2009年11月03日

◆両刀遣いの記者はいない

渡部亮次郎

産経新聞のワシントン、北京、ソウルの責任ある記者はいずれも
他社から引き抜いてきた一騎とうせんの大記者である。定年を既に過ぎながら、そのまま頑張っている。

英語、北京語、韓国語に堪能なだけでなく、駐在期間が長いだけ、各界への人脈が豊富。他社の追随を許さない。

特に政治分野の取材。日本とは違って、役人のテーブルに勝手に近付くことは不可能。政治家へのインタービューなど容易なことではない。

役人は誘い出しても、夜の会食には殆ど応じない。よほど仲良くなったら、昼食を共にしながら情報提供に応ずる事はありうるが、そういう役人を複数作った頃には本社から帰任命令がくるから、元の木阿弥だ。

本社が、何ゆえに、馬鹿なことをするかというと、海外に出たいという希望者が待ちきれないからである。

外信、外報記者予備軍は、人事部が毎年、採用し、一般的な取材や執筆などの訓練を施すために地方支局や放送局に配属する。数年経ったところで東京本社に帰し、まず外務省を担当させる。

1年か、2年で、海外支局に派遣する。そうしない事には一人前の海外取材記者に育たないからである。逆に前任者は、現地で折角創り上げた人脈をごっそり捨てて、本社に帰任する。

本社で何をするか。デスクに坐って「翻訳」をするしかない。そんなつまらない事をしながら、再度、外国に出るのを待つだのである。
痺れが切れた頃、再度既任地へ。

日本の外信、外報記者の不合理ともいえる、配置換えにはこうした裏事情があるのだ。

「外国語が達者」だから入社したとはいえ、次に外国へ出るまでは
政治、経済、事件記者でもやったほうが良さそうなものだが、遣らせないし、やろうともしない。

意地悪い観察をすると、外国語の達者な記者ほど、取材力もそれほどかというと、残念ながら、そうでもない人が多い。勿論、両方とも優れた人はいて、産経新聞にスカウトされた人がそうだったのだろう。

日本外務省でいわれていたことは、外国語に極めて優れた能力を持っている奴は事務次官にはなれないということだった。現在ではどうか知らないが、要するに語学は暗記能力。事務次官は判断能力。
左脳と右脳のことを言うのだとか。

複数の外国語を操るキザな元キャスター。外報部長をさせたところ、
部下をえこひいきばかり。人事管理能力の無さは「脳足りん」といわれたが、有ろうことか局長になって周りをびっくりさせたもの。

会長の死後、遺品を整理したら「私に管理能力はあります。どうか局長にして下さい」という自薦の手紙が何通も出てきて謎が解けた。
鬼といわれた会長もゴマスリに弱かった。彼は中途で外に飛び出し、
巷に埋没した。

余談だが、中国のような建前が共産主義体制の国での取材となれば、行きたいところにも行けない。制限ばかりで自由が全く無い。加えて仮に当局の機嫌を損ねれば、国外追放となり、二度と中国に入国する事は永遠に不可能になる。メシの食い上げだ。

若い頃、命を削るようにして覚えた言葉が、無用の長物にはてて仕舞う。わが国の中国駐在記者たちが、どんなに日本の読者に批判されても、「面白い」記事を送ってこれるわけがないのである。
2009・11・02

2009年11月01日

◆用便と歩行飲食は同じ

渡部亮次郎

知らぬ者同士が食事を共にして仲良しになる。とはいっても宮中晩餐で賓客たちが料理を食べ始める場面は絶対、テレビ中継されない。とすると、食事はプライバシーなのだ。同様に排泄も恥だから他人には見せない。

だが、いまどきの若い人たちは歩行中や電車で、衆人環視のもとでの飲食が平気。しかし、飲食がプライバシーだとすると、電車の中での飲食は性器を見せていることに等しいことにならないか。

外交で、会食は不可欠だ。複雑な交渉ごとを抱えていても、夕食を共にすることは、欠かせない定番である。同じ物を食し、口の中を見せ合うから、いわばプライバシーを見せ合うから、仲良しになるのである。

先に、オバマ大統領訪日の先遣隊として来日したゲーツ国防長官が、防衛省首脳との会食や、自衛隊栄誉礼の申し出を悉く辞退したということは、日本民主党に対するアメリカ民主党の拒否反応だった。

「君たちと妥協することは元よりないぞ」と言うサインでもあったといえる。それなのに、外交に慣れていない鳩山政権は、その意味を感じ取れず、アメリカ側をいらいらさせている。初の来日をするオバマ大統領との日米首脳会談は失敗が予測できる。

そのため岡田外務大臣は、あわてて再訪米を打診したが、アメリカ側に足元を見られており、結局無視されるだろう。

重ねて言うが、対外交渉の過程で、会食が重要だということは、口を開けて食をするという行為は、一種のプライバシーの公開だからだ。

トウ小平に直接教わったことだが、中国の招宴で、主人の箸の長いのは、主人の食べる物と客人の食する物が同じであることを証明する為だという。

主人は料理を両隣の賓客に取り分ける。貴方と私は同じ料理を食べるのです、あなたを毒殺する意図はありません、と表明する為に、使う箸は長いのだ、と。

逆に言えば、中国の歴史は、敵を宴会に招待して毒殺するものだったのだ。

互いの国の当事者同士が食事を共にするということが外交の定番になったのは、平和の証拠だが、その意味が忘れられたぐらい平和が続いているということなのだろうか。

いずれにしろ、食事を共にするという事は、プライバシーをともにして、友好を誓い合うということだとすると、それは、排泄を相手に見せるということにも通ずると考える。

私(73歳)が育つ時、親や教師からは「歩きながら物を食べてはいけません」と教えられた。それがそうでなくなったのは1945年の敗戦の弊害である。

進駐してきた、主としてアメリカのド田舎出身の育ちの悪い兵隊どもが、歩きながら飲み食いして、日本の青少年を毒した。アメリカを「恰好いい」と思い込んでいる少年少女は、すぐ、これを真似た。

プロ野球は、ガムを噛みながらプレイすることが格好良く、当然の事だと勘違いして、最低のマナーを「定番」にしてしまった。

これを嗜めるべき大人は、敗戦の責任を感じて萎縮していたのか、縮こまってしまって、注意しなかった。それが、排泄や性交を公開するのに等しく、恥ずべき行為なのだと教えなかった。

しかし、今やそうした少年少女が、すでに親となり、老人になったのが21世紀の日本である。東京都江東区にある都立猿江恩賜公園では、老婆がパンを齧りながら散歩している体たらくである。

飲食を超して、電車で化粧する女性たち。化粧とは文字通り、化けること。それを人前で化けたのでは、種明かしをしてから手品をするようなもの。いくらやっても化けの皮がはじめから剥がれている。

こんな「馬鹿」に人々の目覚める事は、無いのだろうか。つまり、ゲーツ長官に会食を拒絶されても、その意味を理解できなかった鳩山政権は電車で化粧して恥じない、茄子や南瓜と変わることがないということだ。2009・10・31

2009年10月28日

◆アメリカを怒らせた鳩山政権

渡部亮次郎

10月20日から日本を訪れたオバマ政権のロバート・ゲーツ国防長官が日本側の防衛省首脳との会食を辞退し、自衛隊の歓迎の栄誉礼をも辞退した。

このことをワシントンでは日米関係政策コミュニティーが重大な出来事として論議の対象となっている、と産経新聞ワシントン駐在特別委員の古森義久氏は警鐘を鳴らしている。しかし、鳩山政権は少々、ボケていて、大事とは受け取っていないようで、困ったものだ。

古森氏も言うように、ことは、もうちょっと真剣な関心を向ける必要がある。『外交』に慣れていないから、意味が判らないのかもしれない。政府を担うことにおいては全くのアマチュアだから、仕様が無いといえば仕様がない。しかし、大失態である事は確かだ。

少なくともオバマ大統領初訪日の先触れだったゲーツ長官。その賓客に自衛隊の歓迎の栄誉礼を捧げ、宴席を設ける事は外交儀礼として、最低限の儀礼である。それを断られたことは、長官の意思ではなく、オバマ政権の意思と受け取るべきなのだ。

それなのに、長官がこれをいずれも拒否したという事は、握手を拒否されたも同然である。いうなれば鳩山新政権の対米姿勢に対し、オバマ政権は全く妥協的用意のないことを敢然と宣言したものである。

だから古森氏は言う。「ゲーツ長官は明らかに鳩山新政権への不満のために、あえて会食も栄誉礼歓迎式もボイコットしたのです。こんなことは日米安保関係の長い歴史でもまず例がありません。アメリカ側はそれだけ現状を重大だと認識し、不満や抗議の念を強めているのでしょう。

オバマ政権がこのように強硬に、しかも臆するところなく不満を表明するという現実は、日本の安全保障にとっても深刻です。米側の硬化は今回は夕食と歓迎式の辞退、あるいは拒否だけに留まったようですが、安全保障でのこうした負の変化は必ず経済面にまで波及します。

その論議の背後にあるのは「日米同盟は危機を迎えつつあるのか?」という疑問です」(「頂門の一針」10月2日付)

私は外交の全くの素人。30年前、外務大臣の政務秘書官を僅か3年務めただけだが、こういう失態を見聞したことはない。記者としては、全学連の抵抗に負けて岸信介首相がアイゼンハワー大統領の訪日を断って以来の失態である。これでは、アメリカが鳩山政権に全く、信用を置いて無いという事になる。

しかも新聞やテレビも未だに気付いていないということは、防衛省はもちろん、内閣全体が事態の深刻さに気付いていないということだ。

こんなことでは、オバマ大統領に対する歓迎体勢にも首脳会談にも成功の保証はできない。09・10・27

2009年10月26日

◆中国にもウォシュレット?

