2013年04月07日

◆ASEAN外相会議へ初参加のころ

渡部 亮次郎


1976年8月、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの東南アジア5カ国が結成した地域協力機構たる東南アジア諸国連合(ASEAN)。84年1月からはブルネイも加盟国となった。

76年2月にバリ島で開いた第1回首脳会議では、「一体化宣言」と「友好協力条約」を調印した。域外先進国との経済関係強化のため、78年以降、日本、米国、EU、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国の外相を含めた拡大外相会議も開いている。

92年1月、シンガポールで開催した首脳会議ではASEAN自由貿易地域(AFTA)構想を採択した。その後95年7月にベトナム、97年7月にミャンマー、ラオスが加盟し、99年4月のカンボジア加盟で域内のすべての国からなる「ASEAN10」を実現した。

07年1月にフィリピン・セブで開いた首脳会議では2015年の「ASEAN共同体」実現を目指した宣言を採択した。

さてASEANに対して日本は結成当初から外相会議への参加を要望していたが、主としてフィリピンの強い反対で拒否されていた。

しかし1978(昭和53)年になってようやく参加を認められ園田直外務大臣が6月16日(金)、会場となるタイの景勝地パタヤに到着した。

35年も前のことだから記憶はおぼろげだが、ホテルはASEAN外相会議が開催される「ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル」だった。タイ警備隊のメンバーのくゆらす煙草が甘い香りを発していた。ホテル内のいたるところに飾られた花は強い原色なのに、香りがまったく無いのに気付いた。

それにしてもASEANが日本の参加を永らく拒否したのは大東亜戦争の加害者に対する拒否感からして当然だろうが、「大きな声じゃ言えないが、マッカーサー米元帥のフィリピン駐在当時、その副官を務めていたロムロがいまやフィリピンの外相。ロムロがキーマン」という情報を得た。

そこでロムロは会議で何をやらかすか分かったものじゃないという疑念にとらわれた。翌朝早く起きて、外相会議の会場を独りで見に行ったところ、机の配置に悪意がある。

こうした場合、6カ国は「対等」なのだから6角形にして坐るのが普通なのに、ASEAN側5カ国が横一列に並び。向かい側にポツンと日本が坐る事になっている。「これじゃ口頭試問だ」と怒り、大臣に報告した。

ロムロとマッカーサーとの関係。「ウィキペディア」によれば、1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻ったマッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。

アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーはケソンの求めに応じてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。

この頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーとロムロであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。

1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

1941(昭和16)年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と断じた。

オーストラリアに退却したマッカーサー。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。

2ヶ月に亘って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。

しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

そこで、ルーズベルト大統領はマッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへの脱出を命じた。

マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。ロムロも一緒だった。日本軍への恐怖と怒りは頂点に達していた。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。

そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。

ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意を渋々呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。

この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。コーン・パイプを咥えながら。

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

日本が加わった初のASEAN外相会議が始まった。机は並べ直されて6角形になっている。冒頭、園田外相が言った。日本から「口頭試問を受けに来たソノダです」。逆手に出たのだ。通訳されると会場は爆笑。会議は成功。

夜のレセプションでは議長役ウパディット・タイ外相の提案で「かくし芸大会」となりミスターソノダは「黒田武士」を歌ったが、音痴なので歌になっていなかった。

それでもすっかり打ち解けた雰囲気になり、翌日はクリアンサック首相の私邸に招かれ、首相がみづからなさる手料理をご馳走になったが、私は天井に張り付いたヤモリが何時落ちてくるかばかりが気になって、何を食べたか記憶が全く無い。

なお、ロムロと園田は「意気投合」し「親友」となった。(再掲)


◆14歳までの訛は抜けない

渡部 亮次郎


記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は、私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は説明不足を説明するのに東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れするが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。ここでは東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。 「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。

2013年04月04日

◆共産中国何時まで保(も)つか

渡部 亮次郎


共に評論家の加瀬英明氏と宮崎正弘氏が共産中国の近い将来を懸念している。肝腎中国国内でも習近平主席の恩師が「共産党はせいぜい5年」と発言して反響をよんでいる。一体、共産中国はいつまで保(も)つのだろうか。

加瀬さんは「全体主義国家がオリンピックを開催すれば、その大体10年後に国家の崩壊を招くのは歴史的事実だ」とかねて指摘している。

加瀬説によればナチス・ドイツは1936(昭和11)年にヒトラー総統指導の下、ベルリン・オリンピックを開催下が、9年後の1945年に崩壊した。

またソヴィエト連邦はモスクワ・オリンピックを1980年7月に主催したが11年後の1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された。

