2010年03月27日

◆ラ大使発言時の外相秘書官は私だった

渡部亮次郎

古森義久氏(現在は産経新聞記者としてワシントン駐在中)はレーガン共和党政権成立時の1981年5月、アメリカ民主党系の大手シンクタンク「カーネギー国際平和財団」に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。

その間の同年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインタビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。

これは鈴木善幸政権のころで、外務大臣は園田直(そのだ すなお)、その秘書官が不肖渡部亮次郎だった。

とはいえ、当時、日米首脳会談に際して発表した日米共同声明をる鈴木首相と外務大臣伊東正義氏の対立が表面化。伊東外相が辞任したので、園田氏が後任として厚生大臣から急遽横滑り就任したばかりだった(18日)。

20日にマンスフィールド大使が外務省に尋ねてきて1時間会談、そのご衆参両院で野党による緊急質問が行なわれたが、政府、外務省としては事前協議の要請があった事は、これまでになかったのだから核の持込は無かった、と「見解」を統一。完全否定で切り抜けた。慌てる者は誰もなかった。

当時、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブの野党各党で政府答弁を信じる者は皆無、核持ち込みを事実と想像していた。

個人的には「持ち込まれていることがあるかもしれない、と思わせた方
が抑止力だ」と漏らす野党議員もいた。

後年、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。

さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。それでも日本政府は否定しつづけていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認めた。

今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森氏の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

これに先立って1967(昭和42)年に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。「日本に他国から核兵器を持ち込まさせない」ということで1974年(昭和49年)に提唱者の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

それ以降の歴代内閣は非核三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も非核三原則の遵守を表明していた。

アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としていたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港するアメリカ海軍の艦船が兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる。

後年の1999(平成11)年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年(昭和38年)にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。

また、2008(平成20)年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして
“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、朝鮮戦争
時の1953(昭和28)年にアメリカ海軍の航空母艦「オリスカニー」が核
兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった。

さらにライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長がアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」2010年3・4月号へ寄稿して明らかにした。

それによると、アメリカ軍がベトナム戦争中の1966(昭和41)年に、日米安全保障条約に違反して、返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあったといい、1972(昭和47)年の沖縄返還までアメリカ軍がたびたび日本政府とアメリカ国務省の要請をはねつけ、同様の核持ち込みを行っていたことも示唆している。

パッカードはまた毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたと証言した。

なお、1991年(平成3年)の冷戦終結に伴い、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が地上配備の戦術核兵器と海上配備の戦術核ミサイルの撤去を宣言したことで、平時において核搭載艦船が寄港するなどの形で日本への核持ち込みは無くなったとされる。

核の持ち込みについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」とし、「事前協議があれば核持ち込みを拒否する」とことを表明していた。

しかし、これは逆に「協議を申し出るか否かはアメリカ軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。

また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ海軍艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ海軍艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じてい
ない)。

またカート・キャンベル国務次官補は2009年(平成21年)9月に来日した際、持込みに関する密約は事実存在し「非核三原則」は有名無実である旨言明した。

核持ち込み問題について、2009(平成21)年9月に鳩山由紀夫内閣で外務大臣となった岡田克也は全て調査し11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。

日米間の核持ち込みに関する密約は2つあり、1つ目は核搭載米軍艦船の一時寄港と領海通過密約、2つ目は緊急事態における事前協議後の沖縄への核の持ち込み密約である。

2010年(平成22年)3月に報告書が出されたが、いずれにしてもこの様に元駐日アメリカ大使本人や、その後の様々な調査によりアメリカ軍による日本への核持ち込みとそれに対する「密約」が存在していたことが事前に証明されているにもかかわらず、なぜ時間と手間をかけて調査、報告をする必要があったのかと、その背後関係を懸念する意見もある。

鳩山内閣は核の持ち込みについて事前協議があった時には「常に核持ち込みを拒否する」としていた政府見解を「核持ち込みを認めるかどうかを曖昧にする」に見直す方向で検討を始めた。

「核兵器の持ち込み」(アメリカ軍に限られ、他国軍については適用しない)の定義については、日米間に相違があった。すなわち、米国政府の理解は、「持込み(introduction)とは核兵器の配置や貯蔵を指すものであり、それ以外は、「transit」として一括し、「transit」には寄港、通航、飛来、訪問、着陸が含まれ、共に事前協議の対象外であるとするもの」である。

これに対して日本側では、「transit」も「持ち込み」に当たると解釈する。この米国側の解釈と日本側の解釈の違いが、さまざまな混乱の元であるとされている。

実際、他の事例で言えば、旅客機が最終目的地までの飛行の途中で他の
空港に立ち寄ることがあるが、これは「トランジット」と呼ばれており、たち寄り空港のある国のビザなどは必要とされない。

また、貨物船がある国に寄港する場合にも、貨物をその国に通関させない限り、何らの手続きを要しない。以上のことから、国際的には、たとえ貨物が核兵器であっても、単なる寄港の場合は、その国に持ち込んだことにはならない、との解釈が常識的である。

2010(平成22)年1月、岸政権下の1960(昭和35)年に外務事務次官を務めた山田久就が、国会で事前協議に関して為した答弁「通過・寄港も対象」は野党の追及をかわすための嘘であり、実は対象外にされていたことが、公開されたインタビュー録音から判明した。

日米政府の公文書公開により、核の持ち込みを定義が日米間で不一致で
あることを知られるようになった。

2010(平成22)年3月に発表された日本の外務省調査委員会は明文化された日米密約文書はないとしながらも、日本の政府高官が核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知りながらも米国に核の持ち込みの定義の変更を主張していないことなどを理由に、核の持ち込みについて広義の密約があったと結論付けた。

日米政府の公文書公開により、寄港などの形で核持ち込みを知っていた
政府高官は以下の通り。内閣総理大臣経験者として岸信夫、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三。

外務大臣経験者として愛知揆一、木村俊夫、鳩山威一郎、園田直、大来佐武郎、伊東正義、桜内義雄、安倍晋太郎、倉成正、三塚博、中山太郎。

内閣官房長官経験者として二階堂進。

1994(平成6)年に佐藤首相の密使を務めたとされる若泉敬(当時は京都産業大学教授)が「1969(昭和44)年11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言している。

2010年(平成22年)3月に鳩山内閣の調査報告書が出された。調査報告書では佐藤栄作元首相がニクソン元大統領と有事の際に沖縄への核持ち込みについて、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことが明文化された密約文書が確認されたが、外務省の中で引継ぎがされた形跡がないという理由から日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。

