2011年02月08日

◆拒否された通産からの首相秘書官

渡部亮次郎

1976年、今から丁度35年前、当事者しか知らない話である。

この年12月24日に福田赳夫内閣(自民党)が成立し、官房長官に園田直(そのだ すなお)氏が就任した。

内閣総理大臣 - 福田赳夫
法務大臣 - 福田一(- 1977年10月4日)/瀬戸山三男(1977年10月5日 -)
外務大臣 - 鳩山威一郎
大蔵大臣 - 坊秀男
文部大臣 - 海部俊樹
厚生大臣 - 渡辺美智雄
農林大臣 - 鈴木善幸
通商産業大臣 - 田中龍夫
運輸大臣 - 田村元
郵政大臣 - 小宮山重四郎
労働大臣 - 石田博英
建設大臣 - 長谷川四郎
自治大臣、国家公安委員会委員長、北海道開発庁長官 - 小川平二
内閣官房長官 - 園田直
総理府総務長官、沖縄開発庁長官 - 藤田正明
行政管理庁長官 - 西村英一
防衛庁長官 - 三原朝雄
経済企画庁長官 - 倉成正
科学技術庁長官 - 宇野宗佑
環境庁長官 - 石原慎太郎
国土庁長官 - 田沢吉郎
内閣法制局長官 - 真田秀夫
内閣官房副長官(政務) - 塩川正十郎
内閣官房副長官(事務)- 道正邦彦
総理府総務副長官(政務) - 村田敬次郎
総理府総務副長官(事務)- 秋山進
(「ウィキペディア」

官房副長官は塩川正十郎氏だった。そこへ密かに大問題が発生した。
各省から出向してくる総理大臣秘書官のうち、通産省からの人物を
他の秘書官たちが拒否して秘書官室への入室を断ったのである。

もともと佐藤栄作内閣までは、通産からの秘書官は無かったのだが、次の首相田中角栄氏は、通産大臣時代の秘書官をそのまま首相秘書官に起用した。かねて首相秘書官を派遣したがっていた通産省は喜び、続く三木内閣にも当然の如く送った。

だから福田内閣にも当然、送ってきたのだが、今度はなぜかすんなりとは行かない。秘書官たちが意地悪したのは、首相自身が、通産からの秘書官を不要と考えていたからではないか、と今では推測する。

しかし、既にその人物を総理秘書官として出向を発令してしまった通産省としては、いまさら取り消すわけにはいかない。そこで園田官房長官に事務次官がとりなしを依頼してきた。

ここから先が特攻隊生き残りの直さんらしい解決策である。首相には黙って、首相官邸内の官房長官室に机を入れさせ、そこに問題の人物を坐らせたのである。内閣記者会にたちまち知れ渡り、危く記事にされそうになった。

かくて他の首相秘書官たちが音をあげ、当該人物を秘書官室に引き入れざるを得なくなった。問題は音も無く起き、音も無く解決したのである。

その1年後、内閣改造で園田氏はただ一人留任し、外務大臣に横滑りした。つまり総理官邸を去った。私はここから彼の秘書官となり、1年前のことの次第を知る。通産省のOBから「園田さんに財界から後援会を作って差し上げたい、と言っている。ついては秘書官、打ち合わせに来てください」。

一旦は着任を拒否されたあの首相秘書官が、奔走して財界を説得。「恩返し」を工作していたのである。間もなく日本商工会議所会頭の永野重雄氏を会長とする大規模な園田後援会が発足。住まいが借家、貧乏政治家に初めて財界の後援会ができたのであった。

余談だが、当時、永野さんの政界関係の日程を管理していたのはY社の広告局長。現在某民放の実力会長である。これはどうなっているのだ、と未熟な頭は仰天した。NHKではこんなスケールの記者は育たない。

それから1年後、福田首相は「天の声にも、たまには変な声がある」と言う有名な科白を残して官邸を去った。後継首相は幹事長だった大平正芳氏。園田氏はこの内閣にも外務大臣に指名された。

通産省からのあの人物は内閣が変わったので本省に戻った。やがて省内の頂点である事務次官になった。官邸を「追放」された福田氏は派閥を上げて大平内閣を妨害し、大平氏は遂に急死する。

「社長はポストを譲って会長になり、社長を助けていれば、再び社長にと言うこともある」と福田氏に聞えるように批判していたが、
社長を助けるどころか死地に追いやってしまっては返り咲きの余地はなかった。

大平氏を見送った足で目白の田中邸を訪れた園田氏は「後継は鈴木善幸」で合意した。ゼンコウWhoと揶揄された鈴木内閣登場の舞台裏である。2011・2・5

◆2月8日(火)刊「頂門の一針」2175号に
本誌主宰者の「どうなる大阪都構想」が掲載され、全国に発信
されました。どうか他の著名寄稿者の「卓見」もご覧下さい。

◆<2175号 目次>
・衝撃的な”民主党王国”の敗退:古澤 襄
・どうなる「大阪都構想」:毛馬一三
・中国批判機密公電暴露:宮崎正弘
・大相撲と父とじいやん:花岡信昭
・王様の耳、菅の頭:MoMotarou
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」を購読(無料)申し込み御希望の方は
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2011年02月06日

◆らい予防法廃止の大谷さんの死

渡部 亮次郎

<大谷藤郎(ふじお)氏死去、ハンセン病尽力 国際医療福祉大学長

旧厚生省医務局長で、らい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに取り組んだ国際医療福祉大初代学長の大谷藤郎氏が2010年12月7日午後7時24分、埼玉県内の病院で死去した。86歳。

滋賀県出身。葬儀・告別式は12日午前11時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は長女すみれさん。

1983年に旧厚生省を退官するまでハンセン病行政に従事。退職後の95年、厚生省「らい予防法見直し検討会」の座長として同法廃止を答申した。

熊本地裁で99年に行われたハンセン病国家賠償訴訟の証人尋問では、原告・被告双方の証人となり「らい予防法の制定は誤りだった」と証言した。>【共同通信】2010/12/09 12:25

この記事を見落としていた。2月4日午後、すみれさんからのハガキで初めて知った。なんとも悲痛な知らせだった。「昨年、弟健、父藤郎、叔父芳郎を亡くしたので」とあった。

大谷藤郎さんとは厚生大臣のピンチヒッターとして鈴木善幸内閣に入った元外務大臣園田直に従いて秘書官として厚生省に入ったときに初めて会った。大谷さんは医系のトップ医務局長だった。

間もなく彼がらい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに熱心に取り組んでいることを知った。岡山県でらい病院のある離れ小島に橋を架ける運動にとりくんでいた。

それに関連して園田大臣に対してらい予防法廃止の緊急性を説き、大臣自らがらい患者の収容病院を視察するよう説得した。大臣は出かけていった。

大臣はそこで食事を患者とともにしたり、お茶を飲んだりした。あとで「怖く無かったですか」と訊いたら「伝染力が弱い菌だから怖くはなかった。仮に伝染しても発症するころ俺は既に死んでいるだろうよ」と言ったので見上げた。

鈴木内閣ではそのころ、伊東外務大臣が急に辞任、その後任に園田氏が指名されたので、大谷さんとの縁は切れたかに見えたが、そうではなかった。大谷さんの活動に関するあらゆる報告書や著書が、園田氏の死後も私宛に送られて来ていた。

正月前、大谷さんから「消えた山」序曲が送られてきて読んだ。出自と身辺のことを書いた50ページ足らずの本。先に逝った長男や妻とのことや先祖のことを書いたものだが、あとがきがご自分ではなくお嬢さんのすみれさんが書いておられたので、死期を悟るような病状かなと疑っていた。

