2009年04月23日

◆間抜け学テと命賭け学テ

渡部亮次郎

「学テ」と聞くと昔を思い出して緊張するが、今は間抜けな学テも出現したようだ。

<学力テスト、実施日間違え行わず…鹿児島の小学校

鹿児島県南九州市の市立小学校1校が、全国学力テストの実施日を間違え、テストを行っていなかったことが分かった。学校側は21日、保護者に謝罪し、22日にテストを行う。

市教委によると、この小学校の担当者が、22日が実施日だった昨年度のマニュアルを今年度分と思い込んだのが原因。この小学校からテスト終了の報告がないため、市教委が問い合わせてミスが判明した。

市学校教育課は「17日に開いた会議でも実施日について説明していた。本当にあり得ないミス」と話している。学校側は児童の保護者に対して、問題を掲載した新聞などを児童に見せないよう求めた。

県教委によると、県内では、インフルエンザなどのため児童全員が欠席するなどした小規模公立校2校もテストを行わなかった。これらの児童は5月8日までにテストを受けることができるが、成績は文部科学省が公表する結果に反映されない。> (4月21日23時49分配信 読売新聞)

第1回の全国学力調査が行なわれたのは1961(昭和36)年10月26日。私がNHK記者として駐在していた岩手県では日教組の反対指令に忠実に従って81%の小中学校でテストは行なわれなかった。直後闘争を展開した岩手県教職員組合の幹部9人が県警に逮捕された。

当時朝日新聞記者だった岩垂 弘(いわたれ ひろし)氏がブログで回想記を公開している。
C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\もの書きを目指す人びとへ.htm

岩垂 弘(ジャーナリスト)
<第31回 岩手・忘れ得ぬ人びとC  教員組合幹部

1961年(昭和36年)10月26日、文部省による全国一斉学力テストが行われた。中 学2、3年を対象にしたもので、学習指導の改善や教育的諸条件の整備のため、とされた。

これ に対し、日教組は「教育の国家統制の強化を企図するもの」として阻止行動を指示。結局、大半 は混乱なく学力テストが行われ、実施率は全国平均で91%だった。しかし、岩手県は81%の 学校で学力テストが実施されず、平常授業が行われた。

その直後、小川、千葉樹壽、佐藤、千葉直、柏氏ら岩教組執行部9人が地方公務員法違反容疑 (禁止されている争議行為をそそのかし、あおったという容疑)で逮捕される。

裁判は最高裁ま で持ち越され、1976年、そこで有罪の判決(執行猶予付き懲役刑)がくだされる。「学テ闘争をやったことを今も誇りに思っている。学テは世論に押されて5年で終わり、国民の判定はと うに出ている」。判決を聞いた小川の談話である。

私が朝日新聞盛岡支局に勤めていた1958年(昭和33年)から60年にかけてのころ、 報道関係者の間ではやっていた言い方の一つにこんなのがあった。

「泣く子も黙るがんきょうそ」 「がんきょうそ」とは「岩教組」のことであり、岩手県教員組合の略称である。

小、中学校の 教員を主体とする労働組合だが、その組織力、闘争力が極めて強力だったことから、こういう呼び方が生まれたものと思われる。

当時、岩教組を率いていた委員長は小川仁一。 東和町の出身で、小学校教諭を務めたあと、 組合活動に転じた。粘りっこい岩手弁で、言いにくいことも歯に衣着せずずけずけ言う。

押しも強く、ときにはそれがふてぶてしい印象を与えた。このため、敬遠される向きもあったが、率直 で、温かみのある人柄が愛され、人気があった。彼我の力を慎重に見極めて入念に戦術を練る戦略家といった感じのリーダーだった。

これに対し、書記長の千葉樹壽(たつし)氏は、堂々たる体躯の、見るからに闘士といった感じで、いうなれば猪突猛進型活動家のイメージ。音楽の先生、と聞いたことがある。

他に、教文部長の佐藤啓二氏、情宣部長の千葉直氏、執行委員の柏朔司氏らが印象に残る。また、岩教組は 当時、日教組に役員(中央執行委員)を出しており、当時は小田一夫氏だった。

ところで、私が盛岡を去った後、小川は2度にわたって全国的な出来事の主役となり、脚光を 浴びる。

「がんきょう」という言い方に岩教組の「岩教」と「頑強」と いう文字がだぶって思い起こされ、なかなか面白い言い方ではないか、と思ったものだ。

当時、組合員は約1万人。もちろん、岩手県最大の労組だった。専従者が36人もいた。日 教組(日本教職員組合)内では高知県教組の強力な組織力と並び称され、「南の高知、北の岩 手」といわれた。「日教組ご三家の一つ」ともいわれた。

なにしろ、そのころは「岩手には2つの教育行政機関がある」とまでいわれたものだ。1つは もちろん県教育庁だが、もう1つが岩教組。

とくに教員の人事異動に強い発言力をもち、「岩教 組が反対すると、人事異動を発令できない」とまでいわれていた。

私も取材を通じて、その闘争力に接することがあった。支局に赴任した直後、岩教組が勤務評 定問題での交渉を求め組合員が徹夜で県教育庁庁舎に座り込んだことがあった。

排除のために警 官隊が出動し、激しいもみ合いとなり、けが人が出た。サツまわり(警察まわり)だった私も動員されたが、岩教組の動員力、統率力に目を見張ったものだ。 (中略)

岩教組の強さを支えていたものの1つは、その経済力だった。当時、県内各地に15の教育会 館をもっていた。また、互助部には当時の金で1億円を蓄えていた。山林12ヘクタールをもつ 山林地主でもあった。こうした財政力があったから、各種闘争に資金を投入することができたの だ。

それに、岩手の僻地性も作用していたろう。僻地校が多く、教育環境も教員の労働条件も極めて劣悪だった。だから、教員たちは、それらを解決するためには、自分たちの組織に結集して団結力を示す以外に道はなかった。

2回目の脚光を浴びた舞台は、1987年3月に行われた、売上税が争点となった参議院岩手選挙区補欠選挙だ。小川は社会党公認で出馬し、自民党公認候補と一騎打ちとなったが、「売上 税反対」一本にしぼった小川が42万票対19万票で圧勝。小川が語った「中曽根さんのおかげです」は流行語になった。中曽根内閣は売上税法案を廃案にせざるを得なかった。

当選直後、参院議員会館の小川の部屋を訪ねた。「おお、岩垂君、元気かね」と笑顔で迎えてくれた。やはり岩手弁であった。
89年の参院選で再選される。2002年に没。84歳だった。

岩教組本部の事務所は盛岡市街の中心、盛岡城址きわに建つ教育会館内にあったが、同市内に は高校の教員でつくる岩手県高等学校教職員組合(県高教組)の事務所もあった。

そこでは、よく情宣部長の澤藤禮次郎に会って話を聞いた。長身で端正な感じの論客だった。彼はやがて委員 長になり、その後、出身地の北上市を地盤に旧岩手2区から社会党公認で衆議院選に打って出 て、当選した。その彼もすでに故人だ。>

岩垂氏は東京本社社会部記者となり、北朝鮮ルポを掲載、北朝鮮礼賛記事としてよくも悪くも注目された。私は岩手県庁記者クラブで顔見知りではあったが話をした事は無かった。その理由は別の機会に譲る。

なお「全国学テ、来年から中止」は私の短い文部省担当記者時代の特ダネだった。それが文部事務次官の逆鱗に触れ翌日から会見拒否されたが、特ダネは嘘ではなかった。ネタ元は文部省ではなく自民党だった。

