2010年06月08日

◆政治評論家と政治学者

渡部 亮次郎

<「頂門の一針」 1941号 2010(平成22)年6月7日(月)「小沢は身を引く時だ:岩見隆夫」の【長年、民主党の助言者である山口二郎北海道大教授が、民放テレビで、「小沢権力は幹事長を辞めれば、かき氷みたいに消えていく。お金の力も、(候補者の)公認権もポストについているからだ」と語るのを聞いて、驚いた。】に
は全く同感です。

「小沢はそんなヤワな政治家ではない。」山口教授はあまりにも小沢氏を理解できていない。この程度の人間が、マスコミで識者面して発言していることを嘆かわしく思います。(N・H)>

私のメルマガ「頂門の一針」への投書である。かつて防衛庁時代に要職にあった方である。当時の役人は政治家をよく観察していたから時代認識もまた確立していた。政局すら見通していた。

政治記者古手の政治評論家は政治家各人と政治の現場を承知している。過去、現在を熟知しているから、若干の見通しは予見できる。
小沢一郎が幹事長でなくなれば、その権力はかき氷みたいに消えてゆくなんてことは書かないし、言わない。そんなやわな政治家じゃないことをよく知っているからである。

これに対して政治学者は政治の現場に立ち会ったことが無く、入手する情報はマスコミを通じた、いわば二次情報でしかない。政治家の権力はそのポストによる、と言う一般的な認識しかないから「ポストを失った小澤はかき氷などという「冗談」が言える。

40代にして自民党幹事長になり、その4年後に離党し、細川政権を樹立したり、政党を幾つも作っては捨ててきた。毀誉褒貶のなかで体質はいまや如何なる泥水にも耐えられる幸甚なものになっている。かき氷であるわけが無い。海に千年、山に千年棲んだ化け物「海千山千」。この先、何するか分かったもんじゃない。

政治記者も政治評論家も政治的な情報を常に新しくしていないとテレビや雑誌から注文が来なくなってメシの食い上げになる。だから私の若いころは、政治家とマンツーマンで酒食をともにしながらしか取材しなかった。

政治家は嘘を吐くのが商売みたいなもの。電話の先では舌を出しても見えない。顔を青ざめても分からない。だから電話取材は絶対しなかった。

1対1で面と向かえば嘘吐きは見破れるし、酒がはいれば油断もするから真実に近づける。これは後にNHK会長になる島 桂次(故人)に厳しく教えられたことである。「記者会見は嘘吐き大会。何処の馬の骨か分からん奴らの前で本心を吐露する政治家のいるわけが無い」。

対するに政治学者は個々の政治家に深入りしていたのでは、政治の流れを歴史的に分析したり、検証したりする時間がなくなるから、つい政局の分析が甘くなったり間違ったりする。大学からの報酬に影響しない。山口教授の発言は稀代の失言として記憶されるだろう。

それだから政局分析に政治学者をテレビ局が起用するのは「ミスキャスト」になりがちだから、避けたほうがいいし、見ないほうが正解だ。

まして記者経験も学者経験も無い雑誌編集長は政治評論家の無資格者であるから、分析は出来ても見通しは当らないから消えて行くしかない。

私は政治取材などに若干の経験があるから、以上のことを書いたが、
政治の現場を離れて30年にもなるから、政治評論は絶対しない。出来ない。政界の歴史は多少語れるだけだ。政治評論を古澤襄さんら情報通に頼る所以である。(敬称略)2010・6・7

2010年06月07日

◆哲学は後で付ければいい

渡部 亮次郎

1970年代、日本最大の関心は沖縄の返還であったが、アメリカのそれは日本からの繊維製品の過剰輸出であった。当時は佐藤栄作内閣。

ことの発端は、1969年1月、アメリカ大統領ニクソンが、自らの選挙期間中に、繊維産業保護を公約したことだ。

これに基づいて、スタンズ商務長官が日本に来て、毛・合繊製品の対米輸出規制の協定締結を要請した。

7月に開かれた日米貿易経済合同委員会では、アメリカ側が公式に繊維製品の対米輸出の自主規制を求め、ここから「日米繊維問題」の政治化が始まった。

ニクソン大統領の大票田である南部の繊維業者の突き上げもあって、強硬なものとなった。しかし日本では、大屋晋三当時「帝人」社長を会長とする日本繊維産業連盟が結成され、貿易自由の観点から譲らなかった。

政府でこの問題の対処に当ったのは宮沢通産大臣。東大出で、外交官試験にも通った俊才。佐藤は彼を官房長官に抜擢しようとして派閥幹部の田中角栄に阻止された事がある。だから難題の日米繊維交渉への期待は大変なものだった。

しかし、771年の田中通産大臣の時まで日米の妥協点には至らなかった。

2005年に出版された「宮沢喜一回顧録」(岩波書店)でまず宮沢氏は佐藤首相が繊維問題についてどのように考えているのか、ということに関して次のように回想している。

<おそらく佐藤さんとしては、沖縄(返還)という大きな国益のために、殊に日本の繊維業界がアメリカをそんなに困らせているのなら、それは規制するのが国益に合うと考えられたのだろうと、私は想像します。・
・(中略)・・

実際問題としては、法律問題は突っ切るとしても、行政としては、業界が横を向いていれば一切動かない。1つひとつの品物を押さえなければならない。しかしそういう事を佐藤さんは、無理もないけれど、ご存知でなかった。>(p.243)

このような佐藤首相の意を受けて、宮沢氏は通産大臣になったわけだが、通算省・産業界が共に反対していた中で、宮沢では解決できなかった。

<形としては、私は自分なりの哲学でいろいろやってみたけれど、それは結局この問題の妥結には持ち込めず、田中通産大臣が千何百億という金を出すという決心をすることによって、最終的に業界が泣き止むという経緯をとったわけです。>(p.253)

この「千何百億円を出す」(正確には2000億円の補正予算)という政策は田中通産大臣だったからこそできた荒技だが、とにかくこういう荒技をもってしなければ問題を解決しなかったのである。

宮澤に出来なくて田中角栄に出来たわけとは何であったか。国の財布を握っている大蔵(当時)官僚の肝を田中が握っていたからである。2000億円ものカネを一気に出させる人脈を大蔵省に持っていたが、宮澤には無かった。

角栄になくて宮澤にあったのは哲学である。日米繊維交渉を哲学で考えたのが宮澤。しかし田中は哲学は無関係だった。「要するに解決すりゃええんだろう? 日本の繊維業者を納得させるのは哲学なんかじゃない、カネだ」。

糸(繊維)が解決しなければ縄(沖縄)が還ってこない。来なけりゃ親分(佐藤)が倒れる、佐藤が下手な倒れ方をしたら、後釜を狙う俺(田中)が困る、だから糸はオレの問題なのだ。それだから2000億を工面(補正予算編成)してくれ。

ハイ分かりました、という大蔵官僚。そのために何年にも亘って小遣いを配ってきた。池田内閣時代、小学校しか出ていないオレがこともあろうに大蔵大臣になり、それを支えてくれた大蔵官僚がいればこそ、ここまで来られた。その浪花節で糸は解決し、縄は還って来た(1972年5月15日)。

先立つ1月の日米首脳会談に佐藤首相は外務大臣福田赳夫のほかにわざわざ通産大臣田中角栄も帯同。旅行中に「福田を先に総理をやらせろ」と田中を口説く心算だった。

ところが自分の選挙公約を2日前に果たしてくれた田中をニクソンは大歓迎。食事では脇に座らせる気遣いまでした。これでは佐藤のほうが挫けた。これで田中は勢い付き。遂に7月には福田を蹴落とし佐藤の後釜に座った。