一方、今や中国ウオッチャーとしては当代一流たる宮崎氏は就任したばかりの習近平主席(任期10年)を「ラスト・エンペラー」と評してはばからない。

所得格差の拡大の収まらない国家、構造的汚職の絶えない国家が発展したためしがないとするヒラリー・クリントン前米国務長官の発言を踏まえたものだ。

私が中国を初訪問したのは1972年。日中国交正常化のための田中角栄首相に同行取材するためだった。その時は文化大革命こそ下火に名って掃いたが、共産党革命の最大指導者毛沢東はまだ存命中。

走資派トウ小平は失脚中。中国全体は極めて貧しかった。


それから6年後、1978年8月に日中平和友好条約の締結交渉に外務大臣秘書官として同行したときは。共産党主席こそ華国鋒だったが、
中心を握っていたのは復帰を果たしていたトウ小平。間もなく条約の批准書交換のために初来日。帰国後「改革開放路線」を定着させた。

これは経済発展のために「開放」により日本を初め外国資本の導入を促し「経済は資本主義」化するが政治は依然共産党」主導というものだった。かくて「共産主義」とは相容れないはずの収入の格差拡大と汚職の蔓延に留めがかからなくなってしまった。

これは「矛盾」を正当化するからである。

もともと資本主義こそは「自由」と成長が原則である。それにも拘らず「共産党」という「政治」がそれを束縛しようとする。法治国家ではない中国においてはこの束縛をくぐりぬける唯一の手段が賄賂であり、汚職となる。

共産主義体制でありながら経済は資本主義というのは、ある種の自己否定である。毛沢東は走資派のトウを殺しはしなかったものの側近には決して取り立てようとしなかったのはこのためである。

一方、共産主義体制は「情報の管理」を強制しなければならない。人民の口をふさぎ目を塞ぎ。手を縛らなければ共産主義体制の統制がたもてなくなるから当然である。共産中国がネットを強制管理しているのはこのためである。

しかし共産中国としては自らの正当性を誇示するためにしなければけない事は経済の持続的成長もさることながら、国際的な地位の向上も誇示しなければならない。その一例がオリンピックの招致
であろう。

シカシオリンピックは大量の国際観光客の流入と共に共産党にとっては好ましくない情報の流入も必然的に招く。ソ連は閉鎖国家だったがオリンピックにより国民は資本主義情報に汚染された。自分たちが共産党によって貧困に貶められていること、共産党体制の非合理性を知ってしまった為にソ連は間もなく崩壊したのだった。

現代中国における唯一の反体制団体の一環【大紀元日本】が4月1日に報じたところによると、習近平国家主席がかつて名門・清華大学法学院で博士号取得に向けて研究を行っていたときの指導教官孫は立平という教授だった。その教授が、「共産党政権もあと10年は存命不可能で、せいぜい5年」と言い切った。

<孫教授は政治に関与せず、独自な哲学と自由な思想をもつ学者として注目されている。

孫教授は昨年末、中国の有力紙『財経』が主催したシンポジウム「2013:予測と戦略」において行った演説で「各級の政府は目的達成のためにいかなる手段も辞さず、悪事を働く権力さえ与えたた
め、中国を法治と無縁の国に落とし入れてしまった」と容赦なく批判した。

孫教授は「革命が静かながらすでに起きている」とし、「もし共産党が歴史と断絶するチャンスを失えば、何年かの内に必ず異変が起きる」と警鐘を鳴らし、「共産党政権もあと10年は存命不可能で、せいぜい5年」と言い切った。

参加者が1000人を超え、国内外の著名な学者や商務省大臣の陳銘氏、前全人代副委員長の成思危氏などの高官が臨席しただけに、孫教授の発言は強い衝撃を与えた。

孫教授は講演で、特に「維穏」(安定維持の運動)に言及し、「維穏は実際、法治に対する大きな破壊であり、法治を無視することだ」と厳しく批判した。

維穏は共産党に反体制と判断されたすべての人々を取締っている。その体制は胡錦濤時代を経て、習近平時代に至っている。

元中央政治局常務委員であり、「維穏」の最高責任者であった周永康氏は在任中、「維穏」は共産党政権を守るための不可欠なものだと位置づけたため、「維穏」任務に当たる政法委(警察、司法、公安関係)が絶大な権力と潤沢な資金を手にすることができた。

こうした背景で、政法委は制約、監督されることがなくなり、手にした特権を武器に職権乱用し、違法的な取締りを行ってきた。中国の幹部の腐敗が山ほどあるが、もっとも深刻で国民に憎まれるのは政法委関係の司法腐敗なのだ。

司法の腐敗や高圧的な「維穏」によってもたらされた結果の危険性について、習近平氏はむろん十二分に知っている。そのために、習氏が国家主席になってから周永康氏が掌握していた政法委のトップは最高指導部メンバーから除外された。

