2009年12月26日

◆続報:「声楽家の山本健二さん」

渡部亮次郎氏

声楽家の山本健二さん(千葉県在住)は叙情歌をCDアルバムにしてきた。日本の心を歌ってきた。このほど23枚目のCDを出した

▼タイトルは「潮風のうた」。森繁久弥さんが88歳の米寿を迎えた2001年に作った詩から取った。作曲家の平野淳一さんにメロディーをつけてもらい、自分で歌ってアルバム中の1曲として収めた

▼〈潮騒を聞きながら わたしは/踏み込む砂の中に/桜貝の小さな片割れを見つけた〉と始まる。いのちを枝分かれさせてきた地球の歴史を桜貝に思う。いのちの一つとしての人間に思いを巡らす。物語風の長い詩だ

▼NHKアナウンサーから出発した森繁さんは、晩年は「語る」ことに特に情熱を傾けた。詩人らの作品を朗読したCDもある。自身で詩も作ることは「知床旅情」で知られる

▼曲にすると9分近い「潮騒のうた」には祈りが込められている。昭和の名優の「知られざる一面を物語るものとして、また、地球の今を生きる私たちへの警鐘として聴いていただければ」と山本さん。CDは西日本新聞会館(福岡市・天神)の1階受付でも手にできる

▼山本さんは昭和26年に福岡高校を卒業した。森繁さんが福岡に縁を持つことは小欄でも既に書いた。そんな人の祈りを福岡出身の声楽家が歌い継ぐ。いつか歌いたいと思って8年になるという。CDが出たのは11月10日。くしくもその日に森繁さんは祈りの発信地を天上に変えた。
=2009/12/16付 西日本新聞朝刊=

<主宰より:これを拝読された福中・福校同窓会の諸氏は、先輩・声楽家の山本健二さんの叙情歌CDアルバムを求めて、福校校歌は勿論、「日本の心の歌」を聴いてください。>

◆喜寿「バリ建」さんの豊かな歌声

渡部 亮次郎

「バリ建」こと歌手・山本健二さんから24日、最新作「潮騒のうた」CDを戴いた。ゴンドラの唄、あざみの歌、さくら貝の歌、早春賦など20曲。

喜寿と言うのに、豊かな声量。驚く。最後に出身の福岡県立福岡高等学校の校歌を歌っている。

山本さんははじめから歌手になりたかったが、事情が許さず、大きな会社のサラリーマンとして過ごした。傍ら、音楽への希望を捨てず、会社を終えてからとか、休日に音楽に専念。以下HPより。

<昭和26 (1951)年、県立福岡高等学校卒業。早稲田大学に進学。在学中はグリークラブ学生指揮者として活躍。早大卒業後日本信販に入社し、フジタ道路監査役で終えるまで44年間のサラリーマン生活を送る。

その間音楽活動を続け、早稲田大学グリークラブ、共立女子大学合唱団、稲門グリークラブ、フレーベル少年合唱団の指揮者を歴任、早大グリークラブのヴォイストレーナーとして2003年まで23年間指導に当る。

コンクール歴は、第35回NHK・毎日音楽コンクール (現・日本音楽コンクール) 声楽部門入選、第3回新波の会日本歌曲コンクール歌唱部門第1位、並びに荻野綾子賞受賞、朝日新聞社主催西日本高校独唱コンクール (現・全日本高等学校声楽コンクール) 第2位、NHK洋楽オーディション合格。ニコラ・ルッチ、ロドルフォ・リッチ、中山悌一の各氏に師事。特に中山悌一氏には16年歌唱の基本を学ぶ。

NHKラジオ深夜便では、山本健二のCDより日本の抒情歌などがよく放送されている。2002年各地の女子少年院(福岡、広島、丸亀、仙台、千歳)を訪問した時、「荒城の月」は少女達(15〜18歳)に深い感銘を与えた。その時の少女達からの感想文は、NHKラジオ深夜便「こころの時間」で放送された。

また2005年11月の柳川白秋祭においては、3日間連続の音楽会を行ない、それらの情景は11月5日のNHKラジオ深夜便インタビューコーナー・スペシャルで放送された。

都内におけるリサイタルは有楽町マリオン朝日ホール、銀座ヤマハホール、王子ホールにおいて連続23年間行った。その他、札幌、仙台、盛岡、象潟、浦和、横浜、宝塚、広島、北九州、長崎、宗像、福岡、名瀬市(奄美大島)などの日本各地で行っている。

言葉の情感にふれる歌唱をモットーに、日本の叙情歌を中心としたリサイタル活動並びにCDの制作を続け、 「山本健二歌唱アルバム」全22集(314曲)をリリースしている。

http://bariken.com/bariken-profile.shtml

問い合わせ先ヤマモト音楽事務所、2100円。電話:04-7147-1954
--                           
<「頂門の一針」主宰 >
◆注目の「頂門の一針」を是非ご拝読を!
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       http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2009年12月25日

◆1秒でも早く政界引退を

渡部 亮次郎

<鳩山首相「私腹を肥やしたわけではない」と辞任否定 元秘書起訴で会見(12月24日18時10分配信 産経新聞)

鳩山由紀夫首相は24日、自らの資金管理団体「友愛政権懇話会」の偽装献金問題で、東京地検特捜部が元公設秘書を在宅起訴するなど一連の処分を行ったことを受け、東京・平河町のホテルで記者会見を行った。