なんのことは無い、本が届いた頃、大谷さんはすでに逝っていたのだ。あれは遺書だったのだ。

なんたることだ。惜しい人を亡くした。わたしより、丁度一回り先輩だった。ご冥福を祈るのみ。

<大谷 藤郎(おおたに ふじお、1924年3月27日 ―2010年12月7日)は、日本の元厚生官僚(テクノクラート)、大学教授。精神障害者やハンセン病患者の人権保護・待遇改善に積極的に取り組み、1993年にはWHOからレオン・ベルナール賞を授与された。

1924年3月27日、滋賀県に生まれる。1952年、京都大学医学部卒業(在学中は小笠原登に師事)。1959年、旧厚生省に医系技官として入省した。

入省後は、1962年から精神衛生課に勤務し、全国精神障害者家族会連合会(略称・全家連、2007年破産・解散)の創設支援、1965年の精神衛生法の改正などに携わった。また、1972年に国立療養所課長に就任すると、ハンセン病入所者の生活環境改善に取り組んだ。

その後、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任し、1983年退官。

退官後も、財団法人藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長、国際医療福祉大学総長などを歴任。1993年に寄付金を募って高松宮記念ハンセン病資料館を開館させたほか、らい予防法廃止運動に取り組んで廃止を実現。

さらに、らい予防法人権侵害による国家賠償訴訟では証人となって患者勝訴に導いた。また、「精神障害者の社会復帰と社会参加を推進する全国会議」の創設にも関わり、1987年の精神保健法(後の精神保健福祉法)等の法改正に貢献した。

1993年にWHOから社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を授与された。
2010年12月7日、埼玉県内の病院で死去。86歳没。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


「社会全体が人権意識を高めてほしい」 大谷藤郎さんに聞く

現在(2009年当時)84歳の大谷藤郎さんハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止に寄与した国立ハンセン病資料館名誉館長で元国際医療福祉大学総長の大谷藤郎さんは、ハンセン病問題を解決するには社会全体の人権意識を高めることが必要だと指摘する。

3月で85歳という高齢ながら笹川記念保健協力財団の理事としてもハンセン病問題について助言を続けている大谷さんは、生きる上で大きな影響を受けた恩師について執筆するなど、多忙な日々を送っている。以下、大谷さんに人生の一部を振り返ってもらった。

「ハンセン病問題について 日本のハンセン病問題は解決したといっても、まだ社会的な差別解消とかやるべきことは多い。もう一つは、精神障害や難病の人々など社会的、経済的に被害を受けている人のことを社会全体で考えないといけない」。

社会全体が人権について考え直す必要がある。このままでは平等な社会とはいえない。(大谷さんの信念は「人間はみな平等であり、健常者も障害を持つ人も互いに人間として尊重しあう共に生きる社会を目指す」ことだという)

「生きる上で支えになったことは 京大在学中に「らいは恐ろしい伝染病ではないと」いう信念でハンセン病の患者を大事にした小笠原登先生と出会ったことだ。

先生は僧侶で兄の哲学者の秀実先生もすごい人だった。登先生との出会いが支えになり、何をやっていても「先生ならどう思うか」と考えた。

在学中に結核になり、滋賀県の実家で2、3年寝たきりの生活を送り、生きる希望を失った。ストレプトマイシンが無い時代だった。厚生省(現在の厚生労働省)に入ってからは結核体験を隠していたが、課長時代にある難病団体との交渉の席で初めて自分も元結核患者だと話した。

大声で抗議していた団体の人たちが急に静かになったことを覚えている。医者は優しさが必要だ。私は結核を経験してそれを痛感した。(小笠原博士らの思い出について、現在執筆中だ)

団塊の世代の人々など、人生の後輩へのアドバイスは 働ける限り働くことが大事だと言いたい。病気になってまで働けとは言わないが、私は結核をやりさらにがんにもかかってもくじけずに働いた。

振り返ると、がんセンターに通いながら国際医療福祉大学や高松宮記念ハンセン病資料館の仕事を続けた。激務だったと思う。周囲からはいい加減に休んだらといわれたが、自分の限界は分かるのでやることができた。大事なことは、社会のために恩返しをして役立つことだと思う。

急激に進行する高齢化社会の社会福祉のあり方について 高福祉・高負担の北欧方式で行かざるを得ないと思う。かつて北欧に半年留学し、帰国後北欧の社会福祉を賞賛したら袋だたきにあったことがある。

しかし、中福祉・中負担では中途半端でうまく行かない。日本を救うためには、国民の暮らしを質素にしても高福祉・高負担を実現すべきだ。消費税の引き上げは難しいが、政治家は国民が納得するよう話をしてほ
しい。

歩んだ道の思い出は 大学を出た後、保健所でアルバイトをしていた。その時の上司が中央に行って揉んでもらって来いと、厚生省に入ることを勧めてくれた。

ハンセン病を専門にやろうと思っていたが、医療を国や社会が大事にしないといけない、日本の医療をよくしようと思い、自信がないまま厚生省に入ったのは35歳の時だった。私よりも若い人が上にいてショックを受けた。

結核によって、人生では10年近いブランクがあったが、この間に医学以外の哲学書や宗教書を読み、ラジオでクラシック音楽を聞いたことが教養を高めることになり、あとで考えればよかったのだと思う」。(趣味は絵を描くことであり、著書は「現代のスティグマ ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難=頸草書房=など多数」

大谷さん略歴 1924年滋賀県生まれ、京大医学部卒。滋賀県内の保健所や京都府衛生部勤務後、旧厚生省に入り、医系技官トップの医務局長で83年に退官。

退官後「らいは治る。患者を隔離しておくらい予防法は人権侵害であり、廃止すべきだ」と訴え続け、1996年に「らい予防法」が廃止された。その後提訴された熊本地裁のハンセン病国家賠償請求訴訟でも証人として出廷し「らい予防法は人権侵害」と証言した。

裁判は原告が勝訴し、当時の小泉首相が控訴を断念した。国際医療福祉大学総長や高松宮記念ハンセン病資料館館長などを歴任した。93年に社会医学・公衆衛生分野で功績があったとしてWHOレオン・ベルナール賞を受賞した。「日本財団が取り組むハンセン病制圧プロジェクト」より転載 (2009・02.25)2011・2・4


2011年02月04日

◆「牛蒡で死刑」に確証なし

渡部 亮次郎

欧米人は牛蒡を食べない。だから戦時中、捕虜にキンピラ牛蒡を食わせた収容所長が敗戦後の軍事裁判で「虐待」の罪に問われ、絞首刑に処された、と言う話をどこかで聞いて信じていた。

なるほど、ヨーロッパ在住の友人に牛蒡の土産を依頼されたことがある。「人参だけじゃキンピラが出来ないから」と言うわけだったから、牛蒡で死刑云々の話を信じていたわけだ。

余談ながら、パリの友人には塩鮭1匹がよろこばれたし、ある友人には「お茶も海苔も山ほどある」と言われて、「河豚のヒレ」を持っていったら感心された。珍品といわれて鼻高々だった。

閑話休題。「ウィキペディア」によると、牛蒡(ゴボウ)にまつわる食文化の違いがもたらした悲劇的な逸話として、「戦時中、外国人捕虜にゴボウを与えたところ、木の根を食べさせられたと誤解され、戦後にBC級戦犯として虐待の罪で処罰された」というものがある。