しかし、現体制の下でいかなる改革や腐敗是正を行っても、いずれも失敗に帰すに違いない。習主席は、無駄な努力をするよりも「国師」の警鐘に耳を真摯に傾け、そして中国、世界、人類の未来のために知恵を絞って根本的な対策を講じればいかがだろう>。(大紀元日本)            2013・4・3  
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2013年04月03日

◆記者会見は嘘つき大会

渡部 亮次郎


「記者会見は嘘つき大会。会見を基に記事を書いてはいけない」といい続けたのは、NHKで政治記者から会長になったシマゲジこと島 桂次。ならば今どきの記者は記者会見だけを基に記事を書いているから、嘘を報道していることになる。国民がマスコミを信用しなくなっている原因がここにある?

何故、記者会見は嘘つき大会か。

「な、分かるか。記者会見の記者とは不特定多数、何処の馬の骨とも分からぬ奴らを相手に真情を吐露する政治家なんていない。そうだろ。適当に辻褄を合わせて話しているだけ。嘘のつきっぱなしサ。分かるだろう。

それが証拠に、政治家は記者会見の後、必ず小便に行く。人間、嘘をつくと小便をしたくなるものなんだ。だから国会の便所では並んで小便をしながら、本当はどうなんですか、と聴いてみろ。本当はね、と必ず答えるよ」。

私は幹事長時代の田中角栄にこれを試してみてしばしば成功した。本当だった。

島はだから、政治の取材は特に一対一、いわゆる「差し」の取材で得たネタ以外は信じてはならないといい続けた。

島は昭和2(1927)年6月30日、栃木県足尾町(現日光市)に生まれる。44年海軍兵学校に合格。戦後、旧制新潟高校を経て東北大学文学部美学美術史科を卒業。1952(昭和27)年3月、NHKに記者として入局。仙台、盛岡勤務の後、東京転勤、政治記者となる。

短期間、三木・松村派担当を経て池田勇人はを長く担当。池田を始め大平正芳、鈴木善幸らの他、早くから佐藤派の田中角栄の知遇を得る。

私もNHK記者としては仙台、盛岡、政治部と全く島と同じコースをたどったが、そんなことに気を配る島ではなかった。とにかく当時の首相、池田勇人との仲を誇示し「蚊帳の中に入ってまで話を聞ける」と豪語していた。

しかしあまり法螺を吹くものだから先輩たちに妬まれ、政治部長にはなれず、政治部から追われるように同じ報道局でも政経番組部長に就任した。ここで政治家との距離の近さを踏み台にたちまち出世して行った。

島はいわばその異能ゆえ、国会逓信族に狙われ、最後は追われるようにNHKを去った。しかし「記者会見を信じるな」を始め後輩に遺した「忠告」は数限りない。だが、後輩に当る今の政治ジャーナリストたちが箴言を守っているかと問われれば、竦むばかりじゃないか。

島の残した言葉はジャーナリズムの原点とも言うべきもの。記者会見と、ぶら下がりばかりのテレビ・ジャーナリズムにいつの間にか活字ジャーナリズムが引きずられている。そこに国民のマスコミ不信の根があるように思えてならない。

記者会見もぶら下がりも「絵」にはなるからテレビの編集には好都合だ。しかし、島が指摘したように記者会見に真実が無いとすえれば、視聴者は嘘を聞かされながら真実に裏切られている。

まして「ぶら下がり」に真相があるとは思われない。下がられた首相や政治家は真実よりも言い逃れを並べているだけでは無いか。森喜朗が自ら首相になってぶら下がられた時にそう言っていた。

新聞こそはぶら下がりに頼ることなく、率先して「差し」に取材の原点を戻す努力をして欲しい。新聞はテレビに隷属して堕落した。国民はそこに失望している。敬称略。

2013年04月01日

◆マスコミ用語の変遷

渡部 亮次郎


NHKの記者研修で厳しく言われたことは○○を「上回った」と言う表現はあっても「下回った」と言ってはならない。上回ることは表面張力の点からある現象だが「下まわる」事はあり得ない物理現象だから、と厳しく言われた。

しかし、現在、NHKでは「下回る」がおおっぴらに使われている。

NHKだけでない。新聞も使っている。天気予報など気象情報でもそうだ。マスコミが使えば、世間が使う。

先ごろ「未成年」はいまだ成年にあらず。未は「まだ」と「ず」と2回読む「漢文」から来ているのだから「まだ未成年」といっちゃいけないと自分のメルマガに書いた。

そしたら国語教師だった人から「使ってもおかしくない」といった趣旨の反論があった。あまり恥かしいから没にしたらご不満の様子である。国語の教師でも漢文を習わぬ時代になっているのだ。

