2010年04月20日

◆官房長官の吉凶

渡部亮次郎

田中角栄が逃げたかった一つのポストが「官房長官」だった。このポストのこなし方は、それくらい難しいし、場合によっては、その政権の命運を左右するし、自身の政治家としての将来を決する。

<新党大地の鈴木宗男代表は18日、神奈川県藤沢市内で講演し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「鳩山由紀夫首相が5月末に決めると言ってるんだから、首相に任せたほうがいい。官房長官が『5月末は難しい』などと暗い顔して言ったらダメだ」と述べ、平野博文官房長官の姿勢を批判した。

社民党の阿部知子政審会長も同じ講演会で、普天間問題をめぐる平野氏の対応について「優しさとか、粉骨砕身して沖縄の問題に答えを出していこうという姿勢が感じられない。沖縄の人と心底ひざを交えて話す勇気と気概がない」と痛烈に批判した。(産経)>

平野長官を斬って延命を図る鳩山首相という場面、無きにしも非ず。
<鳩山内閣の支持率低下は鳩山氏自身の迷走が原因だが、それに輪をかけて側近の平野官房長官の無能ぶりがあるという。「平野A級戦犯説」すら取り沙汰されている。>と2010.04.19 Monday name : kajikablog(古澤 襄)

田中が逃げたのは、親分佐藤栄作が政権を握っている時代。佐藤は田中の手綱を引き締めないと、暴れ馬になり、自分の後継に福田赳夫を据えられなく恐れがあると判断。官房長官にして手許で監視しようと考えた。

既に佐藤の後継者として、福田と戦うことを決意していた田中はあらゆる策略を用いて官房長官構想を潰した。佐藤の逆鱗に触れたわけだから一時は無役にされた。ライバル福田は喝采した。そこがこの政治家の弱点である。

野に放たれた田中は佐藤派は勿論、各派に亘って多数派工作に専念、佐藤の知らぬところで党内の多数を制してしまった。対して福田は
「上善水の如し」と嘯き、なんら工作をしなかった。多数派工作をすれば佐藤の自尊心を傷つけると判断したのである。

結果は田中の圧勝。福田は下野せざるを得なかった。私はNHKで福田番だったが、なぜか田中内閣の官邸クラブにサブ・キャップとして入れられた。

官邸クラブを離れて数年後、「友人」園田直(すなお)から相談をかけられた。「福田内閣がやっと出来る、何大臣をやったらいいか」

「そりゃ内閣官房長官しかないでしょう。内閣を握りながら次期首相の大平と緊密な連絡がとれるポストといったらここしかない」「やはりそうか、じゃ決めた」で別れた。

福田は官房長官には安倍晋太郎を考えていた。晋太郎の岳父岸 信介は福田の親分でもある。その岸から予て「注文」があったのだ。
園田はそれを先刻承知。さっさと塩川正十郎を副長官に連れて官房長官室を「占拠」。

何しろ福田にとって園田は政敵田中角栄と話をつけてきた「恩人」である。やんちゃな園田の態度を認めるしかなかった。昭和51(1976)年12月24日のことだった。

「官房長官を安倍に」と言う岸の要求は激しかった。福田は1年後の11月28日に内閣改造を行なったが、園田を斬るわけには行かず、たった一人残留させ、閣内ナンバー2たる外務大臣に横滑りさせた。

園田は胸中の怒りを抑えながら、「密約」に従い、この一年後に大平政権を樹立する事に精力を傾注しながら、田中政権以来、政府の懸案である日中平和友好条約の締結に全力を傾けた。このとき秘書官は NHK国際局副部長から招かれた不肖私であった。

園田は官房長官として、次期首班を約束されている幹事長大平に対して福田の任期を1年延長する交渉を続け、ほぼ了解を取り付ける寸前まで行っていた。首相にはまだ報告できる状況ではなかったが。

しかし、岸の圧力に抵抗しなかった福田に園田は愛想が尽きていたので、大平との交渉は沙汰止みとなった。その後、福田が密約を破って大平に総裁公選をあえて挑み惨敗。福田の恨みは深く、それに負けて大平が急死。本来なら福田に戻っても可笑しくない首相の座が、あろうことか鈴木善幸に渡った。

渡したのは大平への弔問から帰宅した角栄邸での田中・園田会談だった。官房長官のポストとは、かくのごとく重く内閣の命運を左右し、政治家自身の行方を決める。「鳩山は官房長官の人選を間違えた」と言う批評は当然、平野に言わせれば首相を間違えた事にもなる。(文中敬称略)2010.4.19

■本稿掲載4月20日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1890号の紹介
<目次>
・満座の中で恥をかかされた鳩山首相もはや「ガン」か:花岡信昭
・野武士集団とお公家さんの知恵較べ:古澤 襄
・官房長官の吉凶:渡部亮次郎
・鳩山首相の最後っ屁が心配だ:泉 幸男
・ジェネリック薬品が国を救う:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月19日

◆遠きにありて想うも帰らず

渡部 亮次郎

ふるさとは遠きにありて思ふもの、と歌った金沢出身の作家室生犀星はなぜ「そして悲しく歌うもの、たというらぶれ異土のかたいとなるとても かえるところにあるまじや」とうたって嘆いたのだろうか。

高校で国語の先生は多くを語らなかった。最近はお盆や正月に都会から人々が田舎へ帰省する理由として、阿呆なアナウンサーが、一つ覚えに使うが、歌の真意を知っていれば使えないフレーズとは知らないのだろ
う。

2006年7月24日の産経新聞でコラムニストの石井英夫さんがコラム「蛙の遠めがね」で、犀星が遠きにありて思うもの、それは、ふるさとの先に存在したはずの真の母、真の父だったと紹介した。芸者と小学校長(妻子持ち)の間に出来た子だったという。

本名照道(てるみち)1889〔明治22〕年、加賀藩の足軽頭だった小畠弥左衛門吉種と母春の間に生まれるが、生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院の住職、室生家に養子に出される。

筆名の犀星は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。

石井さんに最近、情報を寄せた金沢市出身の詩人で文藝詳論家安宅夏夫さんのリポートによると母は既に明らかになっていたように芸者「ちか」だが父は吉種ではなく息子の生種と分ったのだそうだ。昭和51年、小畠家の仏壇の後ろから出てきた1通のハガキがきっかけだった。

