2010年12月19日

◆藤 純子がいいと三島由紀夫

渡部亮次郎
三島さんが1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。

バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後、割腹自殺した(三島事件)、45歳没。

現在、忌日は、三島由紀夫研究会による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派諸団体が追悼の慰霊祭を行っている。

事件のおよそ10か月前、正月頃だった。東京・赤坂にあった「岡田」という料亭で、初めて三島さんを見た。2階の座敷で、その後官房長官や外務大臣に出世する園田直氏と三島さんを対談させたら面白かろうと新潮社出版部長の新田敞(ひろし)さんが言い出して、簡単に実現したのだ。

「対談」は園田氏の後援会報「インテルサット」(月刊)に掲載されることになっており、当時NHK政治部記者で園田氏と親しい関係で、私が園田氏の付き添い役の私。

三島さんにはかねて親しかったやはりNHK社会部記者で宇和島藩主伊達一族の末裔伊達宗克さんが付き添い。新田さんが司会役で対談が始まった。

共通の話題は剣道から始まったが、話は皇室から頽廃する世相まで広範にわたり2時間にも及んだ。成功だった。初対面とは思えぬ盛り上がりだった。

終わって酒の席になったが、二人とも余りアルコールは呑まなかった。ただ三島さんが、当時映画で『緋牡丹博徒』で初主演し、大ヒット。主人公「緋牡丹のお竜」こと矢野竜子役で人気を集め、シリーズ化され当代一の人気女優になった藤 純子を「あれはいいねぇ」と褒めちぎった。

その頃、六本木の和食の店で藤 純子が納豆ご飯を食べているのを見たことがあったので「先日、納豆を食べている藤 純子」を見ましたよと混ぜ返したら、三島さん真顔になり「渡部さん、美人が納豆を食っちゃいけませんか」といった。

三島さんにはかねて「ホモ」の噂があり、ボデービルや武道にこるのはそのせいだとも言われていたので、藤に拘る三島さんを不思議に思った。

そのうちに三島さんが居ずまいをただし、園田氏に切腹の作法を尋ねた。園田さんは切腹の仕方に三通りの作法があるなどと知識を開陳。三島さんは神妙に聞いていた。この10ヶ月後に冒頭の事件は起こった。

<総監室に戻った三島は、森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、恩賜煙草を吸い、上半身裸となり「ヤアッー!」と叫び自身の腹に短刀を突き立てた。この時、介錯人の森田は自身の切腹を控えていた為か、手の震えで二度も失敗してしまい(刀も曲がってしまったともいう)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって一刃の元に刎ねた。

続いて切腹した森田必勝の介錯も行なった。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。さらに、舌を噛み切っていたことも報告されている。

ノーベル文学賞候補として報道され、多方面で活躍した著名作家のクーデター呼びかけと割腹自殺は、日本だけでなく世界中で注目を集め論議を起こした。>「ウィキペディア

事件について当時の佐藤栄作首相は「気違い沙汰だ」と吐き捨てた。園田氏は「まさか切腹する為に訊かれたとは思わなかった、小説の材料になるのだとおもったから丁寧に教えた」と嘆き、葬儀には国会議員でただ一人参列した。

伊達さん。<1970年11月25日に交流のあった作家三島由紀夫から間接的に、サンデー毎日の記者だった徳岡孝夫と共に、遺書と檄文を受け取り三島事件の目撃者となった。

関連の編著書に『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)がある。また徳岡と共に1984年、瑤子夫人にインタビューを行い、月刊誌『諸君!』(1985年1月号)に掲載した。

皇室担当記者として『天皇の外交』(現代企画室、1975年)を出し、1980年4月、ェ仁親王の婚約、1983年4月には容子内親王の婚約をスクープ。1984年に放映された「NHK特集 皇居」の、中心スタッフとして取材折衝に当たった。

1985年8月、NHKを定年退職、解説委員となったが、在職中に亡くなった。>(同)

新田さんも故人だ。だから岡田で出合った5人のうち、行き起こっているのは私だけになった。

藤 純子は富司純子(ふじ すみこ)となり女優、司会者として活躍中。夫は歌舞伎俳優の尾上菊五郎、長女は女優の寺島しのぶ、長男は歌舞伎俳優・五代目尾上菊之助。(同)
2010・12・18

◆本稿は、12月19日(日)刊の「頂門の一針」2128号に
掲載されました。他の卓見も拝読下さい。
        
◆<2128号 目次>
・藤 純子がいいと三島由紀夫:渡部亮次郎
・東條内閣の総理番:山堂コラム 349
・頑固幹事長の「踏ん張り」:岩見隆夫
・ウィキリーク日本関係は五千件以上?:宮崎正弘
・“衣の下に鎧”の中国:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月18日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎

「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。(9月21日 榊 寿之アンカー)

<『夜のプラットホーム』(よるのプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947年(昭和22年)に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

榊アンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れなかった。日本という国が体制維持のためには、言論統制もあえてしたこと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげにただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させるとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかかり、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。

レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従って内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll BeWaiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が名前をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタンゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き残った東京音楽学校出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。(歌は引退したが、郷里で存命)。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴史があり、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならない事、全世代、共通の願いではなかろうか。(再掲)
参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2010年12月17日

◆発見されていた絶滅種クニマス

渡部亮次郎

秋田県の神秘の湖「田沢湖(たざわこ)」を訪れるたびに、ここにしか生息していなかった「クニマス」を見つけたら賞金を上げる、と言われてきた。絶滅したのから、今までに発見した人は皆無だ。

ところが2010年12月15日、毎日新聞のWebを見て飛び上がった。「70年ぶりに生息を確認した」、と言うのである。田沢湖での絶滅を予見したどなたかが1935(昭和10)年ごろ、生息条件の似た富士五湖の一つ、山梨県の西湖に卵10万個を近くの本栖湖ともにに移していた。

その時、生まれたクニマスが生き残っていたのだ。

現在の田沢湖町は最近、角館などと合併した「仙北(せんぼく)市。当時、西湖などに10万個の卵が移されていたことを知る人は既に無いから、このニュースには驚いていることだろう。

<環境省のレッドリストで「絶滅」とされているサケ科の淡水魚「クニマス」が富士五湖の一つ、山梨県の西湖で生息していることを京都大総合博物館の中坊徹次教授らが確認した。西湖ではクニマスのことを、地元の漁師は黒いヒメマスという意味で、クロマスとして呼称しているとされている。

クニマスは1940(昭和15)年ごろ、秋田県の田沢湖で最後に確認されて以降、姿を消しており、約70年ぶりの発見となった。「絶滅」とされた種の魚の発見は初めて。

中坊教授によると、同教授からクニマスの絵を描くよう依頼された知人でタレントのさかなクン(東京海洋大客員准教授)が、西湖で捕獲された黒っぽいマスを持ち込んだのがきっかけ。

