2014年04月25日

◆おでん風土記

渡部 亮次郎


大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「?輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に関東では濃い味付け、関西では薄い味付けが好まれるとされているが、おでんに関しては別で、上記のような複雑な発展の経緯があったために関東では薄味、関西では濃い味が伝統的とされる。

ただし、現在の東京やその近郊のおでん屋の味は、関東人好みの濃い味のほうが優勢のようである。

また関西では、濃い味のものを関東煮、薄味のものをおでんと呼び分ける傾向もある。

薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方でも関東風のおでんが一般的ではあるが、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。

青森県青森市
ツブ貝、ネマガリタケノコ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。2005年には「青森おでんの会」が発足。

2010年予定の東北新幹線新青森駅開業へ向けて、生姜味噌おでんの全国ブランド化を図るべく、「B-1グランプリ」という食の祭典への出展等、PR活動が行われている。

長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。人気の具は豆腐である。

富山県
塩と昆布の出汁で煮たおでんに、玉子、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこなど入れて煮込み練り辛子かおぼろ昆布を添えて食べる。

静岡県静岡市
葵区の繁華街にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があったり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。

また静岡県のおでん自体も濃口醤油を使い牛スジ肉で出汁を取った黒いつゆが特長で、はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺してあるのが特徴で、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。

これは「静岡おでん」(発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」)と呼ばれている。2007年には「静岡おでんの会」という団体が「B-1グランプリ」という食の祭典に静岡おでんを出展し、3位となった。

愛知県
八丁味噌をベースとした甘めの汁で、ダイコン、こんにゃく等の定番の具を煮込んだ「味噌おでん」が有名。

味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。

醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。

また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。

しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。

兵庫県姫路市
薄味だが、関東煮ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。

香川県
讃岐うどん店では、必ずと言っても良いほど副食として販売されている。

コンビニのおでんカウンターのような保温器で煮込まれている竹串刺しのおでんを、客はセルフサービスで取ってきて、注文したうどんが出来上がるまでの間などに食べる。

香川のうどん店のおでんは、セルフサービスのうどん店だけでなく一般店(店員がうどんを上げ下げしてくれる店)であっても大抵はセルフサービスである。おでんには茶色く甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。

愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。

沖縄県
沖縄のおでんは「てびち」(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられるのが特徴である。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共に「てびち」も販売されている。

アメリカ施政権下の頃、ちょっと駐在(NHK特派員)したが、「おでんに茶飯」の昼食が一番高かった。薩摩揚げを憎っくき薩摩ではなく博多から空輸しているため、原価が高くなるとの説明だった。出典:「ウィキペディア」

2014年04月24日

◆マルコス大統領下賜のタガログ

渡部 亮次郎


マルコス元フィリピン大統領閣下に恐れ多くもシャツのタガログ1枚を下賜されたことがあるが小さくて着られないまま、どこかで失くしてしまった。その3年後、園田氏は逝去、大統領は亡命を余儀なくされた。「歴史」を思う。

バナナ繊維かパイナップル繊維でできたバロンタガログだ。フィリピンではこれを着用すれば、「正装」なのだそうだ。高温多湿な土地での凌夏服装で都合が良かろう。

1981(昭和56)年、鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、イタリア、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。秘書官として随行していた私はイタリアから胸やけ続き。マニラにいた知人に貰った太田胃酸で霧消、万歳。

園田外相は19日はフィリピンのマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートで待機中のアメリカ国務長官ヘイグ氏と相対した。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると申しいれ、ただし服装は白のタキシード或いはタガログ・シャツに限るとのお達し。タガログを送ってくれていたが、小さくて着られなかった。

そこで主従ともに急遽、白のタキシードを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなどこの時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

晩餐会で何をご馳走になったかも忘れたが、イメルダ夫人の香水がきつくて参った。それに、きつい「冗談」にも。「日本人の大人たちは買春も団体でやるから目だって反感を買う。

