2010年10月01日

◆国難を認知できぬ人々

渡部 亮次郎

尖閣諸島も北方領土問題は外交マターではない。相手は戦争だと考えている。中でも尖閣について中国は何が何でも領有しなければならない。国運が掛かっているからだ。

アメリカ政府が間違っているのは中国の将来についてである。中国が改革・開放の経済政策(資本主義)を進めていけば、やがて民主国家に変貌すると考えていることである。飛んでもない想像だ。

民主国家になればコキントウはじめ共産党のすべては不要になる。そうなっては困るから、現在の体制を守るしかない。だとすれば確保資源と版図を拡大し、経済成長を持続させなければならない。

だから石油を莫大に抱く尖閣諸島は、中国の願望にかかれば、何処の国の領有かにかかわらず中国のものなのである。訳知りは国連が海底に石油が埋蔵さていると発表してから急に領有を主張した、だから主張に合理性が無いとか非難しても「聞く耳持たず」。

国際ルールを無視と非難しても同様である。「だからなんだというのだ」なのだ。当に石原都知事指摘の如く「ヤクザの論理」なのである。

したがって尖閣の領有に関する限り、中国に「外交」は不要である。なんとしてでも尖閣を領有したいのだから、実にこれは「布告なき宣戦」に他ならない。

そのタイミングとして今が選ばれたのは国家意識の軽薄な民主党政権に交替したからに他ならない。日本列島は日本国民だけのものじゃないとか東シナ海を友愛の海にしたいなどとのたまう政権。安保の抑止力にも無知な連中が統治している今がチャンスと見たのである。

「冷静」な話し合いなど出来るはずは無い。まさに「盗人猛々しい」のだから菅内閣の対応は悉く過った。まして仙谷官房長官のように「多分、これでいいんだろうと。というよりも、中国側も理解してくれるだろうと、ある種、判断をしておったわけですが、やっぱり司法過程についての理解がまったくここまで異なるということについて、もう少しわれわれが習熟すべきだったのかなと思います」。なんて「一昨日おいで」だ。

まして中国側に対して敬語を多用すれば温和詞句なるなんて考えているとすれば噴飯物(ふんぱんもの)である。

重ねて言うがこれは既に戦争なのである。外交でも裁判でもない。戦争なのである。司法過程なんて何処の話だ。いい加減に目を覚ませ。

専守防衛と言ってきたのだから、尖閣に自衛艦を出すとか日米合同演習を展開するとか「防衛」を徹底せよ。

北の海では理不尽なドサクサ占領で北方領土から出て行かないロシアが占拠の既成事実化を更に推進するため大統領の視察を強行しようとしている。

また韓国も竹島領有で新しい行動にでてくるものと思われる。考えるまでも無く、これは「国難」である。民主党政権で政権交代したら国難が来た。民主党が国難を招き寄せた。

9月29日は田中角栄・周恩来両首相による日中国交正常化共同宣言の記念日だった。私はあの1972年のとき、NHKを代表して同行し北京に舞い降りた。

田中首相らを真夜中に呼びつけて毛沢東は言った。「喧嘩は済みましたか」と。平和は紛争の後にしか来ないことを諭したのである。

その6年後、今度は政府入りし、園田直外務大臣の秘書官として北京を訪れた。共同声明に基づき日中平和友好条約を締結する為だった。このときトウ小平は壮大な嘘を吐いた。「尖閣の問題は後世のの知恵に任せましょう」。

知恵どころか、後世はトウの敷いた経済の改革開放(資本主義)の為膨大なエネルギー資源の確保に苦慮し、尖閣の領有を暴力的に強行しようとしている。

これを国難と認知できないのが菅内閣である。閣内上げて国際認知症である。
2010・9・30


2010年09月30日

◆糖尿病だった明治天皇

渡部 亮次郎

わが国を近代国家として確立した明治天皇は、脚気は克服したが糖尿病についてはまだインスリンも発明されていなかったため、医師団もなすすべをしらず、明治45(1912)年7月30日、尿毒症を併発し61歳(満59歳)で崩御した。

