2011年12月16日

◆流行歌手の晩年様々

渡部 亮次郎


ブログに「誰か昭和を想わざる」があって昭和のはじめから今に至る歌謡曲とその時代背景を厖大な量で論述している。だが著者名は明らかにされていない。信用はおける。
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

この中で様々な流行歌手の経歴も詳しく紹介されているが、興味を持ったのは、病名と墓地を詳しく述べていることである。私(1936年=昭和11年生まれ)の興味を持った歌手の晩年を引用させていただいた。見出しは西暦だが、本文中の年号はほぼ「昭和」である。

赤坂小梅(1911-1992)

福岡の田川郡川崎町の生まれ。9人兄妹の末っ子。大正9年、16歳のときに八幡で梅岩の名前で芸者となる。昭和4年に藤井清水、野口雨情に認められレコードデビュー。

佐藤栄作、岸信介など著名人のお座敷も多くつとめ、紅白歌合戦にも数回出場、恰幅のいい体型が特徴的だった。56年に国立劇場の公演を最後に引退後は、晩年を千葉の老人別荘地で過ごし、民謡教室なども主宰した。

平成4年1/17午後7時24分、心不全で千葉県鴨川市の病院で死去。本名は向山コウメ。住まいは千葉県館山市安房自然村だった。葬儀は館山市の能忍寺で行われた。

暁テル子(1921-1962)

浅草出身。松竹少女歌劇団卒業後は古川緑波一座や東宝、松竹の舞台で活躍。脚線美が話題で、26年「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」で大ヒット。笠置シヅ子との軋轢は有名。「テリー」の愛称で親しまれた。

33年に肺を患ってからは事実上、引退状態となった。37年7/20午前2時、中野区江古田4丁目の自宅で心臓麻痺で死去。本名は関根ひさ子。天津乙女(1905-1980)

神田出身。大正7年に宝塚に入団。12歳にして宝塚の東京出身団員第1号に。「すみれの花咲く頃」のオリジナル盤を吹き込む。「引退公演の最中にファンの結婚反対署名が殺到した事から破談に。

その後はファンのため、生涯独身を貫いた。54年10/18の「鏡獅子」が最後の公演となった。55年5/30午後7時、急性心不全で西宮の香雪記念病院で死去。本名は鳥居栄子。住まいは兵庫県宝塚市武庫山2丁目。谷中霊園に眠る。

淡谷のり子(1907-1999)

青森の旧家の生まれだが大火で没落、ヌードモデルなどで家計を助けながら東洋音楽学校を首席で卒業。「ブルースの女王」と呼ばれるようになる。ある時に自分のテープを聴いて「こんな歌ならお客さんに聴かせられない」とステージに上がるのを拒否したともいう。

平成6年には一過性吐血症で倒れる。自宅で妹と2人での車椅子生活の中、11年9/22午前4時30分、老衰で大田区上池台2丁目の自宅で死去。本名は淡谷のり。猛暑がこたえたという。一時期、ピアニストの和田肇と結婚、和田との娘ではないが一女がある事はまったく知られていない。

長女は同じ敷地で暮らしていた。タンゴやシャンソンを日本に紹介した功績もあり、礼儀正しい反面、人にも厳しかった。また美容器具のゲルマニウム美容ローラーを片時も離す事もなかった。

井口小夜子(1914-2003)

東京出身。童謡歌手として昭和10年にデビューし、14年に武蔵野音楽学校を卒業。流行歌や軍歌などを吹き込み、36年の「紅孔雀の歌」で知られる。平成15年11/9午後5時35分、急性呼吸不全で死去。本名は田沼とみ子。住まいは神奈川県藤沢市鵠沼桜が岡4丁目だった。

池真理子(1918-2000)

京都出身。宝塚歌劇団で三日月美夜子の名前で活躍。昭和21年に「愛のスウィング」がヒットするや、スウィングの女王として人気を得る。アンデスの子供にミルクを飲ませる運動などに従事。

平成12年5/28、都内のホテルのステージで「センチメンタル・ジャーニー」を歌った直後に倒れ、そのまま5/30午後10時24分、クモ膜下出血で還らぬ人となった。 住まいは世田谷区豪徳寺1丁目だった。

石田一松(1902-1956)

広島の府中出身。演歌師として活躍。1946年に衆議院選挙に当選し、代議士として4期つとめる。その後はラジオや舞台の出演をこなしていた1956年1/11午後7時52分、豊島区雑司ヶ谷3丁目の自宅で、胃ガンで死去。

市丸(1906-1997)

19歳で長野の松本より上京し、浅草で芸者に。清元、宮園節、小唄など邦楽を身に付け、昭和6年「花嫁東京」で歌謡界にデビュー。同年には「茶切節」がヒット。

8年、中山晋平作曲「天竜下れば」が大ヒット。当時の歌手には珍しい美貌から、「歌より先に顔で評価されて損」などと当時の一般紙で書かれたりもしている。勝太郎との不和は有名であった。

ただ勝太郎が亡くなる前には、病室に見舞うなど、良き「戦友」として最後はお互いを認識していたらしい。柳橋近くの瀟洒な邸宅は、たまに料亭と間違えられる造りであった。

晩年は歌舞伎界の中村一門に推挙され、江戸小唄中村流の17代家元として後進の指導にあたるかたわら、歌番組にも出演。平成9年2/17午後3時44分、呼吸不全のため台東区の病院で死去。本名は後藤まつゑ。住まいは台東区柳橋1丁目だった。

伊藤久男(1910-1983)

福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。昭和55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。

上原敏(1908-1944)

秋田県大館出身。専修大学では野球部のエース。昭和11年に歌手デビュー。

「青空道中」「旅笠道中」「妻恋道中」を、ポリドールが敢えて新人売り出しのために上原に歌わせたところ、25万枚の大ヒットとなった。「流転」「裏町人生」「上海だより」とヒットを連発、特に女性に絶大な人気を博した。

しかし18年に出征。赤紙(召集令状)が来た時、ステージで「男散るなら」を熱唱し、それがファンの前に見せた最後の姿となった。歌手として慰問活動にまわる道もあったが、一兵卒としての扱いを本人自ら希望し、激戦地へ。

昭和19年にニューギニアで戦病死。従来のアイタペ戦病死説は上原の部隊の生き残りの軍医や、上原の周辺を取材したライターなどによって否定されている。

上原の戦病死の頃、既にアイタペは米軍の手中に陥落しており、上原の部隊はウエワクで反攻の機会をうかがっていたという。東部ニューギニア戦線の生還者はわずか1割で、苛烈な戦場だったために、生存者も余り当時の話を語りたがらないため、上原の最後はなお謎が多い。

宇都美清(1928-1973)

宇都宮出身。昭和21年デビュー。渡辺はま子とのデュエット「ああモンテンルパの夜は更けて」で知られる。36年から作曲も行った。48年3/4午後7時、肝硬変で都立荏原病院で死去。本名は吉田清男。

エト邦枝(1916-1987)

浅草出身。大蔵省に勤務しながらクラシックを勉強。帝国音楽学校を卒業し、昭和22年に歌手デビュー。30年「カスバの女」を吹き込み、42年になってヒットする。

観光バスのガイドの指導を10年つとめた後、晩年は自宅でカラオケ教室を主宰した。62年3/13午前10時45分、大動脈瘤破裂で世田谷区の長谷川病院で死去。本名は笠松エト。

榎本健一(1904-1970)

麻布出身。日本の喜劇王として君臨した。27年に右足を脱疽、32年には1人息子(26)が死亡、37年暮れには右足切断と幸福な晩年ではなかった。44年12/8に風邪を引き、治りが遅く衰弱してきたのだが、入院を拒否、