私の若いころは政局の見通しについて判らなければ「成り行きが注目される」と逃げる記者が居た。これを称して「なり注原稿」と揶揄したものだが、いまの政治記者連中は「不透明」と言う言葉で逃げる。

「不透明」とは状態を示す言葉であって、記者の主観から逃げている。無責任な原稿と言われても仕方がない。例えば小澤が辞めるか否かは「不透明」なのではなく「ご本人も決断できない状態」であるのだから「不透明」というべきで「判らない」と書くべきだ。

最近はテレビも新聞も問題の見通しは「不透明だ」という表現を使う。見通しが立たない、解決の目途(めど)は立たないと言っていたものが、一層、他人事(ひとごと)に突き放したいいかたをする。

ニュースは利用者に「断定」の材料を提供する仕事である。それなのに「成り行きが注目」されたり「不透明」だと逃げたのではニュースとはいえない。

就中、私が1968年に入社したNHKでは聴取者からの反発を恐れて断定的な結論を出す事を嫌った。あとで結果的に外れた時の反発や抗議の電話集中的にかかってきて、交換機が炎上すると脅かされた。事実かどうかは知らない。

当方は血の気が多い方だからこれに反抗。「ああでもない、こうでもないでは,どうでもないニュースといわれるではないか」とむくれた。独自の見解を披瀝しないのだったらNHKは糊と鋏の頭文字かと毒づいたりもした。

佐藤栄作内閣時代のことだ。衆議院の解散に伴う投票日の設定が焦点になった。幹事長田中角栄は何日といい、国対委員長園田直はそれとは違う「大安吉日」を指定した。「総理はなんと言っても大安吉日が好きな性格だから、間違いない」との断定的な解説付きだった。

だが幹事長と国対委員長では総理・総裁との政治的距離が圧倒的に違う。幹事長の方が格段に上なのだ。だからNHKは角栄のいう説を選んだ。しかし、角栄は間違っていた。

佐藤栄作研究は時間的には角栄のほうが長かったが、突っ込み方は園田の方が鋭かった。解散日を決める三者会談の際、角栄は椅子に半分しか腰掛けていなかった。これは栄作を恐れている証拠。

園田は嘗ては栄作とライバル関係にあって戦っていた故河野一郎の直系の子分。従って総理と幹事長の関係を冷静に観察する余裕がある。園田説が真実に近い。だが私の主張は部長の決断で否定された。

だがやはり園田説が正しかった。投票日の日取りに間違いがあったという「訂正記事」を書かされ、それに対して報道局長賞(金一封)が出た。訂正記事に特ダネ賞はNHKでは空前絶後では無いか。

果たせるかな後年、ポスト佐藤の場面になった時、佐藤が自分に信を置いていないことを知っていた角栄は腕力で佐藤をねじ伏せるようにした。参議院の天皇は「カネを積んだのだ」と非難した。これで「禅譲確実」と言われていた福田赳夫を角栄は蹴落とした。

福田側についていた園田はこの結果、田中,三木亮政権の数年間、冷や飯をくうことになった。園田の佐藤研究は鋭かったが、田中研究はまるでなって居なかったのである。とんでもない方へ話は流れてしまった。乞ご寛恕。


2013年03月31日

◆今明かされる日中首脳会談

渡部 亮次郎


私もはや傘寿が近い。死ぬ前に体験記を出来るだけ遺そうと努力している。中でも日中国交回復同行取材記は最重要だと思うが、当時,同行記者団(80人)に、責任者の官房長官二階堂進は一切、発表しなかった。中国側に口止めされていたからだろう。

2012年10月、桜美林大学教授早野 透は中央公論新社から新書「田中角栄 戦後日本の悲しき自画像」を上梓し日中国交正常化について田中自身の「回顧談」を明らかにしている。

日中国交正常化に先立って田中は首相就任前から、外務省中国課長橋本恕(ひろし)に個人的にレクチュアを受けていた。

日中国交正常化は歴史の流れではあったが、ポスト佐藤を狙うに最高の政策は日中国交正常化であることを田中は承知していた。以下早野の著書から引用する。

「毛沢東、周恩来の目玉の黒いうちにやらなきゃと思ったんだよ。二人は何度も死線をくぐって共産党政権を作った創業者だ。中国国民にとって肉親を殺されたにっくき日本と和解して、しかも賠償を求めないなんて決断は、創業者じゃないとできないんだ。毛沢東と周恩来が言えば、中国国民も納得する。ふたりがいなくなって2代目になったら、日本に譲るなんてことはできるわけがない」