渡部亮次郎

中国人は用便中を他人に見られて平気だ。それに手は滅多に洗わない。日中国交回復のための田中角栄首相に同行しての初訪中(1972年9月)。

このとき万里の長城行きの取材バスに乗り遅れて、特別車を仕立てて後を追いかけたら、天安門から5分も走らぬ北京市内で、肥え桶を担ぐ人に出会って驚いた。まさか日本人記者が来るとも知らずに共産党は通行を許可したのだ。

しかし、次の場面では、それこそ仰天した。万里の頂上に登り始めるところにある公衆便所である。仕切りが何も無い。体育館みたいな広さの床に四角い穴が何十もあけられ、人々は他人に尻穴を見せながら用を足すのである。しかも手を洗う水はどこにも無い。

そういえば、街の食堂で料理人はトイレに立っても、事後に手を洗わない。おそらく、中国では水が少ないので、手洗いの習慣が無いのだろう。

そういう中国で、どれほどかは知らないが、用便後、便座にすわったままで尻を洗える「ウオシュレット」が売れているというから、やや驚きだ。改革・開放が尻にまで及んだか。驚き以外の何物でもない。

「ウォシュレット」は、TOTOが販売する、温水洗浄便座の登録商標及び商品名である。しかし、世界では日本しか普及していなかったから、大臣に随行して外国出張を重ねていた外務大臣秘書官の時代は携帯水洗器を持ち歩いたものだ。

TOTOのウオシュレットは発売が1980(昭和55)年6月。以来、2005年6月
には累計販売台数が2000万台を突破した。

2006年10月現在、中国・香港・台湾・韓国・ベトナム・シンガポール・インド・ドバイなどの中東地域・アメリカ・カナダで販売されている。

『頂門の一針』常連執筆者平井修一さんが紹介するワシントン・ポストの記事によると、インドでは人口のおよそ半分の6億6500万人がトイレに不自由しているというから、TOTOの市場は世界にまだ相当残っているわけだ。

最近のアメリカやヨーロッパの方面での実際の普及状況はわからない。古くて歴史を誇るホテルではどうだろうか。古くからビデ完備だったパリのオテル・クリヨンでもウオシュレットを取り付けたろうか。

「ウオシュレット」は温水洗浄便座では高いシェアを誇り、INAX(同社の名称はシャワートイレ)や他社製の同種類のものも含め、「ウォシュレット」と呼ばれるほど定着しているが、ウォシュレットの名称は先に述べた如くTOTOの登録商標(日本第1665963号)であるため、注意が必要だ。

TOTOは1960年代に米国からの輸入によって温水洗浄便座(ウォッシュエアシート)の販売を行っていた。主に病院向けに医療用や福祉施設用に導入されていたものである。

1969年にはこれを国産化したが、当時は販売価格も高く、なおかつ温水の温度が安定しないために火傷を負う利用者もいた。

男装で有名だった女流作家が、ビデを使ったらなんと熱湯が出てきて大火傷をした。係りが呼び出されて謝罪したが、男装なのに、あそこは男性でなかったのかと、帰り途で2人で大笑いしたという話を耳にしたことがある。

TOTOは独自に研究開発を進め、清潔好きな土壌を持つ日本での普及が見込めることなどから、1980年に2機種の設定によって発売を開始した。

特に、肛門位置などの数値データは存在していなかったので、社員などの協力を得てデータを収集し、噴出位置を設計するという工夫をこらした。

温水貯蔵式でおしり洗浄のほか、乾燥と「ウォームレット」の機能である暖房便座機能を持つ「Gシリーズ」(Gはゴージャスの意)と、水を瞬間式で温水にし、おしり洗浄と暖房便座機能に絞った「Sシリーズ」(Sはスタンダードの意)の2種類がある。

以後現在まで基本モデルはこの2種類で、これにコンパクトシリーズが1993年以降追加されるようになった。また、便器の大きさによって、レギュラー(標準)サイズとエロンゲート(大型)が用意されている。

1982年には、当時話題のタレント・戸川純を起用したCMで、コピーライター仲畑貴志による「おしりだって洗ってほしい」のキャッチコピー(第2弾コピーは「人の、おしりを洗いたい」)、その独特のCM中の歌によって一気に知名度を高めた。

CMについては、初回の放映時間がゴールデンタイムであったことより、視聴者から「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便所の宣伝とは何だ!」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されたが、それを乗り越えるだけのインパクトがあった。

以後、すべてのラインナップで着座センサーを導入した(それまでは着座していなくても温水が噴出した)。ふたの自動開閉や便器洗浄、さらには消臭、脱臭、芳香の機能の搭載にも成功した。

ウォシュレットを装備した一体形便器(商品名「ネオレスト」「Zシリーズ」など)の登場、また住宅用に限らず公共施設やオフィス、ホテル用のラインナップも整備された。

抗菌・防汚にも配慮がなされ、ノズル部分は肛門から跳ね返ってきた温水が周囲に掛からないような角度(43度、ビデは53度)に設定されており、格納時やおしり洗浄前にノズルを温水で洗浄する機能も付属している。

また、おしり洗浄とビデ洗浄では吐水する配管も変えられている。他にも、省エネルギーにも配慮して節電機能を設けたほか、操作部も一部機種では壁付けの別体リモコンの採用で使いやすくするなどの改良が加えられている。

また2005年10月には音楽のMP3再生機能が備わったウォシュレットが発売されるなど、多機能化が進んでいる。このようなトイレの多機能化は日本独特のものであり、世界的にはこのような便座はまだ普及しているとはいえない。

歌手のマドンナが2005年に来日した時、彼女は「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしている。

しかし、マドンナの発言から類推するところ、アメリカでの急速な普及は想像できない。ヨーロッパ各国でも同様ではないか。日本人は、極端と言われるほどに清潔好きなのだ。

1998年には累計販売台数1000万台を突破したが、この頃から多くの便器で装備するようになり、以後7年で倍の2000万台に達した。他社製品も含めれば、普及率は6割程度まで伸び、新規に建設されるオフィスビルでも標準的に取り付けられるようになっている。2009・10・10

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2009年10月22日

◆福島香織さん突然の退社

渡部 亮次郎

産経新聞の元中国総局記者だった福島香織さんが10月21日、ご自身のブ
ログで「11月30日付で退職する」と明らかにし、心ある人たちを驚かせ
た。http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/

<■ツイッターでさきにつぶやいてしまいましたが、実は11月30日付で
退職することになりました。家庭の事情やらなにやらが重なったところ
へ、早期退職制度の募集があったので、利用させていただきました。

きょう、人事部にいって、離職届にサインしたり、失業保険の説明をう
けたりして、えー税金ってこんなにとられるの、とか、国民健康保険っ
てどのくらいかかるんだ?とか、驚いたり不安がったり、なかなか新鮮
でありました。

■初めての失業経験です。どきどき。失業のあとはワーキングプアの道、まっしぐら??かもしれません。とりあえずは、早期退職制度なので、それなりの退職金が上乗せされますから、すぐに飢え死にすることはなさそうです。失業保険も240日出るそうです。じっくりリスタートの戦略をねることとします。

■あと1カ月あまり時間があるので、その間は記者として取材もします
し、このブログも更新します。臨時国会のゆくえも追います。それまで
よろしくお願いいたします。>

同じマスコミ中途退職者たる私もそうだったが、本当の事情は余り語り
たくなかった。福島さんにどういう展望が開けるか、気になる。いずれ
にしろ、産経新聞は惜しい人を失った。