「山崎ちか(のちに林)は20歳の時、高岡市〔富山県〕の遊郭の芸者になり、犀星の本当の父小畠生種と出会い、犀星を産んだ。しかし生種は26歳ながら小学校の校長であり、妻子を残しての単身赴任だった。

宴会に出る機会も多く、そこでちかを知り、愛し合うようになった。妻子ある教育者が芸者と懇ろになって子を成したというのでは世間に顔向けができない。そこで父の吉種の子としたのだ。吉種は当時63歳で、21歳の芸者を身籠らせるには無理がある」と石井さん。

1902年金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に河越風骨、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受ける。

新聞へ投句を始め1904年10月8日付け北國新聞に初掲載。この時の号は照文。そのご詩、短歌などにも手を染める。1913年 北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。

同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。 1916年 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年までに32号まで刊行した。この1919年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。

1929年初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。1930年代から小説の多作期に入り1934年 『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言。(実際にはその後も多くの詩作を行っている。) 1935年 芥川賞の選考委員となり、1942年まで続ける。

1959年 野間文芸賞を受賞。この賞金から翌年 室生犀星詩人賞を設定。1962(昭和37)年3月26日、肺癌の為に死去。抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名であ
る。>

「生前の犀星はこれらの事実を知っており、生母にも会ったフシがある。しかしすべてを胸の奥、腹の底に折りたたんで苦悩してきた。父の伝記を書いた室生朝子も、書けない、書いてはいけないこととし、室生家のタブーとして封印してきたのである」

「安宅さんはすべての経緯を今年6月発刊の『人物研究』第17号(近代人物研究会)に発表。・・・若き日のちかの写真には、鹿鳴館スタイルのもある。モダンな感じもあるが、細面の寂しげな眼差しを持つ美しいひとだった」。(石井)

朝日新聞社の「現代人物事典」1977年3月1日刊では室生犀星について滝口雅子氏が「9歳の時、生母が行方不明となり、その後母に会わなかった」と書いているが、これも訂正しなければならない。

明治時代のことである。犀星の出生の秘密を近所の人たちは早くに知っただろう。知って照道少年を芸者の子として差別しただろう。だからふるさとは犀星にとっては決して帰るべき懐かしいところでなんか無かった。しかし父と母にはどうしても逢いたかった。胸つぶれる想いの詩なのである。(再掲)

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照)
2006・07・24

2010年04月18日

◆今では大好物が洋食

渡部 亮次郎

「洋食」を全く知らずに少年時代を過ごした。秋田県の旧八郎潟沿岸の水田単作地帯で育ったので、捕れる淡水魚を刺身で食う事は禁じられた。鯉、鮒、鯰、蜆など、すべてを煮るか焼くかして食べた。ただし、ソースは食卓に無かったから、今でも好きではない。

刺身を食べたのの始まりは東京・赤坂の一流料亭。政治家の席だったが、美味いと思ったのは60歳を過ぎてからだった。

カレーライスは食べたことがあった。しかし、以下は東京に出て初めて食べた。「洋食」のすべてと言っていいだろう。

シチュー、コロッケ、ロールキャベツ、エビフライ、カキフライ、豚カツ、ハヤシライス、カツ丼、チキンカツ、牛カツ(ビフカツ)、ハムカツ、 メンチカツ、トルコライス、オムライス、ステーキ、グラタン ドリア、ピラフ、スパゲテー。

50歳を過ぎて、東京も下町に移り、浅草や向島の「洋食屋」を知るまでは、日本料理は刺身がつき物だから、自分の財布では敬遠し、専ら中華料理を漁った。相当の「通」になった。

それが、洋食屋を知るに及んで、洋食で焼酎を呑み、メシも済ますというコースが一番好きになった。それも1年ぐらいはハンバーグだけ。最近はビーフ・シチューに焼酎が定番。義兄は、有れば年がら年中、「牡蠣(なま)かフライ」だ。

ビーフシチュウは浅草に美味いところがあるが、向島のは味はおんなじで安いから、つい向島で足が止まることになる。2組の夫婦で飲んで食べて1万円だ。そんな店は都心には無い。以下「ウィキペディア」による。

洋食は、西洋料理をベースとして日本で成立した料理である。変容した理由については諸説あり、西洋料理の知識が不足していた時代に本格の料理を目指していたものの情報不足から変容を余儀なくされた結果誕生したという説、

「明治時代以降に西洋料理を習得した料理人が、必ずしも西洋料理のレシピに則らず、日本人消費者の好みに合うよう作り上げた『創作料理』的なもの」という説などがある。

そのため、母体となる西洋料理には見られないチキンライス、オムライスのような料理も少なからず存在する。

長年にわたり日本人に深く親しまれ、素材、味付け、ソースといったさまざまな部分において和洋折衷が試みられた結果、一部の料理は和食化している。例えば、豚カツは味噌汁・御新香とともに箸を添えて和定食として出されることが多くなっている。

西洋料理の特徴であるソースを洋食でも用いるが、フランス料理のような複雑多様なソースの体系は持たず、よく使われるソースの種類はある程度限られている。

トマトケチャップ、ドミグラスソースは定番の調味料である。ベシャメルソースを使用するなどフランス料理の影響も強い。

揚げ物にウスターソースをかけるスタイルは、この中で生み出されており、その影響でウスターソースを用いるだけで一銭洋食なる名称の食べ物も生み出され、これは後にお好み焼きへと派生していく。

また、ハンバーグや鶏肉などの調理法として醤油を利用した照り焼きがしばしば用いられるが、この方法は日本のみならず米国をはじめとする世界各国へと広がりを見せている。

パンの代わりにご飯を皿に盛り、料理をおかずとして交互に食べるという慣習も生まれた。従来の日本の食慣習に沿った方式ではあるが、この場合しばしば、ご飯は「ライス」と呼ばれ、茶碗に盛った和食のそれとは別のものとして扱われる。

同時にフォークの背にライスを載せ食べるという独特のテーブルマナーが醸成されていった。近年では誤りであるという認識が広まり、行われることは少ない。

これら洋食を出す飲食店は洋食屋と呼ばれる。昭和の高度成長期にはデパートの食堂も洋食を提供する代表であり、近年はファミリーレストランがその役割を一部担っている。

文明開化に始まる日本の近代化の過程では洋食はハイカラな存在であり、また、洋食に適した食材を供給する諸産業も成熟していなかったことから戦前・戦中の庶民にとっては高価なご馳走であった。

