2013年06月14日

◆閣騒擾はアメリカの責任

渡部 亮次郎


尖閣諸島返還問題に関して1971年当時の繊維交渉が関わっていたとされる。尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に日本へ返還されたが、尖閣諸島の日本への返還に対しては台湾政府からの反発も大きく、米国政府内でも否定的な意見が多かったとされる。

その意見の中には、「繊維交渉で日本に譲歩を促す際の交渉材料にするためにも、直ちに日本に返還すべきでない」というものもあったことが米国政府の外交文書ふら明らかになっている。(ウイキイペデイア)

このことについて10日発売の月刊誌「文芸春秋」7月号は<スクープ ホワイトハウス極秘テープ発掘>「尖閣領有 アメリカは日本を裏切った」とする早稲田大学大学院客員教授 春名幹男さん執筆の記事を掲載した。たしか元共同通信ワシントン支局長だった方である。

春名氏は冒頭、次のように指摘している。
「尖閣諸島の領有権をめぐる日中の対立、緊張は長期化し,一蝕即発の危機も想定される事態が続いている。・・・中国が公船を派遣して挑発し続けているのはなぜか。

その一因はアメリカ政府の態度にある。尖閣諸島が日本の施政権下にあることを認める一方で、同時に領有権争いが存在することも認め「当事者間で解決すべき問題」との立場をとっているからだ。当に中国は、米国が領有権争いの存在を認定しているからこそ、挑発を続け,尖閣諸島を奪い取ろうとしちるのだ」。

春名教授は過去5年以上に亘って米国立公文書館などで、機密解除された米外交文書、「キッシンジャー電話会話記録」など大量の文書を読み解いた結果,これまで知らされていなかった真相を突き止めた。アメリカの”あいまい戦略“の根本は、沖縄返還の裏で展開された米国と台湾との交渉にあったのである、としている。

当時、「米中接近」で権謀術数をめぐらしていたニクソン=キッシンジャー外交は日本との沖縄返還協定の調印直前、台湾側の要求を容れ手「沖縄諸島の施政権を日本に返還しても中華民国(台湾)の領有権の主張を侵すことはない」との政策をまとめていたのである。しかし、日本側にはきちんと説明されないまま、現在に至っているのだそうだ。

当時、アメリカは沖縄返還問題と並んで「繊維交渉」をかかえていた。われわれは日米間だけの問題だったと思ってしまうが、アメリカは実は台湾とのあいだでも懸案になっていたのである。この問題はニクソン再選への高いハードルになっていた。

こうした中で台湾はアメリカが沖縄を日本に返還しても尖閣列島を返還から除外するなら「繊維交渉を受諾する、との挙に出た。沖縄返還協定調印の直前だった。

これにはホワイトハウス内部でももめたが、結局、尖閣の帰属は日本、台湾の交渉に任せるという形で沖縄返還問題は進んでいったが、台湾と日本の話し合いは進行しないままで終わった。アメリカは世界を驚愕させた「ニクソン訪中」を発表した1971年7月15日の6日後、尖閣諸島の主権問題で日本に対して台湾と話し合うよう「説得」工作を突然、中止した。

だから春名教授は言う。「そもそもアメリカは尖閣諸島の主権返還において「当事国」であったはずだ。それが、日本側に十分な協議も説明もなく、台湾との妥協を強引に進め、最後には台湾との交渉を日本に押し付けたことになる。その“無責任”な対応がいま深刻なつけとして、東アジアに暗い影をおとしているのだ。

このころ政治記者としてNHKにいた私は思い出す。「繊維交渉が解決しなければ佐藤栄作首相の悲願たる沖縄返還は絶対実現しない」。佐藤はニクソンに会うたび「善処」しますと約束しながら頼みの通産大臣大平正芳も宮沢喜一も解決、

しまいにヤケをこしたように嫌がる田中角栄に通産大臣を振ったところ、角栄はあっという間に片付けた。大平や宮沢はことを外交問題と考えて,かえって問題をこじらせたが、田中は国内問題と理解。補助金2000億円でぴしゃり。

直後。佐藤は福田赳夫外務大臣と田中通産大臣を従えてニクソンに会い、自分の後継者として福田を紹介するつもりだったが、ニクソンは会ったら角栄ばかりを歓迎。そのまま田中政権の誕生につながった。佐藤は「糸(繊維)で縄(沖縄)を買ったと揶揄されながらノーベル平和賞を受賞。角福はともに晩年は不遇だった。 2013・6・13

2013年06月12日

◆トウ小平3度の失脚と復活

渡部 亮次郎


私は中国については国交回復のとき記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ(?)小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を読み返しながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスに渡る。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う?小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

!)小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていた?小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにしていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官から外務大臣に追われて就任。

そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えたことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、特に外交については素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾの広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのためには日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家であることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながらジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をやや究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしているが、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 参考:ウィキペディア他




2013年06月10日

◆金持ちはケチ(吝嗇)

渡部 亮次郎


「金持ちが金にこだわらないと考えるのは貧乏人の考えることだ」と諭(さと)したのは故田中角栄である。その大した遺産を相続した金持ちが真紀子なのだから、真紀子はケチで当然である、と角栄は教えているようなものだ。

昔から世間は人間は得意技で失敗すると教えてきた。得意技にその人間は慢心するから、つい油断と隙ができるのである。貧乏から出発して巨万の富を築いた角栄も得意技のカネ造りを立花隆に暴かれて、首相の椅子を投げ出した。それから云ったのが貧乏人の考え云々の科白である。

「なぜなら金持ちはカネを放さない、ケチだから金持ちになるんだ。金持ちはカネが好きだ。いくらあっても足りない。だから金持ちほどカネにこだわり、カネを欲しがる者はない。

それを金持ちはカネに鷹揚だろうと考えるのは貧乏人の考えることだ。お前のように手にしたカネをすぐ使ってしまうような人は絶対カネ持ちにはなれないよ」。 直話である。

角栄が貧乏に育ったとは周りがいっていることで、本人は如何に貧しかったかなど説明したことはない。父は馬1頭を売って大学にやらしてくれたと宗男はいったが、角栄にその種の逸話はない。

しかし上京後、どうやってカネを作ったかは、時々語った。とくに金脈が「文芸春秋」に暴かれての記者会見で「たとえば他人の土地の隣に土地を買い、石油缶を終日叩けば、隣の人は逃げだしてその土地が安く手に入る」と明かした。もう辞めざるを得ないとはいえ、総理大臣たるものの語ることではなかった。しかし真実だった事は間違いない。