45年1/1の朝には新宿区市谷加賀1丁目の自宅で雑煮に餅を3個、酒をお猪口で1杯飲むなどしたが、夜になって容態が急変、そのまま入院となった。1/4夜より昏睡状態が続き、1/7午後2時50分、駿河台の日大病院で肝硬変のために死去、危篤とされてから7時間後の事だった。

菊田一夫、金語楼、徳川夢声、中村是好、藤原釜足、南利明、森川信、由利徹、笠置シヅ子、森光子、大宮敏光、益田喜頓、コロムビアトップ、坂本九などが病院に詰めかけ、回復を祈ったが、ならなかった。西麻布の長谷寺に眠る。(つづく)

2011年12月13日

◆ジョン・レノン空港

渡部 亮次郎


<リバプール・ジョン・レノン空港 (Liverpool John Lennon Airport) は、イギリスのリバプールにある空港である。

リバプール出身の偉大なアーティストであるジョン・レノンを称えて、2002年「リバプール・ジョン・レノン空港」という名称に変わった。

空港内にはジョン・レノンの銅像が建つ。また空港のロゴには、彼の曲である「イマジン」の歌詞の一節“above us only sky”が使われており、この歌詞は空港の屋根にも書かれている。

近年、ヨーロッパの空港の中でも格安航空会社の乗り入れによって発展している空港の一つであり、1998年から2007年の間に乗客数は約7倍になっている。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若い頃、と言っても40は過ぎていたが、ニューヨークのダコタ・アパートに住んでいたレノン夫妻を訪ね、イタリア街のレストランでご馳走になったことがある。

案内してもらった友人の加瀬英明氏(国際問題評論家)がレノン夫人のオノ・ヨーコさんと従姉弟だから出会えたのである。加瀬氏の母上とヨーコさんの父上が兄妹だった。

それまでの私はビートルズもジョン・レノンもまるで知らなかった。NHKは前田義徳(よしのり)会長の一声で長髪青年を番組から締め出した時代。わたしもまた、政治記者としてニュース以外の番組を見る暇はなかったから、ジョン・レノンは知らなかった。

古い、と言うか重厚なアパートがダコタ・アパート。薄暗くしてあるのは上品なたたずまいの演出とか。エレベータの扉が開いたらレノン氏が待っていた。長髪。

ロビーに幾つもの三角テントを張り、一人息子のショーンとうずくまっていた。何とかのエネルギーが身体に宿って丈夫になれると言っていた。「よくいらしてくださいました」とヨーコさんはにこにこ。

勿論、私も英会話の個人授業を受ける以前の時代だから、会話はすべて加瀬氏の通訳。

「僕は今、音楽活動を休んで主夫としてショーンの養育に専念している」と自己紹介。「僕の発音が叫んでいるようで、可笑しいでしょう。これは生まれたリバプールというところが坂のきつい港町。

坂を登ってくる海風もまたきつい為、皆、叫ぶようにして喋らないと通じないんだ、だから大人になってもこういう発音は直らないんだ」とも。

「それじゃ出かけようか」となって下へ降りたら玄関でリムジン(大型高級ハイヤー)が待っていた。

案内されたところはイタリア街の小さなレストラン。勿論馴染の店なんだろう。ふと気づくと、ファンと思しき若い男女が大勢、レストランを取り巻いていた。

イタリア街というところは中華街に接し、「決して上品一点張りというわけではないが、とにかく料理が美味しいんだ」と薦めてくれる。ワインもじゃんじゃん。

食事の後、ヨーコさんを先に帰し、私たちを市内の印刷所に案内した。間もなく来るヨーコの誕生日。シルクのスカーフを一枚、印刷してプレゼントする。そのためにこの印刷所を買収したのだ、と。

何しろヨーコハモナリザにそっくりだろう、とヨーコさんの顔を印刷したスカーフ。その試し刷りを繰り返していた。

それから2年。レノンはリムジンの待っていたあの玄関で狂人に射殺されてしまった。

<レノンの射殺に関しては、当初「FBI関与説」などの根拠に欠ける陰謀説も持ち上がったが、その後の捜査により現在は単独犯行として結論づけられている。

しばしば犯人は「レノンの熱狂的なファン」と言われるが、実際には彼は特に熱狂的なファンではなかったとされ、また一種の精神疾患的な症状があり、現在この説は疑問視されている。>(ウィキ)

2011年12月12日

◆東條の頭叩いて助かった人

渡部 亮次郎


常連寄稿者平井修一さんが70周年「真珠湾の真実」(12月8日号)で取り上げた大川周明のことは少年のころからどっかでひっかかっていた。

著名な学者だったのに、東京裁判では前に坐っていた被告東條元首相の頭をピシャピシャと何度も叩いて周りの度肝を抜いた。

裁判長の指示で検査の結果脳梅毒と判って、裁判免除。だが免除されたら普通に戻った、あの振る舞いは「演技」だったのだと理解してきた。

平凡社の世界大百科事典には次のようにしか出ていない。

{ファシズム運動家,思想家。山形県に生まれる。旧制第五高等学校を経て,東京帝大文学部でインド哲学を学ぶ。1911年卒業。

のち,植民地インドの現状に関心をもち,反欧米的思考を強める。18年,満鉄に入社し,翌年東亜経済調査局調査課長。20年,拓殖大学教授となる。

1918年,米騒動の衝撃のなかで生まれた老壮会に入会。19年,北一輝(死刑)とともに〈国家改造〉を目ざす猶存社を結成。

23年,北と袂(たもと)を分かって後,翌24年,行地社を創立。啓蒙宣伝活動にあたるとともに,軍部との関係を深める。

29年東亜経済調査局が独立の財団法人となると理事長に就任。31年,陸軍桜会によるクーデタ計画,三月事件に関与。翌32年2月,神武会を組織し,軍部と結びついた大衆的ファシズム運動を目ざす。五・一五事件に連座して反乱罪により禁錮5年に処せらる。37年10月,仮出所。

以後,法政大学教授(大陸部長)をつとめるとともに,《日本二千六百年史》(1939),《近世欧羅巴植民史》(1941),《米英東亜侵略史》(1942)などを刊行。

敗戦後,A 級戦犯として逮捕されたが,精神障害を起こし,裁判から除外,病棟で《コーラン》の翻訳に没頭する。1948年末,不起訴釈放。自伝《安楽の門》(1951)を著す。《大川周明全集》全7巻がある。}
       

「ウィキぺデイア」を近年知ったので検索してみたら出てきた。

この記事を書いた方のお名前は知らないが、肝腎なことは後半の出てく
る。

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。

1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。

その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。

山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。五高時代には、栗野事件で活躍した。

インドの独立運動を支援。ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆して、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。

また、亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、また、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)やアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。

一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。

同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。

大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成。三月事件・十月事件にも関与し、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。

またルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介している(「三重国家論」として翻訳)。

満州事変に際しては、在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から、満州国の建国を支持し「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。

北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。日中戦争が勃発時大川は獄中にあった。

太平洋戦争については、「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」(『国際検察局尋問調書』第23巻)と記述があるとおり、肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走した。

太平洋戦争終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され、東京裁判に出廷した。

大川は水色のパジャマを着用。素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(東條は最初は苦笑していたが何度も叩かれたため睨みつけたという)、

「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳:インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、

または「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! 英訳:これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」(I,I think 英訳私は、私は思う)と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。

15分間の休廷中、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した。

大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、梅毒による精神障害と診断された。その後の精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。

