2011年06月11日

◆野田「首相」案に暗雲

渡部 亮次郎

ポスト菅の先頭に踊り出た観のあった野田財務相について産経新聞が11日の朝刊1面、大見出しで「脱税容疑の社長から献金」と報じた。痛手である。

野田氏側は、コメントを出していない。今後の展開は予測できないが、内外の反応は決して甘くないはず。「野田政権構想」に暗雲である。

<脱税疑いの社長、野田財務相側に献金 2年間で50万円

野田佳彦財務相が代表を務める政党支部「民主党千葉県第4区総支部」に平成15、17年の2年間で計50万円の企業献金をしていたソフトウエア会社の男性社長が、税務当局の強制調査(査察)を受けていたことが10日、関係者への取材で分かった。

社長側は約1億円を脱税した疑いがあり、税務当局は法人税法違反での告発も視野に入れているとみられる。

野田氏の団体をめぐっては3月、別の巨額脱税事件で有罪判決を受けた男性の関係企業からの資金提供が発覚していた。社長側は野田氏以外にも与野党の複数の国会議員側に資金提供しており、政界への幅広い浸透も指摘されている。

関係者によると、社長は実質支配する関連会社を使い、取引先に社員寮の建設費を水増し発注するなどして数億円の所得を隠し、法人税約1億円を免れた疑いが持たれている。

水増し分の資金は還流させ、知人女性の生活費などに充当。社員寮は約10年前から次々と建設されており、同様の方法で継続的に資金を捻出していたとみられる。

政治資金収支報告書などによると、社長のソフトウエア会社は、野田氏が代表を務める「民主党千葉県第4区総支部」に、15年に20万円、17年に30万円の寄付をしていた。

15年に5万円を超える献金をした「法人やその他の団体」は2つだけで、ソフトウエア会社が野田氏側にとって大口の寄付者だったことがうかがえる。

野田氏をめぐっては3月、関連政治団体が19年に開いた政治資金パーティーで、法人税法違反事件で約3億4000万円を脱税したとして有罪判決を受けた男性の関係企業から、パーティー券計80万円分を購入してもらう形で資金提供を受けていたことが判明した。

野田氏は発覚直後の衆院財務金融委員会で「(購入者が)脱税したような法人や個人であるなら、今の職責上適切ではないと思う」と述べ、返金する意向を示していた。

有罪判決を受けた男性側は、民主党本部のパーティー券390万円分、前原誠司前外相のパーティー券50万円分を購入。蓮舫行政刷新担当相が代表の政党支部にも129万円を寄付するなど、民主党側に多額の資金提供をしていた。

ソフトウエア会 社からの献金について、産経新聞は野田氏の事務所にコメントを求めたが、回答は得られていない。>
(産経ニュース 2011.6.11 02:00)


◆野田佳彦ってどんな人

渡部 亮次郎

菅内閣の財務大臣野田佳彦 (のだ よしひこ)氏が後継首相候補に浮上している。菅首相より10歳も若いことに加えて野田氏が後継となれば,政策の継続性が確保できるという判断があるという。


<野田財務相擁立で調整=仙谷、岡田氏ら一致―民主代表選

民主党の仙谷由人代表代行(官房副長官)、岡田克也幹事長らは9日までに、退陣表明した菅直人首相の後継を選ぶ党代表選に野田佳彦財務相(54)を擁立する方向で調整に入った。

東日本大震災からの本格的復興策を盛り込む2011年度第2次補正予算案や、11年度予算執行を裏付ける特例公債法案の早期成立に向け、野田氏が後継となれば政策の継続性が確保できると判断した。 

野田氏は同日、衆院議員会館で開いた自身のグループの会合で「こういうときにバタバタするのは良くない。一球入魂で職責を果たすのみだ」と、職務に専念する姿勢を示すにとどめた。

ただ、出馬には前向きとされ、同氏周辺は「推されれば立候補する」と強調。岡田氏に近い党幹部は記者団に「野田氏は有力な後継候補だ」と述べた。>時事通信 6月9日(木)8時15分配信

<演説力は「党内ナンバー1」と言われており、2005年の総選挙の際は、候補者の応援演説の依頼が岡田代表(当時)、菅直人、小沢一郎に次いで多かった。衆院選挙に初出馬した際にJR津田沼駅前で12時間連続で選挙演説したことがある。

企業献金を受け取らず、個人献金のみで政治活動をしたり、毎朝、駅前での演説を県会議員になる前から20年間毎日続けるなどの活動は、松下政経塾出身者の選挙スタイルのパイオニアになっている。

地元の千葉県に松下政経塾の地域政経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立するなど、地元の人材育成にも努めている。

財務省ではたばこ増税に積極的に取り組んだが、自身は1日2箱の愛煙家で「(増税は)切ないテーマ」と認める。趣味は格闘技観戦で、最強と考えるプロレスラーはジャンボ鶴田。

自身も柔道2段の有段者で、学生時代の大会で秒殺された相手が山下泰裕に秒殺されたというエピソードがある。超党派で作る格闘技振興議員連盟の会長を務めている。

第162回通常国会における2005年1月21日の小泉純一郎首相による施政方針演説の中で、凶弾に倒れながらも「男子の本懐」と漏らした濱口雄幸首相を小泉が自らになぞらえたことに対して、

1月25日の代表質問の場において、狙撃後も命をかけて国会に出席し説明責任を果たしたことが浜口の真骨頂であり、ぼかして逃げるあなた(小泉)とは違うと批判した。

政策通とされ若手保守系議員を中心とした「野田グループ」の領袖である。沖ノ鳥島が領土であることを批判した唐家セン中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実効支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べたことがある。

更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したことがある。

小泉純一郎内閣総理大臣に宛てた質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は不可思議」、「南京大虐殺肯定派の論理は破綻している」と政府の戦後史観の対応の甘さを批判した。

「安全保障基本法」「緊急事態法」の制定を主張している。かつては永住外国人への地方参政権付与に関して容認派であったが、菅内閣で外国人参政権に明確に反対を表明している。

1957年5月20日に千葉県船橋市に陸上自衛隊第一空挺団の隊員だった父の長男として生まれる。実弟は船橋市議会議員の野田剛彦。

学生時代は立花隆に憧れてジャーナリストになることを希望していた。1980年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業する。

1985年に松下政経塾を1期生として卒業し、家庭教師、都市ガスの点検員、私設教育相談所長、青年政治機構副幹事長を経て、1987年千葉県議会議員選挙に立候補。

各新聞社の選挙予想では「野田は独自の戦い」と泡沫候補扱いだったが、当時最年少の29歳で当選する。県議は2期務めた。

1992年日本新党結成に参加し、1993年第40回衆議院議員総選挙には日本新党公認で千葉1区から当選する。

日本新党では副代表幹事などを務め細川内閣を支えるが、細川内閣の総辞職、新党さきがけや日本社会党の離脱に伴う羽田内閣の崩壊を経て、野党となった日本新党は解党し、同年新進党結党に参加する。

1996年第41回衆議院議員総選挙では全選挙区最小得票差の105票差で自民党の田中昭一に敗れ、落選した

2000年第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で当選し、国政に復帰。民主党総務局長に就任。2001年民主党ネクスト・キャビネット(次の内閣)で行政改革・規制改革担当大臣に就任する。

