2013年02月02日

◆歴史を歪曲する福田康夫

渡部 亮次郎


友人の元林野庁長官から1月26日の宴席で小さな新聞の切抜きを渡された。<人物抄 園田直 派を除名「心はさわやか」>とあった。わが師園田のこと、高校同期のよしみで、わざわざ持って来てくれたのか、ありがとう。宴席でもありポケットに入れた。

ところが翌日改めて見ると記事には並んで「証言 大福密約はなかった」という元総理大臣福田康夫さんの談話が載っているので、些か驚いた。歴史を歪曲し、相手の大平正芳氏を誹謗するものである。

切り抜きは読売新聞からの物だが、残念ながら日付をたしかめようがない。手渡された経緯から判断して2013年1月中のことと思われる。

ご承知のように康夫さんは先の総選挙に出馬せず、イスを長男達夫さんに譲られた。肩書きは元総理大臣だけれども、その前は父親赳夫(たけお)氏が総理大臣のときは首席秘書官だった人物。

福田赳夫内閣で私は外務大臣園田直(すなお)の秘書官だった。康夫さんからは「親父の総裁再選に直(ちょく)さんがもっと真剣に取り組むよう、ナベさんから、つっついてくれよ」と赤坂の料亭に呼ばれてそれこそ突っつかれたものだ。

しかし私は返事の仕様が無かった。「密約」の事実を大臣から聞かされていたし、事実、園田を官房長官から外務大臣に追う際、総理が園田に囁いた理由は「例のことをしゃべりすぎたね」だった。総理自信「密約」を再確認していたのである。

園田は官房長官の末期、幹事長の大平氏と何度も極秘に会談し「任期2年」の密約をせめて1年延長するよう懇願し、大平氏も了承に傾きかけていた。

私は左遷先の大阪から東京に戻っていたが政治部のある報道局ではなく国際局の副部長と暇な部署だったので、予ねて懇意の園田氏と夜に公邸で度々会って経過を聴いていた。大阪へ飛ばされる1年前は福田派担当記者だった。

だから昭和52年11月の内閣改造の際、私に園田氏から「秘書官になってよ」と言う電話があったとき、当然官房長官秘書官だと確認し家を出た。ところが総理官邸に着いてみたら園田氏は前閣僚からたただ一人居残り、ポストだけが外務に変わっていた。

後で調べると、福田総理は早くから園田氏を官房長官から外すことを決意していた。それは昔の親分岸 信介氏からの要請に応えるためだった、<晋太郎(女婿)を官房長官にしろ>。

とはいえ、政権樹立最大の功労者園田をいきなり外に放り出すと何を仕出かすか分からない。危険だ。そこでただ1人残し、No2の外務大臣なら文句あるまいと踏んだのである。

このとき世間もマスコミも此れは日中平和友好条約締結への積極論者だった園田をして条約を締結させるものと総理のハラを読んだ。しかし園田の受け方は全く違っていた。まず怒った。「密約反古の人事だ」。

確かに福田氏は次第に大平氏と距離を保つようになり、あろうことか自らは「降ろした」筈の三木武夫氏や選挙区ではライバルの中曽根氏と距離を縮め、とくに中曽根を総務会長に起用した。長期政権を展望させる布陣ではないか。

かくて大福密約は軽々しく反古にされ、総裁選挙は予備選挙で「死闘」の展開となったが、福田氏は「予備選挙に負けて方は本選挙を辞退すべき」など自信満々だったがあっさり敗北。大平と角栄の恨みを買ったのだ。なのに全く反省のないまま「天の声にも時には変な声がある」と嘯いて官邸を去った。

園田は既にこの結果を予測し、田中・大平陣営に近付いていたので外務大臣は再選。しかし、「大平のあとは再び福田」と言って福田陣営をけん制したが、40日抗争を経て福田派を除名され、「政界の逸れ鴉」と成り果てた。

しかし大平が急死した後、角栄邸にかけつけあっという間に鈴木善幸を次の総理に祭り上げた。外人記者たちは言った。
Zenkou Who?