入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。

その後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。大川の墓銘は歴史学者平泉澄の揮毫。

東條の頭を叩いたのは狂人と思わせる「演技」。裁判長は騙された。
                  2011・12・08


2011年12月09日

◆ジョン・レノンのご馳走

渡部 亮次郎


12月8日は対米戦争開始の日であるが、ビートルズのジョン・レノンが殺された命日でもある。

ザ・ビートルズ(BEATLES)は世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドという事をジョン・レノンにダコタ・アパートで会うまで知らなかった。

1978年2月のその時、私は福田赳夫内閣の外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、僅か数ヶ月前まではNHKの政治記者で、国内政局の追跡に熱中する生活でビートルズなど皆目知らなかった。

それが、いきなり彼ら一家の住まいたるニューヨーク・マンハッタンのダコタアパート5階の自宅に招き寄せられ、2歳の息子を抱きながらフローリングの部屋で三角屋根(ピラミッド)の下に転がるもじゃもじゃ頭の男が「世界一の芸術家」と知って驚いた。

ジョン自身はその時は音楽活動を休んで「主夫で子育てに夢中なんだ。三角屋根は生命に何らかのパワーを与えてくれるんだ」と喋っていた。

「僕の喋り方が叫んでいるように聞えないですか。生まれたリヴァプール(英国)は強い風が吹き上げて来る土地で、その風に逆らうように喋る癖がついてしまったんだ」とも。

イギリスのリヴァプールで結成されたのがビートルズ。アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティスト。

その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。

1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

それからほぼ3年後の1980年12月8日の夜、アパートの玄関で精神異常者に射殺され満40歳の人生を終えるわけだが、激しくも偉大だった人物の晩年に会えた事を思うとそのたびに興奮するのである。

なぜジョン・レノンに会えたかというと、2番目の夫人となったオノ・ヨーコさんが私の親友で評論家の加瀬英明氏の従姉だからである。

彼の父俊一氏は昭和史に残る著名な外交官だったが、母親萬寿子さんがヨーコさんの父親の妹という関係。英明氏は、鳩山内閣時代に外務政務次官だった園田氏と当時から親しかった。

外務大臣室にやってきて「大物秘書官がアメリカを知らないではあんたが困る場面が出てくるから、ナベさんをアメリカ旅行に案内するよ」とやや強引に旅費付で了承を取り付けてしまったのだ。

確かに私は国内政治の記者だったから海外特派員の経験といえばアメリカ時代の沖縄に1ヶ月ぐらい駐在しただけ。北京と上海は国交回復の田中訪中に同行のみ。当然アメリカは知らなかった。

ロス・アンジェルスを経てニューヨーク入り。当に摩天楼の都会。ナベちゃん、NYでビルの階数を数えるな、首が折れるというよとからかわれながら、セントラルパークの北隅に接しているダコタアパート5階へ。全フロアを所有していた。

暫くしてヨーコ夫人に促されて階下の玄関へ。3年後に射殺される現場とは当然思いもよらず、べら棒に長い車に乗った。リムジン初体験のおのぼりさん。イタリア街でワインを沢山頂いたが料理は記憶に無い。記念写真が残っている。

外へ出たら黒山の人だかり。なるほど大変な人気。噂は瞬時に駆け巡りこれだけのファンを寄せ付けるとは凄いものだ。

ヨーコさんを先に帰して「ちょっと面白い物を見てくれないか」という。坂の途中の工場に立ち寄った。印刷工場を買収していた。ヨーコの顔を印刷したスカーフを造る、たったそれだけをヨーコに秘密裏に造るため。印刷工の男女数人も雇っていた。写真を撮った。

ヨーコさんの誕生日は2月18日。印刷所を買収して造ったなんて一言も言わない、この世でたった1枚しか存在しない絹のスカーフ。どんなに喜んだ事だろう。

この記事を書くために加瀬氏に電話したところ、あの時は三角屋根は流行中だった。味が良くなると、ジョンはマリファナと煙草と牛肉をあの下に置いていたという。

殺される前に来日した時、「ピラミッド・パワーより天皇パワーが凄いよ」といったら皇居遥拝に行き、さらに伊勢神宮にも参拝した。牛肉好きだったから東京日本橋・人形町のステーキ屋に案内したら神戸牛をお代わりしたそうだ。

加瀬氏によればジョン・レノンは「NYハドソン川の上空でUFOを見た」と言い、その存在を主張してやまなかったそうだ。

「BEATLES」は、ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた名前で、造語である。昆虫の名前ビートルズ(BEETLES、かぶとむしの複数形)をマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』の中から思いついた。

クリケッツ(こおろぎの他にスポーツのクリケットの意味がある)のように2つの意味になるようにと、BEETLESに音楽のBEATを加える意味でスペルを変えてBEATLESとした。

ジョン・レノン曰く「言葉だけを聞くとモゾモゾ動く虫をイメージするだろ、でも字を見るとビートミュージックというわけさ」。
引用:「ウィキペディア」

2011年12月08日

◆ニンニク(大蒜)も東京で初食い

渡部 亮次郎


韓国の人たちはニンニクをよく食べる。観光地慶州で私を担当した観光案内人は「だから韓国人は虫歯が少ないです」と自慢した。ホントかどうかは知らない。

そんなことを言っても郷里・秋田にいた子供時代は食べたことがなかった。明治生まれの母は利用する料理も知らなかったようだし、風邪に効用ありと聞いても一家で誰も食べなかった。

例によって東京へ出てきて初めて出合ったようなもの。韓国では強精剤だからと、7個つながりを輪切りにした醤油付けを食べたら、夜中に胃痛を起こし、強精どころの話ではなかった。

調べてみるとニンニクには確かに滋養強壮の効果があり、栄養ドリンクや健康食品、一部の薬品にも使われる。生のニンニクの強烈な香りと辛味は、刺激が強過ぎて胃壁などを痛める場合があるが、この症状も主成分アリインの影響といわれる。

栄養主成分のアリイン、クレアチンなどは元来は無臭である。ところが刻んだ際に細胞膜が破れ中からアリナーゼなどの分解酵素が出て栄養成分を分解しアリシン・アリルスルフェン酸といった成分に変化する。これらが独特な臭いのモトである。

古代ギリシア人の間でも,ニンニクを口にしたものは神殿に入ることを許されなかった。一方,古代ローマ人も強臭を嫌ったが,強精な成分があるとして,兵士や奴隷には食べさせたといわれている。

原産地は中央アジアと推定されるが、すでに紀元前3200年頃には古代エジプトなどで栽培・利用されていた。日本には中国を経て8世紀頃には伝わっていたと見られる。

現在の栽培は近東方面から地中海地方,インド,アフリカ,中国,韓国に多く,アメリカにも広がっている。

日本では《本草和名》以後に記載がみられるところから,導入,栽培されたのは10世紀以前からのことといわれる。

中国や韓国から渡ってきたとみられ,品種には早晩性があり,〈遠州極早生〉〈壱州早生〉〈6片種〉〈佐賀大ニンニク〉〈香港〉などがある。繁殖は種球(鱗片か珠芽)で行う。9月に種球を植え付けて翌年5月に収穫する。

ニンニクは、僧侶が荒行に耐えうる体力を養うために食したとされ、その語源はあらゆる困難に耐え忍ぶという意味の仏教用語の「忍辱」とされる。「葷酒山門に入るを許さず」のクンシュの中には入るのじゃないのか。

日本の古代医術ではニンニクは風湿や水病を除き,山間の邪気であるところの瘴気(しようき)を去り,少しずつ長期にわたって食べれば血液を浄化し,白髪を黒くするほか,生で食べれば虫蛇を殺す効能があるが,一度にたくさん食べると目を損なうとされていた。

