2011年01月18日

◆湾岸戦争から20年

渡部 亮次郎

<イラクのクウェート侵攻を機に、米国率いる多国籍軍がイラクを空爆した湾岸戦争の開戦から16日で20年を迎えた。イラクは今でもクウェートに対する多額の戦後賠償を抱え、両国で1000人以上が行方不明になっている。>(CNN 1月17日)

大平内閣で外務大臣を務めた園田直氏(故人)は湾岸戦争に先立つ1980年、大臣を辞任後、総理特使として中東各国を歴訪した。福田赳夫内閣の外務大臣当時、日本の外務大臣としては初めて中東各国を歴訪した園田氏だったが、イラクのフセイン大統領と会ったのは今回が初めてだった。

その園田氏が帰国して面会した私に語った言葉を今でも忘れない。

「あれほど気味の悪い政治家はいない。あれは人殺しの目だ、今に大事件を起こす」。サダム・フセインのことだった。

その10年後の1990年8月、サダム・フセイン大統領率いるイラクは隣国クウェートに侵攻し、同国をイラクの19番目の州にすると宣言。

これに対して米国主導の多国籍軍が91年1月16日に「砂漠の嵐」作戦を開始した。当に園田氏の予想した大事件をフセインは起こしたのだった。

<フセイン政権が崩壊し過去のものになった今でも、クウェートには90年の侵攻による傷跡が残る。世界の紛争に詳しい国際機関「国際危機グループ(ICG)」のジュースト・ヒルターマン氏は「イラクがクウェートを独立国とみなさず、再び自国の19番目の州だと主張しようとするのではないかとの不安をクウェートはまだぬぐい切れない。

クウェートは、そうした事態が繰り返されないという何らかの保証を求めるだろう」と解説する。

国連は昨年12月にフセイン政権時代のイラクに対する制裁を解除した。しかし、クウェートとの間の懸案解決を求める国連決議はまだ有効だ。

イラク、クウェートなどの国では今でも1000人以上の行方が分からなくなっており、両国と赤十字国際委員会が協力して消息を調べている。

イラクは戦後賠償の支払いも続けている。政府によればこれまでに300億ドル相当を支払ったが、まだ200億ドル以上の負担が残る。賠償金は同国の主な収入源である石油収入から支払っている。

政府報道官は、イラクは自国のためにも資金が必要であり、既に十分な額を支払ったと主張。「サダムが他者に損害を与えたことは認めるが、もう十分だ」「破壊された自分たちの国を再建するためにできる限りの資金が必要だ」と述べた。

両国の国境は国連の手を借りてようやく確定したが、双方にとって未解決の問題は残り、イラクの約200世帯は転居を迫られている。

両国間に今も残るこうした緊張の緩和に向けて、クウェートのナセル首相は12日、バグダッドを訪問した。同国高官のイラク訪問は数十年ぶりとなる。イラクのマリキ首相も近くクウェートを訪問する見通しだ。

一方で、両国関係に進展の兆しはあっても、根本的な問題は両国の信頼関係の欠如にあり、その構築は容易ではないと指摘する声もある。>
(CNN.co.jp 1月17日(月)11時51分配信)

サッダーム・フセイン 1937年4月28日―2006年12月30日)死は絞首刑による。日本語の慣例ではサダム・フセイン、または単にフセインとすることが多い。

1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任した。

1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、近代イラク成立以降からイラクのナショナリストらによってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。

サッダーム政権は、1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言し、国連安全保障理事会からの撤退要求を黙殺した。

しかし、アメリカ合衆国をはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカ合衆国を主力とする多国籍軍に敗退した。

イラク軍は負けた腹いせであるかのようにクウェートの米石油企業の油井を含む732本の油井を破壊しており、300人以上のクウェート人捕虜をイラク領内に連行し、撤退した。

湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカ合衆国を主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器などの大量破壊兵器は廃棄したという。しかし相変わらず独裁体制だけは行っており、クウェートにまともに補償もしなかった。

クリントン政権時代はイラクを仮想敵国とみなしていたために米英軍は空爆を行っており、イラクと友好関係のロシア、中国、フランスが空爆に反対していた。

しかしサッダームは中国・ロシアとは貿易をしていたものの、北朝鮮の金正日体制と違い、後ろ盾として味方にはつけなかったため、のちにアメリカに攻撃を受けた。

2003年3月20日、アメリカ合衆国大統領ブッシュは予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。

4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。後にFBIの取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。

5月2日、ブッシュ大統領はペルシア湾上に浮かぶ空母にて演説、「戦闘終結宣言」を出した。

2003年12月13日、サッダームはアメリカ合衆国陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり、身の周りの世話をしていた旧政権支持者の子息2人と共に逮捕された。

拳銃を所持していたが抵抗や自決などはしなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えた。

また、サッダームの拘束作戦に参加していた元米兵による「大統領は拘束時、地面に掘った穴に隠れていた」とされる米軍発表は捏造だったとする証言もある。

証言したのは、レバノン出身の元米海兵隊員。アラブ系8名を含む20名の部隊に所属。サッダームを3日間、捜索していた。それによると「拘束時、部隊は激しい抵抗に遭い、米海兵隊員1名が死亡した」「大統領自身も建物の2階の部屋の窓から発砲してきた。

我々はアラビア語で『抵抗しても意味はない。降伏すべきだ』と叫んだ」「フセイン大統領が、拘束時に穴に隠れていたとする映像は米軍がデッチあげたもの。あの穴は使われなくなっていた井戸だった」という。この元隊員によれば、部隊が大統領を実際に拘束したのは12月12日で、米軍発表の前日だという。

2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラーム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。

