2009年11月17日

◆東大出の暗愚の帝王

渡部亮次郎

昔、鈴木善幸首相はマスコミから「暗愚の帝王」と陰で呼ばれた。
外交がまるで分からず、発言がブレ続けたからである。そこへ行くと普天間でブレ続け、日米同盟の本質を分かっていない点で鈴木に似ており、「暗愚の帝王再来」「東大出の暗愚」である。

日米首脳会談(11月13日、日本首相官邸)は「日米同盟の深化、発展」「日米同盟はアジア太平洋地域の安定の為の機軸との認識」「米普天間飛行場の移設問題は、早期に結論を出す」などで「合意」した。

ところが、オバマを置き去りにしてシンガポールへ夫人と共に先に飛んだ鳩山首相は記者団に鳩山由紀夫首相が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、「13日の日米首脳会談で合意した日米閣僚級作業グループでの検討は、名護市への移設を決めた平成18年の日米合意を前提としない」と述べたのである。

「オバマ大統領とすれば日米合意を前提と思っていたいだろうが、それが前提なら作業グループを作る必要がない」というのが鳩山首相の理屈。

一方、大統領は同日の演説で「(作業グループは)すでに達した合意を履行するためのものだ」と述べており、認識の違いは明確だ。
これだけの認識の差があるなら、「日米同盟の深化、発展」「日米同盟はアジア太平洋地域の安定の為の機軸との認識」と合意するだろうか。

民主党の中ですら長島昭久防衛政務官は、NHKの番組で「オバマ大統領が『今の日米合意を迅速に実行する』と言ったにも拘わらず、首相が(打ち消すような)話をして正直びっくりした」と述べた。

自民党の石破茂政調会長は15日、「背信行為とも言うべきだ」と批判し記者団に「こんなことなら首脳会談をしない方がよかった」と強調。さらに「大統領の言ったことが合意の中身だと思う。首相は自分の言ってきたことと整合性を取るために合意をなかったと言ったとしか思えない」と指摘。

<普天間飛行場の移設問題をめぐっては、首相は衆院選の最中、国外・県外移設を目指す考えを表明していた。9月の就任後、「移設先は名護市しかない」とする米側の姿勢が硬いことから対応に苦慮。

13日の首脳会談では、主要議題を「個人的信頼関係の構築」に置き、ひとまず結論を先送りすることでどうにか米側の配慮を取り付けた。

オバマ政権は普天間移設に伴う米海兵隊のグアム移転費も含む
2010年度予算編成を年末に固める必要がある。タイムリミットは迫っており、大統領も首脳会談で「迅速な決着」を促している。

そうした中で大統領の発言を否定するかのような首相発言は、「不確実な状況が続くことは望ましくない」(クリントン国務長官)とクギを刺してきた米側の態度を一気に硬化させる可能性もある。>
産経新聞 2009.11.15 17:13

鈴木善幸は岩手の網元の息子。水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)を出た政治家とはいえ、自民党の総務会長を長く務めた「まとめ屋」。それが大平の死後、田中角栄の後押しで急に首相になってしまった。

大平の初盆の日に、自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶をしたぐらいである。

経歴としては、郵政大臣、官房長官、厚生大臣、農林大臣と「幅広く」活動してきたようには見えるが、帝王学に欠かせない大蔵、外務大臣の経験は無い。日米共同声明は、首脳会談の議事録と勘違いして発言がブレたので、気のきいた屋山太郎あたりが「暗愚の帝王」と言って揶揄した。

そこへ行くと鳩山は東大で足りず、アメリカの一流大学まで行って、他人(人)のかかあまで盗んできて、暗愚の帝王である。産経新聞ワシントン駐在編集特別委員の古森義久氏は「鳩山首相に欠けるのは防衛意識と価値観」と言っていますが、わたしは別だと思う。

大学を2つも出たのだから、学問は十分だ。だが世界観が定まっていない。哲学がない。信念に欠ける。「友愛政治」とか「不戦共同体などは、厳しい国際情勢のなかでは趣味に過ぎない。

国際情勢に定見が無い。無いのに発言してしまうから、訂正を余儀なくされる。世間はこれを「ブレる」と言って許してしまう。

そんな粗末な人間がまず、国会議員になれたのはなぜか。有権者に定見の無いのを見込んで手練手管を用いて騙した「手先」だけの浅ましさである。

政界入りして後は、「名家」「経歴」をゼニにまぶして神輿に乗っただけ。所詮「戦略なき戦術家」の域を出ない三流政治家に過ぎない。
元祖善幸には、元社会党代議士の思想の残滓があったが、鳩山には何も無い。あるのはポーズだけ。鈴木に劣る暗愚の帝王である。2009・11・16



2009年11月16日

◆旦夕に迫った鳩山の命脈

渡部亮次郎

鳩山首相の政策のうち、外交政策の振り付け役は商社員だった寺島実郎しだという。産経新聞ワシントン駐在特別編集委員の古森義久氏も、数々の論文をトレースした結果、外交に関しては鳩山=寺島と断定している。

だから、寺島とは、如何なる人物か、紹介しようと思ったが止めた。なぜなら鳩山はすでに幹事長小澤一郎に見捨てられ、後任は菅直人、何時でもクビを挿げ替える態勢が出来ているらしいからだ。

私の後任の「赤坂太郎」(文藝春秋)2009年12月号によると、「小澤さんは、鳩山の故人献金問題は深刻。追究する自民党次第だが、鳩山内閣は来春まで保(も)つかどうか」と洩らしている。

「その場合は菅直人にスイッチすればいい。どんなことがあっても4年間は解散しない」と明言している、そうだ。完全に党首はオレだといっている。

尊敬するマスコミ界の「長老」は13日、オバマ大統領来日を前に「鳩山首相の命旦夕に迫った」と断じた。

「鳩山内閣が短命政権で終わるという予測を早くから立てていたが、それでも来年の春までは保(も)つと思っていた。外交・安全保障政策は内閣の命取りにはならないというのが、半世紀にわたって政治の世界を見てきた私の判断だからだ。

命取りは首相の汚職などの不祥事である。

しかし鳩山首相の命旦夕に迫った。下手をすると年内にも政権を投げ出すことになりかねない。そう思わないのは朝日、NHKぐらいではないか。虚偽献金問題は致命傷にならないと朝日、NHKは見ている。

だが首相の不祥事は虚偽献金問題だけでない。新聞、テレビはあまり大きく取り上げないが、オバマ大統領の訪日で、皇居で行われる歓迎の宴に鳩山首相が欠席するという。前代未聞だ。

天皇陛下に対する非礼に当たるが、他国の元首に対する非礼は国際的な常識から逸する。

いくら常識に欠ける”お坊ちゃん首相”であっても許されることではない。鳩山側近は諫めて、オバマ大統領が離日するまでシンガポールに出立する時間を変更すべきである。

政府専用機だから時間をずらすことは難しいことではない。それが出来ないようであれば、本当に鳩山政権は年内に倒れる」。

しかし、鳩山はまたまた幸夫人を連れて、13日夜のうちに飛び立ってシマッタ。シンガポールへ。東南アジア重視の姿勢を見せる為に天皇も大統領も無視した。とはいえ、東南アジア各国はシンガポールで軽蔑しただろう。「礼儀を弁えぬボンボン」。逆効果。

天皇陛下のお招きを断るとは、どういうことか分かっていない。まして、自分で招いた賓客が、まだ滞在中だと言うのに、自分がさっさと出かけてしまうとは、どれだけ失礼なことか、まるで分かっていない。

新聞報道に依れば、予算委員会での答弁も5億円以上とされる自身の巨額な資産報告漏れ問題について「恵まれた家庭に育ったものですから、自分自身の資産管理が極めてずさんだったことを申し訳なく思います。心を入れ替えて、しっかりとやりたい。しっかりと国民の皆さんの目線にあった政治を行っていきたい」と語った。

まるで悪戯坊主の言い訳みたいで、呆れるばかり。産経新聞の敏腕政治記者の阿比留 瑠比さんも呆れて、ブログに書いている。「私は当初から、鳩山首相はそう長くもたないだろうという観測を書いてきましたが、政府関係者と話していてもそういう見方が増えています」。裏付けるように内閣支持率がまた下がった。

<内閣支持率、54.4%に低下=半数「政治主導と思わず」−時事世論調査

時事通信社が6〜9日にかけて実施した11月の世論調査によると、鳩山内閣の支持率は54.4%で、発足直後の前月調査から6.2ポイント減少した。不支持は前月比7.2ポイント増の22.8%だった。

斎藤次郎元大蔵事務次官の日本郵政社長への起用など一連の「天下り人事」や、米軍普天間飛行場移設問題をめぐる閣内の混乱、鳩山由紀夫首相の献金虚偽記載問題などが影響したとみられる。調査は、全国の成人男女2000人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は66.2%だった。

