2009年05月10日

◆日本分割を阻止した日本人

渡部亮次郎

アメリカ大統領ハリー・トルーマンは日本に進駐する連合国軍最高司令官(SCAP:Supreme Commander of the Allied Powers)にダグラス・マッカーサーを任命した。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」をGHQ(General Headquarters)と呼称する。

日本に進駐した連合軍の大部分は米軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。

戦争中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京23区は米中ソ英、近畿地方の大部分と福井県の一部は米中による共同統治)を計画していたが、天皇を通しての統治が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。

この動きは少年だった私の耳にも入り、東北地方はソ連に直接統治されると言われた。それが重光のお陰で救われたとは大人になるまで知らなかったが、ことはトラウマとなり、どういうわけか牛蒡畠
の裏からソ連兵が現れる夢を大人になっても見た。

戦後、重光葵が鳩山内閣で外務大臣を務めた際、政務次官になったのは熊本天草出身の代議士園田直(そのだ すなお)だった。更にその30年後、園田は福田赳夫内閣の中で図らずも外務大臣に横滑りし、要請で私がNHK国際局(当時)副部長から政務秘書官に発令された。

その関係で重光のことは裏話を含めて良く聞かされた。重光が死んだのは自宅ではなく妾宅だったが、自分が早くに駆けつけ、世間の目をくらましたことなど。

鳩山内閣当時、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため外交官出身の重光と鳩山の関係が悪化した。

また鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。というのも、重光の脳裏には駐ソ大使当時、ソ連外務省と対立した事や日ソ中立条約を一方的に破棄し満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。

重光 葵(しげみつ まもる、明治20年(1887年)7月29日―昭和32年(1957年)1月26日)は、日本の外交官・政治家である。

昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判で有期禁錮の判決を受ける。仮釈放と赦免後、政界に再復帰し、再び外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力した。園田政務次官はこの時代。

大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれたが、母の実家(重光家本家)に子供がなかったため葵が養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現・大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。

重光は敗戦直後、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣で外相に再任された。引き受けた大仕事は、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという屈辱だった。

昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、参謀総長の梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行い、その時の心境を「願くは御國の末の栄え行き我が名さけすむ人の多きを」と詠んでいる。このとき随員として艦上にあったのが畏友にして評論家加瀬英明の父俊一(としかず=後に国連大使)である。

重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難を伴うものだったのにもかかわらず、重光自身はその事を全く気にしていないように振舞った。

ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦する米国水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという。

極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だった。アメリカは重光起訴に当初は抵抗したがソ連に乗り切られた。

なお、進駐軍が厚木飛行場に到着した際は、横浜市に対して「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した実現したのは軍票問題だけだった。
(文中敬称略)3009・05・08
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2009年05月09日

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎

(再掲)中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介し1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。


日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親日派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させてハナを開かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無いから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。2008・02・28

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2009年05月08日

◆発禁(はっきん)の歴史

渡部亮次郎

発禁とは新聞、雑誌、書籍など主として出版物の特定の号または本の発売および頒布(無償の配布)行為を禁止する公権力による処分、いわゆる発売頒布禁止処分の略称。

NHKは公共放送とはいえるが国営放送ではない。それなのに軍歌は絶対、放送しない。スポーツ放送のテーマ曲は古関裕而の作曲。そのほか古関が作曲した放送のテーマ曲は多い。

古関は早稲田大学応援歌「紺碧の空」や東京オリンピック(1964年)の行進曲の作曲者としても有名だが、大東亜戦争中は数々も有名な軍歌の作曲家として名を売った。

銀翼連ねて南の前線で始まる「ラバウル海軍航空隊」、ああ、あの顔で あの声での「暁に祈る」勝ってくるぞと勇ましくの「露営の歌」若い血潮の予科錬の七つボタンは櫻に錨「若鷲の歌」、あの日揚ったZ旗を・・・の「海の進軍」などだ。

戦争中は国民学校(小学校)の児童も「軍国少年として教育されたから古関作曲の軍歌を、それとは知らずに随分唄った。同じ作曲家でも軍歌をあまり作らなかった高木東六は古関の悪口を死ぬ(102歳}まで続けた。

歌は政府や軍により「戦意高揚のため」としては大いにもちいられたわけだが、戦後、ゆうめいになった「夜のプラットホーム」とか「湖畔の宿」などはそれに反するとして発禁(発売禁止)処分を食らった。

私(73歳)が生まれる前の1934(昭和9)年、出版法改正で蓄音機用レコードも同法の対象となると同時に、レコードについても発禁が内務大臣の行政処分として行われるようになったためである。

現役のアナウンサーは、こうした事実を全く知らない。「夜のプラットホームは歓呼の声に送られて戦地に旅立つ新婚の夫を新橋駅のホームの陰に隠れて泣きながら見送る新妻の姿だ。戦地に向う以上、帰還は叶わないかもしれない、それだから「君いつ還る」とうたった。だから発禁になった。

戦後、発禁が解けて流行したが人々は戦時中の気分で歌った。何で旅がそんなに悲しいか分らないアナウンサーは戦争を知らないから理解できない。

今になってみると「山の寂しい湖に独り来たのも・・・」とうたう「湖畔の宿」が何故発禁か理解できないが、戦争中は女々しいとして禁止されても国策に反するといわれれば下を向くしかなかったろう。

コトコトコットン ファミレドシドレミファと唄う森の水車も発禁。ドレミファソラシドが外来語禁止に反したから。これはイタリア語で、イタリアは3国同盟の相手だからよかった筈がが「とにかく外来語はいかん」だったらしい。

新聞、雑誌などの定期刊行物については別に発行禁止(当該定期刊行物の存在自体の禁止)処分がある。発禁は日本では今日は存在せず、類似なものに違法な猥褻(わいせつ)出版物等についての押収処分があるにとどまるが、大東亜戦争前の旧体制下で猛威を振るった政府の言論統制手段として有名。

この発禁は、新聞紙、雑誌については新聞紙法第23条、書籍などについては出版法第19条により、それぞれ内務大臣が「安寧秩序」を乱しまたは「風俗」を害するものと判断した場合に自由裁量で行うことができるいわゆる行政処分である。

そのうえこの両法は行政訴訟による救済の道を閉ざしていたから、内務大臣の処分は最終処分で、発禁を受ければ泣き寝入りのほかはなかった。

したがって政府にとってはきわめて機動性に富む、便利で効果的な言論統制手段であった。ことに新聞、雑誌など定期刊行物の統制には絶大な威力を発揮した。

新聞、雑誌についてはさらに、この種の記事を掲載すると発禁処分に付するという事前の警告をはじめとするいわゆる記事差止め処分なるものが、内務大臣の発禁処分を補完する便宜的処分として法的根拠もないまま公然と行われた。