洋食が庶民の味として定着したのは戦後であり、食糧難もあって連合軍からもたらされた西洋風の食糧を食卓に受け入れざるを得ない事情もあった。

こうして徐々に定着した西洋風の食習慣が高度経済成長期以降、国民所得の増加及び食文化の変化とともに家庭へと普及し、現在では日本の家庭の食卓をかざる惣菜等として定着するにまで至っている。

こうして洋食そのものが家庭の味として定着し、いまや多くの人にとって和食と同様に日本の食文化として位置づけられるに至っている。

一方で洋食で多用される畜産物を生産するためには大量の輸入飼料が必要になり、洋食の普及が食糧の自給率低下をもたらす要因のひとつにもなっている。

また、和食と比較して乳製品や油などを多用することから高カロリーな料理となる傾向があるため、中高年を中心に洋食を敬遠する傾向も見られる。

さらに、健康志向の高まりを背景に和食を軸にした日本型食生活へと回帰する動きも大きくなりつつあり、国が推進する「食育」においても洋食的なメニューが軽視されることが度々である。

今後はこうした食生活の変化に適合していくことが洋食の将来を左右することになるであろう。2010・2・14

2010年04月16日

◆高慢ちきの哀れ

渡部 亮次郎

友人に聞いた話である。

「俺がエリートだ。お前らは定年になって社会貢献が出来なくなったけど、俺を支援すれば社会貢献できる。だから俺を支援するのが筋というものだ」。元大使閣下が高校の同期会に来て高言したのだと言う。

また大手商社で役員になれなかった東大出は同期会に出てきて言ったそうだ。「定年で最早、社会的に何の力も無くなったお前らがこうやって集まって何の意味があるのだ」と。

そんなら来なけりゃいいのに、悪口が気になるのか、毎回、遅れてしかも泥酔して来るのだそうだ。同期会なんて、意味を求めるのが可笑しいだろう。懐かしいといういわばくだらないことの詰め合わせ。無意味に意味があるだろう、と友人は嘆いていた。

同じ東大出でも農学部で役所の長官にまでなった男は、同期会に欠かさず来て、受付を手伝い、威張るところが一つもないそうだ。なんでこんなに違うのだろう、育ちかな、性格かなと友人。私は「勘違いだろう」と断じた。

世の中、東大を出て官吏や商社マンになることだけがエリートではない。厭な仕事でも買って出て、他人の面倒をよく見ることがエリートなのだ。米国人で、日本文学研究者のサイデン・ステッカー氏は嘗て私に「威張る人は馬鹿なのです」と教えて下さった。

なるほど、馬鹿じゃないと威張れないわけでもある、と考えた。友情に損得があるわけがない。それこそ同期という何の理由もなしのグループに損得や意義を求めるのは馬鹿なのだ。

そう思って話を忘れていたら、友人はまた言ってきた。「商社マンに来年の同期会で挨拶させてやろう、という人が出てきて困っているんだ」と。

言い出したのは商社マンと仲のいい人だそうで、どうしたもんだろうという相談だった。そんなこと簡単じゃないの。「お前らがこうやって集まって何の意味があるの」との発言をばらせばみんなが反対と叫ぶでしょう。或いはスジが通らないと来年は特に欠席するという人も出かねないね。

幾日かしたら、予想通り沙汰やみになったと聞いた。当然だろう。意味のない会合にわざわざ出てきて、かつ挨拶とは矛盾しているから当然の帰結である。

学校の成績だけじゃ生きて行けないのが世の中というものだ。

加えて独りで生きてもいけないのが人生だ。そのことを如実に物語ったのが友人の周りで起きた同期会挨拶事件だったのではないか。

学校で、役所で、会社で成績を競い、勝者になる。しかしそれが人生の勝利と思ったら大間違い。結婚に失敗、子育てに失敗したら人生の勝利者とはいえない。まして同期会で馬鹿と陰口を利かれるようなら大失敗と言うべきだろう。

そうしたことを考え合わせると、人生の勝者とは常に他人を思いやっている奴と分る。

人生とは不定のゴール即ち死に向かって懸命に走るレースである。だから生きることとは死ぬことなり。有限の生命を無限に生きる事は出来ないのか。出来る。幅広く友人を得ることである。

縦が経験とすれば、友人は横幅。命の長さが長さという立方体が人生。縦と長さに限りはあっても、友情と言う幅に限りはない。他人を思い遣ることを無限にすれば、人生の楽しみは無限となる。2006,12.04

■本稿掲載の4月16日刊全国版「頂門の一針」1885号のご紹介
<目次>
・普天間5月決着は不可能に:古澤 襄
・鳩山首相への政界引退勧告:宮崎正弘
・中国の「麻薬処刑」は仕方がない: 岩見隆夫
・気分は「Eチケット」:平井修一
・高慢ちきの哀れ:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年04月13日

◆言論の力でNHK再建を

渡部亮次郎

NHKの福地茂雄会長が辞意を表明した。後任は形式的には経営委員会で選ばれるが、これまで同様政府・与党による「密室選定」ではNHK改革は不可能になる、せめて聴取者の声を反映させようとする動きが始まっている。

この動きを始めたのは先に「シリーズJAPAN」の第1回「アジアの一等国」で取材を受けた台湾の当事者をはじめ1万人を超す視聴者が捏造だと東京地裁に提訴したときの関係者たちである。

メイル時代らしく「電子投票」で理想のNHK会長を挙げようというものである。

<「この人にNHK改革を託したい」「この人なら汚れた放送はさせない」そんな人の「推選」を全国の志ある皆さんにお願いしたい。

下記の「NHK110番」に推薦メールを送ってください。

nhk110@hotmail.co.jp

1.推薦する会長候補者の氏名
2.推薦する理由(簡単で結構です)
3.ご氏名(本名でなくともハンドルネームでも可)
4.メールアドレス
5.年齢(歳代でも可)
3・4・5については公表をしません>と呼びかけている。

