2010年12月02日

◆湯河原に重宗邸なく

渡部 亮次郎

家人の姉妹達が夫婦で旅行することになり、7人で車で出かけた。28日。好天だった。途中、箱根で紅葉を見たいということになったが、箱根の紅葉はさっぱり。箱根神社に参拝と言うが、へそ曲がりは下車もせず。

目的地は湯河原温泉だと言う。穏やかでなくなった。湯河原は当時の参議院議長重宗雄三の別荘の所在したところである。ここで記者の枠を超えて重宗・福田会談をセットした上に、産経新聞の沖野三記者とともに、その後の昼食会にも加わった。

当時は、ポスト佐藤栄作を巡って、本命福田赳夫、対抗馬田中角栄が「戦争」と言われたぐらい激しく争っていた。参院議長重宗はそれまでの経緯からして福田支持とされていたが、それを強固にする為に企てられた会談だった。

「戦争」と表現された福田と田中の争いは熾烈を極めたが、途中、重宗が河野謙三の「乱」により失脚を契機に田中が次第に巻き返し結果は、大平、三木、中曽根と組んだ田中が勝利した。

田中内閣発足とともに私はなぜか総理官邸担当のNHKサブキャップに就任したが、1年を待たずに展開した田中批判の舌鋒が田中の逆鱗に触れることとなって大阪に左遷。その直後、重宗は病死した。

その重宗の別邸のあった湯河原町。別邸は胸のつっかえるような急な坂の途中にあったはずだが、あれから既に何十年も経っている。当時を知る人を捜すこともできず、悲しみだけが私を襲ってきた。だが皆にはこれを一言も語らなかった。

大阪からは3年で戻ったが政治部へは戻れず、そのうちに園田直の外務大臣就任に伴ってNHKを退職、秘書官に就任。以後も複雑な経歴を辿って今日があるのだ。

翌日、大磯で古い「鰻屋」で昼食。「国よし」といった。1808年の創業。吉田首相はおろか伊藤博文も愛用した店と言う。一番安い鰻重で4200円もした。美味かったが半分しか食べられなかった。その昔の客に島崎藤村があったと書かれていたからである。

島崎は兄の娘つまり「姪」を手篭めにした不道徳漢。許せない。聞けば、湯河原に住まいし、墓もここにあるという。

29日、午後4時帰宅、解散。5時から高校の同期生10人で防衛省近くの料亭で忘年会。どうしたわけか余り酔わず、帰宅後呑み直した。

こうして2日間、散歩もせず、鯨飲馬食に打ちすぎて30日朝の血糖値が表れるのに打ち震えたがなんとたったの「120」とはこは如何に。文中敬称略。2010・11・30


2010年11月29日

◆東大安田講堂事件

渡部 亮次郎

東大安田講堂事件は、1969年(昭和44年)1月18日、19日に、全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。この影響で、この年の東京大学の入学試験は中止され、次年度の入学者は0人となった。

その頃、私は既に政治記者をしており、自民党を担当、学生たちの行動を冷たい目で見ていた。菅首相も仙谷官房長官もこうした学生運動で左翼思想を深めていった。

東大安田講堂は安田財閥の創始者、安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設されたが、神奈川県大磯の別邸で右翼に暗殺された安田を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。

東京大学建築学科の建築家、内田祥三(のちの総長)が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当した。1921(大正10)年に起工、関東大震災による工事中断を経て1925(大正14)年7月6日に竣工した。

震災後に建てられた学内の建築が茶色のスクラッチタイルで統一されているのに対し、本講堂が理学部旧1号館と同じ赤レンガなのはこのためである。

1960年代後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第2次反安保闘争と時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や新左翼の学生が武力闘争を展開する学園紛争(大学闘争)が起こった。

全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。

学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り深刻な社会問題に発展していった。

その中で、東京大学では、医学部の学生が登録医制度反対などを唱え通称インターン闘争に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。

その後、更に闘争は激化し、1968(昭和43)年3月12日に医学部総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。

6月15日に医学部学生が安田講堂を再度占拠し、大学当局の大河内一男東大総長は警察力を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。

以後、大学当局は打開を図ったが更に学生の反発を招き、東大全学部の学生ストライキ、主要な建物多数の封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

工学部列品館を占拠したML派の瀧沢征宏(明治大学生)が書いた「造反有理」のスローガンは有名である。

9月30日の日大大衆団交を受けて、佐藤内閣が動き出す。佐藤首相、幹事長田中角栄、国対委員長園田直らはこの事態を学園紛争ではなく、80年安保反対闘争の前哨戦ととらえ、完全に治安対策として取り締まる決意を固めた。

だから政府自民党が大学管理法の制定決意を固めたのは既にこの時機だった。この後、事態は完全に政治問題と変化する。

11月22日、全学バリケード封鎖にむけて全共闘系7千名、阻止する日共(民青)系7千名が全国から集まり、にらみあう。全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対を各派に恫喝的に説得する。

結果的に全学バリケード封鎖は中止となり、背景を知らない学生の一部では、戦時中のレイテ沖海戦の史実と絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる。民青系に敗北したと言うより、民青系と衝突してでも強行しようという意思が、内部から崩壊したのである。

11.22以降の下り坂

大河内総長の後任に法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年1月10日、国立秩父宮ラグビー場で「東大七学部学生集会」を開催。

民青系や学園平常化を求めるノンポリ学生と交渉によりスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。

封鎖解除1日目

警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。

しかし強固なバリケードと学生の予想以上の抵抗に機動隊は苦戦を強いられ、午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。テレビの視聴率は高かった。

封鎖解除2日目

1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が3階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで抵抗していた学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。

警察側の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。

ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判で起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から80〜100名程度の東大関係者が東大構内に立て籠もったと推定している。

更に、秩父宮ラグビー場における七学部学生集会粉砕闘争で駒場共闘の中心メンバーが100人以上逮捕されていることも考慮しなければならない。

東大全共闘の一部と革マル派は封鎖解除前日の17日「兵力温存」を理由に大学構内から脱出、当日抵抗していたのは他セクトと地方を含む他大学からの応援部隊が中心であった。

革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクト(特に中核派)との対立を深める結果となった。

なお、学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの暴挙が行われた。

紛争によって荒廃した大講堂は20年間に亘り、法学部・文学部の物置として使われていた(事務室は順次学生部などとして使われるなどしていた)。

富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり 1989年に大講堂の改修工事が完了し、こけら落としはスティーヴン・ホーキングの来日講演であった。それ以後、卒業式などの全学的行事に使われるほか、公開講座なども行われている。

出典:フリー百科「ウィキペディア」

こうした学生運動にあわせて大学管理の法律が整備されて行った。これをきっかけに運動は沈静化。今日では学生運動は存在しなくなった。


<安田善次郎(やすだぜんじろう)1838‐1921(天保9‐大正10)

