2010年04月28日

◆鳩山軽蔑を始めたマスメディア

渡部亮次郎

「中国から見ればカモに見え、米国から見ればチキンに見える」で始まった「日本にいる謎の鳥」のアネクドート(小噺)。27日友人かの連絡に依れば、あの鳥は遂に「雁(ガン=癌)」だという事になったらしい。

<与謝野氏「首相は東大出のはずだが頭相当悪い」

たちあがれ日本の与謝野馨共同代表は27日、自民党から除名処分を食らったが、先立って26日、衛星放送「BS11」の番組収録で、鳩山首相について、「東大出身のはずだが、頭が相当悪い。

首相の資質と言われたが、麻生(前首相)さんの方が100倍も1000倍も頭が良かった」と酷評した。> (4月26日19時49分配信 読売新聞)

LOOPY(バカ)を通り越して「頭が悪い」ことになってしまった。それよりも酷いのは、連載「新 民主党 解剖」(第2回=27日)で石原慎太郎都知事の言葉を引用しながら<身に迫る「国民の軽蔑」>を投げつけた産経新聞である。

日本のマスメディアで鳩山首相に「軽蔑」という言葉を投げつけたのは今回の産経新聞が初めてである。自らの世論調査で内閣支持率が22%に落ちたのを確認して、つい出た表現であろう。

その前に、冒頭に出した「謎の鳥」のアネクドート。ネットを見ている人なら臭いほど知っているものではある。

<日本には謎の鳥がいる。正体はよく分からない。

中国から見れば「カモ」に見える。

米国から見れば「チキン=鶏」に見える。

欧州から見れば「アホウドリ」に見える。

日本の有権者には「サギ」だと思われている。

オザワから見れば「オウム」のような存在。

でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。

それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え

身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒。

釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、

実際は単なる鵜飼の「ウ」。

私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。>

というもの。誰かが初め、ネットに掲載したら、読者が投書して鳥の名が増えた。とうとうガン(癌)になっても死なないから、ハトは国民に軽蔑されながら、死ぬまでもっと多くの鳥になるだろう。

さて産経新聞である。問題の連載は初回からかなり厳しい表現を用いて民主党への失望と内部の同様を伝えてきたが、2回目の27日は遂に「軽蔑」を投げつけた。

<「首相が国民の軽蔑を買った。軽蔑が一番、怖いんだよ」。民主党が圧勝し政権を奪取した09年8月の衆院選直前、東京都の石原慎太郎知事が麻生太郎前首相を評した言葉だ。石原の指摘は今や勝利者だったはずの鳩山に突きつけられている。>というもの。

普天間問題の処理の不手際に、国民は今や呆れている。しかも本人もそれを承知で「私はバカだ」といったかと思うと暗愚と摩り替えて威張ってみせる。それこそ「つける薬の無い馬鹿」である。

与謝野氏が言う如く、東京大学初め立派な大学は出てきたらしいが、
学力とは無関係な事態の洞察力とか指導力とか決断力がまったく無い。田中角栄と全く反対の人物である、可笑しさ。

角栄は貧乏で中学にも行けなかったが、あれほど頭の良さを感じさせた人物のナンバー・1だった。だから首相が務まったが、鳩山は大学は幾つ出ても、元々世渡りの頭は全く無い。こういう者を江戸の庶民は「使い物にならない」と軽蔑し、挨拶もしなかった。

<産経の世論調査で首相の指導力を「評価する」ハ5・6%にとどまり、逆に「評価しない」が9割に達した。

政権補足時の昨年9月の調査では、首相の指導力を54・5%の人が評価していた。7ヶ月で約10分の1にしぼんだ計算だが、国民の5%しか指導力を認めない国家の最高指導者とは何だ」>(産経)

さりながら鳩山は簡単には辞めない。カネの有る奴 学歴の高い奴、頭の悪い奴、女房の尻に敷かれている奴ほど、辞めない。秋田弁では、こういう奴を決め付けて軽蔑する言葉がある。「ドブデキャシ」(文中敬称略) 2010・4・27

■本稿掲載の4月28日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1899号のご紹介
<目次>
・鳩山軽蔑を始めたマスメディア:渡部亮次郎
・小沢氏、首相を見放した?:古澤 襄
・子宮頸がんワクチン適齢期:石岡荘十
・習近平が王楽泉の更迭を宣言:宮崎正弘
・ハトに餌をやってはいけない:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月27日

<夕刊>◆ASEANへ初参加のころ

渡部亮次郎

1976年8月、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの東南アジア5カ国が結成した地域協力機構たる東南アジア諸国連合(ASEAN)。84年1月からはブルネイも加盟国となった。

76年2月にバリ島で開いた第1回首脳会議では、「一体化宣言」と「友好協力条約」を調印した。域外先進国との経済関係強化のため、78年以降、日本、米国、EU、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国の外相を含めた拡大外相会議も開いている。

92年1月、シンガポールで開催した首脳会議ではASEAN自由貿易地域(AFTA)構想を採択した。その後95年7月にベトナム、97年7月にミャンマー、ラオスが加盟し、99年4月のカンボジア加盟で域内のすべての国からなる「ASEAN10」を実現した。

07年1月にフィリピン・セブで開いた首脳会議では2015年の「ASEAN共同体」実現を目指した宣言を採択した。

さてASEANに対して日本は結成当初から外相会議への参加を要望していたが、主としてフィリピンの強い反対で拒否されていた。
しかし1978(昭和53)年になってようやく参加を認められ園田直外務大臣が6月16日(金)、会場となるタイの景勝地パタヤに到着した。

32年も前のことだから記憶はおぼろげだが、ホテルはASEAN外相会議が開催される「ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル」だった。タイ警備隊ノメンバーのくゆらす煙草が甘い香りを発していた。ホテル内のいたるところに飾られた花は強い原色なのに、香りがまったく無いのに気付いた。

それにしてもASEANが日本の参加を永らく拒否したのは大東亜戦争の加害者に対する拒否感からして当然だろうが、「大きな声じゃ言えないが、マッカーサー米元帥のフィリピン駐在当時、その副官を務めていたロムロがいまやフィリピンの外相。ロムロがキーマンという情報を得た。