支持する理由(複数回答)では、「政策が良い」18.1%、「首相を信頼」15.8%、「他に適当な人がいない」14.6%などの順。「リーダーシップがある」は5.4%と、前月からほぼ半減した。

鳩山内閣が「脱官僚」「政治主導」を実践できているか聞いたところ、46.9%が「そうは思わない」と回答、「そう思う」の28.6%を大きく上回った。

望ましい政権の形としては、「民主中心の連立」24.9%、「民主単独」18.6%、「自民中心の連立」12.0%、「自民単独」4.5%、「民主、自民の大連立」16.5%などだった>。
11月13日15時14分配信 時事通信

国民もようやく分かってきたようで、鳩山の命脈は尽きようとしている。2009・11・14

2009年11月13日

◆風雲児フルシチョフ

渡部 亮次郎

フルシチョフは1956年の第20回党大会の秘密報告でいわゆる「スターリン批判」を行い世界中に衝撃をもたらした。

国内政治の民主化の推進や軍縮を進めるとともに、軍事目的やソ連の宣伝も念頭に宇宙開発を推し進め、スプートニクやボストークの打ち上げに成功し、宇宙開発競争においてアメリカを引き離したのも、フルシチョフ在任中のことである。

一方で、集団指導体制を無視した主意主義、主観主義による重要政策の決定、農業政策の失敗によりアメリカやカナダから穀物を輸入するようになったこと、海外訪問の際に家族を同行させたこと、娘婿アレクセイ・アジュベイを特使として西ドイツに派遣したことなどが、一部から顰蹙を買った。

また、激情家で知られ、同志に対する叱責や暴言を繰り返し、党内に多くの敵を作ったとされ、これがのちに失脚につながる大きな原因となった。

フルシチョフは無神論者で、「宗教はアヘンなり」とする共産主義の思想に忠実であった。

第2次世界大戦中に士気高揚のためにごく部分的に緩和された宗教弾圧が再び厳しさを増し、1960―1962年の間に教会(特にロシア正教会の聖堂)の約3割を取り壊した。聖堂の数はその後ペレストロイカ時代に至るまで復興する事はなかった。

無学な労働者階級出身の出自からか、特に科学技術や芸術に関する政策決定ついては周囲の人間の考えを鵜呑みにしやすく、その結果フルシチョフに取り入った人間の主張がそのまま国家の政策となることがままあった。

トロフィム・ルイセンコによる反遺伝学キャンペーン(ルイセンコ論争)はスターリン批判に伴って下火となったものの、ルイセンコ一派は巻き返しを図ってフルシチョフを取り込むことに成功する。

フルシチョフは死ぬまでルイセンコの学説を信じ続け、遺伝子の存在を信じず、カピッツァ(ノーベル物理学賞受賞者)、クルチャトフ(ソ連核開発の父)、息子セルゲイ(ミサイル開発技術者)、娘ラーダ(『ナウカ・イ・ジーズニ(科学と生活)』誌の副編集長)の説得にも耳を貸さなかった。

芸術家たちとの関係も、政治的にうまく立ち回る芸術家たちに振り回され、有名なマネージ展覧会ホールの事件では、エルンスト・ネイズヴェスヌイら前衛芸術家を「西側イデオロギーに侵された逸脱者」として罵倒した上、その作品を「ロバの尻尾で描いたようだ」としてこき下ろした。

ただし、「反体制作家」の烙印を押されて当局からにらまれていた作家のソルジェニーツィン(後にノーベル文学賞受賞)を擁護したり、「ソ連水爆の父」と呼ばれたサハロフ(後にノーベル平和賞受賞)の進言を聞き入れて核軍縮を行うなど、後世評価されるような業績も残した。

フィデル・カストロとともにアメリカ合衆国やフランスなどの資本主義諸国との平和共存外交をすすめ、1959年にはアメリカをソ連の指導者として初めて公式訪問し、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領との友好的な関係を築くことで、冷戦下の世界に一時的な「雪どけ」をもたらした。

その一方で、1959年のキューバ革命後に同国の政権を握ったフィデル・カストロとの関係を深め、翌年に起きたキューバ危機ではアメリカとの戦争の瀬戸際まで進むことになる。

さらに同年に起きた「U-2撃墜事件」ではアメリカと激しく対立、翌1961年に行われたウィーン会談では、アイゼンハワー大統領の後を継いだジョン・F・ケネディ大統領と会談を行ったものの、ベルリンの処遇について対立し、その後の「ベルリンの壁」の構築につながった。

また、同じ社会主義国との関係では、ハンガリー動乱に軍事介入するなど東欧諸国の自由化要求に対しては厳しい態度で臨み、毛沢東率いる中華人民共和国とは社会主義の路線をめぐって論争となり(中ソ対立)、アルバニアとも1961年に断交し軍事衝突寸前まで行くこととなる。

として知られるフルシチョフは、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。

有名なもののひとつは、1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」との暴言を吐いたことである。

1960年10月12日の国連総会では、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、フィリピン代表ロレンソ・スムロンが「ソ連の東欧諸国への関与こそ当に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲したことに怒ったフルシチョフは、自分の靴を脱いでこれで机をバンバンと繰り返し叩いてスムロンの演説を妨害した事件がある。

日本との関係については、日ソ交渉をしたときの最高指導者である。晩年に記した回想記の中で、日本の戦後の発展を羨み、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。

フルシチョフは、日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあったと指摘している。このくだりは結局フルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって1989年になってはじめてその内容が公開された。

フルシチョフとアメリカのケネディ大統領フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いに反発が高まる。

ひそかにニコライ・イグナトフ、シェレーピン、セミチャストヌイ、ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落としを着実に準備していった。ブレジネフはフルシチョフの暗殺をもたくらんだとも言われている。

宮廷クーデターの噂はひそかに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとして、息子セルゲイや娘ラーダに接触した。セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。

1964年10月、黒海沿岸のピツンダで休暇中のフルシチョフとミコヤンは、スースロフ(一説ではブレジネフ)からの突然の電話で「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモスクワに呼び戻された。

10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。ミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、この提案は否決された。

孤立無援となったフルシチョフは、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の両方を辞任することに同意した。後任にはブレジネフとコスイギンがそれぞれ選ばれた。

ところで、フルシチョフ失脚後、親しかったミコヤンも指導部から排除された。その結果、ブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイのトロイカ体制による長い停滞の時代が始まることになる。

1978年1月、園田直外務大臣に秘書官として随行した私は、クレムリンでコスイギン首相と握手したが、その手は、かつて記者時代に握手した、当時の上海市長、張春橋(のちの4人組の1人)と同じく、軟らかく、真綿のような感触だったのは、どうしたことだろう。

あの時、園田はしきりにブレジネフへの表敬(実質的な会談)を望んだが「風邪で療養中」を理由に拒否された。同行記者団にそれを伝えに行ったのは私だった。朝刊の締め切り寸前に伝えてベタ記事に小さくした。ちょっと遅ければ夕刊トップ。「園田初外遊は失敗」となるところだった。

引退後のフルシチョフは、公式には1966年まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、恩給と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有ダーチャ(別荘)に住まわされた。

移動の制限は受けなかったが、ダーチャのいたるところに盗聴器が仕掛けられており、生活は当局の監視下にあり、事実上軟禁状態にあった。

年金生活中、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子のセルゲイ・フルシチョフらがテープをタイプライターで書き起こした。

キリレンコらソ連指導部はフルシチョフを呼び出して回想録の執筆の中止を要求するが、フルシチョフはこの要求を拒絶した。

党中央委員会に呼びつけられ、回想録の執筆中止を求められたフルシチョフは、その命令に従うどころか逆に激怒して、ブレジネフ指導部の政治をこき下ろした。

さらに、ダーチャのいたるところに盗聴器が仕掛けられていることを憲法違反だと指摘した上で「バスルームにまで盗聴器を仕掛けるとはな!君らは国民の税金を使ってワシが屁をするのを盗み聞きしておるんだぞ!」と怒鳴りつけた。

フルシチョフは回想録の中でこう語っている。「今や世界は2つの陣営(西側諸国、東側諸国)に分断され、互いが相手を絶滅させるための手段の開発にエネルギーを消費している。しかし、戦争は避けることができる。核の時代においては、平和共存こそが唯一の合理的選択なのだ」

息子のセルゲイ・フルシチョフや娘婿のアレクセイ・アジュベイは、当局から様々な嫌がらせを受けることになった。セルゲイはミサイルの専門家であったが、転職を余儀なくされた。

1970年7月には、フルシチョフの入院中に国家保安委員会 (KGB) が息子セルゲイを騙して回想原稿とテープを押収することに成功するが、原稿のコピーはすでにアメリカのタイム社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに報復した。