首相は国民に謝罪しながらも首相辞任は否定、その上で実母からの12億6千万円の資金提供を贈与と認め、平成14年に遡って修正申告し、贈与税約6億円を納める考えを表明した。

偽装献金事件について「国民が疑問に思うのは当然だが、(秘書が献金処理を)滞りなく処理していると任せていた」と説明。贈与についても「承知してなかった」と繰り返した。

一方、首相は、過去に「秘書の行為の責任は議員の責任だ」などと発言してきたことについて「私は私腹を肥やしたり、不正な利得を得た思いは一切ない」と釈明。>


<「努力だけは認めて」=政権3カ月で鳩山首相>(12月16日11時19分配信 時事通信)。努力したのではなく、すべての難問を先送りしただけではないか。嬶を連れての派手な外遊を続けただけではないか。

<「すべてがまだ完ぺきとは言えないと思う。一生懸命努力していることだけは認めていただきたい」。鳩山由紀夫首相は16日午前、政権発足3カ月を迎えたことについて、記者団を前にこう訴えた。

米軍普天間飛行場移設問題や2010年度予算編成作業などの懸案に関し「閣僚の中でいろいろと声が上がって、(首相の)指導力がどうだという話がある」と認め、「それは分かっているが、いずれ国民もこの答えが最適だったと分かるときが来ると思う」。

重要課題の政策決定で足踏みが目立つことへの理解を求めた。> 

私が国内政治の現場を去って既に30年。したがって、現場の情景は全く知らないが、鳩山由紀夫の馬鹿さ加減だけは、インターネットを通じてよく分かる。

政治家になったのに、常識が無い。哲学が無い。困ったことがないから他人の痛みが分からない。したがって戦略も戦術もない。努力を認めろといっても、見える努力は一つも無い。

母上から一と月に1500万円もの小遣いを貰っておいて、知らなかったという。そんなことが世間に通用すると思っているから、宇宙人だといわれる。だが宇宙人は確認されていない。

それなのに宇宙人と、敢えて言われるのは、無形人といわれているのと同じだ。まず悩みがない。有っても悩まないから、悩みが無いのと同じなのだ。

だから本人は努力したといっても、解決した案件は一つも無い。ああじゃない、こうじゃないと、口から出任せを喋っているだけで、どうすれば解決するか、考える事もできない。

多分、母親が元気なら、官邸に据えて、厄介を頼むところだろう。すべてそうしてきたからだ。だが、いまや87歳ともなれば、面倒を見てもらうわけには行かないから、すべてが頓挫してしまったのである。

一方、月額1500万円の小遣いは何に使ったのか。あるいはブレインになる人の買収、接待費に使ったのか。その割には碌なブレインがいない。使えない商社マンしかいない。左翼に凝り固まって有害だ。

アメリカとの同盟関係を可笑しくし、中国に叩頭外交を展開する事になったのは、彼の誤れる哲学と偽情報に頼ったからである。「努力した」のではなく「壊し」に専念した100日だったのだ。

早く総辞職し、議員も辞めたほうがいい。それも1分でも1秒でも早い方が日本のためだ。2009・12・24

2009年12月23日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎

「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から
「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)
も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。(9月21日 榊 寿之アンカー)

<『夜のプラットホーム』(夜のプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947年(昭和22年)に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

榊アンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れな
かった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくした
こと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)
は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげに
ただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず
「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公
開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させ
るとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかか
り、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可
したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。

レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従っ
て内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様
であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll Be
Waiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手が
けたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をして
いたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間
でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カ
ロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」
(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタン
ゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」
を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコ
ードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き
残った東京音楽学校出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあっ
たものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であっ
た。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴
史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、
言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」
を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならな
い事、全世代、共通の願いではなかろうか。2008・09・21

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2009年12月21日

◆宮内庁長官は天皇が任命

渡部亮次郎

小澤一郎氏はご自身、かつては司法試験を目指したのに、実は憲法を読まなければ行政法も見たことが無いらしい。

小沢氏が「一役人」と呼び捨てにした羽毛田宮内庁長官は国会議員より位が上の認証官である。

1947年の宮内府設置、1949年の宮内庁改称と日本国憲法の施行以来一貫して長官の職は認証官であり、その任免は天皇により認証される。

尚、近年では旧内務省系官庁の事務次官あるいはそれに準ずるポスト(警視総監)の経験者が就任するのが慣例となっている。(「ウィキペディア」)

小沢氏は質問した記者を「憲法を読んでから質問しろ」と怒ったが、
「天皇の国事行為」に国家の賓客との面会は含まれていなかった。従って、天皇が内閣の横車に負けて習近平中国副主席の会見要求の応ずる必要はなかったのである。恥をかいたのは幹事長のほうだった。

天皇の謁見が何であれ、内閣の指示通りに謁見しろ、忙しいなら、他の用事をやめて内閣の要求に従え、というのが小沢氏の見解。
憲法を無視した上に、天皇陛下に指示するという不敬の本質を暴露してしまった。

小沢氏は人気が落ちても、多分構わないだろう。傲岸不遜の記者会見は、それぐらいは覚悟の沙汰だろうからだ。しかし、世間の小沢氏への非難は世論調査を通じて鳩山首相の支持率に反映すること確実。