2006年12月30日、サッダームは、米軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。

アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。

刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。

その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたが、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参りを止めるよう命じた。(ウィキペディア)2011・1・17

◆本稿は、1月18日(火)刊の「頂門の一針」2158号に
掲載されました。その他寄稿者の卓見もご高覧下さい。

◆<2158号 目次>
・湾岸戦争から20年:渡部亮次郎
・産経・FNN調査の内閣支持率は28・3%:古澤 襄
・チュニジアの「ジャスミン革命」をどう読むか:宮崎正弘
・政治家の涙:古森義久
・おじいさんは車で買い物へ:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月16日

◆NYのカレーライス

渡部 亮次郎

アメリカへ行くと、どういうわけか焼き魚とカレーライスが食べたくなったものだ。ところがアメリカ人はおしなべてカレーの匂いが大嫌いだそうで、どのレストランでもメニューには無い。

また魚を焼く匂いは人間を焼く匂いだといって厭がる。ロスアンジェルスでは、なんとか、ボイルで勘弁してくれないかといわれた。あれから何十年、事情は変わったろうか。

先ごろ某市のレストランがNYのど真ん中マンハッタンにカレーライスの食堂を進出させたというニュースがあったが、大丈夫だろうかと思ってしまう。客は日本人と何国人だろう。匂いが厭だと周囲から文句を付けられないか。

1970年代の終わりごろからニューヨークでNHK特派員をしていた堀 徹男君は元はといえば政治部の同僚だった。NYではメイン・ストリートの五番街に程近いアパートで奥さんと2人暮らしだった。

この奥さんは数年前、東京で急死されたが、早くにNHKを退職した私だからネット・ワークが及ばず、とうとう葬儀に参列する事はできなかった。それが未だに気がかりであるぐらい、堀夫人には世話になったのである。

何を隠そう、NYでカレーライスを作って戴いたのである。下手をすると、アパートの管理組合に呼び出され、退去を命じられる危険を冒しての「冒険」を強いたのである。

カレーソースを手軽に作るため、日本では市販の即席カレールーが使われている。製品としての粉末の即席カレールーはハウス食品が1926年に(商品名・「ホームカレー粉」)、固形の即席カレールーは、エスビー食品が1954年にそれぞれ日本で最初に製造した。

2004年度のカレールー(家庭用即席カレー)国内出荷額は676億円とされ、各社のシェアはハウス食品約61%、エスビー食品約28%、江崎グリコ約10%と推計される(日本経済新聞社)寡占市場である。

しかしNYでは当時、そんな物はどこにも売っていない。堀夫人はどこをどう捜して私にカレーライスを作って下さったのだろうか。今では謎である。

いずれ話はワルドーフ・アストリア・ホテルに滞在中だった園田外務大臣にばれた。「ナベしゃん、ワシも食いたかったとバイ」とこぼされた。

カレーライス 肉や野菜を、さまざまな香辛料をブレンドしてつくられたカレー粉で調味したカレーソースで煮こみ、米飯にかけて食べる料理。ライスカレーともいう。

カレーの語源は、ソースを意味するタミル語のカリだといわれている。もともとはインド料理であるが、日本へは1859年(安政6)の開港以降イギリスから伝えられたとされている。国産のカレー粉は1923年(大正12)山崎峯次郎によりつくられ、発売された。

本場インドのカレーは粘り気がなく、また、ヨーロッパでは米飯は副えものであるのに対し、日本では米飯が主で、かけるソースもとろみがある(小麦粉=ビタミンB1が多い)という日本独特のものとして発達した。

薬味に福神漬けやラッキョウを副えるのも日本特有である。固形の即席カレーが1954 (昭和29) 年ヱスビー食品から初めて売り出されて以来、さまざまな味の即席カレーが各社から発売され、カレーライスは家庭料理だけでなく、レストランなどのメニューでも定番となっている。

カレーソースに用いる主材料によって、ビーフカレー、ポークカレー、チキンカレー、野菜カレーなどがある。関西と関東の食肉文化の違いから一般的にカレーといえば関西では牛肉を使用したビーフカレーが、関東では豚肉を使用したポークカレーが定番とされている

またカレーライスにカツをそえたカツカレーや、うどんにカレーソースをかけたカレーうどんといったものもある。

カレーライスが全国に広まることとなった経緯として「戦前、普段米を食べることが少ない農家出身の兵士たちに白米を食べさせることになった海軍だったが、当初カレーには英国式にパンを供していた。

しかし、これは概して不評だったため白米にカレーを載せたところ好評となり、調理が手早く出来て肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを兵員食に採用した。

その後、除隊した兵士がこのカレーライスを広めたため、全国に知られることになった」という説がある。日本の海軍は英国から習得したものだからである

ただし、陸軍が普及に貢献したとする説もある。いずれにせよ、日本においては軍隊がカレーの普及に大きな役割を果たしたとみられる。


2011年01月14日

◆仙谷氏は国対委員長に

渡部 亮次郎

官房長官仙谷氏の退任は13日になって新聞各紙が一致したが、一時は副総理も囁かれた、次のポストについて「国対委員長」と初めに報じたのは毎日だった。

また昔は自民党内閣の閣僚、現在は「たちあがれ日本」共同代表与謝野馨氏の離党しての入閣を、初めて確定的に報じたのは時事通信だった。

<内閣改造 、代表代行兼務…最終調整
菅直人首相は12日、仙谷由人官房長官を交代させ、後任に民主党の枝野幸男幹事長代理を充てる意向を固め、党大会翌日の14日に内閣改造を行う最終調整に入った。

仙谷氏は党代表代行で処遇し、「ねじれ国会」対策の責任者として国対委員長を兼務させる方向。昨秋の臨時国会で仙谷氏とともに参院の問責決議を受けた馬淵澄夫国土交通相も交代させる。