なお、セルゲイが西側に原稿を送るのを仲介したのは実はKGB自身であり、その代償としてフルシチョフ自身が回想録の内容の一部削除に応じたという噂がある。

この噂が真実かと問われたセルゲイは「その質問の重要性は理解するが、いかんともしがたい事情から、それに答えることはできない」と述べている。

回想録が西側で出版されると、激怒したソ連指導部はフルシチョフに新聞プラウダ紙上で「回想録はニセモノである」との声明を発表させた。

回想録を出版したアメリカのタイム社は、軟禁状態にあったフルシチョフと接触するのに、仲介者を通さなければならなかった。回想録がフルシチョフ本人が書いたものであることの確かな証拠が欲しいタイム社は、真っ赤な帽子を仲介者に預け、フルシチョフ本人がその帽子をかぶっている写真を撮影して送るようにと依頼した。

帽子を届けられたフルシチョフは、その帽子が贈られた意図を知ると発案者のウイットに敬服し、事情を知らない家族が反対する中、進んでその派手な帽子をかぶって写真撮影にのぞみ、家族の反対を煽ってむしろ面白がっていたという。

実際のところ、回想録がニセモノでないかどうか、すなわち仲介相手からニセモノを掴まされていないかをタイム社は非常に気を揉んだ。

そこで同社はフルシチョフの回想を録音したテープの声紋分析を徹底して行っており、少しでもテープが途切れた部分はその都度、鑑定しなおす必要があったことから、声紋分析の数は数千にも及んだ。

フルシチョフは7年間の年金生活の後に、1971年9月11日にモスクワの病院で死去した。だが、歴代の要人が埋葬されている赤の広場脇には埋葬されず、モスクワにあるノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。

当局との数年にわたる戦いの末に、家族らは墓地に記念碑を建てることを許されたが、その設計を請け負ったのはフルシチョフがマネージ展覧会ホールで罵倒した彫刻家エルンスト・ネイズヴェスヌイだった。

記念碑の黒と白のデザインは様々な憶測を呼んだが、ネイズヴェスヌイはセルゲイ・フルシチョフに「白と黒の組み合わせは、統一と、死に抗する生の戦いとを象徴する」と述べている。

ネイズヴェスヌイはこの記念碑の仕事を引き受けたことが主として災いし、ブレジネフ政権下で様々な迫害をうけることとなり、1976年にスイスへの亡命を余儀なくされた。

1984年に死去した妻ニーナ・ペトロブナも、ノヴォデヴィチ修道院のフルシチョフの脇に眠っている。私たちはその墓参はしなかった。
2009・10・16 出典:「ウィキペディア」


2009年11月09日

◆鳩山を見限った小澤

渡部亮次郎

<2009年11月2日の記者会見で小沢氏は「僕は政策論はやらない。私は党務の方ですから、そういう類のことを発言する立場ではない」と語った。鳩山内閣が失政を行っても、小沢氏が直接責任を問われることはない。

キングメーカーにとってこれらは好都合だ。鳩山首相が失脚したとしても、安全圏にいる小沢氏がポスト鳩山を指名することになる。政権の表の顔は変わっても小沢一頭体制は続いていく。

国会論議の活性化を唱える小沢氏が、政権党の幹事長でありながら衆院本会議で首相の所信表明演説への代表質問を見送っても許されることにもなる。

9月16日に鳩山内閣が発足してから、民主党の国会議員が報道陣の前で公然と、小沢氏を名指しで批判した例は寡聞にして知らない。

政権交代の熱気が冷めやらず、また内閣支持率が高水準を保っているからでもあろうが、最高実力者への批判皆無の政党が「民主党」を名乗っているのは奇妙な感じもする。>産経新聞政治部 榊原智(さかきばら・さとし)記者2009/11/07 10:12更新「SANKEI EXPRESS」

『政府は鳩山、党は小澤』と、いわば棲み分けを取り決めた両者である。だからと言って、党の役員会に党首を呼ばない政党と言う事実は異常としか言えない。

「向こうは政府の代表。政府の代表をこんな場に呼び出すわけにはいかない」というのが、考え抜いた小澤の屁理屈である。一見、正当そうに聞えるかもしれないが間違っている。なぜなら、では党代表は党役員では無いことになってしまう。

要は、党操縦に関して独裁体制を完成させた小澤が、もはや鳩山を見捨てたのではないか。政府に対して口出しもしない代わり、協力もしない、ということだからである。

それでいながら、各界から政府に対する陳情野一切を、政府ではなく、幹事長室が受付、そこから政府に取り次ぐのだという。理屈は、陳情を通じて自民党のような「族議員」の育つ事を阻止するというのだが、これは国民と政府とのパイプを絶つことにも繋がる。

さらに言えば、これは幹事長が総理大臣の上にたつことになり、いわば下克上を地で行くもので、誠に恐ろしい独裁政治の到来を意味する。ヒットラーも真っ青だ。

鳩山がもっとも苦労している来年度の予算編成と基地問題を中心とする日米関係について、小澤の発言が一切、無い。それは『政策』であって党務では無いからだし、幹事長の責任で無いといえば、無いからだ。

僕は政策論はやらない。私は党務の方ですから、そういう類のことを発言する立場ではない、と言っているのは、財源問題で予算編成が悪評さくさくになろうが、オバマ大統領の訪日で、対応に失敗しようが小澤は関知せずと宣言したものである。私は小澤は、既に
鳩山を見限ったと見る。

一時、小澤は鳩山政権について「年内は保(も)たせたい」と気遣った発言が伝わってきたが、「最策に関与しない」と述べた2日の発言は、「どうなっても知らない」との宣言に違いない。

「友愛」を標榜する鳩山は、自分が友愛を感じれば、小澤も感じるはずだと能天気に考え、今夜も幸(みゆき)夫人と幸福に浸っているだろうが、真実を知らないのは、むしろ幸(さいわい)かもしれない。

だが、小澤に友愛はない。政治的理想も無い。有るのは、自分をかつて追い出した旧竹下派を無き者にするべく、自民党を潰すという怨念と野心だけである。己の指名する首相が菅であろうがだれであろうが関心は無いのだ。

案外、参院でも単独過半数を獲得した暁には「わがこと成れり」と政界を引退するかもしれない。彼に論理や正義は無いからだ。
(文中敬称略)2009・11・8

2009年11月07日

◆ブーメラン総辞職

渡部亮次郎

段論法で行けば、鳩山首相は、自分の述べた文句に縛られて、自分の首を絞めなければ、理屈が合わなくなってしまった。場合に依っては辞任が避けられないと、各社の社会部が潜行取材しているようだ。

2009年11月4日に開かれた衆院予算委員会で鳩山首相の献金問題が取り上げられた。テレビを見ていた家人によれば、追及したのは、自民党若手の柴山昌彦議員だった。北関東ブロック比例代表選出ながら、東大卒で弁護士資格をもつ柴山氏は、いいところに目をつけた。

03年7月に鳩山首相が配信したメールマガジンを探し出し、その一節を引用して責めたてた。

「総理は平成15年7月23日のメールマガジンで『秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきなのです』と述べておられます。あなたはどう責任をとられるのですか?」

このメルマガが配信されたのは、社民党の辻元清美議員らが秘書給与流用事件で逮捕された直後。逮捕者の中には土井たか子党首の元秘書も含まれていた。

そのことについて、鳩山首相は「政治家と秘書は同罪」としながら、次のように書いているのだ。

「政治家は金銭に絡む疑惑事件が発生すると、しばしば『あれは秘書のやったこと』と嘯(うそぶ)いて、自らの責任を逃れようとしますが、とんでもないことです。

政治家は基本的に金銭に関わる部分は秘書に任せており(そうでない政治家もいるようですが)、秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきな
のです」

こう厳しい言葉を投げつけたうえで、「土井党首は身を退かれるべきではないでしょうか」と辞任を促している。この言葉が6年後、ブーメランのように鳩山首相のもとに戻ってくることになったのだ。動かぬ証拠とはこのことだ。

鳩山首相は東京大学工学部応用物理・計数工学科を卒業。その後スタンフォード大学の博士課程でオペレーションズ・リサーチを専攻しPh.D.を取得(1970〜1976年)。東京工業大学助手(1976-1981年)を経て、専修大学経営学部助教授(1981-1986年)。論理には強い。それが裏面に出た。

「秘書が犯したことだから議員は関係ないんだというような弁明をすることは潔く思っていなかった。それは言うまでもありません。このことは私自身に適用できる話だと思っています」

と答えざるを得なくなった。とはいえ、そこは政治家、具体的な事実関係についての質問には、捜査中であることを理由に明言を避けた。秘書の刑事責任が確定した場合の責任の取り方についても「仮定の話に答えるのは控えさせていただきたい」とかわした。

<鳩山首相のイメージダウンを狙い「自分の資金も管理できない金持ちのボンボンが政治をしていることを印象づける」作戦はまんまとあたったのである>。

だから、このような鳩山首相の態度に対して、マスコミの論調は総じて厳しい。

明らかに鳩山政権に肩入れしてきた朝日新聞さえ11月5日付社説で、「資金はどこから提供されたのか。首相本人はどのようにかかわっていたのか。答弁を聞いても、疑惑は晴れない」と断じ、「首相には疑惑に答える責任がある」と迫った。

