2010年08月24日

◆参院議長発言は越権行為

渡部亮次郎

<首相に対抗、敗れたら離党も…代表選で異例発言
西岡参院議長は23日、国会内で臨時の記者会見を開き、9月の民主党代表選に関し、「(首相に)対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。首相を蹴(け)落とそうとするのだから、敗れた場合、党を去ることも選択肢に入る」と述べた。

また「敗者に党の要職や閣僚ポストが与えられる仕掛けは茶番劇だ。政権政党が、甘っちょろい党内の陳腐な就職運動劇をしている余裕は断じてない」と指摘した。

政府・民主党役員人事での処遇を期待した候補擁立の動きをけん制したものと見られるが、政党会派を離脱中の議長が政党の党首選に言及するのは極めて異例だ。西岡氏は民主党所属国会議員として代表選の投票権は持っているが、自身は代表選で「投票する考えはない」とも述べた。>8月23日19時42分配信 読売新聞

立法府の長が、三権分立の建前を乗り越えて政府や政党の運営について発言するのは、異例に留まらず、明らかな越権行為に他ならない。

産経の報道によれば、<西岡議長は民主党会派を離脱中だが、党所属国会議員として代表選での投票権は持っている。議長の立場で言及した理由については「日本の政治には、もう『余白』が無くなっているからだ」と述べた。また、代表選に投票しない考えも明らかにした。>という。

確かに日本の政治には「余白」がなくなっている。しかし、だからと言って則を越えたこの異例発言は許されるものではない。いやしくも西岡氏は、民主党に推戴されたがゆえに参院議長に当選した。民主党の運営に対して発言すれが、一定の影響を与える。

だから特に発言したくなることは感情的には理解できるが、人間にはして良いことと悪いことがあり、今回の発言はしてはいけない越権行為であり、憲法無視の行為は、辞職に値する。2010・8・24

■本稿が掲載された8月24日(火)刊「頂門の一針」2019号です。
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■<目次>
・参院議長発言は越権行為:渡部亮次郎
・菅首相に制服はない:梅岡 弘
・虚偽と妄想を放置した代表選び:西村眞悟
・鴨緑江が決壊した・・・:宮崎正弘
・オックスフォードの改訂版:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月21日

◆巴里だより 歩きはじめたみよちゃんが

          岩本宏紀(在仏)

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去年の10月にジョギングを始めて8か月。
当初は5分走るのがやっとだったが、今では1時間でも問題ない。

走れない日は、「おんもに出たい。」と言っているみよちゃんの心境だ。

はじめの半年は体重も体脂肪率もほとんど変化なし。
ところがその後急激に減りだして、今では72 Kg が 68Kgに、
22% が 20%になった。

オランダには至るところに自転車専用道がつくってあり、
ジョギングにはもってこいの環境だ。
空気もきれいだ。
ときどき牛舎の匂いに攻撃されるけれど。

2010年08月20日

◆ハムレット?小沢一郎

渡部亮次郎

民主党代表選挙への小沢一郎前幹事長の去就に関して、19日の読売は本人がかなり積極的な態度に変わってきたような印象を与えた。

<民主党の小沢一郎前幹事長は18日、9月の党代表選について、小沢グループ以外からの幅広い支持が得られることを条件に出馬を検討する考えを周辺に伝えた。

小沢氏は党内の動向を慎重に見極め、来週にも最終判断する見通しだ。

出馬の条件として、小沢氏は具体的に、党内最大の約150人を擁する小沢グループを固めたうえで、「(鳩山前首相グループや)旧民社党系や旧社会党系の支持が得られるなら考えてもいい」と周辺に説明した。

周辺は、小沢、鳩山両グループ、旧民社党系、旧社会党系などとの連携により、国会議員の過半数の支持を固められると判断。

政策としては、自ら策定に携わった昨年の衆院選政権公約の実現を訴えるほか、参院選で大敗した菅執行部では次期衆院選で勝利できないと主張するとみられる。>読売新聞 8月19日3時5分配信。

これについて筆者が19日、小沢氏の健康状態に深く関心を寄せる医学関係者に取材したところ、小沢氏の顔色は尋常なものではなく「医学的な手段で生かされている状態」との証言を得た。

当然ながらこのような事は主治医から本人にも伝えられているはず。「総理の激務は務まらない」との説明に納得しているはずである。昼食後必ず1時間は休養しなければならない総理大臣など、憲政史上、存在したことは無い。

それにも拘らず、読売紙が小沢氏の積極姿勢をあえて報じた事は、側近から確証を得たからであろう。また別の筋からの情報では、小沢氏自らが決意表明の日時を「8月25(水)」に設定した以上、この際、出馬表明があるものと期待しているという。

読売が「菅首相はすでに出馬の意向を明らかにしており、小沢氏は党内の動向を慎重に見極め、来週にも最終判断する見通しだ」というのはこの点を指すのかもしれない。

しかし小沢氏には依然、大きな障害が立ちはだかる。例の検察審査会だ。4月に11人の審査員の全員一致で「小沢に起訴相当の議決」を下した東京第5検察審査会が、再度同じ議決を下せば、小澤氏は強制起訴で刑事被告人になる。

それを回避する便法が憲法75条だ。「閣僚は内閣総理大臣の同意がなければ訴追されない」とある。まかり間違って代表選に敗れたあとに起訴されでもしたら離党勧告で民主党を追放されかねない。

この筋書きからすると、この際小沢氏は自分の値段を出来るだけ釣り上げ、菅氏に売りつける必要がある。それが立候補への積極姿勢なのではないかという観測なのである。

いろいろと菅氏を悩ませた上で「この際は挙党体制を維持する為に立候補をあえて断念する」と25日に表明すれば菅氏は大喜びで入閣させるであろう。仙谷官房長官は反対するだろうが。

だからタイトルをハムレットとしたものの小沢氏は心中、せせら笑っているかもしれないのだ。入閣にさえ条件をつけ、例えば仙谷や枝野幹事長を放擲させる秘策すら練っているかもしれない。             2010.8・19

