2010年03月16日

◆民主から先に接近?

渡部亮次郎

<創価学会第3代会長(当時)の池田大作が、1964(昭和39)年に「公明政治連盟」を改組して「公明党」を設立。1963年の統一地方選挙で1000人を越える地方議員を誕生させるなど急成長。

1967(昭和42)年の第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得しついに衆議院に進出。結成当初は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた。>(「ウィキペディア」)

私は参議院担当記者から衆議院公明党担当のNHK初代記者となった。その関係で創価学会の幹部会に招かれ取材する一方、招かれて池田大作会長と何度も食事をともにした。その時、竹入、矢野氏らは廊下で膝を折って待機していた。

だから公明党が衆議院に初進出した際には、「公明党記者クラブ」に所属し、竹入義勝委員長や矢野書記長に頼まれて、代議士会の運営などを指導した。

初の代議士会では安保、防衛問題が議題になり、議論が発展して「核武装は不可欠」という結論に達し、取材している方が「公明党の結党精神に反するのではないか」と注意する一幕があった。

あれから40年余、幼かった政党も、数々の手練手管を覚えたものだ。民主党にはじめに接近を図ったのは自分たちの癖に「接近を初めにしてきたのは民主党」とぬけぬけと嘘を言うようになった。代表の山口氏は東大出の弁護士だから当然か。


<民主が近付いてきた…法案賛成で公明代表言明
公明党の山口代表は13日、山形市内で講演し、「子ども手当」「高校授業料無償化」の両法案に賛成したことについて、「(公明党が)修正案を出したら、民主党が『のみます』と近付いてきた。我々はいささかもぶれていない」と述べた。

政治とカネに関する与野党協議についても、「民主党がすり寄ってきた」と強調した。

民主党との連携についても、「『政策が似ているから、一緒になれば』と言われるが、冗談ではない。方向性が似ているからといって一緒になるものではない」と否定した。>(2010年3月13日20時17分 読売新聞)

1967年の第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得しついに衆議院に進出し結成当初は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた、とウィキペディアに指摘されているように、公明党は完全な野党でいては結党の目的を達成できない。したがって自民党と連立を組んだのはいわば「時代の要請」だった。

それが今回は自民党が下野してしまった為、何とか形をつくろって民主党との連立工作をせざるを得ない。手始めに「子供手当て」と「高校授業料無償化」について「賛成」を前提に接近して行ったのは公明党が先だったことはマスコミが現認している。

ただし山口代表としては創価学会員や党支持者の納得を得るために「環境整備」よろしく恰好をつけているのだろう。公明党は遅かれ早かれ民主党と連立する事間違いない。しかし、社民、国民新党の思惑が絡むから民公連立への道程は単純ではないはずだ。
2010・3・14

2010年03月15日

◆次に斬られるのは石井氏?

渡部亮次郎

産経新聞のベテラン政治記者阿比留瑠比(あびる るい)氏が3月13日、自らのブログ「国を憂い、我とわが身を甘やかすの記」で
「小沢氏に次に斬られる側近は石井一参院議員ではないか」と不気味な事を書いている。

<13日の産経政治面に、「民公接近 与党から不満続出 連立に影響 小沢氏ダンマリ」という見出しの記事が載っていました。公明党と創価学会が政権党である民主党に急接近していることを報じたものです。

時事通信の直近の世論調査で内閣支持率がとうとう30・9%にまで落ち込むなど、「政治とカネ」の問題や政策・外交の迷走をはじめ民主党への失望・落胆が社会に広まりつつあるという背景があります。

このていたらくの大きな原因をつくった小沢一郎幹事長は当面「居座り」を決め込んでいるわけですが、地位を安泰にするには、そろそろ新たなカードを手にしたいころでしょうし、一方でそれは党内外に大きな軋轢を生みますし。

実際、記事は石井一選対委員長が2月26日の小沢氏と創価学会幹部との密会を念頭に「支持者から『これまで批判してきた公明党や創価学会と接近するのはどういうわけか』と電話やメールがたくさん来ている」と抗議しても、小沢氏はムッとした表情で黙ったままだったと報じています。

情景が、目に浮かぶようです。ちなみに、石井氏は西松事件のときもその後も、ずっと小沢氏をかばい続けてきた議員ですが、これまでの数多くの元側近議員同様、いずれ小沢氏に切られるかもしれませんね。>

「抗議しても、小沢氏はムッとした表情で黙ったままだった」のはなぜか。創価学会・公明党への接近が、民主党や内閣の為だったら、小沢氏はそこで、改めて説明したはずである。それを敢えてしなかったのは自分の為だったからである。

創価学会・公明党は「票」を通して自民党を支配してきた。それを今度は民主党に持ち込んで民主党政府を支配しようと、小沢氏を通じて接近を図ってきた。それを受けて小沢氏は渡部恒三氏ら小澤批判派への恫喝に用いようとしているのである。「おまえら、つべこべいうなら学会票を回さないぞ」というわけ。

小沢氏は東京地検による起訴を当面免れたが、捜査が終了したわけではない。まだ崖っぷちに立たされている。そこを渡部氏やいわゆる七奉行の連中に突かれたら幹事長の地位は危なくなる。だから小沢氏としては万全の策を講ずる必要がある。そこへ創価学会・公明党の接近。当(まさ)に「渡りに船」だったのだ。

このように考えると、石井氏の「抗議」は小沢氏にとって実に腹立たしいことだった。折角ポストを与えて選挙対策を通じて側近扱いにしてやっているのに、いつの間にか増長して、幹部面をしている。
クビだ。

小沢氏の哲学は「去る者は追わず」。岩手の大先輩の原敬は「去る者を追う」だったが、小沢氏は少しでも逆らう者は直ちに遠ざけ、次第に疎遠にし、斬ってしまうというのが常道。親分の田中角栄氏や金丸氏にも無かった冷酷さがそこにはある。石井氏に抜かりはなかったか。
2010・3・13


2010年03月13日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎

北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦(元)さんがベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相(当時)が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。

こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。
(了)2005.02.23 加筆2006.03.25

2010年03月10日

◆同志も脅す小澤一郎

渡部亮次郎

今年(2010年)の「2・26事件」は民主党幹事長小澤一郎と創価学会幹部との「極秘会談」だった。「事実」は朝日新聞のスクープとして伝わったが、小澤本人は、表向きでは否定している。しかし、朝日だけが特ダネとして報じたという事は、創価学会ではなく、小澤側が漏らしたのが確実である。