そこへ行くと、積み立て貯金をして買春に来るドイツ人は凄い。女性の大事なところに怪我を負わせて帰るけど、決して団体でやらないからニュースにはならないのよ」。高貴なお方から、こんなお話を伺うとは予想してなかった。

これから3年後の4月2日の朝、糖尿病に伴う腎不全により、園田氏は70歳と言う若すぎる死を遂げてしまうが、園田氏の死に先立ってマニラでは1984年2月25日、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。

「ウィキペディア」によれば、マルコス政権下のフィリピンで、国内の経済開発では海外からの借款が多用された。また、1973年より開始された観光事業の振興策と、海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金が、重要な外貨獲得の手段であった。

1983年8月、野党勢力の中心人物でアメリカに亡命していたベニグノ・アキノが帰国時にマニラ空港で暗殺された事は、フィリピン経済に大打撃を与えた。

続く国内での反マルコス・デモの頻発に象徴される政治的問題は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、政府の振興策も効果が無かった。失業率は1972年の6・30%から1985年には12・55%まで増大した。

さらに政権末期、彼自身の腎臓疾患の為に政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される意図的に杜撰なプロジェクト等で汚職を繰り返した。

アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス自身が関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された国軍参謀総長ファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共にこの考えをより強くさせるものだった。

1984年までに、事実上の後見人であるロナルド・レーガン米国大統領は、マルコス政権に距離を置き始めた。

同盟国からの圧力の結果、マルコス氏は大統領任期が1年以上残っている状態で、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。

1986年2月7日に行われた大統領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録はマルコスが160万票の差で勝利したと発表した。

マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、アメリカ政府、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。

結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防相、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人がマニラの大通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命したのだった。

    

2014年04月23日

◆放るもん料理は明治から

渡部 亮次郎


日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛肉)も砂糖も絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたことがなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わされなかった日本人。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったものです」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した感じがあるが、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている[。また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』

2014年04月22日

◆ドレミファの受難

渡部 亮次郎


ラジオ深夜便が2013年2月11日午前3時台「作家で綴る流行歌」米山正夫作品集で高橋淳之アンカーが「森の水車」は戦後流行したが、実は昭和17年に高峰秀子(三枝子にあらず)で発売されたが、4日後に発売禁止になった、と解説したまでは良かったが、理由を言わないでおわった。

先年、女性アンカーも「こんな平和な歌がなんで発売禁止になったのでしょうね」で結論をいわなかった。回答はドレミファソラシドにあったのである。

「森の水車」

作詞:清水みのる、作曲:米山正夫、唄:荒井恵子

1 緑の森の 彼方から
  陽気な唄が 聞こえましょう
  あれは水車の 廻る音
  耳を澄まして お聞きなさい

  (*)コトコトコットン コトコトコットン
     ファミレド シドレミファ
     コトコトコットン コトコトコットン
     仕事に励みましょう
     コトコトコットン コトコトコットン
     いつの日か
     楽しい春がやって来る

2 雨の降る日も 風の夜も
  森の水車は 休みなく
  粉挽(こなひ)き臼(うす)の 拍子取り
  愉快に唄を 続けます
  (* 繰り返し)

3 もしもあなたが 怠けたり
  遊んでいたく なった時
  森の水車の 歌声を
  独り静かに お聞きなさい
  (* 繰り返し)


《蛇足:二木紘三》< 昭和17年(1942)9月に映画女優・高峰秀子の歌でポリドール(当時は大東亜レコード)からレコードが発売されました。

戦後の昭和26年(1951)4月9日に荒井恵子の歌で「NHKラジオ歌謡」として放送されてから、多くの人たちに愛唱されるようになりました。

荒井恵子は、NHKラジオ「素人のど自慢」のチャンピオンになったのをきっかけにキングレコード専属のプロ歌手になりました。

しかし、作曲の米山正夫が日本コロムビア専属だったため、キングではレコード化できず、昭和26年8月1日に並木路子の歌で日本ンコロムビアからがレコードが発売されました。

