2010年07月14日

◆検閲を欺いた服部良一

渡部亮次郎

検閲(けんえつ)制度を知らない世代が多くなった。「何しろ戦前、戦中は検閲制度の為、出版の自由なんか無かったし、演歌だって物によってはレコードが発売禁止にされたのだ。

そんな時代があったんだ」と言っても理解できない人が多くなった。何でも自由は結構な時代だが、その分、放埓な世の中になっていることも事実である。

検閲は江戸時代には江戸幕府によって、戦前・戦中には内務省などによって、敗戦後の連合国占領下には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって行われた。

検閲は大きく分けて事前検閲と事後検閲の2種類あるが、日本において行われたものの多くは事前検閲である。現在の日本において、検閲は日本国憲法によって禁止されている。

敗戦前まではレコードは取り締まられた。製品は解説書2部を添え、規定された様式にしたがって内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

「夜のプラット・ホーム」、「湖畔の宿」などがひっかかった。「夜のプラット・ホーム」は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。

1947(昭和22)年に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるからNHKは戦後の歌に区分けしているが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

「湖畔の宿」作詩 佐藤惣之助だが、作曲はやはり知恵者服部良一。
昭和15年の作品。女優高峰三枝子が歌った。発売禁止になったときはレコードは津々浦々に普及してしまって発禁の被害は余り無かった。役人仕事は戦時中も今も変わらない。榛名湖ガモデル。

1 山の淋しい 湖に
  一人来たのも 悲しい心
  胸の痛みに 耐えかねて
  昨日の夢と 焚き捨てる
  古い手紙の うすけむり


2. 水にたそがれ 迫る頃
  岸の林を 静かに行けば
  雲は流れて むらさきの
  薄きすみれに ほろほろと
  いつか涙の 陽が落ちる


(台詞)
   「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
   静かに静かに黄昏れて行く……。
   この静けさ、この寂しさを抱きしめて
   私は一人旅を行く。
   誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
   幼な児のような清らかな心を持ちたい。
   そして、そして、
   静かにこの美しい自然を眺めていると、
   ただほろほろと涙がこぼれてくる」


3. ランプ引き寄せ 故郷へ
  書いてまた消す 湖畔の便り
  旅の心の つれづれに
  ひとり占う トランプの
  青い女王の 淋しさよ


「夜のプラット・ホーム」は当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだが、中国戦線へ出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞があるとして、戦時下の時代情勢にそぐわないと検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。

その2年後の1941(昭和16)年、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤が発売された。作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という名前の人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。所謂「輸入の洋楽盤」だから検閲の対象にならなかった。

しかもR.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていた、ドイツ系のハーフの男性の変名であった。服部の方が、検閲官より頭が良かった。さすが大阪人。息子が服部克久でやはり作曲家。

この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。


敗戦後、新憲法が制定されて検閲は禁止になったはずだったが連合国軍による占領下でGHQによる検閲がおおっぴらに行なわれた。                                    

1945(昭和20)年に、「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16、9月10日)や「日本ノ新聞準則ニ関スル覚書」(SCAPIN-33、9月21日)(いわゆるプレスコード)等を発出した。

民間検閲支隊により日本のマスコミなどへの事前検閲や事後検閲を行い、反占領軍的と判断した記事(占領軍兵士による犯罪なども含まれた)などを弾圧して全面的に書き換えさせた。

これらのGHQによる行為は個人の手紙や電信電話にまで及び、検閲は隠匿され日本国憲法施行下にあっても強力に実行された。犯人とか容疑者を米国人と分かる書き方は禁止された。

しかし、検閲に協力した人々の証言がほとんどないためその実態には未解明な部分も多い。

文学評論家の江藤淳は戦後の占領政策における検閲の方針(江藤はこれを「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム<戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画>」と称している)と関連する資料を明らかにし、占領期はGHQによる検閲と一般人の目に見えない自己検閲によって自由な発言ができず、閉鎖された「言語空間」が形成されたことを解明している。

日本国憲法第21条第2項前段において検閲は明確に禁止されている。「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010・7・5




2010年07月12日

◆ 言い訳「悪」菅に「No」

渡部亮次郎

参議院の開票速報を見ていたが、自分の予測と余りにも一致していたので、
焼酎を1杯、余計に呑んで、寝てしまった。「有権者は言い訳ばかりする
「悪」菅にNoを突きつけたのだ、日本人は賢い)と夢うつつに考えていた。

菅はト書きを失くしたヘボ役者である。半生、他人の揚げ足取りをして、
とうとう首相の椅子をモノにしたが、さて、自前の芝居をするにも
シナリオがない。

カナダのサミットに行って「中国(共産党)を招け)と提案。恥をかいた。
サミットこそは民主主義、資本主義大国の牙城なのだから、各国首脳が
菅の発言を無視したのは当然だった。

菅は自らの発言のバカらしさに気づいて愧じた。

財務大臣になってみて「ギリシャ」問題の意味を官僚に聞かされて初め
て知った。ならば財政再建をしない日本は第2のギリシャになる。消費
税を上げるしか方法は無い。

そこへ自民党が10%を提案。これまでは攻撃するところを、「オンブオ
バケ」宜しく尻馬に乗った。自分用のシナリオが無い方である。

「消費税」と言っただけで有権者は反発する。特にばら撒き政策の恩恵
を蒙らない年寄り家庭は激しく反発した。反応に驚いた菅は慌てて言い
訳を始めた。年寄りは「言い訳」が嫌いな世代だ。菅は負けた。

「政権交代」は今や嫌われている。有権者は反省しているのだ。ただし
旧政権党の自民党は余りにも粗末と改めて分かったから、直ちに民主党
を見捨てないだろうが、その信頼度は極度に低下している。

しかもだ、この敗戦を自らの復権に利用しようと狙っている人が秘策を
練って菅の足元を狙っている。小沢だ。イチカバチかの「内戦」を挑む
はずである。選挙結果より、もっと面白いのが民主党の内戦だ。民主党
は分裂に向かっている。(文中敬称略)2010・7・12

■本稿は7月12日刊全国メルマガ「頂門の一針」1976号に
掲載されたものです。卓越した政治評論をご拝読下さい。

◆<1976号・目次>
言い訳「悪」菅に「No」:渡部亮次郎
「日の丸」「君が代」嫌いの首相?!:古森義久
外国人参政権―朝日の暴論再び:東郷勇策
バブル崩壊に向かう中国経済:伊勢雅臣
沈没か、それとも増税か:平井修一
話 の 福 袋
反     響
身 辺 雑 記

