊祭を行っている。

事件のおよそ10か月前、正月頃だった。東京・赤坂にあった「岡田」という料亭で、初めて三島さんを見た。2階の座敷で、その後官房長官や外務大臣に出世する園田直氏と三島さんを対談させたら面白かろうと新潮社出版部長の新田敞(ひろし)さんが言い出して、簡単に実現したのだ。

「対談」は園田氏の後援会報「インテルサット」(月刊)に掲載されることになっており、当時NHK政治部記者で園田氏と親しい関係で、私が園田氏の付き添い役の私。

三島さんにはかねて親しかったやはりNHK社会部記者で宇和島藩主伊達一族の末裔伊達宗克さんが付き添い。新田さんが司会役で対談が始まった。

共通の話題は剣道から始まったが、話は皇室から頽廃する世相まで広範にわたり2時間にも及んだ。成功だった。初対面とは思えぬ盛り上がりだった。

終わって酒の席になったが、二人とも余りアルコールは呑まなかった。ただ三島さんが、当時映画で『緋牡丹博徒』で初主演し、大ヒット。主人公「緋牡丹のお竜」こと矢野竜子役で人気を集め、シリーズ化され当代一の人気女優になった藤 純子を「あれはいいねぇ」と褒めちぎった。

その頃、六本木の和食の店で藤 純子が納豆ご飯を食べているのを見たことがあったので「先日、納豆を食べている藤 純子」を見ましたよと混ぜ返したら、三島さん真顔になり「渡部さん、美人が納豆を食っちゃいけませんか」といった。

三島さんにはかねて「ホモ」の噂があり、ボデービルや武道にこるのはそのせいだとも言われていたので、藤に拘る三島さんを不思議に思った。

そのうちに三島さんが居ずまいをただし、園田氏に切腹の作法を尋ねた。園田さんは切腹の仕方に三通りの作法があるなどと知識を開陳。三島さんは神妙に聞いていた。この10ヶ月後に冒頭の事件は起こった。

<総監室に戻った三島は、森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、恩賜煙草を吸い、上半身裸となり「ヤアッー!」と叫び自身の腹に短刀を突き立てた。この時、介錯人の森田は自身の切腹を控えていた為か、手の震えで二度も失敗してしまい(刀も曲がってしまったともいう)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって一刃の元に刎ねた。

続いて切腹した森田必勝の介錯も行なった。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。さらに、舌を噛み切っていたことも報告されている。

ノーベル文学賞候補として報道され、多方面で活躍した著名作家のクーデター呼びかけと割腹自殺は、日本だけでなく世界中で注目を集め論議を起こした。>「ウィキペディア

事件について当時の佐藤栄作首相は「気違い沙汰だ」と吐き捨てた。園田氏は「まさか切腹する為に訊かれたとは思わなかった、小説の材料になるのだとおもったから丁寧に教えた」と嘆き、葬儀には国会議員でただ一人参列した。

伊達さん。<1970年11月25日に交流のあった作家三島由紀夫から間接的に、サンデー毎日の記者だった徳岡孝夫と共に、遺書と檄文を受け取り三島事件の目撃者となった。

関連の編著書に『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)がある。また徳岡と共に1984年、瑤子夫人にインタビューを行い、月刊誌『諸君!』(1985年1月号)に掲載した。

皇室担当記者として『天皇の外交』(現代企画室、1975年)を出し、1980年4月、ェ仁親王の婚約、1983年4月には容子内親王の婚約をスクープ。1984年に放映された「NHK特集 皇居」の、中心スタッフとして取材折衝に当たった。

1985年8月、NHKを定年退職、解説委員となったが、在職中に亡くなった。>(同)

新田さんも故人だ。だから岡田で出合った5人のうち、行き起こっているのは私だけになった。

藤 純子は富司純子(ふじ すみこ)となり女優、司会者として活躍中。夫は歌舞伎俳優の尾上菊五郎、長女は女優の寺島しのぶ、長男は歌舞伎俳優・五代目尾上菊之助。(同)
2010・12・18

◆本稿は、12月19日(日)刊の「頂門の一針」2128号に
掲載されました。他の卓見も拝読下さい。
        
◆<2128号 目次>
・藤 純子がいいと三島由紀夫:渡部亮次郎
・東條内閣の総理番:山堂コラム 349
・頑固幹事長の「踏ん張り」:岩見隆夫
・ウィキリーク日本関係は五千件以上?:宮崎正弘
・“衣の下に鎧”の中国:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月18日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎

「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。(9月21日 榊 寿之アンカー)

<『夜のプラットホーム』(よるのプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947年(昭和22年)に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

榊アンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れなかった。日本という国が体制維持のためには、言論統制もあえてしたこと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげにただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させるとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかかり、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。

レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従って内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll BeWaiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が名前をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタンゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き残った東京音楽学校出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。(歌は引退したが、郷里で存命)。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴史があり、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならない事、全世代、共通の願いではなかろうか。(再掲)
参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2010年12月17日