角栄と周恩来の第1回会談は、角栄が北京に着いた1972年9月25日の午後早速行なわれた。周恩来は「大同を求めて小異を克服したい」「日本人民に賠償の苦しみを負わせたくない」(日米関係はそのまま続けて問題は無い)などと語った。

角栄談。
「私は、日本は中国に迷惑をかけっぱなしだったと言ったんだ。すると周恩来はそれじゃあんたはどうするんだと切り込んでくる。

だから、私の方からここ(中国)に来たんだと答えた。

そうしたら周恩来は、日本に殺された中国人は1,100万人であると言って、どこどこでどれだけ中国人が殺されたかを言うんだ。大平(外相)も二階堂(官房長官)もたまげて聞いていたね。私は、死んだ子を数えてもしょうがないと口に出しそうになった。しかし田中角栄も政治家だ。黙っていた。

しかし黙っていてもしょうがないので、日中両国が永遠の平和を結ぶ以外に無いと話した。だけど、あなた方も日本を攻めてきたことが在ったけど上陸に成功しなかったでしょ、と言ってしまった。

周恩来は色をなして怒った。「それは元寇のことか、あれはわが国では無い、蒙古だぞ」という。そこで私は引き下がらない。1000年の昔、中国福建省から九州に攻めてきたではないか、その時も台風で失敗した、と言い返したら周恩来はたいしたもんだ「あんたよく勉強してきましたね」と鉾を収めた。首脳会談というのは、そういうものだよ」。

田中と周恩来の公式会談については日本外務省も既に公表しているから、いずれ明らかにするが、日本側に全く記録の無いのが毛沢東との会見記録である。中国側には有るだろうが、日本側には1行もない。

その理由は会見に日本側随員が一切認められなかったからである。
記録員はもちろん、通訳の同行も認められなかったからである。同行記者団に朝になっていきなり会見の模様を写したカラー写真が中国側から手交されて、はじめて「引見」の有ったことが知らされたのである。

9月27日の深夜、田中と大平外務大臣、二階堂官房長官はたたき起こされ毛の邸宅で毛と会った。毛が昼夜逆転日常を送っているのにあわされたのである。随員も通訳もなし。これでは「引見」でしかない。

<「もう喧嘩は済みましたか」と毛沢東が言った有名な会見である。角栄が「周総理と円満に話しました」と答えると。毛沢東はそばの日本通の寥承志を指して、「彼は日本生まれなので、帰るときぜひ連れて行ってください」という。

角栄は「寥先生は日本でも非常に有名です。参議院全国区に出馬されれば必ず当選するでしょう」と答える。話が下世話である。

毛沢東も調子をあわせて「日本は選挙があって大変ですね」と聞く。
角栄は「街頭演説をしなければ、なかなか選挙には勝てないのです」
「国会も言うことを聞きません」と答える。

角栄がマオタイを飲んだと言うと、毛沢東は「あまり飲むとよくないですよ」と答える。

「中国には古いものが多すぎて大変ですよ。あまり古いものに締め付けられると言う事は、良くないこともありますね」と毛沢東がいうのは「造反有理」の文化大革命のさなかでもあったからだろう。
角栄はどこまでも無手勝流である>。

<角栄は周恩来の日本訪問を誘った。しかし青春時代を日本で過ごした周恩来は「自分は生きては日本を二度と訪問するすることは無いでしょう」と答えた。周恩来は癌におかされていた>。
それから3年後、周恩来は死んだ。

角栄が調印した1972年の共同声明には「日中平和友好条約」の締結が記されていたが、実現したのはライバルだった福田赳夫政権で
園田直外相によってだった。その時私はNHKを辞め園田の秘書官になっていた。

条約の批准書を交換のため初来日したトウ小平が1978年10月24日、東京・目白の田中邸に角栄を訪ねた。

<その日、角栄は朝からうきうきしていた。「あれから6年、那害遥で瞬く間だ。人生そんなものだな。明治以来、日本の歴史は半分くらい日中問題が占めた。平和条約ができてよかった。中国大陸で自分の子を失った母、夫を失った妻の心もこれで整理がつくだろう」

トウ小平が現れた。
角栄「日中の新しいスタートですな」

トウ「東洋人ですので、古いことも忘れ難い。こうしてあなたを訪問できるのはうれしい」

角栄「周恩来さんと会って入る様な感じです」

トウ「あなたが北京にこられたときは、北京の郊外にいました」
トウ小平は文化大革命で「走資派」と指摘されて失脚、強制労働をさせられていた。

――ー庭では二階堂創め田中派議員の面々40人もが待っていた。白いグラスに新潟の酒を注いで乾杯シタ。―――

角栄の政治家人生を観望して、日中国交正常化の成功は「上機嫌の時」だった。その後は「不機嫌の時代」ばかりである。しかし中国だけは角栄を「井戸を掘った人」として大事にした。どんなにありがたかったことだろう> 敬称略2013・3・30

