2010年06月22日

夕刊 ◆角さんを食った早坂さん

渡部 亮次郎
6月22日は田中角栄事務所が閉められた日。詰まり最後の秘書;早坂茂三さんが締め出しを食わされた日。1985(昭和60)年のことだった。

<2004・6・20 台風6号の雨の中を外出し、日本橋で早坂茂三氏の肺癌死を知った。夕刊紙が大見出しで売っていたからである。73歳では早すぎる死であるが、田中角栄氏を食うだけの晩年だったことを思えば、長いご苦労だったと言えないこともない。

同じ政治記者だったとはいえ、5歳も年長だったし、なにしろ私が盛岡から東京・政治部へ着任したところは既に田中角栄氏の秘書だったので、出合いはなかった。昭和47年7月に田中内閣が発足し、私がNHK政治部で総理官邸担当に発令されたので出合うことになった。

それまで私はライバルの福田赳夫番だった。「作戦参謀を渡部さんが勤めているのじゃないかと、恐ろしかったよ」というのが初対面の挨拶だった。

但し早坂さんは総理官邸と公邸を繋ぐ廊下に机を置いて新聞の切り抜きをやっていた。総理の首席秘書官と呼ばれる総理大臣秘書「官」は後に別れた妻が「蜂の一刺し」で有名になる榎本敏夫氏だった。

榎本氏は東京・北区だかの区会議員から自民党の職員となった変り種であったが、幹事長当時の角さんに気に容られ、総理になると同時に首席秘書官に発令されたのである。

後に発覚するロキード事件は内閣発足直後に始まっている。だから秘書「官」の榎本さんが矢面に立たされたわけだが、早坂さんは角さんの「周辺者」だったから難を逃れた。新聞の切り抜きしかさせていない男に何億ものカネを扱わせる首相はいないだろう。

私は総理官邸に通いながら田中政治を批判し続けるものだから嫌われ、NHK上層部も困り果てた末、大阪に飛ばした。だが田中内閣は案の定、物価高騰を招き、「金脈追及」で短期間で瓦解した。

この時月刊「文藝春秋」に立花隆氏と並んで児玉隆也という人が「淋しき越山会の女王」という原稿を載せた。

この児玉さんが伝手をたどって私のところを尋ねてきて、週刊女性自身のデスク時代に「女王」佐藤昭(あき。後に昭子と改名)のことを企画したら、関係者に取りやめ料800万円を提示された。

もちろん断ったが、いかにも揃わない数字だった。断ったのに社内では受け取ったと言う評判が立って困った。なんで800だったんでしょうね、と聞かれた。

それから何年か経って早坂さんと隅田川沿いの浜町で一杯やる機会があった。そうしたら早坂さんが言うことには「あのときに田中が出したカネは3,000万円ですよ。当然還ってきてませんよ」との答えだった。

間に立ったのは当時有名な政治評論家と高名な作詞家だった、という。評論家は若死にしたが、作詞家はまだ生きている(2008年4月6日逝去)。

この席で早坂氏は角さんを「親父」と呼び「とにかく記憶力が凄い。何年の歳暮をどこの新聞の何と言う記者は送り返してきた、なんとかいう記者はお返しをして来た、総てを記憶しているんだ。私らのメモの方が不確実なんだ」と言っていた。贈り物を断る奴は敵、と決めていた角さんの面目躍如を物語っていた。

東京・新橋にヤクルト本社、その隣の徳間書店本社になっているところに東京タイムスという小さな新聞社が昭和40年代まで有った。早坂さんはそこの政治部の記者だった。

函館出身。山形から流れて行った人たちの末裔。早稲田時代、日本共産党員だった。読売の渡邉恒雄氏,日本TVの氏家会長は東大の共産党員だっ
た。 

記者生活は不満だらけだったろう。車すら十分に使えなかった。そこでかどうか田中角栄氏の所へ飛び込んで秘書になった。しかし真実、角さんは早坂さんを重用せず、秘書にはしても秘書「官」にはあまりしなかった。それについて当時を知る人は語る。

困る質問です。でも事実を言うしかありませんね。正確にいうと田中角栄の政務・政策担当秘書。ただ昭和37年に田中蔵相の秘書官をやったかもしれません。「官」が、もしあるとすれば、この時だけ。本人も32歳の時に「大蔵大臣秘書官になった」と何かに書いていました。

東京タイムス時代に親戚筋の大学の先生の奥さんと駆け落ちして、下落合の方で同棲していた筈です。相手は6歳年上、秘書になるに際して、身辺整理しました。麓さんについても「親佐藤で私より3つ上の共同通信政治部記者・麓邦明さんを秘書に加えた」と、自分が先に秘書になっていた様な説明をしています。

しかし当時のことを知る楠田実さん(佐藤首相の首席秘書官、楠田実日記の著者)は笑っていましたよ。時事通信にいたMさんも「麓は東大出で官界にも信用があったので、列島改造論は麓の尽力があったからこそ出来た」と書いていたが、

これが早ちゃんの手にかかると「通産省の役人たちと一緒に汗だくで本にした。総裁選挙前の6月、「日本列島改造論」が大ベストセラーになる。ネーミングは私の発案です」となる。

正直にいって早ちゃんにとって、昔のことを知っている私などは煙たい存在だったかもしれませんよ。死者に鞭打つつもりはないので真相は、すべて封印します。彼の癖からいえば、大蔵大臣秘書官も??なのですが・・早ちゃんの書いたものが、真実として残るのでしょう>。

私自身も大臣の秘書官を長い事やったから感じたことだが、役人たちは秘書「官」なら相手にするが、「長」や「官」の付いていないものは通行人扱いである。付いて無い奴には予算も机も付かないからである。

だから早坂さんは多くの屈辱を味わったと思う。それだけに、ほかのところで自分を飾って見せたかったのであろう。

角さんの信用を途中から失っていた。当時を知る人の話では待遇について文句を言ったからだそうだが本人は触れなかった。本人の言うとおりなら早坂さんこそは総理大臣になった角さんの首席秘書官でなければいけないはずだった。

ところが角さんは官邸の廊下からも退出させ、早坂さんを表には出さなくなった。当時、官邸にいた記者のひとりが言う。

<田中総理番は2年やりましたが、その時の番記者と早坂氏との付き合いはありませんでした。多分、どこの社も同じだと思います。番記者の対応は毎日交替でつく吉本(大蔵)、木内(外務)、小長(通産)、杉原(警察)の役人秘書官がやっていました。あとは山下・後藤田の両副長官です。

榎本首席秘書官とは、彼が募って亀岡・小沢(一郎)・高鳥らの議員と連れ立って富士山麓にゴルフに行ったりしましたが早坂氏とは「飲み会」もありませんでした。多分、早坂氏はチンピラの番記者など近寄せないような雰囲気がありました。そのあたりの呼吸は、同じブンヤ出身で佐藤内閣の楠田氏もそうで、2人はよく似ていると思っていました>

角さんの遇し方を見ていた真紀子さんは早坂さんを見下げていたフシがある。だから角さんが再起不能、というよりも、早坂さんを庇護する者が心身の自由を失ったとたんにクビにしたのである。

