2012年07月01日

◆造反に「厳正対処」と野田首相

渡部 亮次郎


輿石が民主党の分裂に恐れおののいているのは、分裂すれば民主党は参議院で第1勢力から脱落する結果、己の「参議院議長」の夢が絶たれるからであることが暴露された。

その夢を絶たれないよう、小沢と2日も会談する予定らしいが、すでに小沢自身、知恵の無いことを暴露しているから会談を何度やっても問題は先に進まない。

それを見てとったかのように野田首相は30日、小沢ら造反者の処分に敢えて触れ2日には厳正処分の方針を明らかにすると表明した。これで輿石も道を断たれ、小沢は離党せざるを得なくなった。

<野田佳彦首相は30日昼、都内で開かれた読売国際経済懇話会で講演し、消費増税関連法案の衆院採決で造反した民主党議員の処分に関し、「党のルールにのっとって厳正に対処するのが基本的な方針だ。来週早々にも役員会を開き、私も出席するつもりだ。そこで方向性を出す」と述べ、7月2日の役員会で処分案を示す考えを表明した。

民主、自民、公明3党による修正合意を見直す可能性について、首相は「あり得ない。できるはずもない」と明確に否定。

民主党の輿石東幹事長が小沢一郎元代表との会談で見直しに言及したとの一部報道に関しては「(3党合意を)修正するかのような話は(輿石氏からは)全くしていない。処分の軽い、重いの取り引きもしていない」と説明した。

首相は、消費増税に反対する小沢氏らを念頭に「先送りをすればするほど将来世代に負担を残す」と強調。「(小沢グループの)『増税の前にやるべきことがある』との言葉は響きのいい言葉だが、そう言い続けて今まで来たのではないか」とも語った>。【時事通信】 2012/06/30-13:58〔情報収録 − 坂元 誠〕

しかし、離党、新党結成でも小沢に展望は無い。「連合」の支持を失った後を「無党派層」の支持に期待をかけているようだが、各種世論調査では小沢支持は10%台にすぎない。その政治力に国民は一致して疑問を持ち出している。それなのにそれに気づこうともしないその無神経さにあきれているのだ。

「消費税を上げる前になすべきことがある」と言うのが野田首相への反対理由だが、自身、鳩山政権の幹事長時代「政府の無駄を絞れば16・8兆円ぐらいすぐ出てくる」といいながら出せなかったではないか。
                        (文中敬称略)

2012年06月30日

◆輿石氏、憂鬱のワケ…「参院議長」の夢

渡部 亮次郎


粘り「過ぎる」輿石幹事長、と考えていたが、その理由は全く別のところつまりは「参議院議長」になるという、私利私欲にあった。それを6月30日の産経が暴いている。

これを小沢氏はしりながら、時間稼ぎの間、己の権勢を何とか広げようとずるい考えをしているわけだ。野田総理は二人に虚仮にされているわけだ。

<【民主分裂】輿石氏、憂鬱のワケ…「参院議長」見果てぬ夢 6人離脱で民主−公明ラインも「水の泡」

小沢一郎元代表との会談を終えた輿石東幹事長は記者団に、結論を週明けに持ち越したことを明かした「輿石さんから『月曜日まで待ってくれ』と言われたんだけど中身がないんだよな」

29日夕、民主党の輿石東幹事長と約40分間の会談を終えた小沢一郎元代表は、衆院議員会館の自らの事務所に戻ると側近議員にこう明かした。

3度目の会談でも輿石氏は「とにかく党を割りたくない」の一点張り。かといって小沢氏が求める消費税増税法案撤回はさすがにのめない。

ある党幹部は「もう歩み寄る余地はないな」とこぼした。確かにこれ以上小沢氏らを慰留しても野田佳彦首相に得はない。にもかかわらず輿石氏が恥も外聞も捨て小沢氏にすがりつく理由は別にある。

参院(定数242)は衆参ねじれにより野党が過半数を占めるが、最大会派はなお「民主党・新緑風会」(104議席)だ。ところが、19人以上が小沢氏に同調して離脱すれば、第2会派「自民党・たちあがれ日本」(86議席)を下回り、参院のパワーバランスは大きく崩れるからだ。

そうなると、議長は第1会派から選出するのが慣例であり、輿石氏の悲願である議長就任は一気に遠のく。来年夏の参院選で民主党が第1党に返り咲くことも期待できないだけに「輿石議長」は見果てぬ夢となる。

それだけでは済まない。

民主党と国民新党(3議席)に公明党(19議席)を合わせると126議席で過半数を上回る。実はこれが水面下で公明党に協力を呼びかけるテコになってきた。

衆院選挙制度改革で公明党は比例代表への連用制導入を熱望するが、自民党の反対で宙に浮いたまま。そこで輿石氏は民主、公明で成立させる密約を結び、協力を取り付ける青写真を描いていたのだ。

人事院を廃止し、公務員に労働協約締結権を付与する公務員制度改革関連法案の存在も大きい。民主党の集票マシンである連合は今国会での成立を厳命するが、自民党の協力は期待できない。これも国会終盤で民主−公明ラインで押し切る算段だった。