2013年03月30日

◆したたか大阪人・服部良一

渡部 亮次郎

大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かな
い。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一

1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2013年03月28日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載をした>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年03月26日

◆「頂門の一針」の1週間休刊のお詫び

主宰者 渡部亮次郎


この度は私の不注意から転倒による右手等の負傷のため当「頂門の一針」を8日間も休刊してしまい、大変申し訳ありませんでした。この間多くの方々からお見舞いや激励のお言葉を賜り、允にありがとうございました。

お蔭さまにて右手のギブスが25日夕方取れましてマウスの操作は自由になりましたので配信を再開いたします。

振り返れば18日午前10時半ごろ、猿江公園のトイレに入ろうとしたところ、急ぎすぎて段差に左足をひっかけて前向きに転倒。右手、右胸を強打しました。そのときはさしたる痛みを感じませんでしたが、夕方になって患部に強烈な痛み。

急遽かけつけた整形外科医院で右手首と左胸部肋骨にヒビがはいっており全治1ヶ月との診断。ヒビでは自然治癒を待つしかないためです。

右手首にギブスを装着されたため、PCのマウスは操作することが当分不能となりましたため、当分の「休刊」をお願いせざるをえませんでした。

医師によれば回復は順調で、とりあえずギブスは25日限り不要となりましたので配信再開にいたりました。

うれしいことがもう一つありました。休刊中愛読者が一人だけながらふえていました。ありがたいこと限りありません。

                             以上


◆作詞家の罪の数々

渡部 亮次郎


楡(にれ)の木に鳥が鳴く アルプスの牧場よ と灰田勝彦が良く歌っていたが、楡の木を見たことが無かった。高校の先輩、東海林太郎も「楡の花咲く時計台」と言う歌を歌っている。よほど詩心を揺すられる木なのだろうか。

私の生まれた環境は四方が水田ばかり。写生する風景がどこにも無かった。ところが老年になって東京湾岸、江東区に住むようになって、都立猿江恩賜公園で楡の木を見つけた。なんとも穢い樹皮をまとった木では無いか。

公園事務所がわざわざ「にれ」と言う札を付けてくれなければ見向きもしなかっただろう。とにかく、樹皮は黒くひび割れて、ばらばらと今にも剥げ落ちてきそうである。

にれ(楡)はニレ科ニレ属の落葉樹と半落葉樹の総称である。シベリアからインドネシア、メキシコ、日本まで北半球の広範囲で見られる。にれの実は丸い翼果である。にれの全ての種は土壌pHに耐性がある。

にれには20から45の種類がある。数の曖昧さは種の範囲設定についての困難さに起因する。にれの木材は木目が絡み合っていて、結果的に分割に抵抗がある。主に車輪、椅子のシート、棺に使われる。この木材は腐食にも強い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和38(1963)年に大ヒットした歌謡曲に西田佐知子の「エリカの花散るとき」と言う実に詩情溢れる歌がある。

エリカという響きはなんとなくロマンティックだが、実物を見ると、わたしなら見て詩を書くような気にはならない。詩人は現物よりも名前の響きに詩心を寄せるものらしい。

「青い海を見つめて 伊豆の山かげに エリカの花は咲くという 別れた人のふるさとを 尋ねてひとり 旅をゆく エリカ エリカの花の咲く村に 行けばもいちど 逢えるかと」。ベテラン水木かおるが謳いあげた。

エリカ Erica ヨーロッパからアフリカに分布するツツジ科エリカ属の常緑低木群(→ 低木)の総称。

荒地や岩場に生える(→ ヒース)。高さは15cmくらいから3mまでさまざま。葉はふつう3〜6枚で輪生し、線形で厚く、裏面に深い溝が1本はいっている。花は総状または散形花序(→ 花序)につき、花の色には白、ピンク、赤などがある。

日本では南アフリカ原産のジャノメエリカが切り花、鉢植え用としてよく栽培される。喫煙用のブライヤー・パイプは地中海沿岸から西南アジアに分布するエイジュの根からつくられる。

ギョリュウモドキはエリカ属ではないが、花がエリカに似ているので、園芸上、エリカとみなされることもある。

「空の雲に聞きたい 海のかもめにも エリカの花の 咲くところ 逢えなくなって なおさらに はげしく燃える 恋ごころ エリカ エリカの花が散る時は 恋にわたしが 死ぬ時よ」

