2010年05月26日

◆老化は熟成でもある

渡部 亮次郎

雑誌にアンチエイジングとあった。しばらく考えて分った。老化拒否なのである。それならそう書けばいいものを、わざわざ英悟を片仮名に直し、読者には漢字で考えさせるというややこしい事をさせる。

エイジング。老化。それに抵抗することだから「ジーニアス英和辞典」を引いたら、老化のほかに「熟成」とも出ていた。老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違う。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである。

ところが戦前は無かったものに美容整形がある。戦後にアメリカから入ってきた考えで、自然に抵抗する思想そのまま、老化にも抵抗すべきだという医学である。

詳しい事は知らないが、雑誌などによると顔の皺を伸ばすためにあちこち引っ張りあげて縫うのだそうである。しかし、何年かするとまた皺がよるので、手術を何度も続けなければならないそうだ。

昔の日本人はこんなことを考えもしなかった。身体の老化は仕方ないもの、その代わり心の成熟があれば心安らぐべきものと考えた。だからこそ年寄りは尊敬された。

皺を延ばす人でも、世の中に尊敬される人がいないとは考えないが、動物の肉や脂肪を多食する人種と比べたら、日本人の皺など皺とは呼べないものだ。欧米に貴婦人の深い皺に比べれば縮緬のようなものだ。

日本の老人は翁(おきな)とも媼(おうな)とも呼ばれて尊敬されていた。身体は流石に老化は隠せないかもしれないが、その分、経てきた多彩な人生経験に裏打ちされた冷静な判断力があったからである。

それなのに最近は身体の部分を引っ張ったり縫ったり、或いは塗ったりして若く見せようと腐心する人が多い。いくら抵抗しても来るものは来ないわけではない。確実に来る。

引っ張ったり縫ったりの思想の線上に来たのが臓器移植であろう。中国では、そのために死刑の執行を役人が急ぎ、臓器を破格の値段で払い下げるそうだ。受ける中には日本人もあると聞く。

美容整形と臓器移植。他人の臓器と関係の無いこととあることとは無関係なようにも思えるが、死に向かう運命とか寿命とかに反抗し、抵抗する点では全く同じでは無いか。

私も目の老化は如何ともし難く白内障の手術を受けたが、禿を隠そうとは思わない。鬘を被れば却って目立つから考えたことも無い。もちろん被る事は自由だ。被らないことも自由だ。

若いころ、外国に出張すると、酒を嗜まない園田直(すなお)外務大臣はホテルとか迎賓館で夜は独りになる。外務官僚はそろって外出してしまうからだ。私も酒飲みで出かけてしまったら寂しいから、大臣が自分でウィスキーの水割りを作ってくれて私を引き止める。

贅沢な水割りだ。こちらは酔いながら昔話に耳を傾ける。園田は軍人の最後は「天雷特別攻撃隊」の隊長としてアメリカの軍艦に体当たりしての死を命ぜられたが、天候不良で延期。次の出撃の直前、敗戦となって生き延びた人だった。

「ナベしゃん、人間は死ぬのが何時か分らないから生きておられるとバイ。特攻隊では明日出撃と命令が出ると、今夜、首つりして自殺するものが何人もおらしたとバイ」

今夜床に就く時、人は明日も必ず目覚めると思えばこそ安眠できる。目覚めないこともあると分れば、とても眠られないだろう。何時死ぬか分らないが、取り敢えず今晩は絶対大丈夫と思えばこそ眠れる。

しかし、何時かの朝は絶対目覚めないのだ。だとすれば人生は充実して生きるしかない。充実を心がけるしかない。今更慌てても手遅れだが、せめて「老化は酒でいえば熟成」であるとでも考えて眠ろう。再掲


2010年05月25日

◆1960年チリ地震津波

渡部亮次郎

昭和35(1960)年5月24日未明、突然、契約タクシーにたたき起こされた。津波がきて大被害が出ている、至急、局へ」というNHKからの伝言。地震も無いのに、津波とは、何事かい。

NHKに記者として採用され、仙台中央放送局に着任して間もなく1年。そろそろ東北管内のどこかのローカル局への転勤が噂に上っていた。局から歩いても5分ぐらいの民家の6畳間に下宿していた。

五月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142名が死亡したのだった。岩手県大船渡市では53名、宮城県では志津川町(現・南三陸町)では41名が死んだが、それらがはっきりするのは数日経ってからのこと。

私は単身、録音機を持って女川町(おながわまち)に派遣されることになり局の車で向かった。途中、国鉄塩釜駅の前を通りかかったら、跨線橋の上に漁船が載っていた。津波はこんな高さにまで
達したのか。

後で聞けば、前夜、塩釜には同僚のカメラマンが別の取材に訪れて
1泊。だが、津波と聞いても暗くて何も分からず、全く撮影しなかった。この男は、これが祟って出世できないまま、60前に死んだ。

女川に着いたが、時折、津波がまた、やってきたという声がして人々は海を横目に高台に逃げる。

そのどよめきを録音しながら私も逃げる。その繰り返し。録音機は空回りして、何も録音されてなかった。2,3日経って赤痢が集団発生。その原稿を電話で送る私も発症していた。大館通信員時代についで半生、2度目の赤痢だった。


チリ地震は表面波マグニチュード(Ms)8.5、モーメントマグニチュード(Mw)9・5と有史以来観測された中で最大規模の巨大地震である。最大震度は気象庁震度階級では震度6相当とされている。

1960年5月22日15時11分20秒(現地時間。日本時間では5月23日4時11分20秒)、チリのヴァルディヴィア近海を震源として発生した地震である。地震後、日本を含めた環太平洋全域に津波が襲来し、大きな被害をもたらした。

まず前震がM7.5で始まりM7クラスの地震が5〜6回続いた後、本震がMs8クラスで発生した。また余震もM7クラスであったために首都のサンティアゴ始め、全土が壊滅状態になった。

地震による直接的な犠牲者は1743名。負傷者は667名。

この地震によりアタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7m沈み込むという大規模な地殻変動も確認された。また有感地震が半径約1,000kmという広範囲にわたって観測された。

史上初の地球自由振動の観測に成功し、アメリカでの観測で発生した地震波は地球を3周した事が確認された。

尚、本震発生から15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、約15時間後にはハワイ諸島を襲った。ハワイ島のヒロ湾では10.5mの津波を観測し、61名が死亡した。