康夫さんは紙に書かれた「密約」を見ていない。私はみた。それはそうだ赳夫親父としては「ほれ、この通り密約があるのだ」と息子にみせるわけにはゆかない。恥辱だもの。

康夫さんは、だから悪いのは大平で「密約なんて無かった」と言いたいのは当然かもしれない。しかし約束を破ると言う罪を初めに犯したのは福田赳夫であり、予備選で負けたことを逆恨みしたのは矢張り福田である。

福田に苛め抜かれて死んだのは大平だった事は歴史的事実である。
予ねて糖尿病を患っていた大平さんの心筋梗塞は政争のストレスによる急死だったのだ。

康夫さんがあんなことを言わなければ私はこんなことを書きたくなかった。

赳夫さんはその5年前、角福戦争に敗れた。政権はその後更に三木に渡り、今度こそ獲得しなければ永遠に遠くなりそうだった。だから「たとえ半年でも3ヶ月でも」と懇願するように呟いた。だから園田はまだ「政敵」だった角栄に頭を下げた。それが「密約」だった。

園田と言う人はその実、実直で、小心な人だった。一番嫌いだったのは注射。だから糖尿病なのにインスリン注射から逃げまくった。小心だから却って武道家としても名をなし、結婚を3度もした。嘘をつけない人だった。その園田も政界はぐれ鴉に成り果てた末、糖尿病の悪化で人工透析をする身となり最期は盲目で死んだ。まだ70だった。 2013・2・1

2013年01月31日

◆戦犯死刑囚を救った歌手

渡部 亮次郎


捨てられる運命にある歌謡曲のCDたち。せめてその前に聞き収めてやろうと若干をMDに納め、散歩しながら聴いているが、2013年1月30日に聴いたそれには渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」が納まっていた。

何十年かぶり、涙を抑えながら聴いた。私が涙を抑えるなんて。戦犯死刑囚を救ったこの歌の経緯を振り返ってみよう。

「ああモンテンルパの夜はふけて」は、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952年(昭和27年)9月、ビクターレコードから発売された。

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康。

2人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。フィリピンは日米戦争でマッカーサー元帥相手で最大の激戦地だったところ。

戦争が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われた。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれた。

A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」。

戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為である。B級は従来の戦争法規に規定されていたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科だ。

日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われた。おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告さた。

しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんなものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくなかったが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていた。

文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりあった。

勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがない。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通だ。

昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞かされた。

戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送った。

6月になって、当時神奈川県鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いた。封書には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。

作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていた。

「モンテンルパの歌」は、収監されていた日本人111人の望郷の念を込めた曲であった。

封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。

(一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

(2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのこと)。

戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいるなんて。

これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。

戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡辺はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフフィリピンへ渡ろうとした。

当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり1年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。

それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・

昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。

もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。

会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあった。

半年後の昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から1つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。

そのころ、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。

加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。

暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。

じっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。

しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」

死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。

横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。 参考(「二木紘三のうた物語」) 2013・1・30

2013年01月30日

◆作文に不可欠なリズム

渡部 亮次郎


私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHKだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だ。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を悪文という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのはきるべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、そしてでつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。

2013年01月29日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎


こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」として、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに現金を詰めて運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さんは「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露して私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出るわけもない。やはり中央の政界である。私に教えたのは政界の、それも実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すのが普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、昭和30年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが角福戦争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙だった。

石橋・岸時代はまだ1万円札はなかったから「買収」にもなんだか「重み」があったのじゃないか。

福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるといわれた。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎である。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。

                       (文中敬称略)


2013年01月27日

◆作詞家の罪の数々

渡部 亮次郎

楡(にれ)の木に鳥が鳴く アルプスの牧場よ と灰田勝彦が良く歌っていたが、楡の木を見たことが無かった。高校の先輩、東海林太郎も「楡の花咲く時計台」と言う歌を歌っている。よほど詩心を揺すられる木なのだろうか。