大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。

同年(大正元)年9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。

なお『聖徳記念絵画館』は、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地に建てられたものである。

皇后陛下にお子はなかった。5人の側室に大正天皇をはじめ13人のお子ができた。

明治天皇は明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。

一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達を自分が考えたあだ名で呼んでいたという。

若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。

当時「江戸患い」と呼ばれていたビタミンB1欠乏症(脚気)に皇后とともに罹られたが、英国留学帰りの海軍軍艦医総監になる高木兼寛の意見を容れて食事療法で全快した。

このため、高木は4度も陪食を賜ったが「脚気黴菌説」を譲らぬ陸軍医総監森 林太郎(森鴎外)は1度も招かれなかった。

明治天皇はまた今で言う2型糖尿病も患っておられた。しかし国内では糖尿病の研究がさっぱり進んでいないことを残念がり 1911年(明治44)年2月11日、『勅語』によって、皇室よりの下付金150万円と朝野の寄付金を合わせて済生会が創設される。

天皇の意向により「恩賜」と「財団」は1行に書かずに、済生会よりも小さい文字で2行に組み文字にすることとなっている。

同年5月30日、「恩賜財團済生會」設立認可。

組織の運営は内務省が管理し、具体的な事業計画は地方自治体に委託する形式をとった。

1952年、社会福祉法人として認可。 現在は、厚生労働省が所轄している。

これでできたのが東京・港区赤羽橋にある済世会中央病院で、わが国糖尿病研究の中心施設である。

糖尿病の特効薬「インスリン」が発見されて一般化するのは1921(大正10)年。つまり明治天皇が糖尿病から来る腎不全による尿毒症で崩御してから10年後だった。

インスリンについては5人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger)。

1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)が、1977年にはロサリン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)がラジオイムノアッセイをインスリンで開発した事で、それぞれノーベル賞を受賞している。

1921(大正10)年にインスリンの分離に成功。1型糖尿病における薬物療法として、現在のところ唯一の治療法である。インスリンは蛋白質であるため、消化管内で速やかに分解されることから経口投与不可能である。そのため皮下注射によって投与するしかない。

ところで明治天皇は教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。

特に明治17(1884)年4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

その結果、明治19(1886)年6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。

奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を明治5年、自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。

明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。

一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。

無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14(1881)年の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になるあまり、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞であった)。

以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、重要刀剣の散逸が防がれることとなった。

写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。

ただ、最晩年の明治44年(1911年)、福岡県下広川村において軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。

戊辰戦争で新政府と戦った東北地方を、強く憎んでいたといわれる。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主に就任した輪王寺宮(北白川宮能久親王)を、台湾へ送り込んだ。北白川宮には現地での暗殺説が存在する。

明治天皇の内親王(天皇の娘)の長男である小林隆利(キリスト教の牧師)は母から聞いた話として、明治天皇が、「私が天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語ったと述べている。 2010・9・25 出典:「ウィキペディア」

◆本稿が掲載された9月30日(木)刊「頂門の一針」2051号。
同メルマガへの寄稿者の卓見閲覧ご希望の方は、下段のアドレスから
手続きしてください。

◆<目次>
         
・糖尿病だった明治天皇:渡部亮次郎
・世界で類例のない「3代世襲」:古澤 襄
・実は人民解放軍の海軍将校だ?!:古森義久
・一から三まで雇用:前田正晶
・「不揃いの葡萄たち」と松下政経塾:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


2010年09月29日

◆有りすぎる集中力が災い

渡部 亮次郎

2010年9月25日朝、起きると腰に激痛が走り、一歩も歩けなくなった。昔やった「ぎっくり腰」と似ているが、違う。かねてカイロプラクティックで矯正を図っていた腰椎の後湾曲が酷くなったことによる筋肉痛と27日に分かり、治療で痛みは殆どなくなった。

