2011年05月18日

◆鮒は味噌煮に限る

渡部 亮次郎

亡くなった母は生前、私が帰省すると必ずガスこん炉に小さな鍋を載せ、予ねて用意してあった、八郎潟産の鮒に豆腐と葱を添え、必ず味噌で煮て食べさせた。

その前に私が焼酎を呑もうとすると、父が「うちはそれほどの貧乏人ではない」と日本酒を出してきた。焼酎は貧乏人の酒との観念が抜けないのである。自分は一滴も飲まないくせに。

鮒を味噌で煮るのは、泥臭い臭みを消す為である。醤油では消えない。ただ、母の場合は、別の理由もあった。私は幼少時、腎臓が弱くて医者から塩分の摂取を極端に制限されて過ごした。

集合写真で観ると、小学3年までは小さくて「虚弱児童」といわれてもしかたが無い。ところが、3年のとき、禁じられているはずの味噌汁を勝手に飲んでしまった。

父母は随分心配したそうだが、不思議なことに、それを境にぐんぐん元気に成り、運動会の徒競走では常に1着。リレーの選手にも選抜されるようになった。「亮次郎には味噌」が母の「信念」になった。多分、私の前に生まれた琢次郎が夭折。そのピンチヒッターたる亮次郎も病弱とあって多分、心配が絶えなかった。

それが味噌汁で丈夫になった。だから「味噌信仰」になり、私に関する限り、殆どの料理は味噌が味付けの主体であった。その所為で後期高齢者までに生き延び、98という母の寿命に迫りたいという野望を抱くに至っている。

さて鮒(フナ)である。鮒は、人間に触れやすい環境に生息していることから、身近な魚として人々に親しまれてきた。例えば、日本社会では多くの人が知っている文部省唱歌『ふるさと』(高野辰之作詞・岡野貞一作曲)には、「小鮒(こぶな)釣りしかの川」という一節があり、郷里のイメージのひとつとして歌われている。

私は子供のころから釣りが下手。しかし、おかずは欲しいから、旧八郎潟に注ぐ河川に竿の先に着けた小さな網をいれて掬うと大きな鮒が面白いようにとれた。

調理方法は、塩焼きや煮付け、てんぷら、甘露煮など。小さいフナを竹串でさし、タレをつけて焼くすずめ焼きなどもある。また、小鮒を素焼き(白焼き)にしてから煮るとよいダシが出るという。

香川県では、酢漬けにしたフナの切り身を野菜と酢味噌で和えた「てっぱい」という料理もある。

だが有棘顎口虫の中間宿主となるため、生食はすべきではない。だから鮒で育った私は生魚の味を知らず、海の魚の生の味を知ったのは60を過ぎてからだった。

中国の毛沢東は禁じられていたにも拘らず、江青夫人の奨めで鮒など淡水魚を生で食べるのが好きだったという。江青(こう せい1914年3月 -1991年5月14日)は、中華人民共和国指導者の毛沢東の4番目の夫人で政治指導者、女優。山東省出身。文化大革命を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。

禁じられているものを、亭主に敢えて食わせるとは、早く死なせようとしていたのではあるまいか。

フナ(鮒)は、コイ目コイ科コイ亜科フナ属(Carassius)に分類される魚の総称。ユーラシア大陸において馴染み深い淡水魚のひとつである。

日本を含むユーラシア大陸に広く分布し、河川、湖沼、ため池、用水路など、水の流れのゆるい淡水域ならたいていの所に生息する。中国の露天で売られているマブナ。中国ではよく食べられる。

フナはアジア地域においてしばしば食用とされる。例えば、日本においては滋賀県の「鮒寿司」や愛知県・岐阜県・三重県の「鮒味噌」、岡山県の「鮒飯」、佐賀県の「鮒の昆布巻き」などのフナの料理が知られて
いる。

かつては身近で重要な蛋白源としてよく食べられていたが、近年では、淡水魚独特の泥臭さが敬遠されたり、フナそのものが水環境の悪化によって減少したりしているため、食べる機会は減っている。

それでもフナは内水面漁業の主要な漁獲魚種である。日本における2004年の総漁獲量は2258tで、養殖を除くとサケ・マス、アユに次ぐ漁獲量だった。

都道府県別に見ると埼玉県(290t)が最も多く、続いて岡山県(266t)、茨城県(251t)、千葉県(184t)、熊本県(180t)、青森県(140t)、岐阜県(118t)、新潟県(117t)、島根県(113t)、滋賀県(112t)の順に多い(水産庁平成16年漁業・養殖業生産統計(概数)による)。

ゲンゴロウブナとその品種改良種であるヘラブナは植物プランクトンを食べるが、他のフナはほとんどが雑食性である。水草、貝類、昆虫類、甲殻類など、さまざまなものを食べる。

産卵期は春で、浅瀬の水辺に集まって水草などに直径1.5mm程度の付着性卵を産みつける。

なお、フナ類はサイアミナーゼというビタミンB1を破壊する酵素を多くもっているために、他の魚類などが多く捕食すると体が曲がるなど異常をきたしやすくなるため、捕食する側からはあまり好まれないらしい。

また、コイとフナの雑種(コイフナ)が発見されていて、釣堀でヘラブナとマブナが混ざっているところは、アイベラという雑種も見つかっている。

姿・形・色だけで種を判別することはできないため、初心者が種類を見分けることは困難である。例えば、日本社会においては、「フナ」と呼ばれる魚は慣例的に細かい種類に呼び分けられている。

しかし、その「種類」がそれぞれ生物学的に別種か、亜種か、同じ種なのかはいまだに確定されていない。なお、俗に言う「マブナ」はゲンゴロウブナと他のフナ類を区別するための総称で、マブナというフナは実在しない。2011・5・4