私の生まれた環境は四方が水田ばかり。写生する風景がどこにも無かった。ところが老年になって東京湾岸、江東区に住むようになって、都立猿江恩賜公園で楡の木を見つけた。なんとも穢い樹皮をまとった木では無いか。

公園事務所がわざわざ「にれ」と言う札を付けてくれなければ見向きもしなかっただろう。とにかく、樹皮は黒くひび割れて、ばらばらと今にも剥げ落ちてきそうである。

にれ(楡)はニレ科ニレ属の落葉樹と半落葉樹の総称である。シベリアからインドネシア、メキシコ、日本まで北半球の広範囲で見られる。にれの実は丸い翼果である。にれの全ての種は土壌pHに耐性がある。

にれには20から45の種類がある。数の曖昧さは種の範囲設定についての困難さに起因する。にれの木材は木目が絡み合っていて、結果的に分割に抵抗がある。主に車輪、椅子のシート、棺に使われる。この木材は腐食にも強い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和38(1963)年に大ヒットした歌謡曲に西田佐知子の「エリカの花散るとき」と言う実に詩情溢れる歌がある。

エリカという響きはなんとなくロマンティックだが、実物を見ると、わたしなら見て詩を書くような気にはならない。詩人は現物よりも名前の響きに詩心を寄せるものらしい。

「青い海を見つめて 伊豆の山かげに エリカの花は咲くという 別れた人のふるさとを 尋ねてひとり 旅をゆく エリカ エリカの花の咲く村に 行けばもいちど 逢えるかと」。ベテラン水木かおるが謳いあげた。

エリカ Erica ヨーロッパからアフリカに分布するツツジ科エリカ属の常緑低木群(→ 低木)の総称。

荒地や岩場に生える(→ ヒース)。高さは15cmくらいから3mまでさまざま。葉はふつう3〜6枚で輪生し、線形で厚く、裏面に深い溝が1本はいっている。花は総状または散形花序(→ 花序)につき、花の色には白、ピンク、赤などがある。

日本では南アフリカ原産のジャノメエリカが切り花、鉢植え用としてよく栽培される。喫煙用のブライヤー・パイプは地中海沿岸から西南アジアに分布するエイジュの根からつくられる。

ギョリュウモドキはエリカ属ではないが、花がエリカに似ているので、園芸上、エリカとみなされることもある。

「空の雲に聞きたい 海のかもめにも エリカの花の 咲くところ 逢えなくなって なおさらに はげしく燃える 恋ごころ エリカ エリカの花が散る時は 恋にわたしが 死ぬ時よ」

確かにエリカには「孤独」と「寂寞」という花言葉がある。詩人はそれを知って歌をつくった。西田佐知子の代表作として残っている。作詞家とは何も無いところから恋の歌もつくる。罪なことをなさる。

反対に川内康範氏のような「生命を賭けて」作詞する人もいる。大島紬を着た女性が出てくる、文章にすればわずか5、6行の場面を書くために、八丈島の泥染めをしている老婆に会ってきたことがある。それだけ作品に対して真摯に取り組んでいることを示す著名なエピソードである。

だから「おふくろさん」に関して起きた森進一氏とのトラブルの行方は森氏が考えるような簡単なものではない。私も何度か会って、その激しさを知っている。その理由を2007年3月15日発売(東京)の「週刊新潮」が詳しく書いている。

参考. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.
2007.03.03

「愛染(あいぜん)かつら」。昭和13(1938)年に公開された松竹映画。明治天皇の落胤と伝えられた作家川口松太郎の原作。当時、物凄くヒットした映画であり、主題歌「旅の夜風」も大ヒットした。

当時2歳だった私はそんな事は知らない。愛染桂という木があるのかと捜したがなかった。桂といえば、昔赴任した秋田県大館市の昔の城は桂城。桂とは何となくロマンティックだが、猿江公園で確認した桂は穢い肌の木に過ぎなかった。

カツラ(桂) 山地の渓流沿いに生え、新緑と黄葉がうつくしいカツラ科の落葉高木。北海道から九州までと、中国、朝鮮半島に分布。日本各地の庭や公園などにも植えられている。高さ20〜30m。

