2010年01月15日

◆くず屋乃至バタ屋

渡部亮次郎

<近世前期にすでに京の町には紙くず買がいた。1690年(元禄3)刊の「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」には,大きな布袋を肩にかけ,さお秤を携えた女の紙くず買の姿が描かれ,紙であればなんでも買い集めて直し屋(再生処理業者か)へ売るとしてある。

紙くず買はその後大坂,江戸その他の町にも現れ,近世後期には男性の仕事となり,古着,古銅,古鉄,古道具などをも買い集めるようになった。

布袋にかわって大きな籠を背負い,買い集めたものはそれぞれ直し屋,古着屋,古鉄屋,古道具屋などに引き取られ,口銭をもらった。こうしてくず屋ともいうようになった。

西鶴の「好色一代女」には紙くず拾いのいたことがみえ,山岡浚明(まつあけ)の《類聚名物考》には,関東の紙くず拾いは籠をかつぎ,竹の長ばしで道路に落ちている紙くずを拾うとしている。

近代ではくず屋は手車やリヤカーをひいて廃品や不用品を買い集め,紙くず拾いはバタ屋と呼ばれるようになった。

現代では一般に廃品回収業と呼ばれ,拡声器を備えたトラックで町や村を巡回し,古新聞や古雑誌をもとめる〈チリ紙交換〉がこうした業種を代表するものとなっている。>(世界大百科事典)

当たり障りの無いように書けば、このようにしかならない。

昔は秋田の田舎にも「ピールピンにサイターピン」と言って朝鮮人が空き瓶を回収に来た。戦後、彼らは暫く第三国人などと呼ばれて、
東京など大都会では肩で風を切って歩いたらしい。

しかし、温和な朝鮮人は「韓国人」と呼ばれ、隅田川や荒川周辺を根城に戦後、夥しく溢れるようになった段ボール空き箱の回収に専念するようになった。

集めた段ボールが川風に吹かれてバタバタという音を発するところから、彼らはバタ屋と呼ばれるようになった。これがバタ屋の語源である。バタ屋は「放送禁止用語辞典」に掲載され 廃品回収業者 資源交換業と言い換えろと指示されている。

隅田川と荒川に挟まれた「江東区」はバタ屋にとって馴染の土地だったから、苦労の末、カネを貯めたバタ屋は江東区に家やマンションを買った。そこで日本人に「帰化」し「在日」の顔を拭った。

かくて「類は友を呼ぶ」で、江東区のある、特定の町内は「コリアン・タウン」となって行くのは自然の流れだ。江東区への中・韓国人の流入の激しい背景はバタ屋に遡るのだ。

現在の廃品回収業者の実態は知らない。

敗戦前、山の手に住む人や日本橋、京橋、神田、谷中、浅草といった「下町」の人たちは隅田川左岸の江東区や墨田区が「下町」と呼ばれることを険しく嫌悪、「川向こう」と呼んだ。「川向こう」が放送禁止用語になっている理由は複雑である。説明すれば差別者にされかねないのである。2010・1・12
  
          

2010年01月13日

◆江東区に急増する中・韓国人

渡部亮次郎

1月11日に配達された東京都江東区報1637号によると「江東区にずっと住みたい」「当分は住みたい」と答えた人が区民の91・1%に上った。前回を3・6ポイントも上回ったそうだ。

区のHPによれば1日現在の総人口446,724人中、外国人は20,331人、4・55%である。

次に掲げるのはManachan's World−東京下町日記、2007年12月04日号だが2007年10月現在、江東区の外国人比率は4・0%だったそうだから、2年の間にオ・5ポイントも上がったわけだ。

<江東区は移民社会?
(Manachan)の実家のある千葉県柏から、今の住まいのある東京江東区に帰ってくると、街なかで外国語を耳にする機会が、かなり増えると感じます。

実際、江東区の東陽町や木場の界隈を歩いていて、中国語を一度も耳にしない日は少ないし、また東陽町のYMCAで、韓国語を耳にしない日は珍しい。またこの辺では、外国人のコンビニ店員さんが当たり前ですし、それが時々、東欧出身の金髪女性だったりすると、ちょっと嬉しい・・・。

私の実感は、データでもちゃんと裏付けられていました。

外国人登録者数の総人口に占める割合 (2007年10月)
千葉県柏市  1・5%
東京都江東区4・0%

参考までに、外国人登録者の人口比、全国平均は1・6%、東京23区平均は3・5%ですから、柏市は全国平均に近く、江東区は東京23区平均よりやや高い。

この江東区、近年の人口増加の凄さは全国でも類例をみないもので、時に「人口爆発」とよばれますが、なかでも、外国人の増加ぶりが目覚しい。実際、2006年1月から翌年1月までの1年間した区のうち最近の1ヶ月間では、江東区はなんと人口増加の43%が、外国人登録者増によるものだった!(人口増520名、うち外国人登録者の増加227名)。

