2009年10月16日

◆日本のジャガイモは82品種

         
渡部 亮次郎

夏は新ジャガが出回るからジャガイモの季節とも言える。だが、私は北海道産の「キタアカリ」が好物なので、毎年のジャガイモ・シーズンは10月末と決めていた。

だが、東京のデパートでは7月から「キタアカリ」を売っている事を今年、発見した。茨城県産だった。味もまあまあだったが、真狩村のには敵わない。

もともと私が育ったところは旧八郎潟沿岸。田畑の地下水位が以上に高い。30センチも掘れば水が上がってくるような「湿地」だ。

だから、いくら「男爵」を作付けしてもホクホクしたものを収穫することはできなかった。

敗戦直後の中学校では英語を教えたらしいが、わが秋田県では英語を教えられる教師は皆無。そのかわり「農業」を教えた。だから畑作の大体のことは体験した。そんなわけでここには「食べ物」の話題がしばしば登場するわけである。

ところでジャガイモ。日本では、82品種が品種登録されている。これはジャガイモが連作障害と病害虫に極めて弱いため、その対策として、様々な品種改良が施された結果である。

いまのところ、男爵薯、メークインなどの品種が広く栽培されているが、北海道が最大の生産地で、夏の終わりから秋にかけて収穫される。九州では冬に植え付けて春に出荷する。

日本では単に「芋」というとたいていの人がジャガイモ、サツマイモ、サトイモのいずれかを思い浮かべるほどポピュラーな食材であるため、呼び名も様々ある。

「ジャガイモ」という呼び名]は、16世紀末、オランダ人によって日本にもたらされた当時のジャカルタが「ジャガタラ」と呼ばれていたため、「ジャガタライモ」と呼ばれたことに起因する。これが変化して現在のジャガイモという呼び名になった。

その他の説としてはジャワ島の芋の意味のジャワイモが変化した、天保の大飢饉で、ジャガイモのおかげで餓死を免れた事から呼称された「御助芋」が転じたものなど諸説がある。

「馬鈴薯」(ばれいしょ)という呼び名もよく用いられる。これは中国での呼び名のひとつと漢字が同じで、中国語で読むとマーリンシューとなる。

18世紀に日本人の小野蘭山が命名したといわれているが、明らかではない。一説には、ジャガイモの形が馬につける鈴に似ているという事からこの名前になったという。また、「マレーの芋」という意味からこの名前が付けられたという説もある。

地方名として、「きんかいも」とも呼ばれる(「きんか」とは金柑転じて禿げのこと)。また、1年に2〜3回収穫できることから「にどいも(二度芋)」「さんどいも(三度芋)」とも呼ばれる。「南京イモ」「ごしょいもと呼ばれる事もある。私の生まれ在所(秋田)ではゴドイモとかアンプラと呼んでいた。

痩せた土壌でも栽培しやすく、ビタミンやデンプンが豊富に含まれている上に、茹でる等の簡単な調理で食べられ、加熱してもビタミンが壊れにくいジャガイモ。

江戸時代に幾度となく発生した飢饉の際に、サツマイモと同じく主食である米等の穀物の代用品として食べられ、ジャガイモによって飢餓から救われたという記録が残っている。

このために「お助けイモ」と呼ばれた事がある。また、飢饉の際にジャガイモ活用を勧めた代官の名を取って、「善太夫芋」「清太夫芋と呼んだ地方もあった。

そのほか、オランダ語のaardappelからきた「アップラ」「アンプラ」「カンプラ」という呼称も存在する。

日本で一般的に普及したのが男爵薯(だんしゃくいも)である。生食用品種。明治時代に川田龍吉(かわだ・りょうきち)男爵がイギリスから持ち込んで日本に定着させた品種という説の他に、アメリカからとする説もある。

デンプンが多くホクホクした食感が得られるが、煮くずれしやすい。このため、粉吹き芋やマッシュドポテト、コロッケなど潰してから使う料理に適している。芽の部分が大きく窪んでおり、でこぼこした形状なので皮をむきにくい。主に、東日本で主流の品種である。花は白い。

戦後、広く普及したメークイン。実は大正時代にイギリスから持ち込まれた品種。男爵イモよりもねっとりしていて、煮くずれしにくい。このため、カレーやシチューや肉じゃがなど、煮て調理する料理に適している。

男爵薯に比べて長い形状で、でこぼこもそれほどひどくなく、皮はむきやすい。主に西日本での消費が多い。世界的に見ても、特に日本で人気がある種。「メイクイーン」と呼ばれることも多いが、品種名としてはメークインが正しい名前である。花は紫色である。

近年、東京でも人気の高いのがキタアカリ。男爵薯を母親として、線虫への抵抗性を持たせるよう農林水産省北海道農業試験場(現:北海道農業研究センター)で品種改良したもの。演歌歌手細川たかしの出身地真狩村(北海道)が主産地。茨城産は7月と、早い時期,市場に出る。

カロティンやビタミンCの含有量が多い。男爵薯同様、粉吹き芋やマッシュドポテトに適している。黄色が強めである。

とうや。内部が黄色く、カロティンやビタミンCの含有量が多い。口当たりがなめらかで、ポテトサラダに適している。黄爵(こうしゃく)と呼ばれるが、最初に名づけたのは、JAたんの(現、JAきたみらい端野支所)である。

トヨシロ  加工用品種。ポテトチップの材料として生産されている品種。風味は男爵薯に較べると劣るといわれるが、揚げると男爵に比べ色合いがよい。

インカのめざめ 2002年に種苗登録された、小粒で黄色みの強い品種。アンデス産の品種を日本向けに改良したもの。甘みが強く、サツマイモや栗に似た味を持つなど食味はよいが、収量は少なく、他の品種と比較して栽培が難しい。

発芽しやすく、長期の保存には不向きである。生食用として人気が高まってきているが、生産量は少なくジャガイモの中では高価である。北海道十勝地方の幕別町などが主産地である。長期冷蔵貯蔵により更に糖度の増加した物もあり、近年ではその風味を生かした本格焼酎の原料にもなっている。

デジマ 長崎県の農林試験場で交配・育成された品種で、1971(昭和46)年に品種登録された。品種名は江戸時代に外国への窓口であった長崎の出島にちなんだもの。長崎県を中心に九州で多く栽培される。

ラセット・バーバンク  1875年にアメリカの種苗家ルーサー・バーバンクが開発した『バーバンク』の突然変異により1910年頃に誕生。大きくなるためフライドポテトに向き、日本へも加工品が多く輸出されている。

シンシア 麒麟麦酒のグループ会社でフランスのジャガイモ育種・販売会社であるGermicopa社により1996年に育成された品種。日本では2003年2月に品種登録された。

他の品種と比べ卵形のシンプルな形状をしており、貯蔵性に優れ煮物にしたときの煮崩れが少ないなどを理由に人気がある。
出典:ウィキペディア 

2009年10月14日

◆「日本の一番長い日」にリセット(5)

     〜石炭運搬用無蓋車両での脱出〜

               
藤本 敬八郎

終戦の詔勅をラジオ放送で聞いてから、もう幾月がたつだろうか。太原は初冬の寒さが厳しくなってきた。日本陸軍はいまだ山西省に駐屯し、治安維持に努めていたとはいえ、在留邦人を取り巻く諸情勢は日々変わっていった。

「反乱がおきる」というデマが飛び、「邦人の金銭財産の自主的提出」が、まことしやかにに噂になったりして、不安な日が続くようになった。

そんなある日のこと、ここ太原で父と同じ逓信省に職をもつ天野さんという方から連絡が入った。「君の父君から頼まれたのですぐにでも会いたい」。

早速に氏の家へ行った。小学生姉弟のいる日本人家庭で、長らく味わえなかった団欒の時間を共有した私は、安堵と信頼を無条件に感じて、「地獄にホトケ」とはこういう時に使う言葉だと思った。