樹皮は縦に割れ目があり、はがれやすい。葉は対生し、丸みのある広卵形で、基部はへこむ。雌雄異株。4月ごろ、葉に先だって雄花と雌花が短枝に多数ひらく。

花には萼(がく)も花冠もないが、雄花の多数の葯が赤紫色でうつくしい。果実は円柱形の袋果でややそりかえる。黒紫色に熟すとわれて、先端に種子をだす。

カツラ材は香りがよく、緻密で耐久力があるので、建築、家具、船舶、楽器、彫刻、鉛筆などにつかわれる。

近縁種に葉がカツラより大きいヒロハカツラがあり、中部地方以北に分布する。

桂という漢字は、元来ニッケイやモクセイ(木犀)など香りが高い木にあてられるものであった。景勝地として知られる中国の桂林などはキンモクセイにちなむとされる。また中国では、月に生えると想像された木にもこの字があてられた。

文句をつければ只の栃の木をわざわざフランス語で「マロニエ」と言って、上等のように見せるのにも腹が立つが、いい加減に止めておこう。


2013年01月26日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて1972年、特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそう
であろう。

「ウィキペディア」は<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」(蒋介石)からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

田中訪中の1972年から「支那」と言わなくなったと唱える人が居るが、間違いなく、それ以前から「中国」と言っていた。国交正常化に備えたNHK政治部の研究会も「中国研究会」だったもの。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。
2009・07・16執筆 再掲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年01月24日

◆iPS細胞から世界初の腎細胞作成

渡部 亮次郎


産経ニュースは2013.年1月23日、
<iPS細胞から世界で初めて腎細胞作成 京大グループ>と報じた。

世界中に多くの患者がいる腎臓病の治療薬研究に役立つほか、将来的には、腎臓を作製(再)することにもつながると期待されている。

<ヒトiPS細胞(人工多能性幹細胞)から腎細胞を作り出すことに、京都大iPS細胞究所(所長、山中伸弥教授)に所属する長船健二准教授らのグループが世界で初めて成功した。22日付の英科学誌ネイチャーコミュニケーションズに掲載された。

作製した細胞を腎臓の5種類の部位に分化させることにも成功。これらを使って腎疾患なを再現できれば、世界中に多くの患者がいる腎臓病の治療薬研究に役立つほか、将来的には、腎臓を作製(再生)することにもつながると期待されている。

グループは、皮膚から作ったヒトiPS細胞に、腎細胞への分化を誘導するとみられる化合物と2種類のタンパク質を加えて培養した。10日目には全体の90%以上が、腎細胞の元になる「中間中胚葉」と呼ばれる細胞群になったという。

さらに約2週間培養を続けた結果、尿細管など腎臓の一部になり、腎臓に分化する能力があることが確かめられた。マウスの体内に中間中胚葉を移植して培養しても、同様に腎臓の一部に分化した。

また、中間中胚葉にマウスの胎児の腎臓細胞を加えて培養したところ、管状の器官が作られることも確認、立体的な腎臓の作製につながる可能性も確認できたという。

今回、作製したのは、約20種類ある腎臓の部位のうち5種類だが、残りも作製可能とみており、部分的に腎臓に移植する細胞療法での活用も期待される。

これまでiPS細胞からは心筋や網膜、肝臓などの細胞が作製済み。しかし腎臓は、他の臓器と比べて構造が複雑で、再現は比較的難しいとみられていた。

長船准教授は「腎臓病は患者が多く新たな国民病ともいわれる。将来的には、人工的に腎臓を再現できる可能性も確かめられた」と話している。>(産経ニュース 2013.1.23 11:30 )

私は幸いまだその状態には至ってないが、糖尿病患者のかなりの人が腎臓を痛めて腎不全に陥り、命を落とす。それを避けるには今の医学では人工透析によって血液の浄化をする以外にない。

しかもその人工透析には1回5〜6時間を必要とし2日に1回ぐらいのペースで受診する必要がある。殆ど仕事ができない状態に追い込まれる。精神的な苦痛も大変なようで、自殺に追い込まれた人もいる。