沖縄の基地移転をめぐる社民党の「跳ね上がり」を目にするとき、
「社民党と亀井に手を焼いた小澤が、彼らを脅す為に、敢えて創価学会との連立の可能性を見せ付けて牽制した」と見るのが普通だろう。しかし「剛腕」の小澤にしては「並み」の手口。面白くない。

昔、NHKで初代の創価学会、公明党担当記者だった者としてはもう少し別の面から分析する必要を感じる。

創価学会幹部と政府・与党幹部との会合は「暫く」しなければ外部には漏れないものだ。少なくとも創価学会側からは絶対と言っていいくらい漏れない。学会幹部といえども池田大作に睨まれたら最後だからだ。

池田は嘗て竹入義勝公明党委員長を使って日中国交正常化を田中角栄内閣で実現したが、後日、竹入が「自叙伝」で、このことを自慢したら、直ちに竹入を追放してしまった。後任の矢野絢也委員長も同じようにされた。

だから小澤との会談が創価学会から漏れる事はあり得ない。小澤側が、特定の目的を以って漏らした事は確実だろう。或いは同席した輿石東参院議員会長かとも疑われるが、別の側近かもしれない。元参院議員の平野貞夫を使って朝日にだけ漏らした、ということも考えられる。

いずれにしろ、会談の直後、すぐ漏れたという事は、なんらか、素人には分かりにくい別の理由が無ければ理屈が合わない。

創価学会・公明党側の動きを注視すると、公明党の山口委員長(参院議員)は最近、鳩山首相に面談、「協力」姿勢をあからさまにしており、民主党への連立入りは既に何時あってもおかしくない。

山口委員長の動きは民主党との連立について創価学会側から既にゴーサインが出たと見るべきだろう。そのサインなくして鳩山への面談などあり得ないからだ。創価学会と公明党との関係は親子関係だからである。

したがって小澤としては社民党や亀井を牽制する道具としての創価学会はすでに考えていない。しかも会談の漏洩をむしろ急いだという事は、会談を用いて党内の引き締めと自身の求心力向上を図ったと見るべきであろう。

そのような見地から民主党内を観測すれば、小澤に批判的で、幹事長辞任を求めていた渡部恒三らが急に鳴りをひそめてしまった。小澤の狙いは渡部ら一派を牽制することにこそあったと見るべきだろう。

衆院300選挙区の創価学会・公明党票は一選挙区当たり3万票。反小沢議員には創価学会・公明党票は渡らないと裏で脅しをかけたことになる。

この脅しの効果はモロに現れている。反小沢の空気が途端にくすんでいる。今も態度を変えないのは、選挙に自信がある前原国交相ら僅かになった。

小澤の党運営は流石に玄人。プロなのだ。仲間といえども、小澤自身の権力を維持する為には恫喝、脅迫、暇は無い。(文中敬称略)2010・3・9


2010年03月09日

◆スパイからの領収書

渡部亮次郎

朴正煕(パク・チョンヒ)氏が韓国大統領在任中、未入閣時代の衆議院議員園田直氏が表敬訪問したことがあった。その時、雑談の中で大統領が呟くように言ったそうだ。「わが国もお終いだ。会計検査院(?)が言うんです『スパイから、ちゃんと領収書を貰わなくちゃ困ります』って」。

スパイは敵方陣営の所属。いうなれば味方を欺いて、こちらに協力しているわけだから、極秘に受領するカネに領収書など手交するわけがない。それなのに「領収書を貰ってこなくちゃ困ります」とは官僚主義の凝り固まりの発言なわけだ。

帳簿の帳尻は合っても国家の帳尻の合わないことをなんと解釈するのか。

朴大統領はそれを嘆き、「国家の行く末」を案じたわけである。だが、鳩山政権はそれと同じ事をやって「透明な政治」「官僚の秘密主義を断乎、許さない」と息巻いている。

岡田外務大臣は「核」をめぐる米政府との密約文書を表に出す事で有権者の人気をとろうとし、平野官房長官は「官房機密費」の内訳を公開しようと努力中である。

一見正当な行為のように映るがこれが、結局はめぐりめぐって国益を著しく損ない、国民を不幸に陥れることになるとは気付かないのだろうか。

まず「核密約」である。核が、日本国土に果たして無いのか、ひょっとしてあるのか。あるのか無いのか、敵を疑心暗鬼にさせることが「抑止力」となって、敵の軍事的行為をためらわせることになる。

佐藤栄作元総理はノーベル平和賞を受けたが、本当の功績は沖縄返還に有るのではなく、非核3原則を謳いながら、密約によって核の存在をあいまいにして「核抑止力」を手中にしたことにあるのだ。

だから密約を外務大臣にも知らせずに京都産業大学教授の若泉敬をしてキッシンジャーと交渉させて成功。ニクソン大統領との間で署名しあった。その姿を若泉にも見せなかった。

若泉は病死する寸前「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」と一書を世に問い、莞爾として死んでいった。日本の平和は「核密約」によって保たれてきたものである。

それを岡田克也外務大臣はわざわざ、探し出して公開しようとして大車輪だ。「行政の透明化」だという。密約を透明化して日本の国益が少しでも増すのか。国民の安全になんらか、役立つのか。

岡田氏の功名心を満足させるだけで、1円にもなりはしない。それどころか全国民を裸にして恐怖のどん底に落とし、中国や北朝鮮に晒して喜ばせるだけではないか。当に国賊、売国奴と言わずしてなんと呼ぼうか。

次に「官房機密費」につてである。あれは国民に知らせずに仕事をしているようにマスコミは暴こうとしているが、実態は外国に秘密に仕事をするために行なう「機密」なのである。

特に外交交渉にあたって国民にすべてを公開する事は同時に相手国に手の内を晒すようなものだから「機密」にするわけである。そのことを考えずに内閣や行政から「機密」を無くせば、結局は国益を損じ、国民を不利に追い込むことになる。

戦後、ほぼ一貫して自民党が政権を握ってきた事で、民主党は今回の「政権交代」で密約や機密を公開することが、「永年の膿」を出すかのごとく考えているようだが、国益優先に考えれば、行為はよほど慎重に運んで然るべきだ。政治に暴露趣味や悪趣味はいけない。2010・3・7