明治・大正期の実業家。無一文から出発し,一代にして財を築きあげ,安田財閥の祖となった。富山藩の下級士族の家に生まれる。父の善悦の代に士族身分を買ったが,善次郎の幼年時代は農業もあわせ営む貧しい生活であった。

1858 (安政5) 年,商業で身を立てる志を抱いて江戸へ出,銭両替商に奉公した。62 (文久2) 年、鰹節商に入婿したが,銭投機に失敗して離縁。64 (元治1) 年に銭両替商安田屋として独立した。66 (慶応2)年に日本橋小舟町に移り安田商店と改称したころから古金銀,太政官札,公債の売買によって巨利を博し,一躍財をなした。

80年安田銀行を設立,善次郎が中心となり1876年に設立した第三国立銀行とともに,安田の金融事業の柱となった。その後,銀行新設に参加したり,経営の悪化した銀行を引き受けたりして,一大金融網を築きあげ,〈銀行王〉と呼ばれた。

安田系企業を統轄するための持株会社として1912年合名会社保善社を設立した。その間,日本銀行理事,農工商高等会議議員,日本興業銀行創立委員などを務めた。また浅野総一郎,雨宮敬次郎ら実業家の事業を援助した。

晩年には日比谷公会堂,東京帝国大学講堂(安田講堂)の寄付や,東京市政調査会の後援など,公共的事業も行った。21年9月,大磯の別荘において暴漢朝日平吾に刺殺された。>
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2010年11月27日

◆情報孤島脱出の顛末

渡部亮次郎

2010年11月24日夜、パソコンが何処とも繋がらなくなり、一切の情報が入らなくなった。だからメルマガ「頂門の一針」の配信が不可能になった。読者からの反応も来ているのやら来てないやらも分からない。そのうちに固定電話も繋がらなくなった。情報孤島に取り残されて様なものだ。

頂門の一針の読者は4700人余。元々は「週刊」の予定で始めたものだが、つい短気だから何時の間にやら「日刊」になった。それが予告無しの休刊だから、問合せやら何やらがきているだろうが、なにせサーヴァーと繋がらないのだから、確認不能なのである。北朝鮮の砲撃は気になるが、予報すら入ってこない。

特に北朝鮮の砲撃については元共同通信社常務の古澤襄さんの情報と分析に早く接したいと焦るが、古澤さんのブログに繋がらないのだからどうすることもできない。

インターネットの無い時代はテレビ、新聞が頼りだった。しかし前身がテレビ記者だった私はテレビを信用しない。特に信用できないのが古巣のNHK。最近は国際的な視点が偏りすぎる。

インターネットを逍遥して収集した情報が頼り。それに古澤さんの情報と分析に中国とアメリカに強い評論家宮崎正弘さんの情報が大事。国内政治では産経の総理官邸キャップ阿比留氏の分析が正確だと思う。それらのすべてがみえないのだから息が止まりそうだ。

実はPCに関するハードの部分はすべて家人の担当である。私がすべきだと言う方もいらっしゃるが、何しろ機械音痴。見かねた家人がその都度、メーカーとかサーヴァーと電話でやり取りして解決してくれて今日に至った。

今回はしかし、全くサーヴァーと繋がらないという初の事態。焦った。焦ったけれども、如何ともし難い私は25日は早朝から定期的眼底検査(年に3回)の当日。家人も会社づとめ。

夕方になって電話の関係でNTTの若い社員が修理に来てくれた。電話の不通はインターネットからの影響らしいとは言うが、それから先が分からない、という。電話回線からPCへは有線ではなく無線(ラン)で繋いでいる。

彼はその辺りも良く分からないらしく、近くにいた仲間を呼んで、2人で2時間半のいろいろ弄った末、「悪いのはパソコンです」と言って退散してしまった。

困った家人はPCのメーカーを電話で呼び、いろいろやり取りしていたが埒は明かない。私は勝手にも悪酔いを焼酎で始めた。

しかし、凄いもんだ。「繋がったわよ」と軽い一言。何をどうしたのかの説明は面倒くさいらしい。とにかく9時ごろ、情報孤島は脱出できた。投稿が沢山寄せられていた。それを確認して眠った。

要するにいろいろ弄っているうちに「ウイルス・バスターの緊急ロックがいつの間にか掛かっていたので、それを解除したら繋がった。偶然発見したのよ。試行錯誤の連続よ」という。

それにしても緊急ロックが何故、いつ掛かったのか。多分あの2人がいろいろ弄っているうちに掛かったのかも知れないが、そうじゃないかもしれない。

電話線はインターネットの影響で不通になったとNTTはいったが詳しい説明はしないし、パソコンの何が影響したかの説明もシナイママ「パソコンの事は分かりません」と退散してから「謎」は「なぞ」のままである。   2010・11・26

◆本稿は、11月27日(土)刊の「頂門の一針」2107号に
掲載されました。その他寄稿もご覧下さい。

<2107号 目次>
・情報孤島脱出の顛末:渡部亮次郎
・中国にも北朝鮮への”特効薬”はない:古澤 襄
・沖縄の奇怪な反米、反日傾向:古森義久
・「中国は沖縄独立運動を支持せよ」と中国有力紙:伊勢雅臣
・本質を見ぬ屋山太郎氏:東郷勇策
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年11月26日

◆ASEANの口頭試問

渡部 亮次郎

ASEAN(アセアン)東南アジア諸国連合は、2010年現在は加盟10カ国だが、当初は5カ国だけだった。

東南アジア諸国連合Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。

域内の人口は約5億8000万人(2005年)と多く、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定 (NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

結成当初から日本は会談参加を希望していたが拒否されていた。後でわかったが、フィリピンが強硬に反対していたからだった。

1978年になって、ようやく外相会談への参加が認められ、当時、福田赳夫内閣の外相園田直(そのだ すなお)がインドネシア・バリ島での会議に出発した。秘書官の私にとって東南アジアへの同行は初めてだった。

政治記者から秘書官に転身してまだ数ヶ月。記者の癖は抜けなかった。園田氏もそこを利用していた。中でも締結を目指す日中平和友好条約に関するマスメディアの反応探りに期待していた。

さて、バリ島。西洋式の立派なホテル(ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル)。朝早く、会議会場の下見に出かけた。事務の秘書官(後の国連大使佐藤行雄氏)は会議での大臣発言の打
ち合わせに忙しいが、政務の私は、この場合は閑である。

しかし、見ておどろいた。ASEAN側が一列の5人が並び、向かいに日本の席がただ1つ。「これじゃまるで口頭試問だ」と大臣に報告。大臣は「佐藤君、せめて6角形にして貰えんかね」と命令。

