2009年06月04日

◆風化進む天安門事件



渡部 亮次郎

20年前のきょう6月4日に北京の天安門広場に集まっていた民主化要求
の学生ら群集に、トウ小平の命令一下、人民解放軍が発砲して武力弾圧
した事件である。

私は中国にも共産党にも全く関心がなかったが、いつの間にか「中国の
動向に注目していないと、何時何をされるか分かったものじゃない」と
思い込むようになった。

NHK時代、中国との国交正常化をやった総理大臣田中角栄に同行取材した
だけだったが、、何の巡り会わせか6年後には外務大臣園田直の許で秘書
官として日中平和友好条約の締結交渉に携わったからである。

中でもトウ小平と北京や東京で何度も接し、彼が経済大国日本を目指し
て、共産中国の舵を「改革開放」の大きく切り替える場面に遭遇した事
は、その後の中国を観察する上で大いに参考になった。

トウ小平にとって、訪日に際しての最大のショックは大阪までの新幹線
乗車だった。「乗っていると鞭で首を叩かれているようだった」と語っ
たが、意味は「資本主体制にならないと中国は貧しさから脱却できない
と知った」ことだった。

これが1978年。3度目の「復活」から1年後、既に毛沢東、周恩来亡く、
彼が「最高の指導者」となっていたため、この年の暮には経済の改革開
放路線を共産党の方針に正式決定した。

経済の「開放」とは外国資本の参加を容認することであり、まず翌79年、
日本からのODA(政府開発援助)供与をきっかけとして日本による資本と技
術の供与が開始された。

トウ小平は経済の改革・開放と共に政治改革も打ち出していたが、79年に
は民主運動の弾圧を開始、人民を不思議がらせた。だがフランス留学を経
験しているトウは西側のブルジョア思想を「敵」とみなしており、それ
に乗ずる胡耀邦も趙紫陽も許す事はなかった。

掲げるのは政治が共産主義、経済は資本主義という矛盾した国家運営を
容易にするためには一党独裁による強権で締め付ける以外に方法はない、
これがトウの信念だった。

大衆はトウを誤解した。甘く見た。6月4日に起きた天安門事件である。
学生たちの民主化要求に寛容だった胡耀邦前総書記の急死に対して追悼
の名目で行なうデモは容認されるだろう、と。

確かに趙紫陽総書記は学生たちに理解を示し始めていた。だが「信念」
を一党独裁におくトウは学生たちのデモを「反党、反社会主義の動乱」
と断じ、趙紫陽総書記を解任し人民解放軍に群集への武力弾圧を指示し
た。20年前の6月3日夜から4日未明にかけて展開された「血の弾圧」で
ある。

この時の犠牲者の数は20年間、明らかにされてこなかったが、最近は
「727」人が中国政府の公式数字になったようだ。

銀座の料亭で、出された鮪の刺身に当惑しながらも最後には瞑目しなが
ら1切れだけ飲み込んだ好々爺。息子の断絶した脊髄を日本の医師たちな
ら繋いでくれるかも信じた「人の親」トウ小平。

彼はあくまでも共産革命の「闘士」であり続けた。尤も、遠い将来には
人民から断罪されると恐れて死んだ。だから墓は無い。遺骨は上空から
撒かれた。撒いたのは若き日の胡錦波濤だった。

<いま中国では、トウ小平氏の功罪が論議されている。中国に市場経済
を持ち込み、今日の経済発展の基礎を築いた功績は大きい。国民の大多
数は、その恩恵を受け、マンションやマイカーを持ち、海外旅行を楽し
む人も少なくない。

その半面で、貧富の格差は拡大、官僚の腐敗も深刻化、社会には不公平
感が広がり、治安の悪化、紛争や暴動の頻発を招き、環境破壊も深刻さ
を増す。これはトウ小平氏が目指した社会ではなかった。彼は引退後の
93年、弟のトウ墾氏に対し、格差拡大への強い懸念を表していた。

しかし、その種をまいたのはトウ小平氏自身だった。天安門事件で趙紫
陽氏ら改革派指導者や知識人、学生たちが追求した政治改革と民主化を
つぶし、一党独裁下で資本主義化を図った結果である。

中国ではいま、権貴体制という表現がある。エリート支配層の党官僚と
資本家が手を結び、労働者、農民を搾取して富を得る体制を指す。そこ
に汚職は付き物だが、腐敗は司法やメディアにもおよび、監視システム
は十分に機能していない。

しかし、この20年間の経済・社会の発展は、共産党の支配体制を揺さ
ぶり始めた。携帯電話、パソコンの普及によってネット情報が行き来し、
一党支配を支える情報と宣伝の独占力は著しく低下した。党の宣伝を人
びとは信じなくなった。

昨年12月、知識人たちが政治改革を求めた08憲章は、そうした社会変化
を背景にしていたが、影響は限定されていた。多くの知識人、学生は格
差社会の上級階級に属し、政治改革の必要は認めても、リスクのある行
動には消極的だ。

その一方で、数億人いる労働者、農民ら社会的弱者層による暴動や当局
襲撃事件が急増した。中国当局が警戒するのは、弱者層の不満を組織化
し、人権や民主化の運動と連動する動きという。当局が天安門事件を再
評価する道はなお遠い。> 
(産経新聞中国総局長 伊藤正=5月28日付け)(文中敬称略)2009・05・28



2009年06月01日

◆八郎潟干拓に奔走した父



                渡部亮次郎

2008年は亡父慶太郎の「生誕100年」だったが、後を継いだ筈の妹婿の倒産で生家も人手に渡ってしまったいま、そんなことを口にしたのは早くに実家から逃げ出した実兄と私だけだった。

明治40年、旧八郎潟東岸の貧農に生まれた父は自分の自作田を増やすためには、水深僅か4mの八郎潟の全面干拓しかないと若い頃から考えていたらしく、敗戦と共に運動を本格化させた。