2010年03月08日

◆「馬」の渡来終着地は四條畷市

毛馬一三

<◆本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」・3月9日刊1842号に
  掲載されました。>

わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来先が、なんと大阪府四条畷市であると聞かされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾に些かも面していない四条畷市が「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先ごろの会合で四條畷市の大井俊道副市長から、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

調べてみると、四條畷市の西にある現在の寝屋川が、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させられたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を上り、「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そんな折、3月6日の読売新聞に「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出た。

<四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)

松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している>。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、日本で初めてその実物がこの「蔀屋北遺跡」から発掘されている。

復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値は、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつける時代に移っていく。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」も姿を消したという。

四條畷市は、今年からJR駅前を中心に市街地の活性化に熱を入れると大井副市長はその決意を語っていたが、名所旧跡の多い四條畷市では、こうした知られていない歴史も積極的に宣伝広報し、まちの集客へ繋げる「観光政策」にも力を入れるべきではないかと痛感した次第。(了)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」                               20010.03.07

◆全国版メルマガ「頂門の一針」(3月9日刊)は下記の通り。

<目次>
・スパイからの領収書:渡部亮次郎
・内閣支持率36%に急落 共同調査:古澤 襄
・小沢一郎氏がアメリカからの招待状を必死で求める :古森義
・記者は命賭けけで「1日1本」:平井修一
・「馬」の渡来終着地は四條畷:毛馬一三
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
◆「頂門の一針」を是非ご拝読下さい。購読(無料)申し込み御希望の方は、下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



2010年03月06日

◆長谷川平蔵と遠山金四郎

渡部 亮次郎

鬼平こと長谷川平蔵と遠山金四郎の住居跡が隅田川岸に程近い墨田区菊川にある。散歩の途中、何気なく通り過ぎていたが、良く見ると東京都墨田区教育委員会の指定とあるから冗談ではないのだろう。
 
今時、鬼平とか鬼平犯科帳、桜花の刺青・遠山の金さんと言っても時代劇を読んだり見たりしない人には何のことだか判らない。そういう私も池波正太郎(故人)の傑作「必殺仕掛人」を、たまたま読むまでは何の興味も知識もなかった。
 
池波描く仕掛人の舞台は下町(浅草、下谷、神田、京橋、日本橋)と山の手の一部だが、鬼平こと長谷川平蔵も遠山も住んでいたのは隅田川を挟んで「川向こう」と呼ばれていた墨田区である。

しかも2人は時代を超えて同じ場所に居を構えていたと教育委員会は言っている。
 
2人とも平凡社の世界大百科事典に載っている。平蔵の死ぬ2年前に遠山が生まれている。
 
長谷川平蔵1745-95。遠山金四郎1793-1855。平蔵は後に京都町奉行になる人の子供に生まれ、若くして火付け盗賊改加役に任ぜられる。警察官だ。

続いて無宿人(失業者)対策の一環として徳川幕府の計画した人足寄場取り扱いを命じられた。44歳だった。これはいまでいう職業安定署兼作業所みたいなものだろうか。

平蔵は「3ヶ月弱で施設を完成、収容者に生活を賄うに足る収入の得られる作業を与え、更生に務めた。しかし奇計の人とも言われた彼の人柄は老中松平定信と必ずしも相容れず、わずか2年半後の1792年に任を解かれ、以後は火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の職務に専念した。

犯罪人逮捕および裁判の面でも、敏腕を歌われている。林 由紀子」とかの事典にはある。
 
これだけのことから池波はどうやってあれだけのストーリーを紡いだのだろうか。鬼平犯科帳、剣客商売、必殺仕掛人。特に仕掛人といえば暗殺者である。江戸時代に暗殺商売があったか、なかったか。

なかったという証拠がないのだから有ったと言えるのかも知れないが、その証拠が残っていれば商売を上がったりである。そこが池波の目のつけどころである。
 
しかも現代にこれだけ愛読者がおり、若者にも広がっていると言う事は暗殺そのもののタネがそれだけ多いと言う事であろう。死刑廃止論の盛んな現代だが、その反面、裁判を長くすることが弁護士の務めだなどと論じる弁護士の出てくる時代。仕掛は今こそ必要だとの主張を聞く。
 
そこへ行くと花吹雪の刺青遠山の金さん好きは、まだ穏健派かもしれない。同じところで暮らしたが、平蔵よりは約50年遅く生まれた。名は景元(かげもと)号は帰雲。金四郎は通称。

武士の子に生まれ1840年、47歳で北町奉行となった。警視庁兼検察庁兼裁判所長というのだから恐ろしい権力のかたまり。後世、芝居や映画になるのだから封建体制のワクをはみ出す人だったのだろう。

事典でも上司の命令を握りつぶして処分を受けたことがあった。もともと老中(首相)水野忠邦や南町奉行とはそりが合わなかったようだ、とある。左遷されたが、水野の失脚後、再任された。

「名奉行として市井に知られ、奉行所内でも大岡忠相以来の裁判上手との評判であった」と事典にある。職を辞したノのは59歳。3年後に死んだ。
 
東京の銀座から日本橋を経て隅田川を渡ると江東区。橋は新大橋という。新しい橋かというとそうではなく江戸時代からかかっていた。赤穂浪士が吉良上野の首を担いで渡ったとある。

もともとの大橋に対して新大橋となっていたが、大橋が両国橋となったので、名前が孤立した。渡って江東区がすぐ墨田区に変わる。地形が入り組んでいるのだ。そこに長谷川平蔵と遠山金四郎の住居跡が新大橋通りに面してある。いまは歯科医院である。(03.10.12)

2010年03月04日

◆わたなべりやうじらう

渡部亮次郎

幼稚園。生まれ育った秋田県旧八郎潟沿岸に、昭和10年代は無かった。昭和17(194)年3月、小学校(当時は国民学校)に入学するに先立って、同居していた父方の祖父が、私の名前の書き方を教えるという。日露戦争のラッパ手だ。

驚いた。私の名前は「わたなべ りやうじらう」だと祖父は言うのだ。あとで考えれば「旧仮名づかい」だったから、祖父は正しい。だが、「りやうじらう」だなんて。「りょうじろう」って呼ばれてるじゃないか、可笑しいよ、と抵抗したが駄目だった。

