2010年04月04日

◆野坂参三の不思議

渡部 亮次郎

2007年7月18日、98歳で死んだ宮本顕治が書記長となった1958年。議長として君臨した人の名は野坂参三(のさか さんぞう)。ところがスパイだったことがわかって100歳のときに除名された。元々何のための入党と悲惨な半生を過ごしたのか。不思議な人だった。

とにかく、1992年100歳のとき、『週刊文春』9-11月の連載が基となり、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。名誉議長解任時は高齢であることに配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた。

これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。

野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895―1939年)ら数名を内務人民委員部NKVDに密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったの
である。

除名の際には党の査問にも反論することなく従ったといい、この件について公に語ることなく亡くなった。この発覚以前からかつての同志袴田里見らからも野坂をスパイと疑う声があったほか、ソ連と米国との二重スパイ説もある。しかし真相は永久に不明のままとなった。

山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弐と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。

慶應義塾在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。

帰国後、日本共産党に参加。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。

この釈放から1931年に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。外国人向け政治学校クートヴェで秘密訓練を受け、その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。

また、1940年、中国・延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行い、日本帝国主義打倒を目指す。

第2次世界大戦終了後の1946年1月12日に帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。大会委員長山川均、司会荒畑寒村のほか日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。

この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱した。

先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した中央委員会との共同声明を発表した。府中刑務所から解放されていた徳田球一らと日本共産党の再建を果たす。

1946年4月10日の戦後初の第22回衆議院議員総選挙で東京1区から当選。新憲法制定の審議では、自衛権保持の観点から政府の草案に反対したことは知られるが、一方で「主権在民」を書き込ませた功績として評価されている。

ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを基に国会で大々的に追及されたこともあった。

1950年に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。

さらにGHQからレッドパージを受け、地下活動、中国に亡命して武装闘争路線を採った。1955年に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任。事実上は宮本の軍門に下ったのでは無いか。だから宮本は以後、野坂を疑わなくなった。

1958年に最高位の議長となり、宮本顕治が書記長となった。1982年7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長。1956年に東京選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって務めた。

ソ連崩壊後、公文書が公開されてしまたっため屈辱的な晩年となったが、奇怪としかいえない生涯をなぜ送ったのか、遂に明らかにしないまま死んだ。

晩年には、自叙伝『風雪のあゆみ』を完成させ、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたことがある。しかし除名により表舞台に2度と出ることはなく、まもなく死去した。

「徹子の部屋」では「革命運動のために子供を作らなかったが、今では後悔している」と述べていた。 ただし、のちに養女・米子をとっている。

夫人の龍(りょう)も女性革命家であり、ソ連では逮捕・釈放を経験した。波乱の生涯を1971年閉じている。 スパイと暴かれる前で、せめて、良かった。

野坂は実に不思議な生涯を送った人だが、これを見破れなかった日本共産党も屈辱だったろう。出典:「ウィキペディア」2007・07・19

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・オザワ幹事長室はカネと数:山堂コラム 312
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・色ボケぢぢいの「性器の一大事」:平井修一
・鳩を寄せる悲しみ:渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年03月31日

◆患者を脅す医者が悪い

渡部 亮次郎

<「血糖値を抑える」カイコ粉末に薬効と宣伝して売る カイコの粉末に薬効があると宣伝して健康食品を販売したとして、大阪府警警備部などは2007年3月22日、薬事法違反(承認前の医薬品広告など)の疑いでボンビックス薬品(大阪市中央区)と社長(48)ら2人を書類送検した。

社長らは容疑を認め、1998年11月ごろから15万個以上、約15億2000万円分を売り上げたと供述しているという。  

調べでは、2006年8―11月、カイコの粉末入り錠剤「ボスリン」など2
種類の健康食品を、血糖値を抑えるなどの薬効があるとホームページや
チラシで宣伝。山形県酒田市の女性(58)ら8人に270錠入りを計17個
(20万3700円)販売した疑い。>ZAKZAK=夕刊フジ 2007/02/23

これが、要するに「糖尿病怖い」に付け込んだ犯罪なのである。今後も
似たような事件が多発すること 間違いない。

なぜならば、糖尿病は今のところ一旦かかったら絶対に治らず、一生付
き合わなければならない病気。最後はインシュリンの注射を朝夕打たな
ければならなくなる。痛い!いやだ!其処を悪が狙う。

<日本国内の糖尿病患者数は、この40年間で約3万人から700万人程度に
まで膨れ上がってきており、230倍以上という異常な数値を示している。予備軍を含めると2000万人に及ぶとも言われる、現代の日本人が抱える難病の一つである。

糖尿病(とうにょうびょう、Diabetes Mellitus: DM)は、糖代謝の異常によって起こるとされ、血液中のブドウ糖濃度が病的に高まることによって、様々な特徴的な合併症をきたすか、きたす危険性のある病気である。

一定以上の高血糖では尿中にもブドウ糖が漏出し尿が甘くなる(尿糖)
ため糖尿病の名が付けられた(Diabetes=尿、Mellitus=甘い)。腎臓の
再吸収障害のため尿糖の出る腎性糖尿は別の疾患である。(出典: フリ
ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

2006年12月24日、親戚の主婦(61)が腎不全のため死去した。永年に亘って糖尿病を放置したため、2006年になって突如、人工透析を開始しなければ命にかかわると宣告されてそうしたが、1年も経たないうちに死去となった。糖尿病の知識を本人も家族も持たなかったからである。

昭和55年9月19日、鈴木善幸内閣の厚生大臣に園田直(そのだ すなお)さんが発令され、その秘書官に私が就任した。園田さんにとって厚生大臣はそれ以前十数年前の佐藤栄作内閣以来、2度目だった。

就任して間もなく、糖尿病患者団体から永年に亘って陳情のあった「自
己注射」を許可する「省令」改正を裁可した。糖尿病の治療薬(注射のみ)が発見されt1923年のノーベル医学賞が与えられた。欧米では直ちに自己注射が許可されたが、日本では「注射は医者がするもの」との判断で許可されないできた。

1978年、ボン(当時の西ドイツの首都)で開かれたサミット(先進国首脳
会議)に随行した際、大阪選出の参院議員森下泰さんと一緒になった。
言わずとしれた仁丹の社長である。かねて衛生器材会社「テルモ」の経
営者でもあった。

その森下さんがふと「わが国では糖尿病患者が自分でインスリン注射が
できないので患者が困っておりまんね」と言う話。「自己注射が可能に
成れば衛生器材会社は競争して針を細くして痛みを和らげることがでけ
るんだが」。

その時は外務大臣園田直の秘書官だったから、悪いが話はそのまま忘れ
てしまったのだが、あれから2年経って厚生大臣。ご本人は隠していたが、若い頃からの糖尿病患者。既にインスリン注射を開始しなければいけな
いのに、注射きらいで医師から逃げている。

ボンでの森下さんの「陳情」もあり、自己注射は大正12年(1923)年以来、57年目にして園田厚生大臣によって許可された。酷い例では1日、4回も医者に通わなければならなかった患者も、通わないで済むようになった。

触れたくも無いが、日本医師会の傲慢と厚生官僚の怠慢が、わが国にお
ける糖尿病患者を病気と通院の2重の苦しみに目をつぶってってきたので
ある。

昭和59(1984)年4月2日、園田さんは既に全盲になっていて、腎不全で死
んだ。まだ70歳だった。若いときからインスリン注射の痛みと闘ってい
れば、あと10年は確実に長生きできたし、盲目にもならずに済んだものを。
まさに紺屋の白袴だった。(2010年3月27日、芝の増上寺で27回忌法要が
営まれる)。