そうやって田中家に財産が残った。真紀子の稼いだものは鐚(びた)1文ありはしない。真紀子は稼ぎ方を知らず、これをただ守って行くしかない。それなのに相続税という名のカネがまるで泥棒のように私から富を奪って行く。

それを補う筈だった数々の会社もなんだか赤字続きでさっぱりだわ。家計を維持し、元総理大臣家の体面を保つための現金収入がどこかにあるの、ないわ。

秘書なんて私の使用人よ、月給をいくらやろうが、やるまいが、私の自由じゃないの。ネコババはこうして成立した。まさに金持ちはカネが必要だったのである。

莫大な(と思うのは貧乏人の考えだが)遺産を相続した真紀子が秘書の月給をねこばばするわけがない、と考えたのは貧乏人の考えだったのだ。

だから真紀子としては証拠の書類などある訳もなく、仮にあったとしても絶対公開することはできないのである。大泣きして辞めたことのある社民党の女性代議士と同じ罪を犯しながらまともに罰せられないのは、自民党内にまだ角栄の怨念が棲みついているからである。

そう考えると、国会にはカネ持ちといわれる人はたくさんいるから、秘書給与のねこばばは、ほかにももっとあるはずで、暴かれることを恐れた先生から突如穴埋めのカネを時ならぬボーナスとして受け取った秘書もいたかもしれない、と考えるのも貧乏人の考えかな。 (敬称略)
  

2013年06月08日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。
2009・07・16(再掲)

2013年06月05日

◆野中発言は「売国的」だ

渡部 亮次郎


野中広務元官房長官が、中国共産党幹部との会談で、1972年の日中国交正常化交渉の際、当時の田中角栄首相と中国の周恩来首相との間で、沖県・尖閣諸島について「領土問題棚上げで合意していた」と発言して問題なっている。

日本政府は完全否定したが、事実はどうなのか。元NHK政治部記者で、園田直元外相の政務秘書官を務めた渡部亮次郎氏(77)が緊急寄稿した。
            ◇
私は、日中国交正常化の際は、NHK記者として田中訪中に同行し、日中平和友好条約締結の際は、園田外相の政務秘書官として立ち会った。

田中・周会談に同席した二階堂進官房長官からは「尖閣棚上げ」について一切発表はなかった。後日、田中氏が親しい記者を通じて発表した後日談にも「棚上げ」のくだりはない。

その後、私は外相秘書官となり、当時の関係者に聴取したところ、事実は以下のようだった。

尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本領土だが、中国は東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘された70年代以降に領有権を主張し始めた。

このため、田中氏から「中国の尖閣諸島に対する態度をうかがいたい」と切り出すと、周氏はさえぎるように「今、この問題には触れたくない」といい、田中氏も追及しなかったという。

私も同席した78年の日中平和友好条約の締結交渉では、園田外相は福田赳夫首相の指示に基づき、「この際、大事な問題がある」と、最高実力者だったトウ小平に向かった。すると、「あの島のことでしょう。あのことは次の世代の知恵をまつことにしましょう」と話し合いを拒否したのだ。

中国側はこうした経緯に基づき「棚上げ」を既成事実化しようとしているが、説明したとおり「棚上げで合意」などあり得ない。中国が勝手に先送りしただけであり、私自身が生き証人である。

野中氏はこれを中国側の都合のいいように誤解し、結果的に中国側に加担している。

日本政府が「日中間に領土問題は存在しない」という限り、中国は尖閣領有の手掛かりを国際的に失うが、日本に「棚上げ」を認めさせれば「手掛かり」を得るわけだ。

こう考えれば、今回の野中発言は「売国的」というしかない。

2013年06月04日

◆砂漠でない「月の沙漠」

渡部 亮次郎


東京音楽学校(現在の国立東京藝術大学)出の流行歌手藤山一郎は太平洋戦争が激化すると、前々から激戦地に赴き慰問演奏をしたいという希望があり、1943年(昭和18年)読売新聞社の企画で南方慰問団を結成、2度南方に赴き、幾度の死線を突破して音楽活動を続けた。

ところが1945年(昭和20年)、インドネシアで終戦を迎え、インドネシア解放軍、イギリス軍の捕虜となる。この抑留体験が大衆音楽家藤山一郎の人生を決意させた。1946年(昭和21年)、航空母艦「葛城」に乗船して復員。この間、巷では藤山一郎、南方死亡説が流れた。

帰国後、コロムビア専属藤山一郎としてスタート。ハバネラタンゴの『銀座セレナーデ』『ふるさとの馬車』が巷に流れたものの放送に出る機会はなかった。ようやく1947年(昭和22年)、ラジオ歌謡『三日月娘』に出てファンは藤山の生還を知り歓喜したのだった。
「三日月娘」は藤山の生還第1声、戦後初のヒットとなった。

私は小学6年生。家には未だラジオが無かったが、向かいの友達が兄さんの買ってきたレコードをかけて呉れて「三日月娘」を聴いた。

「幾夜重ねて 砂漠を越えて 明日はあの娘(こ)のいる町へ
鈴が鳴る鳴る 駱駝の鈴が 思い出させて 風に鳴る」作詞:薮田義雄 作曲:古関裕而。共に軽快である。

しかし砂漠と言うものを見たことの無い少年は、なんとなく「月の沙漠」で砂漠を連想するだけ。しかし「月の沙漠」は千葉県御宿海岸の砂浜をモチーフに書かれたと聞いた事があり、本物の砂漠もそれこそ果てしなく広がる砂丘を連想していた。

ところが41歳の時、想像もしていなかったサハラ砂漠上空を飛んで実見した。果てしなく広がる不毛の土地は間違いないが、岩山あり、谷あり、水なし。迷ったら死ぬ事必定の地獄だった。

時々、油田のガス抜きの炎が高い煙突から拭いているのが見えて、ここがいまや不毛の地が、厖大な冨をこの国にもたらす油を溜めている事を改めて知らされるのである。

私を乗せたのはサウジアラビア政府提供の大型ヘリだったが、猛烈な騒音が子守唄になってしばし眠ってしまった。「時差ぼけ」をあれほど実感した事は無い。

また駱駝に乗ったキャラバンは確かだろうが、厳しいイスラム教の男女関係を律する教えを知れば知るほど、三日月娘は夢の世界と知る。

サハラ砂漠砂漠(さばく、沙漠とも)とは、雨があまり降らず降雨量よりも蒸発量の方が多い土地。植物がほとんど生息せず、水分も少ないため、気温の日較差が激しい。

よって農業には適さず、人間の居住が難しい地域(アネクメネ)である。砂漠地は岩石(メサ、ビュート)、礫(れき)、砂、ワジ(涸れ川)、塩湖、一部人などが生息できるオアシスなどで形成されている。