発禁処分権は、大東亜戦争期、国家総動員法に基づく新聞紙等掲載制限令(1941)によって「外交」その他「国策遂行ニ重大ナル支障」を生じるおそれのある記事を掲載した新聞紙等に対し内閣総理大臣(実際の処分は情報局が担当)にも認められた。

新聞紙法以前は新聞紙、雑誌の発行禁・停止が内務大臣(卿)の行政処分として認められ、同時にその被処分紙誌の発禁処分権も認められていた。

発行禁・停止の行政処分は、手続規定違反については1875年(明治8)の新聞紙条例、内容違反は「国安妨害」の場合について規定した76年の同条例改正、「風俗壊乱」は80年の同条例改正で創設された。

97年の同条例改正では発行禁・停止の行政処分が廃止されたが、新聞紙、雑誌に告発手続がとられた場合に随伴処分として発禁処分が認められていた。これが新聞紙法で独立の行政処分となったわけである。

書籍などに対する出版統制の歴史は、最古の出版法規とみられている出版物の無許可発行を禁止した触書(ふれがき)(1672)以来古い。これらの触書などに違反した出版物の発売・頒布は当然禁止されていたから、その意味で発禁は江戸時代から存在していたといえる。

しかし書籍などに対する発禁処分が、内務大臣の行政処分として規定されたのは1887年の改正出版条例第16条が最初で、前述の出版法第19条はその継承である。

発禁の対象となった本は一般に発禁本と称されている。これらの発禁は大東亜戦争後のGHQ(連合国最高司令部)指令による新聞紙法など発禁処分の根拠法令の効力停止や廃止とともに消滅した。

言論統制は主に対内的に流布する利敵情報、例えば国家政策への批判、治安・風紀を乱す主義思想、国家的に重大な機密、暴動・国内的混乱の扇動など、が出版・報道・流布されないように調査や検閲を行い、必要に応じてこれらの情報を操作・管理・防止することである。

これらには反政府的・扇動的な主張を行う集会を禁止したり、集会内容を規制することも、言論統制の一環といえる。

現在は日本国憲法で言論の自由の保証が明文化されているが、その日本国憲法下においても、プレスコードなどGHQ(連合国占領軍)による言論統制、弾圧は強力に行われていた。

アメリカなどの自由主義諸国でも戦時においては言論統制は当然のように行われる。
[Yahoo!百科事典および「ウィキペディア」2009・05・06



2009年05月03日

◆大久保コリアン・タウン昨今

渡部 亮次郎・前田 正晶

(渡部)
『文芸春秋』09年5月号グラビアから。

<山手線新大久保駅前の大久保通りを西へ行くとすぐ左手に皆中(かいちゅう)稲荷神社がある。「みな、あたる」百発百中。妙な名前だが、江戸の頃、この辺りには幕府の鉄砲隊が住んでいたと知れば合点が行く。

今も隔年に行なわれている例大祭には「江戸幕府鉄砲組百人隊行列出陣の儀」が見られる。百人町と言う町名はここから来ている。

現在、大久保通りと職安通りに挟まれた百人町と大久保の地域には、韓国を中心としたアジア系飲食店が急増し、コリアンタウンの様相を呈している。日本語よりハングルの方が多いように見えるほど。その本格韓国料理を求めて日本人客も押し寄せてくる。

ここには日本人の商店会のほかに「韓人会」と言う団体も出来た。正式
には「在日本韓国人連合会」というが、李事務局長によれば「1980年代後半以降、ビジネス、留学、就学、国際結婚など様々な目的で韓国から来日している新世代が急激に増加しました。その韓国人ニューカマーの親睦団体です」。

戦前から日本に住んでいる韓国人のオールドカマーに対して、日韓の歴史的問題の壁を破って、地域住民と手を結んで共に発展していこうと言う若い世代だ。空襲による焦土から立ち上がった街のエネルギーは、いまも通りに満ちている。>提供大和ハウス工業株式会社「暮らしを見つめて半世紀」。

きれいごとに書けばこんな文章になるのでしょうが、地域日本人としては、「とんでもない」と言う感慨があるのではないでしょうか。

<以下、周辺に住まいされている前田正晶さんの述懐>

1月でしたか昨年の12月でしたか、錦糸町のCoCoで経験したように、この地区の韓国料理店では居抜きの店主交代が多く、給仕人は男女とも激しく入れ替わりますが、これ皆学生ヴィザで入国したものが法律の限度内で働くからだそうです。

私は強制退去が多いのだと読んでいます。最近は頻繁に警察官が「はい、外国人登録証を出して」と職務質問を掛けているのを見かけますし、持ち物を検査していることも増えています。

また、この百人町で最古参の大地主に聞きますと、商店を経営していた古参の経営者は、最早日本人相手の商売は採算が取れず、信用できる韓国人に貸して家賃収入に切り換えた方が利口であると一致した意見であるそうです。

当にその通りで、裏通りを3日歩かなければ「あれ、此処には先日まで何の店があったのか」と思わせる変貌振りです。一般的には何かと言えば韓国料理店が増えたと書き立てますが、実は韓国から輸入したとしか思えない廉価な女性服を売る店も急増しています。これなどは見込み客どころか、安定した客筋があるのでしょう、あれだけ韓国女性が増えたのでは。

これら以外にウンザリさせられるのが、韓流スター関連の商品(グッズ等という言葉を使うのは潔くありません)を売る店も依然として増加傾向にあることです。街頭に無造作に置かれた韓国語のフリー・ペーパーの数も増加の一途です。

それに呼応してか、未だにこの辺りの地図を片手にウロウロしている中・高年の女性の数も増え続けています。韓国料理店が増えるのも、こういう客を狙ってのことでしょう。そういう料理屋の看板を見れば、決して安くはありません。

忘れてはならないのが「韓国広場」と「南大門市場」という韓国から輸入した物だけではなく日本産のキムチや冷麺まで幅広く韓国的な野菜、肉、豚足、調理済み食品(サンゲタン等)、ナムル、調味料、食器までを売っている、いわば韓国スーパーの存在です。