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2010年07月10日

◆ペンシルロケット

渡部亮次郎

1958(昭和33)年3月、NHK秋田放送局で取材見習いが始まった。
東京で警視庁取材の長かった中山光雄さんが「ナベ、ペンシルロケットの取材に付いて来るか?」というので、局のジープに同乗して、雪道をいそいだ。

ロケット? ペンシル? 道川(みちかわ)海岸?、秋田高校を出たはずなのに、東京で過ごした4年間で、地元のニュースは何も知らなかった。

東大生産技術研究所の工学博士糸川英夫を中心とするAVSA研究班によって研究の始まった『ペンシルロケット』は、1955(昭和30)年4月12日、東京都国分寺の廃工場跡地で水平発射公開実験に成功。

いよいよ上空へ向けての発射実験は海岸から打ち上げて海に落下させるほかないが、当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。

船舶や航空機の航路を避け漁業への影響が少ない場所として、秋田県岩城町の勝手川河口南側の道川(みちかわ)海岸が選定された。秋田市内から車で1時間ぐらいの寒村の海岸。

上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。全長わずか30Cm。当に鉛筆ロケットだ。

1955(昭和30)年8月6日に行われた道川での最初の発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗であった。

急遽ロケットの固定方法を改良し、同日2回目の発射実験は成功した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒であった。

私が取材初体験したのも、この頃。寒風吹きすさぶ)砂浜にゼンマイを一杯に巻いたデンスケ(録音機)を放置して、退避。ロケットはヒュルンと日本海上空へ飛んで行った、と思ったら嘘。海を睨んでいる取材団の背後に墜落した。それでも、その夜、「録音ニュース」として全国に放送された。まだテレビの無い頃だった。

ペンシルの飛翔実験は1955年(昭和30年)8月8日で終了し、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の『ベビーロケット』の発射実験を開始した。

標準型であるベビーS型は、ペンシル300と同様の発煙剤による光学追跡であったが、ベビーT型でテレメータを搭載し電磁気的な追跡が可能となった。またベビーR型では、パラシュートによる機器回収の実験を行った。

私は6月には転勤。ロケット発射実験とは縁が切れたが、ベビーロケットは、この年12月までに計13機が打ち上げられた。到達高度は6kmであった。

1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての国際地球観測年(IGY)に日本が参加を表明したことを受け、文部省(現文部科学省)は、大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川に打診。

1956(昭和31)年1月、東大生研へ正式に協力要請が下された。ペンシルおよびベビーで経験を積んだAVSA研究班は、本格的な観測用ロケット『カッパ(K)ロケット』の開発に着手した。

ベビーよりも大型となるカッパを打ち上げるにあたって、発射場は同じ道川の勝手川河口北側500mの海岸へと移された。1956(昭和31)年9月24日、K-1型が初飛翔。到達高度は10kmであった。

カッパの開発は必ずしも順風満帆ではなかったが、1958(昭和33)年9月、K-6型が高度60kmに到達した。当初目標の高度100kmには及ばなかったものの、この観測データをもって日本はIGY参加の責務を果たした。

IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960(昭和35)年にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。

たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。道川からの打ち上げは高度300―350kmが限界とされた。

この頃には米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した。

その結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年(昭和37年)2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設が着工された。1963(昭和38)年12月9日開所)。

内之浦への新実験場の建設が決まった後も、東京から近く、梅雨の期間が短いために夏季の実験・観測に有利である秋田ロケット実験場では、高度300km未満に限定のうえ継続して飛翔実験を行う予定だった。

しかし1962(昭和37)年5月24日夜、K-8型10号機が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった(固体推進剤内にクラックが生じていたことによる異常燃焼が原因とされている)。

死傷者は出なかったものの、事故を機に地元の協力が得られなくなり、安全対策にかかる費用の問題もあり、道川での発射実験は全て中止、実験場閉鎖へと追い込まれた。

以後の東大によるロケット飛翔実験は内之浦へ全面的に移行することとなる。1955(昭和30)年から1962(昭和37)年にかけて秋田ロケット実験場から打ち上げられたロケットは、計88機であった。

なお、東大の道川からの撤退に際し1962(昭和37)年10月、秋田県能代市にロケットモーターの地上燃焼実験施設「能代ロケット実験場(現能代多目的実験場)」が開設された。

現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類は一切現存していない。岩城町が建立した「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、日本の宇宙開発最初期の舞台であった歴史を今に伝えている。

私はその後、大館、仙台、盛岡、東京、大阪と転勤し41歳でNHKを退職した。今日の日本ロケト産業の隆昌を見る時、道川の果たした役割はもっと大きく顕彰されて然るべきものと思う。2010・7・8
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■7月10日刊・全国版メルマガ「頂門の一針」1974号のご案内
<目次>
・選挙は水もの、最後の一日で決まる:古澤 襄
・仙谷官房長官を罷免せよ!:東郷勇策
・菅直人氏は政治カメレオンか:古森義久
・鳩山前総理と日本の存在感:加瀬英明
・無知蒙昧は知っている:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年07月08日

◆リラ=ライラック

渡部 亮次郎

日本語にすると何かしらロマンチックになるのだろうか、アルプスの牧場には楡(にれ)の木に鳥が啼いたり、札幌の時計台には楡の花が咲くと、高校の先輩東海林太郎(しょうじ たろう)が歌っている。

同じように情緒的に歌われるのが「リラ」の花である。長じてヨーロッパへ旅するまでは実物に出会ったことはなかった。ブリュッセルのレストランの庭に紫色の薫り高い花が満開だった。「あれはライラック即ちリラの花だよ」とドイツ育ちの友人が教えてくれた。

吉岡妙子「リラの花かげ」、岡本敦郎(あつを)「リラの花咲くころ」

倍賞千恵子「リラの花散る町」、加門 亮「リラ冷えの街」は、みんな「ライラック」を歌っていたのだ。それを知っていたかどうかは無関係だ。リラはフランス語、英語がライラック。

ライラック(Lilac、学名:Syringa vulgaris)はモクセイ科ハシドイ属の落葉樹。ライラックの呼称は英語の仮名転写に由来し、他にフランス語由来のリラでも呼ばれる。和名はムラサキハシドイ(紫丁香花)。

ヨーロッパ原産。春(日本では4―5月)に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく香水の原料ともされる。

日本には近縁種ハシドイ(紫丁香花) (Syringa reticulata) が野生する。開花はライラックより遅く、6―7月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも
呼ばれることがある。