小中学校でよく読まれるはだしのゲンでも言及されているため(はだしのゲンではヤマゴボウと記述されている)、この逸話は小中学生の間でも比較的知られている。

しかし実際には、この逸話には曖昧な点が多い。「〜らしい」「〜と読んだ」などと伝聞調に語られることが多く、話す人によって、内容(場所、捕虜の国籍、量刑、処罰された人数など)が食い違っていることが珍しくない。

また、ゴボウを食べさせたことそのものを直接の原因として処罰されたとする裁判記録などは見つかっていない。

この逸話は、特に極東国際軍事裁判(東京裁判)に批判的な立場から、一方的な復讐裁判の好例としてしばしば取り上げられている。

この逸話についての最も古い記録の1つが、1952(昭和27)年12月10日に行われた第15回国会参議院法務委員会での、当時の法務省保護局長の齋藤三郎の答弁である。

一例としては、俘虜収容所の所員が、終戦真際食糧が非常に不足している。併しこれに対してできるだけいい食物を与えたいというのでごぼうを買つて来て食わした。その当時ごぼうというのは我々はとても食えなかつたのだ。

我々はもう大豆を二日も三日も続けて食うというような時代で、ごぼうなんてものはなかなか貴重品であつた。そのごぼうを食わしたところが、それが乾パン代りに木の根を食わして虐待したというので、5年の刑を受けたという、こういう例もあるのだという話をしましたが、(…)

しかし、具体的に誰が処罰されたのかなど、詳しい情報の出所はここでは述べられていない。

この翌年の昭和28年7月2日の参議院厚生委員会では、日本社会党の藤原道子が、「ごぼうを食べさしたものを木の根を食べさせたのだということで25年の禁錮を受けておる」と答弁しており、この時点でも既に量刑の内容が異なっている。

上坂冬子の著書『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』では、新潟県の直江津町(現上越市)にあった東京俘虜収容所第4分所の所長らが、終戦後、収容されていたオーストラリア人捕虜達から「木の根を食べさせられた」という告発を受け、うち所長を除く8名が裁判で絞首刑となった、という具体的な記述がある(ただし、ゴボウを食べさせたことが直接の原因かどうかは書かれていない)。

朝日新聞の連載記事『地球・食材の旅』の1996年11月10日掲載分に、長野県下伊那郡天龍村にあった東京俘虜収容所第12分所(満島捕虜収容所)に勤務していた警備員1名が無期懲役の判決となり、その裁判中にゴボウを食べさせたことが虐待として扱われた、という話が掲載されている。

ただし、この警備員はまもなく釈放されたといい、実際に本人に取材を行ったがこの話については語ってくれなかった、と述べられている。

相馬暁は著書『野菜学入門』の中で「アメリカ人捕虜にゴボウを食べさせたために、昭和21年に、横浜の戦犯裁判で捕虜収容所の関係者が、2人が死刑、3人が終身刑、2人が十後年以上の有期刑の判決を受けた」と述べているが、それ以上の詳細については触れていない。

村山有が、捕虜にゴボウを差し入れたことを理由に戦犯容疑者としてGHQに逮捕された、という話がある。

弁護士清瀬一郎の著作『秘録東京裁判』の中には、「ある捕虜収容所」のケースとして、「牛蒡をオックス・テイル(牛の尾)、豆腐をロツン・ビーンズ(腐った豆)と誤訳したため、捕虜から不満が出た」という話が述べられている。

漫画 『はだしのゲン』では、「捕虜にヤマゴボウを食べさせて25年の重労働を課された」という話が、映画『私は貝になりたい』では、「ゴボウを食べさせて5年の懲役を受けた」という話が出てくる。

これらについて「ウィキペディア」の筆者は刑罰の原因としては軽すぎる。捕虜収容所での虐待行為ならば、強制労働や肉体的暴力など、ゴボウよりも重い罪がいくらでもあったはずである。

虐待行為の1つとしてゴボウが挙げられたことはあったかもしれないが、それだけを主因として刑に処されるというのは不自然、という意見がある」としている。

上記の第15回国会参議院法務委員会の答弁では、アメリカ司法局の行刑局長のベンネツトという人物にゴボウの話をしたところ、逆に刑の減刑について好感触があった、と述べられている。

ゴボウの根の部分を野菜として利用するのは日本と朝鮮半島だけの特徴であり、先述のように葉の部分を野菜として、根や種の部分を漢方薬として使用されることが多い。

ごぼう抜き:リレー走や駅伝競走などで、後方からほかの選手を一気に抜き去ること、または、多数抜き去ることをごぼう抜きと言うことがある。『広辞苑』(第5版)には、「(牛蒡を土中から引き抜くように)一気に抜きあげること。」とあるが、これは厳密には間違いである。

というのも、ゴボウはそれ自体が長く、根毛も多い。すなわち、土との接触面積が大きく摩擦も大きいため、するっと抜くことができないからである。事実、農家では、ゴボウは「抜く」ものでなく、「掘る」ものと認識されている。

この言葉はむしろ、抜きにくいゴボウを一気に抜くことができるほどの力を持っている、という意味で用いるほうが正確であろう。ゴボウの太い根は一株に一本なので、多数抜き去ることの比喩に用いるのは誤用といえる。

なお、「ごぼう抜き」という言葉には、座り込みなどを行う人物を力づくで排除するという、原義に近い用法もある。

ごんぼ(牛蒡)堀り ―青森県の方言に「ごんぼほり」(牛蒡堀り)というのがある。ぐずぐず不平を言って譲らない、酔ってくだを巻く(時に居座る)、強情である、ふてくされる(特に子供)、といった態度(あるいはそのような態度の者)ぐらいの意。なだめたり、お引き取り願うことはゴボウを「掘る」ことと同じくらい難儀であることから、であろうか。

私の郷里秋田県にも同様の言い回しがあり、秋田のローカルヒーローである「超神ネイガー」には「ゴンボホリー」という悪役が登場する。

太平洋でごぼうを洗う ―男女の性交において、女性の膣の締め付けがゆるいと同時に、男性の陰茎が細いため、男女とも十分な満足感が得られないたとえ。

牛蒡剣― 三十年式銃剣の俗称。

2011・2・1


2011年02月01日

◆結局自殺に追い込まれた江青

渡部 亮次郎

国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなった。しかし1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。

当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。

やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。

1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。

1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。

表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。

嫉妬深く自分より優れた所のある女性は容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美を失脚させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。

江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。

さらに、1976年には復活したトウ小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。

1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

また葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。

江青は右足の指が6本あった(李志綏著「毛沢東の私生活」上巻243ページより)。

1974年、江青はフィリピンのイメルダ・マルコス大統領夫人との会見に際して武則天を意識した特別製の礼服を作らせたが、さすがの江青も着ることをためらった。毛沢東の反対があったとされている。

毛沢東の葬儀で江青は黒服に黒のベールで顔を覆っていたが、アルゼンチン大統領ペロンの葬儀の時のイサベル・ペロン夫人(のち大統領)と同じ格好だったので、人々は、毛の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った。

「四人組裁判」の法廷では、これが一種の「政治裁判」であることを批判・嘲笑する言動をたびたびおこない、何度も退廷処分を受けている。

もっとも裁判では毛沢東の責任を検証しないなどそうした側面があったのは事実で、それ故に江青の言動が裁判を「茶番劇」から救ったと逆説的に評価する見解もある(辻康吾『転換期の中国』『文化大革命と現代中国』、いずれも岩波新書)。

女優時代から、養顔(美容)のために、出身地である山東省特産の阿膠(アキョウ)を飲んでいた。ハリソン・E・ソールズベリー『天安門に立つ - 新中国40年の軌跡』(日本放送出版協会、1989年)によれば、1976年当時の江青の頭髪はかつらで、実際にははげ頭であったという。