こういう状態をよく言えば「リトル・ソウル」とでもいうのでしょうが、私は何処かで誰かが歯止めを掛けねば、この傾向は限りなく拡大していくと憂慮しています。

余所から尋ねてくる人たちには興味津々でしょうが、地元の人たちは怒っています。不動産屋はとっくの昔に「外国人お断り」は放棄しています。

これに止まらず、マスコミが一向に言わないイスラム系やアラブ系の増加も顕著です。私はこの辺りでは、昔アメリカ人どもと外国人を区別して語る時のために冗談めかして使っていた、「白い外人」(=whitegaijin)などは滅多 に見る機会が無くなりました。

これほど景気が低迷している日本ですが、彼ら北アジアや中近東からパキスタン人等には未だに「夢の国」であるようなことは、何となく揶揄されている気もします。だが、「日本も未だあの諸国と比べれば良い状態にあるのだ」と思います。

9日の午後に、小滝橋通りでバスを降りて大久保通りを歩いて帰宅の途中、キリスト教新教の教会の前を通れば漢字の他に我々には読めないハングルの掲示が出ていた。若い女性が何かビラを配っていた。

この大久保通りには韓国人のためとしか思えない教会が非常に多い。教会と言っても独立した建物ではないし、目立つような十字架が立っているわけでもない。

何処にでもあるようなビルの一角に「教会」という字が見えるだけのこと。窓に十字架の絵が描いてある。その他の表示は概ねハングルで、我々にはどのような宗派(と言うのかな)の教会かが解らない。

ソウル市内では、独立した教会の建物が多く、韓国には人口比では我が国よりもキリスト教信者が多いらしいと解る。その信者達が大挙して我が国に転居してきたらしいとも想像できるほど、大久保通りから裏通りを挟んだ職安通り、さらに明治通りにはこういう教会が多い。

余り日曜日の朝にその複数の通りを歩くことがないので、どれほど多くの韓国人の信者さん達が礼拝やミサに訪れているかは知らない。だが、あれだけの数の教会は需要があるから存在するのだろう。

すなわち、それだけこの辺りには在日の人か信者が沢山住んでいるのかなと何時も考えている。

しかし、我が同胞にも新教であろうと旧教であろうとキリスト教信者がおられるはずである。その人達は何処の教会に行っておられるのだろうかと、何時も不思議に思っている。まさか韓国語のお説教を聞いておられるわけでもないだろうし。

韓国人のための教会の存在は解ったが、最近急増しつつあるイスラム教の人たちのためのモスクが何処にあるのか。因みに、明治通りと小滝橋通りに挟まれた大久保通りと職安通りには、仏教のお寺は2軒しかない。何か妙な感じがする。2009・04・09

2009年04月29日

◆平手神酒・小澤一郎

渡部亮次郎

自民党を追われた小澤一郎は、あろうことか野党党首となって自民党苛めに懸命だった。なんだか平手神酒みたいな哀れさも漂っていた。「世が世であれば、殿の招きの月見酒、男平手ともてはやされて・・・それが今じゃやくざ(民主党)の用心棒・・・」

平手神酒を用心棒に雇った「笹川の繁蔵」の血筋の末裔が家人である。繁蔵の兄のそれらしい。なぜかそれに触れられるのが一番の苦手らしい。

小澤と繁蔵を並べるのは失礼だが、何しろ小澤は自ら作った政治資金規正法を甘く見て進退を誤まった。法律を作ったのは自分だから運用にも自信があったのだろうが、そうは行かなかった。

2008年秋、防衛利権に絡んだ秋山直紀の事件で東京地方検察庁に3日にわたって参考人事情聴取を受けた。その時に感じたことだが
政治家やその周辺居住者たる私のような者と、検事との間には大きな隔意がある、ということだった。

早い話が、検事は政治制度の事は知っていても、日本政界事情は全く知らない。小澤の常識となっていることを検事は全く知らない。政治資金の取り扱いについても、小澤は修正申告で済むと考えていたとしても検事は原理主義で押して来るから、修正申告では済まない。

それなのに小澤が「修正申告で済む」「それなのに担当の秘書をいきなり逮捕というのは権力の濫用だ」と喚いた。だが、これは小澤の誤解だった。

政治資金規正法という法律を作った小澤は政治家に都合の良いように解釈して作った心算だが、検事はそんなことなし、原理、原則で解釈したのだ。

しかも逮捕された秘書は検察と妥協してしまった。小澤にとっては全くの誤算だった。おそらく大久保秘書は政界を引退する事を決意した筈である。

世間は小澤を角栄2世と簡単に呼ぶが角栄は拘置所に2度も入ったが小澤は一度ない。拘置所が怖いのだ。けつにガラス棒を突っ込まれるのが怖いのだ。

小澤を慰めに行っているのはあまり居ないだろう。衆議院事務局事務員時代からの側近平野貞夫(前参議院議員)、その女婿で樋高剛前衆院議員ぐらいではないか。いや樋高剛は小澤の秘書だったのに立候補のポスターから小澤の顔を外し始めたというから最近は近付かないかも知れない。

小澤の側近面をしているのは鳩山だが、彼も「俺の後継者は菅ではなくお前」と小澤にいわれてすがっているにすぎない。「東京地検は説明不足」と刑事訴訟法無視の発言をくりかえす理工系バカ丸出しだ。

いま悪夢が小澤を苛んでいる。

<1992年、東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚(東京佐川急便事件)し、同年8月27日に党副総裁を辞任、事態の収拾を図った。しかし世論の反発が強く10月に衆議院議員を辞職。竹下派会長も辞任した。

裁判で徹底的に戦う事を主張した小沢一郎に対し、梶山静六は略式起訴での決着を主張した。小沢戦略なら論理は一貫しているが長期的な体力が必要で党のイメージダウンも長く続くことになり、梶山戦略は短期で決着がつくように見えた。

しかし、結果的に両者とも世論の動きを読みきれていなかった。信じられないことだが金丸本人は上申書を提出するまで弁護士を立てていなかった。後に担当することになる弁護士は金丸辞任会見をTVで他人事のように見ていたと語っている。

当初の対応を小沢、生原秘書、佐藤守良に任せた結果時効がかかっていた時期を見誤った。浜田幸一の著書によると、梶山が短期決着で入れ知恵をしたかのごとく記述されているが客観的ではない。結局、対応に小沢、梶山の二股をかけたことにより両者の対立は決定的なものになり、派閥は分裂へと進んでゆく。

