2017年01月22日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



散歩する恩賜公園は落葉樹の殆どが裸になって冬支度を急いでいるが、
鈴懸(すずかけ・プラタナス)だけは落葉が遅れて、汚い様を見せてい
た。

スズカケノキ(木) (common) plane‖Platanus orientalis 日本には明
治初めに渡来し,小石川植物園に植えられた。秋に多数の小堅果からな
る直径3〜4cmの球形の集合果が山伏の着る篠懸の衣に付いている房の形
に似ているところから,鈴懸という和名がついた。

バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し,紀元前からすでにイタ
リアに入り,16〜17世紀にはフランス,イギリスでも街路樹に用いられ
たという。

日本で栽植されているものは,スズカケノキのほかに2種ある。

アメリカスズカケノキ P.occidentalis L.(英名 buttonwood)は高さ30m,
とくに大きなものでは50mになり,樹皮は乳白色で小さくはがれる。葉は
浅く切れ込み,集合果は1個が柄で垂れる。北アメリカ東部に分布し,日
本には1900年に入ったが,あまり広められていない。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ(一名カエデバスズ
カケノキ) (英名 Londonplane)で,スズカケノキとアメリカスズカケノ
キの雑種といわれ,樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込み
は両種の中間で全形がカエデの葉に似る。集合果は1〜2個ずつ垂れる。

スズカケノキの仲間は,やせ地や低湿地でもよく生長し,公害に強く,
刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。

日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木
で広がり始め,今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用
いられている。

スズカケノキ科 Platanaceae は1属だけからなり,ヨーロッパ南東部か
らインドまで,インドシナ半島,北アメリカからメキシコに6〜8種が隔
離的に分布する。(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサー
ビス)

「友と語らん 鈴懸の径(みち) 通いなれたる 学舎(学びや)の街 
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」と灰田勝彦
が唄ったのは昭和17(1942)年。

兄の灰田晴彦が作曲、それに新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ
た。大東亜戦争に命令されて出陣する学生たちは、万感の思いを込めて
この歌を唄ったという。

あの戦争中はまず学徒動員が日中戦争が始まって間もない1938年(昭和13)
ころから、食糧、軍需品生産の人手不足を補うために行われた。学生、
生徒の勤労動員。学徒勤労動員ともいう。

大東亜争中の44(昭和19)年3月の学徒動員令からは中学生(旧制)以上は全
員、軍需工場などに動員され、45年8月の敗戦まで、学校教育は事実上、
停止した。(地域で差があるが、旧制中学の1、2、3へ年生は食糧増産
のために農家への勤労動員に駆り出され、軍需工場に動員されたのは四、
五年生)

学徒出陣はそれに続く措置。戦争下で、徴兵猶予制度の廃止により理工
科系・教員養成系をのぞく大学生・高専生を入営させた措置。それまで
大学生、高等専門学校の生徒には、26歳まで徴兵猶予の特典があった。

しかし満洲事変につづく日中戦争で兵員の不足に悩んでいた政府は、
1941(昭和16)年10月以降、修学年限の短縮による繰り上げ卒業の措置で
兵員を補った。

戦局の悪化でさらに兵員の不足が深刻になると、1943年10月に「在学徴
集延期臨時特例」を公布して、20歳以上の学生・生徒の徴兵を決定。
「徴兵猶予」とう特典を消して徴兵をかけたわけだ。

10月21日、冷雨のなか明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で、文
部省主催の出陣学徒の壮行会出が挙行された。東京とその近県から集まっ
た出陣学徒は、東条英機首相の閲兵と激励を受け、場内を行進。

スタンドを埋め尽くした6万5000人の家族・級友・女子学生などがこれを
見送った。出陣学徒は、13万人とも20万人とも推定されている。

中国大陸や南方戦線、南太平洋へ送られ多くの戦死者を出した。1949年
には戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」が出版され、大きな反響を
よんだ。参考:マイクロソフト「エンカルタ」