かくて日教組は今やその日程すら忘却するまで学テに無感動である。時代が変わったのではなく日教組の思想が変化した、或いは無思想の団体にならざるを得なかったのである。

1950年に「朝鮮動乱」がスターリンと毛沢に唆された金日成の「北朝鮮軍」が日曜日の朝、無防備の韓国に攻め入り、一時的に制圧する場面もあった。

何年かして、当時の将校だった閣僚が「恐ろしいのは思想です。思想がまがれば人間は同胞を殺せるのです」と述懐した。思想が変われば先生は先生に戻るし,変わらなければ同胞を殺せる革命児に豹変する。2009・04・22

2009年04月22日

◆3S政策で芯を抜かれた

渡部亮次郎

3S政策(さんえすせいさく)とは、大衆の関心を政治に向けさせないように取る愚民政策のひとつ。1945年の大東亜戦争敗戦後、日本を占領に来たアメリカのマッカーサー元帥は戦勝国たる連合軍の最高司令官として君臨。

占領軍の際たる目的は日本の魂を抜き、2度と再び世界に覇を唱えさせない国とすることだった。その真髄が3S政策といわれた。文書として残っては居ない。

3S政策の3Sとは、以下の言葉の頭文字を取ったとされる。

Screen(スクリーン)
Sport(スポーツ)
Sex(セックス)

玉音放送(敗戦の詔書)の起草者でもある安岡正篤は、大東亜戦争終結後、連合国総司令官GHQが日本の占領政策を実行するにあたり、基本原則としての「3R」(Revenge―復讐、Reform―改組、Revive―復活)、重点的施策としての「5D」(Disarmament―武装解除、Demilitalization―軍国主義排除、Disindustrialization―工業生産力破壊、Decentralization―中心勢力解体、Democratization―民主化)、そして補助政策としての「3S」を策定したことをガーディナー・GHQ参事官から直接話を聞いているという。

安岡が存在したと主張する、この政策により、日本では性風俗が開放され、映画やエンターテインメントが興隆し、プロ野球をはじめとするスポーツが国民行事となった。

スクリーン(映画)、スポーツ、セックス(性産業)またはスピード(クルマ)は大衆の欲望動員による娯楽であるが、それらに目を向けさせることにより、民衆が感じている社会生活上の様々な不安や、政治への関心を逸らさせて大衆を自由に思うがままに操作し得るとされる。

簡単に言えば「ガス抜き」政策である。あまりにも厳しい占領政策をすると、暴動が起こる恐れがあるので、人々の目を逸らさせるために密かに展開された政策である。

安岡は「日本を全く骨抜きにするこの3R・5D・3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。

日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります」と警告している。

これらの政策と「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」により、日本のマスコミや教育現場が当時のGHQによる検閲を経て、現在に至るまで「自己検閲」を続けることによって日本の弱体化を図ったものとされている。

同様の主張をしているのが自民党で、『党の使命』で“占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が誤っており、主としてわが国の弱体化に置かれていたため”愛国心と国家観念が不当に抑圧された、と断じている。

マッカーサーによる日本歴史、地理、修身の教科禁止は当に大和(やまと)民族の滅亡を図る真髄だった。それなのに、日教組はマッカーサーの狙いの真実を探ろうともせず、さながらそのお先棒を担ぐようにして教育の衰退を招いた。

その担ぎ手を代表して参議院を牛耳っているのが参議院民主党議員会長である。参議院ならぬ衆議院議員選挙で、間違って民主党に政権が渡ったら文教行政は連合軍占領時代に逆戻りし、暗黒時代が再現する。

日教組は占領軍に協力する代償として教員の労働組合結成を許されたものである。それまでの「聖職」との尊敬を投げ捨て賃上げと労働条件改善を叫ぶ一介の労働者にみずからなり下がった珍しい存在である。

私は長じて社団法人日米文化振興会理事長を引き受けある年、アメリカの教育事情を調査する機会を得て渡米したが、なるほどアメリカの公教育は「労働者」によって背負われているし、賃金も年収300万円ぐらい、社会的尊敬は全く払われていない。あれじゃストを決行するしかないと納得した。

しかし、日教組は後になってそれらに気付いたが、組織の体質は既に硬直化し、後戻りは不可能だった。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・04・20

2009年04月20日

◆性の売買盛んな某国

渡部 亮次郎

ワシントンでもニューヨークでも1980年前後までは売春が盛んだった。

アメリカでは、その後も連邦レベルでの売春全面禁止はされず、州の裁量に任されているが、ネバダ州以外では禁じられている。ネバダ州でも一部の許可地域以外では禁じられている。

韓国では、2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)と国内総生産の約4%を売春業で占め、20歳以上の韓国女性の25人に1人が娼婦であるという調査結果を韓国の刑事政策研究院は公表した。 また、外国人女性を騙して入国させ、監禁の上で売春を強要する事件まで行った。

このような状況から韓国政府は2004年に売春行為を厳しく取り締る「性売買防止法」を施行したが、この法の施行にあたり、約3000人の売春婦が集まり「売春をさせろ」「生存権を保証しろ」とのデモがおこなわれ、その後も規制により生活が苦しくなった売春婦たちのデモが各地で発生
するに至っている。

韓国内の規制が厳しくなったことで、日本や米国をはじめとした海外へ「遠征売春」をしに出かける韓国女性が増加しはじめ、米国ではロサンゼルス警察局の関係者によると、毎月逮捕される売春女性のうち、9割が韓国人であることが伝えられ、韓国の売春事情は海外にも影響を及ぼし
ている。

また、近年増加してるのが、韓国男性のアジアでの買春ツアーである。「児童買春」を目的に東南アジアなどを訪れる韓国人男性や、中国へのゴルフツアーの際に買春行為している姿など、数多くの報道がなされるようになった。

モンゴルを訪れる韓国男性の70%以上が買春ツアーを目的としている。韓国人が経営する売春目的のカラオケバーが確認されているだけで50軒以上にのぼり深刻な問題となっている。

モンゴル政府は韓国人による買春ツアーを取り締まるために売春取締法を強化しているが韓国人の経営する売春目的のカラオケバーの活動を弱めることができていない。また、取締りを逃れるために乗馬クラブやマッサージ店での買春が増加している。

空港を降りるとそのまま買春乗馬クラブに直行する姿などが垣間見られる。韓国人の無法行為によってモンゴル人に強い嫌韓感情を引き起こしている。

キリバス(中部太平洋の共和国)でも韓国人による幼女買春が問題となっている。キリバス人は性が乱れた人たちをコレコレアと呼んでいる。

韓国人は、現地の女性を自分たちの船の甲板や、薄暗い防波堤の後ろに連れて行き買春を行うので、防波堤の物陰のこともコレコレア呼ぶ。

キリバスでは韓国人の買春行為に対して、議会では対策会議が開かれており、市民団体や教会が行き過ぎた性売買を減らすための方法を探っている。

韓国人男性の子どもを妊娠した幼い少女たちやその父親不明の混血児たちもキリバスの社会問題となっている。出典:「ウィキペディア」
2009・04・17

2009年04月19日

◆情報の入手方法さえ

渡部亮次郎

「情報っていうのは、すべて知る必要はなくて、どこでこの情報が手に入るかということを知っていれば、知っている必要はないんだ」。リチャード・ソウル・ワーマン(アメリカの情報デザインの巨匠)

それはそうだろう。すべての事を記憶しようとしたら、受験生の頭になってしまって、世間の常識の入り込む余地がなくなってしまう。
女性の口説き方なんか知らないまま、ウジのたかる中年鰥夫になってしまう。或いは幼女の連続殺人事件を起こして死刑になったりする。

だから、大抵の人間はワーマンなんかに言われなくとも、情報の処理の仕方は追々知って行くものと決っている。しかし最近の朝日新聞を読むと、頭がおかしくなるそうだ。だから読まないが、知人によると「情報」がちっともなくて、押し付けがましい論文ばかりだそうである。

政治記事など「無」に等しいとか。自らの20年ばかりの記者体験からすると、政治記事とは記者たちが持ち寄る断片情報(ベタ=1段記事)をキャップが幾つも寄せ合わせて大きな記事に仕立てる。
だからベタ記事こそは大見出しの基礎なのである。