そこでロムロは会議で何をやらかすか分かったものじゃないという疑念にとらわれた。翌朝早く起きて、外相会議の会場を独りで見に行ったところ、机の配置に悪意がある。

こうした場合、6カ国は「対等」なのだから6角形にして坐るのが普通なのに、ASEAN側5カ国が横一列に並び。向かい側にポツンと日本が坐る事になっている。「これじゃ口頭試問だ」と怒り、大臣に報告した。

ロムロとマッカーサーとの関係。「ウィキペディア」によれば、1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻ったマッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。

アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーはケソンの求めに応じてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。

この頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーとロムロであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。

1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

1941(昭和16)年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。

オーストラリアに退却したマッカーサー怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。

2ヶ月に亘って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。

しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

一方、ルーズベルト大統領はマッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。

マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。ロムロも一緒だった。日本軍へ恐怖と怒りは頂点に達していた。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。


レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。

そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。

ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。

この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

日本が加わった初のASEAN外相会議が始まった。机は並べ直されて6角形になっている。冒頭、園田外相が言った。日本から「口頭試問を受けに来たソノダです」。逆手に出たのだ。通訳されると会場は爆笑。会議は成功。

夜のレセプションでは議長役ウパディット・タイ外相の提案で「かくし芸大会」となりミスターソノダは「黒田武士」を歌ったが、音痴なので歌になっていなかった。

それでもすっかり打ち解けた雰囲気になり、翌日はクリアンサック首相の私邸に招かれ、首相がみづからなさる手料理をご馳走になったが、私は天井に張り付いたヤモリが何時落ちてくるかばかりが気になって、何を食べたか記憶が全く無い。

なお、ロムロと園田は「意気投合」し「親友」となった。2010・4・25

■本稿が掲載された4月27日刊全国版「頂門の一針」1898号のご紹介
<目次>
・ASEANへ初参加のころ:渡部亮次郎
・早くも習近平の次を睨む人事レース:宮崎正弘
・やっぱり鳩山首相は危ない人:阿比留瑠比
・兵力の急減に悩む北朝鮮軍:古澤 襄
・幸せは歩いてこない:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月26日

◆沖縄での米軍訓練の実態

渡部亮次郎

私は通常では絶対見ることのできない、米軍基地での訓練の実態を詳しく見た経験が有る。沖縄特派員(NHK)だった時期があるからである。

作家の石原慎太郎が参院選挙に出馬、300万票をとって最高点で当選した(7月7日)昭和43(1968)年。この後の11月10日には沖縄で初の主席(知事)の公選が行なわれ、NHKから特派員として私が旅券を携えて派遣された。

言うまでも無く、昭和43年は沖縄の悲願とされた「祖国復帰」は実現していない。日本にとっては「外国」だったから、私がパスポートを所持した所以である。

したがって出張旅費もドル。私は1日40ドルを支給された。1ドルは360円。360×40=14,400(円)。大名旅行だった。なぜなら下宿代(2食、6畳間)が1日5ドル、タクシー雇い上げ代1日10ドル。
残り25ドルは使い道なし。

とはいえ、選挙情勢を探るのに、何処へ行けばいいか、皆目見当が付かない。何しろ琉球(当時は沖縄県ではなかった)選挙管理委員会で「開票状況の速報体制はどうなっておりますか」とたづねたところ、「速報って何ですか」と言う答え。

投票が済めば、結果は投票箱を何時空けても同じ。慌ててあける必要は何処にも無い、と実に哲学的な答え。繰上げ投票など、何でする必要がありますか。ダメダコリャ。

妙なのだ。雇い上げたタクシーを毎日、ナショナル電気洗濯機とわき腹に書いたワゴンが決って尾行してくる。問いただしたらアメリカ政府の高等弁務官の依頼で私の24時間を監視しているのだ、とアッケラカンと白状する現地人。

昨夜は何処のバーで何の銘柄のウイスキーを何杯呑んだか、ホステスを誘惑したか否かも米軍は把握しているという。なぜならホステスそのものがスパイに仕立てられているからだという。

言論自由のアメリカ、けしからんと弁務官に抗議。「ミスター・ワラナベ 不都合な記事を載せた新聞は那覇空港で検束すれば済むが、NHKの電波は検束できない。だから発信元を監視する意外に手段がないのです」とあっけらかん。

「これも何かのご縁ですから、我々の訓練を視察なさいますか「といってIDカードを呉れた。その時瞳の色を問われて「黒」と答えたら「黒は琉球人、日本人はブラウン(茶褐色)ですと訂正された。

基地の名前を忘れたが、たしかキャンプ・コートニーだったと思う。ジャングルの中を進むと、細い道の向こうに盛り上がったところがある。合理的に考えれば地雷。避けて通ると、よけたところにこそ地雷。頭が早くも混乱。

掘り抜き井戸がある。予め射撃で破壊。安心して通りぬけたら後ろから撃たれた。ベトコンはかねて射撃を予測。井戸に横穴をくりぬいて隠れていたのだ。文明人を端から信用どころか、バカにしているのだ。

先に掘っ立て小屋がある。焚き火して湯を沸かしていたようだ。逃げられた直後らしい。徹底的に射撃したと近付くと薪の山の中に自働射撃の銃が隠されていて撃ってきた。

喉がからから。「戦友」に貰ったコーラで潤し、空き缶をポイと捨てたら、それが火炎ビンとなった返ってきたではないか。これでは文明的な生活に慣れたアメリカ人は価値観の余りな違いに戸惑い、終いにノイローゼになる人が出て当然とのことだった。

専門家ではないからよく分からないが、合理主義と物量のアメリカは、間もなくヴェトナムから敗退した。

なお、琉球主席選挙の予測、4万票差で野党統一候補の屋良朝苗(やら ちょうびょう)氏が当選。その通りとなった。投票前日に東京へ送った私の電話をアメリカ軍はちゃんと録音していた。(文中敬称略)2010・4・23

■本稿掲載の4月25日刊「頂門の一針」1896号のご紹介
・<目次>
・沖縄での米軍訓練の一駒:渡部亮次郎
・自民脱党・誘因は金欠:山堂コラム 315
・<子ども手当>韓国人男性が養子554人分申請:古澤 襄
・「実にけしからん」とののしられ:岩見隆夫
・不仲夫婦が別れない理由:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月24日