具体的には水田のあらゆる作業を妻子に押し付け、秋田県庁や時には農林省(当時)に陳情を繰り返すことだった。お陰で私は一人前の百姓に成長しながら県立秋田高校に合格した。

3クラス150人という小さな学校から8人が合格したが、百姓の倅は私1人だけだった。しかも野球部のキャプテン。余りの疲労を早く回復させようと砂糖を無制限に飲み込んだら心臓脚気になって気を失った。砂糖を消化するためのビタミンB1欠乏症だったのだ。

後に政治記者となって、昔農林大臣だった河野一郎を担当したら、陳情に来た父の名前を覚えていた。「キミはワタケーの息子か」。八郎潟の漁業で暮らす人たちからは「ワタケー 馬鹿ケー」と言われたものだ。

八郎潟(はちろうがた)は、かつては琵琶湖に次いで日本第2位の広さ(220km2)を誇っていた。鮒、鯰、鰻、など沿岸住民の蛋白源の補給湖でもあった。しかし干拓により大部分の水域が陸地化された。陸地部分が大潟村となっている。

秋田県西部、男鹿半島の付け根に位置した。もともとは海と繋がった「汽水湖」であったが、八郎潟防潮水門によって締め切られており、残存湖は淡水になっている。

琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった八郎潟では、戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われた。あの頃は現在の米余り現象など想像する人は皆無だった。

工事は私が大学入学で上京したあとの1957年に着工し、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。1967年から入植を開始。全体の事業は1977年に竣工した。

それとは別に父ら沿岸農家は沿岸に広がっていた葦谷地を入手、開墾によって水田に造成、そこそこの増反を果たしたのだった。妹婿に悪意はなかったろうが、この田圃も担保に取られて失われた。

干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年10月1日に秋田県で69番目の自治体として、大潟村が発足した。

最終的には、米の増産を目指していたが、減反政策によって「失敗した計画」とする人たちもいる。特に環境の方面では、葦谷地という湿地(魚の産卵地と汚水の浄化)喪失を嘆く向きもある。「他所者」の村との合併を望む周辺町村はなく大潟村は「村」のままである。

かつては汽水湖としてシジミが多く採れていたが、近年は干拓のために淡水化され、その収量は撃減している。夏はシジミを採取するために水潜りで水泳を自然に覚えたものだ。懐かしいなぁ。

冬期間は今も凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。

反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。
]
八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎はこの湖には滅多に戻らないとされている。

父の遣ったことだから文句はいえないが、嘗ての八郎潟を失い、生まれた家を失い、私は二重に故郷喪失感を深くしている。「帰省」は無くなった。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・05・29

2009年05月26日

◆生まれながらの死刑囚


                    渡部亮次郎

フランスの哲学者パスカルが「人間は考える葦である」と言ったとは知っていたが、(だから)「人間は生まれながらの死刑囚である」とも言っているとは知らなかった。『週刊新潮』5月28日号P 67に東大病院放射線科準教授中川恵一氏が「がんの練習帳」で書いている。

人間で死なない人間は居ない。生まれれば必ず死ぬのだから、「生まれながらの死刑囚」といわれても否定はできない。畏友小野善邦君も、言い方は悪いが癌により24日「処刑」されてしまった。

私がメルマガ『頂門の一針』で取り上げた「島ゲジ評伝」の著者小野善邦君である。以下< >内は島ゲジの秘書だった山下頼充さん(昔、NHKでは「五つ子のパパ」として有名だった)からのFAXによる。

<小野さんは数年前から肝臓癌を発症し、東京女子医大病院で癌が見つかる度に患部を焼切るという治療を続け、入退院を繰り返していました>

そうした苦しい中で、縁の全く無かった大来佐武郎氏(外務大臣)の評伝を日経新聞社から上梓した。当然、出版記念会に加わったが、その時初めて「発症」を当人から打ち明けられたのだった。

その後も入退院を繰り返していたが、

<島桂次氏とNHK同期入社の玉木存氏から「島の実像をあるがままに描いて欲しい」と依頼を受けて「評伝」の取材を始めた>。

島氏は自伝は残したが、NHK会長の辞任が異常な形だった事もあって、彼の実績やNHK改革の理想を記録した「評伝」は皆無である。玉木氏はそれを残念がり、島氏の周辺に長くいた小野君が適役と見て執筆を依頼したものらしい。

<入退院の合間を縫って100人近い政治家・マスコミ関係者などにインタビューしたり資料収集したり、当に命を削りながらの取材、執筆活動を続けました>

私はNHKで島氏と同じコースを歩いた。初任地仙台、下り線に乗っての万歳見送りで岩手県盛岡へ。放送部は瓦葺きの平屋だった。

島氏は暴れ者。局長も部長も持て余して東京に引き取ってもらったと言う。政経部で政治記者を始め、池田勇人攻略の伝説を遺した。

私は盛岡に4年いて、東京政経部(後にすぐ政治部、経済部に分割、私は政治部所属となる。島氏は外務省(霞クラブ)キャップ、私は総理官邸クラブの初年兵で小さくなっていたが、間もなく自民党実力者河野一郎担当となった。

当時、河野は東京オリムピックと日韓国交正常化の担当の無任所大臣。日韓交渉で外務省キャップの島氏との接点ができた。その事は別に書いたから省略。小野君は拙宅へ取材に来た。

<小野さんは島さんの13回忌には間に合わせたいと言う計画だったが入退院のため完成は2年遅れました。しかし政治に翻弄され続けるNHKの自立のため、島さんが目指したもの、そのビジョンや想い、足跡を元社会部記者らしい鋭い視点と丁寧な取材で纏めあげました。

2年2ヶ月、会長秘書として私が身近で感じていたことや知らなかったことなど島さんの人物像まで見事に浮き彫りにした力作になりました>

『本気で巨大メディアを変えよう賭した男 異色NHK会長「シマゲジ」・改革なくして生存無し』(現代書館 2300円+税で発売中。
ISBN978―4―7684―5607−1)