あの1万人を超す視聴者が捏造だと東京地裁に提訴したとき福地会長は「私は番組を3回見たが問題ない」と言って、言論人としても組織運営者としても全く無能である事を自ら白状した。そこで福地会長は出身母体のアサヒビールから「相談役就任」を打診され、古巣に戻る道を選んだのだ。

私はかつてNHKの政治記者を務めた後、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸の三内閣で大臣秘書官を務め、NHK会長がどのように決められて行くかを目撃したNHKのOBとしては珍しい経験者である。その立場から、今回のメイル投票は極めて時宜にかなったものだとエールを送りたい。

すでに、おそらくNHK側の黙ってはいない。福地会長が漏らした「内部起用」を手がかりに担当の総務大臣原口一博氏や官房長官平野博文、衆参両院の関係者への「根回し」に担当者が奔走している筈だ。

また、かつて朝日新聞が大阪本社の外報部長前田義徳を会長に仕立てた例もあるように「言論機関」の「長」を獲得するという意味から、新聞各社も動いているし、勿論、財界も大きな関心を持って動いている筈である。

したがってここでは聴取料を支払っている視聴者が積極的に発言しない限り、またまた視聴者無視の会長選びが行なわれる危険が一杯なのである。

NHKは時代を反映する機関でなければならないし、会長はNHKという巨大な組織を時代に則して自在に運営してゆかなければならない。

福地会長は経営再建という側面を反映し手、財界の総意で送られたが、言論人としては資格に欠けていたため「シリーズJAPAN」
事件が起きたように、番組制作現場の監督に不適格だった。

あの事件で明らかになったように、現代のNHK会長は確たる歴史観と国際情勢に敏速に対応の出来る優れた言論人でなければならないと信じる。使い古された小器用な財界人ではNHKに集まる国民の期待と叡智に応える事は出来ない。2010・4・12

■本稿掲載の4月13日刊・「頂門の一針」1882号のご紹介
<目次>
・言論の力でNHK再建を:渡部亮次郎
・キルギス新政権を承認したロシア:宮崎正弘
・オバマ大統領が鳩山首相を無視した:古森義久
・圏・外・孤・独:須藤文弘
・家紋hは20000に上る:古澤 襄

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月12日

◆マッカーサーが到着した日

渡部 亮次郎

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、マッカーサーが8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。降り立った彼はコーンパイプを咥え威張っていた。

以後罷免される1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。日本軍の恐ろしさを知り、テロを恐れたと言うのが一般的な解釈だ。

滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食に注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。

不思議に思ったマッカーサーは、料理人を呼び出して問いただした。料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が1つ手に入りました」と答えた。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、牛ならぬ鯨肉のステーキであった。

マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされた。

9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の我々はショックを受けた。マの計算に入っていた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。

占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいたが、すべての工作は失敗した。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

1950(昭和25)年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

半島育ちの作曲家古賀政男は丘 灯至夫に詞を書かせ「涙のチャング」を作曲。動乱で民族が「思想」で殺しあう悲劇を訴えた。歌唱したのは平壌出身の歌手小畑実だったが、気付いた日本人は限られていた。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)や麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

だから北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから1人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。

マッカーサーは状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。

1951年になると、核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛けた。

毎日新聞と共に朝日新聞がマッカーサーに感謝する文章を掲載した。今では想像もできない。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支持を得られず断念した。

1964(昭和39)年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。「偉人」として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂(マッカーサー時代の首相)が出席した。2008・08・27    (再掲)

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■本日4月12日(月)「昼刊」「頂門の一針」1881号のご案内
<目次>
・20%台に転落した鳩山内閣の支持率:古澤 襄
・リーダーは40〜60歳までよ:クライン孝子
・ポイント・オブ・ノー・リターン:阿比留瑠比
・人生論あるいは夫婦和合の極意:平井修一
・蚊の目玉のスープ:渡部亮次郎

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2010年04月10日

◆国会で裸足の宰相?

渡部 亮次郎

ある総理大臣を「国会を裸足で歩く」とか「やまざくら」と言う綽名をつけて呼んだ口の悪い記者たちがいた。総理がやや出っ歯なので「花(鼻)より先に歯(葉)が出ているから「山櫻だ」とからかったものだ。

うばざくら(姥桜、乳母桜)は、開花時に葉がないことから歯(葉)がないのを暗喩した桜の通称。または桜には見頃があることから、年配でありながら艶めかしい女性を指す古語。春の季語。

放送の記者になって地方で5年。28歳(東京オリンピックの年=1964)に東京政治部に発令。住まわされたところが商店街にある風呂屋が家主の風呂無しアパートの2階。商店街の名が染井銀座。日本中に普及した櫻の品種「ソメイヨシノ」の発祥地だった。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(当時)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって交配、育成され「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していた。

藤野寄命博士が調査したところ、ヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり、1900(明治33)年「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名された。

名称は初め、サクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」とされたが、「吉野(桜)」の名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、上野公園に植えられたサクラを調査した藤野寄命博士が「日本園芸雑誌」で「染井吉野」と命名した。

日本において最も馴染み深い花であることから、一般的に国花の一つとされ(法的に定められたものではない)、明治時代以降軍隊や学校の制帽や階級章に桜を象った紋章が用いられている。現在でも警察や自衛隊などの紋章に使用されている。

日本最古の史書である『古事記』『日本書紀』にも桜に関する記述があり、日本最古の歌集である『万葉集』にも桜を詠んだ歌がある。

平安時代までは和歌などで単に「花」といえば「梅」をさしていた。「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(王仁) の「はな」は梅であり、道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」も有名。

しかし、平安時代から「桜」の人気が高まり「花」といえば桜を指すようになった。

「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ(紀友則) の「はな」は桜である。

平安時代の歌人・西行法師が、月と花(サクラ)を愛したことは有名である。西行法師が詠んだ歌の中でも、次の歌は有名である。

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎ(如月)の望月のころ」

西行法師は、この歌に詠んだとおりの状況の下、入寂したという伝説がある。

また「花は桜木。人は武士」という言葉が江戸時代までに成立しており、それまでに「花」=「桜」のイメージは日本で定着した。後年、私の先輩記者は「花なら櫻、魚なら鯛、男なら○○」と威張った。

開花期は種によってばらつきがあるが早いもので3月中旬頃から、遅いもので5月中旬頃までである。ヤマザクラは3月下旬、ソメイヨシノは4月上旬、ヤエザクラは4月中旬、カスミザクラは5月上旬くらいまで花を咲かす。