福島香織さん。bウログに掲載している自己紹介は以下の通り。

<元中国総局記者(註:08年帰国)。現在は政治部平河クラブで幹事長番。平成13年に香港支局(すでに閉局)勤務、14年から北京駐在。20年秋、東京本社政治部。目下、防衛省のおひざ元でマンション暮らし。

趣味は美食、読書、旅行、観劇。目下、北京への帰還の望みを胸にネッ
トやメールで中国情勢をウォッチしつつ、政治家および政治部員の流儀
を観察中。好きな言葉。「逃げない、はればれと立ち向かう」(岡本太
郎)>

マスコミ界の先輩に聞くと、福島さんについて、東京では「早晩、退社
する」と言う噂がながれていたそうだが、その人も来年3月の年度替り辺りを想像していたそうで、早目の退職には「何があったのだろうか」と案じていた。

それにしても福島さんは10月1日の「新中国成立60周年の国慶節」を態々「見学」に行き、ブログに掲載しておられた。それが、何故、突然の退社なのだろうか。

■新中国成立60周年を迎える国慶節、テレビでごらんになりましたか?
私はわざわざ北京にまで見に行ってしまいましたよ。ですが、天安門広
場はもとより長安街に近づくことすらできませんでした。

外交人員公寓の中国総局の窓から長安街が見えるんじゃないかとと思っ
て、行きたいと総局長に頼んだのですが、部外者は入れてはダメだと通
達がいっていたそうで、断念。

それで友達の家にこもってCCTVの中継をみたのでした。でも、大望
路近くの友達の家の前を戦車がごろごろ通ったり、上空を戦闘機がぶん
ぶん飛ぶ、北京らしさは堪能できた!

■さて、あの大閲兵式と60周年祝賀行事をみて、どう思われましたか?
 なーんだ、この程度の兵器、米軍の水準とくらべれば1世代半は遅れ
ているな、と軍事好きの友人は言ってました。私は兵器音痴なので、空
を飛んでる戦闘機がどの程度のものかぜんぜんわかりません。

■それより、恐ろしいと感じたのは、軍事パレードのあとの学生
と市民ボランティアによる一糸乱れぬマスゲームと祝賀パレードです。
18万人が参加したそうですが、夜中の3時にすでに建国門内に入ってス
タンバイしていました。

■で、夜が明けて、午前10時から午後1時ごろまで立ちづめ、踊りづめ
ですよ。食事もパン1個、牛乳1本しか与えられなくて(トイレに行き
たくなると困るから)、紙おむつしているとかいう話が地元紙に載って
いたました。

日本人の友人に報告すると「それって人権問題じゃない!」とかいいま
すが、ボランティアですから、本人たちが志願して楽しんでやっている
のですから、しかたありません。

■10年前の50周年の祝賀行事を知る日本人の友人は、「こういう中国の
マンパワーを全面に出す演出はなかった。少なくとも50周年のときは、
マスゲームは北朝鮮に比べるとまだまだなと思った」といいました。

私は正直、核弾頭を3つ登載できるICBM東風31A型よりも、8万人
が1人もミスしない人文字の方が日本にとって脅威だと感じました。背
丈も腰の高さもそろえて、表情さえみな同じにできる。

党のためならトイレもがまんできる、ああいう人たちが、束になってか
かってきたら、日本はたちうちできませんて。

こんな風に中国の人の多さを見せつけられると、日本がいくら最低賃金
を引き上げても、技術をもっていても、安価な労働力でもって安価な商
品を大量につくって日本に輸出してくれれば、日本は永遠にデフレから
脱却できないような気がしてきますね。

■私は個人的には、あの2000万人も餓死者を出した大躍進や文化大革命
を乗り越えて、いまだ地方・辺境に民族問題の火だねや農民暴動の危機
をかかえていながら、北京や主要都市では、ここまでのすばらしいパン
とサーカスを市民に与えられる中国に対して、と本当に立派になったね
ぇ〜と心から祝福したいと思います。

街に戦車が走っていても、もう人民に向かってくることはありません
(と思います)。とりあえずは今のところ、漢族に向かって来ないと思
えるとは本当にすばらしい国になったものですね!(棒読み)

■印象的だったのは、大閲兵式の胡錦濤国家主席のグレーの中山服(人
民服)。こういうときは、軍事委主席用の緑の軍服もどきを着るのが慣
例だったはずですが、あえて、軍人とは違うのだよ、ということを控え
めにアピールしてましたね。

相変わらず軍事委の制服組とは折り合いが悪いんでしょうか。パレード
で軍の存在感を誇示する一方で、軍事パレードをしのぐマスゲームや山
車パレードを演出する。軍の機嫌をうかがいつつ、民衆に媚びを売る、
微妙な胡錦濤政権の姿勢がかいま見えるような気がしますね。

■日中友好協会からは、老朋友として村山富市元首相、加藤紘一会長ら
4人が招待されたそうです。村山さんは天安門楼上にいたのがテレビで
しっかり映っていました。

あの狭い天安門楼上にあげてもらえる国賓は相当絞られているので、村
山元首相がいかに中国政府から大事にされているかがわかります。あと、朱鎔基・前首相がサングラスかけてちらりと映っていて、「おお、朱鎔基がテレビで映るのひさしぶり〜」と、なぜかみんな感動していました。

■建国門内は、一般市民や一般観光客は完全に閉め出されていました。
私は建国路沿いのホテルにいたので、朝4時くらいに道路沿いに出て、
「大閲兵式に参加する戦車はぜったいここを通るから」と河北省からわ
ざわざ北京にきたお上りさん観光客のおばさんたちに言われて、一緒に
ずっと待っていました。

ですが、結局、戦車は通らず。ホテルの人に聞くと「夜中の3時ごろに
もう建国門内に入っていたよ」と。恥ずかしながらその時刻は爆睡中で
戦車が通ったのに気付きませんでした。

■街中に140万人ぐらいボランティアの治安要員が動員されていたんで
が、そのボランティア治安要員が、偉そうで、何があるわけでもないの
に、早く帰れ帰れと追い立てます。

結局、戦車はあきらめて友人宅の家にいって一緒にテレビ中継をみたわ
けです。でも、そのおかげで閲兵式が終わって基地に帰る装甲車とか戦
車もどきを、結構間近でみることができました。結構スピードでるんで
すね。

■ちなみにこの日はすばらしい晴天。人工消雨のためのヨウ化銀ミサイ
ルをばんばん打ったそうです。おかげで2日も中秋の名月の3日も、北
京はすばらしいお天気でした。

3日は友達と上海ガニを食べ、故宮にお月見というフルコースを堪能。
天安門広場は、国慶節祝賀パレードに登場した山車が展示され、特別設
置された大画面で何度も大閲兵式の様子を放映していました。

このころになると「戒厳令」もどきの交通規制も、外出禁止令(?)も
ほぼ解かれ、市民や観光客の表情も本当にリラックスして、名月を楽し
んでました。身動きとれないほどの人出でしたが。

■でも、久しぶりに中国の自信を肌で感じることもできました。月明か
りに照らされた穏やかな市民の笑顔をみると、この豪華絢爛勇壮なパレ
ードが演出する中国の平和と発展が、ヨウ化銀ミサイルの作り出したひ
とときの晴れ間と同じ種類のものでないことを、お月様に祈りたい気分
になりました。

2009年10月20日

◆「和紙と源氏物語」への反響

毛馬一三
本欄に掲載した「和紙と源氏物語」を、筆者の母校・関西福中福高同窓会のホームページに再掲したところ、同会の小山富夫会長から下記のような感想を貰った。

<「源氏物語」と「越前和紙」の関係を、興味深く拝見させて頂きました。昨年は「源氏物語」1000年紀でいろんな行事に参加させて頂きましたが、「越前和紙」との関係の話は全く知りませんでした。

これは大兄の新説に値するものですね!

