2010年05月17日

◆大阪「都」の理由

渡部亮次郎

大阪府の橋下知事が、最近、盛んに大阪「都」になりたいと発言している。「都」とはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、都とは「宮処(みやどころ、みやこ)」から転じた言語。

天皇の宮殿のあるところをいう言葉である。古代の難波京(大阪)、平城京(奈良)、平安京(京都)など。現在では京都および東京とされている。大阪が「都」を名乗る資格は無い。

上記の意味が転じて、政治や行政の中枢機関が置かれた都市のこと。統治システムの階層ごとにその中枢が設置される都市があるため、国家レベルの中枢都市は「首都」と言い、広域自治体(米国では州、日本では都道府県)レベルの中枢都市は「州都」、「道都」、「県都」などと言う。→都道府県庁所在地

橋下知事の発言を忖度して調べてみると、なるほど、大阪市などと大阪府が合併して大阪「都」になりたい根拠が東京「都」にあった。

東京は明治維新以前の東京都都心部の旧称は江戸であり、江戸時代には江戸幕府の所在地として栄えた。第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日に「東京都制」が施行され 、東京府と東京市を統合した形で東京都が設置」された。

第2次大戦後の1947(昭和22)年に地方自治法が施行されたために東京都制は廃止されたが、東京都の名称と行政区域は変更されず現在に至っている。

このため東京都庁は、23区を包括する市役所としての機能と県庁として広域行政体としての機能とを併せ持っている。

橋下知事はこれを狙って「大阪都」で府民の歓心をくすぐり、大阪「市」と「府」の合併を呼びかけているのである。しかし、東京都への歴史を語らずに、矢鱈「大阪都」を連呼するものだから、現在、天皇陛下をお守りしている東京都民は、橋下知事好かんと言っている。

2010年05月16日

◆藁(わら)が消えて行く

渡部亮次郎

古来から稲の生産が盛んであった日本では、藁は大量に出る副産物であり、これをいかに利用していくかが生活そのものであった。

例えば、『万葉集』の中でも見られる住宅に藁を敷いて寝るというスタイルは古代から地域によっては江戸時代まで続き、住宅が板敷きになっても藁布団を用いたり、茣蓙や筵のような敷物や畳・円座などの藁製品の上に座る風習は長く続いた。

ところが、いまや何処の農村でも藁は無くなり、注連縄(しめなわ)も藁で無い材料を使わざるを得ない状態になっているらしい。

当メルマガ「頂門の一針」の読者からの指摘に依ればコメ(秋田小町)5Kg=2000円なのに、東京・小岩の藁専門店では藁5Kgの方が高くて2100円だそうである。
http://www.waranawa.com/wara.html?gclid=CKOrjO-BzKECFRVAbwodYHVVdw

1960年代以後の農業の省力化と藁製品そのものの需要の減少によって藁仕事は殆ど見られなくなったからである。今や稲刈りを手でするところはまず無い。コンバインだ。

すると藁は細かく粉砕されて田圃に撒かれる。だから藁を藁として取り出す為には稲刈りを手でやらねばならず、人件費の分、コメより割高になってしまうのである。

黄色のビニールで作った注連縄は丈夫で長持ちするが、そうではなくて藁が手に入らなかったための苦肉の策ではなかったか。


かつて、農業地域の収穫期には大量の藁が発生するため、業者が大型トラックでその買い付けにやって来るという光景がごく当り前に見られた。

だが、コンバインが収穫作業の中心となってからは、刈り取られたイネがその場で直ぐに裁断され圃場一面に排出されるため、かつてのような買い付けの光景を見ることはまず無い。

かえって、今日では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にある。最近の研究で本田技術研究所からバイオエタノールの製造実験が発表されている。

戦後、住宅が板敷きになっても藁布団を用いたり、茣蓙(ゴザ)や筵(むしろ)のような敷物や畳・円座などの藁製品の上に座る風習は長く続いた。

また衣服としては笠や蓑、草鞋、藁手袋、雪国における深沓など、食生活では鍋敷や鍋掴、束子や容器類など、その他箒や俵、畚、縄跳用の縄なども藁製品の代表例である。

子供の頃は、日露戦争帰りの祖父に藁靴や草履の編み方を教わり、それを履いて通学したものだ。あれから60年以上経った今ではすっかり忘れてしまったが。

また、注連縄や藁馬、藁人形など宗教的な側面や、燃料・肥料・飼料などのエネルギーとしての側面もあった。不要な藁製品は堆肥化することで有用なまま処理することが可能であった。

藁細工を行うにはハカマと呼ばれる下葉を取り去るワラスグリをはじめワラ切り、ワラ打ちなどの加工、更に腐熟を防止するために囲炉裏で乾燥させるとともに煙の微粒子を付ける作業も重要であった。

とはいえ、これらの作業以外は基本的には撚り・束ね・組み・編み・巻上げ・織りといった比較的習熟しやすい作業が多く、農作業が出来ない冬などに老若男女を問わずに現金収入を得るための藁仕事が行われた。

たとえば筵(むしろ)を2つに畳んで左右を縄で縫えば叺(かます)という袋状の入れ物になり、化学肥料の入れ物として、大量に消費されたが、ビニールの普及とともに使われなくなった。

俵(たわら)も似たような変遷を辿った。戦後も長い間、玄米を詰めて都会に送られたが、現在では俵は都会では目にする事はなくなった。玄米の入れ物は紙の袋になっている。

昔の農村では、原料代が不要でかつ多くの村々で藁仕事が行われたことは結果的には藁製品が大量かつ安価で流通することになり、藁を無駄なく利用しようとする農村部とは違う意識を単なる消費者に過ぎない都市部に植え付ける結果となった。