東京地検に政治資金規正法違反で略式起訴され、東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。しかし特別捜査部さえ“巨悪”に手を出せなかったことから、地検は世間から凄まじい批判を受ける(「有力政治家には特別に計らう“特別捜査部”だ」とまで揶揄する評もあった)。

また異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。刑罰の軽さに批判が大きかったものの前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。

一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、当時の日本債券信用銀行(日債銀)のワリシン(割引金融債)の一部が申告されていない(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”とコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)という事実を突き止めた。

1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。

捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。「金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの」と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(金の純度が99.99%と言う意味)であったとされる(村山治『特捜検察VS金融権力』)このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。

これが止めとなって同情論は消え、権威は地に堕ちた。>(「ウィキペディア」)

「金丸は副総裁を辞任したから逮捕され、身を潰した。おれもそうなる」。いまや大逆転で民主党が次期政権を担うことがあっても、その時総理が小澤だという絵は想像できない。「代表」にしがみつくわけは「逮捕よけ」だけだ。

誇り高く検察をのがれ、喝采を浴びながら凱旋する芝居が描けないだろうか、そればかりを考える日々が小澤の日々だ。

小澤は「民主党の明日を慮り選挙対策本部長に退いて挺身する」と言う道を予想する向きもあるが、それじゃまるで平手神酒。殿の招きの月見酒を渇望しながら惨殺される結末が待っているだけだ。
2009・04・27

2009年04月27日

◆暗い日本メーデー史

渡部 亮次郎

1936年、二・二六事件発生。陸軍将校たちが政治・経済の改革を叫んで政府転覆を狙った事件。これにより戒厳令が敷かれた後、同年3月19日付けで治安維持を目的とする内務省警保局通牒が発せられた。

「集会及多種運動の取締方に関する件」(「多衆運動ハ従来慣行ニ依リ許容サレツツアルモノト雖(イエド)モ右期間中ハ凡テ之ヲ禁止スルコト、従テ愛国労働祭又ハメーデー等の計画アル向ニ対シテハ予メ之ヲ中止スル様諭旨スルコト」)が発せられたのである。

3月24日に予定されていたメーデーが開催禁止された。体制は共産中国でも明らかなように大衆が纏まって動く事を嫌う。しかしこれに反対する無産政党や日本労働組合全国評議会(全評)の組合らは3月26日にメーデー禁止措置反対行動を起こし、内務省や警視庁へ抗議。

4月27日に全評の山花秀雄が組合幹部個人の名義でメーデー実施を指令し、当日は小規模ながらも全国で様々な形の集会やデモが開催された。

指令を発した山花はメーデー終了まで愛宕署に検束拘置された。この年から1945年まで日支事変激化などの理由で開催されることはなかった。

私は全くの子供だったし、当時は新聞が読めない。ラジオもテレビもない時代だったから、こうして改めて勉強するまではメーデーの歴史など知る由もなかった。

大東亜戦争敗戦翌年の1946年、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれた(別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」)。小学校5年生。草深い秋田では何も知らなかった。

1951年の第22回大会では、サンフランシスコ講和条約締結を控えて反対運動の盛り上がりを恐れた政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止したため、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が「全面講和をかちとれ」「再軍備に反対せよ」のスローガンを掲げて芝公園で実質的な中央メーデーを開催し、戦後初の分散メーデーとなった。

日本の主権回復後に行われた1952年の第23回大会では、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約への抗議も主張に含まれた。その際に皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突した(血のメーデー事件)。

米軍政下で琉球政府時代の沖縄でもメーデーは開催されていた。1951年に恩納村万座毛に300人が集まったのが沖縄で初のメーデーであった。

1952年には「即時本土復帰」「サンフランシスコ講和条約第3条撤廃」などを掲げた本格的なメーデーとなり、これをもって第1回沖縄メーデーという。昭和27年、高校生だった。

1954年の場合、労働運動から反米運動への展開を恐れた米民政府はカール・マルクスの実際の誕生日は5月5日であるにもかかわらず、「5月1日はマルクスの誕生日であるため、非共産主義者はメーデーに参加しない
ように」という声明を出し、開催阻止に向けて圧力をかけた。

東京で大学生だったが労組や社会党が大嫌いだったから近付かなかった。1度も参加しないまま、無縁になった。

高度成長期には総評、同盟などの共催で統一メーデーが続けられ、1984年の第54回大会では特別決議としてメーデーの祝日化要求が採択された。

「時短(労働時間短縮)元年」と位置づけられた1985年の55回大会ではサブスローガンで「週40時間制」、前年の祝日化要求決議を引き継ぐ「太陽と緑の週」の法制化など、労働時間短縮(時短)の実現が掲げら
れた。

新たに「スポーツ祭典」が併催されて「お祭りメーデー」と呼ばれる家族ぐるみの行事に発展したが、他方で労働運動としての意義の喪失に繋がると社会党や共産党、日本高等学校教職員組合(日高教)などいくつかの労組から反対や再検討を求める批判がなされた。

その後、労働組合の全国中央組織の再編による組織対立の激化で、1989年以降は統一メーデーの開催ができなくなり、連合と非連合系の全労連や全労協による分裂開催となった。

また、前後がゴールデンウィークで長期休暇を取る例が増え、労働組合活動が低調になってきて参加者数が減少したことを理由に、連合系メーデーは2001年以降4月29日や土曜日に行うようになった。

一方で全労連や全労協のメーデーは5月1日開催を続けており、その分裂と対立の構図は解消されていない。

2008年、連合は4月26日土曜日、東京の代々木公園で中央大会を開き、主催者発表で約4万5千7百人が参加した。「暫定税率の復活による増税反対」「後期高齢者医療制度廃止」などののぼりが立ち並んだ。

一方、平日の5月1日に同じ場所で開かれた全労連系中央大会は「貧困と戦争をなくせ!」を主テーマとし、主催者発表で約4万4千人が参加した。

連合と全労連のメーデーは、どちらも1920年からの通算回数をカウントしており、2009年で第80回目を迎えたとしている。
出典「ウィキペディア」2009・04・24
          <メルマガ全国版{頂門の一針」主宰>


2009年04月25日

◆日米安保を信じない

渡部亮次郎

北朝鮮がわが国を核攻撃した時に、アメリカガすかさず核で反撃すると信ずる日本国民は日を追って少なくなっている。だが、これを承けて例えば小澤一郎が何か方策をめぐらしていると信ずる日本人は居ないだろう。

日米安保条約制定を振返ってみる。正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」といい、1951 (昭和26) 年9月8日、(日本独立を容認する)サンフランシスコ講和条約とともに日米間で調印され、日本の国会批准を経、翌52年4月28日に同講和条約と一緒に発効した。