2002年8月菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため同じ松下政経塾の後輩に当たる前原誠司、松沢成文らと「第二期民主党をつくる有志の会」を結成。

9月の代表
選に立候補するにあたっては、前原との間でどちらが立候補するかで調整に難航するが、民主党若手議員を代表する形で野田が立候補する。

この代表選挙では敗北するものの、選挙戦を通じて認知度を得る。その後、鳩山代表に政策調査会長への就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選挙の出馬を取りやめた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞した。

2005年第44回衆議院議員総選挙では千葉13選挙区の中で野田の選挙区である千葉県第4区のみ唯一民主党として自民党の藤田幹雄に944票差に迫られながら勝利した。

2002年12月、民主党国会対策委員長に就任する。国対委員長としては、審議拒否をしない方針で国会運営に臨んだ(2003年11月退任)。

2005年9月の総選挙で民主党が大敗し、辞意を表明した岡田克也党代表の後任選びでは前原誠司を推し、中堅、若手議員をまとめ前原勝利の一因を作る。当初は幹事長に就任予定だったが、菅直人が固辞した国対委員長に就任した。

2006年2月に永田寿康が引き起こした堀江メール問題では、当初このメールの信憑性を疑わず永田を擁護する対応をとったこともあり、国会論戦の指揮監督をおこなう立場として責任を取り、同月に国対委員長を辞任した。

なお、このメール問題について、2008年に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然備わっている危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘している。

2008年8月、「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張し、民主党代表選への出馬を表明したが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなど自らのグループを纏め切れず、更にいわゆるメール問題の張本人の一人である野田の立候補には全党的に反発が強く、推薦人(20人)確保の目処が立たず、出馬を断念した。これにより、小沢体制の継続が事実上決まった。

これについて2008年9月7日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で立候補を断念した経緯を語った。出馬断念の代償は大きく、民主党の次代を担う七奉行と呼ばれた野田は大きな打撃を受ける。

結束力を誇った野田グループは出馬断念派と積極派に分裂して解散論も飛び出すほど脆弱な組織となり、馬渕澄夫は退会した。

2009年5月の小沢辞任に伴う代表選挙では岡田克也を支援したが、鳩山由紀夫に敗れる。ただ、岡田が鳩山代表の下で幹事長に就任すると、幹事長代理として執行部入りし、復権を果たした。

]同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、防衛大臣就任が取り沙汰されたが、近著で集団的自衛権の行使を主張しているなど、党内や連立政権での意見対立を刺激することが懸念され、見送られた。

野田の手腕を高く評価していた藤井裕久財務大臣の意向により、財務副大臣に就任。2010年1月に藤井が健康上の問題を理由に辞任すると後任候補の1人として名前が上がった。

藤井も野田を後任に推薦する意向だったが、菅直人が国家戦略相から横滑りする形で副総理兼財務相に就任した。

2010年6月、鳩山首相が辞任を表明。鳩山内閣の財務大臣だった菅が後継首相となり、野田が副大臣から昇格する形で菅の後任の財務大臣に就任した。初入閣での財務相就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣を含めても異例である。

同年8月20日、為替動向について記者会見で「重大な関心をもって注意深くみていく」と述べる一方、為替介入についてはコメントを避けた。

9月8日、円高について衆院財務金融委員会での答弁で「明らかに一方的に偏っている」とし、「必要なときには為替介入をふくむ断固たる措置をとる」「産業の空洞化にもつながりかねないということで、強い懸念をもっている」と述べた。

9月15日、政府・日本銀行が「円売りドル買い」の為替介入に踏み切ったことを発表。この介入により1ドル=82円台から1ドル=85円台に急落した。

10月8日、1ドル=81円台に上昇したことを受け「より一層重大な関心を持ってマーケットの動向を注視し、必要なときには介入を含めて断固たる措置をとるという姿勢に変わりはない」と述べた。

また同日ワシントンで開かれた先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では為替介入について「批判的な意見は出なかった」と説明した 。

2010年9月に発足した菅改造内閣では財務大臣に再任。2011年1月の内閣改造に際しては、内閣官房長官への横滑りも取り沙汰されたが、野田が財務大臣続投を強く希望したため、菅再改造内閣でも留任した。

著書 『民主の敵―政権交代に大義あり』新潮社、2009年7月 ISBN 978-4106103230
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                   2011・6・9

2011年06月10日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎

日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見から既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒められている。お陰で園田の年(70)を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・20mm)になって殆ど痛みを感じなくなったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メーカーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるというものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。


「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するもので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html

東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのインタビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」より抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本では60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんでした。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省からは、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだということが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受けることで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、という言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、

血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)

血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。

日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤の使用があるではないか」と回答している。これが1970年代の実態だったのである。

このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、インスリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられなかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)

このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。

この年ようやくインスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するというものであった。

これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究をスタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が、日本の歴史を変えたといってもいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)


2011年06月07日

◆大連立、障害は首相の往生際の悪さ

渡部 亮次郎

レームダック(lame duck、足の不自由なアヒル)とは、役立たずの政治家を指す政治用語。レイムダックとも表記されるが、そちらが本来の発音である。

選挙後まだ任期の残っている落選議員や大統領を揶揄的に指すのに用いられる。転じて、米国では「役立たず」などと特定の人物を揶揄する慣用表現としても用いられている。

1700年代のロンドン証券取引所で、支払不能で債務不履行に陥った株式仲買人や証券会社を指す言葉として用いられたが、1860年代に米国の政治用語として流用されるに至った。(「ウィキペディア」)

あがけばあがくほど、あり穴に落ちて行く。菅はそれに気づいてない。即刻辞めれば普通の政治家だが、あがきながら、生きながらえれば、永らえた分が、ばんねんのお汚濁と名って、まとわり付く。

官房長官として信頼した仙谷が、既に先頭をきって菅降ろしに邁進している。今の官房長官もサジを投げている。もはや菅は民主党のお荷物に成り果てたのだ。それなのになんで即刻やめないのか。

ひょっとして彼は若い頃に夢見た社会主義革命が成就したと思っているのではないか。成就した以上、イスから降りるわけにはいかないのだ。1分で1秒でも長くしがみついていなければならないのだ。

「政権獲得とは、期限(任期)の限られた独裁である」とどこかで菅が喋ったことがある。だから革命成就と勘違いしている事は間違いない。
しかしいまやレームダックどころか、民主党のお荷物と化してしまった以上、日を追って辞任要求は党内で高まってゆくだろう。見下げ果てた粗末な人間だ。

<大連立、障害は首相の往生際の悪さ

退陣を表明しながらも「8月まで」の延命にこだわる菅直人首相の往生際の悪さが、民主、自民両党の大連立構想の障害になっている。

仙谷由人官房副長官が後継首相を前提に自民党との交渉に乗り出したが、自民党側は前提条件として首相の早期退陣を求めている。そのため民主党出身の西岡武夫参院議長は6日、首相に6月中の辞任を突き付けた。
(水内茂幸)

「菅首相が辞めるタイミングは2つ。即刻お辞めになるか、赤字国債を発行するために必要な特例公債法案を6月中に成立させてから。それ以外にはない」

西岡氏は6日の記者会見で、首相の「6月退陣」を主張した。大連立を含む野党側との協力に関しても、首相が退陣すれば「速やかにできる」
と強調した。

鳩山由紀夫前首相も6日の大阪市内での講演で「信なくば立たず。政治家は本来、高潔で礼儀正しく嘘をつかない存在でなければならないが、どうも違うと思われている」と述べ、6月退陣を否定した首相を改めて強く批判し、早期退陣を求めた。