「米は藁作り」「藁を焼いたら笑われる」と言われた農村部に対して「溺れる者は藁をも掴む」「藁包に黄金」など藁を安価なもの、粗末なものとして捉える都市部の言葉の違いとなって現れた。

18世紀に蝦夷地のアイヌの元を訪れた日本人が「アイヌは鮭を主食としているのにその皮を足に履いて踏みつけにしている」ことを非難したらアイヌから逆に「和人(日本人)は米を主食としていながらその藁を足に履いて踏みつけにしているではないか」と反論されたという話が伝えられている。2020・5・13

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月13日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎

名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名「大風呂敷」である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。

南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)(この項のみ広辞苑)

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。

東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名は新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882(明治15)年2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

1890(明治23)年、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892(明治25)年12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1898(明治31)年3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900(明治33)年には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917(大正6)年には6万2千人となり、1928(昭和3)年には2万6千人となった。

なお、台湾は1945(昭和20)年にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の許で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の許で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941 (昭和16) 年7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896 (明治29) 年ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941 (昭和16) 年7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は 記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

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2010年05月11日

◆ウスターソース未経験

渡部 亮次郎

日本で使用されているウスターソースは、イギリス産の物とは材料も異なり別物である。日本産は果実と野菜、スパイスが主原料であるのに対し、イギリス産はアンチョビも主原料として使われており、そのため魚醤に似た味がする。

日本産が揚げ物などにかけて食べるのに対し、イギリス産は、シチューやスープなどに数滴落として風味をつけたり隠し味として使用されることが多い。

このような事になった理由は、ウスターソースが、たまたま日本の醤油に似ていた事から西洋風の「新味醤油」などとして一般化したためである。日本ではその後、このウスターソースに派生する形で、とんかつソースや中濃ソースが考案され、広く普及するようになった。

日本でウスターソースは細分化されて各種が存在すると共に調味料としての使用量は多く、飲食店や家庭で使用される。調理中に使用される他、醤油差し(ソース差し)で食卓上に並べられていることも多く、日本の家庭や大衆食堂では、単に「ソース」と言えばウスターソースのことを指すほど日本に定着した調味料となっている。

日本にウスターソース類が登場したのは明治時代である。ヤマサ醤油の7代目濱口儀兵衛が米国遊学時代に独自のソース製造の構想が生まれ、8代目濱口儀兵衛が研究を重ね、1887年、米国で「ミカドソース」の名で販売を開始。

同時に、国内向けには「新味醤油」の名で発売された。しかし、一般の人びとには味が馴染まず、1年ほどで製造は中止された。

また、現存する最古のソースメーカーである神戸の阪神ソースは、創業者である安井敬七郎が1885年に開発販売(一般ルートによる発売は1896年より)したソースを日本最初のものであるとしている。

時をほぼ同じくして、1894年に大阪では「三ツ矢ソース」が発売され、やはり「洋式醤油」(「洋醤」)と呼ばれた。

さらに、1905年には関東地方で「犬印ソース」(現ブルドックソース)が、1908年には中部地方で「カゴメソース」が生まれ、明治後期になると全国的にソース製造業が勃興した。

こうして、「ソースといえばウスターソース」という認識が日本において定着していくことになった。これらの初期のソースは、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであった。

戦後まもなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができ、その中間の中濃ソースが昭和30年代に登場した。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、多くの家庭に常備されるようになった。

(東日本では中濃ソースが、西日本ではウスターソースが普及した)。家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。

私は秋田県の寒村に生まれ育ったから、ソースなるものを全く知らないで育った。初めて見たのは大学の食堂だった。しかし、味には馴染めなかった。

浅草や向島の洋食屋へ行っても使わない。上野のとんかつ屋では特製のソースを販売しているが、私がとんかつに掛けるのは醤油である。ちょっと恥ずかしい。2010・5・10

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<目次>
・ポイと先送りの舟に飛び乗る:古澤 襄
・アメリカは北朝鮮崩壊に備える:古森義久
・ネパールに政治的断崖の危機:宮崎正弘
・「人斬り以蔵」と坂本龍馬:平井修一
・ウスターソース未経験:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年05月10日

◆失敗多いほど秀麗

渡部亮次郎

凡人の一生は、ひょっとすると失敗の積み重ねかもしれない。

小中高と試験の連続。面白い事にしくじった問題に関する限り正解は一生、忘れない。落第を恐れるから、なるべく失敗しないように勉強はするが、本質的には失敗を恐れてはならないのだ。

小さい時から家庭教師をつけられ、正解ばかりを教えられ、覚えてとうとう、大学を終えると、失敗した時に、事態への対処の仕方が分からない。教わらないから、回答を知らないのだ。

それなのに、よせばいいのに政治家になり、あまつさえ、いきなり総理大臣になって一つの正解も出せないまま生き恥を晒しているのが鳩山だ。

私が秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)=故人は、晩年こそ華やかだったものの、失敗の連続のような生涯だった。

生まれたのは天草(熊本県の島)の元庄屋。旧制中学を卒業後、父親の希望で大阪に出て歯医者養成専門学校(現在の大阪歯科大学に入ったが、医者はどうしても厭で、京都武道専門学校へ。

そこで恋愛して一子(男児)が生まれる。妻子を実家に預けて中国へ出奔。そのうちに対中戦争。そこで血書志願して陸軍へ。その後、大東亜戦争後に出来た陸軍落下傘部隊に志願。長男は採用しないのを無理に入る。