大きく報じられる事はなかったが、「密約」に身を挺した若泉敬氏は服毒自殺した。佐藤=ニクソンで交わされた密約の舞台裏を、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。

完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。佐藤ノーベル平和賞野犠牲者である。(「ウィキペディア」) 2020・3・24

2010年03月26日

◆刺身・天丼・豚かつ

渡部 亮次郎

昔、政治記者だったころ、後に首相になる福田赳夫さんに、東京で出て来て何が一番美味しかったですか、と尋ねたら、「上野駅前で食べた刺身だった」といった。海の無い群馬県で育った。昔は運搬手段や冷蔵手段も少なかったから、上野の刺身は初物だった。

そういえば、同じ海無し長野県出身の倉石忠雄代議士と知り合いとなったが、腹が出てきたからダイエットすると減食を始めたら、栄養失調に陥った。蛋白質として主に摂取していたのが塩鮭。ご飯を抜いたら塩鮭も抜いたので蛋白質不足に陥ったのである。

新潟から小学校卒業だけで上京したのは、後に「今太閤」と呼ばれる田中角栄さん。何が美味しかったですかと尋ねたら「上野駅前の食堂で食べた天丼」との答えだった。昔の農家で天婦羅なんか揚げることはなかったから、天丼は初物だったのである。

そのあと角さんに銀座ですき焼きをご馳走になったが、砂糖抜きだったので塩辛くって往生した。しかし、彼にはこれが一番のご馳走らしかった。雪国は塩辛く育つ。だから脳梗塞で死んだ。

彼らと私は親子ほど年齢が離れているが、少年時代に対米戦争が行なわれていた関係上、食糧事情の貧しい暮らしが続いた。旧八郎潟沿岸で育ったため、魚(淡水魚)を生で食べる事は禁じられ、さりとて日本海の魚が新鮮な刺身状態で入手する事は不可能だった。

したがって天丼も刺身も少年時代には食べた記憶が無い。特に刺身を美味いと思った時は60を過ぎていた。

50を過ぎてから東京の下町に住むようになって、足繁く通うのは浅草や上野の「とんかつ屋」である。

<東京銀座の洋食店「煉瓦亭」が1904年に発売した「ポークカツレツ」がとんかつのルーツとされている。「とんかつ」を初めて売り出したのは、1929年、東京御徒町の洋食店「ポンチ軒」とされている。

「ポンチ軒」のオーナーの島田信二郎は、かつて宮内省の大膳部につとめるなど西洋料理の経験が豊かで、厚い豚肉に十分に火を通す独自の加熱調理法を考案した。これに刻んだ生キャベツを添えて「とんかつ」として売り出した。

1932年にはこれに続いて上野の「楽天」、浅草の「喜田八」がとんかつを発売。下町庶民の食べ物として育てられ、愛された。>その関係で上野や浅草にはとんかつ屋が多い。

井泉(いせん本店)上野広小路が行きつけである。注文してからテーブルに料理が届くまでの店員各人の隙の無い連携プレーはさながら芸術である。これを見るのも楽しみだ。

なお店の「いせん」。初代は俳句をよくし、萩原井泉水にあやかって「セイセン」の心算で暖簾を上げたが、下町の客は「せいせん」とは読めず、こちらも諦めて「いせん」で定着してしまったらしい。

<フランス料理の Cotelette に由来し、チーズをはさみ込んで揚げたコルドンブルーや、ミラノ風カツレツとして知られるイタリア料理のコトレッタ、ウィーン名物のシュニッツェル、ロシア料理のコトレータなども起源を同じくするとされる料理である。

日本におけるこの洋食は、1890(明治23)年に銀座のレストラン『煉瓦亭』が考案したものとして知られる。ポークカツレツはその後独自の進化を遂げ、とんかつと呼ばれる和食となり、また数多くの派生料理を生むこととになった。

カツレツの技法は、串カツやエビフライ、本来は異なる種類の料理であるコロッケなどにも応用されていった。現在では鳥獣肉のカツレツを「カツ」、魚介類や野菜を素材とする場合は「フライ」と呼び分けることが一般的であるが、ご当地料理においては例外が見られる)>
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
2010・3・24

2010年03月25日

◆仙岩峠は夜這い峠

渡部亮次郎

せんがん峠を挟んで秋田県側の仙北市(田沢湖町、角館町などが合併してせんぼくし)、岩手県側の雫石(しずくいし)町はともに美人の多いところとして有名だ。

訪れた高名な評論家が「山本富士子が田植えをしている」と表現した。2つの地域は今でこそトンネルであっという間に結ばれるが、昔の峠は熊もうろつく危険地帯。

その昔、男どもは夜這いに命を賭けて峠を往来した。仙北と雫石が美人のDNAを共有するに至った経緯については、おそらく大変な冒険談があったはずだが、男は既遂を言い、女は未遂をバラスと言うものの、今となっては聴取不能だ。

八幡平(はちまんたい)に「蒸(ふ)けの湯」と言う小さな温泉がある。ここに行けば子だねが授かると昔から言われて、不妊症の夫婦が湯治に滞在する。

木管から適度の蒸気が噴出しており、この蒸気を当てて、あそこを蒸かすから、不思議や、翌年の春には子供が生まれるといわれている。

ここにアメリカ人の大学教授を案内したところ、それは蒸すからではなくてスワッピングが成立するからだ」と飛んでもない仮説を披露したので往生した。

石女と書いて、不妊症はすべて女性側にあるとするのは封建思想に基づく誤解。原因は男女半々。湯治の滞在が長くなるに及んでスワップが成立しないとは限らないでは無いか、といわれても反論はできない。

江戸時代、盛岡と秋田を結ぶ峠は「国見(くにみ)峠」「生保内(おぼない)峠」と呼ばれていたが、明治になってこの地を視察した大久保利通により、秋田県仙北(せんぼく)郡と岩手県岩手郡を結ぶことから、双方より字を取り「仙岩峠」と命名された。

1964年、自動車通行を可能にし、国道46号(別名:南八幡平パークライン、旧名、国道105号)として開通したが、秋田県側は急カーブの続く厳しい峠越えの道であり、冬季は積雪により通行止めとなっていた。

このため開通間もない1970年には新道の建設工事が開始され、1976年に国道46号のバイパスである仙岩道路が開通し、自動車通行は本峠を迂回し仙岩トンネル経由となった。