よくよく考えてみれば、宮澤が哲学的にコトに当って失敗した事から角栄が政権を獲得できたようなもの。角栄の恩人は宮澤である。だが角栄は口の利けるうちは「宮澤を総理にしてはいけない。あれは秘書官は勤まるが総理大臣は務まらない」といい続けた。

「要するに解決」が哲学の無い田中の哲学だった。そのためにした事は官僚を手馴付ける事だった。今日、独立法人改革の足踏みも遠因は角栄に遡る事は確かである。文中敬称略。(再掲)

筆者付言。「コトを解決した角栄が逮捕され、日本を食い散らかした鳩
ガ自由に飛んでいるのは何故だろう」




2010年06月05日

◆北国に無い松林檎

渡部 亮次郎

北国にあって南国にない果物はリンゴである。しかし、それだけのことであって、その反対の物が殆どである。代表的な果物はパイナップル(松林檎)であろう。

敗戦した1945年直後、コメの供出促進奨励品として、秋田県の農家にも缶詰が配られ、生まれて初めて甘く加工されたパイナップルなるものを食した。パイナップルの缶詰だった。

降って昭和43年、生まれて初めて沖縄島に旅券を持って渡った。占領後、初の琉球知事選挙取材のためである。本島の各地で栽培されて居たものはサトウキビとパイナップルだったが、1度も食しないまま島を後にした。

パイナップルの原産地はブラジル南部、アルゼンチン北部、パラグアイにまたがる、南緯15〜30度、西緯40〜60度に囲まれた地域とされている。

新大陸で発見された当時(1492年)すでに中部アメリカ、西インド諸島に伝わっていて、新大陸発見後、広く世界へと紹介された。

16世紀には、アフリカ・インド・南洋諸島の各地に分布。17世紀には、ヨーロッパ貴族の温室で品種育成も試みられ、18世紀には、南北緯度30度以内の熱帯・亜熱帯地域で広く栽培されるようになった。

輸送や貯蔵に弱いパイナップルは、その後は世界への伝播が遅れた。現在、世界の主要栽培品種のスムースカイエン種は、1819年フランス領ギアナから、フランス本国へ渡り、それからイギリスへ。

アメリカはフロリダへ、ハワイへ、ハワイではジョンキドウェルがパイナップル缶詰工場を1892年に設立。一躍大産業の素地が作られた。缶詰用原料として認知されたスムースカイエン種は、1923年には台湾に伝わった。

14世紀から16世紀、琉球王国(沖縄)は大交易時代。地の利を生かし、西の明(中国)、東南アジアのルソン(フィリピン)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)との貿易が盛んに行なわれていた。その頃伝わった代表的な物が泡盛である。

だが、パイナップルは比較的遅く、1866(慶応2)年石垣島沖で座礁したオランダ船から、川平湾に漂着したパイナップルの苗が、沖縄に伝来した最初とされている。

沖縄本島では1888年に小笠原から輸入されたものが国頭郡に広がり、1927(大正15)年には、現在の主力栽培品種であるスムースカイエン種が本部町伊豆味に導入された。

石垣島では1930(昭和5)年に台湾からパイナップルの苗が運び込まれ、1935(昭和10)年には林発氏等を中心に、台湾から栽培農家53農家が移住して、本格的なパインの生産が始った。

1938(昭和13)年には石垣市に缶詰工場が建設され、県外移出が始まりまったが、3年後に始まった大東亜戦争で壊滅的な打撃を受けた。

戦後、石垣島では1946(昭和21)年から、沖縄本島では1952(昭和27)年から栽培が再開された。その後、生産は急増し、1960(昭和35)年には、サトウキビと並ぶ2大基幹作物として、沖縄の経済を支えるまでにパイン産業は成長する。

しかし、1970年代に入って、オイルショック、冷凍パイン輸入自由化、経済不況の影響を受け、最盛期1969年(年間10万t)の6割程度までに落込んだ。

その後もパイン産業は、パイン缶詰の需要低迷・安価な外国産パイナップル缶詰の価格攻勢等の影響を受け、ついに1990年には沖縄のパイン生産の需要の大半を占めるパイン缶詰の輸入が自由化された。

ウルグアイラウンドによる、このパイン缶詰自由化により、沖縄のパイン産業は大きな打撃を受けた。

パイナップルの名前の由来は、(PINE)松かさと(APPLE)りんごで、松ぼっくりのような形状とりんごのような酸味のある甘さからきている。

観賞用を含めると世界に2000種類もある。世界中で一番有名な品種がスムースカイエンだ。なぜかと言うと、世界で一番生産されているといわれているのだ.

雪国秋田では到底生産できないパイナップルは、糖質の分解を助け、代謝を促すビタミンB1を多く含み、さらにビタミンB2やC、クエン酸などとの相乗効果により疲労回復や夏バテ、老化防止などに効果がある。

タンパク質分解酵素のブロメリンが含まれているので、肉類を食べた後にデザートにして食べると、肉を柔らかくし消化を助ける。

また、ブロメリンには腸内の腐敗物を分解する作用もあるので、消化不良や腸内のガス発生などの症状にも有効だ(ブロメリンは熱に弱いので、60度以上に加熱するとその効果が失われてしまう)。

ただし、あまり熟していないもの(未熟果)を食べると、(未熟果にはシュウ酸イオンが含有)消化不良を起こしたり、口の中が荒れてしまうことがあるので注意を要する。
http://www.pineapplehouse.jp/menu17.html

2010年06月03日

◆手負いの獅子小沢

渡部亮次郎

鳩山がやっと辞める。これで彼言うところの「国難」が去る。なにしろ自分が政権の座にあることこそが「国難」なのだと理解できない博士だから面倒だった。政治的には全く無能な事を天下に晒した8ヶ月。

万事派手好みの夫人への手前もあるから仲々辞めないぞ、意外に手こずるぞ、と見ていたが、輿石を挟んで小沢との差し違えを演出したのは、最初にして最後の「政治行動」だった。

但し、これは官房長官の「示唆」だから逆もあり得る。「ボクが辞めるから総理、あんたも辞めてくれ」と小沢がいいだしたのに、「示唆」は最初にして最期のご奉公とばかり主従を変更しているかもしれない。

いまさら何を書いても無駄だからやめる。それにしても、わずか63にして世捨て人は気の毒。ついでにこれ限り政界からの引退を勧奨する。それが国のためだ。

一方の小沢。鳩山ごとき素人の仕掛けてきた差し違え辞任を止められなかったとは、力の衰えを感じさせられる。「小沢衰えたり!」

こうなれば小澤は「鳩殺し」に邁進するはずだ。もはや一匹狼。徹底的に鳩を追い詰める為、手負いの獅子小沢、何を仕出かすか分からない。

仮に参院選挙に敗北しても、責任を負う必要はなくなったのだし、
これまで以上に好き勝手をやらかすだろう。新党結成までも考えているかもしれない。

徹底的に、党内に権力の集中を図るため、後継首相、幹事長の選出に勢力を傾注するだろう。したがって菅が果たして本命と言えるか。
小澤は腹黒い。 2010・6・2

■注目!!
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2010(平成22)年6月3日(木)
<目次>
・首相辞意表明の裏側:古澤 襄
・手負いの獅子小沢:渡部亮次郎
・小沢氏は権力保持図る:古澤 襄
・男「政界」に家なし:平井修一
・民主党の危険な本質を見極めよう!:東郷勇策

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年06月01日

◆醤油の無くなった時代

渡部 亮次郎

今はどうか知らないが、30年ぐらい前のニューヨークではカレーの匂いはご法度だった。それを知らずにアパートでカレーライスを作り、管理組合の理事会決定で追放された日本人家庭がある、という話を聞いた。

