2013年11月20日

◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎


この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うものそして悲しくうたうものよしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)再掲

2013年11月16日

◆「中国の夢」と「冬季五輪招致」

山本 秀也


中国の習近平体制が初めて本格的な路線討議に臨んだ共産党中央委員会(第18期3中総会、11月9〜12日開催)では、政権のお題目とも言うべき民族復興(すなわち「中国の夢」)を念頭に、経済改革と党の権力強化に議論が集中した。固い分析は別の記事に譲ることにして、ここでは3中総会の直前に公表された2022年冬季五輪大会の北京招致を考えてみたい。

簡単に触れておくと、22年の冬季五輪は15年7月にマレーシアのクアラルンプールで開かれる国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まる。今月14日の立候補期限を前に、カザフスタンのアルマトイ、ノルウェーのオスロ、ポーランドのクラクフなどが立候補。北京は約200キロ離れた張家口との2都市共催という構想だ。

中国といえば、08年夏の北京五輪がまだ記憶に新しい。続いて22年の冬季大会も北京となれば、中国初の冬季大会となるのはむろん、同一都市での夏冬両大会開催という「五輪史上初」の快挙である。中国が狙っているのはまさにこの大金星だが、ことはそう簡単ではない。

スポーツ関係者がそろって指摘するのが、直前の18年冬季五輪が韓国の平昌で開催される点だ。地域バランスの観点から「アジアで2大会連続は困難」というのが普通の見方だ。

将来の北京招致に向けて、22年は「手を挙げておくだけ」というクールな声も。微小粒子状物質PM2・5をはじめとする北京周辺の環境問題となると、中国紙「環球時報」の世論調査ですら、過半数の回答(54・7%)が招致実現の足を引っ張ると指摘している。

実際、過去の五輪招致でも、中国が頭を悩ませたのがこの大気汚染である。シドニーに敗れた2000年五輪の北京招致活動では、IOC評価委員の視察中、汚染源となる工場操業のほか、石炭を使う暖房用の熱供給も止めて青空を呼び戻した。

ところが、中国は至って強気だ。国際バレーボール連盟の魏紀中・前会長は、北京放送へのコメントで、五輪開催を支え得る発展こそが招致の鍵だとして、「中国の招致申請は、中国の経済がよい方向に発展するというメッセージを世界に発信したのだ」と豪語した。

大会関連施設を含むインフラ整備による内需拡大や、招致に向けた環境対策そのものを否定する気はない。ただ、官製メディアを挙げての招致宣伝には、経済効果や国民向けのイベント効果を通り越し、「政治」の影がくっきりと浮かぶ。

すなわち、12年11月に発足した習近平政権が、2期10年を務め上げた最終年を飾る大舞台として、冬季北京五輪の招致は中国が本気になれる目標なのだ。

22年冬季大会は、習政権の「中国の夢」を象徴する大会として喧伝されるだろう。よって筆者はスポーツ関係者の懐疑論にはくみさない。中国は本気で22年の誘致活動を進めるはずだ。(産経新聞中国総局長)産経ニュース2013.11.15

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月15日

◆日露2+2は異例にあらず

宮家 邦彦


これまで日本では2プラス2(外交・防衛閣僚協議)の相手は同盟国と相場が決まっていた。それだけに2日に開かれた日露2プラス2会合は開催自体が「異例」とも「画期的」とも評価された。この閣僚会合の成果と課題について考えてみたい。

まずは主要紙の関連社説をじっくり読み比べてみた。論旨はさまざまだが、筆者が気になった論点は3点に集約される。ここは誤解を恐れず、感じたままを書いていこう。

第1に、旧仮想敵国ロシアとの2プラス2会合は「異例」という論調が一部ながら目立ったことだ。確かに、ロシアとは平和条約を結んでいない。だが、2プラス2会合は必ずしも同盟国や友好国とだけ開くものではない。現にロシアだって仏、米、伊、英と同種の会合を開催しているではないか。

今や日本も2プラス2会合の戦術的効用を考えるべき時期に来ている。その意味で今回のロシアはもちろんのこと、例えば中国、さらにはイスラエル、エジプトといった中東諸国との2プラス2会合だって決して異例ではないはずだ。

外交と防衛を一体として考えるこうしたアプローチは、日本政府部内で国家安全保障政策を企画・実施する上で極めて有効だ。大変失礼ながら、防衛官僚・制服組の中には日米同盟以外の重要問題に関する知識と経験に乏しい向きも少なくない。

例えば、2プラス2会合をイスラエル、エジプトなど中東諸国とも開けば、日本政府の安全保障問題に関する発想そのものが深化し、より戦略的な政策作りが可能になると信ずる。

第2に筆者が強調したいのは、日露2プラス2会合が領土問題を解決するための場ではないということだ。

一部の社説は領土問題に焦点を当て、「領土問題につなげよ」とか、「領土問題を置き去りにするな」といった論調が目立った。しかし、冷静に考えてほしい。

今回は日露間で初めて2プラス2会合が開かれ、経済だけでなく安全保障分野の協力をも議論する場が設定されたにすぎない。同会合と領土問題は直接関係なく、これで直ちに領土問題が進展するなどと期待すること自体現実的ではない。

最後は、日露閣僚会合が中国を念頭に置いたものとか、対中牽制を意図したものと期待すべきではないことだ。

政府関係者はともかく、主要紙社説の多くは日露の「対中牽制狙い」を前提に書かれていた。こうした発想は事実でないばかりか、戦略的な読み誤りにもなりかねない。

同会合の直前、ロシア外務省高官はインタビューで、「ロシアは中国と日本について議論しておらず、日本とも中国につき議論することはない」との趣旨を述べ、日本の一部にある日露による対中牽制論にくみしない姿勢を明らかにしている。