<評伝が完成し、取材先や知人など著者献本先の手配を終えて大型連休明けの5月11日に確か14回目の入院。「今回はパンパンになった腹の腹水を抜くので、3〜4週間はかかりそうだ」と電話で話して入院されました。

入院後は、メールや電話で「評伝」の反響を気にしながら「今日は2リットル腹水を抜いたが、横になっていないと辛い」と珍しく弱音を吐いたので心配していたのですが、こんなにも早く最悪の事態を迎え、呆然としております。

小野さんは島さんの功罪共に触れながらも、この十数年、低迷と混乱を続けるNHKへの厳しい指摘も多いだけに、特にNHK関係者の反響を気にしていましたが、「渡部さんが、きちんと取材し、島の姿を実によく描いていると高く評価しておられますよ」と伝えたところ「渡部さんは島さんのことを分かってくれていたんだ」と喜んでおられました>2009・05・26

◆ 訃報

小野 善邦 さん ご逝去

元NHK広報室長 小野善邦さんは病気療養中でありましたが、平成21年5月24日(日)午前2時23分逝去されました。謹んで心からお悔やみ申し上げます。小野さんが近著「本気で巨大メディアを代えようとした男」を贈呈された方々に取り急ぎご連絡させて頂きます。

ご葬儀は下記の通り執り行われます。

通 夜 5月27日(水)午後6時から
葬 儀 5月28日(木)午前11時から
喪 主 小谷 瑞枝 様 (長女)  03-3444-4371
葬儀場 練馬区練馬3―22―6
千代田豊島園会館(03-3991―2234)



2009年05月24日

◆日本分割を阻止した日本人


渡部亮次郎

アメリカ大統領ハリー・トルーマンは日本に進駐する連合国軍最高司令官(SCAP:Supreme Commander of the Allied Powers)にダグラス・マッカーサーを任命した。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」をGHQ(General Headquarters)と呼称する。

日本に進駐した連合軍の大部分は米軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。

戦争中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京23区は米中ソ英、近畿地方の大部分と福井県の一部は米中による共同統治)を計画していたが、天皇を通しての統治が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。

この動きは少年だった私の耳にも入り、東北地方はソ連に直接統治されると言われた。それが重光のお陰で救われたとは大人になるまで知らなかったが、ことはトラウマとなり、どういうわけか牛蒡畠
の裏からソ連兵が現れる夢を大人になっても見た。

戦後、重光葵が鳩山内閣で外務大臣を務めた際、政務次官になったのは熊本天草出身の代議士園田直(そのだ すなお)だった。更にその30年後、園田は福田赳夫内閣の中で図らずも外務大臣に横滑りし、要請で私がNHK国際局(当時)副部長から政務秘書官に発令された。

その関係で重光のことは裏話を含めて良く聞かされた。重光が死んだのは自宅ではなく妾宅だったが、自分が早くに駆けつけ、世間の目をくらましたことなど。

鳩山内閣当時、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため外交官出身の重光と鳩山の関係が悪化した。

また鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。というのも、重光の脳裏には駐ソ大使当時、ソ連外務省と対立した事や日ソ中立条約を一方的に破棄し満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。

重光 葵(しげみつ まもる、明治20年(1887年)7月29日―昭和32年(1957年)1月26日)は、日本の外交官・政治家である。

昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判で有期禁錮の判決を受ける。仮釈放と赦免後、政界に再復帰し、再び外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力した。園田政務次官はこの時代。

大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれたが、母の実家(重光家本家)に子供がなかったため葵が養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現・大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。

重光は敗戦直後、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣で外相に再任された。引き受けた大仕事は、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという屈辱だった。

昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、参謀総長の梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行い、その時の心境を「願くは御國の末の栄え行き我が名さけすむ人の多きを」と詠んでいる。このとき随員として艦上にあったのが畏友にして評論家加瀬英明の父俊一(としかず=後に国連大使)である。

重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難を伴うものだったのにもかかわらず、重光自身はその事を全く気にしていないように振舞った。

ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦する米国水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという。

極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だった。アメリカは重光起訴に当初は抵抗したがソ連に乗り切られた。

なお、進駐軍が厚木飛行場に到着した際は、横浜市に対して「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した実現したのは軍票問題だけだった。
(文中敬称略)2009・05・08
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年05月22日

◆私はマスクをしません


渡部亮次郎

新型流感に対して日本の役所は互いにマスクをすれば蔓延を防止できるとしているので、今に日本中がマスクだらけになって世界中の笑いものになるだろう。

若い頃、仕事柄、年がら年中、世界を飛び回っていたが、マスクをした外国人を1人も見たことが無い。わたしも風邪を引いたことがなかったからマスクとは無縁だった。

ところが今回、メキシコを"震源地“とする新型流感が流行りだした途端、役所は上も下も「マスクをしましょう」と呼びかけている。
だがWHOは「マスクは効きません」と言っている。

目に見えないような黴菌がマスクで防げる筈がない。また、患者がマスクをしてウィルスの飛散を抑えようと健気な心がけをしても、マスクの中で咳をすれば、ウィルスは少なからず布の目から飛び出すだろう。

だから要するに「マスクで流感は防げない」。

麻生首相は21日のメルマガで「呼びかけ」をしたが、<手洗い、うがい、咳エチケットの徹底をお願いします>と述べただけでマスクには一言も触れていない。

役人たちがマスクの励行は間違いだったと気付き。例によって、こっそり、軌道修正したのだ。わたしも昔、短期間ながら特別国家公務員をしたことがあるので分かる。

新型流感はこれから益々流行る。私もかかるかもしれない。しかしマスクでは防げないとWHOが言うのだからマスクはしない。

2009・05・21

2009年05月19日

◆唄わせない「九段坂」

渡部亮次郎

島倉千代子の馴染の一曲に「東京だよおっ母さん」があるが、歌詞に「九段坂」があるので、NHKでは歌詞の二番は絶対に歌わせない。だから紅白歌合戦では曲自体を歌わせない。「過剰自己規制のNHK」躍如!