「一瞬のうちに毛(沢東)の棺の前で、そして党幹部の面前で、女二人の取っ組み合いの喧嘩がはじまった。王(海容。毛沢東の従兄弟・王季范の孫娘で当時外交部(外務省)副部長)は江青の頭に手を伸ばし、その髪を掴んでぐいと引っ張った。その瞬間、王はあやうく引っくり返って尻もちをつきそうになった。

気がつくと、手には何やら黒い塊がある。驚いて江青を見ると、その頭は卵のようにつるつるだった。黒いものは江青のかつらだったのである」。

写真を撮ることが好きで、現存する毛沢東の生活写真の一部は彼女が撮影したものである。陳永貴に「給料は食代と生活費以外殆ど本とフィルムにかかった」と述べた。また、上海照相机厰は彼女のために東風と紅旗カメラを開発した。(「ウィキペディア」)2011・1・26

◆上記2稿は、2月1日(火)刊の「頂門の一針 2169号に
掲載されました。

◆<2169号 目次>
・平気で嘘をつくタイプの小沢氏:乾 正人
・どこまで続く泥濘政治評論:石岡荘十
・結局自殺に追い込まれた江青:渡部亮次郎
・中国は欧米で銀行買収を開始:宮崎正弘
・「振り込め詐欺」が減っている:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月31日

夕刊◆毛沢東に毒を盛った江青

渡部 亮次郎

肝吸虫(かんきゅうちゅう、学名:Clonorchis sinensis) は、ヒトを含む幅広い哺乳類を終宿主とし、肝臓内の胆管に寄生する吸虫の1種。古くは肝臓ジストマと呼ばれてきた。

日本列島、朝鮮半島、中国、台湾と東アジア一帯に広く分布し、東南アジアではベトナムに分布する。

タイには似た生態で別属のタイ肝吸虫 Opisthorchis viverrini が分布して地域によってヒトに濃厚に感染している。

この肝吸虫は川魚に寄生している。だから川魚を刺身にしては食べない。秋田県の旧八郎潟沿岸で育った私が60歳まで刺身を食わなかったのもこのためであり、中国人が最近まで刺身を食べなかったのもこのためである。

最近は海の魚には肝吸虫が寄生してなくて、刺身を食べている日本人が世界一長命であることを知ったので、中国人が急にマグロを食べ始めた。だがトウ小平が1978年に初来日した時はマグロを嫌った。

それなのに第4夫人の江青は夫毛沢東に川魚の刺身を食べさせ、毛はこれを嫌わず、むしろ好物だったと言われている。肝臓ジストマを発症する前に病死したと言うことだろうか。

かつての人気女優であった江青は都会的でスリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だった。やがて毛沢東と出会い、二人は交際を開始するようになった。この時江青は25歳、毛沢東は45歳だった。

しかし当時の毛沢東は賀子珍(毛沢東にとって3番目の夫人)と結婚しており、江青との関係は不倫であった。毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めた。

しかし不倫関係が元であり、さらに、かねてスキャンダルで広く知られた江青を毛沢東の妻とすることに対する危惧感が、朱徳や周恩来といった幹部達の反発を招くことになる。

結局、毛沢東は結婚の条件として江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。

幹部たちの反発はあったものの、日中戦争真っただ中の1939年に毛沢東と江青は正式に結婚した。翌1940年には1人目の娘の李訥が生まれた。

国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなった。1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。

当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。

やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。

1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥。京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。

1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。

表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。嫉妬深く自分より優れた所のある女性は容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美を失脚させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。

江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。

さらに、1976年には復活したトウ小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。

1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。

江青は右の足指が6本あった(李志綏著「毛沢東の私生活」上巻243ページより)。

毛沢東の葬儀で江青は黒服に黒のベールで顔を覆っていたが、アルゼンチン大統領ペロンの葬儀の時のイサベル・ペロン夫人(のち大統領)と同じ格好だったので、人々は、毛の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った。

ハリソン・E・ソールズベリー『天安門に立つ ―新中国40年の軌跡』(日本放送出版協会、1989年)によれば、1976年当時の江青の頭髪はかつらで、実際にははげ頭であったという。

「一瞬のうちに毛(沢東)の棺の前で、党幹部の面前で、女二人の取っ組み合いの喧嘩がはじまった。王海容(毛沢東の従兄弟・王季范の孫娘で当時外交部(外務省)副部長)は江青の頭に手を伸ばし、その髪を掴んでぐいと引っ張った。その瞬間、王はあやうく引っくり返って尻もちをつきそうになった。

気がつくと、手には何やら黒い塊がある。驚いて江青を見ると、その頭は卵のようにつるつるだった。黒いものは江青のかつらだったのである」。
(「ウィキペディア」)2011・1・25

◆本稿は、1月31日(月)「夕刊」「頂門の一針」の2168号に
掲載されたものです。他の卓見も拝読下さい。

◆<目次>
・毛沢東に毒を盛った江青:渡部亮次郎
・「質問は24時間前までに」と繰り返す菅首相:阿比留瑠比
・刑務官の持ち場放棄で政治犯の脱獄が:古澤 襄
・日米が協力して中国を抑えよ :古森義久
・「修身・処世訓」のすゝめ:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2011年01月29日

◆刺身が食べられなかった理由

渡部 亮次郎

育った八郎潟の魚には恐ろしい虫が寄生しているため、誰も生では食べなかった。煮るか焼くかして食べたので、海の魚も生では食べられなくなった。60を過ぎて偶然に食べたところ。極めて美味しかったので爾来、食べられるようになった。

序に八郎潟も大部分が干拓されたので、漁業も廃れて、沿岸住民はいまでは男鹿半島沿岸など、日本海沿岸の魚を買い、刺身にして食べていることだろう。

だが私の幼少のころは貧しくて海の魚をなかなか買えない。だが八郎潟に行けば鮒、鯉、鯰などが子供でも捕まえることができたものだから、これらを必ず煮たり焼いたりして蛋白源にして成長したわけだ。当然、寿司も食べたことが無いままであった。

ところで恐ろしい虫とは「肝吸虫」かんきゅうちゅうである。ウィキペディアによれば、1980年代以降は特効薬「プラジカンテル」が発明され1日の投与だけで根治が可能になった。とはいえ、それまでは恐ろしい病気を招いた。

肝吸虫が寄生しているのはフナ、コイ、ウグイ、モツゴ、ホンモロコ、タモロコ、ゼゼラ、ヒガイ、ヤリタナゴ、バラタナゴ、カネヒラなどで、焼いたり煮たりすれば死ぬ。

それなのに生でたべると飛んでもないことになる。肝吸虫は、成虫が寄生する胆管枝に塞栓してしまうため、多数個体が寄生すると、胆汁の鬱滞と虫体の刺激によって胆管壁と周囲に慢性炎症をきたす。

さらに肝組織の間質の増殖、肝細胞の変性、萎縮、壊死が進行し、肝硬変へと至る。そのため食欲不振、全身倦怠、下痢、腹部膨満、肝腫大をきたし、やがて腹水、浮腫、黄疸、貧血を起こすようになる。ヒトのほかイヌ、ネコ、ネズミ、ブタにも寄生する。

実験的にはイエウサギ、ラット、マウス、モルモット、ハムスター、ヌートリアにも感染する。

肝吸虫、学名:Clonorchis sinensis) は、ヒトを含む幅広い哺乳類を終宿主とし、肝臓内の胆管に寄生する吸虫の1種。古くは肝臓ジストマと呼ばれてきた。

