2011年05月24日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎

日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラが大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死んだ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもたらした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))62歳で薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろう。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓がどのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあと、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切っても切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は 内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。

膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないとか、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公はBanting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリンを発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのはさらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用には耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患して
いる。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響している。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられている。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くなかった。

つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食とは無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜産業勃興と発展により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であったのだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べていたものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」


2011年05月22日

◆糖尿闘病体験と終末期

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。75歳で今生きているのはインシュリン注射のお蔭。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症していた。

また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた

患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られて病院が済生会中央病院。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから23年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて手術を受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった)。

(その友人も糖尿病。全くほったらかしをしたため2010年、60を待たずに脳梗塞で死んだ。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。長嶋さんは3時間を過ぎていたため、これを使えず、後遺症が残った。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。2011・5・18


2011年05月20日

◆野坂参三の不思議

渡部 亮次郎

2007年7月18日、98歳で死んだ宮本顕治が書記長となった1958年。議長として君臨した人の名は野坂参三(のさか さんぞう)。ところがスパイだったことがわかって100歳のときに除名された。元々何のための入党と悲惨な半生を過ごしたのか。不思議な人だった。

とにかく、1992年100歳のとき、『週刊文春』9-11月の連載が基となり、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。

名誉議長解任時は高齢であることに配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた。

これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。

野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895―1939年)ら数名を内務人民委員部NKVDに密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったの
である。

除名の際には党の査問にも反論することなく従ったといい、この件について公に語ることなく亡くなった。この発覚以前からかつての同志袴田里見らからも野坂をスパイと疑う声があったほか、ソ連と米国との二重スパイ説もある。しかし真相は永久に不明のままとなった。

山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弐と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。

慶應義塾在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。

帰国後、日本共産党に参加。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。

この釈放から1931年に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。外国人向け政治学校クートヴェで秘密訓練を受け、その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。

また、1940年、中国・延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行い、日本帝国主義打倒を目指す。

第2次世界大戦終了後の1946年1月12日に帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。大会委員長山川均、司会荒畑寒村のほか日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。

この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱した。

先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した中央委員会との共同声明を発表した。府中刑務所から解放されていた徳田球一らと日本共産党の再建を果たす。

1946年4月10日の戦後初の第22回衆議院議員総選挙で東京1区から当選。新憲法制定の審議では、自衛権保持の観点から政府の草案に反対したことは知られるが、一方で「主権在民」を書き込ませた功績として評価されている。

ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを基に国会で大々的に追及されたこともあった。

1950年に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。

さらにGHQからレッドパージを受け、地下活動、中国に亡命して武装闘争路線を採った。1955年に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任。事実上は宮本の軍門に下降ったのでは無いか。だから宮本は以後、野坂を疑わなくなった。

1958年に最高位の議長となり、宮本顕治が書記長となった。1982年7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長。1956年に東京選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって務めた。

ソ連崩壊後、公文書が公開されてしまたっため屈辱的な晩年となったが、奇怪としかいえない生涯をなぜ送ったのか、遂に明らかにしないまま死んだ。

晩年には、自叙伝『風雪のあゆみ』を完成させ、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたことがある。しかし除名により表舞台に2度と出ることはなく、まもなく死去した。

「徹子の部屋」では「革命運動のために子供を作らなかったが、今では後悔している」と述べていた。 ただし、のちに養女・米子をとっている。

夫人の龍(りょう)も女性革命家であり、ソ連では逮捕・釈放を経験した。波乱の生涯を1971年閉じている。 スパイと暴かれる前で、せめて、
良かった。

野坂は実に不思議な生涯を送った人だが、これを見破れなかった日本共産党も屈辱だったろう。出典:「ウィキペディア」再掲

◆本稿は、5月20日(金)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2267号に
 掲載されました

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2011年05月18日

◆鮒は味噌煮に限る

渡部 亮次郎

亡くなった母は生前、私が帰省すると必ずガスこん炉に小さな鍋を載せ、予ねて用意してあった、八郎潟産の鮒に豆腐と葱を添え、必ず味噌で煮て食べさせた。

その前に私が焼酎を呑もうとすると、父が「うちはそれほどの貧乏人ではない」と日本酒を出してきた。焼酎は貧乏人の酒との観念が抜けないのである。自分は一滴も飲まないくせに。

鮒を味噌で煮るのは、泥臭い臭みを消す為である。醤油では消えない。ただ、母の場合は、別の理由もあった。私は幼少時、腎臓が弱くて医者から塩分の摂取を極端に制限されて過ごした。

集合写真で観ると、小学3年までは小さくて「虚弱児童」といわれてもしかたが無い。ところが、3年のとき、禁じられているはずの味噌汁を勝手に飲んでしまった。

父母は随分心配したそうだが、不思議なことに、それを境にぐんぐん元気に成り、運動会の徒競走では常に1着。リレーの選手にも選抜されるようになった。「亮次郎には味噌」が母の「信念」になった。多分、私の前に生まれた琢次郎が夭折。そのピンチヒッターたる亮次郎も病弱とあって多分、心配が絶えなかった。