しかし、さすがの早坂さん、クビになったとたんに水を得た魚の如く八面六臂の活躍をした。かつては「親父の敵」のはずだった文藝春秋社の月刊雑誌「諸君!」のレギュラー執筆者にもなっていた。

あまた居た田中角栄秘書の中で記者上がりとして唯一の生き残りになったのが得となり、言論人に還ったのみか、角さんを栄養として名を成すことが出来たのである。なにしろ一介の政治家秘書の死に朝日新聞までが弔意記事を載せた例を私は早坂氏以外に知らない。(了)2004・6・20

以下「ウィキペディア」による。

早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本の政治評論家。

北海道函館市恵比須町出身。田中角栄元内閣総理大臣の政務秘書を23年間務めた。秘書辞任後は、多くの著書を出した。

1943年東川小学校卒業、北海道庁立函館中学校、弘前高等学校を経て、1950年早稲田大学政治経済学部新聞学科入学。学生運動にのめりこみ、一時日本共産党にも入党した。浪人留年を繰り返した後に、1955年に早稲田大学政治経済学部を卒業。

東京タイムズ社に入社し、『東京タイムズ』の政治部記者として田中角栄と知り合った。1962年に大蔵大臣に就いた田中の秘書官となり、内閣総理大臣在任中とその後の「ロッキード事件」による逮捕の時期を含め、田中が脳梗塞で倒れた1985年まで政策担当の秘書を務めた。田中の病気治療方針などをめぐり、長女真紀子と対立し罷免、政治評論家に転身し
た。

田中角栄の政治的足跡や、出会った人々の生き方をテーマにした著書を多く出し、人生論を若者向け雑誌に連載し、全国各地で講演活動を行うなど幅広い活動をしていた。

テレビ番組では、報道番組の他、多数のトーク番組やクイズ番組、またドラマにも特別出演した。

2004年6月20日に肺ガンのため死去。享年73。葬儀は、遺言によりしめやかに行なわれた。

趣味は金魚飼育で、喫煙者(生放送出演時にも喫煙タイムを求める程、自他共に認めるヘビースモーカー)。

1982年に渡辺恒雄と共に、中曽根康弘の首相就任に奔走した。中曽根嫌いの角栄が矛を収めたのは早坂の手腕が大きいという。なお中曽根は首相就任後、渡辺と共に料亭で早坂と面会し、中曽根が土下座し角栄や早坂へ賛辞を述べた。


◆水爆に追放された「原爆の父」

渡部 亮次郎

話題の主はロバート・オッペンハイマー。

J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年4月22日―1967年2月18日)。ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。

理論物理学で国際的な業績をあげ、第2次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られた。

しかし、戦後の水爆開発に際して核兵器に反対の立場に転じたため、公職追放された。殺戮は手段を進化させるという戦争の原理を知らない単なる爆弾屋だったから当然の結果である。

日本は原爆を作らぬうちに万歳したが、鳩山みたいにいくら立派な大学へ通っても、まともに国家運営のできない政治家を総理にして世界に恥をかいた。「鳩山はオッペンハイマーだ」。

ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンである。

非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいた。

ハーバード大学に入学し、化学を専攻した。1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。

オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入って行く。1929年には若くしてカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936(昭和11)年には教授となる。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。

第2次世界大戦のさなか、1942(昭和17)年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。

彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。

弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語った所では、世界に使う事のできない兵器を見せる事により戦争を無意味にしようと考えていた。

しかし人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしても、それを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していた。 また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。

戦後の1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命された。

核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。

冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃となった。妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された。

1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした。オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に亘って抑圧され続けた。

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死なり、世界の破壊者なり」と語った部分を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。

戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。2010・6・20

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年06月21日

◆アジサイは葉に毒

渡部 亮次郎

各地で紫陽花が咲き始めたが、これが鈴蘭と並ぶ「毒の花」と知る人は少なく飲食店などが料理に使用してしまい、経口摂取した客が中毒する事故が発生している。

毒部位は蕾、葉、根 (花には無いようだ)。毒症状 めまい、嘔吐、痙攣、昏睡、呼吸麻痺

ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。

日本では、アジサイには青酸配糖体(グリコシド)が含まれており、それが中毒の原因であると考えられている。

ただし、農業・食品産業技術総合研究機構動物衛生研究所によると、原因物質は青酸配糖体ではなく、別の物質の可能性があるとしている。

毒成分 アミグダリン(amygdalin)、アントシアニン(anthocyanin)、ヒドラゲノシドA、グリコシド

アジサイ(紫陽花、英名・学名:Hydrangea)とはアジサイ科アジサイ属の植物の総称である。学名は「水の容器」という意味で、そのまま「ヒドランジア」あるいは「ハイドランジア」ということもある。

いわゆる最も一般的に植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイ(Hydrangea macrophylla)を改良した品種である。

6―7月に紫(赤紫から青紫)の花を咲かせる。一般に花と言われている部分は装飾花で、本来の花は中心部で小さく目立たない。花びらに見えるものは萼(がく)である。セイヨウアジサイではすべてが装飾花に変化している。

花の色は、アントシアニンのほか、その発色に影響する補助色素(助色素)や、土壌のpH(酸性度)、アルミニウムイオン量、さらには開花からの日数によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれる。

一般に「土壌が酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」と言われているが、土壌のpH(酸性度)は花色を決定する要因の一つに過ぎない。

花弁(正確には装飾花)に含まれる補助色素によっては青になり得ない・なり難いものがあるほか、pHは地中のアルミニウムがイオン化する量を左右する要因に過ぎないため、仮に酸性土壌であっても地中のアルミニウムの量が少なければ花が青色になることはない。また、初めは青かった花も、咲き終わりに近づくにつれて赤みがかかっていく。

「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。

また漢字表記に用いられる「紫陽花」は唐の詩人・白居易が別の花(ライラックか)に名付けたもので、平安時代の学者・源順がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010.・6・18

2010年06月19日

◆湖畔の宿の大東亜会議

渡部 亮次郎

小学校入学の5か月前に「大東亜戦争」(のちにアメリカの命令により「太平洋戦争」と呼ばされるようになった)が始まったが、実際は、生後1年目の1937年に日本軍はすでに中国で蒋介石の軍と戦っていた。子供だから知らなかったのは当然だが。

日本軍と中国軍との衝突のはじめは昭和6年の満州事変である。それまで日本人居留民保護のために満州に駐在していた関東軍が本国政府の意向を無視した軍事行動で満州全土を占領。既成事実を突きつけられた政府(若槻礼次郎内閣)は事後承認の形をとった。

それが翌昭和7年の満州国建国につながる。同じ年(1月)には上海の日本人居留民保護を目的とした上海事変で日本軍が上海に進撃し占領するが、停戦協定によりすぐに撤退している。

昭和12年には支那事変(戦後に日中戦争と改称)が起こり、同年には中国国民党政府の首都南京が日本軍に占領され、日本側は先の上海事変の時のようにここで停戦になるのではないかと淡い期待を抱いたが、蒋介石側が徹底抗戦策を取ったために中国全土を舞台にした終わりの見えない戦争になし崩しに突入する。