なお、開通後わずか10年余りで放棄されてしまった旧道は閉鎖され、近年になって大規模な崩落(幅員の大部分を消失する路盤欠損)があり現在は廃道となっているが、岩手側の旧道分岐点〜国見温泉入口までは、国見温泉に通じる岩手県道266号国見温泉線として整備されている。
2010・3・21
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2010年03月24日

◆朝令暮改で失った票

渡部亮次郎

<民主、生方氏解任を撤回 小沢幹事長と協議。
民主党の小沢一郎幹事長ら執行部を批判した生方幸夫副幹事長の解任方針をめぐり小沢氏が23日午後、生方氏と直接協議し「もう一度一緒にやってくれないか」と述べ、事実上、撤回した。鳩山由紀夫首相も生方氏と会った際、「大ごとにならないように」と発言していた。

当初、党執行部は「処分」でなく「人事異動」の形を取り、事態収拾を図りたい考えだったが、世論の批判の高まりを踏まえ、転換。ただ小沢氏の掌握力の低下が浮き彫りになった形で、夏の参院選に向け党内の動揺が続くことも予想される。

生方氏は23日昼、党倫理委員会を開催し、自身の説明の機会を設けるよう求める要望書を小沢氏あてに提出していた。

民主党は23日昼に役員会と党常任幹事会を国会内で開き、正式決定する段取りだった。両会議は、小沢氏の日程上の都合で夕に延期。ただ後任に固まっていた辻恵衆院議員は、そのまま副幹事長に就任する予定だ。>2010/03/23 14:08 【共同通信】

これに先立って<高嶋良充民主党筆頭副幹事長は18日、生方氏を党本部に呼んで副幹事長を辞任するよう求めたが、生方氏は「普通のことをしゃべっているのに辞めろというのは、党内に言論の自由がないということだ。情けない」と反発。

高嶋氏は「議論する場がいっぱいある。なぜそこで言わないのと指
摘したが、生方氏は「(処分するなら)正式に倫理委員会にかけてください」と求め、平行線に終わった。

高嶋氏は会談後、生方氏以外の副幹事長を集め、副幹事長会議として交代を求める方針を確認。小沢氏と電話で対応を協議した。小沢氏は「そこまでする必要はないのではないか」と語ったが、高嶋氏が説得したという。

高嶋氏は記者団に「放置しておくと党の求心力や他の議員の意欲がそがれる。解任ではなく、役職の交代だ」と強調した。>杜父魚文庫ブログ19日

この問題をめぐっては新聞各社が翌朝の論説で反対を表明。続いて行なわれた産経新聞・フジTV共同の世論調査で執行部による生方氏の解任方針に7割以上「ノー」。

民主党支持者でも64・6%が「評価しない」と回答する一方小沢氏の幹事長辞任を求める声が前回から4ポイント上昇し74・3%に達した。「政治とカネ」への鳩山政権の対応も85・3%が「評価しない」とした。

こうした世論の批判の高まりを踏まえ、小沢氏は方針を転換。しかし「小沢氏の掌握力の低下が浮き彫りになった形で、夏の参院選に向け党内の動揺が続くことも予想される」と共同通信は指摘する。

もともと高嶋良充民主党筆頭副幹事長から「解任方針」の意見具申があった時点で「これは高嶋ノゴマすり」と即座にそれを封じたならば、小沢氏も少しは「男を上げた」。

しかし、評判が下がってから決定を撤回したのではまさに「朝礼暮改」で更に「男を下げた」。党運営に関する戦略も戦術も鈍ってきている。票は想像を絶するぐらい失った。小沢氏の懊悩の深まっている事を示している。
2010・3・23

■本稿は、本日3月24日(水)刊の「頂門の一針」1860号に掲載されました。

<本号の目次>
・朝令暮改で男を下げた:渡部亮次郎
・分裂気味のオバマ政権中国観:古森義久
・一歩前進「パラマウント大阪」:毛馬一三
・小鳩民主党の“バラマ・ケア”:平井修一
・野坂参三の不思議(再掲):渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
■「頂門の一針」を購読(無料)御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm




2010年03月23日

◆小沢氏が逸した千載一遇

渡部亮次郎

<高嶋良充民主党筆頭副幹事長は18日、生方氏を党本部に呼んで副幹事長を辞任するよう求めたが、生方氏は「普通のことをしゃべっているのに辞めろというのは、党内に言論の自由がないということだ。情けない」と反発。

高嶋氏は「議論する場がいっぱいある。なぜそこで言わないのか」と指摘したが、生方氏は「(処分するなら)正式に倫理委員会にかけてください」と求め、平行線に終わった。

高嶋氏は会談後、生方氏以外の副幹事長を集め、副幹事長会議として交代を求める方針を確認。小沢氏と電話で対応を協議した。小沢氏は「そこまでする必要はないのではないか」と語ったが、高嶋氏が説得したという。

高嶋氏は記者団に「放置しておくと党の求心力や他の議員の意欲がそがれる。解任ではなく、役職の交代だ」と強調した。>杜父魚文庫ブログ19日

<産経新聞   「自浄努力を封じる愚かさ」
東京新聞   「それが民主党らしさか」
毎日新聞   「党を暗く閉ざすのか」
とマスコミの受けは散々だ。

この問題について一方の当事者である小沢氏は何と言っているかですが、昨日の高松市での記者会見でも、東京からの地元記者の質問は受け付けず、だんまりを決め込んでいますね。今朝の産経の政治面の記事はこう伝えています。

《「幹事長!生方先生のことでお話を聞きたいのですけれど。記者会見で聞けなかったもので…」

19日午後、JR高松駅のホームで、産経新聞の記者が声をかけると、歩いていた小沢氏は振り返ってじろりとにらんだが、無言のまま電車に乗り込んだ。》

この記者は、歩きながら小沢氏の右横に並び、名前を名乗って質問したそうですが、にらみつけられるだけに終わったそうです。学生時代に小沢氏の著書「日本改造計画」を読んでファンとなったという記者ですが、小沢氏に一時期待を抱いた多くの人と同様、今はその迷妄から解放されているようです。

いずれにしても、小沢氏にとって堂々と自分のことを批判する党所属議員の存在は、言葉を発することもしたくなくなるくらい嫌なのでしょうね。わかりやすい人です。>

で、この問題について一方の当事者である小沢氏は何と言っているかですが、昨日の高松市での記者会見でも、東京からの地元記者の質問は受け付けず、だんまりを決め込んでいますね。今朝の産経の政治面の記事はこう伝えています。