当方も「丹波の和紙」で紙を漉いた経験があります。漉いているうちにだんだんと埋め込まれた模様が現れてくるのは期待感を持って少しづつ楽しんでゆくと言うもので、金平糖作りや、線香花火を連想させます。

昔の日本人の持っている繊細な感性なのでしょうか。また、資源を使わなくても十分楽しむ事が出来る生活の知恵なのでしょうか>。

◆さて、ここから拙稿です。

同窓会のホームページに掲載した拙稿の筋書きは、「世界初の長編小説・源氏物語」を書くようになった紫式部の修練には、「越前国司」に赴任した父とともに「越前」に行ったことが、大きな要因になっていると記したものだった。

当時としては宝に等しい「越前和紙」と、そこで出会ったことが、式部が「和紙」に気楽に筆を走らせながら筆力を高め、宮中入りしてのち「源氏物語」を書く際の自信にむすびついたのではないかと思われる。

そこで、その拙稿に説明を付けて再び送信したので、あらためて下記に付け加えたい。

<さて、父為時の薫陶よろしく秀逸な文学娘の紫式部であったとはいえ、「越前の古紙の里」に父の赴任に同道していなかったら、「世界最古の長編小説・源氏物語」へのモチベーションは、準備出来なかったかもしれません。

もちろん式部の父が中級貴族ながら、藤原道長をたぶらかし、憧れの「越前国司」になったのは、自らの財産を築きたかった強欲にほかありません。でも宮中に送り込みたい文才豊かな娘に、有り余る「古紙」を与えて才能を磨かせる悲願も当然あったと思われます。

平安時代、「古紙」は宮廷の貴族にもなかなか手に入らない貴重な品で、それを自在に使いこなせた式部が、のちに宮中に上がって「源氏物語」を書き始め、同時に清少納言と覇を争ったほどの実力を身につけた原点は、父が巡り合わせたこの「古紙」だったことに間違いありません。

こうした父の豪腕ぶりと娘への偏愛ぶりの裏舞台が表に出ないのは、「源氏物語」を歴史に残る「純文学」にしておきたい文学者の偏った想いからです。しかも式部は、離婚後、道長の推挙で宮廷女官となり、「源氏物語」に着手することになるのです。

「源氏物語」が純文学であることは不動の見方ですが、実はそうではなく、疎ましい宮中政治を暴いた「政治小説」と指摘する学者もいます。私も後者に納得します。

高麗(918〜1392)が、日本との貿易を盛んにした訳は、日本との外交を円滑にし、倭寇の侵攻や政治的外圧を避けたかったためといわれています。ですから地理的に両国間の近距離である越前が母港となり、その越前国司が金銀で篭絡されたという構図なのです。

「古紙」だけの利益だけではなく、「高麗」の貢物の目をつけ式部の父は、豪腕な政治家であり、経済人でもあったのです。ですからその娘の式部は、素晴らしい父をもったことになります。

文学の素養を身に付けさせ、一生「和紙」に不自由することなく、しかも道長を通じて「宮中」に上がらせてもらい「源氏物語」を書けたのも、まさに父のお陰と言えます。

余談ながら、この話題より以前の「万葉集」にも秘話があります。歌の幾種かには、新羅から攻められることを心配する百済宛の天皇の「暗号メッセージ」であることが、韓国語で解読すると明らかになるそうです。古代文学は、歴史の裏舞台が沢山秘められています。時間があれば、何か書いてみたいですね>。(了)

2009年10月19日

◆日ソ(露)国交回復の日

渡部 亮次郎

10月19日は日ソ(露)国交回復の日である。今から53年前の1956年10月19日に日本の鳩山一郎首相とソビエト連邦がモスクワで共同宣言に署名して国交が回復した。鳩山首相は脳溢血の病み上がりの身を押して訪ソしたのだ。

正式には日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(昭和31年12月12日・条約第20号)と言う。国会承認を経て、同年12月12日に発効した。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。

鳩山に農林大臣として随行した河野一郎が裏ですべてを取り仕切った。そのことを自慢した事はなかったが、フルシチョフ第一書記と遣りあったことを何度も語ってくれた。

1956年10月18日の交渉中、河野は、フルシチョフの振り回す大きく先端が鋭いペーパーナイフを見て、刺されたらたまらないと、思った。

いたずら心もあって、レーニンの写真入りのそのペーパーナイフを取ってしまおうと、フルシチョフにペーパーナイフをくれるよう頼んだ。フルシチョフは気前良くくれた。

河野は会談後、鳩山に、「フルシチョフがそれを振り回すからヤバクて仕方が無いから分捕った。北方領土の代わりに総理に進呈しましょう。」と鳩山にプレゼントした。『鳩山一郎・薫日記』にはそれを「ペーパーナイフをくれた由」と記している。

河野がさらに、翌日の会談で、昨日のは鳩山にあげたから自分用のが欲しいと頼むと、フルシチョフは戸棚の大量の中から1本、河野にくれた。それには河野も参ってしまったという。

また、交渉の途中で、河野が難題を吹きかけたところ、フルシチョフは河野が下戸であることを知ってか知らずか、このウオッカを飲み干したら受け入れると言ったので、一気に呷った。

全く飲めないのに、選りによって、あんなきついアルコールを呑んでしまったから、堪らない。部屋に帰って何度も戻したり、水風呂にも入ったが、仲々醒めず「あんなに往生したことはない」と、それでも懐かしそうに回想していたものだ。

第2次世界大戦末期の1945年8月8日、ソ連はヤルタ協定に基づき、日本に日ソ中立条約の破棄を通知すると共に国交を断絶、宣戦を布告した。

9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満洲国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。

一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。

また、ソ連は連合国の一員として日本統治への関与を求め、最高司令官への諮問機関として設置された対日理事会に参加したが、アメリカ合衆国将軍でもある最高司令官のダグラス・マッカーサーは対日理事会をほぼ無視し、日本政府も圧倒的なアメリカの支配力に服属したため、日ソ両国の外交ルートはほぼ完全に途絶えていた。

その後、1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。

政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こった。

親米路線の吉田茂首相は単独講和路線に踏み切った。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した。

この事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮動乱で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。

また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。

1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。

そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。

ただし、ソ連も日本との外交関係回復は、同じ敗戦国の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)同様、戦後処理の政治的・経済的課題として存在しており、1953年のヨシフ・スターリン死去と朝鮮戦争の休戦は西側諸国との関係改善をより積極的に進める要素となった。

日本でも親米主義に傾倒する吉田茂首相が1954年に退陣し、保守派ながらアメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代した事で、外交交渉開始への環境が徐々に整っていった。

また、日本の国際社会復帰を完成させる国際連合加盟には、日本の加盟案に対して安全保障理事会で拒否権を発動するソ連との関係正常化が不可欠であった。

1955年6月、ロンドンの在英ソ連大使館で国交正常化交渉が開始された。日本側の松本俊一全権大使とソ連側のマリク駐英大使による交渉は北方領土問題で難航した。

保守合同による自由民主党の発足と対ソ強硬派の活動という日本側の国内事情もあって、交渉は一時中断した。12月には、ソ連は日本を含んだ国際連合への18ヵ国一括加盟案に拒否権を発動した。

しかし、対ソ国交回復と国際連合加盟を自らの政権の中心課題とする鳩山首相の熱意は強く、河野一郎農相のモスクワ訪問などで交渉再開への道筋が付けられた。また、日ソ漁業交渉の決着は国交正常化への地ならしともなった。

1956年10月12日、鳩山首相は河野農相らの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記らとの首脳会談を続けた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。

10月19日、モスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、12月12日に発効した。

宣言の内容

日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する(サンフランシスコ条約で為し得なかった講和の成立)。

日ソ両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。 ソ連は日本の国際連合加盟を支持する。

ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。

ソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。

日ソ両国は通商関係の交渉を開始する(同日に通商航海条約を締結)。

日ソ両国は漁業分野での協力を行う。

日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本
へ歯舞群島と色丹島を引き渡す。

共同宣言の締結により、日本の国際連合加盟への障害がなくなった。1956年12月18日の国際連合総会で、ソ連は他の東欧諸国ともに日本の加盟に賛成し、全会一致による日本の加盟が実現した。

この国際連合加盟により鳩山内閣は総辞職し、石橋湛山内閣に引き継がれた。

しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。

逆に1960年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソ連が反発し、歯舞群島と色丹島の返還(ソ連側は「両国間の友好関係に基づいた、本来ソ連領である同地域の引き渡し」と主張)を撤回したため、両国の政治的関係は再び冷却した。

1973年に日本の田中角栄首相がモスクワを訪問するまで、両国の首脳会談は17年間も開かれなかった。

一方、ソ連にとっては1955年の対西ドイツ国交樹立に続く敗戦国との外交関係回復であり、戦後処理は一応完結した。フルシチョフにとっては西側諸国との平和共存政策(「雪どけ」)の成果の一つとなった。