花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。

ハシドイの名は、木曽方言に由来する。属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという。

欧州の民間伝承では白い花のライラックを家に持ち込むと不吉なことが起こるとされている。(「ウィキペディア」)2010・7・4

リラ=Lilas、Lilac。そう、リラはライラックの別称ですが、音楽にも乗り安いし、何となく情緒的な叙情的な感じがするから、リラの方が良いでしょう。

寺尾智沙・田村しげる夫妻の手によるものですが、白い花の咲く頃より、より抒情的でよりメランコリックな出来上がりになっております。

この作品も岡本敦郎が歌って大ヒットさせました。リラの花弁は白、ピンク、薄紫、紫と色々ありますが、宝塚歌劇団の「すみれの花咲く頃」のフランス原曲も実は原詩を訳すと「リラの花咲く頃」。

この場合は白いリラの花です。さらに、このフランス曲にも原曲があって、ドイツ原曲の「ニレトコの花が咲く時」というらしいです。ニレトコ(ドイツ)→リラ(フランス)→すみれ(日本)となったわけです。リラの
花咲く頃

      JASRAC Code No.094−2028−2

     リラの花咲く頃


     作詞:寺尾智沙
   作曲:田村しげる
   歌唱:岡本敦郎
   MIDI制作:滝野細道



   1.リラの花が 胸に咲く今宵
     ほのかな 夢の香に
     ああ 思い出の あの囁き
     遠く遥かに 聞こえ来るよ


   2.リラの花が 胸に散る今宵
     やさしく 手を組し
     ああ 過ぎし日の あのメロディー
     霧の彼方に 流れ行くよ


   3.リラの花が 胸に哭く今宵
     はるばる 別れきて
     ああ 懐かしの あの面影
     ひとり狭霧の 小径(みち)を行くよ

2010年07月07日

◆作詞家岩谷時子94歳

渡部 亮次郎

ラジオ深夜便が作詞家岩谷時子(いわたに ときこ)特集をやった。昔からとてもセンスの良い詩を沢山書いてきた人。越路吹雪のマネジャーをしながらザ・ピーナッツ『恋のバカンス』や加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』、園まり『逢いたくて逢いたくて』など数多くのヒット曲を生み出してきた。

大正5(1916)年3月28日うまれというから、すでに94歳ながら独身、帝国ホテル住まいを続けて現役。もっと詳しく知りたくて、検索に「岩谷時子の近況」と入れたら「岩谷時子さんから元気をもらう」 2006/07/2909:12 と言うのに出会った。

産経新聞で「正論」の名編集長と言われた大島信三さんのブログだった。ジャーナリスト。新潟県出身。平成21年1月末、編集委員を最後に産経新聞社を退社。とある。4年前のエントリであるが、貴重な「近況」が探れる。

<いま、朝食を終えた食卓で、小学館から月に2回発行される、雑誌『サライ』8月3日号を開いている。新聞の広告で、銀座の特集を組んでいるというのを知って、書店で買ってきた。

目次をみると、なるほど、銀座大特集のオンパレードだ。しかし、最初に見たのは、冒頭のインタビュー欄。作詞家の岩谷時子さんが、登場している。まさか、ここで岩谷さんの近況を知るとは、思いもよらなかった。雑誌というのは、こういうハプニングがあるから楽しい。

岩谷さんに、お会いしたことはないが、昔、電話で随筆をお願いしたことがある。そのとき、いただいた手紙を、いまも大切に保管している。

「作詞を続けて半世紀以上。『お嫁においで』『恋のバカンス』など、世代を超えて歌い継がれる数々の名歌を世に送り出してきた」というキャプションのついた90歳の岩谷さんの写真は、とても若々しい。

現在(06年7月29日)は、日比谷の帝国ホテルに住んでいる。そういえば、オペラ歌手の藤原義江も帝国ホテル暮らしだった。

岩谷さんのご自宅は大田区にあり、3年前までは、週末だけ帝国ホテルに泊まって集中的に仕事をしていたが、なにかと便利なので、いまはすっかりホテル生活者。自宅には、めったに帰らないとか。

「世に送った作品は1300曲以上。気力と好奇心は、今も健在」と前文にある。昨年(05年)春、岩谷さんは、階段で転び、大怪我をした。医師たちは、自力で歩くのはむつかしいだろう、退院しても車椅子が必要になるだろう、と思っていたらしい。

岩谷さんは、心のなかで「絶対に歩けるようになる」と。「やっぱり気力が大切ですね。悩んでも、なにも解決できないと思ったら、頭を切り替えて、悩むというエネルギーを前向きな方向に使うことです」と語る岩谷さんは、いまなお現役の作詞家として創作活動をつづけているのだ。けさは、岩谷さんから、元気のもとをもらったような気分で清々しい。

岩谷さんは、越路吹雪のマネージャーだった。「彼女から報酬をもらったことはありません。だから、越路さんは、わたしのことを欲のない世話好きのお姉さんと思っていたんじゃないかしら。

わたしにしてみれば、彼女は世話のやける妹でしたけどね」(笑い)と、岩谷さんは、インタビューで語っていた。

ひとり娘の岩谷さんが、お嫁に行ったら、寂しくなると、親は結婚をすすめなかった。恋や愛の歌も、体験からではなく、想像の産物。

「その点、越路さんは、恋多き女で、彼女が昭和34年に結婚するまで、わたしがずっと恋の使者でした。恋が終わるときも、相手の方に引導を渡しに行かされる。

最初はお互い好きで心を寄せながら、別れのときがくる。すると、相手につらい思いをさせたと越路さんは悩んで、わたしに行ってくれってことになるんです。でも、相手の男性はみな、“時子さんも大変やなあ”と気遣ってくれまして」

帝国ホテルのとなりは日生劇場。昔、ここで越路吹雪の歌を聴いた。あのボリュームあふれる、歌声も懐かしい。>

<越路吹雪と歩んだ半生

1916年京城(現在のソウル特別市)生まれ。5歳の頃に西宮市に移住。市立西宮高等学校を経て神戸女学院に進学。1939年神戸女学院大学部英文科卒業後、宝塚歌劇団出版部に就職。月刊誌『歌劇』の編集長を務めた。

そうした中、偶然編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪と出会う。二人は意気投合し、越路の相談相手となる。

越路が宝塚を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。上京し、越路の付き人を務める。

1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。会社員として働く傍らも越路をサポートし、越路が死去するまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けた。

しかし、あくまで「越路が好きだから支えていた」という岩谷は、越路が亡くなるまでマネジメント料としての報酬は1円も受け取らなかった。(※第29回菊田一夫演劇賞授賞式において、岩谷時子を演じた高畑淳子が証言)