改めて捕獲したマスを3〜4月に解剖したところ、体の色だけでなく、胃にある指状の器官の数やえらの形の特徴などが、記録に残っていたクニマスと一致した。

西湖のマスは形などが似ているヒメマスの亜種とされていたが、遺伝子分析を行うと遺伝子型が違っていた。

クニマスは田沢湖だけに生息していた固有種で、成魚は全長約30センチ。1935年ごろ、田沢湖から卵10万個が西湖と、近くの本栖湖に移されたという記録があり、中坊教授は「その時、生まれたクニマスが生き残っていたのではないか」と話している。>
(毎日新聞 2010年12月15日(最終更新 12月15日 14時19分)とはなっているが、3,4月には確定していたニュースである。

1940年、第2次世界大戦の折に軍需増産をはかり鉱山への電力供給の為の発電所を通して玉川の強酸性水が、田沢湖に大量に流入したため湖水が酸性化しクニマスは絶滅した。

現在ならば環境問題として大きく取り上げられるところであるが、当時は国家を挙げての戦時体制の真っ只中であり、この固有種の存在などが顧みられる事は全く無かった。

しかしそれ以前に人工孵化の実験をするため1930年に本栖湖、西湖に、他にも琵琶湖や詳しい場所は不明だが長野県、山梨県、富山県に受精卵を送ったという記録があった。

このため、田沢湖町観光協会は1995年11月に100万円、1997年4月から翌1998年12月まで500万円の懸賞金を懸けてクニマスを捜したものの発見されることはなかった。

田沢湖での絶滅の原因は強酸性水の流入であるが、サケ科魚類の中でも浮上稚魚期のヒメマスが酸性の水に極めて弱い特性を持っていたことも要因となっている。

田沢湖(たざわこ)は、秋田県仙北市にある湖。日本で最も深い湖である。田沢湖抱返り県立自然公園に指定。日本百景。大きく深い湖であるが、その成因は判明していない。

秋田県の中東部に位置する。最大深度は423.4mで日本第1位(第2位は支笏湖、第3位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)。

湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。

深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。

かつては火山性・ミネラル分の高い水質と流入河川の少なさのため、1931年の調査では摩周湖に迫る31mの透明度を誇っていた。

しかし、1940年に発電所の建設と農業振興(玉川河水統制計画)のために、別の水系である玉川温泉からpH1.1に達する強酸性の水(玉川毒水・玉川悪水と呼ばれる)を導入した結果、田沢湖は急速に酸性化し固有種であったクニマスは絶滅。水質も悪化し魚類はほぼ死滅してしまった。

それに対し、1972年から石灰石を使った酸性水の中和対策が始まり、1991年には抜本的な解決を目指して玉川酸性水中和処理施設が本運転を開始。

湖水表層部は徐々に中性に近づいてきており放流されたウグイが見られるまでになった。しかし、2000年の調査では深度200メートルでpH5.14?5.58、400メートルでpH4.91と未だ湖全体の回復には至っていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆本稿は、12月17日(金)刊の「頂門の一針」2126号に
掲載されました。下記<同号目次>をご覧下さい。
◆<2126号 目次>
・発見されていた絶滅種クニマス:渡部亮次郎
・日本一の無責任男の「思いつき」と「楽観」:阿比留瑠比
・”陰の総理”が「解散はない」:古澤 襄
・中国の奥の院の揉め事:宮崎正弘
・日米韓結束が北の自壊を促す:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月16日

◆恐怖が貫禄を作る

渡部 亮次郎

私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)氏は特攻隊長として出撃寸前、敗戦になった為生き残った人だった。昭和20(1945)年8月13日、北海道千歳基地を飛び立つべきところ、悪天候の為、17日に延期。ところが15日に敗戦。

助かったのですね、と言ったら「違う、一旦死を決意していたから、死ななくても良いと言われた途端、腰が抜けたよ」と言っていた。とにかく日中事変の頃を含めて計11年、戦争の現場にいた。

進軍(徒歩)の途中、途が2手に分かれている。右に進むべきか左にすべきか。必ず悪路のほうに進んだ。良い道の先では敵が待ち構えている危険があった。そういう体験があったのである。

帰還して国会議員になって間もなく野党の独身婦人議員と恋仲になって妊娠がばれた。直ちに4人の子供を抱えた夫人と離婚、野党議員と結婚した。堕胎と言う道もあったのにといったら「困難な途を敢えてえらんだのだよ」。

なるほど選挙区の女性たちには評判が良く、選挙地盤が固まっていない時期だったにも拘らず落選はしなかった。死ぬまで14回連続当選の実績を残した。

1980年代前半までの日本の国会議員たちの大半は従軍体験を持っていた。中曽根康弘氏だって海軍主計中尉だった。田中角栄氏も陸軍2等兵でノモンハン事件に狩り出されている。

死ぬか生きるか。人間は死を覚悟した時、貫禄が出来る。園田氏を観察していると、政治のどんな場面でも恐怖を感じる風はなかった。戦争で死ななかった人間が政治で死ぬわけが無いと楽観していた。

そうした目で平成の政界を見ると、政治家に戦争体験の無いのは勿論、「失敗」の経験も少ない。受験だって「塾」で防備していて「貫禄」をつける暇も無い。

失敗で挫折を多く味わったのは小沢一郎氏ぐらいだ。だから菅も仙谷も面と向かって小沢には対決できない。仙谷は俺の合格した司法試験を小澤葉落ちた、だから俺のほうが上と威張るが、落ちた小沢の貫禄にはたじたじでは無いか。

貫禄を得るためと言って戦争をする事は不可能だが、失敗を重ねた方に貫禄が出来る事は間違いないと勝手に考えている。ただし宇宙人にこれは適用できない。鳩山由紀夫氏は総辞職を失敗とすら考えていないようだから。2010・12・14


2010年12月15日

◆小沢駄目だが菅はもっと駄目

渡部亮次郎

先輩政治記者の古澤 襄(のぼる)さんが指摘している。

<得票率でみると61%支持だった民主党は守谷市が14%、59%支持だった取手市が17%に転落している。総選挙で民主党を支持した層が、みんなの党に流れた。

菅内閣に愛想をつかした支持者が民主党から離反したことが明らかである。

おそらく全国的にみても、民主党が強いといわれた地域でも同じ傾向が生じているのではないか。

菅内閣の支持率は20%台スレスレで踏みとどまっているが、実態は10%台に突入している。このまま党内抗争を続けていれば、ヒトケタ転落も時間の問題ではないか。

それにしては民主党幹部の危機感は希薄である。風の乗った選挙頼みの民主党は、向かい風に曝されると予想以上に脆さを露呈している。>http://blog.kajika.net/

古澤さんとは、その昔、いわゆる「角福戦争」と言われた田中角栄と福田赳夫両氏によるポスト佐藤の自民党総裁争いの取材で、福田番を彼は共同通信、私はNHKとして肩を並べた仲。今は茨城県守谷市に引っ込んだというものの中央政界に隠然たる影響力を所持している。

http://blog.kajika.net/ 杜父魚文庫ブログでの古澤氏の発言は政界のみならずマスコミ界にも重い信用を得ている。その古澤氏が14日に行った発言がこれである。