菅政権の内政・外交を取り仕切ってきた仙谷氏は「影の首相」と呼ばれ、交代させた場合の打撃を懸念する首相はギリギリまで続投を模索。しかし、自民、公明など野党は「仙谷氏続投なら審議拒否」と宣告し、

民主党出身の西岡武夫参院議長も「院の決議は重い」と野党に同調。通常国会に提出する11年度予算案の審議や、首相が「政治生命をかける」と意気込む社会保障と税の一体改革へ向けた与野党協議を進めるには、野党との協調を優先した方がいいと判断した。

臨時国会で野党に政策協議を呼びかけながら失敗した反省から鉢呂氏を交代させ、重量級の国対委員長として仙谷氏に代表代行と兼務させることで野党対策を強化。仙谷氏の「更迭」色を払拭するだけでなく、政策ごとの部分(パーシャル)連合や将来的な連立組み替えもにらんだ「攻めの国対」を打ち出す狙いがある。

ただ、自公両党は11年度予算案に反対する方針を示し、子ども手当法案など予算関連法案が成立する見通しは立っていない。自民党は予算審議を行き詰まらせる「3月危機」によって衆院解散・総選挙に追い込む構え。

同党幹部は12日夜、「仙谷国対」について「仙谷氏には『ふざけるな』という感情がある。なかなか調整には応じられない」と拒否感を隠さない。

公明党は自民党とは温度差があり、山口那津男代表は11日、日本記者クラブの会見で「党の役職は何であれ、直接の問責の対象ではない。そこまで拡大して考えるべきではない」と述べ、仙谷氏が党の要職に起用されても反発しないことを示唆している。

首相は公明党との連携を期待しており、そのためにも民主党の小沢一郎元代表の「政治とカネ」の問題にけじめをつける必要があると判断。仙谷氏の後任に小沢氏批判の急先鋒(せんぽう)、枝野氏を充てることには「脱小沢」路線の堅持を明確にする意味がある。>
毎日新聞 1月13日(木)2時32分配信

<官房長官、枝野氏で調整 与謝野氏入閣も検討
仙谷官房長官の後任をめぐっては、首相は当初、幹事長として政権運営を支えた岡田氏の起用を検討していたが、岡田氏は慎重姿勢を崩さなかった。このため、昨年6月の菅内閣発足当初に幹事長に抜擢した枝野氏起用で調整することになった。

官房長官で調整している枝野氏を補佐するため、仙谷氏は首相補佐官などのポストで首相官邸に残すことが検討されている。

昨年11月から12月にかけて首相は自ら与謝野氏と会談を繰り返し、民主党との連立を打診した経緯もある。

首相側はすでに、与謝野氏側に対して入閣に向けた非公式な打診をしている。13日にも改めて入閣などを求め、条件が整えば与謝野氏がたちあがれ日本を離党し、入閣する方向。ただ、首相補佐官となる案も取りざたされている。> (Asahi Com 2011年1月13日4時0分)

<与謝野氏が離党へ=政府の要職に―たちあがれ
たちあがれ日本の与謝野馨共同代表は13日、内閣改造に合わせて政府の要職に就くため離党する意向を固めた。同日午前にも離党届を提出する。同氏の周辺が明らかにした。

同党は昨年末、菅直人首相から打診された連立を断ったが、首相との折衝に当たった与謝野氏は参加を主張していた。> 
時事通信 1月13日(木)8時59分配信

<与謝野氏は13日午前、東京都内で同党の平沼赳夫代表に離党届を提出した。

与謝野氏は13日午前、都内の自宅前で記者団に「離党届を出すことは1週間前から決めていた」と語り、離党届提出後、国会内で行った記者会見では「政策に現実性を与えるつもりで仕事をしてきた」とし、最重要課題として財政再建や社会保障制度改革、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を挙げ、「できることがあれば(菅内閣を)手伝いたい」
と述べ、政権入りへの意欲を示した。

与謝野氏は無所属で活動する。平沼氏は与謝野氏との会談で「それなりの考えがあることは理解する」と述べたが、離党届の扱いは保留した。

与謝野氏は昨年11月以降、首相と2回にわたって会談するなど、菅政権への協力を探っていた。しかし、同12月27日にたちあがれの連立政権入りが破談になったことに不満を持ち、以後は党の会合を欠席していた。

首相は消費税率引き上げによる財政再建論者の与謝野氏を閣内に取り込むことで、6月にも方向性を示す税と社会保障制度改革論議に道筋をつけたい考え。社会保障の抜本改革には自民、公明両党も賛同しており、与謝野氏に野党との橋渡し役を期待する狙いもあるとみられる。

与謝野氏は当選10回で72歳。自民党時代には党政調会長、官房長官、財務・金融・経済財政担当相など要職を歴任した。政権交代後の昨年4月、谷垣禎一総裁の党運営を批判して自民党を離党し、平沼氏らとたちあがれ日本を結党した。(毎日 13日)

今回の結果、菅首相の政治力は弱体化し、人材払底の現状も露呈した。菅政権の命脈は長くは無い。2011・1・13

◆本稿は、1月14日(金)刊の「頂門の一針」2154号に
掲載されました。

◆<2154号 目次>
・仙谷氏は国対委員長に:渡部亮次郎
・小沢問題はいま :古森義久
・TPPに日本は参加すべきでない:宮崎正弘
・対中戦略は無いのか?:櫻井よしこ
・町おこしの“火起こし組”を:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月13日