マネージャーとして活動する一方で、越路が歌うシャンソンの訳詞を手掛けたのきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』や加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』、園まり『逢いたくて逢いたくて』など数多くのヒット曲を生み出してきた。

一方、オリジナルの詞にとらわれず独自の解釈で詞を当てることもある。例としては、エディット・ピアフが歌った「愛の讃歌」は元の歌詞が「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容であるのに対し、岩谷訳詞では一途な愛を貫くという賛歌となっている。

ミュージカル『ミス・サイゴン』の訳詞を手がけたことがきっかけで、同作品に主演した本田美奈子と親交を深める。本田の才能を「越路の再来」と高く評価し、数多く詞を提供した。

偶然にも、本田が死去する直前、足を負傷して本田と同じ病院に入院。ボイスレコーダーを通して、当時無菌室に入っていた本田を激励した。

2009年7月7日『一般財団法人 岩谷時子音楽文化振興財団』を立ち上げる。

2009年10月、文化功労者。<「ウィキペディア」)2010・7・4

2010年07月06日

◆母国で無名の「昆虫記」

渡部亮次郎

先日、ラジオ深夜便でフランス文学者にして昆虫研究家の奥本大三郎さん(1944年3月6日 ―埼玉大学名誉教授、ファーブル昆虫館館長)が、フランス生まれの世界的昆虫学者ファーブルについて2夜に亘って語った。「虫と遊び虫に学ぶ」。

奥本さんは幼少の頃から虫好きだったが、学者としては昆虫学者にはならず、東大でフランス語を究め、「昆虫記」を翻訳して日本に紹介することに務めている。

ところが、田圃の中で育った私は昆虫と言ってもオニヤンマとイナゴぐらいしか知らないし、当然ながら「昆虫記」は読んだことが無い。少年時代、小遣いは0だったからである。

そこでフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でファーブルを索引してみたところ、ほとんどのフランス人はファーブルが何者であるかを知らないことを知った。

アヴィニョンには現在ファーブルの功績を称えて、Rue Henri Fabre(アンリ・ファーブル通り)と名のついた道があるほか、パリにも蚤の市で有名なクリニャンクール Clignancourt に Rue Jean-Henri Fabre 通りがある。

だが、皮肉なことにそれら道を行き交うほとんどの人が、「アンリ・ファーブル」が誰であるか知らない。

また、ファーブルの生地であるサン・レオンにはファーブルの功績を称えて銅像が立てられているが、この銅像は第2次世界大戦時に進駐してきたナチス・ドイツによって、武器の材料として接収されたことがある。

しかし、その後レジスタンスによって奪還されて地中に秘匿され、今は彼の生家の庭にたたずんでいる。

日本、韓国、中国、ロシアなどではファーブルの『昆虫記』を題材にした子供用の本が発行されていて、読まれ、彼の名は一般大衆に広く知られている。

しかし、母国フランスをはじめ、ドイツ、英米などではそういった本はなく、彼の名はそれほど知られていない。

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 に生まれ1915年10月11日に死んだ。私の生まれる20年前である。

昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。

父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島、アヴィニョンを経てセリニアンで安住し様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。

ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって業績が評価されていった。

ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。

また古くからの昆虫愛好文化をもつ日本で広く愛読され、昆虫学の普及に役立った。

1863年、アヴィニョンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であったことから大きな非難を浴びた。

その後政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。この事件には独学で名を成したファーブルへの妬みや、文部大臣デュリュイへの宗教界からの意趣返しの側面もあった。

教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した(彼の生家に現在も置かれている)。その後、家主にも追い立てられたファーブルは、住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む。

たまたまアヴィニオンに滞在していたイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルに、ファーブルの生涯でただ一度の借金を申し込んだのもこの頃である。ファーブルは大きな試練に立たされるが、『昆虫記』の執筆に注力するのはこの後のことである。

セリニアンに移り住んで後に最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘ジョゼフィーヌと再婚する。3人の子に恵まれ家族は8人の大所帯となる。

ファーブルが自らアルマスと名付けたセリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。老衰で亡くなるまで36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。

この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに惹かれて相手を探し出すということを突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。

ファーブルは高齢になると年金による収入がなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも悪かったため、生活は極貧であったと言われている。

このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時のフランス大統領ポアンカレはファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルは健康を損なっており、横になったままの時期が多くなっていく。

1915年5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする。これが彼にとっての最後の野外活動となってしまう。同年10月11日、老衰と尿毒症で92歳で亡くなった。10・7・3


2010年07月04日

◆偉い人のスキャンダル

渡部 亮次郎

マスコミだけでなく、短期間ながら外交の世界にも身をおいた若い頃があったので、おおっぴらにはできない、偉い人のスキャンダルを多く耳にした。

戦前の外交官で、ほれた彼女を外交行嚢のトランクに詰めて持ち出そうとして、空港でばれて、大騒ぎになった人がいた。戦後、なんと東南アジア某国の大使になった、と言う。

余談ながら赴任する大使は必ず料理人を伴って行くが、資格申請をする時、料理人をサーヴァント(従者)としていた時期がある。現在は知らない。

ところで特に秘密警察が辣腕を振るったソビエト時代のロシアでは日本人もターゲットにされた。目的は様々。KGB手回しの女に新聞記者を誘惑させ、同衾中を撮影。家族や関係者に見せたくなければ当方の言うことをきけ。

本国帰国後、スパイになれと言って脅かされたケース。女との写真があるといわれたら、焼き増しして、皆に渡してくれと言えばよいそうだ。しかしそれは余程、度胸のある例で、大抵の人は震え上がる。ただ、男が男との写真は命取りだという話がある。欧米の人間は男と寝ている写真でゆすられて落ちたと聞く。

M内閣の顧問格だった元外交官。内閣は知らずに彼を内閣の特使として、アメリカに出そうとしたら、アメリカ側に馬鹿にされた。何かの機会にポーランド女性とセックスしているところをKGBに撮影されて脅かされていることをCIAは知っていたのだ。

日本の外務省は知らなかったが、以後はお役ご免にした。この人の甥が私の友人で、NHKで取材部局の部長を勤めて先に逝去したが、伯父さんのスキャンダルは知らなかった。

Z新聞の特派員だったQ氏。モスクワ市内で、すごく細めの女子大生とだったと伝えられている。Q氏は帰国後、本社の専務に就任した。例の件は不問とされてのか。いや、知らぬは本社ばかりなりだったのではないか。