「菅内閣の支持率は20%台スレスレで踏みとどまっているが、実態は10%台に突入している。このまま党内抗争を続けていれば、ヒトケタ転落も時間の問題ではないか。

それにしては民主党幹部の危機感は希薄である。風の乗った選挙頼みの民主党は、向かい風に曝されると予想以上に脆さを露呈している」。

これに対して岡田幹事長ら民主党主流派は「カネに汚れた小沢氏を追放しさえすれば菅内閣の支持率はV上昇する」と信じ込んで小沢氏に対処しようとしている。

< 民主党の岡田克也幹事長は14日午前、小沢一郎元代表の国会招致に党内から反発が出ていることについて「常識にかなうことをしている。国会での説明を求める国民の声をどう受け止めているのかが問われる」と反論し、小沢氏に衆院政治倫理審査会への出席を重ねて求めた。

その上で、小沢氏が招致に応じない場合は政倫審での招致議決を行うよう党内手続きを進める考えも示した。

13日の党役員会で決まった「幹事長一任」の意味について「小沢氏本人が政倫審に出て説明することが基本だが、それがかなわないときには、党として決定しなければならなくなる、ということまでは役員会で確認した」と強調した。>産経新聞 2010.12.14 11:57

ここでは書かれていないが、この決定をした「役員会」に党首たる菅首相は欠席しているのである。党を統率すべき党首が、決定的な決定をするかもしれない肝腎な役員会を欠席するとは解せない行為である。またも逃げたのだ。

産経新聞とフジニュースネットワークによる12月11・12両日実施の世論調査では、「早期に小沢元代表の国会招致を実現すべきだ」は70・5%が賛成しているから、小沢切り論も一理はあろう。

しかい、59・6%から「不支持」を突きつけられた菅政権に就いて聞くと
首相の人柄―評価しない 44・2%
指導力―評価しない   84・4%
景気対策―評価しない  80・6%
社会保障政策―評価しない67・8%
外交安保政策―評価しない82・6%
国民へのメッセージ発信―評価しない
            76・9%
政治とカネ問題対処ー評価しない
            74・2%

普天間基地を沖縄県内に移設する日米合意の遵守―評価しない
            54・5%

となっている。「指導力に欠け」「安保政策は判っていない」「景気対策は不十分」ときて小沢問題への対処も不十分と決め付けられている。国民は問題の処理を岡田幹事長に押し付け、肝腎の役員会を欠席して「逃げる」菅首相を嫌っているのである。

だから小沢氏が政倫審に出るようなことがあっても、支持率のV回復はあり得ない。

「民主党幹部の危機感は希薄」と古澤さんの指摘だが、私から見ると彼らは単なる「素人」に過ぎない。通常国会で潰れるだろう。         2010・12・14

◆本稿は、12月15日(水)刊の「頂門の一針」2124号に
掲載されました

◆<同号 目次>
・小沢駄目だが菅はもっと駄目:渡部亮次郎
・仙谷由人と小沢一郎の共通点:古森義久
・民主党の牙城だった茨城県南で地殻変動:古澤 襄
・中国は北朝鮮を抑えられない:平井修一
・ウィキリーク、またまた超弩級の暴露:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月14日

◆小沢新党期待わずか13・5%

渡部亮次郎

産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が11、12両日に実施した合同世論調査で、焦点になっている民主党の小沢一郎元代表の国会招致問題について聞いたところ「早期に小沢氏の国会招致を実現すべきだ」としたのは70・5%と7割を超えた。

小沢氏と中心とする政界再編に期待感を表明したのは13・5%で、「期待しない」が80・8%と8割を超えた。

これでは小沢氏は「微温湯」。出るに出られない。政倫審出席を拒否して「いじめ」状態に耐えながら生き恥を晒しながら検察審査会の強制起訴を待つしかないところに追い込まれた。

しかも民主党と自民党との比較では、「政策がいい」「政治姿勢に好感が持てる」でいずれも民主党が2〜7ポイント上回ったが、外交安全保障で信頼できるのが自民党と答えた人は60・8%で民主党より48・2ポイントも上回った。

次の衆院選で勝たせたいのは自民党の39・2%に対し民主党は28・9%で、47・4%が次の衆院選を「できるだけ早い時期に行うべきだ」と回答した。

もともと小沢氏の自民党離党(93・6・23)は信念や政策による離反ではなかった。単に自民党竹下派内の内紛で、追い込まれた離党だった。

あれから17年。昨年ようやく政権交代で政界の主流派に復帰下が、その途端に今度もまた内紛から、良く言っても離党勧告されそうである。何とも「お騒がせ」な政治家である。

その最たる原因は小沢氏自身にある。本人は「政治とカネ」問題について「一点の曇も無い」としているが、今回の世論調査でも国民は小沢氏のこの言葉を全く信用していないことがわかる。

小沢氏のカネの話のすべてが角栄や金丸のくびきから逃れた後、つまり自民党を離党したあとに発生したものである。何を目的にゼネコンから多額の献金を得たり、政党助成資金を「操作」したりするのか。

政治資金で土地を買い、自分名義で登記しながら自分は所有して無いと、分かったような分からないことをするのか。

嘗ての田中角栄の手口は阿漕と言われたが、角栄はその一方では周囲にカネを播いた。それが「徳」となって総理の椅子を確保し、野望を達したわけだが、小沢氏には播いた実績もないし「徳」もない。

だから、「早期に小沢氏の国会招致を実現すべきだ」としたのが70・5%と7割を超えた。本人が一点の曇は無いと豪語しても国民は信用していないのである。小沢の後に道はあっても前途には何も無い。          2010・12・13

◆本稿は、12月14日(火)刊の「頂門の一針」2123号に
掲載されました。同誌掲載の著名寄稿者の評論も拝読下さい。
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◆<2123号 目次>
・民主惨敗の茨城県議選と党分裂の危機:古澤 襄
・またぞろ「小沢政局」か:岩見隆夫
・小沢新党期待わずか13・5%:渡部亮次郎
・手持ち無沙汰の「第2の人生」:平井修一
・ドイツ人と銀杏の木:永冶ベックマン啓子
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年12月13日

◆小沢氏、新党断念か

渡部亮次郎

窮地に立つ小沢氏に迷い 「同志に迷惑をかけた」と謝罪 離党後の展望開けずと産経新聞が報じ、「自らの置かれた窮地を悟った小沢氏が、離党説を打ち消そうとしているようにも見えた」と推測した。

<側近の平野貞夫元参院議員も日、「新党を作ったりすることはない。菅さんに挙党態勢を作る気があれば、知恵、力を貸す気持ちがある」と、小沢氏の胸中を推し量りつつ歩調を合わせた。>(産経)

筆者が後に外務大臣になった園田直の秘書官を務めたが、園田氏が若い頃つとめた衆議院副議長当時、その秘書官を務めていたのが平野氏。全く「旧知の仲」である。

平野氏は他方、その当時から田中角栄氏をつうじて小沢氏に接近。国会運営に抜群の知恵を持つ平野氏は、小沢氏に高く評価されていた。

小沢氏の周辺からは多くの「側近」が離反して行ったが、平野氏だけは引退後の現在も「知恵袋」であり続ける。愛娘が小沢側近の樋高参院議員に嫁している通り、小沢氏の信頼は硬い。