園田さんが自己注射を許可してから、国内外の衛生器材メーカーは、拡
大し続ける糖尿病患者市場を目前に切磋琢磨。まず、ほぼ20日分のイン
スリンを1本のボールペン型注射器に詰め込むことに成功。

一方、注射針を細くすることにも日夜取り組み、2007年3月現在、注射針
の外径(先端部)は僅か0.23ミリ。近くは0.2ミリになろうとしている。当
に手先の器用な日本人を象徴するように世界一の細さ。全く痛みが無く
なった。

ところが医者は患者を脅す。「あんた、食欲を抑え、散歩を沢山しない
と、注射に頼ることになるよ、痛い目に遭うよ」。

食欲を押さえ、運動もしながら、どうしても血糖値上昇に悩む、悩める
子羊の足元を見透かして、効き目のない怪しげな薬もどきを売りつける
業者。売るほうも悪いが、患者を脅しつける医者がもっと悪い。

なお、インスリンは胃酸に混じると効き目が無くなる。そのために今の
ところは皮下注射で体内に入れるしかない。アメリカでは鼻から吸入す
る方法も開発されたと言うニュースを聞いたが、日本ではまだだ。(再掲)
。2007.03.20
■(本稿は、「頂門の一針」(1853号)に掲載されました。
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2010年03月28日

◆佐藤ノーベル賞の陰で

渡部亮次郎

故佐藤栄作元首相は沖縄返還を功績として、日本人初のノーベル平和賞を受賞したが、その陰で優れた国際政治学者が青酸カリ自殺を遂げていたことを知る人は少ない。

その人の名は若泉 敬(わかいずみ けい)。1930年3月29日 ―1996年7月27日、沖縄返還交渉において、佐藤栄作首相の密使として重要な役割を果たした。死去した時、新聞は癌死と報じたが、そうではなかったことを知ったのは極く最近。

若泉氏と交流のあった宮崎正弘氏(評論家、作家)が最近、自らのメール・マガジン「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(http://www.melma.com/backnumber_45206)で軽く触れていたから初めて知った。以下「ウィキペディア」より。

福井県今立郡今立町(現・越前市)生まれ。1954(昭和29)年東京大学法学部政治学科卒業。佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。

1957年ロンドン大学大学院修了、1960年米国ジョンズ・ホプキンス大学客員教授となり、マイク・マンスフィールド、ディーン・アチソン、ウォルター・リップマンらと面識を持った。

1961年防衛庁防衛研究所所員。創立に貢献した京都産業大学に1965(昭和40)年より教授として招聘される。1966年に京都産業大学世界問題研究所所員、1970年から1980年まで同研究所所長を務める。1992年の京都産業大学退職時には退職金全額を同研究所に寄付し、同研究所ではこれをもとに「若泉敬記念基金」を設立した。

核時代における日本の平和外交・安全保障政策のあり方についてビジョンを構築し、『中央公論』などの論壇誌でその主張を提示していた。

1966(昭和41)年頃から、面識のあった愛知揆一(外相)の紹介で佐藤首相に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。

翌1967年、福田赳夫自民党幹事長を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。

密使としての交渉に際して、若泉は偽名「ヨシダ」、ニクソン政権において若泉のカウンターパートとなったキッシンジャーは偽名「ジョーンズ」を用いた。

「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年9月30日、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官より、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された。

1969年11月10日 ―11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、同年11月19日(米国時間)佐藤・ニクソン会談で3年後の沖縄返還が決定されることとなった。

その後は現実政治に関与することなく、学究生活に戻った。なお極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。

同書によれば、佐藤とニクソンは、大統領執務室隣の小部屋で、二人きりになって署名したという。この本を私は職掌柄、すぐに読んだが、なぜかマスコミは無視。全く評判にならなかった。

この本が出版されるに先立つ事20年。首相を退いて2年目の1974
(昭和49)年12月、沖縄返還実現を理由に、佐藤に日本人初、ノーベル平和賞が授与された。

沖縄返還が実現したのは若泉とキッシンジャーの裏交渉により「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を日本が「密約」したからである。「密約」無ければノーベル賞なしだったのだ。

同書の上梓後、ノーベル賞からも20年経った1994年6月23日付で大田昌秀沖縄県知事宛に「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自殺)します」とする遺書を送り、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。

その2年後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。

自殺したという話を聞いた大田は「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」とコメントしている。英語版が公刊されたのは、2002年である。なお、『正論』2006年9月号に、英語版序文の原稿が掲載されている。

核持ち込みについての密約は、信夫隆司が2005年までに機密指定が解除された米政府公文書から、密約を裏付ける文書を発見した。キッシンジャーからニクソンへのメモで、日米間の密約を示す「共同声明の秘密の覚書」の存在に触れ、覚書が「核問題」に関するものであることを明らかにしている。

日本側での所在は長らく確認されず、日本の政府・外務省は密約の存在を否定していたが、2009年12月に佐藤栄作の遺品にこの密約と見られる「合意議事録」が存在し、遺族が保管していたことが報道された。

また、2010年3月9日、鳩山政権になってから、岡田克也外務大臣の命令で、核密約があったか否かを調査してきた有識者委員会(座長:北岡伸一東京大学教授)は、正式に(広義の)核密約があった旨の調査結果を報告した。これを受け政府(鳩山内閣)、外務省(岡田外相)はこれまでの、自民党政権下での公式にはなかったとされてきた見解を改めた。

ただし、日本国政府が認めたのは初めてであるが、関係者の間では密約はあったというのは半ば常識化されていた。

今回の有識者委員会の座長を務めた北岡はその著書、『自民党―政権党の38年―』(中公文庫・2008年版・元は95年、読売新聞社から単行本で刊行)の中で、佐藤内閣の沖縄返還を巡る記述の中で、(pp.148−149)若泉の『他策ナカリシヲ信ゼムと欲ス』を紹介し、「密約があったという」という内容の事を記述している。(文中敬称略)

著書
『トインビーとの対話――未来を生きる』(毎日新聞社, 1971年/講談社[講談社文庫], 1982年)

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋, 1994年/新装版, 2009年)

The Best Course Available:A Personal Account of the Secret U.S.-Japan Okinawa Reversion Negotiations, edited by John Swenson-Wright, (Honolulu: University of Hawaii Press, 2002).