これに先立つ日本の第12臨時国会(1951年10月10〜11月30日)では吉田首相が単独で調印した日米安保条約の批准が講和(平和)条約よりも重要案件となった。当時、野党にいた中曽根康弘が述べた如く「平和条約は安保条約に隠れ、安保条約は行政協定に隠れて」いたからである。

<民主党(当時)では、10月25日の衆院特別委員会における三木武夫幹事長の質問に対し、吉田首相の答弁が誠意を欠くと言う事で
かなり硬化していた。

この日の民主党総務会は、秘密会であったため、筆者らは隣の部屋のロッカーによじのぼって聞き耳を立てていた。

この時「このような屈辱的条約に、我々は責任を分担できない。アメリカは無差別爆撃で、日本国民にたいへんな損害を与えた。われわれは、アメリカに賠償を要求すべきだ」と叫んだ中曽根康弘氏の声は、今なお筆者の耳にこびりついている。

(渡部註:勇ましかった中曽根氏。だが反対票は投じなかった。「君が将来、首相になる時に傷になる」と三木に説得されたからである)

当時、両条約に対する、民主党の反対者は17名いるといわれていた。結局これに対し、三木武夫幹事長が1人ひとりを説得して、賛成に回らせたわけだが、北村徳太郎、小林信一、園田直、石田一松の4氏のみは、頑強に応じなかった。

(後年、園田氏は外相になった際、秘書官の渡部亮次郎に対し、「ハト派で反対したんじゃないよ、逆だよ。単独再軍備を縛るものだから反対すべきだと考えたのだよ」と述懐した)。

結局、北村氏は当日、他の会合に出かけるということで欠席、他の3氏は反対票を投じたが、三木幹事長は、本会議場から出てくる3氏に、その場で離党の届書を求めたそうである。稲葉修氏は、平和条約に賛成、安保条約に反対した。

園田氏は後年、アメリカに行った時、求められて演説したが、その中で「戦争中、航空士官としてアメリカ爆撃を念願していた私にとって、到底、賛成できなかった」と述べている。(園田氏は特攻隊員だった・渡部註)

離党した3氏のうち園田、石田氏は翌年、改進党結成に参加した形で復党しているが、小林氏はその後、社会党入りした。>宮崎吉政著「実録 政界二十五年」(読売新聞社)
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日―2006年3月3日)は日本の政治評論家。

早稲田大学卒業後、読売新聞論説委員などを経て政治評論家となる。その間、「実録政界二十五年」などを著した。2006年3月3日、心不全で死去。享年90。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


その後60(昭和35)年1月19日に日米新安保条約が調印され、学生や左翼勢力の大反対の嵐をくぐって6月23日に同条約が成立して、日米相互協力および安全保障条約(正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」)となった。両者を含めて日米安全保障条約と総称される。

狭義には、日本の安全保障と極東の平和と安全のための日米両国間の軍事的協力関係をさだめたものであり、広義には全体としての日米間の協力をふくめたものである。

もともと日米安保条約構想は、日米間の講和条約の交渉過程において現実化したが、その考え方は早くから日本政府の上層部に存在した。

吉田茂首相をはじめとする日本政府の指導者たちは、講和条約調印後の日本の安全をいかにたもつかに懸念をいだいていたのである。日本政府の基本認識は以下の点にあった。

第1に、軍事力に関するかぎり米ソ2大国のそれが圧倒的に強いという現実認識である。さらに、米ソ両国がアジアおよび日本の将来について了解することがあり得ない以上、中立政策は現実的な選択ではなく、両国のいずれかと提携する以外には日本の安全を守る方法はないという判断があった。

第2に、吉田首相ら日本政府指導部は日本自身の再軍備については考えなかった。外的安全保障の方法をアメリカに依存することだけを考えていた。

あたかも1950(昭和25)年6月に朝鮮戦争が勃発したことによって、アメリカは「共産主義陣営」に対抗するための「自由主義陣営」の軍事力強化の必要性を強く認識するようになった。

そこで同年6月アメリカ政府特使ダレスは、再軍備の要求をもって日本を訪問する。これに対して吉田首相は、「日本経済がまだ貧弱な状態にある」こと、「日本再軍備は近隣諸国を刺激する恐れがある」ことなどを理由に、ダレスの要求を断った。

そのかわりに吉田首相は、当分の間日本の対外的安全をアメリカとの提携によって、すなわち日米間に協定をむすび、日本国内に米軍を駐留させることによって確保することを提案したのである。

日米両国は吉田首相のそのような認識に沿って条約締結に合意し、その後細部の詰めを経て日米安保条約成立に至ったものなのだ。

ついで、日本有事の際の対処を定めた武力攻撃事態対処法が、2004年6月に制定された。周辺事態法が米軍の活動を支援し、自衛隊による武力行使はできないとされていたのに対し、日本有事の際は自衛隊による武力行使が中心となることとなった。

日本有事の際の日米安保条約にもとづく米軍の行動には、物品・施設の提供がなされ、武力攻撃事態対処法とともに制定された米軍行動円滑化法では、米軍に対し土地や家屋、物品や役務(兵員の輸送など)を提供することがさだめられた。周辺事態法では除外された弾薬などの提供もふくまれた。

こうして、周辺事態、日本有事両方の国内法の整備がおこなわれたことで、新ガイドラインにもとづく日米共同対処の枠組みがととのうことになった。

しかし、北朝鮮がわが国を核攻撃した時に、アメリカガすかさず核で反撃すると信ずる日本国民は日を追って少なくなっている。だが、これを承けて例えば小澤一郎が何か方策をめぐらしていると信ずる日本人は居ないだろう。2009・04・23
参考:Microsoft(R) Encarta(R)


2009年04月23日

◆間抜け学テと命賭け学テ

渡部亮次郎

「学テ」と聞くと昔を思い出して緊張するが、今は間抜けな学テも出現したようだ。

<学力テスト、実施日間違え行わず…鹿児島の小学校

鹿児島県南九州市の市立小学校1校が、全国学力テストの実施日を間違え、テストを行っていなかったことが分かった。学校側は21日、保護者に謝罪し、22日にテストを行う。

市教委によると、この小学校の担当者が、22日が実施日だった昨年度のマニュアルを今年度分と思い込んだのが原因。この小学校からテスト終了の報告がないため、市教委が問い合わせてミスが判明した。