◆発見されていた絶滅種クニマス

渡部亮次郎

秋田県の神秘の湖「田沢湖(たざわこ)」を訪れるたびに、ここにしか生息していなかった「クニマス」を見つけたら賞金を上げる、と言われてきた。絶滅したのから、今までに発見した人は皆無だ。

ところが2010年12月15日、毎日新聞のWebを見て飛び上がった。「70年ぶりに生息を確認した」、と言うのである。田沢湖での絶滅を予見したどなたかが1935(昭和10)年ごろ、生息条件の似た富士五湖の一つ、山梨県の西湖に卵10万個を近くの本栖湖ともにに移していた。

その時、生まれたクニマスが生き残っていたのだ。

現在の田沢湖町は最近、角館などと合併した「仙北(せんぼく)市。当時、西湖などに10万個の卵が移されていたことを知る人は既に無いから、このニュースには驚いていることだろう。

<環境省のレッドリストで「絶滅」とされているサケ科の淡水魚「クニマス」が富士五湖の一つ、山梨県の西湖で生息していることを京都大総合博物館の中坊徹次教授らが確認した。西湖ではクニマスのことを、地元の漁師は黒いヒメマスという意味で、クロマスとして呼称しているとされている。

クニマスは1940(昭和15)年ごろ、秋田県の田沢湖で最後に確認されて以降、姿を消しており、約70年ぶりの発見となった。「絶滅」とされた種の魚の発見は初めて。

中坊教授によると、同教授からクニマスの絵を描くよう依頼された知人でタレントのさかなクン(東京海洋大客員准教授)が、西湖で捕獲された黒っぽいマスを持ち込んだのがきっかけ。

改めて捕獲したマスを3〜4月に解剖したところ、体の色だけでなく、胃にある指状の器官の数やえらの形の特徴などが、記録に残っていたクニマスと一致した。

西湖のマスは形などが似ているヒメマスの亜種とされていたが、遺伝子分析を行うと遺伝子型が違っていた。

クニマスは田沢湖だけに生息していた固有種で、成魚は全長約30センチ。1935年ごろ、田沢湖から卵10万個が西湖と、近くの本栖湖に移されたという記録があり、中坊教授は「その時、生まれたクニマスが生き残っていたのではないか」と話している。>
(毎日新聞 2010年12月15日(最終更新 12月15日 14時19分)とはなっているが、3,4月には確定していたニュースである。

1940年、第2次世界大戦の折に軍需増産をはかり鉱山への電力供給の為の発電所を通して玉川の強酸性水が、田沢湖に大量に流入したため湖水が酸性化しクニマスは絶滅した。

現在ならば環境問題として大きく取り上げられるところであるが、当時は国家を挙げての戦時体制の真っ只中であり、この固有種の存在などが顧みられる事は全く無かった。

しかしそれ以前に人工孵化の実験をするため1930年に本栖湖、西湖に、他にも琵琶湖や詳しい場所は不明だが長野県、山梨県、富山県に受精卵を送ったという記録があった。

このため、田沢湖町観光協会は1995年11月に100万円、1997年4月から翌1998年12月まで500万円の懸賞金を懸けてクニマスを捜したものの発見されることはなかった。

田沢湖での絶滅の原因は強酸性水の流入であるが、サケ科魚類の中でも浮上稚魚期のヒメマスが酸性の水に極めて弱い特性を持っていたことも要因となっている。

田沢湖(たざわこ)は、秋田県仙北市にある湖。日本で最も深い湖である。田沢湖抱返り県立自然公園に指定。日本百景。大きく深い湖であるが、その成因は判明していない。

秋田県の中東部に位置する。最大深度は423.4mで日本第1位(第2位は支笏湖、第3位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)。

湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。

深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。

かつては火山性・ミネラル分の高い水質と流入河川の少なさのため、1931年の調査では摩周湖に迫る31mの透明度を誇っていた。

しかし、1940年に発電所の建設と農業振興(玉川河水統制計画)のために、別の水系である玉川温泉からpH1.1に達する強酸性の水(玉川毒水・玉川悪水と呼ばれる)を導入した結果、田沢湖は急速に酸性化し固有種であったクニマスは絶滅。水質も悪化し魚類はほぼ死滅してしまった。

それに対し、1972年から石灰石を使った酸性水の中和対策が始まり、1991年には抜本的な解決を目指して玉川酸性水中和処理施設が本運転を開始。

湖水表層部は徐々に中性に近づいてきており放流されたウグイが見られるまでになった。しかし、2000年の調査では深度200メートルでpH5.14?5.58、400メートルでpH4.91と未だ湖全体の回復には至っていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆本稿は、12月17日(金)刊の「頂門の一針」2126号に
掲載されました。下記<同号目次>をご覧下さい。
◆<2126号 目次>
・発見されていた絶滅種クニマス:渡部亮次郎
・日本一の無責任男の「思いつき」と「楽観」:阿比留瑠比
・”陰の総理”が「解散はない」:古澤 襄
・中国の奥の院の揉め事:宮崎正弘
・日米韓結束が北の自壊を促す:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」を購読(無料)申し込み御希望の方は
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