驚くべきデータだ。このペースでいくと、現在4%の外国人比率が、2年後には5%に達するかも・・・。

いま東京23区で、外国人比率が5%を超えているのは、新宿区、港区、豊島区、渋谷区、台東区の5区だけですが、江東区が6区目に仲間入りする日は、もうすぐそこまで来ています。

東京全体の、外国人比率の分布をみると

1位:都心・副都心地域 (港区、新宿区など)
2位:下町の住宅地域 (江東区、墨田区など)
3位:山の手の住宅地域 (世田谷区、杉並区など)

という順序になっており、最も比率の高い港区・新宿区(10・0%)と、最も比率の低い世田谷区(1・7%)との間には、かなりの差があります。

日本全体でみれば、最も外国人比率の高い自治体は、

1位:大阪市生野区 24% (韓国・朝鮮人が中心)
2位:群馬県大泉町 16% (ブラジル人が中心)

の順になっています。それでも、私(Manachan)が数年前まで住んでいた、オーストラリアのシドニーは、完全な移民社会で、都市圏全体の外国生まれ比率が36%、私の家のあるParramatta地区はなんと59%・・・だったので、それに比べれば、東京の外国人比率は、まだまだ微々たるもんですね。

とはいえ、年々、高齢化する東京の人口を、働き盛りの外国人が補っている、という構図は、すでに確立しているようで、今後の東京は、ニューヨークやロンドンとまではいかないにせよ、欧州大陸の大都市並みに、外国人を多く抱えた多文化都市になっていくことでしょう。「多文化との共生」が、これから東京の街づくりのキーワードとなっていくんでしょうね。

最後に、我が家の近くで、外国人を特に多く見かけるスポットをいくつか紹介します。

東陽1丁目、八百屋「うじがわ青果」
この店に来る客の半分程度が中国人と思われる。その理由は、中国食材を売るトラックが、いつもここに停まっているから・・・

東陽2丁目、ホテル「ルートイン東京東陽町」
ディズニーランド目当ての、韓国人、中国人(台湾人)の団体観光客が特に多い。

枝川1丁目、「リトルコリア」
昔から、朝鮮・韓国人が多く暮らす地区。キムチやハラミ肉はいつもここで買ってます。

江東区一帯の公団住宅
礼金や契約更新料を払う必要がなく、また「外国人だから」という理由で門前払いを食らうことのない公団住宅は、外国人に人気があります。最近はインド人IT技術者と、その家族の姿が目立って増えてきました。>
http://plaza.rakuten.co.jp/manachan2150/diary/200712040000/
2010・1・11


2010年01月11日

◆「なめたらいかんぜよ」

渡部亮次郎

2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でになるのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画であることを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のものを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がったのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に次ぐ失態になる。2010・1・10


2010年01月10日

◆1月10日 110番の日

渡部 亮次郎

110番の豆知泉

警察直通電話「110番」の正式名称は『警察通報用電話』。

110番の歴史

警察に緊急通報するための電話がGHQの勧告により開設されたのは1948(昭和23)年10月1日のこと。

これはヨーロッパやアメリカの緊急通報制度を取り入れたものだが、最初は全国ではなく、東京も23区内だけで、あとは大阪も中心部だけで、あとは名古屋(愛知県)・福岡(福岡県)・京都(京都府)・神戸(兵庫県)という六大都市のみでのスタートだった。

さらに、この時は東京と名古屋だけが「110」で、あとの都市では「110番」に統一できず、大阪・福岡・神戸・京都は「1110」と言う4ケタの番号だった。


しかも統一化しようと考えているにも拘わらず、その後、名古屋はなぜか一度「118」に変更したりしている。

全国統一の「110」になったのは、スタートから12年も経過した昭和35年5月からだ。

東京の場合は、23区内にあった32の電話局からそれぞれ1回線を確保して受信にあたった。

今から考えるとかなり間抜けだが、警察の電話室に32個の電話機を置いて、電話が鳴ったと同時に担当係員が、どの電話が鳴っているのかを確かめる為にそれぞれの電話に耳を近づけて確認すると言うものだった。

当時は、無線司令などのシステムは無く(当然、現場近くのパトカーに直接電話するなんて事は無理)、警察で受け取った電話の内容を、再び事件通報に関係した警察署に電話をしなおして報告すると言うシステムになっていた。

1・1・0の理由

警察への緊急電話は「110番」と言うのは子供でも知っているが、何故110なのか?