パレンバンへ日本最初の落下傘部隊として降下するべく、途中までは船で異動したが、アメリカの魚雷に沈められて果たさず。そのご陸軍飛行隊所属のパイロットとなる。

敗戦直前、札幌で天雷特別攻撃隊(特攻隊)の隊長任命され8月13日に飛び立とうとするが、沖縄方面、悪天候の為、17日に延期命令。しかし、15日で敗戦。生き残ってしまった。

ここまででも気付くように、彼は「死」を所望するような青春を送る。それが結果的に「生」を与えられたような「その後」となる。村長から衆議院議員となり連続当選15回。


途中で日米安保条約の批准に反対票を投じて除名。初入閣は他人より相当遅れたが、官房長官、厚生大臣(2回)、外務大臣3回と輝かしく生きた。

失敗からすべてを修得した。だから得た経験は濃密だ。比ぶべくも無いが鳩山の経歴などは「無」に等しい。口先、理屈の人生であって、世にしごかれたことのない半生は、血の通わぬ経験でしかない。

沖縄問題を根本的に解決できない事を知らずに「弄る」だけしたものだから、とうとう命取りになるところだ。気付いて逃げ出しても行く先は無い。

しかも2度目の結婚で子供は既に5人もいたが松谷天光光なる野党の女性議員と恋に落ち、懐妊させる。そこで妻子と別れ松谷と結婚。封建的な土地柄と思われがちだが、天草は園田を落選させなかった。

「野戦に出て二股の途がある。左せんか、右せんか。綺麗な方へ進むと必ず敵が待ち伏せしていた。だから迷った時は悪い途を選ぶ。

部下を1人も死なせなかった。天光光のときも、こっそりと人工中絶させるという安易な道を選んだら、後にばれたら、そのほうが命取りだったろう」。

失敗や困難を恐れてはならない。そんな事は家庭教師も大学院も教えない。だから学歴で政治はできない。(敬称略)2010・5・8

2010年05月08日

◆かくて誰も居なくなった

渡部亮次郎

<この島をリーダーのいない極東の孤島にしたいのか。そんなことないですよね。つぎは誰が最適か、ベストではないが誰がベターか、密かな思いはあるはずだ。決まってから、ああでもないこうでもないとケチつけることで口を糊するのは後出しジャンケンのようなものだ。フェアではない。

ここはひとつ、ど素人なのでよく分からないが、プロは当然のこと、追っかけ素人も「辞めろ」というなら、「辞めさせて、菅にしろとか、舛がいいとか」、はっきり個人名を挙げて宣言してもらいたいのである。それがプロの最低限の見識・責任ではないのか。>石岡荘十(「頂門の一針」1906号=5月5日)

私も素人だが、正直言って私には指すべき適材が無い。最大唯一の権力者のなるのが普通だが、この人は日本の将来なんか考えていない。中国と韓国に尾を振ることしか考えていない。

民主党に人材が無いのは、戦後、ほぼ一貫して政権を執りながら、日教組を潰せず、人材育成を怠ってきた自民党の怠慢である。

怠慢に留まらず、政治家各々が、自己の権益固守に終始、有為の人材を自党に取り込めなかった。その罪は末代まで祟る国家百年の大計を過ったのである。

歴史を教えない、世界情勢に目を瞑らせる。国旗、国歌を尊敬しない。自国の尊さを教えず、自らを卑下するばかりを教える。近くの区立毛利小学校には日の丸の旗の翻った事は1度も無い。完全に日教組に支配されているのだ。

中学も、高校も同様。如何にすれば国家が富み、繁栄するかを目指すよ
り、個人の都合ばかりを考える少国民。それが大学に入っても勉強もし
ない、学生らしい、瑞々しい感覚が失われているから、学生運動も起こせない。教わるのが「予備校文化」。最少の努力により最高の得点を挙げるテクニック。夢も理想も無い。

昔の左翼学生は法曹界と医学界に逃れた。その中の弁護士たちが反体制の思想を隠して政界の潜り込んだのが民主党。これをこうしたのが自民党の最大の罪である。

政治に目覚めた有為の青年の目指した松下政経塾の殆どが民主党に偏った。自民党が門戸開放にチャレンジしなかったからである。

そういう彼らは先の大戦の生き残り。荒々しい肉弾戦を潜り抜けてきた人物たちだから、度胸も有ったし、胆力もあった、快刀乱麻の難事処理能力にも優れていた。敵に対して老獪な出処進退も出来た。

戦後の30年ぐらいは自民党も社会党も戦争生き残り派で国家再建に尽力できた。しかし、その時、彼らは後継者の育成を忘れた。そのためには教育の再興、日教組殲滅が不可欠である事を忘れた。

全てをご都合主義で見送った。

かつて中南米の某国大統領を表敬訪問した際、大統領が言った。「お国には自民党という政党があって、優れた経済成長を続けているらしい、何とか自民党を輸出してくださらんか」。

あの頃、経済の右肩上がりのころだ。しかし、これに関して既に後継者養成によって「次代」を考慮すべきだったのに、自民党はただ、酔っていた。自己権益の墨守に専念して居るだけだった。

石岡さんは先輩である。「おまえ、偉そうなこと言うんじゃないよ、
もっと現実論を言えよ」と言うお叱りの声が聞えてくる。

以上の如く、いまやわが国政界に有為な人材は無い。岸の孫、福田の息子失格。それなのに吉田の孫を出して究極の失敗。民主党に渡したら、鳩山の孫だという。やらせてみたら白痴だった。これしかないのは偶然ではなく必然なのである。誰もいなくなった。

とはいえ、もはや自民党という戦後日本に責任を持った政党が誤った「国家百年の大計」をしてしまった以上、この先100年の命運は決ってしまった、と言うしか無い。2010・5・7

