2011年05月06日

◆巴里だより 上り下りの船人が

岩本宏紀(在仏)

復活祭の月曜日、アムステルダムに流れ込むアムステル川。
春のうららのこの川は
上り下りの船人で溢れていた。

オランダでは海に出なければ、つまり
川や湖であれば、免許証なしで船に乗れるそうだ。

大金持ちでなくても舟をもち、
天気のいい日にはビールと食べ物を積み込んで、
のんびりとクルージングを楽しんでいる。

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<添付画像:アウダーケルク(古い教会)村のカフェにて。>
川べりにあるので、船人も簡単に入ることができる。

序でながら・・・。
1ヶ月目に我が家に来たゆめちゃんは、日ごとに
お転婆になっていく。人前では猫をかぶるが、
家に戻ると何にでも噛みついて大変だ。

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2011年05月05日

◆「作文に不可欠なリズム」

渡部亮次郎

(再掲)私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHKだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だった。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を「悪文」という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのは切るべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、「そして」でつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。

高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。2008・06・29

2011年05月03日

◆ビンラディン「戦死」

渡部 亮次郎

国際テロ組織アルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が1日、潜伏中のパキスタンで米軍に襲撃され、銃撃戦40分の末、殺害された。

アメリカのオバマ大統領は同日夜、緊急演説で、この事実を発表。「しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。

<作戦約40分間の末ビンラディン容疑者を殺害「正義を達成」(CNN) 

オバマ米大統領は1日夜、国民に向けて演説し、米軍が同日パキスタンで実施した作戦で、国際テロ組織ア

ルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が死亡したと発表した。ビンラディン容疑者は、3000人を超す犠牲者を出した2001年米同時多発テロの首謀者とされ、米国が10年以上前から行方を追っていた。

米政府高官がCNNに語ったところでは、米軍はパキスタンの首都イスラマバードから約100キロ北部にある邸宅でビンラディン容疑者を殺害したという。家族も一緒だったとされる。

オバマ大統領は演説の中で、同容疑者の死は「アルカイダ撲滅を目指すわが国の取り組みにおける過去最大の成果」だと強調した。作戦は少人数の米軍部隊が実行。

米国人の負傷者はなく、民間人にも死傷者が出ないよう配慮したとしている。ビンラディン容疑者は銃撃戦の末に死亡し、作戦終了後に米軍が遺体を回収したという。

大統領によれば、昨年8月の時点でパキスタン国内のビンラディン容疑者の潜伏先に関する情報を得たとの報告を受け、先週になって行動を起こせるだけの情報が集まったと判断した。「同容疑者の死は平和と人間の尊厳を信じるすべての人に歓迎されるだろう」「正義が実った」と述べた。

しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。

さらに、米国はイスラム教と戦争をしているわけではないとも強調、

「ブッシュ前大統領が同時テロの直後に述べたように、これはイスラム教との戦いではない。ビンラディンはイスラム教の指導者ではなく、イスラム教徒の大量殺人者だ」と指摘した。

パキスタン高官が明らかにしたところでは、ビンラディン容疑者が死亡した現場には同国情報機関の統合情報部(ISI)もいたという。

米政府高官は、この作戦ではほかに男性3人と女性1人が人間の盾として使われ死亡したと述べた。作戦は米海軍特殊部隊が実行し、約40分間続いたとされる。議会関係者によれば、ビンラディン容疑者は頭を撃たれて死亡したという。>CNN.co.jp 5月2日(月)15時12分配信


<大統領声明によると、米政府はパキスタン当局の協力で昨年8月、ビンラディン容疑者がパキスタンに潜伏していることを突き止めた。

先週、身柄を確保するための作戦に乗り出すことを決め、オバマ大統領の命令で1日、同国北部アボタバードの潜伏先で作戦が実施された。ビンラディン容疑者は銃撃戦の末に死亡し、遺体は米政府側が確保したと
いう。

ビンラディン容疑者の死亡によって、アルカイダの求心力が大きく低下することは間違いない。今年7月に、アフガニスタンからの駐留米軍撤退を始めるオバマ政権にとって、極めて大きな成果と言える。一方、指導者を失ったアルカイダ側が、欧米を標的にした「報復テロ」の動きを強めるおそれもある。

このため、オバマ大統領は「我々は国内外で警戒心を保たねばならない」と、テロへの警戒を呼びかけた。また、「米国はイスラム世界と戦争しているわけではない」とも述べた。

米同時多発テロの直後、ブッシュ前米大統領はアフガニスタンのタリバーン政権に対し、国内に潜伏しているとされた同容疑者の引き渡しを要求したが、タリバーン側が拒否。これを受けて米英軍はアフガン攻撃に踏み切った。