日経新聞の社説も「首相は『捜査で全容が解明される』と繰り返しているが、説明責任から逃げていては疑惑は深まるばかりだ」と非難している。

産経新聞も坂井広志記者の署名入りで、「肝腎の具体的な事実関係については東京地検特捜部が捜査中であることを理由に説明を避け続け、真相解明にはほど遠いやりとりとなった」と批判的な記事を掲載した。

野党やマスコミの責任追及に鳩山首相は耐えられるのか。テレビ朝日コメンテイターの三反園訓さんは5日放送の情報番組「スーパーモーニング」のなかで、「秘書が逮捕されるかどうかがカギ」との見方を示した。

「このあと秘書が仮に逮捕されるようなことがあったら、鳩山さんのこれまでの政治活動を見てきましたけど、たぶん責任を取られるんじゃないかなと、私は思っているんですけどね」とも述べた。

こうしたことから、鳩山首相の資金管理担当の元秘書が逮捕さたり多額の資金を援助していたとされる母親に対する東京地検の事情聴取が行われれば、辞任が避けられないと気の早いマスコミ各社の社会部が潜行取材している、というわけだ。

就任して、まだ50日あまり。「まさか」とは思うが、マスコミ界の長老は<1993年に自民党政権を倒して連立政権のトップの座についた「殿」こと細川護煕首相は佐川急便からの献金問題が引き金となって、退陣に追い込まれた。細川氏と同じく名家の出で「お坊ちゃん宰相」とも揶揄される鳩山首相も、「献金」にまつわる問題で同じような末路をたどるのだろうか>と案じている。

ブーメラン総辞職となるになるかどうか、断定はできないが、当に「天に唾した」罪といえるだろう。

肝腎、ねて「せめて年内は保(も)たせたい、ともらしているとされる小澤一郎幹事長の、これに対する論評は聞えてこない。しかし、検察からすれば、カネへのまみれ方は小澤氏のほうが汚いのだから、おののいて沈黙するしかあるまい。2009・11・6

2009年11月03日

◆両刀遣いの記者はいない

渡部亮次郎

産経新聞のワシントン、北京、ソウルの責任ある記者はいずれも
他社から引き抜いてきた一騎とうせんの大記者である。定年を既に過ぎながら、そのまま頑張っている。

英語、北京語、韓国語に堪能なだけでなく、駐在期間が長いだけ、各界への人脈が豊富。他社の追随を許さない。

特に政治分野の取材。日本とは違って、役人のテーブルに勝手に近付くことは不可能。政治家へのインタービューなど容易なことではない。

役人は誘い出しても、夜の会食には殆ど応じない。よほど仲良くなったら、昼食を共にしながら情報提供に応ずる事はありうるが、そういう役人を複数作った頃には本社から帰任命令がくるから、元の木阿弥だ。

本社が、何ゆえに、馬鹿なことをするかというと、海外に出たいという希望者が待ちきれないからである。

外信、外報記者予備軍は、人事部が毎年、採用し、一般的な取材や執筆などの訓練を施すために地方支局や放送局に配属する。数年経ったところで東京本社に帰し、まず外務省を担当させる。

1年か、2年で、海外支局に派遣する。そうしない事には一人前の海外取材記者に育たないからである。逆に前任者は、現地で折角創り上げた人脈をごっそり捨てて、本社に帰任する。

本社で何をするか。デスクに坐って「翻訳」をするしかない。そんなつまらない事をしながら、再度、外国に出るのを待つだのである。
痺れが切れた頃、再度既任地へ。

日本の外信、外報記者の不合理ともいえる、配置換えにはこうした裏事情があるのだ。

「外国語が達者」だから入社したとはいえ、次に外国へ出るまでは
政治、経済、事件記者でもやったほうが良さそうなものだが、遣らせないし、やろうともしない。

意地悪い観察をすると、外国語の達者な記者ほど、取材力もそれほどかというと、残念ながら、そうでもない人が多い。勿論、両方とも優れた人はいて、産経新聞にスカウトされた人がそうだったのだろう。

日本外務省でいわれていたことは、外国語に極めて優れた能力を持っている奴は事務次官にはなれないということだった。現在ではどうか知らないが、要するに語学は暗記能力。事務次官は判断能力。
左脳と右脳のことを言うのだとか。

複数の外国語を操るキザな元キャスター。外報部長をさせたところ、
部下をえこひいきばかり。人事管理能力の無さは「脳足りん」といわれたが、有ろうことか局長になって周りをびっくりさせたもの。

会長の死後、遺品を整理したら「私に管理能力はあります。どうか局長にして下さい」という自薦の手紙が何通も出てきて謎が解けた。
鬼といわれた会長もゴマスリに弱かった。彼は中途で外に飛び出し、
巷に埋没した。

余談だが、中国のような建前が共産主義体制の国での取材となれば、行きたいところにも行けない。制限ばかりで自由が全く無い。加えて仮に当局の機嫌を損ねれば、国外追放となり、二度と中国に入国する事は永遠に不可能になる。メシの食い上げだ。

若い頃、命を削るようにして覚えた言葉が、無用の長物にはてて仕舞う。わが国の中国駐在記者たちが、どんなに日本の読者に批判されても、「面白い」記事を送ってこれるわけがないのである。
2009・11・02

2009年11月01日

◆用便と歩行飲食は同じ

渡部亮次郎

知らぬ者同士が食事を共にして仲良しになる。とはいっても宮中晩餐で賓客たちが料理を食べ始める場面は絶対、テレビ中継されない。とすると、食事はプライバシーなのだ。同様に排泄も恥だから他人には見せない。

だが、いまどきの若い人たちは歩行中や電車で、衆人環視のもとでの飲食が平気。しかし、飲食がプライバシーだとすると、電車の中での飲食は性器を見せていることに等しいことにならないか。

外交で、会食は不可欠だ。複雑な交渉ごとを抱えていても、夕食を共にすることは、欠かせない定番である。同じ物を食し、口の中を見せ合うから、いわばプライバシーを見せ合うから、仲良しになるのである。

先に、オバマ大統領訪日の先遣隊として来日したゲーツ国防長官が、防衛省首脳との会食や、自衛隊栄誉礼の申し出を悉く辞退したということは、日本民主党に対するアメリカ民主党の拒否反応だった。

「君たちと妥協することは元よりないぞ」と言うサインでもあったといえる。それなのに、外交に慣れていない鳩山政権は、その意味を感じ取れず、アメリカ側をいらいらさせている。初の来日をするオバマ大統領との日米首脳会談は失敗が予測できる。

そのため岡田外務大臣は、あわてて再訪米を打診したが、アメリカ側に足元を見られており、結局無視されるだろう。

重ねて言うが、対外交渉の過程で、会食が重要だということは、口を開けて食をするという行為は、一種のプライバシーの公開だからだ。

トウ小平に直接教わったことだが、中国の招宴で、主人の箸の長いのは、主人の食べる物と客人の食する物が同じであることを証明する為だという。

主人は料理を両隣の賓客に取り分ける。貴方と私は同じ料理を食べるのです、あなたを毒殺する意図はありません、と表明する為に、使う箸は長いのだ、と。

逆に言えば、中国の歴史は、敵を宴会に招待して毒殺するものだったのだ。

互いの国の当事者同士が食事を共にするということが外交の定番になったのは、平和の証拠だが、その意味が忘れられたぐらい平和が続いているということなのだろうか。

いずれにしろ、食事を共にするという事は、プライバシーをともにして、友好を誓い合うということだとすると、それは、排泄を相手に見せるということにも通ずると考える。

私(73歳)が育つ時、親や教師からは「歩きながら物を食べてはいけません」と教えられた。それがそうでなくなったのは1945年の敗戦の弊害である。

進駐してきた、主としてアメリカのド田舎出身の育ちの悪い兵隊どもが、歩きながら飲み食いして、日本の青少年を毒した。アメリカを「恰好いい」と思い込んでいる少年少女は、すぐ、これを真似た。

プロ野球は、ガムを噛みながらプレイすることが格好良く、当然の事だと勘違いして、最低のマナーを「定番」にしてしまった。

これを嗜めるべき大人は、敗戦の責任を感じて萎縮していたのか、縮こまってしまって、注意しなかった。それが、排泄や性交を公開するのに等しく、恥ずべき行為なのだと教えなかった。

しかし、今やそうした少年少女が、すでに親となり、老人になったのが21世紀の日本である。東京都江東区にある都立猿江恩賜公園では、老婆がパンを齧りながら散歩している体たらくである。

飲食を超して、電車で化粧する女性たち。化粧とは文字通り、化けること。それを人前で化けたのでは、種明かしをしてから手品をするようなもの。いくらやっても化けの皮がはじめから剥がれている。