これは、ダイヤル式だった頃に考えられたもので、基本的に警察に掛けるときは急いでいるので、一番ストッパーに近く、シャッシャッと掛けられる1を2回、そして最後の1つは「でもとりあえず冷静になって見よう」と言うことでストッパーから一番遠い0が採用された。

と言っても、これはダイヤル式の時代の話なので、現在のようにプッシュ式が主流になってしまうと意味はなくなってしまう話ではある。

アメリカの場合、イギリスの場合

アメリカやイギリスの電話は日本とダイヤルの配列が逆になっている為に、警察緊急電話もちょっと事情が違って来る。


アメリカの警察緊急電話番号は「911」

これは急いで掛けられる9を1回、ゆっくりの1を2回と言う状態です。

それに比べてイギリスの緊急電話番号は「999」で、とにかく迅速に掛ける事が出来るようになっている。

イギリス人はとにかくせっかちなのか、それともジェントルマンの国なので常に冷静なので、冷静に戻す必要はないのかも知れません。

1月10日 110番の日

年々増えつつある110番の利用に対し、いたずら電話を防止し、有効かつ適切な利用を呼びかけるためのキャンペーンのため、1986年に警視庁が制定した。

「事件・事故・見たら聞いたら110番」などの標語も誕生している。出典:知泉Wiki
http://www.tisen.jp/tisenwiki/?110%C8%D6

携帯からは単に「110」を押すこと。2010・1・9

2010年01月08日

◆岩手民謡「沢内甚句」

渡部亮次郎

昔のNHKは記者でも、地元の民謡の2,3曲は覚えないと転勤させないといわれた。仙台で新人教育の1年を終えた私は、福島赴任が噂されたが、なぜか下り線で岩手県の盛岡放送局に発令された。

赴任してみると、ニュースや番組を制作する放送部は、瓦葺、平屋の離れで、些か驚いた。担当は農協、木炭協会などで、たまには市町村長や県会議員を相手に「雑談」に花を咲かせた。その中から、結構、ニュースが出た。北上山中に「ウラン」発見などもあった。

雑談は夜に及ぶ事しばしば、花柳界に繰り込んで唄う羽目になった。今と違って「カラオケ」は無い。自然、芸者さんに地元の民謡を口移しで習うのが常だった。

「南部牛追い唄」や「外山(そとやま)節」「沢内甚句」などを習った。
中でも「南部牛追い唄」は50年以上過ぎた今でも、鼻歌になって出るし、「外山節」もそうだ。

明治24年に盛岡市玉山区外川に宮内省の御料(馬)牧場が発足し、多くの馬が育成されたが、「外山節」はその時には草刈り作業の唄だった。

後に、東北民謡の父と仰がれる遠野(とおの)出身の武田忠一郎は星川万多蔵と2人で外山へ出かけ作業員の唄を聞き、横笛をあわせてこれを採譜した(昭和7年)。

昭和12年、忠一郎は民謡歌手大西玉子の協力を得て、この元唄を編曲、キングレコードから発売、これが人気を呼んで岩手県を代表する民謡となった。(『東北民謡の父 武田忠一郎伝』黒沢勉による)

外山節

わたしゃ外山の
日陰のわらび
(ハイハイ)
誰も折らぬでほだ(木)となる
コラサーノ サンーサ
コラサーノ サンーサ

外山街道に 笠松名所
名所越えれば 行在所

あんこ行かねか
あの山越えて
わしと二人でわらびとり

わたしゃ外山の
野に咲く桔梗
折らば折らんせ今のうち

南部外山は 山中なれど
馬コ買うなら 外山に

西和賀町沢内は藩政時代、盛岡藩の隠し田の地であった。「沢内甚句」は飢饉の際に、庄屋の娘・よね(米)を藩に差し出し、年貢米減免の身代わりとした。その悲しみを唄った盆踊り唄。

「沢内三千石 お米(およね)の出どこ 桝で計らねで箕(身)で計る」

元は太鼓と手拍子だけで唄われる素朴な唄だったが、昭和の初めに三味線の伴奏付きでレコード発売されたことから全国に広がった。原曲は県北地方の「ナニャドヤラ」といわれ、低音から唄い始めるものと、中音、高音からのものという三つの様式があり、甚句の形式としても完璧な曲である。

ところで、東北民謡の父 武田忠一郎 は明治25(1892)年5月、遠野の士族の家に生まれた。父祖2代が教育者という厳格な家庭に育った。

県立遠野中学校(現在の遠野高等学校)に進み、明治43(1910)年に岩手師範学校(現在の岩手大学教育学部)を卒業後、釜石高等小学校を振り出しに県下各地で教員生活を送るが、