フナ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2011年05月16日

◆深川は開拓者の苗字

渡部 亮次郎

江東区に引越して来て16年が経った。早いものである。ここに住まうなんて学生の頃は想像もしたいなかった。政治記者になってからも、下町に住む政治家は数えるほどしか居なかったので足を向けた事は1度も無かった。

辰巳芸者の居た深川、と言う名は年寄りから聞かされたことはある。都心の江戸城から見て辰巳の方向の深川の花柳界には気風のいい芸者がいて賑わったものだった、とか。しかし昭和20(1945)年3月10日の米軍による大空襲で消滅したことも。花柳界は復活しないままに終わるだろう。

北海道の深川市の由来は市内を流れる川の名(アイヌ語)=深い川からつけたもので東京の深川とは残念ながら無関係。ここの市長とはあることから交流があったが、彼は事件を起こして引退した。

昔、深川は深川区だった。東隣の城東区と合併して今の江東区となって現在に至る。

江東区の町名

(深川地域) 青海 | 有明 | 石島 | 海辺 | 永代 | 枝川 | 越中島 |
扇橋 | 木場 | 清澄 | 佐賀 | 猿江 | 塩浜 | 潮見 | 東雲 | 白河 | 新
大橋 | 住吉 | 千石 | 千田 | 高橋 | 辰巳 | 東陽 | 常盤 | 富岡 | 豊
洲 | 平野 | 深川 | 福住 | 冬木 | 古石場 | 牡丹 | 三好 | 毛利 | 森
下 | 門前仲町

私の住まいする毛利は下段。最も北部に位置するから錦糸町やスカイツリーに極近い。

(城東地域) 大島 | 亀戸 | 北砂 | 新砂 | 東砂 | 南砂 | 新木場 | 夢の島 | 若洲

深川の由来は、湿地帯であった現・江東地区を開拓していた深川八郎右衛門の姓に由来するといわれる。3代将軍徳川家光の時代から富岡八幡宮の門前町として発達し、明暦の大火ののちに木場が置かれて商業開港地域となり、深川岡場所も設置され花街となる。


江戸の辰巳の方角にあることより、ここの深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ、粋で気風が良いとされた。

もとは下総国葛飾郡の内で、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(現在の江戸川・旧江戸川)より西の地域を武蔵国に編入した際に武蔵国葛飾郡となる。

両国橋が架けられたのちに江戸図にも載せられて江戸に組み込まれるようになり、町地が多く起立して1818年の「旧江戸朱引内図」でも朱引内に含まれている。一方、町地以外の部分は代官所管地の深川本村が置かれた。

横十間川が江戸の境目だったらしいから、5月14日に千代田区から移転してきたコンピュータ会社「ヒューレット パッカード」日本本社は、横十間川の外だから江戸じゃなかった場所だ。

深川にはその昔、材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構えたそうだ。

1702(元禄15)年の大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入った事件では、一行は富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会合を開いたと伝えられる。曲亭馬琴はこの地で生まれ、平賀源内や松尾芭蕉、伊能忠敬なども深川に住んだ。

1878年、郡区町村編成法施行に伴い東京15区の一つとして成立した区域に名称として採用された。この深川区は、現在の江東区のうち上記江戸の町地に該当する地域である。ついで1889年市制町村制施行によって横十間川より西側の地域全てが深川区になる。(横十間川以東は南葛飾郡大島村に編入された)。

これらはいずれも現在の江東区深川よりはるかに広い範囲である。1945年3月10日の東京大空襲ではこの深川区に爆撃初弾が投下され、区内は焦土と化した。戦後1947年に城東区と合併し、現在の江東区となる。

城東区(じょうとうく)とは、かつて東京府東京市(後に東京都)に存在した区。

区名は皇居(江戸城)の東側にあることに由来している。東京市の一部ではあったが完全な行政区ではなく一定の自治が認められていた。東を荒川・旧中川、北を北十間川、西を横十間川、南を東京湾に囲まれた地域であった。

当初は亀戸を中心とした寺社地域や水運関係を除けば農業地域であったが、次第に都心部へ通勤する人々の住宅や水運を利用した工場建設などが行われ、1935年10月1日の統計では人口18.43万人、面積10.18平方キロに達した。

だが、東京大空襲によって区内全域が大きな被害を受け、1947年3月15日には隣の深川区と合併して江東区となった。

1932(昭和7)年10月1日 - 南葛飾郡全域が東京市に編入。亀戸町、大島町、砂町の区域に城東区を設置。

1943(昭和18)年7月1日 - 東京都制が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。

1947(昭和22)年3月15日 - 深川区と合併して江東区を新設

敗戦直後、江東区の人口はたった25,000人に減っていた。いまは47万4925人。うち外国人2万1414人(2011年5月1日現在)。新宿区は韓国人が多いそうだが、江東区の外国人は中国人が多いようだ。街の汚し方で分かる。

深川江戸資料館ができたり、深川めしが東京駅の駅弁のメニューに登場したりで、脚光を浴びるようになった。また、深川不動堂など、深川の地名のつく施設もある。

深川めし。私は食べたことが無い。

アサリのむき身を味噌汁の具にしたものを、茶碗や丼にのせた米飯にかけたものである。 気の短い江戸っ子の漁師が飯と汁物を一緒に食べる為に考案された。

あさりの産地ではポピュラーなものだが、東京の深川が代表格であり、「深川めし」と呼ばれている。なお、近年増え始めた深川めし屋は炊き込みタイプの上品なものとなっている。