各地の津波到達時間日本では地震による津波の被害が大きかった。地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142名が死亡した。

津波による被害が大きかった岩手県大船渡市では53名、宮城県志津川町(現・南三陸町)では41名、北海道浜中町霧多布では11名が死亡。

この浜中町では8年前の1952年の十勝沖地震でも津波被害を受けており、2度目の市街地壊滅。街の中心でもある霧多布村がこのチリ地震津波により土砂が流出し北海道本島より切り離され島と化した。

現在は陸継きだった所に2つ橋が架けられており、北海道本島と行き来が出来る。1つは耐震橋、もう1つは予備橋で橋が津波で流出する恐れがあるためと避難経路を2路確保するためである。

また、同じく度重なる津波被害を受けた田老町(現・宮古市)では高さ10メートルの巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。

この田老町の防災の取り組みを取り入れ浜中町に防潮堤が建設される。北海道の防潮堤については後の北海道南西沖地震でも津波による人的被害の甚大な奥尻島などでも建設された。

地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かった事が指摘され以後、気象庁は日本国外で発生した海洋型巨大地震に対してもハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。

あれから丁度50年後、チリ中部沖で2010年2月27日3時34分(現地夏時間; 6時34分 UTC)に地震が発生した。1900年以降、チリでは1960年5月のチリ地震に次ぐ規模、世界でも5番目の規模の地震となった。

日本では、2月28日午前8時30分に気象庁が会見を開き、かつてのチリ地震で最大6mもの大津波を受けて甚大な被害を受けた歴史的経緯もあり、大津波警報を三陸沖に発表するといった内容を伝えた。

時間は、「午前9時を過ぎればいつでも発表できるようにする」として、当初の予定を大幅に前倒しすることも示唆した。しかし人的被害は全く無かった。海苔ひびや牡蠣いかだの被害は大きかった。

気象庁は同日の会見で、津波の予測が過大であったとし、警報・注意報が長引いたことを謝罪した。ただし最悪のケースを想定したもので、判断ミスはなかったとした。2010・5・24

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月19日

◆中華+共産+資本主義

渡部 亮次郎

中華人民共和国は見出しに掲げた3つをごっちゃにしたものを戦術に、とりあえずアジアの盟主になることを目指し、先進国日本を障害物と考えている。「とにかく日本!中国の言いなりになれ」と最初に「靖国」を踏み絵に出した。

昭和29年の法政大学は東大を追われた大内兵衛が総長を務めていたことでも分るようにマルクス学派の巣窟だった。そこでは社会主義は正義と教えた。そんな馬鹿なことがあるかと反発した私は不真面目な学生になった。

長じてソビエトや中華人民共和国を訪れると、それらがやはり、全く嘘であることを確認した。特に酷かったのがソ連である。1973年1月にクレムリンを訪れた。折から小雪が舞い、氷点下20度。

小雪の向こうに人々の何百人という行列が見える。近付いて見ると老若男女、皆、目を真赤に腫らし、破れた靴、擦り切れたオーバー。世界2大国というソ連の、しかも首都でこれはなんだ。

トルストイ描く、これが農奴かと尋ねたら、日本大使館員曰く「これがすべて標準的なモスクワ市民。生まれてはじめてクレムリンを見学に来たんです。制限1000万人のモスクワ市民の実像です」。

大内さんもこれを知らずにマルクス万歳を教えていたのだな。こりゃ間もなく崩壊するぞ。的中した。

社会主義は社会正義と誤解するから、バカが社会主義者になる。古来、ロシア人は領土拡張主義者とか、版図主義者と陰口を叩かれる。しかし社会主義者という正義者になったら版図主義者は返上したかと思いがちだが、それは返上していない。北方4島は絶対、返さない。

シナ人は中華思想に浸って威張っていたが、毛沢東によって共産主義=社会主義=社会正義の国になったから、そんな馬鹿な思想はボツになったと思いがちだが、靖国批判を受けるたびに、それは日本人の勘違いに過ぎないことを痛感する。

中国という饅頭は薄皮は資本主義、その下は共産主義、しかして餡子は中華思想なのである。

そういう3つの要素が時に応じて同じ「友好」の穴から、別の顔をして現れるから、我々単細胞は戸惑うのだが、彼らにしてみれば本当は論理なんかどうでも良いのだから、戸惑っているほうがおかしいと見えてるはずだ。

<中華思想 ちゅうかしそう 漢民族の伝統的な自己優越思想。中国の国土や文化を理想とし、世界でもっともすぐれたものと考え、それと異なる文化、習慣の国や地域を卑しむ。

近隣諸国の君主は、冊封されると次のような義務をおった。(1)中国皇帝に対して臣下の礼をとり、定期的に朝貢(ちょうこう)する、(2)中国皇帝から要請があった場合は兵を派遣する、(3)中国へ派遣されるいかなる国の使者をも、途中で妨害してはならない、などである。

高句麗や百済、新羅、南越(なんえつ)といった諸国が冊封体制にくみこまれたほか、邪馬台国の女王卑弥呼が、三国時代の魏より「親魏倭王」という称号のはいった金印をあたえられて冊封され、また、室町時代に足利義満は明の永楽帝から「日本国王」に冊封されている>Microsoft

それでしかしシナは内戦により貧しくなり、列強に蚕食された。これはならじと頑張ってみたがどうにもならないところへ日本軍に侵入された。蒋介石良く耐えたが、後ろから八路軍(毛沢東)なる共産党との内戦も余儀なくされた。

幸い日本はアメリカはじめ連合軍に降伏したため、中国から引き揚げた。その後、蒋介石は台湾に逃げた。八路軍は蒋介石に勝っただけなのに、今では日本軍に勝ったのは共産軍だと言う教えを国民に垂れている。

歴史を正確に検証する気があるなら、中国の今日が1972年9月の日本との国交回復にあり、特にその後の日中平和友好条約に基づく日本の資金、技術援助にある事(改革・開放)は決定的な事実であることを知るはずである。