希望通り、椅子は6角形に配置換えされた。面白かったのはその後。

会議の冒頭、園田氏が発言を求め「このたび皆様の口頭試問を受けに参りましたソノダです」と言ったから、会場は爆笑。一気に日本ノペースになってしまったのだ。

その実、ASEAN側は「口頭試問」を考えていたのだ。特に、太平洋戦争中、フィリピンに軍事顧問として滞在していたアメリカのマッカーサーに副官(秘書官)として付いていたロムロ外相は、例の「アイ・シャル・リターン」以来の憎しみを消せないでいたから、この会議への日本の参加反対の急先鋒だった。

聞けば園田はあの戦争中、特攻隊の生き残りだという。この際、徹底的に虐めてやろうと企んでいたのだ。私がどこかから拾ってきた情報を耳にしていたわが外相は、「口頭試問」の企みを逆手に取ることで、一瞬にしてASEANの懐に入りこむのに成功したのだ。

しかも、それ以来、ロムロは園田と親友になった。

園田氏は旧制中学しか出ていない。シナ事変以来、昭和20年の敗戦まで11年間を戦場で過ごした。敗戦時は陸軍の戦闘機の操縦士から「特攻隊」の隊長に指名。出撃の2日前に敗戦となった。

郷里、九州の天草で町の助役から衆院選に出馬して落選。町長を経て当選。厚生大臣2度、官房長官、外相3度。70歳、腎不全により僅か70で逝去。

ASEANでのやり取りから、私は政治家は学歴では無い。頭の良さ、機転の利かせ方にカギがあるとつくづく思った。鳩山や菅にあるのは学歴だけだ。2010・11・24


2010年11月23日

◆豪州捕鯨反対の真相

渡部 亮次郎

(再掲)私自身は鯨を食べる事無しに育ったが、聞くところによると、ある時点まで鯨は低収入層にとっては牛や豚肉に替わる貴重な動物蛋白源だった。だから今になってみると鯨をもう一度食べてみたいという人は多い。

貧しく育ちながらアメリカで教える大学教授に上り詰めた知人は、なんとか鯨カツを食べてみたい、と言う。トンカツより安かったから母親は泣く泣く買った鯨カツだったのに。

そんな折、北海道にスキーをしに来たオーストラリア(豪州)人たちが、何十台ものリフトに捕鯨反対の落書きをしていったのでスキー場側を困らせているという記事を目にした。営業妨害では無いか。

<「捕鯨反対」落書き? 旭川のカムイスキーリンクス ゴンドラの半数以上

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/77456.html

【旭川】北海道旭川市神居町西丘の民間スキー場「カムイスキーリンクス」のゴンドラリフト内で、捕鯨反対のメッセージと受け取れる落書きが多数見つかっている。

クジラの絵とローマ字で「TABENAIDE(食べないで)」と書かれ、“被害”は103台あるゴンドラ(4人乗り)のうち、62台に上る。落書きはオーストラリア政府や米国の反捕鯨団体による調査捕鯨への反対の動きが道内でも報道された1月から増加。

黒や緑色のマジックで書かれたらしく、漫画風に描かれたクジラが「食べないで」と訴えている。

道内では近年、オーストラリアなどからの外国人スキー客が急増。「これ以上の迷惑行為はやめてほしい」と困惑顔だ。> 北海道新聞(02/2208:00)

インターネットを逍遥していたら「桜木朱雀」と名乗る方がブログで、

<オーストラリアの反捕鯨運動は、一部の狂信的な民間団体による勝手な行動ではなく、オーストラリア政府の肝煎りによって行なわれている>という指摘があった。一読に値すると考えるので紹介する。

http://www.suzaku-s.net/2008/01/aussie-the-economic-animals.html

<その抗議運動の実態は、海域に船を出す妨害活動やデモ運動だけでなく、「テロ」としかいいようのない暴力的・破壊的なものだ。

オーストラリアの市民団体による常軌を逸した抗議や、環境テロ集団による狂気の「襲撃」の背景には、もちろんオーストラリア人が生まれながらに(ある意味“建国の理念”として)持っている差別意識、白豪主義が見え隠れする。

しかし、それを政府が後押ししているとなると、やはりもう1つの当たり前の事情…金の問題が丸見えになります。

オーストラリアでは、約2,800万頭(2006年現在)もの牛が飼育されています。また、生産する牛肉の65%以上を輸出する世界最大級の牛肉輸出国であり、その経験と技術が品質をしっかり支えています。

さらに、オーストラリアにとって最大の牛肉輸出市場は日本。したがって、日本のお客様のさまざまな好みに合わせた牛肉を生産することができ、食文化の多様化に対応している。

日本は、オーストラリアにとって最大のお客。特に米国産牛肉のBSE問題以来、「オージービーフは天然素材で育てていて安心でヘルシー」というプロモーションも奏功し、輸入量はうなぎのぼりのようです。ジェトロのデータによれば、日本一国で、オーストラリアの総輸出量の20%をまかなっているのです。

    2004年    2005年    2006年
    金額(豪弗) 金額      金額   構成比(%)
日本  22,219    28,462     32,456   19.8
中国  11,014    16,127     20,376   12.5
韓国   9,171    10,959     12,321    7.5
米国  9,546     9,264  10,071  6.2
(オーストラリア - 輸出統計(国別) - ジェトロ)

これで日本人が鯨という超効率のいい動物性蛋白質を消費することを思い出したら…。もし、日本が牛肉と完全に袂別し、国家として鯨食を選択したら…。

もちろん、今の日本と日本人が、こんな非現実的な選択に踏み切る、踏み切れるはずもないのですが、オーストラリア人は先の大戦で見た日本人の団結力を未だに恐れているのかもしれない。

それにしても、日本から今後も金を引き出すために、捕鯨船を襲撃し、大使館で日の丸を汚し、日本を恫喝して、肉を売りつけようとする。ヤクザな商売ですね。

しかも、「草だけを食べさせるのでクリーンで健康的」と謳われるオージービーフは日本の消費量が増えると牛肉の値段が上がり、オーストラリアの一般家庭にとってはまったくありがたくない話のようです。牛が排出するメタンガスによる温室効果も、無視できません。

オーストラリアというのはもともと真水の量が少なく、このために牧場では地下水を汲み上げては牛の飼育に使ってしまうために、地中の水分が減少して砂漠化が進行してしまうという。

オーストラリア産の牛肉を食べれば食べるほど地球環境が破壊され、オーストラリア人に憎まれる。鯨を食べれば、オーストラリア人に襲われる。

こうして考えると、私たちが何を食べるべきか、何を食べるべきでないかがどうやら見えてくるような気がします。>2008年01月15日 23:20

2010年11月21日

◆NHK毛虱物語

渡部 亮次郎

NHKは41歳の冬まで19年間を記者として過ごした職場だが、最近は不祥事続きで料金を払わない視聴者が増えたそうで、組織としては落ち目である。

学生たちの就職希望ランキングから滑り落ちることおびただしいものがあるそうだ。なんでこんな事にと思い巡らすうちに仲間が毛虱(けじらみ)と呼ぶ人物に思い当たり、あの男こそが真犯人だと気付いた。