仕方なく祖父は、いきなり漢字での名前を教えてくれた。渡部亮次郎。お前の前に生まれた男の子があったが、生まれてすぐ死んだ。琢次郎といったという。私は実際は三男だと知った。

学校では、1年生なのに、名前をいきなり漢字で書いたので珍しがられた。だが、それで終わらなかった。3年生の時、女の先生が「お前たちは開戦の詔勅を知らないだろう」と言う趣旨のことを言って、「百姓の子せがれ」は馬鹿にされたと思った。

私は4つ上の兄に頼んで、「開戦の詔勅」を暗誦。翌日、先生の鼻を明かしてやった。百姓の子倅」は意地っ張り。これを秋田弁では「意地くされ」と言った。

中学3年のとき、大学を出たばかりの女性が国語教師として赴任してきた。始めに黒板に真自目と書いた。私は「まじめとは真面目と書くのでは」と主張。先生は翌日から来なくなった。

NHKの記者に合格したが、故有って、新人研修は受けなくとも良い、すぐ
地方の現場で働きたまえ、と大館から仙台中央放送局に発令された。だからNHKの誰からも文章の書きかたを習っていない。文章がズバズバと直明に切り込むような調子に偏ったのは、NHK式を習っ
ていないからだと思う。

NHKの国会原稿を聞いていると「あでもない、こうでもなくて 成り行きは不透明だ」となる。大奥みたいで不愉快になる。責任のない原稿。恰好をつけているだけのNHK方式。

百姓の子倅の「意地くされ」は今では相当くたびれては来たが、治ってはいない。

ケチをつけられると、いちいちハラがたつ。メルマガの記事に著名な新聞記者各位の記事が載るのをさして「有名人記事を掲載して体裁を整えている」という「反応」があった。

私は有名人だから載せているのではない。友人たちが、その後有名人になっただけの話である。後輩でも優れた感覚の所有者だと見れば優先するだけ。

他人にケチをつけることを趣味にしている人がいるそうだから、無視したいがハラが立つ。「意地くされ」は治らない。2010・3・2

2010年03月02日

◆林彪事件の朝日新聞(再掲)

渡部 亮次郎

日中間の国交正常化が1972年に成るなど、前の年に予測できた政治記者はいなかった。ガチガチの官僚内閣佐藤栄作政権が既に足掛け8年も続いて国民は飽き飽きしているというのに、後継者は又大蔵省出身の福田赳夫だという。

なるほど、対抗馬として考えられるのは佐藤派の財布・田中角栄が居るが、佐藤によって潰される可能性無きにしもあらず。大平正芳、三木武夫。それに中曽根康弘も出たがっては居るが、半人前だからなぁ。

NHKでは政治部の中に「中国問題研究会」が作られ、米田奎二記者がチーフとなり、どうしたものか私も加えられた。

その時、本当は文化大革命のさなか、中国では毛沢東対林彪の大権力闘争が起きていた。国交正常化などまだ考えられなかった。田中の政権獲得を信じていたのは島 桂次(のちにNHK会長・故人)だけだった。

1971年秋のことである。何しろ林彪は、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたのに、1971年10月1日の国慶節パレードが突然中止され、人民日報の紙上にも林彪の名が現れなくなった。

「毛沢東重病説」や、「何か重大な政変があったのではないか」との観測が世界中に広まった。この時、朝日の北京特派員の秋岡家栄記者は、パレードが中止になったのは「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(1971年9月27日)と、中国共産党内部における政変がなかったかのように報じた。

10月1日に、「モンゴル領内で国籍不明機が墜落した」というモンゴル国営通信社電を各社が一斉に報じ、林彪失脚の噂が世界的に広まる。日本人記者は文化大革命で全員が国外退去となっており、朝日の秋岡記者しか北京にいなかった。

10月は日本の主要各紙とも、北京のルーマニア高官が乾杯で林彪の名前を省略したこと(10月12日 AFP)を伝えたり、林彪重病説(10月9日 ニューヨークタイムズ)を伝えるかと思えば、『中国画報』という雑誌に林彪の写真が掲載されていること(10月27日 ロイター)を伝えたりとブレがあった。

やがて11月頃からは林彪失脚の可能性を伝える報道が主流となる。例えば産経新聞は11月2日付け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」という記事を掲載している。

しかし朝日新聞は、「その飛行機には中華人民共和国の要人が搭乗していたのではないかとモスクワでは噂になっている」ことを伝えている(モスクワ特派員電)が、林彪そのものには全く触れていないばかりか、政変の可能性についても全く触れていない。

さらに秋岡記者の書いた、毛沢東と林彪が並ぶ大きな写真が税関に掲げられていたことを根拠に林彪失脚に疑問を投げかける記事(1971年11月25日「流説とは食違い」)や、

「しかし、これだけの事実をもって党首脳の序列に変化があったのではないか、と断定するだけの根拠は薄い」という記事(1971年12月4日「なおナゾ解けぬ中国政変説」)など、「中国共産党内部における政変は無い」と印象付けるような記事が掲載された。

そもそもこれより1年前の1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は次のように答えており、中華人民共和国(中国共産党政府)の意向に沿わない記事を書くべきでないことを公言している。

「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)

「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」 (同『新聞研究』より)。広岡社長は甲子園球児で、経済記者出身。

この発言が象徴するように、当時の朝日新聞には、親中華人民共和国及び親中国共産党的な報道が多く存在していた。

さらに、広岡知男社長は自ら顔写真つきで1面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載しているが、文化大革命に肯定的とも捉えられる内容である(1970年4月)。

同様の記事は、1971年4月から5月にかけて計6回連載された「中国を訪ねて」というコラムでも見られた。著者は毛沢東とも親しい、著作「中国の赤い星」で知られ、中国共産党シンパとして著名なエドガー・スノーである。

さらに、「百人斬り」や「万人抗」を始めとして、中国共産党政府の意向に沿って無批判に日本軍の残虐振りを印象付ける記事を掲載したと批判される本多勝一のルポ「中国の旅」がある。

多くの朝日新聞批判本がこの点を指摘し、秋岡記者を名指しで批判している。これに対し秋岡記者は、11月中旬に、ある筋から事件の実際を教えられたが、「絶対に口外しない」という約束をさせられたため、いっさい記事を書こうともせず、本社にすらこの情報を送らなかったとも指摘されている。