それが味噌汁で丈夫になった。だから「味噌信仰」になり、私に関する限り、殆どの料理は味噌が味付けの主体であった。その所為で後期高齢者までに生き延び、98という母の寿命に迫りたいという野望を抱くに至っている。

さて鮒(フナ)である。鮒は、人間に触れやすい環境に生息していることから、身近な魚として人々に親しまれてきた。例えば、日本社会では多くの人が知っている文部省唱歌『ふるさと』(高野辰之作詞・岡野貞一作曲)には、「小鮒(こぶな)釣りしかの川」という一節があり、郷里のイメージのひとつとして歌われている。

私は子供のころから釣りが下手。しかし、おかずは欲しいから、旧八郎潟に注ぐ河川に竿の先に着けた小さな網をいれて掬うと大きな鮒が面白いようにとれた。

調理方法は、塩焼きや煮付け、てんぷら、甘露煮など。小さいフナを竹串でさし、タレをつけて焼くすずめ焼きなどもある。また、小鮒を素焼き(白焼き)にしてから煮るとよいダシが出るという。

香川県では、酢漬けにしたフナの切り身を野菜と酢味噌で和えた「てっぱい」という料理もある。

だが有棘顎口虫の中間宿主となるため、生食はすべきではない。だから鮒で育った私は生魚の味を知らず、海の魚の生の味を知ったのは60を過ぎてからだった。

中国の毛沢東は禁じられていたにも拘らず、江青夫人の奨めで鮒など淡水魚を生で食べるのが好きだったという。江青(こう せい1914年3月 -1991年5月14日)は、中華人民共和国指導者の毛沢東の4番目の夫人で政治指導者、女優。山東省出身。文化大革命を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。

禁じられているものを、亭主に敢えて食わせるとは、早く死なせようとしていたのではあるまいか。

フナ(鮒)は、コイ目コイ科コイ亜科フナ属(Carassius)に分類される魚の総称。ユーラシア大陸において馴染み深い淡水魚のひとつである。

日本を含むユーラシア大陸に広く分布し、河川、湖沼、ため池、用水路など、水の流れのゆるい淡水域ならたいていの所に生息する。中国の露天で売られているマブナ。中国ではよく食べられる。

フナはアジア地域においてしばしば食用とされる。例えば、日本においては滋賀県の「鮒寿司」や愛知県・岐阜県・三重県の「鮒味噌」、岡山県の「鮒飯」、佐賀県の「鮒の昆布巻き」などのフナの料理が知られて
いる。

かつては身近で重要な蛋白源としてよく食べられていたが、近年では、淡水魚独特の泥臭さが敬遠されたり、フナそのものが水環境の悪化によって減少したりしているため、食べる機会は減っている。

それでもフナは内水面漁業の主要な漁獲魚種である。日本における2004年の総漁獲量は2258tで、養殖を除くとサケ・マス、アユに次ぐ漁獲量だった。

都道府県別に見ると埼玉県(290t)が最も多く、続いて岡山県(266t)、茨城県(251t)、千葉県(184t)、熊本県(180t)、青森県(140t)、岐阜県(118t)、新潟県(117t)、島根県(113t)、滋賀県(112t)の順に多い(水産庁平成16年漁業・養殖業生産統計(概数)による)。

ゲンゴロウブナとその品種改良種であるヘラブナは植物プランクトンを食べるが、他のフナはほとんどが雑食性である。水草、貝類、昆虫類、甲殻類など、さまざまなものを食べる。

産卵期は春で、浅瀬の水辺に集まって水草などに直径1.5mm程度の付着性卵を産みつける。

なお、フナ類はサイアミナーゼというビタミンB1を破壊する酵素を多くもっているために、他の魚類などが多く捕食すると体が曲がるなど異常をきたしやすくなるため、捕食する側からはあまり好まれないらしい。

また、コイとフナの雑種(コイフナ)が発見されていて、釣堀でヘラブナとマブナが混ざっているところは、アイベラという雑種も見つかっている。

姿・形・色だけで種を判別することはできないため、初心者が種類を見分けることは困難である。例えば、日本社会においては、「フナ」と呼ばれる魚は慣例的に細かい種類に呼び分けられている。

しかし、その「種類」がそれぞれ生物学的に別種か、亜種か、同じ種なのかはいまだに確定されていない。なお、俗に言う「マブナ」はゲンゴロウブナと他のフナ類を区別するための総称で、マブナというフナは実在しない。2011・5・4

フナ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2011年05月16日

◆深川は開拓者の苗字

渡部 亮次郎

江東区に引越して来て16年が経った。早いものである。ここに住まうなんて学生の頃は想像もしたいなかった。政治記者になってからも、下町に住む政治家は数えるほどしか居なかったので足を向けた事は1度も無かった。