たった1人の人物こそがNHK転落の犯人なのである。

40年近くも前に途中退職した身だから、彼に面識は無い。私の目から見て実に全うな人物と思う後輩は彼のことを「毛虱(けじらみ)」と言って軽蔑し、一切、交際しない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

<毛虱は吸血昆虫で成虫の大きさは1mm〜2mmで肉眼的には、陰毛の毛根にしがみついている時は「シミ」に、陰毛を移動中には「フケ」にしか見えないため、発見には苦労する。

成虫は陰毛の毛根にフック状の鈎爪で身体を固定して皮膚から吸血する。卵は陰毛に粘着している>。

なるほど云い得て妙である。社内の出世頭の陰部に寄生し、栄養を蓄え、主の力をひけらかして己も出世して行く。出世が始まると虎の威を借る狐宜しく威張り散らして頂上を目指す。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

彼が何故「狐」でなく「毛虱」かと聞いたところ、出典はその昔のシマゲジ騒動にあった。

<政治記者出身の島桂次は1989年4月、NHK会長に就任。任期中は衛星放送の本放送を開始したり、NHKエンタープライズなどの関連会社を活用した商業化路線を進めたりした。

島会長によるNHK商業化路線は、NHKに民間の手法を導入することによって番組の質を向上させ、受信料に頼らない経営で国際的なメディア戦争に生き残ろうとしたとの評価がある一方、金儲け第一主義で公共放送のあり方を歪め、2004年から相次いだ不祥事の元凶をつくったとする批判もある。

1991年4月、放送衛星の打ち上げ失敗の問題を巡って、国会の逓信委員会で滞在場所について虚偽の答弁をしたことが問題となり、7月に会長職を引責辞任した。ちなみに問題を追及したのは当時逓信委員長だった野中広務である。

会長辞任後1996年6月23日、急性呼吸不全のため死去。68歳。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛虱氏はこのとき、野中氏と組んで、島追放に大いに実績を挙げた。

解説者によると島氏は後輩の海老沢勝二氏に寝首を掻かれる恐怖感に駆られ海老沢氏を理事の地位から外郭団体の社長に追放。そこで海老沢氏は島氏に敵意を持ったとされる。事実かどうかは分らないが、普通はそうなる。

その時、毛虱氏は海老沢側近となり、島への復讐劇を演出、遂に成功する。その時、当然ながら海老沢氏の恥部を把握、いうなれば海老沢褌の中で毛虱として生息し始めたのである。海老沢氏は会長として復活。毛虱氏を寵愛せざるを得なくなった。

担当は国会。NHKは政府の監督を受け、予算を国会に握られているため、その対応の指揮をとる部局の存在意義は高く、責任者たる毛虱氏の存在は大きかった。そこで事件が起きた。というよりも毛虱氏の自作自演である。

朝日新聞がすっぱ抜いた番組改編事件。女性団体が2000(平成12)年12月、慰安婦問題を取り上げた民間法廷を開催。NHKが翌01年1月、特集番組でこの法廷について放送したが、内容について事前に安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が容喙して変更させたとするもの。

インテリがNHKに番組内容の変更を事前に求めたら如何なることが起きるかを知悉しているから、そのようなことをあの2人がやれるわけが無い。それをしもやる目的もないし、度胸も無い。

田中角栄はやった。政権批判を続ける政治記者渡部亮次郎が邪魔なので口実を設けて地方へ左遷するよう竹下登氏を通じてNHK政治部長に申し入れ、NHKは渡部の辞表を受理せず、大阪に飛ばした。それ1回きりである。

ところが毛虱氏は狐への変身を図った。予算案の説明に行ったら安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が、あの番組を批判していたよ、と局内に流した。ありもしないことをでっちあげて番組制作部局を脅したのである。毛虱が狐に化けた瞬間だった。

政界や国会の事情に疎いディレクターたちは震え上がり、担当者は狐を虎と思い込み朝日新聞に垂れ込んでしまった。裁判まで起こされ、2007年1月29日には東京高裁でおかしな判決まで出され、200万円の損害賠償を命じられ、上告する騒ぎになっている。

事件の後、毛虱氏はとうとう理事(役員)に上り詰めたが、虎が途中退陣したため狐も途中で辞めた。しかし己の欲望のためにはNHKの組織なんかどうなってもいいとする毛虱式の風潮はNHKの内部に広く深く蔓延した。モラルとは一朝にして崩れる。一大不払い運動を招き寄せる結果となって今に至る。

しかも毛虱氏は虱らしく退職後も今度は外郭団体に潜りこんだ。流れてくる情報では好き勝手をやって職員を腐らせている。毛虱氏本人に犯人意識は無いから、自分がNHK周辺にいる限りNHKが衰退して行くことを知らない。だから私も毛虱氏の本名も顔も知らない。

◆本稿は、11月21日(日)刊の全国版メルマガ「頂門の一針」2102号に
掲載されました。他の著名寄稿者の寄稿を下記ら手続きしてご高覧ください。
       http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

◆<2102号 目次>
・柳田法相更迭、後任法相の名:古澤 襄
・尖閣は「戦術的互損」だ :岩見隆夫
・菅内閣は「ごめんなさい内閣」:古森義久
・情報統制から言論統制へ:山堂コラム 345
・中国バブルいよいよ崩壊へ:宮崎正弘
・NHK毛虱物語:渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年11月20日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎

中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、トウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっついていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマの恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であり、そのメイン・デッシュだったからである。食べないわけにいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だったと知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマに対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はないそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれる。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さんより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけでなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目があったのか。(再掲)

◆本稿は、11月20日(土)刊の全国版「頂門の一針」2101号に
掲載されました。
◆<2101号 目次>
・トウ小平の刺身以後:渡部亮次郎
・小沢一郎氏の政局観:古澤 襄
・仙谷さん、よく言った!!!:古森義久
・ローマ法王庁、再び中国に激怒:宮崎正弘
・小林観爾画伯と吉田屋:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年11月17日

◆カンニング首脳会談

渡部亮次郎

16日付の産経新聞によると「13日夕、僅か約22分間の菅首相と胡錦濤国家主席による日中首脳会談。首相は胡主席ではなく、手元のメモを見つめていた」。首脳会談にカンニングペーパーよろしくメモを持って臨んだ首相は、日本政治始まって以来の椿事であった。

要は中国側に伝えるべき科白が定まっていなかったか、暗記できなかったであり、前代未聞の展開に胡氏も仰天。菅氏が読んだメモの内容など記憶できなかったに違いない。

だとすれば、この首脳会談は無駄だった。有害だった。日本の評価を著しく下げるのに貢献しただけ。それでも菅氏は(日中関係を改善し「首相就任時の6月に戻すことができた」と胸を張ったというのだから「一昨日おいでだ」。