その平野氏が小沢氏の離党や新党結成を否定し、党執行部への協力姿勢を示した事は相当な確度を持ってみるべきだろう。

場面は福井県越前市のホテル。11日の同党所属衆院議員のパーティーで、あいさつの終盤にさしかかると、急に神妙な面持ちになって頭を下げた。「私事で多くの同志のみなさんに大変、ご心配、ご迷惑をおかけしていることを、この機会におわびをいたす次第です」何だろうか。

<国会招致問題で渦中の小沢一郎元民主党代表は11日、同党衆院議員のパーティーで「同志に迷惑をかけた」と珍しく謝罪した。岡田克也幹事長らとの亀裂が決定的となりつつある中、離党−新党結成も視野に入れているという小沢氏。

だが、多くの野党は小沢氏との連携に冷ややかで、離党後の展望は開けない。逆に党に残っても政治資金規正法違反事件で強制起訴されば求心力の維持は厳しく、進むも退くも苦難が待ち受ける。そんな小沢氏の迷いが謝罪の言葉となってにじみ出たのかもしれない。

これまで小沢氏は「司法の場で説明する」と国会招致に応じない考えを繰り返してきた。国会招致問題が本格化してからは公の場で謝罪したこともなく、強気だった。

一方、岡田氏らには、小沢氏の招致によりクリーンな姿勢をアピールし、政権浮揚を図る思惑がある。岡田氏は11日、一歩も引かない姿勢を強調しており、小沢氏との溝は埋まらない。

斎藤勁(つよし)国対委員長代理が同日、首相公邸で菅直人首相に役員会での「激突回避」を要請したが、首相から明確な返答はなかった。

「こういう状況で連立するのは、小沢さんの延命策になる」

自民党の森喜朗元首相は11日のテレビ東京番組で、民主、自民両党の大連立に小沢氏が関与するのなら反対する考えを示した。

小沢氏は8日の会合で新党結成を視野に入れた発言をしたが、多くの野党は小沢氏との連携に否定的だ。自民、公明両党幹部は11日、政倫審よりも強制力のある証人喚問への小沢氏出席を求めた。

「民主党の政権を何としても成功させたい」「国民の生活を大事にする政治を民主党政権で実現したい」

小沢氏はパーティーで「民主党政権」の維持を強調した。自らの置かれた窮地を悟った小沢氏が、離党説を打ち消そうとしているようにも見えた。>(産経新聞 2010.12.12 00:35)

◆本稿は、12月13日(月)刊の「頂門の一針」2122号に
掲載されました。
◆<2122号 目次>
・小沢氏、新党断念か:渡部亮次郎
・「侏儒の言葉」と民主党の政局と: 阿比留瑠比
・これなら日本で出産するわけだ:前田正晶
・注目される中国のインフレ率:宮崎正弘
・定住自立圏構想とは:須藤尚人
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月11日

◆小沢氏、新党結成に言及

渡部 亮次郎

「党内抗争」の引き金になるとみられている12日投開票の茨城県議選(定数65)を目前にして小沢氏が新党結成に言及「次のことも考えないと」8日夜 舛添氏らとの会合で延べていたことがわかった。

一方、菅直人首相(民主党代表)は9日、小沢一郎元代表に衆院政治倫理審査会(政倫審)への出席を求める国会の議決を年内に行うことを目指し、13日の党役員会に提起する方針を固めた。

いわば「風雲、急を告げている」感じになっているが、菅氏は「逃げのカン」であるし、小沢氏も新党と口では言うが、前途は楽観できない。両者、しばらく「神経戦」を展開するのではないか。

<民主党の小沢一郎元代表が8日夜の鳩山由紀夫前首相らとの会合で「次のことも考えないといけない」と新党結成を視野に入れた発言をしたことが9日、分かった。

党執行部が「政治とカネ」の問題をめぐり小沢氏の国会招致実現に動き出す中、小沢氏としては局面打開のために現在の民主党にとどまらないことも選択肢に入れたようだ。

一方、党執行部は、小沢氏が国会招致に応じない場合、離党勧告を突きつけることを検討し始めた。

会合には無所属の鳩山邦夫元総務相と新党改革の舛添要一代表も参加した。小沢、由紀夫両氏は菅直人首相について「おれたちを切って、政権を浮揚させようとしている」と批判した。

そのうえで、小沢氏は「民主党への愛着はある。自民党に政治を戻してはいけないし、民主党が今の形で政権を維持させなければいけないと思う。しかし、それがどうしようもなければ次のことも考えないといけない」と発言した。

民主党内は、小沢氏を支持するグループから両院議員総会の開催や、参院で問責決議を受けた仙谷由人官房長官の更迭を求める動きが顕在化し、執行部との対立が激しさを増している。

小沢氏としては「脱小沢」路線を取る現執行部が居座り続けることも想定し、民主党分裂の覚悟を示したとみられる。

これに対し、小沢氏と距離を置く議員からは「小沢氏を離党勧告するしかない」(中堅)という強硬論が上がっている。>
産経新聞2010.12.10 02:24

<菅直人首相(民主党代表)は9日、小沢一郎元代表に衆院政治倫理審査会(政倫審)への出席を求める国会の議決を年内に行うことを目指し、13日の党役員会に提起する方針を固めた。

年明けの通常国会で新年度予算案の審議を円滑に進めるには、野党が求める小沢氏招致が不可欠と判断した。役員会には強い反対論もあるが、首相は多数決による決定も含め強気の構えだ。

小沢氏は首相の強硬姿勢に対抗し、12日投開票の茨城県議選での民主党苦戦を見越して、13日以降に菅政権を質す両院議員総会の開催を求めるよう側近議員に指示。

小沢氏周辺には、参院で問責決議が可決された仙谷由人官房長官を更迭するための内閣改造論が強まっている。年末の来年度予算編成を前に首相と小沢氏の対立が先鋭化しており、菅政権は緊迫してきた。

民主党執行部は今月に入り小沢氏招致に向けて協議を続けてきた。仙谷氏や岡田克也幹事長は、小沢氏招致を避け続ければ野党が結束して反発し、通常国会の予算案審議が冒頭から紛糾すると判断。

法的強制力はないものの、政倫審出席議員の過半数の議決で小沢氏の出席を求め、菅政権として「政治とカネ」の問題に前向きに取り組む姿勢を示すべきだと強く進言した。

首相は8日の岡田氏との会談でこの方針を了承し、同夜の民主議員との会合で「小沢氏の説明がないと国会が回らない。小沢氏は9月の代表選で自分が説明すると言っており、今がその時だ」と強調。

岡田氏も9日の記者会見で「予算案や関連法案を通していくうえで野党の協力を得るためにも重要だ。小沢氏は国会が決めたことには従うと言っている」と、強い決意を示した。小沢氏が議決に応じない場合は、離党勧告も視野に強い態度で出席を迫る構えだ。