恐らくこれはロシア側の本音だろう。日本人は日本側の望むような形でロシア側が対中牽制に乗ってくる可能性がないことを正確に知るべきだ。

今回はテロ・海賊対処のための共同訓練、サイバー安全保障に関する協議の立ち上げなどに合意するとともに、安倍晋三首相の「積極的平和主義」についてロシア側から理解が示されたという。日本がロシアとの関係改善を進めることには大賛成だ。

しかし、現在のロシアの対日政策はロシア側の戦略的決断の結果として進められているわけでは決してない。このことは対露関係で常に念頭に置くべきである。もちろん、ロシアは中国を意識している。

だからといって、今のロシアに対中牽制を慫慂(しょうよう)すれば結果は逆効果だろう。ロシアは懸念を深めるし、中国側もさらに警戒心を高めるだけだ。

今日本にできることは、日露間で信頼醸成が着実に進み、一定のルール作りが可能であることを中国に具体的に示すことだ。ロシアの対中戦略観が変わるまで日露による対中牽制を期待すべきでないだろう。

【プロフィル】宮家邦彦
みやけ・くにひこ 昭和28(1953)年、神奈川県出身。栄光学園高、東京
大学法学部卒。53年外務省入省。中東1課長、在中国大使館公使、中東ア
フリカ局参事官などを歴任し、平成17年退官。第1次安倍内閣では首相公
邸連絡調整官を務めた。現在、立命館大学客員教授、キヤノングローバル
戦略研究所研究主幹。産経ニュース【宮家邦彦のWorld Watch】2013.11.14

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月14日

◆「大村益次郎」暗殺の件(3)

平井 修一


大村益次郎が官軍の事実上の最高司令官として京都から江戸に入ったのは明治元年5月初頭である。それまでは西郷隆盛が参謀として指揮していたのだが、幕臣の勝海舟らとの取り決めで江戸の治安回復は官軍に恭順した徳川家臣団に任せていた。

ところが治安は回復するどころか悪化する一方でありながら、西郷は信義に篤いし情にもろいから“融和政策”を変えない。京都の大総督府(有栖川宮熾仁=ありすがわのみやたるひと親王)では「西郷は勝に籠絡されたのではないか」などという声が高まり、西郷は上京を促されて江戸を留守にしていた。

つまり西郷に代わって大村が長州藩士を率いて、全員が薩摩藩士だった江戸の参謀局に乗り込んできたのである。ひと騒動は避けられない。

5月初旬、前触れもなく大村が長州藩士を引き連れて参謀局に現れ、まともな挨拶もなしに海江田らにこう指示した。

「君が参謀局の長か。この頃の庄内地方の紛擾はますます激しくなってきた。宇都宮の官軍を庄内に派遣しなくてはならないから速やかにその準備を整えるように」

愛想も何もない。薩摩藩の海江田はペリー来航以前から国事に携わっている志士であり、長州藩においても新人の大村をまったく知らないから“何だこいつは”とカチンときた。当たり前だ。

「あの・・・あなたはどなたですか」

「う・・・私は軍務官判事の大村益次郎だ。京都で朝廷から軍務の委任を受けて江戸に来た」

「・・・そうですか」

普通なら「そういうことか、この人が俺の上司なのか」と思うのだが、突如現れた大村が「朝廷」の威厳で「よろしく」という挨拶もなしに命令すれば、海江田でなくても“何だこいつは”とは思うだろう。

西郷が江戸を留守にしていて賊軍掃討作戦の総責任者だった海江田は反論した。

「お言葉ですが・・・宇都宮の官軍は連戦で死傷も少なくなく、疲弊しています。これを庄内に転戦させるというのは得策ではないでしょう。むしろ白河に派遣して仙台の応援を断ち、会津を攻撃させた方がいいと思いますが」

大村は幕府の第二次長州征伐を撥ね返し、西日本から賊軍を平らげてきた自分の作戦指揮に自信をもっていたから、この反論に当然ながらムッとした。

「君は、宇都宮の官軍はすでに戦に疲れて使えないというのか」

海江田は「疲弊していても軍令が下れば粉骨砕身も辞さないでしょう
が・・・」とこう続けた。

「今もし白河と会津の危急をさておいて宇都宮軍を庄内に転戦させるのなら、それよりもむしろ江戸に召還したほうがいい。今の江戸の実況はあなたはまだ詳しく知らないかもしれないが、干戈も兵火もなく江戸城の授受を終えたとはいえ、いつ火がつくか分かったものではありません。

庄内地方の戦略は現地に任せ、援助の要請が来たら応ずることにしたらいい。庄内では伊地知正治など軍事に熟練した者がいますから、失敗はまずないでしょう」

大村にこれだけ反論した者はいなかったからカッとした。

「君は何を言っている、白河は大したことはないし、仙台の弱兵を恐れる必要なんかない。私は朝廷の委任を受けてきたのだから、他人の指揮に従う必要はない。君は私の命令を実行すればいいのだ」

高飛車な嫌な野郎だと海江田も当然思うから、“売り言葉に買い言葉”になっていく。

「驚くべきことを言いますね。たとえあなたが朝廷の委任を受けていても、私も参謀官の一人として軍事の得失を考えているのであり、あなたの専決に任せるというものではありません。たとえあなたが宇都宮軍を庄内に送るといっても、私は必ずこれを阻止します」