2017年01月20日

◆のど自慢の日は1月19日

渡部 亮次郎



ものの本によると、日本では1年365日、毎日、何かの日である。たとえば
2007年に地方選挙の後半戦の投票日だった4月22日は、
(1)地球の日(アースデー)
(2)清掃の日(清掃法制定記念日)
(3)霊山神社例大祭(福島県)
(4)多賀祭(滋賀県)だった。

いい加減に1月19日と入れたら、パソコンは1月19日はのど自慢の日と出た。

<NHKラジオの視聴者参加番組「のど自慢素人音楽会」が1946(昭和21)年
のこの日にスタートしたことに由来。

スタート当初の参加応募者は900人にものぼり、そのうち予選を通過した
のは30人。応募者が歌った曲で多かったのは、当時の人気歌手・霧島昇が
歌う『リンゴの唄』『旅の夜風』『誰か故郷を想はざる』などだったそうだ。

「のど自慢」は「明るく楽しく元気よく」をモットーに、1948年には早く
も全国コンク−ルが実施されるほどの人気を博し、NHKにおける戦後最初
のヒット番組となり1953(昭和28)年にはテレビ放送が開始され、ラジオと
テレビで同時放送されるほどに成長していった。

実は北島三郎、島倉千代子、美空ひばりはこの番組の常連。大物歌手とし
てその名を知られる3人だが、彼らも当時は鐘の数を気にしつつ歌ったの
だろうか>。

若原一郎、三船浩は合格によってレコード会社からスカウトされて歌手に
なった。荒井恵子もそうだった。荒井は「森の水車」を初めて唄ったが
NHK専属で、レコード会社には属してなかったから販売されたレコードや
CDは残っていない。

「のど自慢」はいまではNHKの看板番組である。この世に歌がある限り続
くのではないかと思われるぐらいだが、この世に歌がいくらあっても唄う
のは大嫌いと言う人が居る。音痴である。だが音痴は訓練によって治るも
のだそうだ。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると

音痴 おんち

<大脳の先天的音楽機能不全の状態。聴覚,言語など,ほかの精神的・肉
体的機能が健常で,特に音楽的能力だけが劣っている場合をいう。これに
対して,かつて音楽能力があった者が疾病,外傷など何らかの原因によっ
てその能力を失った場合を〈失音楽症〉という。

音痴の原因は,大脳右半球に推定される音楽中枢の発育障害による機能不
全であるとされ,遺伝と環境の双方に起因するものとみられているが,医
学的には未解決である。

音痴は感覚性音痴と運動性音痴に大別される。前者は,音楽の認知,理
解,記憶に障害があるために音高やリズムの感受そのものが不可能な状態
を言いう。

後者は,音高の連続的変化のパターンを組み立てる運動統合中枢に支障が
あるため,歌うと調子はずれになるものを言う。しかし,俗に音痴といわ
れるのは難しい音程をうまく歌えない場合であり,正しい訓練や音楽環境
をつくることで,矯正は可能とされている。山本 文茂>
音痴についてインターネットで検索した。その結果、297万件も出てきた。
如何に音痴に悩む人が多いかを物語るものではないだろうか。
その中にこういうのがあった。

山本恵理子の「音痴について」である。
http://www.osaka-c.ed.jp/matsubara/kadai/27ki/kadair21.htm

なぜ音痴になるか

『人はなぜ音痴になるのか』 音に対する感覚が鈍く、音程やリズムが正
確にとれず歌が正しく歌えないこと。三重大学教育学部の弓場徹助教授
は、「音痴の原因は、出力(脳から声帯に指令が伝わり、震わせて音を出
す)する際の、輪状甲状筋の訓練不足によるものである。」と語った。

輪状甲状筋は声帯を引きのばす筋肉で、低い声を出す時に声帯を縮め、高
い声を出す時は声帯を前後にのばす。そして、他の背中や足などの筋肉と
同じく、鍛えなければ成長せず衰えてしまうのである。