島倉千代子(1938- )東京の品川出身。高校在学中の昭和29年、コロムビア全国歌謡コンクールに優勝。30年「この世の花」でデビュー。

同年「りんどう峠」、31年「東京の人さようなら」、32年「東京だよおっ母さん」、33年「思い出さん今日は」「からたち日記」と立て続けにヒットを出す。

この間、声が突然、出なくなったり、ファンの投げた紙テープによって失明の危機にさらされたりとのトラブルも多かった。36年「恋しているんだもん」などがヒット。38年にプロ野球選手の藤本勝巳と結婚するが、43年に離婚。

その後、6億円の保証債務を肩代わりするなどの不幸に遭う。56年には「鳳仙花」、62年には「人生いろいろ」をヒットさせ健在ぶりを見せる。「人生いろいろ」は当初、酒で憂さを晴らすという歌詞だったが、島倉自身の経験から、強く小指を噛んだりと改められた経緯がある。

淡谷のり子に酷評されるが、紅白歌合戦に30回連続出演の記録を持ち、コマ劇場での公演でも長期の記録を誇るなど、女流演歌では大御所。漬物嫌い。平成11年、紫綬褒章受章。(「誰か昭和を思わざる」より)
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer04.html

「東京だよおっ母さん」は作曲家古関裕而の親友の作詞家野村俊夫が田舎から上京した老母を東京に住む娘が東京見物を案内するというもので、例の中国が怒るようなものではない。

問題にされる2番。
「やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと
櫻の下で さぞかし待つだろう おっ母さん
あれが、あれが九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんが」

野村俊夫は戦時中は確かに古関と組んで「軍歌」も何曲か作っているが、野村を有名にしたのはむしろ古賀正男作曲、近江俊郎歌「湯の町エレジー」(1948、昭和23年)である。これから9年後に作られたのが「東京だよおっ母さん」。

素朴な母子が東京見物の途次、かつて戦死した兄を偲びに靖国に参拝する、優しい気持ちこそ歌っているが、好戦的な意味は全く感じられない。ところが無理無理そこに「侵略」や「好戦)を感じてしまうNHKの神経にはなにか異常なものを感じてしまう。身を守る余りの自己規制は過剰である。

最近、捏造をしてきされて大問題に発展している『アジアの“一等国”』の問題意識と共通のものを感じる。共通するものは誤まれる歴史観を国民に植え付けるためにはNHKは視聴者を愚弄して恥じないという傲慢さである。

筆者もNHKに20年近く在職し、時々連合国軍総司令部(GHQ)規制の残滓を感じたことはあったが、一つひとつ潰すよう闘った。

公共放送だからと言って言論の自由を守る義務は厳として有するはずだ。それにも拘わらず、はじめから自己規制を過剰にしてちぢこまるというのでは決して「皆様のNHK」とは言い難い。

2009年05月17日

◆鳩山辞退していたら

渡部亮次郎

私のメール・マガジン『頂門の一針』1547号(5月15日)で私は鳩山120:90岡田で鳩山の勝利と読んだ。結果は5票しか違っていない。こんなに当るとは。

15日の「身辺雑記」に以下のように書いた。

<◇民主党グループの色分け。

〈鳩山氏支持色が強いグループ〉
小沢グループ   (約50人)
鳩山グループ   (約30人)
旧社会党系グループ(約20人)
旧民社党系グループ(約20人)
羽田グループ   (約15人)

〈岡田氏支持色が強いグループ〉
菅グループ    (約30人)
前原グループ   (約25人)
野田グループ   (約20人)

(注)民主党所属の国会議員は221人。グループを掛け持ちする議員やどこにも属さない議員もいる。(時事)

鳩山135:岡田75となるが浮動票や良心票が出て鳩山120:岡田90ぐらいになるのじゃないか。いずれ造反が起きるはずだ。

何故なら民主党を作るとき、由紀夫18億、邦夫17億円出した。それなのに小澤に乗っ取られてしまった。由紀夫は感度が鈍いけど、いずれ分かり怒るだろう。造反は代表から?>

民主党とは、この程度の政党でしかない。民主党支持層野「世論」を反映すれば、党内は雪崩を打って「岡田代表」を選ぶべきだったが、たった20票しか流れなかった。

一方、鳩山は小澤と共に150ぐらいを読んでいたはず。それが過半数を超えること僅か15票。これでは「代表」とは言いながら求心力を極めて欠く、裸の王者でしかない。自然、小澤に距離を置いた党運営なんか出来っこない。みずから傀儡への道を選択したのだ。

鳩山が大博打を打って選挙を辞退したらどうなったか。歴史に残る英断として大向こうを唸らせ、大政治家に成長したことだろう。勿論、政権交代を確実なものにし、首相の椅子も確実にしただろう。

しかし、この体たらくでは「元助教授」から成長の止まっている事を晒しただけだ。

多分、党内では岡田票、意外に多かったという受け留め方がなされているはずだが、それでも2桁では少ない。せめて100票を超さないと鳩山への「脅威」とはならないし、近い将来の「造反」の核たり得ないだろう。

反対に幹事長を引き受けたりすれば岡田に総理の目は消えるだろう。むしろ鳩山の陰にいる小澤は岡田勢力の三役入り阻止に邁進するはずだ。

いずれにしろ鳩山を代表に担いだ事で民主党は少なくとも支持者の声に背いてしまった。岡田にすれば来るべき総選挙で政権獲得のチャンスがあったが、小澤の勘違いと、世間の「風」を読めない
鳩山のボンクラにより千載一遇を逃した。

当に平井修一の言う如く「民主党は勝てる戦争で勝利を放棄した。小沢との心中を選んだのだ」2009・05・16

2009年05月15日

◆小澤一郎の勘違い


渡部亮次郎

<代表選の16日実施を決めた12日の党役員会では、小沢氏と距離のある野田佳彦広報委員長と安住淳国会対策委員長代理、長妻昭、福山哲郎両政調会長代理の4人が日程や投票方法に異論を唱えた。