ところが、民主党から6人が離脱するだけでこの構想はご破算となる。そうなれば、公明党は、自民党と手を組み一気に倒閣に舵(かじ)を切る公算が大きい。

ある意味では、55人以上が離党しない限り、与党過半数を維持できる衆院よりも事態は深刻だといえる。

言うまでもなく「参院のドン」を気取っていた輿石氏の権威も地に落ちる。輿石氏が首相の意向を踏みにじっても「党内融和」を唱え続けた理由が透けてみえる。

もちろん小沢氏もそのへんの事情を熟知している。すでに参院民主党13人分の会派離脱届は手中に収めた。「ゴネればゴネるほど譲歩を引き出せる」。そう思ったからこそ輿石氏の会談要請に何度も応じているのだろう。

29日の会談前も小沢氏はご機嫌だった。側近が「地元の反応はいいです」と報告すると「そうか、よかったな!」と満面の笑みを浮かべ、日に日に憔(しょう)悴(すい)する輿石氏をこう気づかってみせた。 「輿石さんをあんまり責めるのも気の毒だからなあ…」

(坂井広志)「産経ニュース」 2012.6.30 00:02


2012年06月29日

◆ロマンに満ちた鰻の生態

渡部 亮次郎


ウナギは淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行い、淡水にさかのぼってくる「降河回遊(こうかかいゆう)」という生活形態をとる。

従来、ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

少年の頃、作家火野葦平がそれをテーマにした小説を毎日新聞に連載し、熱心に読みふけったものだった。しかし、今となっては題名すら思い出せない。ネットで捜したが分からなかった。

火野は53歳で急死したが、のちに服毒自殺と公表された。

鰻の話である。

2006年2月、東京大学海洋研究所の教授・塚本勝巳をはじめとする研究チームが、ニホンウナギの産卵場所がグアム島やマリアナ諸島の西側沖のマリアナ海嶺のスルガ海山付近であることを、ほぼ突き止めた。


これは孵化後2日目の仔魚を多数採集することに成功し、その遺伝子を調べニホンウナギであることが確認された。。冬に産卵するという従来の説は誤りとされ、現在は6-7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

2008年6月および8月には、水産庁と水産総合研究センターによる調査チームが、同じくマリアナ諸島沖の水深200-350 mの範囲で、成熟したニホンウナギおよびオオウナギの捕獲に世界で初めて成功した。

雄には成熟した精巣が、雌には産卵後と推定される収縮した卵巣が認められた。また、水深100-150 mの範囲で、孵化後2-3日経過したと思われる仔魚(プレレプトケファルス)26匹も採集された。

さらに、プレレプトケファルスが生息する層の水温が、摂氏26.5-28度であることを初めて確認した。この結果から、比較的浅いスルガ海山の山頂付近ではなく、もう少し深い中層を遊泳しながら産卵をしているという推定を得ることができた[。

この推定を基に、塚本らの研究チームが周辺海域をさらに調査したところ、2009年5月22日未明、マリアナ海嶺の南端近くの水深約160メートル、水温が摂氏約26度の海域で、直径約1.6 mmの受精卵とみられるものを発見。

遺伝子解析の結果、天然卵31個を確認した。天然卵の採集は世界初である。同時に、卵は水深約200 mで産まれ、約30時間かけてこの深さまで上がりながら孵化することも判明した。

さらに同チームでは、2011年6月29日学術研究船白鳳丸に搭載したプランクトンネットを用いて、産卵直後から2日程度経過した147個の受精卵の採取に成功した。

新月の2-4日程度前の日没から23時の間、水深150-180 mで産卵されたと推定される。卵から2-3日で孵化した仔魚はレプトケファルス(葉形幼生、Leptocephalu s)と呼ばれ、成魚とは異なり柳の葉のような形をしてい
る。

この体型はまだ遊泳力のない仔魚が、海流に乗って移動するための浮遊適応であると考えられている。レプトケファルスは成長して稚魚になる段階で変態を行い、扁平な体から円筒形の体へと形を変え「シラスウナギ」となる。

シラスウナギは体型こそ成魚に近くなっているが体はほぼ透明で、全長もまだ5 cmほどしかない。シラスウナギは黒潮に乗って生息域の東南アジア沿岸にたどり着き、川をさかのぼる。

流れの激しいところは川岸に上陸し、水際を這ってさかのぼる。川で小動物を捕食して成長し、5年から十数年ほどかけて成熟する。その後ウナギは川を下り、産卵場へと向かうが、その経路に関してはまだよく分かっていない。

海に注ぐ河口付近に棲息するものは、淡水・汽水・海水に常時適応できるため、自由に行き来して生活するが、琵琶湖や猪苗代湖等の大型湖沼では、産卵期に降海するまで棲息湖沼と周辺の河川の淡水域のみで生活することが多い。

また、近年の琵琶湖等、いくつかの湖沼では外洋へ注ぐ河川に堰が造られたり、大規模な河川改修によって外洋とを往来できなくなり、湖内のウナギが激減したため、稚魚の放流が行われている。(「ウィキペディア」)
                     

2012年06月26日

◆わが兄 81歳の死

渡部 亮次郎


我が兄、渡部誠一郎が2012年6月24日、入院先の秋田市中通病院で肺炎の為、12時05分に息を引き取った。81歳だった。自分では「夢枕に立った親父がお前は87まで生きるよといっていたよ」と言っていたのに6年も早く死んでしまった。痛恨の極みだ。