歌を歌う時は、普通の会話のより高い音域を使う場合が多いため、輪状甲
状筋の働きが不可欠だ。自分のことを音痴と思っている人は、歌う機会を
避ける傾向がみられる。兵庫教育大学音楽科の鈴木寛教授は、小脳モデル
(処理系)について次のように説明した。

初めて自転車に乗る時、バランスがうまく保てず、転びながらその問題点
を修正して大脳が学習する。その情報は大脳に集約され「自転車に乗る」
という一つのモデルが小脳に移り記憶される。

1度、小脳モデルが記憶されれば、何年も自転車に乗らなくもすぐに乗る
ことができるという。歌を歌う場合の小脳モデルは、音程を取り正しい音
を発生し、リズムをとるというものである。大脳に作られた音の高さを判
断する基準に音階スキーマというものがある。

正しいスキーマが形成されている場合は、耳からある音が入ってくると
A=Vという判断ができる。しかし誤ったスキーマが形成されている場合
は、A=Vという判断ができずに音痴になってしまう。

人は6歳頃まで音階スキーマが形成されてしまう。赤ちゃんは知らず知ら
ずのうちに母親の声を真似している。自分を守ってくれる母親と他人をな
るべく早く認識し、コミュニケーションをとろうとするためである。そし
て、この特性のため母親の声や、音程までも真似するようになる。

他にも音痴の原因となる環境として、

1.音の出るおもちゃなどの電池がきれかかり、変な音を出す。

2.音楽や両親の会話を聞く機会がすくない等がある。

音痴を治すには裏声を意識的に出すことによって輪状甲状筋を鍛えたり、
音を認識しながら根気よく練習し音階スキーマを改善する方法がある。

つまり、音痴は適切な訓練方法によって克服できる!『音痴を治すに
は?』音痴は運動音痴(運痴)と比較される。どちらも運動系の微妙な調
節がうまくゆかない。それが原因で運動嫌い、歌嫌いになる可能性もあ
る。運痴は指導によりある程度は矯正できるが、音痴はどうだろうか。

「歌う」運動のメカニズムは、喉頭筋群の複雑さもあり未だに不明な点が
多い。聴覚能の問題もある。一体どのように声をだしたら良いのか科学的
なアプローチは少ない。

発声には声帯を動かす伸展筋と声門を閉じる閉鎖筋という2つの拮抗的な
筋の運動に、呼吸の圧力が加わった3要素が関係するのだが声帯を伸展さ
せて裏声を生み出す輪状甲状筋の構造と機能に着目。

結果的に裏声(ファルセット)を中心に音を合わせてうまく歌うトレーニ
ングが音痴矯正に有効という。骨格筋は伸展時により大きな力が発揮され
るので、この方法は歌う運動の燃費を高めるかもしれない。

具体的に何をやればいいかというのには次のような説がある。

1)はっきりとした裏声を出せるようにする。

2)裏声で簡単なメロディーを歌う。

3)裏声で歌い始め、表声の音程まで下がっていく。※表声というのは胸
声のこと。

誤りも多くて評判が良くないリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』だが、ここでは、音痴(おんち)とは、音感が無いか劣
る人を言うと決めて、次のような珍談を紹介している。

<・・・リズムを合わせるという感覚が鈍い人もおり、歌っている途中でど
んどんずれて早くなったり遅くなってしまう場合も見られる。

最も有名な例は、フローレンス・フォスター・ジェンキンスという富豪の
夫人がオペラファンで、1944年にカーネギーホールで「客に金を払って」
リサイタルを開いた。(あの戦争中!!)