◆改造は14日 仙谷焦点

渡部 亮次郎

<こうした中、菅首相は12日朝、岡田幹事長に対して内閣改造を14日に行うことを伝えた。最大の焦点は仙谷官房長官の処遇だが、首相側近の一人は「菅首相は代えたくないだろうが、代えざるをえないと思っているようだ」と話している。しかし、首相周辺には「続投させるべきだ」との意見も残っており、後任の調整も絡んで、まだ紆余(うよ)曲折も予想される。>
日本テレビ系(NNN) 1月12日(水)17時3分配信


内閣改造を控えた菅首相は注目の人物仙谷由人官房長官の留任もしくは副総理への横滑りを含む閣内残留を策して秘策を練ってきたが、産経系列の「夕刊フジ」は2011.01.12の紙面で、

<菅ついに「仙谷外し」決断へ 西岡が引導“居座り工作”頓挫>と報じ「悲観論」を伝えた。

<菅直人首相(64)が探っていた「影の宰相」こと仙谷由人官房長官(64)の留任が、ついに頓挫しそうだ。菅首相から留任を直訴された西岡武夫参院議長(74)が、「仙谷長官のままでは参院本会議開会を認めないこともある」と強く反発したためだ。

無任所の副総理として閣内に残すウルトラCも検討されているが「仙谷外し」の外堀は埋められつつある。

西岡議長は11日の会見で、「参議院の総意として、閣僚に対して辞任要求を伴った問責決議案が可決した以上は、閣僚は辞任すべきであると確信している」と述べ、仙谷氏の辞任を強硬に迫った。

これには伏線がある。西岡氏は10日夜、参院議長公邸で菅首相と会談。関係者によると、菅首相は遠回しな表現で仙谷氏が留任した場合の対応などを聞いたためだ。

菅首相はニヤニヤしながら議長公邸を後にしたが、「西岡氏から『参院は通常国会冒頭から全面ストップの可能性が高い』などと具体的な事態を聞き、かなりショックを受けていた」(首相周辺)という。「仙谷続投」に、事実上赤信号がともった瞬間だった。

菅首相と仙谷氏は、「仙谷氏が細かな政策を交通整理し、菅首相が重要政策を判断する。2人の役割分担はうまく機能していた」(政府関係者)という、切っても切れないほどの仲。それだけに、菅首相は何とか仙谷氏を官邸内に留めるよう模索してきた。

前原誠司外相(48)や蓮舫行政刷新担当相(43)、枝野幸男党幹事長代理(46)らが「問責に法的根拠は乏しい」などと、仙谷氏続投を求めていたことも追い風にしていた。

しかし、参院で多数を握る野党は「仙谷氏は『国務大臣』として問責決議を受けた。閣内に残るなら、参院での審議拒否は変わらない」(参院自民党幹部)と一歩も退かない構え。

菅首相が通常国会で協力を渇望する公明党も「明確な誠意ある対応がなければ、われわれは審議には応じられない」(山口那津男代表)とハードルを上げつつある。

それだけに、枝野氏らが進言する「残留のまま通常国会を正面突破」する案は、本会議開会の権限を持つ西岡氏が野党側と同一歩調を取る以上、難しくなったと判断したとみられる。

ただ、西岡氏は「首相はまだ決断していないと感じた」と話しており、仙谷氏をめぐる菅首相の迷走はまだまだ続きそうだ。>(夕刊フジ 2011.01.12)

一方党内でも。
<岡田克也幹事長は10日、訪問先の那覇空港で記者会見し、参院で問責決議された仙谷由人官房長官の処遇に関し、「参院の意思が示されたのは真摯(しんし)に受け止めなければならない」と述べ、17日に予定される内閣改造で仙谷氏の交代は避けられないとの見通しを示した。>(11日産経新聞)

「退任やむを得ず」 仙谷氏処遇で藤井氏民主党の藤井裕久元財務相は7日、TBSのテレビ番組収録で、内閣改造の焦点となっている仙谷由人官房長官の処遇に関し、通常国会での平成23年度予算案と関連法案の審議で野党の協力を得るため退任はやむを得ないとの認識を示した。

理由について「国民生活に直結した予算を放っておくわけにはいかない」と指摘。同時に「問責決議を受けたから辞めるというのは、本当はおかしい。民主党が野党のときにやったことは反省すべきだ」とも述べた。藤井氏は6日に仙谷氏と会談している。 (産経ニュース 2011.1.7 22:47)。2011・1・12 

◆本稿は、1月13日(木)刊「頂門の一針」2153号に
掲載されました。
◆<2153号 目次>
・改造は14日 仙谷焦点 :渡部亮次郎
・何!馬鹿も休み休み言え:西村眞悟
・離島防衛を主眼とした海兵隊の創設が必要:古澤 襄
・手分けして機密漏洩を釈明の旅:宮崎正弘
・やれるぞ!日本:MoMotarou
・地元志向は若者の苦渋の選択?:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月12日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎

毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣、佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいた。

1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否し、ミサイルで撃墜されたとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。林彪事件には今なお謎が多い。

林彪を失った毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたトウを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。


2011年01月10日

◆中国にはびこる“ヤミ移植”

渡部 亮次郎

中国にはびこり、日本人の利用者もかなり多いとは”ヤミ移植“。神戸市の 60代男性が腎臓移植費用名目で約1千万円をだまし取られたとして、元民間団体幹部ら2人を詐欺罪で告訴したと報じられたばかり。

しかし、予想では、この種の真相取材が中国政府に規制されているらしく、実態はなかなか報じられない。そうしたなか産経新聞は9日、社会面のいトップで「年間1万例超、「大国」の実態は」と報じたので紹介する。
 