確かに秋岡記者は、林彪失脚に疑問を投げかける記事を継続して配信しており、朝日新聞は紙面上でこれを中心とした記事作りを行っていたが、同時に外国の通信社などから配信された林彪失脚を匂わせる記事もこの前後に掲載していたのも事実である。ずるいやり方である。

例えば、「林氏ら軍人退場 モスクワ放送 中国“政変”で解説」(11月17日 ラヂオプレス)や、「林副主席の名前は見えず アルバニアに三首脳祝電」(11月28日 ラジオプレス)がある。

中華人民共和国関連の記事は、林彪失脚に懐疑的な記事ばかりでなかったのであり、この点は朝日新聞批判本が指摘していないところであるが、朝日新聞が紙面で外電の林彪失脚を示唆する記事は目立たぬように小さく報じ、自社の秋岡特派員の書いた林彪失脚に疑問を投げかける記事のみ大きく取り上げたことにより、朝日新聞は林彪失脚に懐疑的であったという印象を与えたことは確かである。

年が明けた1972年1月3日、「林氏の肖像画消える」という秋岡記者の書いた記事がようやく朝日新聞に掲載されるが、それが何を意味するかについては記事上、見出し上では一切触れていない。

さらに2月10日付の1面トップには「林氏 失脚後も健在 仏議員団に中国高官談」と題されたAFP電が掲載されている。「これらの一連の記事は『林彪健在』や中国共産党上層部内の平静をあえて大きくアピールして、読者をミスリードしているように見える」と指摘する声が多い。

しかしこれ以降、ようやく朝日新聞の紙面からは林彪の死亡はともかく、失脚を訝しがる記事は消え、2月23日には「中ソ改善を図り失脚 林彪 訪中の米記者報道」(1972年2月22日 時事通信)という記事が掲載される。

一方で他紙を見てみると、読売新聞は「林彪の失脚を確認」、毎日新聞は「林彪は生きている」と、扱いは朝日新聞ほど大きくはないものの前述した2月10日のAFP電を報じている。

1972年7月28日(すでに田中政権発足後)、他社が林彪の死亡を報じた後で、秋岡記者が配信した林彪死亡記事がようやく掲載される。これは、広岡知男朝日新聞社社長が中国共産党政府の意向通りの記事を書くことを公言していることから、朝日新聞社の方針に沿ったものであると考え
ることができる。

そもそも林彪は1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、劉少奇国家主席の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から彼とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。

1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否した為ミサイルで撃墜された説がある。

なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

また、林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。

1969年3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになったが、二正面作戦をとるのは上策ではないとして、「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。

一方、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張したという。いずれにせよ、林彪事件には今なお謎が多い。

1981年の林彪・四人組裁判では「反革命集団の頭目」とされ、彼が抗日戦争であげた戦功は歴史から抹殺されることになったが、近年、研究者の間では革命期における軍人・林彪の功績を客観的に再評価しようという機運も起きており、北京の革命博物館の展示でも林彪の名が見られるようになった。

また、林彪事件直前に書かれた林彪グループの毛沢東暗殺に関する計画書のなかで、「毛沢東はマルクス主義でも何でもない」「現代の始皇帝である」「中国を人民の相互軋轢によるファシズム独裁国家に変えてしまった」という記述が、文化大革命に厳しい批判的な見方を示す研究者からも注目されている。

1971年9月の墜落事件の後、ソ連のKGBは現地に赴き、モンゴル国内に墜落したトライデント旅客機の中から9体の焼死体を回収、その中の1体を林彪と断定した。

国内戦争当時、林彪は頭部の戦傷の治療のため、ソ連の首都のモスクワに赴いたが、その当時のカルテが残存していた。その焼死体の頭蓋骨部分に認められた傷とカルテの記載が一致、これが決め手になったという。

中国人政治学者の厳家祺およびその妻の高皋による『文化大革命十年史』によれば、1950年に林彪が体調不良を訴え朝鮮戦争への出征を拒んだ際、診断した党幹部の御用達医師である傅連!)によって体の主だった器官に疾患はなく、神経系の異常あるいはモルヒネ中毒と診断され、これが毛沢東に報告された。

毛沢東は以前から林彪の中毒を知っており、まもなく、林彪に曹操の詩『亀雖寿』をしたためて送ったとの逸話が載っている。参考:フリー百科『ウィキペディア』(文中敬称略)。2007・05・13
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


秋岡氏のその後。

<人民日報社社長、海外版日本代理人の秋岡氏と会見

人民日報社の王晨社長は12日午前、「人民日報」海外版の日本代理人である秋岡家栄さん、娘の栄子さんと会見した。双方の会見時の主な発言は次の通り。

▼王晨・人民日報社社長

われわれは、中国で起きた日本人の関心の高い出来事を、海外版を通じて多く報道することで、歴史によって現実の中日友好を促進することができる。6月に私が日本を訪問した時、小泉首相と会見した。彼は「中国脅威論」には反対で、日中関係は積極的に未来へ向うべきだと話した。

私は彼の見解を称賛する。中日関係の発展は「歴史を鑑(かがみ)とし、未来に向かう」必要がある。中国のわれわれ一同も、やはり両国の関係が安定的かつ前向きに発展することを願っており、中日友好の推進者でありたいと考えている。

▼秋岡家栄さん

現在、日本はほんの一部分の人に問題があるだけで、日中友好を願う人がやはり多数だ。日本の人々は中国の歴史と伝統文化を知りたいと強く考えており、両国の交流にはさらに関心が高い。日中友好のために引き続き努力して行く。(編集YH)

「人民網日本語版」2004年10月13日 >
http://spysee.jp/%E7%A7%8B%E5%B2%A1%E5%AE%B6%E6%A0%84/1035960/

2010年02月28日

◆「夜と朝の間に」

渡部亮次郎

このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを
夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように
夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい
夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(57歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、最近になってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラジオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのはとうぜんだが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから
原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。
「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。2010・2・27