この間、友人や多くの読者からお見舞や様々なご助言をいただきました。略儀ながら誌上にて御礼申し上げます。

こんなに早く回復するとは思っても見なかったから、メルマガ「頂門の一針」を当分休刊して、治療に専念する決意だった。酷かった今夏の猛暑に抗して散歩を強行した後遺症かもしれないとの考えがかすめたからである。

しかし、どうして急に回復したのか。NHK時代の同僚の体験に基づく助言に従って27日夜にうけた変わった治療が効いた(後述)。西洋医学にない療術だった。

いずれ27日は朝から大学病院で「ワーファリン」の効要状態を調べる内山真一郎教授の月例検診が予定されていた。検診で「OK」が出た後、家人がインターネットで見つけた腰痛の権威がこの大学にいらっしゃるというので受付で聞いたら「2年前に」定年退職されたとの事。

レントゲンで検査したら腰椎は後湾曲しているだけでなく右側湾曲も起こしており、これらが神経を痛めつけているものと、若い医師の診断。整形外科としては手術を勧めることになるとのことだった。

しかし腰痛の手術については「きわめて危険」との認識があるので、なんとか「だまし。だまし」して生涯を終える考えである。実は厚生大臣秘書官当時、国立病院に敵意を持つ25歳の青年が凶器を持って闖入してきた。

秘書官の私が捕らえて事情を訊くと当に「無理もない」話だった。

国立病院の整形外科で奨められて腰痛の手術を受けた。その結果、腰痛は治ったが、小便が止まらなくなり、勃起もしなくなった。

離婚された。整形外科に抗議したら、泌尿器科行きを指示された。

しかし泌尿器科では「ここは小便を出す科であって止める科ではない」とからかうように断られた。

最後の手段として最高責任者たる厚生大臣に談判に来た、というものだった。

腰痛の手術は危険を伴い、失敗は救えないのだ。今回も手術を奨める友人がメールを送ってきたが、手術は受けない決意である。

それにしても腰椎がこんなに曲がってしまったのは、有りすぎる集中力が災いしているのである。原稿執筆にしてもパソコン打ちにしても、夢中になってしまって、時を忘れて同じ姿勢を長時間続けてしまう結果なのである。

若い頃、政治評論のアルバイト原稿を書いていたが、書き始めると煙草を吸うのも、時間の進行も忘れてしまうのである。夜が明けてから徹夜してしまったことに初めて気づく始末だった(喫煙は止めて30年以上経つ)。

パソコン打ちについても同様。何かのきっかけで中断すると、文章の構想が崩れてしまい、先へ進めなくなってしまう。だから2時間でも3時間でも同じ姿勢で坐っていることになる。

この点をカイロプラクティックの先生は強調し、30分に一回は休み、姿勢を変えなさい、というのだが、治らないまま、今回の事態を招いてしまった。後悔、先に立たず、の通りではないか。

「こさか接骨院」では痛い腰は見もせず触りもしなかった。手と足を強く揉んだだけ。10分ぐらい。途端に痛みは完全に無くなり、翌日は散歩にも行けそうだったが、大雨だったので21階までの階段昇りを何の痛みも無く果たすことができた。健保が効いて1500円だった。

板橋区南町63-16「こさか接骨院」のホームページは以下の方針が載っていた。電話:03-3554-8030「こさか接骨院」とインターネットに打つと出てくる。

<板橋区大山のこさか接骨院は、器械に頼らない「手・足」を利用した手当てを中心としており、肩こり(肩凝り)、腰痛、打撲、脱臼、股関節痛、ひざ痛、頭痛、神経痛、むちうち、寝違い、骨盤のゆがみなどの痛みにお悩みの方を治療する接骨院です。

また、レントゲンやCTスキャン、MRI検査などをされてもなかなか治らない、痛みが取れないとお悩みの方はぜひとも一度ご来院頂き、ご相談ください。

施術の具体的な内容

原則的に患部をいじらず、手や足を操作することで、患者様のおけがや長年苦しまれていた痛みを取り除き、体の血行状態、免疫状態を改善致します。

皆様のお仕事、日常生活、スポーツなどへの早期復帰、体力維持や向上をぜひともお手伝いさせてください!