もっとも、首相にはそのつもりは全くない。

「6月末の復興構想会議の提言を待たずに五百旗頭(いおきべ)真議長から話を聞き、平成23年度第2次補正予算案を提出したい」

首相は5日、官邸近くのホテルで会った民主党の斎藤勁国対委員長代理にこう伝えた。「成立までが仕事ですよ」と斎藤氏が語りかけると、首相は「そうだな」と答えた。

首相は与野党からの反発で「早期退陣」を印象付けようとしているが、実はからくりを仕込んでいる。

鳩山氏は2次補正に関し、「月内に編成のめどがつく」と指摘している。だが、10兆円を超える2次補正は本格的な復興予算となるため、今すぐ編成を指示しても、予算案がまとまるのは早くても7月中旬だ。

加えて、小沢一郎元代表が主導したマニフェスト見直しで「小沢色」を一掃したい首相は、「マニフェスト見直しを含め、復興債の償還財源のあり方まで議論しようとしている」(首相周辺)。

そうなると、編成のめどがつくのは8月上旬。とてもではないが、野党や鳩山氏らが求める「6月退陣」では収まらない。

だが、首相の思惑とはよそに民主党内はすでに「ポスト菅」で走り始めた。

「大連立の話を、現時点でどこまで詰められるのか…。新首相が意思決定に参加しなければいけない」

岡田克也幹事長は6日の記者会見で語った。「菅首相の下では大連立は進まない」とあけすけに語ったに等しい。

旧民社党系議員で作る民社協会の幹部も同日、岡田氏に首相の退陣時期を明確にするよう要求した。

自民党の谷垣禎一総裁も6日、熊本市内での会見で特例公債法案や2次補正に協力しない意向を表明し、こう語った。

「辞めると言った人に、難しい課題はさばけない。時間を浪費するだけだ」

首相がいくらあがこうとしても、すでに外堀は埋められている。>

(産経ニュース 2011.6.7 00:13 )

◆本稿は、6月7日(火)刊の全国版メルマが「頂門の一針」2284号に
掲載されました。

◆<「頂門の一針」2284号の目次>
        
・大連立、障害は首相の往生際の悪さ:渡部亮次郎
・「行動は雨」の時節です:岩見隆夫
・ふたりの トラスト ミー:須藤文弘
・安倍の仇を菅で討つ?!:平井修一
・ビンラディン殺害、得をしたのは中国:宮崎正弘
・張作霖爆殺事件の真相(補遺):宮崎正弘

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
    

◆社説は空しい

渡部 亮次郎

実は、初めてこの論を書いたのは2006年12月のこと。既に5年が過ぎた。事件は終わったが、汚職事件の風土は全く変わってない。事件は深化し、表面化しないだけだ。

国会議員たちは政治資金を国家予算から確保しているが、地方自治体の首長も議員も選挙資金を調達する手段を持たない。ついつい、公共工事を舞台にした談合と汚職が結びつくのだ。何年経っても構造は変わっていない。それにしては事件摘発の報道が無いなあ。

「一連の地方におけるいわゆる官製談合事件は、摘発はあっても消滅策はありえないから、頼むから新聞の社説よ、論説よ、取り上げるなと祈っていたのに、産経新聞が2006.12.05no「主張」(社説)で取り上げてしまった」。

【主張】宮崎県知事辞職 不正の構造に決別はかれ と題したもの。

<官製談合による自治体トップの逮捕、辞職が相次いでいる。福島、和歌山県に続いて、宮崎県の安藤忠恕(ただひろ)知事が辞職した。まさに“談合列島”といえる異常事態を招いている>。

<それにしても、安藤知事の辞職表明は遅きに失した。先月29日に県ナンバー3の出納長が逮捕された時点で、県民の大半は安藤知事が「道義的責任」をとり、辞職するものと予想していたのではないか>。

ここまでは駆け出しの記者でも書ける「経過」。問題は結論である。

<福島、和歌山、宮崎県の官製談合事件の検察・警察当局による摘発で、地方自治体の談合体質が同じ土壌にあることが浮き彫りになった>。

<知事と個人的に親しいフィクサーが県政に暗躍する。和歌山の場合は元ゴルフ場経営者であり、宮崎は元国会議員秘書だった。これらの人物は選挙の時に知事に業者を紹介、恩を売って、その見返りに公共工事の入札に業者を参加させるという仕組みのようだ>。

<このような談合構造は、他の自治体でも似たり寄ったりであろう。いまこそ、政官業が巧みに癒着した談合体質からの脱却を図る必要がある>。

そんなことは論説委員殿に指摘されなくても分っている。当事者の首長こそ談合体質から脱却したいのは山々なのだ。他に選挙資金を調達する方法があれば、絶対的なこの泥沼から這い上がりたいはずだ。だが方便がない。

無いからこうして捕縄につながる汚辱の危険を冒してまで調達使用としたのだ

<知事は予算と人事権を握る絶大な権限を握っている。業者との関係には自らを厳しく律しなければならない>。

なにを目出度いことを言ってるのだ。自らを厳しく律してなおかつ選挙資金の入る方法があるというのなら教えて貰おうじゃないか。空虚な論は休みやすみにしたまえ。

<公共事業の入札には特定業者が入り込まないような透明性のあるシステム作りが求められる。全国の自治体の首長は、一連の事件を“対岸の火事”とせず、早急に入札制度を改善し、不正根絶に邁進(まいしん)してもらいたい>。(2006/12/05 05:01)

そんなことは簡単だ。しかし選挙資金はどうやって調達するかも教えてくれ。それが無いならこの「主張」は空理空論だ。読むんじゃなかった。

今回の東日本大震災の復旧、復興事業は膨大な国家資金を消費する。山堂コラムが指摘するように、そこに葉膨大な利権が生ずる。官製談合の芽は山ほどある。警察や検察は厳しく見張って欲しいものだ。

同様に読みたくないのは、役人の天下り反対論。役人だって楽に暮らせれば天下りなんかしたくない。




2011年06月03日

◆稀代のペテン師が首相の日本

渡部 亮次郎

一夜明けたら鳩山変身、菅弱気で2日、民主党内の情勢は、それこそドンデン返しとなった。

あのまま行けば、菅への不信任決議案は可決、内閣総辞職か衆院解散かだったが、まず鳩山が党分裂を危惧し、ビビった。菅の許へ駆けつけ、再度、辞任を迫った。一定の目途がついたらという条件付だが。

前後して連立の亀井党首も駆けつけて、震災・原発対策の「目途」を条件に辞職を進言。

さすがの「ズルシャモン」の菅も、党の分裂に危機感を持ち、代議士会での発言となった。発言は辞任の時期を明らかにしない「言い逃れ」と聞えたが、鳩山氏が代議士会の席上質問の形で、辞任のじきについて「復興基本法の成立と第2次補正予算の編成の目途がついた段階」ととどめをさした形になった。

鳩山氏は具体的な時期についてNHKのインタビューに答え「夏ではおそすぎる」と語ったが、ずるずると居座られる危険性を否定できる人は居ない。何しろ「目途」をどう解釈するかは自分だと言うのだから、鳩山は騙された。