2010年02月27日

◆脳梗塞から復活した坂上二郎さん

渡部亮次郎

コント55で名を馳せた坂上二郎さんは元々歌手志望で上京したのに、さっぱり売れない為、紆余曲折を経てコメディアンになり、とてつもない人気者になった。

私もNHKのど自慢に出場したが、歌手にはならず、記者になったが、NHKという風に馴染めず失敗。若い頃、コント55には笑い転げた。齢を経て、2008年11月、脳梗塞にかすられたが、気付くのが早かった為、念のための入院も10日で済んだ。

退院以後、長嶋さんの主治医である、大学教授の診断を毎月受けながら、血液が血管を詰まらせないよう、さらさらにする「ワーファリン」を服用しているが、お陰で生来、嫌いな納豆を食べずに済んでいる。

ところが、坂上二郎は、私より5年前にゴルフのラウンド中に脳梗塞で倒れていた。たまたま、その体験記をネットで拾ったので紹介する。

坂上二郎、1934(昭和9)年生まれ。鹿児島県鹿児島市出身。血液型A型

元々は中学校卒業後、鹿児島市内の百貨店に勤務。1953(昭28)年、NHKのど自慢コンクールで鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。さっぱり売れず、諦めかけて大型免許を取って転職しようとした矢先、たまたま萩本欽一に電話をかけたのが55号に繋がった。

キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年、萩本と再会し、お笑いコンビ「コント55号」を結成。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場・日本劇場等で人気を博し、演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、再度芸能界で活躍するようになった。

コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。

コント55号として活動中の1972年―1973年頃より、俳優としても活動することになり、1976年のコンビとしての活動中断以降は本格的にテレビドラマ、映画、舞台などで活躍。

平行して念願の歌手としても活動。1974年に『学校の先生』を出してヒット。美声と独特の節回しで知られる。声が『柿の木坂の家』で有名な青木光一に似ているとも言われる。もともと岡晴夫の持ち歌だった『憧れのハワイ航路』をTVなどで数多く歌っている。

<『心に太陽を!脳梗塞からの奇跡的な復活を支えた舞台への執念』

2003年9月に脳梗塞で倒れた坂上二郎さんは、苦しいリハビリの末、翌年6月の舞台で見事復活を果たしました。医師からも「よくここまで回復しましたね」と言わせたそのがんばりを支えた原動力とは、一体何だったのでしょうか?

■予想もしなかった出来事が…

坂上二郎さんが脳梗塞で倒れたのは、2003年の9月のこと。健康には自信があった坂上さんにとって、それは全く予想もしなかった出来事でした。

坂上さんは、健康のため20年もの間1日1時間以上歩き、太りすぎないよう食事にも気をつけてきました。また、定期的に健康診断を受け、血糖値が多少高いということ以外は問題がありませんでした。

「ただ、太るのがイヤであまり水を飲まなかった。それがよくなかったのかもしれません。コント55号の時代から、舞台で汗びっしょりになっても水はほとんど飲みませんでしたから。水分補給が大切という意識はあまりありませんでしたね」

 最近「血液がドロドロになると健康に悪い」と言われるようになりました。脳梗塞は、脳に血液を運んでいる血管がつまって、脳に血液が届けられなくなってしまう病気です。坂上さんの場合、水分を十分にとらなかったことが、血液の流れを悪くする原因の一つになってしまったのかもしれません。

坂上さんの脳梗塞の症状が現れたのは、ゴルフ場でプレーをしている最中でした。アドレスに入ってボールを打とうとしているのに、坂上さんの左手はクラブから離れて、たれ下がっていました。

その日、たまたま一緒にコースを回っていた主治医の寺尾先生が様子のおかしいことに気づき「二郎さん大丈夫?」と声をかけました。その時、すでに坂上さんはろれつが回らない状態でした。

これは脳梗塞だと直感した寺尾先生は、その場から動かないように声をかけ、坂上さんを芝生の上に横たえました。このように、万が一脳梗塞の発作が起きてしまった時には、身体を動かさないようにした上で、一刻も早く救急車を呼ぶことが大切なのです。

 キャディーさんが携帯電話で呼んでくれた救急車は、ゴルフ場担当者の判断でコースの近くまで入ることができました。そのため、脳へのダメージを最低限に抑えることができたのです。こうして、坂上さんは寺尾先生の病院で治療を受けることになりました。

■苦しいリハビリの毎日

坂上さんは、入院して数日はほとんど意識がない状態でした。脳梗塞の発作で脳が受けたダメージもかなりひどく、後でリハビリの専門医にCTの画像を見てもらった時に「この状態で、よくここまで回復しましたね」と言われたほどでした。

幸い命には別状がありませんでしたが、後遺症のため顔の左半分と左手がまひして、言葉もうまくろれつが回らない状態でした。

坂上さんは、入院1週間後からリハビリを開始しました。最初は、タオルの上に置いた大豆を箱の中に移すことさえうまくできない状態でした。

「何で自分がこうなってしまったのか。脳の病気だけに『オー、ノー』ですよ(笑)。でも、リハビリをやらない限り良くならないでしょう。少しずつ克服していきました。

そのうちに、左手でドアを閉められるようになったり、シャツのボタンをとめられるようになったりね。普段だったら当たり前のことだけど、『あっ、できた!』という感じで、うれしかったね」

しかしそこまでの道筋は、決して楽なものではありませんでした。思い通りにならない自分の身体にイライラして、献身的に看護してくれた奥さんに不満をぶつけたり、2度と舞台には立てないのではと不安になったりすることが何度もあったといいます。

さらに坂上さんを苦しめたのは、病気で倒れたことをマスコミに発表せず「オフレコ」にしていたことでした。そのため入院中は、他の患者さんの目に触れて噂が立つことを防ぐため、病室にこもりきりの毎日でした。

「特にママ(坂上さんの奥さん)には、本当に苦労をかけました。家には、仕事の依頼の電話がかかってくるんだけれど『主人は、今仕事で地方にでかけています』などと言っていた。でも、だんだんそんな言い訳が通用しなくなって、電話が鳴らないように線を抜いてしまっていたようです」

■大きな目標があったから

思い通りにならない自分の身体にイライラしながらも、それでも、坂上さんがねばり強くリハビリを続けたのは、もう一度舞台に立ちたい、テレビに出たいという強い願望をもっていたからでした。