13日の役員会では岡田氏が議決を提案して首相か岡田氏への一任を取り付け、年内に政倫審を開いて議決したい考えだ。

ただ、役員会では小沢氏に近い輿石東参院議員会長らから反対論が噴き出す可能性がある。首相と岡田氏は役員会としては異例の多数決による決定も視野に入れるが、役員会が紛糾すれば決断を先送りする可能性もある。

首相らの強硬姿勢の背景には、「政治とカネ」を重視する公明党に国会運営上の軟化を促す狙いがある。

9日には、民主党の鉢呂吉雄国会対策委員長が公明党の漆原良夫国対委員長と会談し、議決が行われれば賛成するよう要請。公明党幹部は「議決の要請があれば反対できない。小沢氏の問題にけじめがつけば、民主党への協力を考える余地はある」と語った。>
(Asahi Com 2010年12月10日5時0分)

2010年12月10日

◆マスコミへの諦観

渡部亮次郎

私は、マスコミの世界にいたこととは関係なく、マスコミというものを信用しない。「あれはあれで仕方のないものだ」と言う一種、諦めの目で見ている。だから嘘を言われても怒らない。嘘をつかないと立場が無かったろうとの想像が容易だからだ。

事件、事象に客観的に立ち向かうとしても、それを記者として表現するのに客観的という事は殆ど不可能だ。どうしても、どこかに記者自身の感情が入る。

大阪放送局(NHK)でニュース・デスクをしていた時、若い警察担当記者が「枚方市の郊外で野犬数匹が登校途中の小学生たちに噛み付いて怪我をさせた」と言う原稿を送ってきた。一応、ローカルニュースの時間に放送した後、この原稿、私が書けば東京で全国放送するよ、と次のように書き換えて,東京へ送った。

「日本で最も古い大阪・枚方市の団地で、転勤族の捨てて行った犬たちが野犬の群れとなって登校中の小学生の集団を襲い、数人に怪我をさせるという出来事がありました」。果たして全国ニュースになった。

「日本最古の団地」「転勤族」「野犬の群」「小学生の集団」これに食いつかないのは記者じゃない。しかし通り一遍のベタ記事をここまで膨らませるのは「腕」と知恵というより「犬」に対する憎しみの「感情」が先立っている。しかも犬にニュースに対する抗議は不可能だ。

事ほど左様にニュースにはどうしても記者の感情を全く排除する事は不可能だ、と思っている。

世論調査にしたところで設問の仕方で結果は大違い。内閣の支持率調査でも、その内閣に対して好意的に質問は可能だし、その逆も可能。だとすれば設問の内容を検討しないで、出てきた数字だけで判断したら間違うことになる。

まして数字の解説記事も、よほど注意しないと間違う。だから私ははじめから世論調査そのものを眉唾ものと決め付けている。もともと新聞は産経しか読まないし、テレビは殆ど見ない。

産経新聞のテレビ欄を見ると歌舞伎役者の喧嘩沙汰に五月蝿いくらい多くの時間が費やされて顰蹙を買っているようだが、テレビ会社は、視聴率さえとれれば、あとは野となれ山となれなのだから、視聴者のレベルにあわせた番組編成をしているだけだ。

それを「公共の電波を浪費して、くだらない番組を放送するな」とパソコンで叫んでみたところで、テレビは馬耳東風。馬の耳に念仏。わしゃ聞えません。テレビは視聴率が高ければ高いほど儲かる方式になっているから、大衆を教育はしない。精々楽しくさせるだけである。

我々大衆とは賢いものではない。テレビと言っても何処のテレビの何時に誰が言っていたかでは無しに「テレビがそう言っていた」と言いふらす。番組のくだらない部分だけが一人歩きして「世論」となったりする。ましてテレビがわが一定の憶測を秘めて大衆を誘導したら、大衆はひとたまりもなく騙されてしまうはずだ。

だから民放テレビが盛んに開局を始めたころ、辛口の社会評論家大宅壮一が、今日を予想して言った「テレビで一億総白痴化する」と。

実はテレビのレベルを大衆が超えれば、テレビは誰にも見られなくなる。皆に見てもらうためにはテレビはそのレベルを大衆に合わせて居なければならない、逆にいえばテレビは大衆そのものである。

民放は只だというが、スポンサーはその分を商品の原価に被せているのだから、大衆は受け取る商品をつうじて視聴料を払わされているに過ぎない。視聴者はテレビを見ている心算が、スポンサーにテレビを見させられているに過ぎない。

そんなこんなを考えると私はテレビを見ると白痴になるような気がして、見ることをしない。なるほど大宅が言ったようにテレビを見ると思索がいらなくなるから、白痴は大げさとしても利口にはならない。

新聞にしたところで事情は余り変わりが無い。「新聞は社会の木鐸」は既に死語である。自民党が殆ど2世3世議員ばかり。やるべきことを何でも先送りするばかりでくだらないからと、日教組教育で赤く染まった連中が民主党への政権移譲を煽った。

煽っているうちは読者は主導権を失ったかに見えたが、新聞としては読者に逆らっては売れないのだから煽っているようで実は読者に諂っていたに過ぎない。それが証拠に政権交代したら部数が格段に増えたという話を聞いていない。

新聞に煽られた、けしからんと言う人がいるが、新聞もまた読者に合わせた紙面を作っているのであって、新聞は読者に煽られていただけである。2010・12・09
◆本稿は、12月10日(金)刊の「頂門の一針」2119号に
掲載されました。著名寄稿者の寄稿もご拝読下さい。

◆<2119号 目次>
・マスコミへの諦観:渡部亮次郎
・台湾の連戦元副主席に孔子平和賞:宮崎正弘
・北朝鮮暴走、世界制覇を目論む中国:櫻井よしこ
・米民主党の対中姿勢の宥和部分とは:古森義久
・プロも読めない為替と株:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月08日

◆鰰(ハタハタ)の季節

渡部 亮次郎

わが郷里秋田では、11月に入ると霙(みぞれ)の毎日だったが、大人たちは鰰(はたはた)の接近を待った。民謡「秋田音頭」にある如く男鹿半島などに来る。

但し私の生まれ育ったところは男鹿半島の付け根にできた汽水湖八郎潟の沿岸だったから、鰰の接近を目にすることはできなかった。産卵の為秋田県各地の沿岸に来る雌の後を追ってきたオスが受精させるべく行動を起こすので海は真っ白になるという。

今年(2010)もすでに東京・日本橋のデパート地下では鰰が売られているそうだから、秋田ではそのシーズンに入ったということだろう。

ハタハタの卵は「ブリコ」と呼ばれる。ハタハタ漁の時期、雌の多くは直径2〜3mmの卵をたくさん腹に抱えており、この卵の周りはヌルヌルとした感触をもった粘液で覆われている。

生のハタハタを焼いた場合、この卵の固まりをかじると口の中で小気味よくプチプチとはじけてうま味が広がる。

塩漬けや味噌漬けにして保存したハタハタの場合、卵の皮がゴムのように硬くなり噛むと顎が疲れるくらいになる。このくらい皮が硬くなると、噛んだ時の音が「ブリッブリッ」という鈍い音になる。これが「ブリコ」と呼ばれるゆえんである。