大正5(1916)年、少年時代から興味をもっていた民謡とわらべ唄の本格的な研究のために東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に通い、同7(1918)年に卒業。

岩手に帰り、大槌女子職業学校をはじめ方々の女学校で教鞭をとるかたわら、東北各地を訪ねて採譜の仕事を続けた。

この間に同僚の教員・石垣きんと結婚し四人の子に恵まれるが、昭和8(1933)年に妻・きんが死去。のちに弟子の大西玉子(民謡歌手)と昭和14(1939)年に再婚。

昭和16(1941)年にNHK仙台中央放送局に嘱託として迎えられ、"民謡採譜編集業務"を担当し、戦時下の物資不足の中で昭和17(1942)年から『東北の民謡第一篇〜岩手県の巻』の発刊を開始し、昭和37(1962)年までに『東北民謡集全8巻』を完成させた。

また昭和30(1955)年には仙台市に我が国初の「東北民謡学校」を開設し、校長に就任した。

作曲家としても知られ、母校・遠野中学校の校歌をはじめ、展勝地小唄や松尾鉱山小唄など県内外の民謡を作曲、「外山節」を編曲してヒットさせた。

多年にわたる功績に対し帝国教育会長賞、日本放送協会長賞、日本民謡文化賞などが贈られ、昭和44(1969)年には勲5等瑞宝章を受章した。晩年は仙台市の自宅で「太鼓教本」の編集に取り組んだが、昭和45(1970)年12月、82歳で生涯を終えた。

長女の安藤澄子は父の教えを受けて岩手の弦楽教育のために尽くした。末娘、真木は民謡歌手原田直之に嫁し、姉の武田歌子と共に民謡の指導にあたっている。2020・1・6

2010年01月07日

◆コショウ(胡椒)知らず

渡部 亮次郎

コショウを全く知らずに育った。米どころ秋田で生まれ育ったため、麺類を知らず、大学の食堂で友人がラーメンを食べる前に振りかけたのがコショウ(胡椒)というものであることを初めて知った。

田舎時代は肉料理といっても庭で放し飼いの鶏を潰すだけ。牛肉も大学に入って初めてだったから、肉料理に胡椒を振りかけたほうが美味しいというのも学生になってからである。

長じて「常識」を学んだ。ペッパー pepper はサンスクリット語のpippali(ナガコショウ)が転訛した語とされるが,インド産のものが中央アジアの通商路を経由して中国にもたらされたため,〈胡=西方〉の〈さんしょう(椒)〉とよびならわされた。

ギリシア・ローマ時代には南インドのマラバル産コショウがインド洋の貿易風(ヒッパロスの風)を利用して輸出された。中世に入るともっぱらアラビア商人が独占的に扱った。

15世紀末に新航路が開拓されると,ポルトガル,スペインなどは香料の獲得に力を入れ,マラッカ,キャンベイはその中継・集積港として栄え,また南インドのアラビア海沿岸の小海洋王国はコショウの輸出や関税収入を財源としていた。

17世紀にはイギリス東インド会社がアジア貿易を一手に握り,コショウはアイ(藍),キャラコとともにインドからの主要な輸出商品となった。

東インド原産のコショウ科の常緑つる植物。その実は最も古くから著名なスパイスの一つで,香辛味のほか防腐効果,食欲増進の効果などがある。

古代ローマ時代のヨーロッパでは,シナモンとともに最も珍重され,コショウの粒は同量の銀と等価といわれた。コショウ貿易の利益の独占をめぐって,15世紀からのいわゆる大航海時代には,ヨーロッパ列強の東方進出,植民地争奪戦争などの事件が相次ぎ,世界史をゆり動かす原動力にもなったといわれる。

青い未熟の果実を,房ごと収穫する。2日間日干しすると,しわがよって黒くなる。足で踏んで柄を除き,粒だけにしたものが黒コショウ blackpepper である。

完熟果を収穫し,流水に漬けるかした後,乾かしてから摩擦によって果皮と果肉を除去し,灰白色の種子だけにしたものが白コショウ whitepepper である。

コショウが日本にもたらされたのはかなり古いことで,天平勝宝8年(756)の《種々薬帳》(《東大寺献物帳》)に名が見えるように,はじめは薬種とされていた。

しかし,獣肉や魚の料理に用いられたこともあったようで,後三条天皇はしばしばサバの頭にコショウをぬって焼いて食べたと,《古事談》は記している。

いまでもトウガラシをコショウと呼ぶ地方がある(九州)が,トウガラシは渡来当初はコショウの一種と考えられていたらしい。


元禄(1688‐1704)ごろには薬屋で売られる一方,粉ザンショウなどといっしょにコショウの粉を売り歩く行商人があったことは,西鶴の作品などに見える。

近松門左衛門の《大経師昔暦》に〈本妻の悋気(りんき)と饂飩に胡椒はお定り〉とあるように,江戸前期、うどんにはコショウがつき物であった。後期になってそれが廃れたようで,大田南畝は〈近頃まで市の温飩に胡椒の粉をつゝみておこせしが,今はなし〉と《奴師労之(やつこだこ)》に書いている。