流石に民主党幹部からは「そろそろ首相を代えたほうがいい。メモを見ながら首脳会談をやっているようじゃ駄目だ」と言う声が漏れたと言う。

しかも首相は胡氏に対して、尖閣諸島が日本固有の領土だ」と主張したか否かについて関係者は明らかにしていない。主張しなかったから明らかにできなかったのだ。

菅氏は何ゆえ、首相の座にしがみついているのか。国民に目を向けているのか。

総理官邸の事務方までが言い放っているそうだ「早く退場した方がいい。鳩山さんの方がまだ良かった」。

「ルーピー(愚か者)と呼ばれた鳩山いかだとの評判が霞ヶ関(役人たち)で出ているそうだ。

朝日新聞社が13、14の両日実施した全国世論調査(電話)によると、菅直人内閣の支持率は27%で、前回調査(10月5、6日)の45%から急落した。

不支持率は52%(前回36%)。外交への取り組みや北方領土問題への対応を「評価しない」とする人がいずれも7割を超え、主に外交面での低い評価が支持率低下につながったようだ。

世論調査―質問と回答〈11月13、14日実施〉
菅内閣の支持率が3割を切るのは、6月の内閣発足後初めて。不支持率もこれまでで最も高くなったが、衆院の解散総選挙については「できるだけ早く実施すべきだ」31%を「急ぐ必要はない」60%が大きく上回っている。

内閣を支持しない人にその理由を四つの選択肢から選んでもらうと、64%が「実行力の面」を挙げた。菅首相は9月の内閣改造時に「『有言実行内閣』を目指す」と語ったが、そうは受け止められていない現状がうかがえる。

外交への取り組みについては「評価する」11%、「評価しない」77%で、北方領土問題への対応も「評価する」10%を「評価しない」73%が大きく上回った。

沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐり、衝突の場面を撮影したビデオを政府が一般公開していない判断を聞くと、「適切だ」が12%、「適切ではない」が79%。こうした外交面では、内閣支持層でも「評価しない」などとする見方が多数を占めた。

一方、事業仕分けによる行政のムダの削減について期待するか尋ねたところ、「期待する」が52%、「期待しない」が39%だった。

首相の仕事ぶりへの評価と、首相に今後どの程度期待するかについても聞いた。仕事ぶりでは「大いに」と「ある程度」を合わせた「評価する」が29%、「あまり」と「全く」を合わせた「評価しない」が69%。今後の期待では「大いに」と「ある程度」を合わせた「期待する」が41%、「あまり」と「全く」を合わせた「期待しない」が58%だった。

これについて元共同通信社常務理事の古澤襄氏は自らのブログ杜父魚文庫ブログの中で次のように見ている。

「朝日調査によって不評の菅内閣はとどめを刺されたといえる。

一度、国民の信を失った政権が国民の支持を劇的に回復するのは難しい。政権にしがみつけば、するほど国民の支持離れが加速される」。
2010・11・16

◆本稿は、11月17日(水)刊全国マガジン「頂門の一針」2098号に
掲載されました。他寄稿者の卓見もご高覧下さい。

<2098号 目次>
・カンニング首脳会談:渡部亮次郎
・「過ち」は1年前にあり:皿木喜久
・ロシア大統領国後訪問に無策の日本:櫻井よしこ
・ロシアは歯舞群島と色丹島の返還も凍結か:古澤 襄
・米国留学、日本は下位に転落:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年11月14日

◆色は匂へど散りぬるを

渡部 亮次郎

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん。これが「いろは四十八文字」。日本語のカナのすべてが入っている。

私は昭和17(1942)年に就学したが、教室に掲げられていたのは「アイウエオカキクケコ」の五十音で「いろは」はもっと成長してから教わった。それも見出しの如くに教えられた。誰からだったかは判らない。いわゆる先生からではなかったように思う。

<色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山けふ(きょう)越えて 浅き夢見し ゑ(え)ひ(い)もせず。>美人がいくら容貌が優れて匂う様だからと言ったって、やがては婆さんになってしまうじゃないか・・・と人生を延々と詠って飽きるところがない。

優れた日本語の教本である、と今も思えるが、これを江戸時代にはカルタにして子供に与え,言葉と諺覚えの教材にしていたそうだ。

世界百科事典(平凡社)に拠れば、これは「いろはかるた」と呼ばれ、いろは48文字をそれぞれ頭字とする<たとえ(ことわざ)>を集めていた。諺をかいた読札48枚と、その頭字及び諺の内容を書いた同数の取札とからなり、語呂の良い短句形と単純な遊び方で、正月の子供の遊びなった。

江戸中期末葉(18世紀後半)までに上方(京都など近畿地方)で作られた。この上方いろはは<一寸先やみの夜>ではじまるが、後から出来た江戸ものは<犬も歩けば棒にあたる>で始まり<犬棒かるた>と呼ばれた。両者に共通するのは<月夜に釜をぬく(盗む)>の一句のみ。

このほか尾張にもそれなりにあったとの説もあるが、いずれ江戸物を残していずれも消滅した、とされている。その時期は大正末期だったようだ。従って江戸育ちでもない当方が江戸かるたなどで遊んだことはないし、見たこともない。 

正月に百人一首のカルタ取りは全国チャンピオンを毎年競うほど今でも盛んだが、いろはの大会は見たことがない。それなのに今頃取り上げるのは、周囲にこのごろやたら、伊呂波カルタや諺を知ってるかい、知ってるかいと聞いてくる人間がいる。それならばと本屋をめぐってみたら「いろはかるた噺」森田誠吾著、ちくま学芸文庫を探し当てたのである。

そういえば赤穂氏十七士による討ち入りが成就した時、幕府はこれを幕府に対する意趣返しと読み、事件の世間に広まることを恐れて他言を禁じた。芝居にすることすら許さなかった。

ところが町中の方に知恵者がいた。仮名手本忠臣蔵。いろは48文字から「ん」を抜けばちょうど四十七に成る事に目をつけて幕府の目を眩ました。

「い」については先に書いたが、「ろ」については上方が「論語読み論語知らず」に江戸は「論より証拠」である。「は」針の穴から天のぞく 江戸は花より団子。江戸にはこの類句に花の下より鼻の下とか一中節(歌)より鰹節、色気より食い気とか心中より饅頭などがあったそうで面白い。 

上方が「臭いものに蝿がたかる」といったが江戸では「臭いものに蓋」で逃げてしまう。これだけではなく江戸は恰好をつけて逃げてしまうのが随分ある。年寄りの冷水(ひやみず)、老いては子に従ふ(う)。楽あれば苦あり。我慢も説くが諦めを教えた諺であろう。