アサリは、他の具(長葱・油揚げなど)とともに醤油などで味付けをして煮る。その後、煮汁でご飯を炊き、炊き上がったら具を戻してかきまぜてできあがり。炊き込みご飯ではあるが、アサリそのものをご飯と一緒に炊き込むわけではない。

駅弁として、NRE大増とJR東海パッセンジャーズが「深川めし」という名前のものを発売している。これらはいずれも、炊き込みごはんタイプの深川めしである。2011・5・14
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2011年05月13日

◆矩(のり)を越える参院議長

渡部 亮次郎

西岡武夫参議院議長は、民主党出身ながら、菅改造内閣に対しては参議院議長として是々非々の立場を採る。内閣総理大臣菅直人の外交政策について「作戦、展望を持っていない」と痛烈に批判するなど、閣僚らに対し苦言を呈することも多い。

その西岡議長が超党派野「有志」を糾合、政界に「グループ」を作ってしまった。増税反対で一致」という。最終的な目的はなになのか。数々の「騒動」を起こして今日に至った西岡氏。政界はまだ反応していない。

<西岡武夫参院議長は11日夜、超党派の有志議員による「デフレ脱却国民会議」のメンバー約10人と参院議長公邸で会合を開き、東日本大震災の復興財源確保を理由とした増税に反対することで一致した。

同会議は近くこうした提言をまとめ、菅直人首相に提出する。

会合には民主党の石田勝之衆院財務金融委員長、自民党の中川秀直元幹事長、公明党の遠山清彦国際局長、社民党の阿部知子政審会長、国民新党の亀井亜紀子政調会長らが参加。

出席者によると、西岡氏は同会議の主張に賛意を示すとともに、首相が中部電力に浜岡原発停止を要請したことについて「(首相の)思いつきだ」と批判した。>時事通信 5月12日(木)0時42分配信

西岡氏は長崎から1968(昭和38)年」11月衆院議員に初当選以来一時は田中角栄内閣を批判、河野洋平、田川誠一氏らと脱党、新自由クラブを結成。数年にして復党したものの、数々の「騒動」を繰り返し、落選の憂き目を見た。

それで参院議員として復活したが、自民党からは離脱。小沢一郎氏と付かず離れずの綱渡り。遂に参院議長のポストを握った。

しかし。

<通例では全会一致で決まる議長選挙では西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、江口克彦(みんなの党)が11票、尾辻秀久(自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果で、参議院議長に就任した。

参議院議長として史上初めて記者会見の定例化に踏み切り、「一票の格差」是正等を目指し全党派の代表が参加する会議を新設するなど、参議院の改革に取り組む。

2010年9月の民主党代表選挙に関し、候補者の出馬表明前の8月23日に「菅直人首相が続投を表明すれば、対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。党を去ることも選択肢に入る」と発言し小沢一郎の立候補を牽制す
る。

中立性の求められる議長の職にありながら党派的スタンスを表明した理由として「日本の政治には、もう『余白』が無くなっているからだ」と述べた。ただし自らの投票権は棄権することもあわせて表明した。

衆議院側で国土交通大臣馬渕澄夫や内閣官房長官仙谷由人らに対する不信任決議案が否決された際には、「責任は官房長官のほうが重い」と指摘している。

さらに、尖閣諸島中国漁船衝突事件をめぐる仙谷の答弁について「法廷闘争的な答弁はしているが、政治的には通らない」と批判した。

これを受け、仙谷は「参議院の議長が言っているのだから、重く受け止めたい。別に反論はない」とコメントした。>(「ウィキペディア」)

立法府の最高位に在るものが、行政に介入する行為は三権分立の法または矩(のり)を越えるものである。2011・5・12


2011年05月11日

◆首相公選論の再燃

渡部 亮次郎

日本国憲法では国会の議決に基づいて内閣総理大臣を指名するとしているため(67条1項)、首相公選制を導入するには憲法改正が必要になる。 中曽根元首相が1961(昭和36)年に直接の国民投票による首相公選制度を提唱したことで、知られるようになった。

中曽根氏は当時、河野一郎氏の束ねる河野派にあり、ここに居ては河野氏存命中は首相の座を望めないとおもいつめたのか、全国いたるところに看板をかかげ、「国民運動」として運動を展開した。

全く実現の機運は向いてこなかった。そのうちに1965(昭和40)年7月8日に河野氏が急死。それを機会に「中曽根派」の結成に成功、なぜか運動は尻すぼみになった。それを46年ぶりに大阪をかき回し中の橋下知事が突然、言い出した。


<橋下徹知事「首相公選制」導入を主張

橋下徹大阪府知事は9日、大阪市北区で開かれた憲法施行記念式のあいさつで「国会議員から一国のリーダーを選ぶ権限、人事権を国民の下に取り戻す運動が我が国に最も必要な政治運動だ」と述べ、現行憲法を改正し国民が直接首相を選ぶ「首相公選制」導入を目指すべきだとの考えを示した。

橋下知事は「国政が機能していない」と指摘したうえで「国会議員がリーダーをフリーハンドで選ぶ。だからこそ国民の意思とリーダーの意思が乖離(かいり)する。ここにこそ日本の政治の最大の欠陥がある」と強調した>毎日新聞 5月10日(火)1時31分配信

看守生姜と国民の意思が乖離する現下の政局を憂え手の発言か、嘗ての中曽根氏のように「国民的人気さえあれば、派閥の領袖でなくても首相になる道がここにあり」とする彼らしい野望を披露したものか否か、東京に居ては私には確かめようがない。

中曽根氏が獅子吼して居たころ、河野氏や岸元首相らは、主に天皇との関係から実現を不可能と冷ややかに看ていた。

議院内閣制を残したままでの首相公選制には国権の最高機関で唯一の立法機関である国会との関係など問題がある。 また、天皇制擁護の立場からは国民が直接選出した公選首相と国民統合の象徴である天皇との整合性を問題点として指摘されることもある。

