渡部 亮次郎
阿波丸は「安導船」ではあったが、禁制の乗客や貴金属を満載していたからアメリカ海軍に撃沈されたことになっている。ところが引き揚げた中国は、財宝的なものは皆無だったと言って園田外相(当時)に相談に来た。撃沈されて68年が過ぎた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用して概要を記す。
<阿波丸事件(あわまるじけん)とは、1945年(昭和20)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ」の魚雷3本(4本との説もあり)を受け台湾海峡で沈没した事件。
阿波丸は緑十字船であり、航海の安全が保障されていたにもかかわらずどうして攻撃されたのかなど、謎は多い。この事件で、船員1人を除く2129名が死亡した。(渡部註:乗船者については2003人説、2045人説、2071人説有り、確定していない。朝鮮、台湾人が混じっていたためか。)
この船にはシンガポールからスズ3000t 生ゴム3000t その他の貴金属、希少金属類等が積載されていた、との風聞が立った。また便乗者として官僚や大手民間会社の社員なども乗り込んでいた。
阿波丸は、アメリカ政府の「日本占領地のアメリカ人捕虜へ慰問品を送ってほしい」という要請に人道的に応じた船である。
これに基づき阿波丸は病院船扱いの安導権=Safe-Conductを与えられていた。つまり、このような戦時禁制品や官僚の輸送は本来の許可内容から外れるものであった。
阿波丸の船体は白く塗られ、夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。
撃沈直後より国際法違反として日本は抗議、アメリカ側もこれを受け入れ責任を認めた上で、賠償問題については戦時であり直ちに交渉することは困難であるとし、終戦後に改めて交渉を行なうことを提案。
戦後になり日本側から賠償の要求が行なわれたが、最終的にはGHQからの意向を受けて賠償請求権放棄の決議が国会で行なわれ(昭和24年)、日本政府は請求権を放棄した。
阿波丸事件を題材とした小説等としては「シェエラザード」(浅田次郎)があり、これを原作としてNHK終戦特集ドラマ「シェエラザード〜海底に眠る永遠の愛〜」が制作された(2004年7月31日・NHKにて放送)>がある。
朝日新聞記者の松井覚進氏が遺族会の協力とアメリカの資料(訪米)を基に1994年5月に朝日新聞社から刊行した著書「阿波丸はなぜ沈んだかー昭和20年春、台湾海峡の悲劇」に私の手記が何ページかに亘って掲載されている。以下の< >内がそこからの引用文。
<亡くなった小説家有馬頼義(よりちか)さんの作品に「生存者の沈黙」と言う作品があり・・・1966年に読んだ。生存者とは2004人(有馬はこの説を採っている)を抱いて撃沈された「阿波丸」からたった1人浮上した人のこと・・・沈黙とは撃沈から救助に至る経緯についての彼の沈黙を指す。
私はこれを読んだとき既に30歳の(NHKの)政治記者だったが、敗戦まぎわの混乱期の事件とはいえ、それまでこの事件を知らなかった不勉強を恥じる一方で、戦火を知らずに少年時代を送った田舎暮らしの幸せをふと思ったりした。
しかし今、園田外務大臣が秘書官の私に言っている。「ナベしゃん(天草訛)これ、何とかならんかなあ」。何ということになったのだ。阿波丸が私の肩にのしかかって来た。
阿波丸の引き揚げに関して中国政府の了解を密かに、と言う事は外務大臣でありながら外務省ルートを通さずに取り付けろ、というのである。
外務大臣園田直が自民党副総裁の船田中氏を東京・平河町の全共連ビルにある船田事務所を訪ねたのは昭和53(1978)年11月7日午後4時半である。
日中平和友好条約の批准書交換式出席のため初来日した中国のトウ小平副総理によるトウ小平旋風が去って間もなくであった(大阪からトウ小平氏が帰国したのは10月29日)。
その園田大臣は船田氏の部屋へ招じ入れられてややしばし(人払いの密談)。(園田氏は福田赳夫内閣の成立に尽力したが、その際、船田氏の協力は不可欠だった。いま外務大臣をさらに1期務めようとしているとき、船田氏の機嫌を損ねる事はできない)。
・・・事務所を出ると、私の手許には新聞紙4ページ大の海図と1通の文書が大臣から渡されていた。「極秘だ、極秘」そういう大臣の声を耳の底に残しながら、私は夜遅くまで、大臣の退出した大臣室に残って宿題に取り組んだ。
海図には阿波丸の沈没地点が×印で明示してあり、文書には前米大統領ニクソン氏の息のかかった「グローバル社」(Global MarineDevelopemennt Inc)と話がつき、日本側は、2億円とか3億円を払うことになって引き揚げ作業の開始が決まった。船は米本土を出てハワイまで来ている。