通信情報手段が尋常でないこのような時に、貴重な情報をいただいた。

概要は、―君のご両親は君の事を一番心配しておられた。いますぐには迎えに行ける情況にないので、太原の引揚居留民団が結成され帰国の時、天野家の家族の一員として一緒に帰国の労をとってもらえないか― 。と頼まれたので近々我が家の同居人になってもらうから持ち物等の身辺整理をしておくように、と念を押された。身辺整理は得意であった。

人付き合いが不得意で寡黙な居候少年は、天野家には多少の違和感を与えてしまったかも知れない。私の代役に実兄をシュミレーションしてみると、その家庭映像は恐らくこうなる。…… 小学生姉弟の勉強をみてやり、面白い話で皆をなごませる映像。家事雑用諸般にそっと手をさしのべ、頼もしい家族の一員として迎えられている笑顔の映像……。一方私は言われたことしかできない、不器用な木偶でくの坊少年に映ったにちがいない。


生死を賭けた集団の大移動を成功させるため、リーダーたちは筆舌に尽くしがたい幾多の困難を解決していかなければならなかった。

太原駅を始発とする引揚者専用列車は、貨物列車を転用したもので、客5車両の連結はなかった。元気な男性は概ね無害車両に当てられ、私はもちろんこの組であった。天野家とは別車両になってしまった。

汽関車が吐き出す煤煙や強風、直射日光をふせぐため、唐きび皮をアンペラに編んで覆い屋根に仕立てた。太い針金を桟に組み渡したが、この程度の素人作業のものは、風圧で吹き飛んで無惨な姿になり、耳の奥まで塵灰が容赦なくとびこんできた。

強烈な寒波の山岳季節風から身をまもるには厚着の上に厚物を重ねるしかなかった。各車両の片隅には一斗缶が便器として置かれた。

列車は山岳地帯を喘ぐように荒い息づかいで東へ走る。途中、南陽が凶弾に倒れたのもこんな崖地だったのかと思わせる所をいくつも通過した。

何日目のことであったか、重要伝達が入った。「鉄橋が破壊され先へ進めない。各自対岸へ浅瀬を歩いて渡り、確約のない迎えの列車の到着を野営しながら待つ」というものであった。河原では木片を拾い集める者、石組みでカマドを作る者、野営ト イレを作る斑。本部からの指揮伝達が徹底されていた。

衛生上問題はあっても、ここには豊富な水量がある。飯盒炊飯は皆なれていた。流水路と溜まりを交互に作って少しでも浄化する。生きるためには咄嗟の機転。難事ほど同胞の絆はかたく、相手を思いやる心がはぐくまれるものだ。

運を天にまかせて待った迎えの列車はやって来た。目的地天津市外港、渤海の玄関口・塘沽タンクウへ向けて再び走りだした。生死をともに乗り越えてきた同胞たちも、ようやく安堵と悦びを分かちあっている頃、一人の乳呑み児が母の胸の中で息絶えた。

寒さと栄養不足と気苦労で授乳が不十分であったという。母子ともに体力は衰え極限であった。貨物列車での大移動は、予想を超える大きな苦痛を与え続けていたのだ。

☆☆
地図にもない小さな引込線に停車した。

大小の石やレンガ、それに可能な限りの大量の木片や枯葉を拾い集めて、荼毘だびに付す準備にとりかかることになった。充分な太さの木材を井桁に組み上げる方法が最適であるが、緊急時に物量の余裕は此処にはない。集めた石を効果的に組むことで火力を上げ、完全燃焼させる工夫をする。

失敗は決して許されない。
炎と煙、木のはじける音。ダンボールの小さな棺ひつぎはみるみる炎にのみこまれていった。酸素の流れ道を作った効果で棺は悲しいまでによく焼かれていった。

亡き者への畏敬の念は、いま荼毘という行為で厳かに野営のなかで執り行われているが、親御さんには本当にこれでよかったのだろうかと思った。人生経験に乏しい14 歳の少年の未熟な心は、何か割り切れぬ不条理を感じて、晴れぬ気持ちに陥っていた。

63年を経た今もこの情景を思い出すと、心は悼む。

☆☆☆
中国の空高く天使になった小さなおまえ父母の胸にもう一度抱かれて青い海、瑞穂の国へ今度は無事に還っておくれ(つづく)
(神戸「行雲誌・執筆者」)

◆<同稿--関連記事>
「日本の一番長い日」にリセット(1) ←閲覧
「日本の一番長い日」にリセット(2) ←閲覧
「日本の一番長い日」にリセット(3) ←閲覧
「日本の一番長い日」にリセット(4) ←閲覧


2009年10月13日

◆ちゃんちゃら可笑しい



      
渡部 亮次郎


永野重雄という日本財界の四天王の一人は、実に激しくも気さくな人だった。仕えた園田直が官房長官から外務大臣に転出したとき財界に園田後援会を作ってくださり、毎月の懇親会に秘書官の私も加えるように気配りして下さった。

渡部君、ボクが会社(新日本製鉄会長)から常務会の決裁無しに持ちだせる金額を知ってるかい?たった5万円だよ。これじゃ彼女の手当てにもなりゃしない。と、終いには秘密を打ち明けるようになった。

なにしろ持った段位が得意の柔道や囲碁など交えて64段。武道の段位30段の園田も真っ青の大物だった。広島で。裁判官を父とする10人兄弟の次男として育った。

その永野さんが財界の幹部を引き連れてモスクワのクレムリンに乗り込んだ。当時の日ソ経済協力推進のためである。昭和40年代のことだ。確か共産党書記長のブレジネフと会談した。通訳はモスクワ駐在の日本大使館員。

「そんなこと、解決は簡単、朝飯前です」までは良かったが「ちゃんちゃら可笑しい」の言葉でエリートは詰まってしまった。ちょっとした江戸弁だが、若い人はもう余り使わなくなった言葉。

エリートは舞い上がった。だから永野さんが「そんなことをしたら、こちとら、臍(へそ)で茶を沸かす」と言ったとき、意味が理解できないまま直訳してしまった。

臍で茶をどうやって沸かすのか。堅物のブレジネフが真顔で聞いてきた。往生したのは永野さん。「可笑しい」のたとえで言っただけなのに、通訳が真意を知らぬまま直訳したから場が白けてしまった。「あの時は参った」としみじみ述懐した。

永野さんは男兄弟6人中5人が東大、1人は東北大という優秀な兄弟。「だがボクは殆どを柔道ですぎたね」。

いろいろな曲折を経た後、製鉄業界に入り、敗戦後、先輩たちがクビを並べて公職追放になったため46歳の若さで日本製鉄の常務。

そのご日本製鉄は進駐軍により八幡製鉄と富士製鉄に分割されるが、のちに合併により新日本製鉄として再出発、会長になった。 1984年5月4日逝去。2009・10・06

2009年10月10日

◆日本を属国にするアメリカ



     
渡部亮次郎


最近知り合いになった公認内部監査人(CIA)・公認情報システム監査人村田一さんが書いた「年次改革要望書」のことご存知ですか(埼玉県私塾協同組合広報誌 SSK Report 2009・4号)によると
郵政民営化政策を始め弁護士増加、建築確認の民営化など、このところの「改革」と称する政策は、すべてアメリカの要求に屈したものだった。

だから村田さんは言う。

<4年前の総選挙で「郵政民営化は構造改革の本丸である」として小泉政権が掲げた「構造改革」に期待したにも拘わらず、様々な痛み、地方経済の疲弊、派遣労働者の増大など、失望感の大きくなったことが「政権交代」となった。

いまや悪者扱いとなった「構造改革」は1993年の宮澤政権時代に始まっており、その淵源には宮澤・クリントンによって始まった「年次改革要望書」の存在がある>。

年次改革要望書は、日本政府と米国政府が両国の経済発展のために改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書で、毎年、日米両政府間で交換される。

1993年(平成5年)7月の宮澤喜一首相とビル・クリントン米大統領との会談で始まったものとされている。『拒否できない日本』によれば、最初の要望書は1994年(平成6年)であった。関岡英之 『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』(文藝春秋 2004年4月21日 ) ISBN 978-4166603763

