2010年08月02日

◆両院で与野党逆転も

渡部亮次郎

ワシントンから1日の時事通信が「11月の中間選挙に向けてオバマ大統領の支持率は下降を続け、与党・民主党の退潮は必至の情勢だ。上下両院とも与野党逆転の可能性があるとの見方も出てきた」
と伝えてきた。

このことについては先に、投稿常連前田正晶さんの在米の友人の方が「口先人のオバマに騙されたと感じるアメリカ人は、この先100年は黒人大統領の出現を許さないだろう)と言っておられた。

民主党と共和党がいわば交互に政権を担当するアメリカ。ブッシュ共和党の次はどうせ民主党と誰もがおもっていたが、そこにまさかの黒人オバマが出てきたので驚きは大きかった。あっと言う間に人気をヒラリー・ローダム・クリントンから奪ってあっという間に初の黒人大統領と言う(歴史的)勝利を成し遂げた。

その勝利の源泉は「弁舌」だった。どうせ実現していないからいちいち列挙はしないが、オバマ時代になれば戦争の無い平和で好景気のアメリカが実現しないわけは無い、と思わせた。

しかし、公約は何一つ実現していない。オバマが唱えた夢は空夢だったのである。演説で国民を酔わせる事はできたが、夢が何一つ実現しないと分かれば支持者はいきなり民主から共和に鞍替えするのがアメリカである。

わが国の民主党は「政権奪取以来の10ヵ月間の政治に疑念を抱い
たから」(櫻井よしこ)参院選に敗れ、菅政権は衆参両院における捩れ現象を前に「漂流」しようとしている。

<民主党には党の綱領さえないのである。どのような価値観を大切に守っていくのか。次の世代のためにどのような社会や国を作っていくのか。さらなる次の世代のためにどのような未来を目指すのか。

つまり、大事な事柄になればなるほど、党内の意見はまとまらず、党綱領を作れずにいるのが民主党である。>

これが日本民主党。空念仏のオバマ民主党。共通しているのは「空」

<下降続く大統領支持率―米中間選挙まで3カ月
【ワシントン時事】11月2日の米中間選挙まで3カ月。オバマ大統領の支持率は下降を続け、与党・民主党の退潮は必至の情勢だ。上下両院とも与野党逆転の可能性があるとの見方も出てきた。

米議会の現有勢力は、上院(定数100)が民主党系59、共和党41。下院(同435)は民主255、共和178(欠員2)となっている。
 上院の改選37議席の内訳は民主19、共和18。共和党が過半数を握るには全現有議席を守った上で10議席奪回しなければならない計算で、与野党逆転はないと予想されていた。

ところが、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は最近、カリフォルニア、ウィスコンシンなど現在は民主党が議席を持つ11州で共和党が追い上げ、接戦に持ち込んだと指摘。

「民主党指導部は、共和党に順風が吹き続ければ過半数を失うと初めて認識した」と解説した。
 
同紙は共和党の過半数奪還の可能性は十分あるとの専門家の予測も紹介。あるインターネット選挙専門サイトは世論調査に基づき、同党が48議席まで迫ったと分析する。

全議席が改選される下院は、与党過半数割れの可能性がさらに高いとみられている。ギブズ大統領報道官は7月中旬、テレビ番組で「共和党が多数を占めるかも」とうっかり口を滑らせた。

2008年の大統領選と同時に行われた前回、風に乗って当選した民主党の「オバマ・チルドレン」は、地盤が固まっていないケースが多いとされる。先月のキニピアック大学の調査では、下院選の投票先は共和党との回答が43%だったのに対し、民主党は38%にとどまった。> 8月1日14時34分配信 時事通信

2010年08月01日

◆野次り屋は戦略を組めぬ

渡部亮次郎

武道の合気道の極意と菅首相の政治行動がよく似ている。予め、戦略を立てているのではなく、相手の出方、相手の攻めてくる力己のものとして、相手を倒すと言うやり方である。

柔道では逆手を取ったりするので相手を怪我させることがしばしばあるが、合気道には無い。合気道8段だった故園田直に良く教えられた。

<菅氏は1980年の第36回衆院選で初当選。土地問題や税制などを中心に、政府を鋭く追及する市民派の論客として知られるようになっていった。

1981年には丸山ワクチンの不可思議な不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。

1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介・議員運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した>。(「ウィキペディア」)

相手を厳しく追及してゆくことで人気を呼び、それを次の攻撃の糧にしてゆくのが菅流。何をおいても自らの主張を掲げ、その実現のために邪魔するものを排除して理想を実現するのではないのだ。

まず、攻撃に耐えてくれる強烈な敵(嘗ての自民党)がいないと仕事にならない。これを繰り返しながら人気を得てゆく戦略しか立てられないから初当選まで3度も落選する必要があった。

なにせ「追及」が仕事。市井の「当たり屋」か「いちゃもん屋」か「野次り屋」みたいなものだから必要なのはタイミング、当意即妙の野次である。

今度の参院選で民主党敗北の原因とされる消費税率引き上論のやりかたがこれを良く物語っている。

自ら10%と言ったわけではない。財務省の役人に「第二のギリシャにならぬ為には消費税の引き上げしかない」とおそわったものだから、谷垣発言にそれツとばかり乗った心算で発言したが、戦略が確りしていなかったので落馬してしまった。

識者は「菅政権には戦略が無く、その場限りのパフォーマンスばかりだ」と批判して恰好をつけるが、「野次り屋」はすべてパフォーマンスだから、すべてはその場限りなのだ。パフォーマンス以外に出来ることは無いのだ。

どこかでも主張したが、昔の「全共闘」(左翼学生)は弁護士、医者、松下政経塾に潜り込み、いま民主党と名乗る「体制」派になったのが現実。彼らは戦略を持っているが、官房長官が時々みせるように衣の下に鎧を隠している。

戦略的に考えれば、小沢を徹底的な悪者に仕立て、小沢に菅が徹底的に虐められる戦略を練れば、小澤は世論に嫌われ、逆に菅は同情を惹き、堂々と代表選挙で再選されることになる。

しかし、度胸が据わってないから、このような作戦は取れないだろう。作戦に戦略が無い以上、やることなすこと、その場限りなものになるから民主党は、結成以来、最大の危機を招くだろう。

国民の90%に嫌われている小沢。それを味方につけようとしていること自体誤りだ。小澤は健康上、総理は務まらないから、代表選挙には絶対立たない。さりとて変わるべき役者は育てていないから、
勝てない候補を出し、菅を苦しめるだけ苦しめて再選を許す。

その結果、組閣は徹底的に小沢色に染まったものになり、世論の反発を食らうだろう。これでは、日本がやりきれない。

小沢の起死回生の策は代表選挙などワシャ知らん決め込み「大連合」実現に奮励努力することなのだが。(文中敬称略)2010・7・31

■本稿は8月1日の全国版メルマガ「頂門の一針」1996号に
掲載されました。他の卓見もご拝読を!
 ◆<目次>
・野次り屋は戦略を組めぬ:渡部亮次郎
・自信喪失の菅首相、意気軒昂な小沢前幹事長:花岡信昭
・鳩山が9月訪露予定だった:山堂コラム 329
・仙谷官房長官の個人的思い入れ:阿比留瑠比
・楽しい数字の語呂合わせ:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
 

2010年07月29日

◆かやき(貝焼き)で育った

渡部亮次郎

「かやき」とは、主に秋田県、青森県など日本海側の東北地方で食べられる鍋料理の一種。「かやき」は、貝焼きが訛った言葉で、現在では貝でなく小型の鍋を用いた1人用の鍋料理を「貝焼き=かやき」という。