要するに腎臓の移植しか透析を回避する道はないのだが、ヒトiPS細胞(人工多能性幹細胞)から腎細胞を作り出すことができるとなればこうした人々にとって、このニュースは最高の福音である。

ノーベル賞を受けた山中伸弥教授は授賞直後、あるインタビューで次のように語り、今日を予測していた。弟子たちの仲から次のノーベル賞授賞者が出るかもしれない。長船健二准教授かも。

<山中:ですから、やはり今後はこのiPS細胞は、他の幹細胞(とともに)、再生医療の応用というのは進んで行くと思うのですが、逆に言えば、将来、そういった再生医療の分野で画期的な仕事をされた方は、またノーベル賞をもらわれる可能性は、充分あると思います。

竹内:つまり、iPS細胞を利用して、創薬ですとか、再生医療の道を切り開いた方が、将来この分野でノーベル賞を受賞される可能性があると。

山中:充分あると思います。例えば脊髄損傷、いま受傷すると、もう麻痺が治らないのを、ある幹細胞を使って、iPS細胞かもしれないし、他の幹細胞かもしれないのですけども、そういった治療で、もう皆が治ると。そういう本当の意味の治療にする方が出て来たら、かなりの可能性で、その方はノーベル賞をもらえると思いますし。他の疾患でも、今、治らない病気がたくさんありますので、そういう病気の、本当の意味の治療法を作られた方っていうのは、これから新たなノーベル賞、それはノーベル医学賞の方ですよね。

竹内:医学賞の方で、取られる。

山中:はい。これ、1つの賞なのですが、これまでの受賞者を見ましても、明らかに医学賞だと思われる人と、生理学賞だと思われる人と、ちょうど中間の人と、いろいろおられると思いますが。        2013・1・23

2013年01月22日

◆さようなら岡本敦郎さん

渡部 亮次郎


ホームソングの歌手岡本敦郎(あつを)さんが旧ろう 2012年12月28日び亡くなった。満88歳没だった。私の青春は岡本さんの歌と共に在ったようなものなので、実にがっかりした。

一つの時代が終わったと言うなどという軽いものじゃなくて「俺も終わりがちかいのだなぁ」という思いである。

岡本さんとは言うけれど会う事は遂になかった。

敗戦の翌年1946年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビューした。この曲は当時、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が企画した懸賞応募曲である。明るいその曲調から、広く親しまれ愛唱された曲だったそうだが、そのころ、家にはラヂオが無かったから知らない。

ラヂオが来て「ラヂオ歌謡」にしばしば登場するようになり、類稀なる美声と歌謡曲に無い、豊かな詩情に、のめりこむようになった。あれは高校に入ったころだった。以下「ウィキペディア」による。

本名 尾加一夫 。 1924年12月25日、北海道小樽市に生まれる。 武蔵野音楽学校 (現武蔵野音楽大学声楽科卒業。日本コロムビア所属。

抜群の伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。1949年の「街の艶歌師」の小ヒットを手始めに流行歌のヒットが増えて行った。ちなみにこの作曲は八洲秀章(北海道出身)で岡本敦郎にしては珍しい演歌である。

「白い花の咲く頃」の大ヒットや「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり、岡本敦郎の代表曲となった。

私の入った高校は秋田県でもトップクラスの進学校。息がつまった。息抜きにNHKののど自慢に出場した。その曲は「チャペルの鐘」(1952年)だった。

チャペルの鐘

作詞:和田隆夫、作曲:八洲秀章、唄:岡本敦郎

1 懐かしのアカシアの小径(こみち)は
  白いチャペルにつづく道
  若き愁い 胸に秘めて
  アベマリア 夕陽に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

2 嫁ぎゆくあの人と眺めた
  白いチャペルの丘の雲
  あわき想い 風に流れ
  アベマリア 静かに歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

3 忘られぬ思い出の小径よ
  白いチャペルにつづく道
  若きなやみ 星に告げて
  アベマリア 涙に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