評伝
森田吉彦「評伝・若泉敬(全7回)」(『諸君!』2008年10月号-2009年4月号に連載)
後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って: 若泉敬の生涯』岩波書店、2010年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010・3・25

2010年03月27日

◆ラ大使発言時の外相秘書官は私だった

渡部亮次郎

古森義久氏(現在は産経新聞記者としてワシントン駐在中)はレーガン共和党政権成立時の1981年5月、アメリカ民主党系の大手シンクタンク「カーネギー国際平和財団」に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。

その間の同年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインタビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。

これは鈴木善幸政権のころで、外務大臣は園田直(そのだ すなお)、その秘書官が不肖渡部亮次郎だった。

とはいえ、当時、日米首脳会談に際して発表した日米共同声明をる鈴木首相と外務大臣伊東正義氏の対立が表面化。伊東外相が辞任したので、園田氏が後任として厚生大臣から急遽横滑り就任したばかりだった(18日)。

20日にマンスフィールド大使が外務省に尋ねてきて1時間会談、そのご衆参両院で野党による緊急質問が行なわれたが、政府、外務省としては事前協議の要請があった事は、これまでになかったのだから核の持込は無かった、と「見解」を統一。完全否定で切り抜けた。慌てる者は誰もなかった。

当時、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブの野党各党で政府答弁を信じる者は皆無、核持ち込みを事実と想像していた。

個人的には「持ち込まれていることがあるかもしれない、と思わせた方
が抑止力だ」と漏らす野党議員もいた。

後年、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。

さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。それでも日本政府は否定しつづけていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認めた。

今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森氏の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

これに先立って1967(昭和42)年に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。「日本に他国から核兵器を持ち込まさせない」ということで1974年(昭和49年)に提唱者の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

それ以降の歴代内閣は非核三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も非核三原則の遵守を表明していた。

アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としていたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港するアメリカ海軍の艦船が兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる。

後年の1999(平成11)年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年(昭和38年)にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。

また、2008(平成20)年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして
“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、朝鮮戦争
時の1953(昭和28)年にアメリカ海軍の航空母艦「オリスカニー」が核
兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった。

さらにライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長がアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」2010年3・4月号へ寄稿して明らかにした。

それによると、アメリカ軍がベトナム戦争中の1966(昭和41)年に、日米安全保障条約に違反して、返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあったといい、1972(昭和47)年の沖縄返還までアメリカ軍がたびたび日本政府とアメリカ国務省の要請をはねつけ、同様の核持ち込みを行っていたことも示唆している。

パッカードはまた毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたと証言した。

なお、1991年(平成3年)の冷戦終結に伴い、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が地上配備の戦術核兵器と海上配備の戦術核ミサイルの撤去を宣言したことで、平時において核搭載艦船が寄港するなどの形で日本への核持ち込みは無くなったとされる。

核の持ち込みについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」とし、「事前協議があれば核持ち込みを拒否する」とことを表明していた。

しかし、これは逆に「協議を申し出るか否かはアメリカ軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。

また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ海軍艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ海軍艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じてい
ない)。

またカート・キャンベル国務次官補は2009年(平成21年)9月に来日した際、持込みに関する密約は事実存在し「非核三原則」は有名無実である旨言明した。

核持ち込み問題について、2009(平成21)年9月に鳩山由紀夫内閣で外務大臣となった岡田克也は全て調査し11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。

日米間の核持ち込みに関する密約は2つあり、1つ目は核搭載米軍艦船の一時寄港と領海通過密約、2つ目は緊急事態における事前協議後の沖縄への核の持ち込み密約である。

2010年(平成22年)3月に報告書が出されたが、いずれにしてもこの様に元駐日アメリカ大使本人や、その後の様々な調査によりアメリカ軍による日本への核持ち込みとそれに対する「密約」が存在していたことが事前に証明されているにもかかわらず、なぜ時間と手間をかけて調査、報告をする必要があったのかと、その背後関係を懸念する意見もある。

鳩山内閣は核の持ち込みについて事前協議があった時には「常に核持ち込みを拒否する」としていた政府見解を「核持ち込みを認めるかどうかを曖昧にする」に見直す方向で検討を始めた。

「核兵器の持ち込み」(アメリカ軍に限られ、他国軍については適用しない)の定義については、日米間に相違があった。すなわち、米国政府の理解は、「持込み(introduction)とは核兵器の配置や貯蔵を指すものであり、それ以外は、「transit」として一括し、「transit」には寄港、通航、飛来、訪問、着陸が含まれ、共に事前協議の対象外であるとするもの」である。

これに対して日本側では、「transit」も「持ち込み」に当たると解釈する。この米国側の解釈と日本側の解釈の違いが、さまざまな混乱の元であるとされている。

実際、他の事例で言えば、旅客機が最終目的地までの飛行の途中で他の
空港に立ち寄ることがあるが、これは「トランジット」と呼ばれており、たち寄り空港のある国のビザなどは必要とされない。

また、貨物船がある国に寄港する場合にも、貨物をその国に通関させない限り、何らの手続きを要しない。以上のことから、国際的には、たとえ貨物が核兵器であっても、単なる寄港の場合は、その国に持ち込んだことにはならない、との解釈が常識的である。

2010(平成22)年1月、岸政権下の1960(昭和35)年に外務事務次官を務めた山田久就が、国会で事前協議に関して為した答弁「通過・寄港も対象」は野党の追及をかわすための嘘であり、実は対象外にされていたことが、公開されたインタビュー録音から判明した。

日米政府の公文書公開により、核の持ち込みを定義が日米間で不一致で
あることを知られるようになった。

2010(平成22)年3月に発表された日本の外務省調査委員会は明文化された日米密約文書はないとしながらも、日本の政府高官が核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知りながらも米国に核の持ち込みの定義の変更を主張していないことなどを理由に、核の持ち込みについて広義の密約があったと結論付けた。

日米政府の公文書公開により、寄港などの形で核持ち込みを知っていた
政府高官は以下の通り。内閣総理大臣経験者として岸信夫、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三。

外務大臣経験者として愛知揆一、木村俊夫、鳩山威一郎、園田直、大来佐武郎、伊東正義、桜内義雄、安倍晋太郎、倉成正、三塚博、中山太郎。

内閣官房長官経験者として二階堂進。

1994(平成6)年に佐藤首相の密使を務めたとされる若泉敬(当時は京都産業大学教授)が「1969(昭和44)年11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言している。

2010年(平成22年)3月に鳩山内閣の調査報告書が出された。調査報告書では佐藤栄作元首相がニクソン元大統領と有事の際に沖縄への核持ち込みについて、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことが明文化された密約文書が確認されたが、外務省の中で引継ぎがされた形跡がないという理由から日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。

大きく報じられる事はなかったが、「密約」に身を挺した若泉敬氏は服毒自殺した。佐藤=ニクソンで交わされた密約の舞台裏を、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。

完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。佐藤ノーベル平和賞野犠牲者である。(「ウィキペディア」) 2020・3・24

2010年03月26日

◆刺身・天丼・豚かつ

渡部 亮次郎

昔、政治記者だったころ、後に首相になる福田赳夫さんに、東京で出て来て何が一番美味しかったですか、と尋ねたら、「上野駅前で食べた刺身だった」といった。海の無い群馬県で育った。昔は運搬手段や冷蔵手段も少なかったから、上野の刺身は初物だった。

そういえば、同じ海無し長野県出身の倉石忠雄代議士と知り合いとなったが、腹が出てきたからダイエットすると減食を始めたら、栄養失調に陥った。蛋白質として主に摂取していたのが塩鮭。ご飯を抜いたら塩鮭も抜いたので蛋白質不足に陥ったのである。

新潟から小学校卒業だけで上京したのは、後に「今太閤」と呼ばれる田中角栄さん。何が美味しかったですかと尋ねたら「上野駅前の食堂で食べた天丼」との答えだった。昔の農家で天婦羅なんか揚げることはなかったから、天丼は初物だったのである。

そのあと角さんに銀座ですき焼きをご馳走になったが、砂糖抜きだったので塩辛くって往生した。しかし、彼にはこれが一番のご馳走らしかった。雪国は塩辛く育つ。だから脳梗塞で死んだ。