中国は2007年に外国人への臓器移植が原則禁止されたものの、水面下では今でも“ヤミ渡航移植”が横行している。年間1万例以上の臓器移植が行われる「移植大国」。豊富な臓器の供給源は死刑囚とされ、人道的立場から国際社会の非難も浴びてきた。中国の臓器移植の実像を追った。
 
 ■“袖の下”要求も…

「腎臓移植にかかる費用は、総額で800万〜1200万円。中国人に少ない0型の血液型の場合は費用がさらに割高になる」数年前まで中国の移植病院とつながりのある医療機関のスタッフだった男性は中国での外国人の腎臓移植費用についてこう証言した。

男性によると、費用の内訳は治療費、手術費のほか、スタッフの渡航、滞在費▽ドナー(臓器提供者)の臓器状態の確認費▽移植病院との連絡費▽入院中の食費−など。

最近では数百万円単位の“袖の下”を現地病院から要求されることも増えている。手術前に費用を払わなければ待機入院さえできないため、神市の男性のように患者が事前に現金を支払うのが慣例だという。

「年間10人程度の患者を中国の病院に紹介した。日本人特有の死生観や国の啓発活動不足で国内の移植医療は広がらない。ドナー不足の現状では患者は海外に希望を見いだすしかない」。男性はこう主張する。
 
 ■禁止も外貨魅力で…

国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、中国で1年間に執行される死刑数を「少なくとも数千件」と推計している。中国で実態調査を行った岡山大大学院の粟屋剛教授(生命倫理学)によると、中国では死刑囚からの臓器提供が認められており、「臓器提供の9割は死刑囚」とされる。

年間1万例以上の臓器移植が実施されているにもかかわらず、その流れは不透明だ。日本では国の許可を受けた社団法人日本臓器移植ネットワークが臓器の斡旋(あっせん)を行う唯一の機関だ。

しかし、医療機関の元スタッフの男性によると、中国にはネットワークのような組織は存在せず、医師と刑務所の関係者の個人的ルートで臓器斡旋が行われるのだという。

死刑囚ドナーや不透明な臓器の流れは世界保健機関(WHO)や人権団体などから批判を浴び、中国は07年、臓器売買を禁じる法律を制定した。原則的に外国人への移植も禁じた。

それでもヤミの移植は依然として続いている。

粟屋教授は昨年、上海で軍経営の病院など3医療施設で渡航移植の調査を実施した。窓口で「この病院では移植が受けられるか」と尋ねたところ、「(移植は)直接医師に交渉してほしい」といわれたという。

「中国国内の移植可能施設は約400。高価な移植設備とスタッフ、技術をそろえた施設はもうけが出る外国人の移植をやりたい。中国政府も外貨を稼ぐことができるゆえに、大目にみている部分はあるだろう」粟屋教授はこう指摘する。

 ■国内移植の増加を

「中国で移植を受けても成績はよくない。みんなが元気になれるわけではないといっているのだが…」

こう話す東邦大学の相川厚教授(腎臓学)のもとには、中国で腎臓移植を受けてきたという患者が救急搬送されてくる。術後の管理が悪いため感染症を引き起こし、亡くなるケースも少なくない。

日本移植学会は倫理指針で、死刑囚からの臓器移植を「ドナーの自由意思を確認することが困難」として国内外問わず禁じている。

相川教授はいう。
「藁(わら)にもすがる気持ちで臨むのだろうが…。われわれができることは、国内の移植件数を増やすことぐらいだ」
(産経ニュース2011.1.8 23:21)
  

2011年01月08日

◆あり得る仙谷留任

渡部亮次郎

<国会召集28日軸に…首相ら協議
菅首相(民主党代表)は6日午前、首相官邸で民主党の岡田幹事長らと会談し、通常国会の召集日程や小沢一郎元代表の衆院政治倫理審査会(政倫審)招致問題などを協議した。

召集日について結論は持ち越したが、28日を軸に調整している。

小沢氏の招致問題では、岡田氏が「小沢氏に(政倫審出席を)働きかけていく」と経過を説明した。内閣改造・党役員人事は議題に上らなかったという。>
読売新聞 1月6日(木)14時35分配信

この通りだろう。内閣改造は既定の方針だから、中身は菅首相の胸先三寸、最早秘中の秘。余人は口を出せない段階に至った。おそらく民主党大会の13日以降に具体化するだろうが、更迭の対象と予想されていた官房長官がこのところ欝状態と思いきや、なんと躁状態とも言いえるほど張り切っている。

民主党内部には野党批判の及ばない党代表代行への転出という予想があるが、私は予想外!官房長官留任がありうると思う。大変な賭け。外れたら怖いから新聞もテレビ、ラジオも書けない。

留任説の根拠は、菅内閣における仙谷氏の「位置」である。政策のすべてについて情報を収集し、内閣としての決断を下しているのは首相ではなく官房長官たる仙谷氏である。

この事は普天間問題はともかく、菅内閣にとって危機的外交決断のすべてを仕切ったのが首相ではなく仙谷氏だったことが如実に証明している。

菅氏はそれなりに政治家として経歴は伸ばしてはいるが、政府与党責任者として懸案を決断し、責任を負った経験は少ない。

そこへ行くと仙谷氏は弁護士としての経験から「懸案処理」には自信を持って立ち向かえる。だからこそ尖閣事件の処理に率先して先頭に立ったのである。

事ほど左様に、いまや仙谷「官房長官」抜きの菅政権歯考えられなくなっている。自民党政権では、官房長官が首相抜きに政権の生殺与奪の権を握ったと言う例はなかった。

しかし、初めて政権を握った民主党だからこそあり得る現象なのだ。
市民運動の経験は政局運営には全く役に立たない。そこへ行くと「法廷闘争」で「権力」と具体的に戦った仙谷氏の弁護士経験は、菅氏の政権維持に必要欠くべからざる「核」である。