同時に、日本人なら「香ばしい」と感じる人の多い「醤油の焦げた」匂いもノー。それを面白がって、友人はニューヨークからオタワ(カナダ)への上空で、するめをライターで焦がした末に、小瓶に入れた醤油をつけたからたまらない。

米人女性の客室乗務員が慌てて来たが、友人は口に入れてしまって知らんぷり。この頃は、アメリカ人全体が醤油の美味しさを余り知らない頃だった。

今では健康食として日本食が世界各地で好まれるようになってから、醤油を世界各地で手にいれることが出来るようになった。

事実、醤油は現在100カ国以上の国に輸出されており、生産は年14万キロリットルにも達する。キッコウマンなど大手メーカでは現地生産も行っている。

アメリカ大陸にはじめて足を踏み入れたのは昭和53(1978)年2月。 NHKの政治記者から外務大臣秘書官になったところに、永年の友人加瀬英明氏がやってきて「外相秘書官がアメリカを知らないでは話にならない」と、旧知である大臣を口説いて連れ出してくれた。42歳だった。

ロスアンジェルスへ降りて、本場のステーキなるものを注文したら、固いの固くないの話ではない。それにパサパサして喉を通らない。加瀬氏はアメリカは留学で知り尽くしているから、諦めている。このとき「醤油があったらなぁ」とつくづく思った。

そこで翌日は海岸べりのレストランに入って白身の魚をボイルしたものを頼んだが、これまた塩味が不足。いや、マヨネーズかチリソースにまぶして食べろと言うものだった。これで私はアメリカへ来たら、食い物は諦める、と決めた。

そこで、千葉県の有名な醤油メーカーにこの話をしたら、既(1957年)に醸造のアメリカ進出を決定したとのことだった。

<現在業界最大手のキッコーマン社がアメリカに続いてシンガポールに工場を設けて生産しているように,近年とみに世界の注目を浴び,販路を拡大するようになっている。> (平凡社:世界百科事典)

<日本人海外渡航者数の増加や、海外における日本食のヘルシーイメージの浸透など受け、醤油の輸出量が徐々に増加していった。これに目をつけたキッコーマンがアメリカ合衆国に海外工場新設を決断。

その後も海外での醤油消費量は伸び続け、現在では色々なメーカーが海外に拠点を設けている。米国において醤油の一般名詞が「キッコーマン」となっている。>(ウィキペディア)

アメリカに対して日本は1941(昭和16)年12月8日に戦争を挑み、結局は原爆2発を食らって降参。国民は塗炭の苦しみを強いられた。農村でも食糧難を体験したが、子供心にショックだったのが、醤油が売ってなくなったことだった。

調べてみると、あの頃の醤油の危機的状況とは、戦中戦後の食糧難に伴い主原料である大豆の醤油製造への配給が滞り、醸造元が本来の醤油を作ることが出来なくなったからある。

また、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が醤油の重要性を理解せず、大豆を酸で加水分解した方が効率良く製造できると指導してきたという逸話も残っている。

しかし、1952年の独立回復とともに正しい製造方法による醤油作りの復活が大手メーカーを中心に芽吹き始め、景気回復と共に本来の美味しい醤油が食卓に戻ってきている。ただ、日本人の洋食化・核家族化が進むと共に和食が調理される機会が少しずつ減少し、醤油の消費量も伸び悩み始めている。

醤油は長い歴史の間でそれぞれの地域ごとに独自の風味を持った醤油を開発してきた。このため、日本人は自分の出身地域の醤油の味を好むといわれており、業界の最大手クラスの業者といえども全国規模で商品を出荷する事は極めて困難であると言われている。

例えば九州では、こいくちでも関東のものに比べ甘みが多い。また、刺身醤油に必ず「さいしこみ」を使うことで「九州の醤油は甘口が好まれる」と言われる。NHK時代,九州へ転勤した江戸っ子が東京の醤油確保に苦労していた。

実際に、ごく一部の醤油に砂糖、甘草、ステビアなどの甘味料が添加されているものがある。九州ではこいくちでも「うまくち」と呼称して区別する場合が多い。カルビー製のポテトチップスにも甘口の醤油の味の「九州しょうゆ」味がある。

また、醤油の味によって、料理の基本となる出汁の味や色も変わるので醤油の違いが料理の地域性にも少なからぬ影響を与えている。さらに料理人に至っては複数の地方色のある醤油を混ぜるなどし、独特の味を作り出す者もいる。出典: ウィキペディア)

2010年05月31日

◆「月の沙漠」は御宿の砂浜

渡部亮次郎

砂漠の本場は中東と中国だろう。しかしここらへ行っても「月の沙漠)は出てこない。あそこに展開するのは砂漠であって沙漠では無いからだ。

<童謡「月の沙漠」は御宿海岸で作られました>と千葉県夷隅郡御宿町は主張しの御宿海岸には、『月の沙漠』に登場する、2頭のラクダに乗った王子と姫をあしらった像が建てられている。

その数メートル脇には、『月の沙漠』の冒頭を刻んだ月形の詩碑が存在する(加藤の直筆による)。

月の沙漠」
作詞者 加藤 まさお   作曲者 佐々木すぐる
 
1月の沙漠を はるばると 旅の駱駝(らくだ)が 行(ゆ)きました
金と銀との 鞍(くら)置(お)いて 二つならんで 行きました
 
2金の鞍には 銀の甕(かめ) 銀の鞍には 金の甕
  二つの甕は それぞれに 紐(ひも)で結(むす)んで ありました
 
3先の鞍には 王子(おうじ)さま 後の鞍には お姫(ひめ)さ
ま 
 乗った二人(ふたり)は おそろいの 白い上着(うわぎ)を 着(き)てました
 
4広(ひろ)い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう   
 朧(おぼろ)にけぶる 月の夜(よ)を 対(つい)の駱駝は とぼとぼと
  
 砂丘(さきゅう)を 越(こ)えて 行きました
 黙(だま)って 越えて 行きました

月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさをの作品の一つ。作曲家の佐々木すぐるによって(勝手に)曲を付けられ、童謡として有名になった。

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、講談社発行の雑誌『少女倶楽部』1923年(大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品である。

これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが勝手に曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。

また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として「青い鳥楽譜」と呼ばれる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収められている。

この経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927(昭和2)年にラジオ放送されたことから評判となり、1932(昭和7)年に柳井はるみの歌唱で録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。

その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つとなっている。

この詩は「ラクダ」に乗った「王子様」と「お姫様」が月下の沙漠を往く情景を描いており、異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」という表記が一般的ではないことからか、しばしば「砂漠」と誤記されるが、題名、詩文中ともに一貫して「沙」の字が用いられている。

この字が用いられる理由として、「沙」には「すなはま」の意味がある。

学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)の風景から発想した。

海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、「砂漠」ではなく「沙漠」としている。 というものが良く知られている(生前の加藤の述懐による)。

また、モチーフとなった海岸は御宿ではなく、加藤の生地である静岡県西益津村(現・藤枝市)近隣の海岸であると「加藤が公言した」とする資料もあるが、定かではない。

初めて「月の沙漠」のレコードを吹き込んだ「柳井はるみ」は、後に松島詩子として歌謡界で活躍した。

作曲家の芥川也寸志は、映画八甲田山のテーマ音楽の作曲の際、この曲からモチーフを得た、と語っている。

1980年代後半、俳優・歌手の坂上二郎がフジテレビ「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出演した際、「黒田節」の歌詞で「月の沙漠」を歌唱したことがあったが、両曲とも同じ七五調・16小節であるが故にぴったりマッチしたため、スタジオアルタ場内が拍手喝采となったことがある。

月の沙漠記念館は、加藤まさをの功績を讃え、その作品を収集し、永久に保存すると共に、広く公開することを目的として、「月の沙漠」誕生の舞台となった御宿海岸前に建設された。

記念館は、加藤まさをの作品をはじめ、御宿にゆかりのあった文人、画家の足跡をたどり、その作品の展示と共に、ギャラリーとして、また、さまざまなイベントもできる機能を持っており、文化活動の館としても広く活用いただいています(同館HP)。

開館時間 午前9時〜午後5時
(4時30分まで入館可)
休 館 日 毎週水曜日(祝日のときは翌日)・祝日の翌日
入 館 料 大人 400円
高大生 300円
小中生 200円
住  所 千葉県夷隅郡御宿町六軒町505-1
電  話 0470-68-6389

月の沙漠記念館展示物
千葉県夷隅郡御宿町須賀195 御宿駅前案所内.
TEL・FAX 0470-68-2414

出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
10・5・29

2010年05月30日

夕刊◆隠し事は顕(あらわ)る

渡部 亮次郎

What is done by night appears by day.