元々は鍋は農漁民にとっては高価だったこともあり、大きな貝殻を鍋に代用した。ホタテが多いが、アワビの貝殻が用いられる事もある。

中味は季節の魚(ハタハタ、カワヤツメなど)、野菜、豆腐、茸などを味付けしただし汁で煮込むもので、東京で言う寄せ鍋の調理法と類似している。

昔はこれを七輪に炭をおこして煮るから手間がかかって皆、厭がったものだが、いまは卓上ガス・こん炉だから簡単。

ハタハタの場合、調味にしょっつる(ハタハタから作られた魚醤)を用いる事から、しょっつるかやき(貝焼き)と呼称する事もある。

また、カワヤツメのかやきは、新鮮なカワヤツメをぶつ切りにしてネギやゴボウと共に味噌味のだし汁で煮た鍋である。日本で賞味されることの少ないカワヤツメの鮮魚を用いた秋田の冬の味覚となっている。

「かやき」は、本来は貝殻を用い、貝からの出汁も利用しようとするものであるが、秋田県内陸部などでは貝を利用しない鍋物料理も「かやき」と呼ばれることが多い。

私の場合は目の前が旧八郎潟。そこへ流れ込む川や用水路にも鮒や鯰がうようよいたから、網や釣り針で釣り、ぶつ切りににしたり、鮒は一匹ごと、葱、豆腐と一緒に煮た。美味しかった。

肝腎なのは煮るのは醤油ではいけないこと。淡水魚はみな泥(ごみ)臭い。それを消すのは味噌である。だから私の食べた「かやき」はすべて「味噌かやき」だった。

実を言うと、小学校(戦時中は国民学校)2年までは味噌汁が医者から止められていた。腎臓が弱く、塩気を摂れば死ぬといわれていた。だが、ある日、盗み飲みで味噌汁を飲んでしまった。ところが死ぬどころか、却って元気になり、運動会では常に1等ではないか。

母親は喜んだ。私の前に生まれた次男坊「琢次郎」が夭折しているので、腎臓の弱く生まれてきた補欠次男坊についても覚悟していたらしい。医者が枕元で「学校へ上がれるかどうか」と父母に言ったのを私は記憶していたから。

それが、味噌汁を飲み始めてから急に元気になり、敗戦後は野球を始めたら、学校では投手で4番バッター、主将になった。爾来、私のおかずは鮒の「味噌かやき」が定番になってしまった。

勿論、貧しい、戦中、戦後の農村。肉屋1軒あるわけじゃなし、スーパーも無い時代。同居していた祖父の捕ってくる鮒と鯰しか「具」は無かった。海の魚は高価。現金収入の乏しい農家の口にははいらなかった。

だから上京後も私が刺身を食えなかったのは厳密に言えば貧しすぎる少年時代を過ごしたためであり、よく考えれば悲しい話なのである。

経緯は省略するが、60歳にしてトロの味に目覚めたものの、いまも豚肉と豆腐、葱の「豚かやき」を醤油味で仕立て、家人も食べている。忙しい時は簡単で助かるそうだ。

別に「茄子かやき」もやる。鰹のナマリ節を買い置きしておき、小鍋に茄子と豆腐を加えて、味噌で煮るのだ。最近は茄子が年をつうじて入手できるから、最も安くて簡便な「かやき」である。

なお、貝殻を用いる鍋料理の方法は『料理物語』などで古くから知られており、島根県には鴨肉やセリを用いたすき焼き風の貝焼きがある。こちらは貝焼き(かいやき)と呼ぶそうだ。2010・2・19
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年07月28日

◆咲かない百日紅(さるすべり)

渡部 亮次郎

百日紅は、さるすべりと読む。樹皮がはげおちたあと、滑らかな幹をみせるので、木登りが上手なはずの猿も滑り落ちると考えたのだろうか。中国南部原産で、日本には、江戸時代以前に渡来している。

その百日紅の木が都立猿江恩賜公園(北部)には4本植わっているが、年によって咲いたり咲かなかったりするのは何故だろう。

1972年に東京・国立に家を新築したことがあるが、南向きの庭先の崖に1本だけあった百日紅も咲いたり咲かなかったりした。とはいえ、手元の資料ではその原因を突き止める事はできない。

牧野富太郎(植物分類学者。1862-1957.文化勲章追贈)の「原色牧野植物大図鑑」の説明も上記以上ではない。『広辞苑』では猿もすべる云々が確認できただけ。

グーグルで検索したらどなたかのHPに行き着いた。「百日紅」は、なぜ「さるすべり」と読めるのか?

「百日紅」と書いて「さるすべり」と読む。漢字と読み方がまるで対応していない。「栗花落」という苗字の人に3人会ったことがある。うち2人は兄弟なのでともに「つゆり」と読むが、もう1人は「つゆ」といった。なんと漢字よりかなの方が字数が少ない。

この姓は、神戸市内にある地名に由来し、栗の花が散るのが梅雨時であるため「つゆいり」の表記に用いられ、のちに「つゆり」となり、一部は「つゆ」となったものらしい。このような、2文字以上になって読み方が確定する訓読みを「熟字訓」という。

日本ではその幹がつるつるしているので、木登りの上手な猿でさえ登れないということで「さるすべり」と呼んだ。猿が聞いたらなめるなよと思うであろう。

「百日紅」は中国語であり、「さるすべり」は日本語であって、それぞれ目のつけどころの違う名づけ方をしている。しかし、考えてみれば日本における漢字の使われ方はすべてこれと同じであり、「花」は中国語であり、「はな」は日本語である。

「百日紅」にせよ「花」にせよ、文字表記は中国語であり、読み方は日本語なのだから、文字が一文字か三文字かということに大した違いはな
い。

漢字はよく「表意文字」だといわれる。「表意文字」とは「意味」を示す文字ということになる。しかし、漢字を「表意文字」と呼ぶのは、少なくとも中国語を表記する場合は正しくない。「表意文字」であることは、決して「表音文字」であることを排除するわけではない。

たとえば、「花」という文字は、被子植物の生殖器官という意味とともに、今日の北京語ではhuaという音声をも示しており、「意味」だけを示すのではなく「意味」と「音」が結びついた「語」を示すものとして、「表語文字」と呼ぶのが正しい。

ところが、わが日本人の先祖は、本来は「表語文字」である漢字をいったんは「表意文字」とし、改めてそれに日本語の音を結びつけて再び「表語文字」とするという離れ業を演じてのけた。いわゆる訓読みである。

その際、どの音を結びつけるかは、人によりさまざまであったので、「生」に対して「なま、き、いきる、おう、はえる、うむ」などいくつもの読み方ができた。というより、「生」という同じ字形を持つさまざまな「表語文字」ができたのである。

読み方はさまざまであるが、どんな読み方をしてもよいというわけではなく、世間に通用していない読み方をする場合には、ふりがなをつけなければいけない。

だが、訓読みという方法は、日本人の創案ではなく、すでに朝鮮半島に先例があり、日本の訓読みはその応用であるといった方が正確であるようである。(よい勉強になりました、有難うございました)
homepage1.nifty.com/forty-sixer/jukujikun.htm

ところで牧野図鑑を見ていて、同級生安宅峯夫君が2005年秋、パリでマロニエの実を沢山拾いながら、ホテルのボーイが食べられないと言ったので捨ててきてしまった、という話を思い出していた。

マロニエはフランス語、英語ではhorse chestnut(馬栗)。「実は径5cm位、晩秋に熟し、種子は食用とする。材は楽器や工芸用」とある。どこかで「栃餅」と聞いたことがある。


2010年07月25日

◆歴史の現場に立ちながら

渡部亮次郎

西村眞悟さん(前衆院議員)の指摘(「頂門の一針」1988 2010・7・24」号を読んで「オレは歴史の現場に立ちながら北朝鮮に対する認識が全く進んでなかった」と深く反省した。