6月5日が81の誕生日だった。祝いの心算でかけた電話に出たのは嫂の玲子だった。「実は肝臓膿腫で入院しています」というので驚いた。5月27日からだという。

嫂の説明では肝臓に膿のたまる病気だそうで、針で吸いとる気長な治療を受けているということだった。しかし、昔の人流に言えば、夢見が悪いので気にしていたが、当日12時15分頃、弟からの携帯電話で12時05分誤嚥下による肺炎のため死亡したと知らせてきた。

昭和6年6月5日早朝、父慶太郎 母鈴江の第2子、長男として誕生した。どういうわけか学校の成績が抜群に良く、両親は渋ったが、県立秋田中学に合格した。

また陸上競技部に入り、長距離ランナーとして活躍。夕方、帰宅してからも走りこんでいた姿が瞼の裏に残っている。

学校はその後、学制改革により秋田高校となったが、卒業までの3年間通して学年首席で通した。しかし家が貧しく、兄弟も多かったので、東大医学部に行き医者になるという夢はあきらめるしかなかった。

仕方なく近くの五城目中学校で代用教員をつとめていたが、間もなく地元紙「秋田魁(魁)新報」の取材記者に採用されてジャーナリスト生活を始めた。

彼の高校卒業から4年後、間違って私も秋田高校に合格したが、そこで出合った五城目中学出身者は皆、兄の教え子で成績優秀だったので、なんとなく嬉しかった。

そういえば中学時代、私は中学で野球の選手になった。ある日、五城目中学と対戦したら兄があちらの監督だった。私はたしか三塁打を叩きつけたように思う。兄は後で「あの時は参ったぜ」といっていた。

兄はその後論説委員長、常務取締役を歴任。次は専務かとおもったが、先に交通事故に遭って左目を失明していたこともあって奨めをことわって退職してしまった。

趣味とてなく、退職後は退屈だったとおもうが、よく、入院はした。肝内結石で手術2度。結石は胆嚢が融けてなくなったため行き場を喪った胆石が肝臓に入り込んだものだった。

1か月入院して石は除去したが、退院前の念入りの撮影をしたところ、肝臓の中にもう1個石が有るとわかって再手術。私なら医者をなぐるところ。短気な兄はよく我慢した。

このときの手術で胃癌が発見されて全部摘出、更に頭蓋骨を2度開けている。くも膜下出血予防の為だったが、初めの手術が失敗したためのやり直し手術をした。

私よりさきに糖尿病を発症。今年にはいってから「低血糖」で緊急入院したようだ。

それが良くなって退院したと思ったらこんどは肝臓が痛くなって再入院しらべたら肝のう胞だった。

私はじめ多すぎるほどの兄弟姉妹に足を引っ張られたために出世できなかった兄。良く頑張った。ありがとう。静かに眠って下さい。

2012年06月25日

◆巴里だより ジョギングする人が増えた

岩本宏紀(在仏)


今日は出張で巴里に来ている。
メトロに乗るためにチュイルリー公園のそばに来ると、
少なくとも5,6人のジョギングする男女。

初めて巴里に来たのは1980年、今から32年前。
その頃はまだジョギングという言葉も知らなかった。
もちろん巴里で走っている人は一人も見なかった。

初めて住んだのは1992年。西郊外サン・クルー。
大きな公園やセーヌ、さらにブローニュの森から遠くない町だが、
ジョギングする人はまれだった。
フランス人に言わせると、走るのはアメリカ人で、フランス人は走らないよ、とのこと。

ここ数年走る人が本当に増えた。
それに連れてシューズ、ウェアの店が多くなったのに驚く。

写真は1年前のゆめ。
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2012年06月24日

◆海千山千を知らないと

渡部 亮次郎


外務大臣の秘書官だったとき、英語の通訳が「うみせん やません」の意味を知らなくて往生したことがある。この通訳はいわゆるキャリアでなった外交官だったが、「手練手管 てれんてくだ」も知らなかった。

こういう官僚が局長、官房長、大使になるのが日本外務省である。

なるほど灘高や東大はこんな言葉を知らない方が良いかもしれないが、外交の現場では困る。アメリカの外交官は何回も会っているうちに「うみせん やません」「てれん てくだ」を日本語で覚えてしまった。

「海千山千」とは蛇が山に千年、海に千年住むと龍になるというもの。そこから『広辞苑』の説明は「世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪な人」「――海千山千の事業家」と説明している。

通り一遍の説明をしないで有名な金田一京助まで遡る三省堂の国語辞典『新明解』は「あらゆる経験を積み、社会の表裏に通じていて悪賢い人」となっている。

また「手練手管」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。だが政界の寝業師から外務大臣になった園田直氏は褒め言葉と思っていたらしく、言われて怒らなかった。

蛇が千年山で住むと海に降りて蛸になるという話は各地にあり、実際にヘビがタコに変身するところを見た、という目撃談も数多くあるらしい。

この蛇が変身した蛸は足が8本ではなく7本しか無いと言われており、そのため、タコを捕まえて足が7本しかなかった場合、海に帰すという習慣が、かなりの地域に分布しているとか。

海千山千と似たものとしては「古狐」「古狸」の言葉もある。妖怪の類と見られることも多いが、年を経た狐はお稲荷様のお使いになるという説もあり、狐には蛇と同様の神聖な面も見られていたのでしょう。