こうなれば、小沢氏も不信任案賛成を進めても展望の開ける情勢ではなくなった。「こうなリャ、自主投票」と言い残して本会議を欠席。恰好をつけた。

いわば党議に反して賛成票を投じた2人や小沢氏をはじめ本会議欠席者に対する処分など、民主党の党運営は引き続き難航しそうだ。いずれにしろ小沢氏に関する限り、今回は「壊し屋」になれなかった。菅が居座れば居座るほど、小沢氏の力は薄れて行くだろう。

」自民党、公明党は二の手として多数を占める参院での問責決議案の可決に進むだろうが、そんなもの、菅に対する拘束力は無いから、無意味だ。菅の出席する席での参院審議には応じないという態度に出ても、世論の反発を恐れて長続きさせられまい。

死人運動家上がりの菅。流石に咄嗟の判断はすばやい。「後継者は若手」とか「四国八十八箇所の礼状めぐり再開」などの言葉を小道具にして、遂に不信任案を葬った。稀代のペテン師。不信任案可決を信じていた「産経」は書いた。「究極 死んだふり続投」

<【首相辞意】

鳩山氏「首相はペテン師」「不信任案賛成すれば良かった」

鳩山由紀夫前首相は3日午前、菅直人首相が早期退陣を否定していることについて「きちっと約束したことは守るのはあたり前だ。それができなかったらペテン師だ」と述べ、激しく非難した。都内の自宅前で記者団に語った。

鳩山氏は2日昼の民主党代議士会直前に首相と面会した内容に関し「復興基本法案の成立と平成23年度第2次補正予算案の編成のめどがたったら(首相の座から)お引き取りいただくということに、首相は『結構だ』と言った」と強調した。

その上で「不信任案(採決の)直前には辞めると言い、否決されたら辞めないと言う。こんなペテン師まがいのことを首相がやってはいけない」と指摘。「人間としての基本にもとる行為をしようとしているのなら、即刻党の規則の中で首相に辞めていただくように導いていかなければならない」と述べ、両院議員総会を開いて首相に早期退陣を求める考えを
示した。

不信任案に賛成した松木謙公前農水政務官ら2人への除籍(除名)処分については「冗談じゃない」と語り、処分は不要との見解を示した。

自身の対応についても「不信任案が否決されたら突然言葉をひっくり返して『そんなことを言った覚えはない』という人間だとすれば、不信任案に賛成すべきだった」と述べた。一方で「首相が詐欺師まがいのことをやるとは思わない。今でも信じている」とも語った。>
(産経ニュース 2011.6.3 10:46)


<民主分裂回避へ動いた創業者「鳩菅」

内閣不信任決議案の採決を巡り、民主党分裂の危機回避に動いたのは党の創業者である「鳩菅」だった。

鳩山前首相は2日昼、首相官邸に菅首相をたずね、約30分間会談した。鳩山氏は「身を捨てていただきたい。職を辞していただきたい」と首相に決断を促した。

鳩山氏は東京電力福島第一原子力発電所事故への対応などで、首相への不満を強め、5月31日夜の首相公邸での会談で自発的な退陣を迫っていた。だが、首相に拒否されたことで、1日には不信任案への賛成を表明するにいたった。

だが、不信任案への同調は党分裂につながる。結党以来、鳩山氏は首相と二人三脚で党勢拡大に努め、2009年には悲願の政権交代を実現させた。

不信任案への賛成を一度は決意した鳩山氏だったが、一夜明けて党の崩壊を恐れる気持ちが強まったようだ。

1年前のこの日、鳩山氏が党両院議員総会で、首相辞任を表明した。

「私と鳩山さんだと、民主党の古い話になってしまう。(2日の会談は)半分くらいは思い出話だった」

首相は、2日の代議士会のあいさつをこう締めくくり深く頭を下げた。

>読売新聞 6月2日(木)11時46分配信

辞意を表明したペテン師とオバマは日米首脳会談に応じるだろうか。

2011年06月01日

◆ドイツ与党、原発廃棄で合意

渡部 亮次郎

<【ベルリン=三好範英】ドイツ・メルケル政権与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)、自由民主党(FDP)の幹部協議で30日、遅くとも2022年末までにドイツ国内17基の全原発を廃棄するとの方針が合意された。

DPA通信が伝えた。協議はベルリンの首相府で行われた。

原則として21年までに稼働を停止するが、代替エネルギーへの転換が遅れて供給不足が生じる場合は、3基に限って22年まで稼働を継続する。

福島第一原発事故後、17基のうち暫定的に停止した7基と、それ以前から事故で停止していた1基の計8基についてはこのまま停止する。

メルケル政権は6月6日にこの合意内容を盛りこんだ原子力法の改正案を閣議決定し、17日までに連邦議会、連邦参議院ともに通過させたい意向だ。>読売新聞 5月30日(月)11時31分配信

私は原発にもドイツにも詳しくはない。ただ中部電力の浜岡原発の安全PRに狩り出されたことから、原発への関心は深い。昔、外務省で大臣秘書官をしていた当時はパリでのIAEAの会議にも大臣随行で出席したことがある程度。

今回の東電・福島原発の大事故は、原発反対を唱えるドイツの緑の党を勢いづかせ、メルケル政権を苦境に追い込んだ。苦慮の決断が「遅くとも2022年末までにドイツ国内17基の全原発を廃棄する」との3党合意である。

ドイツにおける原発問題の国内対立の経緯は古い。200年に遡る。東京工業大学教授の新井栄一さんがブログで明らかにしている。

「ドイツ 原子力発電を放棄」2000年7月17日発行

<2000年6月15日付けのフランスの新聞Le Mondeが第一面に掲載した上記表題の記事に付いていた漫画がある。右半分はドイツの原子力発電所が廃止され、ドイツの建物の前でミドリっぽい人(胸に花のアプリケ、ひげ、の毛が伸びている)が反原子力運動の勝利を喜んでいる。

その建物への電力は左半分に示されているフランスの原子力発電所から送られている。冷水塔にはEDF(フランス電力 )Exportation(輸出)と書かれている。

その前では放射能マークのついた作業服を着たフランス人技師が「商売繁盛」を喜んでいる。その横には放射性廃棄物のドラム缶と機嫌の良くなさそうなねずみが一匹。

このマンガはドイツ政府の今回の決定により、将来の電力需給関係はこうなるだろうと皮肉を交えて示している。スイスも多分原子力降りを決める可能性があり、そうなるとその電力需給関係は結局このマンガと同じことになるであろう。


 1.なぜドイツは原子力の廃止を決めたか?