事実上の官軍の最高司令官に正面から逆らうのだから海江田も相当頑固である。互いに非難し、もはや喧嘩腰になった。お互いが方言で言い合うのだから迫力はかなりのものだったろう。参謀局の空気が一気に緊張した。

大村「わっちは朝廷の委任を受けてきたのじゃけ、わっちはのんたのへーたらこーたらに従う必要はなか。なんバカんこといっとん、のんたはわっちの命令を実行すればよか。じらあくいあげるいのお」

海江田「何ゆとう。たとえおはんが宇都宮軍を庄内に送るちゅうても、おいは必ず阻止しもんで。何も知らんくせに、なむうなよ」

理工系の合理的な大村、体育会系の血盟重視の海江田。大村はウエットではなく人間の感情にあまり斟酌しないだろうが、喜怒哀楽の感情に富んでいる熱血漢、薩摩隼人の海江田は最初の出会いで大村を大嫌いになった。まことに不幸な出会いだった。

「結局、大村の案は参謀局の採用にならず沙汰止みになった」と海江田は言っている。

大村と海江田の不幸な出会いから始まった齟齬は拡大していく。

初対面での衝突から数日後、宇都宮の官軍から至急に大砲が必要だと依頼が来た。海江田は臼砲を幾門か送り出したが、翌日に大村がこれを聞き、「君は昨日、宇都宮軍に臼砲を送ったそうだが、私に報告せずに勝手に軍事を決済することは越権だ。控えたらどうか」と海江田を難じた。

畏れ入る海江田ではない。反論した。

「確かに臼砲を送りましたが、みだりに専断で処理したいわけではない。あなたが席にいたら必ず相談するが、ことは緊急を要した。一瞬でも遅速は許されず、間髪をいれずに処理しなければならなかった。至急の要件でなければ今日にでもあなたと相談するが、そんな暇はなかったのです。昨日あなたが席にいなかったのは私にとって残念でした。

大砲が一日でも遅れれば官軍は機を失って負けるかもしれない。もしあなたが昨日、席にいたなら大砲を送らなかったと言うのですか」

「いや・・・」

「それならば専断だなどとあえて私を責めることはないでしょう」

こんな風にまた互いを非難して喧嘩になるところだった。

その後また宇都宮軍から「白河口はすでに賊兵に侵奪された。速やかに援軍を送ってくれ。戦況を回復しないと賊兵は制し難くなる。宇都宮軍は参謀局の命令を待たずに直ちに白河に向かう」と急報があった。

続報によれば宇都宮軍は白河口の戦いに参戦し、敵はすこぶる勢いがあり苦戦を強いられ死傷も多かったが、奮戦してどうにか戦況を回復した。海江田が急送した臼砲が役立ったのだろう。(2013/11/12)

<「頂門の一針」から転載>

◆トウ小平は賢明で狡猾

渡部 亮次郎


トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年、毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたので国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命の本当の目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウは「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウは自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

10月の中央工作会議で行ったトウの自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。

トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。

毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。

1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。

実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。トウは賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。

下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。

毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。

またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。

トウ小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

            

2013年11月13日

◆だまこもち食べる?

渡部 亮次郎


「だまこもち」は、秋田県中央部の郷土料理。干拓以前の八郎潟の東側沿岸(湖東部といった)が発祥地である。潰したご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれ、主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

潰すご飯は新米が望ましい。したがって私が育った頃は、秋から冬にかけての定番料理。お袋は鶏肉と一緒に煮たが、シベリヤから飛んでくる鴨(かも)の肉が一番美味しかった。だまこ抜きでも。なお、「だまこ」は秋田弁で「丸める」である。

隣町の五城目町(ごじょうのめまち)で、1959(昭和34)年に三笠宮崇仁親王がだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、周辺地域を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。

鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。


八郎潟周辺地域の、山林で働く木こりが弁当の飯を切り株の上に乗せ、斧の背で潰したものが起源とされている。一方、マタギ料理が起源であるとも言われ、だまこもちがきりたんぽの原型になったとする説もある。

以前は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

鍋に残っただまこを、翌朝、串刺しにし、囲炉裏の焚き火にかざして、こんがり焼けたところを食べるのが好きだった。70年前の話だ。

実を言うと、東京では、鮟鱇鍋や牡蠣鍋などを知ったし、冬は加えて「おでん」も美味であるため、だまこもち鍋はしたことがない。

2010年の正月鍋は同じ秋田県でも角館の隣「田沢高原」でとれた「山の芋」鍋をした。

グローブに似た「山の芋」を摩り下ろすと、強い粘りの為、団子状に丸める事ができる。これを鶏肉と「舞茸」、葱などを煮た鍋に落とし込んで食べるもの。なかなか風味があってよろしかった。


2013年11月08日

◆「勇み足」認めた朝日の慰安婦報道

阿比留 瑠比


日本の官憲が女性を強制連行して慰安婦としたという虚構を世界に広めた「主犯」は平成5年8月の河野談話だが、その「従犯」とも「共犯」ともいえるのが朝日新聞である。今月1日付の読売新聞は政治面の記事でこう書いている。

「日韓両国間の外交問題になったのは、1992 (平成4)年の朝日新 聞の報道が発端だ。旧日本軍に関し、『主として朝鮮人女性を挺(てい) 身(しん)隊の名で強制連行した』などと事実関係を誤って報じた」

読売は5月14 日付紙面でも朝日について「戦時勤労動員制度の『女子 挺身隊』を“慰安婦狩り”と誤って報じた」と指摘しているが、これは4年1月11日付の朝日の1面トップ記事「慰安所軍関与示す資料」を指すとみられる。