直訳すると、夜行なわれた事は日中にばれる。英語でもこう言って戒めている。「隠す事は顕(あらわ)る」。

「隠し事は、隠せば隠すほど、人々の注意を惹き、早く知れ渡ってしまう」ということ。「隠せば、いよいよ現る」「隠すより現る」とも。旺文社「成語林」より。

だから「壁に耳あり 障子に目あり」と言った。醜女がサングラスをすると却って目立つと同じ。

<福田首相辞任 4月から「辞めたいなあ…」
退陣会見(2008年9月1日)は突然のものだったが、首相にはすでにこの年の4月から退陣の2文字が頭をよぎっていた。

首相が後見人でもある森喜朗元首相に辞意を漏らしたのは、改正租税特別措置法の衆院再可決を前にした2008年4月だった。

大連立構想の破綻(はたん)に始まり、日銀総裁の空席、ガソリン税の暫定税率失効と「ねじれ国会」にくたびれ果て、「辞めたいなあ。もう外遊もしたくないよ」と、森氏に赤裸々に語っていた。

首相は、4月末から5月の大型連休にかけて予定していたロシアとイギリス、ドイツ、フランスの欧州3カ国訪問を取りやめたいと漏らした。

ロシアとのパイプが深い森氏は「少なくともロシアだけは行くべきだ」と説得した。

その結果、首相は欧州3カ国歴訪は見送ったものの、ロシアには出向き、メドべージェフ、プーチンの新旧大統領と会談した。

森氏らは、北海道洞爺湖サミットが終了後、声高に内閣改造熱をあおった。

森氏は福田首相が内閣改造(8月1日)を断行する半月ほど前の7月中旬、周辺にこう語った。「おれは福田さんの背中を押してやるだけだ。自前の内閣を作って、9月までしか持たないかもしれないが、そこまで
は頑張ってほしい」

人事を断行しても支持率は低迷。身内の公明党からも揺さぶられ、臨時国会の乗り切りは誰の目から見ても容易ではなかった。

森氏が首相から、退陣表明の連絡を受けたのは1日午後7時半過ぎ。緊急会見のわずか2時間前だった。2人の関係からすれば水くさいものだ。

驚いた森氏は「待て。慌てるな。これから官邸に行く。話し合おう」と電話口で食い下がった。

首相はきっぱり拒否した。「来なくていいですよ。もう遅い。記者会見をすでにセットしたから」

決断できないリーダーと言われた福田首相の最後の決断だった。>(9月3日2時31分配信 毎日新聞)

明確に分かるように、この記事は森氏の述懐で成り立っている。福田首相は「辞めたい」と4月から言い始めていたことを明快に述べている。

ところが、私のところに「福田は辞めるよ」との特ダネ情報のメイルで入ってきたのが4月8日だった。直接、森氏からではなかったが、森氏に接近できる筋からではあった。

あの時点で「辞めたい」という福田首相の声を生で聞いたのは今のところ森氏しかいない。だとすれば森氏がどこかで誰かに洩らしたからこそ「4月8日」情報が、密かながら流れたのである。

だから専門家筋では「福田辞任は近い」と見るのが一般的だった。従って、内閣改造と党4役入れ替えを断行(8月2日)したことに驚いた筈である。「辞意を撤回したかな」と。

隠せば顕(あらわ)る。顕れなかったところからすると逆に福田首相は隠さなかったのか。辞意表明のタイミングを狙い始めた頃は既に顔に出ていたと、彼と親しい「山堂」氏(『頂門の一針』常連執筆者)は言っている。

毎日、追いかけている政治記者1年生たちの目が節穴だったのは残念だったが、何もできなかった福田氏、自分の危機管理だけは出来たという事か。そこが「あなたと違うんです」か。

ところで「隠せば顕(あらわ)る」は「広報」の本質を突いている。

そこには「情報」が元々「秘匿」の必然性を持っているから、「広報」は
「秘匿」したほうが効果を大きくすると言う原則になる。

「実は、ここだけ、きみにだけ明かす話なんだけどね」と相手を特定して話した話は「特ダネ」だから大きく報道される。「抜かれた」各社は仕方なし「後追い」。これを役人にやらせると共同発表にするから各社一斉「ベタ」(1段)扱いで終わり。確かに情報は「操作できる。(再掲)


この伝で行けば、以下は眉唾物である。

<鳩山首相が普天間移設で名護市辺野古への日米合意案に回帰する意向を固めたのは昨年の12月だったという説がある。ルース米駐日大使との会談で、その意向を洩らしたが、政局に与える影響を考慮してパンドラの
箱に深くしまい込んだ。

5月末決着は日米関係を考慮した岡田外相の進言だという説もある。半年近い時間をかけて、辺野古回帰を徐々に軟着陸させることに首相は腐心したのであって、ブレたわけではないと鳩山側近は弁護する。>(頂門の一針 1931号=29日付)

■ 本稿は、5月30日刊「頂門の一針」1932号に掲載されたものです。
本稿末尾の「付記」をご覧下さい。
<目次>
・小鳩二人とも辞めません:松本浩史
・日本属国・中国は連合国:山堂コラム 320
・連立離脱しても0・5与党か?:古澤 襄
・隠し事は顕(あらわ)る:渡部亮次郎
・はびこる黒タイツ:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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◆日本初の戸籍は壬申戸籍

渡部 亮次郎

何かの本を読んでいたら、僧籍にある者の買春が露見したら、裸体のまま「江戸払い」の処分と言うのが江戸時代だった。寺は幕府に代わって「戸籍」を預かっていたので、それ相応の保護を幕府から受けていたから、戒律も厳しくされていたのだという。

そんなことを考えながら江東区毛利にある「都立猿江恩賜公園」を散歩していたら、公園の東端を流れている横十間川(運河)こそが「江戸」の境目だったのを知った。

吉原で「私は医者」と偽っての遊女あそびがばれた修業僧は、例えば猿江公園になる前の「木場」の堀の東側から江戸を追放になったわけだ。

<幕府は、明和2(1765)年に江戸の範囲を「江戸城を中心にして4里四方を江戸のうち」と定めた。さらに23年後、「江戸払い」の範囲として、品川・四谷・板橋・千住・深川から内側の区域を江戸とした。

それでも拡大する江戸は収まらなくなったので、町奉行が治安を担当する範囲を朱色の線で囲んで「朱引内」と呼びました。西は山手線内・北は板橋、千住・東は亀戸、小名木まで。

町奉行が行政を担当する範囲を黒線で囲んで「墨引内」と呼びました。高輪・白金・目黒・渋谷・高田・巣鴨・谷中・三ノ輪・本所・深川の内側です。

朱引きは明治以降も存続し、数度の改正を経て最終的には旧墨引に近い形となり、郡区町村編制法施行時に旧東京15区となったのだ。(フリー百科辞典)