Qさんはコワレンコの指揮下にその後もあり続けたと理解している人は多い。「Qさんを専務にまでしたZ新聞は愚劣だと思います」と言うのは某社の元モスクワ特派員。

Qさんの息子は放送局に入り、PDをやっていたが、外国でで、車ががけから落ちて、死亡した。

M内閣顧問格氏は元は外務省で枢軸派の白鳥などの子分だったので、Y項(吉田)パージになり、英字新聞に転身させられた。テレビのニュース解説に出演する時は、まえにいつも、水割りを数杯飲んでから出演したそうだ。

東北の寒村の出身ながら、あれほど、能弁な人は珍しい、と未だに高く
評価する人がいる。毀誉褒貶さまざま、である。2010・7・2

2010年07月03日

◆牛蒡(ごぼう)の伝説

渡部 亮次郎

「ごぼうの根の部分を野菜として利用するのは日本と朝鮮半島だけの特徴であり、葉の部分を野菜として、根や種の部分は漢方薬として使用されることが多い」(「ウィキペディア」)。

だから「戦時中、西洋人の捕虜に、きんぴら牛蒡を食わせた収容所長が、戦後、戦争裁判で『捕虜虐待』の罪に問われ、絞首刑になった」と言う話を、何かで読んで、信じていた。

だが「ウィキペディア」によると、話は確定的な証拠がなく、どうも不確かな『伝説』に過ぎないようだ。

牛蒡にまつわる食文化の違いがもたらした悲劇的な逸話として、「戦時中、外国人捕虜にゴボウを与えたところ、木の根を食べさせたと誤解され、戦後にBC級戦犯として虐待の罪で処罰された」というものがある。

小中学校でよく読まれる「はだしのゲン」でも言及されているため(はだしのゲンでは山牛蒡と記述されている)、この逸話は小中学生の間でも比較的知られている。

しかし実際には、この逸話には曖昧な点が多い。「らしい」「と読んだ」などと伝聞調に語られることが多く、話す人によって、内容(場所、捕虜の国籍、量刑、処罰された人数など)が食い違っていることが珍しくない。

また、牛蒡を食べさせたことそのものを直接の原因として処罰されたとする裁判記録などは見つかっていない。

この逸話は、特に東京裁判に批判的な立場から、一方的な復讐裁判の好例としてしばしば取り上げられている。

この逸話についての最も古い記録の1つが、1952(昭和27)年12月10日に行われた第15回国会参議院法務委員会での、当時の法務省保護局長の齋藤三郎の答弁である。

「一例としては、俘虜収容所の所員が、「終戦真際食糧が非常に不足している。併しこれに対してできるだけいい食物を与えたいというので牛蒡を買つて来て食わした。その当時牛蒡というのは我々はとても食えなかつたのだ。

我々はもう大豆を2日も3日も続けて食うというような時代で、牛蒡なんてものはなかなか貴重品であつた。その牛蒡を食わしたところが、それが乾パン代りに木の根を食わして虐待したというので、5年の刑を受けたという、こういう例もあるのだという話をしましたが、(…)」

しかし、具体的に誰が処罰されたのかなど、詳しい情報の出所はここでは述べられていない。

この翌年の昭和28年7月2日の参議院厚生委員会では、日本社会党の藤原道子が、「牛蒡を食べさしたものを木の根を食べさせたのだということで25年の禁錮を受けておる」と答弁しており、この時点でも既に量刑の内容が異なっている。

上坂冬子(故人)の著書『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』では、新潟県の直江津町(現上越市)にあった東京俘虜収容所第4分所の所長らが、終戦後、収容されていたオーストラリア人捕虜達から「木の根を食べさせられた」という告発を受けた。

うち所長を除く8名が裁判で絞首刑となった、という具体的な記述がある(ただし、牛蒡を食べさせたことが直接の原因かどうかは書かれていない)。

朝日新聞の連載記事『地球・食材の旅』の1996年11月10日掲載分に、長野県下伊那郡天龍村にあった東京俘虜収容所第12分所(満島捕虜収容所)に勤務していた警備員1名が無期懲役の判決となり、その裁判中に牛蒡を食べさせたことが虐待として扱われた、という話が掲載されている。

ただし、この警備員はまもなく釈放されたといい、実際に本人に取材を行ったがこの話については語ってくれなかった、と述べられている。

相馬暁は著書『野菜学入門』の中で「アメリカ人捕虜に牛蒡を食べさせたために、昭和21年に、横浜の戦犯裁判で捕虜収容所の関係者の、2人が死刑、3人が終身刑、2人が15年以上の有期刑の判決を受けた」と述べているが、それ以上の詳細については触れていない。

村山有が、捕虜に牛蒡を差し入れたことを理由に戦犯容疑者としてGHQに逮捕された、という話がある。

清瀬一郎(東京裁判の弁護士で後に衆議院議長)の著作『秘録東京裁判』の中には、「ある捕虜収容所」のケースとして、「牛蒡をオックス・テイル(牛の尾)、豆腐をロツン・ビーンズ(腐った豆)と誤訳したため、捕虜から不満が出た」という話が述べられている。

漫画 『はだしのゲン』では、「捕虜にヤマゴボウを食べさせて25年の重労働を課された」という話が、映画『私は貝になりたい』では、「牛蒡を食べさせて5年の懲役を受けた」という話が出てくる。

ごぼう抜き ―『広辞苑』(第5版)には、「(牛蒡を土中から引き抜くように)一気に抜きあげること」とあるが、これは厳密には間違いである。

というのも、ゴボウはそれ自体が長く、根毛も多い。土との接触面積が大きく摩擦も大きいため、するっと抜くことができないからである。

事実、農家では、ゴボウは「抜く」ものでなく、「掘る」ものと認識されている。この言葉はむしろ、抜きにくいゴボウを一気に抜くことができるほどの力を持っている、という意味で用いるほうが正確であろう。ゴボウの太い根は一株に一本なので、多数抜き去ることの比喩に用いるのは誤用といえる。

なお、「ごぼう抜き」という言葉には、座り込みなどを行う人物を力ずくで排除するという、原義に近い用法もある。

ごんぼ(牛蒡)堀り ―青森県と秋田県の方言に「ごんぼほり」(牛蒡堀り)というのがある。ぐずぐず不平を言って譲らない、酔ってくだを巻く(時に居座る)、強情である、ふてくされる(特に子供)、といった態度(あるいはそのような態度の者)ぐらいの意。なだめたり、お引き取り願うことはゴボウを「掘る」ことと同じくらい難儀であることから、であろう。