■本稿掲載5月8日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1909号のご紹介

<目次>
・かくて誰も居なくなった:渡部亮次郎
・英国総選挙、保守圧勝ともならず:宮崎正
・鳩山首相の主観的「誠意」と国家解体方針:阿比留瑠比
・フォークランド沖合で英国が油田を発見:宮崎正弘
・幸田文の「父の周辺」:平井修一
・不磨の大典----善意に滿ちた迷惑なこと:上西俊雄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年05月07日

<夕刊>◆沖縄県ではなく琉球王国だった

渡部 亮次郎

1429年―1879(明治12)年まで琉球王国(りゅうきゅうおうこく、が存在した。正式国名:琉球國で沖縄本島を中心に存在した王国である。

最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)」と呼ばれた。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国の明(みん)・清(しん)の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結びつきが知られる。

最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと高宮広士札幌大学教授が指摘する。

近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

明、および清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。


1945(昭和20)年、沖縄戦により住民に多数の犠牲者が出る。その後、アメリカの統治下に入る。

1972(昭和47)年5月15日、日本に復帰した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■本稿掲載5月7日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1908号のご案内

<目次>
・徳之島ヘリ部隊移設断念へ:古澤 襄
・「くい打ち桟橋方式」こそ生態系の破壊だ:泉 幸男
・沖縄県ではなく琉球王国だった:渡部亮次郎
・夢遊病者の沖縄訪問と対日工作基地:西村眞悟
・ハトは暗愚を通り越して痴呆者:平井修一
・なぜ「アメリカが日本を捨てるとき」なのか:古森義久
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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◆昭和33年の流行歌手

渡部亮次郎

2010年4月29日未明のラジオが「昭和33(1958)年の流行歌10曲」を放送したが、出た歌手10人のうち3人しか生きていない事に改めてびっくりした。

(1)からたち日記 島倉千代子(存命 現役)
(2)夕焼けとんび 三橋美智也(享年65)
(3)おーい中村君 若原一郎(享年58)
(4)こいさんのラブ・コール フランク永井(享年76)
(5)銀座の蝶 大津美子(存命 現役)
(6)風速四十米 石原裕次郎(享年52)
(7)三味線マドロス 美空ひばり(享年52)
(8)ふるさと列車 青木光一(存命 現役)
(9)好きな人 藤本二三代(享年63)
(10)居酒屋 春日八郎(享年67)

昭和33年は大学を卒業し、郷里の秋田県で放送記者を始めた年。既に居酒屋でかなり(1升は軽かった)日本酒を飲んでいたが、事件に追われて(他社の先輩に騙されたり、からかわれたりもして)忙しく、歌を聴いたり、歌ったりする機会は皆無だった。

当時カラオケ装置はまだ発明されてなかった。唄の伴奏は専ら「流し」の兄ちゃんたちだったが、3曲100円の100円が惜しくて呼べなかった。

間もなく仙台に移って正式にNHKの職員となったが、歌を歌ったり聴いたりする暇はなかった。ただ6年先輩記者の高野悠(ひさし)さんが「からたちの花」をがなっていた。今になってみると島倉千代子の歌だったわけだ。

だから昭和33(1958)年の歌は、あの年ではなく後年、多分、東京政治部へ転勤した東京オリンピック以降に耳にしたものだろう。ただし三橋美智也だけは大学在学中、田舎で公演を見た。彼は後年、糖尿病を発症。合併症が悪化してしんだ。65才は、いまでいえば若死にだ。

春日八郎は本名が私と同姓。福島県会津坂下町出身。ここからはやはり若死にした作曲家猪俣公章が出ている。ただし交流は無かった。理由は知らない。

春日からは参院選に出たいという相談を受けたことがあって、後に首相になる宇野宗佑に繋いだが、話はうやむやになった。

裕次郎、ひばりも若死に。

藤本二三代(ふじもと ふみよ、本名:三谷綾子)。29日の放送では実の母子のように言った。間違い。

1937(昭和12)年生まれ。父親の再婚相手が歌手の藤本二三吉であり、実の母娘ではない。

二三代が歌手を志した際、芸能界の厳しさを知り尽くしている二三吉は反対したが、二三代の熱意に折れ熱心にサポートした。二三吉の力添えもあり、作曲家の吉田正に師事し、1956(昭和31)年にビクターから「花の十九よさようなら」でデビュー。

1957(昭和32)年11月発売の「夢みる乙女」、1958(昭和33年)11月発売の「好きな人」、1960(昭和35)年12月発売の「花の大理石(マーブル)通り」がヒット。この3曲とも、吉田正が作曲している。

NHK紅白歌合戦に4回連続出場という実績を残した。

1961(昭和36)年には岩下志麻主演の映画『あの波の果てまで・3部作』(松竹)の主題歌も担当した。

最後のレコードは、1973(昭和48)年発売の「二人の北新地」。2001(平成13)年3月28日、大動脈解離で急逝。享年65(満63歳没)。娘に歌手の藤本じゅりがいる。(この項のみ「ウィキペディア」)

フランク永井は宮城県の出身。昭和40年ごろは目黒区の元競馬場で隣組だったが、1度も会ったことは無い。夫人と不仲になる出来事があり、首をつり損ねて脳をやられ、不幸な晩年だった。

若原一郎はNHKのど自慢の出身にしては楽譜が読めた。張りの有る美声で一世を風靡したが、やはり若死にした。敬称略 2010・4・30


2010年05月04日

◆暗愚で狡猾な鳩山首相

渡部亮次郎

東大のあと米国の大学で何やらの資格を得てきた人を暗愚で狡猾と決め付けるのは矛盾だと言われるかも知れないが、人間特に政治家は、その資質において、学歴とは全く無関係だ。