実は実際に引き揚げ作業を始めると、海底に張る突っ張り綱が何百メートルか中国領海にはみ出すことになるので、その点よろしくと中国政府の某々氏に日本の外務大臣の肩書きで手紙を出してくれ。
また、そういう手紙を出して「中国政府から快諾を得た」「しかしどこへも秘密にしてくれ」と言う手紙をグローバル社あてに書いてくれ、ということなのである。・・・
・・・省内に大っぴらに相談するわけには行かない、ごく限られた事務方と相談し、中国側にはある秘密ルートで連絡した。ただし、肩書きは外した。中国政府からはナシのつぶてだった。
またグローバル社に対しては大臣から副総裁宛の持って回ったような手紙文を起草し、それに英訳にしたものを付して、それをグローバル社に示せばコトは足りるように工夫した。
万一どこかでばれても宝探しに手を貸したのではなく、あくまでも遺骨探しに云々となるように苦心した。事務方の秘書官に逃げの文章と言うものの造り方を習った。>
松井記者の本によれば、船田・園田密談の頃、中国側は既に阿波丸の船体を確認していた。金銀財宝を多量に積んでいたという話に共産党といえども踊ったのである。
自分たちの領海内のことであるから、日本になど相談しないで計画を練り、有ろうことか日本の石川島播磨重工にクレーン船を2度に亘って発注し、既に1隻目は引渡しが済んでいた、1ヶ月前に。
続いて翌79年4月には2隻目の引渡し。合計62億円。大力号と名づけられた2隻目は巻き上げ能力が2500トンもあったので、事情を知らない石川島播磨重工では、中国はこれで原子力潜水艦でも引き揚げる心算かといぶかったそうだ。
「中国感知」というホームページを偶然発見した。「日中友好」を掲げているから中国政府関係のものと思い、引用する。引き揚げが日本政府とあたかも協力して行われたもの、と飾っている。
<<1977年4月5日、中国政府は阿波丸の引揚げに同意し(どこで誰と同意したかは書いてない)、中国史上最大規模の沈没船引揚げプロジェクトが開始されることになった。
5月1日早朝、上海のサルベージ船、滬救撈3号を先頭とするサルベージ船団が牛山島海域に入り、阿波丸の探索を始めた。
最初に海に入ったのは、潜水大隊の馬玉林隊長であった。40m、50m、58m、水圧に体を慣らしながら半時間をかけて海底に下りた馬隊長は、最初に巨大なマストを発見する。馬隊長の報告から、沈没船は1万トン級の船舶と判断された。
この海域で沈没した1万トン級の船舶といえば、阿波丸しかない。その後、第2陣の潜水隊員が犠牲者の遺体を発見する。最初の考察で、この遺体は第2次世界大戦中の日本軍の高級将校のものと判断された。
続いて積荷と見られるスズのインゴットが発見される。これは、アメリカと日本から提供された阿波丸の積載貨物に関する資料と符合していた。
更に、潜水隊員が持ち帰った2枚の名札も、犠牲者リストにある人物のものと確認された。1977年5月1日の早朝から夜半にかけての探索で、サルベージ隊は阿波丸の位置を特定した。
3年後の1980年7月9日、サルベージ船団の滬救撈3号によって、沈没船が阿波丸であることを直接証明するもの、貨客船に備え付けられていたベルが発見された。そのベルには「阿波丸」の3文字が刻まれており、建造年代と所属する船会社の社名も鮮明に読み取ることができた。
アメリカと日本から提供された沈没船の資料(提供なんか誰もしていない)に基づき、潜水隊員は細心に捜索を進めたが、阿波丸伝説に語られる金40トンとプラチナ12トン、それと大量の工業用ダイヤモンドは最後まで発見されなかった。 >>
はじめっからの欲ボケ魂胆はすっかり隠し、初めから遺骨収集のためだったことにしている。日中友好も楽ではない。ここで中国側の話を一旦中断し、松井本に載った私の手記に戻る。
<1979年3月24日(土)の午前9時45分、日本外務省4階の大臣接見室に現れた中国政府の交通部副部長(交通省次官)彭清徳氏がとんでもないことを言い出した。
「阿波丸は中国政府が引き揚げました」「どこを探しても金銀財宝など無い。園田大臣閣下、助けてください」と悲痛だ。
彭氏によると阿波丸の引き揚げをめぐっては日本側から様々な働きかけがあったが、中国側は終始沈黙を決め込む一方で1977年初め(実際は5月)自ら引き揚げるとの決定を下し石川島播磨重工に対し世界に冠たるフローティング・クレーンを発注した。
引き揚げは77年から始め、78年にかけて共産党員の潜水夫ばかりを動員して引き揚げに取り組んだ。余程、機密を重んじたのである(潜水夫による貴金属の持ち逃げを警戒した。つまり私たちが日中平和友好条約の締結交渉のため北京を訪れたときも引き揚げ作業は進められていたのだ!)