青瓦台襲撃事件の残党に面談したし、大阪では文世光の取材にもかかわったのに「武力による朝鮮半島統一は、北朝鮮の悲願であり「国是」である)との認識が無かったばかりに、全く深く考えずにすごしてきた。

<まず、骨肉が争う凄惨な朝鮮戦争は北朝鮮の金日成による武力侵攻から始まった。武力による朝鮮半島統一は、北朝鮮の悲願であり「国是」であり、今も変わっていない。

(もっとも、菅内閣と民主党のなかには、未だに朝鮮戦争は南の韓国がアメリカとともに北朝鮮に侵攻して始めた、と北朝鮮と同じことを言っている左翼がいることに注意)
 
1968年1月、北朝鮮の武装ゲリラの南侵が失敗する。しかし、武装ゲリラ達は、韓国大統領の官邸である青瓦台近くまで迫った。

このゲリラによる直接的な武力侵攻の失敗を受けて、北朝鮮は、対日工作活動を強化して間接的侵攻を模索する。1970年のよど号ハイジャック事件以来、北朝鮮は対日工作を強化し始めた。

その結果が、1974年8月15日の文世光事件、即ち、朴大統領狙撃事件である。また、この時期、我が国内でも、同年同月30日に三菱重工本社ビル爆破事件が起こり、日韓両国とも騒然たる状況になった。
 
そこで、文世光事件であるが、これこそ日本経由の南侵モデルとなったもので、日本人拉致と大韓航空機爆破はこの文世光事件から組み立てられた犯行といえる。

ゲリラの直接侵攻失敗以来、対日工作を強化した北朝鮮は、在日韓国人文世光(22歳)を北朝鮮の工作員に仕立てることに成功する。

朝鮮総連生野支部政治部長金浩龍は、文世光に資金を与え射撃訓練を施し日本人の真正なパスポートを用意する。文世光は大阪湾に入った万景峰号の船内で、北朝鮮工作員から、8月15日の韓国の復光節の式場で韓国朴大統領を狙撃せよとの指令をうける。

文世光は、大阪府警の高津派出所から奪われたピストルを持って日本人として韓国に入国し、式典会場で朴大統領を狙撃する。しかし、弾は大統領から外れて大統領夫人に命中する。

文世光は、その場で逮捕され全てを自供して犯行は北朝鮮のテロという事実が判明した。しかし、この文世光によるテロの結果、何が起こったか。

韓国内の世論は、北朝鮮を非難するのではなく、日本を非難し反日暴動が巻き起こった。日韓の国交断絶寸前という状態になった。文世光が在日であること、日本人になりすましていたこと、日本の警察のピストルが犯行に使われたこと等の要因からであろうか、不可解であるが、韓国世論が反日に激高したことは確かである。

そこで、北朝鮮は、この韓国内の現象を眺めて、日本人をテロ犯人に使えば、日韓関係を破綻させ、北朝鮮にとって南侵の絶好の条件が整うと判断した。

ここから生まれてきたのが、日本人拉致と蜂谷真一と蜂谷真由美(金賢姫)の「日本人父娘」による1987年11月29日の大韓航空機爆破テロである。

振り返れば、我が国政府が文世光事件の背景を徹底的に調査し捜索すれば、その後の日本人拉致や大韓航空機爆破は防げたかもしれない。

1974年に時点で、文世光を工作員にした朝鮮総連生野支部政治部長を逮捕し、文世光が射撃訓練をした東京の病院を家宅捜査し、万景峰号を調査しさらに朝鮮総連を徹底的に調べ上げているべきであった。

しかし、時の田中内閣はそのどれもしなかった。その理由は、推測であるが、日中国交樹立を果たしたその次は、日朝国交樹立で締めたいと功名心を燃やしたからだろう。

このように、時の内閣が人気浮揚または功名心から、国家に対する脅威を甘く見れば、相手はどこまでも付け入ってくるのが国際政治である。

この教訓を忘れて、この度も政権の人気浮揚のために、金賢姫をVP扱い有名人扱いしているが、我が国への脅威を忘れた愚かな政治の所業だと言わざるをえない。

我が国政府は、彼女から、日本人になりすました動機そして、大韓航空機を爆破した指令を出した人物の名前、日本人を拉致した犯人の名前と官職などは、明確に聞き取りしておく必要がある。>西村論文から引用。

私が朴政権の招待で韓国を初訪問したのは1973年6月である。そのときは新聞、通信4社の政治記者と一緒だったが、朴「独裁政権」と言う評価が一般的で、マスコミ各社幹部に北朝鮮を民主化勢力と評価する向きさえあった。

そうした中、韓国政府が我々に面会させた男は、青瓦台襲撃未遂事件(せいがだいしゅうげきみすいじけん)で唯一逮捕された事件当時27歳の金新朝(キム・シンジョ)少尉。

それより5年前の1968年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ゲリラにより発生した、大韓民国(韓国)大統領府(大統領官邸)「青瓦台」への襲撃未遂事件である。わたしは迂闊にもこの事件を知らなかった。

1966年1月に韓国漁船が北朝鮮の魚雷艇に襲撃されて以来、11月と1967年4月には、北緯38度線で大規模な戦闘が発生し、南北の緊張は一触即発の状態であった。ソビエト連邦の情報部の分析では、これらの戦闘を扇動しているのは北朝鮮であった。

北朝鮮は1966年に対南工作を専門とした第283部隊を参謀部偵察局内に設立、内部粛清によって1967年8月12日に第283部隊を朝鮮人民軍第124部隊(現在の第8特殊軍団)に改変して、南進の準備を進めた。

1968年1月、青瓦台の襲撃による朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名は、韓国軍第26師団の模擬制服で変装して休戦ラインを突破し、韓国領に侵入した。

この際、韓国市民に偶然遭遇しているが、身分証などで住所氏名等を教えさせたうえで「通報すれば一族もろとも消す」等と脅迫して口止めした上で解放した。この韓国市民は、解放された後に警察に通報した。

1月21日、ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替え、青瓦台800メートル手前の北漢山まで侵入した。しかし、先の市民の通報によるゲリラ情報等により警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で自動小銃を乱射して逃亡。突入は阻止された。

韓国軍と警察部隊の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名が逮捕、29名が射殺され、1名が自爆した。また、射殺は27人で、1名から3名が逃亡したともいわれる。2名が重傷を負いながら軍事境界線を越えて帰国したという話もある。

2週間の銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の計68名が死亡した。

唯一逮捕された金新朝の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。また、「軍事独裁を敷く朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者革命を起こす」と分析していたという。

また金少尉はテレビカメラに向かって「私は朴正煕の首を取りにやってきた」と言い放ち、韓国国民に衝撃を与えた(現在は、ソウル市内の教会で牧師として働いている)。

金新朝は我々に「本国では南朝鮮は食い物もろくに無い暗黒の国)と教えれてきたから、夜通し照明の点いているソウル市内を見て隊長は「しまった、間違えて東京に来てしまった)と叫んだ、と教えたほか、襲撃の為の訓練の過酷さも語った。

その夜、4閣僚による招宴に招待されたが、戒厳令による夜間外出禁止令発令中とあって、閣僚と言えども遅くまで付き合っていられないと10時ごろ、そそくさと帰宅した。

それでもまだ我々は北との関係が単なる「休戦」状態と言う厳しい上体に置かれていると言う認識が無かった。翌日、板門店を視察。双眼鏡で北側を見ると、向こうもこちらを双眼鏡で監視していたので正直、どぎまぎした。