日本が中国で軍事行動をしていたのは、戦前では昭和6年9/18の柳条溝(正確には柳条湖だが昭和50年代頃までは柳条溝で日本国内では通っていた)事件から昭和8年5/31の塘沽協定までの期間と、昭和12年7/7の盧溝橋事件から昭和20年8/15の対米英戦での日本敗戦までの期間となる。

日本が戦争に初めて敗ける昭和20 (1945) 年を挟んで少年時代を送った者だから、当時の歴史を系統だって自分の中で整理しないままだ。

東京・渋谷の古賀政男邸跡地に建った古賀政男音楽記念博物館で何年か前、2年間に亘って昭和の流行歌を振り返る会が毎週開かれて出席を続けたことがある。

その頃、物資も窮屈になった昭和15、6年ごろ、すこぶる付きの美人女優で歌手の「高峰三枝子さんのお宅に新人歌手の伊藤久男さんから、大量の洋服地が送られてきて、高峰さんを驚かせた」、という話題があった。

それは高峰さんの「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一)が大ヒットしかけたため、B面の伊藤久男さんの「高原の旅愁」の印税ががっぽり入りかけたことのお礼だった、という話だった。

いまのCDやMDと違って、昔のレコードにはAとBの両面があり、ヒット確実がA面、それほどでもないのがB面にプレスされた。とはいってもB面がなければA面は発売されないわけだ。

湖畔の宿

作詞:佐藤惣之助
作曲:服部良一
唄:高峰三枝子

1 山の淋しい 湖に
  ひとり来たのも 悲しい心
  胸の痛みに 耐えかねて
  昨日の夢と 焚き捨てる
  古い手紙の うすけむり

2 水にたそがれ せまる頃
  岸の林を 静かに行けば
  雲は流れて むらさきの
  薄きすみれに ほろほろと
  いつか涙の 陽が落ちる

(台詞)

 「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
 静かに静かに黄昏れて行く……。
 この静けさ、この寂しさを抱きしめて
 私は一人旅を行く。

 誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
 幼な児のような清らかな心を持ちたい。
 そして、そして、
 静かにこの美しい自然を眺めていると、
 ただほろほろと涙がこぼれてくる」

3 ランプ引き寄せ ふるさとへ
  書いてまた消す 湖畔の便り
  旅の心の つれづれに
  ひとり占う トランプの
  青い女王(クイーン)の 淋しさよ
(MIDI制作:二木紘三)

「湖」は群馬県の榛名湖と、佐々木惣之助は書き残している。

日独伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭和15(1940)年に発表され、大ヒットした。ところが感傷的で淋しい詩とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にした。すでに相当普及していた。

(北海道真狩村の開拓農家から作曲家を目指して上京した八洲秀章がB面の「高原の旅愁」初ヒットと雀躍したのもつかの間となった)。

「しかし、大衆の心は、この歌の切ない想いを捨て切れなかった」(「新版日本流行歌史 =中= 」) B面もレコード無しでも流行した。その後、歌手たちの戦地慰問で、兵士たちからのリクエストが圧倒的に多かったのがこの曲だった。

とりわけ、特攻隊の基地で、若い航空兵たちが死を直前に直立不動でこの歌を聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は幾度となく語っている。

「この静けさ、この寂しさを抱きしめて私は一人旅を行く。誰も恨まず皆昨日の夢とあきらめて……」の部分がとくに兵士たちの胸に響いたのだろうか。

ところで戦時体制に入ってから、

<軍部や政府は「厭戦気分を煽るが如き歌謡の排除」を指令し、それらの歌唱禁止やレコードの販売を禁止するといった方法で抑圧するまでになりました。

しかし、抜け道はあるもので「大陸」や「時代もの」にすれば大半の唄が許可になりましたし、そうでなくとも前線の兵士を慰問する際に歌唱した国内では禁止された歌が兵士の帰還と共に国内に流入すると言うことも多く見られました。

歌唱禁止という措置にしても最初は初めはさほど厳しいものでは無かったのですが、戦局の悪化とともに明治時代に作られたヒューマニズムに溢れた「婦人従軍歌」なども『敵軍兵士を救護するとは何事か!』などと言い出してしまう始末。

ここにおいて日本の目指した理想から大きく逸れてしまい侵略国の汚名を自ら着ることにもなってしまったものと思います。>(松原虹氏ブログから)

反対に戦意高揚の名の下に軍歌と称するものも数多く作られた。それは軍や政府の手だけでなくNHK,新聞、雑誌社などによっても「募集」の形で制作された。結果、畏友加瀬英明氏をして「これほど軍歌が歌われている国はない」と言わしめるほどだった。

ところが、戦時体制を強化するために政府が招集したアジア首脳会議の出席者が、歌唱禁止の歌を所望して当局者を困らせたという話が残っているから面白い。

その会議とは戦時中の昭和18(1943)年11月5,6両日、東京で開催された「大東亜会議」。日本の勢力下にあるアジア諸国の首脳である。

東京に一同に会したこの会合について、戦後、連合国側によって、「参加国」・採択宣言共にすべて否定されてしまって、今では歴史学者か私のような偏屈者しか知らない。

この会議参加した面々。

東条英機 大日本帝国内閣総理大臣
張景恵 満州国国務院総理(首相)
汪兆銘(精衛)中華民国(南京国民政府)行政院院長(首相)
ワンワイタヤコーン殿下タイ王国首相代理
ホセ・パシアノ・ラウレル フィリピン第二共和国大統領
バー・モウ ビルマ共和国国家主席(首相)
チャンドラ・ボース 自由インド仮政府首班

このときのビルマは現在のミャンマー。そこの首相のバー・モウ氏が東條総理の禁じた「湖畔の宿」を高峰の歌で聞きたいとねだったので、政府は直ちに高峰を招いて歌わせた。

発売禁止にした歌を、歌手を招いて歌わせる。恥ずかしいような話だが、大東亜共栄圏実現のためだ、目をつぶれとか何とかいったのだろう。

高峰は既に手に入らなくなっていた甘味料や菓子を「たくさん戴いて帰りました」と語ったのを聴いたことがある。

一方のバーモウは日本の敗戦と共に日本へ亡命したが、結局は帰国した。

以下『昭和史の天皇 8』

( 読売新聞社 編、読売新聞社 1969年10月発行 )による。
 
<第2次世界大戦末期、日本そのものが敗戦必至の状態に陥った時、アジア解放の旗じるしのもとに、アジア各地に日本が作った独立国ないしは、その予定国の政権のあと始末をどうするかの問題が起こった。

これらの政権は、満州にあった皇帝溥儀以下の満州国政府、中国大陸には汪精衛を継いだ陳公博の南京政府、ビルマのバー・モウ政権、フィリピンのホセ・ラウレル政権、そしてビルマのラングーンにあったチャンドラ・ボースの自由インド仮政府であった。
 