このときの録音は現在The Glory of Human voices (RCAより発売、ASIN
B000003F97)(国内盤のタイトルは『人間の声の栄光』)というタイトル
でCD化されている。

このCDが国内大手CDショップで発売された際、「チョーオンチ」という販
促ポップが付けられた事がある。またこのジェンキンス夫人の音痴ぶりを
題材にしたミュージカル"Souvenir"がある。

音痴は訓練で克服できる場合が大半だが、まれに音感がない(耳で聞いた
音程を声で再現することが出来ない)人もいる。一種の病気(異常)であ
り、このタイプの音痴は直すことができないと言われる。有名人では俳優
のジェームズ・ディーンがこのタイプだったと言われている。

転じて、音の認識に限らず特定の能力が劣る人に対しても使う。例えば、
味覚に対しての味音痴、東西南北等方角把握能力に対しての方向音痴、運
動能力に対しての運動音痴、機械に対しての機械音痴、等がある。>

痴呆とか痴人とかが差別語になっているようだが、音痴はどうなんだろ
う。

2017年01月18日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎



日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラ
が大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を
縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもた
らした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では
「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日
に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化
や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは
日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然
として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界
一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全
に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿
病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本
で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠
んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日
(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年
は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろ
う。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓が
どのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続
いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889
年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあ
と、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切って
も切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。
膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大
学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は
萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読
んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実
行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。
このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのは
さらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果
は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用に
は耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化
学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した
結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿
病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一
途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が
極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延
しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、
ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が
低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激
増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変
で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響し
ている。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を
発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられて
いる。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣
が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くな
かった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食と
は無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展
により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描
くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であった
のだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の
結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高
脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40
年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結
果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経
済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べてい
たものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当
然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」
http://members.jcom.home.ne.jp/3220398001/discovary/index.html


        

2017年01月16日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。外交儀礼上食べないわけに
いかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えて━いる。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06

2017年01月15日

◆缶詰はナポレオン命令

渡部 亮次郎



1795年フランス革命の最中に,ナポレオンはヨーロッパ戦線を東奔西走し
ていた。当時のヨーロッパは新鮮な食物が不足し,一般市民に栄養不良に
よる病気が流行していた。

その時代の食品の保存法は昔ながらの乾燥,塩蔵および薫製によってなさ
れていたが,長い航海をする船員は塩蔵肉や乾パンで我慢しなければなら
なかったため,海軍部内には壊血病が蔓延していた。

ナポレオンは軍隊の士気を高め戦闘力を維持するためには,栄養豊富で新
鮮美味な食糧を大量に供給する必要性を痛感し,従来の方法によらない食
品貯蔵法を懸賞金つきで募集することを政府に命じた。

懸賞にこたえ、1804年にフランスのニコラ・アペールにより長期保存可能
な瓶詰めが発明され賞金1万2000フランを与えられた。

たが、ガラス瓶は重くて破損しやすいという欠点があった事から、1810年
にイギリスのピーター・デュランド(Peter Durand)が、金属製容器に食品
を入れる缶詰を発明した。これにより、食品を長期間保存・携行すること
が容易になった。

ただし、初期のものは殺菌の方法に問題があり、たびたび中身が発酵して
缶が破裂するという事故を起こした。これはのちに改良された。

また、1833年にはフランスのアンシルベールによって、缶のふたの回りを
はんだ付けし、熱で溶かして缶を開ける方式が考案された。その後、1860
年代にブリキが発明されてからは、缶切りが登場するようになった。

当初、缶切りは発明されず、開封は金鎚と鑿を用いる非常に手間のかかる
ものだった。戦場では缶を銃で撃って開けることもあったが、撃たれた衝
撃で中身が飛び散ってしまい使い物にならなくなることも多々あったという。

このため内容物が固形物に限られ、液状のドリンク類は入れられなかっ
た。缶切りが発明されると液体なども入れられるようになり、内容物のバ
リエーションが広がった。さらに缶切りが無くても開けられる様にプル
トップ(イージーオープン缶)が発明された。

缶詰は、初期には主に軍用食として活用された。特に、アメリカ合衆国の
南北戦争で多く利用された。のちに一般向けにも製造されるようになり、
現在では、災害対策用の備蓄用食品(非常食)としても利用されている。

現在作られている缶詰は日本で約800種類,世界では約1200種類といわれ
ている。原料の種類別では魚介類,果実類,野菜類,畜肉類に大別される。

加工調理方法の別では魚介類は水煮・塩水漬・油漬・味付け・みそ煮・蒲焼き・
薫製油漬・トマト漬・香辛料漬・その他の調味料漬が,果実類はシロップ漬・
水煮(固形詰)・ジャム・ゼリーなどがある。