明治政府は、発足後の明治4(1871)年に戸籍法を制定、これに基づいて、翌明治5(1872)年に始めて官製の戸籍を編製した。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」(じんしんこせき)と呼び慣わされた。

江戸時代の宗門人別改帳に代わり、皇族から平民までを戸(家)を単位に集計した。また、江戸幕府の国別人口調査と異なり、全国一律の基準で集計した点でも画期的であった。この戸籍により、当時の日本の総人口は、3311万人と集計された。

明治6(1873)年から大正8(1919)年までの人口統計は、壬申戸籍に対する増減をもとに算出したものである。

しかし転出、転入の届けなしの移動が相当数に及ぶため、地域別人口のずれが年々拡大した。また、壬申戸籍自体が、役所の戸籍簿の集計であり、直接の人口調査によるものではなかったため、無視できないほどの脱漏があった。

後の統計は集計値の他に推計値を載せるようになり、大正9(1920)年の国勢調査まで、この誤差問題は次第に大きくなっていった。明治5(1872)年の総人口も3480万人に修正した推計がなされているが、この推計値についてもなお議論がある。

そもそも、明治4年(1871)の戸籍法は不備が多く、多くの機能(印鑑証明、地券等)を持たせたことにより、複雑となった。

また必要限度の要件さえ整っていれば記載様式も特に設けられなかったことから、地方によって書式の詳細に格差が生まれた。

また以後6年に一度改編するという規定も大区小区制施行と併せて行われた1回程度で、多くの問題点があった戸籍であったとも言われている。基本的に明治11(1878)年以前はこの戸籍を戸長が管理し、郡村制施行後は役場が管理した。

壬申戸籍では、皇族、華族、士族、卒族、郷士、旧神官、僧、尼、平民等を別個に集計した。このとき被差別部落民は賎民解放令に基づき、平民として編入されたが、一部地域の戸籍には新平民や、元穢多、元非人等と記載されるなど、差別は色濃く残った(一部は明治19年式戸籍や身分登記簿にも登載された)。

その他、職業も記載様式に含まれており、華族、士族では主に禄高を、平民では農工商雑と記され、業種も記載された。

また、この戸籍では宗門人別の性質を残すため、寺、氏神の記載があった(明治18(1885)年廃止)。また、妾も二等親族として戸籍の登載を認められた(明治15(1882)年廃止)。

ほか、使用人、家来等は他人であっても養育している者は附籍として、その養育する者の戸籍に登載されていた(明治15年登載禁止。明治31年廃止)。

明治19(1886)年、壬申式から統一書式を用いた戸籍へと変更が行われ、同年11月より徐々に移行され、明治31(1898)年戸籍法によりこの様式は改正原戸籍として取扱われた。

昭和43(1968)年、被差別部落民かどうかを探り出すためにこの戸籍が用いられようとした事件が発覚し、閲覧が禁止され、同年、公開さえも禁じられ、以後、封印保管された。

現在は各地方の法務局に厳重に保管されており、戸籍簿自体の閲覧は不可能である。学術研究目的での閲覧を許可するように求める声はある。

現在でも、壬申戸籍の情報公開請求をした事例が平成13(2001)年、および平成16(2004)年に見受けられるが、いずれも却下されている。

壬申戸籍の記載様式例 (実際は縦書き)
  ○○番屋敷居住(借店)
平民 魚屋渡世
先代 父太助亡
戸主 二心 太郎
壬申年 五十
旧幕臣      妻 はな
中村主水三女   壬申年 四十八
武蔵国北豊島郡  妾    さき 
金杉村農茂助妹  壬申年 廿一
旧幕臣     附籍 椿 三十郎
大塩平八郎弟   壬申年 六十五
氏神 八幡社
寺  浄土宗 ○○寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月29日

◆水が飲めない21世紀

渡部 亮次郎

「中国到着後、生水は絶対に飲まないで下さい。湯冷まししか呑んではいけません」。日中国交回復の田中角栄総理に同行取材(1972年)したとき、外務省の係官に厳しく申し渡された。

「中国全土、硬水のためです。パリでも水道水は硬水のため、植木に水道水をやると枯れてしまう」といわれた。「水の代りにワインを飲むから、アル中が多い」(未確認情報)。

確かに水道水を飲めないところは多い。田中同行の時は絶対飲まなかった。ところが25年後の2002年3月、上海を訪れて高層ビル街に幻惑された。水道も発展しただろう。

腹下しは直ちに始まった。猛烈。トイレにつぐトイレ。寝るヒマなし。生水はさすがに飲まなかったが、水割りの氷が生水から作られていたのだ。3泊4日の旅行中回復せず。

栄養のたまらない体に血糖値降下剤を飲み続けたものだから低血糖昏睡に陥ること3度。死の寸前まで行って来た。当に水はことと次第によっては命取りとなる。

<上海在住の「半日半華人さんから」

おお〜、これって噂に聞く○○水でしょう。(=塩辛い砂糖水)幼い頃ボーイスカウトのキャンプで便秘の際「塩水飲んで100ダッシュ!」を思い出しました。

異国に来て「水」の不自由さから「飲料」の摂取が多くなりました。幸いにも日系企業さんが各種現地生産されており便利ですね。ポ○リにアミ○サプ○メントに○水に・・・勿論ウーロン茶。ーーーでも、やっぱり1番は日本の水だな。>

(≪ WEB 熱線 第755号 ≫2006/08/30_Wed  WEB 熱線 ☆ ―― アジアの街角から:亜洲街巷信息 より転載)http://chinachips.fc2web.com/common/31mag.html

以下はインターネットで

「水道水の飲める都市」で検索したら出てきた都市名である。
日本、香港、シンガポール、シドニー、ホノルル、サンフランシスコ、バンクーバー、ニューヨーク、デトロイト、アトランタ、ヘルシンキ、ストックホルム、コペンハーゲン、ウィーン、ロンドン。

・「飲まない方が良い都市」
ソウル(硬水)、北京(硬水)クアラルンプール(マレーシア、殺菌不十分)、デリー(インド、殺菌不十分)、ナイロビ(ケニア、殺菌不十分)、パリ(かなりの硬水)

・「飲めない都市」
マニラ(フィリピン、雑菌)、ジャカルタ(インドネシア、汚水・雑菌)、バンコク(タイ、汚水・雑菌)、カルカッタ(インド、海水混入・雑菌)、バグダッド(イラク、雑菌)、カイロ(エジプト、雑菌、肝炎ウィルス)、メキシコ(雑菌)、サンティアゴ(チリ、雑菌、かなりの硬水)、リマ(ペルー、雑菌、かなりの硬水)、ローマ(イタリア、かなりの硬水)

(註)硬水と軟水
井戸水や水道水などの生活用水は、純粋な水ではなく、いろいろな不純物を含んでいて、それによって洗浄効果に影響する場合もあります。

特に、カルシウムイオン(Ca2+)、マグネシウムイオン(Mg2+)は量的にも多く石けんのはたらきに大きな影響があります。

■ 硬度とは
水の中に含まれるカルシウムとマグネシウムの量を硬度と言います。単位はdH(ドイツ硬度)またはppm(アメリカ硬度)で表します。アメリカ硬度は、水1L中に含まれるカルシウムとマグネシウムの量を、炭酸カルシウム(CaCO3)の濃度に換算した重量(mg:ミリグラム)です。

ドイツ硬度は、水100mL中の酸化カルシウム(CaO)の重量(mg)に換算したものです。ドイツ硬度とアメリカ硬度の関係は 1dH=17.8ppmで表されます。

硬度の低い水を軟水、高い水を硬水と呼びます。日本では、生活用水の80%が、80ppm以下の軟水ですが、地域によっては硬水を生活用水にしているところもあります。

参考:中西ら、「被服整理学」朝倉書店 1990

ヨーロッパは硬水が多い。これはアルプスの石灰岩が全土に溶けているためではないか。同様に中国にはヒマラヤの石灰分が溶けているのではなかろうか。湯冷ましを作ってみると,ヤカンの中が石灰で真っ白になるところを見て、そう思った。