当院はただ治療を受けて頂くという形だけではなく、患者様参加型の治療を目的としておりますので、ご自宅や職場でも簡単に出来る治療やストレッチなどもご提案させて頂いております。> 2010・9・28

2010年09月27日

◆菅内閣は即刻退陣を

渡部 亮次郎

ねじれ国会に耐えられず、菅内閣は来年度予算の成立する3月で退場といわれているが、尖閣事件に見るとおりそれまでにもわが国の国益が日々失われて行く。耐えられないのはこっちだ。一日も早い退陣を望む。

元々、菅直人は政治家ではなく市民運動家である。強大な権力に対する「野次馬」が本質。権力を野次ったり批判するのが仕事であるから独自の戦略も戦術も持ち合わせてはいない。

本人は「リアリスト(現実主義)」と言うが本質は「オポチュニスト(ご都合主義者)」に過ぎない。景気が回復しないのに「雇用優先」などというわけの分からんことが言えて平気なのもそのためである。

要するに他人を批判したり、権力を鋭く追及するのは得意だが、自らは創造的な政策は何一つ持っていないのである。政治知識も持ち合わせていない。その点は宇宙人鳩山と全く変わりがない。

先日、財務省関係者に聴いたが、財務大臣野田佳彦は円安問題をいくらレクチュアしても理解できない、サラリーマンも経営者も経験していない。早稲田大学、松下政経塾、千葉県議、衆院議員5期という経歴。円高って何だ。財務省、日銀の仕事で、政治の仕事では無いとの理解。

閣僚の悉くがこの体たらく。景気回復が内閣最大の仕事と弁えていない首相菅。景気回復が無いのに「一にも雇用。ニにも雇用。三にも雇用」を連発。非論理的な論理を叫んで、自らが空っぽであることを天下に晒している。「オポチュニスト(ご都合主義者)」の本質だ。

各国の在京大使館はこの「空っぽ」ぶりを逐一本国政府に打電している。だから国連総会で菅が演壇に登壇した途端、出席者の4分の3が退席したというのもむべなるかななのだ。民主党政権によってわが国は最早、世界の笑いものに墜ちた。

党首選勝利でV状態で回復した支持率。今回の尖閣事件で絶望的に低落したはずである。

しかも中国は戦略的に菅内閣を攻撃してくる。これに対し同盟国アメリカは中国重視の姿勢をとるはずである。

加えて尖閣列島帰属問題に絡む体当たり中国漁船船長の釈放問題。これで馬鹿な世論も支持率を下げるだろうし、駄目な自民党も臨時国会では少しは責任追及に張り切るだろう。

景気回復目的の補正予算の成立に、参院で野党との妥協には相当苦労するだろう。果たして「原理主義者」の岡田幹事長がどの程度の手腕を見せるか。

「菅内閣の命は来年度予算の成立を賭けた来年3月まで」と常識的に語られているが、国際情勢の激変と小沢ら党内反主流派の動きようによってはもっと早くなる可能性を秘めている。文中敬称略。20109・26

◆本稿は、9月27日(月)刊「頂門の一針」2049号に掲載されました。

◆<目次>
・菅内閣は即刻退陣を:渡部亮次郎
・「尖閣諸島は日本領土、緊急の国民集会」:宮崎正弘
・中国の出方を甘くみて反日行動を誘発:古澤 襄
・政治決着ではなかったのか:花岡信昭
・中国人船長釈放に対する政治家の一言集 :阿比留瑠比
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



◆なぜ「衝突ビデオ」を公開しないのか

川原俊明

尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁巡視船との衝突事件。

公務執行妨害容疑で逮捕していた中国人船長を、那覇地検は、勾留期限を待たず、処分保留のまま身柄を釈放しました。一般的に、勾留期限を10日と定めた場合、期限前釈放の事例は少ないのです。