これに対し、小沢氏は、4人を説得しようとした鳩山氏を遮り、「4人の皆さんが反対しているけれども、すでに異議なしで了承されたじゃないか。みんなで決めたことに従うのが民主主義のルールだ」と語気を強めたという。> 5月13日14時14分 読売新聞

さすが「実力者」だ。筋書き通り、思い通りに事は運んでいる。
地方がいくら反小澤と騒いでも、声は届かない。選挙は16日に終わってしまう。鳩山が後継代表に選ばれ、小澤は選挙対策本部長みたいなポストに坐って「院政」を施く。

負けた岡田をどうするか。まさか幹事長にはすまい。ところが地方では大方が岡田支持だったから、今後は、「造反」の「核」として岡田が不気味な存在になるだろう。クリーンだけが取りえで、指導力や政治理念に優れたものがあるとは思えないが、とにかく「反」「非」小澤の頂点に小澤のお陰で上り詰めた。

こう見てくると、民主党入りした小澤は、代表を辞めたことによってはじめて民主党を乗っ取った。皮肉な話である。就任した時は「私も変わる」などと殊勝なことを言っていたが、実態は自民党時代よりも自民党的な汚染で周囲得を穢し、党内民主主義まで否定してしまった。党首選挙を来週に延ばすべきだった。

そうすると岡田に負けてしまう。各選挙区での声が岡田だから鳩山が押されてしまう。国会議員だけで土曜日までに決着を付けようと
他の幹部を恫喝してまで拘った小澤の意図は見え見えだ。

言い方を変えれば小澤は民主党という他所の家に入り込んだ途端、
自民党以上に自民党的運営を貫き、民主党を壊してしまった。壊してしまったくせに「さあ、これから政権を取りに行こう」と叫んでいる。勘違いも甚だしい。

民主党は自民党支持者を囲い込まなければ政権はとれない。ところが今回、展開したものは小澤の陣取り作戦のみで、民主党支持者すら納得させていない。まして自民党支持者は昔のような金権政治ドラマを見せられてうんざり。民主党に傾きかけていた心を正気にもどしてくれて、目が覚めた。

あのまま小澤が消えれば、今回、民主党に政権が回ったかもしれない。しかし小澤が民主党内で余りにも自民党を演じてしまったので
民主党に回りかけていた票は音をたてて逃げてしまった。小澤はまた壊し屋を演じてしまった。今回壊したのは民主党とその夢。
(文中敬称略)2009・05・14

2009年05月12日

◆小澤ボツリヌス菌説

                渡部 亮次郎

小澤一郎の民主党代表辞意表明会見をテレビで見ていて、突然「そうだ、小沢は政界のボツリヌス菌だ」と思った。

<ボツリヌス菌。ボツリヌス毒素の致死量は体重70kgのヒトに対しA型毒素を吸入させた場合、0.7―0.9μgと考えられている。ボツリヌス毒素1gの殺傷力は約100万人とも言われる(ちなみに青酸カリは経口投与の場合5人/g)。自然界に存在する毒素としては最強。青酸カリの20万倍!剛腕ぶりは小澤そっくりじゃないか。

ボツリヌス毒素は主に四肢の麻痺を引き起こす。重篤な場合は呼吸筋を麻痺させ死に至る。発熱はほとんどなく、意識もはっきりしたまま死ぬ。昔の秋田では田植えの共同作業中によく見た。

日本では、秋田のハタハタ寿司など飯寿司(いずし)、熟寿司(なれずし)、切り込み(きりこみ)などの郷土料理(いずれも発酵物)による中毒が北海道・東北地方を中心に報告されている(E型による)。

1984年、熊本県で製造された真空パックの辛子蓮根を食べた36人(1都12県)がボツリヌス菌(A型)に感染し、内11名が死亡した。

原料のレンコンを加工する際に滅菌処理を怠り、なおかつ真空パックし常温で保管流通させたために、土の中に繁殖する嫌気性のボツリヌス菌がパック内で繁殖したことが判明した。出典:「ウィキペディア」

秋田では飯寿司の材料たるハタハタに海底にいるボツリヌス菌を含む屁泥が付着していることがあり、よく水洗いしないまま飯と一緒に発酵させると、菌は猛烈に繁殖する。冬に漬けこんだ物を春の田植えの現場で食って中毒を起こすのだった。

角栄と金丸という金脈菌を背負った小澤を民主党が迎えいれたのが失策だった。金脈菌は洗う事も払いのけることもできない。小澤から金脈菌を除ければ小澤が小澤でなくなる。死んでしまうからである。

民主党の合言葉は金脈との絶縁の筈だ。小澤は旧田中派を飛び出したが、その理由は強引な性格が仲間に嫌われ、居るに居られなくなったからだった。新しい政治理念を描いたわけでも変身したわけでもない。単に金権派閥から落ちこぼれただけだった。

その後いろいろな政党を作り、幻のような政権を打ち立てた事もあったが、所詮、幻は幻だった。陽炎は近付けば消える。

「自分は変身する」と言って民主党の代表となったが全く変わっていなかった。金権体質は「清潔」を宗としながら寄せ集め政党なるが故に、さながら飯寿司のように、政権を目前(?)にした発酵状態の中でボツリヌスが本性を現す寸前だった。

政治はどんなに批判されようが裏金の世界である。人間を説得し,誘拐し、買収するのが本質である。その金集めに最も優れているのが小澤である。資金力があるから選挙に剛腕も発揮出来たのだ。

しかし、その体質は金権そのものであり選挙に弱い弱卒たちが頼りとする剛腕はまた強力な殺傷力を併せ持ったボツリヌス菌でもあるのだ。

小澤ボツリヌスは「政権奪取寸前」という民主党員思い込みと言う飯寿司発酵に似た党内情勢の中で猛烈な勢いではびこりつつあった。しかし小澤自身が我慢しきれなくなって遂に辞任表明に追い込まれた。民主党は、全滅寸前に救われた。

ただし、小澤は寄り合い所帯を崩壊から守る重石だったから、今度は小澤の言う挙党一致どころか派閥対立が再発するだろう。こんな危い政党に政権を執っては欲しくないものだ。