確かにエリカには「孤独」と「寂寞」という花言葉がある。詩人はそれを知って歌をつくった。西田佐知子の代表作として残っている。作詞家とは何も無いところから恋の歌もつくる。罪なことをなさる。

反対に川内康範氏のような「生命を賭けて」作詞する人もいる。大島紬を着た女性が出てくる、文章にすればわずか5、6行の場面を書くために、八丈島の泥染めをしている老婆に会ってきたことがある。それだけ作品に対して真摯に取り組んでいることを示す著名なエピソードである。

だから「おふくろさん」に関して起きた森進一氏とのトラブルの行方は森氏が考えるような簡単なものではない。私も何度か会って、その激しさを知っている。その理由を2007年3月15日発売(東京)の「週刊新潮」が詳しく書いている。

参考. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.2007.03.03

「愛染(あいぜん)かつら」。昭和13(1938)年に公開された松竹映画。明治天皇の落胤と伝えられた作家川口松太郎の原作。当時、物凄くヒットした映画であり、主題歌「旅の夜風」も大ヒットした。

当時2歳だった私はそんな事は知らない。愛染桂という木があるのかと捜したがなかった。桂といえば、昔赴任した秋田県大館市の昔の城は桂城。桂とは何となくロマンティックだが、猿江公園で確認した桂は穢い肌の木に過ぎなかった。

カツラ(桂) 山地の渓流沿いに生え、新緑と黄葉がうつくしいカツラ科の落葉高木。北海道から九州までと、中国、朝鮮半島に分布。日本各地の庭や公園などにも植えられている。高さ20〜30m。

樹皮は縦に割れ目があり、はがれやすい。葉は対生し、丸みのある広卵形で、基部はへこむ。雌雄異株。4月ごろ、葉に先だって雄花と雌花が短枝に多数ひらく。

花には萼(がく)も花冠もないが、雄花の多数の葯が赤紫色でうつくしい。果実は円柱形の袋果でややそりかえる。黒紫色に熟すとわれて、先端に種子をだす。

カツラ材は香りがよく、緻密で耐久力があるので、建築、家具、船舶、楽器、彫刻、鉛筆などにつかわれる。

近縁種に葉がカツラより大きいヒロハカツラがあり、中部地方以北に分布する。

桂という漢字は、元来ニッケイやモクセイ(木犀)など香りが高い木にあてられるものであった。景勝地として知られる中国の桂林などはキンモクセイにちなむとされる。また中国では、月に生えると想像された木にもこの字があてられた。

文句をつければ只の栃の木をわざわざフランス語で「マロニエ」と言って、上等のように見せるのにも腹が立つが、いい加減に止めておこう。



2013年03月23日

◆インド直伝のカレーは

渡部 亮次郎


日本のカレイライス乃至ライスカレーは、初めはカレー粉のインドからではなく、英国海軍から明治時代の日本海軍に伝えられたものだった。それは兵士を苦しめる病気「脚気」(かっけ)対策としてだったから、小麦粉(ビタミンB1)一杯の「粉っぽい」ものだったのは当然である。

しかも除隊した海軍兵士たちが家庭にそのまま伝えたから、日本中のカレーが粉っぽいものとして定着したのは当然である。私の義兄が富士屋ホテルだかどこかのホテルで習ってきたカレーは、いま市販されている固形ルーを使ったものより、黄色でもったりして、明治を思わせる。

「こんなものカレーではない」と文句をつけたインド人が1915(大正4)年暮、日本に亡命して来た。ラス・ビハリ・ボースという。このボースが東京・新宿の「中村屋」に入って「純インド式」のカレーを教えた。

<ボース
Rash Bihari Bose(1886‐1945)

インド民族運動の指導者。日本に長く在住して〈中村屋のボース〉として有名。1908年ごろからベンガル民族運動を指導し,当時の風潮のなかでテロリズム系の運動を行う。

12年,インド総督ハーディング(英国人)に爆弾を投てきして負傷させたが,15年ラホール兵営反乱は失敗に終わった。

15年,訪日し時を同じくして亡命中の孫文と邂逅し,知遇を得た。その年の11月,イギリスの圧力による国外退去令に際して,孫文,頭山満などの助けにより,中村屋主人の相馬愛蔵・黒光夫妻のもとに隠れた。

その後相馬夫妻の長女俊子と結婚。41年太平洋戦争勃発とともに,インド独立連盟総裁としてインド国民軍結成のため日本に協力した。

過労のため体調を崩し,東南アジアより日本に戻り,45年1月インド独立をみることなく没した。

2006年5月21日の産経新聞によると、もともと中村屋は東京大学のある本郷で明治34(1901)年、パン屋として創業し、後に新宿に移転。昭和2年に喫茶部を開設したときにボース直伝による「純インド式カリー」を出して東京っ子の舌に衝撃を与えた。