同容疑者はその後もアフガン東部での度重なる空爆を逃げ延び、アフガンと隣国パキスタンにまたがる山岳地帯に身を潜めてきたとされる。同地域の住民はタリバーンの主要構成民族だったパシュトゥン人で、アルカイダを「神の軍隊」と敬い、排他的な部族社会の中で隠れ家を提供してきたとみられる。情報提供者への報奨金にもかかわらず、米軍の情報
収集は困難を極めた。

米当局によると、ビンラディン容疑者は米同時多発テロ事件に主犯として関与した疑いが持たれている。事件は4機の旅客機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機、ワシントンの国防総省に1機が突入。ピッツバーグ郊外では1機が墜落した。合計で3千人近くが死亡した。

米当局はテロ実行犯として旅客の中から19人を特定。うち数人をアルカイダのメンバーと確認し、指導者であるビンラディン容疑者を首謀者と認定した。同容疑者は04年10月、中東の衛星テレビが放映したビデオで、米同時多発テロへの関与を初めて認めた。

同容疑者は、サウジアラビアで建設業で財をなした富豪を父に生まれた。旧ソ連がアフガンに侵攻した1979年以降にイスラム・ゲリラに参加。湾岸戦争でサウジが米軍駐留を認めたことへの反発から反米闘争を始めた。

93年の世界貿易センタービル爆破事件でも資金援助した疑いがあるほか、98年のケニア、タンザニア両国での米大使館爆破テロ事件でも首謀者だったとされている。(朝日 ワシントン=望月洋嗣、イスラマバード=五十嵐誠)>


<ビンラーディン容疑者殺害 日本の公安関係者「報復テロ激化の可能性も」

「本当なのか」。国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサマ・ビンラーディンの死亡報道があった2日、日本の公安当局には驚きと衝撃が走った。アルカイーダの影響力低下に期待も強まるが、ある警視庁幹部は「これでテロの脅威がなくなるわけではない」と表情をひきしめた。

「詳しいことは、分からない。いま、情報を集めているところ」

死亡のニュースが駆けめぐると、警視庁幹部は、こう厳しい表情を見せた。庁内外でも担当者らは、あわただしく情報収集に追われた。

インターネットで、日本国内にも情報発信するなどしてきたアルカーイダ。ある幹部は「影響力は低下するだろうが、メンバーや影響を受けている人間がまったくいなくなったわけではない。今後も緊張が必要」と話した。

公安調査庁関係者は「本当なのか?」と絶句。「これをきっかけに、各国で報復と称してテロが激化する可能性もある。日本でも起きないだろうか」と話した>。
産経新聞 5月2日(月)13時43分配信


◆河野一郎・田中角栄ありせば

渡部 亮次郎

<田中角栄が首相でいたら、ブルドーザー部隊を先頭に立てて、瓦礫で埋まった道路を切り開き、タンクローリー車や物資輸送のトラック部隊を送り込んでくれただろうな!」と被災地で声があがる。

批判はあっても住民生活の動脈は”道路”にあると、田中角栄は鋭い直感力を持っていた保守政治家で、抜群の行動力があった。

河野一郎にも同じことを感じる。そういう迫力のある政治家がいなくなった。被災地は、さながら戦場のような姿を曝している。いまこそ戦時宰相が求められる。>元共同通信社常務理事 古澤襄氏の杜父魚=かじか=ブログより。

私は若いころの角栄と最晩年の河野一郎氏を担当した記者である。自民党で当時河野担当だった各社の記者は殆ど鬼籍に入り、河野一郎を語る最後の記者になったわけだ。

私が担当した頃の河野さんは池田勇人内閣の無任所大臣で、東京オリンピック担当相。折からの東京都の水不足対策も任されていた。

それ以前は建設相として新潟の大地震や雪害を担当したが、「私が現場に行くからには、いちいち閣議に諮っていては時間が勿体無い、全権を委任してれなけりゃ行かない」と池田首相に掛け合い、災害をあっという間に解決したという逸話があった。

残念ながら菅首相にはこの片鱗も無い。

政治記者から代議士になり、敗戦後は鳩山一郎を総裁に担いで自由党の幹事長になったが、鳩山が組閣直前にマッカーサーによる公職追放されたため夢は水泡に帰した。

以後はバトンをなかなか返還しない吉田茂に徹底的に逆らい、蛇蝎の如く嫌われたが遂に奪権を成就。鳩山を晴れて首相の座に就け、ソビエト(現ロシア)との国交正常化を達成した。