ただし、日本が西側諸国の一員になる事は阻止できず、領土問題は日本国民の対ソ感情を悪いままにとどめる結果を招いた。

外交関係の回復により、両国の経済交流が復活した。日本はシベリアの豊富な森林資源(北洋材)に注目し、シベリア鉄道を経由したヨーロッパ諸国への連絡ルートも旅客・貨物両面で利用される事になった。

一方、ソ連は日本を北東アジアでの経済的パートナーとしてみなし、国際見本市などの開催や投資の受け入れ、軍港として外国人の立ち入りを禁止したウラジオストクに代わる対日貿易港ナホトカの整備などをおこなった。

太平洋の北西部やオホーツク海における北洋漁業は、この共同宣言により政治的保証がなされ、安定的な操業に大きく役立ったが、これ以後も北方領土付近の海域を中心に拿捕事件が多数発生し、長年にわたって両国関係を悪化させる要因ともなった。

1978年1月、私は秘書官として外務大臣園田直に随行、モスクワを訪問した。日ソ外相定期協議のためだったが、グロムイコ外相は日ソ平和条約のソビエト案を当方に手渡した。

しかし、日本は北方領土問題の解決なくして平和条約交渉はあり得ないと主張。解決は1センチも進まないまま今日に至っている。2009・10・16

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年10月16日

◆日本のジャガイモは82品種

         
渡部 亮次郎

夏は新ジャガが出回るからジャガイモの季節とも言える。だが、私は北海道産の「キタアカリ」が好物なので、毎年のジャガイモ・シーズンは10月末と決めていた。

だが、東京のデパートでは7月から「キタアカリ」を売っている事を今年、発見した。茨城県産だった。味もまあまあだったが、真狩村のには敵わない。

もともと私が育ったところは旧八郎潟沿岸。田畑の地下水位が以上に高い。30センチも掘れば水が上がってくるような「湿地」だ。

だから、いくら「男爵」を作付けしてもホクホクしたものを収穫することはできなかった。

敗戦直後の中学校では英語を教えたらしいが、わが秋田県では英語を教えられる教師は皆無。そのかわり「農業」を教えた。だから畑作の大体のことは体験した。そんなわけでここには「食べ物」の話題がしばしば登場するわけである。

ところでジャガイモ。日本では、82品種が品種登録されている。これはジャガイモが連作障害と病害虫に極めて弱いため、その対策として、様々な品種改良が施された結果である。

いまのところ、男爵薯、メークインなどの品種が広く栽培されているが、北海道が最大の生産地で、夏の終わりから秋にかけて収穫される。九州では冬に植え付けて春に出荷する。

日本では単に「芋」というとたいていの人がジャガイモ、サツマイモ、サトイモのいずれかを思い浮かべるほどポピュラーな食材であるため、呼び名も様々ある。

「ジャガイモ」という呼び名]は、16世紀末、オランダ人によって日本にもたらされた当時のジャカルタが「ジャガタラ」と呼ばれていたため、「ジャガタライモ」と呼ばれたことに起因する。これが変化して現在のジャガイモという呼び名になった。

その他の説としてはジャワ島の芋の意味のジャワイモが変化した、天保の大飢饉で、ジャガイモのおかげで餓死を免れた事から呼称された「御助芋」が転じたものなど諸説がある。

「馬鈴薯」(ばれいしょ)という呼び名もよく用いられる。これは中国での呼び名のひとつと漢字が同じで、中国語で読むとマーリンシューとなる。

18世紀に日本人の小野蘭山が命名したといわれているが、明らかではない。一説には、ジャガイモの形が馬につける鈴に似ているという事からこの名前になったという。また、「マレーの芋」という意味からこの名前が付けられたという説もある。

地方名として、「きんかいも」とも呼ばれる(「きんか」とは金柑転じて禿げのこと)。また、1年に2〜3回収穫できることから「にどいも(二度芋)」「さんどいも(三度芋)」とも呼ばれる。「南京イモ」「ごしょいもと呼ばれる事もある。私の生まれ在所(秋田)ではゴドイモとかアンプラと呼んでいた。

痩せた土壌でも栽培しやすく、ビタミンやデンプンが豊富に含まれている上に、茹でる等の簡単な調理で食べられ、加熱してもビタミンが壊れにくいジャガイモ。

江戸時代に幾度となく発生した飢饉の際に、サツマイモと同じく主食である米等の穀物の代用品として食べられ、ジャガイモによって飢餓から救われたという記録が残っている。

このために「お助けイモ」と呼ばれた事がある。また、飢饉の際にジャガイモ活用を勧めた代官の名を取って、「善太夫芋」「清太夫芋と呼んだ地方もあった。

そのほか、オランダ語のaardappelからきた「アップラ」「アンプラ」「カンプラ」という呼称も存在する。

日本で一般的に普及したのが男爵薯(だんしゃくいも)である。生食用品種。明治時代に川田龍吉(かわだ・りょうきち)男爵がイギリスから持ち込んで日本に定着させた品種という説の他に、アメリカからとする説もある。

デンプンが多くホクホクした食感が得られるが、煮くずれしやすい。このため、粉吹き芋やマッシュドポテト、コロッケなど潰してから使う料理に適している。芽の部分が大きく窪んでおり、でこぼこした形状なので皮をむきにくい。主に、東日本で主流の品種である。花は白い。

戦後、広く普及したメークイン。実は大正時代にイギリスから持ち込まれた品種。男爵イモよりもねっとりしていて、煮くずれしにくい。このため、カレーやシチューや肉じゃがなど、煮て調理する料理に適している。

男爵薯に比べて長い形状で、でこぼこもそれほどひどくなく、皮はむきやすい。主に西日本での消費が多い。世界的に見ても、特に日本で人気がある種。「メイクイーン」と呼ばれることも多いが、品種名としてはメークインが正しい名前である。花は紫色である。

近年、東京でも人気の高いのがキタアカリ。男爵薯を母親として、線虫への抵抗性を持たせるよう農林水産省北海道農業試験場(現:北海道農業研究センター)で品種改良したもの。演歌歌手細川たかしの出身地真狩村(北海道)が主産地。茨城産は7月と、早い時期,市場に出る。

カロティンやビタミンCの含有量が多い。男爵薯同様、粉吹き芋やマッシュドポテトに適している。黄色が強めである。

とうや。内部が黄色く、カロティンやビタミンCの含有量が多い。口当たりがなめらかで、ポテトサラダに適している。黄爵(こうしゃく)と呼ばれるが、最初に名づけたのは、JAたんの(現、JAきたみらい端野支所)である。

トヨシロ  加工用品種。ポテトチップの材料として生産されている品種。風味は男爵薯に較べると劣るといわれるが、揚げると男爵に比べ色合いがよい。

インカのめざめ 2002年に種苗登録された、小粒で黄色みの強い品種。アンデス産の品種を日本向けに改良したもの。甘みが強く、サツマイモや栗に似た味を持つなど食味はよいが、収量は少なく、他の品種と比較して栽培が難しい。

発芽しやすく、長期の保存には不向きである。生食用として人気が高まってきているが、生産量は少なくジャガイモの中では高価である。北海道十勝地方の幕別町などが主産地である。長期冷蔵貯蔵により更に糖度の増加した物もあり、近年ではその風味を生かした本格焼酎の原料にもなっている。

デジマ 長崎県の農林試験場で交配・育成された品種で、1971(昭和46)年に品種登録された。品種名は江戸時代に外国への窓口であった長崎の出島にちなんだもの。長崎県を中心に九州で多く栽培される。

ラセット・バーバンク  1875年にアメリカの種苗家ルーサー・バーバンクが開発した『バーバンク』の突然変異により1910年頃に誕生。大きくなるためフライドポテトに向き、日本へも加工品が多く輸出されている。

シンシア 麒麟麦酒のグループ会社でフランスのジャガイモ育種・販売会社であるGermicopa社により1996年に育成された品種。日本では2003年2月に品種登録された。

他の品種と比べ卵形のシンプルな形状をしており、貯蔵性に優れ煮物にしたときの煮崩れが少ないなどを理由に人気がある。
出典:ウィキペディア 

2009年10月14日

◆「日本の一番長い日」にリセット(5)

     〜石炭運搬用無蓋車両での脱出〜

               
藤本 敬八郎

終戦の詔勅をラジオ放送で聞いてから、もう幾月がたつだろうか。太原は初冬の寒さが厳しくなってきた。日本陸軍はいまだ山西省に駐屯し、治安維持に努めていたとはいえ、在留邦人を取り巻く諸情勢は日々変わっていった。