日本列島、朝鮮半島、中国、台湾と東アジア一帯に広く分布し、東南アジアではベトナムに分布するが、タイには似た生態で別属のタイ肝吸虫 Opisthorchis viverrini が分布して地域によってヒトに濃厚に感染しており、これと同属の猫肝吸虫 Opisthorchis felineus が、シベリアからヨーロッパにかけて分布し、ヒトにも感染する。

肝吸虫のメタセルカリアが寄生し、第2中間宿主となる淡水魚はコイ科を中心にモツ、ホンモロコ、タモロコなど約80種。コイ科以外ではワカサギの報告もある。

こうした魚をヒト、イヌ、ネコ、ネズミなどが生で摂食すると、メタセルカリアは小腸で被嚢を脱して幼虫となり、胆汁の流れを遡って胆管に入り、肝臓内の胆管枝に定着する。23〜26日かけて成虫となり、産卵を開始する。成虫の寿命は20年以上に達する。

日本国内で]古くから知られた流行地として、岡山県南部、琵琶湖沿岸、八郎潟、利根川流域、吉野川流域などが知られている。

他に宮城県、新潟県、埼玉県、長野県、富山県、濃尾平野、京都府南部、大阪府、和歌山県、兵庫県南部、広島県、山口県、香川県、徳島県、福岡県北部、福岡・熊本県境地帯などに流行地がある。

感染すれば胆管の拡張、肥厚が起こるため、逆行性膵胆管造影、CT、エコーなどで診断すると、肝内胆管の拡張像、異常が認められる。

モツゴやホンモロコ、タナゴ類のような小型のコイ科魚類を流行地で生食するのが最も危険である。フナやコイはモツゴやホンモロコなどに比べるとメタセルカリアの保虫率ははるかに低いが、刺身などにして生で食べる機会が多いため、用心しなければならない。

感染した場合、古くは塩酸エメチン、クロロキン、ジチアザニン、ヘキサクロロフォン、ヘトール、ビレボンなど副作用の強い薬を用いざるを得なかったが、1980年代以降「プラジカンテル」の登場によって1日の投与のみで根治が可能になった。

芸術家にして美食家の北大路魯山人の死因として人口に膾炙しているものとして、「生煮えのタニシを好んで食べたため、肝吸虫の重い感染を受けて肝硬変を起こして死んだ」とするものがある。

しかし肝吸虫の中間宿主となるマメタニシは食用となる真のタニシ類とは類縁が遠く、また小さくて食用にされることもない。

当然のことながらマルタニシやオオタニシのような一般に食用とされるタニシに肝吸虫が寄生していることもない。さらに、マメタニシは第一中間宿主であるため、別にこれをヒトが生で食べたところで終宿主への感染能力を持つメタセルカリアを有しないので、感染源とはならない。

したがって、魯山人の感染源は、コイやフナなどの淡水魚の刺身以外には考えにくい。とはいうものの、淡水産の水産物の表面には肝蛭のような他の寄生虫の感染態の幼生が付着している危険性はあるので、タニシを食べるときは十分火を通して食べるべきではある。

「プラジカンテル」はドイツの製薬メーカーバイエルの寄生虫学グループにより、 1970年中頃に開発された。世界保健機関は本薬を、"Essentialmedicines"の 1つに採用している

副作用 ガある。

多くの作用・副作用は、寄生虫が死ぬときに内容物が放出され、宿主の免疫系が活性化されることにより生じる。一般に、寄生虫の負荷が大きいほど、副作用も頻繁に生じ、かつ大きくなる傾向がある。

中枢神経系

頻繁に生じるのはめまい、頭痛、倦怠感である。眠気や疲労感、空間識失調を生じることもある。ほぼ全ての患者が、寄生虫が駆除されるのに伴い、中枢神経系内での脳嚢尾虫症を経験する(頭痛、既往症の悪化、クモ膜炎、髄膜炎など)。

消化系

約90%の患者が腹痛を感じ、吐き気や嘔吐を伴うこともある。下痢が生じ、疝痛を伴う場合もある。下痢は発汗、発熱、血便を伴う場合がある。

肝臓

肝臓の酵素(AST、ALT)の無症状的・一過的な上昇が、しばしば生じる(最大で 27%程度)。肝障害による副作用は、いまのところ報告されていない。

過敏症

じんましん、発疹、掻痒感、白血球中の好酸球増加を認めることがある。

その他

下部背部痛、筋肉痛、関節痛、発熱、発汗、多種の不整脈、低血圧など。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2011・1・27

2011年01月27日

◆ダグラス・マッカーサー

渡部 亮次郎

1月26日は敗戦後の日本を占領軍代表として支配したダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)の誕生日である。1880年1月26日 生まれ。先祖はイギリス貴族。逝去したのは 1964年4月5日、享年84。

1945(昭和20)年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。

「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。

この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」朝日新聞(1945年8月31)

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在した。朝食に社屋に目玉焼きを注文したが、昼になってやっ1個だけの卵焼きしか出なかった。

降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談をした。この会談に先立ってマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは、玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取った。

その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国軍と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。

「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。

マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。

マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。

この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。

結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、それは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。

第2次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。
 

6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶・飛行機の手配をした。国連軍としてはイギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍やベルギー軍なども展開した。

28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。

7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第8軍を援軍として派遣したほか、イギリス軍も追加派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、軍部の殆どが反対を表明、国防総省からシャーマン海軍作戦部長を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。

この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これはマッカーサーの名声と人気を大きく高め、9月には早くもソウルを奪還した。

その後マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上するものの、トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。

しかしマッカーサーは「中華人民共和国の参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

その結果、中華人民共和国に過度に警戒心を抱かせることとなり、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」の参戦を招くに至った。その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。

1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。

このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。

しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」としてこの意見を退けた。

マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視して北上を続けたために、中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。

マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。

副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。

内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」。

マッカーサーの更迭については、日本の行き過ぎた非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。

また、吉田茂の日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に東京国際空港から離日した。

退任演説を行うマッカーサー1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下両院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。

マッカーサーは最後に、ウェストポイント陸軍士官学校にマッカーサー自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Oldsoldiers never die; they just fade away.)」と言い、有名になった。

この歌には何通りかの歌詞があるが、要約すると「遠くにある古ぼけた食堂で、俺たちは一日三度、豚と豆だけ食う。ビーフステーキなんて絶対出ない、畜生、砂糖ときたら紅茶に入れる分しかない。

だから、おれたちゃ少しずつ消えていくんだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。二等兵様は毎日ビールが飲める、伍長様は自分の記章が大好きだ。軍曹様は訓練が大好きだ、きっと奴らはいつまでもそうなんだろう。だから俺たちはいつも訓練、訓練。消え去ってしまうまで」という痛烈なものである。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨーク市のマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに高齢で支持を得られず断念し、同年レミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。

1964年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が参列した。

筆者は小・中学生の頃。当時は事実を全く知らなかった。こうやって見ると元帥にのぼりつめていたとはいえ、軍人としては多くの判断ミスを重ねている。人間とはこんなもんだろうか。
(「ウィキペディア」)2010・1・25

2011年01月25日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎

こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」として、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに現金を詰めて運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さんは「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露して私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出るわけもない。やはり中央のせいかいである。私に教えたのは政界の、それも実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すのが普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、昭和30年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが角福戦争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙だっ
た。

しかし、福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるという。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎である。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。

(文中敬称略) 2011・1・24


2011年01月23日

◆金持ちは吝嗇(ケチ)