ゲリラの直接侵攻失敗以来、対日工作を強化した北朝鮮は、在日韓国人文世光(22歳)を北朝鮮の工作員に仕立てることに成功する。

その頃、私はNHK政治部で総理官邸クラブのサブキャップ。管理職目前だったが表向き就業規則違反の韓国旅行を理由に大阪報道部に左遷された。政治部長は「実は田中首相からの転勤要請があった」と白状した。

大阪で政治記者がする仕事は無い。TVニュースのコメントを書きながら床掃除ばかりしていた。そのとき、大阪の文世光(在日韓国人)による朴大統領襲撃未遂事件が起きた。<文世光事件は、1974年8月15日に元大韓民国大統領・朴正煕の夫人、陸英修など2名が在日韓国人の文世光(ムン・セグァン 日本名:南条世光(なんじょう せいこう)、1951年12月26日 - 1974年12月20日)に射殺された事件である。

この日は日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席している時の出来事であった。

赤化統一を目指した文は1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立った。同年5月、大阪湾に停泊中の北朝鮮の万景峰号の船中で、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員から朴大統領射殺の指令を受けた。

そして、1973年11月に香港を旅行した際に暗殺実行の為の拳銃の入手に失敗した事から、1974年7月18日に大阪市南区(現在の中央区)の高津派出所で拳銃2丁を盗んだ。

高校時代の知人である日本人女性を利用して、女性の夫名義による韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成するなど準備を着々と進めた。

同年8月6日に拳銃をトランジスタラジオの中身を抜いたケースにしのばせ韓国に入国した。文に狙撃を指令し資金を供与、偽装パスポートの作成指示、射撃訓練を行ったのは、大阪の在日朝鮮総連生野支部政治部長の金浩龍だった。

実行までは、朝鮮ホテルに宿泊していたが、事件当日の朝、文はソウルパレスホテルのフォード車を借り上げ、正装を着て中折帽までかぶった重厚な身なりで、某商社のソウル支店長と待ち合わせている日本政府高官になりすました。

高級車に乗っていたこともあってか、警備員からも全く疑われる事なく、記念式典会場である南山の国立劇場に潜入した。

国立劇場の中へは本来、招待状を持つ人しか入場出来なかった。しかし、劇場入口を守っていた警察官は、日本語を使う文を、招請された外国人VIPと判断し、招待状がないにもかかわらず入れてしまった。

当初、文は大統領夫妻が劇場に入場する際に狙撃する事を試みたが、大統領が歓迎の子供達に囲まれていた事から、実行を断念した。

予定通り午前10時に式典が始まり、20分ほど経過した後、大統領が演壇で祝辞を読み上げ始めたところで、文は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが、誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負ってしまった。

因みに、その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかったという。それでも文は、朴大統領が祝辞を読みあげている途中で客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲した。

しかし大統領は軍人出身ということもあり、銃声を瞬時に聞き分け、反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた。3発目の引き金を引いた際は不発だったが、直後、標的を失った文が立て続けて撃った4発目の弾が、椅子に座っていた大統領夫人の陸の脊髄に命中。

第1弾が発射されてから、わずか7秒の出来事だった。最後の1発は、演壇の後方にある太極旗に当った。

陸はソウル大学付属病院に搬送されたが、当時のソウル大病院における最高技術をもっての5時間40分におよぶ手術もむなしく、同日午後7時に死去した(49歳)。ちなみに、頭部付近に弾丸が命中し椅子から崩れ落ちるシーンは、アメリカCBSソウル支局のカメラクルーが撮影したものだった。

また式典に合唱団の一員として参加していた女子高生・張峰華(当時17歳)も応戦したSP隊員の撃った流れ弾に当たり、死亡した。

大統領は、夫人が重傷を負い病院に搬送されたにもかかわらず、「私は大丈夫だ」と言って、麦茶を一杯を飲み終えた後、何事もなかったかのように最後まで毅然と演説を続け、その場に居合わせた観衆からは大きな拍手が送られた。しかし、式典の終了と同時に病院に駆けつけ、夫人の死亡を耳にした際には、その場で大声を上げて泣き崩れたという。

10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、10月19日の1審(死刑判決)、11月20日の2審(控訴棄却)、12月17日の大法院における終審の全てにおいて死刑が宣告された。

宣告から3日後の12月20日に、ソウル拘置所の処刑場において、拘置所長が文の死刑を確認する判決文を朗読した後、検事や牧師、刑務官など約10人が立ち会いのもと、

「私が愚かでした。韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。朴大統領に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。

朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、死刑に処せられて然るべきです」と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、家族に対しては「母には、息子の不孝と期待に背いた事を申し訳なく思うと伝えて下さい」という遺言を残し、午前7時30分に文の死刑が執行された。

事件翌日の8月16日に、大阪府警は前述の日本人女性を旅券法違反の容疑等で逮捕すると同時に、文の自宅を捜索した。その際、大統領暗殺宣言と韓国革命を主張した「戦闘宣言」と題した論文や、盗難された拳銃2丁のうち1丁と弾丸などの証拠品を発見、押収した。

8月17日に捜査当局は、事件は朝鮮総連の指令、援助によって実行されたもので、逮捕された日本人女性とその夫、並びに金浩龍が共犯者であると発表し、日本政府に対して捜査協力を要請した。

これに対して日本政府は、事件と朝鮮総連の関係は明白ではないとして慎重な姿勢をとっていたものの、国内法の許す範囲で捜査に協力することを決定した。

この一連の事件の為、日韓関係は国交正常化後、最悪の状態に陥った。韓国側の捜査によれば、朝鮮総連の関与は明白であったにも拘わらず、日本側がそれを明確に認めなかった事、文が所持していた拳銃が大阪府内の派出所より盗まれた物であった事による。

謝罪のない日本側に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「中共だけが一番なのか。(日本と断交しても)安保、経済に問題はない」、「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。

しかし、大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、日韓双方で、日本政府が遺憾の意を表明する。
かかる事件の再発防止。
捜査についての日本政府の協力。
日本から特使派遣の合意をすること。
という内容で合意し、最悪の事態はまぬがれた。

事件から4日後の8月19日に執り行われた葬儀(国葬)において、式を終えて涙を拭いながら青瓦台へ戻る軍服姿の朴大統領の映像が日本においても配信され、日本からは田中角栄首相(当時)が出席した。その際、田中の「えらい目に遭われましたね」という言葉に、大統領は非常に憤慨したと言われている。

田中にすれば韓国人同士の事件、朴は韓国人ではなく日本から来た実質日本人による事件と言う実感だから憤慨したわけだ。

加えて、8月29日に木村俊夫外相(当時)が、国会答弁の中で「客観的に見て、韓国には北朝鮮による脅威はない」と述べたことで、かねてから日本国内で引き起こされた金大中事件に対する日本からの非難を受けたことにより鬱積していた反日感情が一気に爆発。

連日日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、9月6日には群集が日本大使館に乱入し日章旗を焼き捨てる事態にまで発展した。その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前にまで至った。

事態を見かねた日本政府は、9月19日に自民党親韓派の重鎮として、韓国国内でも評価の高かった椎名悦三郎副総裁(当時)を政府特使として訪韓させ、日韓の友好関係を改めて確認することによって、両国間での問題決着がはかられた。

朴大統領は椎名特使との面談の席上で、「日本政府が私達を友邦と考えるなら、喪中にある大統領一家や国民が悲しみと怒りに満ちているこの時に…」とし、「日本が引き続き、こんな風な姿勢を取れば、友邦とは認められないのではないか」、「(日本の姿勢は)政治と外交、法律に関係なく、東洋の礼儀上、ありえない事」、「日本外務省には秀才やエリート官僚が集まっていると聞いたが、どうやってこのような解釈ができるのか」など、激しい言葉で日本を糾弾した。