ベタ記事1本には一見、何も見えない。だが幾つものベタ記事を集め、重ねてみると派閥再編成への共通項が見えてきたりする。だからベタ記事が少なくなって行くという事は朝日新聞政治部の取材力の落ちた事を宣伝しているようなもの。先輩の築いた偉大な業績を無駄遣いしている。

「粗末な情報収集力しかありませんから購買しないで下さい」。広告が集まらなくなったのは不景気の所為ばかりではありません。

特ダネは遊んでいる記者だけが拾ってくる。遊んでいる記者相手では相手も気を許して口が緩むからである。それを経費節減で、車代を締め上げたり、取材雑費を喧しくすると記者たちは派手な動きだけして相手を警戒だけさせて情報を遠ざける結果になる。

死んだ宮澤喜一は悪い酒癖で有名だったが、酔いながら情報を提供すると言うサービス精神も結構あって。ポロリともらした。酔いが進んだ時によせばいいのにクソ真面目な記者が「さっきの話の確認ですが」というと「そんな話を私がいつしましたか」と言って否定するのが常だった。確認しなけりゃ特ダネだったのに。そんな類の記者が増えたそうだ。

日教組教育のどん詰まり。最近起きたNHKの偏った番組作りの原因もその類だろう。会長の椅子を揺らす大問題に発展する事必定だがNHKも他のマスコミも気付いていない。慌てるぞ。

さらにその結果面白い記事が減ってゆくから販売部数が落ちて行くという蟻地獄に落ちて行くことになる。優秀でなかった政治記者が社長なった新聞社が落ちて行く構造はここにある。政界を読めなかった記者は社員心理の読めるわけが無い。

ワーマンが言っているのは、すべての情報を独りで握る事は無理だが、誰を取材すればどういう種類の情報を掴む事が出来るかを知っておくことが肝腎だといっているわけだろう。いわゆる情報の「引き出し」を幾つもっているかが重要だと言う事だろう。

しかし情報の引き出しの豊富さは、人脈の豊富さを裏付ける以外の何物でもない。

政界の取材を何年かしたり、政権に大臣秘書官として入ってみたこもがあるから、政界に通じているだろうと私を誤解する向きがあるが、既に政界に関係しなくなってからの方が長い。

だから政界情報はインターネトで大先輩の古澤 襄(のぼる)さん(元共同通信社常務理事)や拓殖大学大学院教授の花岡信昭さん(元産経新聞政治部長)に「判断」を依存している。

この人たちには「昔執った杵柄」と長い経歴で築いた人脈からのナマの情報が入っていて私の立ち入るところではない。他に現役記者のブログを覘けばナマの動きを知ることも出来る。毎日新聞編集部顧問岩見隆夫さんも独特の視点で公平な見方があり、それをを学ぶ事が出来て助かる。

福島香織さんとか阿比留 瑠比(あびるるい)さん(共に産経新聞政治部記者)ブログを覘くと政府・与党はもちろん民主党の動きもかなり明確に理解できる。特に福島さんは中国特派員から代ったばかりで、政界初体験への戸惑いぶりから逆に政界の不思議さを感じ取る事が出来る。

また現役の阿比留さんは社会部や文化部の経験もあり、政治のプロらしくない視点で政治家を見ているので、政界の「透視」にその新鮮な神経が役立つ。

特筆しなくてはならないのが、宮崎正弘さん。三島由紀夫研究の第一人者だがアメリカ留学で英語、独学で中国語をマスター。その配信する「国際ニュース早読み」は抜群というより、宮崎さんに敵う国際情報通は無い。

アメリカに土地勘を持っているほか中国については全土を踏破している。そんな人は日本には宮崎さん以外に居ないから中国情報の分析は随一となる。加えて李登輝元総統を初めとする台湾人脈が台湾情報の確かさを裏付けている。その情報量と分析の確かさは記者上がりの俄か評論家の及ぶところではない。

元々は親友の国際問題評論家加瀬英明氏を通じてアメリカで知りあった。その加瀬さんにはその博識に基づく内外に対する洞察力に溢れた評論で助けられている。

山堂、馬場、平井、前田、毛馬各氏の評論は私の及ばない視点に目が及んで精彩を深くしてくれている。中でも馬場さんのは人生をほっとさせてくれる親子、兄弟姉妹の愛情と言うものの大切さに目をひらかされる。

変な結論になったが、わがメールマガジン「頂門の一針」は豊富な「情報の引き出し」である。先輩、同僚諸氏に感謝するのみ。
09・04・13

2009年04月16日

◆小沢一郎のルーツ


渡部 亮次郎

NHK記者として1960年以来4年間を岩手県盛岡市(県庁所在地)に在勤。主に政治を担当。何のことは無い衆参院議員、知事選挙の票読みに明け暮れた。

この間、東京から選挙区入りする政治家とは殆ど顔見知りになったが、小沢佐重喜(おざわ さえき)にだけは会う機会がなかった。彼のライバアルだった椎名悦三郎や志賀健次郎とは昵懇にねがったぐらいだが。

私が政治記者活動の舞台を東京に移したのは東京オリムピックのあった1964年。河野派や参議院担当と慌しく送っている間に「日米安保改定実現に大きな役割を果たした」佐重喜は昭和43(1968)年5月8日、心不全のため東京慈恵会医大病院で死去してしまった。享年70。

当時、東京都内の高校から慶応大学を経て日本大学大学院で司法試験に備えていた長男一郎が後継者となり、はや当選13回、民主党代表にあること、ご承知のとおり。

だから岩手県や小澤周辺の事は他人(ひと)よりは多少詳しいはずだったのに、先ごろの秋田県知事選挙で小沢勢力が敗北した事に関する評論で小澤(南部藩)というミスを犯してしまった。小澤の選挙区は旧伊達(だて)藩である。

ところで戸籍上、一郎には異母姉妹が2人居ることを知っている人は今では少ないだろう。佐重喜が妻・みち(旧姓荒木)に生ませた子供は長男一郎だけ。

佐重喜の経歴のどこにも離婚の記録はないから娘・スミ子、則子(いずれも養女として入籍)は 佐重喜が外で作った子である(松田賢弥著『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』194-195頁)。

後に述べる如く小澤佐重喜は苦学力行の人だったが、「妾(めかけ)囲うは男の甲斐性」と言われた戦前。「我も一つ」と頑張ったのだろうが、私の知る限りでは、これが選挙に影響したことは無かった。

小澤佐重喜は吉田茂が政界にある間は吉田側近でありつづけたが、吉田引退後は日本商工会議所会頭から政界入りして総理総裁を目指した藤山愛一郎の派閥にいた。

明治31(1898)年11月25日、岩手県胆沢郡水沢町(のちに水沢市を経て、現:奥州市)の貧しい小作農家(父・徳太郎母・トメ )に生まれる。

水沢は明治4年の廃藩置県前は、伊達(だて)藩(現在は宮城県)に所属した。

佐重喜は経済的に恵まれなかったため小学校5年で退学。隣県の仙台市へ行き鍛冶屋、大工の弟子入りした経験を持つ。後年、その押しの強さから、「闘牛」の異名をとったのはこの時代の苦労が肥やしになったのだろう。

その後、大正12(1923)年、日本大学法学部夜間部を卒業し、同年中に弁護士試験に合格。翌大正13(1924)年3月、東京市下谷区御徒町に弁護士事務所を開業

昭和4年(1929)年3月、東京市会議員に当選
昭和11(1936)年5月、東京府会議員に当選
昭和17(1942)年4月13日、長男一郎誕生。自宅も台東区御徒町だった。

だが佐重喜は一郎を戦局の悪化に伴う「疎開」のようにして妻と共に郷里水沢に帰し、一郎は3歳から14歳まで水沢で育った。一郎の口下手は岩手訛の劣等感から来ているようだ。