爾来「成長のための日米経済パートナーシップ」の一環としてなされる「日米規制改革および競争政策イニシアティブ」に基づきまとめられる書類であるが、マスコミはなぜか取り上げないから国民の大半は知らない。国民の知らぬところで結ばれた国家の約束は文字通り「密約」である。しかも毎年交わされているらい。

正式には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative)という。なお、交換後は、それぞれの要望書について作業部会、上級会合の場で日米間で議論のち、日米共同の報告書をとりまとめることとなる。

最初の「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(年次改革要望書)が作成されたのは平成13年(2001年)であるが、これは先行する「日本とアメリカ合衆国との間の規制緩和に関する対話に基づく双方の要望書」の枠組みが現行のイニシアティブの形式に整えられたことによる。

双方の要望書は両国政府によって公開されており、日本から米国への要望書については、外務省のウェブサイトにおいて公開されている。

同様に、米国から日本への要望書については、駐日米国大使館のウェブサイトに日本語訳されたものが公開されている 、というが、それを開いてみる一般国民はいない。

米国側からの要望が施策として実現した例としては、建築基準法の改正や法科大学院の設置の実現、独占禁止法の強化と運用の厳密化、労働者派遣法改正、郵政民営化といったものが挙げられる。

米国政府からの要望で実現していない項目としては、再販制度・特殊指定の廃止・ホワイトカラーエグゼンプションが挙げられるが、年次要望改革書では引き続き取り上げられている。

一方、日本側からアメリカ側への要望が実現しなかった例は、BSE(牛海綿状脳症)に関しての全頭検査の実施などである。

アメリカ政府による日本改造と非難されるのは当然である。

関岡英之は年次改革要望書はアメリカ政府による日本改造という観点から注目し、アメリカによる日本への年次改革要望書の性格は、アメリカの国益の追求という点で一貫しており、その中には日本の国益に反するものも多く含まれているとしている。

衆議院議員小泉龍司(2005年9月の総選挙で落選)は、2005年(平成17年)5月31日の郵政民営化に関する特別委員会において、要望書について「内政干渉と思われるぐらいきめ細かく、米国の要望として書かれている」と述べている。

郵政民営化は郵便貯金や簡易保険などの国民の財産を外資に売り渡す行為であるとし、また三角合併解禁については時価総額が大きい外資が日本大手企業を買収して傘下に置き易くすることを容易化する行為として、外資への売国的行為とする意見がある。

年次改革要望書で言及されている医療改革は、外資系保険を利することが目的となる一方で医療報酬減額や患者の医療費負担増大が医療崩壊に繋がっていると指摘されている。

1999年の労働者派遣法改正により日雇い派遣が原則解禁となったが、労働環境の不安定化という社会問題を生み出している。

竹中平蔵郵政民営化担当相は2004年10月19日の衆議院予算委員会で小泉俊明の「(年次改革要望書を)御存じですね」という質問に対し、「(年次改革要望書の存在を)存じ上げております」と答弁した。

2005年6月7日の衆議院郵政民営化特別委員会では、城内実の「郵政について日本政府は米国と過去1年間に何回協議をしたか」、「米国の対日要求で拒否したものはあるか」という質問に対して、竹中大臣は米国と17回協議したことを認めるも、対日要求についての具体的言及は避けた。

郵政法案の審議が大詰めを迎えた2005年8月2日の参議院郵政民営化に関する特別委員会で櫻井充の「(年次改革要望書に)アメリカの要望として日本における郵政民営化について書かれている。(中略)国民のための改正なのか、米国の意向を受けた改正なのか分からない」という質問に対し、

竹中大臣は「アメリカがそういうことを言い出す前から小泉総理は(もう10年20年)ずっと郵政民営化を言っておられる。アメリカはどういう意図で言っておられるか私は知りませんが、これは国のためにやっております。(竹中は和歌山市の下駄屋の息子。なぜだか矢鱈な平等主義者である。小泉の懐に棲みついた)。

このまあ1年2年ですね、わき目も振らず一生懸命国内の調整やっておりまして、アメリカのそういう報告書(年次改革要望書)、見たこともありません。私たちは年次改革要望書とは全く関係なく、国益のために、将来のために民営化を議論している」と述べた。

日本の内政との密接な関係。誰がどう、言い訳しようと宮澤内閣以来の「改革」と称する政策のすべてはアメリカ国務省(外務省)の要求に屈したものだった。

1997年 独占禁止法改正・持株会社の解禁
1998年 大規模小売店舗法廃止、大規模小売店舗立地法成立(平成12年(2000年)施行)、建築基準法改正

1999年 労働者派遣法の改正、人材派遣の自由化
2002年 健康保険において本人3割負担を導入
2003年 郵政事業庁廃止、日本郵政公社成立

2004年 法科大学院の設置と司法試験制度変更
2005年 日本道路公団解散、分割民営化、新会社法成立
2007年 新会社法の中の三角合併制度が施行

報道で年次改革要望書がほとんど扱われていないことについて、
関岡英之、城内実らから は、以下の点から、年次改革要望書に関する報道が広く国民に充分になされていないのが事実だとしている。

建築基準法の改正提言には、アメリカ政府の介在がひとことも書かれておらず、法改正の新聞報道でもいっさい触れられていない。

年次改革要望書の全文が日本のマスメディアで公表されたことはない。

郵政民営化をはじめとする構造改革の真相を国民が知ることとなったら暴動が起きかねないので、マスコミ対策は用意周到になされていた。郵政民営化に反対する政治評論家森田実が、ある時点からテレビ局に出演できなくなった。

『しんぶん赤旗』・一部夕刊紙以外の主要マスコミでは『年次改革要望書』が発表された事実そのものの報道もなされない。国会議員が国会で問題にしても、なぜか全国紙やテレビ局の政治部記者からは一件の取材もない。

アメリカ合衆国政府の主張(言い訳)

国務省で経済・通商分野を専門に担当したジェームス・ズムワルトは、小林興起(通産省出身の衆院議員。現在は民主党)から「『年次改革要望書』を日本に突きつけ、さらにその達成 achievement を強く求めている張本人key peroson の1人」と名指しで指摘されている。

2006年4月、ズムワルトは小林との対談で、日本の内閣がアメリカの年次改革要望書の言いなりだとする指摘に対し、否定的な見解を示した。

年次改革要望書を提示する理由について、ズムワルトは、日本の経済成長はアメリカにも利益を齎すと説明し、日本経済低迷の一因は規制の多さにあるため、その撤廃を年次改革要望書で求めているだけだと述べている。

アメリカはあくまで「日本のしたいことを応援するスタンス」であり「小泉さんが考えていることの応援のつもりというのが基本的なスタンス」だとしていた。

その上で、年次改革要望書とは「日本の成長が最大の目標」であると説明し、日米の利害が激しく対立した日米構造協議などとは全く事情が異なると主張している。よく言うよ。

日本の政府と国会が束になってぶち当たった結果、負けたのではない。外務省のキャリアと称する役人が、唯々諾々と叩頭外交をして
各省に押し付けているだけである。これこそ密約ではないか。(文中敬称略)2009・10・09
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年10月09日

◆バラバラな「トイレ水洗化率」データ


              
毛馬一三

「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から、下記のメールを貰った。
<「トイレの水洗化率」は、1位:東京、2位:神奈川、3位:埼玉、4位:愛知、5位:大阪、6位:兵庫、7位:静岡、8位:沖縄、9位:千葉、10位:石川・・・。これはなぜか。記事になると思います>。

「トイレの水洗化率(生活排水処理)」が、都市インフラ整備のバロメータであることはわかっている。しかし各都市の順位を示して、「これはなぜか?」と質されたのには正直、戸惑った。しかもこのデータの出所も分からない。まさに「禅問答」だった。

ところがこの順位を何度も見直しているうち、ハッと気がついたことがあった。インフラが行き届いている大都市の上位順位は理解できるが、そうでもない沖縄、静岡、石川が全国都市の10位内に入っているのはなぜか。これが「なぞ解き」だったのだと思った。