その頃から党内に派閥を構成し、自らを実力者と称した。やがて首相岸信介と対立、新党結成を策したこともあったが、岸後継の池田氏と組んで党主流に坐るようになった。

酒を一滴も呑めない河野さんなのにクレムリンで渡り合ったフルシチョフにウオッカを飲まされる羽目になったことを懐かしく思い出していた。

盛岡から転勤してきたばかりの若造をリンカーンに「箱乗り」させたり、自宅で照子夫人と3人で夕食を一緒にしてくれたりしたのは、「あなたの右目は義眼ですか」と質問したからだった。「ほら、義眼じゃないだろ。こんな質問、君が初めてだ。君はいい記者だ」と褒められたのがきっかけだった。11・4・01


2011年05月01日

◆変節漢小澤の証拠 議事録

渡部 亮次郎

「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だが、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていました。

◇唸声より

EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですから、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっておりますが、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについてはあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりにそれを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんでありましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれは別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していたとは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像することすら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれた。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用したもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求してきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言われる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけない。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そこに祀られるべき人でない」と応えている。

人を騙すにも程がある。戦犯のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人が決めた者ではない。戦勝国とくにアメリカのマッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太子殿下(今上天皇)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによる死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいかに変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】

2011年04月30日

◆ウィルス性肝炎の世紀

渡部 亮次郎

2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。彼の73歳の誕生日の前日だった。発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけたという。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

ウィルス性肝炎とは肝炎ウィルスが原因の肝臓の炎症性疾患のことを指す。急性肝炎と慢性肝炎および急性肝炎の劇症化した劇症肝炎に分けら
れる。

現在知られているウィルス性肝炎には以下のものがある。

A型肝炎
B型肝炎
C型肝炎
D型肝炎
E型肝炎
F型肝炎
G型肝炎
TT型肝炎

このうち、日本での肝炎の原因のほとんどはA型、B型、C型である。

主な感染経路は

A型・E型は汚染された食べ物や水で。

B型は血液媒介・親子(垂直)・性行為(水平)。

C型はウィルスの混入した血液を介したもの(輸血や集団予防接種の注射針の回し射ち、刺青など)である。C型での性行為での感染、母子感染は稀である。

アメリカではB型肝炎の予防接種を受ける事が義務付けられている。

殆どのC型肝炎感染者は医療行為が原因で感染と推測される(上記の注射針が主因と考えられる)。

非A非B型(現在のC型)肝炎ウィルスに感染すると肝癌などに進行する危険性が疫学的に示されている。義兄は輸血を受けた経験が無いといっていた。何かの予防注射というのも記憶がない、とも。

慢性肝炎:自覚症状に乏しい事が多い。B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがある。

C型慢性肝炎においてはインターフェロン(α or β)、PEG-インターフェロン、リバビリン+(インターフェロン or PEG-インターフェロン)といった治療法がある。ウィルス量・型、年齢、性別、貧血の程度などにより治療法を選択する。

肝癌。B型肝炎では推定10%前後、C型肝炎では推定25%前後と高率に肝癌を発症する。義兄はこの25%に引き込まれたのだった。参考:フリー百科「ウィキペディア」)(再掲)


2011年04月28日

◆読売正力は原子力の父

渡部 亮次郎

ウィキペディアに依れば1945年8月、第2次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった。

日本における原子力発電は、1954(昭和29)年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二の各氏により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった。

中曽根氏は1954(昭和29)年3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

1959(昭和34)年 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。

1955昭和30)年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった。

この頃、筆者は大学2年生。原子力の平和利用など関心も知識も全く無かった。

大正13(1924)年1月 虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ正力氏は警視庁を懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。

この買収資金10万円を呉れたのは内務大臣後藤新平。後藤は自宅を担保に借金して渡した。後藤の姉の婚家先「椎名家」に養子入りしたのが、椎名悦三郎。昔、商工省で金の岸(信介)いぶし銀の椎名といわれたもの
だ。

正力松太郎氏は警察官僚から読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。

日本に於けるそれぞれの導入を推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。

駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

週刊新潮2006年2月16日号で、戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後は正力がCIAの意向に従って行動していたことを早稲田大学教授の有馬哲夫がアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。

アメリカ中央情報局(CIA)と日本へのテレビの導入と原子力発電の導入で利害が一致していたので協力し合い、その結果、「podam」、「pojacpot-1」というコードネームを与えられ、これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった。

CIAに正力松太郎を推薦したのは、カール・ムント米上院議員だったという。

原子力基本法成立を受けて1956(昭和31年)1月1日に原子力委員会が設置され、初代の委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎氏であった。

<1954(昭和29)年3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

正力氏は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。

1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。

1957(昭和32)年11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された。

1959年(昭和34年)第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として中曽根氏が入閣。原子力委員会の委員長に就任。

日本で最初の原子力発電が行われたのは1963(昭和38)年10月26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている。