中身が空っぽ。支持率しか頼るところの無い鳩山首相にとっていまや小沢氏の憲法無視、法律無知は命取りになろうとしている。
2009・12・20

2009年12月20日

◆殺された大富豪安田善次郎

渡部 亮次郎

安田 善次郎(やすだ ぜんじろう、天保9年10月9日(1838年11月25日) - 大正10年(1921年)9月28日)は、富山県富山市出身の実業家。幼名は岩次郎。安田財閥の祖。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父で、レノンとヨーコの息子ショーン・レノンにとっては高祖父にあたる。

ヨーコの従弟である評論家の加瀬英明は安田との血の繋がりは無い。

当然、私にとって安田は何の関係も無いが、今の住まいの近所に旧安田庭園が有り、このような大富豪だったのに殺されたと知って、興味がわいた。

東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものである。 富山市愛宕町にある安田記念公園は安田家の家屋があったところを整備された公園であり、東隣には住居表示実施後に誕生した安田町がある。

東京・墨田区の 旧安田庭園は、安田が所有していたためその名を残している。

旧安田庭園 (きゅうやすだていえん)は、東京都墨田区横網1丁目12番1号に所在する、潮入り回遊式庭園として整備された大名庭園である。

小島の浮かぶ心字池を老樹と散策路が囲む構成。 雪見灯篭が配置され、池には鯉、亀が遊ぶ。 人工的に水位の干満が再現されている。 無料で開放されている。


江戸時代は、本庄氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。元禄年間に、本庄宗資により大名庭園として築造された。 安政年間に、隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。

明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となる。 明治22年、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなった。 大正11年、彼の遺志により東京市(当時)に寄贈された。

翌大正12年、関東大震災によりほとんど旧態を失ったが、東京市により復元され、昭和2年、市民の庭園として開園。 昭和42年、東京都から墨田区に移管され、現在は墨田区が管理する。

かつては隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満を利用し、眺めの変化を鑑賞する庭園であった。

このような潮入の池をもつ庭園として他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園がある。 隅田川の汚れが園に及ぶようになったため直接の接続は停止されている。 現在は、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用し、ポンプで潮入が再現されている。

所在地―東京都墨田区横網一丁目12番1号
利用時間―午前9時から午後4時30分まで
休園日―2月29日から1月1日まで
入園料金―無料
交通:JR総武線両国駅下車徒歩7分 都バス両国公会堂停留所下車徒歩1分 石原一丁目停留所下車徒歩7分 横網一丁目停留所下車徒歩5分

ところで安田善次郎は富山藩の下級武士(足軽)善悦の子として生まれた。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。21歳の時、奉公人として上京。

最初は玩具屋、ついで鰹節兼両替商に勤めた。やがて安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)を次々と設立し、金融財閥としての基礎を築く。

自分の天職を金融業と定め、私的に事業を営むことを自ら戒めたが、同郷だった浅野総一郎の事業を支援するなど事業の育成を惜しむことは無かった。

現在の鶴見線である鶴見臨港鉄道の安善駅は、安田善次郎の名前に因む。また日本電気鉄道や、帝国ホテルの設立発起人、東京電燈会社や南満州鉄道への参画、日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わった。また、チェス嫌いとしても有名である。

1921年9月27日、神奈川県大磯町字北浜496にある別邸・寿楽庵に、弁護士・風間力衛を名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、面会を断られた。

この風間力衛は実在の人物であるが、神州義団団長を名乗る朝日平吾(1890-1921)が勝手に詐称しただけであり、風間本人は事件と何の関係もない。

翌日、門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。午前9時20分ごろ、この朝日平吾に安田は刺殺された。朝日はその場で、剃刀で首を切り自殺した。

所持していた斬奸状に曰く、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」

満82歳没。戒名は正徳院釈善貞楪山大居士。1ヶ月後の原敬首相暗殺は、この事件に刺激を受けたものといわれる。

1921年11月4日、原 敬首相は京都での立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたところ、午後7時25分頃、突進してきた中岡艮一(こんいち)に短刀を右胸に突き刺された。

原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された艮一は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。

この裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の艮一の“特別な”処遇(3度もの大赦で1934年には早くも釈放された。

戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなどとあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。

艮一が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した原の政治に対する不満のほかに、以下のような話もある。

玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。有名な右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。

犯行の1カ月前、艮一と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、艮一が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したとい
う。

このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・11

2009年12月19日

◆唐辛子を格別好む人々

渡部 亮次郎

「唐辛子」は「唐」から伝わった「辛子」の意味である。ただし、この「唐」は漠然と「外国」を指す語とされる。同様に南蛮辛子(なんばんがらし)や、それを略した南蛮という呼び方もある。秋田地方では「なんばん」という。

だからと言って好物ではない。唐辛子の利いた朝鮮半島の漬物「キムチ」を嫌いではないが、特別の好物と言うわけでもない。ほかに無ければ食べる、と言う程度。

毎月1度集まるある会は決って錦糸町駅近くの朝鮮料理店が会場。

格別、唐辛子料理好きが多い。私も焼酎で中和させるようにして食べる。

九州の一部では唐辛子を「胡椒」と呼ぶことがある(「柚子胡椒」の「胡椒」も唐辛子のことである)。これは南蛮胡椒、または高麗胡椒の略らしい。

一説には大陸(唐土)との交易で潤っていた地域では「唐枯らし」に音が通ずる「トウガラシ」の呼び名を避けたためといわれる。また他地域で言うところの「胡椒」を、区別のため「洋胡椒」と呼ぶことがある。