早速大阪府庁に「取材」も申し入れた。どのようなデータに基づいて大阪府の生活排水処理整備施策をしているのか知りたいと要請した。府庁を訪ねると、都市整備部下水道室と環境農林水産部環境管理室の担当2部署の3人の職員が快く応対してくれた。

まず、「トイレの水洗化」を含む「生活排水処理」普及率を促進するためには、国の2通りの方針があるという。それは、
@、「し尿(トイレ)」と「生活雑排水」とを併せて処理する「合併処理槽の方式」
A、「し尿」のみ処理する「単独処理浄化槽の方式」―だという。

Aの場合は、「し尿」のみ処理するだけで、「生活雑排水」を各家庭が処理しないまま川や海に直接流し河川・海の汚濁に繋がっているため、大阪府では、@の合併処理槽の方式で府内の整備事業を進めているという。

そこで「普及率」の具体的な数値を知りたいと尋ねた所、まず示されたのは、国土交通省・環境省・農林水産省3省合同による上記Aの方式採用の「都道府県別汚水処理人口普及状況(平成20年度末)」の資料だった。

それを見た途端、驚いた。私がメモしていた「普及率」の順位とはまるで違う。

1位は東京都で99.4%、2位が兵庫県の97.8%、3位が滋賀県の97.4%、4位が神奈川県の97.1%、5位が大阪府の94.7%・・・だ。注目の静岡県は70.3%、沖縄県は77.3%、石川県は87.3%で、3県とも「10位以内」から外れている。

「この3省合同資料は、私の資料と上位都市順位でも異なるし、肝腎の3県も外れている。この理由はわかりますか」と訊いた。すると、これら普及率データは、各都道府県が提出した資料を、国が独自分析し結果を出したもので、分析手法は分からないという。

さらに驚いたことは、国土交通省が単独で公表した別の「普及率」を見せて貰ったところ、東京都1位、2位神奈川県、3位大阪府となっている。静岡県は沖縄県より「普及率」は10%近く低く、下位に位置している。早い話、省のデータ毎にバラバラだということだ。

そこで「静岡、沖縄が10位以内に入っている私持参のデータは、何処が公表したものでしょうか」と核心に迫ってみた。ところが「我が部局ではこのデータは把握しておりません。調べた上でご連絡します」ということだった。

府庁を辞して所用を済ませ、帰宅してパソコンを開いてみたところ、先の府庁職員からメールが届いていた。メールには「ご希望のデータが見つかりましたので送ります」と書いてある。環境省のホームページから苦労して探し出したという平成18年度の資料だった。

たしかに、「1位は東京都から始まり、静岡・沖縄両県が7.8位を占め、石川県が10位以内」に全く同じだ。電話を掛けて御礼を述べるとともに、環境省のデータになると、どうしてこのような「普及率」になりのだろうかと確めた。

すると、「この環境省のデータであれば、「合併処理浄化槽」と「単独浄化槽(し尿のみ処理)」の2つの方式が含まれております」という。少なくとも@方式の大阪府とは違う。

この方式で「普及率」をはじきだせば、@の合併処理浄化槽方式の方式に、「し尿」のみの浄化槽も加わるわけだから、地域の生活排水適正処理に懸命になっている生活環境政策は歪められることになる。

環境省が公表しているこのデータの裏には、何らかの意図があるとしか思えない。しかも3省共同のデータと、国土交通省のデータ、環境省のデータが各省毎にバラバラでは、国民の生活排水処理が適正に行われる筈がない。ましてやこれを任されている地方自治体が戸惑うのも目に見えている。

渡部氏の示唆は、縦割り行政の悪弊をあらためて浮き彫りにし、これを改めなければ真の下水道行政は果たし得ないことを知ることが出来た。深謝。(了)2009.10.08



2009年10月07日

◆保守党再現は20年後



     
渡部亮次郎


議会政治は全治20年と書いたら、何を根拠に言うかと質された。根拠など無いが、選挙制度の改正、政党の再編成などが不可避だから10年以上は絶対掛かると思っただけだ。少なくとも次の総選挙で自民党が政権に復活する事はあり得ない。

来年の参院選挙でも自民党は負ける。そこで自民党は、初めて目が覚める。「これでは永久野党になってしまう」と慌てる。それが始まりだ。自民党崩壊と再生運動の始まりだ。

今回の総選挙について、衆院議員を辞職した後、東京都知事になった石原慎太郎氏が9月7日付の産経新聞に評論「日本よ」を寄せ
「小選挙区制は日本になじまない」と批判していた。

<それにしても今行われている小選挙区制度というのは弊害が多すぎる。かつてこれが取り入れられようとした時、私は与党(自民党)内にあって、守旧派の名に甘んじながら最後まで反対を唱えてきた。

国民が前述したような性情のこの国にあっては、現行の選挙制度は結果の振幅が大きすぎ結果として行政のロスが多すぎることになりかねない。

政権交代の是非といったオールオア・ナッシグの選択ではなしに、選挙も通じてより具体性のある、かつ幅の広い討論が行われるためには2大政党ではなしに、ドイツのように3つの政党が存在しその連立が3通りに行われるような態様が望ましいと思われる。

とにかく今の選挙制度では政治家が日頃選挙に気をとられ大きな発想を行う余裕があり得ない。東京では国会議員の選挙区が区議会議員のそれよりも小さいという奇体な現象をみせてもいる。

その結果野中氏が慨嘆していたが、冗漫な本会議の折には夜の議決までの間選挙区が比較的間近な議員たちは議場を抜け出して選挙区回りをしてまた戻るという空疎な現象が現れているという。

加えて比例代表というシステムは、選挙区を持たず日頃死に物狂いの努力もせず、その名声?だけで当選の相伴に預かるという不合理不公平な結果をもたらしてもいる。

総選挙という国家の命運を決める重大事が、メディアなどが作るヒステリックな風に吹き飛ばされず、幅の広い討論をもたすことで国民が冷静な判断と選択が行えるように、国会議員の数も減らして、例えば全国で定員2人の中間選挙区に改良されるべきと思われる。それは必ず3大政党といった政治体制をもたらすものと思うが。>

「2大政党主義」を主張して已まない民主党が、今直ちに、この論に乗ってくることは無いだろうが、今後3度目ぐらいの選挙で与党たる地位が危機に晒されるようなことが有れば、選挙制度再改革が初めて論議され始めるだろう。

それまでに公明党が、或いは民主党と連立でもしていれば、話はややこしくなるが、公明党はそれでも独自の主張を確保する希望を捨てていなければ複数定員制を目指して論議に加わるはずで、選挙制の再改革はそこで現実味を帯びてくる。

実際には創価学会では、今回の衆院選挙惨敗を機に、昔のように政治活動は参議院に限定すると、衆議院からの撤退論がかなり具体的に論じられているらしいから、これもまた「不透明」である。

肝腎の自民党だが、派閥の領袖たちが束になって推した谷垣氏が圧勝して後任総裁に就任したが、これでは全くの旧態依然たる結束状況であって、組織の躍動化は絶望的である。「みんなの野球」なんてお笑いだ。野球は1人ではできないのだから。弁護士ならもう少し気の利いた科白を吐かんかい。

また谷垣氏の思想は保守的では全く無くて、いわゆるリベラルに属する。これでは目指すところは活性化した自民党ではなく第2民主党でしかない。

民主党が勝利したのは、60年近く、権力に胡坐をかいて来て、もはや血液の浄化を自らの能力では出来なくなった自民党、宗教団体にすがり付く以外に自立能力を失った政党に愛想が尽きたのだ。

自民党は洗濯物を大量に抱え込んだ脳卒中の老人だった。改革が怖いものだから、懸案のすべてを先送りした。魅力のまったくなくなった恋人だった。

その恋人が、厚化粧して復縁を迫っても応じる支持者はいないだろう。さりとて民主党に投票できない支持者は当分、無党派層になるしかない。

勿論、この先、民主党も様々な蹉跌を踏む。役人を使ったことが無いくせに役人を相手にせずというのは馬鹿げた科白。間もなくあちこちで馬脚が現れるだろうし、故人献金問題も、小澤秘書裁判も不利に展開するだろう。