太平洋でごぼうを洗う ―男女の性交において、女性の膣の締め付けがゆるいと同時に、男性の陰茎が細いため、男女とも十分な満足感が得られないたとえ>。2010・5・18
出典:「ウィキペディア」

2010年07月02日

◆育むを「いくむ」と読む文化人

渡部 亮次郎

育むは「はぐくむ」と読むのが普通だろうが、学者相手のある会合で、80を過ぎた高名な文化人が「先生、伸ばすといくむはどう違うのですか」と聴かれて、お茶の水大学の副学長、一瞬頭をめぐらして「育む(はぐくむ)ですか」に、今度は文化人が「?」。私はなぜか赤面した。

先の大東亜戦争に召集を受け、敗戦後に大学。パリで文化活動後もモスクワ、中国、台湾などを忙しく回っている自他共に許す文化人であり、著書も多い。それなのに「いくむ」だもの。びっくりした。

しかし、お年のせいか、その場のしらけ鳥に気がつかなかったようだったから、これからも「いくむ」と発音されるだろう。これを面と向って訂正できる人はいないだろう。かくて、文化人はまた笑われるだろう。

そういえばドイツ在住の評論家、作家のクライン・孝子さんのメルマガに「せい巻き」というのがあった。何のことだろうと考えて「席巻(せっけん)」の変換落ちだろうと推察した。そうでなければ悲しい。麻生と同じになる。

今は知らないが、昔の国会議員には酷いのがいた。おいかさらまさ予算?追加更正予算。がっぽうてきてだん=合法的手段。いっきいっかい=一期一会。いちげんいっく=一言一句。いちげんはんく=一言半句。あげればきりがない。

ある大臣は記者会見で「ろんこうぎょうしょう」を連発した。「論功行賞」は「ろんこうこうしょう」と読む。功績の有無(うむ)や大きさを調べ、それに応じて賞を与えること。「ぎょうしょう」では貰った方が赤面する。

わが大臣は旧制中学は出ていたから、常識的な日本語は記憶していただろうが暫時と漸次を取り違えて困った。暫時をぜんじ、漸次をざんじと発音するから、通訳がそのまま間違えて伝えてしまう。

旗幟鮮明をきしょくと読んじゃうし、殺陣(たて)をさつじんと読んだ。満座の前で注意するわけにも行かず、下をむいて赤面した。

通訳と言えば「海千山千」をsea thousand mountain thousandとやった外交官がいた。海・山・河にそれぞれ千年棲んだ蛇は龍になるという中国の俗信からできた言葉で、「やり手」とか「したたか者」と使われる。エリ−トはこれを知らなかった。そういう例は多い。

脱線ついでに。昔、財界人永野重雄氏がソ連首脳との会談で「朝飯まえ」と言ったら通訳はそのまま訳した。また「臍で茶を沸かす」とは可笑しいという意味だが、エリート氏は知らないからそのまま訳したからたまらない。ブレジネフから「どうやって沸かすのか」と訊かれてしまった。ご本人から直接聞いた話だ。

さて、日本のみならずどこの国でも、国会議員に選ばれたからといって、学識と教養がそれに比例するとは限らないこと当然である。むしろ学識と教養が邪魔して国会議員にならないか、なれない人の方が多い。

最近の米大統領ですら、発言中に用語の使い方や文法がおかしいと批判されている人がいたくらいだ。

それにしても合法的をガッポウテキといい、手段をテダンと教えたのはどの学校の誰先生だろうかと考えるに、おそらく小学校卒業後の独学だろうと推測した。

昔の新聞には漢字すべてに仮名を振ってあったのに、覚える時に間違えてしまえば、中年過ぎには注意してくれる人は無いから、出世して恥をかくことになる。

津軽(青森県の西側半分)出身の作家・石坂洋次郎の小説「青い山脈」で女学生宛てのラブレターを先生が取り上げていきなり「へんしい、へんしい」と誤字どおり読んで笑わせる場面がある。

もちろん恋しい、恋しいなのであるが、文字とか言葉というものは、子どものうちこそ注意してくれる人があって直せるが、大人になってからでは、誰も失礼と思うから下を向いて笑いを堪(こらえ)たまま。本人がどでかい恥を掻く事になる。まさに聞くは一時(いっとき)の恥、訊かぬは末代の恥である。

「夫妻」を「ふうさい」といって直らない会長がいる。「夫婦」は「ふうふ」だから「ふうさい」と覚えてしまったのである。そういえば朝日新聞ですら「まだ」未成年だ、などと本気で書く。漢文教育を少なくしたからこうなった。

代議士ではないが「お土産」を「おどさん」としか読めないタレントがいた。さすがにディレクターがそっと呼んで事なきを得たそうだ。NHKのアナウンサーですら「愛娘」を「まなむすめ」ではなく「あいろう」と読んだり、「春日」委員長を「はるひ」と読む。

こうしたことはその人の学識と無関係なことだから、「珍語」と打ってパソコンが「鎮護」としか出せないように、これからもいろいろあって恥をかいたり笑わせたりするだろう。(参照:岩手県立大学徳久教室ホームページ渡部亮次郎エッセイ集「オイカサラマサ」)2006.06.23

2010年07月01日

◆規制されている中国報道

渡部亮次郎

中国に関する報道、特に中国特派員の報道について私のメメールマガジンにも苦情が寄せられる。政治問題を取り上げないとか、情報が遅いなどと言ったことである。

しかし、結論を言えば、中国とは共産党政権であって、基本的には報道の自由の無い国であることを忘れての「苦情」が多い。しかも1974(昭和49)年1月5日に交わされた「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)に「拘束」されていることを一般の人は知らない。

この覚書をたてにこれまで何人もの特派員が強制退去を命じられている。1968(昭和43)年6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に亘って拘留された(鮫島事件)。

1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。

1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。

このように、「中国共産党に都合の悪い記事」を書くことは、事実上不可能となっている。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。

こうして追放されたり、睨まれた記者には中国は2度と入国ビザを発給しない。つまり「中国語」を売り物に入社したこの記者は、中国に睨まれたことが致命傷となって社内でも失業状態に追い込まれる。こんな危険を冒す者は変わり者以外に無い。

しかしこの覚書は日本側のいわばフライングが招いた「身から出た錆」なのである。国交正常化以前に中国特派員送り込み競争を演じる日本マスコミ界の足元を見た中国が、取材制限のハードルを高くした。それなのにマスコミ各社はそれを唯々諾々と呑んだのだ。

