渡部 亮次郎
私がその晩年に外務大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)は剣道7段、居合道8段、合気道8段、柔道3段など「武道」の猛者としても知られた。
福田赳夫内閣の官房長官当時、王 貞治選手の本塁打数868本を祝って日本国民栄誉賞を初授与した時、私に「ワンちゃんに1本足打法を教授したのはワシたい」と胸を張った。
王に1本足打法を薦めたのは荒川博ということになっているから、それを「完成」させる過程で、居合や剣道の達人として手伝ったと言う事のようである。
<剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた。>(堂本昭彦 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年)
当時、羽賀道場では既に園田が師範代だったから「球の芯を斬る」真髄を教えた、とよく言っていた。剣道家羽賀準一のもとに連れてきた荒川の見識を高く評価すべきだろう。
<特に天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあった。>(「ウィキペディア」)
王 貞治(おう さだはる、1940年5月20日―)は、日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。
日本国民栄誉賞の初受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、宮崎市名誉市民。73歳。
荒川との出逢いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王の出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。
観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と言った。
荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それで王はすぐに左打ちを実践したところ2塁打を打ち、以後左で打つようになった。
荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。
また、この出逢いの時王は身長176cmで当時の若者としては長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えた。
荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えた為、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。
小学生の頃、当時の横綱:吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。
1962年、荒川博が巨人の打撃コーチに就任。荒川就任は読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの。川上は榎本喜八を育てた荒川の手腕に王の指導を託した。
荒川に最も強く期待したのは王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。
秋季キャンプで久々に王を見た荒川は、「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。
王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川はこの時「これだけ悪い打ち方(打ちにいく際、手足の動きがバラバラな点だと説明)でも、2割7分打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。
荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまりボールを迎えに行ってしまうためグリップが安定しないことが欠点と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。
その1つが1本足打法だった。但し、キャンプの時はいくつか試した打法の1つに過ぎず、ほんの2、3日練習しただけだった。
このシーズン、開幕から3ヶ月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れない。
2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いた荒川が、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から1本足で打つことを王に命じた。
なお、王本人によれば「1本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっその事右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている。
1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でこの打法を試行、第1打席は2塁ゴロで凡退したものの、第2打席で稲川誠からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残した。
後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら1本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。
王自身もこの日結果が出たことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。
この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。
また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けたことは前述の通り。
このような王の練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」。
「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。
この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。以後、王は引退まで1本足打法を貫くこととなった。1977年の梶原一騎との対談では「2本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「1本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。
翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。出典:「ウィキペディア」(文中敬称略)