「砂漠」という表記からの連想もあり、一般的には見渡す限り砂地が広がって風紋を織りなしている情景がよくイメージされるが、実際には岩原など、地形にはバリエーションがある。世界では岩石砂漠、礫砂漠、砂砂漠の順に多い。

地球上の砂漠は、毎年600万ヘクタールの規模で拡大を続けている。これは、上記のような気候による影響だけではなく人間の活動に伴う要素が大きい。

砂漠化によって、その地域に居住する人々の食料生産ができなくなる。二酸化炭素の吸収源である森林が減少し、地球温暖化を加速させる などという深刻な影響がある。

こうした砂漠化を進行させる原因は、熱帯雨林の過剰な伐採により土地の給水能力が衰える、家畜の過放牧、過剰な焼畑農業などが指摘されている。

当用漢字制定前は「沙漠」という表記が使用されていたが、「沙」が当用漢字から外れたために「砂」を用いた「砂漠」という表記が使用されるようになった。なお、「沙」も「砂」も「すな」という意味を持つ漢字であり、「水が少いから『沙漠』と書く」というのは俗説。

学術用語としては「desert」に対して「砂漠」という訳語が当てられる。このため、学術用語の「砂漠」はすなじ(砂地/沙地)だけを指すものではないことは既述のとおり。

中国語では沙漠(砂漠)・(礫漠)・岩漠・泥漠・等の総称として「荒漠」を用いることがある。

世界の砂漠一覧(除サハラ)

アジア
カヴィール砂漠(イラン)
カラクム砂漠(トルクメニスタン)
キジルクム砂漠(ウズベキスタン、カザフスタン)
グルバンテュンギュト(古爾班通古特)砂漠(中国・新疆維吾爾自治区)

ゴビ砂漠(モンゴル、中国・内蒙古自治区)
サルイイシコトラウ砂漠(カザフスタン)
シリア砂漠(シリア、ヨルダン、イラク、サウジアラビア)
タール砂漠(インド、パキスタン)
タクラマカン(塔克拉瑪干)砂漠(中国・新疆維吾爾自治区)
ダフナー砂漠(サウジアラビア)
ネゲヴ砂漠(イスラエル、パレスチナ)
ネフド砂漠(サウジアラビア)
ハジャラ砂漠(イラク)
バダインジャラン(巴丹吉林)砂漠(中国・内蒙古自治区)
ホルチン砂漠(中国・内蒙古自治区):日本から1500kmと最も近
くにある砂漠。

ムウス(毛烏素)砂漠(中国)
モインクム砂漠(カザフスタン)
ルート砂漠(イラン)
ルブアルハリ砂漠(サウジアラビア、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメン)

レギスタン砂漠(アフガニスタン)
ダフナー砂漠(サウジアラビア)

アメリカ
アタカマ砂漠(チリ)
グレートサンディ砂漠(アメリカ合衆国)
グレートソルトレーク砂漠(アメリカ合衆国ユタ州)
コロラド砂漠(アメリカ合衆国、メキシコ)
ソノラ砂漠(アメリカ合衆国、メキシコ)
ブラックロック砂漠(アメリカ合衆国ネバダ州)
ペインテッド砂漠(アメリカ合衆国)
モハーヴェ砂漠(アメリカ合衆国カリフォルニア州)

アフリカ
カラハリ砂漠(ボツワナ、ナミビア、南アフリカ共和国)
サハラ砂漠(エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダン)
ナミブ砂漠(ナミビア)
ニーリ砂漠(ケニア)
ヌビア砂漠(スーダン)
リビア砂漠(リビア、エジプト)
シャルキーヤ砂漠(エジプト)
ガルビーヤ砂漠(エジプト)
ワラーヌ砂漠(モーリタニア)
ビルマ砂漠(ニジェール、チャド)
オリエンタル砂漠(アルジェリア、チュニジア)

オセアニア
カウ砂漠(アメリカ合衆国ハワイ州)
ギブソン砂漠(オーストラリア・ウェスタンオーストラリア州)
グレートサンディ砂漠(オーストラリア・ウェスタンオーストラリア州)

グレートビクトリア砂漠(オーストラリア・ウェスタンオーストラリア州、サウスオーストラリア州)

シンプソン砂漠(オーストラリア・北部準州、サウスオーストラリア州、クイーンズランド州)

タナミ砂漠(オーストラリア)

スタート砂漠(オーストラリア・サウスオーストラリア州、クイーンズランド州)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

2013年05月29日

◆阿波丸撃沈?知らない

渡部 亮次郎


阿波丸は「安導船」ではあったが、禁制の乗客や貴金属を満載していたからアメリカ海軍に撃沈されたことになっている。ところが引き揚げた中国は、財宝的なものは皆無だったと言って園田外相(当時)に相談に来た。撃沈されて68年が過ぎた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用して概要を記す。

<阿波丸事件(あわまるじけん)とは、1945年(昭和20)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ」の魚雷3本(4本との説もあり)を受け台湾海峡で沈没した事件。

阿波丸は緑十字船であり、航海の安全が保障されていたにもかかわらずどうして攻撃されたのかなど、謎は多い。この事件で、船員1人を除く2129名が死亡した。(渡部註:乗船者については2003人説、2045人説、2071人説有り、確定していない。朝鮮、台湾人が混じっていたためか。)

この船にはシンガポールからスズ3000t 生ゴム3000t その他の貴金属、希少金属類等が積載されていた、との風聞が立った。また便乗者として官僚や大手民間会社の社員なども乗り込んでいた。

阿波丸は、アメリカ政府の「日本占領地のアメリカ人捕虜へ慰問品を送ってほしい」という要請に人道的に応じた船である。

これに基づき阿波丸は病院船扱いの安導権=Safe-Conductを与えられていた。つまり、このような戦時禁制品や官僚の輸送は本来の許可内容から外れるものであった。

阿波丸の船体は白く塗られ、夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。

撃沈直後より国際法違反として日本は抗議、アメリカ側もこれを受け入れ責任を認めた上で、賠償問題については戦時であり直ちに交渉することは困難であるとし、終戦後に改めて交渉を行なうことを提案。

戦後になり日本側から賠償の要求が行なわれたが、最終的にはGHQからの意向を受けて賠償請求権放棄の決議が国会で行なわれ(昭和24年)、日本政府は請求権を放棄した。

阿波丸事件を題材とした小説等としては「シェエラザード」(浅田次郎)があり、これを原作としてNHK終戦特集ドラマ「シェエラザード〜海底に眠る永遠の愛〜」が制作された(2004年7月31日・NHKにて放送)>がある。