果実類として大きな地位を占めるのは果汁である。野菜類としては料理の
原材料となる水煮が主体であるが,味付け,漬物などもある。畜肉類は水
煮,味付け,ハム,ベーコン,ソーセージや各種の調理食品がある。

特殊に入るものとしては,各種の調理食品,米飯類,ソース,めん類のか
け汁,しるこ,甘酒などの飲物などがある。食品缶詰の規定には当てはま
らないが,コーヒー,紅茶,緑茶の真空パックや不活性ガス(おもに窒素
ガス)を充てんし,香りや味を保持させるための缶詰もある。

ペット用のペットフード缶詰の生産も多い。そのほか食品ではないが培養
土に種子を入れ,開缶後水をやれば花の咲く缶詰,おもちゃの缶詰,下着
類の缶詰も作られている。

1812年にイギリスのドンキンにより缶詰製造は企業化されたが,その後イ
ギリス,アメリカなどで企業化が進んだ。1890年には自動製缶機械に一大
進歩をみたことにより,1901年に容器のみを作るアメリカン・キャン社が
設立され,缶詰製造業界に一紀元を画した。

製造量は南北戦争後の1870年で約4000万函といわれているが,第1次・第2
次世界大戦の軍用食としての需要の増大により,缶詰産業も各種の技術革
新とともに発展をとげた。

国別の生産量では,1970年ころまではアメリカが全世界の70〜75%を占め
ていたが,80年には世界の総生産量(約20億函)の40%を占めるだけとなった。

またイギリスが主要生産国から脱落し,発展途上国の進出が目だってきて
いる。この主な理由としては,作業員の人件費の高騰,原料確保の困難
(漁業の200カイリ問題など)などがあげられる。なお,アメリカに次ぐ生
産国はドイツ,フランス,イタリア,日本などの先進諸国である。

資料:世界大百科事典及び『ウィキペディア』 2008・10・05

2017年01月14日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎



「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)や「たにし」とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく
禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろし
い。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 

2017年01月13日

◆納豆OK「プラザキサ」なのに

渡部 亮次郎



 納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン
(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬
の製造・販売が厚生労働省から承認され、2011年4月から国内で発売され
た。私も2012年4月から服用し始めた。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ
合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分
名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素
に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬
よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほ
か、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせ
ないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、
納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し
切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまっ
たそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」の発売は実に待ち遠し
いものだった。ところが、弁膜症経験者にはだ許可が出ないのは残念至極。

さりながら実は新薬だから医師は厚生労働省の指示で1回に処方できるの
は2週間分だけだったが、2012年4月からは指示が消えた。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられてい
て、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」
の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小
板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固
療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているため
だそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下
流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報
告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用である
ことが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による
変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリ
ングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の
採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないこ
とや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現など
の点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済
的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因
とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一
選択薬として推奨されている。しかし、この「プラザキサ」や現在、開発
が進められているファクター]a阻害剤などが次々に出てくるので、このガ
イドラインも近々変わるだろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったが、@
納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多いA感受性に個人差があり、
血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多
い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もな
く、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンの
マイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大
出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。

しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して
薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと
132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段
が上がる。

60日分が3万円強。高齢期後半は1割負担だからそれでも3000円強。しかも
なぜか尿酸値が急上昇したため、納豆向こう2ヶ月間禁止を言い渡された。

2017年01月12日

◆納豆OK「プラザキサ」なのに

渡部 亮次郎
 


納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン
(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬
の製造・販売が厚生労働省から承認され、2011年4月から国内で発売され
た。私も2012年4月から服用し始めた。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ
合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分
名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素
に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬
よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほ
か、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせ
ないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、
納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し
切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまっ
たそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」
の発売は実に待ち遠しいものだった。ところが、弁膜症経験者には
まだ許可がでないのは残念至極。