沖縄県の島唐辛子や、それを用いた調味料をコーレーグース(コーレーグス)と呼ぶが、これは高麗胡椒の沖縄方言読みとも、「高麗薬(コーレーグスイ)」が訛ったものだともされる。

唐辛子の総称として鷹の爪を使う者もいるが、正確には「鷹の爪」は唐辛子の1品種である。

胡椒などの他の香辛料と同様、料理に辛みをつけるために使われる。また、健胃薬、凍瘡・凍傷の治療、育毛など薬としても利用される。

鑑賞用のトウガラシ日本への伝来は、1542年にポルトガル人宣教師が大友義鎮に献上したとの記録があるが、他に諸説ある。南蛮胡椒と呼ばれていたのはこのためであるとされる。日本では最初、食用とはならず、観賞用や毒薬として用いられた。

1613年の朝鮮文禄『芝峰縲絏』には「倭国から来た南蛮椒には強い毒が有る」と書かれ、1614年の『芝峰類説』では「南蛮椒には大毒があり、倭国からはじめてきた。

だから俗に倭芥子(倭辛子)というが、近ごろこれを植えているのを見かける」と書かれており、イ・ソンウが『高麗以前の韓国食生活史研究』(1978年)にて日本からの伝来説を示して以降、それが日韓共に通説となっている。

伝来理由としては朝鮮出兵のときに武器(目潰しや毒薬)または血流増進作用による凍傷予防薬として日本からの兵(加藤清正)が持ち込んだのではないかとも言われている。

「大和本草」(貝原益軒著)には蕃椒の記事に「昔は日本に無く、秀吉公の朝鮮伐の時、彼の国より種子を取り来る故に俗に高麗胡椒と云う」と書かれている。

これは一見相反するが、日本に唐辛子が伝わった当初は日本国内ではあまり広まらなかったまま、朝鮮に伝来し、その後日本国内でも広まったためではないか、という見解もある。

一方で1460年に発刊された『食療纂要』にチョジャン(椒醤)という単語があるとし、それがコチュジャンを意味するもので、日本伝来の唐辛子とは違う韓国固有の唐辛子はすでにあったと主張する韓国の研究者も存在する。

しかし、1670年の料理書『飲食知味方』に出てくる数多くのキムチにも唐辛子を使用したものは一つも見られず、 韓国の食品に唐辛子を使用した記録が19世紀に少し出てくる程度であることから疑問の声もあがっている。

ただし日本で料理に唐辛子が多く使われるようになったのは比較的最近のことである。1980年代以降、韓国料理やエスニック料理が浸透し、「激辛ブーム」などが起こる以前は、せいぜい薬味や香り付けに一味唐辛子や日本特有の七味唐辛子が少量使われる程度であった。

市販のカレーでさえ現在ほど辛口の商品が多くはなかった。今も年配の層には唐辛子の辛味を苦手とする人は多い。私の父はカレーライスを食べないまま死んだ。享年80 老衰。それでも50の時、胃癌をやった。

ビタミンAとビタミンCが豊富なことから、夏バテの防止に効果が高く、また殺菌作用があり食中毒を防ぐとも言われるので、特に暑い地域で多く使われている。

殺菌のほかに除虫の効果もあり、園芸では他の作物と共に植えて虫害を減らす目的で栽培されたり、食物の保存に利用される事もある。果実を鑑賞するためのトウガラシの品種もある。

唐辛子の辛味成分はカプサイシンである。この辛さは刺激が強く人により好みがある。唐辛子によって辛みをつけた料理を好む人は多く、また食べたあと胃腸に問題を起こすことも少ない。

インドやタイ、韓国などの唐辛子が日常的に使われる国・地方では、小さい子供の頃から徐々に辛い味に慣らしていき、胃腸を刺激に対して強くしている。

一方で日常的に使う習慣のない場合は、味覚としての辛味というよりも「痛み」として認識され、敬遠される。実際、カプサイシン受容体TRPV1は痛み関連受容体に分類されており、唐辛子の辛味は口内の「痛覚」である。

このことからも、痛みを味覚として好むということ自体、多分に社会文化的条件付けによるものと言える。これらの国が唐辛子を積極的に摂取するのは、メキシコや西アフリカ、中国の四川省・湖南省など夏に暑い地域が多く、発汗を促し暑さ負けを防ぐためであると言われる。

ただし、ベトナム(中部を除く)、台湾、沖縄など暑い季節が長いにもかかわらずさほど唐辛子を好まない地域がある一方、韓国、ブータンなどそれほど暑くない地域(韓国も大陸性の気候の影響が強く夏は暑くなるが、高温になる季節は長くはない)で唐辛子を特に好む食文化もあり、唐辛子の嗜好は単なる気候的要因ではなく文化的要因によるものが強い
ことが伺える。

フィリピン、中国などアジアでは葉を青菜と同様に炒めて食べたり、汁物の実とすることもある。日本では佃煮にすることもある。

なお、唐辛子の過剰摂取と発癌の関連性が指摘されており、唐辛子を多く摂る国は胃癌や食道癌の発癌率が高いといわれている。

現在世界中の国で多く使われているが、アメリカ大陸以外においては歴史的に新しい物である。クリストファー・コロンブスが1493年にスペインへ最初の唐辛子を持ち帰った。唐辛子の伝播は各地の食文化に大きな影響を与えた。