日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電である。

原子炉の種類は世界最初に実用化されたイギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉であった。

しかし経済性等の問題によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉はすべて軽水炉であった。

近年は老朽化で運転を終えた原子力発電所の処置の問題に加え、二酸化炭素排出削減策として既存原子力発電所の延命の方針が打ち出されている。

2010年3月に営業運転期間が40年に達した敦賀発電所1号機をはじめ、長期運転を行う原子炉が増加する見込みである事から、これらの安全性の維持が課題となっている。

そうしたところをまるで狙ったように2011年3月11日、東日本巨大地震と巨大津波が襲ってきたのだ。

多分福島第一原子力発電所の原子炉6基は、東日本大震災の被害で6基とも廃炉になる可能性がある。

■虎ノ門事件(とらのもんじけん)=1923年(大正12年)12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された事件。

摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。

難波はのちに大逆罪で死刑判決を受けて死刑執行された。この警護責任を取り、警視総監・湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。出典(「ウィキペディア」)2011・4・25  


2011年04月23日

◆政治資金を喰うのは有権者

渡部 亮次郎

以下は小沢一郎氏を対象としたものではない。

カネや利権による政治の腐敗の原因をすべて政治家に押し付けて、世論や論説委員が「政治家よ襟を正せ」と叫ぶのは簡単だが、いくら叫んでも腐敗が根絶しないのは、汚れたカネの行き先が最終的には政治家の懐には止まらず有権者の胃袋や懐だからである。

だから襟を正すべきは政治家はもちろんだが、有権者も被害者面をしないで考えてみる必要がある。

なんと言っても政治に金のかかり過ぎが原因である。そう言うと「政治家は自分の欲得のために政治家をやっているのだから、どうやってカネを集めようが散じようが勝手だ。有権者の知ったことか」というのが有権者の大部分である。

さらに知らぬ人は何にそんなにカネがかかるのか、理解に苦しむと言う。私も若い政治記者の時はそう思ったこともあった。しかし大臣秘書官になって内懐を見てはいじめて得心が行った。

確かに有権者は知らぬ間に政治家に1票を投ずる見返りに説明のつかない用件を押し付け馳走になっているのである。

ある代議士がある省の大臣になった。秘書官に発令されたので従いて行ったたところで、秘書官室長に、来客のお茶代として月20万円を拠出してくださいと言い渡された。

大臣から現金を巻き上げる役所とは初めて聞いたことだった。ともかくこれも政治家が負担する政治資金なのである。

議員会館と個人事務所にも陳情客が来る。何十人と言う人がやってくる。1杯の御茶と言うがそれだけでも月に何十万円とかかる。昼時になれば蕎麦なり丼物を出さないとけちだと言われる。月にすれば何百万円である。それを国会議員の歳費で賄う事は不可能だ。

案外知らないのは日々開かれる議員同士の励ます会と称する資金パーティーへの義理立てである。大物と言われていれば会費2万とか3万円と言われてそれしか包まないと言うわけには行かない。

その都度10万円を包んだとすれば、1日に50万や100万はは消えて行く。そのカネを何処からどう工面してくるのか。談合なり不可解な事件に関係せずには不可能なのである。捕まるまでの田中角栄氏のやり口がそれを実証している。

某氏の政治団体が発足当初から、賃貸契約のない都内のビルに事務所を置き、発覚するまでまで事務所費や光熱費の名目などで約○○○○万円を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を国に提出していたという。

推測だが、これで浮かしたカネは選挙対策費にも秘密裏に使われただろう。実際、観ていると、如何なる大物国会議員といえども、解散、総選挙に当って子分を名乗る県会議員、市区町村議員が只では動かない。

選挙違反事件が摘発されるたびに「○○議員に多額の現金を渡して投票のとりまとめを依頼した」と言う決まり文句が出るが、真実は選挙を機会に捉えて日ごろの活動資金を渡しているのである。

それは殆ど警察の目をくぐる。警察も大物のところには手を出さない。新人や小者、無所属候補には目を皿にして内偵し、一番弱い(殆ど落選)候補者を逮捕する。容疑はこれまた殆どが買収となる。いまどき飲み食いで集票はできない時代になったからだ。

いかに民主主義だの勝手連だのといったところで活動資金は裏できっちり取りに来るのが実態である。それをマスコミは知っていながらきれいごとしか書かないから、読まされたり聞かされたりする人はきれいごとを論ずる。

カネをつくる政治家が悪いのではない。作らせるように使わせる有権者が実は犯罪のタネを作っているのである。中には酷い陳情に来る有権者もいる。司法試験の裏口を紹介しろとか、医師の国家試験を裏で合格させろ、伝統ある私立高校の落第を取り消せとか。

有権者様だからできないとはいえない。何とか頑張ってみますと言うしかない。こんなことまで相手にしなければ落選するのが国会議員だというのなら私は辞めた、辞めたと選挙戦降りてしまった。悔いはない。