私の子どもの頃、田舎では何カ所にも水車がありました。その響きは、勤勉さを刺激するよりも、「のんびり行こうよ、マイペースでいいじゃない」といっているように私には聞こえました。>

この方も判っていない。戦後派なのかな。

戦時中は「敵性語」は禁止された。ファミレド シドレミファはイタリア語なのに検閲官は教養が足りなかったか慌て者だったか、これを敵性語と判断して「発売禁止」処分にしてしまったのだ。

もちろん当時のイタリアはドイツと共に日本の同盟国であったのだからイタリア語を敵の言葉としたのはおかしい。しかし検閲官はみんなどこかがおかしかったのであろう。 

2014年04月20日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎


「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後にやっと再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。

<『夜のプラットホーム』(よるのプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の流行歌。1947(昭和22)年に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

若いアンカーも上記< >内は言ったが、発売禁止処分の事は一言も触れなかった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくしたこと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを悲しむしむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともないから。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげにただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず「夜のプラットホーム」を筆に下ろした。当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させるとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかかり、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令1号)。

レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式従って内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll BeWaiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタンゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き残った東京音楽学校出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならない事、全世代、共通の願いではなかろうか。

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年04月19日

◆ASEANの口頭試問

渡部 亮次郎


ASEAN(アセアン)東南アジア諸国連合は、2010年現在は加盟10カ国だが、当初は5カ国だけだった。

東南アジア諸国連合Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。

域内の人口は約5億8000万人(2005年)と多く、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定 (NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

結成当初から日本は会談参加を希望していたが拒否されていた。後でわかったが、フィリピンが強硬に反対していたからだった。1

978年になって、ようやく外相会談への参加が認められ、当時、福田赳夫内閣の外相園田直(そのだ すなお)がインドネシア・バリ島での会議に出発した。秘書官の私にとって東南アジアへの同行は初めてだった。

政治記者から秘書官に転身してまだ数ヶ月。記者の癖は抜けなかった。園田氏もそこを利用していた。中でも締結を目指す日中平和友好条約に関するマスメディアの反応探りに期待していた。

さて、バリ島。西洋式の立派なホテル。朝早く、会議会場の”取材”に出かけた。事務の秘書官(後の国連大使佐藤行雄氏)は会議での大臣発言の打ち合わせに忙しいが、政務の私は、この場合は閑である。

しかし、見ておどろいた。ASEAN側が一列の5人が並び、向かいに日本の席がただ1つ。「これじゃまるで口頭試問だ」と大臣に報告。大臣は「佐藤君、せめて6角形にして貰えんかね」と命令。

希望通り、椅子は6角形に配置換えされた。面白かったのはその後。

会議の冒頭、園田氏が発言を求め「このたび皆様の口頭試問を受けに参りましたソノダです」と言ったから、会場は爆笑。一気に日本のペースになってしまったのだ。

その実、ASEAN側は「口頭試問」を考えていたのだ。特に、太平洋戦争中、フィリピンに軍事顧問として滞在していたアメリカのマッカーサーに副官(秘書官)として付いていたロムロ外相は、例の「アイ・シャル・リターン」以来の憎しみを消せないでいたから、この会議への日本の参加反対の急先鋒だった。

聞けば園田はあの戦争中、特攻隊の生き残りだという。この際、徹底的に虐めてやろうと企んでいたのだ。私がどこかから拾ってきた情報を耳にしていたわが外相は、「口頭試問」の企みを逆手に取ることで、一瞬にしてASEANの懐に入りこむのに成功したのだ。

しかも、それ以来、ロムロは園田と親友になった。

園田氏は旧制中学しか出ていない。シナ事変以来、昭和20年の敗戦まで11年間を戦場で過ごした。敗戦時は陸軍の戦闘機の操縦士から「特攻隊」の隊長に指名。出撃の2日前に敗戦となった。