それが証拠に、高等小学校しか出ていなかった田中角栄は首相に上り詰めたが、その娘は大学を出ながら外務大臣が務まらなかったし、
この先首相を望まれる場面は皆無だ。

日米関係の何たるかを全く弁えずに「対等な関係」などと言ってアメリカを怒らせて仕舞った鳩山。日米安保条約のよって来る所以も分からない。日米安保条約を破棄し、核を備えた自主防衛に踏み切るよういなどまたく無い。

日米安保体制の実態を学ぼうとすれば1分で分かる。学ぼうとしないのだから暗愚としか言いようが無い。

暗愚の帝王といわれた元祖は故・鈴木善幸だが、棚からボタ餅の首相の座だったものの、外交のことこそ十分じゃなかったが、少なくとも内政に関しては合格だった。後継者の選考など見事なものだった。

それまで長い事党内のとりまとめを任務とする総務会長をしていた所為もあってか「老獪」さは感じさせたが、親から貰った十何億ものカネを知らなかった、などという「狡猾」さは全く無かった。

加えて鳩山は「姑息」でもある。

<「愚か」を「愚直」とすり替えた鳩山首相>と論じたのは産経新聞の総理官邸クラブ・キャップの阿比留瑠比。

<2010年3月21日、鳩山由紀夫首相と自民党の谷垣禎一総裁との党首討論が開かれました。訪問者の皆さんもご存じの通り、鳩山氏はこの中で、米軍普天間飛行場移設問題をめぐる米ワシントン・ポスト紙の酷評を受け入れ、「言われるように、私は愚か(loopy)な総理かもしれません」と認めましたね。

会場の参院第一委員会室が一瞬、どよめいたのがテレビの画面を通じても伝わってきました。

現職の首相が「愚か」であるかどうかが国会で議論され、あまつさえそれを首相自身が「その通りかも」と追認するのは、たぶん前代未聞の珍事だろうと思います。

私はその後のやりとりを聞きながら、一見「無防備」に見える鳩山氏は、実は「姑息」な人だなあとしみじみ感じていたのでした。

というのは、党首討論の議論の中で、鳩山氏が巧みに言葉をすり替えているのがありありと分かったからです。この点については、テレビを見ていた国民のかなりの人も気付いたことと思いますが、改めてこの場で指摘しておきたいと思います。

鳩山氏の言葉の変遷をたどると次のようになります。まず最初に認めた言葉が

「私は愚かな総理かもしれません」ですね。この時点では、ワシントン・ポストの指摘通り、「愚か」という言葉しか使っていません。
それが、次の段階では別の言い方と混在します。

「愚かだったから、愚直だったから。あるいはそうかもしれません」

誰も「愚直」なんて言っていないのに、突然こう言い出したのです。
「あれっ」と思って続きを注意して聞いていると、さらに

「少しでもそれ(沖縄の負担)を和らげることができたらと、愚直に思ったのは間違いでしょうか」」

そう、いつのまにか「愚か」が消え、きれいに「愚直」にすり替えられていました。私はああ、こういうところに人の本質が表れるのだろうなと感じましたね。

ちなみに、手元にある小学館の「大辞泉」によると、それぞれの意味はこうあります。

【愚か】(1)頭の働きが鈍いさま。考えが足りないさま(2)ばかげているさま(3)未熟なさま。

【愚直】正直なばかりで臨機応変な行動をとれないこと。また、そのさま。ばか正直。

他の辞書も当たってみましたが、だいたい似たようなことが書いてありました。つまり、「愚か」は文字通り「ばか」であって、「愚直」は、「正直」の程度が甚だしいもの、「正直」を強調したもの、不器用なまでの真っ直ぐさ、というところでしょうか。

愚直は一般的に一定の好意、評価を持って使われる言葉であり、どう考えても両者の意味は全く異なりますね。もちろん、「loopy」に愚直なんてニュアンスは全くありません。

鳩山氏は結局、他者の批判を受け入れる謙虚さを装いながら、自分の都合のいいようにその意味するところをねじ曲げたということでしょう。

実際、その後の記者団のぶらさがりインタビューの際にも、「愚直さを今こそ生かさなきゃならないときだ」などと自己正当化し、
「愚直」という言葉を4回も使用していました。自分はばかなのではなく愚直なだけだと言いたいわけです。>阿比留瑠比のブログ
「国を憂い、我とわが身を甘やかすの記」

どうして、こういう無意味な人間が仕上がるのだろうか。結局は東大に入りさえすれば、最高の大人に育つという親の誤解だろう。世間の荒波は、有り余るほど抱えるブリジストンのカネで守る。

アメリカに留学させれば、私立大学の教授ぐらいにはなれるから安心と親は踏んだのだろう。しかし、本人は、その科学関係の能力の無さを悟り、転職を決意。

転職先に国会議員を選んだのは、弟ですら勤まっているからと安易に考えたのではないか。世渡りの知識も経験も積んでおらず、出来たのは他人の妻を横取りする事だけ。

かくて親は仕方ない、鳩山家の過去の中から北海道の地盤を探し出し、母親の子供手当てで議員を続けていたら、なんとなく首相に就任する「めぐり合わせ」。ご本人は結構「満足」しているのでは無いか。

鳩山と会話を交わした人間は10人が10人とも「いい人」だと思って出てくる。詰まり鳩山は相手の言い分のすべてOKを与えるのだ。したがって1人目と10人目の受けた印象を付き合わせれば、完全に逆の結論になっている。

胡錦濤にはうなづき、オバマにもうなづく。沖縄県民にもいい顔をしたい、国民にも勿論よく思われた。そこに共通する名回答なぞ
あろうわけも無い。待っているのは政治的な地獄だが、理由を理解できない暗愚だ。「愚直がいけなかったとは知らなかった」と幸せに微笑むのではなかろうか。文中敬称略。2010・5・3