国民を直接代表する公選首相は必然的に大統領的性質を帯びるものとなり、日本国の象徴であり、公式見解ではほぼ元首としてさしつかえがないとされている天皇と矛盾しないかといった問題である。

古い友人の政治評論家屋山太郎氏や小沢一郎氏は上記の「国柄」と政局の流動化を理由に導入に反対し、むしろ小選挙区制とそれにともなう二大政党制の浸透こそが首相の権力を強化させ、政治への信頼を高められるとしている。

元首相の小泉純一郎は2001年6月26日に「首相公選制を考える懇談会」を開催し、首相公選制など、総理大臣と国民との関係を検討し、具体的提案をすることとした。2002年8月7日には12回にわたる会議の結果を踏まえ「首相公選制を考える懇談会」報告書が小泉に提出された。このなかで、

 1.首相と副首相をセットで国民が直接選出する案

 2.憲法に政党条項を導入し各政党が首相候補を明示して選挙を行う案

 3.政党(野党第一党と与党第一党)内での党首選出手続きを国民一般に開かれたものにする案の3つが提案されたことがある。


「政党内(与党第一党と野党第一党)での党首選出手続きを国民一般に開かれたものにする案」と衆院小選挙区のセットであれば「皇室伝統と矛盾しない首相公選制」であり既に実現しているといえよう。

首相の地位の強化、三権分立の強化となるため、公選制を提唱する意見も多くある。2000年に発足した森内閣が自民党の一部の幹部による密室で誕生したこと(五人組)から、導入意見が一時盛り上がった。

公選首相と天皇との整合性についても、公選首相を天皇が任命する形式を残す、首相公選制導入と共に憲法を改正し、天皇を元首と明文化する等すればそもそも両者の矛盾は発生しないといった意見から、天皇は日本の元首とはいえないので、そもそも両者の間に矛盾は生じないといった意見までさまざまである。

東京都知事の石原慎太郎は導入に賛成である一方、天皇の元首化は不可欠としている。

風雲児橋下知事の上げたアドバルーン。何処へどうなるやら。大阪「都」論と同様行方はわからないない。流行(はやり)のいいかたでは見通しは不透明だ。

参考資料「ウィキペディア」 2022・5・10

◆ 本稿は、5月11日(水)刊「頂門の一針」2258号に
掲載されました。

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2011年05月10日

◆浜岡は菅首相人気とりの小道具

渡部 亮次郎

やはり睨んだとおりだった。中部電力に対する菅首相の浜岡原発の停止申し入れは、何の根回しも下相談もない、市民運動家・菅直人の思いつきパフォーマンスだった。

市民運動家には哲学も国家観も無い。権力に対して野次りに終始し、パフォーマンスで、大衆の歓心を買っていれば千に一つぐらいの当たりがあるかも知れない。宝くじを買って捨てているようなものだ。

菅首相のやること為すことに「心」が無いと各方面から指摘されるのは信念も国民に対する「愛」が全く無いからである。

それが、突然「国民のために浜岡原発の停止」を言い出したから、当然、既に諸々の対策の目途がついたのだろうと思ったが、やはり単なる人気取りのパフォーマンスにすぎなかった。発表記者会見の僅か40分前に中電に対して一方的に通告をしただけであった。

海江田経産相が5日、浜岡原発を視察した際も中部電には話は全くなかったという。

まるで「原発反対」の声に答えれば落ち目の三度笠、大いに持ち直すと勘違い。浜岡原子力発電所を小道具にした手品をやろうとしたらしい。中部電力こそ、いい面の皮じゃないか。

中電も一流企業なら、要請は断乎、拒否すべきだ。私に対して役員たちは何十年も「安全だ」と説いてきたのじなかったか。男ならその「信念?」を貫け。

<浜岡原発の立地上の特異性は以前から指摘されていたことで、東日本大震災後に新たに差し迫った危険が生じたわけではない。

国と電力会社と住民は、これらを十分に理解したうえで、安全な運転について合意してきた。運転停止要請はあまりにも突然で、これまでの合意形成の経緯をも否定するものになりかねない。

浜岡原発を止めることによる電力供給減対策も、説明は不十分だ。住民らの節電で電力不足を乗り切りたいとしたが、運転停止の期間や再開の見通しなど具体的な説明は聞かれなかった。

これでは、国民は国のエネルギー政策そのものを信頼できなくなる>という産経新聞の社説は訴えるが、人気回復、政権すがりつき優先の菅首相にとって、その視界に実は国民は存在して無いかも知れない。

<中部電への要請、首相会見の40分前

中部電力が結論を持ち越したのは、浜岡原子力発電所の停止分を補う火力発電の手当てや政府の支援策が不透明な中で、安易に受け入れを表明すれば、株主らの反発が避けられないと判断したからだ。

今回の停止要請は、中部電にとって寝耳に水だった。6日夜の首相記者会見のわずか約40分前、海江田経済産業相から水野明久社長に電話があり、その後、対応に追われた。海江田経産相が5日、浜岡原発を視察した際も中部電には話は全くなかったという。

名古屋市内の中部電本店で7日午後1時から開かれた臨時取締役会には、水野社長、三田会長ら役員、監査役19人が出席。

会議の冒頭、三田会長が「(首相の要請に対し)皆さんの意見や質問を言ってほしい」と提案。出席者が業績への影響や燃料調達の見通しなどについて自由に意見を出し合った。最後に水野社長が「いろいろな意見を持っているようなのでもう一回考えよう」と約1時間半の議論を打ち切った。> 読売新聞 5月8日(日)3時4分配信