ソースリッチでこってりした肉料理が多いヨーロッの食習慣。調理の際、硬水は肉の臭みを取るのに適する。テーブルウォーター食事中、口の中をリセットさせるための、必須アイテムとして瓶詰めのエビアン水を飲んでいるが、これはワインより高価と聴いたが本当だろうか。

2003年に京都を中心に行われた世界水フォーラムで公開された資料を見ると、飲料水不足人口は12億人で、衛生的に問題がある水を飲んでいる人口30億人を加えると、世界で42億人もの人(全人口の2/3に相当)が飲料水に困っているという事実を知らされる。

太平洋の島国は、アジアやアフリカ大陸中央部の乾燥地帯と並んで、水不足が最も深刻な地域だ。この地域は雨量が比較的多いところだが、大きな川や湖は少なく、多くの国は水源の大部分を地下水に頼っている。

ところが、近年リゾート開発などにより地下水の汲み上げ量が増えたため、水圧のバランスが崩れて海水が地下水に浸透し、飲料水として使用できなくなる井戸が続出している。

このような危機に対し、海水を淡水化することによって飲料水を確保しようとする国がいくつも出てきた。例えばパラオ共和国では、新しく建設中の首都の電気や水道を、海洋深層水を汲み上げて海洋温度差発電(OTEC)と淡水化を行うことによってまかなおうと計画している。

実は水と安全はただというわが国でも水問題は深刻なのだ。これまでも毎年のように夏場には各地で渇水被害が発生しているが、台風が1回訪れると何事もなかったかのように騒ぎが収まるのは不思議なくらい。

水源となる湖や川の水質悪化の問題も年々増えていて、1996年に埼玉県で起きた病原性原虫クリプトスポリジウムの汚染では8812人が感染し、大きな問題として取上げられた。

この原虫はこれまでの塩素による殺菌では死なないため、オゾン殺菌など新しい殺菌方法を導入してやる必要があるから厄介。

また仮令、浄水場でオゾンや活性炭などの処理を行ったとしても、古い配管が残っているところでは家庭の蛇口までの間で鉛汚染などが起きる場合があり、安心はできなくなっている。

このような問題を知ってか、知らずか、一般の家庭ではボトル飲料水や家庭用浄水器がたいへんな勢いで普及している。そういった家庭では、生の水道水は既にトイレや風呂などで使用する洗浄水(中水)として考えられ、口に入る上水とは完全に別扱いしている。

ボトル飲料水の値段は1リットルあたり200円程度で、家庭用浄水器では減価償却とフィルター交換の費用などを考慮すると1リットルあたり2円程度となる。

上水道料金は場所によって違うが、押しなべて言うと1リットルあたり0.2円程度だから、それぞれ1000倍、10倍のお金を払っていることになる。このことは、わが国も欧米のように上水と中水を区別した水道事業を行う時期に来ていることを示している。

上水の水源をどこに求めればよいのか?先に述べたように、陸水系の水源は世界的にも国内でも限界に近づいている。そうなれば、太平洋の島国が計画しているように海を水源とした水道インフラの整備が不可欠となる。

ところが、陸や大気からの影響で海の環境もどんどん悪化しているので、特に汚染がひどいと思われる都市に近い沿岸の海は、安心して水源とすることができない。

そこで注目されるのが海洋深層水だ。海洋深層水は陸や大気からの汚染を受けない深度にあるたいへんきれいな海水だし、温度が低いという特徴を活かせば、先に出てきたOTEC海洋温度差発電などにも使える。

また、植物の栄養になる窒素やリンなども多く含まれることから、海の生き物を支える植物プランクトンや海藻を増やすこともできる。

海洋深層水は、世界中どこの海でもある程度の深度以下から汲み上げれば、同じような性質のものを取ることができるので、安全で安定した水源として今後ますます注目を集めることだろう。(山田恵氏の論文などを参照)

2010年05月27日

◆バルチック艦隊の敗因

渡部亮次郎

5月27日は日露戦争の日本海海戦で東郷平八郎司令長官の元、日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃滅し、勝利した日である。
昔、対米戦争で敗戦するまでは「海軍記念日」で「祝日」だった。
1945年に敗戦とともに廃止された。

日露戦争は、アジアの小国日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた。その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。

現在の海上自衛隊も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。 主なものに、例年金刀比羅宮で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。

長途の航海
バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。

カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。

このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復原力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。

長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に最高速度を落としていった。

また、燃料の石炭も十分な無煙炭を確保できなかった結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知らせてしまった。

編制・装備
当時のロシア社会は、貴族の上級士官が庶民の水兵を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、ときに対立や非効率を産んだ。

水兵の中にもロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュが頻繁に見られた。

ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。

航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明らかでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。

バルチック艦隊主力のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。

当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった。鹵獲されたものの沈没は免れた戦艦「オリョール」では乗員達が自主的に木製家具の処分などを行った。

撃沈された戦艦「アレクサンドル3世」などでは「居心地が悪くなる」などの理由で木製品の処分が行われずそれが明暗を分けた。

指揮統率
バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。

結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい。

後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、

力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。

気象
海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。

喫水線を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、魚雷1発だけで撃沈された。さらにこの構造は波高の時は転覆しやすかった。「ウィキペディア」
2010・5・26

2010年05月26日

◆老化は熟成でもある

渡部 亮次郎

雑誌にアンチエイジングとあった。しばらく考えて分った。老化拒否なのである。それならそう書けばいいものを、わざわざ英悟を片仮名に直し、読者には漢字で考えさせるというややこしい事をさせる。

エイジング。老化。それに抵抗することだから「ジーニアス英和辞典」を引いたら、老化のほかに「熟成」とも出ていた。老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違う。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである。

ところが戦前は無かったものに美容整形がある。戦後にアメリカから入ってきた考えで、自然に抵抗する思想そのまま、老化にも抵抗すべきだという医学である。

詳しい事は知らないが、雑誌などによると顔の皺を伸ばすためにあちこち引っ張りあげて縫うのだそうである。しかし、何年かするとまた皺がよるので、手術を何度も続けなければならないそうだ。

昔の日本人はこんなことを考えもしなかった。身体の老化は仕方ないもの、その代わり心の成熟があれば心安らぐべきものと考えた。だからこそ年寄りは尊敬された。

皺を延ばす人でも、世の中に尊敬される人がいないとは考えないが、動物の肉や脂肪を多食する人種と比べたら、日本人の皺など皺とは呼べないものだ。欧米に貴婦人の深い皺に比べれば縮緬のようなものだ。

日本の老人は翁(おきな)とも媼(おうな)とも呼ばれて尊敬されていた。身体は流石に老化は隠せないかもしれないが、その分、経てきた多彩な人生経験に裏打ちされた冷静な判断力があったからである。

それなのに最近は身体の部分を引っ張ったり縫ったり、或いは塗ったりして若く見せようと腐心する人が多い。いくら抵抗しても来るものは来ないわけではない。確実に来る。

引っ張ったり縫ったりの思想の線上に来たのが臓器移植であろう。中国では、そのために死刑の執行を役人が急ぎ、臓器を破格の値段で払い下げるそうだ。受ける中には日本人もあると聞く。

美容整形と臓器移植。他人の臓器と関係の無いこととあることとは無関係なようにも思えるが、死に向かう運命とか寿命とかに反抗し、抵抗する点では全く同じでは無いか。

私も目の老化は如何ともし難く白内障の手術を受けたが、禿を隠そうとは思わない。鬘を被れば却って目立つから考えたことも無い。もちろん被る事は自由だ。被らないことも自由だ。