郷里、九州の天草で町の助役から衆院選に出馬して落選。町長を経て当選。厚生大臣2度、官房長官、外相3度。70歳、腎不全により僅か70で逝去。

ASEANでのやり取りから、私は政治家は学歴では無い。頭の良さ、機転の利かせ方にカギがあるとつくづく思った。鳩山や菅にあるのは学歴だけだった。

2014年04月15日

◆ちゃんちゃら可笑しい

渡部 亮次郎


永野重雄という日本財界の四天王の一人は、実に激しくも気さくな人だった。仕えた園田直が官房長官から外務大臣に転出したとき財界に園田後援会を作ってくださり、毎月の懇親会に秘書官の私も加えるように気配りして下さった。

渡部君、ボクが会社(新日本製鉄会長)から常務会の決裁無しに持ちだせる金額を知ってるかい?たった5万円だよ。これじゃ彼女の手当てにもなりゃしない。と、終いには秘密を打ち明けるようになった。

なにしろ持った段位が得意の柔道や囲碁など交えて64段。武道の段位30段の園田も真っ青の大物だった。広島で。裁判官を父とする10人きょうだいの次男として育った。

その永野さんが財界の幹部を引き連れてモスクワのクレムリンに乗り込んだ。当時の日ソ経済協力推進のためである。昭和40年代のことだ。確か共産党書記長のブレジネフと会談した。通訳はモスクワ駐在の日本大使館員。

「そんなこと、解決は簡単、朝飯前です」までは良かったが「ちゃんちゃら可笑しい」の言葉でエリートは詰まってしまった。ちょっとした江戸弁だが、若い人はもう余り使わなくなった言葉。

エリートは舞い上がった。だから永野さんが「そんなことをしたら、こちとら、臍(へそ)で茶を沸かす」と言ったとき、意味が理解できないまま直訳してしまった。

臍で茶をどうやって沸かすのか。堅物のブレジネフが真顔で聞いてきた。往生したのは永野さん。「可笑しい」のたとえで言っただけなのに、通訳が真意を知らぬまま直訳したから場が白けてしまった。「あの時は参った」としみじみ述懐した。

永野さんは男兄弟6人中5人が東大、1人は東北大という優秀な兄弟。「だがボクは殆どを柔道ですぎたね」。

いろいろな曲折を経た後、製鉄業界に入り、敗戦後、先輩たちが頭を並べて公職追放になったため46歳の若さで日本製鉄の常務。そのご日本製鉄は進駐軍により八幡製鉄と富士製鉄に分割されるが、のちに合併により新日本製鉄として再出発、会長になった。

通訳はみな秀才だが、世の中の酸い、甘いには通じていない人が多い。勉強は出来るが、常識に欠ける人物は古今、東西を問わないのでは無いか。「海千山千」を知らない通訳に私自身、往生したのはワシントンでだった。

海千山千 意味

長い年月にさまざまな経験を積んで、世の中の裏も表も知り尽くしていて悪賢いこと。また、そういうしたたかな人。▽「海に千年、山に千年」の略。海に千年、山に千年棲すみついた蛇は竜になるという言い伝えから。


    

2014年04月13日

◆1万人の死んだ大気汚染

渡部 亮次郎


霧のロンドンは日本の歌謡曲にもなっているほど有名だが、実際の霧はそんなのんびりしたものではない。秋だった。ロンドン郊外で貸切バスが霧に包まれて動きが取れなくなった。

興味から、外に出て驚いた。まるで牛乳瓶に飛び込んだみたい。上も下も右も左も見えない。急に殴られても相手を確認する事は不可能だ。歌謡曲でロンドン霧を称えた作詞家はロンドンへ行ったことが無かったに違いない。

このように濃い霧だから、ヨーロッパには悪魔がやってくるのも霧に乗って、凶悪犯も霧に紛れてやってくると考えられている。そんな話をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で捜していたら「ロンドンスモッグ事件(Great Smog of 1952、London Smog Disasters)」が出てきて驚いた。