<浜岡原発以外は停止求めず=風評被害は補償―菅首相

菅直人首相は8日午後、中部電力浜岡原発以外の原発の運転停止を求める可能性について、「それはありません」と述べた。中電が浜岡原発停止要請の結論を持ち越したことについては、「しっかり話をして、理解をしてもらいたい」と述べ、要請を受け入れるよう期待を示した。都内で記者団の質問に答えた。

一方、東京電力福島第1原発事故で風評被害を補償の対象とするかどうかに関して、「風評被害を含めて、ちゃんと(東電などに)責任があるものは、ちゃんと補償するべきだ」と語った。>       時事通信 5月8日(日)14時23分配信

2011年05月09日

◆思い出の文革四人組

渡部 亮次郎


中国史における四人組(よにんぐみ)とは、中華人民共和国の文化大革命(犠牲者2000万人といわれる)を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名のことを指す。ほかの「四人組」と区別する為に「文革四人組」とも呼ばれる。2005年までに全員が死亡した。

特に毛沢東の4番目の夫人でもあった江青(こうせい)は獄中で首吊り自殺した。

プロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧し殺害したが、中国共産党中央委員会主席毛沢東の死後に失脚し、特別法廷で死刑や終身刑などの判決を受けた。

中華人民共和国では四人組のことを話すときにわざと指を五本立てて話すことがある。これは、四人組の横暴を許した毛沢東を指し、四人組ではなく実際は毛沢東を首魁とした五人組であった事を暗示しているという。

1960年代半ばから約10年間にわたる文化大革命(文革)において、江青(中国共産党中央政治局委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(国務院副総理、党中央政治局常務委員)、姚文元(党中央政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張。

1971年9月の林彪墜死以降、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。日本から田中角栄首相が初めて中国を訪問、周恩来総理と日中共同声明を発表したのは72年9月だった。

その時、私はNHK記者として田中一行に同行。周恩来との記念写真に納まった。その後、田中首相は上海を訪問して1泊。上海市長としての帳春橋が歓迎に当たり、私も握手を「賜った」。この事は別のところで書いたが、実に軟らかい手だった。

なお、このときの別れ際、送ってきた周恩来が田中首相に「天皇陛下に宜しく」と発言したと言うが、私ははなれた場所にいたので聞き漏らした。

それから2年後の1973年8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり、この時から局内に四人組が成立する。

四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に周恩来を批判する批林批孔運動や、復活していた?(トウ)小平の打倒へと続いた。

毛沢東は1974年7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文が!)小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。

1976年1月の周恩来の死去を契機に、第一次天安門事件などで民衆の反四人組感情が高揚したが、四人組は権力闘争を続け、?小平を再度の失脚へ追い込んだ。

続く1976年9月9日の毛沢東の死去で、四人組はその象徴を失ったにも拘わらず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようと、毛の遺体を永久保存させるなどしたが、政権は華国鋒に引き継がれた。華は毛沢東が革命中、ある女性に生ませた「息子」だった。

その急速な出世ぶりは「ヘリコプター」の離陸に譬えられた。

国防部長(大臣)で反文革派の葉剣英(中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒らと文革堅持を主張する四人組の対立は毛の死直後から急激に表面化した。

上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕された。

四人組は1977年7月の第10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の第11回党大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定され、また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。

1980年11月20日から1981年1月25日までの間、四人組は最高人民法院特別法廷でクーデター計画や幹部および大衆の迫害など、4件の罪状によって裁かれた。

江青:容疑を全面否認し、1981年に死刑判決(後に無期懲役に減刑)。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を説得し、北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

また葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。


王洪文:容疑を全面的に認め、1981年に無期懲役判決。1992年、病死。

張春橋:黙秘を貫き、1981年に死刑判決(後に懲役18年に減刑)。2005年、胃癌のため死去。

姚文元:容疑の一部を認め、1981年に懲役20年判決。2005年、糖尿病のため死去。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2011・5・6

2011年05月08日

◆殺害に残る謎の解明

渡部 亮次郎

米国が「正義を達成した」と誇る国際テロ組織アルカイダの最高指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害には、いくつかの「謎」も残る。遺体をなぜ水葬したのか、容疑者本人と断定した鑑定に疑問はないのか、パキスタンの首都近郊で敢行した今回の作戦が本当に米単独で可能なのか−−これらを毎日新聞が「検証」している。

<ビンラディン容疑者殺害>残るいくつかの「謎」を検証>(毎日)

 ■米空母から海へ

米国防総省高官によると、水葬は2日未明(米東部時間)、北アラビア海に展開する原子力空母カール・ビンソンの甲板で執り行われた。体を清めて白い布で包むなど約1時間かけて準備した後、遺体を海中に下ろしたという。AP通信は当局者の話として、水葬の理由を「遺体の引き取り手がないため」と伝えた。

京都大大学院の小杉泰教授(イスラム学)は「イスラム社会では通常、死亡した翌日までにモスク(イスラム礼拝所)で祈りをささげて埋葬するのが慣例」と解説する。

イスラムでは、人間は土から創られたとされ、死後は再び土に返すため必ず土葬する。水葬は、船上で死亡して遺体を保存できないなどの場合にしか認められない。

地上で殺害されたビンラディン容疑者は、こうした例外ケースに当たらない。小杉教授は「葬儀は共同体の連帯義務で、引き取り手がない場合でもモスクに遺体を運べば埋葬してくれる」と説明し、「米当局の行為には遺体が奪回されるのを避けるため海に『捨てた』との疑念を持たれる恐れがある」と指摘した。