日本には,つる性常緑草本のフウトウカズラ P.kadzura (Chois.) Ohwi が関東地方以南の暖地に分布している。参考:世界大百科事典
2009・12・14

2010年01月06日

◆だまこもち食べる?

渡部亮次郎

「だまこもち」は、秋田県中央部の郷土料理。干拓以前の八郎潟の東側沿岸(湖東部といった)が発祥地である。潰したご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれ、主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

潰すご飯は新米が望ましい。したがって私が育った頃は、秋から冬にかけての定番料理。お袋は鶏肉と一緒に煮たが、シベリヤから飛んでくる鴨(かも)の肉が一番美味しかった。だまこ抜きでも。

隣町の五城目町(ごじょうのめまち)で、1959(昭和34)年に三笠宮崇仁親王がだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、周辺地域を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。

鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。


八郎潟周辺地域の、山林で働く木こりが弁当の飯を切り株の上に乗せ、斧の背で潰したものが起源とされている。一方、マタギ料理が起源であるとも言われ、だまこもちがきりたんぽの原型になったとする説もある。

以前は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

鍋に残っただまこを、翌朝、串刺しにし、囲炉裏の焚き火にかざして、こんがり焼けたところを食べるのが好きだった。60年前の話だ。

実を言うと、東京では、鮟鱇鍋や牡蠣鍋などを知ったし、冬は加えて「おでん」も美味であるため、だまこもち鍋はしたことがない。
2010年の正月鍋は同じ秋田県でも角館の隣「田沢高原」でとれた「山の芋」鍋をした。

グローブに似た「山の芋」を摩り下ろすと、強い粘りの為、団子状に丸める事ができる。これを鶏肉と「舞茸」、葱などを煮た鍋に落とし込んで食べるもの。なかなか風味があってよろしかった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2010・1・4

2010年01月04日

◆吉田茂の特別食は「人」

渡部亮次郎

吉田茂は妻の雪子を1941(昭和16)年に亡くしていたが、まもなく愛人の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて生活を共にし始めた。

ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたのだが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。

吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには良い感情を持っていなかったのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげでかえって世間体を気にする必要もなくなり、1944(昭和19)年には晴れて彼女と再婚している。

かつて石川県選出の参議院議員だった林屋亀次郎は、小りんと親戚だった関係で、大磯の吉田邸に出入りを許されていた。その林屋に言わせると、吉田が健康の素としていた「人を食っている」からは
もはや口癖になっていたという。

1964(昭和39)年11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯は暖かいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。

日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつき良くないし、口は美味いもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。

特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には「はい、強いて挙げれば人を食っております」とすました顔で即答した。

米寿をすぎてもまだ矍鑠としていたが、ある日、大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。

そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった(戸川猪佐武「小説吉田茂」あとがき)。

「人を食う」とは人を小ばかにしたような言動をとること。

1946(昭和21)年4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。自由党総裁の鳩山一郎はただちに組閣体制に入ったが、5月4日になって突然、GHQから鳩山の公職追放指令が送付された。

毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を受けるよう吉田を口説き、ついにはその気にさせてしまったのが、その手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた元政友会幹事長の松野鶴平だった。鳩山内閣の官房副長官松野頼久氏の祖父である。

吉田は、蓋を開けてみると松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、

「金作りは一切やらない
閣僚の選考に一切の口出しは無用
辞めたくなったらいつでも辞める」
という勝手な三条件を提示して鳩山を憤慨させている。

しかし総選挙からすでに1ヵ月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くか分らなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。

5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。

自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。戦後政治はここに始まる。

自由党入党・総裁就任後の吉田は、多くの官僚出身者を国会議員に引き立てた。吉田は1949(昭和24)年の第24回総選挙の勝利と第3次吉田内閣の組閣を通して、自由党(民主自由党)内を完全に掌握した。こうして「吉田ワンマン体制」が確立した。