しかし、政権党である。必ず踏みこたえる。来年の参院選挙でも国民は民主党を勝たせ、社民党などとの連立解消に踏みきらせるであろう。これを否定する悪材料は無いからだ。

問題は小澤一郎がその後、どのような動きをするかである。壊し屋の異名どおり、小澤派を率いて理想の新党結成に走るか、或いは
自民党のある層をとりこむか。「不透明」ではあるが。

一方の自民党は来年の参院選でも敗れれば、無用の長物と化するわけだから議員の「逃散」が始まるだろう。それを見て渡辺喜美、河野太郎、中川秀直、亀井静香といった人たちが、内外から自民党をかき乱し、やがて自民党は事実上、消滅するだろう。

そうした中から小選挙区制の再検討論議がはじまり、並行して新しい保守党の立党、民主党の凋落の始まり、各党メンバーの健康問題などが展開するだろうが、そうした中から、無党派層にも支持される新しい保守政権が誕生するまでには10年では足りず、少なくとも20年は掛かるだろうと私は見る。(文中敬称略)2009・10・6



2009年10月05日

◆北朝鮮首相、中国首相に

○「対話で非核化目指す」<アサヒ.コム>

 【北京=坂尻顕吾】中国の温家宝首相は4日、北朝鮮を3日間の日程で公式訪問するため平壌に到着し、金正日総書記が、
詳細はココから

2009年10月03日

◆戦争中の英語教育



               渡部亮次郎

<頂門の一針 1680号に渡部亮次郎が「米国防総省外国語学校」というコラムの中で「特に戦争を前に英語を禁止した日本、慌てて日本語教育を始めたアメリカの対比としても . .」と書いておられる。これとよく似た話を時々耳にするが、これは私の体験からは全く理解できない。

私が昭和18年に入学した岡山の県立中学校では太平洋戦争中から終戦に至るまでまったく変わることなく英語の授業は正常に続けられていた。

私が最初の英語を習った先生は東大の英文学科を出た非常に立派な先生で、そのお陰で私は後に米国ミシガン大学院に学んだ際、外国人学生に対する英語のテストで英語を母国語とする学生と同じ分類に入れられ、学期ごとに受ける授業数に何の制限も課せられなかった。

戦時中に英語の授業を軽視した中学校、女学校もあったかは知らないが、それが日本全体の姿だったとは思えない。渡部亮次郎氏のような表現はその頃のことを実体験として知らない人達に誤った考えを与える記述だと思う。(犬飼通之)>

わたしは英語に関しては、単に当時の世間の風潮を論じたもので、学校などの教育現場に政府から禁止令が出ていたとは書いていない。

それにしても、いろいろな資料に当ってみた結果、私の半可通な理解だったようだ。大東亜戦争中の英語教育について、政府から禁止令のような物が発せられた証拠物件手許にはない。おそらく内務省(当時)などから様々な団体や分野に対して「通達」など文書が発せれたのだと思うが、確認できない。

『近代日本総合年表』(岩波書店 1968年11月25日 第1版第1刷)によると、私が「戦時中」と認識する支那事変の始まった昭和12(1937)年7月から敗戦の昭和20(1945)年8月15日まで、わが国英語教育に関する政府からの通達や指示を見つけることは私にはできなかった。

しかし、何によってそうなったかの根拠は必ずしも明らかでないものの、年表には英語、横文字から隔離されてゆく庶民生活が活写されている。

まず国民の精神を戦時体制にするための「国家総動員」が昭和13(193)年4月1日に公布された。

昭和15(1940)年3月28日、内務省は横文字を芸名にしていた歌手ディック・ミネと芸人ミス・ワカナに対して改名を要求した。ディックは峰 耕一と改名した。

同じ年、10月31日、東京中のダンス・ホールが政府から閉鎖命令が出されるなか、煙草の「バット」が「金鵄(きんし)」に「チェリー」が「櫻」に改称された。

昭和16年12月8日は対英米戦争が布告されるが、それに先立って政府は女子の「セーラー」服を禁止した。

海戦と同時に天気予報は報道禁止となった(英語とは無関係。制空権との関係で天気予報は最高の軍事機密だった。再開は20年8月22日)。

また政府は開戦4日後に開いた閣議で、支那事変を含む今度の戦争を「大東亜戦争」と決定した。

昭和18(1943)年2月、英米語の雑誌名の変更が政府から命令された。「サンデー毎日」は「週刊毎日」に「エコノミスト」は「経済毎日」に「キング」は「富士」に「オール読物」は「文藝読物」と改題された。

12月25日には紙幣から横文字部分が消えた。

この年、野球のストライクは「良し1本」 「アウトh「引け」
発車オーライは単に「発車」、「バック」は背々となった。なぜ誰が命令したのかは分からない。

戦中。秋田市立秋田商業学校から、海軍の将校養成学校海軍兵学校に合格した」郷里の先輩石澤武義さんによると、入学試験には英語が重視されてため。商業学校では英語の授業が行なわれていた、

また海兵では英語に力を入れるのが伝統で、山口県の八代島に疎開していた海兵岩国分校で8月6日朝8時すぎにピカドンが近くの広島市で炸裂したときも、英語の授業が始まったばかりだった。

そのほか、私のメルマガの読者からの投書などでも明らかなように、戦時中、様々な分野で英語やその他の横文字は「敵性語」とされて行ったが、中等学校上の学校では殆ど英語の授業は行なわれていたと見るべきのようだ。

とはいっても海軍省は海軍兵学校に対して戦争末期、英語授業の終了を命じてきた。しかし校長成美(のちに大将)は断乎としてこれを拒否したそうだ。「帝国海軍将官にとって英語の教養は不可欠である」。

仄聞するところ陸軍士官学校では早くから教育から英語は除き、ドイツ語とロシア語が重視された。

かくて敗戦。昭和20年9月15日、「日米会話手帖」が発売され,総計360万部が売れた。2009・10・02




2009年10月02日

◆公明モルヒネで自民壊滅



             渡部亮次郎

私はNHK政治部で初代の創価学会・公明党担当記者だった。だから創価学会会長当時の池田大作氏にも何回も面談した。その面談の中で池田氏は「渡部さんは折伏(しゃくふく)できる性格ではない」と言明した。

しかし自民党は、1999年10月5日、前年の参院選で過半数を割って参院運営が困難となり、かねてから与党入りを望んでいた公明党と連立を組んだ。それで10年後、政権を失った。

王仏冥合と言って政治と宗教を合体させることなど、部外者には理解困難な理屈を並べて会員を増やした創価学会=公明党だが、内情は、言葉は悪いが政府にたいする「たかり党」以外の何物でもない。
だから与党に早くなりたかった。

勿論、連立当時は、創価学会に対する国税庁の税務調査に怯えていたことも自民党に擦り寄った一因であった。

ともかく、たかりの政党だから初めにたかったのは児童手当の拡大。次いで「定額給付金」すべて定額所得層に会員の多い創価学会のためのものだ。税金を払えない会員が多いから税金を安くするといっても聞かない。

週刊新潮(2009・10・1號)は<祝・連立解消「自公政権」10年の「罪と罰」とする、短いが的を射た一文を掲載している。

<魔法のように痛みを鎮める麻薬「モルヒネ」。だが、依存性は強く、中毒に陥れば死亡するケースすらある事はよく知られている。

9月16日、公明党は、首班指名で山口那津男代表の名を記入し、10年に亘る「自公連立」に幕を下ろした。

連立を画策した1999年。パイプ役は竹岡という男でした(公明党関係者)。

竹岡誠治氏。創価学会の本部職員として、宮本顕治・共産党委員長(当時)邸の盗聴を実行した人物である。

「当時の野中広務・官房長官の知遇を得た彼は両党の極秘会合を赤坂の料亭にセットした。互いの執行部が”肝胆相照らす”仲になったのは、それが大きかった(同)

"曰くあり気"で始まった連立の中で、公明は「持論」を次々と具体化していった。児童手当の拡大。「定額給付金」といったバラマキ。消費税アップを避ける為の定率減税の全廃・・・。