辰巳芸者の居た深川、と言う名は年寄りから聞かされたことはある。都心の江戸城から見て辰巳の方向の深川の花柳界には気風のいい芸者がいて賑わったものだった、とか。しかし昭和20(1945)年3月10日の米軍による大空襲で消滅したことも。花柳界は復活しないままに終わるだろう。

北海道の深川市の由来は市内を流れる川の名(アイヌ語)=深い川からつけたもので東京の深川とは残念ながら無関係。ここの市長とはあることから交流があったが、彼は事件を起こして引退した。

昔、深川は深川区だった。東隣の城東区と合併して今の江東区となって現在に至る。

江東区の町名

(深川地域) 青海 | 有明 | 石島 | 海辺 | 永代 | 枝川 | 越中島 |
扇橋 | 木場 | 清澄 | 佐賀 | 猿江 | 塩浜 | 潮見 | 東雲 | 白河 | 新
大橋 | 住吉 | 千石 | 千田 | 高橋 | 辰巳 | 東陽 | 常盤 | 富岡 | 豊
洲 | 平野 | 深川 | 福住 | 冬木 | 古石場 | 牡丹 | 三好 | 毛利 | 森
下 | 門前仲町

私の住まいする毛利は下段。最も北部に位置するから錦糸町やスカイツリーに極近い。

(城東地域) 大島 | 亀戸 | 北砂 | 新砂 | 東砂 | 南砂 | 新木場 | 夢の島 | 若洲

深川の由来は、湿地帯であった現・江東地区を開拓していた深川八郎右衛門の姓に由来するといわれる。3代将軍徳川家光の時代から富岡八幡宮の門前町として発達し、明暦の大火ののちに木場が置かれて商業開港地域となり、深川岡場所も設置され花街となる。


江戸の辰巳の方角にあることより、ここの深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ、粋で気風が良いとされた。

もとは下総国葛飾郡の内で、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(現在の江戸川・旧江戸川)より西の地域を武蔵国に編入した際に武蔵国葛飾郡となる。

両国橋が架けられたのちに江戸図にも載せられて江戸に組み込まれるようになり、町地が多く起立して1818年の「旧江戸朱引内図」でも朱引内に含まれている。一方、町地以外の部分は代官所管地の深川本村が置かれた。

横十間川が江戸の境目だったらしいから、5月14日に千代田区から移転してきたコンピュータ会社「ヒューレット パッカード」日本本社は、横十間川の外だから江戸じゃなかった場所だ。

深川にはその昔、材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構えたそうだ。

1702(元禄15)年の大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入った事件では、一行は富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会合を開いたと伝えられる。曲亭馬琴はこの地で生まれ、平賀源内や松尾芭蕉、伊能忠敬なども深川に住んだ。

1878年、郡区町村編成法施行に伴い東京15区の一つとして成立した区域に名称として採用された。この深川区は、現在の江東区のうち上記江戸の町地に該当する地域である。ついで1889年市制町村制施行によって横十間川より西側の地域全てが深川区になる。(横十間川以東は南葛飾郡大島村に編入された)。

これらはいずれも現在の江東区深川よりはるかに広い範囲である。1945年3月10日の東京大空襲ではこの深川区に爆撃初弾が投下され、区内は焦土と化した。戦後1947年に城東区と合併し、現在の江東区となる。

城東区(じょうとうく)とは、かつて東京府東京市(後に東京都)に存在した区。

区名は皇居(江戸城)の東側にあることに由来している。東京市の一部ではあったが完全な行政区ではなく一定の自治が認められていた。東を荒川・旧中川、北を北十間川、西を横十間川、南を東京湾に囲まれた地域であった。

当初は亀戸を中心とした寺社地域や水運関係を除けば農業地域であったが、次第に都心部へ通勤する人々の住宅や水運を利用した工場建設などが行われ、1935年10月1日の統計では人口18.43万人、面積10.18平方キロに達した。

だが、東京大空襲によって区内全域が大きな被害を受け、1947年3月15日には隣の深川区と合併して江東区となった。

1932(昭和7)年10月1日 - 南葛飾郡全域が東京市に編入。亀戸町、大島町、砂町の区域に城東区を設置。

1943(昭和18)年7月1日 - 東京都制が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。

1947(昭和22)年3月15日 - 深川区と合併して江東区を新設

敗戦直後、江東区の人口はたった25,000人に減っていた。いまは47万4925人。うち外国人2万1414人(2011年5月1日現在)。新宿区は韓国人が多いそうだが、江東区の外国人は中国人が多いようだ。街の汚し方で分かる。

深川江戸資料館ができたり、深川めしが東京駅の駅弁のメニューに登場したりで、脚光を浴びるようになった。また、深川不動堂など、深川の地名のつく施設もある。

深川めし。私は食べたことが無い。

アサリのむき身を味噌汁の具にしたものを、茶碗や丼にのせた米飯にかけたものである。 気の短い江戸っ子の漁師が飯と汁物を一緒に食べる為に考案された。

あさりの産地ではポピュラーなものだが、東京の深川が代表格であり、「深川めし」と呼ばれている。なお、近年増え始めた深川めし屋は炊き込みタイプの上品なものとなっている。