「反乱がおきる」というデマが飛び、「邦人の金銭財産の自主的提出」が、まことしやかにに噂になったりして、不安な日が続くようになった。

そんなある日のこと、ここ太原で父と同じ逓信省に職をもつ天野さんという方から連絡が入った。「君の父君から頼まれたのですぐにでも会いたい」。

早速に氏の家へ行った。小学生姉弟のいる日本人家庭で、長らく味わえなかった団欒の時間を共有した私は、安堵と信頼を無条件に感じて、「地獄にホトケ」とはこういう時に使う言葉だと思った。

通信情報手段が尋常でないこのような時に、貴重な情報をいただいた。

概要は、―君のご両親は君の事を一番心配しておられた。いますぐには迎えに行ける情況にないので、太原の引揚居留民団が結成され帰国の時、天野家の家族の一員として一緒に帰国の労をとってもらえないか― 。と頼まれたので近々我が家の同居人になってもらうから持ち物等の身辺整理をしておくように、と念を押された。身辺整理は得意であった。

人付き合いが不得意で寡黙な居候少年は、天野家には多少の違和感を与えてしまったかも知れない。私の代役に実兄をシュミレーションしてみると、その家庭映像は恐らくこうなる。…… 小学生姉弟の勉強をみてやり、面白い話で皆をなごませる映像。家事雑用諸般にそっと手をさしのべ、頼もしい家族の一員として迎えられている笑顔の映像……。一方私は言われたことしかできない、不器用な木偶でくの坊少年に映ったにちがいない。


生死を賭けた集団の大移動を成功させるため、リーダーたちは筆舌に尽くしがたい幾多の困難を解決していかなければならなかった。

太原駅を始発とする引揚者専用列車は、貨物列車を転用したもので、客5車両の連結はなかった。元気な男性は概ね無害車両に当てられ、私はもちろんこの組であった。天野家とは別車両になってしまった。

汽関車が吐き出す煤煙や強風、直射日光をふせぐため、唐きび皮をアンペラに編んで覆い屋根に仕立てた。太い針金を桟に組み渡したが、この程度の素人作業のものは、風圧で吹き飛んで無惨な姿になり、耳の奥まで塵灰が容赦なくとびこんできた。

強烈な寒波の山岳季節風から身をまもるには厚着の上に厚物を重ねるしかなかった。各車両の片隅には一斗缶が便器として置かれた。

列車は山岳地帯を喘ぐように荒い息づかいで東へ走る。途中、南陽が凶弾に倒れたのもこんな崖地だったのかと思わせる所をいくつも通過した。

何日目のことであったか、重要伝達が入った。「鉄橋が破壊され先へ進めない。各自対岸へ浅瀬を歩いて渡り、確約のない迎えの列車の到着を野営しながら待つ」というものであった。河原では木片を拾い集める者、石組みでカマドを作る者、野営ト イレを作る斑。本部からの指揮伝達が徹底されていた。

衛生上問題はあっても、ここには豊富な水量がある。飯盒炊飯は皆なれていた。流水路と溜まりを交互に作って少しでも浄化する。生きるためには咄嗟の機転。難事ほど同胞の絆はかたく、相手を思いやる心がはぐくまれるものだ。

運を天にまかせて待った迎えの列車はやって来た。目的地天津市外港、渤海の玄関口・塘沽タンクウへ向けて再び走りだした。生死をともに乗り越えてきた同胞たちも、ようやく安堵と悦びを分かちあっている頃、一人の乳呑み児が母の胸の中で息絶えた。

寒さと栄養不足と気苦労で授乳が不十分であったという。母子ともに体力は衰え極限であった。貨物列車での大移動は、予想を超える大きな苦痛を与え続けていたのだ。

☆☆
地図にもない小さな引込線に停車した。

大小の石やレンガ、それに可能な限りの大量の木片や枯葉を拾い集めて、荼毘だびに付す準備にとりかかることになった。充分な太さの木材を井桁に組み上げる方法が最適であるが、緊急時に物量の余裕は此処にはない。集めた石を効果的に組むことで火力を上げ、完全燃焼させる工夫をする。

失敗は決して許されない。
炎と煙、木のはじける音。ダンボールの小さな棺ひつぎはみるみる炎にのみこまれていった。酸素の流れ道を作った効果で棺は悲しいまでによく焼かれていった。

亡き者への畏敬の念は、いま荼毘という行為で厳かに野営のなかで執り行われているが、親御さんには本当にこれでよかったのだろうかと思った。人生経験に乏しい14 歳の少年の未熟な心は、何か割り切れぬ不条理を感じて、晴れぬ気持ちに陥っていた。

63年を経た今もこの情景を思い出すと、心は悼む。

☆☆☆
中国の空高く天使になった小さなおまえ父母の胸にもう一度抱かれて青い海、瑞穂の国へ今度は無事に還っておくれ(つづく)
(神戸「行雲誌・執筆者」)

◆<同稿--関連記事>
「日本の一番長い日」にリセット(1) ←閲覧
「日本の一番長い日」にリセット(2) ←閲覧
「日本の一番長い日」にリセット(3) ←閲覧
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2009年10月13日

◆ちゃんちゃら可笑しい



      
渡部 亮次郎


永野重雄という日本財界の四天王の一人は、実に激しくも気さくな人だった。仕えた園田直が官房長官から外務大臣に転出したとき財界に園田後援会を作ってくださり、毎月の懇親会に秘書官の私も加えるように気配りして下さった。

渡部君、ボクが会社(新日本製鉄会長)から常務会の決裁無しに持ちだせる金額を知ってるかい?たった5万円だよ。これじゃ彼女の手当てにもなりゃしない。と、終いには秘密を打ち明けるようになった。

なにしろ持った段位が得意の柔道や囲碁など交えて64段。武道の段位30段の園田も真っ青の大物だった。広島で。裁判官を父とする10人兄弟の次男として育った。

その永野さんが財界の幹部を引き連れてモスクワのクレムリンに乗り込んだ。当時の日ソ経済協力推進のためである。昭和40年代のことだ。確か共産党書記長のブレジネフと会談した。通訳はモスクワ駐在の日本大使館員。

「そんなこと、解決は簡単、朝飯前です」までは良かったが「ちゃんちゃら可笑しい」の言葉でエリートは詰まってしまった。ちょっとした江戸弁だが、若い人はもう余り使わなくなった言葉。

エリートは舞い上がった。だから永野さんが「そんなことをしたら、こちとら、臍(へそ)で茶を沸かす」と言ったとき、意味が理解できないまま直訳してしまった。

臍で茶をどうやって沸かすのか。堅物のブレジネフが真顔で聞いてきた。往生したのは永野さん。「可笑しい」のたとえで言っただけなのに、通訳が真意を知らぬまま直訳したから場が白けてしまった。「あの時は参った」としみじみ述懐した。

永野さんは男兄弟6人中5人が東大、1人は東北大という優秀な兄弟。「だがボクは殆どを柔道ですぎたね」。

いろいろな曲折を経た後、製鉄業界に入り、敗戦後、先輩たちがクビを並べて公職追放になったため46歳の若さで日本製鉄の常務。

そのご日本製鉄は進駐軍により八幡製鉄と富士製鉄に分割されるが、のちに合併により新日本製鉄として再出発、会長になった。 1984年5月4日逝去。2009・10・06

2009年10月10日

◆日本を属国にするアメリカ



     
渡部亮次郎


最近知り合いになった公認内部監査人(CIA)・公認情報システム監査人村田一さんが書いた「年次改革要望書」のことご存知ですか(埼玉県私塾協同組合広報誌 SSK Report 2009・4号)によると
郵政民営化政策を始め弁護士増加、建築確認の民営化など、このところの「改革」と称する政策は、すべてアメリカの要求に屈したものだった。

だから村田さんは言う。

<4年前の総選挙で「郵政民営化は構造改革の本丸である」として小泉政権が掲げた「構造改革」に期待したにも拘わらず、様々な痛み、地方経済の疲弊、派遣労働者の増大など、失望感の大きくなったことが「政権交代」となった。

いまや悪者扱いとなった「構造改革」は1993年の宮澤政権時代に始まっており、その淵源には宮澤・クリントンによって始まった「年次改革要望書」の存在がある>。

年次改革要望書は、日本政府と米国政府が両国の経済発展のために改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書で、毎年、日米両政府間で交換される。

1993年(平成5年)7月の宮澤喜一首相とビル・クリントン米大統領との会談で始まったものとされている。『拒否できない日本』によれば、最初の要望書は1994年(平成6年)であった。関岡英之 『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』(文藝春秋 2004年4月21日 ) ISBN 978-4166603763