■本稿掲載8月20日(金)刊 全国版メルマガ「頂門の一針」2015号を
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■<8月20日刊・目次>
・ハムレット?小沢一郎: 渡部亮次郎
・もうひとつ沖縄でのネジレ:梅岡 弘
・脱北!露へ亡命途中だった:宮崎正弘
・デフレスパイラルの足音:平井修一
・アルピニスト野口健が聞いた声:伊勢雅臣
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記


2010年08月19日

◆滿洲想えば・・・

渡部 亮次郎

芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった音丸(おとまる=1906-1976)。芸者歌手は地方巡業に際して、時間拘束の費用として莫大な花代がかかる事から、苦肉の策として芸者と同じに小唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性をレコード会社で探していた。

その結果、麻布の末広神社近くの下駄屋の内儀であった永井満津に白羽の矢が立ったのだった。

昭和9(1934)年にレコードデビュー。芸名は音は丸いレコードから、という意味。翌年に古関裕而作曲の「船頭可愛や」がヒット。同曲を沖縄民謡の普久原恒勇が日本最高の歌謡曲と絶賛している。

散歩しながら音丸のMDで聴いていたら「満洲想えば」が聞えてきた。昭和11年生まれの私だが、よく覚えていた。幼くしてレコードで聴かされたのであろう。

「満洲想えば」は同年に敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満州に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの、という。

作詞=高橋掬太郎、作曲=大村能章。

1.ハア― またも雪空 夜風の寒さ
  遠い満洲が エー満洲が気にかかる
(以下省略)

国民学校(小学校)4年の時「敗戦」。それっきり 満洲の事は学校で習わぬまま老人になってしまった。

満州国(満洲国、まんしゅうこく、英語: Manchukuo)は、1932年から1945年までの12年間間、満州(現在の中国東北部)にれっきとして存在した国家。

日本領有下の朝鮮および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古自治邦政府と国境を接していた。

面積  1,133,437km2  人口1937年 36,933,206人
 
満洲 現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。

清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931年(昭和6年)、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発。

関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)、満洲国の建国に至った。元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚
羅溥儀が就いた。

愛新覚羅溥儀満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は関東軍及び日本政府の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

このことが、1933(昭和8)年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。その後ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国が満洲国を承認し、外交関係を持つこととなった。

第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月9日、ソビエト連邦(赤軍)による侵攻を受け、8月15日の日本降伏により崩壊。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還された。

その後の国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。

現在この地域を統治している中華人民共和国や、かつて統治していた中華民国は同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。

当時複数の国が満洲国を国家として承認していたものの、日本の敗戦とそれに続く極東裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、日本の傀儡政権との認識が現在においては一般的である。一方で「傀儡国家」ではなかったとする説もある。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満州国」と表記することがある。

若い頃、官僚として満洲に出向したことのある岸信介は、後にA級戦犯に問われながら無罪となり、首相に就任した。  2010・8・9

      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年08月17日

◆地上の蝉の寿命は1ヶ月

渡部亮次郎

私が幼少時を過ごしたのは秋田県の旧八郎潟沿岸に広がるコメ単作地帯。要するに水田の真ん中に数十軒の農家が集まった小さな集落。ただしすぐそばに国鉄(JR)の奥羽本線の駅が建っていた。

そんな集落だから花鳥風月とは無縁。夏に蝉の鳴く声を聞いたかどうか、記憶が定かでない。誰から教えられたか「蝉は地中に7年も暮らし、地上には僅かしかいない、可哀想だから捕るな」。

蝉のことはこうして知らずに74歳になったが、必要上、毎日散歩する都立猿江恩賜公園では耳をつんざく蝉の声。平凡社「世界大百科事典」を見たが、生態は良く分からない。

ウィキペディアを検索すると、ようやく「生態」の記述があった。

それでも「セミの幼虫は地中生活で人目に触れず、成虫は飼育が難しいので、その生態について十分に調べられているとは言えない。したがって、ここに書かれていることも含めて、検証が不十分な事項がある」とある。

<交尾が終わったメスは「枯れ木」に産卵管をさし込んで産卵する。枯れ木の上を移動しながら次々と産卵するため、セミが産卵した枯れ木は表面が線状にささくれ立つ>。

要するに地上に出てくる目的は、交接、産卵のためである。地上で喧しく鳴いているのは交接相手を求めての「婚活」そのもの。鮭と同じで子孫を残せば死ぬわけ。このところ毎朝目にする死骸は種族保存の役目を終えた尊厳あふるる「尊体」なのである。

<ニイニイゼミなど早めに出現するセミの卵はその年の秋に孵化するが、多くのセミは翌年の梅雨の頃に孵化する。

孵化した幼虫は半透明の白色で、薄い皮をかぶっている。枯れ木の表面まで出た後に最初の脱皮をおこなった幼虫は土の中にもぐりこみ、長い地下生活に入る。>

これから先は何年か経って地上に現れるまで人間とは絶交渉となる。

<幼虫は太く鎌状に発達した前脚で木の根に沿って穴を掘り、長い口吻を木の根にさしこみ、道管より樹液を吸って成長する。長い地下生活のうちに数回(アブラゼミは4回)の脱皮をおこなう。

地下といえどもモグラ、ケラ、ゴミムシなどの天敵がおり、中には菌類(いわゆる「冬虫夏草」)に冒されて死ぬ幼虫もいる。

若い幼虫は全身が白く、目も退化しているが、終齢幼虫になると体が褐色になり、大きな白い複眼ができる。羽化を控えた幼虫は皮下に成虫の体が出来て複眼が成虫と同じ色になる。この頃には地表近くまで竪穴を掘って地上の様子を窺うようになる>。

猿江公園では抜け殻が一番多く残っているのは槙の木の枝だが、羽化を現認した事は無い。

<終齢幼虫の羽化の様子晴れた日の夕方、目の黒い終齢幼虫は羽化をおこなうべく地上に出てきて周囲の樹などに登ってゆく。羽化のときは無防備で、この時にスズメバチやアリなどに襲われる個体もいるため、周囲が明るいうちは羽化を始めない。