だからこそ、中国政府(共産党)はこれだけは国民に一言も教えない。共産党への関心が日本への感謝に替わっては困るからである。

さて国力も向上してきた。そこでもたげてきた頭が中華思想である。まずアジアの盟主になる。ライバルは先進国日本。これの頭を押さえつけておかないと、アジアの盟主にはなれない。そこで靖国を持ち出して、言うことを聞かなければ首脳会談にも応じない、ときた。

だから日本外務省が国連安保理の常任理事国になろうとした理屈が分からない。なられたら中華の国が面子を失うではないか。中国は絶対に日本阻止に走る。私でも分かることを頭のいいはずの人たちはどうして分からないのだろう。

馬鹿なマスコミと財界は靖国で言うことを聞けば、日中友好が来ると勘違いして、首相よ靖国へ行くなコールである。富田メモを持ち出して、てめえは昭和天皇を無視していたことなぞ棚に上げして、天皇も行かなかったところへ首相は行くな、だ。いつから天皇崇拝者にはや変りしたのか。

媚中野郎ばかりの外務省にさえ「止めたら面子を失うぞ」と警告を発した人が居る。極めて残念なことに2006年8月3日、肺癌のため57歳の若さで物故してしまったが、元上海総領事の杉本信行氏である。遺著「大地の咆哮」(PHP)で警告している。

「もし総理が中国側の非難に応じ、中国の在留邦人の安全あるいは日本企業の経済活動の確保を理由に靖国神社参拝を中止すれば、中国側、特に一部の対日強硬派は『日本という国は経済利益のためには国の面子も捨てる』と受け取るだろう」。

即ち中国共産党にとって靖国問題は目的のある戦略ではなく、日本という国を押さえつける手段の一つ、戦術に過ぎないのである。だから靖国が解決しても日中友好は絶対、かえって来ない。次の難題を探して内政干渉をしてくる。内政干渉者に話し合いなど不可能だ。

学科試験をパスして入社したであろうマスコミ人や財界人に、この簡単な理屈がなぜ分らないのか不思議でならない。

1949年に建国された中華人民共和国。奇しくも杉本さんと同じ年。私の見るところ、中国もいまや末期癌に侵されている。中華は中華で目標なのだろうが、肝腎の人民は解決不能の格差に落命しそうになっている。

媚中新聞の代表朝日新聞でさえ報じないわけに行かなかった国内暴動の多発。暴動は増えこそすれ減る事はない。国内でこんなに暴動の増える国に将来があるとは思えない。

<中国で暴動多発 昨年は8万7千件

中国で昨年、官民衝突などの暴動が8万7000件発生したことが分かった。前年よりも約1万3000件も増加し、全国各地で党幹部・官僚の腐敗や土地収用などへの庶民の憤りが強まっていることが浮き彫りになった。

華僑向け通信社・中国新聞社によると、国政の助言機関、全国政治協商会議の任玉嶺・常務委員が、シンポジウムの席上で明らかにした。任委員によると、暴動の99%が庶民の権利が侵害されたことが原因で発生。93年から03年まで毎年平均17%の割合で暴動が増え続けているという。

任委員は、暴動が増加する背景として貧富の格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)が年々深刻になっていることを指摘。

独占企業の制限や官僚の「灰色収入」防止とともに、「厳格な規制があるのに、腐敗した人間の権力が大きくて、庶民がものを言えない」状況を改革する必要があると訴えた。>(Ashi Com 2006年08月05日19時20分)

私のつたない情報によれば、資本主義を拡大するために共産党は工場など生産設備建設のための用地を確保しなければならないが、空いている土地なぞ何処にもない。

農民から強引に土地を取り上げて知らぬ半兵衛を決め込むから農民は暴動を起こすしかない。共産党は結構、殺している。事実を新華社が報じない以上、日本には知らされない。インターネット「大紀元日本」が連日、報ずるのみだ。http://www.epochtimes.jp/

2006年8月6日にも暴動の報道が次のように出ているが、これが日本の新聞やテレビに出る事はありえない。国営通信新華社が報じないものを日本のマスコミが報じてはいけないからである。中国共産党が己の恥を発表するわけがない。

<中国湖南省:武装警察、直訴する住民100人あまりを銃殺か

【大紀元日本8月6日】湖南省で2日、強制移転を余儀なくされた住民たちは、補償金問題をめぐり、現地公安当局と武力衝突し、大勢の住民が射殺されたという。

湖北省赤壁市の人権活動家・洪運周氏が提供した情報によると、2日湖南省湘陰県に移住を余儀なくされた住民は、本来支給されるべき補償金が現地地方政権の幹部に不正流用されたとして、上級の政府部門である湘陰県政府を訪れ集団直訴したが、政府側は住民たちの直訴を受理せず、公安警察を現場に動員し、住民たちを弾圧しようとした。

その際、公安と住民が激しく衝突し、数人の公安警察が死傷したもよう。そのため、湘陰県政府はさらに武装警察を現地に派遣、住民100人以上が射殺されたとの説が流れている。

現在、湘陰県は緊急警戒状態となり、情報が厳密に封鎖された。中央指導部の特別チームが現地入りしたもよう。内情を知るものは皆脅迫を受け、外部にこの弾圧の情報を漏らした人を厳しく懲罰すると警告された。

情報を海外に流した洪運周氏は、4日午後、公安当局からこの一件に関与しないよう警告する電話があったという。>(06/08/06 14:47)
(再掲)

2010年05月17日

◆大阪「都」の理由

渡部亮次郎

大阪府の橋下知事が、最近、盛んに大阪「都」になりたいと発言している。「都」とはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、都とは「宮処(みやどころ、みやこ)」から転じた言語。

天皇の宮殿のあるところをいう言葉である。古代の難波京(大阪)、平城京(奈良)、平安京(京都)など。現在では京都および東京とされている。大阪が「都」を名乗る資格は無い。

上記の意味が転じて、政治や行政の中枢機関が置かれた都市のこと。統治システムの階層ごとにその中枢が設置される都市があるため、国家レベルの中枢都市は「首都」と言い、広域自治体(米国では州、日本では都道府県)レベルの中枢都市は「州都」、「道都」、「県都」などと言う。→都道府県庁所在地

橋下知事の発言を忖度して調べてみると、なるほど、大阪市などと大阪府が合併して大阪「都」になりたい根拠が東京「都」にあった。

東京は明治維新以前の東京都都心部の旧称は江戸であり、江戸時代には江戸幕府の所在地として栄えた。第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日に「東京都制」が施行され 、東京府と東京市を統合した形で東京都が設置」された。