さりながら実は新薬だから医師は厚生労働省の指示で1回に処方できるの
は2週間分だけだったが、2012年4月からは指示が消えた。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられてい
て、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」
の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小
板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固
療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているため
だそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下
流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報
告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用である
ことが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による
変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリ
ングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の
採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないこ
とや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現など
の点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済
的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因
とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一
選択薬として推奨されている。しかし、この「プラザキサ」や現在、開発
が進められているファクター]a阻害剤などが次々に出てくるので、このガ
イドラインも近々変わるだろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったが、@
納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多いA感受性に個人差があり、
血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多
い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もな
く、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンの
マイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大
出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。

しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して
薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと
132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段
が上がる。

60日分が3万円強。高齢期後半は1割負担だからそれでも3000円強。しかも
なぜか尿酸値が急上昇したため、納豆向こう2ヶ月間禁止を言い渡された。


2017年01月11日

◆変節漢小澤の証拠

渡部 亮次郎


私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の
狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠
“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が
2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だ
が、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認
識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁
が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていま
した。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、
認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任
にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですか
ら、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっております
が、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについて
はあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非
は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう
戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりに
それを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう
問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって
戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんであ
りましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれ
は別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。
 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、
靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感
じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していた
とは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像すること
すら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれ
た。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用し
たもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法
律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所
条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中
国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の
満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違
う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、
1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて
殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた
後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求し
てきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。
国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に
基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言わ
れる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけな
い。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そ
こに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯
のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカの
マッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太
子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによ
る死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、
我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいか
に変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究
したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。
現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。 
                       (文中敬称略)

2017年01月10日

◆糖尿病で起きる合併症

渡部 亮次郎



48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく
放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ
人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に
遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したの
だ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症して
いた。また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直
(すなお)も30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま
70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを
所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣
のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなく
なったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きな
い」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせ
た。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めた
が、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインリ
ン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵
に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つ
くので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」
と思ったものだ。


私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済
生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだっ
た。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても
私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖
尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本で
は全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、そ
の原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病
院。患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥な
んだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う
態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区
葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も
継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出
血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台
にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサング
ラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして
出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じると
いう。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受け
た。あれから22年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常な
し」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大
事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもこ
こを勧めて5月27日に受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らな
かった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてイ
ンシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻
の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなく
なった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失
神して救急車で入院。余談ながら中国ではカネを払うまで下ろしてくれな
い、タダじゃないのだ。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下
がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたす
かったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの
注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、
現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインスリンがボールペン型の注射器に
納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは
殆どない。注射が好きという人はいないだろうが、痛くないのだから逃げ
る必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がり
だった。だからインス」リン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として
田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。
園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それ
を防ぐのが注射によるインスリンの補給。それでも万全ではない。血管や
心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑える
が、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された
「T−pa」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以
内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さん
がそれだ。その後の主治医が私と共通。

教授はまず脳梗塞に掛からないよう血液の粘りを少なくしようとワーファ
リンという薬の服用を命じた。だから毎日飲んでいるが、効き過ぎて関節
内血腫を起こしてしまった。2011年9月5の緊急入院の理由である。次に起
きるのは何だろうと思う。しかし心配しても始まらない。       
    

2017年01月08日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎



1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始
され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関
だった。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHK
ラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHK
が制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関で
した。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験戦争ムードに
反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」

   作詞:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。で
もあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは
何ぞや? Wikipediaによると、

「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日
本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、
教会の所有ではない礼拝堂を指している。」

とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場が
チャペルだ。

でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無い
が・・・)
白いチャペルか・・・

フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。
ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを
一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中
でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が2つあっ
た。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌と
はあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を
聞くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった

政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックでうたっていたら、見知らぬ
男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺
には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ
転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。

あれから約60年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は
聴くものと心得ている。


2017年01月07日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り、人権
尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改
革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特に
アメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5



2017年01月06日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎



「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)や「たにし」とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく
禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろし
い。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07