更には「与党ならば提出前の法案に口を挟める。公明は、ストーカー規正法に『恋愛感情を充足する目的で』との文字を入れた。付きまといが学会の折伏にも適用されたらまずいからです」(同)。

一方の自民は、一選挙区2万とされる票を得た。が、「それに依存し、逆に保守としての政策を骨抜きにされた。例えば『教育基本法改正』では、公明へ譲歩し『愛国心』を盛り込まなかった。

結果、多くの保守層が自民から離れ、総選挙惨敗の主因となった。自民にとって公明は“モルヒネ”。一時的に苦痛は和らぎましたが、
逆に身体は確実に蝕まれていった。

誠治評論家の屋山太郎氏も言う。
「今総裁の3候補を見ても、みな保守の心棒を感じられない。明らかに公明と手を結んだ弊害で、自民は民主と同じリベラル政党になってしまった。政権脱回は夢のまた夢でしょう」。

安易に麻薬に手を染めた代償は、果てしなく高く付いたと言うしかない>。

初代公明党担当記者からも一言。公明党は創価学会の出先機関に過ぎない。出先機関としては、政府から果実を持ち帰らぬ事には親元の機嫌を伺う事はできない。だから野党であっては無意味である。

第二の竹岡誠治が出てきて今度は民主党を誑か沿うとする事は自明である。対して小澤幹事長。これまで何度も公明には煮え湯をのまされているから警戒すること当然である。

しかし創価学会に役立たずと罵られたくない公明党。民主党の隙を虎視眈々と狙っているはずだ。山口代表は参院議員だが、元々は弁護士である。弁舌は立つが策士としてはどうか。2009・09・25

2009年10月01日

◆ジェームスディーンの命日




                 渡部 亮次郎

アメリカ映画『エデンの東』(19 55)『理由なき反抗』(55)『ジャイアンツ』(56)の主演俳優ジェームス・ディーンが自動車事故で息をひきとったのが1955(昭和30)年の9月30日。

私はまだ大学2年の秋。政界は第2次鳩山一郎内閣の末期。脳溢血を患いながら日ソ国交回復を成し遂げつつあり、11月には退陣する。

愛称: ジミー・ディーンはこの日、カリフォルニア州のサリナで行われるレースに向かう途中、友人のラルフ・ウッタリックと共に愛車ポルシェ・スパイダーを135キロのハイスピードで運転。

横から出てきた学生が運転する車と衝突。ラルフと学生は軽症だったが、ディーンは帰らぬ人となった。まだ24歳だった。

彗星のようにこの世を去った彼は、エルヴィス・プレスリーやマリリン・モンローらと共に50年代を代表するアメリカ文化の象徴だった。

死亡する55年には安全運転をテーマにしたコマーシャルに出演するが、実生活ではスピード狂として知られ、車やバイクを高速で走り回す無軌道ぶりはスタジオの重役や製作スタッフたちの心配の種だった。

彼が事故死する2時間前にはスピード違反で切符を切られており、前夜には激しい恋のトラブルがあったといわれている。

『エデンの東』と『ジャイアンツ』の演技で2年連続してアカデミー主演男優賞候補になるが、ノミネートされた時には既に亡くなっていたため、死後2年連続してノミネートを果たすという珍しい記録を残した。

厳格なクエカー教徒の家庭のひとり息子として1931年2月8日、インディアナ州マリオン生まれるが、9歳の時に最愛の母親をガンで失う。父親は歯科技工士の仕事で忙しかったために、ディーンはフェアマウントで農場を営む伯母夫婦のもと引き取られる。

小学校では絵画の勉強やピアノやドラムの練習に打ち込み、中学に入ると担任の教師アデリーン・ノールに俳優としての素質を見出されて学生演劇に出演。

演じる事の楽しさに目覚めたディーンは、高校に入学すると演劇研究会に入会。演劇以外にバスケットボールなどのスポーツにも熱を入れた。


49年には州政府主催のスピーチ・コンテストに参加。高校生とは思えない迫真の朗読で優勝を果たし、州対抗のコンテストでは6位に入賞した。

高校卒業後は父親の住むカリフォルニアに移り、サンタモニカ市立大学で法学を学ぶものの、成績はあまりよくなく、勉強よりも芝居の練習に熱中するようになる。

ディーンは、さらなる演技の勉強のためにカリフォルニア州立大学に転校して演技科を専攻。アクターズ・スタジオ出身の俳優ジェームズ・ホイットモアのもとで演技を磨く。

舞台『マクベス』で演じたマルカム役の演技が注目されてエージェントと契約を結び、50年には典型的なアメリカン・ボーイのイメージを買われてペプシコーラのコマーシャルに出演。

しかし、俳優としての仕事はほとんどなく、大学の授業をさぼってハリウッドで映画やテレビのオークションに参加する日々を送る。

51年にはテレビ・ドラマ『第一の丘』でヨハネを演じてまずまずの評価を得て、ジェリー・ルイスとディーン・マーティン主演の『底抜け艦隊』(52)では端役として映画デビューを果たす。

俳優としての成功を求めるディーンは、大学を中退してニューヨークに移住。52年にはアクターズ・スタジオの入門テストを受け、150倍の難関を突破してスタジオ史上最年少の研究生となった。

その直後、舞台『ジャガーを見ろ』の準主役に抜擢され、上演はわずか6日で打ち切られたが、ディーンが演じた知能の足りない青年役は大きな注目を集めた。

舞台でのキャリアを優先させるために『銀の盃』 (54)などの映画出演を断り、54年にはブロードウェイの舞台『背徳者』でアラブの青年役を演じて絶賛を浴びた。

アクターズ・スタジオの創設者の一人であるエリア・カザン監督は、ディーンの才能に注目して新作映画『エデンの東』(55)の主役に抜擢。ワーナー・ブラザース社と1万ドルの契約を結んだ。

ディーンは、父親の愛に飢え、反抗的で孤独感に打ちのめされた息子キャルを熱演。反抗的で傷つきやすい若者像はセンセーションを巻き起こした。

く『理由なき反抗』(55)では、キャル役の延長ともいえる悩み多きティーン・エイジャー、ジムを持ち前の個性と演技力で見事に演じきった。『エデン〜』撮影中に知り合ったイタリア人女優ピア・アンジェリと知り合って恋に落ちるが、ディーンの破滅的な性格が災いして4ヶ月で別れてしまう。

その後も、テレビ・ショーの司会者マイラ・ヌルミ、『理由〜』の共演女優ナタリー・ウッド、『007/ドクター・ノオ』のグラマー女優ウルスラ・アンドレスらと浮名を流すが、どれも長続きしなかった。

『理由〜』の撮影が終了すると、共演のエリザベス・テイラーの妊娠で撮影開始が遅れた『ジャイアンツ』(56)に出演。監督のジョージ・スティーブンスに頼み込んで手に入れた、ひねくれ者の牧童ジェット・リンク役を、自分の意志を通すために監督と反目しあいながらも、的確な演技力で演じ切って演技派俳優としての才能の片鱗を見せた。

しかし、映画完成直前の55年9月30日、次回作に予定されていた『傷だらけの栄光』(56)のロッキー・グラシアノ役は同じアクターズ・スタジオ出身のポール・ニューマンが演じ、彼の死後公開された『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』は大ヒットを記録。若者たちは映画の中のディーンの姿に共感した。
www.geocities.co.jp/Hollywood/5710/j-dean.html

24歳の死は『ジャイアンツ』の公開前だった。事故原因は長年、ジェームスのオーバースピードだったと信じられていたが、近年発見されたオリジナルの事故記録から対向車の車線はみ出しによるものであると判明している。

死後、その終焉の地に建てられたモニュメントには『James Dean 1931Feb 8―1955 September 30 PM5:59』の字が刻まれている。

事故を起こしたポルシェは、彼のレース用の愛車で、通常はレース場のみで使用されていたが、この日はこの車を運転する特別な事情があったとされている。

また生前のジェームズは、「レースは危なくないですか?」と記者に問われた際に「車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です」と語っていた。