特にソメイヨシノで顕著であるが、葉が出そろう前に花が咲きそろう。開花期間は特に花見に使われる「ソメイヨシノ」が短く、満開から1週間程度で花が散る。その他、温度や雨が散る散らないの原因になる。

花が咲いた後に気温が下がる花冷えが起こると、花は長く持ち、咲いた後に雨が降ると早く散ってしまう。小学校などの校庭には、児童の入学時に桜の花が咲いているようにするため、ソメイヨシノに比べて開花期間が長い八重桜を混植することが多い。

ソメイヨシノの紅葉サクラは木を傷つけるとそこから腐りやすい性質を持つ。この特性から「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺まである。

このため、花見の宴会でサクラの木を折る観光客の被害によってサクラが弱ってしまうことが多い。

一方、枝が混んできた場合は適切な剪定を行うと樹勢を回復する場合もある。青森県の弘前市ではリンゴの剪定技術をサクラに応用することで弘前城公園に生えていたソメイヨシノの樹勢を回復することに成功している。剪定の際は不要な枝を根元から切り取り、その傷口を消毒し保護剤で保護する。

電報などの文面で、桜の花は「合格」の意味である。「サクラサク」は合格を、「サクラチル」は不合格の意味に使われた。

「花は桜木(さくらぎ)、人は武士」:武士の理想としての潔い生き様を、ぱっと咲いてぱっと散るサクラにたとえた言葉。もとは一休宗純の言葉の一部。→散華

和文通話表では、「さ」を送る際に「桜のサ」という。

商売でのサクラは客寄せのための店が仕込んだ偽の客の事を指す。
                          2010・3・5
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2010年04月08日

◆和解なるかカチン事件

渡部亮次郎

<ロシア、カチン事件で和解図る ポーランド首相招き追悼へ。
【モスクワ共同】第2次大戦中にポーランド軍将校ら2万人以上が旧ソ連秘密警察に虐殺されたロシア西部の「カチンの森」事件をめぐり、ロシアのプーチン首相が7日に現地で行う70周年追悼式にポーランドのトゥスク首相を公式に招待、虐殺を扱った映画を国営テレビで放映し、歴史的和解に向けた動きを見せている>。

事件は昭和14(1939)年に起きたもの。日本はシナとの対戦に血道を挙げていたし、間もなく対米戦争に突入するから、日本国民はカチン事件など知る由も無かった。

勿論、知識階級の中には海外情報を得て認識した人もいるにはいただろう。しかし、少なくとも筆者は中年になるまで知らなかった。
弁解にもならないが。

2007年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによって、この事件を題材とした映画『カティンの森』が制作された。たしか09年に日本でも公開されたが、見には行かなかった。ワイダの父親もこの事件の犠牲者である。

<1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北した。ソ連の占領下に置かれたポーランド東部では、武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した。

ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして何度もソ連側に問い合わせを行っていたが、満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後にはポーランド・ソ連間で条約(en)が結ばれポーランド人捕虜は釈放され、部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1に満たなかった。

ポーランド亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日にはポーランド亡命政府首相・シコルスキがスターリンと会談したが、スターリンは「たしかに釈放された」と回答している。

独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置きこの情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。

発掘途中の調査では、遺体はコルジェスク捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の状況は死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連軍の犯行を窺わせた。

しかし、独ソ両国は長い事罪のなすりあいを続けたが、1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。

1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。

1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第1号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれていた。>「ウィキペディア」。

<しかしソ連の継承国ロシアはポーランドが虐殺を政治的に利用しているとの不信感を抱き、一部ロシアメディアはナチス犯行説を紹介するなど、両国間にしこりが残っていた。

ロシア国営テレビは追悼式に先立ち、これまで国内でほとんど上映されていなかったポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」(2007年公開)を2日に放映。「史実に基づいた作品」などの専門家らの映画評も伝えた>。2010/04/05 09:46 【共同通信】














2010年04月06日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部亮次郎

若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付いて保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスにのっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれて評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルにいた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。
病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方がいいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えていた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なところでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談するという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だという外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田をまたピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんてどうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なんだから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当るか、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略) 2010・4・4

2010年04月04日

◆野坂参三の不思議

渡部 亮次郎

2007年7月18日、98歳で死んだ宮本顕治が書記長となった1958年。議長として君臨した人の名は野坂参三(のさか さんぞう)。ところがスパイだったことがわかって100歳のときに除名された。元々何のための入党と悲惨な半生を過ごしたのか。不思議な人だった。

とにかく、1992年100歳のとき、『週刊文春』9-11月の連載が基となり、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。名誉議長解任時は高齢であることに配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた。

これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。

野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895―1939年)ら数名を内務人民委員部NKVDに密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったの
である。

除名の際には党の査問にも反論することなく従ったといい、この件について公に語ることなく亡くなった。この発覚以前からかつての同志袴田里見らからも野坂をスパイと疑う声があったほか、ソ連と米国との二重スパイ説もある。しかし真相は永久に不明のままとなった。

山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弐と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。

慶應義塾在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。

帰国後、日本共産党に参加。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。

この釈放から1931年に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。外国人向け政治学校クートヴェで秘密訓練を受け、その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。

また、1940年、中国・延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行い、日本帝国主義打倒を目指す。

第2次世界大戦終了後の1946年1月12日に帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。大会委員長山川均、司会荒畑寒村のほか日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。

この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱した。

先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した中央委員会との共同声明を発表した。府中刑務所から解放されていた徳田球一らと日本共産党の再建を果たす。

1946年4月10日の戦後初の第22回衆議院議員総選挙で東京1区から当選。新憲法制定の審議では、自衛権保持の観点から政府の草案に反対したことは知られるが、一方で「主権在民」を書き込ませた功績として評価されている。

ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを基に国会で大々的に追及されたこともあった。

1950年に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。

さらにGHQからレッドパージを受け、地下活動、中国に亡命して武装闘争路線を採った。1955年に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任。事実上は宮本の軍門に下ったのでは無いか。だから宮本は以後、野坂を疑わなくなった。

1958年に最高位の議長となり、宮本顕治が書記長となった。1982年7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長。1956年に東京選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって務めた。