彼らと私は親子ほど年齢が離れているが、少年時代に対米戦争が行なわれていた関係上、食糧事情の貧しい暮らしが続いた。旧八郎潟沿岸で育ったため、魚(淡水魚)を生で食べる事は禁じられ、さりとて日本海の魚が新鮮な刺身状態で入手する事は不可能だった。

したがって天丼も刺身も少年時代には食べた記憶が無い。特に刺身を美味いと思った時は60を過ぎていた。

50を過ぎてから東京の下町に住むようになって、足繁く通うのは浅草や上野の「とんかつ屋」である。

<東京銀座の洋食店「煉瓦亭」が1904年に発売した「ポークカツレツ」がとんかつのルーツとされている。「とんかつ」を初めて売り出したのは、1929年、東京御徒町の洋食店「ポンチ軒」とされている。

「ポンチ軒」のオーナーの島田信二郎は、かつて宮内省の大膳部につとめるなど西洋料理の経験が豊かで、厚い豚肉に十分に火を通す独自の加熱調理法を考案した。これに刻んだ生キャベツを添えて「とんかつ」として売り出した。

1932年にはこれに続いて上野の「楽天」、浅草の「喜田八」がとんかつを発売。下町庶民の食べ物として育てられ、愛された。>その関係で上野や浅草にはとんかつ屋が多い。

井泉(いせん本店)上野広小路が行きつけである。注文してからテーブルに料理が届くまでの店員各人の隙の無い連携プレーはさながら芸術である。これを見るのも楽しみだ。

なお店の「いせん」。初代は俳句をよくし、萩原井泉水にあやかって「セイセン」の心算で暖簾を上げたが、下町の客は「せいせん」とは読めず、こちらも諦めて「いせん」で定着してしまったらしい。

<フランス料理の Cotelette に由来し、チーズをはさみ込んで揚げたコルドンブルーや、ミラノ風カツレツとして知られるイタリア料理のコトレッタ、ウィーン名物のシュニッツェル、ロシア料理のコトレータなども起源を同じくするとされる料理である。

日本におけるこの洋食は、1890(明治23)年に銀座のレストラン『煉瓦亭』が考案したものとして知られる。ポークカツレツはその後独自の進化を遂げ、とんかつと呼ばれる和食となり、また数多くの派生料理を生むこととになった。

カツレツの技法は、串カツやエビフライ、本来は異なる種類の料理であるコロッケなどにも応用されていった。現在では鳥獣肉のカツレツを「カツ」、魚介類や野菜を素材とする場合は「フライ」と呼び分けることが一般的であるが、ご当地料理においては例外が見られる)>
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
2010・3・24

2010年03月25日

◆仙岩峠は夜這い峠

渡部亮次郎

せんがん峠を挟んで秋田県側の仙北市(田沢湖町、角館町などが合併してせんぼくし)、岩手県側の雫石(しずくいし)町はともに美人の多いところとして有名だ。

訪れた高名な評論家が「山本富士子が田植えをしている」と表現した。2つの地域は今でこそトンネルであっという間に結ばれるが、昔の峠は熊もうろつく危険地帯。

その昔、男どもは夜這いに命を賭けて峠を往来した。仙北と雫石が美人のDNAを共有するに至った経緯については、おそらく大変な冒険談があったはずだが、男は既遂を言い、女は未遂をバラスと言うものの、今となっては聴取不能だ。

八幡平(はちまんたい)に「蒸(ふ)けの湯」と言う小さな温泉がある。ここに行けば子だねが授かると昔から言われて、不妊症の夫婦が湯治に滞在する。

木管から適度の蒸気が噴出しており、この蒸気を当てて、あそこを蒸かすから、不思議や、翌年の春には子供が生まれるといわれている。

ここにアメリカ人の大学教授を案内したところ、それは蒸すからではなくてスワッピングが成立するからだ」と飛んでもない仮説を披露したので往生した。

石女と書いて、不妊症はすべて女性側にあるとするのは封建思想に基づく誤解。原因は男女半々。湯治の滞在が長くなるに及んでスワップが成立しないとは限らないでは無いか、といわれても反論はできない。

江戸時代、盛岡と秋田を結ぶ峠は「国見(くにみ)峠」「生保内(おぼない)峠」と呼ばれていたが、明治になってこの地を視察した大久保利通により、秋田県仙北(せんぼく)郡と岩手県岩手郡を結ぶことから、双方より字を取り「仙岩峠」と命名された。

1964年、自動車通行を可能にし、国道46号(別名:南八幡平パークライン、旧名、国道105号)として開通したが、秋田県側は急カーブの続く厳しい峠越えの道であり、冬季は積雪により通行止めとなっていた。

このため開通間もない1970年には新道の建設工事が開始され、1976年に国道46号のバイパスである仙岩道路が開通し、自動車通行は本峠を迂回し仙岩トンネル経由となった。

なお、開通後わずか10年余りで放棄されてしまった旧道は閉鎖され、近年になって大規模な崩落(幅員の大部分を消失する路盤欠損)があり現在は廃道となっているが、岩手側の旧道分岐点〜国見温泉入口までは、国見温泉に通じる岩手県道266号国見温泉線として整備されている。
2010・3・21
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2010年03月24日

◆朝令暮改で失った票

渡部亮次郎

<民主、生方氏解任を撤回 小沢幹事長と協議。
民主党の小沢一郎幹事長ら執行部を批判した生方幸夫副幹事長の解任方針をめぐり小沢氏が23日午後、生方氏と直接協議し「もう一度一緒にやってくれないか」と述べ、事実上、撤回した。鳩山由紀夫首相も生方氏と会った際、「大ごとにならないように」と発言していた。

当初、党執行部は「処分」でなく「人事異動」の形を取り、事態収拾を図りたい考えだったが、世論の批判の高まりを踏まえ、転換。ただ小沢氏の掌握力の低下が浮き彫りになった形で、夏の参院選に向け党内の動揺が続くことも予想される。

生方氏は23日昼、党倫理委員会を開催し、自身の説明の機会を設けるよう求める要望書を小沢氏あてに提出していた。

民主党は23日昼に役員会と党常任幹事会を国会内で開き、正式決定する段取りだった。両会議は、小沢氏の日程上の都合で夕に延期。ただ後任に固まっていた辻恵衆院議員は、そのまま副幹事長に就任する予定だ。>2010/03/23 14:08 【共同通信】

これに先立って<高嶋良充民主党筆頭副幹事長は18日、生方氏を党本部に呼んで副幹事長を辞任するよう求めたが、生方氏は「普通のことをしゃべっているのに辞めろというのは、党内に言論の自由がないということだ。情けない」と反発。

高嶋氏は「議論する場がいっぱいある。なぜそこで言わないのと指
摘したが、生方氏は「(処分するなら)正式に倫理委員会にかけてください」と求め、平行線に終わった。

高嶋氏は会談後、生方氏以外の副幹事長を集め、副幹事長会議として交代を求める方針を確認。小沢氏と電話で対応を協議した。小沢氏は「そこまでする必要はないのではないか」と語ったが、高嶋氏が説得したという。