ビルマ民族運動の先駆的指導者で、第2次世界大戦中の1943年8月、ビルマの独立宣言とともに、国家元首(国家代表)に就任していたバー・モウ(1893年〜1977年)は、1945年4月日本軍のビルマ方面軍司令部のラングーン撤退とともにモールメン近くのムドン集落に移動、ここで終戦を迎えた。

終戦直後の1945年8月下旬、バンコク、サイゴンを経由してバー・モウは、一旦日本に亡命。新潟県の寒村で潜伏生活をしていたが、結局1946年1月には英代表部に出頭し巣鴨拘置所に収容されることになる。

しかし1946年8月、英国により特赦され帰国した。一時ビルマ政界に復帰するが、軍事政権下では拘禁され、釈放後、1977年、ラングーンの自宅で84歳の波乱の生涯を閉じている。以下略>
 
明治が遠くなって俳句になったが、いまや昭和も遠くなった。平成22年の今年、昭和に直すと「昭和85年」である。

2010年06月17日

◆地元紙が小沢氏に引退勧告

渡部亮次郎

NHKの記者時代、わたしは岩手県に4年、勤務したので愛着がある。代表的な地元紙は「岩手日報」現在22万部発行。歴代社長が友人である。

その岩手日報が16日の「論説」で同県選出の前民主党幹事長小沢一郎氏に対して政界引退を勧告した。些か驚きだ。余り小沢氏に噛み付いた事は無かったからでもある。

6月16日(水)岩手日報「論説」

小沢氏の去就 「使命」果たしたのでは

<いつも政局の中枢にあり、影響力を発揮してきた小沢一郎民主党前幹事長が今「一兵卒」としての日々を過ごす。通常国会が16日閉幕。参院選に突入するが、「脱小沢」の布陣を敷いた菅直人新政権に国民の審判が下る。 

鳩山由紀夫前首相と小沢氏の2トップが辞任した陰で激しい主導権争いが繰り広げられたことは想像に難くない。鳩山氏の後継に菅氏を選んだことも、前政権に見た既視感を覚えた。本来ならば野党時代に主張したように、政権内のたらい回しではなく解散・総選挙を実施し、国民に信を問うのが筋だった。

 民主政権の交代劇で主役を演じた3人は、4年前に小沢氏が偽メール問題で辞任した前原誠司代表の後任に就いた時に「トロイカ体制」を組んだ仲だ。その1人が首相に就き、ほかの2人が身をひく事態に時の流れを感じる。

新政権への国民の期待度は世論調査にも表れているが、参院選の結果次第では与野党の再分裂や政界編成が視野に入ってくるだろう。だからこそ「豪腕」「壊し屋」と言われる小沢氏の次の行動に政界の注目が集まる。

 しかし、小沢氏は辞任時の会見などで「一兵卒」と言いながら、9月の代表選に向けて「先頭に立つ」と意欲を隠さない。最大の小沢グループも一連の党人事や閣僚人事で「脱小沢」を鮮明にした菅首相とは一定の距離を置く。

 先の代表選びで田中真紀子元外相や海江田万里氏らに出馬を促したとも伝えられる。表向きは「自主投票」だったが、グループの後押しを受けて善戦した樽床伸二氏が国対委員長に就いた。

「小沢グループの協力なしに参院選は戦えない」−との声が聞かれる一方、小沢氏自身も樽床氏の得票数に「非常によかった。悲観する数字ではない」と語っている。

 9月の代表選は参院選の結果次第で大きく違ってくる。民主党にとって、最大の課題は参院選を勝ち抜くことだ。単独過半数でなくとも連立維持できる状況ならば、菅首相の続投が前提になるだろう。それなのに、参院選を前に小沢氏が9月の代表選に言及したことは不可解だ。

不意の「ハト鉄砲」を食らって冷静な判断ができなかったか。「しばらくは静かにして」と注文した菅首相の言葉に心を乱したのか。

昨年夏の衆院選で「政権交代」を果たした原動力が小沢氏であることは周知の事実。「参院選に勝ち、政権安定と改革実行が可能になる」−とは本人の言葉だが、世論は鳩山、小沢両氏につきまとった「政治とカネ」に嫌悪感を抱いているのが明らかだ。

 どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。

かつて評論家江藤淳氏が陶淵明の詩「帰去来辞」を引用して小沢氏に「帰りなん、いざ。田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざる」と帰郷を勧めたことがある。

すでに十分に「使命」を果たしたのではないか。

執筆者 宮沢徳雄=常務、論説委員(2010.6.16)

小沢氏のことだからこれは無視するだろう。一方、小沢氏にすべてを支配されてきた岩手県民は目を覚ますかもしれない。「一定の効果」どころか「相当な影響」を与える事は確かである。

岩手県民は概ね貧しいが、人間としての「矜持」は持っている。だからこそ東北6県で唯一、総理大臣を何人も輩出してきた。その県民を代表する「岩手日報」に勝てる何かを今の小沢氏が持っているのか。

小沢氏の持っているのは「怪しげなカネ」でしかない。2010・6・16






2010年06月16日

◆フォークランド紛争その後

渡部 亮次郎

6月14日は南米の島「フォークランド」の領有権を巡る戦争でイギリス陸軍部隊に対してアルゼンチン軍が降伏した日。 1982年のこと。所謂フォークランド紛争(戦争)の終焉だった。

フォークランド紛争は、イギリス領フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り1982年、戦闘はイギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた。

日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多いが、世界的には「紛争」よりも「戦争」に該当する呼び名が用いられる。

元々マルビナス諸島は、アルゼンチンの元宗主国であるスペインのフェルナン・デ・マガリャンイスの船団が1520年に発見し、その後自国領土とした。

一方1592年にイギリス人のジョン・デーヴィスが最初に発見したという説もあり、イギリスはこの出来事を根拠として戦後の現在に至るまで領有の正当性を主張している。

一見これといった価値がないこの南大西洋の島で、なぜこのような戦争が起きてしまったのか。既に1930年代のアルゼンチンではマルビナス奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていた。

1976年にイサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍の軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至
らなかった。

だが、軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ大統領(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。

既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。

1982年、4月2日にはアルゼンチンの陸軍4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。

対するサッチャー首相は直ちにアルゼンチンとの国交断絶を通告した。下院で機動部隊派遣の承諾を受け、5日には早くも航空母艦2隻を中核とする第一陣が出撃した。

その後アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度となくイギリス海軍の艦船を撃沈するなど、地の利を生かして当初は有利に戦いを進めた。

しかしイギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力と、アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受けた情報力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。

同諸島最大の都市である東フォークランド島のポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)を包囲し、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。

この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、これは文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。

また敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったのに2000年には三軍で7万1000人程になった。

一方、多くの艦船を失い、多数の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャー首相の人気が急上昇、不人気だったのに続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革は
イギリス経済を復活させた。