◆口蹄疫牛はすぐ殺処分

渡部亮次郎

<宮崎の1例目、口蹄疫確定=農家支援策も拡充-赤松農水相
赤松広隆農林水産相は23日の閣議後記者会見で、宮崎県都農町の農場から口蹄(こうてい)疫の疑いのある牛が20日に見つかった1例目について、検査の結果、口蹄疫のO型ウイルスが確認されたことを明らかにした。>( 時事通信2010・4・23)

致命的な病気ではないが、偶蹄類が感染する伝染病の中でも最も伝染力が強く、ウィルスは100km以上も飛ぶ。

こうして蔓延すれば畜産業界に経済的な大打撃を与えかねない疾病でもあるため、患畜として確認され次第、家畜伝染病予防法に基づいて全て速やかに殺処分される。治療が選択されることは基本的に無い。

日本では家畜伝染病予防法で家畜伝染病に指定されており、対象動物は牛、水牛、鹿、羊、山羊、豚、猪。OIEリストA疾病。

人には感染しない。また患畜の乳や肉を摂取しても人に影響はない。

1898年、ドイツの医学者フリードリヒ・レフラーとポール・フロッシュにより病原体が突き止められ、細菌より小さいことが確かめられた。これが、初めて確認された濾過性病原体=ウイルスの一つである。

感染すると発熱、元気消失、多量のよだれなどがみられ、舌や口中、蹄の付け根などの皮膚の軟らかい部位に水疱が形成され、それが破裂して傷口になる(但し、水疱が形成されないケースも報告されている)。

患畜がウイルスの感染そのもので死亡する率は低いが、水疱が破裂した際の傷の痛み(細菌によるその後の二次感染も含む)で摂食や歩行が阻害され、体力を消耗する。

それによって乳収量や産肉量が減少するため、畜産業に対して大きな打撃となる。また、家畜の伝染病の中では最も伝染力の強い疾病でもあり、水疱から破裂した際に出た口蹄疫ウイルスが風に乗るなどして、気象条件によっては100km以上移動することもある。

日本でも2000年春、92年ぶりに宮崎県と北海道でO型の口蹄疫の発生が見られており、2010年にも宮崎県で感染の疑い例が生じている。

1908年に、東京、神奈川、兵庫、新潟で522頭が感染が記録されている。

2000年3月25日から4月9日に宮崎県で3戸、5月11日に北海道1戸の感染が確認、6月9日には終息。日本では92年ぶりの発生であった。

2010年4月9日、宮崎県都農町の畜産農家の和牛1頭に口腔びらん等をの症状を確認。疑似患畜として確認

2010年4月16日、2頭が同様の症状
2010年4月19日、さらに1頭が発症
2010年4月20日、宮崎県都農町の畜産農家の和牛3頭が感染の疑いが確認された]。

2010年4月21日、宮崎県川南町の乳肉複合畜産農家に飼養されていた6頭の牛に感染の疑いが確認された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2010・4・23

2010年04月23日

◆豪州捕鯨反対の真相

渡部 亮次郎

私自身は鯨を食べる事無しに育ったが、聞くところによると、ある時点まで鯨は低収入層にとっては牛や豚肉に替わる貴重な動物蛋白源だった。だから今になってみると鯨をもう一度食べてみたいという人は多い。

貧しく育ちながらアメリカで教える大学教授に上り詰めた知人は、なんとか鯨カツを食べてみたい、と言う。トンカツより安かったから母親は泣く泣く買った鯨カツだったのに。

そんな折、北海道にスキーをしに来たオーストラリア(豪州)人たちが、何十台ものリフトに捕鯨反対の落書きをしていったのでスキー場側を困らせているという記事を目にした。営業妨害では無いか。


<「捕鯨反対」落書き? 旭川のカムイスキーリンクス ゴンドラの半数以上
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/77456.html

【旭川】北海道旭川市神居町西丘の民間スキー場「カムイスキーリンクス」のゴンドラリフト内で、捕鯨反対のメッセージと受け取れる落書きが多数見つかっている。

クジラの絵とローマ字で「TABENAIDE(食べないで)」と書かれ、“被害”は103台あるゴンドラ(4人乗り)のうち、62台に上る。落書きはオーストラリア政府や米国の反捕鯨団体による調査捕鯨への反対の動きが道内でも報道された1月から増加。

黒や緑色のマジックで書かれたらしく、漫画風に描かれたクジラが「食べないで」と訴えている。

道内では近年、オーストラリアなどからの外国人スキー客が急増。「これ以上の迷惑行為はやめてほしい」と困惑顔だ。> 北海道新聞(02/2208:00)

インターネットを逍遥していたら「桜木朱雀」と名乗る方がブログで、

<オーストラリアの反捕鯨運動は、一部の狂信的な民間団体による勝手
な行動ではなく、オーストラリア政府の肝煎りによって行なわれている
>という指摘があった。一読に値すると考えるので紹介する。
http://www.suzaku-s.net/2008/01/aussie-the-economic-animals.html

<その抗議運動の実態は、海域に船を出す妨害活動やデモ運動だけでなく、「テロ」としかいいようのない暴力的・破壊的なものだ。

オーストラリアの市民団体による常軌を逸した抗議や、環境テロ集団による狂気の「襲撃」の背景には、もちろんオーストラリア人が生まれながらに(ある意味“建国の理念”として)持っている差別意識、白豪主義が見え隠れする。

しかし、それを政府が後押ししているとなると、やはりもう一つの当たり前の事情…金の問題が丸見えになります。

オーストラリアでは、約2,800万頭(2006年現在)もの牛が飼育されています。また、生産する牛肉の65%以上を輸出する世界最大級の牛肉輸出国であり、その経験と技術が品質をしっかり支えています。

さらに、オーストラリアにとって最大の牛肉輸出市場は日本。したがって、日本のお客様のさまざまな好みに合わせた牛肉を生産することができ、食文化の多様化に対応している。

日本は、オーストラリアにとって最大のお客。特に米国産牛肉のBSE問題以来、「オージービーフは天然素材で育てていて安心でヘルシー」というプロモーションも奏功し、輸入量はうなぎのぼりのようです。ジェトロのデータによれば、日本一国で、オーストラリアの総輸出量の20%をまかなっているのです。