この記事は、明確な根拠は示さないまま慰安婦について「多くは朝鮮人女性」「人数は8万とも20万ともいわれる」などとも記している。現代史家の秦郁彦氏の推計では、慰安婦の総数は2万〜2万数千人で、そのうち日本人が4割(朝鮮人は2割程度)を占めていたにもかかわらずだ。

さらに朝日は、吉田清治氏という「職業的詐話師」(秦氏)による「韓国・済州島で女性を強制連行した」との証言を確認も検証もしないまま信じ、繰り返し報じてきた。

吉田証言は後に、秦氏の現地調査や地元紙の済州新聞の報道で、完全に「作り話」だったことが判明した。ところが、「ひと」欄(昭和58年 11月10日付)で「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を建てる」と取り上げ たり、1面コラム「窓」(平成4年1月23日付)で「吉田氏は腹がす わっている」と持ち上げたりしてきた朝日は、過去記事を訂正しようとし ない。

一方、朝日の後を追うように毎日新聞や赤旗など他紙やテレビも吉田証言を報じたため、吉田氏の嘘は世界にも広まっていった。

韓国政府が4年7月にまとめた「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告」や、国連人権委員会に提出され、慰安婦を「性奴隷」と認定した8年の「クマラスワミ報告」も吉田証言を引用している。朝日をはじめとする日本のメディアの報道が、吉田証言にお墨付きを与えた結果でもあろう。

それでも朝日は責任を認めず、9年3月31日付の慰安婦特集記事では 吉田証言に関して、次のように報じている。

「朝日新聞などいくつかのメディアに登場したが、間もなく、この証言を疑問視する声が上がった」

朝日の前主筆、若宮啓文氏は今年9月に出版した著書で、名指しはしていないものの吉田証言について振り返っている。

「朝日新聞もこれ(慰安婦問題)を熱心に報じた時期があった。中には力ずくの『慰安婦狩り』を実際に行ったという日本の元軍人の話を信じて、確認のとれぬまま記事にするような勇み足もあった」

勇み足とは「やりすぎの失敗」を意味する。失敗と分かっているなら潔くそれを紙面で認め、世界でいわれなき批判を浴びている国民に謝罪すべきではないか。(政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2013.11.7

<「頂門の一針」から転載>


◆「満洲国」建国譚(8)

平井 修一


「清朝最後の皇帝、ラストエンペラー」と呼ばれる宣統帝・溥儀(ふぎ、1906−1967)は2歳10か月で第13代皇帝に即位した(父・醇親王が摂政)。

1912年1月に中華民国政府が樹立されると2月に宣統帝は退位したが、その際に退位後も「大清皇帝」の尊号を保持し、引き続き紫禁城(皇宮)で生活すること、中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払うことなどの「清帝退位優待条件」を取り決めた。

退位と中華民国の樹立は溥儀自らの詔勅によっており、この取り決めは無血で政権を移譲した代償である(400万両支払いは1年で反故にされた)。

ところが1924年10月、軍閥・馮(ひょう)玉祥のクーデターにより「清帝退位優待条件」を一方的に破棄され、溥儀は紫禁城から強制的に退去させられる。溥儀を保護したのは日本だけで、以来、天津市の日本租界の張園に移って暮らしていた。

満洲事変が始まって間もない1931年10月末、関東軍特務機関長の土肥原賢二が25歳の溥儀を訪ねた。退位したとはいえ溥儀は祖国満洲の満人から支持されており、彼自身も復辟(ふくへき、復位)を望み、満洲事変は満洲皇帝になるチャンスだった。溥儀は南次郎陸相にも接触していた。

土肥原「関東軍の行動は張学良個人に対するもので、張が満洲人民を塗炭の苦しみに落とし、日本人の権益や生命、財産を保護しないで、やむを得ず出兵を行ったのです。

日本政府は、満洲に対しては決して領土的野心はなく、誠心誠意、満洲人民が自己の新国家を建設するのを援助する方針であり、皇上(陛下)がこの機会に初代太祖ヌルハチ皇帝発祥の地に帰り、親しく新国家の指導にあたっていただきたいと願っています」

溥儀「どのような国家になるのですか」

土肥原「独立自主の国で、宣統帝がすべてを決定する国家です」

溥儀「いや、私が知りたいのは、その国家が共和制か、帝政かということです。復位なら奉天へ行きますが、そうでないなら行きません」

土肥原「皇上、もちろん帝国です。それは問題ありません」

溥儀「帝国ならば行きましょう」(溥儀の自伝「我が半生」)

溥儀は「玉」だった。溥儀にとっては待ちに待った朗報だったが、玉を奪われてなるものかと蒋介石の南京国民政府から暗殺団が送られていた。

<溥儀を天津から連れ出すのは難しい状態であった。昭和6年(1931)11月8日夜、天津日本租界のはずれから中国街一体にかけて暴徒が襲来した。1000人の中国人が日本側に雇われてやった行動である。

(どさくさに紛れて)彼は私邸から洗濯物の籠の中に入って運び出され、一旦、日本料亭の奥に入り、日本陸軍将校の少佐の肩章がついた軍服を着せられた。土肥原大佐と並んで乗用車に乗り、フルスピードで市街を通り抜け、白河に用意した陸軍の小艇に乗り込む。

防弾用の鉄板と畳にかこまれた船室に入ると、艇は河口の溏沽(とうこ)へ向け急ぎ出航した。待機していた汽船に乗船し、渤海湾を渡って遼寧省営口に着いたのは12日午前9時のことである。