渡部 亮次郎

「金持ちが金にこだわらないと考えるのは貧乏人の考えることだ」と諭(さと)したのは故田中角栄である。その大した遺産を相続した金持ちが真紀子なのだから、真紀子はケチで当然である、と角栄は教えているようなものだ。

昔から世間は人間は得意技で失敗すると教えてきた。得意技にその人間は慢心するから、つい油断と隙ができるのである。貧乏から出発して巨万の富を築いた角栄も得意技のカネ造りを立花隆に暴かれて、首相の椅子を投げ出した。それから云ったのが貧乏人の考え云々の科白である。

「なぜなら金持ちはカネを放さない、ケチだから金持ちになるんだ。金持ちはカネが好きだ。いくらあっても足りない。だから金持ちほどカネにこだわり、カネを欲しがる者はない。

それを金持ちはカネに鷹揚だろうと考えるのは貧乏人の考えることだ。お前のように手にしたカネをすぐ使ってしまうような人は絶対カネ持ちにはなれないよ」。 直話である。

角栄が貧乏に育ったとは周りがいっていることで、本人は如何に貧しかったかなど説明したことはない。父は馬1頭を売って大学にやらしてくれたと宗男はいったが、角栄にその種の逸話はない。

しかし上京後、どうやってカネを作ったかは、時々語った。とくに金脈が「文芸春秋」に暴かれての記者会見で「たとえば他人の土地の隣に土地を買い、石油缶を終日叩けば、隣の人は逃げだしてその土地が安く手に入る」と明かした。もう辞めざるを得ないとはいえ、総理大臣たるものの語ることではなかった。しかし真実だった事は間違いない。

そうやって田中家に財産が残った。真紀子の稼いだものは鐚(びた)1文ありはしない。真紀子は稼ぎ方を知らず、これをただ守って行くしかない。それなのに相続税という名のカネがまるで泥棒のように私から富を奪って行く。

それを補う筈だった数々の会社もなんだか赤字続きでさっぱりだわ。家計を維持し、元総理大臣家の体面を保つための現金収入がどこかにあるの、ないわ。

秘書なんて私の使用人よ、月給をいくらやろうが、やるまいが、私の自由じゃないの。ネコババはこうして成立した。まさに金持ちはカネが必要だったのである。

莫大な(と思うのは貧乏人の考えだが)遺産を相続した真紀子が秘書の月給をねこばばするわけがない、と考えたのは貧乏人の考えだったのだ。

だから真紀子としては証拠の書類などある訳もなく、仮にあったとしても絶対公開することはできないのである。大泣きして辞めたことのある社民党の女性代議士と同じ罪を犯しながらまともに罰せられないのは、自民党内にまだ角栄の怨念が棲みついているからである。

そう考えると、国会にはカネ持ちといわれる人はたくさんいるから、秘書給与のねこばばは、ほかにももっとあるはずで、暴かれることを恐れた先生から突如穴埋めのカネを時ならぬボーナスとして受け取った秘書もいたかもしれない、と考えるのも貧乏人の考えかな。 (敬称略)
2007.02.16  (再掲)


2011年01月21日

◆民主党の「お荷物」小沢

渡部亮次郎

<小沢元代表 政倫審「拒否」

民主党の小沢一郎元代表は20日午前、自らの政治資金問題で衆院政治倫理審査会(政倫審)の土肥隆一会長が求めていた通常国会冒頭の政倫審出席について、事実上拒否する考えを伝えた。

岡田克也幹事長ら執行部はこれを受け、政倫審での小沢氏の招致議決に踏み切る方針。ただ野党側の反発に配慮し、議決は24日の国会召集日以降に先送りした。

執行部は議決の方針は維持しており、同党は政倫審委員から小沢氏系の議員を排除するなど、単独議決に備える一方、小沢氏が強制起訴されれば、離党勧告などの処分に踏み切る方針だ。>
(毎日新聞 1月20日(木)10時22分配信)

政権奪取の最大功労者が、まるで政権党の「お荷物」か湿った「不発弾」みたいになってしまった。ご本人は「チャーチルになる」と言っているそうだ。70過ぎて首相に返り咲いたのにあやかろうとしているのだろうが、端で見るところ、前途遼遠だ。

わたしは小沢の選挙区たる岩手県で政治記者を4年経験した。だが知っているのは先代の小沢さん。その頃の一郎氏は多分、学生だったろう。その後、岩手を後にしてから先代が急逝したので、自動的に一郎が二世代議士になった。

親父さんは藤山愛一郎派だったが、一郎は田中角栄の世話(カネ)になったので、後の田中派に所属。角栄は一郎に幼くして死んだ息子(正法=まさのり)の成長した姿を見る思いで可愛がった、という。

だが、これは田中の秘書だった早坂茂三が、でっちあげた「伝説」らしい。角栄の引退で行き場を失った早坂が、次に擦り寄るべき実力者一郎を大物に見せるための作文だった。生前の早坂の述懐である。

角栄は大金を集めたが、散財も激しかった。その結果、自民党の大方を手中にし、ライバル福田赳夫を完膚なきまでにやっつけて総理総裁になり「今太閤」とまで言われたものだ。

しかし角栄や金丸信に可愛がられたとはいうものの、カネの使い方は習わなかったのか。土建屋と公共事業を「操作」してカネを集めたようだが、使う相手は自分だけ。更に党のカネすら私したと噂するものさえいる。これを東京地検が暴けなかった。だから俺は潔白だと嘯き続けている。

父親はカネには執着したという噂はない。それなのになぜ息子は蓄財に夢中になるのか。「いや、親が執着できないほど実はカネに不自由したから、敵討ちをしているのだ」と言う人もいる。

この問題については検察審査会の主張が通って、1月中にも強制起訴されるから、真相が明らかになるだろうと言う人がいるが、プロの特捜部が寄ってたかって洗っても起訴できなかったものを、弁護士たちが有罪に出来るとは思えない。何年かけても無駄だろう。

菅はじめ民主党の幹部たちは小沢を追い出せば内閣や民主党の支持率が急上昇すると思い込んで「しゃかりき」だが、わたしは小沢切りを仮に断行できたとしても支持率回復は不可能だと思う。国民は今や、政権交代は失敗だったと反省しており、鳩や菅が無能力なことを見抜いているからである。

小澤は離党も脱党もしない。これをやっても従(つ)いてくるものが皆無であることを知っているからである。1人1区の小選挙区制度の下で、政党の公認を取れなければ落選する以上、離党は自殺行為だからである。

それにしても小澤は竹下派を出て政界の孤児となりかけながら、遂に政権交代を実現、民主党の大恩人と成るべきが、いまや「お荷物」か「湿った不発弾」になってしまった。

「チャーチル」になると言っても、自身、あまりにも薄汚れてしまって魅力が無い。強制起訴される公判に何年が費やされるか知らないが、裁判ストレスは、それでなくとも弱っている心臓には酷く響くことだろう。(文中敬称略)2011・1・20

◆本稿は、1月21日(金)刊「頂門の一針」2160号に
掲載されました。他の卓見をご拝読下さい。

◆<2160号 目次>
・民主党の「お荷物」小沢:渡部亮次郎
・鳥越俊太郎さんは間違っている:岩見隆夫
・私の感覚が間違っているのか:阿比留瑠比
・花岡信昭氏の地頭(ヂアタマ)論 に附して:上西俊雄
・「安易な『胃ろう』やめては」に賛同:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2011年01月19日