朝日新聞記者の松井覚進氏が遺族会の協力とアメリカの資料(訪米)を基に1994年5月に朝日新聞社から刊行した著書「阿波丸はなぜ沈んだかー昭和20年春、台湾海峡の悲劇」に私の手記が何ページかに亘って掲載されている。以下の< >内がそこからの引用文。

<亡くなった小説家有馬頼義(よりちか)さんの作品に「生存者の沈黙」と言う作品があり・・・1966年に読んだ。生存者とは2004人(有馬はこの説を採っている)を抱いて撃沈された「阿波丸」からたった1人浮上した人のこと・・・沈黙とは撃沈から救助に至る経緯についての彼の沈黙を指す。

私はこれを読んだとき既に30歳の(NHKの)政治記者だったが、敗戦まぎわの混乱期の事件とはいえ、それまでこの事件を知らなかった不勉強を恥じる一方で、戦火を知らずに少年時代を送った田舎暮らしの幸せをふと思ったりした。

しかし今、園田外務大臣が秘書官の私に言っている。「ナベしゃん(天草訛)これ、何とかならんかなあ」。何ということになったのだ。阿波丸が私の肩にのしかかって来た。

阿波丸の引き揚げに関して中国政府の了解を密かに、と言う事は外務大臣でありながら外務省ルートを通さずに取り付けろ、というのである。

外務大臣園田直が自民党副総裁の船田中氏を東京・平河町の全共連ビルにある船田事務所を訪ねたのは昭和53(1978)年11月7日午後4時半である。

日中平和友好条約の批准書交換式出席のため初来日した中国のトウ小平副総理によるトウ小平旋風が去って間もなくであった(大阪からトウ小平氏が帰国したのは10月29日)。

その園田大臣は船田氏の部屋へ招じ入れられてややしばし(人払いの密談)。(園田氏は福田赳夫内閣の成立に尽力したが、その際、船田氏の協力は不可欠だった。いま外務大臣をさらに1期務めようとしているとき、船田氏の機嫌を損ねる事はできない)。

・・・事務所を出ると、私の手許には新聞紙4ページ大の海図と1通の文書が大臣から渡されていた。「極秘だ、極秘」そういう大臣の声を耳の底に残しながら、私は夜遅くまで、大臣の退出した大臣室に残って宿題に取り組んだ。

海図には阿波丸の沈没地点が×印で明示してあり、文書には前米大統領ニクソン氏の息のかかった「グローバル社」(Global MarineDevelopemennt Inc)と話がつき、日本側は、2億円とか3億円を払うことになって引き揚げ作業の開始が決まった。船は米本土を出てハワイまで来ている。

実は実際に引き揚げ作業を始めると、海底に張る突っ張り綱が何百メートルか中国領海にはみ出すことになるので、その点よろしくと中国政府の某々氏に日本の外務大臣の肩書きで手紙を出してくれ。

また、そういう手紙を出して「中国政府から快諾を得た」「しかしどこへも秘密にしてくれ」と言う手紙をグローバル社あてに書いてくれ、ということなのである。・・・

・・・省内に大っぴらに相談するわけには行かない、ごく限られた事務方と相談し、中国側にはある秘密ルートで連絡した。ただし、肩書きは外した。中国政府からはナシのつぶてだった。

またグローバル社に対しては大臣から副総裁宛の持って回ったような手紙文を起草し、それに英訳にしたものを付して、それをグローバル社に示せばコトは足りるように工夫した。

万一どこかでばれても宝探しに手を貸したのではなく、あくまでも遺骨探しに云々となるように苦心した。事務方の秘書官に逃げの文章と言うものの造り方を習った。>

松井記者の本によれば、船田・園田密談の頃、中国側は既に阿波丸の船体を確認していた。金銀財宝を多量に積んでいたという話に共産党といえども踊ったのである。

自分たちの領海内のことであるから、日本になど相談しないで計画を練り、有ろうことか日本の石川島播磨重工にクレーン船を2度に亘って発注し、既に1隻目は引渡しが済んでいた、1ヶ月前に。

続いて翌79年4月には2隻目の引渡し。合計62億円。大力号と名づけられた2隻目は巻き上げ能力が2500トンもあったので、事情を知らない石川島播磨重工では、中国はこれで原子力潜水艦でも引き揚げる心算かといぶかったそうだ。

「中国感知」というホームページを偶然発見した。「日中友好」を掲げているから中国政府関係のものと思い、引用する。引き揚げが日本政府とあたかも協力して行われたもの、と飾っている。

<<1977年4月5日、中国政府は阿波丸の引揚げに同意し(どこで誰と同意したかは書いてない)、中国史上最大規模の沈没船引揚げプロジェクトが開始されることになった。

5月1日早朝、上海のサルベージ船、滬救撈3号を先頭とするサルベージ船団が牛山島海域に入り、阿波丸の探索を始めた。

最初に海に入ったのは、潜水大隊の馬玉林隊長であった。40m、50m、58m、水圧に体を慣らしながら半時間をかけて海底に下りた馬隊長は、最初に巨大なマストを発見する。馬隊長の報告から、沈没船は1万トン級の船舶と判断された。

この海域で沈没した1万トン級の船舶といえば、阿波丸しかない。その後、第2陣の潜水隊員が犠牲者の遺体を発見する。最初の考察で、この遺体は第2次世界大戦中の日本軍の高級将校のものと判断された。

続いて積荷と見られるスズのインゴットが発見される。これは、アメリカと日本から提供された阿波丸の積載貨物に関する資料と符合していた。

更に、潜水隊員が持ち帰った2枚の名札も、犠牲者リストにある人物のものと確認された。1977年5月1日の早朝から夜半にかけての探索で、サルベージ隊は阿波丸の位置を特定した。

3年後の1980年7月9日、サルベージ船団の滬救撈3号によって、沈没船が阿波丸であることを直接証明するもの、貨客船に備え付けられていたベルが発見された。そのベルには「阿波丸」の3文字が刻まれており、建造年代と所属する船会社の社名も鮮明に読み取ることができた。

アメリカと日本から提供された沈没船の資料(提供なんか誰もしていない)に基づき、潜水隊員は細心に捜索を進めたが、阿波丸伝説に語られる金40トンとプラチナ12トン、それと大量の工業用ダイヤモンドは最後まで発見されなかった。 >>

はじめっからの欲ボケ魂胆はすっかり隠し、初めから遺骨収集のためだったことにしている。日中友好も楽ではない。ここで中国側の話を一旦中断し、松井本に載った私の手記に戻る。

<1979年3月24日(土)の午前9時45分、日本外務省4階の大臣接見室に現れた中国政府の交通部副部長(交通省次官)彭清徳氏がとんでもないことを言い出した。

「阿波丸は中国政府が引き揚げました」「どこを探しても金銀財宝など無い。園田大臣閣下、助けてください」と悲痛だ。

彭氏によると阿波丸の引き揚げをめぐっては日本側から様々な働きかけがあったが、中国側は終始沈黙を決め込む一方で1977年初め(実際は5月)自ら引き揚げるとの決定を下し石川島播磨重工に対し世界に冠たるフローティング・クレーンを発注した。

引き揚げは77年から始め、78年にかけて共産党員の潜水夫ばかりを動員して引き揚げに取り組んだ。余程、機密を重んじたのである(潜水夫による貴金属の持ち逃げを警戒した。つまり私たちが日中平和友好条約の締結交渉のため北京を訪れたときも引き揚げ作業は進められていたのだ!)