ヨーロッパでは、純輸入品の胡椒に代わる自給可能な香辛料として南欧を中心に広まった。16世紀にはインドにも伝来し、様々な料理に香辛料として用いられるようになった。


バルカン半島周辺やハンガリーには、オスマン帝国を経由して16世紀に伝播した。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・11

2009年12月15日

◆日比谷公会堂の80年

渡部亮次郎

今年、創建80年を迎えた日比谷公会堂は、殺された大富豪安田善次郎の法外な寄付によって建てられたものである。市政会館に付属している。

東京市長でもあり、中立な市政のための調査機関の必要性を訴えていた後藤新平の主張に大富豪安田善次郎が共鳴、当時としては巨額の350万円を寄付して、「市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として計画された。

建物は指名設計競技で一等となった佐藤功一の設計になるもので、
1929年に竣工した。現在も同建物(市政会館)内に財団法人・東京市政調査会がある。ちなみに開場式で、新聞を破いた音が参加者全員に聞こえたという。音響効果が良いことを証明した。

完成 1929年10月19日 開館 1929年だから、2009年の今年は80周年の記念の年だったのだ。

鉄筋コンクリート造4階建て、面積6,032m2
定員2,074名(1階1,052席、2〜4階1,022席、車椅子対応席11席)2 - 4階は同一フロアである

設備 日比谷公会堂・日比谷公園大音楽堂
用途 演劇、講演会、集会 等
運営 日比谷公会堂・大音楽堂管理事務所
所在地 東京都千代田区日比谷公園1-3

かつて、東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれたが、次第に影が薄くなっている。

東京文化会館をはじめにNHKホール、昭和女子大学人見記念講堂、サントリーホール、東京芸術劇場、オーチャードホールといったコンサート専用ホールやコンサートに使用可能な多目的ホールが整備されるに従い、コンサートホールとしての地位は低下して行く。講演会、イベントなど音楽会以外の利用が増え、クラシック音楽の演奏会はほとんど開催されなくなった。

この状況を憂う文化人が再興を提唱し、2007年秋、井上道義指揮によるドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏会「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト2007」が開催された。

一方、通りに面した、市政会館。1936年に誕生した同盟通信社は、当初は前身の新聞聯合社や日本電報通信社の社屋を本社としていたが、業務の拡大で社屋が手狭になったことから、1942(昭和17)年1月11日に同会館に移転した。

1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾したことを受けて同盟通信社が共同通信社と時事通信社とに分社すると、両社が引き続き本社として使用した。

のちに共同通信社は、港区の共同通信会館に移転するが、時事通信社は会館に残った。しかし、2001(平成13)年に電通が東証1部に上場すると、大株主である時事通信社は保有する電通株の一部を放出。売却益を基にして新社屋に移転した。

1999(平成11)年6月11日に、東京都景観条例に基づき「東京都選定歴史的建造物」となった。また2003(平成15)年6月9日、千代田区景観まちづくり条例に基づき「景観まちづくり重要物件」に指定された。

ところで、日米安保条約の改訂で国中が大騒ぎした「60年安保」。その最中の1960年、浅沼稲次郎暗殺事件は、この日比谷公会堂での出来事である

1960年10月12日午後3時頃)、日比谷公会堂において、演説中の日本社会党(当時)委員長・浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)が、17歳の右翼少年・山口二矢(おとや)に暗殺された。

10月12日、日比谷公会堂では、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会(東京選挙管理委員会等が主催)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長・西尾末広、社会党委員長・浅沼稲次郎、自民党総裁・池田勇人の順で登壇し演
説することになっていた。

浅沼委員長は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出た。

司会のNHKアナウンサー・小林利光が自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。

浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると…」と発言した午後3時5分頃、突然17歳の少年・山口二矢が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの短刀(のちに銃剣と判明)で浅沼の胸を2度突き刺した。

浅沼は、刺された後によろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書が浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心した。

しかし実は一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断され、巨漢の脂肪で外出血はせず内出血による出血多量によりほぼ即死状態(側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという)で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。

山口二矢はその場で現行犯逮捕、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)の文字を監房の壁に残した後、自殺した。

この事件で警視庁は、大日本愛国党総裁である赤尾敏(当時61歳)を威力業務妨害容疑で逮捕した。

公党の党首に対する攻撃を防げなかったとして山崎巌国家公安委員長が引責辞任。この事件を機に、刃物の追放運動が全国に広がるようになり、また要人警護の手法が“目立たないように”から“見せる警護”へと改められることになった。2009・12・13
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2009年12月12日

◆パン知らずの子供

渡部亮次郎

食パンの消費量は近畿地方が圧倒的に多く、近畿地区2府4県すべてが上位10都道府県内に入っている。またパン食の多い近畿地方では廉価品よりも高級品、薄切りより厚切りの方が多く売れる。

私が生まれて初めてパンと出合ったのは高校に入学した1951年、16歳の春だった。校内の売店で買ったコッペパンであった。また蕎麦やうどんと出合うのは大学に入って東京暮らしを始めてからだった。

詰まり米単作地帯の農家にとって、米飯以外のものは、すべて現金を消費するものである以上、パンや麺類は「贅沢品」。高校生と言っても、現金は一切持たされなかったから「蕎麦屋」にはいることもなかったわけである。尤もパンは戦中戦後、田舎にはなかった。