さて佐重喜である。戦後の昭和21(1946)年、戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙に旧岩手2区から立候補し当選する。以後、当選通算10回。

自由党に所属し、吉田茂に重用される。第2次吉田茂内閣の運輸大臣として初入閣。この時、首相である吉田が昭和天皇に閣僚名簿を奏上した際誤って名前を「さじゅうき」と読み上げたところ、昭和天皇から誤りを指摘されたという一幕が伝わっている。

第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵年政大臣兼初代電気通信大臣、第5次吉田茂内閣の建設大臣を歴任する。

昭和30(1955)年、保守合同・自由民主党に参加。議運委員長の経験から社会党との調整力に長けたことから、岸信介から日米安全保障条約に関する特別委員長に指名され、川島正次郎幹事長らと共に安保改定を実現した。

昭和35(1960)年、第2次池田内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官に就任したのが最期。長年、小選挙区制の導入を唱え、その遺志は息子の小沢一郎に引き継がれた形で一郎が実現した。

衆議院議院運営委員長をしたのは昭和25(1950)年7月から26(1951)年12月までだったが、参議院で衆議院法案が4回否決(内3回は参議院修正案)された際、参議院の議決を否定し衆議院案の再可決という形で法案を成立させる道筋を作った。

56年後の平成19(2007)年に、息子の小沢一郎が第一野党党首として参院選で参議院野党過半数を獲得し、衆議院で法案再可決権である3分の2以上の議席を持つ与党に対峙することとなった。

後年、2007年以降で、民主党は参議院が直近の民意であることから与党による衆議院の再議決を牽制しているが、小沢一郎民主党代表の父である佐重喜が衆院議運委員長時代に行った衆議院の再可決4回は参院選が直近の選挙であった(衆院選1949年1月・参院選1950年6月)。

昭和43年(1968年)5月8日、心不全のため東京慈恵会医大病院で死去  叙正三位・叙勲一等・授旭日大綬章。心臓病は小澤家の遺伝?(文中敬称略)出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・04・15

2009年04月15日

◆秋田で民主党が勝てるのは1区だけ

渡部亮次郎

郷里秋田で知事に昔の殿様の血筋に当る佐竹敬久(さたけ のりひさ)氏が当選した(4月12日)。水戸から秋田に左遷された義宣(よしのぶ)の実弟義勝(よしかつ)を始祖とする佐竹北家(仙北市角館)の当主である。

何代目か。佐竹北家は明治維新まで7代を数えたそうだから明治維新から141年経っている。プラス5代と見れば12代目か。

佐竹敬久:1947年11月15日秋田県仙北郡角館町(現:仙北市)で生まれる(61歳)。

出身校 東北大学工学部精密工学科を卒業後、秋田県庁に入り佐々木元知事の側近として総務部次長に出世。佐々木知事失脚後の知事選で寺田氏に対抗し手出馬。落選。失脚した知事の側近が出馬したのだから落選は当然だった。

その後秋田市長に担がれて2期の任期中、寺田知事不出馬の今回 辞職して出馬したもの。

生家は、秋田藩主の一門・佐竹北家である。家系は代々、秋田藩角館一帯に一万石の封を得て、明治時代は男爵に叙せられた旧華族の出身であった。

父 敬二郎は昭和21年(1946年)5月に爵位を返上し、その翌年、太平洋戦争終戦の翌年11月3日に日本国憲法が制定されて間もない時期に敬久が生まれている。

秋田県立角館高等学校を経て、昭和46年(1971年)3月 東北大学工学部精密工学科卒業。 昭和47年(1972年)3月 秋田県庁に入り商工部門、地方行政部門を担当し、工業振興課長、地方課長、総務部次長を歴任したのは既に述べた。

2009年2月23日に、任期を約5ヶ月残して秋田県知事選挙(2009年4月12日投開票)に出馬。民主県連などの支持を受けた川口博(小坂町長)らを破って初当選を果たした。自民党の組織票に加えて、全県的な知名度を生かして無党派層の支持も得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


確定した秋田県知事選の市町村別得票数から計算すると、大雑把にいえば衆院1区(秋田市)で佐竹氏(自民党系)が川口氏(民主党系)に23653票差で勝ったが、佐竹氏が秋田市長の現職だった割には得票差が少なかった。

これは民主党衆院議員の寺田学氏(菅代表代行グループ 寺田前知事の息子)の影響力があったせいであろう。次期総選挙でも寺田学氏の優位は動かないといえる。

加えて元佐々木知事の側近として責任を取らなかったばかりか後継者として佐々木路線を継号とした、秋田市長としてさしたる業績を上げ得なかった事への保守層の不満があった。

だが旧南部藩だった地域から県知事を迎えることの屈辱を秋田市や県南部の有権者は想像もしていない。寺田前知事が南部藩小澤一郎の家来になり得たのは彼が藩意識の希薄な県南出身だったからである。寺田の退場で秋田での小澤色は急速に薄れてゆく。

従って民主党が秋田の3選挙区で勝てるのは1区だけで、2区、3区は自民党が勝つだろう。1区での自民党はタマが悪すぎるから寺田2世は票を減らす事はあっても落選は予想できない。

2区は今回敗戦した川口氏の地盤である。町長を務めた小坂町では90%に近い票を集めて佐竹氏を寄せ付けなかった。隣接する鹿角市でも89%に近い票を集めている。

さらには野呂田芳成氏(無)の地盤である能代市でも勝利し、2区全体では川口氏が43299票の大差で佐竹氏に勝っている。

これだけで見れば、総選挙でも民主党が圧勝する様だが、そうはならない。野呂田芳成氏は知事選では川口氏を推したが、次期総選挙では引退する。しかも野呂田後継は、自民党の金田勝年(元参院議員)に決まった。

民主党は佐々木重人氏を立てるが、前回選挙では45020票しか獲得できていない。社民党票の28131票を貰うために、無所属で立つ苦肉の作戦をとろうとしているが、それでも野呂田氏の前回票80974票には及ばない。

今のところ社民党は前回と同じように山本喜代宏を立てる方針だから、金田勝年氏の圧勝が予想されている。

区はどうか。ここは自民党が孤塁を守ってきた選挙区。佐竹氏は出身地の仙北市で80%近い票を集め、横手市、湯沢市、由利本荘市、大仙市、にかほ市でも川口氏を寄せ付けなかった。3区全体では何と76414票差で川口氏を退けた。

総選挙では自民党現職の御法川信英氏(みのもんたの縁戚)が立つが、地元の大仙市で川口票の3倍の票を集めて、佐竹当選に貢献している。民主党の京野きみこ氏(前回は82480票で次点落選)は及ばないだろう。村岡2世の動き次第。2009・04・14

2009年04月14日

◆東京大学と遊郭「洲崎」

渡部亮次郎

東大の脇が遊郭だったため、移転させられた、それが「洲崎」だと言ってもあまり信じてもらえない。なんたって洲崎という地名が地図上に存在しないから話が先に進まない。

有体にいえば東京・江東区役所のある「東陽町」が姿を変えた洲崎なのである。

洲崎(すさき)は、東京都江東区東陽付近の旧町名で、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を望む景勝地だった。明治期〜1958年(昭和33年)の売春防止法成立まで吉原 (東京都)と並ぶ都内の代表的な遊郭街が設置され、特に戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれた歓楽街であった。

1887年(明治20年)、富坂(現・文京区)に帝国大学校舎が新築されるため、風紀上の観点から直近に存在した根津(ねず)遊郭の移転計画が持ち上がった。

しかし最大の歓楽街だった吉原(よしわら、現台東区千束3,4丁目)に受け入れの余裕がなく、洲崎付近の湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽1丁目付近の街区が誕生。大正末期には300軒前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街に発展した。