    2004年    2005年    2006年
    金額(豪弗) 金額      金額   構成比(%)
日本  22,219    28,462     32,456   19.8
中国  11,014    16,127     20,376   12.5
韓国   9,171    10,959     12,321    7.5
米国  9,546     9,264  10,071  6.2
(オーストラリア - 輸出統計(国別) - ジェトロ)

これで日本人が鯨という超効率のいい動物性蛋白質を消費することを思い出したら…。もし、日本が牛肉と完全に袂別し、国家として鯨食を選択したら…。

もちろん、今の日本と日本人が、こんな非現実的な選択に踏み切る、踏み切れるはずもないのですが、オーストラリア人は先の大戦で見た日本人の団結力を未だに恐れているのかもしれない。

それにしても、日本から今後も金を引き出すために、捕鯨船を襲撃し、大使館で日の丸を汚し、日本を恫喝して、肉を売りつけようとする。ヤクザな商売ですね。

しかも、「草だけを食べさせるのでクリーンで健康的」と謳われるオージービーフは日本の消費量が増えると牛肉の値段が上がり、オーストラリアの一般家庭にとってはまったくありがたくない話のようです。牛が排出するメタンガスによる温室効果も、無視できません。

オーストラリアというのはもともと真水の量が少なく、このために牧場では地下水を汲み上げては牛の飼育に使ってしまうために、地中の水分が減少して砂漠化が進行してしまうという。

オーストラリア産の牛肉を食べれば食べるほど地球環境が破壊され、オーストラリア人に憎まれる。鯨を食べれば、オーストラリア人に襲われる。

こうして考えると、私たちが何を食べるべきか、何を食べるべきでないか、どうやら見えてくるような気がします。2008年01月15日 (再掲)

■本日4月23日刊の全国版メルマガ「頂門の一針」1894号のご案内
<目次>
・「愚か」を「愚直」とすり替えた鳩山首相
・米中G2論はもはや幻:古森義久
・サイズはA4で「ええよん!」:馬場伯明
・安以宇衣於と伊呂八、全國學力テストの問題:上西俊雄
・火山灰による飛行禁止騒動総括:クライン孝子
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月20日

◆官房長官の吉凶

渡部亮次郎

田中角栄が逃げたかった一つのポストが「官房長官」だった。このポストのこなし方は、それくらい難しいし、場合によっては、その政権の命運を左右するし、自身の政治家としての将来を決する。

<新党大地の鈴木宗男代表は18日、神奈川県藤沢市内で講演し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「鳩山由紀夫首相が5月末に決めると言ってるんだから、首相に任せたほうがいい。官房長官が『5月末は難しい』などと暗い顔して言ったらダメだ」と述べ、平野博文官房長官の姿勢を批判した。

社民党の阿部知子政審会長も同じ講演会で、普天間問題をめぐる平野氏の対応について「優しさとか、粉骨砕身して沖縄の問題に答えを出していこうという姿勢が感じられない。沖縄の人と心底ひざを交えて話す勇気と気概がない」と痛烈に批判した。(産経)>

平野長官を斬って延命を図る鳩山首相という場面、無きにしも非ず。
<鳩山内閣の支持率低下は鳩山氏自身の迷走が原因だが、それに輪をかけて側近の平野官房長官の無能ぶりがあるという。「平野A級戦犯説」すら取り沙汰されている。>と2010.04.19 Monday name : kajikablog(古澤 襄)

田中が逃げたのは、親分佐藤栄作が政権を握っている時代。佐藤は田中の手綱を引き締めないと、暴れ馬になり、自分の後継に福田赳夫を据えられなく恐れがあると判断。官房長官にして手許で監視しようと考えた。

既に佐藤の後継者として、福田と戦うことを決意していた田中はあらゆる策略を用いて官房長官構想を潰した。佐藤の逆鱗に触れたわけだから一時は無役にされた。ライバル福田は喝采した。そこがこの政治家の弱点である。

野に放たれた田中は佐藤派は勿論、各派に亘って多数派工作に専念、佐藤の知らぬところで党内の多数を制してしまった。対して福田は
「上善水の如し」と嘯き、なんら工作をしなかった。多数派工作をすれば佐藤の自尊心を傷つけると判断したのである。

結果は田中の圧勝。福田は下野せざるを得なかった。私はNHKで福田番だったが、なぜか田中内閣の官邸クラブにサブ・キャップとして入れられた。

官邸クラブを離れて数年後、「友人」園田直(すなお)から相談をかけられた。「福田内閣がやっと出来る、何大臣をやったらいいか」

「そりゃ内閣官房長官しかないでしょう。内閣を握りながら次期首相の大平と緊密な連絡がとれるポストといったらここしかない」「やはりそうか、じゃ決めた」で別れた。

福田は官房長官には安倍晋太郎を考えていた。晋太郎の岳父岸 信介は福田の親分でもある。その岸から予て「注文」があったのだ。
園田はそれを先刻承知。さっさと塩川正十郎を副長官に連れて官房長官室を「占拠」。

何しろ福田にとって園田は政敵田中角栄と話をつけてきた「恩人」である。やんちゃな園田の態度を認めるしかなかった。昭和51(1976)年12月24日のことだった。

「官房長官を安倍に」と言う岸の要求は激しかった。福田は1年後の11月28日に内閣改造を行なったが、園田を斬るわけには行かず、たった一人残留させ、閣内ナンバー2たる外務大臣に横滑りさせた。

園田は胸中の怒りを抑えながら、「密約」に従い、この一年後に大平政権を樹立する事に精力を傾注しながら、田中政権以来、政府の懸案である日中平和友好条約の締結に全力を傾けた。このとき秘書官は NHK国際局副部長から招かれた不肖私であった。

園田は官房長官として、次期首班を約束されている幹事長大平に対して福田の任期を1年延長する交渉を続け、ほぼ了解を取り付ける寸前まで行っていた。首相にはまだ報告できる状況ではなかったが。

しかし、岸の圧力に抵抗しなかった福田に園田は愛想が尽きていたので、大平との交渉は沙汰止みとなった。その後、福田が密約を破って大平に総裁公選をあえて挑み惨敗。福田の恨みは深く、それに負けて大平が急死。本来なら福田に戻っても可笑しくない首相の座が、あろうことか鈴木善幸に渡った。