小澤はどこを目指す。今更自民党へは戻れない。党内で選挙を手伝うといっても辞めるのの遅すぎた未練野郎。奨められれば選挙関係の専任ポストにつくこと確実だが、それで復活もならず、遠からず舞台を去ることだろう。(文中敬称略)2009・05・11

◆本稿は、全国版メイル・マガジン「頂門の一針」 1544号 <5月12日 (火)>より転載

同誌(1544号)の目次ー

・小澤ボツリヌス菌説:渡部亮次郎
・民主はお面が変わるだけ:平井修一
・小澤で駄目なこれだけの理由:古澤 襄
・米国新聞界の苦境、さらに深化:宮崎正弘
・献本を受けて思い出したこと:阿比留瑠比

 ・話 の 福 袋
 ・反     響
 ・身 辺 雑 記
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http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2009年05月11日

◆シマゲジに初の評伝

渡部亮次郎

シマゲジ死して13年。初めての評伝が刊行された。後輩によって「まとも」に評価されている。NHKで会長にまで登りつめながら
表面的には傲岸不遜な態度を貫いたゆえ政治家たちに引き摺り降ろされた不世出の政治記者島 桂次(しまけいじ)。

このたび島に最期まで仕えた元NHK社会部記者小野善邦(おの よしくに)によって実に「正確な」評伝が刊行された。『本気で巨大メディアを変えようとした男』異色NHK会長「シマゲジ」・改革なくして生存なしとサブ・タイトルが打たれている。

発行元「現代書館」5月15日発売、2300円に税
書籍番号 ISBN978―4−7684―5607―1

目次だけ紹介しておく。結論を先に言えば、島のNHK改造論は全く正しい。しかし己を頼む意識ばかりが強くて実現のための戦術論がなかった。下請けする仲間がいなかった。政治家を馬鹿にするだけで利用する術に思いが及ばなかった。政治家を孫請けにすべきだったのに。

当時を詳しく知る者(すべてOB、OGになっている)たちは弟子の海老沢勝二を理事に再任せずに外部に出した事が政界の怒りに火をつけ、本来は島を助けるはずの野中広務にクビを取られたのだ
と受け取っている。

これについて小野は「海老沢を1度外部団体に出して修業させた後、専務理事として戻すハラだった」と打ち明けるが、それなら本人に伝わるような手立てをすべきだった。案外照れくさかったか。

だが世間は後に海老沢が会長になって見ると「あの時、島は海老沢に寝首をかかれるのがこわかったのだ」とさらに誤解した。

OBの中には島意中の後継者は既に決っていた、と具体的に名を挙げる人さえ居る。

第1章 「シマゲジ」という男ー生い立ちと新生NHK

第2章 激動の時代へー政治記者島桂次

第3章 瀕死の恐竜―崖っぷちのNHK

第4章 挑戦の始まりーNHK王国と政治

第5章 旧態を許さずー組織に風穴を

第6章 左遷と覚醒―島桂次の変身

第7章 壊しながら創るー改革なくして生存なし

第8章 陣頭の闘いー海外を飛び回る会長

第9章 失われぬ志ージャーナリストとして死す

エピローグ 改革者からのメッセイジー日本の巨大メディアNHKはどこへ行くのか?

「年表」が付されている。誰が挑んでもこれ以上の島桂次評伝は書けないだろう。

それは小野が島に求られれて、敢えて社会部記者をやめて島政経番組部長の下へプロデューサーに転身して駆けつけ、常時、島の身辺にあり、島のハラをさぐり、助けたからである。そういう人物は秘書を務めた堀 徹男と山下頼充以外には居ない。

著者の小野は私と同じく1936年生まれ(愛知県)だが、NHK入りは遅くて1960年。初任地が私の郷里秋田県。そこでサツ周りから記者を始めたが、地元紙のボスが愚兄渡部誠一郎。「かなり可愛がられました」と言っている。

奇縁は島と私の間にもある。NHKに正式入社して島の初任地は仙台で次が盛岡をへて東京政治部。私もそっくり同じコースで政治部。

東京オリンピックのあった昭和39(1964)年の7月10日に私は政治部勤務を発令され戸惑いながら上野へ着いた。

政治部なんて希望した事はなかった。一生、地方周りを覚悟していたからである。上野に着いたその日は自民党総裁選挙で池田勇人が3選されていた。池田派の幹部に肩を並べていた島は社に上がってこなかった。

島が盛岡在任中後輩の記者を後ろに乗せてオートバイを酔っ払い運転で転倒。怪我は軽かったが警察の醜態を撮影された。私の在任中は毎年、春と秋の交通安全期間中、その写真が警察の掲示窓に「酔っ払い運転の末路)とコメント付きで掲示された。

政治部に来てからはアル中のため酒を断つったらしい。しかしわれわれ新人には言葉もかけなかった。小柄だが横柄な口の利き方をする人。とっつきにくかった。

「先ごろ海老澤勝二が島に強要されてウイスキーを飲みすぎて病院に担ぎ込まれた事がある」ときかされた。

なんでも島は同じ平河クラブで自民党池田派を担当。池田3選を巡り藤山愛一郎派担当の山本弁介と対立。政治部の部屋で取っ組み合いの喧嘩をした。

結果、池田は3選したものの「喧嘩両成敗」で山本は総理官邸クラブ、島は霞(外務省)キャップに配転された。

そんな具合だから「お前、仙台、盛岡と俺と同じコースだったな、メシでも食おうか」なんて声がかからないままだった。

私は若くして河野一郎派担当だった。河野は当時オリンピックと韓国との国交再開交渉を担当。私の聞きだす情報は島の役には立ったらしく「バカ」呼ばわりはされたことは無い。殆どの後輩を「チョンチョコピー」としか呼ばなかった。折角呼び寄せた小野をもそう呼んだらしい。