このため、室内でセミの羽化を観察する場合は電気を消して暗くする必要がある。夕方地上に現れて日没後に羽化を始めるのは、夜の間に羽を伸ばし、敵の現れる朝までには飛翔できる状態にするためである。

木の幹や葉の上に爪を立てたあと、背が割れて白い成虫が顔を出す。成虫はまず上体が殻から出て、足を全部抜き出し多くは腹で逆さ吊り状態にまでなる。その後、足が固まると体を起こして腹部を抜き出し、足でぶら下がって翅を伸ばす。

翌朝には外骨格が固まり体色がついた成虫となるが、羽化後の成虫の性成熟には雄雌共に日数を必要とする。オスはすぐに鳴けるわけではなく、数日間は小さな音しか出すことができない。

ミンミンゼミの雌は、交尾直前になると、雄の鳴き声に合わせて腹部を伸縮させるようになるので、その時期を知ることができる。

成虫も幼虫と同じように木に口吻を刺して樹液を吸う。幼虫は道管液を吸うが、成虫が樹液を摂食した痕には糖分が多く含まれる液が出てきてアリなどが寄ってくることから、成虫の餌は師管液と考えられる。

ほとんど動かず成長に必要なアミノ酸などを摂取すればよい幼虫と異なり、飛び回ったり生殖に伴う発声を行う成虫の生活にはエネルギー源として大量の糖分を含む師管液が適すると推測される。

また逆に、土中の閉鎖環境で幼虫が師管液を主食とした場合、大量の糖分を含んだ甘露を排泄せざるを得なくなり、幼虫の居住場所の衛生が保てなくなるという問題もあり、幼虫が栄養価の乏しい道管液を栄養源とする性質にも合理性が指摘できる。

成虫にはクモ、カマキリ、鳥類などの天敵がいる。スズメバチの中でもモンスズメバチは幼虫を育てる獲物にセミの成虫を主要な獲物としていることで知られ、個体群の存続に地域のセミの多様性の高さを必要とする。

成虫期間は1-2週間ほどと言われていたが、これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説で、野外では1か月ほどとも言われている。

さらに、幼虫として地下生活する期間は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ。>(「ウィキペディア」)

<セミ成虫はふつう木に止まって樹液を吸い,幼虫は根から吸汁
する。雄は雌を呼ぶために盛んに鳴き,鳴く時間帯(日周期性)は種によって異なることが多い。

早朝と夕方に鳴くヒグラシ,午前中鳴くクマゼミ,午後7時15分から30分間しか鳴かないクロイワゼミなど,さまざまである。

セミの生活史についてはまだ詳しく調べられてなく,幼虫期間さえ大部分の種で不明である。アブラゼミでは,卵期間が約300日,幼虫期間が5年である。すなわち6年かかって成虫になる。

ミンミンゼミやクマゼミでも同じくらいの年数を要するらしい。

ニイニイゼミでは,卵期間は約40日で,成虫まで約4年だという。沖縄の
イワサキクサゼミは,サトウキビで飼育すると,産卵後1〜3年で成虫となり,平均期間が2年である。

北アメリカには幼虫期が13年または17年と非常に長い周期ゼミ(ジュウシチネンゼミ)が知られ,これは昆虫の中でも最長寿といえるだろう。一般に,長い幼虫期に対して,成虫期は短く,せいぜい2〜3週間である。(世界大百科事典)。しかし、この点に関しては「ウィキ」は「1ヶ月」と言っている。

温暖化が進む近年では、東京などの都市部や九州などでは、10月に入ってもわずかながらセミが鳴いていることも珍しくなくなった。2010・8・15


2010年08月16日

◆ペットも危ない「熱中症」

毛馬一三

台風4号が通過した途端、再び猛暑日がぶり返してきた。お盆の15日も近畿全域で日中最高気温が35〜36度に達した。

15日朝の午前5時半過ぎ、小型愛犬を連れてお決まりの「朝の散歩」に出かけた。夏場の朝は、地面の温度が上がらない土の「公園内」を何周か回って、途中で切り上げ早々に帰ることにしている。

この日の朝愛犬仲間の男性と出会った。朝の挨拶を交わしたあと、「同じマンションの10歳の老犬が熱中症に患って亡くなった」という話を聞かされた。

真昼の猛暑の時に散歩に連れ出したところ、途中で荒く喘ぐような息使いをし、大量のよだれを吐き出しながら倒れ込み、意識を失ったまま死亡したそうだ。間違いなく 「犬の熱中症」だ。

愛犬飼い主としては失格だ。おそらく仕事の都合で已む無く昼間に連れ出したのだろうが、それにしても老犬を35度超える日中散歩に連れ出すとは酷過ぎる。人間の熱中症がこれほど問題Iなっている折、飼い主の連れ出しを拒めない犬は、可哀想の一言に尽きる。

この夏、掛かり付けの動物病院の院長から事前に「熱中症対策」の助言を聞いていた。犬はほとんど発汗しないため体温調節が難しく、人間以上に熱中症にかかりやすいそうだ。「数分で危険な状態になることがあるので、夏場は気を付けなさい」とのことだった。

更に、室内ではクーラーを稼動させ、1日中室温28度くらいを保った中で休養させることなどの予防対策の基本だとも教えてもらっていた。

だから夕方の散歩も、7時過ぎに時間帯を変更し、コンクリートの道路も、ヒンヤリしているかどうか、自分の手で確かめたうえ連れて出す。しかしこの時間になっても猛暑の余熱は、草むらや道端のコンクリート壁の間から吹き出してくる。飼い主も汗だくとなる。

この余熱を浴び出すと発汗出来ない愛犬は、ハーハーと喘ぎ出すので、散歩も途中打ち切りで早々に帰宅する。帰宅すると、すぐに風呂場で水道水を足にかけて冷やし、足の裏が冷えたのを確めて、クーラーの効いた居間に連れて行き、夜の食事を与える。