《「幹事長!生方先生のことでお話を聞きたいのですけれど。記者会見で聞けなかったもので…」

いずれにしても、小沢氏にとって堂々と自分のことを批判する党所属議員の存在は、言葉を発することもしたくなくなるくらい嫌なのでしょうね。わかりやすい人です>>。阿比留瑠比のブログ

高嶋良充民主党筆頭副幹事長は小沢氏にゴマをすった。副幹事長として拾われた恩義に答えるべく、生方氏をダシに小沢氏にゴマを摺った。

対する小沢氏は「そこまでやる必要があるか」と一応、太っ腹なところを見せたが、ここが彼の限界。本心は斬りたく思っていたのが本心だから、「解任」を了承した。しかも細野氏に「任す」として、自らの責任を逃れるという卑怯な態度を取った。

本当は高嶋副幹事長から生方解任の意見具申があったとき、これを峻拒すれば小沢の男は上がったろう。「さすが太っ腹、キャリアが違う」と世論もメディアも高く評価したはずだ。

それにしても小澤氏はただの政治家だった。千載一隅のチャンスを逃した。問題は決して小沢氏にプラスにならない。2010・3・21

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2010年03月22日

◆仰がず尊びもしない

渡部亮次郎

昭和26(1951)年3月、新制中学を卒業する時、式では「仰げば尊し」を歌ったが、最近はどの学校でも歌われなくなったらしい。実は当然といえば当然である。先生は聖職者ではなくて教育に携わる労働者に過ぎないから、仰ぐ必要も尊ぶ必要もないと先生が言っているのだから。

NHK記者から外務大臣秘書官を数年、務めたあと、世話して下さる方がいて、日米間の教育交流の仕事を17年間した。それで日本を占領したマッカーサー元帥がなぜ日教組を作らせたかの謎が解けた。

当(まさ)に先生は、アメリカでは聖職者でも模範者でもなく、単なる教育労働者に過ぎない。労働者として雇われている以上、労働条件確保と賃金交渉を雇用者側と行う為には「団結」の労働組合が「当然」必要なのである。

小学校の教師は教科書を制作する。選択するのでは無い。制作するのである。それでいて年俸は300万円程度である。労働者として「生活」を確保する為には労働組合は不可欠なのである。

翻って、わが国では「学校の先生」は社会の模範者であり、田舎では結婚式には校長先生と駐在所の巡査、鉄道の駅長は必ず招待されたものだ。彼らこそは地域社会の模範として尊敬されていたからである。

特に先生は児童、生徒らに教科を教えるだけでなく「修身」としての全人教育を授けていたから「聖職者」といわれ、尊敬されていたものだ。従って月給を上げろとか、休みを寄越せなどという下卑た事は言わなかった。

その代わり、生徒に対しては(中学卒業を待たず)早く兵隊になって国のために死んで来いとも言った。そう言って戦意高揚を煽った先生が、敗戦の瞬間、過去をすべて否定して「平和」教育を敢行、挙句の果てに労働組合即ち日教組を結成した。多分にマ元帥の督励があった。

卒業式で合唱されることがある歌『仰げば尊し』(あふげばたふとし)は当然歌われなく運命を辿ったのである。2007(平成19)年に日本の歌百選の1曲に選ばれただけである。

作詞・作曲者不詳のスコットランド民謡とされているが、作詞・作曲ともに当時の教育者伊沢修二との説、作詞は大槻文彦・里見義・加部厳夫合議であるという説がある。

1884(明治17)年に小学唱歌を編集する際に、伊沢が唱歌として加えたのが唱歌としての始まりである。

しかし、敗戦後には、その歌詞の内容が教師を崇めるもので、民主主義にそぐわないとして大都市を中心に批判の対象となった。「労働者」たる事を主張するものは崇められてもくすぐったかった。

一方、1960年代末に学生運動が高揚すると、旧体制への反発の一環としてこの歌を卒業式で歌うことを憚る空気が大都市を中心に醸成された。

学生運動終息後も古い観念や意識の退潮は続き、また歌詞が、最初に発表された当時の明治時代でさえ一般にはほとんど用いられなかったような古い文語であるため、児童・生徒の関心も低くなっていた。

大都市の公立学校(特に小学校)では、卒業式合唱曲を『旅立ちの日に』、『贈る言葉』、『さくら (森山直太朗)』等、アーティストが歌ったヒット曲を中心にする学校が多くなった。

さらに、『仰げば尊し』を歌っている学校でも、2番の歌詞では「身を立て名をあげ」と立身出世を呼びかけている事から社会情勢の変化に合わないとして敬遠され、本来の2番を省略し3番を2番として歌われることも多い。

1 仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば


2 互(たがい)に睦し 日ごろの恩
別るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

3 朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば
「別れめ」の「め」の部分でフェルマータ(適当に音を延ばす)がかかる。

なお、題は、歴史的仮名遣いでは「あふげばたふとし」である。扇(あふぎ)をおおぎと発音する例に見るように、おおげばとおとしと発音するのが正しいのだが、現代仮名遣いによりあおげばとうとしと表記されたため、発音が表記に引きずられ(現代仮名遣いは必ずしも表音式表記ではないのにそう勘違いされたため)、誤って歌われ今にいたる。

なお、「今こそ別れめ」は係り結びの例。「別れ目」と誤解される場合があるが、実際は「今まさに別れよう」というような意味になる。

戦後、児童文学者の藤田圭雄は、この歌詞を現代風にアレンジしたが、元の歌でないと涙が出ないと保護者から不評になった。

「胸にはハンカチ 肩に鞄  泣いたり騒いだあのころから いろいろありがとう この年月 先生さよなら お元気で」。

原曲に比べて分かりやすいが、保護者の不評によりまだ歌われている学校は無い。

「仰げば尊し」の歌われる時代は2度と来ないだろう「修身」が復活する教育もあり得ないだろう。先生、いざさらば。2010・3・20
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年03月21日

◆西山発言に思うこと

渡部亮次郎

<沖縄返還(72年5月)の際に、日本側が米軍用地の原状回復補償費を肩代わりした密約問題が取り上げられた19日午前の衆院外務委員会。

いち早く疑惑を報じた元毎日新聞政治部記者の西山太吉さん(78)は参考人の一人として意見を述べ、一貫して密約を否定してきた政府について「本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まで来ている」と語気を強めて批判した。>(毎日新聞2010年3月19日 13時23分)