英語にもold fox という言葉があるが、いい意味はあまりない。古狸については古狐以上に良くないイメージがあるが、日本では年を経た狸が、病気で動けない和尚に代ってお寺の勧進をして回ったという話もあり、狸の持つ親しみやすいイメージから、そういう方向も出てきたのかも知れない

http://www.ffortune.net/symbol/12si/s06/mi02.htm

日本の政界では川島正次郎、大野伴睦、三木武吉といったような人たちはみな「海千山千」で「手練手管」に優れ「歴戦の勇士」といわれ、喜んでいた。

彼らから一時代遅れた田中角栄、保利茂、鈴木善幸、園田直といった人たちは、後から同じように言われて嬉しかったのだろう。実に官僚派に対抗して地位を固めるには海千山千と手練手管で行くしかなかっただろう。それが多少、ずるくても、軽蔑されても官僚を使いこなした。角栄は甘やかしたが。

今の政界には2世、3世は腐るほどいても、官僚を使いこなせる海千山千は与野党のどこにもいない。舐められっぱなしだ。文中敬称略 

2012年06月22日

◆大丈夫なのか鮪(まぐろ)

渡部 亮次郎


私が鮪(まぐろ)を寿司や刺身で食べられるようになったのは、実は60歳近くになってからである。それまでは中国人のように「淡水魚には肝臓ジストマがいて毒だ」といわれて食べないでいるうちに、すべての魚をナマでは食べられなくなっていたのである。淡水魚の秋田県八郎潟沿岸で生まれ育ったからである。

長じて政治家に新橋、赤坂などで日本料理をご馳走になっても、刺身は残して芸者に不思議がられて恥ずかしかった。

それが或る時、60近くになった時、友人に都内の飲み屋に引っ張られて入ったところ、料理は刺身は刺身しか無いといわれて鮪の赤身をたべてみたら抜群に美味かった。以後、刺身好きになり、誘われれば寿司屋にも喜んでゆくようになっている。

余談だが、毛沢東は生魚は食べなかったが、なぜか晩年は好んで生魚をたべたという。悪妻江青の策謀に乗せられたのではないか、肝臓ジストマにかかる前に死んだからばれなかったという説もあるが、江青も死んだ今となっては永遠の謎だ。

ところが今の中国人は日本人の長命の理由は生魚にあると見たのか、盛んに鮪を生でたべるようになって。われわれ日本人の胃袋を脅かすようになった。

以下「ウィキペディア」を引用する。

中国都市部で日本食ブームが起きている。それもマグロ需要が急増し、日本の漁獲減少の隙を突いて、中国漁船による活動が拡大し、競争が激化している。

また、乱獲防止と資源保護のため漁獲量が2割減が決まりさらに高騰するといわれる。そのために近年では世界中でマグロの代替品が増えている。

過去、米国およびオセアニアでは、脂身であるトロは商品的価値・需要が低かったので、日本の商社はトロを安価で購入することが出来た。ところが、近年の日本食・「sushi」ブームの影響で欧米でもトロに対する需要が起こり、かつてのような値段では購入出来ない状況にある。

また、1990年代後半には台湾で、2000年代に入ってからは中国で、日本食を中心とした海産物の人気が高まり、中国向けの漁獲が急増しているため、競争はますます熾烈になっている。

前述のように相対的な個体数が少ない上に需要増加・価格高騰が拍車をかける形で世界中でマグロが乱獲され、国際的な資源保護が叫ばれている。絶滅が危惧される生物を記載したIUCNレッドリストには、マグロ8種のうち5種が記載されている。

過激な保護運動を行う環境団体には、クジラ並みにマグロ漁禁止を求める強硬派もいる。こういった国際的な動きに対して、日本は2001年から02年にかけて、水産業界を中心に不利な規制が多数決で押し通される恐れがあると「中西部太平洋マグロ類条約」の準備会合をボイコットした。

だが、結局2004年に日本抜きで発効され、翌年に日本が加盟することになった。食糧農業機関(FAO)水産局長の林司宣(早大教授)は日本は世界中の海でマグロを取りまくっていながら、規制強化には後ろ向きだ、という悪いイメージを与えたとしている。

その後、2010年3月、ドーハでのワシントン条約締結国会議において21世紀初頭の個体数が1970年代と比較して90%減少したタイセイヨウクロマグロの附属書Iへの掲載の是非について審議が行われたが、18日の採決では大差で否決された。

マグロ価格高騰と天然物の漁獲量低下の追い風もあり、蓄養による養殖の出荷量は増加している。低コスト化・安全性向上の他、トロの割合を多くし価値を高める研究も行われている。

クロマグロの蓄養は、幼魚が黒潮に乗って回遊してくる西日本各地で行われている。蓄養マグロの出荷量は、1位の鹿児島県が2位の長崎県以下を大きく引き離している。完全養殖による生産は始まったばかりであり、現在流通している養殖のマグロはほぼ蓄養によるものである。

これに対し稚魚の乱獲になるという批判もある。

2002年に近畿大学水産研究所が30年余かけて、商業化に向けて研究を続け世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功、2004年には市場へと出荷が開始された(近大マグロ)。

近畿大学は和歌山県串本町の大島実験場と奄美大島の奄美実験場を拠点に技術開発を進め、稚魚の生産が増えたことと稚魚の輸送技術が確立された事などから、2007年12月から自身の完全養殖稚魚(人工孵化の第三世代)を他の蓄養業者に出荷する事業を開始。

2009年には約4万匹の稚魚を育成、内約3万匹を養殖業者へ出荷している(4万は日本の海で漁獲されている幼魚の10分の1の量)。今後は、2010年現在3から5パーセントの稚魚の生存率を10から20パーセント程度に向上させるのが目標となっている。