若いころ、外国に出張すると、酒を嗜まない園田直(すなお)外務大臣はホテルとか迎賓館で夜は独りになる。外務官僚はそろって外出してしまうからだ。私も酒飲みで出かけてしまったら寂しいから、大臣が自分でウィスキーの水割りを作ってくれて私を引き止める。

贅沢な水割りだ。こちらは酔いながら昔話に耳を傾ける。園田は軍人の最後は「天雷特別攻撃隊」の隊長としてアメリカの軍艦に体当たりしての死を命ぜられたが、天候不良で延期。次の出撃の直前、敗戦となって生き延びた人だった。

「ナベしゃん、人間は死ぬのが何時か分らないから生きておられるとバイ。特攻隊では明日出撃と命令が出ると、今夜、首つりして自殺するものが何人もおらしたとバイ」

今夜床に就く時、人は明日も必ず目覚めると思えばこそ安眠できる。目覚めないこともあると分れば、とても眠られないだろう。何時死ぬか分らないが、取り敢えず今晩は絶対大丈夫と思えばこそ眠れる。

しかし、何時かの朝は絶対目覚めないのだ。だとすれば人生は充実して生きるしかない。充実を心がけるしかない。今更慌てても手遅れだが、せめて「老化は酒でいえば熟成」であるとでも考えて眠ろう。再掲


2010年05月25日

◆1960年チリ地震津波

渡部亮次郎

昭和35(1960)年5月24日未明、突然、契約タクシーにたたき起こされた。津波がきて大被害が出ている、至急、局へ」というNHKからの伝言。地震も無いのに、津波とは、何事かい。

NHKに記者として採用され、仙台中央放送局に着任して間もなく1年。そろそろ東北管内のどこかのローカル局への転勤が噂に上っていた。局から歩いても5分ぐらいの民家の6畳間に下宿していた。

五月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142名が死亡したのだった。岩手県大船渡市では53名、宮城県では志津川町(現・南三陸町)では41名が死んだが、それらがはっきりするのは数日経ってからのこと。

私は単身、録音機を持って女川町(おながわまち)に派遣されることになり局の車で向かった。途中、国鉄塩釜駅の前を通りかかったら、跨線橋の上に漁船が載っていた。津波はこんな高さにまで
達したのか。

後で聞けば、前夜、塩釜には同僚のカメラマンが別の取材に訪れて
1泊。だが、津波と聞いても暗くて何も分からず、全く撮影しなかった。この男は、これが祟って出世できないまま、60前に死んだ。

女川に着いたが、時折、津波がまた、やってきたという声がして人々は海を横目に高台に逃げる。

そのどよめきを録音しながら私も逃げる。その繰り返し。録音機は空回りして、何も録音されてなかった。2,3日経って赤痢が集団発生。その原稿を電話で送る私も発症していた。大館通信員時代についで半生、2度目の赤痢だった。


チリ地震は表面波マグニチュード(Ms)8.5、モーメントマグニチュード(Mw)9・5と有史以来観測された中で最大規模の巨大地震である。最大震度は気象庁震度階級では震度6相当とされている。

1960年5月22日15時11分20秒(現地時間。日本時間では5月23日4時11分20秒)、チリのヴァルディヴィア近海を震源として発生した地震である。地震後、日本を含めた環太平洋全域に津波が襲来し、大きな被害をもたらした。

まず前震がM7.5で始まりM7クラスの地震が5〜6回続いた後、本震がMs8クラスで発生した。また余震もM7クラスであったために首都のサンティアゴ始め、全土が壊滅状態になった。

地震による直接的な犠牲者は1743名。負傷者は667名。

この地震によりアタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7m沈み込むという大規模な地殻変動も確認された。また有感地震が半径約1,000kmという広範囲にわたって観測された。

史上初の地球自由振動の観測に成功し、アメリカでの観測で発生した地震波は地球を3周した事が確認された。

尚、本震発生から15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、約15時間後にはハワイ諸島を襲った。ハワイ島のヒロ湾では10.5mの津波を観測し、61名が死亡した。

各地の津波到達時間日本では地震による津波の被害が大きかった。地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142名が死亡した。

津波による被害が大きかった岩手県大船渡市では53名、宮城県志津川町(現・南三陸町)では41名、北海道浜中町霧多布では11名が死亡。

この浜中町では8年前の1952年の十勝沖地震でも津波被害を受けており、2度目の市街地壊滅。街の中心でもある霧多布村がこのチリ地震津波により土砂が流出し北海道本島より切り離され島と化した。

現在は陸継きだった所に2つ橋が架けられており、北海道本島と行き来が出来る。1つは耐震橋、もう1つは予備橋で橋が津波で流出する恐れがあるためと避難経路を2路確保するためである。

また、同じく度重なる津波被害を受けた田老町(現・宮古市)では高さ10メートルの巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。

この田老町の防災の取り組みを取り入れ浜中町に防潮堤が建設される。北海道の防潮堤については後の北海道南西沖地震でも津波による人的被害の甚大な奥尻島などでも建設された。

地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かった事が指摘され以後、気象庁は日本国外で発生した海洋型巨大地震に対してもハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。

あれから丁度50年後、チリ中部沖で2010年2月27日3時34分(現地夏時間; 6時34分 UTC)に地震が発生した。1900年以降、チリでは1960年5月のチリ地震に次ぐ規模、世界でも5番目の規模の地震となった。

日本では、2月28日午前8時30分に気象庁が会見を開き、かつてのチリ地震で最大6mもの大津波を受けて甚大な被害を受けた歴史的経緯もあり、大津波警報を三陸沖に発表するといった内容を伝えた。

時間は、「午前9時を過ぎればいつでも発表できるようにする」として、当初の予定を大幅に前倒しすることも示唆した。しかし人的被害は全く無かった。海苔ひびや牡蠣いかだの被害は大きかった。

気象庁は同日の会見で、津波の予測が過大であったとし、警報・注意報が長引いたことを謝罪した。ただし最悪のケースを想定したもので、判断ミスはなかったとした。2010・5・24

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月19日

◆中華+共産+資本主義

渡部 亮次郎

中華人民共和国は見出しに掲げた3つをごっちゃにしたものを戦術に、とりあえずアジアの盟主になることを目指し、先進国日本を障害物と考えている。「とにかく日本!中国の言いなりになれ」と最初に「靖国」を踏み絵に出した。

昭和29年の法政大学は東大を追われた大内兵衛が総長を務めていたことでも分るようにマルクス学派の巣窟だった。そこでは社会主義は正義と教えた。そんな馬鹿なことがあるかと反発した私は不真面目な学生になった。

長じてソビエトや中華人民共和国を訪れると、それらがやはり、全く嘘であることを確認した。特に酷かったのがソ連である。1973年1月にクレムリンを訪れた。折から小雪が舞い、氷点下20度。

小雪の向こうに人々の何百人という行列が見える。近付いて見ると老若男女、皆、目を真赤に腫らし、破れた靴、擦り切れたオーバー。世界2大国というソ連の、しかも首都でこれはなんだ。

トルストイ描く、これが農奴かと尋ねたら、日本大使館員曰く「これがすべて標準的なモスクワ市民。生まれてはじめてクレムリンを見学に来たんです。制限1000万人のモスクワ市民の実像です」。

大内さんもこれを知らずにマルクス万歳を教えていたのだな。こりゃ間もなく崩壊するぞ。的中した。

社会主義は社会正義と誤解するから、バカが社会主義者になる。古来、ロシア人は領土拡張主義者とか、版図主義者と陰口を叩かれる。しかし社会主義者という正義者になったら版図主義者は返上したかと思いがちだが、それは返上していない。北方4島は絶対、返さない。