これが私の愛犬を護る「熱中症」対策だ。

獣医師によると「犬の熱中症」とは、周りの高温、高湿度のため、体内に溜まった熱によって、高熱、脱水、虚脱などの症状起こすことだそうだ。屋外小屋での飼育が最も危険。シャンプーしたあと、乾燥目的で庭に放すことも体温を急激に引き揚げることに繋がるため、用心すべきだと指摘する。

家族が買い物や用事で出かけて「留守番」をさせる場合、クーラーを付けずに締め切ったままにしておくと、体温は一挙に上がってリスクは増すという。

特に散歩の場合も、直射日光は絶対避けるべきで、散歩の時間も運動も控えめにして、常に歩く状態を注視して異常の有無をよく観察して欲しいと指摘している。
もし、熱中症にかかったかもしれないと思ったら、小型犬なら風呂場で水をかけたり、バスに体ごと浸すのが効果的という。大型犬ならホースで脇の下や内股部に水をかけて冷やすのが一番だそうだ
その上で、吸水器を使って少しずつ水を飲ませ、安静にさせておくのが最良だそうだが、それでも改善の兆しがなかったら動物病院に急ぎ連絡したほうがいいという。

家族の一員である愛犬が、飼い主の不注意で不幸な憂き目に遭うことほど残酷なことはない。愛犬にも「熱中症」の危機があることを、愛犬家はよく認識すべきだろう(了)    参考―えじま動物病院              2010.08.15

■本稿は全国版メルマガ8月16日刊「頂門の一針」2011号に
掲載されました。
◆<目次>
・拙劣な外交といわれても仕方ない:古澤 襄
・「日韓談話」に示された政権末期症状:花岡信昭
・封印を解かれた「樺太1945年夏 氷雪の門」:泉 幸男
・ペットも罹る「熱中症」:毛馬一三
・地上の蝉の寿命は1ヶ月:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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■ 
1)本稿が、古沢 襄氏主宰(読者2万人)の
furu@tea.ocn.ne.jp
杜父魚ブログに掲載されました。

2)<ご近所の犬友に熱中症注意報するので毛馬一三さんの熱中症対策をコピーして渡したいと思いますが宜しいでしょうか?>と(HAL)様から頂きました。森清美様からもコメントを頂きました。

3)飼い主の意向には些かも逆らわない愛犬が、猛暑の昼間に連れ出されて「熱中症」で倒れ、休み明けの動物病院に搬送されたという悲報が、16日にも飛び込んできました。胸を痛めています。意外に「ペットが熱中症に罹る」という事態が、知れ渡っていないのですね。

4)「一人留守番」をさせていた愛犬が、迂闊にも冷房無しのまま出かけたところ、部屋の中でぐったりとなったという連絡も、16日に愛犬仲間から聞かされました。「熱中症」はペットの間で大流行しているような気がします

愛犬は飼い主にとり「生き甲斐」です。どうか、愛犬は大切にして上げましょう。せめて暑さが収まるまで、「熱中症」から愛犬を護ってあげて下さい。    毛馬一三






2010年08月15日

◆私の8月15日

渡部亮次郎

昭和20年、当時は国民(小)学校4年生。学校ではボール紙に印刷されたルーズベルトとチャーチルの顔を殴っていたのが2年生ごろか。

4年生になったらら、先生がアメリカ軍の艦載機はキーンと甲高い爆音が特徴だと教えてくれた。

7月14日の昼前、突然「キーン」が聞えた。北の空へ3機が飛んで行ったと思ったら、いきなり煙を吐いて落下。こりゃしめたと思ったら「急降下」だった。列車に向かって機銃掃射だった。

3機とも戻ってきた。胡瓜畑に隠れて妹と肝を冷やして覘いていたら機上から見られているから掃射されるものと覚悟を決めた。しかし銃撃される事は無く3機は去って行った。生まれた初めて体験した「死の恐怖」だった。

この日は隣県岩手県の太平洋に面した釜石市が米海軍による艦砲射撃をうけた日。その響きは地鳴りとなって日本海岸にも伝わってきて、日本が細長いことを子供心に実感した。

日本海にひびいた釜石艦砲射撃。釜石艦砲射撃(かまいしかんぽうしゃげき)は、太平洋戦争末期に、連合国軍艦隊が岩手県釜石市に行った2度の艦砲射撃のこと。

昭和20年7月14日の砲撃。一度目は1945年7月14日に、アメリカ海軍の戦艦部隊によって行われた。北海道空襲など一連の日本本土攻撃を開始したアメリカ海軍機動部隊。

第34任務部隊から分派した第34.8.1任務隊(司令官:ジョン・F・シャフロス(John F. Shafroth)少将)の戦艦3隻と重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻により、釜石を砲撃した。主要な攻撃目標は、日本製鐵釜石製鉄所だった。この砲撃で日本側は一般市民を含む515人が死亡した。

八郎潟に飛んできた艦載機はこれらとは別のところから飛来したものだったろう。しかし日本海岸の住宅のガラス戸を揺らす音は
愈々戦争が私にも迫ったことを教えた。

釜石に二度目の砲撃は同年8月9日に、アメリカ海軍・イギリス海軍の合同部隊が行った。参加したのは、前回と同じアメリカ海軍第34.8.1任務隊のほか、イギリス海軍第37.1.8任務隊(軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)であった。この攻撃では日本側は301人の死者を出した。出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本物の恐怖は1か月後に来た。東沿岸に住んでいる旧八郎潟上空を真っ赤に染めてアメリカの大型爆撃機B29が大編隊をなして南の秋田市方面に引き返して行く。機体の下腹が火事の明かりで赤く染まっていた。私は西側に広がる田圃のあぜ道に腹ばいになって見上げていた。4つ上の兄は学徒動員に出たままだった。

即ち、終戦前夜の昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで、秋田市「土崎(つちざき)」は米軍機による激しい爆撃を受けた。私の家は20キロぐらいしか離れていない。