ある日政治部へ帰ると島が臨時デスクをしていた。「りょうじろう!いままでどこに隠れていたんだ」という。「捜したぜ」と言う意味だったろうが「隠れていた」は穏やかでない。つい「なにをっ!」と反抗した。島はびっくりした顔をして下を向いた。案外気は小さいと思った。

島は政治部ではデスクにも部長にもなれなかった。部下が誰も懐かないのじゃ仕方がない。政経番組部長に転出した。それが島の視野を広げ出世に役立ったようだ。しかし未入閣の代議士は無視していた。彼の役には派閥の長クラスでないと政治家ではなかった。

後に郵政省(当時)から来た小野会長に煙たがれてアメリカ総局長(ニューヨーク)に飛ばされたときも意に反して目を世界に開くきっかけになった。

池田総理大臣の蚊帳に入ってまで情報を聞きだしというのが自慢だった。「そうだ、政治家は嘘を言うのが商売だ。特に記者会見の発言などみんな嘘。見も知らない不特定多数に本心を打ち明けるはずがない。真実はサシ(1対1の取材)にしかないを真情としていた。これは真実だった。

ある日共同記者会見で言を左右する田中角栄幹事長が会見を終えたら国会内のトイレに駆け込んだ。隣に並んで用を足しながら「幹事長、ほんとのところはどうなんですか」と聞いたら本当の答えが返ってきた。

「記者会見では嘘を言うしかない。だから良心が咎める。ほっとして小便に行く。その時「ツレション」をしながら聞くとそこで本心を言う」と島は教えてくれた。

記者でなくなってから、参議院記者クラブにいる私を訪ねてきたことがある。角福「戦争」でいかに角栄が底流で多数を制しているかをとうとうとぶった。自民党担当記者でなく私のところでぶち上げても仕方ないのに。

若い頃はアルコール中毒になった。たしか昭和38年夏、鈴木善幸(後の首相)について岩手県内を旅行したとき、島の飲むジョニ赤を3本、鞄につめて持ち歩いたのは善幸だった。

のちに私が著書でそのことを書いたら削除しろと他人を介して申し入れてきた。「東京の政治記者とは凄いものだ」と書いたのだ。取り消さなかった。照れだったのだろう。

あれだけ傲岸不遜に振る舞い、そのことが命取りになった島。本当は小心者、だから酒を呑んで威張り散らした。だからアル中になった。それで酒を断ったが、その地位は酒がなくても威張れる程高くなっていたから傲岸不遜で通せた。

会長を追われたのちインターネットによる事業を立ち上げ、外部の新しい仲間も出来ていたらしいが、会長辞任から5年しか生きなかった。粟粒結核のため板橋の日大病院で寂しく死んだ。69だった。

島死して13年。島改革が挫折して漂流するNHKの13年だった。返す返すも島の挫折が悔やまれるが、島に戦略は会っても戦術のなかったことも同時にくやまれる。2009・05・10

2009年05月10日

◆日本分割を阻止した日本人

渡部亮次郎

アメリカ大統領ハリー・トルーマンは日本に進駐する連合国軍最高司令官(SCAP:Supreme Commander of the Allied Powers)にダグラス・マッカーサーを任命した。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」をGHQ(General Headquarters)と呼称する。

日本に進駐した連合軍の大部分は米軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。

戦争中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京23区は米中ソ英、近畿地方の大部分と福井県の一部は米中による共同統治)を計画していたが、天皇を通しての統治が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。

この動きは少年だった私の耳にも入り、東北地方はソ連に直接統治されると言われた。それが重光のお陰で救われたとは大人になるまで知らなかったが、ことはトラウマとなり、どういうわけか牛蒡畠
の裏からソ連兵が現れる夢を大人になっても見た。

戦後、重光葵が鳩山内閣で外務大臣を務めた際、政務次官になったのは熊本天草出身の代議士園田直(そのだ すなお)だった。更にその30年後、園田は福田赳夫内閣の中で図らずも外務大臣に横滑りし、要請で私がNHK国際局(当時)副部長から政務秘書官に発令された。

その関係で重光のことは裏話を含めて良く聞かされた。重光が死んだのは自宅ではなく妾宅だったが、自分が早くに駆けつけ、世間の目をくらましたことなど。

鳩山内閣当時、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため外交官出身の重光と鳩山の関係が悪化した。

また鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。というのも、重光の脳裏には駐ソ大使当時、ソ連外務省と対立した事や日ソ中立条約を一方的に破棄し満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。

重光 葵(しげみつ まもる、明治20年(1887年)7月29日―昭和32年(1957年)1月26日)は、日本の外交官・政治家である。

昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判で有期禁錮の判決を受ける。仮釈放と赦免後、政界に再復帰し、再び外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力した。園田政務次官はこの時代。

大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれたが、母の実家(重光家本家)に子供がなかったため葵が養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現・大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。

重光は敗戦直後、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣で外相に再任された。引き受けた大仕事は、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという屈辱だった。

昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、参謀総長の梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行い、その時の心境を「願くは御國の末の栄え行き我が名さけすむ人の多きを」と詠んでいる。このとき随員として艦上にあったのが畏友にして評論家加瀬英明の父俊一(としかず=後に国連大使)である。

重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難を伴うものだったのにもかかわらず、重光自身はその事を全く気にしていないように振舞った。

ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦する米国水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという。

極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だった。アメリカは重光起訴に当初は抵抗したがソ連に乗り切られた。

なお、進駐軍が厚木飛行場に到着した際は、横浜市に対して「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した実現したのは軍票問題だけだった。
(文中敬称略)3009・05・08
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2009年05月09日

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎

(再掲)中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介し1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。


日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親日派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させてハナを開かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無いから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。2008・02・28

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2009年05月08日

◆発禁(はっきん)の歴史

渡部亮次郎

発禁とは新聞、雑誌、書籍など主として出版物の特定の号または本の発売および頒布(無償の配布)行為を禁止する公権力による処分、いわゆる発売頒布禁止処分の略称。

NHKは公共放送とはいえるが国営放送ではない。それなのに軍歌は絶対、放送しない。スポーツ放送のテーマ曲は古関裕而の作曲。そのほか古関が作曲した放送のテーマ曲は多い。