大東亜戦争で深川地区は米軍爆撃機による空襲に晒されるようになり、1943年(昭和18年)には洲崎遊郭の閉鎖令が下された。跡地は軍需工場等となったが、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で洲崎地区はほぼ完全に灰燼に帰し壊滅した。

ところが、「深川」は復活しなかったが、終戦後からわずか半年で洲崎遊郭は復興した。「洲崎パラダイス」の愛称で下町の男たちを引き寄せた。その規模と海の直近という風情から、吉原以上の人気を誇る歓楽街として隆盛を誇った。

1956年(昭和31年)製作の映画「洲崎パラダイス赤信号」には、ロケにより往事の華やかな洲崎の様子が記録されている。その後、1958年(昭和33年)4月1日に施行された売春防止法により、洲崎パラダイスは70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと変遷していった。

1967年(昭和43年)、町名の変更に伴い洲崎は江東区「東陽」と改称され、その名称が地図から姿を消した。

主な名所・遺構

洲崎大門(すさきおおもん)
現在の永代通り「東陽3丁目」交差点から東陽1丁目方向へ入ったところにあった洲崎橋に設置されていた外門で洲崎遊郭への正面玄関。

吉原の吉原大門と同じ類のもので、戦前は鉄の門柱であったが戦後の隆盛時は「洲崎パラダイス」の名が掲げられた大きなアーチ形の門が設置された。昭和33年の洲崎パラダイス廃止に伴い門は撤去された。

旧「大賀楼」建物

洲崎遊郭の中でも一等クラスの店だった「大賀」の本館。売春防止法施行後も建物が現存し(「大賀」の屋号も建物に掲示されたまま)、華やかなりし洲崎全盛期と変わらない外観を今に残す。現在は日本共産党の江東区議会議員の個人事務所として使用されている。

洲崎警察署跡
洲崎遊郭を管轄した警視庁の旧警察署。現在でも戦前の洲崎を舞台にしたドラマや舞台などで時折登場する。

昭和20年3月10日の東京大空襲時には全職員が参集し住民避難誘導にあたり、住民を可能な限り避難させたが、職員は自身の避難のすべを失い、庁舎に戻って署長以下全員が殉職という最期を遂げた。

同様に東京大空襲で壊滅した平野警察署、扇橋警察署と共に、その所管を深川警察署に吸収統合された。

大門(おおもん)通り
洲崎遊郭の正面玄関だった洲崎大門から、吉原遊郭の吉原大門がある土手通りを繋ぐ一本道。遊郭の大門と大門を繋ぐ街道として発展し、現在もバス通りとしてその名が残る。

華やかなりし時代には、遊郭へ遊びにやってくる男たちで賑わった。この通りの脇、約200mのところに主宰者のアパート(21階建)がある。

洲崎球場
戦前、洲崎地区に設置されていた野球場。後楽園球場が出来るまではプロ野球公式戦のメイン球場の一つとして利用されたが、もともと湿地帯に作られた球場のため水はけが悪く、冠水によるコールドゲームも発生した。

永井荷風
小説家の永井荷風は「断腸亭日乗」などの著書で吉原と共に戦前の洲崎遊郭の風情を幾つかの小説に書きとどめており、往事の姿を伺うことができる。

小説「洲崎パラダイス」
終戦後から隆盛を極めていった洲崎遊郭に生きる遊女たちの素顔を追った芝木好子の短編。昭和31年に「洲崎パラダイス赤信号」の名で映画化された。 (ウィキペディア)2009・04・13







2009年04月11日

◆明晰過ぎた宮澤喜一

渡部 亮次郎

2007年6月28日、老衰のため東京の自宅で87歳で永眠した元総理大臣宮澤喜一氏。東大法学部出身以外の記者は、記者と認めてくれないという噂だった。幸い、担当を命じられる事はなかったが、私が浪人になってから1度だけ会った事がある。

八郎潟を干拓して出来た秋田県大潟村の宮田村長がインタビューをしたいというので、親しい人を介して約束を取り付け、番町のマンションの一室にあった個人事務所に案内した。

宮田村長との話を聞いていただけだが、秋田県の田舎者とか村長如きが、といった態度は毛ぶりも見せず、丁寧に答えていたので、人というのは実際に会って見なければ真実はわからないな、という感を深くした。

たまたま「文藝春秋」の2007年9月号をめくっていたら長女のラフルアー・宮澤啓子さんが「風変わりな父・宮澤喜一」と題して内輪話を寄せておられたので、懐かしく読んだ。啓子さんの夫君はマレーシア駐在のアメリカ大使だそうである。(当時)

<一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒したことが知られている(宮澤裕が被差別部落出身かど
うかの真偽は不明)。

『芸備人権新報』(1999年9月10日号)によると 「…(小森)ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだというべきでしょうね。

(記者)宮沢と同じ状況をいうのはどういうことですか。

(小森)宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の 代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと 残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだっ たでしょうね。

彼は、選挙にさしつかえないように、その影を最大限、 消しにかかり、わざわざ、尾道に住居を構えたようなふりをしています。

(小森)自らが被差別者でないことを一挙に人々に知らせるためには、 リスクを承知の上で、とりあえず、部落にたいする差別発言をすることです。…」>フリー百科「ウィキペディア」

<父・裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)の小農家に生まれ、苦学して東大を卒業。息子3人もまた東大を出た。いまや宮沢家は"超名門エリート"と思われているが、もとから宮沢家が名門であったわけではない。(『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』)

末弟の泰さんは外交官だった。私が大臣秘書官として外務省にお世話になった1978年ごろは欧亜局長。園田直大臣の初外遊に同行してもらった。

それは日ソ定期外相協議。ベレンコソ連空軍中尉の函館空港強行着陸事件で極端に冷え込んだ日ソ関係を回復するきっかけとすべきチャンスだった。

しかしグロムイコ外相は北方4島返還交渉に応じようとせず、共同声明も出せないという始末で、予想通りの失敗であった。

迎賓館を退去する時、大臣は記念に備え付けの便箋を貰っていくようにと命じたが、それを聞いた宮澤局長「大臣、ラジオは如何ですか」とからかった。流石に瞬間、しらけ鳥が飛んだ。

それはともかく兄の喜一さんについての政界の評判は毀誉半ばしていた。佐藤栄作、福田赳夫といった人たちは自らの内閣に官房長官としての入閣を策し、側近に止められた。

止めた側近の最たる者が後に組閣する田中角栄氏だった。「あれは秘書官どまり。自ら政策を立案できない。言いつけられたことだけは完璧にこなすが、それ以上はできない。あいつだけは総理にしてはならない」と強く言っていた。

それが総理大臣になっちゃった。

<1991年、海部首相の退陣にともなう自由民主党総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任した。

保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営はままならなかった。

在任中の施策としてはPKO協力法の成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。その過程で派遣された文民警察官と、国連ボランティアが殺害されたことは、政権に大きな衝撃を与えた。

またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、1992年8月の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助を示唆したが、官庁や経済団体、そして金融機関自身の強い反対にあって実行に至らなかった。

折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念、1993年6月に内閣不信任案が提出され、自民党分裂により成立、解散して総選挙を行うも日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川内閣に政権を明け渡す。

宮澤は自民党長期支配38年の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。>「ウィキペディア」

以下、啓子さんの手記(「文藝春秋」9月号より抜粋。

ところで宮澤さんは家庭では子供たちに対しても自由放任主義。くだらない質問には返事もしなかったそうだ。記者たちにもそうしたかったろうが、随分腹の立った事だったろう。