ソ連崩壊後、公文書が公開されてしまたっため屈辱的な晩年となったが、奇怪としかいえない生涯をなぜ送ったのか、遂に明らかにしないまま死んだ。

晩年には、自叙伝『風雪のあゆみ』を完成させ、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたことがある。しかし除名により表舞台に2度と出ることはなく、まもなく死去した。

「徹子の部屋」では「革命運動のために子供を作らなかったが、今では後悔している」と述べていた。 ただし、のちに養女・米子をとっている。

夫人の龍(りょう)も女性革命家であり、ソ連では逮捕・釈放を経験した。波乱の生涯を1971年閉じている。 スパイと暴かれる前で、せめて、良かった。

野坂は実に不思議な生涯を送った人だが、これを見破れなかった日本共産党も屈辱だったろう。出典:「ウィキペディア」2007・07・19

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<目次>
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・色ボケぢぢいの「性器の一大事」:平井修一
・鳩を寄せる悲しみ:渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年03月31日

◆患者を脅す医者が悪い

渡部 亮次郎

<「血糖値を抑える」カイコ粉末に薬効と宣伝して売る カイコの粉末に薬効があると宣伝して健康食品を販売したとして、大阪府警警備部などは2007年3月22日、薬事法違反(承認前の医薬品広告など)の疑いでボンビックス薬品(大阪市中央区)と社長(48)ら2人を書類送検した。

社長らは容疑を認め、1998年11月ごろから15万個以上、約15億2000万円分を売り上げたと供述しているという。  

調べでは、2006年8―11月、カイコの粉末入り錠剤「ボスリン」など2
種類の健康食品を、血糖値を抑えるなどの薬効があるとホームページや
チラシで宣伝。山形県酒田市の女性(58)ら8人に270錠入りを計17個
(20万3700円)販売した疑い。>ZAKZAK=夕刊フジ 2007/02/23

これが、要するに「糖尿病怖い」に付け込んだ犯罪なのである。今後も
似たような事件が多発すること 間違いない。

なぜならば、糖尿病は今のところ一旦かかったら絶対に治らず、一生付
き合わなければならない病気。最後はインシュリンの注射を朝夕打たな
ければならなくなる。痛い!いやだ!其処を悪が狙う。

<日本国内の糖尿病患者数は、この40年間で約3万人から700万人程度に
まで膨れ上がってきており、230倍以上という異常な数値を示している。予備軍を含めると2000万人に及ぶとも言われる、現代の日本人が抱える難病の一つである。

糖尿病(とうにょうびょう、Diabetes Mellitus: DM)は、糖代謝の異常によって起こるとされ、血液中のブドウ糖濃度が病的に高まることによって、様々な特徴的な合併症をきたすか、きたす危険性のある病気である。

一定以上の高血糖では尿中にもブドウ糖が漏出し尿が甘くなる(尿糖)
ため糖尿病の名が付けられた(Diabetes=尿、Mellitus=甘い)。腎臓の
再吸収障害のため尿糖の出る腎性糖尿は別の疾患である。(出典: フリ
ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

2006年12月24日、親戚の主婦(61)が腎不全のため死去した。永年に亘って糖尿病を放置したため、2006年になって突如、人工透析を開始しなければ命にかかわると宣告されてそうしたが、1年も経たないうちに死去となった。糖尿病の知識を本人も家族も持たなかったからである。

昭和55年9月19日、鈴木善幸内閣の厚生大臣に園田直(そのだ すなお)さんが発令され、その秘書官に私が就任した。園田さんにとって厚生大臣はそれ以前十数年前の佐藤栄作内閣以来、2度目だった。

就任して間もなく、糖尿病患者団体から永年に亘って陳情のあった「自
己注射」を許可する「省令」改正を裁可した。糖尿病の治療薬(注射のみ)が発見されt1923年のノーベル医学賞が与えられた。欧米では直ちに自己注射が許可されたが、日本では「注射は医者がするもの」との判断で許可されないできた。

1978年、ボン(当時の西ドイツの首都)で開かれたサミット(先進国首脳
会議)に随行した際、大阪選出の参院議員森下泰さんと一緒になった。
言わずとしれた仁丹の社長である。かねて衛生器材会社「テルモ」の経
営者でもあった。

その森下さんがふと「わが国では糖尿病患者が自分でインスリン注射が
できないので患者が困っておりまんね」と言う話。「自己注射が可能に
成れば衛生器材会社は競争して針を細くして痛みを和らげることがでけ
るんだが」。

その時は外務大臣園田直の秘書官だったから、悪いが話はそのまま忘れ
てしまったのだが、あれから2年経って厚生大臣。ご本人は隠していたが、若い頃からの糖尿病患者。既にインスリン注射を開始しなければいけな
いのに、注射きらいで医師から逃げている。

ボンでの森下さんの「陳情」もあり、自己注射は大正12年(1923)年以来、57年目にして園田厚生大臣によって許可された。酷い例では1日、4回も医者に通わなければならなかった患者も、通わないで済むようになった。

触れたくも無いが、日本医師会の傲慢と厚生官僚の怠慢が、わが国にお
ける糖尿病患者を病気と通院の2重の苦しみに目をつぶってってきたので
ある。

昭和59(1984)年4月2日、園田さんは既に全盲になっていて、腎不全で死
んだ。まだ70歳だった。若いときからインスリン注射の痛みと闘ってい
れば、あと10年は確実に長生きできたし、盲目にもならずに済んだものを。
まさに紺屋の白袴だった。(2010年3月27日、芝の増上寺で27回忌法要が
営まれる)。

園田さんが自己注射を許可してから、国内外の衛生器材メーカーは、拡
大し続ける糖尿病患者市場を目前に切磋琢磨。まず、ほぼ20日分のイン
スリンを1本のボールペン型注射器に詰め込むことに成功。

一方、注射針を細くすることにも日夜取り組み、2007年3月現在、注射針
の外径(先端部)は僅か0.23ミリ。近くは0.2ミリになろうとしている。当
に手先の器用な日本人を象徴するように世界一の細さ。全く痛みが無く
なった。

ところが医者は患者を脅す。「あんた、食欲を抑え、散歩を沢山しない
と、注射に頼ることになるよ、痛い目に遭うよ」。

食欲を押さえ、運動もしながら、どうしても血糖値上昇に悩む、悩める
子羊の足元を見透かして、効き目のない怪しげな薬もどきを売りつける
業者。売るほうも悪いが、患者を脅しつける医者がもっと悪い。