秋田県における最初で最後の大規模空襲は日本石油秋田製油所破壊を目的にしたもので、132機のB29から投下された爆弾は12047発・約1000トン、製油所周辺は真っ赤に燃えあがり石油精製工場の87%・貯蔵設備の70%が破壊された。

夜間の攻撃だったために目標がそれやすく被害は工場周辺の住宅地区にも及び、特に通称ハマナシ山の日石住宅では住民の被害が大きかった。港でも工事中の浚渫船2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ている。

この空襲による死者は100人とも250人以上とも言われているが、正しい人数は判明していない。

秋田・土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。

戦後、明らかにされた米軍の資料によると、これらB29はマリアナ基地から飛来した代315航空団の141機。当夜の天候は薄曇のち快晴だった。目標は日本石油秋田製油所。攻撃高度10200-11800フィート。投下爆弾トン数、計957・1トン、攻撃は14日23時48分から15日2時39分までの2時間51分間。

米側資料の「任務の概要」によると成果は未確認なるも損失機なし。これだけ飛来しながら目標を目視したのは2機だけだった。日本側からは「貧弱、不正確な対空砲火」があっただけだった。

15日正午の天皇陛下の「玉音」はラジオが無かったから知らないが、夜になっても「灯火管制」が無かったから終戦を知った。いや敗戦だった。

この敗戦前日の空襲は埼玉県熊谷市、伊勢崎市、七尾市、下関海峡(西)、宮津、浜田にも襲い掛かったことが米側の資料にはある。

対英米戦争は草深い田舎でも死の恐怖と対面させられながら展開していたのである。

当然、学校は夏休みだった。15日の午後近くの「馬冷やし場」で足を洗ったのを明確に記憶している。理由は思い出せないが、北国の太陽も強烈だった。あれから65年。9歳は74になったか。
2010・8・14

■本稿は8月15日刊全国版メルマガ「頂門の一針」2010号に
掲載されました。他の卓見もご拝読を!

■<同号 目次>
・私の8月15日:渡部亮次郎
・日本の暑い夏:山堂コラム 331
・救国に共に立ちあがろう!:東郷勇策
・無党派層は「知性派層」:須藤文弘
・英語指導法夏季特別研修会ご案内:e-pros
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月14日

◆正月から待っていた

部 亮次郎

盆の十三日 正月かた待ってダ。百姓仕事に追われ、趣味も全く無く、98歳で死んだ母が、たった1回、節をつけて呟いた歌(?)がこれだった。田舎の盆は月遅れ,今日13日が盆の入りである。

昔の百姓にとって「百姓泣かせの雨」というのがあった。夜中だけ降って夜明けと共に上がる雨。晴れたら仕方ない、野良に出なければならないから百姓泣かせなのである。

春先の播種(苗代への籾もみ撒き)に始まり、代掻き、田植え、草取りと続き、稲から穂が出るころ、丁度、月遅れで盆となる。この日ばかりは朝から野良仕事のすべてを休んで先祖の供養、墓参り等をするのである。

その週に広場か通りで盆踊りが行われる。裸電球の下、若者たちが全身に汗を滾らせて叩く大太鼓に合わせて数十人の老若男女が輪になって踊る。殆どの人が仮装だ。そこで叫ぶように歌うのだ。「盆の十三日(にち)正月から待ってだ」(秋田訛)。歓喜の雄たけびにも似た歌だ。

田圃の稲は今、花が咲き、あとは秋の取入れを待つばかり。やがて大根も太くなっている。無数を抜いて洗って日干し。たくあんにするのだ。葉もよく干す。野菜の無い冬の貴重なビタミンAの補給源だ。

私も中学、高校へ通いながら田植えから草取り、稲刈りまで、今と違ってすべての手作業を手伝った。それらのすべてを1日で1反(10アール、300坪)を仕上げられれば1人前といわれて達成した。

考えてみれば昔の田圃の仕事はすべて手作業だった。だから百姓の指の先にはいつも泥がつまり、男女とも中年には腰が曲がったものだ。今は田植えも刈り取りも機械、草取りは除草剤になったから、猫背、蟹股、腰曲がりの百姓はいなくなった。

その代わり、田圃から泥鰌(どじょう)が死滅し、朱鷺(トキ)など野鳥の生態に大変化をもたらしている。餌を絶滅させておいて、野鳥だけは生かせというのは人間の勝手すぎる夢では無いか。

泥鰌だけは東京なら養殖ものをどこかで食べられるが、タニシだけは大人になってからは食べた事がない。これも除草剤で絶滅したのだ。

敗戦直後は、戦争中の肥料不足、病虫害の蔓延により米の収穫量は1反歩5俵か6俵だった(300Kgから360Kg)。

しかも田圃を地主から借りている小作農はその半分を地代として物納しなければならなかったから、コメ農家の癖に米を口に出来ない日もあった。

明治37〜38年の日露戦争で出征した農家の次三男が無料・無制限だった白米の飯をたらふく食べて何万人かが脚気にかかってかなりの人が戦う前に死んだのはこの所為である。白米にはビタミンB1が入ってなかったからである。

ちなみに海軍だけは指導者のよろしきを得てパンやライスカレーでB1を補い、事なきを得た。それに倣って今も海上自衛隊は毎週金曜日の昼食はどこでもカレーだ。

横須賀基地のカレーは有名であり、九段靖国神社の売店では「海軍カレー」がレトルトで売っている。

閑話休題。それまで日本の革新的な農林官僚にはできなかった農地解放(地主から土地を取り上げ、小作農に低廉価格で払い下げる事)を進駐してきたマッカーサー元帥があっという間に強行した。

土地を失って失望した大叔父は首を吊って死んだ。しかし小作農は狂喜乱舞。収穫のすべてが自己所有となったのだから自転車を買い、ラジオを買った。生産量も倍増した。中国人も毛沢東よりトウ小平が好まれるのは同じ理由だ。