吉田ワンマン体制の中で側近として大きな位置を占めたのが官僚出身者を中心とする国会議員たち、すなわち「吉田学校」と呼ばれた集団である。

官僚出身者では、大蔵省の池田勇人、運輸省(元鉄道省)の佐藤栄作がその代表的人物(共に次官経験者である。現在は、事務次官を経て内閣総理大臣に就任するのは不可能に近い)。

吉田が登用した人材は全部が全部成功したわけではないが、戦後、保守政治の中で中核を担うこととなり、後の保守本流を形成する。また、吉田の人物に対する鑑定眼が高い評価を受ける所以ともなった。

1951年9月8日、日本はサンフランシスコ講和会議で吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の6人全員で署名した。

講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。

吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。

ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約にたった一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。

復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。(「ウィキペディア」)2010・1・3


2010年01月03日

◆米どころ秋田の蕎麦

渡部 亮次郎

私の生まれた秋田県は米どころ、酒どころといわれ、美人の酌で酔い、高血圧による脳卒中であの世行きと言う男が多かった。健康にも良いという蕎麦など雑穀を食べなかったのは、コメが十分取れたからであろう。

その所為で、大学入学で上京するまで、蕎麦は食べたことも見たことも無かった。恥ずかしくも上京後、初めて入った蕎麦屋で「もりかけ」を下さいといって笑われた。

一番安い「20円」の上に「もり かけ」と出ていたからである。その区別も知らなかった。のちに菊池寛も四国から初めて上京したとき、同じく「もり かけ」を注文して笑われたことを知って安堵したものだ。

そばの実の果皮色は黒、茶褐色、銀色である。土壌が痩せていて、かつ、寒冷地でも容易に生育することから、救荒作物として5世紀頃から栽培されていた。

秋田は痩せた土地は少ないし、畑も少ないからそばの栽培は昔は全くされなかった。その後、水田の減反政策の浸透により、止むを得ず稲からそばへの転作が余儀なくされ、2008年には704トンを生産し、全国で第8位を記録した。

因みに1位は連続して北海道11,400トン(2)長野県2,130トン(3)福島県1,910トン(4)山形県1,610トン(5)茨城県1,600トン(6)福井県1,420トン(7)栃木県994トン(9)新潟県686トン10位青森県611トンであった。

休耕田などを利用した栽培が増えており、生産量は増加傾向にある。農林水産省の統計によると、ソバの作付面積は、1986年の19,600haから2008年では47,300haへ増加し、2008年の主産道県の収穫量は23,200トンである。

第2次世界大戦以前に満州からの輸入が行われた。戦後、1952年に南アフリカからの輸入が開始され、その後は急激な伸びを続け、1970年頃には70%を超え、1980年頃に80%を超えてからは80%台を推移している。

日本国内でのソバ消費と生産の上方傾向によって近年の消費量の約80%は輸入品であり、2006年貿易統計によると、中華人民共和国・63,363トン、アメリカ合衆国・11,196トンと万トン単位の輸入があるが、それ以下は極めて少なく、カナダ・1,474トン、その他となっている。国内産は11道県で合計23,200トンに過ぎない。

そばの原産地は、ド・カンドルが中国北部からシベリアという説を提出し、これが信じられてきたが、1992年に京都大学のグループが中国南部で野生祖先種 F. esculentum ssp. ancestrale を発見したことから、中国南部説が有力となっている。

播種期の違いにより春播きの夏蕎麦と夏播きの秋蕎麦がある。しかし、主産地北海道では年一作で、夏蕎麦、秋蕎麦の区別はない。つまり、北海道のソバは夏型であるが夏蕎麦ではない。

東北以南では、いわゆる夏蕎麦、秋蕎麦に別れ、地域により年に2?3回収穫できる。例えば、北海道の夏型の牡丹そばを本州で夏播きした場合には秋蕎麦になる。

北海道産品種は夏蕎麦にも秋蕎麦にも利用できる品種群である。そのため、北海道の新蕎麦も秋の味覚の走りとして最近は「秋新」と呼ばれる。

また、最近、4〜5月播種の春播きソバを春蕎麦と呼ぶ事例があるが、夏蕎麦の低質のイメージを回避した呼称であり、従来通り夏蕎麦と呼ばれるべき作型である。

休耕田などを利用した栽培が増えているので、日本での生産量は増加傾向ではあるが、消費量の80%は輸入品であり、その84%の中華人民共和国、12%のアメリカ合衆国と続き、カナダからの輸入はわずか1.2%に過ぎない。