こんな「馬鹿」に人々の目覚める事は、無いのだろうか。つまり、ゲーツ長官に会食を拒絶されても、その意味を理解できなかった鳩山政権は電車で化粧して恥じない、茄子や南瓜と変わることがないということだ。2009・10・31

2009年10月28日

◆アメリカを怒らせた鳩山政権

渡部亮次郎

10月20日から日本を訪れたオバマ政権のロバート・ゲーツ国防長官が日本側の防衛省首脳との会食を辞退し、自衛隊の歓迎の栄誉礼をも辞退した。

このことをワシントンでは日米関係政策コミュニティーが重大な出来事として論議の対象となっている、と産経新聞ワシントン駐在特別委員の古森義久氏は警鐘を鳴らしている。しかし、鳩山政権は少々、ボケていて、大事とは受け取っていないようで、困ったものだ。

古森氏も言うように、ことは、もうちょっと真剣な関心を向ける必要がある。『外交』に慣れていないから、意味が判らないのかもしれない。政府を担うことにおいては全くのアマチュアだから、仕様が無いといえば仕様がない。しかし、大失態である事は確かだ。

少なくともオバマ大統領初訪日の先触れだったゲーツ長官。その賓客に自衛隊の歓迎の栄誉礼を捧げ、宴席を設ける事は外交儀礼として、最低限の儀礼である。それを断られたことは、長官の意思ではなく、オバマ政権の意思と受け取るべきなのだ。

それなのに、長官がこれをいずれも拒否したという事は、握手を拒否されたも同然である。いうなれば鳩山新政権の対米姿勢に対し、オバマ政権は全く妥協的用意のないことを敢然と宣言したものである。

だから古森氏は言う。「ゲーツ長官は明らかに鳩山新政権への不満のために、あえて会食も栄誉礼歓迎式もボイコットしたのです。こんなことは日米安保関係の長い歴史でもまず例がありません。アメリカ側はそれだけ現状を重大だと認識し、不満や抗議の念を強めているのでしょう。

オバマ政権がこのように強硬に、しかも臆するところなく不満を表明するという現実は、日本の安全保障にとっても深刻です。米側の硬化は今回は夕食と歓迎式の辞退、あるいは拒否だけに留まったようですが、安全保障でのこうした負の変化は必ず経済面にまで波及します。

その論議の背後にあるのは「日米同盟は危機を迎えつつあるのか?」という疑問です」(「頂門の一針」10月2日付)

私は外交の全くの素人。30年前、外務大臣の政務秘書官を僅か3年務めただけだが、こういう失態を見聞したことはない。記者としては、全学連の抵抗に負けて岸信介首相がアイゼンハワー大統領の訪日を断って以来の失態である。これでは、アメリカが鳩山政権に全く、信用を置いて無いという事になる。

しかも新聞やテレビも未だに気付いていないということは、防衛省はもちろん、内閣全体が事態の深刻さに気付いていないということだ。

こんなことでは、オバマ大統領に対する歓迎体勢にも首脳会談にも成功の保証はできない。09・10・27

2009年10月26日

◆中国にもウォシュレット?

渡部亮次郎

中国人は用便中を他人に見られて平気だ。それに手は滅多に洗わない。日中国交回復のための田中角栄首相に同行しての初訪中(1972年9月)。

このとき万里の長城行きの取材バスに乗り遅れて、特別車を仕立てて後を追いかけたら、天安門から5分も走らぬ北京市内で、肥え桶を担ぐ人に出会って驚いた。まさか日本人記者が来るとも知らずに共産党は通行を許可したのだ。

しかし、次の場面では、それこそ仰天した。万里の頂上に登り始めるところにある公衆便所である。仕切りが何も無い。体育館みたいな広さの床に四角い穴が何十もあけられ、人々は他人に尻穴を見せながら用を足すのである。しかも手を洗う水はどこにも無い。

そういえば、街の食堂で料理人はトイレに立っても、事後に手を洗わない。おそらく、中国では水が少ないので、手洗いの習慣が無いのだろう。

そういう中国で、どれほどかは知らないが、用便後、便座にすわったままで尻を洗える「ウオシュレット」が売れているというから、やや驚きだ。改革・開放が尻にまで及んだか。驚き以外の何物でもない。

「ウォシュレット」は、TOTOが販売する、温水洗浄便座の登録商標及び商品名である。しかし、世界では日本しか普及していなかったから、大臣に随行して外国出張を重ねていた外務大臣秘書官の時代は携帯水洗器を持ち歩いたものだ。

TOTOのウオシュレットは発売が1980(昭和55)年6月。以来、2005年6月
には累計販売台数が2000万台を突破した。

2006年10月現在、中国・香港・台湾・韓国・ベトナム・シンガポール・インド・ドバイなどの中東地域・アメリカ・カナダで販売されている。

『頂門の一針』常連執筆者平井修一さんが紹介するワシントン・ポストの記事によると、インドでは人口のおよそ半分の6億6500万人がトイレに不自由しているというから、TOTOの市場は世界にまだ相当残っているわけだ。

最近のアメリカやヨーロッパの方面での実際の普及状況はわからない。古くて歴史を誇るホテルではどうだろうか。古くからビデ完備だったパリのオテル・クリヨンでもウオシュレットを取り付けたろうか。

「ウオシュレット」は温水洗浄便座では高いシェアを誇り、INAX(同社の名称はシャワートイレ)や他社製の同種類のものも含め、「ウォシュレット」と呼ばれるほど定着しているが、ウォシュレットの名称は先に述べた如くTOTOの登録商標(日本第1665963号)であるため、注意が必要だ。

TOTOは1960年代に米国からの輸入によって温水洗浄便座(ウォッシュエアシート)の販売を行っていた。主に病院向けに医療用や福祉施設用に導入されていたものである。

1969年にはこれを国産化したが、当時は販売価格も高く、なおかつ温水の温度が安定しないために火傷を負う利用者もいた。

男装で有名だった女流作家が、ビデを使ったらなんと熱湯が出てきて大火傷をした。係りが呼び出されて謝罪したが、男装なのに、あそこは男性でなかったのかと、帰り途で2人で大笑いしたという話を耳にしたことがある。

TOTOは独自に研究開発を進め、清潔好きな土壌を持つ日本での普及が見込めることなどから、1980年に2機種の設定によって発売を開始した。

特に、肛門位置などの数値データは存在していなかったので、社員などの協力を得てデータを収集し、噴出位置を設計するという工夫をこらした。

温水貯蔵式でおしり洗浄のほか、乾燥と「ウォームレット」の機能である暖房便座機能を持つ「Gシリーズ」(Gはゴージャスの意)と、水を瞬間式で温水にし、おしり洗浄と暖房便座機能に絞った「Sシリーズ」(Sはスタンダードの意)の2種類がある。

以後現在まで基本モデルはこの2種類で、これにコンパクトシリーズが1993年以降追加されるようになった。また、便器の大きさによって、レギュラー(標準)サイズとエロンゲート(大型)が用意されている。

1982年には、当時話題のタレント・戸川純を起用したCMで、コピーライター仲畑貴志による「おしりだって洗ってほしい」のキャッチコピー(第2弾コピーは「人の、おしりを洗いたい」)、その独特のCM中の歌によって一気に知名度を高めた。

CMについては、初回の放映時間がゴールデンタイムであったことより、視聴者から「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便所の宣伝とは何だ!」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されたが、それを乗り越えるだけのインパクトがあった。

以後、すべてのラインナップで着座センサーを導入した(それまでは着座していなくても温水が噴出した)。ふたの自動開閉や便器洗浄、さらには消臭、脱臭、芳香の機能の搭載にも成功した。

ウォシュレットを装備した一体形便器(商品名「ネオレスト」「Zシリーズ」など)の登場、また住宅用に限らず公共施設やオフィス、ホテル用のラインナップも整備された。

抗菌・防汚にも配慮がなされ、ノズル部分は肛門から跳ね返ってきた温水が周囲に掛からないような角度(43度、ビデは53度)に設定されており、格納時やおしり洗浄前にノズルを温水で洗浄する機能も付属している。

また、おしり洗浄とビデ洗浄では吐水する配管も変えられている。他にも、省エネルギーにも配慮して節電機能を設けたほか、操作部も一部機種では壁付けの別体リモコンの採用で使いやすくするなどの改良が加えられている。

また2005年10月には音楽のMP3再生機能が備わったウォシュレットが発売されるなど、多機能化が進んでいる。このようなトイレの多機能化は日本独特のものであり、世界的にはこのような便座はまだ普及しているとはいえない。

歌手のマドンナが2005年に来日した時、彼女は「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしている。