ニンニクには強烈な異臭にまつわる俗信が多い。ヘビ,サソリ,疫病を駆逐する強力な薬草として古くから各地で用いられた。ハローウィーン(万聖節の宵祭)にはこれを戸口につるして厄を払い,ペスト流行時には死体を清めるのに用いられた。

吸血鬼よけの効能も,B. ストーカーの《ドラキュラ》などの作品でおなじみである。さらに大プリニウスは《博物誌》において,天然磁石をニンニクで擦れば磁力がうせると述べ,ディオスコリデスは《薬物誌》で,ヘビや狂犬による咬傷(こうしよう)や歯痛の特効薬としている。花言葉は〈勇気と力〉。

日本では江戸時代、その臭気により公家・武士階級では食べる事を禁止されていた。ニンニクが広く食べられる様になったのは明治以降になってからである。

しかし、徳川家康は、茶屋四郎次郎に招かれ鯛の天ぷらにニンニクのすりおろしをつけたものが、たいへん美味かったので食べ過ぎて食中毒を起こし、死につながったとも言われる。

ニンニクは油脂によくなじみ、肉類のうまみを引き立てるので,日本でもスープ,いため物,煮込み物その他の肉料理などに多用され,洋風料理,中国風料理などの普及にともなって身近な食品になった。第2次大戦後のことである。

よく行く東京・向島の洋食屋ではメニューに「ニンニク揚げ」がある。必ずと言っていいくらいに頼む。加熱すると匂いが全くしなくなるから安心。しかし家で鰹の刺身に副えるニンニクは生でなくては効き目がない。

食べた後の匂いを防ぐためには、食後に緑茶を飲むと良いとされる。これは、緑茶の成分であるカテキンの殺菌、消臭効果による。また、牛乳やコーヒーを飲むのもよい。

水を飲むだけでも一定の効果があると言われている。なお、近年エジプト産のニンニクをもとにして、品種改良の結果、無臭ニンニクも流通している。

日本の主な生産地。青森県で70%を占める。田子町、十和田市などが多い。青森県内には特に高級品として知られるブランドがある。次いで香川県など。参考資料:平凡社「世界大百科事典」「ウィキペディア」

2011年11月30日

◆三越天皇「なぜだ!」

渡部 亮次郎


デパートといえば、東京では三越が代表していた。戦前から「今日は帝劇、明日は三越」(その逆だったかもしれない)が金持ちを象徴するキャッチ・フレーズだった。確かに高島屋とか松坂屋とかもあったが、「一流」は三越だった。

それが三越の天皇といわれた社長岡田茂のために、三越はその地位を失い、あれから29年も経つのに、三越はその地位を高島屋に奪われたままである。事件の起きたのが1982(昭和57)年9月22日だった。

<この日の取締役会。5つの議案の審議が終わった後、岡田の腹心中の腹心だった専務・杉田忠義に議長を交代した。ところが、岡田に渡された議案には書かれていない第6号議案、岡田解任決議が杉田から発議され、16対0で可決し、その場で岡田は非常勤取締役に降格となった。

このとき岡田が発した「なぜだ!」はこの年の流行語となった。後任には岡田によって飛ばされた名古屋三越社長の市原晃が就任し、信頼回復に全力を尽くした。>

<岡田 茂(おかだ しげる、1914年8月3日 - 1995年7月20日)は京都府出身、慶應義塾大学文学部卒業。元東映社長の岡田茂(故人)とは同姓同名だが全くの別人。

1938年、大学卒業と同時に三越に入社。宣伝部長などを経て1972年に社長となる。>

1977年暮に福田赳夫内閣の官房長官から外務大臣に転じた園田直に当時の日本商工会議所会頭を中心とする、財界の後援会が出来た。彼にはそれまでまともな後援会がなかった。この幹部の中に岡田社長も入っていた。

東急の五島社長、ホンダの本田社長、三井銀行の小山会長も居た。二た月に1回ぐらい、親の宴会が開かれ、なぜか秘書官の私も同席が許されたが、末席だから、いつも本田社長、岡田社長と話す機会が多かった。

いつか岡田社長がディズニー・ランドの本社関係者を連れて、外務大臣に表敬訪問に来た。浦安の海を埋め立てて「東京ランド」を作るという話だった。ところが園田は会談中、グーグー鼾をかきはじめたのでこちらは慌てた。

元特攻隊長の園田にディズニーランドは関心外だったのだ。しかし失礼だった。岡田はこれを根に持ち、後に残した回顧録に書いている。<社長就任後は「岡田天皇」と呼ばれたワンマン体制を築き、意にかなわぬ人物を次々と”粛清”していった。

強引な経営手法は1982年6月には優越的地位の濫用で公正取引委員会から審決を受けることになる。そして同年8月の「古代ペルシャ秘宝展」で偽物騒ぎが発生>

この秘宝展を友人に案内されてみたが、かつてイランの宝物殿で見せられたものとは似ても似遣わないものだったので、頭をかしげた。間もなく偽物騒ぎが起こった。

<さらに「三越の女帝」と呼ばれた愛人の竹久みちへの不当な利益供与も明るみに出た。こうした中、水面下では三井銀行会長・小山五郎を中心とした岡田おろしの準備が進められていた。

8月28日「古代ペルシャ秘宝展」の出展物の大半が贋作である事が判明。9月22日 愛人の「三越の女帝」こと竹久みちの経営する「アクセサリーたけひさ」に不当な利益を与えていたり、自宅の改修費用に会社の金を流用していたりした問題まで出てきて飼い犬に手を噛まれる如くに解任されたのだった。>

問題の取締役会の開かれたのが29年前の9月22日だった。

<10月に竹久みちが特別背任で逮捕、10月29日には岡田自身も逮捕に至った。逮捕の際に取締役を辞任、これ以後三越とは一株主としてのつながりしかなかった。

1987年に東京地裁で懲役3年6ヶ月の実刑判決、控訴審の東京高裁で1993年に懲役3年の実刑判決が出され最高裁へ上告していたが係争中の1995年7月20日、腎不全のため死去。享年80。

高杉良の「王国の崩壊」(新潮文庫)は、岡田社長をモデルにした経済小説である。>

<竹久だけの公判が続けられて1997年10月上告棄却。懲役2年6月、罰金6000万円の実刑判決が確定して竹久は収監された。 この年の一連のスキャンダルを総称して「三越事件」と呼ばれる。

なお、百貨店の創業としては日本で三越が最古であるが、前身からの母体での創業では松坂屋が日本最古である。>

たった1人の人間で伝統は傷つき、回復に大変な苦労を後輩が舐めさせられるという典型的な例である。(文中敬称略)<  >内は出典:『ウィキペディア』

2011年11月29日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革はトウ小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞってトウを避けようと
した。

トウの三度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

三度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活した?小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

2011年11月24日

◆志位和夫の闇

渡部 亮次郎


志位和夫(しい かずお、1954年7月29日―)は、衆議院議員日本共産党中央委員会幹部会委員長。血液型O型。千葉県印旛郡四街道町(現・四街道市)生まれ、現在千葉県船橋市在住。

出身校 東京大学工学部物理工学科 前職 政党職員。

両親とも、教員で日本共産党員であった。父・志位明義(1929年―2005年)は、日本共産党の船橋市議会議員であったこともある。

伯父に終戦時の第3方面軍参謀志位正二(陸軍少佐)がいる。1954年2月5日に「自分はソ連のスパイでした」と警視庁に出頭した。

ソ連の在日代表部書記官だったユーリー・ラストボロフが米国に亡命、日本におけるソ連のエージェントとして志位ら36人の存在が明らかになったからである。

志位は警視庁の取り調べに対して「米国のデモクラシーというものは、他国民を犠牲にして自国の安全と平和、繁栄を築きあげる利己的なものである」。

「日本の平和と独立のためには、ソ連と協力してソ連・中国と平和関係
を結び、米国を日本から追い出すことしかない」と供述している。ソ連から帰国した元高級将校には、志位と同じ考え方をするソ連派がかなりいる。祖父は陸軍中将志位正人。