第2次大戦後の1947(昭和22)年に地方自治法が施行されたために東京都制は廃止されたが、東京都の名称と行政区域は変更されず現在に至っている。

このため東京都庁は、23区を包括する市役所としての機能と県庁として広域行政体としての機能とを併せ持っている。

橋下知事はこれを狙って「大阪都」で府民の歓心をくすぐり、大阪「市」と「府」の合併を呼びかけているのである。しかし、東京都への歴史を語らずに、矢鱈「大阪都」を連呼するものだから、現在、天皇陛下をお守りしている東京都民は、橋下知事好かんと言っている。

2010年05月16日

◆藁(わら)が消えて行く

渡部亮次郎

古来から稲の生産が盛んであった日本では、藁は大量に出る副産物であり、これをいかに利用していくかが生活そのものであった。

例えば、『万葉集』の中でも見られる住宅に藁を敷いて寝るというスタイルは古代から地域によっては江戸時代まで続き、住宅が板敷きになっても藁布団を用いたり、茣蓙や筵のような敷物や畳・円座などの藁製品の上に座る風習は長く続いた。

ところが、いまや何処の農村でも藁は無くなり、注連縄(しめなわ)も藁で無い材料を使わざるを得ない状態になっているらしい。

当メルマガ「頂門の一針」の読者からの指摘に依ればコメ(秋田小町)5Kg=2000円なのに、東京・小岩の藁専門店では藁5Kgの方が高くて2100円だそうである。
http://www.waranawa.com/wara.html?gclid=CKOrjO-BzKECFRVAbwodYHVVdw

1960年代以後の農業の省力化と藁製品そのものの需要の減少によって藁仕事は殆ど見られなくなったからである。今や稲刈りを手でするところはまず無い。コンバインだ。

すると藁は細かく粉砕されて田圃に撒かれる。だから藁を藁として取り出す為には稲刈りを手でやらねばならず、人件費の分、コメより割高になってしまうのである。

黄色のビニールで作った注連縄は丈夫で長持ちするが、そうではなくて藁が手に入らなかったための苦肉の策ではなかったか。


かつて、農業地域の収穫期には大量の藁が発生するため、業者が大型トラックでその買い付けにやって来るという光景がごく当り前に見られた。

だが、コンバインが収穫作業の中心となってからは、刈り取られたイネがその場で直ぐに裁断され圃場一面に排出されるため、かつてのような買い付けの光景を見ることはまず無い。

かえって、今日では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にある。最近の研究で本田技術研究所からバイオエタノールの製造実験が発表されている。

戦後、住宅が板敷きになっても藁布団を用いたり、茣蓙(ゴザ)や筵(むしろ)のような敷物や畳・円座などの藁製品の上に座る風習は長く続いた。

また衣服としては笠や蓑、草鞋、藁手袋、雪国における深沓など、食生活では鍋敷や鍋掴、束子や容器類など、その他箒や俵、畚、縄跳用の縄なども藁製品の代表例である。

子供の頃は、日露戦争帰りの祖父に藁靴や草履の編み方を教わり、それを履いて通学したものだ。あれから60年以上経った今ではすっかり忘れてしまったが。

また、注連縄や藁馬、藁人形など宗教的な側面や、燃料・肥料・飼料などのエネルギーとしての側面もあった。不要な藁製品は堆肥化することで有用なまま処理することが可能であった。

藁細工を行うにはハカマと呼ばれる下葉を取り去るワラスグリをはじめワラ切り、ワラ打ちなどの加工、更に腐熟を防止するために囲炉裏で乾燥させるとともに煙の微粒子を付ける作業も重要であった。

とはいえ、これらの作業以外は基本的には撚り・束ね・組み・編み・巻上げ・織りといった比較的習熟しやすい作業が多く、農作業が出来ない冬などに老若男女を問わずに現金収入を得るための藁仕事が行われた。

たとえば筵(むしろ)を2つに畳んで左右を縄で縫えば叺(かます)という袋状の入れ物になり、化学肥料の入れ物として、大量に消費されたが、ビニールの普及とともに使われなくなった。

俵(たわら)も似たような変遷を辿った。戦後も長い間、玄米を詰めて都会に送られたが、現在では俵は都会では目にする事はなくなった。玄米の入れ物は紙の袋になっている。

昔の農村では、原料代が不要でかつ多くの村々で藁仕事が行われたことは結果的には藁製品が大量かつ安価で流通することになり、藁を無駄なく利用しようとする農村部とは違う意識を単なる消費者に過ぎない都市部に植え付ける結果となった。

「米は藁作り」「藁を焼いたら笑われる」と言われた農村部に対して「溺れる者は藁をも掴む」「藁包に黄金」など藁を安価なもの、粗末なものとして捉える都市部の言葉の違いとなって現れた。

18世紀に蝦夷地のアイヌの元を訪れた日本人が「アイヌは鮭を主食としているのにその皮を足に履いて踏みつけにしている」ことを非難したらアイヌから逆に「和人(日本人)は米を主食としていながらその藁を足に履いて踏みつけにしているではないか」と反論されたという話が伝えられている。2020・5・13

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月13日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎

名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名「大風呂敷」である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。

南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)(この項のみ広辞苑)

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。

東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名は新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882(明治15)年2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

1890(明治23)年、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892(明治25)年12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1898(明治31)年3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900(明治33)年には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917(大正6)年には6万2千人となり、1928(昭和3)年には2万6千人となった。

なお、台湾は1945(昭和20)年にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の許で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の許で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941 (昭和16) 年7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896 (明治29) 年ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941 (昭和16) 年7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は 記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

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2010年05月11日

◆ウスターソース未経験

渡部 亮次郎

日本で使用されているウスターソースは、イギリス産の物とは材料も異なり別物である。日本産は果実と野菜、スパイスが主原料であるのに対し、イギリス産はアンチョビも主原料として使われており、そのため魚醤に似た味がする。

日本産が揚げ物などにかけて食べるのに対し、イギリス産は、シチューやスープなどに数滴落として風味をつけたり隠し味として使用されることが多い。

このような事になった理由は、ウスターソースが、たまたま日本の醤油に似ていた事から西洋風の「新味醤油」などとして一般化したためである。日本ではその後、このウスターソースに派生する形で、とんかつソースや中濃ソースが考案され、広く普及するようになった。