渡したのは大平への弔問から帰宅した角栄邸での田中・園田会談だった。官房長官のポストとは、かくのごとく重く内閣の命運を左右し、政治家自身の行方を決める。「鳩山は官房長官の人選を間違えた」と言う批評は当然、平野に言わせれば首相を間違えた事にもなる。(文中敬称略)2010.4.19

■本稿掲載4月20日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1890号の紹介
<目次>
・満座の中で恥をかかされた鳩山首相もはや「ガン」か:花岡信昭
・野武士集団とお公家さんの知恵較べ:古澤 襄
・官房長官の吉凶:渡部亮次郎
・鳩山首相の最後っ屁が心配だ:泉 幸男
・ジェネリック薬品が国を救う:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月19日

◆遠きにありて想うも帰らず

渡部 亮次郎

ふるさとは遠きにありて思ふもの、と歌った金沢出身の作家室生犀星はなぜ「そして悲しく歌うもの、たというらぶれ異土のかたいとなるとても かえるところにあるまじや」とうたって嘆いたのだろうか。

高校で国語の先生は多くを語らなかった。最近はお盆や正月に都会から人々が田舎へ帰省する理由として、阿呆なアナウンサーが、一つ覚えに使うが、歌の真意を知っていれば使えないフレーズとは知らないのだろ
う。

2006年7月24日の産経新聞でコラムニストの石井英夫さんがコラム「蛙の遠めがね」で、犀星が遠きにありて思うもの、それは、ふるさとの先に存在したはずの真の母、真の父だったと紹介した。芸者と小学校長(妻子持ち)の間に出来た子だったという。

本名照道(てるみち)1889〔明治22〕年、加賀藩の足軽頭だった小畠弥左衛門吉種と母春の間に生まれるが、生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院の住職、室生家に養子に出される。

筆名の犀星は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。

石井さんに最近、情報を寄せた金沢市出身の詩人で文藝詳論家安宅夏夫さんのリポートによると母は既に明らかになっていたように芸者「ちか」だが父は吉種ではなく息子の生種と分ったのだそうだ。昭和51年、小畠家の仏壇の後ろから出てきた1通のハガキがきっかけだった。

「山崎ちか(のちに林)は20歳の時、高岡市〔富山県〕の遊郭の芸者になり、犀星の本当の父小畠生種と出会い、犀星を産んだ。しかし生種は26歳ながら小学校の校長であり、妻子を残しての単身赴任だった。

宴会に出る機会も多く、そこでちかを知り、愛し合うようになった。妻子ある教育者が芸者と懇ろになって子を成したというのでは世間に顔向けができない。そこで父の吉種の子としたのだ。吉種は当時63歳で、21歳の芸者を身籠らせるには無理がある」と石井さん。

1902年金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に河越風骨、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受ける。

新聞へ投句を始め1904年10月8日付け北國新聞に初掲載。この時の号は照文。そのご詩、短歌などにも手を染める。1913年 北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。

同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。 1916年 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年までに32号まで刊行した。この1919年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。

1929年初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。1930年代から小説の多作期に入り1934年 『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言。(実際にはその後も多くの詩作を行っている。) 1935年 芥川賞の選考委員となり、1942年まで続ける。

1959年 野間文芸賞を受賞。この賞金から翌年 室生犀星詩人賞を設定。1962(昭和37)年3月26日、肺癌の為に死去。抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名であ
る。>

「生前の犀星はこれらの事実を知っており、生母にも会ったフシがある。しかしすべてを胸の奥、腹の底に折りたたんで苦悩してきた。父の伝記を書いた室生朝子も、書けない、書いてはいけないこととし、室生家のタブーとして封印してきたのである」

「安宅さんはすべての経緯を今年6月発刊の『人物研究』第17号(近代人物研究会)に発表。・・・若き日のちかの写真には、鹿鳴館スタイルのもある。モダンな感じもあるが、細面の寂しげな眼差しを持つ美しいひとだった」。(石井)

朝日新聞社の「現代人物事典」1977年3月1日刊では室生犀星について滝口雅子氏が「9歳の時、生母が行方不明となり、その後母に会わなかった」と書いているが、これも訂正しなければならない。

明治時代のことである。犀星の出生の秘密を近所の人たちは早くに知っただろう。知って照道少年を芸者の子として差別しただろう。だからふるさとは犀星にとっては決して帰るべき懐かしいところでなんか無かった。しかし父と母にはどうしても逢いたかった。胸つぶれる想いの詩なのである。(再掲)

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照)
2006・07・24

2010年04月18日

◆今では大好物が洋食

渡部 亮次郎

「洋食」を全く知らずに少年時代を過ごした。秋田県の旧八郎潟沿岸の水田単作地帯で育ったので、捕れる淡水魚を刺身で食う事は禁じられた。鯉、鮒、鯰、蜆など、すべてを煮るか焼くかして食べた。ただし、ソースは食卓に無かったから、今でも好きではない。

刺身を食べたのの始まりは東京・赤坂の一流料亭。政治家の席だったが、美味いと思ったのは60歳を過ぎてからだった。

カレーライスは食べたことがあった。しかし、以下は東京に出て初めて食べた。「洋食」のすべてと言っていいだろう。

シチュー、コロッケ、ロールキャベツ、エビフライ、カキフライ、豚カツ、ハヤシライス、カツ丼、チキンカツ、牛カツ(ビフカツ)、ハムカツ、 メンチカツ、トルコライス、オムライス、ステーキ、グラタン ドリア、ピラフ、スパゲテー。

50歳を過ぎて、東京も下町に移り、浅草や向島の「洋食屋」を知るまでは、日本料理は刺身がつき物だから、自分の財布では敬遠し、専ら中華料理を漁った。相当の「通」になった。

それが、洋食屋を知るに及んで、洋食で焼酎を呑み、メシも済ますというコースが一番好きになった。それも1年ぐらいはハンバーグだけ。最近はビーフ・シチューに焼酎が定番。義兄は、有れば年がら年中、「牡蠣(なま)かフライ」だ。

ビーフシチュウは浅草に美味いところがあるが、向島のは味はおんなじで安いから、つい向島で足が止まることになる。2組の夫婦で飲んで食べて1万円だ。そんな店は都心には無い。以下「ウィキペディア」による。