だから身体に染み付いた習慣は、パンや麺類は米飯の代用食、コメの飯が無いから、止むを得ず食べるものと言う感覚が抜けず、未だに食パンを食卓にのぼせることはない。

2キロばかり先の浅草や向島に出かけても、蕎麦屋に入るのは10回に1回ぐらい。殆どはトンカツ屋か洋食屋。浅草や向島は田舎者相手だから、実に美味しいメシ屋があって重宝だ。

ところでパンだ。日本では、古くは「蒸餅」、「麦餅」、「麦麺」、「麺包」とも表記したが、現代日本語ではポルトガル語のパン(pao)に由来する「パン」という語を用い、片仮名表記するのが一般的である。

フランス語(pain)やスペイン語(pan)でもパンという。また日本語を経由する形で、日本による植民地支配が長かった台湾でも、台湾語、客家語などでパンと呼び、韓国でも、韓国語でパンと呼んでいるが、これも日本統治時代に日本語を経由して借用されたと考える説がある。

ポルトガルの宣教師によって日本へ伝来したのは安土桃山時代だが、江戸時代に日本人がパンを食べたという記録はほとんど無い。

一説にはキリスト教と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また、当時の人々の口には合わなかったらしい。

江戸時代の料理書にパンの製法が著されているが、これは現在の中国におけるマントウに近い製法であった。徳川幕府を訪れたオランダからの使節団にもこの種のパンが提供されたとされる。

1718年発行の『御前菓子秘伝抄』には、酵母菌を使ったパンの製法が記載されている。酵母菌の種として甘酒を使うという本格的なものであるが、実際に製造されたという記録はない。

日本人が、最初にパンを焼いたのは江戸時代の末の江川英龍とされ、彼をパン祖と呼ぶ。

日本人にパンが広く受け入れられるのは明治時代の「あんパン」の発明からである。軍隊ではその場で調理する必要のないパンは常食として使われてきた。日本においては、特に惣菜パンや菓子パンと呼ばれる具入りのパンが発達している。

現在、日本においてパン食の割合が特に高いのは近畿地方で、阪神間モダニズムの影響と考えられている。朝食はいつもパンという関西人は少なくない。

パンの重量を均一に製造するのは困難であるため1斤の重さは350〜400グラムとするのが一般的であり、公正競争規約では340g以上と定められている。

日本では敗戦後、サンドイッチを食べる占領軍兵士へのニーズから8枚切りにスライスした状態で食パンが売られるのが一般的となったがその後食パンの食感が日本人好みに調整されるにつれ、その厚さは地域によってまちまちとなった。

主に近畿地方ではトーストにして食べるのに適した6枚切りや5枚切り・4枚切りなどの厚切りが定着した。

食パンの発祥国、イギリスでは日本の8枚切りよりさらに薄いものが一般的である。

40歳前後、大阪に3年暮らしたが、パンを食べた事は1度も無い。
(「ウィキペディア」)2009・12・06

2009年12月09日

◆08年の帰化許可者は86%

渡部亮次郎

居住外国人に地方参政権を付与すべきか否かを巡って、これらの人たちに日本人への帰化を簡略にすべきでは無いかとの論が起きている。

日本の法務省は、帰化許可数を年間7,000人に抑えていた一時期があったから、帰化は極めて困難との誤解が生じた。いわゆる「純血主義」の意識が残っていたからだ。しかし、現在では申請者の90%近くが許可されている。

国籍法(昭和25年法律147号)では、帰化を許可する権限は法務大臣にあり、普通帰化、特別帰化(簡易帰化)、大帰化の3種類(この区分名はいずれも通称)が認められている。

帰化を望む者は各地の法務局(一部の支局、全ての出張所を除く)又は地方法務局(前同)へ帰化の申請手続を行う。許否の結果が出るまでの期間は個々人で異なるがおおむね1年半程度を要するとされる。

帰化申請の内容が認められた場合は、法務大臣による許可行為として官報に日本国内の現住所・帰化前の氏名・生年月日(元号表記)が告示(掲載)され、告示の日からその効力を生じることとなる。

告示における氏名表記に外国文字(アルファベット・ハングル等)は用いられず、すべて日本語(漢字・平仮名・片仮名)に置き換えて表記される。

過去においては、当該告示には帰化前の氏名に加え帰化後の日本名(帰化前に日本的通称名を複数使用していた者についてはそれら全て)が括弧付きで原則併記されていたが、1995(平成7)年3月以降は帰化前の氏名だけが記載されるようになっている。

1998(平成10)年以降の年ごとの帰化許可申請者数は、約1万3000人から1万7000人の間で推移している。帰化許可申請者のうち、不許可者数は約100人から270人の間で推移しており、ほぼ99%の割合で帰化が許可されている。

帰化許可者のうち、およそ6割は韓国・朝鮮籍からの帰化で占められており、およそ3割が中国籍からの帰化で占められている。

2008年(平成20年、暦年)の許可帰化申請者数は15,440人で、帰化許可者数は86%にあたる13,218人(うち、韓国・朝鮮籍は7,412人、中国籍は4,322人、その他は1,484人)、不許可者数は269人である

【大紀元日本(06年8月5日】によれば、1952年から2005年末までの間に日本に帰化した中国人は9万6762人で、そのうち2005年に日本に帰化したのは4427人であることが、法務省民事局で発表した資料により明らかになった

。日本に帰化した中国出身者の大部分は日本に住まいをもち職も安定し、まじめに暮らしている。現在、多くの中国人の若者が日本国籍を取得した後、再び中国に帰って事業を興している。