アサリは、他の具(長葱・油揚げなど)とともに醤油などで味付けをして煮る。その後、煮汁でご飯を炊き、炊き上がったら具を戻してかきまぜてできあがり。炊き込みご飯ではあるが、アサリそのものをご飯と一緒に炊き込むわけではない。

駅弁として、NRE大増とJR東海パッセンジャーズが「深川めし」という名前のものを発売している。これらはいずれも、炊き込みごはんタイプの深川めしである。2011・5・14
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2011年05月13日

◆矩(のり)を越える参院議長

渡部 亮次郎

西岡武夫参議院議長は、民主党出身ながら、菅改造内閣に対しては参議院議長として是々非々の立場を採る。内閣総理大臣菅直人の外交政策について「作戦、展望を持っていない」と痛烈に批判するなど、閣僚らに対し苦言を呈することも多い。

その西岡議長が超党派野「有志」を糾合、政界に「グループ」を作ってしまった。増税反対で一致」という。最終的な目的はなになのか。数々の「騒動」を起こして今日に至った西岡氏。政界はまだ反応していない。

<西岡武夫参院議長は11日夜、超党派の有志議員による「デフレ脱却国民会議」のメンバー約10人と参院議長公邸で会合を開き、東日本大震災の復興財源確保を理由とした増税に反対することで一致した。

同会議は近くこうした提言をまとめ、菅直人首相に提出する。

会合には民主党の石田勝之衆院財務金融委員長、自民党の中川秀直元幹事長、公明党の遠山清彦国際局長、社民党の阿部知子政審会長、国民新党の亀井亜紀子政調会長らが参加。

出席者によると、西岡氏は同会議の主張に賛意を示すとともに、首相が中部電力に浜岡原発停止を要請したことについて「(首相の)思いつきだ」と批判した。>時事通信 5月12日(木)0時42分配信

西岡氏は長崎から1968(昭和38)年」11月衆院議員に初当選以来一時は田中角栄内閣を批判、河野洋平、田川誠一氏らと脱党、新自由クラブを結成。数年にして復党したものの、数々の「騒動」を繰り返し、落選の憂き目を見た。

それで参院議員として復活したが、自民党からは離脱。小沢一郎氏と付かず離れずの綱渡り。遂に参院議長のポストを握った。

しかし。

<通例では全会一致で決まる議長選挙では西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、江口克彦(みんなの党)が11票、尾辻秀久(自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果で、参議院議長に就任した。

参議院議長として史上初めて記者会見の定例化に踏み切り、「一票の格差」是正等を目指し全党派の代表が参加する会議を新設するなど、参議院の改革に取り組む。

2010年9月の民主党代表選挙に関し、候補者の出馬表明前の8月23日に「菅直人首相が続投を表明すれば、対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。党を去ることも選択肢に入る」と発言し小沢一郎の立候補を牽制す
る。

中立性の求められる議長の職にありながら党派的スタンスを表明した理由として「日本の政治には、もう『余白』が無くなっているからだ」と述べた。ただし自らの投票権は棄権することもあわせて表明した。

衆議院側で国土交通大臣馬渕澄夫や内閣官房長官仙谷由人らに対する不信任決議案が否決された際には、「責任は官房長官のほうが重い」と指摘している。

さらに、尖閣諸島中国漁船衝突事件をめぐる仙谷の答弁について「法廷闘争的な答弁はしているが、政治的には通らない」と批判した。

これを受け、仙谷は「参議院の議長が言っているのだから、重く受け止めたい。別に反論はない」とコメントした。>(「ウィキペディア」)

立法府の最高位に在るものが、行政に介入する行為は三権分立の法または矩(のり)を越えるものである。2011・5・12


2011年05月11日

◆首相公選論の再燃

渡部 亮次郎

日本国憲法では国会の議決に基づいて内閣総理大臣を指名するとしているため(67条1項)、首相公選制を導入するには憲法改正が必要になる。 中曽根元首相が1961(昭和36)年に直接の国民投票による首相公選制度を提唱したことで、知られるようになった。

中曽根氏は当時、河野一郎氏の束ねる河野派にあり、ここに居ては河野氏存命中は首相の座を望めないとおもいつめたのか、全国いたるところに看板をかかげ、「国民運動」として運動を展開した。

全く実現の機運は向いてこなかった。そのうちに1965(昭和40)年7月8日に河野氏が急死。それを機会に「中曽根派」の結成に成功、なぜか運動は尻すぼみになった。それを46年ぶりに大阪をかき回し中の橋下知事が突然、言い出した。


<橋下徹知事「首相公選制」導入を主張

橋下徹大阪府知事は9日、大阪市北区で開かれた憲法施行記念式のあいさつで「国会議員から一国のリーダーを選ぶ権限、人事権を国民の下に取り戻す運動が我が国に最も必要な政治運動だ」と述べ、現行憲法を改正し国民が直接首相を選ぶ「首相公選制」導入を目指すべきだとの考えを示した。