しかし、マドンナの発言から類推するところ、アメリカでの急速な普及は想像できない。ヨーロッパ各国でも同様ではないか。日本人は、極端と言われるほどに清潔好きなのだ。

1998年には累計販売台数1000万台を突破したが、この頃から多くの便器で装備するようになり、以後7年で倍の2000万台に達した。他社製品も含めれば、普及率は6割程度まで伸び、新規に建設されるオフィスビルでも標準的に取り付けられるようになっている。2009・10・10

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2009年10月22日

◆福島香織さん突然の退社

渡部 亮次郎

産経新聞の元中国総局記者だった福島香織さんが10月21日、ご自身のブ
ログで「11月30日付で退職する」と明らかにし、心ある人たちを驚かせ
た。http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/

<■ツイッターでさきにつぶやいてしまいましたが、実は11月30日付で
退職することになりました。家庭の事情やらなにやらが重なったところ
へ、早期退職制度の募集があったので、利用させていただきました。

きょう、人事部にいって、離職届にサインしたり、失業保険の説明をう
けたりして、えー税金ってこんなにとられるの、とか、国民健康保険っ
てどのくらいかかるんだ?とか、驚いたり不安がったり、なかなか新鮮
でありました。

■初めての失業経験です。どきどき。失業のあとはワーキングプアの道、まっしぐら??かもしれません。とりあえずは、早期退職制度なので、それなりの退職金が上乗せされますから、すぐに飢え死にすることはなさそうです。失業保険も240日出るそうです。じっくりリスタートの戦略をねることとします。

■あと1カ月あまり時間があるので、その間は記者として取材もします
し、このブログも更新します。臨時国会のゆくえも追います。それまで
よろしくお願いいたします。>

同じマスコミ中途退職者たる私もそうだったが、本当の事情は余り語り
たくなかった。福島さんにどういう展望が開けるか、気になる。いずれ
にしろ、産経新聞は惜しい人を失った。

福島香織さん。bウログに掲載している自己紹介は以下の通り。

<元中国総局記者(註:08年帰国)。現在は政治部平河クラブで幹事長番。平成13年に香港支局(すでに閉局)勤務、14年から北京駐在。20年秋、東京本社政治部。目下、防衛省のおひざ元でマンション暮らし。

趣味は美食、読書、旅行、観劇。目下、北京への帰還の望みを胸にネッ
トやメールで中国情勢をウォッチしつつ、政治家および政治部員の流儀
を観察中。好きな言葉。「逃げない、はればれと立ち向かう」(岡本太
郎)>

マスコミ界の先輩に聞くと、福島さんについて、東京では「早晩、退社
する」と言う噂がながれていたそうだが、その人も来年3月の年度替り辺りを想像していたそうで、早目の退職には「何があったのだろうか」と案じていた。

それにしても福島さんは10月1日の「新中国成立60周年の国慶節」を態々「見学」に行き、ブログに掲載しておられた。それが、何故、突然の退社なのだろうか。

■新中国成立60周年を迎える国慶節、テレビでごらんになりましたか?
私はわざわざ北京にまで見に行ってしまいましたよ。ですが、天安門広
場はもとより長安街に近づくことすらできませんでした。

外交人員公寓の中国総局の窓から長安街が見えるんじゃないかとと思っ
て、行きたいと総局長に頼んだのですが、部外者は入れてはダメだと通
達がいっていたそうで、断念。

それで友達の家にこもってCCTVの中継をみたのでした。でも、大望
路近くの友達の家の前を戦車がごろごろ通ったり、上空を戦闘機がぶん
ぶん飛ぶ、北京らしさは堪能できた!

■さて、あの大閲兵式と60周年祝賀行事をみて、どう思われましたか?
 なーんだ、この程度の兵器、米軍の水準とくらべれば1世代半は遅れ
ているな、と軍事好きの友人は言ってました。私は兵器音痴なので、空
を飛んでる戦闘機がどの程度のものかぜんぜんわかりません。

■それより、恐ろしいと感じたのは、軍事パレードのあとの学生
と市民ボランティアによる一糸乱れぬマスゲームと祝賀パレードです。
18万人が参加したそうですが、夜中の3時にすでに建国門内に入ってス
タンバイしていました。

■で、夜が明けて、午前10時から午後1時ごろまで立ちづめ、踊りづめ
ですよ。食事もパン1個、牛乳1本しか与えられなくて(トイレに行き
たくなると困るから)、紙おむつしているとかいう話が地元紙に載って
いたました。

日本人の友人に報告すると「それって人権問題じゃない!」とかいいま
すが、ボランティアですから、本人たちが志願して楽しんでやっている
のですから、しかたありません。

■10年前の50周年の祝賀行事を知る日本人の友人は、「こういう中国の
マンパワーを全面に出す演出はなかった。少なくとも50周年のときは、
マスゲームは北朝鮮に比べるとまだまだなと思った」といいました。

私は正直、核弾頭を3つ登載できるICBM東風31A型よりも、8万人
が1人もミスしない人文字の方が日本にとって脅威だと感じました。背
丈も腰の高さもそろえて、表情さえみな同じにできる。

党のためならトイレもがまんできる、ああいう人たちが、束になってか
かってきたら、日本はたちうちできませんて。

こんな風に中国の人の多さを見せつけられると、日本がいくら最低賃金
を引き上げても、技術をもっていても、安価な労働力でもって安価な商
品を大量につくって日本に輸出してくれれば、日本は永遠にデフレから
脱却できないような気がしてきますね。

■私は個人的には、あの2000万人も餓死者を出した大躍進や文化大革命
を乗り越えて、いまだ地方・辺境に民族問題の火だねや農民暴動の危機
をかかえていながら、北京や主要都市では、ここまでのすばらしいパン
とサーカスを市民に与えられる中国に対して、と本当に立派になったね
ぇ〜と心から祝福したいと思います。

街に戦車が走っていても、もう人民に向かってくることはありません
(と思います)。とりあえずは今のところ、漢族に向かって来ないと思
えるとは本当にすばらしい国になったものですね!(棒読み)

■印象的だったのは、大閲兵式の胡錦濤国家主席のグレーの中山服(人
民服)。こういうときは、軍事委主席用の緑の軍服もどきを着るのが慣
例だったはずですが、あえて、軍人とは違うのだよ、ということを控え
めにアピールしてましたね。

相変わらず軍事委の制服組とは折り合いが悪いんでしょうか。パレード
で軍の存在感を誇示する一方で、軍事パレードをしのぐマスゲームや山
車パレードを演出する。軍の機嫌をうかがいつつ、民衆に媚びを売る、
微妙な胡錦濤政権の姿勢がかいま見えるような気がしますね。

■日中友好協会からは、老朋友として村山富市元首相、加藤紘一会長ら
4人が招待されたそうです。村山さんは天安門楼上にいたのがテレビで
しっかり映っていました。

あの狭い天安門楼上にあげてもらえる国賓は相当絞られているので、村
山元首相がいかに中国政府から大事にされているかがわかります。あと、朱鎔基・前首相がサングラスかけてちらりと映っていて、「おお、朱鎔基がテレビで映るのひさしぶり〜」と、なぜかみんな感動していました。

■建国門内は、一般市民や一般観光客は完全に閉め出されていました。
私は建国路沿いのホテルにいたので、朝4時くらいに道路沿いに出て、
「大閲兵式に参加する戦車はぜったいここを通るから」と河北省からわ
ざわざ北京にきたお上りさん観光客のおばさんたちに言われて、一緒に
ずっと待っていました。

ですが、結局、戦車は通らず。ホテルの人に聞くと「夜中の3時ごろに
もう建国門内に入っていたよ」と。恥ずかしながらその時刻は爆睡中で
戦車が通ったのに気付きませんでした。

■街中に140万人ぐらいボランティアの治安要員が動員されていたんで
が、そのボランティア治安要員が、偉そうで、何があるわけでもないの
に、早く帰れ帰れと追い立てます。

結局、戦車はあきらめて友人宅の家にいって一緒にテレビ中継をみたわ
けです。でも、そのおかげで閲兵式が終わって基地に帰る装甲車とか戦
車もどきを、結構間近でみることができました。結構スピードでるんで
すね。

■ちなみにこの日はすばらしい晴天。人工消雨のためのヨウ化銀ミサイ
ルをばんばん打ったそうです。おかげで2日も中秋の名月の3日も、北
京はすばらしいお天気でした。

3日は友達と上海ガニを食べ、故宮にお月見というフルコースを堪能。
天安門広場は、国慶節祝賀パレードに登場した山車が展示され、特別設
置された大画面で何度も大閲兵式の様子を放映していました。

このころになると「戒厳令」もどきの交通規制も、外出禁止令(?)も
ほぼ解かれ、市民や観光客の表情も本当にリラックスして、名月を楽し
んでました。身動きとれないほどの人出でしたが。

■でも、久しぶりに中国の自信を肌で感じることもできました。月明か
りに照らされた穏やかな市民の笑顔をみると、この豪華絢爛勇壮なパレ
ードが演出する中国の平和と発展が、ヨウ化銀ミサイルの作り出したひ
とときの晴れ間と同じ種類のものでないことを、お月様に祈りたい気分
になりました。

2009年10月20日

◆「和紙と源氏物語」への反響

毛馬一三
本欄に掲載した「和紙と源氏物語」を、筆者の母校・関西福中福高同窓会のホームページに再掲したところ、同会の小山富夫会長から下記のような感想を貰った。

<「源氏物語」と「越前和紙」の関係を、興味深く拝見させて頂きました。昨年は「源氏物語」1000年紀でいろんな行事に参加させて頂きましたが、「越前和紙」との関係の話は全く知りませんでした。

これは大兄の新説に値するものですね!