政治記者1年生の時、西山さんの顔をよく見た。昭和39(1964)年
7月10日、NHK政経部政治班(まもなく政治部に改称)に発令された当日、盛岡(岩手県)放送局放送部から特急「はつかり」で着任。総理大臣池田勇人が自民党総裁に3選された当日だった。

翌日、総理官邸に配属され「池田番」の日々が始まった。総理官邸記者クラブ(永田クラブ)では毎日新聞の面々と低い衝立を挟んで向き合いになっており、西山太吉さんがいた。「ニシヤマ フトキチ」と綽名されていた。態度が「太い」というのだ。

次第に判ってきたが、西山氏は佐藤栄作首相をライバル視している
大平正芳氏の親戚だという。その関係で「反佐藤」記者と見なされていた。

私が総理官邸クラブに所属していたのは、僅か1年。ただし、東京オリンピックのさなか、池田首相が、喉頭癌のため退陣、後継を佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎で競った結果、佐藤が決定。佐藤は官房長官鈴木善幸を橋本登美三郎に替えただけで内閣を継承した。

私は敗れた河野一郎にくっついてうろうろしていたが、翌昭和40年の7月8日には解離性腹部大動脈瘤破裂で死なれ、不遇を囲っていたが、昭和47(1972)年になると、飯島博デスクの後押しで「福田番」に抜擢された。外務大臣福田赳夫。いわずと知れた
角福戦争」の主役である。

当時、西山氏は既に毎日新聞のキャップとして外務省記者たちを束ね、大平氏の僚友たる田中角栄氏のライバル福田氏を取材していたのである。

私は福田番とはいいながら、外務省担当記者じゃなく「福田派」担当記者だから、外務省で西山さんと顔を合わすことは全く無かった。時あたかも「沖縄返還交渉」が進行していたが、この担当者で有りながら、福田さんとしてはポスト佐藤をめぐるライバルの角栄氏との勝負が先行課題になっていた。

こうした仲で、かねて河野派時代から深い付き合いになっていた園田直(すなお)氏が、福田支持を表明、園田氏をつうじた福田取材も心がけるようになって行った。

この頃の角福戦争は、佐藤総理の支持を得ている福田が圧倒的に有利とされていた。だから各社派遣の福田番は各社の第一人者が派遣されていた。共同通信古澤 襄、時事通信屋山太郎、読売浦田進、
毎日金巌、朝日川戸弘次らである。

しかし、角福戦争は角栄氏の物量作戦に福田さんは及ばず、気息奄々と言う状態のところへ、西山氏が「福田不利」の爆弾スクープを国会に投げ入れた。それが沖縄返還に絡む「日米密約」だったのである。

私は「おかしい」と思った。なぜ、西山氏取得の極秘電報が毎日紙上に載らず、社会党若手代議士の横路孝弘氏に渡ったのか、しかも極秘電報に刻印された文書番号が削除されていないのか、西山氏の「チョンボ」ではないのか。

間もなく佐藤首相が「ウフフ」と言い出した。問題は言論問題では無いよ、男女問題だよ、というのである。なるほど外務省外務審議官付き事務官蓮見某女が西山記者と肉体関係を結び、その関係で機密文書が西山氏に流れてという構図が明らかにされた。世論は言論弾圧から一転、男女問題に落ちてしまった。

今日の毎日新聞の凋落はここから始まっている。今日になると、西山氏は恨みを晴らした英雄のように報じられるが、私から見ると西山さんは大平さんを通じて角栄氏梃入れを図り、佐藤栄作首相の足の引っ張りを策したという思いを消す事ができない。

<◇ことば 沖縄返還協定を巡る密約

72年5月に発効した沖縄返還協定の交渉過程で、米側が負担するはずだった土地原状回復費用などを日本が肩代わりすることにした日米間の密約。密約を報じた西山太吉毎日新聞記者(当時)らが72年、国家公務員法違反の疑いで逮捕された。

00年、米国の情報公開で密約を裏付ける公文書が判明。西山氏は、関係文書の情報公開などを求める裁判を起こし、06年には元外務省アメリカ局長の吉野文六氏が密約の存在を証言した。外務省の有識者委員会は9日、「広義の密約」があったと認定する報告書を公表した。

◇38年前、政府は一貫否定
沖縄返還が翌月に迫った72年4月の国会でも、密約問題は取り上げられていた。旧社会党の横路孝弘議員(現衆院議長)らは、西山太吉さんから入手した外務省の機密電文を手に追及したが、政府側は一貫して密約を否定し続けた。

電文には、米軍用地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりして対米支払いを3億2000万ドルに積み増す経緯や、肩代わりを了解する秘密書簡の作成を米側から求められていたことなどが示唆されていた。

これに対し、福田赳夫外相(当時)は「400万ドルを上乗せして3億2000万ドルとなったことはいかなる過程においてもない」「良心においてお答え申し上げる。虚偽の答弁は一切しておりません」と真っ向から否定。

吉野文六・外務省アメリカ局長(同)も「我々は(米の要求に)絶対に応じなかった。メモ(秘密書簡)はない」と述べていたしかし、2010年3月9日に公表された外務省調査チームの報告書は肩代わりの事実を認め、政府側答弁が虚偽だったことを裏付けた。

西山さんは、機密電文を入手したことで罪に問われて78年に有罪が確定したが、最高裁決定は「早晩国会における政府の政治責任として討議批判されるべきであったもの」と国会での真相解明を注文していた。

日米密約:西山さん「裁かれてしかるべき者裁かれず…」

沖縄返還(72年5月)の際に、日本側が米軍用地の原状回復補償費を肩代わりした密約問題が取り上げられた19日午前の衆院外務委員会。いち早く疑惑を報じた元毎日新聞政治部記者の西山太吉さん(78)は参考人の一人として意見を述べ、一貫して密約を否定してきた政府について「本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まで来ている」と語気を強めて批判した。

西山さんは、密約問題を巡り外務省の事務官を通じ機密電文を入手したとして国家公務員法違反の疑いで72年に逮捕された。服部良一委員(社民)から「ある意味人生をむちゃくちゃにされた。国や外務省に言いたいことはないか」と問われた。

西山さんは「公平なる裁き、法の下の平等、その原則が完全に破られてしまった。本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まできている」と心情を吐露した。

西山さんは「政府の密約は今まで全く追及されてこなかったが、ようやく三十数年たって検証された。日本の構造や日本全体を覆っているグレードの低さが問題。司法も政府権力もマスコミも。そして主権者の政治意識も全部その中に入ってくる」と訴えた。