マスコミはこうした実態を見ようともしない。論説のように言語道断だとか手痛い打撃だとか、一応、理屈の立つ論を並べはするが、ことの本質をわかっていなから空念仏に過ぎない。政治の実際を分っていないから記者を廃業し論説委員にさせられたのではないかと疑ってしまう。



2011年04月21日

◆本質を見抜けぬ人々

渡部 亮次郎

50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれである。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。

日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づかない。なんと言うことだろうか。

「はい50・8%で安心」という意見もある。2006年11月7日付の「産経抄」である。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長の発言には仰天した。中川昭一政調会長や麻生太郎外相が提起した核論議に対して、「任命権者の責任を問われる事態になりかねない」と、安倍晋三首相(当時)まで持ち出して“封殺”するかまえだ。

▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。このギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘してい
た。

▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止した。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはずなのに。

▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくとするこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまいか」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど「非核三原則」は、その最たるものだ。

▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、核保有国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者のしりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4原則」だと風刺していた。

▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査によれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えている。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成18(2006)年11月7日[火]>

時を同じくして『週刊新潮』の2006年11月9日号で文芸評論家野口武彦氏は連載「幕末バトル・ロワイヤル」の59回目で「安政内憂録14 ストレスに死す」と題して老中阿部正弘 39歳の癌死を取り上げている。

これらを併せて読むと、現在の日本が遭遇している状態はまさに「国難」であり、事態の真髄を理解しているものは政治家にも少なく、民主党などは開国を装った攘夷派という複雑怪奇な存在と理解できる。

尤も、核問題に関して民主党(当時)では西村真悟氏のような「所有」を主張するものから旧社会党の残滓まで様々であって、安全保障政策全般について統一した見解を出せないままだ。そうした状況から幹事長(当時)鳩山氏の支離滅裂な発言で党を売り込もうとする売国行動が出るのだろ
う。

それにしても開国に至る過程での阿部正弘の苦悩は大変なものだった。私の日本史履修はここまで来ないうちに高校卒業となってしまったため、この時期についての理解は小説のみに依存していた。

◆阿部 正弘(あべ まさひろ)は江戸時代末期の大名、江戸幕府閣僚で老中首座(総理大臣)を務めた。備後福山藩(現在の広島県福山市)7代藩主。

幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。阿部にとってはこれらのすべてが今で言うストレスとなり、消化器系癌の進行を早めたという見方である。

文政2(1819)年に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。天保7(1836)年に7代藩主に就任。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山市)へのお国入りを行った(正弘が国許へ帰ったのはこの1度のみである)。

正弘は天保14(1843)年に25歳で老中(閣僚)となり、同年、老中首座であった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座となる。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。

また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震、ら大胆な人事登用を行った。

嘉永元(1848)年、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉永6(1853)年に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。

同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商を求めた。 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。

こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかたちで安政元(1854)年日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。

ところが、安政2(1855)年、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買う。

孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを創設した。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。しかし、安政4(1857)年正弘は老中在任のまま急死する。享年39。

ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後まで拒んだという。

阿部の項 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia

2011年04月20日

◆「死んで堪るか」の真実

渡部 亮次郎

河野 一郎(こうの いちろう、明治31(1898)年6月2日―昭和40(1965)年7月8日)。自由民主党の実力者。従2位勲1等旭日桐花大綬章。

選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。しかし河野自身は内山県知事を天皇と呼んでいた.

参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

明治31(1898)年6月2日、神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。

大正12(1923)年早稲田大学を卒業。在学中は箱根駅伝の選手。謙三の方が早かったらしい。朝日新聞社に入社。

昭和6(1931)年犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7(1932)年2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選する。当選後は、立憲政友会に所属した。

鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17(1942)年の翼賛選挙では、非推薦で当選した。

終戦後、昭和20(1945)年11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、昭和21(1946)年5月4日鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ組閣に取り掛かる。

組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。更に6月20日には、河野自身も公職追放となった。弟謙三が身代わりとなって地盤を守った。

昭和26(1951)年8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党した。以後、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走する。

昭和27(1952)年9月29日解散総選挙の目前に鳩山派に打撃をあたえるべく、石橋湛山と共に党を除名された。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消し。

昭和28(1953)年3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。吉田内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙を実現させた。

11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も三木、河野ら8名の代議士(「8人の侍」と称された)は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

第1次鳩山内閣で農林大臣に就任。第2次、第3次鳩山内閣でも留任する。昭和31(1956)年日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合う。10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印にこぎつけた。

この時、アルコールを一滴も受け付けない体質なのに、フルシチョフとのやり取りの経緯上、テーブルのウオトカを一気呑み。「部屋へ帰ってから水風呂に入ったり色々したがどうにもならない。あの時は死ぬかと思った」と後年、語っていた。