しかし、やがて娘や息子は大学を出たとは言うものの都会から帰ってこなくなり、長男には来る嫁がいなくなった。辛うじて中国や東南アジアから無理して迎えている始末だ。

結果、いまや盆の十三にちは誰も待たない休日だが、将来への希望もあまり無い夏となったのである。私?家督を継いだはずの妹婿が倒産して田地田畑はおろか、大きな自宅も人手に渡してしまったので盆に帰るところを失って、2年が過ぎた。2007.08.12

2010年08月13日

◆日中やる気無かった福田

渡部亮次郎

8月12日が来ると日航ジャンボ機墜落事故と日中平和友好条約の調印式が脳裡をよぎる。

1985年(昭和60)8月12日、日本航空123便ボーイング747SR100型機 (JA8119) 羽田空港18:00発 伊丹空港行が、離陸12分後から32分間の迷走飛行の末、群馬県多野郡上野村の山中に墜落した。

搭乗員524名中520名が死亡。旅客機の単独事故としては、世界でも最大の犠牲者数を出した事故である。歌手坂本九も犠牲になった。

1978年に伊丹空港で尻もち事故を起こした際の圧力隔壁の修理ミス(ボーイングによる修理ミス)による飛行中の圧力隔壁の破損が原因とされている。

しかし飛行中に破損し相模湾に落下した部品が全て回収されていないことや、生存者の証言と調査報告書内容が異なることなどから、他の原因を唱える説もある。

私は後年、都内の病院で同室になった日航社員がいた。彼は尻もち事故を起こした際の圧力隔壁の修理に来たボーイング社の連中を接待する係を命ぜられたが、銀座のクラブで皆がホステスに熱を上げ、翌日の仕事には熱が入らなくて困ったものだった、と述懐していた。

まさか、このときの修理ミスが墜落の原因だとすれば、彼の証言は極めて重大な意味を持つが、事故調査委員会に証言したとは言ってなかった。

日航ジャンボ機が伊丹空港で尻もち事故を起こした年、つまり昭和53(1978)年の8月12日夜、北京の人民大会堂では日本の外務大臣
園田直と中国の黄華外交部長による日中平和友好条約の調印式が挙行され、大臣秘書官の私は後列で場面を注視していた。

署名した後立ち上がった両者はシャンペンで乾杯をしたのだが、園田さんはグラスを勢いよく相手にぶつけたものだから、シャンペンが右袖を大きく濡らした。

陸軍特攻隊生き残りの園田さんは剣道7段、居合い道8段の猛者。自刃した作家の三島由紀夫さんに切腹の作法を聞かれるまま教えたことがある。

彼にとって日中平和友好条約の締結交渉は特別なことだったから、
不調に終わった時は「ハラを斬る」といい、洋服の着替えを持たせなかった。だから弱ったな、と思ったが、いかんともできなかった。
とにかく終わった、の感慨ばかりだった。

なにしろ肝腎の総理大臣福田赳夫氏は調印に消極的なのだから、外務大臣一人が独走し、外務事務当局が困惑すると言う場面が何度も展開されて末の調印だったから、格別の感慨に浸ったのである。

それより1年半前に発足した福田赳夫政権は言うなれば園田氏が作った政権と言ってもよかった。

自らの内閣の末期、福田に大蔵大臣を辞めて足を引っ張られてため恨みを忘れない田中闇将軍を説得し、ライバルの大平正芳氏を宥めて「任期2年」の密約を取り付けたのは園田氏だったからだ。

そうやって発足した福田氏は昭和52(1977)年1月4日、自宅に園田官房長官とある人物を招いて、田中、三木内閣が実行できなかった日中平和友好条約の締結に踏み切ることを決断、同席したある人物を視察目的に直ちに北京に出発させた。

この人物は幼少の頃から中国で暮らし、戦後かなり経ってから引き揚げてきた。北京語を完全に話す。剣道を通じて園田氏と知り合った。

「黒衣」氏は北京ではかねて園田氏と交流のあった廖承志らと会い、中国共産党の内部事情を探った。彼のこうした北京訪問は以後、14回続けられる。

その都度「黒衣」から報告を受けていた園田氏は「締結」にかなり自信を深めるが、この情報を鳩山威一郎外相には教えなかったようだ。

そうしている間に、福田首相の親分筋の岸信介元首相は、福田首相に内閣改造をして、女婿の安倍晋太郎国対委員長を官房長官に就任させるよう執拗に要求。

福田首相としては園田氏が「密約」の主役であることに鑑み、躊躇したが、昭和52年暮れ、内閣改造を決断、園田氏の離反を恐れ、彼だけを外務大臣に横すべりさせて残留、後任の官房長官には安倍を据えた。

園田氏はこの頃、大平幹事長に対して「密約」の福田の任期「2年」
の1年延長を交渉中だったこともあって外相就任を喜んでいなかった。秘書官に招かれた私にはそれが手に取るように分かった。

しかし日中条約については行き掛かり上、熱心に取り組んだ。日中関係の強化を嫌うソビエト(当時)が障害になると考え、初外遊に
モスクワを選んだりした。

こうした中で「黒衣」からの報告は「園田さんが来てくれさえすれば調印に応じる」に進展した。今考えれば経済の改革開放を企図するトウ小平の復活で党の方針が変更されかかっていたのだ。

これを北京の日本大使館は掌握できず、「黒衣」だけがいち早く掌握していたわけだ。廖承志はトウ氏に直結していたからだ。大使館は最後まで「取材」できなかった。

したがって元外相として、園田よりは自分の方が外務省を掌握していると自任する福田首相のほうが情報に後れを取る結果となっていた。

昭和53(1978)年8月8日の園田訪中はほぼ園田外相の独断で決定された。日航特別機の予約も然り。秘書官の私はこうした動きを元いたマスコミ界の仲間を通じて福田周辺に流した。

だから、訪中の決断を求めて園田氏が箱根で静養中の福田首相を訪れた際、首相が開口一番「何日、出発するんだい」と言ったのはこうした裏があったからなのである。

後に明らかになるように、福田氏は「密約」を破棄するハラヲ固めていた。だからなまじ「日中」が上手く行って、それが「引退の花道」にされることを警戒していたのである。

密約を厳守した園田氏は総裁選挙では大平氏を支持。福田派を除名された。しかし大平氏は福田氏の意趣返しに遭い、総理在任中に急死。その4年後に園田氏も同じ70歳で死亡。福田氏は90歳まで長生きした。2010・8・12




