渡部 亮次郎
「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことである。それを知らずに、知らないことを知っている風に済ます人を「てんしき」と昔は言ったらしい。
『論座』という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。五百旗頭 真(防衛大学校校長)、伊藤元重(東京大学教授)ら3人が森喜朗前総理大臣の生い立ちから今日に至るまでに質問。「キーパーソンが語る証言 90年代」と題し、第13回に森氏が登場したもの。
森氏が1969(昭和44)年12月に無所属ながら初出馬にして初当選を果たした翌年のことだったようだ。森氏と同期当選の中尾宏氏(鹿児島2区=当時=故人)が政界中を触れ回った。
「森がな、選挙区の運動会周りをして、財布をカラにした。親分の福田さんに70万を助けてくださいとお願いしたら、さすが元大蔵省主計局長。おいそれは50万に負からんか」
「その話が角栄(幹事長)の耳に入って、森がすぐ呼ばれた。森クン、これ持ってけよ、カネは邪魔にならんからな、といってポケットに300万円をねじ込んだ。森は受けとったさ」。
私はこの話を中尾氏から何度も聞いた。森氏は否定するだろう。「証言」で「角さんのカネは森さんも受け取ったことがあるんですか」と訊かれて「いやいや」と応えている。
角さんがロッキード事件で逮捕されたとき党内反三木派が挙って挙党体制確立協議会を結成して三木首相の引きずり降ろしに奔走した時、森氏は三木内閣の総務副長官として、少なくとも形式的には三木側近だった。
「証言」では「三木降し」が即福田政権に繋がると思っていたと応えているが、私からすれば不思議としか言いようがない。詰まり三木降しの過程で福田、大平の両氏は三木氏から「ボクの後をやるのは君らのうち誰に決まっているのか」と逆襲されてギャフンとなった二人だったではないか。すぐ福田とは本人もまだ思ってない。
真実はそこで園田直(福田派)保利茂(福田支持)鈴木善幸(大平派)江崎真澄(田中派)による調整が進んだ。森氏はその事実さえ知らないはずだ。
当時は、なんと言っても「闇将軍」田中支配の時代。田中氏が大平氏に手を上げれば即大平総理誕生の情勢だった。そこで園田氏は嘗ての敵陣に乗り込み「2年」を条件に田中氏の了承を取り付け「大福密約」を成立させたのだった。
この陰で福田氏は、総理大臣を「たとい半年でも」と懇願していた。田中氏との「角福戦争」に敗れてすでに5年。齢71である。これが最後のチャンスとは自他共に認めるところだった。森氏は何も知らない。
そうやって衆参両院とも、過半数を上回ること僅か1票というすれすれで成立した老齢内閣。党幹事長に回った大平氏とのすべての調整を考慮すれば、園田氏がこの際、内閣の番頭でもある官房長官に座る以外に妙手はなかった。
しかし、福田氏の親分たる岸信介元総理大臣が背後から、自分の女婿安倍晋太郎の官房長官就任を迫っていたため、福田氏は園田氏の申し出に返事をしなかった。
だが園田氏は「官房長官でなければ今回は入閣しません」との最後通牒を放ち、塩川正十郎氏を副長官として長官室に籠もってしまった。総理は「1年ぐらい我慢するか」と呟いて渋々認めた。
三木内閣にいる森氏がこの経緯を知るわけがない。それなのに「知らない」と言えないから「てんしき」と嗤われる。
1年後官邸から自宅に居た私電話がかかってきて「秘書官になってよ」「あぁいいですよ」と応えた。行ってみたら仰天、外務大臣に変っていた。このとき森氏は安倍官房長官の下、官房副長官に発令される。
「証言」で森氏は園田氏がこの人事に不満なのは残した官邸が安倍色に塗り替えられるから、とワケの分らぬことを言っている。キャリア30年の代議士が、そんなことを不満とすると、「てんしき」さんなら思うのか。
園田氏は「密約延長工作」の破綻が悔しかったのである。だから園田氏が「それで外務大臣として何をするかを考えたんでしょうね。功名心もあって日中(平和友好)条約に取り組んだんです」とは矛盾しており、下卑た判断だ。
日中条約を締結すると言う決意を福田総理が密かに明らかにしたのは、1977(昭和52)年1月4日。世田谷区下馬の総理私邸においてである。
そこには園田官房長官に伴われた中年の男性が正座し、総理の決意を携えて直ちに北京に飛んだ。黒衣(くろこ)の登場だった。
進んで外相を狙い、功名心から日中条約を締結したというのでは、知ったかぶりをするのは許せても、ウソを固めて故人を冒涜するもので紳士欠格者だし、総理大臣経験者として、相当権威を欠くというものだろう。
福田総理は園田外相の怒りを知っており、大平側に寝返って攻略してくるという悪夢も抱いていた。だから日中条約の交渉全権は佐藤正二大使で済まされないかと画策した。
当時、霞クラブで取材した東京新聞記者(その後東海大学教授、故人)の著書『天皇とトウ小平の握手』(行政問題研究所出版局)に詳しい。
ところが、園田外相は加えて、総理がすっかり忘れてしまっているあの「黒衣」から「中国は復活したトウ小平副総理の指示で早期妥結にギヤを切り替えた。大臣が北京入りすれば必ず妥結」という、軍をも交えた情報を得ていた。この情報は大使館が得ていないから、総理の耳には届かない。
森氏は「証言」で福田総理の「決断」は昭和53(1978)年8月6日(日)午後6時、箱根プリンスホテルの福田・園田会談だったと強調するが、有田圭輔外務事務次官は北京入りの特別機を既に数日前に手配していたし、私はそれを見て、中国首脳への土産の絵画、大使館員への食パンの注文を既に終えていた。総理からゴーサインが出なければみんな辞職する覚悟は出来ていた。包囲されていたのは総理の方だった。
付随して森氏は角福戦争敗北後、7-8人の子分を連れて福田派に合併した園田氏が派内で会長代行にのし上がるなど実力を発揮したために派内の不安が高まったと指摘しているが、本末転倒も甚だしい。
角福戦争時、NHKの福田派担当記者だった私から言わせれば、福田派には園田氏のような喧嘩士が皆無だった。だから園田氏に派の実権を握られたのである。森氏は盛んに安倍氏と園田氏が対等な実力を持っていたように説明するが、冗談も程ほどにしてもらいたい。
安倍氏に敵・田中角栄の牙城に単騎乗り込んで政権委譲の約束を取り付けてくる離れ業が出来たのか。なぜ、竹下登にしてやられたのか。森氏にその度胸があったのか。30年以上も経ってから死人を足蹴にして己を高く売りつけるとは見下げ果てた元記者よ。「てんしき」だ。
福田氏があえなく大平氏に敗れた後、密約を楯に福田支持をしなかった園田氏は福田派を除名され「政界のはぐれ烏」と成り果てた。それでも福田氏が大平批判を控えれば、ポスト大平は福田さんだといい続けた。
しかし福田氏の「乃公(だいこう)出でずんば」の過剰自信は遂に大平首相を死に追いやり、自らも納得のいかぬまま生涯を終えた。時宜を得て歴史を目撃した私は幸せだった。(了)