なお、日本を「赤化工作基地」とみなす認識は、反共的な韓国の保守派・右派にとっては長らく反日感情の源泉となった。

また、この事件は金正日に「在日韓国人がテロを起こしたらどのようになるか」という考えをもたらし、それが大韓航空機爆破事件で、2人の北朝鮮工作員を日本人化させ、結果として日韓関係を打ち砕こうとする策略のヒントをもたらしたと言われる。

2002年朴正煕・陸英修の長女、朴槿恵(当時ハンナラ党副総裁)が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪した。ただし「部下がやった事で自分は知らなかった」と述べた>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<1974年に時点で、文世光を工作員にした朝鮮総連生野支部政治部長を逮捕し、文世光が射撃訓練をした東京の病院を家宅捜査し、万景峰号を調査しさらに朝鮮総連を徹底的に調べ上げているべきであった。

しかし、時の田中内閣はそのどれもしなかった。その理由は、推測であるが、日中国交樹立を果たしたその次は、日朝国交樹立で締めたいと功名心を燃やしたからだろう>

西村さんは、このように指摘するが、田中角栄に「国際感覚」を求めるのは酷である。歴史観もなかった。

かく言う私も同様である。青瓦台襲撃未遂事件、文世光事件がつながっておりことを系統的に追跡取材する必要性を感じなかった。マスコミも同様だろう。これらの事件が北による日本人大量拉致事件とつながっていると考える記者は知らなかった。

例えば大阪で南北が覇権を賭けて日々争っていると言う発想をする記者はいなかった。文世光事件をして、北による日本人拉致事件を予想出来る態勢が大阪府警にあったかどうか。その取材を指揮できる記者かデスクがいたか。いなかった。残念ながら私には能力を超えていた。

拉致事件を穿り出し、報道したのは産経新聞だけだった。警察当局は勿論、政界でも誰一人信じる人はいなかった。今回の拉致事件担当相による売名パフォーマンスをマスコミが非難しないのは自らの足許が暗いからである。2010・7・24






2010年07月24日

◆ニンニク(大蒜)

渡部 亮次郎

韓国の人たちはニンニクをよく食べる。観光地慶州で私を担当した観光案内人は「だから韓国人は虫歯が少ないです」と自慢した。ホントかどうかは知らない。

そんなことを言っても郷里・秋田にいた子供時代は食べたことがなかった。明治生まれの母は利用する料理も知らなかったようだし、風邪に薬用ありと聞いても一家で誰も食べなかった。

例によって東京へ出てきて初めて出合ったようなもの。韓国では強精剤だからと、7個つながりを輪切りにした醤油付けを食べたら、夜中に胃痛を起こし、強精どころの話ではなかった。

調べてみるとニンニクには確かに滋養強壮の効果があり、栄養ドリンクや健康食品、一部の薬品にも使われる。生のニンニクの強烈な香りと辛味は、刺激が強過ぎて胃壁などを痛める場合があるが、この症状も主成分アリインの影響といわれる。

栄養主成分のアリイン、クレアチンなどは元来は無臭である。ところが刻んだ際に細胞膜が破れ中からアリナーゼなどの分解酵素が出て栄養成分を分解しアリシン・アリルスルフェン酸といった成分に変化する。これらが独特な臭いのモトである。

古代ギリシア人の間でも,ニンニクを口にしたものは神殿に入ることを許されなかった。一方,古代ローマ人も強臭を嫌ったが,強精な成分があるとして,兵士や奴隷には食べさせたといわれている。

原産地は中央アジアと推定されるが、すでに紀元前3200年頃には古代エジプトなどで栽培・利用されていた。日本には中国を経て8世紀頃には伝わっていたと見られる。

現在の栽培は近東方面から地中海地方,インド,アフリカ,中国,韓国に多く,アメリカにも広がっている。

日本では《本草和名》以後に記載がみられるところから,導入,栽培されたのは10世紀以前からのことといわれる。

中国や韓国から渡ってきたとみられ,品種には早晩性があり,〈遠州極早生〉〈壱州早生〉〈6片種〉〈佐賀大ニンニク〉〈香港〉などがある。繁殖は種球(鱗片か珠芽)で行う。9月に種球を植え付けて翌年5月に収穫する。

ニンニクは、僧侶が荒行に耐えうる体力を養うために食したとされ、その語源はあらゆる困難に耐え忍ぶという意味の仏教用語の「忍辱」とされる。「葷酒山門に入るを許さず」のクンシュの中には入るのじゃないのか。

日本の古代医術ではニンニクは風湿や水病を除き,山間の邪気であるところの瘴気(しようき)を去り,少しずつ長期にわたって食べれば血液を浄化し,白髪を黒くするほか,生で食べれば虫蛇を殺す効能があるが,一度にたくさん食べると目を損なうとされていた。

ニンニクには強烈な異臭にまつわる俗信が多い。ヘビ,サソリ,疫病を駆逐する強力な薬草として古くから各地で用いられた。ハローウィーン(万聖節の宵祭)にはこれを戸口につるして厄を払い,ペスト流行時には死体を清めるのに用いられた。

吸血鬼よけの効能も,B. ストーカーの《ドラキュラ》などの作品でおなじみである。さらに大プリニウスは《博物誌》において,天然磁石をニンニクで擦れば磁力がうせると述べ,ディオスコリデスは《薬物誌》で,ヘビや狂犬による咬傷(こうしよう)や歯痛の特効薬としている。花言葉は〈勇気と力〉。

日本では江戸時代、その臭気により公家・武士階級では食べる事を禁止されていた。ニンニクが広く食べられる様になったのは明治以降である。

しかし、徳川家康は、茶屋四郎次郎に招かれ鯛の天ぷらにニンニクのすりおろしをつけたものが、たいへん美味かったので食べ過ぎて食中毒を起こし、死につながったとも言われる。

ニンニクは油脂によくなじみ、肉類のうまみを引き立てるので,日本でもスープ,いため物,煮込み物その他の肉料理などに多用され,洋風料理,中国風料理などの普及にともなって身近な食品になった。第2次大戦後のことである。

よく行く東京・向島の洋食屋ではメニューに「ニンニク揚げ」がある。必ずと言っていいくらいに頼む。加熱すると匂いが全くしなくなるから安心。しかし家で鰹の刺身に副えるニンニクは生でなくては効き目がない。

食べた後の匂いを防ぐためには、食後に緑茶を飲むと良いとされる。これは、緑茶の成分であるカテキンの殺菌、消臭効果による。また、牛乳やコーヒーを飲むのもよい。

水を飲むだけでも一定の効果があると言われている。なお、近年エジプト産のニンニクをもとにして、品種改良の結果、無臭ニンニクも流通している。

日本の主な生産地。青森県で70%を占める。田子町、十和田市などが多い。青森県内には特に高級品として知られるブランドがある。次いで香川県など。参考資料:平凡社「世界大百科事典」「ウィキペディア」
2007・06・25


2010年07月22日

◆日本三大盆踊り未見

渡部 亮次郎

西馬音内(にしもない)盆踊り

毎年8月16日頃(お盆)に秋田県 雄勝郡 羽後町 西馬音内にて披露される盆踊り。日本三大盆踊りの1つに数えられ、国指定の重要無形民俗文化財となっている。

当然の事だが、古い歴史を持つ踊りであるが起源には諸説ある。踊りには幾つかの種類や、衣装の違いがあるようなのだが、共通しているのは「顔面が見えない衣装」を着る点である。

なぜか、顔を意図的に隠しているので、何か死者を連想させる意図でもあるのだろうか?盆踊りだからかもしれない。私はまだ見ていない。

阿波踊り

8月12日から15日の間に四国の徳島県徳島市にて行われる行事。日本三大盆踊り・四国三大祭の1つ。

約400年の歴史があり、徳島県(旧阿波国)内各地の市町村で開催される、いわば盆踊り。「偉い奴ちゃ、偉い奴ちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らな損々・・・」は有名。未見。