秋田音頭の歌詞に出てくる「男鹿で男鹿ブリコ」のブリコとはこれのことである。

残念ながら八郎潟沿岸では鮒や鯰が安くふんだんに手に入るので、鰰には余り縁がなかった。たまに串焼きしたのを食べたのは子供のころ。魚醤の汁に切り身をいれたしょっつる鍋を秋田市川反(かわばた)の料亭で食べたのは50歳ごろだった。

鰰の英名は Sailfin sandfish だそうだ。

体長20cm程になり、水深0〜約550mまでの泥や砂の海底に生息する深海魚。生息域は太平洋北部、特に日本海、オホーツク海、アリューシャン列島
など。

秋田県の県の魚に指定されている。主に食用で、しょっつると呼ばれる魚醤で親しまれる。

秋田県では雷の鳴る11月ごろに獲れるのでカミナリウオの別名で呼ばれる。一般にハタハタは漢字では「鰰」(魚偏に神)と書くが、上記の理由から「魚偏に雷」と書く場合もある。また、冬の日本海の荒波の中で獲りにいくことが多いから「波多波多」と書くこともある。

北日本日本海側では底引き網などで獲れる。一時期漁獲量が極端に減少したことを受けて漁獲制限や卵からの孵化、放流事業が行われ一定の成果を収めている。

近年、北朝鮮、韓国からの輸入も増えているが地域に密着した食材であることから高価であるにもかかわらず国内産の人気は高い(1990年代後半、北朝鮮産ハタハタに重量水増しのため石が詰められていたという事件の影響等も否定できない)。

1970年代までは秋田県において大量に水揚げされ、きわめて安く流通していた。あまりの安さに、一般家庭でも箱単位で買うのが普通であった。

冬の初めに大量に買ったハタハタを、各家庭で塩漬けや味噌漬けにして冬の間のタンパク源として食べていた。1980年代に急激に漁獲量が減り、現在では高級魚として高値で取引されている。

1992年9月から1995年8月まで全面禁漁を行ったことも影響したのかここ数年は産卵のため浜に大量に押し寄せて来る姿が見られ、当時の賑わいを取り戻したが遊漁者の転落死亡事故が多発するなどの問題も発生している。

ハタハタの干物食べ方は塩焼き、田楽、ハタハタ汁など。ハタハタ寿司はなれずしの一種で、保存食となる。

鱗が無いことと小骨が少なく脊椎も身から簡単に離れるため、一匹丸ごとかせいぜい頭を落としただけの状態で煮たり焼いたりすることが多い。鮮度のよいハタハタを焼いた場合、尾びれの付け根で骨を折っておくと頭のほうから脊椎が全部きれいに抜け食べやすい。

塩蔵したものや味噌漬けにしたものを煮たり焼いたりして食べることも多い。これらはタンパク源が少なくなる雪国の冬を乗り切るための重要な食材であった。

ハタハタを塩漬けにして発酵させたものは「しょっつる」(塩魚汁または塩汁)と呼ばれる魚醤となる。これを用いてハタハタ、野菜、豆腐などの「しょっつる鍋」をつくる。

秋田では醤油や魚醤による鍋のことを「かやき」と呼ぶため、しょっつる鍋もしばしば「しょっつるかやき」と呼ばれている。なお、「かやき」は大きな貝を鍋代わりに使う意味の「貝焼き」が訛ったものと思われる。

秋田弁では「ハタハタ」の「タ」の音は鼻濁音で発音される(鼻に息を抜きながら発音される)。このため、しばしば「ハダハダ」という音に聞こえる。

秋田では関ヶ原の戦いで佐竹氏が秋田に移封してきた年以降大漁になった事から「サタケウオ」とも呼ばれ、秋田に移った佐竹氏を慕って水戸からやって来たとの伝説がある。
                            2010・12・7
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆本稿は、12月8日(水)刊の「頂門の一針」2117号に
掲載されました。他の寄稿も拝読してください。
◆<2117号・目次>
・高齢者を虐待する側の論理:平井修一
・国内にいる日本人と海外邦人との落差:古澤 襄
・ウィキリークの意外な「機密」とは:宮崎正弘
・鰰(ハタハタ)の季節:渡部亮次郎
・斉藤祐樹を持ち上げるな:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年12月06日

◆お邪魔虫共産党

渡部亮次郎

中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の
汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとした毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だった。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だそうだ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革とは資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化である。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことであって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定するのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部にすれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

◆本稿は、12月6日(月)刊の全国版メルマガ「頂門の一針」2115号に
掲載されました。そのほかの卓見もご覧ください。

<2115号・目次>
・お邪魔虫共産党:渡部亮次郎
・「逃げ」が本質の菅政権:阿比留瑠比
・菅政権が臨時国会を乗切れたわけ:花岡信昭
・権力闘争に魅入られた弁護士:仙谷由人研究(2)
・全てのコインには裏表がある:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月03日

◆周恩来・角栄会談録発見

渡部 亮次郎

38年前の9月29日は北京の人民大会堂で日中共同声明が発せられ、日中の国交が回復した記念の日である。私は当時、NHK政治部記者であり、派遣されて田中角栄総理の特別機
に同乗を許され、「現場」をつぶさに目撃した。

しかし、当時(1972年)9月25日に到着して以来4日間に亘った田中総理と中国の周恩来総理による日中首脳会談で何がどう話されたかについては、会談に同席した二階堂進官房長官が「一切発表できません」と説明を拒否。

最後に共同声明がいきなり発表されただけだった。マスコミも私も田中・周恩来会談のことは掘り起こす事もしないまま忘れていた。だが最近になってパソコンの中を遊弋していたら

<データベース『世界と日本』 戦後日本政治・国際関係データベース東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室>に突き当たった。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/

[文書名] 田中総理・周恩来総理会談記録を発見して初めて全文を読むことが出来た。

[場所] 北京
[年月日] 1972年9月25日〜28日 極秘無期限となっている。30年の期限が過ぎたので 公開されたのであろう。周恩来は「武力大国にならない」とか「台湾の武力解放はしない」とか殊勝なことを言っている。

私自身は共同声明の6年後、今度は外務大臣園田直の秘書官に発令(福田赳夫総理大臣辞令)され、共同声明に謳われながら、6年間も締結のできなかった日中平和友好条約の締結プロジェクトに携わった。

しかし田中・周恩来による日中首脳会談の記録については時間的余裕が無かったし、見せてくれとも言わなかった。「極秘無期限」では外部から来た秘書官風情に外務官僚が拒否するに決まっていると知っていたからでもある。

秘書官を退官した後、わずか3年で園田は腎不全により70歳で他界した。私も別の仕事に就き、今回、ようやく「極秘無期限文書」に会うこととなった。その時すでに37年の歳月が流れていた。無念、無残也。

記録は厖大である。特に興味のある向きは下記のHPで当ってほしい。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/

以下、概略を抜き出す。

田中総理: 台湾問題につき、問題は日本国内、特に自民党内に問題がある。私は訪中前、佐藤前総理に決意を伝えた。彼は十分理解してくれた。台湾との関係については私と大平との政治力が試される問題である。しかし、日中の長い歴史のためには、その程度の困難は覚悟している。