船内では至る所で遺体が腐り、毒ガスが発生しており作業は命がけだった。潜水夫1人が死亡)。ところがどこを探しても金銀財宝といったものは無いのである(そのために62億円もかけてサルベージ船を建造したのに!)

本当に積んでいたのか、積んでなかったのか、彭徳清、お前、園田外務大臣のところへ行って聞いて来い、となった。「閣下、積んでいたとすれば何番ハッチの、どのあたりでしょうか」。

この質問は、私の苦心の「陳情」が中国政府にとどいていたことを裏付けるものである。彭氏は阿波丸の模型まで携えていた。もちろん遺品の一部と内部の写真までも持ってきていた。

事は中国政府の正式な申し入れと言うことになったから・・・約1週間後、日本外務省は中国側に対し、阿波丸の積荷リスト(公電)を示した。中国側は「阿波丸に金銀財宝は積まれてなかった」と納得して帰った。>

再び中国側のホームページ。

<<1979年、超重量級のクレーン船、大力号が現場に入ったことで、サルベージ作業はピッチを大幅に上げ、1980年、35年間海底に沈んでいた阿波丸の船首がついに海上に現れた。

阿波丸の船名はすでに海水に浸食されていたが、英語名の省略表記「AAAR」は完全な状態を保っていた。この年、中国政府は世界に向け、正式に阿波丸のサルベージ作業の終了を宣言する。

阿波丸の引揚げの過程で、中国政府は日本側と協力し、引揚げられた阿波丸の犠牲者の遺骨や遺品の収集と鑑定を行った。1980年、中国政府は日本に阿波丸の犠牲者の遺骨の引き渡しを決定し、中国政府を代表して、上海紅十字会が368体分の遺骨と218箱分の遺品を3回に分けて日本政府に引き渡した。

35年の歳月を経て、阿波丸の乗客はその長い航海を終えることができたのである。>>初めから日中友好に徹していれば1人の人命と62億円は使わずに済んだものを。

松井記者は記す。「日本、アメリカ、中国の男たちを駆り立てた「阿波丸は宝船」の夢はこうして終わった。米陸軍省が日本の暗号を傍受、解読した阿波丸関係のマジック情報を見ても、阿波丸が日本から金や紙幣を積んだ情報はあってもその逆はない」

「中国は1979年7月、80年1月、81年5月の3回に亘って遺骨368柱、遺品1683点を日本に渡した。第1回の79年7月には厚相の橋本龍太郎が団長となって訪中している。

遺骨は東京・港区の増上寺境内の阿波丸殉難者合同慰霊碑(1977年10月完成)と、奈良市紀寺町の?城寺境内の阿波丸慰霊塔(1966年11月完成)に分骨された。

遺品は、持ち主が分かり遺族の手に渡ったのは156点で、1527点が不明のままである。万年筆、ひしゃげた水筒、割れた食器、紙幣やみやげの品々・・・石のように硬くなった靴の山。小さな女の子の靴もある」。

最後に事件の誤射について松井記者は「限りなく故意に近い過失」と断言している。昭和59(1984)年4月2日(阿波丸沈没記念の日の翌日)に腎不全のため70歳で死んだ園田氏については2006年3月18日、内輪ながら23回忌を営んだ。それが増上寺で。


2013年05月25日

◆木津川だより  恭仁京の復元

白井繁夫


前回は「恭仁宮跡」の大極殿や朝堂院などの発掘調査資料を参照しながら、木津川市に所在した「奈良時代の恭仁宮」(くにのみや:地図Z:2番)について触れました。
 
今回は範囲を広げ、聖武天皇が描いた理想の都城「恭仁京」を造営(天平12年12月)したのに、理想の都城「恭仁京」が何故、幻の如く短命に終わったのか。その謎の「背景」について考えてみようと思います。

地図Z: http://chizuz.com/map/map144914.html

聖武天皇の恭仁京遷都は、疫病(天然痘)の流行と政情不安(藤原広嗣の反乱)から逃避のため、東国行幸へ出発(天平十二年十月)したという説があります。しかしこれは間違いだと思われます。

平城遷都後わずか30年で「恭仁京へ遷都」したことは、古代における最も大きな出来事の一つだった筈です。聖武天皇は、恭仁京に「理想の律令国家の建設」を目指していたのではないのでしょうか。

★聖武天皇の東国行幸は「日本書紀」の天武天皇の項に、記載の「壬申の乱」における大海子皇子(後の天武)に、聖武天皇は前々から非常に深い関心を抱いていたので、同皇子が吉野を出発し近江に向かって進軍したコースと同じ道を巡っています。

違いは伊勢神宮へ奉幣のため、名張から河口頓宮(関宮)へ寄った事だけです。(聖武天皇は大海子皇子が壬申の乱の最中、天照大神を遥拝する故事に倣ったのか?)