日本での主要産地は北海道、茨城県、長野県である。世界の主産国として中国、ロシア、ウクライナ、スロベニアが挙げられる。

食品衛生法によるアレルゲンの特定原材料5品目の一つとして表示が義務付けられている。(「ウィキペディア」)2009・12・11

2009年12月26日

◆続報:「声楽家の山本健二さん」

渡部亮次郎氏

声楽家の山本健二さん(千葉県在住)は叙情歌をCDアルバムにしてきた。日本の心を歌ってきた。このほど23枚目のCDを出した

▼タイトルは「潮風のうた」。森繁久弥さんが88歳の米寿を迎えた2001年に作った詩から取った。作曲家の平野淳一さんにメロディーをつけてもらい、自分で歌ってアルバム中の1曲として収めた

▼〈潮騒を聞きながら わたしは/踏み込む砂の中に/桜貝の小さな片割れを見つけた〉と始まる。いのちを枝分かれさせてきた地球の歴史を桜貝に思う。いのちの一つとしての人間に思いを巡らす。物語風の長い詩だ

▼NHKアナウンサーから出発した森繁さんは、晩年は「語る」ことに特に情熱を傾けた。詩人らの作品を朗読したCDもある。自身で詩も作ることは「知床旅情」で知られる

▼曲にすると9分近い「潮騒のうた」には祈りが込められている。昭和の名優の「知られざる一面を物語るものとして、また、地球の今を生きる私たちへの警鐘として聴いていただければ」と山本さん。CDは西日本新聞会館(福岡市・天神)の1階受付でも手にできる

▼山本さんは昭和26年に福岡高校を卒業した。森繁さんが福岡に縁を持つことは小欄でも既に書いた。そんな人の祈りを福岡出身の声楽家が歌い継ぐ。いつか歌いたいと思って8年になるという。CDが出たのは11月10日。くしくもその日に森繁さんは祈りの発信地を天上に変えた。
=2009/12/16付 西日本新聞朝刊=

<主宰より:これを拝読された福中・福校同窓会の諸氏は、先輩・声楽家の山本健二さんの叙情歌CDアルバムを求めて、福校校歌は勿論、「日本の心の歌」を聴いてください。>

◆喜寿「バリ建」さんの豊かな歌声

渡部 亮次郎

「バリ建」こと歌手・山本健二さんから24日、最新作「潮騒のうた」CDを戴いた。ゴンドラの唄、あざみの歌、さくら貝の歌、早春賦など20曲。

喜寿と言うのに、豊かな声量。驚く。最後に出身の福岡県立福岡高等学校の校歌を歌っている。

山本さんははじめから歌手になりたかったが、事情が許さず、大きな会社のサラリーマンとして過ごした。傍ら、音楽への希望を捨てず、会社を終えてからとか、休日に音楽に専念。以下HPより。

<昭和26 (1951)年、県立福岡高等学校卒業。早稲田大学に進学。在学中はグリークラブ学生指揮者として活躍。早大卒業後日本信販に入社し、フジタ道路監査役で終えるまで44年間のサラリーマン生活を送る。

その間音楽活動を続け、早稲田大学グリークラブ、共立女子大学合唱団、稲門グリークラブ、フレーベル少年合唱団の指揮者を歴任、早大グリークラブのヴォイストレーナーとして2003年まで23年間指導に当る。

コンクール歴は、第35回NHK・毎日音楽コンクール (現・日本音楽コンクール) 声楽部門入選、第3回新波の会日本歌曲コンクール歌唱部門第1位、並びに荻野綾子賞受賞、朝日新聞社主催西日本高校独唱コンクール (現・全日本高等学校声楽コンクール) 第2位、NHK洋楽オーディション合格。ニコラ・ルッチ、ロドルフォ・リッチ、中山悌一の各氏に師事。特に中山悌一氏には16年歌唱の基本を学ぶ。

NHKラジオ深夜便では、山本健二のCDより日本の抒情歌などがよく放送されている。2002年各地の女子少年院(福岡、広島、丸亀、仙台、千歳)を訪問した時、「荒城の月」は少女達(15〜18歳)に深い感銘を与えた。その時の少女達からの感想文は、NHKラジオ深夜便「こころの時間」で放送された。

また2005年11月の柳川白秋祭においては、3日間連続の音楽会を行ない、それらの情景は11月5日のNHKラジオ深夜便インタビューコーナー・スペシャルで放送された。

都内におけるリサイタルは有楽町マリオン朝日ホール、銀座ヤマハホール、王子ホールにおいて連続23年間行った。その他、札幌、仙台、盛岡、象潟、浦和、横浜、宝塚、広島、北九州、長崎、宗像、福岡、名瀬市(奄美大島)などの日本各地で行っている。