仙谷官房長官を失えば菅は倒れる。いまや 菅首相はそれを強烈に意識せざるを得ないところへ追い込まれている。

これに対して党内からは対立する小沢グループや、民主党出身の西岡参院議長が仙谷氏の交替を求めている。野党も参院で問責決議をうけた仙谷氏らが辞任しなければ通常国会の審議を拒否するといっている。

ここに重点を置いて改造劇を展望すれば仙谷更迭がけつろんになるが、菅首相が「政権しがみつき」を優先する以上、仙谷残留は十分考えられる。野党の「審議拒否」も長続きはしない。2011・1・6

◆本稿は、1月8日(土)刊の「頂門の一針」2148号に
掲載されました。他の卓見もご高覧ください。
◆<2148号 目次>
・あり得る仙谷留任:渡部亮次郎
・菅首相:揺れる胸の内 焦点の仙谷処遇は:古澤 襄
・西岡参院議長が「菅・仙谷には国を任せられない」:古澤 襄
・中国、「分散投資」を展開:宮崎正弘
・梅ヶ枝の手水鉢:上西俊雄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2011年01月03日

◆糖尿あってこその息災

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。その夜だけははやはりイン・ポテンツになった。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代に既に発症していた。また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという自覚もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病院。現在は慶応義塾大学の支配下にある。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ東京高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから22年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて5月27日に受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった)といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。(その友人が10月、脳梗塞のため58と言う若さで先に逝ってしまった)。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きるこうした「合併症」で死ぬのだ。

それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して、結果として半身不随などの後遺症が残るが、3時間以内にTPAを処方すれば無事だとか。

血栓が出来ないように、血液をさらさらにする薬「ワーファイン」を2年まえから服用している。薬の効果を維持する為禁止されている食物がある。それが納豆、乾燥若布、クロレラ。納豆はもともと嫌いだから問題は無い。

糖尿があればこそ、1日2回での1万歩散歩など医師の言いつけを守っている。ここ20年は風邪も引かない。植物性乳酸水で業病「花粉」も克服した。2011年を迎え、1月13日には晴れて「後期高齢者」となる。当に「一病息災」である。2010・12・31


2011年01月01日

◆内閣改造の危険性

渡部亮次郎

<内閣改造が政局にもたらす影響は「両刃の剣」とされ、過去の政権では寿命を縮めた「失敗例」も少なくない。>と以下の読売は指摘している。しかも首相は大規模な改造に前向きだ。仙谷氏の交代も考えているのではないかと受け止められている。危険を知らないのだ。

自民党時代、福田赳夫内閣で初代の官房長官だった園田直氏に聞いたことがある。「内閣改造で首相は何人ぐらいを候補者として挙げるのか」「ずばり80人だ」。私は30人ぐらいと予想していたので驚いたものだ。

実を言えば赳夫内閣発足後、1年経っての改造だったが、当の本人が足元をすくわれて官房長官を更迭され、ただ1人とはいえ横滑りで外務大臣にはなったが、更迭はよほどハラに据えかねたと見え、陰では露骨な反福田になって行った。

園田氏は何をしたか。昔からライバルだった田中角栄氏に急接近、大平正芳政権の樹立に尽力することになる。外務大臣としては懸案だった日中平和友好条約の締結に積極的だったので福田首相も油断していた。

じつは首相の首席秘書官をしていた長男康夫氏が度々私を呼び出して福田氏の総裁再選への園田氏の協力を求めたが、私は園田氏の動きの真実は絶対明らかにしなかった。

園田氏が田中角栄氏と会うのは必ず午前5時の田中邸。記者は一人も張っていなかったから秘密は守られた。田中氏への連絡役は、初めは政務次官(田中派)だったが次からは私と、相手は早坂茂三氏になった。

私は若い頃、田舎の警察周りを勤めた時、警察車庫のパトカー前に寝たことがある。それで実績を挙げても野田が、政治記者も試しにあのころ午前5時の田中邸を見張れば特種が取れたろう。

それで1年後の秋、マスコミの予想を大きく覆して総裁選は大平氏の大勝。赳夫氏は「天の声にもたまには変な声がある」と迷文句を吐いて官邸を後にした。

改造は80人に希望を持たせるが辞めてゆく20人には敵意を抱かせる。古狸は敵意に注意するが、初心者は希望だけを感じてしまって、その後のカジ取りを間違う。

菅氏にその危険を感じる。改造と聞いて近寄ってくる人の多いのに迷ってしまうのだ。飛んでもないチョンボ人事をやってしまったりする。

読売が報じたところに依れば、支持率低迷期に内閣改造を行なって失敗した例は幾つもある。新しいところでは、08年8月、福田康夫首相が伊吹文明幹事長を財務大臣に起用、後任の幹事長に麻生太郎氏を指名し、支持率は27%から41%に上がったものの30日後に退陣せざるを得なかった例。

その前の安倍内閣では官房長官に与謝野馨氏を起用するなどの改造をしたが結局は健康状態の悪化は食い止められず16日後に退陣した。

森喜朗内閣。2000年12月、行政改革相に橋本元首相を起用。支持率は若干回復したが、内閣は力尽き4ヵ月後に退陣を余儀なくされた。

改造は内閣の精力を補強する特効薬に見えて結局、命取りにもなり得るのだ。桑原、桑原。

<改造の風そわそわ、官房長官・法相…飛ぶ憶測
菅首相が来年の通常国会召集前に内閣改造を検討する考えを示したことで、民主党内がざわついてきた。内閣改造が政局にもたらす影響は「両刃の剣」とされ、過去の政権では寿命を縮めた「失敗例」も少なくない。