鳩山引退後の自由民主党総裁公選では、岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。昭和32(1957)年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣では党総務会長に就任。

しかし、昭和34(1959)年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決では、三木派とともに河野派は欠席した。岸は死ぬまで怨んでいた。

岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗れる。

一時、河野新党(いわゆる第2保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され断念する。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、昭和36(1961)年7月の内閣改造で農林大臣として入閣。

昭和37(1962)年7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の1人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。

この時の前後が私の担当記者である。NHKでは誰もが恐ろしくて担当したくないというので、新人の私に大役がいきなり回ってきたのだ。昭和40(1965)年6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否した。この直後、7月8日大動脈瘤破裂のため急死した。67歳。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられるが、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない。」という穏やかなものであったということで真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。法名禅岳院殿大光政道一義大居士。

「死にはしないよ」を「死んでたまるか」とNHKニュースで流した犯人は誰あろう、私である。歴史を曲げた。ここに謝罪し、訂正します。

この夜、枕元で無邪気に遊んでいたのが河野太郎と妹の2人で、「心配ないから、子供たちを寝かしなさい、死にはしないから」と言うものだったが、翌日の夜には、あっさり、死んでしまった。まだ67歳だった。

倒れる前日、つまり1965年7月6日の夕方、私は河野さんと単独会見をした。夕方、麻布台の河野事務所を訪ねると、大広間で転寝をしていた。口から涎を垂らし、いうなれば、ダンディらしくないイギたなさであっ
た。

ダンディーぶりはただ事ではなかった。ハリュッドで会ったデボラ・カーに握手を求められた時、差し出した自分の手の爪は汚れていて恥かしかった、と爾来、服装に気を遣い、マニキュアまでするようになっていた。ノー・ネクタイの記者には会わなかった。

参議院選挙の疲れかな。29歳の私はその程度にしか感じられなかった。しかしそれが命取り「腹部大動脈瘤破裂」の前兆だったとは。

隣のビルは建設大臣当時は、建設省分室だったが、その頃は河野さんの私物になっていた。ところが、誰をも入れなかった。それなのに、その日は私を4階の自室まで連れて行った。

そこは畳敷きの和室だった。「ここに入る他人はキミが初めてだよ」と言いながら、「近く中曽根(康弘)クンを派から除名しようと思うんだ」という爆弾発言をした。

河野派4天王の1人を除名するとは穏やかではない.しかし、こういうとき、質問してはいけない。「奴はね、ベトナム戦争の見学と称して川島クンに従いて行きたいというんだよ」

川島正次郎は池田勇人が喉頭癌で政権を投げ出した時、河野の願望を差し置いて後継者にあっさり佐藤栄作を据えた張本の副総裁である。河野さんは許せなかったのだ。

「ボクはこれからデートだ。明日は平塚の(有名な)七夕(たなばた)だからね。参議院選挙の当選祝いを平塚の自宅でするからね、キミも是非来たまえ」と言って別れた。デートの相手は?言わない。

ところが翌朝、腹痛で倒れ、藤尾正行代議士のはからいで日本中の名医が枕元に集まった。腹部大動脈瘤破裂。当時の医学としては手の「施しようの無い」病気だった。翌8日午後7時55分「お隠れになりました」と日本医師会会長にして主治医の武見太郎が発表した。

私はその30分前に、既に死亡原稿を全国に放送していた。枕元に集まった側近たちがお題目を唱え始めたのを「死」と早合点したのである。河野さんの命日のたびに反省とともに思い出すが早合点の癖は未だに治らない。

「河野派から中曽根除名」のニュースは遂に流れなかった。中曽根は「河野精神を体して」とか何とか我田引水の主張を繰り返してとうとう中曽根派の結成に成功し、総理総裁の地位を獲得したことご承知の通り。私はこういう人生は嫌いだ。

なお、腹部大動脈破裂は弟の謙三も奇しくも患うが、医学は進歩していたので、何事も無く助かった。(文中敬称略)


2011年04月19日

◆自公「復興実施本部」当面応じず

渡部亮次郎

野党への「復興実施本部」入りは、菅首相が国民新党の亀井静香代表に投げさせたクセ球だったが、自公両党は18日、打ち合わせの結果、当面、断ることを決めた。

災害復興に協力することにはやぶさかではないが、この底には菅首相の延命策が隠されていることが明瞭だったためである。

<自民、公明両党の幹事長、国対委員長らは18日昼、都内で会談し、国民新党の亀井静香代表や菅直人首相が東日本大震災の復興に向けて検討している与野党合同の「復興実施本部」(仮称)への参加について、当面応じない方針を確認した。