周総理: 何か物事をやろうとすれば、必ず反対する者が現われる。

田中総理: 私が中国との国交正常化を決意した最大の理由は、中国(共産党)が世界を全部共産党にしようなどとは考えておらず、大中国統一の理想をもっている党であって、国際共産主義の理念の下に行動しているのではないと考えたからである。

周総理: まず自分の国のことを立派にやっていくことが大事で、他国のことは他国自身が自分でやるべきだ。今後は日中関係をできるだけ緊密なものにしたい。まず、飛行機の相互乗り入れからやりたい。

田中総理: 結構である。

周恩来:日中は大同を求め小異を克服すべきであり、共通点をコミュニケにもりたい。

日米関係にはふれない。これは日本の問題である。台湾海峡の事態は変ってきているから、条約(日米安保、米華相互防衛条約)そのものの効果も変ってきている。

台湾問題にソ連の介入を許さないという点で、日米中3国の共通点がある。中国側としては、今日は日米安保条約にも米華相互防衛条約にも、ふれずにゆきたい。日米関係については皆様方にお任せする。中国は内政干渉はしない。【第1回会談】

(日米安保条約を周恩来は口を開くたびに非難していた。しかし、2ヶ月前に訪中した公明党訪問団=代表:竹入義勝委員長に対して、周恩来は、安保条約には触れない、と断言していた。知らなかったのは国民だけ)。

周総理: 日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。戦争のため幾百万の中国人が犠牲になった。日本の損害も大きかった。

我々のこのような歴史の教訓を忘れてはならぬ。田中首相が述べた「過去の不幸なことを反省する」という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の「中国人民に迷惑をかけた」との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では迷惑とは小さなことにしか使われないからである。【第2回会談】

周総理: 日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという日本外務省の考え方を聞いて驚いた。

蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。

我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。

我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。

田中・大平両首脳の考え方を尊重するが日本外務省の発言は両首脳の考えに背くものではないか。(戦時賠償を要求しないことも竹入委員長を通じて予め日本政府に伝えられていたが、当然竹入は極秘を守った)

日米安保条約について言えば、私たちが台湾を武力で解放することはないと思う。(「思う」としているところが微妙だ。不倒翁といわれた用心深さがうかがわれる)。

1969年の佐藤・ニクソン共同声明はあなた方には責任がない。米側も、この共同声明を、もはやとりあげないと言った。佐藤が引退したので、我々の側はこれを問題にするつもりはない。

したがって日米関係については、何ら問題はないと思う。我々は日米安保条約に不満をもっている。しかし、日米安保条約はそのまま続ければよい。国交正常化に際しては日米安保条約にふれる必要はない。

日米関係はそのまま続ければよい。我々はアメリカをも困らせるつもりはない。日中友好は排他的なものでない。国交正常化は第3国に向けたものではない。日米安保条約にふれぬことは結構である。米国を困らせるつもりはなく、日中国交正常化は米国に向けたものでない。

ソ連に対しては、日中双方に意見があるが、条約やコミュニケには書きたくない。日ソ平和条約交渉の問題につき、日本も困難に遭遇すると思うが同情する。北方領土問題につき、毛は千島全体が日本の領土であると言った。だからソ連は怒った。

茅台酒がウォッカより良いとか、ウィスキーが良いとか、コニャックが良いとか、そのような新聞記者が言うような問題は中国側には存在しない。【同】

田中総理: 大筋において周総理の話はよく理解できる。日中国交正常化は日中両国民のため、ひいてはアジア・世界のために必要であるというのが私の信念である。

賠償放棄についての発言を大変ありがたく拝聴した。これに感謝する。中国側の立場は恩讐を越えてという立場であることに感銘を覚えた。中国側の態度にはお礼を言うが、日本側には、国会とか与党の内部とかに問題がある。(ODAで賠償相当額を掠め取られたとの指摘にどう応えるか)

しかし、あらゆる問題を乗り越えて、国交正常化するのであるから、日本国民大多数の理解と支持がえられて、将来の日中関係にプラスとなるようにしたい。 【同】

田中総理: 自民党の中には、国交正常化に十分の時間をかけろという意見が多い。それは、中国が大きな力で統一されたが、その中国に不安をもっているためである。他の社会主義国は別として中国は日本に対し内政不干渉であるという考えが国交正常化の前提となっている。

日本の国内で、中国が革命精神の昂揚をやることはない。日中間に互譲の精神と内政不干渉、相手の立場を尊重するという原則が確認されれば、自民党内もおさまると思う。

(日中国交回復が「角福戦争」の争点となっていただけに、田中総理は今回、条約ではないから国会の批准は必要としないものの、国会での論戦よりも自民党内福田派からの反撃を強く懸念し、遂に相手国首脳に苦衷をうちあけてしまった)

周総理: その点は自信をもってほしい。【同】

周総理:経済力について言えば、中国は20世紀の末になっても、1人当り国民所得で日本のレベルに到達できるかどうか全く判らない。中国の国民総生産は昨年は1、500億ドルである。但し、サービスは入っていない。

7億の人口であるから、1人当り国民所得はせいぜい200ドルである。日本は昨年は1人当りで国民所得はいくらですか。(田中総理の説明を聞き)それでは、今世紀の末になっても、到底、日本のレベルに到達できないと思う。(人口はあれから34年が経ったとはいえ、13億人。当時の統計が不完全だったのが真相ではないか)

我々は財政上、先端的な武器は持ちえない。また軍事大国には決してなりたくない。日本がどれだけの自衛力を持つかは日本自身の問題であり、中国側からは、内政干渉はしない。

田中総理: 日本は核兵器を保有しない。防衛力増強は国民総生産の1%以下におさえる。軍隊の海外派兵はしないという憲法は守るし、これを改変しない。侵略は絶対にしない。だから日本に危険はない。

国交正常化の結果、中国が内政に干渉しないこと、日本国内に革命勢力を培養しないことにつき、確信を持ちたいというのが、大平と私の考えである。中国が革命を輸出しないということが私の最大のみやげになる。

自民党を国交正常化問題について全部賛成に回らせることが問題解決のカギである。

周総理: 我々のところでも、日中国交正常化に、少数の者が反対した。また、彼らは米中関係改善にも反対した。林彪がそうだった。また我々の方も人民に説明する必要がある。人民を教育しなければ、「三光政策」でひどい目にあった大衆を説得することはできない。【同】

周総理: 1959年6月、フルシチョフは中国との間に締結した原子力に関する協定を一方的に破棄した。インドの挑発によって発生した中印国境紛争に際しても、ソ連はインドを支持した。

フルシチョフはアイゼンハワーとの会談がうまくいかなかったので、その鬱憤を中国に向けた。

そこでソ連は対中国援助物資も提供を打ち切り、1,300余の技術者も一斉に引き揚げた。

ソ連は反面教師であり、我々は余儀なく自力更生の原則に立った。

田中総理: ソ連は日本との間で不可侵条約を結んでいながら(敗色濃厚となると日本に対し)首つりの足を引っ張ったので、日本としては、ソ連を信用していない。 (首吊りの足を引っ張る、とは角さんといわれた庶民派らしい表現だ)