1952年にロンドンで発生し1万人以上が死亡した、史上最悪級の大気汚染による公害事件だという。現代の公害運動や環境運動に大きな影響を与えた。日本で言えば昭和27年。高校生のころだったから知らずに育った。

ロンドンは冬に濃い霧が発生する事で知られている(実はこの霧も大気汚染の一つ)が、19世紀以降の産業革命と石炭燃料の利用により、石炭を燃やした後の煙や煤が霧に混じって地表に滞留する。

それがスモッグと呼ばれる現象を起こして呼吸器疾患など多くの健康被害を出していた。1950年代までの100年間にも10回ほどの大きなスモッグがあったが、その中でもっとも健康被害が大きくなったのが1952年である。

1952年12月5日から10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果冷たい霧がロンドンを覆った。

あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。同じ頃、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりだった。

こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などの大気汚染物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されてpH2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。

この濃いスモッグは、前方が見えず運転ができないほどのものだった。特にロンドン東部の工業地帯・港湾地帯では自分の足元も見えないほどの濃さだった。

建物内にまでスモッグが侵入し、コンサート会場や映画館では「舞台やスクリーンが見えない」との理由で上演や上映が中止された。同様に多くの家にもスモッグは侵入していた。

人々は目が痛み、のどや鼻を傷め咳が止まらなくなった。大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎、心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。

その多くは老人や子供、慢性の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。

この衝撃的な結末は大気汚染を真剣に考え直す契機になり、スモッグがすぐそこにある深刻な問題であることを全世界に知らしめた。

イギリスでは多くのすす(煤)を出す燃料の使用を規制し、工場などが煤を含んだ排煙を出すことを禁じる新しい基準が打ち出され、1956年と1968年の「大気浄化法(Clean Air Act)」と、1954年のロンドン市法(Cityof London (Various Powers) Act 1954)の制定につながった。

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革は?小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞって?を避けようとした。

!)の三度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

三度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活した?小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

 

2014年04月10日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモチーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでいたのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られている。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載されたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのなかで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的名作となっている。

昭和28( 1953)年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去(満48歳没)    出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年04月09日

◆真正面からの言葉・教えほど尊い@

眞鍋 峰松
   

マスコミ上に登場する方々を拝見していると、どうも物事を斜めに見て論じる人が多いように感じられてならない。 多分、論じておられるご本人は、それが正しいと信じ切っておられるのだろう。 

これは何も最近になって起こった現象とは限らない事なのかも知れないが、まさにマスコミ好みの人種ということなのだろう。

例えば、靖国神社参拝問題についても、国のために尊い命を捧げた旧日本軍将兵の御霊に感謝の念を表すことは大事な筈だが、その方々はこれに対して、「中国・韓国の国民感情に配慮し外交関係・国益を考えるべし」とおっしゃる。 それでは、どうするのか。

物事を斜めに見ると、その二本の線はそれぞれが独立した線の衝突の側面しか見えない。 

A級戦犯合祀の問題も含め、人により立場により色々な考え方があるのだろうが、私には真正面から考えると、この二つの命題はそもそも両立できないことではないと思える。 

歴史的な経緯があるにせよ、また諸外国から如何に言われようが、日本国にとっては本来一方が他方を排除したり、相容れない事柄ではないはずだ。 

それより戦後60年間以上もこれまで避けられてきた国内論議の決着の方が先決だろう、と思える。 だからこそ、外交面では未来志向型の解決しかないのだろうという気がする。
   
過去を振り返ると、私の学校時代の教員にも、物事を斜めに見る性癖のある人達が結構多かった。

とりわけ「己を高く持する人物」に多々見られる事柄でもある。それはそれ、その御仁の生き方・信条そのものの問題だから、他人である私が、眼を三角にしてトヤカク言う必要のないことではある。 