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<目次>
・金総書記が4年ぶりに訪中とロイター:古澤 襄
・暗愚で姑息な鳩山首相:渡部亮次郎
・机の引き出しはなぜ右側か?:馬場伯明
・春宵、ひと時、人生を想う:平井修一
・目指す365日誕生日友達:門 佳之
・話 の 福 袋
・反     響
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2010年05月03日

◆昔もいた暗愚の帝王

渡部亮次郎

鈴木善幸(すずき ぜんこう=岩手県選出)は郵政大臣、官房長官、農林大臣を務めたから、政治家としてはそこそこの経歴といえた。しかし、自民党内では長い事、総務会長として、もめる党内をまあまあと纏める役として重宝がられた。

自民党総務会長は、政府の鉄道建設審議会の会長を兼務していたので、新潟新幹線、東北新幹線のルート決定に際し、盟友田中角栄に便宜を図ったのではないかと噂されたりした。

そんなこと、表立った問題にはならなかったが、いきなり総理大臣になったので「ZENKO WHOU ?」となり、やがて「暗愚の帝王」と私の友人が雑誌に寄稿したので、そうなってしまった。鳩山が始まりではないのだ。

鈴木氏は自民党内で、所謂党人派の大物として、「公家」タイプの政治家の多い大平正芳派の番頭を務めていたとき、会長で総理大臣だった大平が総選挙中、心筋梗塞で急死したので、立場が急変した。

昭和55(1980)年6月12日未明のこと。大平内閣でも外務大臣を務めた園田直は虎ノ門病院での弔問を終えるや、秘書官の私をつれて目白の田中邸に直行。角栄との会談で、後継総理は鈴木善幸とすることで一致、直ちに党内工作に着手。

福田赳夫の「大平いじめ」が死を招いたとの反省があったため、鈴木内閣はすんなり誕生した。

ところが翌年のゴールデン・ウイークに行なわれた日米首脳会談に伴う共同声明を巡って閣内不統一の事態となって、「首相なのに外交が一切分からないとは、こりゃ暗愚の帝王だ」ということになってしまった。

鳩山は政治とは何かの全く分からないまま総理大臣になってしまったが、鈴木はただ「外交」が分からなかったばかりに「暗愚」とされた。

鳩山のほうは、内政も分からない分、鈴木に輪をかけた暗愚と言うほか無い。なによりも日本外交の基軸である日米関係を損なったことは「国賊」に値する。

事件直後、若い頃から知り合いだった私に鈴木は言った。「オレは外交にはズブの素人だよ。踊りは終いまで教えてくれなきゃ踊れいよ」

外務事務次官が私にいった。「あれだけの大物に、モノを教えるのは失礼かと、遠慮した」。

産経を代表する敏腕政治記者阿比留 瑠比は鳩山について1日<「脱力、倦怠、諦観、虚無感、無関心、無感動…。鳩山氏を見ていると、さまざまなマイナスの感情に囚われそうになります。

今回の沖縄訪問(5月4日)についても、ある民主党議員は、「鳩山は県庁までいきつけないで、立ち往生するのではないか」と予想していました。

そして、「辞めるよ」と。まあ、この予想通りになるかどうかは分かりませんし、参院選まで居座るかもしれませんが、「史上最低の総理」の名声は歴史に、そして日本人の脳裏に深く刻まれることだろうと思います。>と自らのブログに書いた。

「史上最低」では鳩山は鈴木の「暗愚」を超えてしまった。しかし初代の暗愚は再選を辞退し、跡を中曽根に譲って濁さなかった。文中敬称略 2010・5・2

■本稿掲載5月3日刊全国誌「頂門の一針」1904号のご紹介
<目次>
・昔もいた暗愚の帝王:渡部亮次郎
・小沢氏、政治生命を賭けた「最終決戦」へ:花岡信昭
・S学会の選挙戦スタート:平井修一
・新党の存在が問われる5月:古澤 襄
・親学のすすめ(上):伊勢雅臣
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年05月02日

◆テレビは政治の真髄に迫れない

渡部 亮次郎

私はテレビ局(NHK)で政治記者を20年務めたが、テレビは政治の真髄には迫れない、それを見て政治を見たと思っている国民は政治を理解したと思うだろうが、真実は誤解しているだけだ、とつくづく思った。

政治家が突き出したマイクやレンズに語るのは建前の恰好づけだけ。本音は密室での1対1になった時にしか語らない。不特定多数の取材者のいる「記者会見」で本音を明かす政治家はいない。

私の上司 島ゲジは記者会見を「嘘つき大会」と貶した。不特定多数の会見では建前しか語らないというのは人間の本質だから、「記者会見」が真髄を語っていないのは時代を超えた事実である。

政治報道に関して、新聞やラジオにとって写真は不可欠ではないが、
テレビは映像と音声で繋いでゆかなければならないから記者会見や「ぶら下がり」が頼みの綱である。政治家の「建前」だけを拾い、
深い胸中に隠された本音を突き止められないまま次に進まざるを得ない。

重ねて言うが、テレビは政治に関する限り「記者会見」と「ぶら下がり」を多用し、たまに「特番」で補い「ハイ、これが今日の政界です」とすましている。本音を欠いた、極言すれば嘘を流しっぱなしだ。

テレビだけを見ている視聴者は、この「嘘」を「真実」と思い込み判断材料にして政権の選択をするから、端(はな)から政治家失格だったボンボンを総理に選ぶ愚を冒すことになる。