2010年08月11日

◆李承晩ラインを想起

渡部亮次郎

<一方的に設定された排他的経済水域での拿捕 古沢襄
北朝鮮警備艇による韓国漁船の拿捕は、国際的な関心を呼んでいる。英ロイター通信は拿捕海域は北朝鮮によって一方的に設定された排他的経済水域(EEZ)だと指摘し、中国の新華社は、拿捕された漁船には韓国人4人と中国人3人が乗船していた、と伝えている。
今後も拿捕行為が続けば、北朝鮮に対する国際的な非難が高まろう。>
2010.08.09 Monday name : kajikablog

一方的に設定された排他的経済水域(EEZ)というなら、嘗て韓国が獨島(日本の漢字では「独島」)と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するために設定した「李承晩ライン)を思い出す。

これは、1952(昭和27年)1月18日、韓国大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。

表向きは海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したもの。これに違反したとされた漁船(主として日本国籍)は韓国側による臨検・拿捕の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった(第一大邦丸事件など)。

当時、私は秋田で高校生だったが、連日の報道に憤怒したものだ。

日本側は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議したが聞き入れられず、ライン廃止までの13年間に、日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。

韓国は第2次世界大戦の講和条約であるサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)に勝戦国として参加することを希望していたが、連合国が韓国臨時政府を承認した事実がなく、イギリスやアメリカによって拒否された。

また、対馬、波浪島、竹島を自国領土であると主張していたが、対馬が日本領であることは明白であったし、波浪島は実在しなかった。

韓国は日本国との平和条約での日本の放棄領土に波浪島、竹島を追加すること及びマッカーサー・ラインを継続することを要望したが、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」で、韓国の要求を拒否した。

「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約は調印され、翌1952年4月28日に条約が発効される手筈となっていた。

韓国政府は、サンフランシスコ平和条約の発効によりマッカーサーラインの消滅と日本国の主権回復がなされる3ヶ月前の1952年1月18日に、突如として李承晩ラインの宣言を行った。

冷戦初期の中、日本国と韓国は共にアメリカの庇護下で反共主義(自由主義)を旨とする西側諸国に属したが、李承晩は1910年の日韓併合以来一貫した反日・民族独立運動家であり、1948年に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日外交を行った。

李承晩ライン発表の直後、1952年2月から日本の保守政権と韓国の李承晩政権は国交樹立を目指した交渉を開始したが、両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。

両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じたが、李承晩ライン自体は存続させ、1960年の李承晩失脚後もこの状態が続いた。

問題は解決に長い年月を要した。その原因は、日韓両国に正式な国交がなかったこと、 国交正常化交渉は賠償請求権を巡り紛糾し、遅々として進まなかったこと、アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入してこなかったため である。そうして徒に時間が流れていった。

1963年、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化を進めることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進することを考えた。

そのためには資本と技術を必要とした。しかし、大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこから調達するのかが悩みの種であった。

朴大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結を急いだ。

一方、日本国政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。

竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで基本条約の締結がなしえると判断したところで漁業協定を締結し、1965年に李承晩ラインは廃止された。

しかし、問題解決にあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。

また、韓国政府は日本人抑留者の返還と引き換えに、日本政府が摘発した韓国人密入国者の強制送還を拒否するとともに日本国内に解放するよう要求した。

池田勇人内閣にあってこの問題の処理に当ったのは無任所大臣の河野一郎氏。私はNHKで河野番の記者だったのでその取材に当った。後に首相になる代議士の宇野宗佑氏が韓国側との連絡役としてソウル訪問を繰り返した。

当時、NHKで外務省キャップは後に会長になる島桂次氏。責任上彼と私はしばしば連絡を取りあう間柄になり、先輩記者として数々のことを学んだ。

かくて日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が締結された直後、河野氏が急死し、条約の批准国会は安保国会以来初の乱闘国会となり、私はその取材にも当った。だから今、韓国への謝罪談話問題で、菅内閣を誤った方向に主導する仙谷官房長官の行為は歴史の流れに反するものだと思う。2010・8・10
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■ 本稿は8月11日(水)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2006号に
掲載されました。他の卓見寄稿もご拝読下さい。
<目次>
・日韓併合100年の真実:平井修一
・李承晩ラインを想起:渡部亮次郎
・上海バブルはまもなく失速:宮崎正弘
・65年目の敗戦の日:古澤 襄
・椎木川の産土の浜:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月09日

◆オムライスは大阪?東京?

渡部亮次郎

オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。10・7・9

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2010年08月07日

◆勝つ丼で勝てるか

渡部 亮次郎

受験生や試合に臨むスポーツ選手の「勝つ」という験担ぎのために、前日や当日にカツ丼が食べられる事がある。ただし、カツは消化に時間を要するため、食べるタイミングによっては、逆効果となる事がある。

同様に公営競技関係の施設では、ギャンブルで「勝つ」という験担ぎと洒落を込めて、場内の食堂などでカツ丼を「勝丼」と称す事もある。


福田赳夫さん(第67代総理大臣)は、旧制高校の受験に来て上野駅前の旅館で食べた刺身が一番美味しかったと答えたが、田中角栄さん(第64・5代総理大臣)も初上京して着いたところはやはり上野駅だったが、美味しかったのは「天丼」だったと答えた。

角さんには彼の幹事長時代、銀座ですき焼きをご馳走になったことがあるが、砂糖抜きで塩辛くて参った。

私は総理大臣経験者では無いが、初めて上京して美味しかったのは天丼や刺身ではなく「カツ丼」だった。ところが、選挙取材で訪れた岡山市では、カツ丼にかかっていたのはドミグラス・ソースだったので、ちょっと、戸惑った。