和夫は千葉大学教育学部附属小学校、千葉大学教育学部附属中学校、千葉県立千葉高等学校卒業。同じ高校出身の神崎武法(公明党元代表)は先輩に当たる。

東京大学工学部物理工学科を卒業。大学の1年生の時から小選挙区制反対運動をきっかけに日本共産党に入党。当時の委員長宮本顕治の家の家庭教師として長男宮本太郎らに勉強を教えていた。

大学卒業後、党東京都委員会に就職、青年学生運動を担当。1982年から党中央委員会勤務。

1985年、事件がおきて一躍出世のカギを握る。

<東京都委員会直属の東大大学院支部から76歳の宮本議長に対する勇退勧告決議案が出されそうになったのだ。


提出理由は、77年の第14回党大会あたりから、宮本議長の指導に誤りが目立ち始めた事である。特に「民主集中制の規律強化」方針によって、党の自由な討論を圧殺する方向に進んでいるのは問題だ、との批判。

ヨーロッパのコミュニズムが自由な討論を基に、先進国革命の新しい方向を構築いるのと正反対で、由々しい誤りだと批判していた。

こんな事は前代未聞の事だ。党中央にとっては衝撃的だった。・・・それを阻んだのが志位和夫だった。決議案が5名連名で提出されているのは多数派工作(分派行動)の証拠と決め付け、5人の査問を通じて5人を権利停止6ヶ月処分とした。

かくして宮本議長勇退勧告決議案は提出をまぬがれた。志位は宮本に高く評価され、次の第18回党大会で33歳にして「最年少の准中央委員」に選ばれ、次の第19回党大会では、35歳にして「新書記局長」に一挙に3段飛びで選ばれた。

このように民主集中制を上手く使うと、党中央は大抵の事を押し通す事ができる。>(立花隆 「文藝春秋」2007・09号「日共のドン宮本顕治の闇」)

非議員ながらも党幹部としてメディアに積極的に露出し、ソフトな風貌と口調、そして分かりやすく切れ味鋭いコメントで党内の人気を上げ、対外的にもソフトで開かれた党のイメージをアピールした。

1993年に旧千葉1区より出馬して衆議院議員に初当選。選挙制度が小選挙区比例代表並立制に変わった後の1996年、2000年、2003年、2005年、2009年の総選挙では、いずれも比例代表南関東ブロック単独一位候補者として立候補し、当選している。

不破哲三の後任として、2000年(第22回党大会)から幹部会委員長とな
る。平和・民主・革新の日本をめざす全国の会代表世話人の1人。

2007年5月、党首討論において民主党から共産党へ発言時間の配分するこ
とで志位和夫が出席することが見込まれていたが、公明党の反対により
出席が中止になった。

平和を願って「和夫」と名付けられたといい、周囲の人たちからは「和ちゃん」と呼ばれて可愛がられていた。 父親に風貌がよく似ているため地元で演説していると「先生、ずいぶん若くなりましたね」と声をかけられたことがあったという。身長は180cmである。

趣味は音楽、ピアノ演奏で、特にシューベルトなどのクラシックが好き。大学進学時ピアノと物理どちらをとるか迷ったというエピソードがある。好きな動物は猫で5匹飼っていた。

日本テレビ系「モー。たいへんでした」では辻希美からインタビューを受けていた。「モー娘。メンバーでは誰が一番好きですか?」と聞かれた際、「あなたです。」と辻に答えていた。

「好きなドラマは『宮廷女官チャングムの誓い』」でイ・ヨンエの大ファンである。同番組は毎回欠かさず見ていると同時に単行本も所有していることを、韓国訪問時に「ハンギョレ」紙のインタビューで答えている。

2006年、党委員長として初めて韓国を訪問し、日本が併合時代に政治犯を収容した西大門刑務所跡の歴史館を日本の政治家として初めて視察し、追悼碑に献花した。

その際、歴史館館長と会談をし、日本共産党は当時から朝鮮愛国者の独立の闘いに連帯しており、韓国とはこれまでいろいろな事情で交流できなかったが、歴史認識は同じであり、これからは交流をしていきたいと話した。

2008年10月、ニコニコ動画に「志位和夫チャンネル」を開設。2010年4月、歴代党委員長の中で初めて訪米した。

2005年のスマトラ沖地震、2008年の四川大地震の際には人道支援による自衛隊海外派遣を否定しない発言をしている。

「日米安保条約反対」「自衛隊は憲法違反」という立場をとっている。ただし、自衛隊については即時廃止ではなく、国民の合意を得ながら段階的に解消するとしている。。

]永住外国人には(地方参政権において)選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきとしている。在日本大韓民国民団の新年会に出席した際に語った。

健康管理の面からキャベツ・ダイエットに取り組んでいた。医師から中年太りを指摘されたためと本人は述懐している。(『読売新聞』2007年5月27日朝刊)。日本共産党が暴力革命を棄てたのは本当だと思わせることに努力中。
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2011年11月22日

◆猥褻図画裁判すべて有罪

渡部 亮次郎


「チャタレイ夫人の恋人」に関する夢を20日明け方に見た。夜が明けて新聞を開いたら、矢張り猥褻裁判で知られた「面白半分」の発行者だった佐藤嘉尚(よしなお)さんが19日肺がんのため死去、と出ていたのである種の符合に驚いた。私より7つも若い68。

『チャタレイ夫人の恋人』(チャタレイふじんのこいびと、LadyChatterley's Lover)は、イギリスの小説家、D・H・ローレンスの作品の一つ。1928(昭和3)年に発表された。ただし当初は検閲により一部の描写が削除され、無修正版の刊行は1960(昭和35)年となった。

それに先立つ1937(昭和12)年、日本海軍の重巡洋艦「足柄」がジョージ6世のイギリス王戴冠に伴うジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した。

この時「足柄」に取材のため乗艦していた海軍省担当の新聞記者が、彼らはロンドン滞在中にイギリスで本著の原書を購入すると、軍艦のため税関のチェックを受けることなく日本に密輸し、海軍省の記者クラブに持ち込んだ。

記者から事情を聞いた山本五十六海軍次官は「勿体ない話じゃないか!」と笑っていたという。このとき私は生まれたばかり。それでも高校2年のときには、伊藤整訳本をこっそり読んだ。

大胆な性の問題を露骨に扱った作品で、内外で激しい論議の的となり、日本では翻訳の出版も、最高裁までの裁判となった(チャタレー事件)。猥褻性が大きく取り沙汰される作品だが、作者の階級社会への否定的な見解が強く出された、ロレンス最晩年の作品でもある。

炭坑の村を領地に持つ男爵の妻となったコンスタンス・チャタレイ(コニー)だったが、蜜月もわずかなままに、夫のクリフォード・チャタレイ男爵は、大戦により出征した。

クリフォードは帰還したが、戦傷により下半身不随となり、2人の間に性の関係は望めなくなった。もともと労働者階級に理解がなく、村人との接触を絶っていたクリフォードだったが、さらに自己の威厳(プライド)を保つため、コニーに対しても一線を引くようになる。

クリフォードは跡継ぎのため、コニーに恋人を持つよう勧める。その男性の条件は、同じ階級で、跡継ぎができたらすぐに身を引くことができる人物であることだった。コニーは、自分はチャタレイ家を存続させる為だけの物でしかないと嘆く。