日本でウスターソースは細分化されて各種が存在すると共に調味料としての使用量は多く、飲食店や家庭で使用される。調理中に使用される他、醤油差し(ソース差し)で食卓上に並べられていることも多く、日本の家庭や大衆食堂では、単に「ソース」と言えばウスターソースのことを指すほど日本に定着した調味料となっている。

日本にウスターソース類が登場したのは明治時代である。ヤマサ醤油の7代目濱口儀兵衛が米国遊学時代に独自のソース製造の構想が生まれ、8代目濱口儀兵衛が研究を重ね、1887年、米国で「ミカドソース」の名で販売を開始。

同時に、国内向けには「新味醤油」の名で発売された。しかし、一般の人びとには味が馴染まず、1年ほどで製造は中止された。

また、現存する最古のソースメーカーである神戸の阪神ソースは、創業者である安井敬七郎が1885年に開発販売(一般ルートによる発売は1896年より)したソースを日本最初のものであるとしている。

時をほぼ同じくして、1894年に大阪では「三ツ矢ソース」が発売され、やはり「洋式醤油」(「洋醤」)と呼ばれた。

さらに、1905年には関東地方で「犬印ソース」(現ブルドックソース)が、1908年には中部地方で「カゴメソース」が生まれ、明治後期になると全国的にソース製造業が勃興した。

こうして、「ソースといえばウスターソース」という認識が日本において定着していくことになった。これらの初期のソースは、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであった。

戦後まもなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができ、その中間の中濃ソースが昭和30年代に登場した。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、多くの家庭に常備されるようになった。

(東日本では中濃ソースが、西日本ではウスターソースが普及した)。家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。

私は秋田県の寒村に生まれ育ったから、ソースなるものを全く知らないで育った。初めて見たのは大学の食堂だった。しかし、味には馴染めなかった。

浅草や向島の洋食屋へ行っても使わない。上野のとんかつ屋では特製のソースを販売しているが、私がとんかつに掛けるのは醤油である。ちょっと恥ずかしい。2010・5・10

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<目次>
・ポイと先送りの舟に飛び乗る:古澤 襄
・アメリカは北朝鮮崩壊に備える:古森義久
・ネパールに政治的断崖の危機:宮崎正弘
・「人斬り以蔵」と坂本龍馬:平井修一
・ウスターソース未経験:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年05月10日

◆失敗多いほど秀麗

渡部亮次郎

凡人の一生は、ひょっとすると失敗の積み重ねかもしれない。

小中高と試験の連続。面白い事にしくじった問題に関する限り正解は一生、忘れない。落第を恐れるから、なるべく失敗しないように勉強はするが、本質的には失敗を恐れてはならないのだ。

小さい時から家庭教師をつけられ、正解ばかりを教えられ、覚えてとうとう、大学を終えると、失敗した時に、事態への対処の仕方が分からない。教わらないから、回答を知らないのだ。

それなのに、よせばいいのに政治家になり、あまつさえ、いきなり総理大臣になって一つの正解も出せないまま生き恥を晒しているのが鳩山だ。

私が秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)=故人は、晩年こそ華やかだったものの、失敗の連続のような生涯だった。

生まれたのは天草(熊本県の島)の元庄屋。旧制中学を卒業後、父親の希望で大阪に出て歯医者養成専門学校(現在の大阪歯科大学に入ったが、医者はどうしても厭で、京都武道専門学校へ。

そこで恋愛して一子(男児)が生まれる。妻子を実家に預けて中国へ出奔。そのうちに対中戦争。そこで血書志願して陸軍へ。その後、大東亜戦争後に出来た陸軍落下傘部隊に志願。長男は採用しないのを無理に入る。

パレンバンへ日本最初の落下傘部隊として降下するべく、途中までは船で異動したが、アメリカの魚雷に沈められて果たさず。そのご陸軍飛行隊所属のパイロットとなる。

敗戦直前、札幌で天雷特別攻撃隊(特攻隊)の隊長任命され8月13日に飛び立とうとするが、沖縄方面、悪天候の為、17日に延期命令。しかし、15日で敗戦。生き残ってしまった。

ここまででも気付くように、彼は「死」を所望するような青春を送る。それが結果的に「生」を与えられたような「その後」となる。村長から衆議院議員となり連続当選15回。


途中で日米安保条約の批准に反対票を投じて除名。初入閣は他人より相当遅れたが、官房長官、厚生大臣(2回)、外務大臣3回と輝かしく生きた。

失敗からすべてを修得した。だから得た経験は濃密だ。比ぶべくも無いが鳩山の経歴などは「無」に等しい。口先、理屈の人生であって、世にしごかれたことのない半生は、血の通わぬ経験でしかない。

沖縄問題を根本的に解決できない事を知らずに「弄る」だけしたものだから、とうとう命取りになるところだ。気付いて逃げ出しても行く先は無い。

しかも2度目の結婚で子供は既に5人もいたが松谷天光光なる野党の女性議員と恋に落ち、懐妊させる。そこで妻子と別れ松谷と結婚。封建的な土地柄と思われがちだが、天草は園田を落選させなかった。

「野戦に出て二股の途がある。左せんか、右せんか。綺麗な方へ進むと必ず敵が待ち伏せしていた。だから迷った時は悪い途を選ぶ。

部下を1人も死なせなかった。天光光のときも、こっそりと人工中絶させるという安易な道を選んだら、後にばれたら、そのほうが命取りだったろう」。

失敗や困難を恐れてはならない。そんな事は家庭教師も大学院も教えない。だから学歴で政治はできない。(敬称略)2010・5・8

2010年05月08日

◆かくて誰も居なくなった

渡部亮次郎

<この島をリーダーのいない極東の孤島にしたいのか。そんなことないですよね。つぎは誰が最適か、ベストではないが誰がベターか、密かな思いはあるはずだ。決まってから、ああでもないこうでもないとケチつけることで口を糊するのは後出しジャンケンのようなものだ。フェアではない。