遺体は故郷のフェアマウントにある公園墓地に埋葬され、現在も献花が絶えない。

ジェームズは、とくに『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者はジェームズをモデルにし、その死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。短すぎるキャリアと衝撃的な死、それに公開葬儀がジェームズをまぎれもなく時代を超えた魅力を持つ崇拝の対象にした。

ジェームズ・ディーンの墓はピンクの様な色をしており、多くのファンによってキスマークがつけられている。

1961年に21歳で事故死した俳優・赤木圭一郎は、死後「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれた。

ジェームス・ディーンの事故車のミニカーが販売されたことがある。

1996年公開の映画『クラッシュ』には、事故の模様を本物のポルシェ550を使って完全再現するシーンが出てくる。

モリッシーの「スエードヘッド」のプロモーション・ビデオのラストシーンにジェームズ・ディーンの墓が登場する。

2002年〜2004年頃にかけて日本のフィギュアメーカーキューティーズから1/4スケールのリアルなフィギュアが発売された。

ジェームス・ディーンが「理由なき反抗」と「ジャイアンツ」で穿いていたジーンズは、リー ライダース101で、リーバイスではない。

「理由なき反抗」で着ていた赤いジャケットは、マクレガー社の防寒用上着「ナイロン・アンチフリーズ」で、ゴルフ用ジャケットの「ドリズラー」ではない。

また、スイングトップと呼ぶのは間違い。これは日本のヴァンジャケットが創作した和製英語名称である。

アメリカのロックバンド、イーグルスは3枚目のアルバム、「On TheBorder」に「James Dean」という曲を収録した。(この項目の出典『ウィキペディア』2009・9・29

2009年09月29日

◆微笑んだ小澤一郎



               渡部亮次郎

新聞報道によれば、9月20日からイギリスを訪問していた民主党幹事長小澤一郎氏は、予定を2日延長して27日成田着の飛行機で帰国した。

小澤氏は空港で記者団から声をかけられたが、無言で少し微笑んだだけだった。何のための微笑みか。テレ笑いか、蔑み笑いか、待ち構えた報道陣はすぐすごと帰った。産経新聞は「小澤氏帰国 ?だらけ英国訪問 報道陣シャットアウト」と報ずるしかなかった(28日)。

わざわざ「実務調査」と謳って、先に菅直人副総理が済ましてきたばかりの英国での「実務調査」にわざわざ幹事長が重ねて出かけていったのだから、発表が嘘である事は自明の理。

民主党役員室に依れば、「実務調査」の項目は@国会審議の方法と議会運営のあり方 A選挙運動の規制と自由化 B企業団体献金のあり方 C公務員制度改革に向けた環境整備。

菅副総理と重複しようが何だろうが、調査が事実なら堂々と「くだらない」発表すればよかったじゃないか。調査も役人面談もしなかったのだから、謎の微笑みを残して逃げるしかなかったのだ。

しかもイギリスで会うのは要人が一切無し、従って記者団の同行も、現地取材も断るというのだから、自民党有力議員が推量するように持病の狭心症の検査か治療だったのではないか。

しかし、産経新聞も、推測をしているものの「具体的な証拠はない」とお手上げだ。

この紙面によると小澤氏は英国訪問が多いことで知られる。初めて狭心症で入院したのは平成3年6月のこと。その2年後の平成5年から5年連続して訪英したほか、少なくとも平成11,12、16年にも訪問している。

また、別の筋からの情報では、アメリカ訪問した時も、そこから極秘にロンドン入りして、病院で『治療』したこともあるという。今回、20日から6日間の日程が2日間延長された理由は「個人的に立ち寄るところがあった」為としているが、立ち寄り先は公表されていない。

かねて「心臓に入れた用具の交換期限が迫っているので、総選挙が終わったらロンドンの病院を訪ねなければならない」との噂は流れていた。空港で「実務調査:」に関する記者会見はせず、謎の微笑みを残して無言で立ち去った実力者。謎は謎を呼び、独り歩きを始めた。

私も心房細動など心臓に問題を抱えて某大学病院に定期的に通院しているので、他人事(ひとごと)ではないのだが。2009・09・28


2009年09月25日

◆スパイは普通のおっさん




                 渡部亮次郎

スパイがスパイらしく見えたら、それは失敗だ。平和ボケ日本人は「あんなに子供たちにも優しかったおじさんがスパイだなんて信じられない」というが、そう信じさせるのがスパイの初歩なのだ。

2006年7月初旬に起きた北朝鮮によるテポドンなどの発射事件では、各国スパイの活躍による様々な情報収集が攻防の前提になった事は当然である。

スパイと売春婦は人類史上,最も古典的な職業といわれるくらいだから、人間が、派閥であれ、自治体であれ、国家であれ、集団を維持して行くための必要不可欠の情報人間がスパイなのだ。

20世紀に入るや、科学と技術の進歩により、人工衛星や盗聴器、インターネット等、様々なスパイ機器が前面に出てきたが、所詮、心を読まなければ、相手の抱いている意図の真相を把握できない以上、スパイの需要は益々高まっている。

スパイ (Spy) とは敵対勢力などの情報を得るため、合法違法を問わずに情報入手や諜報活動などをする者の総称である。工作員(こうさくいん)間諜(かんちょう)、間者(かんじゃ)、密偵(みってい)とも呼ぶ。

“スパイ”と呼ぶのは敵方の者のみで、味方の者はエージェント(代理者)と称する言い方もある。

政治・経済・軍事機密・科学技術などの情報をいち早く入手することは戦時・平時を問わず戦略上重要であり、この種の行為は古代から行われてきた。世界各地の神話や古文書にもしばしば描写される。日本の忍者やお庭番もスパイの範疇に属する。

近代以降、各国はスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げた。特に第2次世界大戦後の東西冷戦期には、世界各地で激しいスパイ活動が行われ、多くのスパイ事件が発覚してもいる。

この状況は、米ソ2極体制が終結した現在でも変わってはいない。一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官・駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。

小説、映画の影響により派手な活動が連想されがちであるが、古典的表現である「外套と短剣」に表されるように、実際のスパイは実に地味な活動をしている事が多く、本来別の存在である。

忍者や007シリーズ等、大衆向けに膾炙したフィクションが先入観の原因と考えられる。このような破壊活動などは実際には軍特殊部隊によって行なわれている。

あるいは、よくありがちな敵組織に潜入して情報を得るというのも特に大国の間では極めて少ない。なぜなら、基本的に情報公開されているため、合法的に調べれば目的の情報というのは意外に簡単に得られるからである。

しかも、そのようなリスクを犯す方法よりも、目的とする情報がある機関の職員に、異性の諜報員が近づき、恋愛感情につけ込んで情報の取得を頼むケースの方が圧倒的に多い。上海総領事館事件は耳新しい。

スパイをテーマとした小説や映画、漫画などは、冷戦期に盛んに送り出されたものの、近年はやや下火になりつつある。

また危険な任務が多いのに基本的に給料が安い(ケースオフィサーは公務員 内通者に至っては報酬が贋金で支払われたりする事も)為、現在の先進国に限って言えば人気がなく進んでやろうとする人間は稀である。

プロ野球のスコアラーが、次の対戦相手の戦力・戦術分析の為に試合を観戦したりする事から、「スパイ」と表現される事もある。企業における産業の技術情報などのスパイ行為については産業スパイと言う。

戦争を放棄した日本はなぜか諜報活動を自ら放棄したのはおろか、他国のスパイを取り締まる法律も放棄した。スパイ天国である。北朝鮮による拉致事件が大手を振って展開された所以である。国民はまだ目が覚めない。

日本を舞台にした戦後のスパイ事件としては、韓国大統領に当選するはるか以前に韓国の政治家金大中氏が韓国の工作員に東京で拉致され、日本海に沈められそうになりながら母国に運ばれて解放されるという事件が大きい。

私は昭和48年6月ごろ、東京で反朴政権活動を展開する金大中について、在日韓国大使館の金在権公使に質問したことがある。そしたら金公使は「そのうち何とかなりますよ」と不気味に笑った。