西山さんは自ら報じた密約疑惑について「氷山の一角」と指摘し、その後の「思いやり予算」(在日米軍駐留経費負担)につながる日本側の財政負担を決めた「密約」について「最も国民が知らなければならないものだ」と力説した。

外務省内で密約関連文書が廃棄された疑いにも言及し、「官僚ベースでは明らかにされない。国会が国政調査権を発揮してほしい」と指摘した。

西山さんは委員会終了後、「何十年ぶりの国会で戸惑いと緊張で上がってしまった。こういう場で発言させてもらう日が来るとは想像だにできなかった。隔世の感がある」と感想を述べた。>
毎日新聞 2010年3月19日 11時39分 更新:3月19日 13時23分

有夫の外務事務官を不幸に陥れた事実は、すっかり消えてしまった。
2010・3・20

■本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」3月21日(日)刊1856号に
掲載されました。

<目次>
・鳩山兄弟が招く「政治の貧困」:花岡信昭
・アメリカ式に考える普天間基地問題:前田正晶
・みんな自民が教えてくれた:山堂コラム 310
・西山発言に思うこと:渡部亮次郎
・中国の核戦略の全体図判明:古森義久

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年03月20日

◆角さんのカネのくすねられ方

渡部亮次郎

総理を目指した田中角栄が身辺の女性問題を女性週刊誌に書かれたくなくて高名な政治評論家に工作費として3000万円を渡した。
それがライターに示された金額は700万円。

ライターは拒否。記事は出た。カネは1銭も田中のもとには還ってこなかった。しかし、田中は評論家に何も言わなかった。だれがどうくすねたのか。以下、大方、推理ではある。

まず評論家が2000万円をくすねた。実はカネをライターに渡す役は高名な小説家兼作詞家だった。相談づくなら半額ずつ分けるところだが、相談はしなかった。

それなら実行役の作詞家に2000万円を渡すか。渡さない。カネを預かったのはオレだものと政治評論家。自分も「彼女」がいてカネに苦労していた。だから、まず自分が2000万円をくすね、残りを作詞家に渡した。

作詞家も評論家の普段を知り尽くしている。あいつがくすねたんだろうからワシもと300万円をくすね、ライターに700万円を提示。
ライターは元々堅物だったので怒って拒否。

ところがライターの所属出版社で労働争議。ライターはデスクで使用者側。何処からとも無く噂。「デスクは田中からカネを貰ってあのネタを潰したんだ」。

あのネタの潰れたのは争議が起きたためだったが、弁明もおかしいので、デスクは気まずくなって退社。フリーのライター(早い話、無職)になった。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。この年の7月に田中は総理大臣になった。フリーの「もの書き」は苦しい。必死にテーマを探し、旅費を自腹で切り、現地取材。アパートにこもって執筆。

運がよければ雑誌に載せてもらえる。少しは名が売れてくれば注文も来るが、必ず来るとは限らない。そうやって次のような原稿を方々の雑誌に掲載して貰った。

「極限の中で、兵は天皇を想ったか」(1972年2月 潮出版社「潮」)

「週刊誌を泣かせる朝日新聞広告部」(1972年7月 噂「噂」)

「角栄、天下平定後の武将地図」(1972年8月 講談社「現代」)

「あるアイヌ青年の二十四年」(1972年11月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)

「巣立ち、稼ぎ、ひとり立ち」(1973年2月 東海大学出版会「望星」)

「津軽の白鳥艦隊司令長官」(1973年3月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)

このころ有名な出版社の有名総合雑誌『文藝春秋』から注文が来た。必死に取材し、書いた。

「『若き哲学徒』はなぜ救命ボートを拒んだのか」(1973年6月 文藝春秋「文藝春秋」)。

これををきっかけに「児玉隆也」は名を売り、文芸春秋の常連ライターとなった。

「チッソだけがなぜ?」(1973年10月 文藝春秋「文藝春秋」)

「学徒出陣、三十年目の群像」(1973年12月 文藝春秋「文藝春秋」)
「元祖"ふるさとと人間"宮田輝」(1974年8月 文藝春秋「文藝春秋」)

1974年「文藝春秋」編集長の田中健五に起用された。11月特別号の田中角栄に関する大特集のうち、「田中角栄研究−その金脈と人脈」(立花隆)とともに掲載された「淋しき越山会の女王」を執筆し、一躍有名となった。

このテーマこそ田中が3000万円で阻止にかかったネタだった。派閥「越山会」の金庫番たる女性は田中の愛人の一人であり、間に不義密通の娘がいることを暴露するものだった。

この記事がきっかけで「田中金脈事件が」勃発し、最終的に田中は政権を投げ出した。のちに生前の田中に直にきいたところ、「金脈なんて堪えなかったが女王は堪えた。妊娠している真紀子が『辞めないと飛び降りる』と目白の2階のベランダに突っ立つんだもの』と述懐した。

児玉はこの記事で嘗ての同僚らから受けた「疑惑」を雪いだ。だが
その頃すでに肺癌に侵されており、翌1975年5月に死去。僅か39歳だった。

児玉 隆也(こだま たかや、1937年5月7日―1975年5月22日)兵庫県芦屋市生まれ。

9歳のときに画家だった父を失い、母に育てられる。芦屋市立芦屋高等学校を卒業後、早稲田大学第2政経学部に入学。21歳のときに岩波書店の月刊総合誌「世界」の懸賞原稿に入選する。

卒業する1年前から光文社の女性週刊誌「女性自身」の編集部でアルバイトをはじめ、卒業後入社。引き続き同誌編集部に籍を置く。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。

遺した単行本

「市のある町の旅−人情と風土にふれる朝市行脚」(1973年5月 産経新聞)
「淋しき越山会の女王 他六編」岩波現代文庫で再刊 2001年
「一銭五厘たちの横丁」 写真・桑原甲子雄 岩波現代文庫 2000年
「この三十年の日本人」 新潮文庫で再刊 1983年
「ガン病棟の九十九日」 新潮文庫で再刊 1980年 他数冊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・06・26

追記:<佐藤昭子さん死去:関係者から悼む声 /新潟

柏崎市出身で、田中角栄元首相の秘書を務め「越山会の女王」などと呼ばれた佐藤昭子さん=11日死去、81歳=の訃報(ふほう)に、ゆかりのあった県内の関係者からも悼む声が上がった。