参院で問責決議が可決された仙谷官房長官や馬淵国土交通相の処遇や、仙谷氏が兼務を続ける法相人事などを含め、様々な観測が飛び交い始めた。

ただ、首相は29日から年末年始の休暇に入った。この日昼には首相公邸に江田五月前参院議長ら菅グループの所属議員約30人を招き、約3時間にわたって懇談。

出席者によると、首相は今後の政権運営について、「いろいろ長期戦になる。一個一個片づけていく。まずは小沢さんの問題だ」と述べ、小沢一郎元代表の国会招致問題の早期決着に最優先で取り組む考えを示した。

出席者の一人は「首相は大規模な改造に前向きだ。仙谷氏の交代も考えているのではないか」と受け止めた。>

(読売新聞 12月30日(木)13時59分配信)

2010年12月31日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。

それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革はトウ小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞってトウを避けようとした。

トウの3度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

3度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活したトウ小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。
2010・12・30


2010年12月30日

◆小沢・仙谷刺し違いなるか

渡部亮次郎

小沢氏から「政倫審には出る」という返球を受けて、菅首相は通常国会前の内閣改造に言及せざるを得なくなった。口の軽いカンのこと、そのうち仙谷更迭にまで言及しかねない。

西村眞悟氏(前衆院議員)によれば12月27日、名古屋で会った塚本三郎元民社党委員長は「菅は、自分のことしか考えていない男だ。ただ、人を利用してのし上がってきた男だ。

人の世話はせず、ただ自分の保身のことだけを考えている。利用した人がどうなろうと知ったことではない。國がどうなっても彼の知ったことではない。

このたびの「たちあがれ日本」への連立申し込みも、彼の保身から出たことだ。これに乗れば、國を滅ぼすことになる」といったそうだ(「頂門の一針」12月29日号)

組閣以来、仙谷官房長官を最も頼りにしてきた菅首相だが、塚本説によれば、当座の苦境を脱せるならと、仙谷を簡単に捨てることも当然あり得るわけだ。

小沢氏が28日述べた中で政倫審出席が国会審議円滑化の条件となるのであれば通常国会冒頭に出席すると言う事は、仙谷氏が事前に更迭されていることを前提にしたものだからだ。

参院における問責決議案の可決の事情からすれば菅首相が仙谷氏を更迭する事はもはや不可避だが、他の閣僚ポストへの横滑りも可能性は無い。やれば野党の反発は今以上に厳しくなるからだ。

<菅首相(党代表)や岡田幹事長らは28日、首相官邸で行った協議で、「通常国会前に小沢氏の政倫審出席を議決する」とした27日の党役員会決定に基づき、手続きを進める方針を確認した。協議では小沢氏への批判が相次ぎ、出席者の一人は「『小沢切り』の流れに変わりはない」と明言した。

小沢氏は28日夜、側近議員に「条件を付けた覚えはない」と漏らし、首相らの対応に不満を示した。

しかし、首相たちには小沢氏に厳しい姿勢をとり続けることで「政治とカネ」の問題解決に積極的だとアピールする狙いがある。

執行部は政倫審への対応とは別に、小沢氏が強制起訴された時点で離党勧告を突きつけることも検討しており、「処分の方が重要な目標だ」との声もある。

ただ、執行部も、参院で問責決議が可決された仙谷官房長官らの進退問題の判断を迫られている。首相は28日夜、首相官邸で記者団に内閣改造について「次の通常国会までに強力な体制をつくりたいと、今考えているところだ」と述べ、通常国会召集前の内閣改造の可能性に改めて言及した。

首相周辺では、「内閣改造で仙谷氏が閣外に退くと同時に、小沢氏を離党に追い込む手もある」と、仙谷氏と小沢氏の刺し違えによって事態打開を図る案も浮上しているが、首相と岡田氏らの協議は1月5日に再開するとしており、民主党内からは「党を取り巻く状況は日々悪化しているのに、危機感がなさ過ぎる」と嘆く声も出ている。> (読売新聞 12月29日(水)13時6分配信)

菅首相は元日、小沢邸の向こうを張るかのように首相公邸で新年宴会を挙行するそうだが、官房長官の仙谷氏を欠いた新年の政局運営は元日が三途の川になっていないとも限りない。2010・12・29

-◆本稿は、12月30日(木)刊の「頂門の一針」2139号に
掲載されたものです。他の卓見もご欄下さい。

◆<2139号 目次>
・政倫審出席をめぐる小沢氏の深謀:花岡信昭
・小沢・仙谷刺し違いなるか:渡部亮次郎
・打倒!動物政権:MoMotarou
・日本は独立自尊の国:加瀬英明
・キリスト教はカルトである:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月29日

◆小沢を嫌悪 菅には唖然

渡部亮次郎


小澤は菅を嵌めた。端(はな)からハラを固めていたのだ。バカを見たのは岡田原理主義者。小澤は屈服したように見せて逃げおおせる心算だ。執行部の方針を受け入れることで、参院で問責決議が可決され、野党が国会審議に絡めて交代を求めている仙谷由人官房長官に対し、「けじめ」を迫る狙いもあるのだ。