私は直後に大坂へ転勤になって問題から遠ざかったが、同年8月8日に事件は起きた。金大中が何者か(韓国中央情報部=KCIA説が有力)により東京都千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から拉致されたのである。

もともと金大中は1971(昭和46)年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補。軍事独裁を強いていた民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)に挑戦。敗れはしたが、わずか97万票差までの肉薄だった。

朴正煕は民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えざるを得なかった。大統領選直後、金大中が交通事故に遭った。あきらかに暗殺工作だった。

股関節の障害を負った。その後、金大中も危機感を覚えたのか日本に逃亡し、日本、アメリカを中心に民主主義運動を行っていたさなかの拉致事件だったのだ。

朴正煕は金大中が国内に居ないことを利用し、国内に戒厳令を発令した。その頃、私はソウルを訪問した。閣僚も高官も夜12時前には帰宅した。スパイは夜動くから、捕まえやすいとのことだった。

丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA)長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談した。

逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

そんな中、首都警備団長尹必!)(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。

しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

1973年8月8日昼頃、東京のホテル・グランドパレス2212号室で金大中は同ホテルに宿泊していた梁一東韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを何者かに襲われ、空部屋だった2210号室に連れ去られる。犯人グループは、エレベータで地下に降りる途中、金大中にクロロホルムを嗅がせて意識を朦朧とさせた後、ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、船で神戸港から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中は「船に乗るとき、足に錘をつけられた」と後日語っている。

しかし事件を察知したアメリカの通報を受けて自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行、解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

警視庁はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金は外交特権を盾に拒否。日本政府は金東雲に対し日本では初となるペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セグァン)が朴正煕殺害を決行し、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・ジョンギュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭の、警護室長に就任した車智!)(チャ・チチョル)に対する反感から、10・26事件(朴大統領暗殺事件)がおき、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。

後年(2006年2月5日)、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が韓国政府により公開され、日韓両政府が穏便に事を済ませ政治決着を図ろうとしていたことが明らかになった。

第2次世界大戦前には「ゾルゲ事件」が起きたが、国民は敗戦後の極東軍事裁判で明らかにされるまで全容を知らなかった。ドイツ人のジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895年10月4日 -1944年11月7日)が日本を舞台にして繰り広げたスパイ事件のことである。これについては別に執筆したので省略する。

アメリカとの戦争を始めるに先立って日本陸軍はアメリカ本土にスパイを放った。新庄健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)である。

新庄は陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任し、階級は陸軍主計大佐に至る。情報将校としてアメリカの国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。

新庄の死後、日米開戦当日に行われた葬儀に駐米大使館職員が参加していた事が最後通牒の遅れた原因とする説がある。

明治30年9月農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校を経て大正4年12月主計(会計・給与などを担当する軍人)候補生となる。

陸軍派遣学生として昭和3年3月東京大学経済学部を卒業、大学院を昭和5年3月に修了するなどインテリに養成される。

昭和12年8月主計中佐に進み、昭和16年1月参謀本部からアメリカ出張を命ぜられた。任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。

所謂スパイであるが、4月に到着以後、非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。

諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。

元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。

これらの調査結果を日本の参謀本部に報告書として提出するが、渡米から、3ヶ月働きづめだった新庄は、ワシントン市にあるジョージタウン大学病院で開戦直前の12月4日急性肺炎を併発し没する。45歳だった。

新庄の葬儀が最後通牒の遅れた事に関係するという説が、ノンフィクションライターである斎藤充功の著書に記されている。

12月4日に逝去した新庄の葬儀は12月7日、日本時間では12月8日にあたる。12月8日は日本が海軍の戦力を以って真珠湾を攻撃した日であり、後には開戦記念日と呼ばれる。

この日日本はアメリカに対し最後通牒を行いその通告文をアメリカ国務長官コーデル・ハルに渡す事を予定しており、その日時は12月8日午前3時現地時間で12月7日午後1時を定刻としていた。

攻撃の前に予め開戦の意志を伝えるというのが目的であったが、定刻を過ぎてもその最後通牒は行われず、真珠湾攻撃は午後1時15分(日本時間8日午前3時15分)に始まる。

日本からの文書を翻訳・浄書するのが遅れた為などの言い訳があるが、この事から騙し討ちと呼ばれる。予てからその原因は大使館職員の怠慢であったと言うのが定説であるが、斎藤の調べでは来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使らの葬儀出席が原因と言う。

新庄の葬儀は現地時間で午後に行われ、磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使が参加しており、その来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言うのだ。

ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。しかし、こうした事実も国民は戦後になって初めて知らされた。しかも関係者はなにごとも無かったかのように事務次官や大使に出世した。

(参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。文中敬称略)

2009年09月22日

◆小澤幹事長の健康状態



                渡部亮次郎

民主党の小澤幹事長の健康状態は、余りよくなく、総選挙後、できるだけ速い機会にロンドンで心臓の「手入れ」をしなければならない、と選挙中から、さる筋から流れていた。

その結果、9月19日になって「20日から25日までのロンドン訪問」が伝えられたが、労働党や保守党の関係者、政府の幹部との会談を予定し、英国の政治献金や選挙制度にあり方、国会運営などを調査するという触れ込みである。

以前はロンドンへ「手入れ」に行く時はアメリカへ出張し、そこから隠れてロンドンへ渡っていた小澤だが、今回からは立場が重要になったから、報道陣から隠れる事はほぼ不可能と見て、発表したもののようである。

小澤の健康状態は厳重秘密にされ、小澤番の記者は勿論、秘書たちも触れたがらない。秘密のヴェールに包まれているわけだが、艶の無い肌、ふやけたような顔の浮腫み、昼食後義務付けられている午睡などから専門家は、心臓以外にも悪いところがあると判断する。

多分、今回、ロンドンでは大きな手術は短期間だから不能。おそらく太ももの付け根の動脈から器具を使って、心臓内のある種の器具を交換するのではないか、と言っている。

考えてみれば、私の政治記者生活は、1964年秋の東京オリムピックの最中、総理大臣池田勇人が喉頭癌に倒れながら、側近たちが、真実を本人に秘匿すべく、国民に「前癌症状」などといい逃れた真相を暴くため、オリムピックそっちのけで医師団の取材に日夜かけめぐったことから始まった。過労で歯が何本も抜けた。

だから、この取材で、癌についてはかなり勉強した。しかも直後、
担当していた前の東京オリムピック担当大臣河野一郎が腹部大動脈瘤破裂で急死。その後、実弟の謙三も同じ病気にかかりながら医学の進歩に救われるという取材もした。

さらに下って1980年6月、時の首相大平正芳が心筋梗塞で倒れた時は、かつて秘書官として仕えた園田直がやはり糖尿病で心筋梗塞を恐れていたので、大平も間もなく死亡する事が分かっていた。果たして12日早朝に死亡。

園田はすぐ目白台の田中角栄を訪問、後継者を鈴木善幸に決定。情報と知識の勝負に勝った。園田は鈴木内閣で厚生大臣と3度目の外務大臣を務めた。

大平の糖尿病は秘匿されていたが、主治医の兄弟が外交官。その人物から事実が漏れていた。「実に医者の注意をきかない悪い患者」。と言う事は合併が進行している。長い事は無い。マスコミには伝えなかった。

田中角栄は自らバセドウ病であることを喧伝していたが、重い糖尿病である事は秘匿した。竹下派が分派して田中を興奮させれば、やがて脳梗塞を起こす事を知って実行したのなら、これは殺人事件なのである。

こうしたことを振り返れば、現職の政治記者は、政治情報と共に、かなり高度な医学知識を持っていなければならないことが納得できるだろう。

大野伴睦の死は、結果的には、宿敵佐藤栄作を政権に押し上げたし、やはり副総裁だった川島正次郎の死は田中角栄政権の短命化に繋がった。こうした事を考えると、小澤の渡英は扱いは小さいにしても、政治記者としては胸に深く記すべき課題であるはずだ。(文中敬称略)2009・09・20