高嶋氏は記者団に「放置しておくと党の求心力や他の議員の意欲がそがれる。解任ではなく、役職の交代だ」と強調した。>杜父魚文庫ブログ19日

この問題をめぐっては新聞各社が翌朝の論説で反対を表明。続いて行なわれた産経新聞・フジTV共同の世論調査で執行部による生方氏の解任方針に7割以上「ノー」。

民主党支持者でも64・6%が「評価しない」と回答する一方小沢氏の幹事長辞任を求める声が前回から4ポイント上昇し74・3%に達した。「政治とカネ」への鳩山政権の対応も85・3%が「評価しない」とした。

こうした世論の批判の高まりを踏まえ、小沢氏は方針を転換。しかし「小沢氏の掌握力の低下が浮き彫りになった形で、夏の参院選に向け党内の動揺が続くことも予想される」と共同通信は指摘する。

もともと高嶋良充民主党筆頭副幹事長から「解任方針」の意見具申があった時点で「これは高嶋ノゴマすり」と即座にそれを封じたならば、小沢氏も少しは「男を上げた」。

しかし、評判が下がってから決定を撤回したのではまさに「朝礼暮改」で更に「男を下げた」。党運営に関する戦略も戦術も鈍ってきている。票は想像を絶するぐらい失った。小沢氏の懊悩の深まっている事を示している。
2010・3・23

■本稿は、本日3月24日(水)刊の「頂門の一針」1860号に掲載されました。

<本号の目次>
・朝令暮改で男を下げた:渡部亮次郎
・分裂気味のオバマ政権中国観:古森義久
・一歩前進「パラマウント大阪」:毛馬一三
・小鳩民主党の“バラマ・ケア”:平井修一
・野坂参三の不思議(再掲):渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年03月23日

◆小沢氏が逸した千載一遇

渡部亮次郎

<高嶋良充民主党筆頭副幹事長は18日、生方氏を党本部に呼んで副幹事長を辞任するよう求めたが、生方氏は「普通のことをしゃべっているのに辞めろというのは、党内に言論の自由がないということだ。情けない」と反発。

高嶋氏は「議論する場がいっぱいある。なぜそこで言わないのか」と指摘したが、生方氏は「(処分するなら)正式に倫理委員会にかけてください」と求め、平行線に終わった。

高嶋氏は会談後、生方氏以外の副幹事長を集め、副幹事長会議として交代を求める方針を確認。小沢氏と電話で対応を協議した。小沢氏は「そこまでする必要はないのではないか」と語ったが、高嶋氏が説得したという。

高嶋氏は記者団に「放置しておくと党の求心力や他の議員の意欲がそがれる。解任ではなく、役職の交代だ」と強調した。>杜父魚文庫ブログ19日

<産経新聞   「自浄努力を封じる愚かさ」
東京新聞   「それが民主党らしさか」
毎日新聞   「党を暗く閉ざすのか」
とマスコミの受けは散々だ。

この問題について一方の当事者である小沢氏は何と言っているかですが、昨日の高松市での記者会見でも、東京からの地元記者の質問は受け付けず、だんまりを決め込んでいますね。今朝の産経の政治面の記事はこう伝えています。

《「幹事長!生方先生のことでお話を聞きたいのですけれど。記者会見で聞けなかったもので…」

19日午後、JR高松駅のホームで、産経新聞の記者が声をかけると、歩いていた小沢氏は振り返ってじろりとにらんだが、無言のまま電車に乗り込んだ。》

この記者は、歩きながら小沢氏の右横に並び、名前を名乗って質問したそうですが、にらみつけられるだけに終わったそうです。学生時代に小沢氏の著書「日本改造計画」を読んでファンとなったという記者ですが、小沢氏に一時期待を抱いた多くの人と同様、今はその迷妄から解放されているようです。

いずれにしても、小沢氏にとって堂々と自分のことを批判する党所属議員の存在は、言葉を発することもしたくなくなるくらい嫌なのでしょうね。わかりやすい人です。>

で、この問題について一方の当事者である小沢氏は何と言っているかですが、昨日の高松市での記者会見でも、東京からの地元記者の質問は受け付けず、だんまりを決め込んでいますね。今朝の産経の政治面の記事はこう伝えています。

《「幹事長!生方先生のことでお話を聞きたいのですけれど。記者会見で聞けなかったもので…」

いずれにしても、小沢氏にとって堂々と自分のことを批判する党所属議員の存在は、言葉を発することもしたくなくなるくらい嫌なのでしょうね。わかりやすい人です>>。阿比留瑠比のブログ

高嶋良充民主党筆頭副幹事長は小沢氏にゴマをすった。副幹事長として拾われた恩義に答えるべく、生方氏をダシに小沢氏にゴマを摺った。

対する小沢氏は「そこまでやる必要があるか」と一応、太っ腹なところを見せたが、ここが彼の限界。本心は斬りたく思っていたのが本心だから、「解任」を了承した。しかも細野氏に「任す」として、自らの責任を逃れるという卑怯な態度を取った。

本当は高嶋副幹事長から生方解任の意見具申があったとき、これを峻拒すれば小沢の男は上がったろう。「さすが太っ腹、キャリアが違う」と世論もメディアも高く評価したはずだ。

それにしても小澤氏はただの政治家だった。千載一隅のチャンスを逃した。問題は決して小沢氏にプラスにならない。2010・3・21

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2010年03月22日

◆仰がず尊びもしない

渡部亮次郎

昭和26(1951)年3月、新制中学を卒業する時、式では「仰げば尊し」を歌ったが、最近はどの学校でも歌われなくなったらしい。実は当然といえば当然である。先生は聖職者ではなくて教育に携わる労働者に過ぎないから、仰ぐ必要も尊ぶ必要もないと先生が言っているのだから。

NHK記者から外務大臣秘書官を数年、務めたあと、世話して下さる方がいて、日米間の教育交流の仕事を17年間した。それで日本を占領したマッカーサー元帥がなぜ日教組を作らせたかの謎が解けた。

当(まさ)に先生は、アメリカでは聖職者でも模範者でもなく、単なる教育労働者に過ぎない。労働者として雇われている以上、労働条件確保と賃金交渉を雇用者側と行う為には「団結」の労働組合が「当然」必要なのである。

小学校の教師は教科書を制作する。選択するのでは無い。制作するのである。それでいて年俸は300万円程度である。労働者として「生活」を確保する為には労働組合は不可欠なのである。

翻って、わが国では「学校の先生」は社会の模範者であり、田舎では結婚式には校長先生と駐在所の巡査、鉄道の駅長は必ず招待されたものだ。彼らこそは地域社会の模範として尊敬されていたからである。

特に先生は児童、生徒らに教科を教えるだけでなく「修身」としての全人教育を授けていたから「聖職者」といわれ、尊敬されていたものだ。従って月給を上げろとか、休みを寄越せなどという下卑た事は言わなかった。

その代わり、生徒に対しては(中学卒業を待たず)早く兵隊になって国のために死んで来いとも言った。そう言って戦意高揚を煽った先生が、敗戦の瞬間、過去をすべて否定して「平和」教育を敢行、挙句の果てに労働組合即ち日教組を結成した。多分にマ元帥の督励があった。

卒業式で合唱されることがある歌『仰げば尊し』(あふげばたふとし)は当然歌われなく運命を辿ったのである。2007(平成19)年に日本の歌百選の1曲に選ばれただけである。