その理由は日本国籍を持つ中国出身者は中国では特別待遇を得ることができ、しかも給料待遇も優れているからであると言われている。1989年以来日本に帰化しようとする中国人は増加化し続けているという。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・07

2009年12月08日

◆中国人、10万人が日本に帰化

渡部亮次郎

【大紀元日本(06年8月5日】によれば、1952年から2005年末までの53年間に間に日本に帰化した中国人は9万6762人で、そのうち2005年に日本に帰化したのは4427人であることが、法務省民事局で発表した資料により明らかになった。

日本に帰化した中国出身者の大部分は日本に住まいをもち職も安定し、まじめに暮らしている。

現在、多くの中国人の若者が日本国籍を取得した後、再び中国に帰って事業を興している。その理由は日本国籍を持つ中国出身者は中国では特別待遇を得ることができ、しかも給料待遇も優れているからであると言われている。1989年以来日本に帰化しようとする中国人は増加化し続けているという。

日本国際交友ネットによると、日本に帰化した中国出身者Aさんが同ネットの記者にこう語った。

中国人として中国の香港に行く場合は、必ず中国大使館にお金を払ってビザをもらわなければならず、許可が下りてようやく行けます。

しかし、日本国民として香港に行く場合は、入国手続きためのビザの手数料が不要で、しかも行くたびに香港に3ヶ月の滞在ができ、何回行ってもよいのです。

ある日本の旅行会社の社員が、日本人の男性に聞きました。「貴方の奥さんは中国人なのに、なぜ中国の香港に行くのにビザが必要なのですか。」この男性は答えられなかったので中国人の奥さんがこう答えました。

「中国国内には中国人が行けない場所がたくさんあるだけではなく、多くのマーケットでは中国人の入場が禁止されています。これが中国の国情です。こんなことはしょっちゅうあります。」

日本人に帰化した別の中国出身の女性Bさんはこう言った。「私は数人の日本人の女性と一緒に中国に旅行に行きました。中国のある大都市の駅で並んで切符を買うとき、当時たくさんの人が並んでしましたが、駅員は私たちが日本語を喋っているのを聞くと、外国人は優先されると私に言いました

。私は日本のパスポートを提示することで列に並ばなくても切符を手に入れました。皆が不思議に思いましたので、外国人は優先されると私は答えました。皆はびっくりした様子で続けて聞いてきたので、中国は外国観光客を優先待遇している」と答えました。

日本人に帰化した中国出身者のCさんはこう語った。「ある日、私は中国の大都市の駅から出るとき、駅員に止められました。私の荷物が重量オーバーしているので罰金を科すと言われました。実際には私の荷物は少しも重量オーバーはしていませんでした。

その駅員は、私に向こうにある小さな部屋に行くように言いました。その部屋を遠くから見ると足止めされた人がたくさんいました。慌てて私が切符と日本のパスポートを出したところ、駅員は私のパスポートの表紙を見ただけで、手を振って私を行かせてくれた。

このネットの日本人記者の友人の自らの経験はこうである。あるとき交流のために中国大陸に行き、まず始めに北京の故宮を訪れました。私と一緒に行ったのは日本の永住者ビザを所得していた中国人でした。

今は外国人と中国人の入場券は同じ金額です。私と彼はおのおの一個のカバンを持っていました。カバンの中には重要な資料が入っていました。門番をしている人はがっちりした男性で、彼は私たちに「カバンを持って入ってはいけない」、私たちにカバンを保管場所に置くように強く言いました。

普通、観光客は南の入り口から入り、自然に北の出口から出るのですが、北京の故宮はとても広く、小さな広場ではありません。見物した後またわざわざ前門に戻ってカバンを取りにくるのはとても不便なことであり、さらに万一保管する人が私たちのカバンをなくしたりしたら、更に困ることになると私がいくら説明しても彼は私たちにカバンを持って入るのを許しませんでした。

私はすこし困ってしまいました。周りを見ると、意外にも外国人の専用入口を発見しました。たくさんの外国人がカバンを持って入っていたのです。私はすぐに自分のカバンと、私と同行した日本の永住者ビザがある中国人のカバンを持って正面突破することにしました。

私は門番の男の人に軽く言いました、「私は日本人です」、男性はびっくりし、こぼれんばかりの笑顔で私に言った、「どうぞ、どうぞ」。私の心はちょつぴり辛かった。

2009年1月24日野の「中国ニュース」は 不思議な「国際結婚」、中国人夫婦で片方だけ帰化するケースが増加―日本と次のように報じた。

23日、在日華人夫婦のうち片方だけが帰化するケースが増えていることがわかった。2009年1月23日、中国新聞社によると、日本の華字紙・東方時報は在日華人夫婦のうち片方だけが帰化するケースが増えていると報じた。

かつては家族がそろって帰化申請をしたほうが認可されやすいという事情があったが、近年帰化条件が緩和されたこともあり、家族のうち一部だけが帰化するケースが増えているという。

日本滞在20年の会社役員・徐(シュー)さんもその1人。欧米諸国に出張することが多いが、中国籍ならばビザを取得する必要があるのが面倒だ。そのため日本に帰化することを決意したという。