「女は足の美しい方がいいのだ」と畳に座る事を禁じ、和式トイレにしゃがむ事も禁じた。足の湾曲を恐れたのである。

長女の就職の世話を絶対しなかった。「君のことだ、厭になれば勝手に辞めるんだから紹介はしない」。

村上春樹の「ノルウエイの森」を読み面白かったといった。ユーミンのコンサートに河野洋平と行った。新聞は女性週刊誌の広告まで読み芸能ゴシップに詳しかった。

「ピーターという双子の男の子ガアメリカで生まれたらしいよ。もう一人の名前がわかるかい、リピーターだよ」

記憶力は娘から見ても抜群。5歳の孫娘とトランプの神経衰弱をやり、1枚も取れなかった孫娘が泣いた。「泣くというのはルール違反だ」と怒った。

首相退陣となる総選挙の開票の途中で床についてしまった。翌朝「宮澤退陣」の見出しを見て驚愕していた。

小泉さんに議員引退を迫られた時「いいよ」と言ったが、実際は「腸が煮えくり返る思いだ」と他人に洩らした。

2007年6月の初めごろから笑顔が見られるようになった。身体が弱くなって仕事がでできないことに諦めがついたのだと啓子さんは覚悟した。

来日した義母が「キイチ、どの大臣が一番、楽しかったの?」

「やっぱり総理大臣かな」と答えた。「総理大臣というものは、電車に乗っていて突然、目の前の席が空くようなものだ」と言っていた。
2007・09・02  (再掲)

2009年04月07日

◆ソ連外相にすき焼き

渡部 亮次郎

(再掲)1978年1月、福田内閣の園田直外務大臣は、就任後初の外遊先をモスクワに決め、 1月8日午前11時、JAL443便に乗り込んだ。私は真冬でもあり、現地では野菜不足の時期だと報道課長古川清さんに教えられていたから、機内の倉庫に現地日本人への土産として白菜何十キロかを積んで出発した。

それとは別に大臣と打ち合わせに来ていた駐ソビエト(元ロシア)大使重光晶大使(重光葵外相の甥)が神戸牛1頭分を予めモスクワに運びこんでいた。

1月8日夜9時、雪の張り付いたモスクワのシェレメチェボ空港に到着。翌日から「日ソ定期外相協議」がソ連側の外務省別館を会場に開始された。

1月だから氷点下20度ぐらい。首筋がチクチクと痛かった。「帽子を被って凍傷を防げ、春になったら頭が融けるぞ」と誰かから注意された。慌てて用意してきた毛皮の帽子を被った。

3日目は既に3回目の外相会談。向こうが無理難題を含む日ソ平和条約原案を突きつけてきたから、すかさずこちらもかねて用意の対案を突きつけて「ちゃら」。息づまる駆け引きだった。

しかし30分後には日本大使公邸で園田大臣主催の昼食会が開かれ、其処に日本のすき焼きが初めて登場したのである。牛肉に砂糖を絡めて葱と豆腐や春菊を醤油で煮た料理にソ連人、如何なる反応を示すか興味津々だった。非礼も忘れてせっせと撮影した。

国連大使時代は常に拒否権を行使して「ミスターニエット(反対)」と綽名されていたグルムイコ外相。おとなしい顔で、すき焼きを左利きの箸を上手に使ってパクついていたので感心した。

西欧においては決して美味であるはずのない砂糖まぶしの牛肉でも平気な表情で飲み下す、これは一種の気迫だろう。

すき焼きの語源・由来

すき焼きは江戸時代から見られる名で、鍋の代わりに農具の鋤(すき)の金属部分の上を火にかけ、魚や豆腐を焼いて食べたことから、「鋤焼(スキヤキ)」と呼ばれるようになった。確かこのことを佐藤事務秘書官は大臣に「挨拶」で言わせた。

その他、すき焼きの語源には、肉を薄く切るため「剥身(すきみ)」から「剥き焼き」となったとする説や、古くからある日本料理「杉焼(すぎやき)」からとする説、好きなものを焼くからといった説もある。

しかし、1832年の「鯨肉調味方」に「鋤焼とは、鋤のよく擦れて鮮明なるを、熾火の上に置きわたし、それに切肉をのせて焼くをいふ。鋤に限らず、鉄器のよくすれて鮮明なるを用ふべし。」とあるため、鋤の上で焼いた説が有力とされている。

江戸時代のすき焼きは、牛肉が禁止されていたため、鴨肉や猪、鹿などの肉が使われ、現在の焼肉や鉄板焼きのようなもので、関西風すき焼きにその名残をとどめる。

文明開化後、牛肉が庶民の食べ物として普及してからは、東京を中心に割り下を使うすき焼きが広まり、「牛肉鍋」や「牛鍋(うしなべ)」と言われ、やがて「牛鍋(ぎゅうなべ)」が関東では一般的な呼び名となった。全国的にすき焼きと呼ばれるようになった時期は、それほど古くないようである。

また、牛肉を用いるすき焼きが一般的となったため、「すき」に鍋物の意味を持たせ、牛肉以外の材料を用いる時は「魚すき」「鳥すき」「うどんすき」などと呼ぶようになった。

すき焼き(スキヤキ)とは、肉を浅い鉄鍋で焼いた、あるいは煮た料理。割下を用いた甘辛い味つけの料理の総称として「すき焼き風」という呼称も用いられる。牛鍋ともいう。

すき焼き(関東風)

一般的なすき焼きは薄切りにした牛肉が用いられ、葱、春菊、椎茸、豆腐などの具材(ザクと呼ぶ)が添えられる。味付けは醤油と砂糖が基本で、生卵をからめて食べる。

しゃぶしゃぶの薄切り肉は熱湯にくぐらせるだけで食べられるほど薄いが、すき焼きの薄切り肉はしゃぶしゃぶに用いる肉よりも厚いことが多
い。

日本では幕末になるまで、仏教の戒律などのため牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していた。

古くは寛永20年(1643年)刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理である。

さらに享和元年(1801年)の料理書『料理早指南』では、「鋤やき」は「鋤の上に右の鳥類をやく也、色かはるほどにてしょくしてよし」と記述されている。

また文化元年(1804年)の『料理談合集』や文政12年(1829年)の『鯨肉調味方』にも具体的な記述が見られ、使い古した田畑を耕す農具の鋤(すき)を火にかざして鴨などの鶏肉や、あるいは鯨肉などを加熱する一種の焼肉であったことが判る。

この魚介類の味噌煮の「杉やき」と、鳥類・魚類の焼肉という「鋤やき」という2種類の料理が、牛肉の鍋物としての「すき焼き」の起源と言われている(なお「すき身」の肉を使うことから「すき焼き」と呼ばれるようになったという説もある)。

安政6年(1859年)に横浜が開港すると居留地の外国人が牛肉を欲しがり、地方から牛肉が運ばれるようになった(神戸からと言われている)。

このような状況で文久2年(1862年)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた伊勢熊(いせくま)が牛鍋屋を開業する。明治元年(1868年)、外国人向けに東京・芝に屠牛場ができた。

以降、東京でも牛鍋屋が流行し、以後牛食は文明開化の象徴となる。仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』(1871年)に描き出している。

この関東の「牛鍋」に対し、関西では先に焼いた牛肉の上から割下を張る「すき焼き」が行われおり、次第に関東でもこちらの「すき焼き」という呼称が定着していったようである。

横浜にはぶつ切り牛肉を使い、適宜、割り下を注ぎながら濃い味噌だれで炒りつけるように煮る牛鍋を供する名店がある。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。

イノシシのボタン鍋の転用で、味噌煮込みであったらしい。明治初期の「牛屋(ぎゅうや)」の牛鍋もこうした味噌鍋が主流であったと思われる。先述のぶつ切り牛肉の味噌鍋の店もこうした牛鍋のプロトタイプの名残りと見る事ができよう。

調理法の違い

関東と関西ではその調理法に違いが見られる。関東のすき焼きは明治に流行した牛鍋がベースになっており、だし汁に醤油・砂糖・みりん・酒などの調味料を混ぜた「割下」をあらかじめ用意しておき、これで牛肉を煮る。