宣統帝は初めて祖宗発祥の地、満洲の大地を踏んだ。従者は後に満洲帝国総理となる鄭孝胥ら4名である。営口の桟橋には甘粕正彦が人夫の小頭といったようなボロ外套と巻き脚絆姿で出迎えていた。

溥儀は満洲に入っても不安だったが、湯岡子温泉に到着した時、初めて日満の歓迎の人波に迎えられた。満族の人が進み出て「陛下、この日を200年間お待ちしていました」と述べた時、溥儀も満族の人々も感極まって涙を流して泣いたという>(古野直也「張家三代の興亡」)

まるで映画のハイライトを見るようだ。手に汗握る名場面である。

古野は言う、「分かりやすく言えば、満洲の所有者である清国皇帝だった宣統帝が君臨したのだ。列国も文句のつけようがなかった」。

翌1932年3月1日、「満洲国」の建国を宣言、溥儀を執政(1934年に皇帝)とし、3月9日、首都新京(長春)で盛大な建国式を行った。建国の理念は「五族協和、王道楽土」で、五族は日本人、漢人、朝鮮人、満洲人、蒙古人を指す。

半年後の9月15日、日本政府は満洲国を承認し、これに続いて正式承認したのは中華民国南京国民政府、ドイツ、イタリア、スペイン、ヴァチカン、ポーランド、クロアチア、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、デンマーク、エルサルバドル、準承認(国書交換)がエストニア、リトアニア、ドミニカ、大東亜戦争中に承認したのがタイ、ビルマ、フィリピン、蒙古自治邦(内モンゴル)、自由インド仮政府だった。

国際連盟加盟国が50か国ほどだった時代に、世界23か国が満州国を承認したのである。(2013/11/5)

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月07日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎


名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項のみ広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てんきょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者ではない。悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結することになった。

1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤は、シチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 2007・04・15執筆


2013年11月05日

◆ラ大使発言時の外相秘書官は私だった

渡部 亮次郎


古森義久氏(現在は産経新聞記者としてワシントン駐在中)はレーガン共和党政権成立時の1981年5月、アメリカ民主党系の大手シンクタン「カーネギー国際平和財団」に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。

その間の同年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。

これは鈴木善幸政権のころで、外務大臣は園田直(そのだ すなお)、その秘書官が不肖渡部亮次郎だった。

とはいえ、当時、日米首脳会談に際して発表した日米共同声明をめぐる鈴木首相と外務大臣伊東正義氏の対立が表面化。伊東外相が辞任したので、園田氏が後任として厚生大臣から急遽横滑り就任したばかりだった(5月18日)。

20日にマンスフィールド大使が外務省に尋ねてきて1時間会談、そのご衆参両院で野党による緊急質問が行なわれたが、政府、外務省としては事前協議の要請があった事は、これまでになかったのだから核の持込は無かった、と「見解」を統一。完全否定で切り抜けた。慌てる者は誰もなかった。

当時、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブの野党各党で政府答弁を信じる者は皆無、核持ち込みを事実と想像していた。

個人的には「持ち込まれていることがあるかもしれない、と思わせた方が抑止力だ」と漏らす野党議員もいた。

後年、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。

さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。
それでも日本政府は否定しつづけていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認めた。

今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森氏の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

これに先立って1967(昭和42)年に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。「日本に他国から核兵器を持ち込まさせない」ということで1974年(昭和49年)に提唱者の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

それ以降の歴代内閣は非核三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も非核三原則の遵守を表明していた。

アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としていたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港するアメリカ海軍の艦船が兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる。

後年の1999(平成11)年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年(昭和38年)にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。

また、2008(平成20)年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、朝鮮戦争時の1953(昭和28)年にアメリカ海軍の航空母艦「オリスカニー」が核兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった。

さらにライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長がアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」2010年3・4月号へ寄稿して明らかにした。

それによると、アメリカ軍がベトナム戦争中の1966(昭和41)年に、日米安全保障条約に違反して、返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあったといい、1972(昭和47)年の沖縄返還までアメリカ軍がたびたび日本政府とアメリカ国務省の要請をはねつけ、同様の核持ち込みを行っていたことも示唆している。

パッカードはまた毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたと証言した。

なお、1991年(平成3年)の冷戦終結に伴い、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が地上配備の戦術核兵器と海上配備の戦術核ミサイルの撤去を宣言したことで、平時において核搭載艦船が寄港するなどの形で日本への核持ち込みは無くなったとされる。


核の持ち込みについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」とし、「事前協議があれば核持ち込みを拒否する」とことを表明していた。

しかし、これは逆に「協議を申し出るか否かはアメリカ軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。

また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ海軍艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ海軍艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じていない)。

またカート・キャンベル国務次官補は2009年(平成21年)9月に来日した際、持込みに関する密約は事実存在し「非核三原則」は有名無実である旨言明した。

核持ち込み問題について、2009(平成21)年9月に鳩山由紀夫内閣で外務大臣となった岡田克也は全て調査し11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。

日米間の核持ち込みに関する密約は2つあり、1つ目は核搭載米軍艦船の一時寄港と領海通過密約、2つ目は緊急事態における事前協議後の沖縄への核の持ち込み密約である。

2010年(平成22年)3月に報告書が出されたが、いずれにしてもこの様に元駐日アメリカ大使本人や、その後の様々な調査によりアメリカ軍による日本への核持ち込みとそれに対する「密約」が存在していたことが事前に証明されているにもかかわらず、なぜ時間と手間をかけて調査、報告をする必要があったのかと、その背後関係を懸念する意見もある。