<昭和27年(1952)にNHKラジオ歌謡として放送れた。

八洲(やしま)秀章の端正なメロディを岡本敦郎が端正に歌った。

惹かれあっていることがお互いにわかっているのに、打ち明けることができないまま別れてしまう若い男女の心が詠われている。

最近はどうも、こうした繊細な恋のかたちを理解できない人が増えているようで……>(二木紘三)


岡本はその後も「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持った。

NHK紅白歌合戦に7回出場した。岡本を支えた作詞家や作曲家といえば岡 灯至夫、寺尾智沙、田村しげる、八洲秀章、古関裕而と言った人たち。

舟木一夫の大ヒット曲「高校三年生」は岡本の吹込みを想定して作られたものである。また歌手業の傍ら、音楽教師としても活躍。1980年から84年には日本歌手協会の理事長を務めた。

1995年には戦後50年及び自身のコロムビア専属50年を記念し、同じく専属50年の並木路子・池真理子と共に新曲を発売し、日比谷公会堂でジョイントコンサートを行った。

80歳を超えても「思い出のメロディー」(NHK)やテレビ東京の懐メロ番組へ出演。2007年9月18日に脳梗塞のため入院するも早期発見が幸いして投薬治療で回復。

翌2008年1月21日放送の「ラジオ深夜便」で仕事復帰した。

2010年頃からは心臓の不調もあり仕事から遠ざかっていたが、2012年8月10日放映の「懐かしの昭和メロディ」(テレビ東京)へ出演。約2年半ぶりのテレビ出演となったが、これが生涯最後の仕事となった。

2008年、第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。

2012年12月28日、脳梗塞のため東京都内の病院で死去。88歳没。

2度目の脳梗塞は殆ど手の施しようもなかったのではないか。


私の好きな歌 ピレネエの山の男 
_
作曲者古賀 政男

岡本敦郎さんのヒット曲。ピレネー山脈は、フランスとスペインの国境に位置する。作詞の西条 八十がフランス留学中、ピレネーを訪れたことがあった。


  (1) ピレネエの 山の男は
  いつも一人 雲の中で
  霧に濡れ 星を眺めて
  物言わず 切るは樅の木
  ハイホー ハイホー
  千年の古い 苔の木

  (2) ピレネエの 山の男は 
   いつも一人 何を想う
   雨降れば 小屋の小鳥に
   ひげ撫でて 昔を語る
   ハイホー ハイホー
   思い出の 愛の駒鳥

  (3) ピレネエの 山の男は 
   春は行き 夏が来るよ
   角笛は 風に流れて
   旅馬車は 今日も急ぐよ
   ハイホー ハイホー
   故郷の おまえの町へ


岡本の代表曲

朝はどこから(1946年)共唱:安西愛子
街の艶歌師(1948年)
ビルの窓から(1949年)
白い花の咲く頃(1950年)
あじさいの唄(1950年)共唱:山田陽子
さよならマルセーユ(1951年)
リラの花咲く頃(1951年)作詞寺尾智沙 作曲田村しべる
美しい乙女(1951年)
青いガス燈(1951年)
時計台の鐘(1951年)
まぼろし慕いて(1952年)
草笛の唄(1953年)
チャペルの鐘(1953年)作詞和田隆夫 作曲八洲秀章
みどりの馬車(1953年)
花のいのちは(1953年)共唱:岸恵子
高原列車は行く(1954年)作詞:丘灯至夫、作曲:古関裕而
もぐらこおろぎ(1954年)共唱:伴久美子
ピレネエの山の男(1955年)作詞西条八十 作曲古賀政男
秋の匂い(1955年)共唱:伴久美子
秋の子(1955年)共唱:伴久美子
みおつくしの鐘(955年)
自転車旅行(1955年)
ここは静かなり(1955年)共唱:湯川きよ美
登山電車で(1957年)
人工衛星空を飛ぶ(1957年)
今日の日はさようなら(1974年)
小諸なる古城のほとり(1977年)
元気で行こうよ仲間たち(1997年)
狐の花嫁(1997年)
四谷大塚進学教室の歌(カセットテープ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013・1・20