群上(ぐじょう)踊り

毎年、7月から9月にかけて岐阜県郡上市八幡町にある群上八幡宮で開催される伝統的な盆踊りである。1996年に国の重要無形民俗文化財に指定されており、日本三大盆踊りの1つ。

特に8月13日〜16日は、明け方まで夜通し踊り続ける「盂蘭盆会(徹夜踊り)」がある。 期間中に来訪する観光客は30万人に達する。

郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り周回しながら踊る。踊りには曲ごとに定型がある。装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的だが強制ではない。一般からの飛び入り参加に規制はない。

ここも入ったことが無い。2010・7・17

2010年07月21日

◆八郎潟の蜆(しじみ)汁

渡部 亮次郎

干拓される前の八郎潟(はちろうがた)は蜆の名産地でもあった。一部、日本海と繋がる汽水湖だったから、蜆が大量に捕れたのである。殆どが子供の背の立つ岸辺に生息していたから、潜って素手で砂の中から掻き出すのである。

水に潜るころを覚ええると、泳ぎは自然に覚える。誰にも教わらず、蜆捕りで自然に覚えた。夏休みになると、毎日のように八郎潟に泳ぎに行って、必ず蜆を2升ぐらい捕ってきって母親に喜ばれた。そのかわり朝の味噌汁は連日、蜆汁だった。

その八郎潟を干拓して、田圃(水田)にすることに一生を捧げたのがわが父慶太郎である。当時干拓担当の農林大臣とも顔なじみになるくらい県(秋田)と農林省に陳情を続けたようだ。

昭和36(1961)年夏、久しぶりに帰郷すると、干拓の先進国オランダから指導者が来て、盛んに干拓の為の堤防が築かれていて、これっきり八郎潟の蜆は姿を消した。

今、有名な産地は青森県の十三湖・小川原湖、宮城県の北上川、 茨城県の涸沼川・利根川、島根県の宍道湖(七珍の一つとして有名)などがあり、特に宍道湖のものは種苗として全国に供給もされている。

ほかに琵琶湖特産の純淡水産シジミ、セタシジミが存在する。風味ではこのセタシジミがもっとも美味とされ、次いで汽水産のヤマトシジミ (貝) 、マシジミがおいしいとされる。家人はデパートで買ってきて、週に1回ぐらいは蜆汁を食べるが、産地を確かめたことは無い。

シジミ(蜆)とは、淡水域や汽水域に生息する小型の二枚貝である。通常目にする二枚貝のうちでは小型なので「縮み」が転じて名づけられたとする説がある。

日本本土には2-3cm程度のヤマトシジミ Corbicula japonica (全国の汽水)、マシジミ Corbicula leana (全国の淡水)、セタシジミ Corbicula sandai (琵琶湖水系特産がいる。

琉球列島には10cmの大きさに及ぶマングローブシジミ属(ヒルギシジミ属) (Geloina) なども棲む。

1980年代以降は、中華人民共和国、大韓民国、ロシアなどから輸入されたタイワンシジミ (Corbicula fluminea) も多く、日本国内産と比べて、比較的廉価に販売される。また、これらは国内産と比較が難しく、また種の特定も困難なため、産地偽装なども多い。

輸入されたタイワンシジミが野外に逸出したものか、1990年代より日本国内各地で外来のシジミが出現し、在来種との交雑などの懸念が持たれている、と言う。

アメリカ合衆国南西部では1924年までに中国人が食用に持ち込んだとされるタイワンシジミが大量に繁殖し問題になっている。タイワンシジミは1980年代にはライン川に帰化し、ライン・マイン・ドナウ運河を通じてドナウ川にも帰化した。1998年にはすでにエルベ川にも定着している。

味噌汁の具に利用される二枚貝としては、アサリと並んで日本人に最も馴染み深いものである。佃煮・時雨煮などにもされる。

うま味成分の一種であるコハク酸を豊富に含んでおり、江戸時代の昔から肝臓に良い食材とされている。健康食品として「シジミエキス」なども販売されている。また、殻は布でくるんでアクセサリーにすることもある。

市場に出回るシジミのうち最も一般的なのは主に塩分濃度が1.5%以下(海水は約3.5%前後)の水域で採れるヤマトシジミである。

ただし、上記のような種不明の外来種が激増したことにより、これら食用シジミも減少傾向にある。

オルニチンが肝臓に作用するため、俗に「シジミの味噌汁は二日酔いに効く」と言われている。そのため、酒を飲んだ翌日の朝食に味噌汁にして食べる習慣のある家庭が存在する。
                2010・6・27
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年07月20日

◆日の目を見る「氷雪の門」

渡部亮次郎

<1974年に製作され、ソ連の圧力で全国公開出来なかった映画「氷雪の門」 (北海道・稚内市にモニュメントが在る) が再評価され、上映の見込みが立った。

敗戦直後、樺太真岡郵便局電話交換嬢9人の物語。日米戦争を知らない世代は必見の映画。(産經新聞 7月18日 朝刊17面 カルチャー時評から)>札幌在住のメルマガ「頂門の一針」愛読者からの通信である。

メルマガの主宰者渡部亮次郎は、この映画の製作総指揮に当った小倉寿夫、製作の守田康司の両氏と上映不能になった事件をきっかけに知り合った。特に小倉氏は晩年が不幸だっただけに他人事(ひとごと)とは思えない。

「ウィキペディア」から引用して、コトの経緯を振り返る。

「樺太1945年夏 氷雪の門」 監督 村山三男 製作総指揮 三池信 小倉寿夫 製作 望月利雄 守田康司 脚本 国弘威雄

出演者 二木てるみ 藤田弓子 岡田可愛 鳥居恵子 栗田ひろみ 音楽 大森盛太郎 主題歌 九人の乙女

あらすじ
終戦間際の1945年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた(樺太の戦い)。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。

8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出された。そのため引揚者も順次でたが、8月20日のソ連軍の上陸掃討作戦開始まで間に合わなかった。

志願して職場に留まり、そのために追い詰められた女性交換手達は、通信で寄せられるあちこちで次々と殺害される市民の状況から、自らも青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。

九人の乙女の像にも刻まれた「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉。


1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も継続された、ソ連軍の樺太(現サハリン)侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の悲劇(真岡郵便電信局事件)を描いている。


原作は金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』。

元新東宝のプロデューサーであった望月利雄が真岡郵便電信局事件の映画化を立案、まず八木保太郎に、次いで松山善三に脚本執筆を依頼したが、八木稿も松山稿も反戦色の強い脚本となり、望月の製作意図にそぐわないものだった。

そこで望月は国弘威雄に依頼、おりしも発刊された金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』を原作にして国弘稿が脱稿された。

一方、製作資金集めに奔走した望月は、知人の斡旋で小倉寿夫(小倉興業社長、元新東宝専務)を紹介され、小倉の先輩である三池信(元郵政大臣)が協力を約束した。

1972年5月に三池会長、小倉社長、望月専務の顔ぶれで株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュアー(JMP)が設立され、1973月5月末に『氷雪の門』は撮影を開始した。

ソ連戦車の進撃場面には陸上自衛隊の協力が必要と感じた望月は、4年にわたり防衛庁と交渉を続け、その努力が実って、御殿場で撮影された戦闘場面には、戦車18台がソ連戦車として登場している。

完成した『樺太1945年夏 氷雪の門』は、多くの団体から推薦され、1974年4月から東宝系劇場での上映が予定されていた。「東宝配給」という記述が今も散見されるが、この時点では『樺太1945年夏 氷雪の門』はJMPの自主配給であり、東宝は劇場チェーンとして上映を行なう予定であったにすぎない。