1998年10月の連邦下院(Bundestag)選挙でGerhart Schroeder率いるSPD(ドイツ社会民主党)は過半数に至らない第一党の座を得た。連立政権樹立のためには相手としてみどりの党(Buendnis90/Gruene)を選ばざるを得なかった。この連立交渉の条件の1つは原子力発電から降りることであった。

 2. 過去のSPD政権の時代にも原子力開発は進められていた

戦後のドイツの原子力技術開発の歴史には日本のそれと比較できるところが多々ある。1955年頃から2つの大規模原子力総合研究所と2つの小規模特定分野研究所を発足させた。

1966年から1982年の間にはSPDが関与した連立政権が続いた。1969-74年にはWilly Brandt(ノーベル平和賞受賞者)が、1974-1982年にはHelmutSchmidtが宰相になっている。

1982年以降、保守党CDU/CSUと自由党FDPの連立政権になった。この間、1979年3月28日に米国Three Mile IslandでのPWR型発電用原子炉の炉心溶融事故。

1986年4月21日には旧ソ連,現Ukraine Tchernobylでの発電用原子炉の暴走・爆発事故、ヨーロッパ中の大規模汚染の拡大事故が起きている。1990年代に入ってから本格的反原子力の雰囲気が同国内に強くなっ
た。

 3. 1990年代後半に入ってからドイツの原子力発電は事業として正常な状態になかった

使用済み核燃料棒は国際規格の輸送容器に格納されて鉄道でフランスLaHagueまたは陸路・海路を経てイギリスSellafieldへ再処理のため送られた。

再処理後 核燃料物質(Pu, U)と核分裂生成物(Sr-90, Cs-137などの高放射性物質)がドイツに同様な経路で返送され、Ahausに一時貯蔵所されている。Ahausには中間貯蔵所があるが、最終貯蔵所の立地の見通しはない。

1990年代後半には鉄道輸送はみどりの党の運動員らの激しい妨害を受けた。この反対運動はだんだん激しさを増し、1998年前半には運動員数が40000人に達し、列車の警備に出動する警官の数も40000人にのぼるという状態になった。

ドイツの毎日のTV、新聞の報道は線路脇で殴りあう警官隊と運動員を映し出していた。つまりこの時点ですでにドイツの原子力発電は法で定める事業として正常な状態をなしていなかった。

 4. 使用済み核燃料輸送容器の汚染スキャンダル

1998年5月には使用済み核燃料輸送容器の表面に基準値を超える放射性汚染があること、電力会社はそれを以前から分かっていながら隠していたことが報道された。

市民はもとより、この大スキャンダルに最も憤慨したのは警官の労組であった。法を守るため体を張って守っていた列車の車両にまで放射性汚染があったというのでは警官は救われない。

 5. 原子力降りの具体的な形

上記のような反原子力発電運動の経緯を見ると、今回の(1998)「原子力降り ,Atomausstieg」が国民からも、発電事業を含むドイツ工業界からも「しかたない」と受け入れられたことは理解できる。

その条件は:

 1)どの動力用原子炉も運転開始後32年を経た時点で原則閉鎖、

 2)政府は原子力発電会社に補償金を払わない、 

 3)最初の閉鎖は2002年12月に、最後の閉鎖は2021年になる予定、
 
 4)2005年7月以降は使用済み核燃料の外国での再処理の禁止、

 5)それまでは妨害せず。2000年に入ってからドイツの総合電機メーカー

であるSiemens社はその原子力部門を切り離し、フランスの原子力メーカーとの合弁にもっていった。

 6. 1950年以来の原子力政策

1960年頃すでに、当時の原子核物理学の知識で原子力発電からの電力量と放射性物質の発生量、その半減期の関係は正確に計算できる状況にあった。しかし、筆者を含めた原子力科学者たちは「夢のエネルギー 原子力」に酔いしれていた。

発生する放射性廃棄物の処理・処分の方法が確立していないこと、最終処分の立地の問題について国民に十分知らせ、原子力を選ばないという選択肢を考えなかった。

ちなみに、オーストリア、デンマーク、イタリア、フィリピンなどは原子力を採用しなかった。

筆者が1978-79年 研究のためドイツに滞在した時、ミドリっぽい知人からこの点に関して受けた警告を今も忘れることができない。

当時 みどりの党の活動は勢力の小さな草の根運動であった。一方、原子力開発には当時すでに1950-60年代のような勢いはなかった。しかし、あの頃みどりの党の言うことに耳を傾けた人はいなかった。

 7. 原子力政策の2つの間違い

第一の間違いは1950-60年代に科学者も政治家も放射性廃棄物の1000年を越える最終保管の技術的見通しと、保管の立地に関する国民の合意なしに原子力エネルギー政策を始めてしまったことである。

原子力以外の非化石エネルギー源(太陽光、風力など)の技術開発には第二義的な力しか投入されて来なかった。

第二の間違いはこれだけ大きくなった(ドイツでも日本でも総発電量の1/3)エネルギー源である原子力から降りることを代替エネルギー源の見通しなしに政治的に決定したことである。

この決定においても国民との本当の合意はなされていないのである。つまり、原子力を2021年までに全廃しても、これに代わる非化石エネルギー源の開発見通しは明らかではない。

二酸化炭素の排出規制のための1997年12月の京都会議の合意(これに最も熱心だったのはドイツが率いるEUであった)を進めた場合、国民は今までのような安いエネルギーに基づく便利で贅沢な生活は続けられかも知れないということへの合意である。

このことについてはっきりした認識はまだないように見うけられる。従って、冒頭のフランスの新聞の政治マンガのようなことになる可能性が大きい。

ライン(Rhein)河をはさんだドイツとフランス。このマンガの通りになったら、原子力から降りるも、降りないも同じことである。つまり、今回のドイツ政府の決定は政治の「お笑い劇」にしかならない。

 8. 我々はこれから何を学ぶか?

結論から言うと沢山学ばなければならない。なぜなら、我が国のこの問題に関する状況はドイツのそれに比べて、良くない。例えば、使用済み核燃料輸送容器のデーター改ざん、水増し,ねつ造(読売, 1998年10月23日)という事件はドイツに少し遅れて1998年10月に発覚している。

日本もこの先30年―50年の内に太陽エネルギーの恵みで工業生産を始めあらゆる経済・社会活動を営むことのできるシステムを構築しなければならない。これができれば、原子力などないに越したことはない。

現在、我が国の大学ではこの方向に向かう研究がかなり行われている。しかし、これらはまだ理学・工学の段階にあり、実用化、工業化、商品化に至るにはまだかなりの時間がかかる。希望と暖かい目でこれらの研究者を見てやってほしい。

(1986年ー 1988年 東京工業大学 / 原子炉工学研究所 / 教授 )
http://www2.gol.com/users/araie1ch/3_p1.htm


2011年05月30日

◆総理になれるか谷垣総裁

渡部 亮次郎

<本稿は、5月30日刊「頂門の一針」2276号に掲載されました>

谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945(昭和20)年3月7日 ― )自由民主党所属の衆議院議員(10期)。自由民主党総裁(第24代)。

財務大臣(第3・4・5代)、国土交通大臣(第9代)、自由民主党政調会長(第50代)、国家公安委員会委員長(第69代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、科学技術庁長官(第56代)、産業再生機構担当大臣、きょうと青年政治大学校学長(第3代)を歴任。

また、旧加藤派を継承し谷垣派会長を務め、古賀派では代表世話人を務める。

文部大臣(第100代)を務めた谷垣専一の長男。影佐禎昭元陸軍中将は母方の祖父。名前の禎一は祖父から一文字を貰ったものだろう。

週刊文春(2005年12月8日号)で1988(昭和63)年訪中時に女性を買春し、
中国公安当局に尋問されたと報じられた。谷垣は名誉を棄損されたとし
て、謝罪広告の掲載と2200万円の損害賠償を求めて週刊文春の発行元で
ある文藝春秋側を提訴。

1審(東京地裁)は名誉棄損の成立を認めて文藝春秋側に330万円の支払
いを命じ]、2審(東京高裁)では1審判決を支持した上で賠償額を220万
円に減額。その後最高裁は文藝春秋側の上告を棄却し、2審判決が確定し
た。