特に、脳梗塞で倒れた翌年の6月に予定されていた、明治座でのコント55号がメインの1ヶ月公演になんとしても出演することが、大きな目標になったのです。

「自宅に戻ってしばらくしてから、リハビリの先生に来てもらうことになりました。その先生が『坂上さんにとって舞台が最高のリハビリ。絶対6月の舞台に出て下さいね』と言ってくれました。

この言葉は、ありがたかったですね。たしかに、舞台に出るという目標がなかったら、きっとここまで回復するのは難しかったでしょうね」

坂上さんは、先生の「身体を動かすだけでなく発声の練習もした方がいい」というアドバイス通りに、発声練習も始めました。病気で倒れる前は、自慢の歌声を舞台で披露していた坂上さんが、ピアノの伴奏に合わせて「あいうえおあお」「かきくけこかこ」といった基本的な発声練習を繰り返しました。その他にも「生麦、生米、生卵」などの早口言葉も練習しました。

取材当日も、練習を重ねてきた早口言葉を実際に披露してくれましたが、真似できないほどのスピードで、その上なめらかな発声には、後遺症は全く感じられませんでした。

それでも、「今でも左側が少ししびれた感じで、歌っていてもなんとなく気持が悪い。まだ納得していません」と話してくれた坂上さん。これだけのこだわりがあるからこそ、専門家が驚いたほどの回復が可能になったのでしょう。

「6月の舞台について、欽ちゃん(萩本欽一さん)から『車いすでもいいから出てほしい』と言われました。この一言は効きましたね。だって、それじゃあ喜劇が悲劇になっちゃうでしょう。『よーし、絶対治してやる!』ってね(笑)。今から思うと、あれは欽ちゃん流の励ましだったんですね。もしも、あの時『二郎さん、無理しなくてもいいよ』なんて言われていたら、その言葉に甘えて、本当に舞台に復帰できなかったかもしれません」

 その他にも、昭和9年会の仲間の一人、牧伸二さんからの励ましも、坂上さんの心を奮い立たせてくれました。それは、牧さん直筆の「心に太陽を」という書でした。

「病室で最初に見たときに、『そうだ、心に太陽だよな』と。『心をサンサンと輝かせて、がんばらなきゃ』と思いました。何か、病が身体からスッと消えていくような感じがしましたね。それからは、辛いことがあるとその書を見ながら『がんばれよ。くじけるなよ』と自分自身を励ましてきました」

■舞台がリハビリの場になった!

6月の舞台に立つという目標に向かって努力を続けた坂上さん。そのかいもあって、身体や声の状態はどんどん回復していきました。

しかし日常生活と違い、舞台の上ではかなりの体力や集中力が必要です。実際、舞台のリハーサルでは、せりふを忘れてしまう、ろれつがうまく回らない、動きが悪いといった状態が本番前日まで続きました。

不安を抱えたまま舞台初日を迎えた坂上さんは、自分の出番を待ちながら、舞台の上で本当に声が出るのか、ろれつが回るのか、気が気でなかったといいます。

「ついに自分の出番になりました。持っていた扇子で顔を隠しながら、欽ちゃんがいる舞台の中央に出て行きました。扇子をはずしたとたん客席がどよめいて、『二郎さんがんばって!』と声がかかった。

そこですかさず、『みなさんご心配をかけました。この通り元気になりました。最後まで、よろしくお願いします』とあいさつしたんです。『ちゃんとしゃべれた!』『昔の自分に戻れた!』という感動で、それまでの緊張がとれて、うそのように身体が軽くなりました」

舞台に立った坂上さんは、せりふを口にしながら、舞台上を動き回りながら、歌いながら以前の感覚を取り戻していきました。まさに、舞台が最高のリハビリの場となったのです。こうして無事迎えた千秋楽の舞台終了後のあいさつでは、

「熱いものがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれました。欽ちゃんはぼくの肩を抱いて『二郎さんが泣くなんてめずらしいね。誰かハンカチ持ってないの?』と声をかけてくれて…。共演者のみなさんも、お客様も一緒に泣いてくれました。

欽ちゃんには、ずいぶん迷惑をかけたけど、本当に我慢強くつきあってくれました。いくら感謝しても、感謝しきれない気持でした。同時に、1ヶ月間よくがんばったなぁという思いと、これで終わったという安堵の気持がこみ上げてきて、あの時ばかりは涙を止めることができませんでした」

■「ありがとう」に秘められた思い

「ぼくは本当にラッキーでした。脳梗塞で倒れたときも、その場に友人のお医者さんがいたし、家族や友人の励ましのおかげで奇跡的に舞台に戻ってこられました。また、実際に舞台に立って、お客様からエネルギーをもらったからこそ、ここまで回復できたのだと思っています」

現在、坂上さんのマネージャを務めている長男の大樹(だいき)さんは、「病気になってから、父は家族に対して優しくなりましたね。何かにつけて『ありがとう』と口にするようになったし、涙もろくなりました」と話してくれました。

「涙もろくなったのは、人生が終わりに近づいたせいかもしれませんねぇ(笑)。『ありがとう』という言葉も、あんまり使いすぎると『もう、長くないんじゃないかな』なんて思うことがあるんですよ」

笑いながら、そう話してくれた坂上さんは、リハビリ中は、どんなに苦しいことがあっても「男のくせに泣いたらダメだ」と自分自身に言い聞かせ、決して涙を流さなかったといいます。

もちろん、その強さが辛いリハビリを乗り越える原動力になったのでしょうが、家族に『ありがとう』と声をかけ、涙を見せる坂上さんも魅力的だと感じました。

今後、坂上さんが芸能界でも新たな一面を発揮され、これまでとはひと味違った活躍をされるのではないか。そんなことを感じました。(「私のおばあちゃんの智恵袋」>より。 http://www.chiebukuro-net.com/obchi/interv/interview11.htm
2010・2・25


2010年02月26日

◆鯰(なまず)が食いたい

渡部亮次郎

現在は知らないが、大東亜戦争中と敗戦直後の農村では、田植えと稲刈りの「農繁期」は、それこそ猫の手も借りたいぐらい忙しいから、学校を休んで手伝った。私は高校時代も稲刈りを手伝った。