鳩山内閣は核の持ち込みについて事前協議があった時には「常に核持ち込みを拒否する」としていた政府見解を「核持ち込みを認めるかどうかを曖昧にする」に見直す方向で検討を始めた。

「核兵器の持ち込み」(アメリカ軍に限られ、他国軍については適用しない)の定義については、日米間に相違があった。すなわち、米国政府の理解は、「持込み(introduction)とは核兵器の配置や貯蔵を指すものであり、それ以外は、「transit」として一括し、「transit」には寄港、通航、飛来、訪問、着陸が含まれ、共に事前協議の対象外であるとするも
の」である。

これに対して日本側では、「transit」も「持ち込み」に当たると解釈する。この米国側の解釈と日本側の解釈の違いが、さまざまな混乱の元であるとされている。

実際、他の事例で言えば、旅客機が最終目的地までの飛行の途中で他の空港に立ち寄ることがあるが、これは「トランジット」と呼ばれており、立ち寄り空港のある国のビザなどは必要とされない。

また、貨物船がある国に寄港する場合にも、貨物をその国に通関させない限り、何らの手続きを要しない。以上のことから、国際的には、たとえ貨物が核兵器であっても、単なる寄港の場合は、その国に持ち込んだことにはならない、との解釈が常識的である。

2010(平成22)年1月、岸政権下の1960(昭和35)年に外務事務次官を務めた山田久就が、国会で事前協議に関して為した答弁「通過・寄港も対象」は野党の追及をかわすための嘘であり、実は対象外にされていたことが、公開されたインタビュー録音から判明した。

日米政府の公文書公開により、核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知られるようになった。

2010(平成22)年3月に発表された日本の外務省調査委員会は明文化された日米密約文書はないとしながらも、日本の政府高官が核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知りながらも米国に核の持ち込みの定義の変更を主張していないことなどを理由に、核の持ち込みについて広義の密約があったと結論付けた。

日米政府の公文書公開により、寄港などの形で核持ち込みを知っていた政府高官は以下の通り。内閣総理大臣経験者として岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三。

外務大臣経験者として愛知揆一、木村俊夫、鳩山威一郎、園田直、大来佐武郎、伊東正義、桜内義雄、安倍晋太郎、倉成正、三塚博、中山太郎。

内閣官房長官経験者として二階堂進。

1994(平成6)年に佐藤首相の密使を務めたとされる若泉敬(当時は京都産業大学教授)が「1969(昭和44)年11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言している。

2010年(平成22年)3月に鳩山内閣の調査報告書が出された。調査報告書では佐藤栄作元首相がニクソン元大統領と有事の際に沖縄への核持ち込みについて、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことが明文化された密約文書が確認されたが、外務省の中で引継ぎがされた形跡がないという理由から日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。

大きく報じられる事はなかったが、「密約」に身を挺した若泉敬氏は服毒自殺した。佐藤=ニクソンで交わされt密約の舞台裏を、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。

完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。佐藤ノーベル平和賞野犠牲者である。
(「ウィキペディア」)

◆チエミ波乱万丈の生涯

渡部 亮次郎


大スター江チエミは失意のうち、吐しゃ物を喉に詰まらせて死んだ。まだ45だった。3日文化勲章を受けた俳優高倉健の元夫人であった。

少女歌手、江利チエミのルーツは「生活を支えるため」であり、この点は美空ひばりとの相違である。ひばりは母親のなし得なかった「歌手になる」という夢と、自身も歌が好きで非常に巧かったということが合致し、マメ歌手の人生をスタートするが、豊かではないまでも実家は父が「魚増」という鮮魚店を営み、家計に困窮していたわけでは無かった。

片やチエミは、三亀松師匠とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負っていた。

長兄は陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、結局、父がマネージャー、長兄が付き人という3人4脚での芸能活動が、1949年(昭和24年)、12歳のころからスタートすることになった。

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに彼女はドリス・ディの「アゲイン」などを習得して、ジャズ歌手という方向性に照準をあわせる。

進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドから彼女は運命のレコード「テネシーワルツ」をプレゼントされる。

この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードの試験にパスし、1952(昭和27)年1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのとき15歳。

しかし吹き込みは前年の11月だったため、キングレコードは「14歳の天才少女」というキャッチコピーを提案した。しかしこのとき「嘘をつくのは嫌だ!」と抗議。

少女時代から自分の意志を通す一徹な部分を持った性格だった。母はチエミのデビューを待たず1951年6月に不帰の客となった。

同年、初主演映画の『猛獣使いの少女』に出演、「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれるようになる。

幅広いジャンルで活躍

チエミのテネシーワルツの大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。

後のペギー葉山、カントリーの小坂一也など、ロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化の魁を果たした。

本来、チエミの興行の権利を握っていたのは吉本興業であった。若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと二人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。

後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と笑っている。

メジャーデビューの翌年、1953(昭和28)年の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。

ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

なお、チエミが渡米している間にライバルとなる雪村いづみがデビュー。帰国第一声は「雪村いづみって、どんな子?」だったという。しかもデビュー曲が自らカバーしようと準備していたテレサ・ブリュワー「想い出のワルツ」(原題: Till I Waltz Again with You)だったので心中おだやかではなかったが、スカートの丈が合わずシミーズが少し出た背の高い痩
せぎすな少女・いづみが空港で出迎え、その屈託の無い可憐な姿にチエミの心は和み、やがて二人は終生の親友となった。