当方も「丹波の和紙」で紙を漉いた経験があります。漉いているうちにだんだんと埋め込まれた模様が現れてくるのは期待感を持って少しづつ楽しんでゆくと言うもので、金平糖作りや、線香花火を連想させます。

昔の日本人の持っている繊細な感性なのでしょうか。また、資源を使わなくても十分楽しむ事が出来る生活の知恵なのでしょうか>。

◆さて、ここから拙稿です。

同窓会のホームページに掲載した拙稿の筋書きは、「世界初の長編小説・源氏物語」を書くようになった紫式部の修練には、「越前国司」に赴任した父とともに「越前」に行ったことが、大きな要因になっていると記したものだった。

当時としては宝に等しい「越前和紙」と、そこで出会ったことが、式部が「和紙」に気楽に筆を走らせながら筆力を高め、宮中入りしてのち「源氏物語」を書く際の自信にむすびついたのではないかと思われる。

そこで、その拙稿に説明を付けて再び送信したので、あらためて下記に付け加えたい。

<さて、父為時の薫陶よろしく秀逸な文学娘の紫式部であったとはいえ、「越前の古紙の里」に父の赴任に同道していなかったら、「世界最古の長編小説・源氏物語」へのモチベーションは、準備出来なかったかもしれません。

もちろん式部の父が中級貴族ながら、藤原道長をたぶらかし、憧れの「越前国司」になったのは、自らの財産を築きたかった強欲にほかありません。でも宮中に送り込みたい文才豊かな娘に、有り余る「古紙」を与えて才能を磨かせる悲願も当然あったと思われます。

平安時代、「古紙」は宮廷の貴族にもなかなか手に入らない貴重な品で、それを自在に使いこなせた式部が、のちに宮中に上がって「源氏物語」を書き始め、同時に清少納言と覇を争ったほどの実力を身につけた原点は、父が巡り合わせたこの「古紙」だったことに間違いありません。

こうした父の豪腕ぶりと娘への偏愛ぶりの裏舞台が表に出ないのは、「源氏物語」を歴史に残る「純文学」にしておきたい文学者の偏った想いからです。しかも式部は、離婚後、道長の推挙で宮廷女官となり、「源氏物語」に着手することになるのです。

「源氏物語」が純文学であることは不動の見方ですが、実はそうではなく、疎ましい宮中政治を暴いた「政治小説」と指摘する学者もいます。私も後者に納得します。

高麗(918〜1392)が、日本との貿易を盛んにした訳は、日本との外交を円滑にし、倭寇の侵攻や政治的外圧を避けたかったためといわれています。ですから地理的に両国間の近距離である越前が母港となり、その越前国司が金銀で篭絡されたという構図なのです。

「古紙」だけの利益だけではなく、「高麗」の貢物の目をつけ式部の父は、豪腕な政治家であり、経済人でもあったのです。ですからその娘の式部は、素晴らしい父をもったことになります。

文学の素養を身に付けさせ、一生「和紙」に不自由することなく、しかも道長を通じて「宮中」に上がらせてもらい「源氏物語」を書けたのも、まさに父のお陰と言えます。

余談ながら、この話題より以前の「万葉集」にも秘話があります。歌の幾種かには、新羅から攻められることを心配する百済宛の天皇の「暗号メッセージ」であることが、韓国語で解読すると明らかになるそうです。古代文学は、歴史の裏舞台が沢山秘められています。時間があれば、何か書いてみたいですね>。(了)

2009年10月19日

◆日ソ(露)国交回復の日

渡部 亮次郎

10月19日は日ソ(露)国交回復の日である。今から53年前の1956年10月19日に日本の鳩山一郎首相とソビエト連邦がモスクワで共同宣言に署名して国交が回復した。鳩山首相は脳溢血の病み上がりの身を押して訪ソしたのだ。

正式には日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(昭和31年12月12日・条約第20号)と言う。国会承認を経て、同年12月12日に発効した。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。

鳩山に農林大臣として随行した河野一郎が裏ですべてを取り仕切った。そのことを自慢した事はなかったが、フルシチョフ第一書記と遣りあったことを何度も語ってくれた。

1956年10月18日の交渉中、河野は、フルシチョフの振り回す大きく先端が鋭いペーパーナイフを見て、刺されたらたまらないと、思った。

いたずら心もあって、レーニンの写真入りのそのペーパーナイフを取ってしまおうと、フルシチョフにペーパーナイフをくれるよう頼んだ。フルシチョフは気前良くくれた。

河野は会談後、鳩山に、「フルシチョフがそれを振り回すからヤバクて仕方が無いから分捕った。北方領土の代わりに総理に進呈しましょう。」と鳩山にプレゼントした。『鳩山一郎・薫日記』にはそれを「ペーパーナイフをくれた由」と記している。

河野がさらに、翌日の会談で、昨日のは鳩山にあげたから自分用のが欲しいと頼むと、フルシチョフは戸棚の大量の中から1本、河野にくれた。それには河野も参ってしまったという。

また、交渉の途中で、河野が難題を吹きかけたところ、フルシチョフは河野が下戸であることを知ってか知らずか、このウオッカを飲み干したら受け入れると言ったので、一気に呷った。

全く飲めないのに、選りによって、あんなきついアルコールを呑んでしまったから、堪らない。部屋に帰って何度も戻したり、水風呂にも入ったが、仲々醒めず「あんなに往生したことはない」と、それでも懐かしそうに回想していたものだ。

第2次世界大戦末期の1945年8月8日、ソ連はヤルタ協定に基づき、日本に日ソ中立条約の破棄を通知すると共に国交を断絶、宣戦を布告した。

9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満洲国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。

一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。

また、ソ連は連合国の一員として日本統治への関与を求め、最高司令官への諮問機関として設置された対日理事会に参加したが、アメリカ合衆国将軍でもある最高司令官のダグラス・マッカーサーは対日理事会をほぼ無視し、日本政府も圧倒的なアメリカの支配力に服属したため、日ソ両国の外交ルートはほぼ完全に途絶えていた。

その後、1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。

政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こった。

親米路線の吉田茂首相は単独講和路線に踏み切った。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した。

この事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮動乱で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。

また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。

1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。

そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。

ただし、ソ連も日本との外交関係回復は、同じ敗戦国の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)同様、戦後処理の政治的・経済的課題として存在しており、1953年のヨシフ・スターリン死去と朝鮮戦争の休戦は西側諸国との関係改善をより積極的に進める要素となった。

日本でも親米主義に傾倒する吉田茂首相が1954年に退陣し、保守派ながらアメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代した事で、外交交渉開始への環境が徐々に整っていった。

また、日本の国際社会復帰を完成させる国際連合加盟には、日本の加盟案に対して安全保障理事会で拒否権を発動するソ連との関係正常化が不可欠であった。

1955年6月、ロンドンの在英ソ連大使館で国交正常化交渉が開始された。日本側の松本俊一全権大使とソ連側のマリク駐英大使による交渉は北方領土問題で難航した。

保守合同による自由民主党の発足と対ソ強硬派の活動という日本側の国内事情もあって、交渉は一時中断した。12月には、ソ連は日本を含んだ国際連合への18ヵ国一括加盟案に拒否権を発動した。

しかし、対ソ国交回復と国際連合加盟を自らの政権の中心課題とする鳩山首相の熱意は強く、河野一郎農相のモスクワ訪問などで交渉再開への道筋が付けられた。また、日ソ漁業交渉の決着は国交正常化への地ならしともなった。

1956年10月12日、鳩山首相は河野農相らの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記らとの首脳会談を続けた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。

10月19日、モスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、12月12日に発効した。

宣言の内容

日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する(サンフランシスコ条約で為し得なかった講和の成立)。

日ソ両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。 ソ連は日本の国際連合加盟を支持する。

ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。

ソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。

日ソ両国は通商関係の交渉を開始する(同日に通商航海条約を締結)。

日ソ両国は漁業分野での協力を行う。

日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本
へ歯舞群島と色丹島を引き渡す。

共同宣言の締結により、日本の国際連合加盟への障害がなくなった。1956年12月18日の国際連合総会で、ソ連は他の東欧諸国ともに日本の加盟に賛成し、全会一致による日本の加盟が実現した。