なお、インスリンは胃酸に混じると効き目が無くなる。そのために今の
ところは皮下注射で体内に入れるしかない。アメリカでは鼻から吸入す
る方法も開発されたと言うニュースを聞いたが、日本ではまだだ。(再掲)
。2007.03.20
■(本稿は、「頂門の一針」(1853号)に掲載されました。
  購読(無料)申し込みは下記ホームページから。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm )


2010年03月28日

◆佐藤ノーベル賞の陰で

渡部亮次郎

故佐藤栄作元首相は沖縄返還を功績として、日本人初のノーベル平和賞を受賞したが、その陰で優れた国際政治学者が青酸カリ自殺を遂げていたことを知る人は少ない。

その人の名は若泉 敬(わかいずみ けい)。1930年3月29日 ―1996年7月27日、沖縄返還交渉において、佐藤栄作首相の密使として重要な役割を果たした。死去した時、新聞は癌死と報じたが、そうではなかったことを知ったのは極く最近。

若泉氏と交流のあった宮崎正弘氏(評論家、作家)が最近、自らのメール・マガジン「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(http://www.melma.com/backnumber_45206)で軽く触れていたから初めて知った。以下「ウィキペディア」より。

福井県今立郡今立町(現・越前市)生まれ。1954(昭和29)年東京大学法学部政治学科卒業。佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。

1957年ロンドン大学大学院修了、1960年米国ジョンズ・ホプキンス大学客員教授となり、マイク・マンスフィールド、ディーン・アチソン、ウォルター・リップマンらと面識を持った。

1961年防衛庁防衛研究所所員。創立に貢献した京都産業大学に1965(昭和40)年より教授として招聘される。1966年に京都産業大学世界問題研究所所員、1970年から1980年まで同研究所所長を務める。1992年の京都産業大学退職時には退職金全額を同研究所に寄付し、同研究所ではこれをもとに「若泉敬記念基金」を設立した。

核時代における日本の平和外交・安全保障政策のあり方についてビジョンを構築し、『中央公論』などの論壇誌でその主張を提示していた。

1966(昭和41)年頃から、面識のあった愛知揆一(外相)の紹介で佐藤首相に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。

翌1967年、福田赳夫自民党幹事長を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。

密使としての交渉に際して、若泉は偽名「ヨシダ」、ニクソン政権において若泉のカウンターパートとなったキッシンジャーは偽名「ジョーンズ」を用いた。

「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年9月30日、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官より、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された。

1969年11月10日 ―11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、同年11月19日(米国時間)佐藤・ニクソン会談で3年後の沖縄返還が決定されることとなった。

その後は現実政治に関与することなく、学究生活に戻った。なお極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。

同書によれば、佐藤とニクソンは、大統領執務室隣の小部屋で、二人きりになって署名したという。この本を私は職掌柄、すぐに読んだが、なぜかマスコミは無視。全く評判にならなかった。

この本が出版されるに先立つ事20年。首相を退いて2年目の1974
(昭和49)年12月、沖縄返還実現を理由に、佐藤に日本人初、ノーベル平和賞が授与された。

沖縄返還が実現したのは若泉とキッシンジャーの裏交渉により「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を日本が「密約」したからである。「密約」無ければノーベル賞なしだったのだ。

同書の上梓後、ノーベル賞からも20年経った1994年6月23日付で大田昌秀沖縄県知事宛に「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自殺)します」とする遺書を送り、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。

その2年後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。

自殺したという話を聞いた大田は「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」とコメントしている。英語版が公刊されたのは、2002年である。なお、『正論』2006年9月号に、英語版序文の原稿が掲載されている。

核持ち込みについての密約は、信夫隆司が2005年までに機密指定が解除された米政府公文書から、密約を裏付ける文書を発見した。キッシンジャーからニクソンへのメモで、日米間の密約を示す「共同声明の秘密の覚書」の存在に触れ、覚書が「核問題」に関するものであることを明らかにしている。

日本側での所在は長らく確認されず、日本の政府・外務省は密約の存在を否定していたが、2009年12月に佐藤栄作の遺品にこの密約と見られる「合意議事録」が存在し、遺族が保管していたことが報道された。

また、2010年3月9日、鳩山政権になってから、岡田克也外務大臣の命令で、核密約があったか否かを調査してきた有識者委員会(座長:北岡伸一東京大学教授)は、正式に(広義の)核密約があった旨の調査結果を報告した。これを受け政府(鳩山内閣)、外務省(岡田外相)はこれまでの、自民党政権下での公式にはなかったとされてきた見解を改めた。

ただし、日本国政府が認めたのは初めてであるが、関係者の間では密約はあったというのは半ば常識化されていた。

今回の有識者委員会の座長を務めた北岡はその著書、『自民党―政権党の38年―』(中公文庫・2008年版・元は95年、読売新聞社から単行本で刊行)の中で、佐藤内閣の沖縄返還を巡る記述の中で、(pp.148−149)若泉の『他策ナカリシヲ信ゼムと欲ス』を紹介し、「密約があったという」という内容の事を記述している。(文中敬称略)

著書
『トインビーとの対話――未来を生きる』(毎日新聞社, 1971年/講談社[講談社文庫], 1982年)

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋, 1994年/新装版, 2009年)

The Best Course Available:A Personal Account of the Secret U.S.-Japan Okinawa Reversion Negotiations, edited by John Swenson-Wright, (Honolulu: University of Hawaii Press, 2002).