今回は、最高検察庁とも協議のうえ決定したそうです。しかし、多分に政治的判断が見え隠れしています。もちろん、政治的判断をするのであれば、これほどことが大きくなる前にすべきでした。あるいは、逮捕そのものに、政治的判断をすべきでしょう。

それにしても、日本の外交のお粗末さは、悲しいです。なさけないです。民主党大会での代表選争いは一人前でも、外交は、失格です。

中国は、民主党政権をなめきっています。釈放後も、損害賠償と謝罪を求めています。

海上保安庁は、事件の一部始終をビデオテープに記録していたのでしょう。日本の主張が正当ならば、なぜ、ビデオテープを全世界に公開しないのでしょうか。領土の争いとなっているのであれば、国際司法裁判所の日本から提訴すべきです。日本が平和外交を展開するならば、国際機関をフル活用すべきでしょう。

それよりも、菅総理―。中国トップとのホットラインは、どうして使わないのでしょうか。なぜ、初期に、相手と話し合いを進めなかったのでしょうか。日本の政治家の対話能力のなさは、目に余るものがあります。

中国からも、韓国からも、「日本の敗北」を大きく報道されています。その挽回策は、ビデオテープの全世界配信と、両道に関する国際司法裁判所への提訴でしょう。事実を世界に知らせ、全世界を味方にすることです。

より根本的なこと。それは、中国の覇権主義体制に対抗するため、日本が、経済面で、中国に頼りすぎないことです。レア-アース(希土類)禁輸などで慌てふためかないよう、韓国・インド・ベトナム・ブラジルなどの国々との交流を深め、経済構造の全方位体制を展開すべきです。

2010年09月25日

◆腑抜け菅政権、北京に屈服

渡部亮次郎

メルマガ編集中の24日午後3時過ぎにインターネットで流れたこのニュースを見て愕然、日本の将来に絶望した。菅政権を見限ることも当然である。

おそらく仙谷官房長官あたりが根回しの上、NY出張中の菅首相を説き伏せて決断、法務大臣を使ったのであろう。宮崎正弘さんが指摘されるように、小泉政権時代の田中真紀子外相が金正日長男を取り調べもせずに帰国させた事件以来の外交的失態。歴史に残る大不祥事だ。

北京としては、この程度の圧力で屈する日本なら、もう少し圧力を加えれば尖閣諸島の領有権を放棄するだろう、更に揺さぶろう、と凱歌、乾杯の宴だろう。

畏友加瀬英明氏によれば、「相手に悪い」と譲歩するのが日本人に対して「相手が悪い」と決め付けて攻めてくるのが中国人、とか。

今回日本がひるんだのは、何かやましい点があるからだと考え、いたけだかに攻めてくることになる。我々日本人が考える「穏便」とは中国語では「屈服」なのである。

<尖閣諸島沖での衝突事件、逮捕の中国人船長を釈放へ

東シナ海の尖閣諸島沖で中国漁船と石垣海上保安部(沖縄県石垣市)の巡視船が衝突した事件で、検察当局は、同保安部が公務執行妨害の疑いで逮捕した中国人船長、せん其雄(せん・きゆう、せんは憺のつくり)容疑者(41)を、近く処分保留のまま釈放する方針を固めた。那覇地検が24日、発表した。

那覇地検は、処分保留で釈放する理由について、海保の巡視船に航行に支障が生じるほどの損傷が出ておらず、乗組員に負傷者もいないことなどを挙げたうえで「わが国国民への影響、今後の日中関係を考慮すると、これ以上身柄を拘束して捜査を継続することは相当ではない」と説明した。

一方で、漁船が「故意に衝突させたことは明白」と指摘し、船長に対する処分は今後の情勢を踏まえて判断すると述べた。

海保によると、せん船長は7日午前10時56分ごろ、尖閣諸島・久場島の北西約15キロの日本領海上で、巡視船「みずき」(197トン)の停船命令に応じず、急に方向を変えて左前方のみずきに左舷を衝突させ、海上保安官の公務の執行を妨害した疑いで逮捕されたが、中国側が解放を求めて激しく反発している。>
Asahi Com 2010年9月24日15時0分