<紆余曲折を経て、1962(昭和37)年には、日本と中華人民共和国との間で「日中総合貿易に関する覚書」が交わされ、経済交流(いわゆるLT貿易)が行われるようになった。

1964(昭和39)年9月には、このLT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることとなった>。「ウィキペディア」)

ところが、この協定には重大な「毒」が入っていた。

(1) 日本政府は中国を敵視してはならないこと。

(2)米国追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しないこと。

(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないこと。

中華人民共和国政府の外務省報道局は、各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に牴触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。

記者交換協定の改定に先立つ1967年(昭和42年)には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。

この「協定」から現行の「覚書」まで約束の細かいところ、たとえば滞在記者の人数などはこれまで何回も改訂されているが、三項目は絶対条件になっている。

その後、外務大臣秘書官となった私は、それ以前は政治記者だったこともあって協定に格別な関心を持って中国側に対応したが、中国は基本的にマスコミを「敵」とみなしており、外国人記者は反革命分子としか認めておらず、取材の自由を与える事は国家的な危険を冒すことだと考えている。

余談だが、1972(昭和47)年9月、日中国交正常化交渉の為、日本の総理大臣として始めた北京を訪問した田中角栄首相。私も記者として同行したが、中国は日本人記者団を近距離記者と遠距離記者に分断。カメラマンは望遠レンズの使用を禁止された。中に銃を隠せるからが理由だった。

こうした中国の態度に日本のマスコミ各社は手を焼いているが、だからと言って妙手があるわけじゃなく、泣き寝入りが現状だ。中国報道が中途半端だったり、隔靴掻痒の感がする理由の一端を紹介した。マスコミはいちいち、こんな説明をしないだけ。

中国の裏情報に接する方法としては「大紀元」があるが、例えばこれを新聞社が転載しても何らかの報復措置を覚悟しなければならない。宮崎正弘さんのように、観光客として訪問した見聞とか、英字紙から中国情報を拾い出すのが安全といえるだろう。2010・6・30

■本稿は7月1日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1965号に
掲載されました。

<目次>
・規制されている中国報道:渡部亮次郎
・割れる民主、公約混乱:古澤 襄
・「議会制民主主義とは期限を切った独裁」: 阿比留瑠比
・梅の季節、水戸の憂鬱:平井修一
・喫茶店で寛ぎたい!:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年06月30日

◆巴里だより・オレンジ応援団

     岩本宏紀(在仏)

オランダ人に混じってオランダ対カメルーン戦を大画面で観戦した。

男も女も、老いも若きもみんなオレンジ色のいでたち。 のような帽子の頭にサッカーボールを乗っけたものと、
緑のヘルメットにオレンジ色の小型ブブゼラを付けたものが、 応援用品の主流だ。

椅子はもちろんなくて、全員立って観戦する。 飲み物はオランダのハイネケンだ。

オランダがゴールを決めると画面には 「GOAL」の大きな文字が 現れ、観客は両腕を突き上げて吠える。
まるでオレンジの大波だ。 天井からは紙吹雪が舞い、同時に水しぶきが飛んでくる。 ところがなんとなくべとつく。どうやらビールのようだ。

終盤になると、目がとろんとした若者同士のど突き合いも始まった。 ほろ酔い気分の女の子の一団は、黄色い喚声で上機嫌だ。

禿げ頭の選手が登場すると怒涛のような声援が湧き起った。 きっと往年の名選手なのだろう。

試合は2対1でオランダが征し、オレンジ応援団は 喜びの表情で帰途についたのだった。 (完)
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2010年06月27日

◆マスコミは金儲け

渡部亮次郎

最近のインターネット界では、マスコミのことを憎んでマス「ゴミ」と言う。大変なマスコミ不信を現していると思うが、私に言わせれば、もともと信じてはいけなかったマスコミを一旦は信じてしまった自分の不明を恥じるべきだと思う。

この世の中で、満腔の信頼を寄せられるメディアなぞは存在しない。まして「社会の木鐸」足り得るメディアなぞ存在するわけが無い。初めから「営利」を目的に設立された「民間放送」をマスメディアの一種と認定する浅はかな「良心」には、呆れてものが言えない。

例に出して悪いけれども「読売新聞」。「読売」とは新聞のことである。カネを取って読ませるから「新聞」なのである。「買われない」読売は「新聞」ではないことを商標にしている。つまり、この新聞は「木鐸」なんかではなく「金儲けの材料」に過ぎないことを自供しているようなものだ。

左様、「新聞」は「朝日」だろうが「毎日」だろうが「産経」だろうが、売れなければ倒産以外にない「商店」に過ぎないのだ。正義や趣味のために発行されているのでは無い。

だとすれば、如何にしたら大量に売れる商品足り得るか。それは読者への「迎合」に落ち着くこと、当然ではないか。朝日が日教組に迎合した紙面を作ることを非難する新聞があるが、言葉は悪いが「目くそ鼻くそ」である。新聞は本質的に己の利益のために恣意的であり「公平」は装う「衣」に過ぎない。産経とて同様である。

NHKに20年間、記者として在籍した経験から言うと、新聞社は朝7時のNHKニュースのオーダーを参考にして夕刊を編集する。その夕刊を参考にしてNHKは夜7時のニュースの配列を決める。

新聞社はそのNHK午後7時のオーダーを参考にして翌日朝刊の見出しを組む。これが真相だ。テレビと新聞は独立しているようで、全く渾然一体になっているのだ。それが判って私はNHKを去った。マスコミと絶縁した。何千万円かの退職金を捨てた。42歳。74歳まで生活苦に喘いできたが、気分は爽快だ。

テレビに移ろう。視聴率。本当はNHKも気にしているが、民放が最も気にしているのが、これだ。低い番組を作ればスポンサーがはなれて収入が激減するから、大衆迎合番組ばかりになる。これは民放の宿命である。

宿命はスポンサーの広告を放送して広告料を集めることにあるから、畏友の評論家加瀬英明によれば、民放の本意はコマーシャルだけ流せれば一番よいが、エサが無ければ魚は釣れないから餌として、ドラマなどを流さざるを得ない。民法の番組はコマーシャルの合間に流れる餌。良心も啓蒙も無い。餌代は安いほうが良いから「外注」になる。

したがって餌は視聴者の気に容るよう、いわば大衆迎合一点張りのものにせざるを得ない。低俗と非難される番組は低俗な大衆に迎合したものであるから、非難者は天に唾している愚者である。