市学校教育課は「17日に開いた会議でも実施日について説明していた。本当にあり得ないミス」と話している。学校側は児童の保護者に対して、問題を掲載した新聞などを児童に見せないよう求めた。

県教委によると、県内では、インフルエンザなどのため児童全員が欠席するなどした小規模公立校2校もテストを行わなかった。これらの児童は5月8日までにテストを受けることができるが、成績は文部科学省が公表する結果に反映されない。> (4月21日23時49分配信 読売新聞)

第1回の全国学力調査が行なわれたのは1961(昭和36)年10月26日。私がNHK記者として駐在していた岩手県では日教組の反対指令に忠実に従って81%の小中学校でテストは行なわれなかった。直後闘争を展開した岩手県教職員組合の幹部9人が県警に逮捕された。

当時朝日新聞記者だった岩垂 弘(いわたれ ひろし)氏がブログで回想記を公開している。
C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\もの書きを目指す人びとへ.htm

岩垂 弘(ジャーナリスト)
<第31回 岩手・忘れ得ぬ人びとC  教員組合幹部

1961年(昭和36年)10月26日、文部省による全国一斉学力テストが行われた。中 学2、3年を対象にしたもので、学習指導の改善や教育的諸条件の整備のため、とされた。

これ に対し、日教組は「教育の国家統制の強化を企図するもの」として阻止行動を指示。結局、大半 は混乱なく学力テストが行われ、実施率は全国平均で91%だった。しかし、岩手県は81%の 学校で学力テストが実施されず、平常授業が行われた。

その直後、小川、千葉樹壽、佐藤、千葉直、柏氏ら岩教組執行部9人が地方公務員法違反容疑 (禁止されている争議行為をそそのかし、あおったという容疑)で逮捕される。

裁判は最高裁ま で持ち越され、1976年、そこで有罪の判決(執行猶予付き懲役刑)がくだされる。「学テ闘争をやったことを今も誇りに思っている。学テは世論に押されて5年で終わり、国民の判定はと うに出ている」。判決を聞いた小川の談話である。

私が朝日新聞盛岡支局に勤めていた1958年(昭和33年)から60年にかけてのころ、 報道関係者の間ではやっていた言い方の一つにこんなのがあった。

「泣く子も黙るがんきょうそ」 「がんきょうそ」とは「岩教組」のことであり、岩手県教員組合の略称である。

小、中学校の 教員を主体とする労働組合だが、その組織力、闘争力が極めて強力だったことから、こういう呼び方が生まれたものと思われる。

当時、岩教組を率いていた委員長は小川仁一。 東和町の出身で、小学校教諭を務めたあと、 組合活動に転じた。粘りっこい岩手弁で、言いにくいことも歯に衣着せずずけずけ言う。

押しも強く、ときにはそれがふてぶてしい印象を与えた。このため、敬遠される向きもあったが、率直 で、温かみのある人柄が愛され、人気があった。彼我の力を慎重に見極めて入念に戦術を練る戦略家といった感じのリーダーだった。

これに対し、書記長の千葉樹壽(たつし)氏は、堂々たる体躯の、見るからに闘士といった感じで、いうなれば猪突猛進型活動家のイメージ。音楽の先生、と聞いたことがある。

他に、教文部長の佐藤啓二氏、情宣部長の千葉直氏、執行委員の柏朔司氏らが印象に残る。また、岩教組は 当時、日教組に役員(中央執行委員)を出しており、当時は小田一夫氏だった。

ところで、私が盛岡を去った後、小川は2度にわたって全国的な出来事の主役となり、脚光を 浴びる。

「がんきょう」という言い方に岩教組の「岩教」と「頑強」と いう文字がだぶって思い起こされ、なかなか面白い言い方ではないか、と思ったものだ。

当時、組合員は約1万人。もちろん、岩手県最大の労組だった。専従者が36人もいた。日 教組(日本教職員組合)内では高知県教組の強力な組織力と並び称され、「南の高知、北の岩 手」といわれた。「日教組ご三家の一つ」ともいわれた。

なにしろ、そのころは「岩手には2つの教育行政機関がある」とまでいわれたものだ。1つは もちろん県教育庁だが、もう1つが岩教組。

とくに教員の人事異動に強い発言力をもち、「岩教 組が反対すると、人事異動を発令できない」とまでいわれていた。

私も取材を通じて、その闘争力に接することがあった。支局に赴任した直後、岩教組が勤務評 定問題での交渉を求め組合員が徹夜で県教育庁庁舎に座り込んだことがあった。

排除のために警 官隊が出動し、激しいもみ合いとなり、けが人が出た。サツまわり(警察まわり)だった私も動員されたが、岩教組の動員力、統率力に目を見張ったものだ。 (中略)

岩教組の強さを支えていたものの1つは、その経済力だった。当時、県内各地に15の教育会 館をもっていた。また、互助部には当時の金で1億円を蓄えていた。山林12ヘクタールをもつ 山林地主でもあった。こうした財政力があったから、各種闘争に資金を投入することができたの だ。

それに、岩手の僻地性も作用していたろう。僻地校が多く、教育環境も教員の労働条件も極めて劣悪だった。だから、教員たちは、それらを解決するためには、自分たちの組織に結集して団結力を示す以外に道はなかった。

2回目の脚光を浴びた舞台は、1987年3月に行われた、売上税が争点となった参議院岩手選挙区補欠選挙だ。小川は社会党公認で出馬し、自民党公認候補と一騎打ちとなったが、「売上 税反対」一本にしぼった小川が42万票対19万票で圧勝。小川が語った「中曽根さんのおかげです」は流行語になった。中曽根内閣は売上税法案を廃案にせざるを得なかった。

当選直後、参院議員会館の小川の部屋を訪ねた。「おお、岩垂君、元気かね」と笑顔で迎えてくれた。やはり岩手弁であった。
89年の参院選で再選される。2002年に没。84歳だった。

岩教組本部の事務所は盛岡市街の中心、盛岡城址きわに建つ教育会館内にあったが、同市内に は高校の教員でつくる岩手県高等学校教職員組合(県高教組)の事務所もあった。

そこでは、よく情宣部長の澤藤禮次郎に会って話を聞いた。長身で端正な感じの論客だった。彼はやがて委員 長になり、その後、出身地の北上市を地盤に旧岩手2区から社会党公認で衆議院選に打って出 て、当選した。その彼もすでに故人だ。>