自民党の逢沢一郎国対委員長は会談後、記者団に対し、民主党内で「菅降ろし」の動きがあることを念頭に「この段階で軽々に判断できる政治状況か見極める必要がある」と述べた。>
産経新聞 4月18日(月)14時6分配信

それよりも何よりもびっくりしたのは産経新聞政治部総理官邸担当記者のキャップ阿比留さんの菅首相への質問(4月12日)である。阿比留さんのブログによればこうある。

<「現実問題として与野党協議にしても、最大の障害となっているのは首相の存在であり、後手に回った震災対応でも、首相の存在自体が国民の不安材料になっていると思う。一体、何のためにその地位にしがみついていらっしゃるのかお考えを聞かせてほしい」。要は震災その他対策に、菅首相がいて邪魔だとはっきりいっているのである。

これに対し菅首相はこう答えました。「阿比留さんの物の考え方がそうだということと、私は客観的にそうだということは必ずしも一致しないと思っています。(中略)私とあなたとの見方はかなり違っているとしか申し上げようがありません」

私はこの質問をするに当たって、まだ菅首相の正体と危険性に気付かないか、あるいはそれこそ私と見方がかなり違っている人からは、強い反発を受けるだろうなと覚悟していました。>

その結果、阿比留さん宛に抗議のハガキが1通だけ来たそうだ。

私もNHK記者の時代、田中角栄内閣の総理官邸記者のサブ・キャップを経験したが、田中首相の金権体質批判をテレビで展開した事はあるが、だからあなた辞めなさいと面と向かっては、恐ろしくて言えなかった。

田中の差し金で大阪に左遷されて事をきっかけに41歳でNHKを退職してしまったが、阿比留さんのような立場の人間から、こう露骨に非難されるようでは、菅首相の政治生命も旦夕に迫っていることを示すものだろう。

これを見ては、自公両党とも復興会議にとても参加する事はできない。首吊りから輪を外してやることに成り、自らの首を締めることになるからである。2011・4・18

2011年04月18日

◆「愛国の花」とデヴィ夫人

渡部 亮次郎

渡邊はま子の歌った「愛国の花」がインドネシアのスカルノ元大統領の好きだった歌として有名になったのは、深田祐介(ふかだゆうすけ)が1970年代に小説『神鷲(ガルーダ)商人』で取り上げてからだった。


「神鷲(ガルーダ)商人」深田祐介著は 文春文庫。

昭和33(1958)年、インドネシアに対する賠償協定が調印されたのに目を付けた日本商社は、巨額の利益を求め画策する。その翌年、日本を訪れたインドネシア大統領スカルノは、ナイトクラブで美貌の歌手、根岸直美を見初める。戦後の日本、アジア関係の原点となる賠償に巻き込まれた人間たちのたどる数奇な運命。

インドネシア大統領第三夫人となった直美は、異国での軋轢に傷つきながらもスカルノの愛情を励みに、確固たる地位を築き上げていく。一方、彼女を利用し、巨利を貪り続けようとする日本商社の思惑と、それをめぐる男たちの野心は何をもたらしたのか。果たして、戦時賠償はインドネシアを救うという神鷲だったのか。

ここで「直美」として描かれているのが、当時、東京・赤阪のクラブ「コパカバーナ」でホステスをしていた根本七保子である。

<翌年、日本を訪れたインドネシア大統領スカルノは、ナイトクラブで美貌の歌手、根岸直美を見初める>と小説では描かれている。そこで2人の心を急速に近づける鍵が「愛国の花」なのである。

<スカルノは立ちあがり、部屋の隅のピアノの傍に歩み寄って、2番の歌詞を直美と一緒に、正確な日本語で歌い始めた。>

<2.老いたる 若き もろともに
  国難しのぐ 冬の梅
  かよわい力 よくあわせ
  銃後にはげむ 凛々しさは>

「新版 日本流行歌史(中)」社会思想社 1995年1月発行によると、「愛国の花」は昭和13(1939)年春の歌。作詞福田正夫、作曲古関裕而(独学)。この年、日本放送協会(敗戦後、NHKと名乗る)の「国民歌謡」として渡邊はま子が歌って好評を博した。

そこでコロムビア・レコードが5月に制作・発売、大ヒットした。4年後(1942年)11月には松竹(大谷松次郎、竹次郎双子の会社)が、これを主題歌にして「従軍看護婦の愛の物語」の映画が作られた。戦意高揚の歌より、叙情歌の方を兵隊たちが歌ったのは明日をも知れぬ命を歌ったからではないか。