2013年01月21日

◆「じゃがたらお春」のこと

渡部 亮次郎


流行歌少年だったので、じゃがたらお春の歌を小学校のころから知っていたが、一体何のことかは知らなかった。

大人になってからはお春の事は忘れていた。77歳になった春、ふと「ウィキペディア」に思いが及んで検索してみた。

じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年? - 1697年)は、江戸時代初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。

「長崎物語」

梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く
ララ流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

寛永2年(1625年)、ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。

筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィア(オランダ領。今のジャカルタ)へ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で離日した。

オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とされている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。

追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。

じゃがたら文

追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれたこの手紙は、お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年(1714年)に 西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹介された。

以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された悲劇の少女として知られることとなった。

明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほか、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして作られた。歌謡曲「長崎物語」である。

しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。

古詩を交えて書かれるなど少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがたら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけられている。

ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており「じゃがたら文」から想起された悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     
作詞の梅木三郎はペンネームで本職は毎日新聞記者。戦後発足したプロ野球「毎日オリオンズ」の代表を務めた。

作曲の佐々木俊一は福島県の出身。僅か49歳で若死にした。はじめはバンドマンに過ぎなかったが、処女作品が大ヒットするなど作曲には天才的なひらめきがあった。以下「ウィキ」による。

佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前・戦後に活躍した作曲家。

福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正(「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌などの作曲家)がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。

その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラマーとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。

かくて1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。

その後は作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春」、「無情の夢」、「燦めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒットする。

1957年1月27日死去。49歳没。酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。1963年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって「高原の駅よ、さようなら」の譜碑が建立された。

デビュー作であり出世作となった「涙の渡り鳥」は最初にメロディーを作った佐々木が人気作詞家・西條八十にビクターの廊下で直接譜面を渡し、無名の作曲家の作品ながらも佐々木の真摯な態度に西条は作詞を引き受けたという。

「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズは最初から佐々木によって譜面に書かれていたもので、文法的におかしいと注意した西条に、佐々木はこのままにするよう懇願し、結局は西条が折れる形となった。

「涙の渡り鳥」(作詞:西条八十、歌:小林千代子)
「島の娘」(作詞:長田幹彦、歌:小唄勝太郎)
「僕の青春」(作詞:佐伯孝夫、歌:藤山一郎)
「東京セレナーデ」(作詞:佐伯孝夫、歌:山口淑子 (李香蘭))
「無情の夢」(作詞:佐伯孝夫、歌:児玉好雄)
「雨の酒場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「あなたなしでは」(作詞:佐伯孝夫、歌:能勢妙子)
「長崎物語」(作詞:梅本三郎、歌:由利あけみ)
「燦めく星座」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「新雪」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「明日はお立ちか」(作詞:佐伯孝夫、歌:小唄勝太郎)
「月よりの使者」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎、藤原亮子)
「別れの夜汽車」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎)
「桑港のチャイナタウン」(作詞:佐伯孝夫、歌:渡辺はま子)
「アルプスの牧場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「高原の駅よ、さようなら」(作詞:佐伯孝夫、歌:小畑実)
「野球小僧」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「お俊恋唄」(作詞:吉川静夫、歌:榎本美佐江)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                    2013・1・19

2013年01月19日

◆阿る人を侮る中国人

渡部 亮次郎


だとすれば、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えに訪中した鳩山由紀夫元首相は軽蔑される為にわざわざ訪中したことになる。東大出に馬鹿が案外多いと言うのは単なる噂じゃなかった、と言うことか。

私が秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)外務大臣は、就任に先立って「言っておくことが2つある」と言った。中国についてだった。折から日中平和友好条約交渉の真っ最中だったからだろう、と思って聞いた。

<中国人は阿(おもね)る人間を軽蔑する。だからゴマすりをしてはいけない。もう一つ。政治家が儲け話を持ちかけると軽蔑される。
絶対しちゃいけない>

園田氏は大東亜戦争を含めて戦場で11年を過ごしたが、そのほとんどは中国大陸だった。スパイ行為をして掴まり、路上に落ちていた牛の糞を口に突っ込み狂人と思わせて難を逃れたこともあった。