美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡。

『ジャンケン娘』(1955年)などの一連の映画で共演。その頃からチエミは、日劇をホームグラウンドとして活躍、日劇の歴史で「歌手の名前がそのロングラン公演のタイトル」となったのは、1955(昭和30)年4月26日- 5月6日『チエミ海を渡る』がさきがけだった(江利チエミ日劇初出場はメジャーデビュー前の1951年(昭和26年)。1952年から1967年までリサイタルを開いた)。またTBS『チエミ大いに歌う』は、ワンマンショウスタイルのさきがけともなった歌番組(1965年4月 - 11月)であった。

映画の『サザエさん』シリーズ(1956年から全10作が作られた)もヒット。後にテレビドラマ(1965年 - 1967年)、舞台化もされ生涯の当たり役となる。

東映作品『ちいさこべ』では京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得、『ふんどし医者』など、自身主演の音楽娯楽映画(『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)、『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)、『チエミの婦人靴』など)以外にも数多く助演した。

1959(昭和34)年、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入るものの、1960(昭和35)年に本格的に復帰。高倉とは義姉(異父姉)による横領事件などがあって1971(昭和46)年にチエミ側から離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

1963(昭和38)年には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での『マイ・フェア・レディ』に主演しテアトロン賞、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞。

これに遡る1961(昭和36)年には「歌手としてはじめて」の舞台の1か月座長公演も梅田コマ『チエミのスター誕生』で果たし、舞台女優としても活躍した(翌1962年の新宿コマ『スター誕生』公演で芸術祭奨励賞受賞)。

代表作には、『アニーよ銃をとれ』、『お染久松』(芸術祭奨励賞)、『芸者春駒』、『白狐の恋』(芸術祭優秀賞)、『春香伝』、『花木蘭』などがある。

新宿コマの座長公演は1962(昭和37)年の『スター誕生』から1978(昭和53)年の『サザエさん』まで続いた。松竹系の舞台でも、1978(昭和53)年京都南座で音楽劇『二十四の瞳』に主演。

助演した舞台にも東宝歌舞伎『沓掛時次郎』(長谷川一夫と共演)、コマ歌舞伎『春夏秋冬』(現:坂田藤十郎(4代目)、当時の中村扇雀と共演)があり、女優としても幅広い活躍を続けた。

テレビドラマも『チエミの瓦版太平記』、『咲子さんちょっと』、『あの妓ちゃん』、『黄色いトマト』、『ねぎぼうずの唄』、『はじめまして』、『赤帽かあちゃん』など多数の作品に主演。

その活動の範囲は、歌手・女優に留まらず、NHK『連想ゲーム』の紅組キャプテン、TBS『みんなで歌おう73 - 75』のメインパーソナリティなど司会業でも活躍し、テレビ朝日『象印クイズヒントでピント』では女性軍2代目キャプテンを務めていた。

「エリー」という愛称が定着しているが、親しい友人の間では「ノニ」というあだ名で呼ばれていた。これは、チエミが、「…なのに」と口癖の様に言うことが多いことから使われていたと、彼女との思い出を振り返っていた杉良太郎が歌番組で語っていた。

45歳、突然の死

1982(昭和57)年2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。享年45。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるものだった。

数日前から風邪を引き体調が悪かったところに、ウィスキーの牛乳割りを呷り、さらに暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ってしまったのが原因と言われる。

その前日は、2日前に行われた熊本での和服卸会社主催のイベントから帰宅したばかりで、亡くなった当日の夜にも北海道でやはり和服関連のイベントが組まれていた。

偶然ではあるが、チエミの柩が玄関を出た2月16日は、奇しくも最期まで愛してやまなかった高倉健との結婚で、花嫁衣装を着て実家の玄関を出た日と同じであった。

その高倉はチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を送り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという。

波瀾万丈の人生

チエミの実母と幼くして生き別れになり、名古屋で家庭をもって暮らしていた異父姉のY子は、ある日「テネシーワルツでスターになった歌手、江利チエミ」が自分の妹であることを知った(母のプロフィール:谷崎歳子の名でそれを知る)。

彼女は経済的に困窮している、家庭がうまくいっていないと虚実を語り、家政婦・付き人といった形で江利チエミ一家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かるまでになった。ここからY子の捻じ曲がった感情によるいわれのない「江利チエミへの復讐」が始まる。

Y子は高倉健、チエミにそれぞれの「でっちあげの誹謗中傷」を吹聴し、離婚への足がかりを作ることとなる。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、あげくは高利に借金をし、不動産までも抵当に入れた。

事件発覚後も容疑を否定し、チエミへの誹謗中傷を週刊誌で行い、挙句は失踪、自殺未遂まで行う。チエミは自己破産をせず責任は自分でとると決意、断腸の思いで義姉を告訴。

義姉には実刑判決が下る。不遇の境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行であった。

2億とも4億とも言われた動産の被害、不動産担保を、チエミは一人で完済した。

デビュー直前の母の死、3人の兄もチエミ存命中に2人が亡くなり、高倉健との間に授かった子供も流産、またかわいがっていた甥の電車事故死、そして離婚と家庭運に恵まれなかったところも多かった。

さらに1968年にはポリープによる声帯の手術、また1970年には自宅を全焼、1972(昭和47)年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇しており、芸能生活の華やかな栄光の陰になぜか「不幸」がつきまとう波乱の生涯であった。
(ウイキペデイア)2013・11・4


2013年11月04日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎


1946(昭和21)年1月19日のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関だった。今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定した。

私も尾高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験ムードに反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」。

   作詩:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

大学を出てNHKで政治記者になった。

ある夜、東京・新宿のスナックで唄っていたら、見知らぬ男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴くものと心得ている。2013・10・29