つまり、政治家が突きつけられたマイクとレンズを前にした時、
本音を語る事はあり得ない。これは後に大臣秘書官になって、取材される立場に変わった時に痛感した。当たり障りの無い「建前」を語ることが「安全」であり、安心なのである。

アメリカの政治家はテレビ・カメラに本心を言う。カメラのマイクを差し出すと大抵の政治家は立ち止まり、語りだす。「ぶら下がり」になれていて、すらすらと喋り始める。答えを「抽象的」にして逃げる事が多いが「嘘」をつく例は極めて少ない。

そこを悪用して国務省玄関に陣取り、出てきた大物にマイクを突き出す。カメラにフィルム(テープ)ははいっていない。インタビュうしているところを別のカメラマンに一枚写真に撮らせる。これを後に著書の宣伝に使ったワルがいた。某ワシントン特派員の空(カラ・フィルム)事件は有名だ。

政治家が日本では「嘘」や「建前」で逃げ、アメリカでは嘘に逃げないのはなぜか。経験が少ないから確答できないが、「神に誓っているから嘘はつけないのだ」と解説した特派員がいた。

「お前なあ、政治家は記者会見で嘘を言う、実験をするから見ていろ」と島ゲジ(桂次= 後のNHK会長)が言った。ある日、自民党幹事長の会見。カメラが回る。何事かを真実らしく語り終えた。

国会内の男用トイレに入った。すぐその脇にならび「ツレション」をしながら「幹事長、本当はどうなの」と訊く。相手が私独りなのを確認してから「うん、実はね・・・」と本音を吐いた。テレビはこれを録音も撮影もできない。

その夜のNHKニュースは民放とは逆の結論を流した。島さんが言った。「嘘を吐くと緊張する。緊張すると小便がしたくなる。小便で開放感に落ちる。ツレションで質問すると本音がつい出るんだ」。

政治家は多忙だし、マスコミは利用したい時と避けたい時と両方ある。独りの記者だけと、カメラ、マイク抜きで取材(サシ)の応ずる例は極端に少なくなっている。「オフレコ」の会見ですら多数が一緒である。

オフレコが外へ洩れたと気付き、政治家としては多数が相手だから「犯人」を絞る事は殆ど不可能だ。だからオフレコでも建前しか喋らないのが政治家だ。

時代は超えても、政治家の本質はかわっていない。昔、河野一郎
(河野太郎の祖父)は自宅へ上げた夜回りの記者に顔見知り出でない新顔がいると、面談拒否をしたものだ。

政治家が本音を絶対明かさない「記者会見」「ぶらさがり」。これらでは「建前」しか明かさない。そんなテープを繋げて何を訴えてもテレビの政治ニュースは真実からは遠くなる。

視聴者は毎度、そういう目に遭うから、政治不信とともにテレビ不信に陥る事になる。特に鳩山の真の姿を、総理就任後半年かかって突き止めたテレビ視聴者のショックは大きかった。「政治の真髄に迫れないテレビ」で政治を判断する事は危険ですらある。
(文中敬称略)2010・5・01

■本稿掲載5月2日刊「頂門の一針」1903号のご案内
<目次>
・テレビは政治の真髄に迫れない:渡部 亮次郎
・腐った林檎(りんご):山堂コラム 316
・朝日はノドン発射の動き、韓国は否定:古澤 襄
・首相「鳩まね」に共産党「どの面下げて沖縄に」:阿比留 瑠比
・100万県民でハトを包囲せよ:平井修一
・我 敵空母ニ突入ス 17・21:西村眞悟
・話 の 福 袋
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2010年04月30日

<夕刊>◆園田直の二十七回忌

渡部 亮次郎

晩年になって福田、大平、鈴木の三内閣で外務大臣を務めて死んだ故園田直の二十七回忌が3月27日に東京の増上寺で営まれ、秘書官だった私も参列した。

僅か70歳の死だった。糖尿病でありながらインシュリンを打たなかったための「若死に」であった。

皮肉な事に、彼が厚生大臣(当時)の時、日本ではじめて糖尿病患者の「自己注射」を許可。結果、医療業者の競争を促し、注射針は世界一細くなり、注射は殆ど無痛になっている。

彼が残した業績として、水俣病など公害病の初認定が残るが、外務大臣としてやり遂げた日中平和友好条約の締結は32年も以前のことだから、語られる事も少なくなった。

私はNHK政治記者から彼の秘書官に発令された者だけに、その舞台裏を記者の目で見つめていた。

中国について、実は田中角栄氏が首相として国交正常化交渉をした際、NHK政治部から記者として北京に同行していた。

その時発せられた共同声明で日中平和友好条約の締結が公約されていたのだが、田中氏はスキャンダルの為退陣し、次の三木内閣も交渉に行き詰まって退陣し六年が空費されていた。

福田内閣を打ち立てた園田は官房長官として鳩山外務大臣よりも積極的な条約推進論者であった。そのため剣道の弟子で中国育ちの人物をしばしば北京に派遣、廖承志氏ら共産党政権の有力者と接触させていた。

それがモノを言った。偶然にも園田は福田首相に煙たがられ、外務大臣に横滑り。当に日中平和友好条約の担当者になった。更に偶然にも中国側でも条約の推進勢力たるトウ小平氏が復活。

トウ氏の動静は大使館からの公式情報としては全く入ってこないが、例の剣道の弟子からは詳細に入ってきた。「園田が来れば調印する」という!)氏の発言すら入ってきた。

しかし大使館情報しか知らない福田首相と外相の仲は、首相の自民党総裁再選問題と絡んで、悪化していった。

締結を渋りだした首相に無断で北京行きの特別機を手配したのは有田事務次官。園田情報に賭けたのである。

動きは記者たちから首相に洩れた。だから箱根で静養中の首相に決断を求めに園田が厳しい顔で会ったとき、首相がいきなり「直(ちょく)さん、いつ行くや」といって園田をびっくりさせた。