岩垂氏は東京本社社会部記者となり、北朝鮮ルポを掲載、北朝鮮礼賛記事としてよくも悪くも注目された。私は岩手県庁記者クラブで顔見知りではあったが話をした事は無かった。その理由は別の機会に譲る。

なお「全国学テ、来年から中止」は私の短い文部省担当記者時代の特ダネだった。それが文部事務次官の逆鱗に触れ翌日から会見拒否されたが、特ダネは嘘ではなかった。ネタ元は文部省ではなく自民党だった。

かくて日教組は今やその日程すら忘却するまで学テに無感動である。時代が変わったのではなく日教組の思想が変化した、或いは無思想の団体にならざるを得なかったのである。

1950年に「朝鮮動乱」がスターリンと毛沢に唆された金日成の「北朝鮮軍」が日曜日の朝、無防備の韓国に攻め入り、一時的に制圧する場面もあった。

何年かして、当時の将校だった閣僚が「恐ろしいのは思想です。思想がまがれば人間は同胞を殺せるのです」と述懐した。思想が変われば先生は先生に戻るし,変わらなければ同胞を殺せる革命児に豹変する。2009・04・22

2009年04月22日

◆3S政策で芯を抜かれた

渡部亮次郎

3S政策(さんえすせいさく)とは、大衆の関心を政治に向けさせないように取る愚民政策のひとつ。1945年の大東亜戦争敗戦後、日本を占領に来たアメリカのマッカーサー元帥は戦勝国たる連合軍の最高司令官として君臨。

占領軍の際たる目的は日本の魂を抜き、2度と再び世界に覇を唱えさせない国とすることだった。その真髄が3S政策といわれた。文書として残っては居ない。

3S政策の3Sとは、以下の言葉の頭文字を取ったとされる。

Screen(スクリーン)
Sport(スポーツ)
Sex(セックス)

玉音放送(敗戦の詔書)の起草者でもある安岡正篤は、大東亜戦争終結後、連合国総司令官GHQが日本の占領政策を実行するにあたり、基本原則としての「3R」(Revenge―復讐、Reform―改組、Revive―復活)、重点的施策としての「5D」(Disarmament―武装解除、Demilitalization―軍国主義排除、Disindustrialization―工業生産力破壊、Decentralization―中心勢力解体、Democratization―民主化)、そして補助政策としての「3S」を策定したことをガーディナー・GHQ参事官から直接話を聞いているという。

安岡が存在したと主張する、この政策により、日本では性風俗が開放され、映画やエンターテインメントが興隆し、プロ野球をはじめとするスポーツが国民行事となった。

スクリーン(映画)、スポーツ、セックス(性産業)またはスピード(クルマ)は大衆の欲望動員による娯楽であるが、それらに目を向けさせることにより、民衆が感じている社会生活上の様々な不安や、政治への関心を逸らさせて大衆を自由に思うがままに操作し得るとされる。

簡単に言えば「ガス抜き」政策である。あまりにも厳しい占領政策をすると、暴動が起こる恐れがあるので、人々の目を逸らさせるために密かに展開された政策である。

安岡は「日本を全く骨抜きにするこの3R・5D・3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。

日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります」と警告している。

これらの政策と「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」により、日本のマスコミや教育現場が当時のGHQによる検閲を経て、現在に至るまで「自己検閲」を続けることによって日本の弱体化を図ったものとされている。

同様の主張をしているのが自民党で、『党の使命』で“占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が誤っており、主としてわが国の弱体化に置かれていたため”愛国心と国家観念が不当に抑圧された、と断じている。

マッカーサーによる日本歴史、地理、修身の教科禁止は当に大和(やまと)民族の滅亡を図る真髄だった。それなのに、日教組はマッカーサーの狙いの真実を探ろうともせず、さながらそのお先棒を担ぐようにして教育の衰退を招いた。

その担ぎ手を代表して参議院を牛耳っているのが参議院民主党議員会長である。参議院ならぬ衆議院議員選挙で、間違って民主党に政権が渡ったら文教行政は連合軍占領時代に逆戻りし、暗黒時代が再現する。

日教組は占領軍に協力する代償として教員の労働組合結成を許されたものである。それまでの「聖職」との尊敬を投げ捨て賃上げと労働条件改善を叫ぶ一介の労働者にみずからなり下がった珍しい存在である。

私は長じて社団法人日米文化振興会理事長を引き受けある年、アメリカの教育事情を調査する機会を得て渡米したが、なるほどアメリカの公教育は「労働者」によって背負われているし、賃金も年収300万円ぐらい、社会的尊敬は全く払われていない。あれじゃストを決行するしかないと納得した。

しかし、日教組は後になってそれらに気付いたが、組織の体質は既に硬直化し、後戻りは不可能だった。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・04・20

2009年04月20日

◆性の売買盛んな某国

渡部 亮次郎

ワシントンでもニューヨークでも1980年前後までは売春が盛んだった。

アメリカでは、その後も連邦レベルでの売春全面禁止はされず、州の裁量に任されているが、ネバダ州以外では禁じられている。ネバダ州でも一部の許可地域以外では禁じられている。

韓国では、2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)と国内総生産の約4%を売春業で占め、20歳以上の韓国女性の25人に1人が娼婦であるという調査結果を韓国の刑事政策研究院は公表した。 また、外国人女性を騙して入国させ、監禁の上で売春を強要する事件まで行った。

このような状況から韓国政府は2004年に売春行為を厳しく取り締る「性売買防止法」を施行したが、この法の施行にあたり、約3000人の売春婦が集まり「売春をさせろ」「生存権を保証しろ」とのデモがおこなわれ、その後も規制により生活が苦しくなった売春婦たちのデモが各地で発生
するに至っている。

韓国内の規制が厳しくなったことで、日本や米国をはじめとした海外へ「遠征売春」をしに出かける韓国女性が増加しはじめ、米国ではロサンゼルス警察局の関係者によると、毎月逮捕される売春女性のうち、9割が韓国人であることが伝えられ、韓国の売春事情は海外にも影響を及ぼし
ている。

また、近年増加してるのが、韓国男性のアジアでの買春ツアーである。「児童買春」を目的に東南アジアなどを訪れる韓国人男性や、中国へのゴルフツアーの際に買春行為している姿など、数多くの報道がなされるようになった。

モンゴルを訪れる韓国男性の70%以上が買春ツアーを目的としている。韓国人が経営する売春目的のカラオケバーが確認されているだけで50軒以上にのぼり深刻な問題となっている。