また、それまで「2等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラは発展した。

しかしながら本土から遠く離れた小島を「自国領土」として主張し統治するイギリスに対しては、「帝国主義的」、「植民地主義的」という批判が根強く存在した。

戦後の1984年には、長年アジアにおける植民地として統治してきた香港を、1997年に中華人民共和国に返還(一部の永久領土については「譲渡」)することとなる。

その後しばらく、両国の国交断絶状態が続いた。そんな中、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝で、アルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりイングランド代表に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた。

1989年10月に、アルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日、両国は外交関係を正式に回復した。しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。
(「ウィキペディア」)2010・6・13


2010年06月13日

◆「ぎりぎりセーフ」の小沢氏

渡部亮次郎

<小沢氏、辞任の時機「ぎりぎりセーフ」 今後にも意欲

民主党の小沢一郎・前幹事長は12日、和歌山市で連合和歌山との懇談に出席し、鳩山由紀夫前首相との「ダブル辞任」について、「もう少し早ければという思いもあったが、ぎりぎりセーフのタイミングだった」と述べ、参院選を視野に辞任時期を以前から探っていたことを明かした。>Asahi Com 2010年6月12日15時9分

<出席者によると、小沢氏は「鳩山首相と政権の両輪としてやってきたが、こういうことになって迷惑をかけた」と陳謝。「幹事長時代のように地方を回ることはできないが、ぼちぼちやっていく」と語り、今後の政治活動に意欲を示したという。

この日は幹事長辞任後、初めての地方行脚。会合後は、世界遺産に登録された紀伊山地の霊場と「熊野古道」の散策に向かった。小沢氏は今後も連合の地方組織との懇談をこなしながら、小沢氏主導で擁立した参院選複数区の2人目の新顔候補らの陣営を回って支援する考えだ>。

この発言を信じれば、自らの幹事長辞任を早くから決意していたことになるが、真実は総理が交代しても、自身は幹事長留任の途を捜していた。

それが証拠に、菅直人氏からの代表選立候補の挨拶要請をあくまで拒否したことである。小沢氏は6月1日夜おこなわれた鳩山・菅による極秘会談の席で、辞任の決意を打ち明けられた菅氏が「それじゃ小沢を斬りましょう」と提案したことを知って激怒。

その後鳩山総理から電話で「私の意向で辞任する形でいいですね」と言われて了承したものの、菅氏の挨拶は最後まで受け入れなかった。「裏切った菅に斬られた」と思っているのである。

元々小沢氏は菅氏を己のカードと思っていた。ところがその菅が裏切ったことを知ったので、挨拶を拒否しただけでなく、対立候補を立てようと田中真紀子氏にまで働きかけた。

こともあろうに、小泉内閣で外相どころか政治家の資格そのものの
皆無であることを天下に晒した真紀子氏にまで断られるほど、彼の周辺には人材と言える政治家が育ってないのだ。独裁者の末路を連想する。

一方の菅総理である。所信表明演説で「私を信じて下さい」とやって却って中身が何も無いことを表すと言う阿呆なことをやったが、口蹄疫の宮崎には土曜を返上して駆けつけ、農家の現場を視察するなど、鳩山を反面教師にしたオポチュニストぶりは徹底している。

これは、水泳に譬えれば一種の立ち泳ぎというべく、参院選もこれで凌ぐ心算だろう。何とかV字を描く内閣支持率を維持したまま
選挙を凌ぐには立ち泳ぎ意外に方策はない。

その結果、参院選は「50」議席と菅氏が設定する勝敗ラインを何とか超えられるのではないか。

だとすれば<辞任の時機「ぎりぎりセーフ」 今後にも意欲>と雖も小沢氏の近未来は決して明るくは無い。つまり「本番は9月だ」と捲土重来を期しているにしても、概ね菅氏の代表再選となれば、
党内に坐る椅子は皆無だ。

またまた離党すると言っても150人のグループの中から従いて行く者は何人いるやら。寂しい秋の夕暮れになるのでは無いか。
2010・6・12

■本稿掲載6月13日刊「頂門の一針」1947号のご案内

<目次>
・「ぎりぎりセーフ」の小沢氏: 渡部亮次郎
・イラ菅・ダラ幹・股くぐりの亀:山堂コラム 322
・韓国アイドルの9割は整形美人:古澤 襄
・病気自慢と科学的根拠:馬場伯明
・実行犯は伊藤博文:平井修一

話 の 福 袋
反     響
身 辺 雑 記


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2010年06月12日

◆勘違いするな「民意」殿

渡部亮次郎

<菅氏が首相に就任した。鳩山首相が辞意を表明してから僅か2日間という、全く民意を無視した形での交代劇である>との説が
私のもとに到来した。

べつには「大使人事を国会の外務委員会で予め審査しないのは民意
の反映に背く」という投稿もあった。

<日本の特命全権大使は原則として大使館または政府代表部の在外公館の長(在外公館長)であるが、国連政府代表部など複数名の特命全権大使を擁する在外公館がある。

その場合は上位者が館長に、次席が次席館員となる。在外公館に勤務しない大使は待命大使と呼ばれる。

特命全権大使は特別職の国家公務員かつ外務公務員であり、その任免は、外務大臣の申出により内閣が行い、天皇がこれを認証する。また、特命全権大使の信任状及び解任状は、天皇がこれを認証する。>(「ウィキペディア」)

憲法や現行法令上では、国会と雖も大使人事に容喙する事は不可能である。民意を反映させる事はできない。どうしても民意の反映を求めるなら法令を改正するしかない。現行法令下で「大使人事に民意を反映させろ」は所謂「無い物ねだり」であり、悪く言えば悪態に過ぎない。

<現在の日本では慣例的に外務省職員(特にキャリア官僚)からの任命が多くを占めているが、他省庁の職員が退官後に各国の大使に任命される例も多い。

外務省職員にとって大使ポストは出世のキャリアに組み込まれているが、とりわけ外務省においては事務次官をつとめた後、サミット国や近隣の大国の大使に転出する慣例が続いてきた。

この点において事務次官が最高ポストである他省庁と一線を画す。他方、相対的に日本との関係で重要性が低いと見られる国の大使には、しばしば本省の課長相当職すら経験していない人物が赴任するケースがあったため、外務省改革の一環としてその運用が見直された。

その外務省改革では主要国以外の大使のポストに民間の人材が多く登用された。例として、猪口邦子・国連軍縮会議代表部大使(前職は上智大学教授)、石弘之・ザンビア大使(東京大学教養学部教授)、近藤剛・バーレーン大使(伊藤忠商事)、松山良一・ボツワナ大使兼南部アフリカ開発共同体日本政府代表(三井物産)、杉浦勉・初代ブルキナファソ大使(丸紅)、竹田恒治・ブルガリア大使(伊藤忠商事)、小川元・チリ大使(元衆議院議員)、北岡伸一・国際連合代表部次席大使(東京大学法学部教授)、浅井和子・ガーナ大使(弁護士)などが挙げられる。

ほかに戦後、外務省外から大使に登用された例としては、新木栄吉・アメリカ合衆国特命全権大使(日本銀行)、西山勉・初代インド大使(横浜正金銀行)、荒川昌二・ベルギー大使(横浜正金銀行)、二宮謙・パナマ大使(横浜正金銀行)、林不二雄・エルサルバドル大使(三井物産)、古垣鉄郎・フランス大使(日本放送協会)、