★泉乃河(木津川)の久邇里の甕原(みかのはら)離宮や、岡田離宮は風光明媚なところで、万葉集にも度々詠われており、首親王(おびと:後の聖武)の頃、元明天皇と(4回)、聖武自身(5回)行幸しているため、地形は熟知していると思われます。

★木津川左岸の泉津(いずみのつ)は、東西2.6kmにおよぶ古代の大河川港であり、各街道にも通じる交通の要衝でした。

藤原京の造営の時から、近江の杣山(そまやま):田上山(たなかみやま)の檜材が、氏川(宇治川)経由泉乃河の泉津で陸揚げされました。更に、平城京造営時には四幹線道「上津道(かみつみち)、中津道、下津道と渋谷道(しぶたにみち)」がさらに整備され、役所や寺院(東大寺、興福寺等)の木屋所もできたのです。

★遷都し新しい都城を造営するには、膨大な資金と人手が必要です。恭仁宮の東部(泉津の上流)には和同開珎を鋳銭していた銭司(ぜず)遺跡(地図Z:3番)があり、また聖武天皇は僧行基と優婆塞(うばそく)の活用も採りいれました。(優婆塞:出家した僧でなく、仏教徒で在家:ざいけ:の男性信者。女性は優婆夷:うばい)

それだけに、新しい都城(恭仁京)では、寺院勢力や旧来の政治勢力を排除して、「新都市国家の建設」に邁進する聖武天皇決意であったと思うのです。

聖武天皇が造営した恭仁京の条坊の復元は、昨年(2012年6月)発表された論文『恭仁京の復元』 古代文化 第6巻 第1号 に記載の、復元図(下図)を参照します。

恭仁京復元図.jpg

恭仁京全体の復元案で、賀世山西路を中心軸に左右京を分ける場合、従来の説は足利健亮氏の恭仁京は、賀世山西路を境に左右京がハの字型形状であり、詳細な数字が出ない変則的な都城です。

岩井照芳氏の上図は、『遷都以前から存在した木津川の大河川港「泉津」の幹線4道を、右京の基幹道に転用すれば賀世山西路を正南北の上津道に比定でき、下津道と賀世山西路間を左京に折り返せば、瓶原(みかのはら)に立地する大極殿中心軸に当たる。』と一見変則的に見える都城形態とは云え、「平城宮大極殿造営思想」を踏襲した伝統的な「左右対称」の都市計画で造営したものです。

恭仁京の条坊復元の基準点は、京都府教育委員会が発掘調査で確認済みの左京の大極殿と二条大路です。

その他の地点等は
@『続日本紀』天平13年(741)9月12日条:賀世山西路の東が左京、西が右京と恭仁京を左右に分けている。
A 遷都以前からある泉津の4基幹道が右京に所在と推定B下津道(しもつみち)沿いの大和国と山背国の国境に古来より一里塚(一本松塚)がありました。
B『令解集』和銅6年(713)2月19日格:大宝令で土地測量用と定めた大尺を改め、
小尺で測ること。となった。換算式:令大尺=令小尺×1.2  (平城京の場合:1坊は1500大尺=532m、5坊=7500大尺=9000小尺=2660m)

恭仁京の四至について:恭仁宮の四方の大垣は発掘調査で確定です。北京極(恭仁宮の北大垣の北側:一条北大路)は、二条大路(確定済)の北へ1500小尺=443.25mと推定され、左京の朱雀大路を南に一条を1500小尺で計算すると南京極は九条になっています。

古代文化の『恭仁京の復元』によると、左右京は各8坊あり、朱雀大路(180大尺)、4基幹道(各60大尺×4)を除くと、各10000大尺=12000小尺(1坊=1500小尺)となり、賀世山西路(中心軸)を按分(上津道60x1/2=30大尺)して「左京」は朱雀大路を、「右京」は3基幹道を加えれば、各10210大尺=3620mの左右対称になります。

従って、恭仁京の都城は東西各8坊で横幅は全長約7.2kmとなり、南北は九条あり、1条は1500小尺ですから、13500小尺、即ち縦の全長約4kmの京域になります。

「平城京と泉津の4幹線道」の関わりは、木津川が大水害でも、日照りが続く渇水期でも安定して物資を運ぶため、上津道(水害に対応)は平城京の外京と繋がり、中津道は左京と、下津道(渇水期対応)は直接平城宮に、そして渋谷道(現近鉄京都線)は、右京と結び、如何なるときにも物流の支障をきたさぬようにしていました。

恭仁京では「唐の洛陽」を模して、東西に流れる泉乃河を中心に、右京の泉津の機能を最大限活用できるように、3本の大橋が架けられていたことが『日本書紀』から分かります。

@ 天平13年(741)10月16日条:朱雀大路の朱雀大橋 (賀世山の東部の河に7月から造橋を開始して10月に完了)
A 天平17年5月6日条 中津道と繋がる僧行基の泉大橋 (聖武天皇の車駕が右京の泉橋に到着)
B 天平14年8月13日条 北岸の二条大路と南岸の賀世山西路を結ぶ大橋 (宮城の南大路西と甕原宮の東を結ぶ大橋)

「恭仁京の復元図」記述が少し長くなりました。聖武天皇が執った恭仁京時代の政策や、幻の如く短命で終わった「恭仁京」の“謎の背景・経緯等”については、次回にも掲載させていただきます。

◆参考文献: 古代文化 第64巻 第1号 『恭仁京の復元』  (財)古代學協會
      加茂町史 第1巻  古代.中世編          加茂町

                  <郷土歴史愛好家>

2013年05月22日

◆ミネソタの卵売り

渡部 亮次郎


昭和26(1951)年2月発売のレコードに「ミネソタの卵売り」という割に流行した歌謡曲があった。41歳の若さで死ぬ事になる暁テル子が元気に唄った。東京浅草生まれ。SSK(松竹少女歌劇団)出身。佐伯孝夫作詞、利根一郎作曲である。

「コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 人気者 つやつや生みたて 買わないか 卵に黄身と 白味がなけりゃ お代は要らないコッコッコッコッ コケッコ」(2番省略)

悪い事に後年、NHK記者から園田直外務大臣の秘書官になったとき、その「ミネソタ」に出張するよう用事ができた。米国ミネソタ州の「ミネアポリス」にあるミネソタ大学である。

そこで大学関係者に確かめてみたが、何方も???

ミネソタが卵の特産地と言う事は無いとの結論だった。その後、どこかで作詞の佐伯孝夫さんの家にミネソタからの客が来ているところへ卵売りが来たので、この唄ができたという放送を聞いたような気がする。

暇にあかせて本をひっくり返したり、インターネットを暫く逍遥してみたが、いまのところ「確証」はつかめない。「卵とミネソタはなぜ結びついたか」お教えを乞う。

3番

コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 美人です皆さん卵を 食べなさい 美人になるよ いい声出るよ 朝から晩までコッコッコッコッ コケッコ

序に卵の豆知泉 。

国民1人当たりもっとも卵を食べるのはイスラエル人。

ちなみに日本人が1年間に食べる卵の量は313個平均。1週間に6個食べている計算になる。

東京ではLサイズ・Mサイズがよく売れる。名古屋では小さめのMサイズとMSサイズがよく売れる。大阪では圧倒的にLサイズがよく売れる。

日本以外では、生卵をそのまま食べるということはあまりしない。

生卵をごはんに掛けて食べた元祖は東京日日新聞(毎日新聞)編集長の岸田吟行。円筒状の容器を持歩き、そこに卵を割り入れシェイクした物を、洋皿に盛ったライスにかけて食べた。つまり明治10年頃に日本で考案された洋食の一種だった。