<相馬黒光 そうまこっこう 1876‐1955(明治9‐昭和30)

芸術家を後援した商人で,自身文筆もよくした。本名良。仙台に生まれ,押川方義の影響でキリスト教徒となる。

明治女学校を出て長野県の企業家で社会改良運動家相馬愛蔵と結婚するが,婚家の気風になじまず,1901年夫とともに東京に出,本郷にパン屋中村屋を開業した。

はじめは苦労を重ねたが,店を新宿に移してからは東京の西郊への発展も幸いして事業はしだいに軌道に乗り,山手のインテリ層を中心に顧客をひろめた。

彫刻家荻原守衛,肖像画家中村彝(つね),ロシア人の詩人エロシェンコらのパトロンとなり,また15年インド独立運動家 R. B. ボースを中村屋内にかくまい,長女を嫁がせた。自伝《黙移》がある。岡部 牧夫>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

(相馬黒光のことを調べてみたら、この原稿の途中であることを忘れるぐらい、波乱万丈の人生を送った女性であった。いつか書いてみよう)。

インド人のボース。宗主国として植民地インドを支配するイギリス。そのイギリスの、しかも海軍からの移入と聴いて、独立運動の戦士ボースは耐えられなかっただろう。「東京のカレーうまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸がムカムカする」と昭和7年、日本の新聞に喋っている。

ところでボースのカレー伝授については後で触れるとして、ボースを中村屋に入れた頭山満は友人頭山興助(おきすけ)のお祖父さんだが、失礼ながら、詳しくは知らなかった。

<頭山満 とうやまみつる 1855‐1944(安政2‐昭和19)

明治・大正・昭和期の国家主義者。黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。1876年同藩の不平士族の蜂起計画に加わって逮捕され,1年間入獄。

79年板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立,同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。

しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇してその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,同社をこの国権論で統一する一方で炭坑を同社の財源とすることに成功して,同社の事実上の最高指導者となった。

87年,国権論宣伝のため《福陵新報》を創刊。条約改正反対運動で玄洋社員に大隈重信外相を襲わせたり,第2回総選挙で政府の選挙干渉に荷担して福岡県内の民党派を襲撃したことなどで,国権派壮士としての地位を築いた。

また,一部の大陸浪人がつくった天佑惟と称する団体に資金を与えたり,対露同志会などに加わり日露開戦を唱えたり,満州義軍を参謀本部の支持の下に派遣するなど,大陸侵略と強硬外交を主張しつづけた。

金玉均やビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し孫文ら中国人革命家の日本での活動を支援したのも,それを日本の大陸侵略活動の足がかりにする意図による。

この後,アメリカの排日移民法に反対した対米強硬外交の主張,普通選挙に反対する家長選挙論の主張などのほかは表だった活動をしなくなっていったとはいえ,右翼の巨頭として隠然たる勢力と政界への影響力をもちつづけた。桂川 光正>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

そこで中村屋の婿になったボースが作った純インド式カリーは海軍と違って小麦粉を全く使わないものだった。だからとろみが無い。その分さらさらしていた。牛を神聖化しているインド人だからビーフも使わない。

蛋白質は最上級の骨付き鶏肉、インドから直輸入したスパイス、当時「日本一美味」といわれていた武州幸手(さって)の白目米(しろめまい)、自社牧場製のヨーグルト、バターなど厳選した高級品。

他のカレー店では10銭前後だったのに中村屋のそれは80銭。コーヒーや果物とセットで1円だった。カリーとご飯は器が別だった。

中村屋は今も新宿本店でインド・カリーを提供している。何千円かは知らない。中村屋を真似たカリーが全国各地に普及しているはずだ。

私の生まれ育ったところは秋田の純農村で、米しかできない。魚は八郎潟の鮒とかなまず、どじょう。肉は飼っている鶏をつぶした時だけ。カレーは戦後になって母が一度だけ作ってくれた。


しかし美味だったという記憶はない。だから脚気にもかかったわけかな。東京へ出てきて大学の食堂では一皿20円だったように思うが、違っているかも知れない。(文中の引用<内>はいずれも世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)。

2013年03月21日

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎


秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。、第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。

歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇。並木は映画『そよかぜ』の主演であり、霧島昇も『そよかぜ』に出演している。

この映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。

<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から10代、20代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、60年以上を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している。

2013年03月19日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎


若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した人物。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付いて保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスにのっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した>。

鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれて評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルにいた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方がいいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えていた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なところでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談するという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だという外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田をまたピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんてどうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なんだから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当るか、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。
                   日本大百科全書(小学館)



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