また、マルハニチロは2015年に約1万匹出荷を目指して完全養殖に取り組んでいる。東京海洋大学では、移植によってサバにマグロの精子を作らせることより、マグロを量産する方法の研究を進めている。

日本人は古くからマグロを食用とし、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土している。古事記や万葉集にもシビの名で記述されているが、江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」ではこれを「シビと呼ぷ声の死日と聞えて不吉なり」とするなど、その扱いはいいものとはいえず、腐敗しやすいことも相まってむしろ下魚とするのが普通であった。「大魚(お
ふを)よし」は、「鮪」の枕詞。

江戸時代の豊漁の際、腐敗を遅らせるためにマグロの身を醤油づけにした「ヅケ」が握り寿司のネタとして使われ出したのが普及のはしりとい
う説がある。

近代以降も戦前までは大衆魚で、主として赤身の部分が生食されていた。北大路魯山人は「マグロそのものが下手物であって、一流の食通を満足させるものではない」と評していた。

脂身の部分である「トロ」は特に腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも揶揄されるほどの不人気で、もっぱら加工用だったが、冷凍保存技術の進歩と生活の洋風化に伴う味覚の濃厚化で、1960年代以降は生食用に珍重される部位となった。

なお、マグロの品質が低下しない冷凍温度帯は-30℃以下であり、実際の流通上では-50℃の超低温冷蔵庫に保管する。なお、一度解凍したマグロを再凍結すると組織が破壊され、非常に質が劣化する。

1995年の統計では、世界のマグロ漁獲量191万tに対し、日本の消費量は71万t。そのうち60万tを刺身・寿司等の生食で消費している。加工品では「ツナ」もしくは「シーチキン」(商標名)と呼ばれるサラダオイル漬けの缶詰が多い。

日本の各県庁所在地での家計調査によると、一世帯当たりのマグロの購入量は年々減少している。消費率はマグロ水揚げ日本一の静岡県および隣接する山梨県、関東地方が上位を占める。

一方で西日本の数値は軒並み低く、食文化の相違がみられる。 2012年1月6日、築地市場で青森県大間産のクロマグロ(269キロ)が5649千万円の史上最高値で落札された 。

近年の史上最高値更新は、2001年に青森県大間産2020万円(202キロ)、2011年に北海道戸井産に3249万円(342キロ)となっていた。

2012年06月19日

◆戦争を知る人知らぬ人

渡部 亮次郎


取材陣が来て「今の政治家と昔の政治家はどこが違うか」と聞かれた。一瞬考えて「戦争を知ると知らぬ、の違いでしょう」と答えた。

消費税率の引き上げに野田総理は命を賭けるというが、命がけとはどういうことか知っての発言だろうか。命をかけているとは思えない。

命がけとは文字通り命を賭けることであり、失敗すれば死ぬことを約束することである。政治家を辞めることとは違うのである。野田は余りにも簡単に「命」を使う。

私が見た昭和時代の政治家は戦争体験を持っていた。しかし平成の政治家は幸福にも戦争を知らない。知っているのは平和だけである。

戦争を知る最後の総理大臣は宇野宗佑だった。彼はシベリヤ抑留も体験し、戦場には慰安婦はいたが、あれは国家が運営するものではなかったと体験を交えながら語っていた。

それ以後の総理大臣は戦争体験は無い。

陸軍航空隊の隊員で、特攻隊生き残りだった故園田直によると、戦争を体験するとは命を敵に晒すこと。だから「俺は大砲の弾が炸裂したら、その穴の中に飛び込んで助かった」と良く言っていた。「どんな名手だって砲弾を同じところには続けて着弾させる事は不可能だもの」とさらりと言ってのけた。

隊長として士官学校出の若者が戦場へ着任する。学校で鉄砲の撃ち方は習ってきたが、撃たれるのは生まれて初めて。(あの砲音は)
「敵か、味方のか」と五月蝿い。

弱気だと見破られないか、とやたら危険に身を晒したがる。「其処じゃ危険であります」と言っても下がらない。園田が「其処では敵情が見えません、こちらへどうぞ」と岩陰に案内するとほっと溜息をついていた。インテリの弱さか。

昭和50年ごろまで、国会議員の大半はこうした戦場体験をもっていて「命」とは何かを知っていた。

そうした議員は決して利己主義者ではなかった。戦争の苦難のなかで利害得失を仲間と分かつべきことを哲学としていた。小沢佐重喜は安保改訂に身を投げたが、息子の一郎はカネを懐にするのに忙しいのはこの差を物語るものではないか。

昨今の政治家は徹底的な利己主義に陥っている。小選挙区制になった所為もあって、「競争相手より立派に見える」工夫はするが、それ以外の事は絶対しない。

もっと言えば選挙民の幸福などは考えたこともない。選挙民の幸福を「考えているように振舞う」ことを知っているだけだ。鳩山や菅はその典型だと思う。

だから政治評論は憂鬱な作業だ。(敬称略)。2012・6・18

2012年06月18日

◆特ダネにタイミングは無い

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に対する読者からの「反響」である。

<タイミングが良過ぎるのでは:

週刊文春6月21日号の見出しです。その内容までをここで云々する必要はないでしょう(小沢一郎夫人が選挙区有力者たちに「離婚しました」という手紙を昨年11月に出していた。