目玉焼きで白身は65℃ぐらいで固まり始まり、黄身は70℃でゲル状、73℃で半熟になる。

卵の黄身の色が濃いと栄養価がありそうな気がするが、それは間違い。与えるエサによっていくらでも濃い色を出すことができる。

卵の丸い方に針で3ヶ所くらい穴をあけてゆでると、不思議な事に黄身は真ん中に落ち着く。

卵は尖った方を下にしておくと長持ちする。

ニワトリの卵には殻が白いものと赤いものがある。一般的には白が普通で、赤い卵は栄養素が多く含まれていると思われているが、実際は両者に差はない。この色の差はニワトリの品種の違いが原因。

産卵用のニワトリとして知られている白色レグホンが産むのは白い卵。それに対して赤い卵を産むのはハーバードコメットを始めとしていくつか種類がいる。

実はそれ以外にアローカナと言うニワトリは青い卵を産む。この色付の卵を産む理由は、野生だったニワトリが外的から卵を守るためのカモフラージュだったと言われている。

ファイト一発!? それは江戸時代からあった商売ですが、江戸時代に玉子売りが出現するのは多くは吉原などの遊郭でした。

と言うのも、卵は精力増強に役に立つ、それも即効性があると信じられていた為に、遊郭で頑張るぞ!?と言う人々が買い求めたのです。当時の川柳などを見ても、奥さんが旦那にむりやり生卵を飲ませると言う話がいくつか残されています。《玉子割って飲ます女房の下心》《もう一つお吸いねぇと生玉子》

2つ目の川柳などは1つでは足りず、2つ飲ませればいつもの倍の働きをするのではないか?と言う女房のたくらみが描かれていたりするのです。

この「生卵=即効性の精力増強」と言う考えは江戸時代の中期に出てきた俗説で、現代でも信じている人も多いものです。しかし実際に医学的に考えると、そのような即効性の精力増強剤としての効能はほとんどありません。

温泉卵

白身が半熟、黄身が固まっている温泉卵を作るのは意外に簡単。白身は70度で固まり、黄身は60度で固まる性質を持っているので、65度程度のお湯に漬けておけば簡単に作れます。

酒を飲む前の生卵

酒を飲む前に生卵を飲んでおくと酔いの回りが遅くなります。

これは卵の黄身に多量の脂肪分が含まれている為で、胃の中で脂肪に解けたアルコールは吸収されにくくなる為です。

鳥の卵は、もともとは白くてまん丸だった物が、次第に現在のような「卵形」と呼ばれる形に変わったものといわれます。これは親鳥が卵を抱いて温める際、誤って転がしても、そのまま転がっていかずに卵は軸を中心に回転して、自然に元の位置に戻ってくるようになっていると言うのです。同じ鳥でも、その産卵条件によって形が違って来ます。

ウミガラス?やペンギンなどのように、断崖や岩の上に産卵する種類の鳥ほど、その卵の一方の端がとがり、反対にフクロウなどの卵は木の穴に産卵する鳥は、落とす心配がなく球形だといわれています。

この地球上でもっともたくさんの卵を産むのは、魚のマンボウ。1度の産卵で3億程の卵を産むが、もともと体の弱い魚で、成魚になるのはその中で2、3匹と言う少ない数なので、海がマンボウで埋まるという事はない。和泉Wikiによる。


2013年05月20日

◆ウィキペディアの穴

渡部 亮次郎


<元特攻隊員の有名人は2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助、元東急フライヤーズ投手黒尾重明、反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人では鶴田浩二がいる。>フリー百科「ウィキペディア」。

ここに外務大臣園田直が居ないのは「ウィキペディア」の穴であり、信頼度を甚だ傷つけるものだ。

園田は陸軍志願兵から日本陸軍最初の落下傘部隊のメンバーとなり、転じて陸軍航空隊の操縦士、更に転じて敗戦間際の1945年8月13日、「天雷特別攻撃隊」の隊長として出動を命じられていた。

全身に爆雷を巻き、千歳基地から太平洋上の米戦艦に体当たりすることになっていたが、悪天候のため、17日に延期。ところが15日に敗戦で一命を取り留めた。しかし本人は「一旦は覚悟した死がなくなって腰が抜けた」とよく語っていた。

8月25日、召集解除となった時、既に園田は31歳になっていた。仕方なし郷里熊本県天草の島に帰り、地元一町田町役場の助役にさせられたが、直後に行われた(1946年4月10日)の衆院選挙に立候補。次点の次で落選。その年の9月には町長に当選。

しかし47年4月25日の総選挙では民主党公認で再挑戦、見事当選。以後、死ぬまで当選を続けた(15回)。野党の衆院議員を妊娠させ、離婚に至ったという事件(白亜の恋事件)でも落選しなかった。

どんなことがあっても慌てるということがなかった。「特攻から生き返った後の人生はお釣みたいなもんだ。恐ろしいことなんてなくなったよ」。

特攻とは、爆弾を抱えた軍用機に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う作戦である。

太平洋大戦末期の日本で、陸海軍あげて大規模な計画的作戦として実施されたが、当然のことながら、攻撃が成功して乗員が生還する可能性は皆無に等しいと言える。

突入失敗で海面に激突したものの奇跡的に助かったり、機体故障による不時着等の理由で乗員が生還した例もあるものの極めて稀であり、出撃すなわち死を意味するといっても過言ではなかった。

この攻撃が行われるようになった理由は、VT信管を代表とするアメリカ軍の対空迎撃能力の飛躍的向上と、航空機性能の開きが圧倒的になったこと、

この戦いに先立って行なわれた台湾沖航空戦により、フィリピンでの稼動航空機数が激減した上にミッドウェー海戦以降ニューギニア戦線などで多くの熟練搭乗員が戦死してしまい、その補充が利かなかったこともあり、通常の航空洋上攻撃では敵空母に対して充分な戦果を期待することができなくなったためである。

このような状況下で確実に戦果をあげることのできる最も確率の高い方法として採用された。

初期には、かなりの戦果を上げることができた。末期になると本土決戦のために練習時間の短い搭乗員を出撃させ、練習時間の長い搭乗員を温存させたために戦果が減ったのである。

命中率は米国立公文書館に保管されている米軍機密資料によれば命中率が56%以上とかなり高かったことがわかる。

特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊である。これは、海軍航空機からなる特別攻撃隊であり、元寇を追い払ったといわれる「神風」の思想の影響からか、特に神風特別攻撃隊と呼称していた。