「愛国の花」の作詞者の福田正夫は「日本の民衆派の先覚として早くから純粋詩壇で活躍した人」として知られた。

主宰者自身としては、生まれて2年後の歌なので、戦時中、7つ上の姉が歌っていたのを聴いた覚えはあったが、ピンと来なかった。

深田の小説「神鷲(ガルーダ)商人)を読んで、大学生の頃、当時の岸信介首相が対インドネシア賠償で、社会党から国会で汚職臭を追及されていたことを鮮明に思い出す。しかしインターネットで「木下産商」と引いても、もはや該当するものは無かった。

スカルノが日本の歌「愛国の花」を歌えたのは、彼のオランダからの独立運動を援助した日本陸軍の将兵が歌っていたのを覚えていたからで、根本さんがこの歌を知っていたかどうか。

この独立運動については畏友で国際問題評論家の加瀬英明氏が小説「ムルデカ」を執筆している。

小説『ムルデカ 17805』
加瀬英明 [著]

自由社〔電話:03-5976-6201.112-0005文京区水道2-6-3〕
2001年5月5日発売
ISBN: 4-915237-28-1
価格: 1600円(税別)

【解説】
インドネシア独立のために、戦った日本人兵士たち
1945年、日本敗戦−−−そして、もうひとつの戦いが始まった。「ムルデカ=独立」の気運が一気に沸き起こるインドネシア。

しかし間もなく、オランダ、イギリスが、再びこの国を統治下に置くべくインドネシアに来攻、独立戦争が勃発した。島崎の教えを受けたインドネシアの青年たちは、真っ先に独立軍に身を投じた。

元日本兵島崎たちは戦犯として、オランダ軍に捕らえられ拷問を受ける。「青年道場」の教え子たちを助けたいという気持ちと、部下を日本へ復員させる責務との間で苦悩する島崎。

やがて、捕虜虐待の罪を着せられ、宮田は処刑されてしまう。遺言は「インドネシア独立に幸あれ」。インドネシアの同志たちの手で奇跡的に救出された島崎は、彼らとともに戦うことを決意する…。

加瀬氏は「日本の多くの青年がアジアを白人の手から取り戻すために生命を捧げた。それがアジアを大きく動かし、大戦後、植民地解放の嵐となって全世界に吹き荒れたのである」という。

スカルノは戦いの先頭で「同僚」日本人たちの歌う「愛国の花」を独立運動の心として歌っていたに違いない。


_
 愛国の花

  福田正夫 作詞
  古関裕而 作曲

 1.真白き富士の けだかさを
 こころの強い 楯として
 御国につくす 女等は
 輝やく御代の 山ざくら
 地に咲き匂う 国の花
     
2.老いたる 若き もろともに
 国難しのぐ 冬の梅
 かよわい力 よくあわせ
 銃後にはげむ 凛々しさは
 ゆかしく匂う 国の花

3.勇士のあとを 雄々しくも
 家をば子をば 守りゆく
 優しい母や また妻は
 まごころ燃ゆる 紅椿
 うれしく匂う 国の花

4.御稜威(みいつ)のしるし 菊の花
 ゆたかに香る 日の本の
 女といえど 生命がけ
 こぞりて咲いて 美しく
 光りて匂う 国の花

(註) 御稜威=「みいつ」の尊敬語。天皇・神などの威光。強い御威勢。
(広辞苑)


2011年04月15日

◆ホスピスとモルヒネ

渡部 亮次郎

必要があって、急にホスピスとモルヒネが、身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということかも知れない。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ (hospitality) と呼び、そこから今日の病院を指すホスピタル (hospital) の語が出来た。

歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。

18世紀末、アイルランドは、イギリスの植民地でプロテスタントによる弾圧により居場所を失った人々が居た。修道女 マザー・メアリ・エイケンヘッド(アイルランド「シスターズ・オブ・チャリティ」(慈善修道女会・カトリック)創立者)はその居場所を創る志を立て、19世紀にダブリンに(ホスピスの原型と思われる)「ホーム」が建てられた。

20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設としての近代ホスピスが、イギリス、アイルランドから始まった。

1967年、セント・ジョセフ・ホスピス(ロンドン, ハックニー(アイルランド人の多い地域)で学んだ女医のシシリー・ソンダース(CICELYSAUNDERS)は、セント・クリストファー・ホスピスを建設、緩和ケアを基本とした、現代ホスピスの基礎を作り、世界的な広がりの先駆けとなった。

アメリカ合衆国では在宅ホスピスが中心である。

ホスピスで、患者の苦痛を除去するために主に用いられるのが麻薬のモルヒネである。

◆本稿は、4月15日(金)刊の「頂門の一針」2232号に
掲載されています。

◆<2232号 目次>
・私が書き残し、伝えたい事:村井正典
・父不在国家:須藤文弘
・大震災が日本の友と敵を峻別した?!:古森義久
・菅政権「さらなる災禍招く」と小沢氏が批判:古澤 襄
・ホスピスとモルヒネ:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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