だから以下の報道は後ろから先に読まなければならない。前から読むと「小沢屈服」に読め、後ろから読むと「小沢勝利」と読める。

<政倫審出席を表明=執行部方針受け入れ―小沢氏

民主党の小沢一郎元代表は28日午後、衆院議員会館で記者会見し、自身の政治資金の問題を説明するため、「衆院政治倫理審査会に出席する決意をした」と表明した。

その上で「私が(政倫審に)出席しないと国会審議が開始されない場合は、通常国会冒頭に出席する。そうでない場合は予算成立後、速やかに出席したい」と述べた。

小沢氏は会見に先立ち、都内の事務所に鳩山由紀夫前首相を訪ねて政倫審出席の考えを伝えた。

年明けにも強制起訴される小沢氏の国会招致をめぐっては、菅直人首相や岡田克也幹事長ら党執行部は繰り返し、政倫審への出席を要請。

これに対し、小沢氏は「裁判で潔白を証明する」などとして、拒否する姿勢を示していた。このため、同党は27日の役員会で、出席に応じなければ、1月召集の通常国会までに政倫審で招致の議決をする方針を確認。首相は出席できないなら、小沢氏に自発的な離党を暗に求めていた。

小沢氏は党内外の自身への厳しい空気を踏まえ、出席せざるを得ないと判断したとみられる。

一方で、執行部の方針を受け入れることで、参院で問責決議が可決され、野党が国会審議に絡めて交代を求めている仙谷由人官房長官に対し、「けじめ」を迫る狙いもありそうだ。>(時事通信 12月28日(火)14時12分配信)

菅首相を始め民主党執行部は「政倫審への出席を要請」と言う要求を小沢氏に飲ませたことで祝杯でも挙げかねない。だが小沢氏にしてみれば政倫審に出たところで何も解明されなければ欠席したのと同様。

多分、小沢氏は滔々と弁舌をふるうだろうが、検察庁でさえ破ることのできない小沢壁を破れる人物が国会にいるはずが無い。小沢氏はだから「渋々ながら」とみせて菅首相らの要求を受け入れた。だが、それだけの話。事態はなんら変わっていない。

小沢氏の本心は仙谷斬りにある。小沢氏も実は左翼だ。同じ左翼の仙谷との喧嘩は「近親憎悪」。だから仙谷氏の「小沢切り」は本気であり、厳しいものがある。小沢氏はそれに気づいている。

そこでここは屈服したように見せながら、「俺がケジメをつけたと同様、仙谷の問責可決問題にもケジメをつけろ」と菅首相に迫るハラ。それが実現しないまま党を追われたりしたら末代の恥になってしまうから、屈服したように見せて党に留まるハラを固めたわけだ。

「騒動」はこれで一応決着したように見えるが、これは喜劇ではなく悲劇の始まりに過ぎない。民主党の凋落が待っているからである。

菅氏らは小沢切りを徹底すれば内閣も党の支持率もV字型に回復すると思っているようだが、人気は回復しない。

地方選挙の情況を分析してみると、確かに昨年、民主党を支持した有権者は、確かに小沢の金権体質を嫌ってはいるが、それよりも呆れているのが菅首相の政治家としての能力の欠如なのである。

選挙には当選する術は心得ているが政治家としては無能力者だったことを知らされた慨嘆が感じられる。

小沢切りは、ここ数日囁かれている、連立問題の条件だったかもしれない。斡旋に走っている人物が拘っているのかもしれない。しかし27日に「たちあがれ日本」が連立参加を拒否して、一旦は終わりになった。たちあげれの断った連立を自民や公明が受けるはずが無い。菅内閣は完全に泥舟になった。           2010・12・28

◆本稿は、12月29日(水)刊の「頂門の一針」2138号に
掲載されました。他の寄稿者の卓見もご覧下さい。

◆<2138号 目次>
・小沢を嫌悪 菅には唖然:渡部亮次郎
・菅との連立などあり得ない:西村眞悟
・1月13日の民主党大会は大荒れ?:古澤 襄
・中国のアフリカ進出は侵略的で悪質:宮崎正弘
・スナックの時代終わる:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月27日

◆虎の威を借る

渡部 亮次郎


虎の威を借る狐、と習った。それを虎の威を借りる狐、と覚えている方もいらっしゃる。パソコンは古語軽視だから「刈る」と出て物議を醸す。

「故事 俗信 ことわざ大辞典」【小学館 昭和60年1月21日 第1版 第11刷発行】を引いて見た。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

他の権勢に頼って威張る小人物のたとえ。「虎の威を借る狐とは、きょろつく顔に現れたり」{浄瑠璃・壇浦兜軍記}

出典:「嘗不知鼠憑社貴 狐藉虎威」(沈約 恩倖伝論)

「借る」は「借りる」の古語でしょう。

岩波書店が2000年10月18日に1945年生まれ、早稲田大学文学部卒業の「ことわざ研究会会員」時田昌瑞著「岩波ことわざ辞典」を刊行した。それは上記を参考にしたかどうかは知らないが、現代語訳の文章で詳しく説明している。

!)狐、虎の威を借る !)虎の威を借りる狐 弱者が強いものの権威をかさに着て、威張ることのたとえ。「借」は「仮」とも当てる。中国・漢代の『戦国策』(楚策)にある寓話に基づく。

狐が虎に食われようとした時、狐が虎に言う。自分は天の神に百獣の長になるように命ぜられている。自分の後についてくれば分るはずだ、と。虎が狐に従って行くと、他の動物は虎を見て逃げ出してしまう。それを見た虎は、なるほど狐の言う通りだと納得したというもの。

この話は、北方の国が楚の将軍を怖れているようだが、という楚王の問いに対して、北方の国は、虎である王の軍隊を怖れるのであって、将軍は、その威を借りた狐に過ぎないと臣下が説明するのに引き合いに出したものであった。

日本でも平安後期(説話『注好選』)・鎌倉時代から盛んに用いられたが、古くは異表現!)のように狐が先にくる形のものが多かった。

引用した以上を読むと、馬鹿は虎だ。百獣が逃げたのは、虎を見たからなのに、狐を怖れたとの誤解。どこかの国の大統領が狐、虎は中●じゃないか。