本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」映画第233号のナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以来、「かみかぜ〜」が定着した。

あまりにも著名であるために、戦後には特別攻撃隊の別称として「カミカゼ」が使われる場合も多く、カミカゼ・タクシーなど。

陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、重爆撃機)と万朶隊(鉾田、軽爆撃機)に始まり、その都度命名された。

その当時の陸軍特攻隊指揮官は富永恭次中将である。しかし、沖縄戦が始まり、回数が増えると、やがて「第○振武隊」のような命名が増えていった(丸には数字が入る)。

沖縄戦では知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。陸軍の特攻を指揮したのは菅原道大中将であった。 また、海上から海上挺身戦隊など(所謂、連絡艇・レ艇)による攻撃も行われた。

損傷を受けた正規空母は決して少なくはないのだが、沈んだ艦が1隻もないのはアメリカ海軍のダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて向上していたことが大きい。

とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害[8]を特攻機が与えていたことも事実であ
る。

だが、特攻機による攻撃隊とは突入機が特攻隊1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、アメリカ海軍からすれば1日の来襲機数とは直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものである。

南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであれば、エセックス級空母がいかに優れた設計であっても戦没艦の発生は免れなかったであろ
う。

しかし現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機と揃えられず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行えるレベルに復帰できなかった。

唯一1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に翌7日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかった為に散発的な攻撃となり、突入に成功した機は比較的多かったものの撃沈は僅か掃海艇1隻のみであった。

確認されている軍人の特攻(航空特攻以外も含む)戦死者数は陸海軍合わせて6000名を超えるとされる。

隊員に指名されるも生還する例も多い。時期を逸す、機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜、等々理由は様々である。園田もこれに類する。

彼らの大多数は、一様に心に傷を負いながらも戦後復興、経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。

しかし極一部の者は戦中の緊張からか自暴自棄になり反社会的な行為に走る者や、特攻と無関係の者が自らを元特攻隊員と偽り行う犯罪も出現している。

また世間の目も敗残兵として彼らに冷ややかで、彼らすべてを「特攻くずれ」と称し蔑む風潮が蔓延した。


2013年05月14日

◆戦前は60歳がおじいさん

渡部  亮次郎


常連投稿者の平井修一さん。私より15も若いのに62歳で「年寄り」を名乗っている。私としては80になったらそうしてほしいとねがっている。

それはそうと私がこどものころの「戦前」は60になったら「老人」といっていたことはたしかだ。

「村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年を取つてもお船を漕ぐときは 元気いつぱい櫓がしなる それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ」

「船頭さん」の一番。「かもめの水兵さん」などと同じく作詞は武内敏子、作曲は河村光陽。

太平洋戦争直前(1941年)に発表された歌で、「六十のおじいさんですら、村のためお国のために休む暇なく働いているのだから、君たちも早く立派な人間になってお国のために尽くしなさい」というメッセージが込められているそうだ。

このような童謡にさえ、そうしたメッセージがこめられる時代だったんですね。それにしても60歳のおじいちゃんですら働いている、とは…。うーむ。働いたのは私も72までだったが。

あの時代戦争だったから、老若男女のうち若い男は戦場に赴き、女性が社会を運営していたのだから「老人」が働くのは当然だった。いまに労働力が少なくなってきたら70歳でも働かなくてはならなくなるかもしれない。

今の日本で「60」を老人と考える人は僅かだろうが、昭和16年、今から70年前は少なくとも60歳は「老人だったのである。

平井修一さんの調べによると、世界各地での定年事情をニールセン・カンパニー合同会社が調べている。オンライン調査で2010年9月に、アジア太平洋、欧州、中南米、中東、アフリカ、北米の世界53カ国2万6000名以上を対象に実施した。主な調査結果は以下の通りだ。

■「年寄り」は70代から

何歳からが年寄りだと思うか、という質問に対し、日本では「70代」(54%)、世界平均では「60代」(34%)という回答が最も多い。

一方、「80代」からが年寄り、と考えている人の割合が高いのは、北米(43%)、中南米(35%)、欧州(32%)で、日本(4%)と比べても非常に高い数値となっている。

2013年05月10日

◆光無き砂漠の静寂

渡部 亮次郎


試みに中東の沙漠に、深夜、独り、降り立ったことがある。勿論ネオンも街灯も無い。歌に歌う星も、本当は地球を照らしてはいないことを知った。本当の暗闇とはあの事。1978年1月のある深夜。

その夜は風も全く無かったので、耳をいくら澄ましても聞える音は何も無かった。どこから外敵に接近されようと関知する事は不可能だった。

つまり東京という都会に暮らしていれば、漆黒の闇と言う事はあり得ない。また全くの沈黙という名の静寂も求める事はできない。都会では何かしらの光が漏れ、どこからとも無く音が聞えてくる。

しかし中東の沙漠の夜には音も光も全く消えてしまうのだ。米のブッシュ大統領はこの事実を体験せずにアフガンやイラク攻めを命令したのだ。沙漠を知らずに攻め入った兵士たちの戸惑いが中東での米軍の苦戦を証明している。

光無く音さえ絶った沙漠。一旦、風が吹いたとなると、地上も空もすべてを遮る嵐と化すらしい。そこではいかに対処すべきか協議している暇は無い。首長の命令一下に従うしか命は無い。

音の全く無い暗闇の中。これ以上の孤独は無い。その時私はかつてロンドン郊外で体験した濃い、霧のことを思っていた。多分、牛乳の中に体ごと突っ込まれたら同じ思いをするかもしれない。真っ黒と真っ白の違いはあるが、何も見えないという点では共通だ。

日本であれほどの濃い霧を体験できる場所を知らない。早朝、いきなり霧に包まれ、前後左右、上下、乳白色一色.鼻をつねられても頭を殴られても誰にやられたか全く判らないだろう。

だから北ヨーロッパでは霧は犯罪とすぐ結びつく。迷宮入りした殺人事件の犯人は霧とされるらしい。

翻って中東の沙漠の暗闇の中で人々は何を考えるのだろうか。翌日サウジ政府差し回しの軍用ヘリコプターで油田の上空を飛んだら、耳をつんざく騒音の中でぐっすり眠っていた。

「テレビが五月蝿くて眠れない」と家族に文句を言うが、アレは嘘だ。人間、眠くなれば、飛んでいるヘリの中で眠られるのだから。

2013年05月08日

◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎


歌謡歌手の岩崎宏美がある日の未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌っていた。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースをカバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜 9時ごろの奥羽線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタクシーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこは坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみたら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであった。デスクには秘匿した。77歳になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子として生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へりにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行われ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強いが、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったことはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再認識されつつある。


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