そんな彼女が、恋に落ち男女の仲になったのは労働者階級出身で、妻に裏切られ別れ、かつて陸軍では中尉にまで上り詰めたが、上流中流階級の周りになじめず、退役しチャタレイの領地で森番をしている男、オリバー・メラーズであった。

1990年代以降の翻訳 。

永峰勝男訳 彩流社 1999年
武藤浩史訳 ちくま文庫 2004年

チャタレー事件は、イギリスの作家D・H・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件。わいせつと表現の自由の関係が問われた。

伊藤と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、刑法第175条違反で起訴された。

第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では両被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決。両名は上告。

当時、被告人側の弁護人には、正木ひろし、後に最高裁判所裁判官となる環昌一らが付き、さらに特別弁護人として中島健蔵、福田恆存らが出廷して論点についての無罪を主張した。

論点  わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。

表現の自由は、公共の福祉によって制限できるか、だった。

最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。

わいせつの三要素
(1)徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
(2)且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し
(3)善良な性的道義観念に反するものをいう

(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)

わいせつの判断 わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。

裁判所がこのような判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。

この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。

かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」

公共の福祉 「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である」。

事件の意義  わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。

公共の福祉論について 公共の福祉論の援用が安易であることには批判が強い。公共の福祉は人権の合理的な制約理由として働くが、わいせつの規制を公共の福祉と捉える見方には懐疑論も強い。

この裁判の結果、『チャタレイ夫人の恋人』は問題とされた部分に伏字を用いて1964年に出版された。具体的には該当部分を削除し、そこにアスタリスクマークを用いて削除の意を表した。

伊藤整は、当事者として体験ノンフィクション『裁判』を書いた(初版筑摩書房、現在は晶文社で上下巻、解説伊藤礼)。伊藤礼は整の次男で、新潮文庫(ISBN 4-10-207012-5)で、1996年に削除された部分を補った完訳本を出版し、現在は訳文そのままに読む事が可能になった。

1960年にはイギリスでも同旨の訴訟が起こっている。結果は陪審員の満場一致で無罪。2006年には訴訟の様子がノンフィクションとしてドラマ化された。

2007年に「日本D・H・ロレンス協会」の会長を務めた倉持三郎が、彩流社で『「チャタレー夫人の恋人」裁判 日米英の比較』を刊行した。なお著者は集大成の形で、2005年に同社より『D・H・ローレンスの作品と時代背景』を刊行している。


悪徳の栄え事件は、1969年に日本で翻訳出版された書物がわいせつの文書に当たるとして翻訳者・出版者が刑法175条により起訴され、有罪とされた刑事事件である。

被告人澁澤龍雄(筆名・澁澤龍彦)ならびに現代思潮社社長石井恭二は、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳し、出版した。しかし、同書には性描写が含まれており、これがわいせつの罪に問われた。

第一審はチャタレー事件の審査基準を引用し、3要件のうち1点が該当しないとして無罪を言い渡した。検察側が控訴したところ、第2審では逆転して、石井を罰金10万円に、澁澤を罰金7万円に処する有罪判決となった。これに被告人たちが上告。

最高裁判所判決 [編集]最高裁判所昭和44年10月15日大法廷判決は以下の趣旨により、被告人の上告を棄却した。

「…芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。

もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、

右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない」

この判決には1人の補足意見、1人の意見、5人の反対意見がついた。その中で注目されたのが裁判官田中二郎の反対意見である。田中は、相対的わいせつ概念の観点から本書がわいせつ文書には当たらないとの判断を下した。

「この作品が仮にいくらかの猥褻の要素をもつているとしても、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するかどうかは、その作品のもつ芸術性・思想性およびその作品の社会的価値との関連において判断すべきものであるとする前叙の私の考え方からすれば、これを否定的に解しなければならない。

すなわち、この作品は、芸術性・思想性をもつた社会的に価値の高い作品であることは、一般に承認されるところであり、原著者については述べるまでもないが、訳者である被告人澁澤龍雄は、マルキ・ド・サドの研究者として知られ、その研究者としての立場で、本件抄訳をなしたものと推認され、そこに好色心をそそることに焦点をあわせて抄訳を試みたとみるべき証跡はなく、また、販売等にあたつた被告人石井恭二においても、本訳書に関して、猥褻性の点を特に強調して広く一般に宣伝・広告をしたものとは認められない」

また、裁判官色川幸太郎の反対意見は、知る権利を打ち出したことで注目された。

「憲法21条にいう表現の自由が、言論、出版の自由のみならず、知る自由をも含むことについては恐らく異論がないであろう。辞句のみに即していえば、同条は、人権に関する世界宣言19条やドイツ連邦共和国基本法五条などと異なり、知る自由について何らふれるところがないのであるが、それであるからといつて、知る自由が憲法上保障されていないと解すべきでないことはもちろんである。

けだし、表現の自由は他者への伝達を前提とするのであつて、読み、聴きそして見る自由を抜きにした表現の自由は無意味となるからである。情報及び思想を求め、これを入手する自由は、出版、頒布等の自由と表裏一体、相互補完の関係にあると考えなければならない。

ひとり表現の自由の見地からばかりでなく、国民の有する幸福追求の権利(憲法13条)からいつてもそうであるが、要するに文芸作品を鑑賞しその価値を享受する自由は、出版、頒布等の自由と共に、十分に尊重されなければならない」

四畳半襖の下張事件(よじょうはんふすまのしたばりじけん)は、性的描写のある文学作品を雑誌に掲載したことによりわいせつ文書販売の罪が問われた刑事事件。わいせつの概念が問題となった。

月刊誌『面白半分』の編集長をしていた作家野坂昭如は、永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』を同誌1972年7月号に掲載した。

これについて、刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長・佐藤嘉尚が起訴された。被告人側は丸谷才一を特別弁護人に選任し、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子ら著名作家を次々と証人申請して争った。


マスコミの話題を集めたが、第一審、第二審とも有罪(野坂に罰金10万円、社長に罰金15万円)としたため、被告人側が上告した。

しかしやはり最高裁判決 は上告棄却。昭和55(1980)年11月28日第二小法廷判決は、チャタレー事件判決を踏襲する形で、そのわいせつ性の判断について下記のように判示した。

「文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、

主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(前掲最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決〔チャタレー
事件判決〕参照)といえるか否かを決すべきである。」

判例の意義 本判決は、チャタレー事件、悪徳の栄え事件以来続いてきたわいせつの判断を、大法廷に回付することなく従来の枠組みの中で再構築したものである。

わいせつの条件として、チャタレー事件判決は、

1.徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
2.且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し
3.善良な性的道義観念に反するものをいう
という3条件を示した。それに加え、本判決では、

1.当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法
2.右描写叙述の文書全体に占める比重
3.文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性

4.文書の構成や展開
5.芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、

6.これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かを総合して決めるべきであるとした。そして、結論としては今回の件はわいせつ文書に当たるとしたのである。

現実社会ではインターネットの普及もあり、これまでのわいせつ基準の再構成を求める声もある。        出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     2011・11・20

2011年11月21日

◆ASEAN初参加のころ

渡部 亮次郎


1976年8月、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの東南アジア5カ国が結成した地域協力機構たる東南アジア諸国連合(ASEAN)。84年1月からはブルネイも加盟国となった。

76年2月にバリ島で開いた第1回首脳会議では、「一体化宣言」と「友好協力条約」を調印した。域外先進国との経済関係強化のため、78年以降、日本、米国、EU、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国の外相を含めた拡大外相会議も開いている。

92年1月、シンガポールで開催した首脳会議ではASEAN自由貿易地域(AFTA)構想を採択した。その後95年7月にベトナム、97年7月にミャンマー、ラオスが加盟し、99年4月のカンボジア加盟で域内のすべての国からなる「ASEAN10」を実現した。