橋下知事は「国政が機能していない」と指摘したうえで「国会議員がリーダーをフリーハンドで選ぶ。だからこそ国民の意思とリーダーの意思が乖離(かいり)する。ここにこそ日本の政治の最大の欠陥がある」と強調した>毎日新聞 5月10日(火)1時31分配信

看守生姜と国民の意思が乖離する現下の政局を憂え手の発言か、嘗ての中曽根氏のように「国民的人気さえあれば、派閥の領袖でなくても首相になる道がここにあり」とする彼らしい野望を披露したものか否か、東京に居ては私には確かめようがない。

中曽根氏が獅子吼して居たころ、河野氏や岸元首相らは、主に天皇との関係から実現を不可能と冷ややかに看ていた。

議院内閣制を残したままでの首相公選制には国権の最高機関で唯一の立法機関である国会との関係など問題がある。 また、天皇制擁護の立場からは国民が直接選出した公選首相と国民統合の象徴である天皇との整合性を問題点として指摘されることもある。

国民を直接代表する公選首相は必然的に大統領的性質を帯びるものとなり、日本国の象徴であり、公式見解ではほぼ元首としてさしつかえがないとされている天皇と矛盾しないかといった問題である。

古い友人の政治評論家屋山太郎氏や小沢一郎氏は上記の「国柄」と政局の流動化を理由に導入に反対し、むしろ小選挙区制とそれにともなう二大政党制の浸透こそが首相の権力を強化させ、政治への信頼を高められるとしている。

元首相の小泉純一郎は2001年6月26日に「首相公選制を考える懇談会」を開催し、首相公選制など、総理大臣と国民との関係を検討し、具体的提案をすることとした。2002年8月7日には12回にわたる会議の結果を踏まえ「首相公選制を考える懇談会」報告書が小泉に提出された。このなかで、

 1.首相と副首相をセットで国民が直接選出する案

 2.憲法に政党条項を導入し各政党が首相候補を明示して選挙を行う案

 3.政党(野党第一党と与党第一党)内での党首選出手続きを国民一般に開かれたものにする案の3つが提案されたことがある。


「政党内(与党第一党と野党第一党)での党首選出手続きを国民一般に開かれたものにする案」と衆院小選挙区のセットであれば「皇室伝統と矛盾しない首相公選制」であり既に実現しているといえよう。

首相の地位の強化、三権分立の強化となるため、公選制を提唱する意見も多くある。2000年に発足した森内閣が自民党の一部の幹部による密室で誕生したこと(五人組)から、導入意見が一時盛り上がった。

公選首相と天皇との整合性についても、公選首相を天皇が任命する形式を残す、首相公選制導入と共に憲法を改正し、天皇を元首と明文化する等すればそもそも両者の矛盾は発生しないといった意見から、天皇は日本の元首とはいえないので、そもそも両者の間に矛盾は生じないといった意見までさまざまである。

東京都知事の石原慎太郎は導入に賛成である一方、天皇の元首化は不可欠としている。

風雲児橋下知事の上げたアドバルーン。何処へどうなるやら。大阪「都」論と同様行方はわからないない。流行(はやり)のいいかたでは見通しは不透明だ。

参考資料「ウィキペディア」 2022・5・10

◆ 本稿は、5月11日(水)刊「頂門の一針」2258号に
掲載されました。

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2011年05月10日

◆浜岡は菅首相人気とりの小道具

渡部 亮次郎

やはり睨んだとおりだった。中部電力に対する菅首相の浜岡原発の停止申し入れは、何の根回しも下相談もない、市民運動家・菅直人の思いつきパフォーマンスだった。

市民運動家には哲学も国家観も無い。権力に対して野次りに終始し、パフォーマンスで、大衆の歓心を買っていれば千に一つぐらいの当たりがあるかも知れない。宝くじを買って捨てているようなものだ。

菅首相のやること為すことに「心」が無いと各方面から指摘されるのは信念も国民に対する「愛」が全く無いからである。

それが、突然「国民のために浜岡原発の停止」を言い出したから、当然、既に諸々の対策の目途がついたのだろうと思ったが、やはり単なる人気取りのパフォーマンスにすぎなかった。発表記者会見の僅か40分前に中電に対して一方的に通告をしただけであった。

海江田経産相が5日、浜岡原発を視察した際も中部電には話は全くなかったという。

まるで「原発反対」の声に答えれば落ち目の三度笠、大いに持ち直すと勘違い。浜岡原子力発電所を小道具にした手品をやろうとしたらしい。中部電力こそ、いい面の皮じゃないか。

中電も一流企業なら、要請は断乎、拒否すべきだ。私に対して役員たちは何十年も「安全だ」と説いてきたのじなかったか。男ならその「信念?」を貫け。

<浜岡原発の立地上の特異性は以前から指摘されていたことで、東日本大震災後に新たに差し迫った危険が生じたわけではない。

国と電力会社と住民は、これらを十分に理解したうえで、安全な運転について合意してきた。運転停止要請はあまりにも突然で、これまでの合意形成の経緯をも否定するものになりかねない。