県立秋田高校在学中も田植えと稲刈りを手伝った。1954年卒業の同期生520人余の中で、鎌で稲刈りをした者は私ぐらいだと、密かに思っている。

<本校は、明治6(1873)年に洋学校として創設され、以来135年にわたり充実発展の歴史を積み重ねてまいりました。これまで、ここで学んだ3万5千有余名の先輩たちは、高い次元の「文武両道」の道に邁進し、清新溌剌たる素晴らしい「自主自律」の校風を創り上げてくれました。

「敬天愛人理想を高く おのれを修めて世のためつくす」べく、国内外における様々な分野で自らの理想の追求に全力を傾注してきたのです。

この良き伝統と校風を継承発展させ、これからもグローバルな社会において全国・世界に通用する人材を輩出するため、叡智を結集して教育にあたっていきたいと考えております。
2008年4月  第42代校長 菊谷 一>

ところで、田圃と住居は何キロの離れているので、昼食に往復する時間が勿体無い。そこで飯の御櫃(おひつ)とおかずを煮た鍋を携行して行く。鍋の中の殆どは、当時の八郎潟で釣り上げた「鯰(なまず)」の味噌煮に決っていた。

東京で鯰を食べたというと、特に女性は気持ち悪がるが、それは経験が無いからであって、あれほど美味い淡水魚は珍しい。淡白な白身の肉だが、クセが全く無く、味噌煮は実に美味しかった。


しかし、長ずるに及んで郷里からも田圃からも離れたので、鯰の事はすっかり忘れていたが、外務大臣の秘書官に発令されて、或る時、アメリカ南部に出張したところ、女性たちがダイエットのために鯰のフライを食べているというので、改めて興味を惹かれた。

当時はカーター政権の頃。動物性脂肪の過剰摂取が肥満と心臓病を招くというので、大統領自らダイエットを呼びかけていて、女性たちは脂肪が少なくて蛋白質の豊富な鯰に飛びついたという次第だった。

そもそもナマズは英名で「キャットフィッシュ」とよぶ。これは、顎の両側からのびているひげがネコを連想させるため。南アメリカのいくつかの科のナマズは骨質板でおおわれ、鎧(よろい)をまとっているようにみえる。ヨーロッパナマズは最大型のナマズで、重さ290kg、全長がほぼ4mにおよぶことがあると報告されている。

数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、なかには体重が70kgにおよぶものもある。
とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスとならんで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。

現在、アメリカ合衆国の水産養殖の生産量の約2分の1をナマズが占めている。ミシシッピ、アラバマ、アーカンソー、カリフォルニア、ルイジアナの各州には大規模なナマズ養殖場がある。ほかの州のものをあわせると約6万haのナマズ養殖場がある。

養殖によるナマズの生産高は1985年では9万t以下だったが、92年には20万t以上になり、取引量も93年で約20万tにのぼると推定される。遺伝子操作、水流循環システム、病気の管理などの新たな生産技術をもちいることによって、この産業の今後の成長がみこまれる。

ナマズは北海道をのぞく日本全土の他、アジア東部にひろく分布する。いずれでも体は細長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右におしつぶしたようにひらたい。

全長60cmに達する。湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを食べている。長いひげには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌をさぐるのに使われる。また、側線器官に敏感な電気受容器があることも知られており、ほかの動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。

地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない、という。

ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがおり、全長1mに達する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。

ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である。かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、鍋物やかば焼きに適している。刺身用に寄生虫がつかないように養殖されたナマズは、洗いにして賞味される。Microsoft(R) Encarta(R) 平成22・2・22

2010年02月25日

◆マルコス大統領からのタガログ

渡部亮次郎

マルコス元フィリピン大統領閣下に恐れ多くもシャツのタガログ1枚を下賜されたことがあるが小さくて着られないまま、どこかで失くしてしまった。その3年後、園田氏は逝去、大統領は亡命を余儀なくされた。「歴史」を思う。

バナナ繊維かパイナップル繊維でできたバロンタガログだ。フィリピンではこれを着用すれば、「正装」なのだそうだ。高温多湿な土地での凌夏服装で都合が良かろう。

1981(昭和56)年、鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、イタリア、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。秘書官として随行していた私はイタリアから胸やけ続き。マニラにいた知人に貰った太田胃酸で霧消、万歳。

園田外相は19日はフィリピンのマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートで待機中のアメリカ国務長官ヘイグ氏と相対した。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると申しいれ、ただし服装は白のタキシード或いはタガログ・シャツに限るとのお達し。タガログを送ってくれていたが、小さくて着られなかった。

そこで主従ともに急遽、白のタキシードを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなどこの時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

晩餐会で何をご馳走になったかも忘れたが、イメルダ夫人の香水がきつくて参った。それに、きつい「冗談」にも。「日本人の大人たちは買春も団体でやるから目だって反感を買う。

そこへ行くと、積み立て貯金をして買春に来るドイツ人は凄い。女性の大事なところに怪我を負わせて帰るけど、決して団体でやらないからニュースにはならないのよ」。高貴なお方から、こんなお話を伺うとは予想してなかった。

これから3年後の4月2日の朝、糖尿病に伴う腎不全により、園田氏は70歳と言う若すぎる死を遂げてしまうが、園田氏の死に先立ってマニラでは1984年2月25日、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。

「ウィキペディア」によれば、マルコス政権下のフィリピンで、国内の経済開発では海外からの借款が多用された。また、1973年より開始された観光事業の振興策と、海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金が、重要な外貨獲得の手段であった。

1983年8月、野党勢力の中心人物でアメリカに亡命していたベニグノ・アキノが帰国時にマニラ空港で暗殺された事は、フィリピン経済に大打撃を与えた。

続く国内での反マルコス・デモの頻発に象徴される政治的問題は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、政府の振興策も効果が無かった。失業率は1972年の6・30%から1985年には12・55%まで増大した。

さらに政権末期、彼自身の腎臓疾患の為に政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される意図的に杜撰なプロジェクト等で汚職を繰り返した。

アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス自身が関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された国軍参謀総長ファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共にこの考えをより強くさせるものだった。

1984年までに、事実上の後見人であるロナルド・レーガン米国大統領は、マルコス政権に距離を置き始めた。

同盟国からの圧力の結果、マルコス氏は大統領任期が1年以上残っている状態で、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。

1986年2月7日に行われた大統領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録はマルコスが160万票の差で勝利したと発表した。

マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、アメリカ政府、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。

結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防相、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人がマニラの大通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命したのだった。
2010・2・23