ここはひとつ、ど素人なのでよく分からないが、プロは当然のこと、追っかけ素人も「辞めろ」というなら、「辞めさせて、菅にしろとか、舛がいいとか」、はっきり個人名を挙げて宣言してもらいたいのである。それがプロの最低限の見識・責任ではないのか。>石岡荘十(「頂門の一針」1906号=5月5日)

私も素人だが、正直言って私には指すべき適材が無い。最大唯一の権力者のなるのが普通だが、この人は日本の将来なんか考えていない。中国と韓国に尾を振ることしか考えていない。

民主党に人材が無いのは、戦後、ほぼ一貫して政権を執りながら、日教組を潰せず、人材育成を怠ってきた自民党の怠慢である。

怠慢に留まらず、政治家各々が、自己の権益固守に終始、有為の人材を自党に取り込めなかった。その罪は末代まで祟る国家百年の大計を過ったのである。

歴史を教えない、世界情勢に目を瞑らせる。国旗、国歌を尊敬しない。自国の尊さを教えず、自らを卑下するばかりを教える。近くの区立毛利小学校には日の丸の旗の翻った事は1度も無い。完全に日教組に支配されているのだ。

中学も、高校も同様。如何にすれば国家が富み、繁栄するかを目指すよ
り、個人の都合ばかりを考える少国民。それが大学に入っても勉強もし
ない、学生らしい、瑞々しい感覚が失われているから、学生運動も起こせない。教わるのが「予備校文化」。最少の努力により最高の得点を挙げるテクニック。夢も理想も無い。

昔の左翼学生は法曹界と医学界に逃れた。その中の弁護士たちが反体制の思想を隠して政界の潜り込んだのが民主党。これをこうしたのが自民党の最大の罪である。

政治に目覚めた有為の青年の目指した松下政経塾の殆どが民主党に偏った。自民党が門戸開放にチャレンジしなかったからである。

そういう彼らは先の大戦の生き残り。荒々しい肉弾戦を潜り抜けてきた人物たちだから、度胸も有ったし、胆力もあった、快刀乱麻の難事処理能力にも優れていた。敵に対して老獪な出処進退も出来た。

戦後の30年ぐらいは自民党も社会党も戦争生き残り派で国家再建に尽力できた。しかし、その時、彼らは後継者の育成を忘れた。そのためには教育の再興、日教組殲滅が不可欠である事を忘れた。

全てをご都合主義で見送った。

かつて中南米の某国大統領を表敬訪問した際、大統領が言った。「お国には自民党という政党があって、優れた経済成長を続けているらしい、何とか自民党を輸出してくださらんか」。

あの頃、経済の右肩上がりのころだ。しかし、これに関して既に後継者養成によって「次代」を考慮すべきだったのに、自民党はただ、酔っていた。自己権益の墨守に専念して居るだけだった。

石岡さんは先輩である。「おまえ、偉そうなこと言うんじゃないよ、
もっと現実論を言えよ」と言うお叱りの声が聞えてくる。

以上の如く、いまやわが国政界に有為な人材は無い。岸の孫、福田の息子失格。それなのに吉田の孫を出して究極の失敗。民主党に渡したら、鳩山の孫だという。やらせてみたら白痴だった。これしかないのは偶然ではなく必然なのである。誰もいなくなった。

とはいえ、もはや自民党という戦後日本に責任を持った政党が誤った「国家百年の大計」をしてしまった以上、この先100年の命運は決ってしまった、と言うしか無い。2010・5・7

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<目次>
・かくて誰も居なくなった:渡部亮次郎
・英国総選挙、保守圧勝ともならず:宮崎正
・鳩山首相の主観的「誠意」と国家解体方針:阿比留瑠比
・フォークランド沖合で英国が油田を発見:宮崎正弘
・幸田文の「父の周辺」:平井修一
・不磨の大典----善意に滿ちた迷惑なこと:上西俊雄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年05月07日

<夕刊>◆沖縄県ではなく琉球王国だった

渡部 亮次郎

1429年―1879(明治12)年まで琉球王国(りゅうきゅうおうこく、が存在した。正式国名:琉球國で沖縄本島を中心に存在した王国である。

最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)」と呼ばれた。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国の明(みん)・清(しん)の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結びつきが知られる。

最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと高宮広士札幌大学教授が指摘する。

近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

明、および清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。


1945(昭和20)年、沖縄戦により住民に多数の犠牲者が出る。その後、アメリカの統治下に入る。

1972(昭和47)年5月15日、日本に復帰した。

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<目次>
・徳之島ヘリ部隊移設断念へ:古澤 襄
・「くい打ち桟橋方式」こそ生態系の破壊だ:泉 幸男
・沖縄県ではなく琉球王国だった:渡部亮次郎
・夢遊病者の沖縄訪問と対日工作基地:西村眞悟
・ハトは暗愚を通り越して痴呆者:平井修一
・なぜ「アメリカが日本を捨てるとき」なのか:古森義久
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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◆昭和33年の流行歌手

渡部亮次郎

2010年4月29日未明のラジオが「昭和33(1958)年の流行歌10曲」を放送したが、出た歌手10人のうち3人しか生きていない事に改めてびっくりした。

(1)からたち日記 島倉千代子(存命 現役)
(2)夕焼けとんび 三橋美智也(享年65)
(3)おーい中村君 若原一郎(享年58)
(4)こいさんのラブ・コール フランク永井(享年76)
(5)銀座の蝶 大津美子(存命 現役)
(6)風速四十米 石原裕次郎(享年52)
(7)三味線マドロス 美空ひばり(享年52)
(8)ふるさと列車 青木光一(存命 現役)
(9)好きな人 藤本二三代(享年63)
(10)居酒屋 春日八郎(享年67)

昭和33年は大学を卒業し、郷里の秋田県で放送記者を始めた年。既に居酒屋でかなり(1升は軽かった)日本酒を飲んでいたが、事件に追われて(他社の先輩に騙されたり、からかわれたりもして)忙しく、歌を聴いたり、歌ったりする機会は皆無だった。

当時カラオケ装置はまだ発明されてなかった。唄の伴奏は専ら「流し」の兄ちゃんたちだったが、3曲100円の100円が惜しくて呼べなかった。

間もなく仙台に移って正式にNHKの職員となったが、歌を歌ったり聴いたりする暇はなかった。ただ6年先輩記者の高野悠(ひさし)さんが「からたちの花」をがなっていた。今になってみると島倉千代子の歌だったわけだ。