京都、大阪と江戸・東京は元から対立して存在した。幕府が大阪から江戸へ越したし、天皇陛下も明治になってすぐ、ちょっと江戸を見てくると「出張」したまま未だにお帰りがない。当然、文化は上方が先で深い。江戸は後から侍を押し立てて恰好を付けてはいるが田舎者には変わりがない。

現代でこそ教育とか製薬とかには上方にまだ誇りは残っているが、カネ儲けの殆どは東京に行ってしまった。まず商社というのは大阪で始まった日本独特の商売だった。

それが戦後の高度経済成長期に本社を東京に移してしまった。商社にとって命よりも大事な情報が東京一極に集中するようになったからである。その後を追うように銀行が東京に行ってしまった。

徳川を憎く思う上方人は「綸言汗の如し(天子の言葉は汗が体内に戻れないように、一度言ったら言い替えができない)」とか「れん木(すりこぎ)で腹を切る」とか「武士は食わねど高楊枝」などと凋落して行く武士階級を笑った。

「氏より育ち」は江戸っ子をからかったものでもあったのではないか。現在の庶民は毎日読んでる新聞に川柳をよせたり投書をして憂さを晴らしているが、諺を引いて子供を諭すということはなくなった。

本を書いた森田氏は銀座生まれの直木賞作家。ふと伊呂波カルタを懐かしんで玩具屋めぐりをしたが遂に会えなかった。それで高じて遂に文庫本で400ページを超す大冊をあらわすことになった。

なるほど古い物を拒否した敗戦後の教育は「いろはかるた」を捨て、内閣はあいうえおを推進していては、ゐだのゑだのが出てくるいろはすたれていくだろう。しかし、この歳になって改めてかるたに盛られた諺を読むと実に胸にこたえ、腹に沁みる先祖の知恵が蘇って来る。あえて別紙を付して参考に供する次第である。


2010年11月12日

◆農村の神武(ずんむ)たち

渡部 亮次郎

日本の農村に嫁が来なくなる話を初めて書いたのは「楢山節考」を書いて日本中にショックを与えた深沢七郎の「東北の神武たち」という小説だった。1957年、東宝で映画化もされた。九里子亭脚本、市川崑監督だった。

<かつての東北は貧しく、そこに生まれた次男、三男達は「やっこ」と呼ばれ、長男と区別する為にボロを着せられ、ヒゲも伸び放題で、一生、土地も嫁ももらえない存在であった。彼らやっこのあまりにみじめなその姿が、どこか遠い昔の神武天皇に似ているというので、土地では「神武(ズンム)」と呼ばれていた。・・・>

しかしいまや全国の過疎地はどこも長男の「ずんむ」だらけだ。

1957(昭和32)年といえば日本は敗戦からまだ12年。食うや喰わずの境地をやっと脱出したころ。経済白書が「もはや戦後ではない」なぞ生意気なことをほざいて居たが、まだ十分貧しかった。大学生の私は月1万円で何とか暮らせたが。

秋田で「神武」になるべき私が大学に入学できたのはありがたくも両親や兄弟のお陰だが、それらを底で支えたのが「農地解放」だった。

<一般には,連合国軍の占領下に日本で実施された農地改革を指す。それは,1946年10月公布の〈自作農創設特別措置法〉および〈改正農地調整法〉に基づいて47年から50年にかけて実施された。

その骨子は,(1)不在地主の全貸付地と,在村地主の貸付地で保有限度(都府県で平均1ha,北海道で4ha)を超える部分を国が強制買収し,それを小作農に売り渡す(以下略)


(2)自作農の農地最高保有限度を原則として都府県平均3ha(北海道は12ha)とする,

(3)小作料を金納制とし,最高小作料率を設け(田は収穫物価額の25%,畑は15%),小作料統制を実施し,さらに小作契約の文書化を義務づけ,土地取上げの制限を強化し,耕作権の移動を当面知事の許可制とする,

(4)農地の買収・売渡しは2ヵ年間で完了させることとし,買収・売渡し計画の作成主体である市町村農地委員会の階層別委員構成を,地主3,自作農2,小作農5とする,などである。

この農地改革によって,地主的土地所有制度は基本的に解体され,それにかわって自作農的土地所有制度(自作農体制ともいう)が広範に創出されることとなった。>

<改革前の状態に比べるならば,それは全体として農業生産力と農民の生活水準の上昇に寄与したといってよい。改革後の零細自作農民は,1960年代の高度成長期以降急激に分解を遂げ,農家労働力の脱農・賃労働者化,農家の兼業化が急進する。

しかし,その場合の賃労働者化も,改革前の貧窮小作農民の賃労働者化に比べるならば,総じてよりましな賃労働者化だといってよいのである。暉峻 衆三>平凡社「世界大百科事典」)

米どころ秋田でも、当時は1反歩(10アール=300坪)当り5−6俵(1俵60Kg)ぐらいしか収穫できなかった。しかもその半分は地代として地主の納入しなければならないから、結局、小作人は「死なない程度の生かされていた」のである。(元秋田魁新報常務取締役渡部誠一郎談)

社会主義思想の流入は小作制度の不合理を訴え、全国各地で小作争議が起きた。

<第2期の争議規模をみると,争議1件当り参加地主数約5人,参加小作人数約20人,関係耕地面積10〜20町歩で,第1期と比べて明らかに小規模化した。中小地主の窮迫による自作化をあるいは土地売却要求を原因とした小規模な土地返還争議の激発,これが第2期の小作争議の特徴である。

このような地主攻勢のなかで,小作貧農が争議主体として登場し地主に苛烈に抵抗したのもこの期の特徴であった。小作人のなかでももっとも窮乏化していた小作貧農は,恐慌のもとでわずかの兼業機会も奪われ,土地への執着度はいっそう強まった。

その小作貧農がひとたび小作料減額を要求し,小作料を滞納すると,地主はすかさず土地返還を迫り,小作人の耕作権に対抗する手段に訴えた。それゆえこの期の争議は,小作人にとって,生産と生活の唯一の場である土地をめぐっての命がけの闘争であり,きわめて先鋭的な内容をもっていた。

新潟県王番田争議,同和田村争議,栃木県阿久津争議,山梨県奥野田争議,長野県五加村争議,北海道雨竜蜂須賀争議,秋田県阿仁前田争議などがこの期の代表的争議であるが,深刻な恐慌を背景にきわめて激化した争議形態をとり,天皇制権力の弾圧も苛烈をきわめた。

農民は,防衛的な争議を強いられるなかでも,要求を小作料減免から耕作権確立へとつき進め,地主的土地所有との対抗をより鋭いものとした。

しかし,第1期に引き続きさらに強化された弾圧・規制は,中心的な農民組合活動家に集中して農民組合の活動を困難にした。また満州事変の勃発による排外主義の高揚は,農民運動の中にも右翼的潮流や国家主義的傾向を生み出し左翼的農民運動の分裂・後退を余儀なくさせた。>(同)