自民党県連会長の星野伊佐夫県議(70)は、かつて越山会の青年部長を務めた。田中派事務所があった東京・平河町の砂防会館に出向くと、佐藤さんは手際よく仕事をこなしており「事務所の中心的人物で派閥を束ねる存在だった」と振り返る。

田中元首相の地元秘書だった長岡市の丸山幸好さん(77)は、年に数回、事務連絡のため砂防会館などに出かけた。「後輩秘書にも優しかった。当時の先輩秘書が次々と亡くなり、寂しい」としみじみと語った。>2010年3月14日11時1分配信 毎日新聞


2010年03月17日

◆悲喜交々各位殿

渡部 亮次郎

(再掲)
昭和35(1960)年前後にNHK仙台で記者生活を送った仲間が14日夕、九段会館の地下レストランに集まり、懐旧談義に時を忘れた。中華7品にアルコール呑み放題。会費5000円を集めたが、終わってから500円のお釣を返却。珍しいことだ、お前、永久幹事だと大笑いした。

丁度南米のチリ沖で起きた津波が三陸海岸を襲って死者119人を出した「チリ地震津波」の取材の思い出で話は始まったが、あの時、名文を評価された先輩が「俺は著名な国文学者から直接、電話を貰って用語の誤りを指摘されたことがある」と敢えて恥を披露した。

それは大学入試の合否発表のニュース。合格を小躍りして喜ぶ顔、がっかりする顔、悲喜交々(ひきこもごも)でした、と放送したところ、直後に電話がかかって来たのだと言う。

「悲喜交々とは、一人の顔に喜びと悲しみが交互に表れることであって、あのような場面に使う言葉ではありません」と教え、窘められたというのである。

岩波の四字熟語辞典でも「悲しみと喜びが入混じること」とあり「悲喜交交至る」の略。交交は、入混じり、あるいは代る代る訪れる意とある。名文家にも間違って覚えた若輩時代があったのだ。名文家はスペイン語の名手でもあって南米特派員を経て外信部長になった。

NHKには今はどうか知らないが昔は研修所があって、何年かごと、1週間ぐらい泊まりこみで、文章の錆を落とされた。いい大人に言葉を教える事は世間では憚られるだろう、とそっと教えてくれるのである。

各位のあとに様や殿を付けてはいけない。各位というのは、皆様がた、皆様と言う意味で既に様が含まれているのだ、と。

皮切りとは包茎と関係があるから使ってはいけない。本腰を入れるもいけない。性行為と関係があるからだ、といった具合。各位殿は至る所で見る。

しかし、最近は新聞が自由に使っている。まだ未熟も出てくる。未熟とは未(いまだ)熟さずの意味だから「まだ」は不要。これらは高校で漢文を不履修する時代だからだろう。

漢字そのものを漢の国(中国)に拠っているのに漢文を履修しないとあっては漢字の使用方法を習わないに等しいから、こういうことが起きる。そのうちに馬から落馬なども読まされるかも知れない、ちょと覚悟が要
る。

偉い政治家でも、若い頃に間違って覚えた言葉は世間が直してくれないから、陰で笑われることになる。

芝居や映画の立ち回りを殺陣(たて)というが「さつじん」と読んだり、旗幟鮮明(きしせんめい)を「きしょくせんめい」と読む。偉い人だから聴いている人はまさか注意も出来ず、心の中で馬鹿にしている。

この人は憎悪(ぞうお)を「ぞうあ」と国連で演説した。幸い通訳は予め演説原文を持っていたからhatredと訳したから、本人は笑われずに済んだ。消え入りたい思いをしたのは日本語原文を草した人であった。
                                 2006.11.15


2010年03月16日

◆民主から先に接近?

渡部亮次郎

<創価学会第3代会長(当時)の池田大作が、1964(昭和39)年に「公明政治連盟」を改組して「公明党」を設立。1963年の統一地方選挙で1000人を越える地方議員を誕生させるなど急成長。

1967(昭和42)年の第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得しついに衆議院に進出。結成当初は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた。>(「ウィキペディア」)

私は参議院担当記者から衆議院公明党担当のNHK初代記者となった。その関係で創価学会の幹部会に招かれ取材する一方、招かれて池田大作会長と何度も食事をともにした。その時、竹入、矢野氏らは廊下で膝を折って待機していた。

だから公明党が衆議院に初進出した際には、「公明党記者クラブ」に所属し、竹入義勝委員長や矢野書記長に頼まれて、代議士会の運営などを指導した。

初の代議士会では安保、防衛問題が議題になり、議論が発展して「核武装は不可欠」という結論に達し、取材している方が「公明党の結党精神に反するのではないか」と注意する一幕があった。

あれから40年余、幼かった政党も、数々の手練手管を覚えたものだ。民主党にはじめに接近を図ったのは自分たちの癖に「接近を初めにしてきたのは民主党」とぬけぬけと嘘を言うようになった。代表の山口氏は東大出の弁護士だから当然か。


<民主が近付いてきた…法案賛成で公明代表言明
公明党の山口代表は13日、山形市内で講演し、「子ども手当」「高校授業料無償化」の両法案に賛成したことについて、「(公明党が)修正案を出したら、民主党が『のみます』と近付いてきた。我々はいささかもぶれていない」と述べた。

政治とカネに関する与野党協議についても、「民主党がすり寄ってきた」と強調した。

民主党との連携についても、「『政策が似ているから、一緒になれば』と言われるが、冗談ではない。方向性が似ているからといって一緒になるものではない」と否定した。>(2010年3月13日20時17分 読売新聞)

1967年の第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得しついに衆議院に進出し結成当初は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた、とウィキペディアに指摘されているように、公明党は完全な野党でいては結党の目的を達成できない。したがって自民党と連立を組んだのはいわば「時代の要請」だった。

それが今回は自民党が下野してしまった為、何とか形をつくろって民主党との連立工作をせざるを得ない。手始めに「子供手当て」と「高校授業料無償化」について「賛成」を前提に接近して行ったのは公明党が先だったことはマスコミが現認している。

ただし山口代表としては創価学会員や党支持者の納得を得るために「環境整備」よろしく恰好をつけているのだろう。公明党は遅かれ早かれ民主党と連立する事間違いない。しかし、社民、国民新党の思惑が絡むから民公連立への道程は単純ではないはずだ。
2010・3・14

2010年03月15日

◆次に斬られるのは石井氏?