だから昭和33(1958)年の歌は、あの年ではなく後年、多分、東京政治部へ転勤した東京オリンピック以降に耳にしたものだろう。ただし三橋美智也だけは大学在学中、田舎で公演を見た。彼は後年、糖尿病を発症。合併症が悪化してしんだ。65才は、いまでいえば若死にだ。

春日八郎は本名が私と同姓。福島県会津坂下町出身。ここからはやはり若死にした作曲家猪俣公章が出ている。ただし交流は無かった。理由は知らない。

春日からは参院選に出たいという相談を受けたことがあって、後に首相になる宇野宗佑に繋いだが、話はうやむやになった。

裕次郎、ひばりも若死に。

藤本二三代(ふじもと ふみよ、本名:三谷綾子)。29日の放送では実の母子のように言った。間違い。

1937(昭和12)年生まれ。父親の再婚相手が歌手の藤本二三吉であり、実の母娘ではない。

二三代が歌手を志した際、芸能界の厳しさを知り尽くしている二三吉は反対したが、二三代の熱意に折れ熱心にサポートした。二三吉の力添えもあり、作曲家の吉田正に師事し、1956(昭和31)年にビクターから「花の十九よさようなら」でデビュー。

1957(昭和32)年11月発売の「夢みる乙女」、1958(昭和33年)11月発売の「好きな人」、1960(昭和35)年12月発売の「花の大理石(マーブル)通り」がヒット。この3曲とも、吉田正が作曲している。

NHK紅白歌合戦に4回連続出場という実績を残した。

1961(昭和36)年には岩下志麻主演の映画『あの波の果てまで・3部作』(松竹)の主題歌も担当した。

最後のレコードは、1973(昭和48)年発売の「二人の北新地」。2001(平成13)年3月28日、大動脈解離で急逝。享年65(満63歳没)。娘に歌手の藤本じゅりがいる。(この項のみ「ウィキペディア」)

フランク永井は宮城県の出身。昭和40年ごろは目黒区の元競馬場で隣組だったが、1度も会ったことは無い。夫人と不仲になる出来事があり、首をつり損ねて脳をやられ、不幸な晩年だった。

若原一郎はNHKのど自慢の出身にしては楽譜が読めた。張りの有る美声で一世を風靡したが、やはり若死にした。敬称略 2010・4・30


2010年05月04日

◆暗愚で狡猾な鳩山首相

渡部亮次郎

東大のあと米国の大学で何やらの資格を得てきた人を暗愚で狡猾と決め付けるのは矛盾だと言われるかも知れないが、人間特に政治家は、その資質において、学歴とは全く無関係だ。

それが証拠に、高等小学校しか出ていなかった田中角栄は首相に上り詰めたが、その娘は大学を出ながら外務大臣が務まらなかったし、
この先首相を望まれる場面は皆無だ。

日米関係の何たるかを全く弁えずに「対等な関係」などと言ってアメリカを怒らせて仕舞った鳩山。日米安保条約のよって来る所以も分からない。日米安保条約を破棄し、核を備えた自主防衛に踏み切るよういなどまたく無い。

日米安保体制の実態を学ぼうとすれば1分で分かる。学ぼうとしないのだから暗愚としか言いようが無い。

暗愚の帝王といわれた元祖は故・鈴木善幸だが、棚からボタ餅の首相の座だったものの、外交のことこそ十分じゃなかったが、少なくとも内政に関しては合格だった。後継者の選考など見事なものだった。

それまで長い事党内のとりまとめを任務とする総務会長をしていた所為もあってか「老獪」さは感じさせたが、親から貰った十何億ものカネを知らなかった、などという「狡猾」さは全く無かった。

加えて鳩山は「姑息」でもある。

<「愚か」を「愚直」とすり替えた鳩山首相>と論じたのは産経新聞の総理官邸クラブ・キャップの阿比留瑠比。

<2010年3月21日、鳩山由紀夫首相と自民党の谷垣禎一総裁との党首討論が開かれました。訪問者の皆さんもご存じの通り、鳩山氏はこの中で、米軍普天間飛行場移設問題をめぐる米ワシントン・ポスト紙の酷評を受け入れ、「言われるように、私は愚か(loopy)な総理かもしれません」と認めましたね。

会場の参院第一委員会室が一瞬、どよめいたのがテレビの画面を通じても伝わってきました。

現職の首相が「愚か」であるかどうかが国会で議論され、あまつさえそれを首相自身が「その通りかも」と追認するのは、たぶん前代未聞の珍事だろうと思います。

私はその後のやりとりを聞きながら、一見「無防備」に見える鳩山氏は、実は「姑息」な人だなあとしみじみ感じていたのでした。

というのは、党首討論の議論の中で、鳩山氏が巧みに言葉をすり替えているのがありありと分かったからです。この点については、テレビを見ていた国民のかなりの人も気付いたことと思いますが、改めてこの場で指摘しておきたいと思います。

鳩山氏の言葉の変遷をたどると次のようになります。まず最初に認めた言葉が

「私は愚かな総理かもしれません」ですね。この時点では、ワシントン・ポストの指摘通り、「愚か」という言葉しか使っていません。
それが、次の段階では別の言い方と混在します。

「愚かだったから、愚直だったから。あるいはそうかもしれません」

誰も「愚直」なんて言っていないのに、突然こう言い出したのです。
「あれっ」と思って続きを注意して聞いていると、さらに

「少しでもそれ(沖縄の負担)を和らげることができたらと、愚直に思ったのは間違いでしょうか」」

そう、いつのまにか「愚か」が消え、きれいに「愚直」にすり替えられていました。私はああ、こういうところに人の本質が表れるのだろうなと感じましたね。

ちなみに、手元にある小学館の「大辞泉」によると、それぞれの意味はこうあります。

【愚か】(1)頭の働きが鈍いさま。考えが足りないさま(2)ばかげているさま(3)未熟なさま。

【愚直】正直なばかりで臨機応変な行動をとれないこと。また、そのさま。ばか正直。

他の辞書も当たってみましたが、だいたい似たようなことが書いてありました。つまり、「愚か」は文字通り「ばか」であって、「愚直」は、「正直」の程度が甚だしいもの、「正直」を強調したもの、不器用なまでの真っ直ぐさ、というところでしょうか。