大隈信幸・コロンビア大使(参議院議員)、高原須美子・フィンランド大使(経済評論家)、糠沢和夫・ハンガリー大使(経団連)、那須皓・インド特命全権大使(東京大学農学部教授)、山本鎮彦・ベルギー特命全権大使(警察庁)、横尾和子・アイルランド大使(厚生省)、

赤松良子・ウルグアイ大使(労働省)、松原亘子・イタリア大使(労働省)、藤原武平太・ブルガリア大使(通商産業省)、遠山敦子・トルコ大使(文部省)、>(同)中山恭子ウズベキスタン共和国特命全権大使兼タジキスタン共和国特命全権大使(財務省)などがある。

一方、政権交代が「民意」を無視して行なわれたとはどういう意味か。鳩山総理が総辞職したので衆参両院はそれぞれ憲法や法令に従って投票の結果、菅直人を新たに総理大臣に指名したまでである。

衆参両院は選挙による民意の意向に沿って構成されている以上、新しい総理大臣の指名ほど民意を反映したものは無い。わが国の憲法は両院を通じて民意が反映される制度を布いている。総辞職があれば、すかさず後任の総理大臣を指名するのは国会の義務であって
民意の無視ではない。

パソコンの普及と相まって政治批判の言論が高まっているのは結構なことである。しかし何でもかんでも直接有権者の要望が受け入れられないから「民意が反映されない」とか「暴挙だ」などと非難するのは可笑しい。

憲法や法令を無視した批判や非難は却ってするのは見苦しい。

衆参両院の運営に当っては一般国民に知らされていない「先例」が優先することになっているので、批判には注意が必要である。

例えばある大臣が答弁要求が予め出ていないのに雛壇に坐ってるのは先例違反だし、必要な答弁を済ませた首相か閣僚が、雛壇から途中退席するのは失礼ではない。それなのに「失礼だ」と言う投書があったので特に触れた。敬称略。2010・6・11

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<6月12日刊の目次>
・勘違いするな「民意」殿:渡部亮次郎
・菅首相、勝敗ライン見直さず:古澤 襄
・精神の無政府状態に陥った日本:宮崎正弘
・「・・思います」は仲々厄介(続):須藤文弘
・夢の対決「橋下 vs 石原」:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
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2010年06月10日

◆小沢は菅に斬られた

渡部亮次郎

民主党は鳩山総理も小沢幹事長も辞めたので支持率がVの字で上昇し、参院選は勝てるぞと、皆元気を出している。

だが党内最大勢力を誇る小沢が、どうも首の斬られ方が気に入らないと不満を募らせ、特に菅総理にハラをたてているようなので、実は菅の望む休火山ではなく活火山になっているようだ、大丈夫か菅総理。

情報によれば、鳩山はかなり前から弱気になり、4月30日関西を訪れた際、京都で民主党支持の財界人に辞任の意向を漏らした。これが直ちに小沢の耳にはいった。5月末に迫った普天間問題の「解決」に小沢が全く冷たい反応しか見せなかったのはこのためである。

小沢としてはカネの問題では鳩山と同罪だが、東京地検が不起訴を2度も決定しているので、鳩山が仮に辞めても自分は居残る決意だった。

カシラだけ挿(す)げ替えれば参院選は凌げる。辞任すれば東京地検の態度が変わったり、国税庁の手が伸びてくる恐れもなきにしもあらず、辞める気は全く無かった。

だから6月に入って2度行なわれた鳩山、小沢、輿石の三者会談でも辞任要求を輿石が匂わせても、小澤は沈黙を守り続けた。

小沢の智恵袋平野貞夫(元参院議員)は、8日のブログで「5月28日に小沢からかかってきた携帯電話で、自らの辞任と引き換えに総理に辞任を迫る雰囲気を感じた」と述べているが、小沢が自らの辞任を口にした証拠は残っていない。

平野が得た情報によれば、鳩山は1日夜、菅と極秘会談して「後を頼む」と伝えた。そこで菅はすかさず「小沢を斬ろう」と提案して一致。2日の両院議員総会でいきなり「10日ぐらい前から退陣を考え、小沢幹事長にも自分の指示で辞めてもらう」と発言して小沢の首をとった。

わがメルマガ「頂門の一針」の読者の一人は「あの鳩山演説終了後に小澤が何とももの凄い表情で鳩山と顔つき合わせて何か語り合っていたので、何となく異常は感じました」と言っている。「格下」と思っていた奴から、いきなり斬られたのだから無理もない。

平野は言う。「情報通によれば、この頃、小沢幹事長周辺に、6月1日の「鳩山―菅会談」の内容が伝わり、挙党一致体制が崩れたとのこと。ここら辺が事実に近いのではないか。

菅氏は2日の鳩山首相退陣を受けて、4日に行われる代表選挙に立候補を表明する。小沢氏は挨拶をしたいという菅氏に会おうとしない。私の推測は「鳩山―菅密談」を知ったからだと思う」。

斬られた小澤はそれだけでなく面子を潰された。怒りは頂点に達した。「政治の力は数」こそは親分田中角栄に教え込まれた信条。150人の派閥を率いるオレの力を見せ付ける時とばかり、菅への対抗馬擁立に取り掛かった。

しかし、流れは既に菅に向けてとうとうと流れていた。真紀子にまで袖にされる始末。

今回は流れを見誤ったと気付いてか「本番の勝負は9月」と呟いて闘志を露にするばかり。斬ったのは鳩山だが、唆したのは菅そのものだから、怒りは益々菅に向かって燃え盛る。(敬称略)2010・6・9

■本稿掲載の6月10日刊「頂門の一針」1944号のご紹介

<目次>
・小沢は菅に斬られた:渡部亮次郎
・やるべきは「普天間」最優先:花岡信昭
・「荒井戦略相」に事務所費問題が発覚:古澤 襄
・どこまで賃上げすれば:宮崎正弘
・我が身は還暦、我が世は瓦礫:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年06月08日

◆政治評論家と政治学者

渡部 亮次郎

<「頂門の一針」 1941号 2010(平成22)年6月7日(月)「小沢は身を引く時だ:岩見隆夫」の【長年、民主党の助言者である山口二郎北海道大教授が、民放テレビで、「小沢権力は幹事長を辞めれば、かき氷みたいに消えていく。お金の力も、(候補者の)公認権もポストについているからだ」と語るのを聞いて、驚いた。】に
は全く同感です。

「小沢はそんなヤワな政治家ではない。」山口教授はあまりにも小沢氏を理解できていない。この程度の人間が、マスコミで識者面して発言していることを嘆かわしく思います。(N・H)>

私のメルマガ「頂門の一針」への投書である。かつて防衛庁時代に要職にあった方である。当時の役人は政治家をよく観察していたから時代認識もまた確立していた。政局すら見通していた。

