渡部 亮次郎
「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべてが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。
日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。
大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。
真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら大勢には逆らえず、早々と戦死した。
調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。
日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。
この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。
しかし前述の通り、本土へは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。
第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。
戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―23)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。
これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。
この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。
1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。
砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。
年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。
サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。
砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。WHO/FAOはレポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet,Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し将来食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。
この摂取量は日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類すべてを砂糖に換算した場合には成人で約50―70g程度の量(3gスティックシュガーで17―23本分)に相当する。しかし「油断大敵」。
一方、米国の消費者団体CSPI(Center for Science in the PublicInterest)は 、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張。
FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。
イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。
平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」2008・10・27