岡山市の名物料理。デミカツ丼とも。ドミグラスソースをカツの上にかける。キャベツを敷き、グリーンピースを載せるのが特徴。生卵をのせて出す店もある。ソースのベースはフォン・ド・ヴォーや中華スープ、煮干しの出汁など様々である。

東京都でも確認された事例があり、こちらは池袋の洋食店が発端となり弟子筋が広めたとのことである。なお、東京での事例は、丼飯の上に揚げたてのトンカツを置き、その上からドミグラスソースをかけるという様式であった。

大阪市ではドミカツ丼とは呼ばないが、ビーフカツ丼がドミグラスソース味である場合がある。

卵とじカツ丼は、現在、日本で最も一般的なカツ丼である。一部地域を除いて単に「カツ丼」と呼んだ場合は、この卵とじカツ丼を指す。卵とじカツ丼の具は、玉ねぎとトンカツを割り下(出汁と砂糖と醤油で作る日本料理の基本的な調味料)で煮て、溶き卵でとじたものである。

上にミツバやグリーンピースなどを散らしたり、それらを具とともに軽く煮る場合もある。1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説や新宿区馬場下町の蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説がある。玉子丼や親子丼と似た料理法。地域によりカツと卵の上下が逆転する。

通常、単にカツ丼と呼んだ場合には、豚カツが用いられるが、その他ビーフカツ・チキンカツ・メンチカツ・ハムカツ・エビフライ・カキフライ・魚のフライなどで同種の料理を作る場合もあり、2種類以上のカツを組み合わせる場合もある。トンカツ以外のカツを用いる場合にはそれを呼称する場合もある。

卵とじカツ丼の具を丼飯にトッピングせず、別に盛って出す様式もあり、「カツ皿」(カツさら)や「カツ煮」(カツに)、「別れ」、「アタマ」等と称される。(大阪では、カツを煮ず、丼飯の上にカツを乗せ、その上から溶き玉子で閉じる様式もある)

ソースカツ丼
福井県ヨーロッパ軒のソースカツ丼。キャベツを下に敷かない。おおよそのスタイルとして、ウスターソース系のソース(トマトケチャップ・酒などを加えたソース)にとんかつをくぐらせてから丼飯の上に盛ったものである。

北海道の訓子府町では、ご飯の上に海苔を敷いて揚げたてのカツを乗せ、それにタレをかける。

カレー風味カツ丼
山形県西村山郡河北町の料理。醤油やソースをベースに数種類のスパイスを加えてカレー風味にしたタレをかける。

かつ皿
静岡県富士市の料理。ご飯の上にゆでキャベツとカツをのせた後、卵をそばつゆで伸ばしたタレをかける。

タルタルカツ丼
群馬県安中市の料理。醤油だれがかかったトンカツの上にタルタルソースが載せられている。

味噌カツ丼
名古屋市の料理。味噌カツを丼にしたもの。味噌だれの卵とじが本来の形であるが、愛知万博に合わせた名古屋ブームを創るにあたって、ソースかつ丼風で付け合わせとしてキャベツの千切りも乗った形のものが開発された。

あんかけカツ丼
岐阜県瑞浪市の料理。鰹節やムロアジでとった和風だしと醤油、砂糖などをベースとしている。戦後、卵が貴重だった時代に考案されたとされ、卵加えて、とろみをつけた餡をかけている。

てりカツ丼
岐阜県土岐市の料理。ドミグラスソースにソース、ケチャップ、和風だしを加え、ワインなどで味を調えたタレをかけた洋風のカツ丼。


カツ丼は戦後しばらく日本が貧しかった時代に庶民にとってはご馳走であった。その頃の刑事ドラマの取調室のシーンでは、刑務所に行ったら二度と食べられないだろうと、刑事が自分の安月給から店屋物のカツ丼をとってやり、被疑者に食べさせると、被疑者はその情にほだされ、泣きながら「私がやりました」と、犯行を自供をするというシーンがあっ
た。

だが、それがモチーフとなってパロディ化されたものが広まったことから、「本来やってはいけない事を被疑者を信じて特別にした人情刑事」というエピソードのはずが「取調中の食事はカツ丼が出る」「自白するとカツ丼を食べさせてもらえる」などと誤解されるようになってしまっ
た。

ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こした際、取調中に捜査員から食事を促されたときに「取調べで食事といえばあれしか無いだろう」とカツ丼を注文したが食後に代金を請求されたため(捜査員から「600円オールね」と言われたらしい)、「金取られる位なら注文するんじゃなかった」と毒舌交じりに語っている。(1987年6月25日、『たけし軍団のオールナイトニッポン』にて)

現在では通常、留置中の被疑者については専用の弁当が用意されており、留置所での食事時間が必ず取られている。また、投げつけるなどして警察官がひるんだ隙をついて逃走される可能性もある事から、取調室で食事が出されることはなく、仮にあったとしてもその費用は被疑者の自己負担であり、警察官が費用負担した場合は利益誘導として裁判の際に供述の任意性が否定される場合がある。

ここで出される店屋物がカツ丼である根拠としては、店屋物の発注先として歴史的に最もポピュラーな店舗は蕎麦屋であり、蕎麦屋に注文可能なもので取り調べのスケジュールを阻害せず、時間が経っても伸びずに、冷めても魅惑的なメニューがカツ丼であったからとする見解がある。

2006年9月6日、埼玉県警所沢署の警部が、取調室で被疑者にカツ丼を食べさせるなどしたとして、減給100分の10(3か月)の懲戒処分を受けた(この警部は同日に依願退職)。

このカツ丼は被疑者の両親の知人が持ち込んだものだが、県警の規定では食事は留置場内で取ることとなっており、これに違反していた(ただし、上記のドラマとは異なり、被疑者が暴力団関係者だったために接見室ではなく取調室で家族と接見させるなど、今後の捜査で利用できないかと思い便宜を図ったことが重い懲戒処分に至った原因であり、単に取調室でカツ丼を食べさせたことだけが原因ではない)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010・7・18

2010年08月06日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎

まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。

そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。

それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は三年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。2010・7・11