身長176cm、体重80kg、血液型O。

尊敬する歴史上の政治家は聖徳太子。影響を受けた政治家は宮澤喜一。
初出馬の選挙戦を取材した辛口の政治記者は人物として合格点をつける。
司法試験合格に東大卒業後7年かかった。

京都府福知山市出身。麻布中学校・高等学校を経て、東京大学法学部を
卒業。短期間の弁護士生活を経て、父の死去に伴う補選で父の地盤を引
き継ぎ、1983(昭和58)年旧京都2区補欠選挙に自民党より出馬し初当選、
選挙区に20日間泊り込んで支援した白川勝彦や亡父も属した宏池会に所
属。

この補選では前尾繁三郎の死去にともない、同じ2区から野中広務も当選
しており、選挙の実務を担当したのが当時総務局長だった小沢一郎であ
る。

1993(平成5)年の非自民連立政権では野党自民党の国会対策の中心を担
い、1995年(平成7年)に衆院議院運営委員長。1997(平成9)年、第2次
橋本内閣改造内閣の科学技術庁長官として初入閣。総理府の原子力委員
会にて委員長も兼任した。

1998(平成10)年の金融危機にあって、小渕恵三総理大臣は宮澤喜一に
大蔵大臣就任を要請。宮澤が就任条件の一つとして谷垣の政務次官就任
をあげたため、閣僚経験者でありながら政務次官となった。

続く「金融国会」において金融二法の成立に尽力、引続き国務大臣・金
融再生委員会委員長に抜擢されたことで、経済政策のエキスパートとし
ての評価が高まった。

続く森内閣では、2000(平成12)年の加藤の乱に際して加藤紘一と行動
を共にして挫折。この際、山崎拓と二人だけで本会議に不信任票を投じ
に行こうとする加藤にすがりつき、

「加藤先生、大将なんだから! 一人で突撃なんてダメですよ! 加藤先
生が突撃するときは俺たちだってついて行くんだから!大将は自重しな
きゃダメですよ!」と涙ながらに慰留するシーンが話題となった。

2009(平成21)年9月28日、有効投票総数499票中300票を獲得し、第24代
自由民主党総裁に選出された。自民党総裁就任が内閣総理大臣就任に直
接繋がらなかったのは河野洋平、橋本龍太郎に次いで3人目である。

ただし、河野洋平は森喜朗の計らいで衆議院議長に就任し、橋本龍太郎
は連立を組んでいた日本社会党の村山富市内閣の退陣を受け、結果とし
て総理大臣に後から就任した。

現時点での総理未経験総裁は河野と合わせて2人目であり、「三権の長未
経験総裁」は現時点で谷垣のみ、「弁護士経験者たる自民党総裁」は初
代・鳩山一郎以来2人目。

次の総選挙で第一党になれば谷垣が総理になるが、この選挙で民主党の
敗退は確実視されるも、自民党が大勝する保障は未だ無い。

用意した菅内閣不信任案に与党民主党から造反票が81票出れば解散の可
能性ありだが、いかな小沢氏もそこはまだ読めないようだ。しかも自民
党内の人気はいまひとつ。優柔不断な性格がその理由。

1993年、小沢氏は野党の出した不信任決議案に造反して賛成票を投じ、
解散総選挙の結果、1993年8月9日宮澤を総辞職に持ち込んだ経験があ
る。

今度、小沢氏は与党でいながら菅内閣を総辞職に追い込もうとしている
わけだが、谷垣氏は小沢氏との地下水脈を保持しているだろうか。弁護
士上がりの合理的頭脳が政局的な冴えを見せるかどうか問われている。

22009年10月、政権奪還を意識する観点から自民党「影の内閣」の設置に
意欲を見せていたが、党内から「『影の大臣』と『大臣』の名がつけば
ポスト争いが始まる」との異論が出たため、構想は頓挫した。

10月19日には、秋季例大祭が行われている靖国神社へ参拝した。自由民
主党総裁の靖国神社参拝は2006(平成18)年8月15日(終戦の日)の小泉
純一郎内閣総理大臣(当時)以来3年2ヶ月ぶりの参拝だった。

谷垣は『産経新聞』の取材を受け、2006(平成18)年の自由民主党総裁
選で「首相に就任した場合は参拝を自粛する」と表明していた ことにつ
いて、「当時の国際関係を考慮し、総理はあの時点では差し控えるべき
だという意味です」と述べ、

「野党になったから参拝したのか?」との質問には「野党であるという
ことを斟酌してというよりも、戦争で亡くなられた英霊をお祀りする場
は必要だと思う」と答えている。

靖国神社に代わる国立追悼施設の建設については、総裁選時に「他の施
設を造るのは賛成できない」と述べており、この時も記者団に対し、
「戦争に従軍した方々は『戦死したら靖国神社に祭られる』という思い
を持って亡くなった方が大勢いるので、その重みはある」と述べ、慎重
な構えを見せた。

2009(平成21)年11月15日、東京都昭島市内でサイクリング中、逆走し
て来た別の自転車と接触し負傷、左目の周囲を数針縫う治療を受けた。
自宅で静養後、11月24日に活動を再開した。

11月26日、民主党や公明党などが成立を目指す外国人参政権について
「反対だ」と明言した。また、「党全体を賛成の方向でまとめていくつ
もりは全くない」とも語り、自民党としても外国人参政権に賛成をしな
いという意向を示した。

天皇特例会見問題では、民主党政権を批判。小沢一郎民主党幹事長の
“国事行為発言”についても批判し、「天皇の政治利用」とする認識を
示した。また、天皇の訪韓にも慎重な姿勢を示した。

政界でも指折りの自転車愛好者で、自転車活用推進議員連盟と日本サイ
クリング協会の会長を務め、総裁就任後は選挙応援や地方遊説にも自転
車を活用している。

自転車関連でのメディア露出も多く、例えばムック本『イエローバイシ
クル では、111.28kmの距離(いわゆる「ロングライド」の距離である)
を同誌編集長と共に自転車で走りながら語り合うという前代未聞のイン
タビューを受けたり、単行本『自転車会議』には共著者として名を連ね
たりしているほどである。

愛読書は四書五経など中国の古典や宋代の詩人・蘇東坡の漢詩などで、
しばしば中国の故事を引用する。また読書を巡るインタビューでは、竹
越与三郎の『二千五百年史』、田口卯吉の『日本開化小史』、北畠親房
『神皇正統記』、新井白石『読史余論』といった史論への嗜好を語って
いる。

ワイン愛好家で名誉ソムリエの称号を持つ。もっともかつての宏池会の
同僚代議士であった森田一によれば、ワインは蘊蓄派というよりガブ呑
み派の酒豪だという。

読売ジャイアンツの熱烈なファンであり、東京ドームで野球観戦する際
にはプロ野球選手のプレーに批評を加えるほど[36]。京都府遺族会会長
を務める。(「ウィキペディア」)2022・5・29


◆与党倒閣運動の難しさ

渡部 亮次郎

政権党による総理辞任要求は民主党が始まりではない。自民党反主流による「三木降し」があった。現職総理を辞めさせる事は、極めて難しいのである。小沢氏もその実技は経験していない。宮澤政権を不信任案賛成で斃した経験はある。

ロッキード事件発覚後、三木武夫首相は「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」との態度を表明。