私が感心したのは、この記事が登場したタイミングの良さというか何というか、6月14日だったことです。17日朝のTBSで野中広務は「党に復帰したばかりなのだから、あのような行動は党を離れてせよ」と厳しい口調で非難していました。

そういう時期に、既に終わったという説もある小澤一郎という存在に、その終わりの念を押すような記事が出てきたのには感心しております。あの記事には消費税増税の後押しをする勢力が関係しているのでしょうか。そう思わせてくれる「公人の私的な弱みを衝いた」ニュースだったと思わずにはいられませんでした。>

私は若い頃、マスコミの世界にいた(文芸春秋社にも縁があった)ので、この投書には驚いた。この読者は大学を出てアメリカの会社でビジネスマンも経験した、いわば常識豊かな後期高齢者である。

という事は、この投書は案外、私の読者の「常識」になっているかの知れないのだ。マスコミというものを知らない人がマスコミの読者だとすれば、却ってマスコミも注意してかからなければならないのだ。

マスコミは握った特ダネは可及的迅速かに手放さなければならないという鉄則がある。何時あい方にすっぱ抜かれないとも限らないからだ。従って、特ダネをにぎったら、寝かしておく事は不可能なのだ。

今回、週刊文春は小沢夫人が離婚の事実を地元の後援会幹部らに手紙で知らせたらしいという噂は早い段階でつかんでいたようだ。だが、夫人自身が雑誌のインタビューを受けない以上、ネタとして掲載するには、手紙の実物を入手することが、不可欠だった。しかし、筆者が誌上で明らかにしているように、手紙の実物を提供する人物はなかなか現れなかった。

実物を入手できた以上は、可及的速やかに報じた、それが消費増税問題を巡って小沢本人が格別注目されている時期とタイミングが合ったのが真実ではないか。タイミングが合いすぎたので、雑誌側がタイミングを合わせたのではないかと疑う向きが出てきた、仕方の無いことだろう。

重ねていうが、特ダネにタイミングは無い。タイミングを狙って取れるものではない。掴んだらすぐ報道(放す)しないことには、何時、敵(ライバル)にすっぱ抜かれないとも限らないからである。

マスコミと他の業種との違いはこの点にあるかも知れない。2012・6・17

2012年06月17日

◆中国は気骨者を尊敬

渡部 亮次郎


産経新聞の特別記者待遇でワシントンに駐在する古森義久氏は、以前は北京で中国総局長を務めていた。その古森さんが自らのブログで6月15日、「首相靖国参拝は日中関係に影響ない」とは小泉純一郎氏の金言です」と次のように書いた。

<もう9か月前の発言ですが、いまになってその意味が輝いてきます。首相が靖国神社に参拝すると、中国が態度を硬化させ、日中関係が悪くなる。これはお経の文句のように繰り返された言葉ですね。  

でも首相の靖国参拝がなくても、中国の態度は硬化しています。日中関係は険悪になっています。  今一度、吟味したい小泉語録です。>

<「靖国参拝せずとも尖閣摩擦」 小泉氏 産経新聞 東京朝刊 総合・内政面 2011年09月19日

小泉純一郎元首相は18日、川崎市内で講演し、日中関係について、「『靖国神社に参拝しなければ中国とうまくいく』なんていうのは関係ない。参拝しようがしまいがいまだに沖縄・尖閣諸島で摩擦が起こっている」と述べ、民主党政権の対応を批判した。

野田佳彦首相は首相在任中、閣僚を含め内閣として靖国神社に公式参拝しない方針を表明している。

小泉氏は講演で、首相在任中の平成16年11月、チリで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)で、日中首脳会談の設定をめぐり、強硬姿勢に出ても会談が実現したエピソードを紹介した。

胡錦濤国家主席との2国間会談をめぐり、中国側から「来年、靖国神社を参拝しないなら受ける」と打診されたのに対し、外務省を通じ「必ず参拝します。それで会談を拒否するならかまわない」と返答したという。これに対して中国は最終的に、小泉氏が参拝を明言しないことを条件に、会談を受け入れたという。>

私が大臣秘書官として仕えた故・園田直(そのだ すなお)さんは福田赳夫内閣で官房長官のあと外務大臣、続く大平内閣でも外務大臣、鈴木善幸内閣で厚生大臣と外務大臣を務めた。それらの秘書官を務めたのが私だった。

特に福田内閣の外務大臣としては田中角栄、三木武夫両政権で達成できなかった日中平和友好条約の締結交渉に尽力し、遂に1978年8月12日、北京で締結調印した。

園田氏は元々将校として野戦に11年間在任し、特に中国工作の長かった人であった。工作員として活動中、敵に拘束されそうになった時、路上に落ちていた牛の糞を口にいれ、狂人を装って難を逃れたことがあったと言っていた。

その園田氏が口癖のように語っていたのが「中国人は自分たちの言いなりになる相手を馬鹿にする。理不尽な要求にガンとして反撃し、抵抗する気骨ある人間を尊敬する」だった。「だから政治家が儲け噺を持ち出したりしたら徹底的に軽蔑される」とも話していた。

小泉氏が明らかにした総理大臣在任中のエピソードは当に園田さんの口癖を裏付けるような話。

嘗てNHK記者として日中国交正常化交渉に田中角栄首相に同行した際、笑えわれの目の触れないところで行なわれた毛沢東の「引見」で、後で聞けば毛沢東が田中首相に放った第一声は「喧嘩は済みましたか」であった。交渉は「喧嘩」のような激しさでやってこそ、そのあとで「友好親善」が生まれることを毛沢東がいみじくも言い当てているようなものだ。