この国際連合加盟により鳩山内閣は総辞職し、石橋湛山内閣に引き継がれた。

しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。

逆に1960年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソ連が反発し、歯舞群島と色丹島の返還(ソ連側は「両国間の友好関係に基づいた、本来ソ連領である同地域の引き渡し」と主張)を撤回したため、両国の政治的関係は再び冷却した。

1973年に日本の田中角栄首相がモスクワを訪問するまで、両国の首脳会談は17年間も開かれなかった。

一方、ソ連にとっては1955年の対西ドイツ国交樹立に続く敗戦国との外交関係回復であり、戦後処理は一応完結した。フルシチョフにとっては西側諸国との平和共存政策(「雪どけ」)の成果の一つとなった。

ただし、日本が西側諸国の一員になる事は阻止できず、領土問題は日本国民の対ソ感情を悪いままにとどめる結果を招いた。

外交関係の回復により、両国の経済交流が復活した。日本はシベリアの豊富な森林資源(北洋材)に注目し、シベリア鉄道を経由したヨーロッパ諸国への連絡ルートも旅客・貨物両面で利用される事になった。

一方、ソ連は日本を北東アジアでの経済的パートナーとしてみなし、国際見本市などの開催や投資の受け入れ、軍港として外国人の立ち入りを禁止したウラジオストクに代わる対日貿易港ナホトカの整備などをおこなった。

太平洋の北西部やオホーツク海における北洋漁業は、この共同宣言により政治的保証がなされ、安定的な操業に大きく役立ったが、これ以後も北方領土付近の海域を中心に拿捕事件が多数発生し、長年にわたって両国関係を悪化させる要因ともなった。

1978年1月、私は秘書官として外務大臣園田直に随行、モスクワを訪問した。日ソ外相定期協議のためだったが、グロムイコ外相は日ソ平和条約のソビエト案を当方に手渡した。

しかし、日本は北方領土問題の解決なくして平和条約交渉はあり得ないと主張。解決は1センチも進まないまま今日に至っている。2009・10・16

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年10月16日

◆日本のジャガイモは82品種

         
渡部 亮次郎

夏は新ジャガが出回るからジャガイモの季節とも言える。だが、私は北海道産の「キタアカリ」が好物なので、毎年のジャガイモ・シーズンは10月末と決めていた。

だが、東京のデパートでは7月から「キタアカリ」を売っている事を今年、発見した。茨城県産だった。味もまあまあだったが、真狩村のには敵わない。

もともと私が育ったところは旧八郎潟沿岸。田畑の地下水位が以上に高い。30センチも掘れば水が上がってくるような「湿地」だ。

だから、いくら「男爵」を作付けしてもホクホクしたものを収穫することはできなかった。

敗戦直後の中学校では英語を教えたらしいが、わが秋田県では英語を教えられる教師は皆無。そのかわり「農業」を教えた。だから畑作の大体のことは体験した。そんなわけでここには「食べ物」の話題がしばしば登場するわけである。

ところでジャガイモ。日本では、82品種が品種登録されている。これはジャガイモが連作障害と病害虫に極めて弱いため、その対策として、様々な品種改良が施された結果である。

いまのところ、男爵薯、メークインなどの品種が広く栽培されているが、北海道が最大の生産地で、夏の終わりから秋にかけて収穫される。九州では冬に植え付けて春に出荷する。

日本では単に「芋」というとたいていの人がジャガイモ、サツマイモ、サトイモのいずれかを思い浮かべるほどポピュラーな食材であるため、呼び名も様々ある。

「ジャガイモ」という呼び名]は、16世紀末、オランダ人によって日本にもたらされた当時のジャカルタが「ジャガタラ」と呼ばれていたため、「ジャガタライモ」と呼ばれたことに起因する。これが変化して現在のジャガイモという呼び名になった。

その他の説としてはジャワ島の芋の意味のジャワイモが変化した、天保の大飢饉で、ジャガイモのおかげで餓死を免れた事から呼称された「御助芋」が転じたものなど諸説がある。

「馬鈴薯」(ばれいしょ)という呼び名もよく用いられる。これは中国での呼び名のひとつと漢字が同じで、中国語で読むとマーリンシューとなる。

18世紀に日本人の小野蘭山が命名したといわれているが、明らかではない。一説には、ジャガイモの形が馬につける鈴に似ているという事からこの名前になったという。また、「マレーの芋」という意味からこの名前が付けられたという説もある。

地方名として、「きんかいも」とも呼ばれる(「きんか」とは金柑転じて禿げのこと)。また、1年に2〜3回収穫できることから「にどいも(二度芋)」「さんどいも(三度芋)」とも呼ばれる。「南京イモ」「ごしょいもと呼ばれる事もある。私の生まれ在所(秋田)ではゴドイモとかアンプラと呼んでいた。

痩せた土壌でも栽培しやすく、ビタミンやデンプンが豊富に含まれている上に、茹でる等の簡単な調理で食べられ、加熱してもビタミンが壊れにくいジャガイモ。

江戸時代に幾度となく発生した飢饉の際に、サツマイモと同じく主食である米等の穀物の代用品として食べられ、ジャガイモによって飢餓から救われたという記録が残っている。

このために「お助けイモ」と呼ばれた事がある。また、飢饉の際にジャガイモ活用を勧めた代官の名を取って、「善太夫芋」「清太夫芋と呼んだ地方もあった。

そのほか、オランダ語のaardappelからきた「アップラ」「アンプラ」「カンプラ」という呼称も存在する。

日本で一般的に普及したのが男爵薯(だんしゃくいも)である。生食用品種。明治時代に川田龍吉(かわだ・りょうきち)男爵がイギリスから持ち込んで日本に定着させた品種という説の他に、アメリカからとする説もある。

デンプンが多くホクホクした食感が得られるが、煮くずれしやすい。このため、粉吹き芋やマッシュドポテト、コロッケなど潰してから使う料理に適している。芽の部分が大きく窪んでおり、でこぼこした形状なので皮をむきにくい。主に、東日本で主流の品種である。花は白い。

戦後、広く普及したメークイン。実は大正時代にイギリスから持ち込まれた品種。男爵イモよりもねっとりしていて、煮くずれしにくい。このため、カレーやシチューや肉じゃがなど、煮て調理する料理に適している。

男爵薯に比べて長い形状で、でこぼこもそれほどひどくなく、皮はむきやすい。主に西日本での消費が多い。世界的に見ても、特に日本で人気がある種。「メイクイーン」と呼ばれることも多いが、品種名としてはメークインが正しい名前である。花は紫色である。

近年、東京でも人気の高いのがキタアカリ。男爵薯を母親として、線虫への抵抗性を持たせるよう農林水産省北海道農業試験場(現:北海道農業研究センター)で品種改良したもの。演歌歌手細川たかしの出身地真狩村(北海道)が主産地。茨城産は7月と、早い時期,市場に出る。

カロティンやビタミンCの含有量が多い。男爵薯同様、粉吹き芋やマッシュドポテトに適している。黄色が強めである。

とうや。内部が黄色く、カロティンやビタミンCの含有量が多い。口当たりがなめらかで、ポテトサラダに適している。黄爵(こうしゃく)と呼ばれるが、最初に名づけたのは、JAたんの(現、JAきたみらい端野支所)である。

トヨシロ  加工用品種。ポテトチップの材料として生産されている品種。風味は男爵薯に較べると劣るといわれるが、揚げると男爵に比べ色合いがよい。

インカのめざめ 2002年に種苗登録された、小粒で黄色みの強い品種。アンデス産の品種を日本向けに改良したもの。甘みが強く、サツマイモや栗に似た味を持つなど食味はよいが、収量は少なく、他の品種と比較して栽培が難しい。

発芽しやすく、長期の保存には不向きである。生食用として人気が高まってきているが、生産量は少なくジャガイモの中では高価である。北海道十勝地方の幕別町などが主産地である。長期冷蔵貯蔵により更に糖度の増加した物もあり、近年ではその風味を生かした本格焼酎の原料にもなっている。

デジマ 長崎県の農林試験場で交配・育成された品種で、1971(昭和46)年に品種登録された。品種名は江戸時代に外国への窓口であった長崎の出島にちなんだもの。長崎県を中心に九州で多く栽培される。

ラセット・バーバンク  1875年にアメリカの種苗家ルーサー・バーバンクが開発した『バーバンク』の突然変異により1910年頃に誕生。大きくなるためフライドポテトに向き、日本へも加工品が多く輸出されている。

シンシア 麒麟麦酒のグループ会社でフランスのジャガイモ育種・販売会社であるGermicopa社により1996年に育成された品種。日本では2003年2月に品種登録された。

他の品種と比べ卵形のシンプルな形状をしており、貯蔵性に優れ煮物にしたときの煮崩れが少ないなどを理由に人気がある。
出典:ウィキペディア