07年1月にフィリピン・セブで開いた首脳会議では2015年の「ASEAN共同体」実現を目指した宣言を採択した。

さてASEANに対して日本は結成当初から外相会議への参加を要望していたが、主としてフィリピンの強い反対で拒否されていた。

しかし1978(昭和53)年になってようやく参加を認められ園田直外務大臣が6月16日(金)、会場となるタイの景勝地パタヤに到着した。

320年以上も前のことだから記憶はおぼろげだが、ホテルはASEAN外相会議が開催される「ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル」だった。タイ警備隊のメンバーのくゆらす煙草が甘い香りを発していた。ホテル内のいたるところに飾られた花は強い原色なのに、香りがまったく無いのに気付いた。

それにしてもASEANが日本の参加を永らく拒否したのは大東亜戦争の加害者に対する拒否感からして当然だろうが、「大きな声じゃ言えないが、マッカーサー米元帥のフィリピン駐在当時、その副官を務めていたロムロがいまやフィリピンの外相。ロムロがキーマンという」情報を得た。

そこでロムロは会議で何をやらかすか分かったものじゃないという疑念にとらわれた。翌朝早く起きて、外相会議の会場を独りで見に行ったところ、机の配置に悪意がある。

こうした場合、6カ国は「対等」なのだから6角形にして坐るのが普通なのに、ASEAN側5カ国が横一列に並び。向かい側にポツンと日本が坐る事になっている。「これじゃ口頭試問だ」と怒り、大臣に報告した。

ロムロとマッカーサーとの関係。「ウィキペディア」によれば、1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻ったマッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。

アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーはケソンの求めに応じてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。

この頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーとロムロであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得
ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。

1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

1941(昭和16)年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、
人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。

オーストラリアに退却したマッカーサー怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。

2ヶ月に亘って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。

しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

一方、ルーズベルト大統領はマッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。

マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。ロムロも一緒だった。日本軍へ恐怖と怒りは頂点に達していた。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。

そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。

ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。

この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

日本が加わった初のASEAN外相会議が始まった。机は並べ直されて6角形になっている。冒頭、園田外相が言った。日本から「口頭試問を受けに来たソノダです」。逆手に出たのだ。通訳されると会場は爆笑。会議は成功。

夜のレセプションでは議長役ウパディット・タイ外相の提案で「かくし芸大会」となりミスターソノダは「黒田武士」を歌ったが、音痴なので歌になっていなかった。

それでもすっかり打ち解けた雰囲気になり、翌日はクリアンサック首相の私邸に招かれ、首相がみづからなさる手料理をご馳走になったが、私は天井に張り付いたヤモリが何時落ちてくるかばかりが気になって、何
を食べたか記憶が全く無い。

なお、ロムロと園田は「意気投合」し「親友」となった。再掲。


2011年11月19日

◆小田野直武を教えよ

渡部 亮次郎

  
恥かしながら私自身、小田野直武(おだの なおたけ)を知ったのは中年になって初めて郷里秋田県で角館(かくのだて)町(現在は仙北=せんぼく=市角館)を訪れてからである。学校では習わなかったから、今でも教えていないだろう。

「解体新書」の挿絵を書いた武家画人であり「秋田蘭画」の一派を創り上げた偉人である。藩主が弟子だった。

小田野 直武、寛延2年12月11日―安永9年5月17日(1750年1月18日―1780年6月19日))は江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。

小田野直武は秋田藩角館に生まれる。角館は、佐竹家の分家である佐竹北家が治める城下町であった。幼少より絵を好み、狩野派を学び、また浮世絵風の美人画も描く。やがて絵の才能が認められ、佐竹北家の当主佐竹義躬、秋田藩主佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受ける。

安永2(1773)年7月、鉱山の技術指導のために、平賀源内が秋田を訪れ、直武と出会う。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだという。

源内は直武に西洋画を教えた。伝説では「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという。

源内自身は「素人としては上手」という程度の画力であるが、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えた。

同年10月、源内は江戸へ帰る。同年12月直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓する。

そのころ、前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていた。図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。

杉田玄白と平賀源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって、小田野直武がその作業を行うこととなる。

実は既に安永2年中に、『解体新書』の予告編である『解体約図』が発行されており、その図は熊谷儀克が描いていた。『約図』と『新書』の図を比べると、やはり直武による『新書』の方が、陰影表現の点で優れている。

直武は『解体新書』の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いている。

直武は源内のもとで、西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していく。また、佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行った。この3人が中心になった一派が「秋田蘭画」または秋田派と呼ばれることになる。

のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのころ直武に絵を習ったようである。

安永8(1779)年11月、直武は突然の遠慮謹慎を申し渡され、秋田へ帰る。平賀源内の刃傷事件が起こり、かかわりあいになるのを恐れての処置という説がある。ただし、直武の帰国は刃傷事件の前だとする説もある。殿の逆鱗に触れたという。

翌年5月、小田野直武急死。死因はわからない。病死説や、政治的陰謀による切腹説がある。僅か30歳。才能が永遠に葬られ、殆ど忘れられかけている。

代表作不忍池図  唐太宗・花鳥山水図  笹に白兎図  岩に牡丹図

小田野直武を描いた作品漫画 みなもと太郎「風雲児たち」

関連文献

高階秀爾・武塙林太郎・養老孟司・芳賀徹『江戸のなかの近代―秋田蘭
画と『解体新書』』筑摩書房、1996.12、ISBN 448085729X
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2011年11月16日

◆真紀子のトラウマ

渡部 亮次郎


首相・田中角栄が退陣したのは1984年11月號の「文藝春秋」立花隆「田中角栄研究ーその金脈と人脈」で起きた世論の批判によるもの、というのが、ほぼ「伝説」になっている。だが違う。

生前、本人が私に語ったところによれば「ありゃ、たいした事はなかったが、もう1本のことで娘が大騒ぎしおってなァ、アレに参ったんだよ」であった。

アレとは立花論文と並列掲載された児玉隆也の「寂しき越山会の女王」で、金庫番佐藤昭(あき。後に昭子と改名)との間に認知していない娘のいることを暴露したものだった。

私は田中には、東京・神楽坂のもと芸者に生ませた男の子2人がいる事は知っていたが、昭の娘は別れた前夫との子と思っていた。ところが児玉は離婚成立前に田中との間にできた、いわば不倫の子だと暴露したのである。

この頃、世間は、金脈にばかり気をとられていたが、田中家においては、この娘のこと、長女真紀子は驚き、大声をあげて父親たる角栄を難詰。「恥ずかしくって街を歩けないツ」。折から妊娠中なのに、2階のベランダの手摺の上に立ち「辞職しなければ飛び降りる」と迫ったという。

あの時は血糖値が300にも上がって往生した。真紀子の脅しに屈したのだと述懐していた。くれぐれも立花論文が総辞職の直接的な原因では無いと強調していた。

私は記者時代は田中のライバルだった福田赳夫の担当。田中周辺からは警戒される存在だった。それが田中と会話ができるようになったのは、秘書官として仕えた外務大臣園田直が、のちに鈴木善幸政権実現で田中と急接近したからである。

児玉隆也も若くして癌死してしまったが、生前のある日訪ねて来て言った。「渡部さん、政治家が記者を買収するのに800万円を差し出すことがあるんですか」「ないだろうね、500万とか1000万円とか、纏まった額じゃないのかなぁ」