<【中国人船長釈放】「政府は非常に間違った判断」中国の姿勢に「暴力団の縄張りと同じ」と石原都知事

尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件で、国が中国人船長の釈放を決めたことについて、東京都の石原慎太郎知事は24日の定例記者会見で「政府は非常に間違った判断をした」と批判した。

中国の強硬姿勢については「暴力団の縄張りと同じやり方」と述べた。>産経ニュース2010.9.24 15:53

◆本稿は、9月25日(土)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2047号に
掲載されたものです。他の卓見もご拝読を!

◆<目次>

・腑抜け菅政権、北京に屈服:渡部亮次郎
・敵は日本の政治の愚劣さ:宮崎正弘
・今日の南沙は明日の尖閣:伊勢雅臣
・尖閣諸島で、ブレる、ブレない:泉 幸男
・パックス・チャイニーズの脅威:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

 

2010年09月23日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部亮次郎

「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから32年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主
張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この数ヵ月後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平和友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

「イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったのである。(文中敬称略)2010・9・21

2010年09月18日

◆小沢抜き左翼片肺内閣

渡部亮次郎

<菅改造内閣の顔ぶれ決まる…経財相に海江田氏

菅改造内閣が予定通り17日夕、発足した。

官房長官に留任した仙谷官房長官が同日午後、閣僚名簿を発表した。

岡田外相の後任に前原国土交通相が就くほか、海江田万里衆院財務金融委員長が経済財政相で初入閣した。

野田財務相、北沢防衛相、蓮舫行政刷新相らは留任した。

          ◇

 菅改造内閣の顔ぶれは次の通り(敬称略)。

 ◆総理=菅直人(衆)

 ◆総務=片山善博(民間)

 ◆法務=柳田稔(参)

 ◆外務=前原誠司(衆)

 ◆財務=野田佳彦(衆・留任)

 ◆文部科学=高木義明(衆)

 ◆厚生労働=細川律夫(衆)

 ◆農林水産=鹿野道彦(衆)

 ◆経済産業=大畠章宏(衆)

 ◆国土交通=馬淵澄夫(衆)

 ◆環境=松本龍(衆)

 ◆防衛=北沢俊美(参・留任)

 ◆官房=仙谷由人(衆・留任)

 ◆消費者・少子化・国家公安=岡崎トミ子(参)

 ◆金融・郵政改革=自見庄三郎(参・留任)

 ◆経済財政=海江田万里(衆)

 ◆国家戦略=玄葉光一郎(衆)

◆ 行政刷新・公務員改革=蓮舫(参・留任)>
読売新聞 9月17日(金)13時6分配信


<首相は非小沢系で党中枢を固め、「脱小沢」路線を事実上、強化した。首相は16日、小沢氏と輿石東参院議員会長に「代表代行」への就任を打診。代表選で戦った小沢氏側に配慮を示した形だが、輿石氏は辞退し、小沢氏は17日の両院議員総会を欠席した。>(毎日)

代表選挙の結果を見れば、世論は「脱小沢」を支持している以上、例えば小沢幹事長復活などは許されなかった。したがって本人が流したらしい。

「山岡農林水産大臣」はなかったし田中真紀子の流した「田中真紀子外務大臣」も「田中直紀農水大臣」もなかった。

官房、外務、財務、防衛、をすべて菅支持層で固たほか、経済財政=海江田万里を抜擢して新鮮味を出し、口蹄疫でケチの付いた農水大臣にはベテランの鹿野道彦を起用するなど、手堅さを狙った布陣である。今の菅としては最高の人事ではないか。

この結果、小沢支持グループは副大臣、政務官のポストしか与えてもらえないことが確定した.そんなものはポストでもなんでもない事、素人でも分かるから、菅改造内閣は「脱小沢左派片肺内閣」と名づけよう。