愚直は一般的に一定の好意、評価を持って使われる言葉であり、どう考えても両者の意味は全く異なりますね。もちろん、「loopy」に愚直なんてニュアンスは全くありません。

鳩山氏は結局、他者の批判を受け入れる謙虚さを装いながら、自分の都合のいいようにその意味するところをねじ曲げたということでしょう。

実際、その後の記者団のぶらさがりインタビューの際にも、「愚直さを今こそ生かさなきゃならないときだ」などと自己正当化し、
「愚直」という言葉を4回も使用していました。自分はばかなのではなく愚直なだけだと言いたいわけです。>阿比留瑠比のブログ
「国を憂い、我とわが身を甘やかすの記」

どうして、こういう無意味な人間が仕上がるのだろうか。結局は東大に入りさえすれば、最高の大人に育つという親の誤解だろう。世間の荒波は、有り余るほど抱えるブリジストンのカネで守る。

アメリカに留学させれば、私立大学の教授ぐらいにはなれるから安心と親は踏んだのだろう。しかし、本人は、その科学関係の能力の無さを悟り、転職を決意。

転職先に国会議員を選んだのは、弟ですら勤まっているからと安易に考えたのではないか。世渡りの知識も経験も積んでおらず、出来たのは他人の妻を横取りする事だけ。

かくて親は仕方ない、鳩山家の過去の中から北海道の地盤を探し出し、母親の子供手当てで議員を続けていたら、なんとなく首相に就任する「めぐり合わせ」。ご本人は結構「満足」しているのでは無いか。

鳩山と会話を交わした人間は10人が10人とも「いい人」だと思って出てくる。詰まり鳩山は相手の言い分のすべてOKを与えるのだ。したがって1人目と10人目の受けた印象を付き合わせれば、完全に逆の結論になっている。

胡錦濤にはうなづき、オバマにもうなづく。沖縄県民にもいい顔をしたい、国民にも勿論よく思われた。そこに共通する名回答なぞ
あろうわけも無い。待っているのは政治的な地獄だが、理由を理解できない暗愚だ。「愚直がいけなかったとは知らなかった」と幸せに微笑むのではなかろうか。文中敬称略。2010・5・3

■本稿掲載の5月4日刊・全国誌「頂門の一針」1905号のご案内
<目次>
・金総書記が4年ぶりに訪中とロイター:古澤 襄
・暗愚で姑息な鳩山首相:渡部亮次郎
・机の引き出しはなぜ右側か?:馬場伯明
・春宵、ひと時、人生を想う:平井修一
・目指す365日誕生日友達:門 佳之
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年05月03日

◆昔もいた暗愚の帝王

渡部亮次郎

鈴木善幸(すずき ぜんこう=岩手県選出)は郵政大臣、官房長官、農林大臣を務めたから、政治家としてはそこそこの経歴といえた。しかし、自民党内では長い事、総務会長として、もめる党内をまあまあと纏める役として重宝がられた。

自民党総務会長は、政府の鉄道建設審議会の会長を兼務していたので、新潟新幹線、東北新幹線のルート決定に際し、盟友田中角栄に便宜を図ったのではないかと噂されたりした。

そんなこと、表立った問題にはならなかったが、いきなり総理大臣になったので「ZENKO WHOU ?」となり、やがて「暗愚の帝王」と私の友人が雑誌に寄稿したので、そうなってしまった。鳩山が始まりではないのだ。

鈴木氏は自民党内で、所謂党人派の大物として、「公家」タイプの政治家の多い大平正芳派の番頭を務めていたとき、会長で総理大臣だった大平が総選挙中、心筋梗塞で急死したので、立場が急変した。

昭和55(1980)年6月12日未明のこと。大平内閣でも外務大臣を務めた園田直は虎ノ門病院での弔問を終えるや、秘書官の私をつれて目白の田中邸に直行。角栄との会談で、後継総理は鈴木善幸とすることで一致、直ちに党内工作に着手。

福田赳夫の「大平いじめ」が死を招いたとの反省があったため、鈴木内閣はすんなり誕生した。

ところが翌年のゴールデン・ウイークに行なわれた日米首脳会談に伴う共同声明を巡って閣内不統一の事態となって、「首相なのに外交が一切分からないとは、こりゃ暗愚の帝王だ」ということになってしまった。

鳩山は政治とは何かの全く分からないまま総理大臣になってしまったが、鈴木はただ「外交」が分からなかったばかりに「暗愚」とされた。

鳩山のほうは、内政も分からない分、鈴木に輪をかけた暗愚と言うほか無い。なによりも日本外交の基軸である日米関係を損なったことは「国賊」に値する。

事件直後、若い頃から知り合いだった私に鈴木は言った。「オレは外交にはズブの素人だよ。踊りは終いまで教えてくれなきゃ踊れいよ」

外務事務次官が私にいった。「あれだけの大物に、モノを教えるのは失礼かと、遠慮した」。

産経を代表する敏腕政治記者阿比留 瑠比は鳩山について1日<「脱力、倦怠、諦観、虚無感、無関心、無感動…。鳩山氏を見ていると、さまざまなマイナスの感情に囚われそうになります。

今回の沖縄訪問(5月4日)についても、ある民主党議員は、「鳩山は県庁までいきつけないで、立ち往生するのではないか」と予想していました。

そして、「辞めるよ」と。まあ、この予想通りになるかどうかは分かりませんし、参院選まで居座るかもしれませんが、「史上最低の総理」の名声は歴史に、そして日本人の脳裏に深く刻まれることだろうと思います。>と自らのブログに書いた。

「史上最低」では鳩山は鈴木の「暗愚」を超えてしまった。しかし初代の暗愚は再選を辞退し、跡を中曽根に譲って濁さなかった。文中敬称略 2010・5・2

■本稿掲載5月3日刊全国誌「頂門の一針」1904号のご紹介
<目次>
・昔もいた暗愚の帝王:渡部亮次郎
・小沢氏、政治生命を賭けた「最終決戦」へ:花岡信昭
・S学会の選挙戦スタート:平井修一
・新党の存在が問われる5月:古澤 襄
・親学のすすめ(上):伊勢雅臣
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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