洋食は、西洋料理をベースとして日本で成立した料理である。変容した理由については諸説あり、西洋料理の知識が不足していた時代に本格の料理を目指していたものの情報不足から変容を余儀なくされた結果誕生したという説、

「明治時代以降に西洋料理を習得した料理人が、必ずしも西洋料理のレシピに則らず、日本人消費者の好みに合うよう作り上げた『創作料理』的なもの」という説などがある。

そのため、母体となる西洋料理には見られないチキンライス、オムライスのような料理も少なからず存在する。

長年にわたり日本人に深く親しまれ、素材、味付け、ソースといったさまざまな部分において和洋折衷が試みられた結果、一部の料理は和食化している。例えば、豚カツは味噌汁・御新香とともに箸を添えて和定食として出されることが多くなっている。

西洋料理の特徴であるソースを洋食でも用いるが、フランス料理のような複雑多様なソースの体系は持たず、よく使われるソースの種類はある程度限られている。

トマトケチャップ、ドミグラスソースは定番の調味料である。ベシャメルソースを使用するなどフランス料理の影響も強い。

揚げ物にウスターソースをかけるスタイルは、この中で生み出されており、その影響でウスターソースを用いるだけで一銭洋食なる名称の食べ物も生み出され、これは後にお好み焼きへと派生していく。

また、ハンバーグや鶏肉などの調理法として醤油を利用した照り焼きがしばしば用いられるが、この方法は日本のみならず米国をはじめとする世界各国へと広がりを見せている。

パンの代わりにご飯を皿に盛り、料理をおかずとして交互に食べるという慣習も生まれた。従来の日本の食慣習に沿った方式ではあるが、この場合しばしば、ご飯は「ライス」と呼ばれ、茶碗に盛った和食のそれとは別のものとして扱われる。

同時にフォークの背にライスを載せ食べるという独特のテーブルマナーが醸成されていった。近年では誤りであるという認識が広まり、行われることは少ない。

これら洋食を出す飲食店は洋食屋と呼ばれる。昭和の高度成長期にはデパートの食堂も洋食を提供する代表であり、近年はファミリーレストランがその役割を一部担っている。

文明開化に始まる日本の近代化の過程では洋食はハイカラな存在であり、また、洋食に適した食材を供給する諸産業も成熟していなかったことから戦前・戦中の庶民にとっては高価なご馳走であった。

洋食が庶民の味として定着したのは戦後であり、食糧難もあって連合軍からもたらされた西洋風の食糧を食卓に受け入れざるを得ない事情もあった。

こうして徐々に定着した西洋風の食習慣が高度経済成長期以降、国民所得の増加及び食文化の変化とともに家庭へと普及し、現在では日本の家庭の食卓をかざる惣菜等として定着するにまで至っている。

こうして洋食そのものが家庭の味として定着し、いまや多くの人にとって和食と同様に日本の食文化として位置づけられるに至っている。

一方で洋食で多用される畜産物を生産するためには大量の輸入飼料が必要になり、洋食の普及が食糧の自給率低下をもたらす要因のひとつにもなっている。

また、和食と比較して乳製品や油などを多用することから高カロリーな料理となる傾向があるため、中高年を中心に洋食を敬遠する傾向も見られる。

さらに、健康志向の高まりを背景に和食を軸にした日本型食生活へと回帰する動きも大きくなりつつあり、国が推進する「食育」においても洋食的なメニューが軽視されることが度々である。

今後はこうした食生活の変化に適合していくことが洋食の将来を左右することになるであろう。2010・2・14

2010年04月16日

◆高慢ちきの哀れ

渡部 亮次郎

友人に聞いた話である。

「俺がエリートだ。お前らは定年になって社会貢献が出来なくなったけど、俺を支援すれば社会貢献できる。だから俺を支援するのが筋というものだ」。元大使閣下が高校の同期会に来て高言したのだと言う。

また大手商社で役員になれなかった東大出は同期会に出てきて言ったそうだ。「定年で最早、社会的に何の力も無くなったお前らがこうやって集まって何の意味があるのだ」と。

そんなら来なけりゃいいのに、悪口が気になるのか、毎回、遅れてしかも泥酔して来るのだそうだ。同期会なんて、意味を求めるのが可笑しいだろう。懐かしいといういわばくだらないことの詰め合わせ。無意味に意味があるだろう、と友人は嘆いていた。

同じ東大出でも農学部で役所の長官にまでなった男は、同期会に欠かさず来て、受付を手伝い、威張るところが一つもないそうだ。なんでこんなに違うのだろう、育ちかな、性格かなと友人。私は「勘違いだろう」と断じた。

世の中、東大を出て官吏や商社マンになることだけがエリートではない。厭な仕事でも買って出て、他人の面倒をよく見ることがエリートなのだ。米国人で、日本文学研究者のサイデン・ステッカー氏は嘗て私に「威張る人は馬鹿なのです」と教えて下さった。

なるほど、馬鹿じゃないと威張れないわけでもある、と考えた。友情に損得があるわけがない。それこそ同期という何の理由もなしのグループに損得や意義を求めるのは馬鹿なのだ。

そう思って話を忘れていたら、友人はまた言ってきた。「商社マンに来年の同期会で挨拶させてやろう、という人が出てきて困っているんだ」と。

言い出したのは商社マンと仲のいい人だそうで、どうしたもんだろうという相談だった。そんなこと簡単じゃないの。「お前らがこうやって集まって何の意味があるの」との発言をばらせばみんなが反対と叫ぶでしょう。或いはスジが通らないと来年は特に欠席するという人も出かねないね。

幾日かしたら、予想通り沙汰やみになったと聞いた。当然だろう。意味のない会合にわざわざ出てきて、かつ挨拶とは矛盾しているから当然の帰結である。

学校の成績だけじゃ生きて行けないのが世の中というものだ。

加えて独りで生きてもいけないのが人生だ。そのことを如実に物語ったのが友人の周りで起きた同期会挨拶事件だったのではないか。

学校で、役所で、会社で成績を競い、勝者になる。しかしそれが人生の勝利と思ったら大間違い。結婚に失敗、子育てに失敗したら人生の勝利者とはいえない。まして同期会で馬鹿と陰口を利かれるようなら大失敗と言うべきだろう。