作詞・作曲者不詳のスコットランド民謡とされているが、作詞・作曲ともに当時の教育者伊沢修二との説、作詞は大槻文彦・里見義・加部厳夫合議であるという説がある。

1884(明治17)年に小学唱歌を編集する際に、伊沢が唱歌として加えたのが唱歌としての始まりである。

しかし、敗戦後には、その歌詞の内容が教師を崇めるもので、民主主義にそぐわないとして大都市を中心に批判の対象となった。「労働者」たる事を主張するものは崇められてもくすぐったかった。

一方、1960年代末に学生運動が高揚すると、旧体制への反発の一環としてこの歌を卒業式で歌うことを憚る空気が大都市を中心に醸成された。

学生運動終息後も古い観念や意識の退潮は続き、また歌詞が、最初に発表された当時の明治時代でさえ一般にはほとんど用いられなかったような古い文語であるため、児童・生徒の関心も低くなっていた。

大都市の公立学校(特に小学校)では、卒業式合唱曲を『旅立ちの日に』、『贈る言葉』、『さくら (森山直太朗)』等、アーティストが歌ったヒット曲を中心にする学校が多くなった。

さらに、『仰げば尊し』を歌っている学校でも、2番の歌詞では「身を立て名をあげ」と立身出世を呼びかけている事から社会情勢の変化に合わないとして敬遠され、本来の2番を省略し3番を2番として歌われることも多い。

1 仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば


2 互(たがい)に睦し 日ごろの恩
別るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

3 朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば
「別れめ」の「め」の部分でフェルマータ(適当に音を延ばす)がかかる。

なお、題は、歴史的仮名遣いでは「あふげばたふとし」である。扇(あふぎ)をおおぎと発音する例に見るように、おおげばとおとしと発音するのが正しいのだが、現代仮名遣いによりあおげばとうとしと表記されたため、発音が表記に引きずられ(現代仮名遣いは必ずしも表音式表記ではないのにそう勘違いされたため)、誤って歌われ今にいたる。

なお、「今こそ別れめ」は係り結びの例。「別れ目」と誤解される場合があるが、実際は「今まさに別れよう」というような意味になる。

戦後、児童文学者の藤田圭雄は、この歌詞を現代風にアレンジしたが、元の歌でないと涙が出ないと保護者から不評になった。

「胸にはハンカチ 肩に鞄  泣いたり騒いだあのころから いろいろありがとう この年月 先生さよなら お元気で」。

原曲に比べて分かりやすいが、保護者の不評によりまだ歌われている学校は無い。

「仰げば尊し」の歌われる時代は2度と来ないだろう「修身」が復活する教育もあり得ないだろう。先生、いざさらば。2010・3・20
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年03月21日

◆西山発言に思うこと

渡部亮次郎

<沖縄返還(72年5月)の際に、日本側が米軍用地の原状回復補償費を肩代わりした密約問題が取り上げられた19日午前の衆院外務委員会。

いち早く疑惑を報じた元毎日新聞政治部記者の西山太吉さん(78)は参考人の一人として意見を述べ、一貫して密約を否定してきた政府について「本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まで来ている」と語気を強めて批判した。>(毎日新聞2010年3月19日 13時23分)

政治記者1年生の時、西山さんの顔をよく見た。昭和39(1964)年
7月10日、NHK政経部政治班(まもなく政治部に改称)に発令された当日、盛岡(岩手県)放送局放送部から特急「はつかり」で着任。総理大臣池田勇人が自民党総裁に3選された当日だった。

翌日、総理官邸に配属され「池田番」の日々が始まった。総理官邸記者クラブ(永田クラブ)では毎日新聞の面々と低い衝立を挟んで向き合いになっており、西山太吉さんがいた。「ニシヤマ フトキチ」と綽名されていた。態度が「太い」というのだ。

次第に判ってきたが、西山氏は佐藤栄作首相をライバル視している
大平正芳氏の親戚だという。その関係で「反佐藤」記者と見なされていた。

私が総理官邸クラブに所属していたのは、僅か1年。ただし、東京オリンピックのさなか、池田首相が、喉頭癌のため退陣、後継を佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎で競った結果、佐藤が決定。佐藤は官房長官鈴木善幸を橋本登美三郎に替えただけで内閣を継承した。

私は敗れた河野一郎にくっついてうろうろしていたが、翌昭和40年の7月8日には解離性腹部大動脈瘤破裂で死なれ、不遇を囲っていたが、昭和47(1972)年になると、飯島博デスクの後押しで「福田番」に抜擢された。外務大臣福田赳夫。いわずと知れた
角福戦争」の主役である。

当時、西山氏は既に毎日新聞のキャップとして外務省記者たちを束ね、大平氏の僚友たる田中角栄氏のライバル福田氏を取材していたのである。

私は福田番とはいいながら、外務省担当記者じゃなく「福田派」担当記者だから、外務省で西山さんと顔を合わすことは全く無かった。時あたかも「沖縄返還交渉」が進行していたが、この担当者で有りながら、福田さんとしてはポスト佐藤をめぐるライバルの角栄氏との勝負が先行課題になっていた。

こうした仲で、かねて河野派時代から深い付き合いになっていた園田直(すなお)氏が、福田支持を表明、園田氏をつうじた福田取材も心がけるようになって行った。

この頃の角福戦争は、佐藤総理の支持を得ている福田が圧倒的に有利とされていた。だから各社派遣の福田番は各社の第一人者が派遣されていた。共同通信古澤 襄、時事通信屋山太郎、読売浦田進、
毎日金巌、朝日川戸弘次らである。

しかし、角福戦争は角栄氏の物量作戦に福田さんは及ばず、気息奄々と言う状態のところへ、西山氏が「福田不利」の爆弾スクープを国会に投げ入れた。それが沖縄返還に絡む「日米密約」だったのである。

私は「おかしい」と思った。なぜ、西山氏取得の極秘電報が毎日紙上に載らず、社会党若手代議士の横路孝弘氏に渡ったのか、しかも極秘電報に刻印された文書番号が削除されていないのか、西山氏の「チョンボ」ではないのか。

間もなく佐藤首相が「ウフフ」と言い出した。問題は言論問題では無いよ、男女問題だよ、というのである。なるほど外務省外務審議官付き事務官蓮見某女が西山記者と肉体関係を結び、その関係で機密文書が西山氏に流れてという構図が明らかにされた。世論は言論弾圧から一転、男女問題に落ちてしまった。

今日の毎日新聞の凋落はここから始まっている。今日になると、西山氏は恨みを晴らした英雄のように報じられるが、私から見ると西山さんは大平さんを通じて角栄氏梃入れを図り、佐藤栄作首相の足の引っ張りを策したという思いを消す事ができない。

<◇ことば 沖縄返還協定を巡る密約

72年5月に発効した沖縄返還協定の交渉過程で、米側が負担するはずだった土地原状回復費用などを日本が肩代わりすることにした日米間の密約。密約を報じた西山太吉毎日新聞記者(当時)らが72年、国家公務員法違反の疑いで逮捕された。

00年、米国の情報公開で密約を裏付ける公文書が判明。西山氏は、関係文書の情報公開などを求める裁判を起こし、06年には元外務省アメリカ局長の吉野文六氏が密約の存在を証言した。外務省の有識者委員会は9日、「広義の密約」があったと認定する報告書を公表した。

◇38年前、政府は一貫否定
沖縄返還が翌月に迫った72年4月の国会でも、密約問題は取り上げられていた。旧社会党の横路孝弘議員(現衆院議長)らは、西山太吉さんから入手した外務省の機密電文を手に追及したが、政府側は一貫して密約を否定し続けた。