かくて1978年8月8日、特別機は羽田を飛び立った。人民大会堂での交渉はたった二回目で中国側が日本案を全面受諾した。

それから六年後、園田は死んだ。それまでに大平、鈴木内閣で外相と厚生大臣を務めた。

■本稿掲載4月30日刊「頂門の一針」1901号のご案内
<目次>
・首相が辞めないと支持率回復は望めない:古澤 襄
・リニア新幹線は壮大なるムダ:平井修一
・怖い!ゴルフのイップス病:馬場伯明
・園田直の二十七回忌:渡部亮次郎
・掴めぬインド毛主義者らの真意:宮崎正弘
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◆辞めない小沢のトラウマ

渡部亮次郎

小沢一郎の政治生命は、カネを巡る検察審査会の「起訴相当」により風前の灯となっている。幸いにも形式的に過ぎない民主党代表の鳩山由紀夫である以上、党内で、表立って幹事長辞任を要求する者はいない。

そこで検察審査会が「起訴相当」の決議を発表した27日、時を置かず「続投」を表明、強引なところを見せた。強引に動かなければ
政治生命を失うという危機感に迫られているからである。マスメディアはそこを解説しない。

「政治家はポストこそが権力。そのポストを手放せば東京地検は必ずや逮捕しに来る」と信じて疑わないのだ。裏付けるように、親分田中角栄も金丸信もともにポストを手放した途端に逮捕され、やがて死を迎えた。

特に金丸の出処進退にすべてかかわった小沢である。トラウマ(心の傷)になっている。「初めは罰金20万円で済んだものが、自民党副総裁を辞めた途端、地検が逮捕に来た。

オレも幹事長を辞めたら地検が何を仕掛けてくるか分かったもんじゃない。辞められない。辞めないと鳩山が総辞職に追い込まれる。民主党が参院選で負ける。だが、そんなこと知るか、いまや己を守る専一だ」。

小沢のトラウマとなっている「金丸信逮捕」は1993年、今から17年前。現役の政治記者で、これを取材した体験者は無いだろう。ウィキペディアに頼ろう。

<1992年8月、朝日新聞の報道により金丸信は東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚。同年8月27日に自由民主党本部で緊急記者会見を行い、副総裁職の辞任を表明し、事態の収拾を図った。

しかしこの記者会見は綿貫民輔幹事長の外遊中に行われただけでなく、竹下派経世会の佐藤守良事務総長が独断で仕切って行われたものであった。

当時、自由民主党総務局長を務めていた野中広務はこの日、たまたま党本部に出勤していて金丸の緊急記者会見が行われることを知り、驚いて副総裁室に駆け込み、金丸と佐藤に「(綿貫)幹事長不在で、(副総裁の進退に関わる)記者会見をやるのはおかしいではないか。中止してもらいたい」と迫ったという。

しかし記者会見は行われ、宮澤喜一政権に大きな衝撃を与えることになった。

佐川問題を巡る竹下派内の対応は裁判で徹底的に戦う事を主張した小沢一郎に対し、梶山静六は略式起訴での決着を主張するなど二分する形となった。

小沢戦略なら論理は一貫しているが長期的な体力が必要で党のイメージダウンも長く続くことになり、梶山戦略は短期で決着がつくように見えた。

しかし、結果的に両者とも世論の動きを読みきれていなかった。信じられないことだが金丸本人は上申書を提出するまで弁護士を立てていなかった。後に担当することになる弁護士は金丸辞任会見をテレビで他人事(ひとごと)のように見ていたと語っている。

当初の対応を小沢、生原秘書、佐藤守良に任せた結果、時効がかかっていた時期を見誤った。浜田幸一の著書によると、梶山が短期決着で入れ知恵をしたかのごとく記述されているが客観的ではない。

結局、対応に小沢、梶山の二股をかけたことにより両者の対立は決定的なものになり、派閥は分裂へと進んでゆく。

東京地方検察庁特別捜査部は金丸に事情聴取のための出頭を求めたが、金丸はこの要請に応じずに政治資金規正法違反を認める上申書を提出するにとどまった。

結局、東京地検は金丸に事情聴取せずに1992年9月に同法違反で略式起訴し、金丸は東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。

逮捕もなく事情聴取すらしないというこの決着に、地検は国民から凄まじい批判を受け、検察庁の看板にペンキがかけられた。当時、札幌高等検察庁検事長だった佐藤道夫が『朝日新聞』に検察の対応を批判する読者投稿をし、異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。

刑罰の軽さに批判が大きかったものの前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。こうした世論の反発の強さから、金丸は10月に衆議院議員を辞職。竹下派会長も辞任することとなる。

一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行(日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。

1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。

”金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの”と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(純度99.99%の金)であったとされる(朝日新聞記者の村山治『特捜検察VS金融権力』)

このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。

これが止めとなって同情論は消え、権威は地に堕ちた。金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。

逮捕後の自民党の会報などによると、党員の中では、金丸の蓄財動機は来たるべき新党結成の資金であるという概ねの共通了解が出来ていた。少なくとも、小沢一郎及び党大会などでは、金丸の行動が個人の私欲ではない事は共通の認識であった。

逮捕されて2年後あたりから金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、本人は最後まで裁判を続けるつもりで月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。

しかし、金丸のあまりの体調の悪化に心配する家族の申し出により1996年3月に裁判は停止し、その1週間後の28日に金丸は脳梗塞で死去した。満81歳没>(敬称略)2010・4・28