予算委員長の荒舩清十郎を後押しして1976年2月16日、事件関係者として小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅社長の檜山広等の証人喚問と、病床にあった児玉誉士夫を病院で尋問を実現、その全容を明らかにした。

しかし、元々左派にあったこの三木の姿勢に対し、自民党内部の反発と怨念をかもし出しはじめた。

こうした中、三木政権生みの親である椎名悦三郎は、「はしゃぎすぎ」と発言し、三木退陣工作を勧める。これが、いわゆる「第一次三木おろし」である。

しかし、この時はマスコミ、世論が「ロッキード隠し」と批判を強め、これを受け一旦は「第一次三木おろし」が収まった。

しかし1976年7月27日の田中角栄の逮捕で三木おろしの動きが活発化していく。

田中角栄が8月17日に保釈されるのを待っていたかのように、8月19日には反主流6派(田中派・大平派・福田派・船田派・水田派・椎名派)が中心となって自民党議員277人で「挙党体制確立協議会」(挙党協)を結成。代表世話人に船田中元衆議院議長が就任。

小沢氏はこの時代、まだ自民党におり、田中派に所属していたが未だ幹部ではなかったから、修羅場に出る事は無かった。

挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。

ただし挙党協は反三木では一致していたものの、三木退陣後の次期首相擁立について福田赳夫か大平正芳の二人のどちらかに絞りきれていない脆さが存在していた。

三木は「ロッキード事件解明」という世論の支持を背景に衆議院解散とこれに反対するであろう閣僚の罷免をちらつかせて対抗を図る。

臨時国会召集を決める1976年9月10日の閣議で三木は会期冒頭での衆議院解散を諮ったが、挙党協に参加している15閣僚は解散署名に拒否する姿勢を示した。

三木は閣僚を罷免してまで解散権を行使することはなく、9月15日に内閣改造と自民党役員人事の刷新を行い、派閥の領袖である福田・大平以外の13閣僚を交代させた。

挙党協も三木の抵抗の攻め手に喘ぐだけだった。かくて、最終的に三木は挙党協の攻勢をしのぎきったが、臨時国会の閉幕と共に(密約の成立により)約挙党協から次期総理・総裁候補に推挙された福田が閣内から去る。

12月に行われた日本国憲法下、初の任期満了による総選挙では、挙党協議員は自民党公認を受けながら、党本部とは別に選対本部を設置し、分裂選挙となった。

その結果、自民党は結党以来初めて過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、定員が20増えていたにもかかわらず改選前8議席減と惨敗といってよい結果だった)。三木内閣は責任を取って退陣した。

任期満了に伴う総選挙での敗北を理由の退陣だから、三木降しは形式的には成功したとは言えない。逆に言えば「辞めたくない首相」は、それだけ強い。海千山千の小沢氏は、その事は良く承知しているだろう。

三木は元々、1974年(昭和49年)12月、田中総理の内閣総辞職で行われた後継総理選出において、椎名悦三郎副総裁の指名裁定で総裁に就任(椎名裁定)したものだった。

この裁定に三木自身が「青天の霹靂」とコメントしたほど意外性をもって受け止められた。ただし三木には椎名裁定以前に椎名から事前に指名される旨が伝えられている。

これについては、金権政治に対する批判を一時的にかわすためであると見られたことと、後述する三木の政治的な立ち位置をもじって「左のワンポイントリリーフ」とも評された。

三木政権は政治浄化に着手し、公職選挙法や政治資金規正法を改正し政治献金の額に上限を設けさせた(三木は当初企業献金の全廃を意図していたが党内の猛反発に遭い断念した。これが三木おろしの遠因になったという説もある)。また防衛費1%枠を閣議決定した。
「ウィキペディア」2011・5・28


2011年05月29日

◆カギの隠れたニュース

渡部 亮次郎

東北の県境の町では子供2人殺し事件で町の評判はガタ落ち。そこで風評だから新聞やテレビは表には出さないが、地元の人たちは初めから「商売」の邪魔だから娘も殺したべ、と言い合っていた。

んだ、警察も客だったんじゃねが。んだがら事件を事故にして封印しようとしたのだべ。なんたて、玄関におどごの靴あったら、家さ入って来るな、といわれていて、夜でも外で待っている幼い娘。気の毒でみていられねがったな。

「商売」の事件のキーワード(かぎ)は「○○」。「次々に男をくわえ込んで自宅に連れ込むんだもの、娘は邪魔になる。まして別れた亭主とのこどもだもの、可愛くないときだってあるべさ」となれば殺人の動機は露呈していた。

だが、人々は見て見ぬふり。集落同士ならいくらでも喋るが、報道陣など外部の人からは尋ねられても絶対語らない。都会での捜査とは違った壁に阻まれるわけだ。住んで見なければ理解できない。

そこで記者は一種の「色めがね」を被せて考える。この場合はキーワード。直訳すれば「鍵となる言葉」だ。この事件の場合は、犯人が実は○○をしていたのではないかとの疑いで言動を洗いなおすことである。

関西で若い男が小学校に刃物を持って侵入し、何人もの児童を殺傷する事件があった。東京の感覚では、精神異常を疑るが、関西ではいわれなき「○○」をうたがう。だが口は絶対つぐむ。ニュースには絶対「○○」は出ないまま犯人は望んで刑死を早めた。○○を知らない人には未だに不可解なニュースであった。

金大中事件の政治決着を田中政権がなぜ急いだか。これは証拠はないが大統領の犯罪に違いない。だとすれば現金で決着を図るだろうと大阪で見ていたら、その通りになった。あれこれ法律や正義や面子を持ち出して騒ぐと、韓国の政権そのものが危態に瀕する。

そこでこの事件のキーワードは「現ナマ」。日本で生まれて財を成し、朴政権の財布と言われていた在日韓国人が用立てたのではないかといわれている。

現ナマの紙袋は2つあり「一つは奥さんに」といったら総理は「そうだ、1つは外務大臣にだな」と答えた。これを知っているものといないものとでは、解説記事に雲泥の差が出る。

取材に当たって、こういうメガネを何枚も用意して政治家を観測しろと教えてくれたのは若い頃の島桂次記者(のちにNHK会長・故人)である。「角栄が福田に勝つものは学識ではない。それは現ナマと人情だけだ。そうやって個々の政治家を洗ってみろ。結論はすぐ出る」。確かにその通りだった。

あの時、福田康夫は安倍の対立候補足りうるか。識見が邪魔して立てない。康夫さんと私は福田内閣で大臣秘書官同士で働いた仲だから、他人よりは康夫さんを分かる。彼は元から立つ気は無いのだと判断できた。

この際のキーワードは「面子」である。なるほど中国、韓国との関係で靖国参拝不要の主張はインテリの自分としてはいまさら翻すことはできない。しかし、だからと言って反安倍勢力に乗り、森派を割って出ても勝ち目があるか。

ない。だから出ない。初めから決まっていた話だ。だから「私が出ると言いましたか」との科白も予測できたのである。マスコミは証拠もなしに「出るだろう」と決め、終いには外国に行くことが決意の証拠などとワケの分らぬことを流して、読者、視聴者をだました。

福田康夫の性癖、置かれた立場、旧田中派への支援要請の屈辱等々を考慮すれば、立候補の可能性は初めからゼロである。しかも勝てない勝負は絶対しないという知識人としての含羞がある。ムードや煽てに乗るようなバンカラでもない。立つといいましたかは決まっていたのだ。