渡部亮次郎

産経新聞のベテラン政治記者阿比留瑠比(あびる るい)氏が3月13日、自らのブログ「国を憂い、我とわが身を甘やかすの記」で
「小沢氏に次に斬られる側近は石井一参院議員ではないか」と不気味な事を書いている。

<13日の産経政治面に、「民公接近 与党から不満続出 連立に影響 小沢氏ダンマリ」という見出しの記事が載っていました。公明党と創価学会が政権党である民主党に急接近していることを報じたものです。

時事通信の直近の世論調査で内閣支持率がとうとう30・9%にまで落ち込むなど、「政治とカネ」の問題や政策・外交の迷走をはじめ民主党への失望・落胆が社会に広まりつつあるという背景があります。

このていたらくの大きな原因をつくった小沢一郎幹事長は当面「居座り」を決め込んでいるわけですが、地位を安泰にするには、そろそろ新たなカードを手にしたいころでしょうし、一方でそれは党内外に大きな軋轢を生みますし。

実際、記事は石井一選対委員長が2月26日の小沢氏と創価学会幹部との密会を念頭に「支持者から『これまで批判してきた公明党や創価学会と接近するのはどういうわけか』と電話やメールがたくさん来ている」と抗議しても、小沢氏はムッとした表情で黙ったままだったと報じています。

情景が、目に浮かぶようです。ちなみに、石井氏は西松事件のときもその後も、ずっと小沢氏をかばい続けてきた議員ですが、これまでの数多くの元側近議員同様、いずれ小沢氏に切られるかもしれませんね。>

「抗議しても、小沢氏はムッとした表情で黙ったままだった」のはなぜか。創価学会・公明党への接近が、民主党や内閣の為だったら、小沢氏はそこで、改めて説明したはずである。それを敢えてしなかったのは自分の為だったからである。

創価学会・公明党は「票」を通して自民党を支配してきた。それを今度は民主党に持ち込んで民主党政府を支配しようと、小沢氏を通じて接近を図ってきた。それを受けて小沢氏は渡部恒三氏ら小澤批判派への恫喝に用いようとしているのである。「おまえら、つべこべいうなら学会票を回さないぞ」というわけ。

小沢氏は東京地検による起訴を当面免れたが、捜査が終了したわけではない。まだ崖っぷちに立たされている。そこを渡部氏やいわゆる七奉行の連中に突かれたら幹事長の地位は危なくなる。だから小沢氏としては万全の策を講ずる必要がある。そこへ創価学会・公明党の接近。当(まさ)に「渡りに船」だったのだ。

このように考えると、石井氏の「抗議」は小沢氏にとって実に腹立たしいことだった。折角ポストを与えて選挙対策を通じて側近扱いにしてやっているのに、いつの間にか増長して、幹部面をしている。
クビだ。

小沢氏の哲学は「去る者は追わず」。岩手の大先輩の原敬は「去る者を追う」だったが、小沢氏は少しでも逆らう者は直ちに遠ざけ、次第に疎遠にし、斬ってしまうというのが常道。親分の田中角栄氏や金丸氏にも無かった冷酷さがそこにはある。石井氏に抜かりはなかったか。
2010・3・13


2010年03月13日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎

北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦(元)さんがベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相(当時)が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。

こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。
(了)2005.02.23 加筆2006.03.25

2010年03月10日

◆同志も脅す小澤一郎

渡部亮次郎

今年(2010年)の「2・26事件」は民主党幹事長小澤一郎と創価学会幹部との「極秘会談」だった。「事実」は朝日新聞のスクープとして伝わったが、小澤本人は、表向きでは否定している。しかし、朝日だけが特ダネとして報じたという事は、創価学会ではなく、小澤側が漏らしたのが確実である。

沖縄の基地移転をめぐる社民党の「跳ね上がり」を目にするとき、
「社民党と亀井に手を焼いた小澤が、彼らを脅す為に、敢えて創価学会との連立の可能性を見せ付けて牽制した」と見るのが普通だろう。しかし「剛腕」の小澤にしては「並み」の手口。面白くない。

昔、NHKで初代の創価学会、公明党担当記者だった者としてはもう少し別の面から分析する必要を感じる。

創価学会幹部と政府・与党幹部との会合は「暫く」しなければ外部には漏れないものだ。少なくとも創価学会側からは絶対と言っていいくらい漏れない。学会幹部といえども池田大作に睨まれたら最後だからだ。

池田は嘗て竹入義勝公明党委員長を使って日中国交正常化を田中角栄内閣で実現したが、後日、竹入が「自叙伝」で、このことを自慢したら、直ちに竹入を追放してしまった。後任の矢野絢也委員長も同じようにされた。

だから小澤との会談が創価学会から漏れる事はあり得ない。小澤側が、特定の目的を以って漏らした事は確実だろう。或いは同席した輿石東参院議員会長かとも疑われるが、別の側近かもしれない。元参院議員の平野貞夫を使って朝日にだけ漏らした、ということも考えられる。

いずれにしろ、会談の直後、すぐ漏れたという事は、なんらか、素人には分かりにくい別の理由が無ければ理屈が合わない。

創価学会・公明党側の動きを注視すると、公明党の山口委員長(参院議員)は最近、鳩山首相に面談、「協力」姿勢をあからさまにしており、民主党への連立入りは既に何時あってもおかしくない。

山口委員長の動きは民主党との連立について創価学会側から既にゴーサインが出たと見るべきだろう。そのサインなくして鳩山への面談などあり得ないからだ。創価学会と公明党との関係は親子関係だからである。

したがって小澤としては社民党や亀井を牽制する道具としての創価学会はすでに考えていない。しかも会談の漏洩をむしろ急いだという事は、会談を用いて党内の引き締めと自身の求心力向上を図ったと見るべきであろう。

そのような見地から民主党内を観測すれば、小澤に批判的で、幹事長辞任を求めていた渡部恒三らが急に鳴りをひそめてしまった。小澤の狙いは渡部ら一派を牽制することにこそあったと見るべきだろう。

衆院300選挙区の創価学会・公明党票は一選挙区当たり3万票。反小沢議員には創価学会・公明党票は渡らないと裏で脅しをかけたことになる。

この脅しの効果はモロに現れている。反小沢の空気が途端にくすんでいる。今も態度を変えないのは、選挙に自信がある前原国交相ら僅かになった。

小澤の党運営は流石に玄人。プロなのだ。仲間といえども、小澤自身の権力を維持する為には恫喝、脅迫、暇は無い。(文中敬称略)2010・3・9