 ■「99・9%」一致

米当局は、遺体から検出したDNAとビンラディン容疑者の親類のDNAを調べた結果、「99・9%」一致したと説明。さらに、殺害現場で米軍特殊部隊が撮ったビンラディン容疑者の遺体の顔を照合した結果も「95%」合致したとして、本人と断定した。

筑波大大学院の本田克也教授(法医学)は「一般的に確実に本人と断定するには最低限、親子関係でのDNA鑑定が必要だ」と説明する。さらに、鑑定対象がビンラディン容疑者のような重要人物であれば「血痕など本人の試料で『同定』しているはずだ」と言う。

DNA鑑定の結果が判明するには少なくとも半日程度はかかる。米当局の発表では、急襲作戦でビンラディン容疑者を殺害し、その日中に早々と「本人」と断定した。

本田教授は「1日で鑑定を終えること自体は不可能ではない」としながらも、「『同定』を確実にするには同じ鑑定者、鑑定機関で2、3回は確認すべきだ」と指摘。「本人と言えるほど十分な鑑定が行われたのだろうか」と話した。

 ■事前通告した?

米当局は今回の作戦実施について、パキスタン政府には事後報告したと説明している。しかし、現場はイスラマバード近郊のパキスタン軍施設が集まる町だ。

現地に詳しい外交筋は「他国のヘリが夜中に軍事作戦を始めて反応しないはずはない。(パキスタン軍が静観したのは)直前に米側から通告があったからだろう」とみる。

これに対し、大阪大の山根聡教授(南アジア・イスラム文化)は、「パキスタン軍の一部はビンラディン容疑者の潜伏に気づいていたはずだ」と指摘。

米側がパキスタン当局から容疑者に情報が漏れるのを警戒して「事後報告か、何か別の作戦を実施すると説明していた可能性はある」と分析し
た。

米国が他国で遂行した今回の作戦について、現地情勢に詳しい田中浩一郎・日本エネルギー経済研究所理事は「事後通告なら明らかな主権侵害であり、事前でもパキスタンの同意がなければ主権侵害だ」と指摘する。

ただ、国内の反発を考えればパキスタンには同意できない事情もあり、「(作戦が実施されたこと自体には)驚かない」との見方を示した。毎日新聞 5月4日(水)12時50分配信

2011年05月06日

◆食い物を政府が規制するな

渡部 亮次郎

厚労省、「生の牛肉」指導強化を検討、とTBS系(JNN) 5月5日(木)12時42分配信でニュースを流した。

言うまでもなく富山、福井で起きたO111による集団食中毒での死者が5日に4人にも達したところで「厚生労働省は何をのんびりしてるんだ」と非難されるのを先取りした、いかにも役人らしい動きである。

親族に、香辛料一切駄目という75を過ぎた女性がいるが、どう言うわけか一緒に焼肉屋に入ると、焼肉より生肉「ユッケ」を食べている。偏食など無関係といった顔をして食べている。

私は元々川魚を必ず煮たり焼いたりして食べる習慣が長く、寿司や刺身は老人になってから初めて食べたぐらい。馬刺しは食べても生の牛肉とか「ユッケ」は食べたことが無い。

<厚生労働省によりますと、2008年以降、食肉処理場から生食用の牛肉の出荷が無くなり、現在は加熱用の肉しか出荷されていませんが、実際は焼肉店で生食のユッケなどが広く提供されています。

今回の事件を受けて、厚生労働省は生の牛肉を提供している飲食店に対する立ち入り検査を強化し、生の牛肉の提供は原則行わないよう指導を強化する方向で検討していることがわかりました。

早ければ、6日にも都道府県の衛生担当部局に対し検査の強化などを要請する見通しです。

また、肉の生食について、衛生管理のガイドラインはあるものの、罰則がないことから罰則付きの新たな基準を設けることも検討しています。>BS系(JNN) 5月5日(木)12時42分配信

庶民がユッケを食べるのは勝手にさせたほうが民主主義じゃないか。O111に感染するかしないかは、それこそ自己責任に任せるべき。どうしても食べたいなら命賭けでたべたらよろしいではないか。
.
ユッケ(肉膾)は、生肉を用いた韓国の肉料理。

この名前が示す通り、生肉を使った韓国式のタルタルステーキ様の料理である。生の牛肉(主にランプなどのモモ肉)を細切りにし、ゴマやネギ、松の実などの薬味と、醤油やごま油、砂糖、コチュジャン、ナシの果汁などの調味料で和え、中央に卵黄を乗せて供する。

ナシやリンゴの千切りを添えることも多く見られる。食前にはよくかき混ぜるのが良いとされる。

ユッケをビビンバに乗せたものは、ユッケビビンバと称される。晋州市の郷土料理は特によく知られており、ご飯やナムルの上に乗った赤い牛肉を花に見立ててファバン(花飯)とも呼ばれている。

1800年代末期の『是議全書(朝鮮語、中国語)』に掲載されている調理法では、薄く切って血抜きした牛肉を細切りにし、ネギ、ニンニク、唐辛子、蜂蜜、油、松の実、ゴマ、塩などで和えるとしている。

また食べる際にはコチュジャンと食酢をあわせたチョコチュジャンを加えるのもよいとされている。

日本でも焼肉店の定番メニューである。そのほか各種の料理店では様々にアレンジされ、牛の舌(タンユッケ)、牛の内臓、鶏肉、マグロ、鰹、馬肉で作られる場合もある。

ユッケは生肉を食するものであるため、動物の腸などから付着した腸管出血性大腸菌やサルモネラなどに感染する可能性がある。このため旧厚生省は「生食用食肉の衛生基準」(1998年 9月11日生活衛生局長通達)により生食用食肉の規格や衛生管理について定めている。