そうしたことを考え合わせると、人生の勝者とは常に他人を思いやっている奴と分る。

人生とは不定のゴール即ち死に向かって懸命に走るレースである。だから生きることとは死ぬことなり。有限の生命を無限に生きる事は出来ないのか。出来る。幅広く友人を得ることである。

縦が経験とすれば、友人は横幅。命の長さが長さという立方体が人生。縦と長さに限りはあっても、友情と言う幅に限りはない。他人を思い遣ることを無限にすれば、人生の楽しみは無限となる。2006,12.04

■本稿掲載の4月16日刊全国版「頂門の一針」1885号のご紹介
<目次>
・普天間5月決着は不可能に:古澤 襄
・鳩山首相への政界引退勧告:宮崎正弘
・中国の「麻薬処刑」は仕方がない: 岩見隆夫
・気分は「Eチケット」:平井修一
・高慢ちきの哀れ:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年04月13日

◆言論の力でNHK再建を

渡部亮次郎

NHKの福地茂雄会長が辞意を表明した。後任は形式的には経営委員会で選ばれるが、これまで同様政府・与党による「密室選定」ではNHK改革は不可能になる、せめて聴取者の声を反映させようとする動きが始まっている。

この動きを始めたのは先に「シリーズJAPAN」の第1回「アジアの一等国」で取材を受けた台湾の当事者をはじめ1万人を超す視聴者が捏造だと東京地裁に提訴したときの関係者たちである。

メイル時代らしく「電子投票」で理想のNHK会長を挙げようというものである。

<「この人にNHK改革を託したい」「この人なら汚れた放送はさせない」そんな人の「推選」を全国の志ある皆さんにお願いしたい。

下記の「NHK110番」に推薦メールを送ってください。

nhk110@hotmail.co.jp

1.推薦する会長候補者の氏名
2.推薦する理由(簡単で結構です)
3.ご氏名(本名でなくともハンドルネームでも可)
4.メールアドレス
5.年齢(歳代でも可)
3・4・5については公表をしません>と呼びかけている。

あの1万人を超す視聴者が捏造だと東京地裁に提訴したとき福地会長は「私は番組を3回見たが問題ない」と言って、言論人としても組織運営者としても全く無能である事を自ら白状した。そこで福地会長は出身母体のアサヒビールから「相談役就任」を打診され、古巣に戻る道を選んだのだ。

私はかつてNHKの政治記者を務めた後、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸の三内閣で大臣秘書官を務め、NHK会長がどのように決められて行くかを目撃したNHKのOBとしては珍しい経験者である。その立場から、今回のメイル投票は極めて時宜にかなったものだとエールを送りたい。

すでに、おそらくNHK側の黙ってはいない。福地会長が漏らした「内部起用」を手がかりに担当の総務大臣原口一博氏や官房長官平野博文、衆参両院の関係者への「根回し」に担当者が奔走している筈だ。

また、かつて朝日新聞が大阪本社の外報部長前田義徳を会長に仕立てた例もあるように「言論機関」の「長」を獲得するという意味から、新聞各社も動いているし、勿論、財界も大きな関心を持って動いている筈である。

したがってここでは聴取料を支払っている視聴者が積極的に発言しない限り、またまた視聴者無視の会長選びが行なわれる危険が一杯なのである。

NHKは時代を反映する機関でなければならないし、会長はNHKという巨大な組織を時代に則して自在に運営してゆかなければならない。

福地会長は経営再建という側面を反映し手、財界の総意で送られたが、言論人としては資格に欠けていたため「シリーズJAPAN」
事件が起きたように、番組制作現場の監督に不適格だった。

あの事件で明らかになったように、現代のNHK会長は確たる歴史観と国際情勢に敏速に対応の出来る優れた言論人でなければならないと信じる。使い古された小器用な財界人ではNHKに集まる国民の期待と叡智に応える事は出来ない。2010・4・12

■本稿掲載の4月13日刊・「頂門の一針」1882号のご紹介
<目次>
・言論の力でNHK再建を:渡部亮次郎
・キルギス新政権を承認したロシア:宮崎正弘
・オバマ大統領が鳩山首相を無視した:古森義久
・圏・外・孤・独:須藤文弘
・家紋hは20000に上る:古澤 襄

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年04月12日

◆マッカーサーが到着した日

渡部 亮次郎

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、マッカーサーが8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。降り立った彼はコーンパイプを咥え威張っていた。

以後罷免される1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。日本軍の恐ろしさを知り、テロを恐れたと言うのが一般的な解釈だ。

滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食に注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。

不思議に思ったマッカーサーは、料理人を呼び出して問いただした。料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が1つ手に入りました」と答えた。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、牛ならぬ鯨肉のステーキであった。

マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされた。

9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の我々はショックを受けた。マの計算に入っていた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。

占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいたが、すべての工作は失敗した。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

1950(昭和25)年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

半島育ちの作曲家古賀政男は丘 灯至夫に詞を書かせ「涙のチャング」を作曲。動乱で民族が「思想」で殺しあう悲劇を訴えた。歌唱したのは平壌出身の歌手小畑実だったが、気付いた日本人は限られていた。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)や麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

だから北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから1人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。

マッカーサーは状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。

1951年になると、核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛けた。

毎日新聞と共に朝日新聞がマッカーサーに感謝する文章を掲載した。今では想像もできない。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支持を得られず断念した。

1964(昭和39)年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。「偉人」として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂(マッカーサー時代の首相)が出席した。2008・08・27    (再掲)

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■本日4月12日(月)「昼刊」「頂門の一針」1881号のご案内
<目次>
・20%台に転落した鳩山内閣の支持率:古澤 襄
・リーダーは40〜60歳までよ:クライン孝子
・ポイント・オブ・ノー・リターン:阿比留瑠比
・人生論あるいは夫婦和合の極意:平井修一
・蚊の目玉のスープ:渡部亮次郎

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2010年04月10日

◆国会で裸足の宰相?