だが、1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長が「非常にソビエトにとって面白くない映画が東宝配給で日本で公開されようとしているのは理解に苦しむ」という苦言を口にした。

これは『樺太1945年夏 氷雪の門』配給 東映洋画部を東宝配給と誤解しての発言であり、パーティに出席した東宝のプロデューサーにとっては寝耳に水であった

この事実を掴んだ東京新聞モスクワ特派員が「東京のソ連大使館が内容を反ソ的とみているという話が当地に伝わってきており、代わりに“モスクワわが愛”の封切りさしとめの声も出ているようだ」と本社に報告、3月12日付け東京新聞夕刊は「ソ連『氷雪の門』に渋い顔」と報じた。

同日、かねてよりソ連の反応を気にしていた東宝営業本部は、自社チェーンでは『樺太1945年夏 氷雪の門』を上映しない旨を決定した。のち3月23日になってモスクワ放送が「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」という論評を流している。
東映の岡田茂社長が事態の収拾に乗り出し、自社が『樺太1945年夏 氷雪の門』を配給するという話を在日ソ連大使館の参事官に通したところ、「たいへん結構です」と感謝されたという。

だが、東映洋画部配給による8月17日からの興行は規模を大幅に縮小、北海道・九州での2週間ほどの劇場公開となり、ほとんど日の目を見なかった。

その後、一部名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などがおこなわれていたが、製作から約36年後の2010年7月17日より全国で順次劇場公開されることになった。

撮影 西山東男 編集 エディー編集室 配給 東映洋画部 公開 1974年8月17日
上映時間 109分(公開時) 153分(ホール等での上映時) 119分(再公開時) 製作費 2億3千万円
2010・7・19

2010年07月19日

◆自由民主党に党歌がある

渡部亮次郎

現役の政治記者時代は、自民党担当が長かったが、党の歌「党歌」があるることを知らなかったが、作詞 岩谷時子 作曲・編曲 山本直純で確かにある。

一、
われらの国に われらは生きて

われらは創る われらの自由

月日の流れを いつも見つめて
   
今日より明日へ  道を拓(ひら)こう
  
一人の幸福(しあわせ)  皆の幸福


二、
われらの愛する われらの子らへ
 
われらは遺(のこ)す  われらの心

すぐれた昔の 文化を伝え

この日の息吹 深く刻もう  
一人の幸福  皆の幸福

三、

われらの山も われらの海も

われらの宝 われらのいのち

明るく輝く 地球の上で

世界の平和 きっと守ろう  
一人の幸福  皆の幸福 皆の幸福


インターネットで聞こうと思えば聞けるが、一度も党本部で耳にしたことの無い歌を、しかも野党の歌を聴いても無駄である。

偶然に岩谷時子(作詞 訳詩家)の経歴を「ウィキペディア」で検索したら、作品群の中に「自由民主党・党歌」と言うのがあって驚いた。

加山雄三の「君といつまでも」ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」
などを作詞し、越路吹雪「愛の讃歌」を訳巣など、色っぽい歌を書いてきた独身女性が政党の党歌を書いていたなんて驚きだ。

それ以上に党歌を作ろう、それには作詞は岩谷と考えた幹部が自民党に嘗ては存在したと言うのが、更なる驚きだった。こうした路線がちゃんと党運営に反映していたら、自民党は落ち目の三度笠を被らなくても済んだのでは無いか。

2010年07月17日

◆潰れた「輿石議長」

渡部亮次郎

先には参議院議長に民主党の輿石東参院議員会長が確定と報じたが、大きな誤報だった。深くお詫びします。昔、参院の取材をしていた時は1度も誤報をしたことが無かったのは当然。しかし新聞など2次情報を元に推測で記事を書くと、誤報になることがある。

参院議長人事をめぐる与野党の非公式折衝で、野党特に自民党は「輿石議長」案に反発を示したようだから、「輿石議長」を潰したのは自民党の功績と言えないことも無い。選挙に勝ったという事はこういうことなのだ。

<輿石氏民主参院議員会長留任へ 民主、参院議長は西岡氏で調整 参院議長人事は15日、民主党が西岡武夫参院議院運営委員長(74)の擁立で調整を進めることになった。

当初輿石(こしいし)東(あずま)同党参院議員会長(74)が有力視されたが、与野党の勢力が逆転した国会運営を乗り切るには「党内に影響力がある輿石氏で結束するしかない」(参院幹部)と、留任する見通しとなった。

野党側は先の通常国会の閉幕をめぐり、輿石氏らが強引に押し切ったと反発しており、「輿石議長」では野党側が反対する可能性もあった。直嶋正行経済産業相(64)や北沢俊美防衛相(72)も取りざたされたが現職閣僚であるため困難とみられている。

民主党は21、22の両日、参院議員会長の立候補を受け付け29日に投開票する。22日に無投票で輿石氏が選出される可能性が高い。

一方、自民、公明、みんなの3党は15日の幹事長・国対委員長会談で、議長や議院運営委員長などの参院人事を3党間で協議していくことで一致した。>産経ニュース 2010.7.15 23:05

輿石氏は「当選してくれば議長」という小沢一郎前幹事長の呟きを信じ、地元山梨県で、山教組の票では足りなくなった選挙情勢をひっくり返すために、公明党とのバーター取引までして辛くも当選してきた。

だが党としては自民党に惨敗と言うのでは、議員会長として責任の一端を負わざるを得ない。加えて頼りとする小沢氏も責任を負うだけでなく自身の「カネ」を巡って折から検察審査会の俎上に乗るという場面に突き当たった。

こうなっては「輿石議長」を推進する者はいなくなる。「国会対策上、党の結束を維持するためには、輿石氏が余人をもって代えがたい」とかなんとか持ち上げられては、議員会長留任を呑まざるを得なかったろう。

誤報した者として「引かれ者の小唄」だが、日教組議長の誕生が1人減ってよかった。

2010年07月16日

◆衆参とも議長は日教組

渡部亮次郎

産経の総理官邸キャップの阿比留瑠比さんが15日のブログで重大なことを指摘している。民主党参議院議員会長輿石 東氏が今回の選挙で辛勝できたのは、地元山梨で、こともあろうに、公明党、創価学会と票のバーター取引をしたためであり、公明党が「参院議長は民主党から」と言っているのは明らかに輿石議長案を支持したものだ、と。

<山口那津男代表は12日、「(比較第一党の)民主党から議長を出すべきだ」と表明したのです。みんなの党の渡辺喜美代表が真っ先に、議長は野党から出そうと呼びかけていたにもかかわらず、です。

この山口代表の姿勢を見て、私は今年3月に覚えた「厭な予感」を思い出しました。ある意味、「点」が「線」としてつながったなと。

それは、2月26日に、小沢氏が都内のホテルで公明党の支持母体である創価学会の首脳クラスと会談し、その席に輿石氏が同席していた件です。

産経は3月2日付の紙面でこれについて「参院選後の民主党と公明党との連携も視野に入れながら、選挙協力の可能性についても意見交換したとみられる」と報じていました。

私個人は、「北教組による違法献金事件などで選挙が苦しくなった輿石氏が、何らかの譲歩、歩み寄りを条件に学会に票提供を要請したのではないか」と思っていました。実に厭な感じだと。>

情報によれば、この点について民主党最大の実力者小沢一郎前幹事長はかねてから「次の参院議長は当選してきたら輿石」と漏らしていた。だからこそ「2・26」会談に輿石氏を態々伴い、創価学会幹部に紹介し、万一の時の「バーター」の道を担保したのである。

阿比留瑠比さんによると、この事実を裏付けるように、読売新聞の山梨版は《… 3745票の僅差(きんさ)で3選を果たした輿石氏の支持組織の中核は、出身母体でもある山教組だ。