これらを考えると、中国に対してもみ手ばかり、ゴマばかり摺ってよしとしている今の駐中国日本大使の丹羽氏は陰で徹底的に馬鹿にされているだろう事はあきらかである。そんな人間を大使に起用した首相は頭がおかしい。東大を出ただけの鳩山である。2012/・6・16

2012年06月15日

◆小沢一郎夫人が支援者に「離婚しました」

渡部 亮次郎


「週刊文春」編集部が14日、雑誌発売と同時に掲げたWebの記事を以下のけいさいするが、一言で言えば、これで小沢は人間としての価値が疑われる結果「オシマイ」という感じがする。

同時に私は政略結婚の恐ろしさを感じる。これだけ人間性を喪失した人間と3人もの子をなさなけれればならなかった現実。わたしはそこに「地獄」を感じる。

<「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃

民主党の小沢一郎元代表(70)の和子夫人(67)が、昨年11月に地元・岩手県の複数の支援者に、「離婚しました」という内容を綴った手紙を送っていたことがわかった。

便箋11枚にも及ぶ長い手紙の中で、和子夫人は、昨年3月の東日本大震災後の小沢元代表の言動について触れ、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。

岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と書いている。

手紙では、小沢元代表の愛人や隠し子の存在についても触れている。8年前に隠し子の存在がわかったとき、小沢元代表は和子夫人に謝るどころか、「いつでも離婚してやる」と言い放ち、和子夫人は一時は自殺まで考えたとも記している。

そして、このように綴っている。

「それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水を差すようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。

ところが3月11日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました」

「国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです」

こうした大震災後の小沢元代表の言動がきっかけとなり、和子夫人は昨年7月に家を出て別居を始めたという。その後も現在まで別居は続いているが、小沢事務所は「離婚の事実はない」としている。

和子夫人はこうも綴っている。

「かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています」

現在、消費税増税法案の採決をめぐって、小沢元代表は造反をちらつかせて野田政権を揺さぶっているが、和子夫人の手紙はそうした政治情勢にも大きな影響を与えそうだ。

(2012年6月21日号)2012.06.13 18:03
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1442


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2012年06月13日

◆カツ丼で勝てるか

渡部 亮次郎


受験生や試合に臨むスポーツ選手の「勝つ」という験担ぎのために、前日や当日にカツ丼が食べられる事がある。ただし、カツは消化に時間を要するため、食べるタイミングによっては、逆効果となる事がある。

同様に公営競技関係の施設では、ギャンブルで「勝つ」という験担ぎと洒落を込めて、場内の食堂などでカツ丼を「勝丼」と称す事もある。

福田赳夫さん(第67代総理大臣)は、旧制高校の受験に来て上野駅前の旅館で食べた刺身が一番美味しかったと答えたが、田中角栄さん(第64・5代総理大臣)も初上京して着いたところはやはり上野駅だったが、美味しかったのは「天丼」だったと答えてくれた。

角さんには彼の幹事長時代、銀座ですき焼きをご馳走になったことがあるが、砂糖抜きで塩辛くて参った。

私は総理大臣経験者では無いが、初めて上京して美味しかったのは天丼や刺身ではなく「カツ丼」だった。ところが、選挙取材で訪れた岡山市では、カツ丼にかかっていたのはデミグラス・ソースだったので、ちょっと、戸惑った。

岡山市の名物料理。デミカツ丼とも。ドミグラスソースをカツの上にかける。キャベツを敷き、グリーンピースを載せるのが特徴。生卵をのせて出す店もある。ソースのベースはフォン・ド・ヴォーや中華スープ、煮干しの出汁など様々である。

東京都でも確認された事例があり、こちらは池袋の洋食店が発端となり弟子筋が広めたとのことである。なお、東京での事例は、丼飯の上に揚げたてのトンカツを置き、その上からドミグラスソースをかけるという様式であった。

大阪市ではドミカツ丼とは呼ばないが、ビーフカツ丼がドミグラスソース味である場合がある。

卵とじカツ丼は、現在、日本で最も一般的なカツ丼である。一部地域を除いて単に「カツ丼」と呼んだ場合は、この卵とじカツ丼を指す。

卵とじカツ丼の具は、玉ねぎとトンカツを割り下(出汁と砂糖と醤油で作る日本料理の基本的な調味料)で煮て、溶き卵でとじたものである。

上にミツバやグリーンピースなどを散らしたり、それらを具とともに軽く煮る場合もある。1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説や新宿区馬場下町の蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説がある。玉子丼や親子丼と似た料理法。地域によりカツと卵の上下が逆転する。

通常、単にカツ丼と呼んだ場合には、豚カツが用いられるが、その他ビーフカツ・チキンカツ・メンチカツ・ハムカツ・エビフライ・カキフライ・魚のフライなどで同種の料理を作る場合もあり、2種類以上のカツを組み合わせる場合もある。トンカツ以外のカツを用いる場合にはそれを呼称する場合もある。

卵とじカツ丼の具を丼飯にトッピングせず、別に盛って出す様式もあり、「カツ皿」(カツさら)や「カツ煮」(カツに)、「別れ」、「アタマ」等と称される。(大阪では、カツを煮ず、丼飯の上にカツを乗せ、その上から溶き玉子で閉じる様式もある)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年06月08日