先輩は「政界一寸先は闇」という嘗ての副総裁川島正次郎の言葉を引いて諌めてくださる。その通りだが、だからと言ってどこかのTV局のように「不透明」を連発していたのでは、オアシを取れない。


2011年05月26日

◆残った大福密約の現場

渡部 亮次郎

大福密約(だいふくみつやく)とは自由民主党の有力議員であった大平正芳、福田赳夫の間の密約のことである。

昭和51(1976)年の第34回衆議院議員総選挙で自民党が敗北し、三木武夫首相が辞意を表明。そこで、次期総理総裁を誰にするかは福田派の福
田赳夫か田中派と協力関係にある大平派の大平正芳に絞られた。

福田赳夫と大平正芳は品川のホテルで福田派から園田直、大平派から鈴木善幸が立会いの下、大平は福田を総理総裁推挙に協力すること。福田は大平を幹事長にして党務を委ねる事。総裁任期を3年から2年にする。

とする覚書を締結。大角両派と福田派が協力関係を結んで、福田首相・大平幹事長体制が確立し、福田内閣が発足した。(ウィキ)

総理総裁ポストに意欲を持つ大平が福田に総理総裁ポストを譲って総裁任期を3年から2年にしたことは、福田は総裁を1期2年のみで再選せず2年
後に大平へ政権を禅譲することを了承したものと解釈された。

この密約の現場とされた「品川のホテル」が政界では余り利用者の無かった「ホテルパシフィック東京(ホテルパシフィックとうきょう)」だ
った。

京浜急行電鉄が所有し、グループ会社のホテル京急が運営していた大規模シティホテルである。

2010年9月30日に営業終了し、建物は半年程閉鎖されたため「大福密約の現場が消えた」と思い込んでいたが違った。

新たに別のグループ会社が運営する宿泊特化型ホテル「京急EXイン」や、外部企業による結婚式場、レストラン、ショップ等のテナントを入居さ
せ、複合商業施設「SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)」として2011年4月29日に再オープンしたのだ。

「大福密約」の頃、私は飛ばされた大阪(NHK)のニュースデスク(報道部副部長)から東京に戻ってはいたが、所属したのは国際局だったので
国内政治の取材には立ち入っていなかった。

しかし、後に、その秘書官となる園田直からはかなり立ち入った情報を聞かされていた。福田氏は総理・総裁を三月でも半年でもやりたいという。
大平の背後には反福田で凝り固まっている田中角栄が控えている。だから大平も譲る気はない。

こうした情勢では、数の点では決定的に不利なのは福田だ。従って何らかの条件を出して大平の譲歩を引き出す以外の手はない。園田は福田派
のナンバー2。ここで福田を総理にしなければ立場がなくなるし、将来も消える。

そこで園田は三木降しで肝胆愛照らす仲になった大平派大幹部の鈴木善幸を引き込む一方、田中とも通ずる知恵者保利 茂を巻き込んだ。かく
てパシフィック・ホテルでの会談となるわけだが、事前の話し合いで「2年」を条件に「福田に先をやらせる」ことが決っていた。

福田赳夫と大平正芳は品川のホテルで福田派から園田直、大平派から鈴木善幸が立会いの下、鈴木が派閥(宏池会)の便箋に万年筆で
文章を書いた。

大平は福田を総理総裁推挙に協力すること。
福田は大平を幹事長にして党務を委ねる事。
総裁任期を3年から2年にする。

という意味の文書の4人が署名した。

このとき4人は立会人としての署名を保利にも求めたが保利は、言葉を濁して署名しなかった。

大角両派と福田派が協力関係を結んで、福田首相・大平幹事長体制が確立し、福田内閣が発足した。総理総裁ポストに意欲を持つ大平が福田に
総理総裁ポストを譲って総裁任期を3年から2年にしたことは、福田は総裁を1期2年のみで再選せず2年後に大平へ政権を禅譲することを了承した
ものと解釈された。

旧佐藤派の大番頭保利茂が取りまとめ役としてセットしたもので「大蔵省の先輩である福田に大平が譲るよう」調整されたわけだった。

この席で狂喜した福田は、「2年後には政権を福田から大平へ譲渡する」旨の一文を盛り込む事を申し出た。大平はここで福田の言を信ずるので
それにはおよばないとしたが、結果的に福田はしたたかで、大平は政治家として甘かった。

それは熱心なキリスト教信者の大平と福田の人間性の違いを顕著にあらわしたものでもあった。

密約から2年後の1978年、福田は大平へ政権禅譲を拒否し、総裁選に出馬したため、大福提携が崩壊した。福田と大平は総裁選で総裁ポストを争
うも、福田は大角両派に切り崩され敗北し、大平が総理総裁となった。

この時は保利は病床で大平に自分の力不足で申し訳ないと洩らし調整を放棄し、園田直は1979年の四十日抗争時に福田派からただ一人大平に投
票した。そのため、園田は福田派から「除名」された。

ところで福田内閣が愈々出来るとなった時、私は園田から相談を受けた。福田からは建設か通産大臣を打診されていたそうだが、私は断乎として
官房長官に坐るべきだと主張した。大平政権へのバトンタッチを円滑に運ぶ為にも必要と考えたからである。

しかし、福田はなかなか承知しない。察するところ既に親分の岸信介から彼の女婿たる安倍晋太郎を官房長官にといわれ、福田もまんざら反対
ではなかったようだった。

園田は奇策を用いた。官房副長官として塩川正十郎をつれて官房長官室を占拠してしまったのである。これには流石の福田も呆れて官房長官に
指名せざるを得なかった。

だが、更に裏話をすれば、安倍を官房長官に据えろという岸の要求は執拗を究めていたらしい。1年後の内閣改造で園田は追放を喰らった。た
った1人、閣僚として留任はしたものの、ポストは外務に変わっていた。

福田にすれば、破格の待遇で処した心算。世間もそう受け取った。しかし園田は怒った。密約を反故にする意向を感じたからである。

ただし、怒りは隠して懸案になっていた日中平和友好条約の締結に邁進した。

「2年」の期限が迫るとともに福田の「密約反古」が歴然となったが、その動きに園田は決して乗らなかった。むしろ田中との連絡を綿密にす
るなど、大平政権実現に裏で走るようになった。

後に大平は心筋梗塞で急死するが、仮に福田が密約を反故にしていなければ福田が後任として再登場するところだった。

しかし園田はもはや福田派から除名されていて「義理」はない。大平弔問の足で目白の田中邸を訪問、「後任は鈴木善幸」を決めてしまった。
2011 ・5・24


2011年05月24日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎

日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラが大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死んだ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもたらした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))62歳で薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろう。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓がどのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあと、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切っても切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は 内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。

膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないとか、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公はBanting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリンを発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのはさらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用には耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患して
いる。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響している。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられている。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くなかった。

つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食とは無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜産業勃興と発展により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であったのだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べていたものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」


2011年05月22日

◆糖尿闘病体験と終末期

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。75歳で今生きているのはインシュリン注射のお蔭。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症していた。

また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた

患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られて病院が済生会中央病院。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから23年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて手術を受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった)。

(その友人も糖尿病。全くほったらかしをしたため2010年、60を待たずに脳梗塞で死んだ。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。長嶋さんは3時間を過ぎていたため、これを使えず、後遺症が残った。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。2011・5・18