山教組には「3日選挙」の伝説がある。「劣勢な選挙も短期間でひっくり返す」ほどの組織力を持つというわけだ。

だが、北海道教職員組合の違法献金事件などで、「先生と選挙」への世間の視線は厳しくなり、今回の参院選は、現職教諭の動きは鈍った。代わって法的に選挙活動の制限がないOBを中心に活動したが、結果は自民党の新人、宮川典子氏(31)にぎりぎりまで追いつめられた。

輿石氏陣営は今回、別の組織票を頼った。公明票だ。

「バーターしませんか」

輿石陣営幹部が複数の公明党議員らの自宅を訪ね歩いていた。同党が山梨選挙区の「自主投票」を表明した6月17日以降のことだ。

輿石陣営が「比例は公明」を指示する代わりに、公明支持者に「選挙区は輿石」を依頼するという非公式の選挙協力の打診だった。

ある公明党市議は証言する。「バーターに応じた。自民党側からは何の働きかけもなかったから」

読売新聞の参院選出口調査にも「バーター」の効果が見て取れる。公明支持層の約5割が宮川氏、2割以上は輿石氏に投票していた。今回、公明党の比例選の得票は4万7646票に上った。(中略)

だが、山教組幹部は意気盛んだ。「宮川氏を支持した自民党県議は来春の県議選で落選させる。選挙の恨みは選挙で晴らす」

山教組が再び「選挙集団」に戻るのかどうか。それを決めるのは現職教諭たちだ。》


阿比留瑠比さんは「こういう選挙協力の実態があればこそ、山口代表の『議長は民主党から』発言が飛び出したのかな、とも考えさせられます。そりゃ、せっかくの輿石氏とのパイプは手放したくないでしょう」と指摘している。

他方、自民党は仲間割れしていて、とても議長獲得で野党統一戦線など組めル体勢でない。初めから議長は無理と見て副議長を狙う人もいたりするから、民主党に舐められるばかりだ。

民主党内は敗戦処理もあり、9月の代表選挙を目指した主導権争いで戦闘力をそがれたまま。菅首相は小沢氏の意向に背いた議長候補は用意できないだろう。だから余程のことが起きない限り次期参院議長はも輿石東氏で決りだ。

そうなれば、横路孝弘衆院議長(父の節雄氏は北海道教職員組合の結成に携わり、日教組副委員長も務めた)と合わせて、衆参両院議長を日教組の組織内議員が独占するという異常事態となる。

衆参両院議長は、首相、最高裁長官と並ぶ日本国の「三権の長」であり、皇室会議のメンバーにもなります。その4人のうち2人までも、長年、国旗・国家反対運動を続けて国を貶め続けてきた日教組という特定政治団体の組織内議員が占めるわけだ。。こんな笑えない喜劇は滅多にありません。こんなことを国民が望むでしょうか?阿比留瑠比さんならずとも嘆かわしいかぎりだ。2010・7・15

2010年07月15日

◆内務省って知っている?

渡部 亮次郎

敗戦時、国民(小)学校4年生だったから、私は知らない。だが公選によって初代に選ばれた秋田県知事が、それまで内務省から派遣された知事と教わって、その存在を初めて知った。

長じて、出版物の伏字とか、流行歌の発売禁止の歴史を知るに及んで、内務省、内務官僚とは、如何に大きな権力を握っていたかを実感した。それが「ウィキペディア」で簡単に学ぶことができた。

第2次世界大戦前まで内務省は日本での総合的な官庁であり「官庁の中の官庁」とも呼ばれた。日本の底力は内務省にありと睨んでいたマッカーサーはこれを「目の仇」とし、指令によって1947(昭和22)年12月31日廃止した。

自治事務次官を経て日本テレビ社長から読売新聞社長になる小林与三次らが抵抗組の最終勢力だった、とご本人から伺った。

1873(明治6)年に設置され地方行政・警察・土木・衛生などの国内行政を担った。内政・民政の中心となる行政機関であったため、長である内務大臣は内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持ったポストとみなされていた。

後に総理大臣となる中曽根康弘やその官房長官となる後藤田正晴は「内務官僚」だったことを誇りにしていた。大蔵(財務)官僚よりも威張っていた。今の財務・産業官僚の比ではない。

大久保利通を内務卿として設置された当初は、のちの所管事項に加え、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵・司法・文部三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を持っていたのだ。

その後、農林・運輸・逓信など各省が独立し、内務省の所管は大正期には地方行政・警察・土木・衛生・社会(労働)・神道(国家神道)などといった分野に限られるようになった。

各県の知事は内務官僚が派遣されて務めた。知事は本省に帰るとようやく課長になったとか。

このように、戦前各省の総合出先機関的な性格が強かった道府県庁を直接の監督下においていたため、地方行政を通じて各省の所管事項にも直接または間接に関係し、内政の中心としての地位を保ち続けた。

満州事変や日中戦争など戦時色が濃厚になると、防空事務・国土計画を所管に加えたほか、国民精神総動員運動などの国民運動の中心ともなった。1938年には外局であった衛生・社会両局が厚生省として分離されたが、当時の人事は内務省と一体のものとして運用されていた。

1910年代から1930年代にかけては政党員が内務大臣に就任したり、内務官僚出身者が代議士に転身して政党幹部に就任したりすることで省内に大きな影響力を与えた。

一方、自党が選挙に有利になるように反対する省幹部や知事らを更迭して自党を支持する官僚を後任にあてる人事を頻繁に行うようになり、政権党が変わるたびに大規模な人事異動が行われて「党弊」とも呼ばれた。1925年に治安維持法が制定されると、特別高等警察の元締として多くの事件を引き起こした。

1930年代に軍部が台頭すると、それと結んだ革新官僚が政党の影響力を排除した法改正を行うなど、独自の政治力を持つようになる。一方、軍部が地方行政や警察への介入を図ったために、双方の間で権限争いも生じた(ゴーストップ事件など)。戦前の北海道庁・樺太庁・警視庁、各都道府県の特高警察は内務省の下部組織であった。

内務省の内務次官、警保局長、警視総監は「内務省三役」と称された重職で、退任後は約半数が貴族院の勅選議員に選ばれた。

敗戦後、GHQは特別高等警察や政府による検閲、いわゆる国家神道の廃止を指示、さらに内務省のもとでの中央集権的な警察制度の全面的な変革を求めた。また、警察関係を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。

1947年5月3日に施行された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選となるなど、地方行政の大きな転換がなされた(ただし、公職追放との絡みもあり、1945年の段階から内務官僚以外からの知事の政治任命が進んでいた)。

同年末、GHQの指令により内務省は廃止され、74年余に及ぶその歴史に幕を閉じることとなった。

かつて内務省がになっていた業務は多岐に亘るが、現在では主に、地方行政部門は各都道府県、および自治省とその後身の総務省に、警察部門は国家公安委員会・警察庁に、 土木部門は建設省を経て国土交通省に、

衛生・社会部門は対米戦時中に分離した厚生省(およびのちに厚生省より独立した労働省)の後身である厚生労働省に、 それぞれ担われている。今日、特にこれらの省庁を指して「旧内務省系官庁」と呼ぶことが多い。

自民党時代の歴代官房副長官(事務)は殆ど旧内務省系官庁以外からは選ばれなかった。

また、1945年10月、GHQの覚書を受けて当初返還財産の受領機関として設置された内務省調査部(内務大臣官房調査部)の業務は、内務省調査局(1946年8月 ― )、内事局第2局・法務庁特別審査局(1948年)を経て公安調査庁(1952年)に引き継がれた。

神道を統括した外局の神祇院(神社局の後身)の業務は宗教法人である神社本庁に引き継がれた。(文中敬称略)2010・7・9
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