評伝
森田吉彦「評伝・若泉敬(全7回)」(『諸君!』2008年10月号-2009年4月号に連載)
後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って: 若泉敬の生涯』岩波書店、2010年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010・3・25

2010年03月27日

◆ラ大使発言時の外相秘書官は私だった

渡部亮次郎

古森義久氏(現在は産経新聞記者としてワシントン駐在中)はレーガン共和党政権成立時の1981年5月、アメリカ民主党系の大手シンクタンク「カーネギー国際平和財団」に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。

その間の同年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインタビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。

これは鈴木善幸政権のころで、外務大臣は園田直(そのだ すなお)、その秘書官が不肖渡部亮次郎だった。

とはいえ、当時、日米首脳会談に際して発表した日米共同声明をる鈴木首相と外務大臣伊東正義氏の対立が表面化。伊東外相が辞任したので、園田氏が後任として厚生大臣から急遽横滑り就任したばかりだった(18日)。

20日にマンスフィールド大使が外務省に尋ねてきて1時間会談、そのご衆参両院で野党による緊急質問が行なわれたが、政府、外務省としては事前協議の要請があった事は、これまでになかったのだから核の持込は無かった、と「見解」を統一。完全否定で切り抜けた。慌てる者は誰もなかった。

当時、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブの野党各党で政府答弁を信じる者は皆無、核持ち込みを事実と想像していた。

個人的には「持ち込まれていることがあるかもしれない、と思わせた方
が抑止力だ」と漏らす野党議員もいた。

後年、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。

さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。それでも日本政府は否定しつづけていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認めた。

今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森氏の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

これに先立って1967(昭和42)年に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。「日本に他国から核兵器を持ち込まさせない」ということで1974年(昭和49年)に提唱者の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

それ以降の歴代内閣は非核三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も非核三原則の遵守を表明していた。

アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としていたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港するアメリカ海軍の艦船が兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる。

後年の1999(平成11)年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年(昭和38年)にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。

また、2008(平成20)年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして
“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、朝鮮戦争
時の1953(昭和28)年にアメリカ海軍の航空母艦「オリスカニー」が核
兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった。

さらにライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長がアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」2010年3・4月号へ寄稿して明らかにした。

それによると、アメリカ軍がベトナム戦争中の1966(昭和41)年に、日米安全保障条約に違反して、返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあったといい、1972(昭和47)年の沖縄返還までアメリカ軍がたびたび日本政府とアメリカ国務省の要請をはねつけ、同様の核持ち込みを行っていたことも示唆している。

パッカードはまた毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたと証言した。

なお、1991年(平成3年)の冷戦終結に伴い、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が地上配備の戦術核兵器と海上配備の戦術核ミサイルの撤去を宣言したことで、平時において核搭載艦船が寄港するなどの形で日本への核持ち込みは無くなったとされる。

核の持ち込みについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」とし、「事前協議があれば核持ち込みを拒否する」とことを表明していた。

しかし、これは逆に「協議を申し出るか否かはアメリカ軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。

また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ海軍艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ海軍艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じてい
ない)。

またカート・キャンベル国務次官補は2009年(平成21年)9月に来日した際、持込みに関する密約は事実存在し「非核三原則」は有名無実である旨言明した。

核持ち込み問題について、2009(平成21)年9月に鳩山由紀夫内閣で外務大臣となった岡田克也は全て調査し11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。

日米間の核持ち込みに関する密約は2つあり、1つ目は核搭載米軍艦船の一時寄港と領海通過密約、2つ目は緊急事態における事前協議後の沖縄への核の持ち込み密約である。

2010年(平成22年)3月に報告書が出されたが、いずれにしてもこの様に元駐日アメリカ大使本人や、その後の様々な調査によりアメリカ軍による日本への核持ち込みとそれに対する「密約」が存在していたことが事前に証明されているにもかかわらず、なぜ時間と手間をかけて調査、報告をする必要があったのかと、その背後関係を懸念する意見もある。

鳩山内閣は核の持ち込みについて事前協議があった時には「常に核持ち込みを拒否する」としていた政府見解を「核持ち込みを認めるかどうかを曖昧にする」に見直す方向で検討を始めた。

「核兵器の持ち込み」(アメリカ軍に限られ、他国軍については適用しない)の定義については、日米間に相違があった。すなわち、米国政府の理解は、「持込み(introduction)とは核兵器の配置や貯蔵を指すものであり、それ以外は、「transit」として一括し、「transit」には寄港、通航、飛来、訪問、着陸が含まれ、共に事前協議の対象外であるとするもの」である。

これに対して日本側では、「transit」も「持ち込み」に当たると解釈する。この米国側の解釈と日本側の解釈の違いが、さまざまな混乱の元であるとされている。

実際、他の事例で言えば、旅客機が最終目的地までの飛行の途中で他の
空港に立ち寄ることがあるが、これは「トランジット」と呼ばれており、たち寄り空港のある国のビザなどは必要とされない。

また、貨物船がある国に寄港する場合にも、貨物をその国に通関させない限り、何らの手続きを要しない。以上のことから、国際的には、たとえ貨物が核兵器であっても、単なる寄港の場合は、その国に持ち込んだことにはならない、との解釈が常識的である。

2010(平成22)年1月、岸政権下の1960(昭和35)年に外務事務次官を務めた山田久就が、国会で事前協議に関して為した答弁「通過・寄港も対象」は野党の追及をかわすための嘘であり、実は対象外にされていたことが、公開されたインタビュー録音から判明した。

日米政府の公文書公開により、核の持ち込みを定義が日米間で不一致で
あることを知られるようになった。

2010(平成22)年3月に発表された日本の外務省調査委員会は明文化された日米密約文書はないとしながらも、日本の政府高官が核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知りながらも米国に核の持ち込みの定義の変更を主張していないことなどを理由に、核の持ち込みについて広義の密約があったと結論付けた。

日米政府の公文書公開により、寄港などの形で核持ち込みを知っていた
政府高官は以下の通り。内閣総理大臣経験者として岸信夫、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三。

外務大臣経験者として愛知揆一、木村俊夫、鳩山威一郎、園田直、大来佐武郎、伊東正義、桜内義雄、安倍晋太郎、倉成正、三塚博、中山太郎。

内閣官房長官経験者として二階堂進。

1994(平成6)年に佐藤首相の密使を務めたとされる若泉敬(当時は京都産業大学教授)が「1969(昭和44)年11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言している。

2010年(平成22年)3月に鳩山内閣の調査報告書が出された。調査報告書では佐藤栄作元首相がニクソン元大統領と有事の際に沖縄への核持ち込みについて、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことが明文化された密約文書が確認されたが、外務省の中で引継ぎがされた形跡がないという理由から日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。

大きく報じられる事はなかったが、「密約」に身を挺した若泉敬氏は服毒自殺した。佐藤=ニクソンで交わされた密約の舞台裏を、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。

完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。佐藤ノーベル平和賞野犠牲者である。(「ウィキペディア」) 2020・3・24