爾来「成長のための日米経済パートナーシップ」の一環としてなされる「日米規制改革および競争政策イニシアティブ」に基づきまとめられる書類であるが、マスコミはなぜか取り上げないから国民の大半は知らない。国民の知らぬところで結ばれた国家の約束は文字通り「密約」である。しかも毎年交わされているらい。

正式には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative)という。なお、交換後は、それぞれの要望書について作業部会、上級会合の場で日米間で議論のち、日米共同の報告書をとりまとめることとなる。

最初の「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(年次改革要望書)が作成されたのは平成13年(2001年)であるが、これは先行する「日本とアメリカ合衆国との間の規制緩和に関する対話に基づく双方の要望書」の枠組みが現行のイニシアティブの形式に整えられたことによる。

双方の要望書は両国政府によって公開されており、日本から米国への要望書については、外務省のウェブサイトにおいて公開されている。

同様に、米国から日本への要望書については、駐日米国大使館のウェブサイトに日本語訳されたものが公開されている 、というが、それを開いてみる一般国民はいない。

米国側からの要望が施策として実現した例としては、建築基準法の改正や法科大学院の設置の実現、独占禁止法の強化と運用の厳密化、労働者派遣法改正、郵政民営化といったものが挙げられる。

米国政府からの要望で実現していない項目としては、再販制度・特殊指定の廃止・ホワイトカラーエグゼンプションが挙げられるが、年次要望改革書では引き続き取り上げられている。

一方、日本側からアメリカ側への要望が実現しなかった例は、BSE(牛海綿状脳症)に関しての全頭検査の実施などである。

アメリカ政府による日本改造と非難されるのは当然である。

関岡英之は年次改革要望書はアメリカ政府による日本改造という観点から注目し、アメリカによる日本への年次改革要望書の性格は、アメリカの国益の追求という点で一貫しており、その中には日本の国益に反するものも多く含まれているとしている。

衆議院議員小泉龍司(2005年9月の総選挙で落選)は、2005年(平成17年)5月31日の郵政民営化に関する特別委員会において、要望書について「内政干渉と思われるぐらいきめ細かく、米国の要望として書かれている」と述べている。

郵政民営化は郵便貯金や簡易保険などの国民の財産を外資に売り渡す行為であるとし、また三角合併解禁については時価総額が大きい外資が日本大手企業を買収して傘下に置き易くすることを容易化する行為として、外資への売国的行為とする意見がある。

年次改革要望書で言及されている医療改革は、外資系保険を利することが目的となる一方で医療報酬減額や患者の医療費負担増大が医療崩壊に繋がっていると指摘されている。

1999年の労働者派遣法改正により日雇い派遣が原則解禁となったが、労働環境の不安定化という社会問題を生み出している。

竹中平蔵郵政民営化担当相は2004年10月19日の衆議院予算委員会で小泉俊明の「(年次改革要望書を)御存じですね」という質問に対し、「(年次改革要望書の存在を)存じ上げております」と答弁した。

2005年6月7日の衆議院郵政民営化特別委員会では、城内実の「郵政について日本政府は米国と過去1年間に何回協議をしたか」、「米国の対日要求で拒否したものはあるか」という質問に対して、竹中大臣は米国と17回協議したことを認めるも、対日要求についての具体的言及は避けた。

郵政法案の審議が大詰めを迎えた2005年8月2日の参議院郵政民営化に関する特別委員会で櫻井充の「(年次改革要望書に)アメリカの要望として日本における郵政民営化について書かれている。(中略)国民のための改正なのか、米国の意向を受けた改正なのか分からない」という質問に対し、

竹中大臣は「アメリカがそういうことを言い出す前から小泉総理は(もう10年20年)ずっと郵政民営化を言っておられる。アメリカはどういう意図で言っておられるか私は知りませんが、これは国のためにやっております。(竹中は和歌山市の下駄屋の息子。なぜだか矢鱈な平等主義者である。小泉の懐に棲みついた)。

このまあ1年2年ですね、わき目も振らず一生懸命国内の調整やっておりまして、アメリカのそういう報告書(年次改革要望書)、見たこともありません。私たちは年次改革要望書とは全く関係なく、国益のために、将来のために民営化を議論している」と述べた。

日本の内政との密接な関係。誰がどう、言い訳しようと宮澤内閣以来の「改革」と称する政策のすべてはアメリカ国務省(外務省)の要求に屈したものだった。

1997年 独占禁止法改正・持株会社の解禁
1998年 大規模小売店舗法廃止、大規模小売店舗立地法成立(平成12年(2000年)施行)、建築基準法改正

1999年 労働者派遣法の改正、人材派遣の自由化
2002年 健康保険において本人3割負担を導入
2003年 郵政事業庁廃止、日本郵政公社成立

2004年 法科大学院の設置と司法試験制度変更
2005年 日本道路公団解散、分割民営化、新会社法成立
2007年 新会社法の中の三角合併制度が施行

報道で年次改革要望書がほとんど扱われていないことについて、
関岡英之、城内実らから は、以下の点から、年次改革要望書に関する報道が広く国民に充分になされていないのが事実だとしている。

建築基準法の改正提言には、アメリカ政府の介在がひとことも書かれておらず、法改正の新聞報道でもいっさい触れられていない。

年次改革要望書の全文が日本のマスメディアで公表されたことはない。

郵政民営化をはじめとする構造改革の真相を国民が知ることとなったら暴動が起きかねないので、マスコミ対策は用意周到になされていた。郵政民営化に反対する政治評論家森田実が、ある時点からテレビ局に出演できなくなった。

『しんぶん赤旗』・一部夕刊紙以外の主要マスコミでは『年次改革要望書』が発表された事実そのものの報道もなされない。国会議員が国会で問題にしても、なぜか全国紙やテレビ局の政治部記者からは一件の取材もない。

アメリカ合衆国政府の主張(言い訳)

国務省で経済・通商分野を専門に担当したジェームス・ズムワルトは、小林興起(通産省出身の衆院議員。現在は民主党)から「『年次改革要望書』を日本に突きつけ、さらにその達成 achievement を強く求めている張本人key peroson の1人」と名指しで指摘されている。

2006年4月、ズムワルトは小林との対談で、日本の内閣がアメリカの年次改革要望書の言いなりだとする指摘に対し、否定的な見解を示した。

年次改革要望書を提示する理由について、ズムワルトは、日本の経済成長はアメリカにも利益を齎すと説明し、日本経済低迷の一因は規制の多さにあるため、その撤廃を年次改革要望書で求めているだけだと述べている。

アメリカはあくまで「日本のしたいことを応援するスタンス」であり「小泉さんが考えていることの応援のつもりというのが基本的なスタンス」だとしていた。

その上で、年次改革要望書とは「日本の成長が最大の目標」であると説明し、日米の利害が激しく対立した日米構造協議などとは全く事情が異なると主張している。よく言うよ。

日本の政府と国会が束になってぶち当たった結果、負けたのではない。外務省のキャリアと称する役人が、唯々諾々と叩頭外交をして
各省に押し付けているだけである。これこそ密約ではないか。(文中敬称略)2009・10・09
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年10月09日

◆バラバラな「トイレ水洗化率」データ


              
毛馬一三

「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から、下記のメールを貰った。
<「トイレの水洗化率」は、1位:東京、2位:神奈川、3位:埼玉、4位:愛知、5位:大阪、6位:兵庫、7位:静岡、8位:沖縄、9位:千葉、10位:石川・・・。これはなぜか。記事になると思います>。

「トイレの水洗化率(生活排水処理)」が、都市インフラ整備のバロメータであることはわかっている。しかし各都市の順位を示して、「これはなぜか?」と質されたのには正直、戸惑った。しかもこのデータの出所も分からない。まさに「禅問答」だった。

ところがこの順位を何度も見直しているうち、ハッと気がついたことがあった。インフラが行き届いている大都市の上位順位は理解できるが、そうでもない沖縄、静岡、石川が全国都市の10位内に入っているのはなぜか。これが「なぞ解き」だったのだと思った。

早速大阪府庁に「取材」も申し入れた。どのようなデータに基づいて大阪府の生活排水処理整備施策をしているのか知りたいと要請した。府庁を訪ねると、都市整備部下水道室と環境農林水産部環境管理室の担当2部署の3人の職員が快く応対してくれた。

まず、「トイレの水洗化」を含む「生活排水処理」普及率を促進するためには、国の2通りの方針があるという。それは、
@、「し尿(トイレ)」と「生活雑排水」とを併せて処理する「合併処理槽の方式」
A、「し尿」のみ処理する「単独処理浄化槽の方式」―だという。