言葉の情感にふれる歌唱をモットーに、日本の叙情歌を中心としたリサイタル活動並びにCDの制作を続け、 「山本健二歌唱アルバム」全22集(314曲)をリリースしている。

http://bariken.com/bariken-profile.shtml

問い合わせ先ヤマモト音楽事務所、2100円。電話:04-7147-1954
--                           
<「頂門の一針」主宰 >
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       http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2009年12月25日

◆1秒でも早く政界引退を

渡部 亮次郎

<鳩山首相「私腹を肥やしたわけではない」と辞任否定 元秘書起訴で会見(12月24日18時10分配信 産経新聞)

鳩山由紀夫首相は24日、自らの資金管理団体「友愛政権懇話会」の偽装献金問題で、東京地検特捜部が元公設秘書を在宅起訴するなど一連の処分を行ったことを受け、東京・平河町のホテルで記者会見を行った。

首相は国民に謝罪しながらも首相辞任は否定、その上で実母からの12億6千万円の資金提供を贈与と認め、平成14年に遡って修正申告し、贈与税約6億円を納める考えを表明した。

偽装献金事件について「国民が疑問に思うのは当然だが、(秘書が献金処理を)滞りなく処理していると任せていた」と説明。贈与についても「承知してなかった」と繰り返した。

一方、首相は、過去に「秘書の行為の責任は議員の責任だ」などと発言してきたことについて「私は私腹を肥やしたり、不正な利得を得た思いは一切ない」と釈明。>


<「努力だけは認めて」=政権3カ月で鳩山首相>(12月16日11時19分配信 時事通信)。努力したのではなく、すべての難問を先送りしただけではないか。嬶を連れての派手な外遊を続けただけではないか。

<「すべてがまだ完ぺきとは言えないと思う。一生懸命努力していることだけは認めていただきたい」。鳩山由紀夫首相は16日午前、政権発足3カ月を迎えたことについて、記者団を前にこう訴えた。

米軍普天間飛行場移設問題や2010年度予算編成作業などの懸案に関し「閣僚の中でいろいろと声が上がって、(首相の)指導力がどうだという話がある」と認め、「それは分かっているが、いずれ国民もこの答えが最適だったと分かるときが来ると思う」。

重要課題の政策決定で足踏みが目立つことへの理解を求めた。> 

私が国内政治の現場を去って既に30年。したがって、現場の情景は全く知らないが、鳩山由紀夫の馬鹿さ加減だけは、インターネットを通じてよく分かる。

政治家になったのに、常識が無い。哲学が無い。困ったことがないから他人の痛みが分からない。したがって戦略も戦術もない。努力を認めろといっても、見える努力は一つも無い。

母上から一と月に1500万円もの小遣いを貰っておいて、知らなかったという。そんなことが世間に通用すると思っているから、宇宙人だといわれる。だが宇宙人は確認されていない。

それなのに宇宙人と、敢えて言われるのは、無形人といわれているのと同じだ。まず悩みがない。有っても悩まないから、悩みが無いのと同じなのだ。

だから本人は努力したといっても、解決した案件は一つも無い。ああじゃない、こうじゃないと、口から出任せを喋っているだけで、どうすれば解決するか、考える事もできない。

多分、母親が元気なら、官邸に据えて、厄介を頼むところだろう。すべてそうしてきたからだ。だが、いまや87歳ともなれば、面倒を見てもらうわけには行かないから、すべてが頓挫してしまったのである。

一方、月額1500万円の小遣いは何に使ったのか。あるいはブレインになる人の買収、接待費に使ったのか。その割には碌なブレインがいない。使えない商社マンしかいない。左翼に凝り固まって有害だ。

アメリカとの同盟関係を可笑しくし、中国に叩頭外交を展開する事になったのは、彼の誤れる哲学と偽情報に頼ったからである。「努力した」のではなく「壊し」に専念した100日だったのだ。

早く総辞職し、議員も辞めたほうがいい。それも1分でも1秒でも早い方が日本のためだ。2009・12・24

2009年12月23日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎

「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から
「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)
も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。(9月21日 榊 寿之アンカー)

<『夜のプラットホーム』(夜のプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947年(昭和22年)に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

榊アンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れな
かった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくした
こと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)
は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげに
ただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず
「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公
開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させ
るとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかか
り、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可
したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。

レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従っ
て内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様
であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll Be
Waiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手が
けたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をして
いたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間
でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カ
ロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」
(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタン
ゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」
を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコ
ードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き
残った東京音楽学校出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあっ
たものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であっ
た。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴
史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、
言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」
を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならな
い事、全世代、共通の願いではなかろうか。2008・09・21

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』