電文には、米軍用地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりして対米支払いを3億2000万ドルに積み増す経緯や、肩代わりを了解する秘密書簡の作成を米側から求められていたことなどが示唆されていた。

これに対し、福田赳夫外相(当時)は「400万ドルを上乗せして3億2000万ドルとなったことはいかなる過程においてもない」「良心においてお答え申し上げる。虚偽の答弁は一切しておりません」と真っ向から否定。

吉野文六・外務省アメリカ局長(同)も「我々は(米の要求に)絶対に応じなかった。メモ(秘密書簡)はない」と述べていたしかし、2010年3月9日に公表された外務省調査チームの報告書は肩代わりの事実を認め、政府側答弁が虚偽だったことを裏付けた。

西山さんは、機密電文を入手したことで罪に問われて78年に有罪が確定したが、最高裁決定は「早晩国会における政府の政治責任として討議批判されるべきであったもの」と国会での真相解明を注文していた。

日米密約:西山さん「裁かれてしかるべき者裁かれず…」

沖縄返還(72年5月)の際に、日本側が米軍用地の原状回復補償費を肩代わりした密約問題が取り上げられた19日午前の衆院外務委員会。いち早く疑惑を報じた元毎日新聞政治部記者の西山太吉さん(78)は参考人の一人として意見を述べ、一貫して密約を否定してきた政府について「本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まで来ている」と語気を強めて批判した。

西山さんは、密約問題を巡り外務省の事務官を通じ機密電文を入手したとして国家公務員法違反の疑いで72年に逮捕された。服部良一委員(社民)から「ある意味人生をむちゃくちゃにされた。国や外務省に言いたいことはないか」と問われた。

西山さんは「公平なる裁き、法の下の平等、その原則が完全に破られてしまった。本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まできている」と心情を吐露した。

西山さんは「政府の密約は今まで全く追及されてこなかったが、ようやく三十数年たって検証された。日本の構造や日本全体を覆っているグレードの低さが問題。司法も政府権力もマスコミも。そして主権者の政治意識も全部その中に入ってくる」と訴えた。

西山さんは自ら報じた密約疑惑について「氷山の一角」と指摘し、その後の「思いやり予算」(在日米軍駐留経費負担)につながる日本側の財政負担を決めた「密約」について「最も国民が知らなければならないものだ」と力説した。

外務省内で密約関連文書が廃棄された疑いにも言及し、「官僚ベースでは明らかにされない。国会が国政調査権を発揮してほしい」と指摘した。

西山さんは委員会終了後、「何十年ぶりの国会で戸惑いと緊張で上がってしまった。こういう場で発言させてもらう日が来るとは想像だにできなかった。隔世の感がある」と感想を述べた。>
毎日新聞 2010年3月19日 11時39分 更新:3月19日 13時23分

有夫の外務事務官を不幸に陥れた事実は、すっかり消えてしまった。
2010・3・20

■本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」3月21日(日)刊1856号に
掲載されました。

<目次>
・鳩山兄弟が招く「政治の貧困」:花岡信昭
・アメリカ式に考える普天間基地問題:前田正晶
・みんな自民が教えてくれた:山堂コラム 310
・西山発言に思うこと:渡部亮次郎
・中国の核戦略の全体図判明:古森義久

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年03月20日

◆角さんのカネのくすねられ方

渡部亮次郎

総理を目指した田中角栄が身辺の女性問題を女性週刊誌に書かれたくなくて高名な政治評論家に工作費として3000万円を渡した。
それがライターに示された金額は700万円。

ライターは拒否。記事は出た。カネは1銭も田中のもとには還ってこなかった。しかし、田中は評論家に何も言わなかった。だれがどうくすねたのか。以下、大方、推理ではある。

まず評論家が2000万円をくすねた。実はカネをライターに渡す役は高名な小説家兼作詞家だった。相談づくなら半額ずつ分けるところだが、相談はしなかった。

それなら実行役の作詞家に2000万円を渡すか。渡さない。カネを預かったのはオレだものと政治評論家。自分も「彼女」がいてカネに苦労していた。だから、まず自分が2000万円をくすね、残りを作詞家に渡した。

作詞家も評論家の普段を知り尽くしている。あいつがくすねたんだろうからワシもと300万円をくすね、ライターに700万円を提示。
ライターは元々堅物だったので怒って拒否。

ところがライターの所属出版社で労働争議。ライターはデスクで使用者側。何処からとも無く噂。「デスクは田中からカネを貰ってあのネタを潰したんだ」。

あのネタの潰れたのは争議が起きたためだったが、弁明もおかしいので、デスクは気まずくなって退社。フリーのライター(早い話、無職)になった。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。この年の7月に田中は総理大臣になった。フリーの「もの書き」は苦しい。必死にテーマを探し、旅費を自腹で切り、現地取材。アパートにこもって執筆。

運がよければ雑誌に載せてもらえる。少しは名が売れてくれば注文も来るが、必ず来るとは限らない。そうやって次のような原稿を方々の雑誌に掲載して貰った。

「極限の中で、兵は天皇を想ったか」(1972年2月 潮出版社「潮」)

「週刊誌を泣かせる朝日新聞広告部」(1972年7月 噂「噂」)

「角栄、天下平定後の武将地図」(1972年8月 講談社「現代」)

「あるアイヌ青年の二十四年」(1972年11月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)

「巣立ち、稼ぎ、ひとり立ち」(1973年2月 東海大学出版会「望星」)

「津軽の白鳥艦隊司令長官」(1973年3月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)

このころ有名な出版社の有名総合雑誌『文藝春秋』から注文が来た。必死に取材し、書いた。

「『若き哲学徒』はなぜ救命ボートを拒んだのか」(1973年6月 文藝春秋「文藝春秋」)。

これををきっかけに「児玉隆也」は名を売り、文芸春秋の常連ライターとなった。

「チッソだけがなぜ?」(1973年10月 文藝春秋「文藝春秋」)

「学徒出陣、三十年目の群像」(1973年12月 文藝春秋「文藝春秋」)
「元祖"ふるさとと人間"宮田輝」(1974年8月 文藝春秋「文藝春秋」)

1974年「文藝春秋」編集長の田中健五に起用された。11月特別号の田中角栄に関する大特集のうち、「田中角栄研究−その金脈と人脈」(立花隆)とともに掲載された「淋しき越山会の女王」を執筆し、一躍有名となった。

このテーマこそ田中が3000万円で阻止にかかったネタだった。派閥「越山会」の金庫番たる女性は田中の愛人の一人であり、間に不義密通の娘がいることを暴露するものだった。

この記事がきっかけで「田中金脈事件が」勃発し、最終的に田中は政権を投げ出した。のちに生前の田中に直にきいたところ、「金脈なんて堪えなかったが女王は堪えた。妊娠している真紀子が『辞めないと飛び降りる』と目白の2階のベランダに突っ立つんだもの』と述懐した。

児玉はこの記事で嘗ての同僚らから受けた「疑惑」を雪いだ。だが
その頃すでに肺癌に侵されており、翌1975年5月に死去。僅か39歳だった。

児玉 隆也(こだま たかや、1937年5月7日―1975年5月22日)兵庫県芦屋市生まれ。

9歳のときに画家だった父を失い、母に育てられる。芦屋市立芦屋高等学校を卒業後、早稲田大学第2政経学部に入学。21歳のときに岩波書店の月刊総合誌「世界」の懸賞原稿に入選する。