Aの場合は、「し尿」のみ処理するだけで、「生活雑排水」を各家庭が処理しないまま川や海に直接流し河川・海の汚濁に繋がっているため、大阪府では、@の合併処理槽の方式で府内の整備事業を進めているという。

そこで「普及率」の具体的な数値を知りたいと尋ねた所、まず示されたのは、国土交通省・環境省・農林水産省3省合同による上記Aの方式採用の「都道府県別汚水処理人口普及状況(平成20年度末)」の資料だった。

それを見た途端、驚いた。私がメモしていた「普及率」の順位とはまるで違う。

1位は東京都で99.4%、2位が兵庫県の97.8%、3位が滋賀県の97.4%、4位が神奈川県の97.1%、5位が大阪府の94.7%・・・だ。注目の静岡県は70.3%、沖縄県は77.3%、石川県は87.3%で、3県とも「10位以内」から外れている。

「この3省合同資料は、私の資料と上位都市順位でも異なるし、肝腎の3県も外れている。この理由はわかりますか」と訊いた。すると、これら普及率データは、各都道府県が提出した資料を、国が独自分析し結果を出したもので、分析手法は分からないという。

さらに驚いたことは、国土交通省が単独で公表した別の「普及率」を見せて貰ったところ、東京都1位、2位神奈川県、3位大阪府となっている。静岡県は沖縄県より「普及率」は10%近く低く、下位に位置している。早い話、省のデータ毎にバラバラだということだ。

そこで「静岡、沖縄が10位以内に入っている私持参のデータは、何処が公表したものでしょうか」と核心に迫ってみた。ところが「我が部局ではこのデータは把握しておりません。調べた上でご連絡します」ということだった。

府庁を辞して所用を済ませ、帰宅してパソコンを開いてみたところ、先の府庁職員からメールが届いていた。メールには「ご希望のデータが見つかりましたので送ります」と書いてある。環境省のホームページから苦労して探し出したという平成18年度の資料だった。

たしかに、「1位は東京都から始まり、静岡・沖縄両県が7.8位を占め、石川県が10位以内」に全く同じだ。電話を掛けて御礼を述べるとともに、環境省のデータになると、どうしてこのような「普及率」になりのだろうかと確めた。

すると、「この環境省のデータであれば、「合併処理浄化槽」と「単独浄化槽(し尿のみ処理)」の2つの方式が含まれております」という。少なくとも@方式の大阪府とは違う。

この方式で「普及率」をはじきだせば、@の合併処理浄化槽方式の方式に、「し尿」のみの浄化槽も加わるわけだから、地域の生活排水適正処理に懸命になっている生活環境政策は歪められることになる。

環境省が公表しているこのデータの裏には、何らかの意図があるとしか思えない。しかも3省共同のデータと、国土交通省のデータ、環境省のデータが各省毎にバラバラでは、国民の生活排水処理が適正に行われる筈がない。ましてやこれを任されている地方自治体が戸惑うのも目に見えている。

渡部氏の示唆は、縦割り行政の悪弊をあらためて浮き彫りにし、これを改めなければ真の下水道行政は果たし得ないことを知ることが出来た。深謝。(了)2009.10.08



2009年10月07日

◆保守党再現は20年後



     
渡部亮次郎


議会政治は全治20年と書いたら、何を根拠に言うかと質された。根拠など無いが、選挙制度の改正、政党の再編成などが不可避だから10年以上は絶対掛かると思っただけだ。少なくとも次の総選挙で自民党が政権に復活する事はあり得ない。

来年の参院選挙でも自民党は負ける。そこで自民党は、初めて目が覚める。「これでは永久野党になってしまう」と慌てる。それが始まりだ。自民党崩壊と再生運動の始まりだ。

今回の総選挙について、衆院議員を辞職した後、東京都知事になった石原慎太郎氏が9月7日付の産経新聞に評論「日本よ」を寄せ
「小選挙区制は日本になじまない」と批判していた。

<それにしても今行われている小選挙区制度というのは弊害が多すぎる。かつてこれが取り入れられようとした時、私は与党(自民党)内にあって、守旧派の名に甘んじながら最後まで反対を唱えてきた。

国民が前述したような性情のこの国にあっては、現行の選挙制度は結果の振幅が大きすぎ結果として行政のロスが多すぎることになりかねない。

政権交代の是非といったオールオア・ナッシグの選択ではなしに、選挙も通じてより具体性のある、かつ幅の広い討論が行われるためには2大政党ではなしに、ドイツのように3つの政党が存在しその連立が3通りに行われるような態様が望ましいと思われる。

とにかく今の選挙制度では政治家が日頃選挙に気をとられ大きな発想を行う余裕があり得ない。東京では国会議員の選挙区が区議会議員のそれよりも小さいという奇体な現象をみせてもいる。

その結果野中氏が慨嘆していたが、冗漫な本会議の折には夜の議決までの間選挙区が比較的間近な議員たちは議場を抜け出して選挙区回りをしてまた戻るという空疎な現象が現れているという。

加えて比例代表というシステムは、選挙区を持たず日頃死に物狂いの努力もせず、その名声?だけで当選の相伴に預かるという不合理不公平な結果をもたらしてもいる。

総選挙という国家の命運を決める重大事が、メディアなどが作るヒステリックな風に吹き飛ばされず、幅の広い討論をもたすことで国民が冷静な判断と選択が行えるように、国会議員の数も減らして、例えば全国で定員2人の中間選挙区に改良されるべきと思われる。それは必ず3大政党といった政治体制をもたらすものと思うが。>

「2大政党主義」を主張して已まない民主党が、今直ちに、この論に乗ってくることは無いだろうが、今後3度目ぐらいの選挙で与党たる地位が危機に晒されるようなことが有れば、選挙制度再改革が初めて論議され始めるだろう。

それまでに公明党が、或いは民主党と連立でもしていれば、話はややこしくなるが、公明党はそれでも独自の主張を確保する希望を捨てていなければ複数定員制を目指して論議に加わるはずで、選挙制の再改革はそこで現実味を帯びてくる。

実際には創価学会では、今回の衆院選挙惨敗を機に、昔のように政治活動は参議院に限定すると、衆議院からの撤退論がかなり具体的に論じられているらしいから、これもまた「不透明」である。

肝腎の自民党だが、派閥の領袖たちが束になって推した谷垣氏が圧勝して後任総裁に就任したが、これでは全くの旧態依然たる結束状況であって、組織の躍動化は絶望的である。「みんなの野球」なんてお笑いだ。野球は1人ではできないのだから。弁護士ならもう少し気の利いた科白を吐かんかい。

また谷垣氏の思想は保守的では全く無くて、いわゆるリベラルに属する。これでは目指すところは活性化した自民党ではなく第2民主党でしかない。

民主党が勝利したのは、60年近く、権力に胡坐をかいて来て、もはや血液の浄化を自らの能力では出来なくなった自民党、宗教団体にすがり付く以外に自立能力を失った政党に愛想が尽きたのだ。

自民党は洗濯物を大量に抱え込んだ脳卒中の老人だった。改革が怖いものだから、懸案のすべてを先送りした。魅力のまったくなくなった恋人だった。

その恋人が、厚化粧して復縁を迫っても応じる支持者はいないだろう。さりとて民主党に投票できない支持者は当分、無党派層になるしかない。

勿論、この先、民主党も様々な蹉跌を踏む。役人を使ったことが無いくせに役人を相手にせずというのは馬鹿げた科白。間もなくあちこちで馬脚が現れるだろうし、故人献金問題も、小澤秘書裁判も不利に展開するだろう。

しかし、政権党である。必ず踏みこたえる。来年の参院選挙でも国民は民主党を勝たせ、社民党などとの連立解消に踏みきらせるであろう。これを否定する悪材料は無いからだ。

問題は小澤一郎がその後、どのような動きをするかである。壊し屋の異名どおり、小澤派を率いて理想の新党結成に走るか、或いは
自民党のある層をとりこむか。「不透明」ではあるが。

一方の自民党は来年の参院選でも敗れれば、無用の長物と化するわけだから議員の「逃散」が始まるだろう。それを見て渡辺喜美、河野太郎、中川秀直、亀井静香といった人たちが、内外から自民党をかき乱し、やがて自民党は事実上、消滅するだろう。

そうした中から小選挙区制の再検討論議がはじまり、並行して新しい保守党の立党、民主党の凋落の始まり、各党メンバーの健康問題などが展開するだろうが、そうした中から、無党派層にも支持される新しい保守政権が誕生するまでには10年では足りず、少なくとも20年は掛かるだろうと私は見る。(文中敬称略)2009・10・6