周総理: 我々は日本がソ連と話をするのは容易でない、4つの島を取り返すのは大変だと思っている。【第3回会談】(この観測は正確だった)

周総理:  話が変るが過去の歴史から見て、中国側では日本軍国主義を心配している。今後は日中がお互いに往来して、我々としても、日本の実情を見たい。

田中総理: 軍国主義復活は絶対にない。軍国主義者は極めて少数である。戦後、衆議院で11回、地方の統一選挙が7回、参議院が9回選挙をした。革命で政体を変えることは不可能である。また国会の2/3の支持なくして憲法改正はできない。 日本人は領土の拡張がいかに損であるかをよく知っている。

日本人は現在、2人づつしか子供を生まない。このままでいけば、300年後には日本人がなくなってしまう。日本を恐れる必要はない。

田中総理: (日本列島改造計画を説明し)軍国主義復活のために使う金はない。 (土建屋上がりと揶揄された所以の発言。カネが別のところに掛かりすぎるから軍事大国にならないとか、少子化傾向だから危険が無い、との発言は経済大国日本の代表としては少々情けない)

周総理: 日本は核戦争にはどのように対処するのか?ソ連は核戦争禁止、核兵力使用禁止を提唱しているが、これは人をだますペテンであるから、あばく必要がある。

核非保有国がソ連のペテンにかかる恐れがある。

彼らは核兵器の禁止を口にするが廃棄するとは決して言っていない。これはペテンだ。ソ連に対する警戒心を失えば、ソ連にやられてしまう。

田中総理: 日本の工業カ、科学技術の水準から、核兵器の製造ができるがやらない。また一切保有しない。 【同】

田中総理: 尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。

周総理: 尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。 【同】(なぜ良くないのか。後に!)小平もこの手口で逃げた。禍根はここに始まっていたのか)

周総理: 私は日本の社会党より、ひらけている。社会党は「非武装」をやかましく言うから、日本が自衛力をもつのは当然ではないかと言ってやった。

田中総理: それはどうも。【同】

田中総理: 台湾問題につき、問題は日本国内、特に自民党内に問題がある。私は訪中前、佐藤前総理に決意を伝えた。彼は十分理解してくれた。

台湾との関係については私と大平との政治力が試される問題である。しかし、日中の長い歴史のためには、その程度の困難は覚悟している。

周総理: 何か物事をやろうとすれば、必ず反対する者が現われる。

田中総理: 私が中国との国交正常化を決意した最大の理由は、中国(共産党)が世界を全部共産党にしようなどとは考えておらず、大中国統一の理想をもっている党であって、国際共産主義の理念の下に行動しているのではないと考えたからである。

周総理: まず自分の国のことを立派にやっていくことが大事で、他国のことは他国自身が自分でやるべきだ。今後は日中関係をできるだけ緊密なものにしたい。まず、飛行機の相互乗り入れからやりたい。

田中総理: 結構である。【第4回会談】

抜書きは以上である。翌日、共同声明に調印。周恩来も同乗して上海を訪問。(歓迎に出た張春橋は、後に「4人組」の1人として処断された。)共同声明から4年後に周恩来、毛沢東が相次いで死去。復活してきた!)(とう)小平が、1978年には資本主義経済導入に踏み切った。

その結果、100万ドル以上の資産を持つ中国人ミリオネアは25万人に達するという時代になった。

「今世紀の末になっても、到底、日本のレベルに到達できないと思う。我々は財政上、先端的な武器は持ちえない。また軍事大国には決してなりたくない。日本がどれだけの自衛力を持つかは日本自身の問題であり、中国側からは、内政干渉はしない」といった周恩来の見通しも約束もすべて空文と化したことを痛感するのみである。田中・周恩来会談はひょっとして幻だったのか。【文中敬称略】

◆上記特稿は、12月3日(金)刊「頂門の一針」2112号に
掲載されました。他の卓見もご欄下さい(編集部)

<2112号・目次>
・周恩来・角栄会談録発見:渡部亮次郎
・大改造か内閣総辞職と真紀子節炸裂:古澤 襄
・2年後の総統選挙は50vs50の可能性:宮崎正弘
・三島由紀夫の死をみつめて:加瀬英明
・中国と北朝鮮は「悪の枢軸」:古森義久
・生活大革命を断行:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月02日

◆湯河原に重宗邸なく

渡部 亮次郎

家人の姉妹達が夫婦で旅行することになり、7人で車で出かけた。28日。好天だった。途中、箱根で紅葉を見たいということになったが、箱根の紅葉はさっぱり。箱根神社に参拝と言うが、へそ曲がりは下車もせず。

目的地は湯河原温泉だと言う。穏やかでなくなった。湯河原は当時の参議院議長重宗雄三の別荘の所在したところである。ここで記者の枠を超えて重宗・福田会談をセットした上に、産経新聞の沖野三記者とともに、その後の昼食会にも加わった。

当時は、ポスト佐藤栄作を巡って、本命福田赳夫、対抗馬田中角栄が「戦争」と言われたぐらい激しく争っていた。参院議長重宗はそれまでの経緯からして福田支持とされていたが、それを強固にする為に企てられた会談だった。

「戦争」と表現された福田と田中の争いは熾烈を極めたが、途中、重宗が河野謙三の「乱」により失脚を契機に田中が次第に巻き返し結果は、大平、三木、中曽根と組んだ田中が勝利した。

田中内閣発足とともに私はなぜか総理官邸担当のNHKサブキャップに就任したが、1年を待たずに展開した田中批判の舌鋒が田中の逆鱗に触れることとなって大阪に左遷。その直後、重宗は病死した。

その重宗の別邸のあった湯河原町。別邸は胸のつっかえるような急な坂の途中にあったはずだが、あれから既に何十年も経っている。当時を知る人を捜すこともできず、悲しみだけが私を襲ってきた。だが皆にはこれを一言も語らなかった。

大阪からは3年で戻ったが政治部へは戻れず、そのうちに園田直の外務大臣就任に伴ってNHKを退職、秘書官に就任。以後も複雑な経歴を辿って今日があるのだ。

翌日、大磯で古い「鰻屋」で昼食。「国よし」といった。1808年の創業。吉田首相はおろか伊藤博文も愛用した店と言う。一番安い鰻重で4200円もした。美味かったが半分しか食べられなかった。その昔の客に島崎藤村があったと書かれていたからである。

島崎は兄の娘つまり「姪」を手篭めにした不道徳漢。許せない。聞けば、湯河原に住まいし、墓もここにあるという。

29日、午後4時帰宅、解散。5時から高校の同期生10人で防衛省近くの料亭で忘年会。どうしたわけか余り酔わず、帰宅後呑み直した。

こうして2日間、散歩もせず、鯨飲馬食に打ちすぎて30日朝の血糖値が表れるのに打ち震えたがなんとたったの「120」とはこは如何に。文中敬称略。2010・11・30