児玉によると光文社の女性週刊誌「女性自身」のデスクをしていた昭和41年ごろ、佐藤昭のことを記事にしようと取材をはじめたところ、しばらくして作家で作詞家の川内康範がやって来て、あの取材をやめてくれ、と言って差し出したのが800万円だったというのである。勿論断った。

のちに角栄の秘書早坂三に訊いたところ、「あの時おやじが政治評論家の某氏に工作費として渡した金額は3000万円だった」との答え。評論家と作詞家で実に2200万円も「中抜き」したのである。

早坂秘書によれば金は全く戻ってこなかった。だから角栄は「工作成功」と思い込んでいた。それが文藝春秋に載ったので2重の驚きだったという。

児玉は工作に応じなかったが、「カネを受け取って記事を書かなかった」という噂がたったので、光文社を退職、独立して苦労していた時、文藝春秋から「注文」があったので書いた、と述懐していた。昭和政治裏面史の一駒である。敬称略 2011・10・28

2011年11月15日

◆時代政治屋の狂態踊り

渡部 亮次郎


これは嘗て内閣総辞職に追い込まれた米内光政が知人に送った手紙の中で近衛文麿や松岡洋右(ようすけ)らを指して書いたもの。「魔性の歴史といふものは人々の脳裡に幾千となく蜃気楼を現はし・・・時代政治屋に狂態の踊りを踊らせる」と言うもの。

かつて読売新聞が連載した「検証・戦争責任」?(2006.04.21に書かれている。新聞を詳しくは読まない性格だが、この連載だけは時間をかけて、2ページを仔細に読んだ。戦争を知っているようで知らないからである。

父方の祖父は日露戦争のラッパ手だったが、戦争の話は一切したがらなかった。ラッパを吹かされたが故に肋膜炎を患ったといい、孫たる私の弟が中学でブラスバンドに入りたいと言った時、父は許さなかった。

私の生まれは昭和11年1月。大東亜戦争(太平洋戦争とアメリカはいう)が始まった時は5歳。翌年やっと6歳になって国民(小)学校入学。昭20(1945)年8月の時は4年生だった。

したがって日華事変、大東亜戦争の経緯、政府・軍部内の対立などについて1度も系統立った教育は受けてないし、自らも部分的に「読書」をしたきりで、誠に恥じ入る次第である。読売の連載をきっかけに勉強しなおしている。

前後するが昭和53(1978)年、外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉の真っ只中に在った際、外務大臣園田直は条約締結に反対する自民党内右派から、嘗ての松岡洋右みたいだと厳しく非難された。だから松岡の事は多少、読んだ。

松岡 洋右(まつおか ようすけ、男性、1880年3月4日 - 1946年6月27日)は日本の外交官、政治家。山口県出身。岸信介の岳父、安倍晋三の曽祖父に当たる人物。

1880年に山口県熊毛郡(現在の光市)にて、由緒ある廻船問屋の4男として生まれる。幼少の頃より腕白で、また負けん気の強い性格だったという。洋右が11歳の時父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して一応の成功を収めていたことなどから1893年に留学のため渡米する。

オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで苦学の末、オレゴン大学(法科)に入学、1900年に卒業する。大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であったが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年、9年振りに帰国する。

1904年、外交官試験に合格し外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある。

1930年、満鉄を退職、2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では、幣原外務大臣の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判した。

1931年の満州事変をうけて、翌1932年、国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。

報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に満州国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。

このような中で、1932年10月、代議士の松岡は同総会に首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は同年12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。

それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず明らかになるだろう、との趣旨のものだった。

しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であった。

日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)、2月24日の総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決。

松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、閉会前に会場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、同3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。

1940年7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる荻窪会談で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したという。

20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐英大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。

更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳(大東亜戦争開戦時と敗戦時の外相)らは辞表提出を拒否して抵抗した。

彼の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、

日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられる。こうして松岡は日独伊3国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。

日独伊3国軍事同盟は1940年9月27日成立し、松岡外相はその翌年1941年3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、ヒトラー、ムッソリーニと首脳会談を行い大歓迎を受ける。

帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにスターリン首相自らが駅頭で見送るという場面もあった。この時が松岡洋右外交の絶頂期だった。

一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐米大使野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米了解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。

同案では、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊32国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、アメリカ側の満州国の事実上の承認、日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること、が盛り込まれていた。

なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「米国側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。

ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血注いで成立させた3国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められることを松岡の自尊心は許さなかった。

しかし1941年6月22日に開戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解していたのである。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」を米国に提案するなど、その外交手腕も混乱を極めた。

日米交渉開始に支障となると判断した近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。仕方なく、近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。

対米強硬論を唱えていたが、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「僕一生の不覚である」と無念の思いを周囲に漏らしたという。その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。

敗戦後、A級戦犯として逮捕されたが、結核悪化のため東京裁判公判法廷にはただ1度出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年6月27日、米軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。辞世の句は「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」。

米国で苦学した松岡は「道を歩いていてアメリカ人に衝突しそうになったら、絶対に道を譲ってはいけない。殴られたら殴り返さなければいけない。アメリカでは一度でも頭を下げたら、二度と頭を上げることはできない」を口癖にしていたという。

山田風太郎は自著「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。

要は今のインドネシア(当時はオランダ領)の石油を欲する日本陸軍は海軍の強力な反対を押し切ってドイツ、イタリアとの3国同盟体制に突入。米英を怒らせて、大東亜戦争となったわけである。

読売のいいところは,戦争を煽ったことを率直に認めて、国家総動員を図る近衛内閣にたいし「従来の半自由主義的な中途半端な考え方や方法では駄目だ」と発破をかけていたことを紹介していることだ。

戦争反対ばかりを主張するのが一貫しているような朝日新聞だが、3国同盟成立のときは読売より酷くて「いまぞ成れり“歴史の誓い” めぐる酒盃、万感の怒涛」と書いたと読売は書いている。

こうした流れに押されて歴史の場から去って行く米内の吐いた科白が時代政治屋の狂態踊りと言うわけだが、今の政治家は「風」に乗らなければ当選できないと、パフォーマンスに明け暮れているから、米内が生きていたらなんと言うだろうか。

<1940(昭和15)年米内を首相に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊3国同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと「昭和天皇独白録」の中で述べている。

盛岡出身の米内は当時の軍人としては珍しく、広い視野を持つ常識人だった。極端に口数が少なく、演説の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が1番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。

終生抜けなかった岩手弁を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌ったためもあるだろう。

ダンディーである上、長身で日本人離れした風貌でもあり女性によくもてた。特に花柳界では、山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の米内剛政は米内の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会っ
て困ったという。

二・二六事件の起こった1936(昭和11)年2月26日、米内は横須賀鎮守府司令長官だったが、新橋の待合に泊まっていた。事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい。その直後に横須賀線はストップしたというから危ないところだった。

趣味が長唄と日曜大工。長唄は遊女の哀れを歌った色っぽいものを好んだ。ロシア文学にも親しみ、19世紀の進歩的詩人・プーシキンを愛読した。

こんな米内を陸軍が気に入るはずがない。倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求。

米内がこれを拒否すると、畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。

しかしながら、戦後の東京裁判で証人として出廷した際には被告となった畑をかばって徹底してとぼけ通し、ウェッブ裁判長から「こんな愚鈍な首相は見たことがない」と罵られても平然としていた。

小磯・鈴木両内閣に海相として入閣した米内は、必死で戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、昭和20年5月末の重臣会議では阿南惟幾陸相と論争し、「1日も早く講和を結ぶべきだ」と言い切った。

あの時代に、戦争への流れをささやかでも抵抗した良識派軍人の居たことは特記されねばならない。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、幣原内閣の組閣時には健康不安から(血圧は最高250、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた)辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。(フリー百科事典「ウィキペディア」)