2013年10月31日

◆メシに良く合うのが洋食

渡部 亮次郎


洋食(ようしょく)は狭義では日本で独自に発展した西洋風の料理を指す。岡田哲は『とんかつの誕生』で、「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食」という説を唱えた。

私は東京向島の洋食屋へ良く行くが、そういえばここでパンをちぎっている客は見たことが無い。「米飯と合うのが洋食」とは良く言ったものだ。

幕末から明治期にかけて来日した西洋人(おもにイギリス人)たちを相手に生まれた西洋料理店の料理がルーツである。それらの店で下働きしていた日本人コックたちは、のちに独立開業し、日本全土にその料理を広めた。

この流れとは別に、日本海軍はイギリス海軍を手本にして早くから西洋式の食事を取り入れ、洋食の普及に大きな役割を果たした。

これらの西洋料理は、日本の伝統的な「和食」に対して、次第に「洋食」と呼ばれるようになった。

かつて日本では肉食を忌避する習慣があったため、肉料理を主体とする西洋料理は日本人には馴染みにくかった。

しかし、1872(明治5)年、明治天皇が「これまで肉食を忌避してきたのは謂われのないことである」という趣旨のことを言ったという報道などもあり、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まった。

当時の洋食黎明期の日本で、西洋料理の食材を揃えることは難しかったが、徐々に改善された。日本人の味覚に合わせるためのアレンジが加えられることもあり、日本生まれの洋食としては、ポークカツレツ、カキフライ、エビフライ、ポテトコロッケ、ハヤシライス、オムライス、ドリアなどが挙げられる。

「とんかつ」のように、ほとんど和食と化したような料理もある。またエスカロップ(北海道根室市)やトルコライス(長崎県)のように、郷土料理と呼ばれている料理もある。

マカロニグラタン、クリームコロッケ、コンソメスープ、ポタージュ(フランス料理)、ビーフシチュー(イギリス料理)、ピカタ(イタリア料理)などは、西洋の調理法をほぼそのまま踏襲している洋食である。

これらは第2次世界大戦前では非常に高価であったが、戦後になってGHQ
の指導により西洋食材の普及が進んだこともあって、急速に日本人の食生活に広まり、ポピュラーな洋食となった例である。

1863(文久3)年、日本初の西洋料理店「良林亭」が長崎で開業。店主兼料理長は草野丈吉、パトロンは明治を代表する実業家の渋沢栄一と五代才助。外国人や薩摩藩士に重用された。

1868(慶応4)年、「築地ホテル館」開業。レストラン初代料理長はフランス人コックのルイ・ベギュー。このレストランが日本で最初のフランス料理店とされる。

1872(明治5)年、西洋料理のレシピ集「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。

1876(明治9)年、日本人で初めて「フランス料理店」を名乗る上野精養軒が開業。後年、家人の父親がシェフを務めた。

1987(昭和62)年、和洋折衷料理という言葉が流行。東京の洋食店は1500店に膨らむ。

このうち、銀座の「煉瓦亭」は天ぷらのように大量の油で揚げるポークカツレツや、カキフライなどを考案し、のちの洋食に大きな影響を与えた。

1917(大正6)年、『コロッケー(コロッケの唄)』が流行。歌の内容は「ワイフを貰ってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケー、年がら年中コロッケー、アハハッハ、是りゃ可笑しい」。

新妻は、女学校で学んだ当時のハイカラな洋食であるコロッケを毎日張り切って作っていたのだが、亭主はうんざりしてしまったという内容である。

1924(大正13)年、東京神田に和・洋・中華のすべてを扱う大衆食堂「須田町食堂」が開店し、廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せるなどして人気となった。

このころ、お好み焼きのルーツである「一銭洋食」が駄菓子屋で人気となる。小麦粉を水で溶き、刻みネギなどを乗せて焼き、ウスターソースをかけて売られた。

1956(昭和31)年、アメリカ政府の「小麦戦略」により、日本で栄養改善運動と称して各地にキッチンカーが走り、洋食(および中華料理)が宣伝された。フライパン運動とも呼ばれ、4年余り続いた。

洋食でよく用いられる調味料のひとつであるウスターソースは、もともとイギリスの調味料であったが、大正時代に三ツ矢ソース、イカリソースなどのソースメーカーが関西に誕生して広まり、「新味醤油」「洋式醤油」などと呼ばれて様々な料理に用いられるようになった。記録によると阪神百貨店の大食堂では一人当たり160ccも使用したという。

ドミグラスソースやホワイトソース(ベシャメルソース)は、19世紀頃のフランス料理では主流のソースであったため、現在の洋食店でそれがよく用いられるのは、その当時の名残りと考えられる。

トマトケチャップが大衆化したのは第2次世界大戦後にアメリカ進駐軍が大量に日本に持ち込んで以降である。

一般的に「洋食」は、西洋料理全般から西洋風の料理まで幅広く意味する言葉であり、「和食」に対する概念として用いられている。

しかし近年においては、フランス料理は「フランス料理」、イタリア料理は「イタリア料理」というように、国名で呼ばれることが多いため、日本で独自に進化した西洋風の料理のことを「洋食」として区別される。

また石毛直道は『講座 食の文化 第2巻 日本の食事文化』で、「「洋食」は特定の欧米に限定されたモデルをもたない。それは、日本人が漠然とイメージした欧米一般のことであり、いわば日本で再構成された外来風の食事システムである」(同書p381)と述べている。

また村岡實は、平凡社の『世界大百科事典』の「洋食」の項のなかで、「洋食には多分に日本的な要素がふくまれている」と指摘している。<ウィキペディア>

 

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