戦後のマッカーサーの行った占領政策の詳細については西 鋭夫著「国破れてマッカーサー」(中央公論文庫)のご一読をぜひお奨めする。

<農地改革前の1941年には,小作農は総農家のほぼ3割を占め,多少とも耕地を借りている自小作や小自作農家まで含めると7割に達していた。小作農の5割は経営耕地面積50a未満層に,8割までが1ha未満層に含まれ,自作や自小作農家に比して零細経営に集中していた。

これら小作農は地主から収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収され,かつ地主の都合によって随時土地をとりあげられるなど耕作権(賃借権)がきわめて弱く,地主に債務を背負って人格的にも隷属的である場合が多かった。

こういった貧しい小作農家から紡織工業の女工をはじめ,きわめて低賃金で,劣悪な労働条件に甘んじて働く労働者が多数出現した。

小作農民にとって,小作料減免と耕作権強化,ひいては土地所有権取得による自作農への転化は切実な要求であり,この問題をめぐってはげしい小作争議,小作運動が展開された。

第2次大戦後の農地改革は,耕地の上に成立していた地主的土地所有を基本的に解体し,小作農を著減させ,逆に,圧倒的多数の農家を自作農ないし自小作農家に転化した。暉峻 衆三」(同)

戦前の農村で農家は収穫量の半分以下しか所有できなかった。加えて,化学肥料が発明されておらず、極めて貧しかった。明治時代の日露戦争に農村から徴兵された次三男が満洲に渡る船中で脚気のために大量に死亡したのはこれを物語る。

彼らは農家に生まれながら、白米を食したのは盆と正月ぐらいだったから。村では麦などの雑穀を食していたから結果的にビタミンB1を摂取できていた。

ところが陸軍に入隊すると、白米は無料で無制限、副食物は現金支給だった。彼らは白米に塩をかけたり、漬物だけでたらふく食べ、現金は家元に送金した。

だから極端なビタミンB1不足による脚気で死んだのだ。その医学的意味を陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は解明できなかった。 (この点は吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫)を一読されたい)。

この状態は1945年まで続いた。農地解放を政府はそれまで何度も試みたが、保守勢力の反対に遭って決して実現できなかった。

ところが敗戦とともに進駐してきたマッカーサーの命令で直ちに実現、小作農は直ちに所得を2倍に伸ばし、その後化学肥料の普及、農作技術の発達により所得は更に上昇して4倍に達した。

品種改良、肥料の開発、栽培方法改良が効果的だった。早撒き、早植え、早収穫の「三早栽培」で台風の被害を回避したのなんかは大きな効果だった。

農村にまで進駐軍は来なかったから、大都会のような強姦事件もギヴミー・チョコレート現象も起きなかった。しかし農地を自分のものにしてくれた進駐軍は農民にとって、神様に見えなかったら何に見えただろうか。それに生産したものはすべて自分のものになることから来る意欲の向上。

農民が増えた所得で最初に買ったものは、自転車、ラジオだった。これにより日本の産業界はまず軽工業から発展し始め、やがてそれらが重工業を押し上げ、高度成長を齎すこととなった。農家の子弟が大学に行ける様になったは、その後の兼業が大いに力になったが、過疎を齎して現在に至るのは皮肉である。

農家で農作業に女性は不必要となっている。

 (1)播種ー温室の中で男のしごと

 (2)植え付けー機械-男で十分

 (3)除草ー薬剤散布ー男で足りる。

 (4)水確保ー男で足りる。

 (5)刈り取りー機械、男で足りる。

 (6)乾燥ー機械、女でなくとも良い。

 (7)脱穀、袋詰め-機械ー男。

昔は(2),(3),(5)に女性が動員された。しかも主婦をやりながら、育児もあった。しかし、水田で嫁のやる仕事は皆無になった。

しかし、コメの値が下がり続ける反面、機械は値上がりが続く。兼業農家のお父さんは会社の給料を農機具につぎ込んでいる。或いは後継者がいないのはまだいいほうで、後継者に50になっても嫁がいないのがザラ。

中国やフィリピンから「輸入」した嫁に殺されたり騙されたりの事件が多発しているのはこのため。農家は娘は都会に出して長男には地元から嫁をというが、それは初めから無理。別の人に言わせると、農村の封建制は全く改まっていないことを女性は知っている。だからこそ嫁に来ないのだというが。


2010年11月09日

◆電器屋が演歌を殺した

渡部 亮次郎

何の気なしに入った高校は伝統のある県立校で進学校だった。息がつまってわざと不良ぶって授業をサボったりエロ小説を書いたりした。

そのことはたいがいの友人は知っているが2年の時、NHKののど自慢県大会に出場したことは誰も知らない。「チャペルの鐘」で合格したが、それ以上にはいかなかった。行っていたら今頃老残の元歌手だったかもしれない。

貧しい百姓家だったから柱時計はあったもののラジオはなかったし自転車もなかった。もちろん蓄音器(レコードプレーヤー)はあるはずがない、向かいの家は地主であったから子供のころからレコードをここで聴いた。

友人の長兄は農学校(戦後の農業高校)を出た人で歌好きだったらしく霧島昇、東海林太郎、渡邊はま子、藤山一郎、上原敏といった歌手のレコードが山のように有った。

私は毎日友人のところへ行ってはそうしたレコードを聴いた。垣根の外では兄が耳を傾けて居る筈だった。歌はすぐ覚えた。

民謡のレコードも多かったが、浪曲は全く聴かなかった。民謡には鳥井森鈴(とりい・しんれい)と言う隣町の人の秋田音頭というのがあって、いま振り返れば当然放送禁止の卑猥な文句が平然と唄われていた。

「あの税、この税、役場の税金息つくヒマもない。いっそこれなら有るものブチ売って、一発ぶっぱめて死んだ方ええ」。

酔えば今も唄う私の秋田音頭を余りに卑猥だから東京の友人たちは「替え歌だ」と言うが、おれの方が本物だ、諸君のは放送コードに引っかからないようにした「替え歌」だよ。お上品な進学生はあのころ秋田音頭なんか知らなかった。

アメリカから来た進駐軍は農地解放をやった。小作農は収穫米をすべて自分の物とすることが出来るようになった。農村は豊かになった。まず自転車があふれラジオが入った。そのラジオからは「流行歌」という名の演歌があふれた。

東京ブギウギなんてあらゆる束縛からの途方も無い開放感を唄いつくしてあまりあった。夜、家とは別棟の便所で声高らかに流行歌を歌った。
折角買ってもらった岩波の英和辞典をそこに落としたのもその頃である。