関西のものは名前の通り牛肉を「焼く」料理で、焼けたところに砂糖をまぶし醤油を直接加えて味付けをし、割下は用いない。

東西の食べ方の境界線は、愛知県豊橋市にあるといわれる。現在では割下を万能調味料として売り出していることもあり、境は明確ではなくなってきている。

肉と水のでる野菜を同時に焼かない点、こんにゃくなど肉を硬くする作用をもつものをいっしょに焼かないことなど、関西風はこだわりがあるのも特徴である。

北海道や新潟県ではその昔、牛肉ではなく豚肉を使うことが一般的であった。これはかつての北海道や新潟県では牛肉が高価だったせいもあり、牛肉を食べる習慣が余りなかったためである。しかし比較的安価に牛肉が提供されるようになった現在では、牛肉を使う場合が多い。フリー百
科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照。2006・10・11

2009年04月05日

◆マスコミ用語の変遷

               渡部亮次郎

NHKの記者研修で厳しく言われたことは○○を「上回った」と言う表現はあっても「下回った」と言ってはならない。上回ることは表面張力の点からある現象だが「下まわる」事はあり得ない物理現象だから、と厳しく言われた。

しかし、現在、NHKでは「下回る」がおおっぴらに使われている。
NHKだけでない。新聞も使っている。天気予報など気象情報でもそうだ。マスコミが使えば、世間が使う。

先ごろ「未成年」はいまだ成年にあらず。未は「まだ」と「ず」と2回読む「漢文」から来ているのだから「まだ未成年」といっちゃいけないと自分のメルマガに書いた。そしたら国語教師だった人から「使ってもおかしくない」といった趣旨の反論があった。あまり恥かしいから没にしたらご不満の様子である。国語の教師でも漢文を習わぬ時代になっているのだ。

私の若いころは政局の見通しについて判らなければ「成り行きが注目される」と逃げる記者が居た。これを称して「なり注原稿」と揶揄したものだが、いまの政治記者連中は「不透明」と言う言葉で逃げる。

「不透明」とは状態を示す言葉であって、記者の主観から逃げている。無責任な原稿と言われても仕方がない。例えば小澤が辞めるか否かは「不透明」なのではなく「ご本人も決断できない状態」であるのだから「不透明」というべきで「判らない」と書くべきだ。

最近はテレビも新聞も問題の見通しは「不透明だ」という表現を使う。見通しが立たない、解決の目途(めど)は立たないと言っていたものが、一層、他人事(ひとごと)に突き放したいいかたをする。

ニュースは利用者に「断定」の材料を提供する仕事である。それなのに「成り行きが注目」されたり「不透明」だと逃げたのではニュースとはいえない。

就中、私が1968年に入社したNHKでは聴取者からの反発を恐れて断定的な結論を出す事を嫌った。あとで結果的に外れた時の反発や抗議の電話集中的にかかってきて、交換機が炎上すると脅かされた。事実かどうかは知らない。

当方は血の気が多い方だからこれに反抗。「ああでもない、こうでもないでは,どうでもないニュースといわれるではないか」とむくれた。独自の見解を披瀝しないのだったらNHKは糊と鋏の頭文字かと毒づいたりもした。

佐藤栄作内閣時代のことだ。衆議院の解散に伴う投票日の設定が焦点になった。幹事長田中角栄は何日といい、国対委員長園田直はそれとは違う「大安吉日」を指定した。「総理はなんと言っても大安吉日が好きな性格だから、間違いない」との断定的な解説付きだった。

だが幹事長と国対委員長では総理・総裁との政治的距離が圧倒的に違う。幹事長の方が格段に上なのだ。だからNHKは角栄のいう節を選んだ。しかし、角栄は間違っていた。

佐藤栄作研究は時間的には角栄のほうが長かったが、突っ込み方は園田の方が鋭かった。解散日を決める三者会談の際、角栄は椅子に半分しか腰掛けていなかった。これは栄作を恐れている証拠。

園田は嘗ては栄作とライバル関係にあって戦っていた故河野一郎の直系の子分。従って総理と幹事長の関係を冷静に観察する余裕がある。園田説が真実に近い。だが私の主張は部長の決断で否定された。

だがやはり園田説が正しかった。投票日の日取りに間違いがあったという「訂正記事」を書かされ、それに対して報道局長賞(金一封)が出た。訂正記事に特ダネ賞はNHKでは空前絶後では無いか。

果たせるかな後年、ポスト佐藤の場面になった時、佐藤が自分に信を置いていないことを知っていた角栄は腕力で佐藤をねじ伏せるようにした。参議院の天皇は「カネを積んだのだ」と非難した。これで「禅譲確実」と言われていた福田赳夫を角栄は蹴落とした。

福田側についていた園田はこの結果、田中,三木両政権の数年間、冷や飯をくうことになった。園田の佐藤研究は鋭かったが、田中研究はまるでなって居なかったのである。とんでもない方へ話は流れてしまった。乞ご寛恕。2009・04・03


2009年04月02日

◆生きてたら園田直

渡部 亮次郎

今日4月2日が命日の園田直(そのだ すなお)さんは背はあまり高くないが大変なハンサムだった。しかし小心だった。柔道3段、剣道7段、居合道8段、合気道8段、空手5段、これだけでも計31段の「猛者」だが、小心で、実は女性を口説けなかった。

注射を怖がった。だからインスリンの注射を怖がった。衆院議員に当選した直後あたりから遺伝による2型糖尿病を発症。しかし当時は皆がそうであったように糖尿病を「貫禄病」ぐらいに軽く考え、対策を根本的に講じなかった。

衆院議員としては厚生大臣を2度も経験。2度目の1981年には患団体からの要望久しかったインスリンの自己注射を始めて認可すると言う歴史に残る大英断をしながら、自身、30台から苦しめられてきた糖尿病でありながら痛いのが嫌いで注射から逃げ回った。

それが命取りとなって遂には全盲となり、腎臓がカチカチの腎不全で、70歳の若さで1984年4月2日に死んだ。

<1921年には、カナダの整形外科医フレデリック・バンティング(Frederick Banting)と医学生チャールズ・ベスト(Charles Best)が研究室でインスリンの抽出に成功した。

1922年1月11日、当時14歳であった1型糖尿病患者に世界で初めてインスリンの投与が行われた。バートラム・コリップは、それから12日間投与量などの改善に日夜努力し、23日に再び投与が行われた。 今度は副作用を引き起こすこともなく、糖尿病の症状を取り除くことにも成功した。

しかしながら、バンティングとベストはコリップを一種の闖入者と見なしたようで不和を生じたため、その後すぐにコリップは去って行った。1922年の春が過ぎ、ベストは大量の需要にも応えられるように抽出技術を工夫したが、精製はまるで未熟であった。

1921年の発表の直後、イーライリリー社から、彼らは支援の申し出を受けており、4月にこの申し出を受けた。11月にリリー社は技術の革新に成功し、非常に純粋なインスリンの生産に成功した。このインスリンは、アイレチンという名ですぐ市場に出された。

インスリンについては4人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年に賞を受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger) が、1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)がそれぞれノーベル賞を受賞している>。(ウイキ)

そうやって死んだ直さんだったが、今生きていれば安陪晋三元総理大臣のことを何と評価しただろうか。

おそらく「論評に値しない」と言ったと思う。それは祖父の岸信介氏、その女婿の安倍晋太郎氏に悉く先を阻まれた恨みだけではなかったろうと思う。貫禄の無さ、政治の読みの浅さなど、政治家の資格から見て未熟すぎる歯軋りのような評価をするとおもうからである。

◆社説は空しいから読まない

     渡部亮次郎「頂門の一針」主宰

一連の地方におけるいわゆる官製談合事件は、摘発はあっても消滅策はありえないから、頼むから新聞の社説よ、論説よ、取り上げるなと祈っていたのに、産経新聞(2006/12/05 05:01)が「主張」(社説)で取り上げてしまった。