政治記者古手の政治評論家は政治家各人と政治の現場を承知している。過去、現在を熟知しているから、若干の見通しは予見できる。
小沢一郎が幹事長でなくなれば、その権力はかき氷みたいに消えてゆくなんてことは書かないし、言わない。そんなやわな政治家じゃないことをよく知っているからである。

これに対して政治学者は政治の現場に立ち会ったことが無く、入手する情報はマスコミを通じた、いわば二次情報でしかない。政治家の権力はそのポストによる、と言う一般的な認識しかないから「ポストを失った小澤はかき氷などという「冗談」が言える。

40代にして自民党幹事長になり、その4年後に離党し、細川政権を樹立したり、政党を幾つも作っては捨ててきた。毀誉褒貶のなかで体質はいまや如何なる泥水にも耐えられる幸甚なものになっている。かき氷であるわけが無い。海に千年、山に千年棲んだ化け物「海千山千」。この先、何するか分かったもんじゃない。

政治記者も政治評論家も政治的な情報を常に新しくしていないとテレビや雑誌から注文が来なくなってメシの食い上げになる。だから私の若いころは、政治家とマンツーマンで酒食をともにしながらしか取材しなかった。

政治家は嘘を吐くのが商売みたいなもの。電話の先では舌を出しても見えない。顔を青ざめても分からない。だから電話取材は絶対しなかった。

1対1で面と向かえば嘘吐きは見破れるし、酒がはいれば油断もするから真実に近づける。これは後にNHK会長になる島 桂次(故人)に厳しく教えられたことである。「記者会見は嘘吐き大会。何処の馬の骨か分からん奴らの前で本心を吐露する政治家のいるわけが無い」。

対するに政治学者は個々の政治家に深入りしていたのでは、政治の流れを歴史的に分析したり、検証したりする時間がなくなるから、つい政局の分析が甘くなったり間違ったりする。大学からの報酬に影響しない。山口教授の発言は稀代の失言として記憶されるだろう。

それだから政局分析に政治学者をテレビ局が起用するのは「ミスキャスト」になりがちだから、避けたほうがいいし、見ないほうが正解だ。

まして記者経験も学者経験も無い雑誌編集長は政治評論家の無資格者であるから、分析は出来ても見通しは当らないから消えて行くしかない。

私は政治取材などに若干の経験があるから、以上のことを書いたが、
政治の現場を離れて30年にもなるから、政治評論は絶対しない。出来ない。政界の歴史は多少語れるだけだ。政治評論を古澤襄さんら情報通に頼る所以である。(敬称略)2010・6・7

2010年06月07日

◆哲学は後で付ければいい

渡部 亮次郎

1970年代、日本最大の関心は沖縄の返還であったが、アメリカのそれは日本からの繊維製品の過剰輸出であった。当時は佐藤栄作内閣。

ことの発端は、1969年1月、アメリカ大統領ニクソンが、自らの選挙期間中に、繊維産業保護を公約したことだ。

これに基づいて、スタンズ商務長官が日本に来て、毛・合繊製品の対米輸出規制の協定締結を要請した。

7月に開かれた日米貿易経済合同委員会では、アメリカ側が公式に繊維製品の対米輸出の自主規制を求め、ここから「日米繊維問題」の政治化が始まった。

ニクソン大統領の大票田である南部の繊維業者の突き上げもあって、強硬なものとなった。しかし日本では、大屋晋三当時「帝人」社長を会長とする日本繊維産業連盟が結成され、貿易自由の観点から譲らなかった。

政府でこの問題の対処に当ったのは宮沢通産大臣。東大出で、外交官試験にも通った俊才。佐藤は彼を官房長官に抜擢しようとして派閥幹部の田中角栄に阻止された事がある。だから難題の日米繊維交渉への期待は大変なものだった。

しかし、771年の田中通産大臣の時まで日米の妥協点には至らなかった。

2005年に出版された「宮沢喜一回顧録」(岩波書店)でまず宮沢氏は佐藤首相が繊維問題についてどのように考えているのか、ということに関して次のように回想している。

<おそらく佐藤さんとしては、沖縄(返還)という大きな国益のために、殊に日本の繊維業界がアメリカをそんなに困らせているのなら、それは規制するのが国益に合うと考えられたのだろうと、私は想像します。・
・(中略)・・

実際問題としては、法律問題は突っ切るとしても、行政としては、業界が横を向いていれば一切動かない。1つひとつの品物を押さえなければならない。しかしそういう事を佐藤さんは、無理もないけれど、ご存知でなかった。>(p.243)

このような佐藤首相の意を受けて、宮沢氏は通産大臣になったわけだが、通算省・産業界が共に反対していた中で、宮沢では解決できなかった。

<形としては、私は自分なりの哲学でいろいろやってみたけれど、それは結局この問題の妥結には持ち込めず、田中通産大臣が千何百億という金を出すという決心をすることによって、最終的に業界が泣き止むという経緯をとったわけです。>(p.253)

この「千何百億円を出す」(正確には2000億円の補正予算)という政策は田中通産大臣だったからこそできた荒技だが、とにかくこういう荒技をもってしなければ問題を解決しなかったのである。

宮澤に出来なくて田中角栄に出来たわけとは何であったか。国の財布を握っている大蔵(当時)官僚の肝を田中が握っていたからである。2000億円ものカネを一気に出させる人脈を大蔵省に持っていたが、宮澤には無かった。

角栄になくて宮澤にあったのは哲学である。日米繊維交渉を哲学で考えたのが宮澤。しかし田中は哲学は無関係だった。「要するに解決すりゃええんだろう? 日本の繊維業者を納得させるのは哲学なんかじゃない、カネだ」。

糸(繊維)が解決しなければ縄(沖縄)が還ってこない。来なけりゃ親分(佐藤)が倒れる、佐藤が下手な倒れ方をしたら、後釜を狙う俺(田中)が困る、だから糸はオレの問題なのだ。それだから2000億を工面(補正予算編成)してくれ。

ハイ分かりました、という大蔵官僚。そのために何年にも亘って小遣いを配ってきた。池田内閣時代、小学校しか出ていないオレがこともあろうに大蔵大臣になり、それを支えてくれた大蔵官僚がいればこそ、ここまで来られた。その浪花節で糸は解決し、縄は還って来た(1972年5月15日)。

先立つ1月の日米首脳会談に佐藤首相は外務大臣福田赳夫のほかにわざわざ通産大臣田中角栄も帯同。旅行中に「福田を先に総理をやらせろ」と田中を口説く心算だった。

ところが自分の選挙公約を2日前に果たしてくれた田中をニクソンは大歓迎。食事では脇に座らせる気遣いまでした。これでは佐藤のほうが挫けた。これで田中は勢い付き。遂に7月には福田を蹴落とし佐藤の後釜に座った。

よくよく考えてみれば、宮澤が哲学的にコトに当って失敗した事から角栄が政権を獲得できたようなもの。角栄の恩人は宮澤である。だが角栄は口の利けるうちは「宮澤を総理にしてはいけない。あれは秘書官は勤まるが総理大臣は務まらない」といい続けた。