ところが、教員という職業に就いている人間がそういう性癖を持ち、日頃児童・生徒に接しているとしたら、そうはいかない。
   
私の経験でも、「物事を斜めに見る性癖のタイプ」の教員が結構多かった。

結論から言えば、そういうタイプの教員は教育現場では有害無益な人間と言わざるを得ないのではないか。
  
実社会においても一番扱いの難しいのが、こういうタイプの人間だろうし、往々にして周辺の人間からも嫌われてもいる。 

多情多感な青少年にとって、こういうタイプの先生に教えられることには「百害あって一利なし」である。
   
教育の本質はむしろ逆で、もっと「真正面からの言葉・教え」ほど尊いと 私の体験からも、そう思える。
<後編へ> 

2014年04月08日

◆「しょっつる」は苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は秋田の冬を代表する名物鍋。標準語でいえば「塩汁」。秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたのは40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売っていて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっつる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られている。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚なうま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働きが強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メーカーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっけ醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いくつかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアでは、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いられる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマムとも) が世界的に有名である。

他にも、フィリピンのパティス(patis)、カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で●露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。

歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異っており、生の魚を塩漬けにしたり、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレなどを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵させる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いものから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調えるものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 

2014年04月06日

◆偉い人のスキャンダル

渡部 亮次郎


マスコミだけでなく、短期間ながら外交の世界にも身をおいた若い頃があったので、おおっぴらにはできない、偉い人のスキャンダルを多く耳にした。

戦前の外交官で、ほれた彼女を外交行嚢のトランクに詰めて持ち出そうとして、空港でばれて、大騒ぎになった人がいた。戦後、なんと東南アジア某国の大使になった、と言う。

余談ながら赴任する大使は必ず料理人を伴って行くが、資格申請をする時、料理人をサーヴァント(従者)としていた時期がある。現在は知らない。

ところで特に秘密警察が辣腕を振るったソビエト時代のロシアは日本人もターゲットにされた。目的は様々。KGB手回しの女に新聞記者を誘惑させ、同衾中を撮影。家族や関係者に見せたくなければ当方の言うことをきけ。

本国帰国後、スパイになれと言って脅かされたケース。女との写真があるといわれたら、焼き増しして、皆に渡してくれと言えばよいそうだ。しかしそれは余程、度胸のある例で、大抵の人は震え上がる。ただ、男が男との写真は命取りだという話がある。欧米の男は男と寝ている写真でゆすられて落ちたと聞く。

M内閣の顧問格だった元外交官。内閣は知らずに彼を内閣の特使として、アメリカに出そうとしたら、アメリカ側に馬鹿にされた。何かの機会にポーランド女性とセックスしているところをKGBに撮影されて脅かされていることをCIAは知っていたのだ。

日本の外務省は知らなかったが、以後はお役ご免にした。この人の甥が私の友人で、NHKで取材部局の部長を勤めて先に逝去したが、伯父さんのスキャンダルは知らなかった。

Z新聞の特派員だったQ氏。モスクワ市内で、すごく細めの女子大生だったと伝えられている。Q氏は帰国後、本社の専務に就任した。例の件は不問とされてのか。いや、知らぬは本社ばかりなりだったのではないか。

Qさんはコワレンコの指揮下にその後もあり続けたと理解している人は多い。「Qさんを専務にまでしたZ新聞は愚劣だと思います」と言うのは某社の元モスクワ特派員。

Qさんの息子は放送局に入り、PDをやっていたが、外国で、車が崖から落ちて、死亡した。

M内閣顧問格氏は元は外務省で枢軸派の白鳥などの子分だったので、Y項(吉田)パージになり、英字新聞に転身させられた。テレビのニュース解説に出演する時は、まえにいつも、水割りを数杯飲んでから出演したそうです。

岩手県の寒村の出身ながら、あれほど、能弁な人は珍しい、と未だに高く評価するひとがいる。毀誉褒貶さまざま、である。
         

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