3年前のことだが、各社の姿勢は「綺麗ごと」である事、不変だから今でも似たような論説を読まされているはず。私は新聞そのものをなるべく読まないし、論説は特に読まない。

3年前のは、先ごろ判決の出た宮崎県知事(当時)による汚職に関するもの【主張】宮崎県知事辞職 不正の構造に決別はかれ と題した。

<官製談合による自治体トップの逮捕、辞職が相次いでいる。福島、和歌山県に続いて、宮崎県の安藤忠恕(ただひろ)知事が辞職した。まさに“談合列島”といえる異常事態を招いている>。

<それにしても、安藤知事の辞職表明は遅きに失した。先月29日に県ナンバー3の出納長が逮捕された時点で、県民の大半は安藤知事が「道義的責任」をとり、辞職するものと予想していたのではないか>。

ここまでは駆け出しの記者でも書ける「経過」。問題は結論である。

<福島、和歌山、宮崎県の官製談合事件の検察・警察当局による摘発で、地方自治体の談合体質が同じ土壌にあることが浮き彫りになった>。

地方自治体でなぜ首長を頂点とした汚職事件が起きるのか、談合体質が同じ土壌となっているのかの事実解明が記述されていない。

<知事と個人的に親しいフィクサーが県政に暗躍する。和歌山の場合は元ゴルフ場経営者であり、宮崎は元国会議員秘書だった。これらの人物は選挙の時に知事に業者を紹介、恩を売って、その見返りに公共工事の入札に業者を参加させるという仕組みのようだ>。

<このような談合構造は、他の自治体でも似たり寄ったりであろう。いまこそ、政官業が巧みに癒着した談合体質からの脱却を図る必要がある>。

そんなことは論説委員殿に指摘されなくても分っている。当事者の首長こそ談合体質から脱却したいのは山々だからだ。他に選挙資金を調達する方法があれば、絶対的なこの泥沼から這い上がりたいはずだ。だが方便がない。

無いからこうして捕縄につながる汚辱の危険を冒してまで調達したのだ

<知事は予算と人事権を握る絶大な権限を握っている。業者との関係には自らを厳しく律しなければならない>。

なにを目出度いことを言ってるのだ。自らを厳しく律してなおかつ選挙資金の入る方法があるというのなら教えて貰おうじゃないか。空虚な論は休みやすみにしたまえ。

<公共事業の入札には特定業者が入り込まないような透明性のあるシステム作りが求められる。全国の自治体の首長は、一連の事件を“対岸の火事”とせず、早急に入札制度を改善し、不正根絶に邁進(まいしん)してもらいたい>。(2006/12/05 05:01)

そんなことは簡単だ。しかし選挙資金はどうやって調達するかも教えてくれ。それが無いならこの「主張」は空理空論だ。読むんじゃなかった。
                                     2006.12.05

(追記)安藤忠恕被告には2009年3月、懲役3年半の判決があった。

◆本稿掲載の全国誌・「頂門の一針」平成21年4月1日(水)1498号
<目次>
・社説は空しいから読まない:渡部亮次郎
・農業は国の基・豊かな国土を生む:加瀬英明
・「親北勢力」を見極めよう:花岡信昭
・IMFで中国が態度を豹変:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
    



2009年03月31日

◆北国の遅い春

渡部亮次郎

高校の時、作文で95点を貰ったことがある。雪国の秋田で遅い春の到来を忍耐強く待つ辛さと楽しさを綴ったものだった。秋田の春は温暖化で多少早まったろうが、桜の開花はそれでも東京よりは一月遅れである。角館の枝垂れ櫻はもっと遅い。

何しろ、子供のころは、秋10月から鉛色の曇天が続き、11月と共に霙(みぞれ)の季節となる。農家の軒先は吊るした干し大根で真
白。干し柿は無い。水稲単作地帯だから柿の木は存在しなかった。

12月に入ると初雪が舞い、やがて根雪になる。10歳未満の児童は一斉に霜焼にかかる。主に手足の平が軽い凍傷にかかり皮膚が破れる。夕方、気温が下がると痛みが酷くなる。泣いた。よく覚えている。傷跡が両手足にケロイド状に残っている。今ならビタミンEを補給すれば簡単に治るそうだが、あの頃はビタミンEすら未発見ではなかったか。

国民学校では「初日の出」と言う言葉を習った。元日の日の出と言うが、秋田で元日に日の出る事はあり得ない。「先生は嘘を教えちゃいけない」と文句を言ったら親父が先生に呼びつけられ、理屈のきつい子だと怒られた。親父は喜んでいた。

秋田の冬は寒いと言っても氷点下5度ぐらいが限度。長じて暮した背中合わせの岩手県の盛岡市ではマイナス10度はざら。目覚めると掛け布団の襟が凍っていたっけ。

しかし秋田がそれより暖かと言っても油断はならない。盆地の盛岡市は夜、月が出て風も吹かないが、秋田ではシベリヤからの強烈な北風が吹き続けた。小学校(戦争当時は国民学校)3年までは下校時、吹飛ばされて小川によく転げ落ちた。

戦争当時は輸入と言うものが全く途絶えたから、東南アジアからの
ゴムの輸入が無くなった。雪道を学校まで4キロを通うのにゴム長が無い。再生ゴム長は3日で破れた。

仕方が無いから日露戦争でラッパ手だった爺さんが編んでくれた藁靴で通った。暖かくなったら雨の日は裸足で通学した。足の底が飴色のゴムのように固くなったっけ。

藁沓を編む爺さんの手許を見つめているうちに、子供ながらに編み方を覚えてしまった。親父は編めなかったので私が兄弟たちの分を編んだものだが、東京に出てきたら綺麗に忘れた。

当時はテレビは勿論、ラジオでも天気予報と言う情報はなかった。天気こそは国家の最高機密だから予報は公開されなかった。まして戦争末期,大都市へのアメリカの空襲が始まると、益々、予報は秘密にされた。

私の生まれた農家は葦葺の家。近くの八郎潟を渡って吹雪が叩きつける。薪ストーブを真っ赤になるまで薪を燃やして冬の過ぎるのを待つしかない。戦争中とて、つける薬も皆無だから霜焼はふさがれないまま、耐えるしかなかった。

予報がないから、春の音は霜焼の痛さで感じ取る以外になかった。

それが3月に入ると雪が止んで、太陽が大げさにいうと半年振りに顔を出す。何十センチもあった根雪が見る見る融けていく。道路のが融けて、田圃ふぇも融け始める。道路はやがて乾き藁草履で歩けるようになる。心が歓喜で躍る。これを待つために雪に耐えてきたのだ。霜焼は完治していた。

当時、秋田の田圃までマスコミは届かない。だから4月末になって櫻が咲くと、日本中がやっと春になったと思ったが、長じて東京では既に一月以上前に花見が終わっていたと知って、自分の生まれ育ったところが、飛んでもない片田舎である事を思い知らされた。

東京へ来てみると、太陽は冬ほど多く照る。テレビが「秋田沖に低気圧があって日本海岸は雪」と言っているとき、東京は快晴である。
少年時代、曇天、霙、吹雪の半年。霜焼、皸(あかぎれ)で痛めつけられた少年時代は大変な損害だった事を思い知った。

高校の同級生の一人が秋田から冬晴れの東京にやってきて、子供たちの帰りたがらない謎が、この晴天にあると納得できたと呟いた。

いで はくは千 昌夫に「北国の春」で白樺 あおぞら 南風と唄わせ、お袋から届いた小さな包みが山菜であることを示唆している。
誠に躍動する北国の春を謳いあげているが、あれはどうも「いで」の郷里の長野県の春で東北の春では無い。

95点をくれても秋田の冬には帰りたくない。73歳。掌に残る霜焼に目をやりながら「北国の遅すぎる春」に思いを馳せている。
2009・03・29