しかし中国の両親は一家そろって日本人になることを望まなかったうえ、息子も将来は中国で働きたいとの希望を持っていることから、徐さん1人だけでの国籍取得を決意した。

徐さん自身も老後は中国で暮らしたいと考えているが、妻が中国籍ならば「中国人の配偶者」という身分で中国での滞在許可が取得できるのも都合がいい。

建築会社で働く林(リン)さんも自分一人で帰化の申請をしている。妻の日本語がまだつたなく、帰化が難しいのが理由だという。

「中国人同士の家庭が『国際結婚』に変わっても、なにも困らない」というのが林さんの考え。それどころか、妻は「日本人の配偶者」という待遇にかわり、アルバイトなども制限なく行うことができる。

同紙は、外国に長期間在住している者にとって、国籍はもはやそれほど重要なものではないと指摘。在日中国人は日中両国に結びつきを感じており、夫婦の片方だけが帰化するというのはその感情を表現する一つの手段かもしれないと述べている。(2009・12・07)


2009年12月05日

◆岩手 安家川(あっかがわ)

渡部亮次郎

紅葉の季節を迎えるたび、岩手県の安家川の紅葉ほど素晴らしい紅葉は見たことは無いとつくづく思う。あの辺りを「日本のチベット」などと、昔、地元の人たちは自嘲していたが、交通が不便なだけ美しかった。観光客、ゼロ。自然が自然のまま残っていた。

安家川は岩手県の北上高地を水源に、三陸の海へと注ぐ川。全長48kmと、短いながらも高度差が1200mあり、流れも大きく蛇行するなど変化に富んだ川である。ある年の衆議院選挙の情勢取材で、岩手県北部をジープに揺られながら走った時、久慈市から安家川を遡って岩泉町に入るべく、川沿いの未舗装道を走った。

よく見れば川はイワナなどの清流を好む魚はもちろん、氷河期からの生き残りといわれるカワシンジュガイも見られる。夏、川辺の森ではミソサザイやオシドリなどの野鳥が子育てをする。夏は色とりどりの生き物であふれる安家川だそうだ。

このときは10月の終わりだったから、見えるのは風に舞い散る枯葉だけ。岩肌にへばりつくようにして生えている楢やクヌギなどのいわゆる雑木から散る枯葉が風に舞って急流に散ってゆくのの連続だった。

ジープの先が見通せないくらい舞い散る落葉。すべてが黄色と茶褐色の世界。しばし、停まって見とれた。対向車はもちろん、歩いてすれ違う人もなし。あるのは「過疎」。聞えるのは透明な川の流れだけ。

そうなのだ。岩手県は岩で出来ている。だから松や杉といった「建築材」は生える事ができない。山肌の表土は、極浅いから、いわゆる雑木しか生えない。岩手がかつて木炭の主産地だった理由はここにある。

山が岩で出来ているから、流れ下る雨水は濁らない。山は「山紫水明」なのだ。したがって岩手の山はカネにならない。炭にしかならない。加えて、急峻な山肌にへばりついて村人が育てる作物は雑穀でしかない。

紅葉が世界一の安家川。美しい紅葉は、即ち『貧しさ』の象徴のようなものだろう。しかし、岩手の人たちは人間を大事に育て、人格者を尊敬した。総理大臣を何人も輩出した。
2009・11・29

2009年11月30日

◆シルクロードの核汚染

渡部亮次郎

<2009年6月6日、「核ハザードの危険を隠してきたNHKシルクロード番組に関する公開質問状」と題する書状が、NHK会長・福地茂雄氏あてに突きつけられた。差出人は札幌医科大学・高田純教授、その一節には、こうある。

「私は、核爆発災害研究の専門科学者として、世界の核被災地を調査してまいりました。その結果、中国共産党がシルクロードの要所であった楼蘭遺跡周辺での総威力22メガトンの核爆発により世界最悪の災害が発生したことを、確認しました。

その総核爆発は、広島の核の1375発分です。現地では 100万人以上のウイグルの人たちが死傷しているのです。>伊勢雅臣「シルクロードの裏側」より。http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

NHKはその事実をよく調べもせず1980年3月に現地入りして撮影し、『シルクロード』を放送。それを見て、27万の日本人がシルクロード入りし、知らずに放射能を浴びて帰ってきたというのだ。

この東トルキスタンと国境を接するカザフスタンは、かつてソ連の支配下にあり、そこにはソ連によるセミパラチンスク核実験場が設けられていた。中国の核実験の非道ぶりは、ソ連と比較しても明らかである。

ソ連の核実験場は四国ほどの面積の土地から人々を外部に移住させ、周囲に鉄線で囲いを設け、実験場につながる道路の出入りを厳重に管理していた。

その広大な面積においても、場外の民衆の安全に配慮して、最大0・4メガトンに抑えていた。さらに核爆発を実施する際には、核の砂が降ると予想された風下の村の人々を、事前に避難させる措置も一部とっていた。

ところが、中国は、鉄条網で囲んだ実験場など設けていなかった。しかも、最大4メガトンと、ソ連の10倍もの規模の核爆発を行った。

さらに住民に警告して避難させるなどという措置もとらなかった。逆に現地の農民は「(核爆発)基地では、漢人の住む方向に向かって、つまり西から東に風が吹く時は核実験をしない。西に吹いた時に行っていた」と憤っている、という。

人権や生命より共産主義国家の維持が先だと言う中国。その中国ならではの残酷さではないか。当に毛沢東が考案したという「人海戦術」そのものではないか。兵や人民は消耗品に過ぎないという思想が毛沢東イズムというべきではないか。2009・11・29