そうした体験から割り出した「中国人」分析だったのである。だから北京における対中交渉でも下手(したて)に出る事は一度もなかった。「だから交渉を有利に纏めることができたのだ」と自負していた。

それはそうかも知れない。田中訪中のときの高島益郎条約局長が良い例だろう。日中国交正常化に先立つ両国交渉で高島氏は周恩来を相手に筋論を展開。周恩来は激怒した。しかし陰では「ああいう気骨のある外交官をわが国にも欲しいものだ」と言う話。

この時私は田中角栄首相に同行しながら、会談の期間は日本側代表団に近付くことが一刻も許されなかった。したがって以上の話は帰国後に聞かされて話である。

ところが「頂門の一針」2851号(1月18日)によれば訪中した鳩山氏のは徹底した阿り。鳩山元首相は「国賊」=小野寺防衛相が語った。

<小野寺五典防衛相は17日夜、BSフジの番組に出演し、「尖閣諸島を係争地と認めることが大事だ」との鳩山由紀夫元首相の中国での発言について「日本にとって大きなマイナスだ。言ってはいけないが『国賊』という言葉が一瞬、頭をよぎった」と述べ、強く非難した。

防衛相は「係争などなく(尖閣は)固有の領土なのに、中国側は、日本の元首相はこう思っていると世界に宣伝し、いかにも係争があるかのように国際世論がつくられてしまう」と懸念を示した。>
時事通信 1月17日(木)22時37分配信

<鳩山元首相 尖閣は「係争地」と発言 古澤 襄

訪中した鳩山元首相は、北京で楊中国外相と会談、「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べた。

日本政府の見解を真っ向から否定し、「棚上げ論」についても中国側の主張におもねったことになる。もっとも鳩山氏が希望していた習近平氏との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語っている。

<【北京=川越一】「個人の立場」で訪中している鳩山由紀夫元首相は16日、北京で賈慶林全国政治協商会議主席、楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相らと会談した。終了後、記者団に対し、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えたことを明らかにした。

鳩山氏は「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べ、日本政府の見解を真っ向から否定した。

「棚上げ論」についても中国側の主張におもねった。

賈氏らは鳩山氏の発言に同意したという。ただ、鳩山氏が希望していた習近平国家副主席との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語る。

中国側が鳩山氏を招待したのは、親中的な同氏に自国の立場を吹き込み、特使派遣を検討する安倍晋三政権に圧力をかけるのが目的だ。17日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」に鳩山氏を招くのも、歴史問題に絡み同氏を利用する狙いがうかがえる。(産経)>

鳩山発言は「わが国の立場と相反」と官房長官が批判  古澤襄

菅義偉官房長官は17日の記者会見で、北京で中国要人と会談した鳩山由紀夫元首相が沖縄県・尖閣諸島について日中間の係争地との認識を伝えたことに関し「わが国の立場と明らかに相反する発言で極めて遺憾だ」と述べた。

「日本の首相をされた方の発言として非常に残念だ」とも語り、鳩山氏の言動を批判した。

鳩山氏は16日に北京で賈慶林全国政治協商会議主席や楊潔●外相と会談し、沖縄県・尖閣諸島を日中間の係争地とする持論を展開。その後、記者団に「係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ」と語った。(●は簾の广を厂に、兼を虎に)(産経)
2013.01.17 Thursday name : kajikablog

昔の人はよく言った。「バカにつける薬は無い」
                 2013・1・18

2013年01月16日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血

脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれるわけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮ったCTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかったそうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっている。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めている。

2013年01月15日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎


2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争があるからだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきずいそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすればインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがあるらしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃されると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。インスリンを注射で補えば問題はないが、注射は多少とはいえ痛い。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目になった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップしたりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友ニュース」91号(2008・7・1) 

2013年01月13日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎


「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから35年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この数ヵ月後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平和友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったの
である。(文中敬称略)


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