しかし、これに基づく生食用食肉の出荷実績がある施設は馬肉とレバーだけだった。この基準が遵守されず、多くの加熱用食肉が飲食店の自主判断で生のまま提供されているという。

毎年、20件ほど食中毒が発生している。主な例では2008年に炭火焼肉たむらで起こった。

2011年(平成23年)には、4月に焼き肉チェーン店焼肉酒家えびすの、富山県の砺波市にある店舗で和牛ユッケを食べた男女15グループ24人が発熱や下痢などの食中毒症状を訴え、腸管出血性大腸菌O157・O111が検出された。

そのうちの焼肉とユッケを食べた6歳の男児1名(O111を検出)および、別のグループの40歳代女性1名[6]と70歳代女性1名[7]がそれぞれ死亡。

さらに福井市にある同じチェーン店でユッケを食べ、O111に感染した男児1名も死亡したことが判明した>。出典: フリー百科事典『ウィキペディ
ア(Wikipedia)』 2011・5・5

◆巴里だより 上り下りの船人が

岩本宏紀(在仏)

復活祭の月曜日、アムステルダムに流れ込むアムステル川。
春のうららのこの川は
上り下りの船人で溢れていた。

オランダでは海に出なければ、つまり
川や湖であれば、免許証なしで船に乗れるそうだ。

大金持ちでなくても舟をもち、
天気のいい日にはビールと食べ物を積み込んで、
のんびりとクルージングを楽しんでいる。

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<添付画像:アウダーケルク(古い教会)村のカフェにて。>
川べりにあるので、船人も簡単に入ることができる。

序でながら・・・。
1ヶ月目に我が家に来たゆめちゃんは、日ごとに
お転婆になっていく。人前では猫をかぶるが、
家に戻ると何にでも噛みついて大変だ。

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2011年05月05日

◆「作文に不可欠なリズム」

渡部亮次郎

(再掲)私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHKだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だった。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を「悪文」という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのは切るべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、「そして」でつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。

高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。2008・06・29

2011年05月03日

◆ビンラディン「戦死」

渡部 亮次郎

国際テロ組織アルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が1日、潜伏中のパキスタンで米軍に襲撃され、銃撃戦40分の末、殺害された。

アメリカのオバマ大統領は同日夜、緊急演説で、この事実を発表。「しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。

<作戦約40分間の末ビンラディン容疑者を殺害「正義を達成」(CNN) 

オバマ米大統領は1日夜、国民に向けて演説し、米軍が同日パキスタンで実施した作戦で、国際テロ組織ア

ルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が死亡したと発表した。ビンラディン容疑者は、3000人を超す犠牲者を出した2001年米同時多発テロの首謀者とされ、米国が10年以上前から行方を追っていた。

米政府高官がCNNに語ったところでは、米軍はパキスタンの首都イスラマバードから約100キロ北部にある邸宅でビンラディン容疑者を殺害したという。家族も一緒だったとされる。

オバマ大統領は演説の中で、同容疑者の死は「アルカイダ撲滅を目指すわが国の取り組みにおける過去最大の成果」だと強調した。作戦は少人数の米軍部隊が実行。

米国人の負傷者はなく、民間人にも死傷者が出ないよう配慮したとしている。ビンラディン容疑者は銃撃戦の末に死亡し、作戦終了後に米軍が遺体を回収したという。

大統領によれば、昨年8月の時点でパキスタン国内のビンラディン容疑者の潜伏先に関する情報を得たとの報告を受け、先週になって行動を起こせるだけの情報が集まったと判断した。「同容疑者の死は平和と人間の尊厳を信じるすべての人に歓迎されるだろう」「正義が実った」と述べた。

しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。

さらに、米国はイスラム教と戦争をしているわけではないとも強調、

「ブッシュ前大統領が同時テロの直後に述べたように、これはイスラム教との戦いではない。ビンラディンはイスラム教の指導者ではなく、イスラム教徒の大量殺人者だ」と指摘した。

パキスタン高官が明らかにしたところでは、ビンラディン容疑者が死亡した現場には同国情報機関の統合情報部(ISI)もいたという。

米政府高官は、この作戦ではほかに男性3人と女性1人が人間の盾として使われ死亡したと述べた。作戦は米海軍特殊部隊が実行し、約40分間続いたとされる。議会関係者によれば、ビンラディン容疑者は頭を撃たれて死亡したという。>CNN.co.jp 5月2日(月)15時12分配信


<大統領声明によると、米政府はパキスタン当局の協力で昨年8月、ビンラディン容疑者がパキスタンに潜伏していることを突き止めた。

先週、身柄を確保するための作戦に乗り出すことを決め、オバマ大統領の命令で1日、同国北部アボタバードの潜伏先で作戦が実施された。ビンラディン容疑者は銃撃戦の末に死亡し、遺体は米政府側が確保したと
いう。

ビンラディン容疑者の死亡によって、アルカイダの求心力が大きく低下することは間違いない。今年7月に、アフガニスタンからの駐留米軍撤退を始めるオバマ政権にとって、極めて大きな成果と言える。一方、指導者を失ったアルカイダ側が、欧米を標的にした「報復テロ」の動きを強めるおそれもある。

このため、オバマ大統領は「我々は国内外で警戒心を保たねばならない」と、テロへの警戒を呼びかけた。また、「米国はイスラム世界と戦争しているわけではない」とも述べた。

米同時多発テロの直後、ブッシュ前米大統領はアフガニスタンのタリバーン政権に対し、国内に潜伏しているとされた同容疑者の引き渡しを要求したが、タリバーン側が拒否。これを受けて米英軍はアフガン攻撃に踏み切った。