シナ人は中華思想に浸って威張っていたが、毛沢東によって共産主義=社会主義=社会正義の国になったから、そんな馬鹿な思想はボツになったと思いがちだが、靖国批判を受けるたびに、それは日本人の勘違いに過ぎないことを痛感する。

中国という饅頭は薄皮は資本主義、その下は共産主義、しかして餡子は中華思想なのである。

そういう3つの要素が時に応じて同じ「友好」の穴から、別の顔をして現れるから、我々単細胞は戸惑うのだが、彼らにしてみれば本当は論理なんかどうでも良いのだから、戸惑っているほうがおかしいと見えてるはずだ。

<中華思想 ちゅうかしそう 漢民族の伝統的な自己優越思想。中国の国土や文化を理想とし、世界でもっともすぐれたものと考え、それと異なる文化、習慣の国や地域を卑しむ。

近隣諸国の君主は、冊封されると次のような義務をおった。(1)中国皇帝に対して臣下の礼をとり、定期的に朝貢(ちょうこう)する、(2)中国皇帝から要請があった場合は兵を派遣する、(3)中国へ派遣されるいかなる国の使者をも、途中で妨害してはならない、などである。

高句麗や百済、新羅、南越(なんえつ)といった諸国が冊封体制にくみこまれたほか、邪馬台国の女王卑弥呼が、三国時代の魏より「親魏倭王」という称号のはいった金印をあたえられて冊封され、また、室町時代に足利義満は明の永楽帝から「日本国王」に冊封されている>Microsoft

それでしかしシナは内戦により貧しくなり、列強に蚕食された。これはならじと頑張ってみたがどうにもならないところへ日本軍に侵入された。蒋介石良く耐えたが、後ろから八路軍(毛沢東)なる共産党との内戦も余儀なくされた。

幸い日本はアメリカはじめ連合軍に降伏したため、中国から引き揚げた。その後、蒋介石は台湾に逃げた。八路軍は蒋介石に勝っただけなのに、今では日本軍に勝ったのは共産軍だと言う教えを国民に垂れている。

歴史を正確に検証する気があるなら、中国の今日が1972年9月の日本との国交回復にあり、特にその後の日中平和友好条約に基づく日本の資金、技術援助にある事(改革・開放)は決定的な事実であることを知るはずである。

だからこそ、中国政府(共産党)はこれだけは国民に一言も教えない。共産党への関心が日本への感謝に替わっては困るからである。

さて国力も向上してきた。そこでもたげてきた頭が中華思想である。まずアジアの盟主になる。ライバルは先進国日本。これの頭を押さえつけておかないと、アジアの盟主にはなれない。そこで靖国を持ち出して、言うことを聞かなければ首脳会談にも応じない、ときた。

だから日本外務省が国連安保理の常任理事国になろうとした理屈が分からない。なられたら中華の国が面子を失うではないか。中国は絶対に日本阻止に走る。私でも分かることを頭のいいはずの人たちはどうして分からないのだろう。

馬鹿なマスコミと財界は靖国で言うことを聞けば、日中友好が来ると勘違いして、首相よ靖国へ行くなコールである。富田メモを持ち出して、てめえは昭和天皇を無視していたことなぞ棚に上げして、天皇も行かなかったところへ首相は行くな、だ。いつから天皇崇拝者にはや変りしたのか。

媚中野郎ばかりの外務省にさえ「止めたら面子を失うぞ」と警告を発した人が居る。極めて残念なことに2006年8月3日、肺癌のため57歳の若さで物故してしまったが、元上海総領事の杉本信行氏である。遺著「大地の咆哮」(PHP)で警告している。

「もし総理が中国側の非難に応じ、中国の在留邦人の安全あるいは日本企業の経済活動の確保を理由に靖国神社参拝を中止すれば、中国側、特に一部の対日強硬派は『日本という国は経済利益のためには国の面子も捨てる』と受け取るだろう」。

即ち中国共産党にとって靖国問題は目的のある戦略ではなく、日本という国を押さえつける手段の一つ、戦術に過ぎないのである。だから靖国が解決しても日中友好は絶対、かえって来ない。次の難題を探して内政干渉をしてくる。内政干渉者に話し合いなど不可能だ。

学科試験をパスして入社したであろうマスコミ人や財界人に、この簡単な理屈がなぜ分らないのか不思議でならない。

1949年に建国された中華人民共和国。奇しくも杉本さんと同じ年。私の見るところ、中国もいまや末期癌に侵されている。中華は中華で目標なのだろうが、肝腎の人民は解決不能の格差に落命しそうになっている。

媚中新聞の代表朝日新聞でさえ報じないわけに行かなかった国内暴動の多発。暴動は増えこそすれ減る事はない。国内でこんなに暴動の増える国に将来があるとは思えない。

<中国で暴動多発 昨年は8万7千件

中国で昨年、官民衝突などの暴動が8万7000件発生したことが分かった。前年よりも約1万3000件も増加し、全国各地で党幹部・官僚の腐敗や土地収用などへの庶民の憤りが強まっていることが浮き彫りになった。

華僑向け通信社・中国新聞社によると、国政の助言機関、全国政治協商会議の任玉嶺・常務委員が、シンポジウムの席上で明らかにした。任委員によると、暴動の99%が庶民の権利が侵害されたことが原因で発生。93年から03年まで毎年平均17%の割合で暴動が増え続けているという。

任委員は、暴動が増加する背景として貧富の格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)が年々深刻になっていることを指摘。

独占企業の制限や官僚の「灰色収入」防止とともに、「厳格な規制があるのに、腐敗した人間の権力が大きくて、庶民がものを言えない」状況を改革する必要があると訴えた。>(Ashi Com 2006年08月05日19時20分)

私のつたない情報によれば、資本主義を拡大するために共産党は工場など生産設備建設のための用地を確保しなければならないが、空いている土地なぞ何処にもない。

農民から強引に土地を取り上げて知らぬ半兵衛を決め込むから農民は暴動を起こすしかない。共産党は結構、殺している。事実を新華社が報じない以上、日本には知らされない。インターネット「大紀元日本」が連日、報ずるのみだ。http://www.epochtimes.jp/

2006年8月6日にも暴動の報道が次のように出ているが、これが日本の新聞やテレビに出る事はありえない。国営通信新華社が報じないものを日本のマスコミが報じてはいけないからである。中国共産党が己の恥を発表するわけがない。

<中国湖南省:武装警察、直訴する住民100人あまりを銃殺か

【大紀元日本8月6日】湖南省で2日、強制移転を余儀なくされた住民たちは、補償金問題をめぐり、現地公安当局と武力衝突し、大勢の住民が射殺されたという。

湖北省赤壁市の人権活動家・洪運周氏が提供した情報によると、2日湖南省湘陰県に移住を余儀なくされた住民は、本来支給されるべき補償金が現地地方政権の幹部に不正流用されたとして、上級の政府部門である湘陰県政府を訪れ集団直訴したが、政府側は住民たちの直訴を受理せず、公安警察を現場に動員し、住民たちを弾圧しようとした。

その際、公安と住民が激しく衝突し、数人の公安警察が死傷したもよう。そのため、湘陰県政府はさらに武装警察を現地に派遣、住民100人以上が射殺されたとの説が流れている。

現在、湘陰県は緊急警戒状態となり、情報が厳密に封鎖された。中央指導部の特別チームが現地入りしたもよう。内情を知るものは皆脅迫を受け、外部にこの弾圧の情報を漏らした人を厳しく懲罰すると警告された。

情報を海外に流した洪運周氏は、4日午後、公安当局からこの一件に関与しないよう警告する電話があったという。>(06/08/06 14:47)
(再掲)