船内では至る所で遺体が腐り、毒ガスが発生しており作業は命がけだった。潜水夫1人が死亡)。ところがどこを探しても金銀財宝といったものは無いのである(そのために62億円もかけてサルベージ船を建造したのに!)
本当に積んでいたのか、積んでなかったのか、彭徳清、お前、園田外務大臣のところへ行って聞いて来い、となった。「閣下、積んでいたとすれば何番ハッチの、どのあたりでしょうか」。
この質問は、私の苦心の「陳情」が中国政府にとどいていたことを裏付けるものである。彭氏は阿波丸の模型まで携えていた。もちろん遺品の一部と内部の写真までも持ってきていた。
事は中国政府の正式な申し入れと言うことになったから・・・約1週間後、日本外務省は中国側に対し、阿波丸の積荷リスト(公電)を示した。中国側は「阿波丸に金銀財宝は積まれてなかった」と納得して帰った。>
再び中国側のホームページ。
<<1979年、超重量級のクレーン船、大力号が現場に入ったことで、サルベージ作業はピッチを大幅に上げ、1980年、35年間海底に沈んでいた阿波丸の船首がついに海上に現れた。
阿波丸の船名はすでに海水に浸食されていたが、英語名の省略表記「AAAR」は完全な状態を保っていた。この年、中国政府は世界に向け、正式に阿波丸のサルベージ作業の終了を宣言する。
阿波丸の引揚げの過程で、中国政府は日本側と協力し、引揚げられた阿波丸の犠牲者の遺骨や遺品の収集と鑑定を行った。1980年、中国政府は日本に阿波丸の犠牲者の遺骨の引き渡しを決定し、中国政府を代表して、上海紅十字会が368体分の遺骨と218箱分の遺品を3回に分けて日本政府に引き渡した。
35年の歳月を経て、阿波丸の乗客はその長い航海を終えることができたのである。>>初めから日中友好に徹していれば1人の人命と62億円は使わずに済んだものを。
松井記者は記す。「日本、アメリカ、中国の男たちを駆り立てた「阿波丸は宝船」の夢はこうして終わった。米陸軍省が日本の暗号を傍受、解読した阿波丸関係のマジック情報を見ても、阿波丸が日本から金や紙幣を積んだ情報はあってもその逆はない」
「中国は1979年7月、80年1月、81年5月の3回に亘って遺骨368柱、遺品1683点を日本に渡した。第1回の79年7月には厚相の橋本龍太郎が団長となって訪中している。
遺骨は東京・港区の増上寺境内の阿波丸殉難者合同慰霊碑(1977年10月完成)と、奈良市紀寺町の?城寺境内の阿波丸慰霊塔(1966年11月完成)に分骨された。
遺品は、持ち主が分かり遺族の手に渡ったのは156点で、1527点が不明のままである。万年筆、ひしゃげた水筒、割れた食器、紙幣やみやげの品々・・・石のように硬くなった靴の山。小さな女の子の靴もある」。
最後に事件の誤射について松井記者は「限りなく故意に近い過失」と断言している。昭和59(1984)年4月2日(阿波丸沈没記念の日の翌日)に腎不全のため70歳で死んだ園田氏については2006年3月18日、内輪ながら23回忌を営んだ。それが増上寺で。