◆小沢を怖がる岡田幹事長

渡部 亮次郎

<民主党 執行部、離党勧告視野に攻勢 小沢氏処遇山場へ

民主党執行部が週内にも強制起訴される小沢一郎元代表の処遇について、離党勧告も視野に攻勢を強めている。参院で問責決議を受けた仙谷由人前官房長官の交代に踏み切った菅直人首相は、24日召集の通常国会をにらみ、障害となりかねない小沢氏の処分に焦点を定めた。

小沢氏側は離党拒否の構えを見せており、首相と小沢氏の攻防は週内に山場を迎える。

民主党の岡田克也幹事長は菅再改造内閣の発足に伴う民主党役員人事で、常任幹事会のメンバー差し替えに着手した。小沢氏に離党勧告を出すには党幹部がそろう常任幹事会の決定が必要。「小沢切り」の局面に備え、約30人のメンバーを執行部寄りの顔ぶれに替える動きが加速している。>【毎日新聞 1月18日】

それもこれも幹事長岡田克也がだらしないからである。幹事長の癖に自称一兵卒でしかない小沢を呼びつけることもせず、党職員を通じてお伺いをしている始末だ。前代未聞の醜態だ。

自民党時代、幹事長は、総裁(党代表)の同志というよりは、ライバルの色彩が濃かった。福田赳夫に対する幹事長大平正芳はコンビというより強烈なライバル。したがって党運営についっての「相談」は殆ど皆無だった。

菅・岡田の関係は微妙だ。ポスト菅を考えればライバルだが、暫くは菅にとっては信頼すべき同志だろう。だが、見るところ、官房長官を降ろされた仙谷代表代理は、権力掌握の野望もだし難いものがあろうから、ほどなく岡田に対して牙を剥く。

だから岡田としては、少なくとも「小沢問題」に関しては強引な手段も辞さず、問題処理の主導権をとらないと、その地位は揺らぎかねない。所謂「原理主義者」らしく、一旦決めたら「猪突猛進」しないとポスト菅では後れをとることになる。菅の先を進まないと駄目だ。

<中野寛成国家公安委員長の後任の両院議員総会長には党代表選で菅首相を支持した直嶋正行元経済産業相を内定。鉢呂吉雄前国対委員長、首相のグループの岡崎トミ子前国家公安委員長はいずれも副代表として、
幹事会に加わる。

このほか、枝野幸男幹事長代理が兼任していた国民運動委員長は渡辺周選対委員長、大塚耕平広報委員長の後任には馬淵澄夫前国土交通相をあてる。一連の人事で、常任幹事会の非小沢色が濃くなった。

人事とともに、岡田氏が進めるのが、衆院政治倫理審査会(政倫審)への小沢氏出席を求める議決だ。岡田氏は17日の記者会見で、政倫審について「役員会では今週中に議決することを決めている」と述べ、小沢氏の申し出がない以上、議決に踏み切る考えを示した。

岡田氏は同日夕、政倫審の土肥隆一会長と国会内で会い、(1)政倫審開催の前提として、18日に幹事懇談会を民主党単独で開催(2)政倫審の開催予定日を示し、政倫審会長名で小沢氏に出席を要求する−−の2点を指示した。

これに先立ち、民主党の国対委員長に就任する安住淳氏は17日、自公両党の国対委員長に招致議決の協力を要請したが、両党は応じなかった。

それでも岡田氏が手続きを急ぐのは、小沢氏の強制起訴が迫っているためだ。議決を受けても小沢氏が出席を拒否する可能性を見越し、強制起訴前に「執行部の決定に従わない小沢氏」を印象づける狙いがある。

菅首相は4日の年頭記者会見で強制起訴時の対応について「政治家としての出処進退を明らかにして、裁判に専念されるべきだ」と踏み込んだ。強制起訴時に何の対応もとれなければ、政権の求心力にも影響する。

執行部内には小沢氏系議員の反発を懸念する声も残るが、岡田氏は17日の会見で、政倫審に出席した後の対応について「(小沢氏が)どういう説明をするかに関わる」と含みを残した。

執行部側には小沢氏の自発的離党を期待する声もあり、強制起訴になった場合はひとまず小沢氏側の対応を見守る構えだ。離党勧告ではなく一段軽い党員資格停止を模索する動きもある。

小沢氏は16日のフジテレビの番組出演で「民主党の政権を成功させなくてはいけないという思いを僕は誰よりも強く思っている」と述べ、自発的な離党はしないとの考えを強調した。>毎日新聞 1月18日(火)2時30分配信2011・1・18

◆本稿は、1月19日(水)刊「頂門の一針」2159号に
掲載されました。他の卓見もご拝読下さい。

◆<2159号 目次>
・小沢を怖がる岡田幹事長:渡部亮次郎
・首相は政官癒着打破やめたのか:屋山太郎
・胡錦濤放言は国内強硬派向け:宮崎正弘
・対中国政策をインドから学ぼう:古森義久
・あだ名しか通用しない妙な組織:古澤 襄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月18日

◆湾岸戦争から20年

渡部 亮次郎

<イラクのクウェート侵攻を機に、米国率いる多国籍軍がイラクを空爆した湾岸戦争の開戦から16日で20年を迎えた。イラクは今でもクウェートに対する多額の戦後賠償を抱え、両国で1000人以上が行方不明になっている。>(CNN 1月17日)

大平内閣で外務大臣を務めた園田直氏(故人)は湾岸戦争に先立つ1980年、大臣を辞任後、総理特使として中東各国を歴訪した。福田赳夫内閣の外務大臣当時、日本の外務大臣としては初めて中東各国を歴訪した園田氏だったが、イラクのフセイン大統領と会ったのは今回が初めてだった。

その園田氏が帰国して面会した私に語った言葉を今でも忘れない。

「あれほど気味の悪い政治家はいない。あれは人殺しの目だ、今に大事件を起こす」。サダム・フセインのことだった。

その10年後の1990年8月、サダム・フセイン大統領率いるイラクは隣国クウェートに侵攻し、同国をイラクの19番目の州にすると宣言。

これに対して米国主導の多国籍軍が91年1月16日に「砂漠の嵐」作戦を開始した。当に園田氏の予想した大事件をフセインは起こしたのだった。

<フセイン政権が崩壊し過去のものになった今でも、クウェートには90年の侵攻による傷跡が残る。世界の紛争に詳しい国際機関「国際危機グループ(ICG)」のジュースト・ヒルターマン氏は「イラクがクウェートを独立国とみなさず、再び自国の19番目の州だと主張しようとするのではないかとの不安をクウェートはまだぬぐい切れない。

クウェートは、そうした事態が繰り返されないという何らかの保証を求めるだろう」と解説する。

国連は昨年12月にフセイン政権時代のイラクに対する制裁を解除した。しかし、クウェートとの間の懸案解決を求める国連決議はまだ有効だ。

イラク、クウェートなどの国では今でも1000人以上の行方が分からなくなっており、両国と赤十字国際委員会が協力して消息を調べている。

イラクは戦後賠償の支払いも続けている。政府によればこれまでに300億ドル相当を支払ったが、まだ200億ドル以上の負担が残る。賠償金は同国の主な収入源である石油収入から支払っている。

政府報道官は、イラクは自国のためにも資金が必要であり、既に十分な額を支払ったと主張。「サダムが他者に損害を与えたことは認めるが、もう十分だ」「破壊された自分たちの国を再建するためにできる限りの資金が必要だ」と述べた。

両国の国境は国連の手を借りてようやく確定したが、双方にとって未解決の問題は残り、イラクの約200世帯は転居を迫られている。

両国間に今も残るこうした緊張の緩和に向けて、クウェートのナセル首相は12日、バグダッドを訪問した。同国高官のイラク訪問は数十年ぶりとなる。イラクのマリキ首相も近くクウェートを訪問する見通しだ。