「要するに解決」が哲学の無い田中の哲学だった。そのためにした事は官僚を手馴付ける事だった。今日、独立法人改革の足踏みも遠因は角栄に遡る事は確かである。文中敬称略。(再掲)

筆者付言。「コトを解決した角栄が逮捕され、日本を食い散らかした鳩
ガ自由に飛んでいるのは何故だろう」




2010年06月05日

◆北国に無い松林檎

渡部 亮次郎

北国にあって南国にない果物はリンゴである。しかし、それだけのことであって、その反対の物が殆どである。代表的な果物はパイナップル(松林檎)であろう。

敗戦した1945年直後、コメの供出促進奨励品として、秋田県の農家にも缶詰が配られ、生まれて初めて甘く加工されたパイナップルなるものを食した。パイナップルの缶詰だった。

降って昭和43年、生まれて初めて沖縄島に旅券を持って渡った。占領後、初の琉球知事選挙取材のためである。本島の各地で栽培されて居たものはサトウキビとパイナップルだったが、1度も食しないまま島を後にした。

パイナップルの原産地はブラジル南部、アルゼンチン北部、パラグアイにまたがる、南緯15〜30度、西緯40〜60度に囲まれた地域とされている。

新大陸で発見された当時(1492年)すでに中部アメリカ、西インド諸島に伝わっていて、新大陸発見後、広く世界へと紹介された。

16世紀には、アフリカ・インド・南洋諸島の各地に分布。17世紀には、ヨーロッパ貴族の温室で品種育成も試みられ、18世紀には、南北緯度30度以内の熱帯・亜熱帯地域で広く栽培されるようになった。

輸送や貯蔵に弱いパイナップルは、その後は世界への伝播が遅れた。現在、世界の主要栽培品種のスムースカイエン種は、1819年フランス領ギアナから、フランス本国へ渡り、それからイギリスへ。

アメリカはフロリダへ、ハワイへ、ハワイではジョンキドウェルがパイナップル缶詰工場を1892年に設立。一躍大産業の素地が作られた。缶詰用原料として認知されたスムースカイエン種は、1923年には台湾に伝わった。

14世紀から16世紀、琉球王国(沖縄)は大交易時代。地の利を生かし、西の明(中国)、東南アジアのルソン(フィリピン)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)との貿易が盛んに行なわれていた。その頃伝わった代表的な物が泡盛である。

だが、パイナップルは比較的遅く、1866(慶応2)年石垣島沖で座礁したオランダ船から、川平湾に漂着したパイナップルの苗が、沖縄に伝来した最初とされている。

沖縄本島では1888年に小笠原から輸入されたものが国頭郡に広がり、1927(大正15)年には、現在の主力栽培品種であるスムースカイエン種が本部町伊豆味に導入された。

石垣島では1930(昭和5)年に台湾からパイナップルの苗が運び込まれ、1935(昭和10)年には林発氏等を中心に、台湾から栽培農家53農家が移住して、本格的なパインの生産が始った。

1938(昭和13)年には石垣市に缶詰工場が建設され、県外移出が始まりまったが、3年後に始まった大東亜戦争で壊滅的な打撃を受けた。

戦後、石垣島では1946(昭和21)年から、沖縄本島では1952(昭和27)年から栽培が再開された。その後、生産は急増し、1960(昭和35)年には、サトウキビと並ぶ2大基幹作物として、沖縄の経済を支えるまでにパイン産業は成長する。

しかし、1970年代に入って、オイルショック、冷凍パイン輸入自由化、経済不況の影響を受け、最盛期1969年(年間10万t)の6割程度までに落込んだ。

その後もパイン産業は、パイン缶詰の需要低迷・安価な外国産パイナップル缶詰の価格攻勢等の影響を受け、ついに1990年には沖縄のパイン生産の需要の大半を占めるパイン缶詰の輸入が自由化された。

ウルグアイラウンドによる、このパイン缶詰自由化により、沖縄のパイン産業は大きな打撃を受けた。

パイナップルの名前の由来は、(PINE)松かさと(APPLE)りんごで、松ぼっくりのような形状とりんごのような酸味のある甘さからきている。

観賞用を含めると世界に2000種類もある。世界中で一番有名な品種がスムースカイエンだ。なぜかと言うと、世界で一番生産されているといわれているのだ.

雪国秋田では到底生産できないパイナップルは、糖質の分解を助け、代謝を促すビタミンB1を多く含み、さらにビタミンB2やC、クエン酸などとの相乗効果により疲労回復や夏バテ、老化防止などに効果がある。

タンパク質分解酵素のブロメリンが含まれているので、肉類を食べた後にデザートにして食べると、肉を柔らかくし消化を助ける。

また、ブロメリンには腸内の腐敗物を分解する作用もあるので、消化不良や腸内のガス発生などの症状にも有効だ(ブロメリンは熱に弱いので、60度以上に加熱するとその効果が失われてしまう)。

ただし、あまり熟していないもの(未熟果)を食べると、(未熟果にはシュウ酸イオンが含有)消化不良を起こしたり、口の中が荒れてしまうことがあるので注意を要する。
http://www.pineapplehouse.jp/menu17.html

2010年06月03日

◆手負いの獅子小沢

渡部亮次郎

鳩山がやっと辞める。これで彼言うところの「国難」が去る。なにしろ自分が政権の座にあることこそが「国難」なのだと理解できない博士だから面倒だった。政治的には全く無能な事を天下に晒した8ヶ月。

万事派手好みの夫人への手前もあるから仲々辞めないぞ、意外に手こずるぞ、と見ていたが、輿石を挟んで小沢との差し違えを演出したのは、最初にして最後の「政治行動」だった。

但し、これは官房長官の「示唆」だから逆もあり得る。「ボクが辞めるから総理、あんたも辞めてくれ」と小沢がいいだしたのに、「示唆」は最初にして最期のご奉公とばかり主従を変更しているかもしれない。

いまさら何を書いても無駄だからやめる。それにしても、わずか63にして世捨て人は気の毒。ついでにこれ限り政界からの引退を勧奨する。それが国のためだ。

一方の小沢。鳩山ごとき素人の仕掛けてきた差し違え辞任を止められなかったとは、力の衰えを感じさせられる。「小沢衰えたり!」

こうなれば小澤は「鳩殺し」に邁進するはずだ。もはや一匹狼。徹底的に鳩を追い詰める為、手負いの獅子小沢、何を仕出かすか分からない。

仮に参院選挙に敗北しても、責任を負う必要はなくなったのだし、
これまで以上に好き勝手をやらかすだろう。新党結成までも考えているかもしれない。

徹底的に、党内に権力の集中を図るため、後継首相、幹事長の選出に勢力を傾注するだろう。したがって菅が果たして本命と言えるか。
小澤は腹黒い。 2010・6・2

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2010(平成22)年6月3日(木)
<目次>
・首相辞意表明の裏側:古澤 襄
・手負いの獅子小沢:渡部亮次郎
・小沢氏は権力保持図る:古澤 襄
・男「政界」に家なし:平井修一
・民主党の危険な本質を見極めよう!:東郷勇策

・話 の 福 袋
・反     響
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