浜岡原発を止めることによる電力供給減対策も、説明は不十分だ。住民らの節電で電力不足を乗り切りたいとしたが、運転停止の期間や再開の見通しなど具体的な説明は聞かれなかった。

これでは、国民は国のエネルギー政策そのものを信頼できなくなる>という産経新聞の社説は訴えるが、人気回復、政権すがりつき優先の菅首相にとって、その視界に実は国民は存在して無いかも知れない。

<中部電への要請、首相会見の40分前

中部電力が結論を持ち越したのは、浜岡原子力発電所の停止分を補う火力発電の手当てや政府の支援策が不透明な中で、安易に受け入れを表明すれば、株主らの反発が避けられないと判断したからだ。

今回の停止要請は、中部電にとって寝耳に水だった。6日夜の首相記者会見のわずか約40分前、海江田経済産業相から水野明久社長に電話があり、その後、対応に追われた。海江田経産相が5日、浜岡原発を視察した際も中部電には話は全くなかったという。

名古屋市内の中部電本店で7日午後1時から開かれた臨時取締役会には、水野社長、三田会長ら役員、監査役19人が出席。

会議の冒頭、三田会長が「(首相の要請に対し)皆さんの意見や質問を言ってほしい」と提案。出席者が業績への影響や燃料調達の見通しなどについて自由に意見を出し合った。最後に水野社長が「いろいろな意見を持っているようなのでもう一回考えよう」と約1時間半の議論を打ち切った。> 読売新聞 5月8日(日)3時4分配信


<浜岡原発以外は停止求めず=風評被害は補償―菅首相

菅直人首相は8日午後、中部電力浜岡原発以外の原発の運転停止を求める可能性について、「それはありません」と述べた。中電が浜岡原発停止要請の結論を持ち越したことについては、「しっかり話をして、理解をしてもらいたい」と述べ、要請を受け入れるよう期待を示した。都内で記者団の質問に答えた。

一方、東京電力福島第1原発事故で風評被害を補償の対象とするかどうかに関して、「風評被害を含めて、ちゃんと(東電などに)責任があるものは、ちゃんと補償するべきだ」と語った。>       時事通信 5月8日(日)14時23分配信

2011年05月09日

◆思い出の文革四人組

渡部 亮次郎


中国史における四人組(よにんぐみ)とは、中華人民共和国の文化大革命(犠牲者2000万人といわれる)を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名のことを指す。ほかの「四人組」と区別する為に「文革四人組」とも呼ばれる。2005年までに全員が死亡した。

特に毛沢東の4番目の夫人でもあった江青(こうせい)は獄中で首吊り自殺した。

プロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧し殺害したが、中国共産党中央委員会主席毛沢東の死後に失脚し、特別法廷で死刑や終身刑などの判決を受けた。

中華人民共和国では四人組のことを話すときにわざと指を五本立てて話すことがある。これは、四人組の横暴を許した毛沢東を指し、四人組ではなく実際は毛沢東を首魁とした五人組であった事を暗示しているという。

1960年代半ばから約10年間にわたる文化大革命(文革)において、江青(中国共産党中央政治局委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(国務院副総理、党中央政治局常務委員)、姚文元(党中央政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張。

1971年9月の林彪墜死以降、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。日本から田中角栄首相が初めて中国を訪問、周恩来総理と日中共同声明を発表したのは72年9月だった。

その時、私はNHK記者として田中一行に同行。周恩来との記念写真に納まった。その後、田中首相は上海を訪問して1泊。上海市長としての帳春橋が歓迎に当たり、私も握手を「賜った」。この事は別のところで書いたが、実に軟らかい手だった。

なお、このときの別れ際、送ってきた周恩来が田中首相に「天皇陛下に宜しく」と発言したと言うが、私ははなれた場所にいたので聞き漏らした。

それから2年後の1973年8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり、この時から局内に四人組が成立する。

四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に周恩来を批判する批林批孔運動や、復活していた?(トウ)小平の打倒へと続いた。

毛沢東は1974年7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文が!)小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。

1976年1月の周恩来の死去を契機に、第一次天安門事件などで民衆の反四人組感情が高揚したが、四人組は権力闘争を続け、?小平を再度の失脚へ追い込んだ。

続く1976年9月9日の毛沢東の死去で、四人組はその象徴を失ったにも拘わらず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようと、毛の遺体を永久保存させるなどしたが、政権は華国鋒に引き継がれた。華は毛沢東が革命中、ある女性に生ませた「息子」だった。

その急速な出世ぶりは「ヘリコプター」の離陸に譬えられた。

国防部長(大臣)で反文革派の葉剣英(中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒らと文革堅持を主張する四人組の対立は毛の死直後から急激に表面化した。

上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕された。

四人組は1977年7月の第10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の第11回党大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定され、また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。