一方で、両国関係に進展の兆しはあっても、根本的な問題は両国の信頼関係の欠如にあり、その構築は容易ではないと指摘する声もある。>
(CNN.co.jp 1月17日(月)11時51分配信)

サッダーム・フセイン 1937年4月28日―2006年12月30日)死は絞首刑による。日本語の慣例ではサダム・フセイン、または単にフセインとすることが多い。

1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任した。

1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、近代イラク成立以降からイラクのナショナリストらによってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。

サッダーム政権は、1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言し、国連安全保障理事会からの撤退要求を黙殺した。

しかし、アメリカ合衆国をはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカ合衆国を主力とする多国籍軍に敗退した。

イラク軍は負けた腹いせであるかのようにクウェートの米石油企業の油井を含む732本の油井を破壊しており、300人以上のクウェート人捕虜をイラク領内に連行し、撤退した。

湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカ合衆国を主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器などの大量破壊兵器は廃棄したという。しかし相変わらず独裁体制だけは行っており、クウェートにまともに補償もしなかった。

クリントン政権時代はイラクを仮想敵国とみなしていたために米英軍は空爆を行っており、イラクと友好関係のロシア、中国、フランスが空爆に反対していた。

しかしサッダームは中国・ロシアとは貿易をしていたものの、北朝鮮の金正日体制と違い、後ろ盾として味方にはつけなかったため、のちにアメリカに攻撃を受けた。

2003年3月20日、アメリカ合衆国大統領ブッシュは予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。

4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。後にFBIの取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。

5月2日、ブッシュ大統領はペルシア湾上に浮かぶ空母にて演説、「戦闘終結宣言」を出した。

2003年12月13日、サッダームはアメリカ合衆国陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり、身の周りの世話をしていた旧政権支持者の子息2人と共に逮捕された。

拳銃を所持していたが抵抗や自決などはしなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えた。

また、サッダームの拘束作戦に参加していた元米兵による「大統領は拘束時、地面に掘った穴に隠れていた」とされる米軍発表は捏造だったとする証言もある。

証言したのは、レバノン出身の元米海兵隊員。アラブ系8名を含む20名の部隊に所属。サッダームを3日間、捜索していた。それによると「拘束時、部隊は激しい抵抗に遭い、米海兵隊員1名が死亡した」「大統領自身も建物の2階の部屋の窓から発砲してきた。

我々はアラビア語で『抵抗しても意味はない。降伏すべきだ』と叫んだ」「フセイン大統領が、拘束時に穴に隠れていたとする映像は米軍がデッチあげたもの。あの穴は使われなくなっていた井戸だった」という。この元隊員によれば、部隊が大統領を実際に拘束したのは12月12日で、米軍発表の前日だという。

2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラーム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。

2006年12月30日、サッダームは、米軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。

アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。

刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。

その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたが、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参りを止めるよう命じた。(ウィキペディア)2011・1・17

◆本稿は、1月18日(火)刊の「頂門の一針」2158号に
掲載されました。その他寄稿者の卓見もご高覧下さい。

◆<2158号 目次>
・湾岸戦争から20年:渡部亮次郎
・産経・FNN調査の内閣支持率は28・3%:古澤 襄
・チュニジアの「ジャスミン革命」をどう読むか:宮崎正弘
・政治家の涙:古森義久
・おじいさんは車で買い物へ:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月16日

◆NYのカレーライス

渡部 亮次郎

アメリカへ行くと、どういうわけか焼き魚とカレーライスが食べたくなったものだ。ところがアメリカ人はおしなべてカレーの匂いが大嫌いだそうで、どのレストランでもメニューには無い。

また魚を焼く匂いは人間を焼く匂いだといって厭がる。ロスアンジェルスでは、なんとか、ボイルで勘弁してくれないかといわれた。あれから何十年、事情は変わったろうか。

先ごろ某市のレストランがNYのど真ん中マンハッタンにカレーライスの食堂を進出させたというニュースがあったが、大丈夫だろうかと思ってしまう。客は日本人と何国人だろう。匂いが厭だと周囲から文句を付けられないか。

1970年代の終わりごろからニューヨークでNHK特派員をしていた堀 徹男君は元はといえば政治部の同僚だった。NYではメイン・ストリートの五番街に程近いアパートで奥さんと2人暮らしだった。

この奥さんは数年前、東京で急死されたが、早くにNHKを退職した私だからネット・ワークが及ばず、とうとう葬儀に参列する事はできなかった。それが未だに気がかりであるぐらい、堀夫人には世話になったのである。

何を隠そう、NYでカレーライスを作って戴いたのである。下手をすると、アパートの管理組合に呼び出され、退去を命じられる危険を冒しての「冒険」を強いたのである。

カレーソースを手軽に作るため、日本では市販の即席カレールーが使われている。製品としての粉末の即席カレールーはハウス食品が1926年に(商品名・「ホームカレー粉」)、固形の即席カレールーは、エスビー食品が1954年にそれぞれ日本で最初に製造した。

2004年度のカレールー(家庭用即席カレー)国内出荷額は676億円とされ、各社のシェアはハウス食品約61%、エスビー食品約28%、江崎グリコ約10%と推計される(日本経済新聞社)寡占市場である。

しかしNYでは当時、そんな物はどこにも売っていない。堀夫人はどこをどう捜して私にカレーライスを作って下さったのだろうか。今では謎である。

いずれ話はワルドーフ・アストリア・ホテルに滞在中だった園田外務大臣にばれた。「ナベしゃん、ワシも食いたかったとバイ」とこぼされた。

カレーライス 肉や野菜を、さまざまな香辛料をブレンドしてつくられたカレー粉で調味したカレーソースで煮こみ、米飯にかけて食べる料理。ライスカレーともいう。

カレーの語源は、ソースを意味するタミル語のカリだといわれている。もともとはインド料理であるが、日本へは1859年(安政6)の開港以降イギリスから伝えられたとされている。国産のカレー粉は1923年(大正12)山崎峯次郎によりつくられ、発売された。

本場インドのカレーは粘り気がなく、また、ヨーロッパでは米飯は副えものであるのに対し、日本では米飯が主で、かけるソースもとろみがある(小麦粉=ビタミンB1が多い)という日本独特のものとして発達した。

薬味に福神漬けやラッキョウを副えるのも日本特有である。固形の即席カレーが1954 (昭和29) 年ヱスビー食品から初めて売り出されて以来、さまざまな味の即席カレーが各社から発売され、カレーライスは家庭料理だけでなく、レストランなどのメニューでも定番となっている。

カレーソースに用いる主材料によって、ビーフカレー、ポークカレー、チキンカレー、野菜カレーなどがある。関西と関東の食肉文化の違いから一般的にカレーといえば関西では牛肉を使用したビーフカレーが、関東では豚肉を使用したポークカレーが定番とされている

またカレーライスにカツをそえたカツカレーや、うどんにカレーソースをかけたカレーうどんといったものもある。

カレーライスが全国に広まることとなった経緯として「戦前、普段米を食べることが少ない農家出身の兵士たちに白米を食べさせることになった海軍だったが、当初カレーには英国式にパンを供していた。

しかし、これは概して不評だったため白米にカレーを載せたところ好評となり、調理が手早く出来て肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを兵員食に採用した。

その後、除隊した兵士がこのカレーライスを広めたため、全国に知られることになった」という説がある。日本の海軍は英国から習得したものだからである

ただし、陸軍が普及に貢献したとする説もある。いずれにせよ、日本においては軍隊がカレーの普及に大きな役割を果たしたとみられる。