何度も言うが、所属国会議員の半数は「反菅」である。「ねじれ国会」の運営に積極的に協力するとは考えにくい。とりあえず小澤は「手本」を示すように幹事長人事承認のための両院議員総会をすっぽかした。

これを要するに野次馬としてみている分には面白いが数々の「国難」に思いを致すとき、胸のつぶれる思いである。

如何にして斯くの如き内閣を出現させねばならなかったか。すべて国民が切磋琢磨を忘れた自民党を支持し続けた怠慢にある。当然、かつて自民党政権の一隅を穢していたものとして改めて深くお詫びする次第である。(文中敬称略)2010・9・17

2010年09月17日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎

日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラが大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を縫ってインスリン注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死んだ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもたらした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。

だが日本では「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろう。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓がどのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあと、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切っても切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は 内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。

膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないとか、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公はBanting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリンを発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのはさらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用には耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に、糖尿病が一気に蔓延しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響している。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられている。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くなかった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食とは無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのであ
る。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人比べるとヨーロッパ人の体格は立派であったのだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べていたものが、ひと切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。(再掲 文中敬称略)

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」
http://members.jcom.home.ne.jp/3220398001/discovary/index.html

2010年09月16日

◆円高 異聞

真鍋 峰松

最近の急激且つやや長期化しつある円高を観ていると、もともと経済音痴の私でも、少々心配になってくる。

株や公債等を多量に所有しているわけでもない我が身としては、本来、円高・円安による株価の乱高下等に一喜一憂する必要性は全く感じない。むしろ、一般消費者として、円高は本来、輸入品の値下げを通じ物価の下落を齎す歓迎するべき事柄、と昔に教えられた。

ところが、昨今のニュース等を見聞きすると、明日には日本の輸出産業が壊滅するが如き騒ぎで、我が国の製造業の外国移転が一層促進され、国内雇用の喪失を招来する危険性があるとのこと。果たしていつもの狼少年のような過熱報道なのかどうか、私には判断する知識とてない。

ただ、昔の経済学の知識では解析不能な現象が起こっており、それは20世紀末からの経済の急激なグローバル化に起因するのだ、と知るのみ。

ところがこの円高騒ぎの最中、ほん身近な処でも、一喜一憂している現実的な話を聞き驚いた。それは、日本の損害保険会社・A社の第一線営業マンからの話。
 
A社では、数年前から毎年某大ホテルの施設やホテル利用客に絡む事故に関する損害賠償責任保険を単独で取得してきたのだが、今年はライバル会社が参入し競争入札となった。そのライバル会社とは世界的に有名な某外資系保険会社のことだそうだ。
 
だが、A社は「この円高の中で非常に不利な立場になる」と、彼は説明する。何故なら、もし両者とも適切な応札保険料が100万円だと仮定すると、A社は100万円で応札。

しかしその某外資系ライバル社は85万円(1ドル=100円→85円の円高と想定)で応札するだろう、と言うのである。
 
つまり、両社の社内の内部協議の結果、そうならざるを得ない。A社は勿論のこと日本円で、ライバル社は外資系の故に内部経理上ドルを中心に考えるだろうから、と言うのだが・・・・。                          
この話、どうも余りにも専門的・特殊的に過ぎて、聞けば成る程と思わされるものの、私も一知半解の状態。
 
それでは、もし万一事故が発生し保険金支払いの場合には、円相場が現在より一層円高に振れていれば、ライバル社にとっては想定以上の出費を強いられ、逆に円安に振れれば予想外の儲けと言うことになるのであろうか。

とにかく、ややこしい社会になったものだ、と慨嘆するのみ。
  
(参考) 現在 1ドル=85円として、損害発生時の保険金支払いが1億円とする。
@1ドル=85円   1億円÷85円≒118万ドルの支払い
A1ドル=50円   1億円÷50円=200万ドルの支払い
B1ドル=100円  1億円÷100円=100万ドルの支払い