岩手県の盛岡で所帯を持った時、初めてレコードプレーヤーを買った。テレビにはまだ手が届かなかった。N響がやって来た時に聴いたモーツアルトのピアノ協奏曲20番や通学時に秋田駅で毎朝鳴っていたのはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番だと確かめて生まれて初めてレコードを買った。

流行りはじめたステレオのLPだったが、流行歌はまだモノーラルだった。昭和36年に「川は流れる」を沖縄の高校生仲宗根美樹が巻き舌で唄ったが、今探してもあの曲はモノーラルのものしかないから間違いない。流行歌がステレオになるのは昭和39(1964)年ごろだったような気がする。

それから間もなく若い世代は流行歌を離れ、フォーク、ポップス、ニューミュージックに向かうので、流行歌は演歌と呼ばれるようになって今日に至った。またレコードはCDとかMDとかカセット・テープにとって変わられ、プレーヤーはラジカセに変わった。

そこで大変革が起きる。中年以降がCDの聴き方が判らないものだからCDを買わなくなったのである。これで演歌は最大の支持層を喪失した。しかもレコード会社は気づかない。

電器屋。ナショナルとかソニーとか東芝とか。彼らはラジカセが売れに売れるから気がつかなかったがラジカセを買っていたのは極く若い人たちだけであった。中年以降は買わなかった。実は私の姉や兄は今でもラジカセの操作が出来ない。

ラジカセではラジオもCDもカセット、今ではMDも聴ける、しかもラジオはAMもFMも聴ける、操作の仕方はこれこれ、時間予約はこうしてとと店員は説明した心算、こちらも聞いた心算だが、家に帰って来てさてとなると思い出せないのだ。大変だった。プレーヤを操作できないからCDを買うわけがない。

要するにテープならテープだけ、CDならCDだけを聞ける機械を作って売ればいいものを、あれもこれもくっつけるから中年以降には売れなくなったのだ。

しかも電器屋は電器を売り、音響屋はCDとかMDとかテープに詰めて音楽を売るけれども、買った人がそれをどうやって聴くのかなんかはどちらも考えない。

こんなにいい音楽がなぜ売れないのだろう、おかしいおかしいとばかり言っている。それが機能のありったけをくっつけて売った電器屋の罪、中年や老人を混乱させた電器屋の罪、それを分析していない自分たち音楽屋の落度と考えない。いずれにしろ演歌は最大の客を業界は失ってしまったのである。

NHKのラジオ深夜便で最大の呼び物は午前3時台の歌謡曲・演歌の時間である。ファンが多すぎて枠を2時間に広げなければならない時もある。またそれをテーマにした集いをどこで開催しても満員で、抽選に漏れた老人の嘆きがまた番組を賑わせている。

さすがレコード会社はこの番組をCDにして売り出しているが、番組への熱狂ぶりほど売れないのは不景気のせいとばかり考えて、複雑な録音再生器のためだとは気がついていない。

若者にとって便利な道具は年寄りにとっては実に不便なものだと言う事に電器屋やレコード屋が気づいた時、その担当者は既に定年退職して会社に居ない。

なぜそんな事を言うかというと、レコード会社の役員と喧嘩になったことがあるからだ。「それをレコード会社の責任にするのはおかしい」というから「売れないで困っているのはあなたがたの方だから電器屋に注文をつけないからだ。言ったらいいじゃないか」と言ったが聞かなかった。状態はあのままである。

ここ15年ぐらいは目の白内障だったから小遣いは専ら本よりもCD買いに費やしてきた。演歌、クラシック、俗曲、落語など手当たり次第だった。狭いアパートで置き場所に困り文句を言われている。

しかも今やもっと小さくて機能の優れたMDに時代は変わった。やがて時代はさらに進んでMDも古いことになるだろう。パソコンがあればCDもMDもDVDも家に置く必要はなくなるだろう。悔しいといえば悔しい。

尤も歌謡曲とか演歌とか、中年以上の年齢層に好まれる歌が流行らなくなったのには歌に「詩」やロマンが無くなったせいでもある。詩がすべて口語になったから詞はまるで「説明」であってロマンが欠乏している。

だから演歌を殺したのは嘗ての文部官僚だといった方がいいかもしれない。最後に棄て台詞「今に日本人は和歌が全く理解できなくなるだろう」。
〔了〕2004.02.07

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<2090号 目次>
・JNN世論調査の支持率は30・3%に急落:古澤 襄
・改めて思う国民の権利と義務:阿比留瑠比
・英国首相が財界率いて北京入り:宮崎正弘
・ねあか、ぼちぼち、あきらめず:平井修一
・電器屋が演歌を殺した:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年11月07日

◆全共闘政権の成立

渡部亮次郎

2010年6月4日に成立した内閣の首班は菅直人だから、世上はこれを「菅内閣」と呼んでいるが、これは違う。菅が政治家としての見識に欠けているからだけでなく、すべての案件に対して優柔不断であることを突かれて、官房長官の仙谷由人に振り回されているから実質「仙谷内閣」である。

その仙谷も菅も学生時代は全共闘に所属した左翼活動家だったし、中でも仙石は安田講堂にもこもった札付き。政治家のスタートは日本社会党なのだから根っからの「アカ」。

仙谷 由人(せんごく よしと、1946年1月15日 ― )は、日本の政治家、弁護士、全共闘系学生運動家。衆議院議員(6期)、内閣官房長官(第78代)、凌雲会会長。

民主党政策調査会会長(第7代)、有限責任中間法人公共政策プラットフォーム代表理事、衆議院決算行政監視委員長、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)、内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)などを歴任した。

この辺りまでは小沢一郎嫌いが目立つ程度で、国民の被害も小さかったが、官房長官になって化けの皮を脱いだ。国の根本を変え、中露に日本を売り渡そうとしている。

閣内の調整役を、道勘違いしたのか、国会だけでなくすべての局面で内閣の先頭に立ち、日本全体を振り回している。これを厳しく批判するマスコミはいまのところ産経新聞だけ。

各社がこれにつづかないと見て取るや、産経を公の場で非難し、詰ること夥しい。権力を手中にしたから、若い頃から夢見た全共闘政権の樹立に成功したと勘違いしているようだ。

「この世をば わが世とぞ思う もち月の かけたることも なしと思えば」と詠んだ藤原道長野心境だろうか。(文中敬称略)
2010・11・6

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<「頂門の一針」2088号・目次>

・全共闘政権の成立:渡部亮次郎
・中露に舐められる日本アチャチャ:山堂コラム 343
・「尖閣」ビデオ流出の衝撃!:花岡信昭
・狂歌師、自民・伊吹氏の詠む歌:阿比留瑠比
・需要創出の知恵を:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年11月05日

◆「お前の女房は元から俺の女房」

渡部 亮次郎

わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969 (昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。

日本の常識ではそうだろう。だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。

だから外交課題には適さない。理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相らは、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。 

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。

「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。