卒業する1年前から光文社の女性週刊誌「女性自身」の編集部でアルバイトをはじめ、卒業後入社。引き続き同誌編集部に籍を置く。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。

遺した単行本

「市のある町の旅−人情と風土にふれる朝市行脚」(1973年5月 産経新聞)
「淋しき越山会の女王 他六編」岩波現代文庫で再刊 2001年
「一銭五厘たちの横丁」 写真・桑原甲子雄 岩波現代文庫 2000年
「この三十年の日本人」 新潮文庫で再刊 1983年
「ガン病棟の九十九日」 新潮文庫で再刊 1980年 他数冊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・06・26

追記:<佐藤昭子さん死去:関係者から悼む声 /新潟

柏崎市出身で、田中角栄元首相の秘書を務め「越山会の女王」などと呼ばれた佐藤昭子さん=11日死去、81歳=の訃報(ふほう)に、ゆかりのあった県内の関係者からも悼む声が上がった。

自民党県連会長の星野伊佐夫県議(70)は、かつて越山会の青年部長を務めた。田中派事務所があった東京・平河町の砂防会館に出向くと、佐藤さんは手際よく仕事をこなしており「事務所の中心的人物で派閥を束ねる存在だった」と振り返る。

田中元首相の地元秘書だった長岡市の丸山幸好さん(77)は、年に数回、事務連絡のため砂防会館などに出かけた。「後輩秘書にも優しかった。当時の先輩秘書が次々と亡くなり、寂しい」としみじみと語った。>2010年3月14日11時1分配信 毎日新聞


2010年03月17日

◆悲喜交々各位殿

渡部 亮次郎

(再掲)
昭和35(1960)年前後にNHK仙台で記者生活を送った仲間が14日夕、九段会館の地下レストランに集まり、懐旧談義に時を忘れた。中華7品にアルコール呑み放題。会費5000円を集めたが、終わってから500円のお釣を返却。珍しいことだ、お前、永久幹事だと大笑いした。

丁度南米のチリ沖で起きた津波が三陸海岸を襲って死者119人を出した「チリ地震津波」の取材の思い出で話は始まったが、あの時、名文を評価された先輩が「俺は著名な国文学者から直接、電話を貰って用語の誤りを指摘されたことがある」と敢えて恥を披露した。

それは大学入試の合否発表のニュース。合格を小躍りして喜ぶ顔、がっかりする顔、悲喜交々(ひきこもごも)でした、と放送したところ、直後に電話がかかって来たのだと言う。

「悲喜交々とは、一人の顔に喜びと悲しみが交互に表れることであって、あのような場面に使う言葉ではありません」と教え、窘められたというのである。

岩波の四字熟語辞典でも「悲しみと喜びが入混じること」とあり「悲喜交交至る」の略。交交は、入混じり、あるいは代る代る訪れる意とある。名文家にも間違って覚えた若輩時代があったのだ。名文家はスペイン語の名手でもあって南米特派員を経て外信部長になった。

NHKには今はどうか知らないが昔は研修所があって、何年かごと、1週間ぐらい泊まりこみで、文章の錆を落とされた。いい大人に言葉を教える事は世間では憚られるだろう、とそっと教えてくれるのである。

各位のあとに様や殿を付けてはいけない。各位というのは、皆様がた、皆様と言う意味で既に様が含まれているのだ、と。

皮切りとは包茎と関係があるから使ってはいけない。本腰を入れるもいけない。性行為と関係があるからだ、といった具合。各位殿は至る所で見る。

しかし、最近は新聞が自由に使っている。まだ未熟も出てくる。未熟とは未(いまだ)熟さずの意味だから「まだ」は不要。これらは高校で漢文を不履修する時代だからだろう。

漢字そのものを漢の国(中国)に拠っているのに漢文を履修しないとあっては漢字の使用方法を習わないに等しいから、こういうことが起きる。そのうちに馬から落馬なども読まされるかも知れない、ちょと覚悟が要
る。

偉い政治家でも、若い頃に間違って覚えた言葉は世間が直してくれないから、陰で笑われることになる。

芝居や映画の立ち回りを殺陣(たて)というが「さつじん」と読んだり、旗幟鮮明(きしせんめい)を「きしょくせんめい」と読む。偉い人だから聴いている人はまさか注意も出来ず、心の中で馬鹿にしている。

この人は憎悪(ぞうお)を「ぞうあ」と国連で演説した。幸い通訳は予め演説原文を持っていたからhatredと訳したから、本人は笑われずに済んだ。消え入りたい思いをしたのは日本語原文を草した人であった。
                                 2006.11.15


2010年03月16日

◆民主から先に接近?

渡部亮次郎

<創価学会第3代会長(当時)の池田大作が、1964(昭和39)年に「公明政治連盟」を改組して「公明党」を設立。1963年の統一地方選挙で1000人を越える地方議員を誕生させるなど急成長。

1967(昭和42)年の第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得しついに衆議院に進出。結成当初は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた。>(「ウィキペディア」)

私は参議院担当記者から衆議院公明党担当のNHK初代記者となった。その関係で創価学会の幹部会に招かれ取材する一方、招かれて池田大作会長と何度も食事をともにした。その時、竹入、矢野氏らは廊下で膝を折って待機していた。

だから公明党が衆議院に初進出した際には、「公明党記者クラブ」に所属し、竹入義勝委員長や矢野書記長に頼まれて、代議士会の運営などを指導した。

初の代議士会では安保、防衛問題が議題になり、議論が発展して「核武装は不可欠」という結論に達し、取材している方が「公明党の結党精神に反するのではないか」と注意する一幕があった。

あれから40年余、幼かった政党も、数々の手練手管を覚えたものだ。民主党にはじめに接近を図ったのは自分たちの癖に「接近を初めにしてきたのは民主党」とぬけぬけと嘘を言うようになった。代表の山口氏は東大出の弁護士だから当然か。


<民主が近付いてきた…法案賛成で公明代表言明
公明党の山口代表は13日、山形市内で講演し、「子ども手当」「高校授業料無償化」の両法案に賛成したことについて、「(公明党が)修正案を出したら、民主党が『のみます』と近付いてきた。我々はいささかもぶれていない」と述べた。

政治とカネに関する与野党協議についても、「民主党がすり寄ってきた」と強調した。

民主党との連携についても、「『政策が似ているから、一緒になれば』と言われるが、冗談ではない。方向性が似ているからといって一緒になるものではない」と否定した。>(2010年3月13日20時17分 読売新聞)

1967年の第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得しついに衆議院に進出し結成当初は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた、とウィキペディアに指摘されているように、公明党は完全な野党でいては結党の目的を達成できない。したがって自民党と連立を組んだのはいわば「時代の要請」だった。

それが今回は自民党が下野してしまった為、何とか形をつくろって民主党との連立工作をせざるを得ない。手始めに「子供手当て」と「高校授業料無償化」について「賛成」を前提に接近して行ったのは公明党が先だったことはマスコミが現認している。

ただし山口代表としては創価学会員や党支持者の納得を得るために「環境整備」よろしく恰好をつけているのだろう。公明党は遅かれ早かれ民主党と連立する事間違いない。しかし、社民、国民新党の思惑が絡むから民公連立への道程は単純ではないはずだ。
2010・3・14