渡部 亮次郎

ある総理大臣を「国会を裸足で歩く」とか「やまざくら」と言う綽名をつけて呼んだ口の悪い記者たちがいた。総理がやや出っ歯なので「花(鼻)より先に歯(葉)が出ているから「山櫻だ」とからかったものだ。

うばざくら(姥桜、乳母桜)は、開花時に葉がないことから歯(葉)がないのを暗喩した桜の通称。または桜には見頃があることから、年配でありながら艶めかしい女性を指す古語。春の季語。

放送の記者になって地方で5年。28歳(東京オリンピックの年=1964)に東京政治部に発令。住まわされたところが商店街にある風呂屋が家主の風呂無しアパートの2階。商店街の名が染井銀座。日本中に普及した櫻の品種「ソメイヨシノ」の発祥地だった。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(当時)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって交配、育成され「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していた。

藤野寄命博士が調査したところ、ヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり、1900(明治33)年「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名された。

名称は初め、サクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」とされたが、「吉野(桜)」の名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、上野公園に植えられたサクラを調査した藤野寄命博士が「日本園芸雑誌」で「染井吉野」と命名した。

日本において最も馴染み深い花であることから、一般的に国花の一つとされ(法的に定められたものではない)、明治時代以降軍隊や学校の制帽や階級章に桜を象った紋章が用いられている。現在でも警察や自衛隊などの紋章に使用されている。

日本最古の史書である『古事記』『日本書紀』にも桜に関する記述があり、日本最古の歌集である『万葉集』にも桜を詠んだ歌がある。

平安時代までは和歌などで単に「花」といえば「梅」をさしていた。「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(王仁) の「はな」は梅であり、道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」も有名。

しかし、平安時代から「桜」の人気が高まり「花」といえば桜を指すようになった。

「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ(紀友則) の「はな」は桜である。

平安時代の歌人・西行法師が、月と花(サクラ)を愛したことは有名である。西行法師が詠んだ歌の中でも、次の歌は有名である。

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎ(如月)の望月のころ」

西行法師は、この歌に詠んだとおりの状況の下、入寂したという伝説がある。

また「花は桜木。人は武士」という言葉が江戸時代までに成立しており、それまでに「花」=「桜」のイメージは日本で定着した。後年、私の先輩記者は「花なら櫻、魚なら鯛、男なら○○」と威張った。

開花期は種によってばらつきがあるが早いもので3月中旬頃から、遅いもので5月中旬頃までである。ヤマザクラは3月下旬、ソメイヨシノは4月上旬、ヤエザクラは4月中旬、カスミザクラは5月上旬くらいまで花を咲かす。

特にソメイヨシノで顕著であるが、葉が出そろう前に花が咲きそろう。開花期間は特に花見に使われる「ソメイヨシノ」が短く、満開から1週間程度で花が散る。その他、温度や雨が散る散らないの原因になる。

花が咲いた後に気温が下がる花冷えが起こると、花は長く持ち、咲いた後に雨が降ると早く散ってしまう。小学校などの校庭には、児童の入学時に桜の花が咲いているようにするため、ソメイヨシノに比べて開花期間が長い八重桜を混植することが多い。

ソメイヨシノの紅葉サクラは木を傷つけるとそこから腐りやすい性質を持つ。この特性から「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺まである。

このため、花見の宴会でサクラの木を折る観光客の被害によってサクラが弱ってしまうことが多い。

一方、枝が混んできた場合は適切な剪定を行うと樹勢を回復する場合もある。青森県の弘前市ではリンゴの剪定技術をサクラに応用することで弘前城公園に生えていたソメイヨシノの樹勢を回復することに成功している。剪定の際は不要な枝を根元から切り取り、その傷口を消毒し保護剤で保護する。

電報などの文面で、桜の花は「合格」の意味である。「サクラサク」は合格を、「サクラチル」は不合格の意味に使われた。

「花は桜木(さくらぎ)、人は武士」:武士の理想としての潔い生き様を、ぱっと咲いてぱっと散るサクラにたとえた言葉。もとは一休宗純の言葉の一部。→散華

和文通話表では、「さ」を送る際に「桜のサ」という。

商売でのサクラは客寄せのための店が仕込んだ偽の客の事を指す。
                          2010・3・5
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2010年04月08日

◆和解なるかカチン事件

渡部亮次郎

<ロシア、カチン事件で和解図る ポーランド首相招き追悼へ。
【モスクワ共同】第2次大戦中にポーランド軍将校ら2万人以上が旧ソ連秘密警察に虐殺されたロシア西部の「カチンの森」事件をめぐり、ロシアのプーチン首相が7日に現地で行う70周年追悼式にポーランドのトゥスク首相を公式に招待、虐殺を扱った映画を国営テレビで放映し、歴史的和解に向けた動きを見せている>。

事件は昭和14(1939)年に起きたもの。日本はシナとの対戦に血道を挙げていたし、間もなく対米戦争に突入するから、日本国民はカチン事件など知る由も無かった。

勿論、知識階級の中には海外情報を得て認識した人もいるにはいただろう。しかし、少なくとも筆者は中年になるまで知らなかった。
弁解にもならないが。

2007年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによって、この事件を題材とした映画『カティンの森』が制作された。たしか09年に日本でも公開されたが、見には行かなかった。ワイダの父親もこの事件の犠牲者である。

<1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北した。ソ連の占領下に置かれたポーランド東部では、武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した。

ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして何度もソ連側に問い合わせを行っていたが、満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後にはポーランド・ソ連間で条約(en)が結ばれポーランド人捕虜は釈放され、部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1に満たなかった。

ポーランド亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日にはポーランド亡命政府首相・シコルスキがスターリンと会談したが、スターリンは「たしかに釈放された」と回答している。

独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置きこの情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。

発掘途中の調査では、遺体はコルジェスク捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の状況は死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連軍の犯行を窺わせた。

しかし、独ソ両国は長い事罪のなすりあいを続けたが、1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。

1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。

1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第1号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれていた。>「ウィキペディア」。

<しかしソ連の継承国ロシアはポーランドが虐殺を政治的に利用しているとの不信感を抱き、一部ロシアメディアはナチス犯行説を紹介するなど、両国間にしこりが残っていた。

ロシア国営テレビは追悼式に先立ち、これまで国内でほとんど上映されていなかったポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」(2007年公開)を2日に放映。「史実に基づいた作品」などの専門家らの映画評も伝えた>。2010/04/05 09:46 【共同通信】