◆鰹なら生で食べられた

渡部 亮次郎


恥ずかしながら刺身を老人になるまで食べられなかったが、鰹(かつお)だけは食べられた。秋田県に有った旧八郎潟沿岸で生まれ育ったため、(淡水魚)の生食は堅く禁じられて育ったのである。それでも、鰹だけは生臭く感じられなかったので大人になってから食べられたのだ、と思う。

老人になった今は初鰹より戻り鰹が好きだ。老人のくせして脂ののったのが好きなのである。

鰹は全世界の熱帯・温帯海域に広く分布する。日本では太平洋側に多く、私の生まれ育った日本海側には殆どいない。だから冷蔵庫なんて物の無かった幼少の頃はお目にもかかってない。

摂氏19 - 23度程度の暖かい海を好み、南洋では一年中見られるが、日本近海では黒潮に沿って春に北上・秋に南下という季節的な回遊を行う。食性は肉食性で、魚、甲殻類、頭足類など小動物を幅広く捕食する。

大型のものは全長1 m・体重18 kgに達するが、漁獲が多いのは全長50 cm程である。体は紡錘形で尾鰭以外の各鰭は小さい。鱗は目の後方から胸鰭・側線周辺だけにある。背側は濃い藍色で、腹側は無地の銀白色だが、興奮すると腹側に4―10条の横縞が浮き出る。また、死ぬとこの横縞が消え、縦縞が現れる。

また、流木やヒゲクジラ(主にニタリクジラ、カツオクジラ)、ジンベエザメの周辺に群がる習性もある。これはカジキから身を護るためといわれているが、反面カツオが集めた鰯を鯨が食べたりもするため、水産庁の加藤秀弘に共生ではないかと指摘されている。

これらの群れは「鯨付き」、「鮫付き」と呼ばれ、「鳥付き」とともに、漁業の際のカツオを見つける目安にもなっている。

カツオは日本の水産業の中では重要な位置を占める魚種の一つである。

日本の太平洋沿岸に生息するカツオは、夏に黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上し、秋に親潮の勢力が強くなると南下する。夏の到来を告げるその年初めてのカツオの水揚げを「初鰹(はつがつお)」と呼び、珍重される。

とはいえ、3月初旬のころのものは、型が揃わず、脂ものっていないため安価である。脂がのりだすと高値になっていく。 初鰹は港によって時期がずれるが、食品業界では漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期をもって毎年の「初鰹」としており、消費者にも浸透している。

南下するカツオは「もどり鰹」と呼ばれ、低い海水温の影響で脂がのっており、北上時とは異なる食味となる。もどり鰹の時期も港によってずれがあるが、一般的には秋の味として受け入れられている。

北上から南下に転じる宮城県・金華山沖では、「初鰹」といっても脂がのっているため、西日本ほどの季節による食味の違いがない。また、南下は海水温に依存しており、陸上の気温との違いがあるため、秋になった頃には既にカツオはいない。

日本では古くから食用にされており、大和朝廷は鰹の干物(堅魚)など加工品の献納を課していた記録がある。カツオの語源は身が堅いという意で堅魚(かたうお)に由来するとされている。

「鰹」の字も身が堅い魚の意であるが、中国ではこの字はウナギを指す。

鰹節(干鰹)は神饌の一つであり、また、社殿の屋根にある鰹木の名称は、鰹節に似ていることによると一般に云われている。戦国時代には武士の縁起かつぎとして、鰹節を「勝男武士」と漢字をあてることがあった。

織田信長などは産地より遠く離れた清洲城や岐阜城に生の鰹を取り寄せて家臣に振る舞ったという記録がある。

鎌倉時代に執筆された『徒然草』において、吉田兼好は鎌倉に住む老人が「わたしたちの若かった時代では身分の高い人の前に出るものではなく、頭は下層階級の者も食べずに捨てるような物だった」と語った事を紹介している。

鹿児島県枕崎市や沖縄県本部町などでは、端午の節句になるとこいのぼりならぬ「カツオのぼり」が上る。

江戸時代には人々は初鰹を特に珍重し、「目には青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」という山口素堂の俳句は有名である。この時期は現代では5月から6月にあたる。

殊に江戸においては「粋」の観念によって初鰹志向が過熱し、非常に高値となった時期があった。「女房子供を質に入れてでも食え」と言われたぐらいである。

1812年に歌舞伎役者・中村歌右衛門が一本三両で購入した記録がある。庶民には初鰹は高嶺の花だったようで、「目には青葉…」の返歌となる川柳に「目と耳はただだが口は銭がいり」といったものがある。

このように初鰹を題材とした俳句や川柳が数多く作られている。但し、水揚げが多くなる夏と秋が旬(つまり安価かつ美味)であり、産地ではその時期のものが好まれていた。

9月から10月にかけての戻りカツオは脂が多い。質の良い物はマグロのトロにも負けない脂のうまさがある。

結晶インスリンの生成方法が発見されるまでの間は、カツオのランゲルハンス島から、糖尿病の治療に用いるインスリンが精製されていた時期もある。

しかし、魚類のインスリンのヒトに対する効果は若干低く、魚からランゲルハンス島を集める作業に手間がかかることもあり、他の方法へと置き換えられた。
(「ウィキペディア」)                  2012・6・6