政治番組が視聴者を誘導しているという批判も聞くが、政治番組はマスコミが行なう世論調査の傾向にあわせた迎合番組なのだから、それを見た世論が変われば、それがまた次の世論調査の結果となって表れるから、視聴者は己の尻尾を噛もうとしてグルグル周りをしている犬に似ている。そこに真実は無い。

放送局は経費節減のために、番組を丸ごと制作会社に「外注」する。NHKもやっているが、外注とは名ばかり。退職した元社員の会社が多い。勢い本社の意向に沿った番組にしかならないのは当然。経費削減場からりの番組だから見るに耐えないのは当然である。

政治評論家にも精彩の無いのが多いと人々はいうが、これは無理と言うもの。「世論」に沿ったディレクターの「意」に沿った発言をし続けなければ、次週の出演依頼は来なくなるから、縦横無尽、快適刀乱麻の解説など危なくて披露できたものじゃない。

これでも昔は政治記者をしていたから、いま活躍中の政治評論家の裏側を知り抜いている。その後、大臣秘書官として内閣の機密費を撒くことも担当して、裏の事情を知っているから、彼らの解説なんぞ、聴く気になれない。

余談だが、佐藤栄作政権当時、幹事長田中角栄が配る毎月10万円(いまから40年ぐらい前の!)の「チップ」を拒否したのは、はばかりながら私ぐらい。秘書官となって大臣からの土産購買補助金を受け取らなかった記者は1人だった。

私が新聞やテレビを漫然と絶対に接しないのは以上の理由による。まして番組を元に評論するなどは絶対にしない。時間の無駄というものだ。2010・6・26

■本稿は6月27日刊全国メルマガ「頂門の一針」1961号に
掲載されました。毛馬一三の記事もご拝読下さい。

<目次>
・マスコミは金儲け:渡部亮次郎
・10%で、どうなる「消費税選挙」:花岡信昭
・陸パンに食われた政党政治:山堂コラム 324
・変身した日本代表ティーム:前田正晶
・蕪村生誕地を定めた1通の「書簡」:毛馬一三
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■御意見・御感想は:
ryochan@polka.plala.or.jp

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2010年06月26日

◆啄木と琢次郎

渡部 亮次郎

(再掲)尊敬する古澤襄(ふるさわ のぼる)さんのブログで、噴出してしまった。http://blog.kajika.net/

<古澤さんの著書『沢内農民の興亡』に古澤家菩提寺である玉泉寺の第十九世琢神道器(たくしんどうき)という和尚さんの名が二度出てきます。20頁・46頁です。

これは啄禅道器(たくぜんどうき)が正しいので,本をお持ちの方は,ぜひ訂正をお願いするとともに,深くお詫びいたします。>とある。よく見ると「琢」なのか「啄」なのか分らなくなってしまった。

この文章を寄せた人は校正を専門としている方。「誤植の饗宴」と題する、誤植と校正にかかわる話を面白くしてくれているのだが、ご自分のことを謝罪するのに、また誤植をしてしまったのである。

正しくは「琢禅道器」だそうです。多分、この後に「誤植に泣いた啄木」という文章が続いているので、神経がそちらに行っていたのだろう、とやさしい古澤さんは苦笑い。

この方が紹介している話に、朝日新聞の校正係として死んだ啄木を朝日は詩人として遇し、死亡記事を載せたのはよかったが、大変な誤植があった、というのがあった。

<その啄木も誤植には最後の最後まで泣かされた。太田愛人『石川啄木と朝日新聞―― 編集長佐藤北江をめぐる人々』という本のなかでもこのエピソードは紹介されている。

『東京朝日新聞』が掲載した1912年(明45)4月14日の死亡記事のなかに,啄木の小説『鳥影』の名が出てくる。チョウエイと読む。その『鳥影』が“島影”と誤植されたうえ,“しまかげ”と誤ったルビが振られた。

これは形の紛らわしい漢字の見落としなのか,あるいは記者が“島影”と思い込んで書いたのを校正係も見落としたのか。ルビは活字を組むさいに現場の文選・植字工が振ったのかもしれないが,まず“島影”ともっともらしく誰かが誤ったところに,この誤植が残った第1因があった。つぎに校閲で事実を精確に調べなかったのが第2因である。

“みすぼらしき郷里の新聞”だけでなく,東京の一流紙もこんな誤植を犯す。あの世で記事を目にした啄木の“今朝の悲しみ”は深まっただろうか。それとも苦笑するだけだったろうか。

蛇足を付け加えるなら,啄木の死亡記事は朝日文庫『朝日新聞の記事にみる追悼録〔明治〕』に採録されているので,興味のある方は簡単に見ることができる。“紙面の明らかな誤植は編集部で改めました。”と断わってある言葉に偽りなく,“島影” は正されている。ルビはない。>

琢次郎というのは幼くして死んだ私の実兄。だから次に生まれた私は三男である。それなのに亮次郎だから、なんだかピンチヒッターみたいで厭だった。

高校に入って小説らしきものを書いた文藝部の機関誌の名は「琢磨」(たくま)というものだった。互いに励ましあって学徳をみがくことの意味らしい。みがくという意味が「琢」。

石川啄木(本名一)の「啄」は突っつくという意味で、啄木とはそのまま「きつつき」のことである。渋民に生まれ、東京で27歳で死んだ啄木。私が盛岡に在任した頃は4月13日の啄木忌(季語 春)しかなかったが、今では国際学会がある。

<ようこそ国際啄木学会のHPへ!

国際啄木学会は1989年12月、岩城之徳・遊座昭吾・上田博・太田登氏らを中心として設立されました。日本と外国における石川啄木の研究・普及を目的とする学会です。会員たちは創立以来多くのすぐれた研究成果を発表し、普及のための良書も数多く出版してきました。

韓国・台湾・インドネシアには創立当初から支部が結成され、すぐれた研究成果が挙げられています(今は海外の支部は「韓国啄木学会」のように呼称されます)。すでに台湾で2回、韓国で2回当学会の大会が開かれています。ドイツ・スイス・オーストリア・ロシア・フィンランド等にも会員を擁し、2005年にはインド啄木学会が成立しました。

今後わが学会は日本の内外において石川啄木の研究・普及をますます精力的に推し進めるとともに、若い会員をたくさん迎え、いっそう溌剌とした学会にして行きたいと思っています。>

また財団法人 石川啄木記念館もある。〒028-4132 岩手県盛岡市玉山
区渋民字渋民9  TEL.(019)683-2315/FAX.(019)683-3119
http://www.echna.ne.jp/~takuboku/

琢次郎とはどこへ行けば戸籍と逢えるのだろうか。それとも除籍されて
既に久しいのだろうか。2007・05・26