同容疑者はその後もアフガン東部での度重なる空爆を逃げ延び、アフガンと隣国パキスタンにまたがる山岳地帯に身を潜めてきたとされる。同地域の住民はタリバーンの主要構成民族だったパシュトゥン人で、アルカイダを「神の軍隊」と敬い、排他的な部族社会の中で隠れ家を提供してきたとみられる。情報提供者への報奨金にもかかわらず、米軍の情報
収集は困難を極めた。

米当局によると、ビンラディン容疑者は米同時多発テロ事件に主犯として関与した疑いが持たれている。事件は4機の旅客機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機、ワシントンの国防総省に1機が突入。ピッツバーグ郊外では1機が墜落した。合計で3千人近くが死亡した。

米当局はテロ実行犯として旅客の中から19人を特定。うち数人をアルカイダのメンバーと確認し、指導者であるビンラディン容疑者を首謀者と認定した。同容疑者は04年10月、中東の衛星テレビが放映したビデオで、米同時多発テロへの関与を初めて認めた。

同容疑者は、サウジアラビアで建設業で財をなした富豪を父に生まれた。旧ソ連がアフガンに侵攻した1979年以降にイスラム・ゲリラに参加。湾岸戦争でサウジが米軍駐留を認めたことへの反発から反米闘争を始めた。

93年の世界貿易センタービル爆破事件でも資金援助した疑いがあるほか、98年のケニア、タンザニア両国での米大使館爆破テロ事件でも首謀者だったとされている。(朝日 ワシントン=望月洋嗣、イスラマバード=五十嵐誠)>


<ビンラーディン容疑者殺害 日本の公安関係者「報復テロ激化の可能性も」

「本当なのか」。国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサマ・ビンラーディンの死亡報道があった2日、日本の公安当局には驚きと衝撃が走った。アルカイーダの影響力低下に期待も強まるが、ある警視庁幹部は「これでテロの脅威がなくなるわけではない」と表情をひきしめた。

「詳しいことは、分からない。いま、情報を集めているところ」

死亡のニュースが駆けめぐると、警視庁幹部は、こう厳しい表情を見せた。庁内外でも担当者らは、あわただしく情報収集に追われた。

インターネットで、日本国内にも情報発信するなどしてきたアルカーイダ。ある幹部は「影響力は低下するだろうが、メンバーや影響を受けている人間がまったくいなくなったわけではない。今後も緊張が必要」と話した。

公安調査庁関係者は「本当なのか?」と絶句。「これをきっかけに、各国で報復と称してテロが激化する可能性もある。日本でも起きないだろうか」と話した>。
産経新聞 5月2日(月)13時43分配信


◆河野一郎・田中角栄ありせば

渡部 亮次郎

<田中角栄が首相でいたら、ブルドーザー部隊を先頭に立てて、瓦礫で埋まった道路を切り開き、タンクローリー車や物資輸送のトラック部隊を送り込んでくれただろうな!」と被災地で声があがる。

批判はあっても住民生活の動脈は”道路”にあると、田中角栄は鋭い直感力を持っていた保守政治家で、抜群の行動力があった。

河野一郎にも同じことを感じる。そういう迫力のある政治家がいなくなった。被災地は、さながら戦場のような姿を曝している。いまこそ戦時宰相が求められる。>元共同通信社常務理事 古澤襄氏の杜父魚=かじか=ブログより。

私は若いころの角栄と最晩年の河野一郎氏を担当した記者である。自民党で当時河野担当だった各社の記者は殆ど鬼籍に入り、河野一郎を語る最後の記者になったわけだ。

私が担当した頃の河野さんは池田勇人内閣の無任所大臣で、東京オリンピック担当相。折からの東京都の水不足対策も任されていた。

それ以前は建設相として新潟の大地震や雪害を担当したが、「私が現場に行くからには、いちいち閣議に諮っていては時間が勿体無い、全権を委任してれなけりゃ行かない」と池田首相に掛け合い、災害をあっという間に解決したという逸話があった。

残念ながら菅首相にはこの片鱗も無い。

政治記者から代議士になり、敗戦後は鳩山一郎を総裁に担いで自由党の幹事長になったが、鳩山が組閣直前にマッカーサーによる公職追放されたため夢は水泡に帰した。

以後はバトンをなかなか返還しない吉田茂に徹底的に逆らい、蛇蝎の如く嫌われたが遂に奪権を成就。鳩山を晴れて首相の座に就け、ソビエト(現ロシア)との国交正常化を達成した。

その頃から党内に派閥を構成し、自らを実力者と称した。やがて首相岸信介と対立、新党結成を策したこともあったが、岸後継の池田氏と組んで党主流に坐るようになった。

酒を一滴も呑めない河野さんなのにクレムリンで渡り合ったフルシチョフにウオッカを飲まされる羽目になったことを懐かしく思い出していた。

盛岡から転勤してきたばかりの若造をリンカーンに「箱乗り」させたり、自宅で照子夫人と3人で夕食を一緒にしてくれたりしたのは、「あなたの右目は義眼ですか」と質問したからだった。「ほら、義眼じゃないだろ。こんな質問、君が初めてだ。君はいい記者だ」と褒められたのがきっかけだった。11・4・01


2011年05月01日

◆変節漢小澤の証拠 議事録

渡部 亮次郎

「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だが、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていました。

◇唸声より

EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですから、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっておりますが、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについてはあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりにそれを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんでありましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれは別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していたとは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像することすら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれた。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用したもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求してきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言われる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけない。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そこに祀られるべき人でない」と応えている。

人を騙すにも程がある。戦犯のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人が決めた者ではない。戦勝国とくにアメリカのマッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太子殿下(今上天皇)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによる死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいかに変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】