2010年09月15日

◆小沢敗戦は「惨敗」

渡部亮次郎

民主党代表選で721対491で敗戦とは小沢の「惨敗」と言うべきだろう。ちょっと立ち上がれない数字だ。

<民主党は14日午後の臨時党大会(党代表選挙集会)で、菅直人首相(63)の代表再選を決めた。党所属国会議員と地方議員、党員・サポーターによる投票の結果、小沢一郎前幹事長(68)を破った。

菅首相の獲得ポイントは721(国会議員412、地方議員60、党員・サポーター249)、小沢氏の獲得ポイントは491(国会議員400、地方議員40、党員・サポーター51)だった>。
産経ニュース2010.9.14 15:36

得票率は約60%対40%。特に小澤は国会議員で逆転された他、世論を直接反映した「党員・サポーター」票で圧倒的な差をつけられ、「剛腕」への期待よりも「カネ」まみれの体質が徹底的に嫌われたことを物語っている。

つまり菅首相の「脱小沢体制」は党員から支持され、参院選敗北の責任は余り問われていないことも裏付けられた。詰まり菅首相はねじれ国会対策のあまり、小沢勢力を重用すると世論の支持を失う危険のあることが示されたわけである。党役員・内閣改造は極めて難しい。

果たして小澤はどう動くか。暫く様子を窺うだろうが、離党しても明るい展望は持てない数字だ。
(文中敬称略)2010・9・14

 

2010年09月14日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎

北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さん(註 その後退官)がベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞えた内閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。

こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

福田康夫氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。(再掲)(了)2005.02.23 加筆2006.03.25

2010年09月13日

◆滿洲が気にかかる

渡部 亮次郎

芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった音丸(おとまる=1906-1976)。芸者歌手は地方巡業に際して、時間拘束の費用として莫大な花代がかかる事から、苦肉の策として芸者と同じに小唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性をレコード会社で探していた。

その結果、東京・麻布(あざぶ)の末広神社近くの下駄屋の内儀であった永井満津に白羽の矢が立ったのだった。

昭和9(1934)年にレコードデビュー。芸名は音は丸いレコードから、という意味。翌年に古関裕而作曲の「船頭可愛や」がヒット。同曲を沖縄民謡の普久原恒勇が日本最高の歌謡曲と絶賛している。

散歩しながら音丸のMDで聴いていたら「満洲想えば」が聞えてきた。昭和11年生まれの私だが、よく覚えていた。幼くしてレコードで聴かされたのであろう。

「満洲想えば」は敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満洲に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの、という。


作詞=高橋掬太郎、作曲=大村能章。

1.ハア― またも雪空 夜風の寒さ
  遠い満洲が エー満洲が気にかかる
(以下省略)

国民学校(小学校)4年の時「敗戦」。それっきり 満洲の事は学校で習わぬまま老人になってしまった。

満州国(満洲国、まんしゅうこく、英語: Manchukuo)は、1932年から1945年までの12年間間、満洲(現在の中国東北部)にれっきとして存在した国家。

日本領有下の朝鮮および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古自治邦政府と国境を接していた。面積  1,133,437km2  人口1937年 36,933,206人
 
満洲(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満洲族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。

清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931(昭和6)年、柳条湖事件に端を発した満洲事変が勃発。

関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932(昭和7)年、満洲国の建国に至った。元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就いた。

愛新覚羅溥儀満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は関東軍及び日本政府の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

このことが、1933(昭和8)年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。その後ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国が満洲国を承認し、外交関係を持つこととなった。

第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦(赤軍)による侵攻を受け、8月15日の日本降伏により崩壊。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還された。

その後の国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。

現在この地域を統治している中華人民共和国や、かつて統治していた中華民国は同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。

当時複数の国が満洲国を国家として承認していたものの、日本の敗戦とそれに続く極東裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、日本の傀儡政権との認識が現在においては一般的である。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満州国」と表記することがある。

若い頃、官僚として満洲に出向したことのある岸信介は、後にA級戦犯に問われながら無罪となり、首相に就任した。2010・8・9
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』