古関は早稲田大学応援歌「紺碧の空」や東京オリンピック(1964年)の行進曲の作曲者としても有名だが、大東亜戦争中は数々も有名な軍歌の作曲家として名を売った。

銀翼連ねて南の前線で始まる「ラバウル海軍航空隊」、ああ、あの顔で あの声での「暁に祈る」勝ってくるぞと勇ましくの「露営の歌」若い血潮の予科錬の七つボタンは櫻に錨「若鷲の歌」、あの日揚ったZ旗を・・・の「海の進軍」などだ。

戦争中は国民学校(小学校)の児童も「軍国少年として教育されたから古関作曲の軍歌を、それとは知らずに随分唄った。同じ作曲家でも軍歌をあまり作らなかった高木東六は古関の悪口を死ぬ(102歳}まで続けた。

歌は政府や軍により「戦意高揚のため」としては大いにもちいられたわけだが、戦後、ゆうめいになった「夜のプラットホーム」とか「湖畔の宿」などはそれに反するとして発禁(発売禁止)処分を食らった。

私(73歳)が生まれる前の1934(昭和9)年、出版法改正で蓄音機用レコードも同法の対象となると同時に、レコードについても発禁が内務大臣の行政処分として行われるようになったためである。

現役のアナウンサーは、こうした事実を全く知らない。「夜のプラットホームは歓呼の声に送られて戦地に旅立つ新婚の夫を新橋駅のホームの陰に隠れて泣きながら見送る新妻の姿だ。戦地に向う以上、帰還は叶わないかもしれない、それだから「君いつ還る」とうたった。だから発禁になった。

戦後、発禁が解けて流行したが人々は戦時中の気分で歌った。何で旅がそんなに悲しいか分らないアナウンサーは戦争を知らないから理解できない。

今になってみると「山の寂しい湖に独り来たのも・・・」とうたう「湖畔の宿」が何故発禁か理解できないが、戦争中は女々しいとして禁止されても国策に反するといわれれば下を向くしかなかったろう。

コトコトコットン ファミレドシドレミファと唄う森の水車も発禁。ドレミファソラシドが外来語禁止に反したから。これはイタリア語で、イタリアは3国同盟の相手だからよかった筈がが「とにかく外来語はいかん」だったらしい。

新聞、雑誌などの定期刊行物については別に発行禁止(当該定期刊行物の存在自体の禁止)処分がある。発禁は日本では今日は存在せず、類似なものに違法な猥褻(わいせつ)出版物等についての押収処分があるにとどまるが、大東亜戦争前の旧体制下で猛威を振るった政府の言論統制手段として有名。

この発禁は、新聞紙、雑誌については新聞紙法第23条、書籍などについては出版法第19条により、それぞれ内務大臣が「安寧秩序」を乱しまたは「風俗」を害するものと判断した場合に自由裁量で行うことができるいわゆる行政処分である。

そのうえこの両法は行政訴訟による救済の道を閉ざしていたから、内務大臣の処分は最終処分で、発禁を受ければ泣き寝入りのほかはなかった。

したがって政府にとってはきわめて機動性に富む、便利で効果的な言論統制手段であった。ことに新聞、雑誌など定期刊行物の統制には絶大な威力を発揮した。

新聞、雑誌についてはさらに、この種の記事を掲載すると発禁処分に付するという事前の警告をはじめとするいわゆる記事差止め処分なるものが、内務大臣の発禁処分を補完する便宜的処分として法的根拠もないまま公然と行われた。

発禁処分権は、大東亜戦争期、国家総動員法に基づく新聞紙等掲載制限令(1941)によって「外交」その他「国策遂行ニ重大ナル支障」を生じるおそれのある記事を掲載した新聞紙等に対し内閣総理大臣(実際の処分は情報局が担当)にも認められた。

新聞紙法以前は新聞紙、雑誌の発行禁・停止が内務大臣(卿)の行政処分として認められ、同時にその被処分紙誌の発禁処分権も認められていた。

発行禁・停止の行政処分は、手続規定違反については1875年(明治8)の新聞紙条例、内容違反は「国安妨害」の場合について規定した76年の同条例改正、「風俗壊乱」は80年の同条例改正で創設された。

97年の同条例改正では発行禁・停止の行政処分が廃止されたが、新聞紙、雑誌に告発手続がとられた場合に随伴処分として発禁処分が認められていた。これが新聞紙法で独立の行政処分となったわけである。

書籍などに対する出版統制の歴史は、最古の出版法規とみられている出版物の無許可発行を禁止した触書(ふれがき)(1672)以来古い。これらの触書などに違反した出版物の発売・頒布は当然禁止されていたから、その意味で発禁は江戸時代から存在していたといえる。

しかし書籍などに対する発禁処分が、内務大臣の行政処分として規定されたのは1887年の改正出版条例第16条が最初で、前述の出版法第19条はその継承である。

発禁の対象となった本は一般に発禁本と称されている。これらの発禁は大東亜戦争後のGHQ(連合国最高司令部)指令による新聞紙法など発禁処分の根拠法令の効力停止や廃止とともに消滅した。

言論統制は主に対内的に流布する利敵情報、例えば国家政策への批判、治安・風紀を乱す主義思想、国家的に重大な機密、暴動・国内的混乱の扇動など、が出版・報道・流布されないように調査や検閲を行い、必要に応じてこれらの情報を操作・管理・防止することである。

これらには反政府的・扇動的な主張を行う集会を禁止したり、集会内容を規制することも、言論統制の一環といえる。

現在は日本国憲法で言論の自由の保証が明文化されているが、その日本国憲法下においても、プレスコードなどGHQ(連合国占領軍)による言論統制、弾圧は強力に行われていた。

アメリカなどの自由主義諸国でも戦時においては言論統制は当然のように行われる。
[Yahoo!百科事典および「ウィキペディア」2009・05・06