1980年11月20日から1981年1月25日までの間、四人組は最高人民法院特別法廷でクーデター計画や幹部および大衆の迫害など、4件の罪状によって裁かれた。

江青:容疑を全面否認し、1981年に死刑判決(後に無期懲役に減刑)。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を説得し、北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

また葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。


王洪文:容疑を全面的に認め、1981年に無期懲役判決。1992年、病死。

張春橋:黙秘を貫き、1981年に死刑判決(後に懲役18年に減刑)。2005年、胃癌のため死去。

姚文元:容疑の一部を認め、1981年に懲役20年判決。2005年、糖尿病のため死去。

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2011・5・6

2011年05月08日

◆殺害に残る謎の解明

渡部 亮次郎

米国が「正義を達成した」と誇る国際テロ組織アルカイダの最高指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害には、いくつかの「謎」も残る。遺体をなぜ水葬したのか、容疑者本人と断定した鑑定に疑問はないのか、パキスタンの首都近郊で敢行した今回の作戦が本当に米単独で可能なのか−−これらを毎日新聞が「検証」している。

<ビンラディン容疑者殺害>残るいくつかの「謎」を検証>(毎日)

 ■米空母から海へ

米国防総省高官によると、水葬は2日未明(米東部時間)、北アラビア海に展開する原子力空母カール・ビンソンの甲板で執り行われた。体を清めて白い布で包むなど約1時間かけて準備した後、遺体を海中に下ろしたという。AP通信は当局者の話として、水葬の理由を「遺体の引き取り手がないため」と伝えた。

京都大大学院の小杉泰教授(イスラム学)は「イスラム社会では通常、死亡した翌日までにモスク(イスラム礼拝所)で祈りをささげて埋葬するのが慣例」と解説する。

イスラムでは、人間は土から創られたとされ、死後は再び土に返すため必ず土葬する。水葬は、船上で死亡して遺体を保存できないなどの場合にしか認められない。

地上で殺害されたビンラディン容疑者は、こうした例外ケースに当たらない。小杉教授は「葬儀は共同体の連帯義務で、引き取り手がない場合でもモスクに遺体を運べば埋葬してくれる」と説明し、「米当局の行為には遺体が奪回されるのを避けるため海に『捨てた』との疑念を持たれる恐れがある」と指摘した。

 ■「99・9%」一致

米当局は、遺体から検出したDNAとビンラディン容疑者の親類のDNAを調べた結果、「99・9%」一致したと説明。さらに、殺害現場で米軍特殊部隊が撮ったビンラディン容疑者の遺体の顔を照合した結果も「95%」合致したとして、本人と断定した。

筑波大大学院の本田克也教授(法医学)は「一般的に確実に本人と断定するには最低限、親子関係でのDNA鑑定が必要だ」と説明する。さらに、鑑定対象がビンラディン容疑者のような重要人物であれば「血痕など本人の試料で『同定』しているはずだ」と言う。

DNA鑑定の結果が判明するには少なくとも半日程度はかかる。米当局の発表では、急襲作戦でビンラディン容疑者を殺害し、その日中に早々と「本人」と断定した。

本田教授は「1日で鑑定を終えること自体は不可能ではない」としながらも、「『同定』を確実にするには同じ鑑定者、鑑定機関で2、3回は確認すべきだ」と指摘。「本人と言えるほど十分な鑑定が行われたのだろうか」と話した。

 ■事前通告した?

米当局は今回の作戦実施について、パキスタン政府には事後報告したと説明している。しかし、現場はイスラマバード近郊のパキスタン軍施設が集まる町だ。

現地に詳しい外交筋は「他国のヘリが夜中に軍事作戦を始めて反応しないはずはない。(パキスタン軍が静観したのは)直前に米側から通告があったからだろう」とみる。

これに対し、大阪大の山根聡教授(南アジア・イスラム文化)は、「パキスタン軍の一部はビンラディン容疑者の潜伏に気づいていたはずだ」と指摘。

米側がパキスタン当局から容疑者に情報が漏れるのを警戒して「事後報告か、何か別の作戦を実施すると説明していた可能性はある」と分析し
た。

米国が他国で遂行した今回の作戦について、現地情勢に詳しい田中浩一郎・日本エネルギー経済研究所理事は「事後通告なら明らかな主権侵害であり、事前でもパキスタンの同意がなければ主権侵害だ」と指摘する。

ただ、国内の反発を考えればパキスタンには同意できない事情もあり、「(作戦が実施されたこと自体には)驚かない」との見方を示した。毎日新聞 5月4日(水)12時50分配信

2011年05月06日

◆食い物を政府が規制するな

渡部 亮次郎

厚労省、「生の牛肉」指導強化を検討、とTBS系(JNN) 5月5日(木)12時42分配信でニュースを流した。

言うまでもなく富山、福井で起きたO111による集団食中毒での死者が5日に4人にも達したところで「厚生労働省は何をのんびりしてるんだ」と非難されるのを先取りした、いかにも役人らしい動きである。

