渡部 亮次郎
韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。
この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。
「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。
当時、この事実を日本側でオフレコで河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。
著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。
平成6年2月 Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)
ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。
それを基に産経新聞が2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。
更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。
ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。
さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。
この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。
密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。
元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。
しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。
そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。
そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。
とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。
そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。
韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。
嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。
宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。
宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。
かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為急死した。67歳だった。
韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。
日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。
日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。月刊誌「自由」1980年10月号から転載。2012・9・7
◆竹島「密約」のあった時代
渡部 亮次郎
韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。
この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。
「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。
当時、この事実を日本側でオフレコで河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。
著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。
平成6年2月 Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)
ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。
それを基に産経新聞が2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。
更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。
ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。
さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。
この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。
密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。
元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。
しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。
そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。
そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。
とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。
そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。
韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。
嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。
宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。
宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。
かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為急死した。67歳だった。
韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。
日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。
日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。月刊誌「自由」1980年10月号から転載。2012・9・7