親族に、香辛料一切駄目という75を過ぎた女性がいるが、どう言うわけか一緒に焼肉屋に入ると、焼肉より生肉「ユッケ」を食べている。偏食など無関係といった顔をして食べている。

私は元々川魚を必ず煮たり焼いたりして食べる習慣が長く、寿司や刺身は老人になってから初めて食べたぐらい。馬刺しは食べても生の牛肉とか「ユッケ」は食べたことが無い。

<厚生労働省によりますと、2008年以降、食肉処理場から生食用の牛肉の出荷が無くなり、現在は加熱用の肉しか出荷されていませんが、実際は焼肉店で生食のユッケなどが広く提供されています。

今回の事件を受けて、厚生労働省は生の牛肉を提供している飲食店に対する立ち入り検査を強化し、生の牛肉の提供は原則行わないよう指導を強化する方向で検討していることがわかりました。

早ければ、6日にも都道府県の衛生担当部局に対し検査の強化などを要請する見通しです。

また、肉の生食について、衛生管理のガイドラインはあるものの、罰則がないことから罰則付きの新たな基準を設けることも検討しています。>BS系(JNN) 5月5日(木)12時42分配信

庶民がユッケを食べるのは勝手にさせたほうが民主主義じゃないか。O111に感染するかしないかは、それこそ自己責任に任せるべき。どうしても食べたいなら命賭けでたべたらよろしいではないか。
.
ユッケ(肉膾)は、生肉を用いた韓国の肉料理。

この名前が示す通り、生肉を使った韓国式のタルタルステーキ様の料理である。生の牛肉(主にランプなどのモモ肉)を細切りにし、ゴマやネギ、松の実などの薬味と、醤油やごま油、砂糖、コチュジャン、ナシの果汁などの調味料で和え、中央に卵黄を乗せて供する。

ナシやリンゴの千切りを添えることも多く見られる。食前にはよくかき混ぜるのが良いとされる。

ユッケをビビンバに乗せたものは、ユッケビビンバと称される。晋州市の郷土料理は特によく知られており、ご飯やナムルの上に乗った赤い牛肉を花に見立ててファバン(花飯)とも呼ばれている。

1800年代末期の『是議全書(朝鮮語、中国語)』に掲載されている調理法では、薄く切って血抜きした牛肉を細切りにし、ネギ、ニンニク、唐辛子、蜂蜜、油、松の実、ゴマ、塩などで和えるとしている。

また食べる際にはコチュジャンと食酢をあわせたチョコチュジャンを加えるのもよいとされている。

日本でも焼肉店の定番メニューである。そのほか各種の料理店では様々にアレンジされ、牛の舌(タンユッケ)、牛の内臓、鶏肉、マグロ、鰹、馬肉で作られる場合もある。

ユッケは生肉を食するものであるため、動物の腸などから付着した腸管出血性大腸菌やサルモネラなどに感染する可能性がある。このため旧厚生省は「生食用食肉の衛生基準」(1998年 9月11日生活衛生局長通達)により生食用食肉の規格や衛生管理について定めている。

しかし、これに基づく生食用食肉の出荷実績がある施設は馬肉とレバーだけだった。この基準が遵守されず、多くの加熱用食肉が飲食店の自主判断で生のまま提供されているという。

毎年、20件ほど食中毒が発生している。主な例では2008年に炭火焼肉たむらで起こった。

2011年(平成23年)には、4月に焼き肉チェーン店焼肉酒家えびすの、富山県の砺波市にある店舗で和牛ユッケを食べた男女15グループ24人が発熱や下痢などの食中毒症状を訴え、腸管出血性大腸菌O157・O111が検出された。

そのうちの焼肉とユッケを食べた6歳の男児1名(O111を検出)および、別のグループの40歳代女性1名[6]と70歳代女性1名[7]がそれぞれ死亡。

さらに福井市にある同じチェーン店でユッケを食べ、O111に感染した男児1名も死亡したことが判明した>。出典: フリー百科事典『ウィキペディ
ア(Wikipedia)』 2011・5・5

◆巴里だより 上り下りの船人が

岩本宏紀(在仏)

復活祭の月曜日、アムステルダムに流れ込むアムステル川。
春のうららのこの川は
上り下りの船人で溢れていた。

オランダでは海に出なければ、つまり
川や湖であれば、免許証なしで船に乗れるそうだ。

大金持ちでなくても舟をもち、
天気のいい日にはビールと食べ物を積み込んで、
のんびりとクルージングを楽しんでいる。

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<添付画像:アウダーケルク(古い教会)村のカフェにて。>
川べりにあるので、船人も簡単に入ることができる。

序でながら・・・。
1ヶ月目に我が家に来たゆめちゃんは、日ごとに
お転婆になっていく。人前では猫をかぶるが、
家に戻ると何にでも噛みついて大変だ。

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2011年05月05日

◆「作文に不可欠なリズム」

渡部亮次郎

(再掲)私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHKだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だった。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を「悪文」という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのは切るべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、「そして」でつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。

高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。2008・06・29