モンゴル政府は韓国人による買春ツアーを取り締まるために売春取締法を強化しているが韓国人の経営する売春目的のカラオケバーの活動を弱めることができていない。また、取締りを逃れるために乗馬クラブやマッサージ店での買春が増加している。

空港を降りるとそのまま買春乗馬クラブに直行する姿などが垣間見られる。韓国人の無法行為によってモンゴル人に強い嫌韓感情を引き起こしている。

キリバス(中部太平洋の共和国)でも韓国人による幼女買春が問題となっている。キリバス人は性が乱れた人たちをコレコレアと呼んでいる。

韓国人は、現地の女性を自分たちの船の甲板や、薄暗い防波堤の後ろに連れて行き買春を行うので、防波堤の物陰のこともコレコレア呼ぶ。

キリバスでは韓国人の買春行為に対して、議会では対策会議が開かれており、市民団体や教会が行き過ぎた性売買を減らすための方法を探っている。

韓国人男性の子どもを妊娠した幼い少女たちやその父親不明の混血児たちもキリバスの社会問題となっている。出典:「ウィキペディア」
2009・04・17

2009年04月19日

◆情報の入手方法さえ

渡部亮次郎

「情報っていうのは、すべて知る必要はなくて、どこでこの情報が手に入るかということを知っていれば、知っている必要はないんだ」。リチャード・ソウル・ワーマン(アメリカの情報デザインの巨匠)

それはそうだろう。すべての事を記憶しようとしたら、受験生の頭になってしまって、世間の常識の入り込む余地がなくなってしまう。
女性の口説き方なんか知らないまま、ウジのたかる中年鰥夫になってしまう。或いは幼女の連続殺人事件を起こして死刑になったりする。

だから、大抵の人間はワーマンなんかに言われなくとも、情報の処理の仕方は追々知って行くものと決っている。しかし最近の朝日新聞を読むと、頭がおかしくなるそうだ。だから読まないが、知人によると「情報」がちっともなくて、押し付けがましい論文ばかりだそうである。

政治記事など「無」に等しいとか。自らの20年ばかりの記者体験からすると、政治記事とは記者たちが持ち寄る断片情報(ベタ=1段記事)をキャップが幾つも寄せ合わせて大きな記事に仕立てる。
だからベタ記事こそは大見出しの基礎なのである。

ベタ記事1本には一見、何も見えない。だが幾つものベタ記事を集め、重ねてみると派閥再編成への共通項が見えてきたりする。だからベタ記事が少なくなって行くという事は朝日新聞政治部の取材力の落ちた事を宣伝しているようなもの。先輩の築いた偉大な業績を無駄遣いしている。

「粗末な情報収集力しかありませんから購買しないで下さい」。広告が集まらなくなったのは不景気の所為ばかりではありません。

特ダネは遊んでいる記者だけが拾ってくる。遊んでいる記者相手では相手も気を許して口が緩むからである。それを経費節減で、車代を締め上げたり、取材雑費を喧しくすると記者たちは派手な動きだけして相手を警戒だけさせて情報を遠ざける結果になる。

死んだ宮澤喜一は悪い酒癖で有名だったが、酔いながら情報を提供すると言うサービス精神も結構あって。ポロリともらした。酔いが進んだ時によせばいいのにクソ真面目な記者が「さっきの話の確認ですが」というと「そんな話を私がいつしましたか」と言って否定するのが常だった。確認しなけりゃ特ダネだったのに。そんな類の記者が増えたそうだ。

日教組教育のどん詰まり。最近起きたNHKの偏った番組作りの原因もその類だろう。会長の椅子を揺らす大問題に発展する事必定だがNHKも他のマスコミも気付いていない。慌てるぞ。

さらにその結果面白い記事が減ってゆくから販売部数が落ちて行くという蟻地獄に落ちて行くことになる。優秀でなかった政治記者が社長なった新聞社が落ちて行く構造はここにある。政界を読めなかった記者は社員心理の読めるわけが無い。

ワーマンが言っているのは、すべての情報を独りで握る事は無理だが、誰を取材すればどういう種類の情報を掴む事が出来るかを知っておくことが肝腎だといっているわけだろう。いわゆる情報の「引き出し」を幾つもっているかが重要だと言う事だろう。

しかし情報の引き出しの豊富さは、人脈の豊富さを裏付ける以外の何物でもない。

政界の取材を何年かしたり、政権に大臣秘書官として入ってみたこもがあるから、政界に通じているだろうと私を誤解する向きがあるが、既に政界に関係しなくなってからの方が長い。

だから政界情報はインターネトで大先輩の古澤 襄(のぼる)さん(元共同通信社常務理事)や拓殖大学大学院教授の花岡信昭さん(元産経新聞政治部長)に「判断」を依存している。

この人たちには「昔執った杵柄」と長い経歴で築いた人脈からのナマの情報が入っていて私の立ち入るところではない。他に現役記者のブログを覘けばナマの動きを知ることも出来る。毎日新聞編集部顧問岩見隆夫さんも独特の視点で公平な見方があり、それをを学ぶ事が出来て助かる。

福島香織さんとか阿比留 瑠比(あびるるい)さん(共に産経新聞政治部記者)ブログを覘くと政府・与党はもちろん民主党の動きもかなり明確に理解できる。特に福島さんは中国特派員から代ったばかりで、政界初体験への戸惑いぶりから逆に政界の不思議さを感じ取る事が出来る。

また現役の阿比留さんは社会部や文化部の経験もあり、政治のプロらしくない視点で政治家を見ているので、政界の「透視」にその新鮮な神経が役立つ。

特筆しなくてはならないのが、宮崎正弘さん。三島由紀夫研究の第一人者だがアメリカ留学で英語、独学で中国語をマスター。その配信する「国際ニュース早読み」は抜群というより、宮崎さんに敵う国際情報通は無い。

アメリカに土地勘を持っているほか中国については全土を踏破している。そんな人は日本には宮崎さん以外に居ないから中国情報の分析は随一となる。加えて李登輝元総統を初めとする台湾人脈が台湾情報の確かさを裏付けている。その情報量と分析の確かさは記者上がりの俄か評論家の及ぶところではない。

元々は親友の国際問題評論家加瀬英明氏を通じてアメリカで知りあった。その加瀬さんにはその博識に基づく内外に対する洞察力に溢れた評論で助けられている。

山堂、馬場、平井、前田、毛馬各氏の評論は私の及ばない視点に目が及んで精彩を深くしてくれている。中でも馬場さんのは人生をほっとさせてくれる親子、兄弟姉妹の愛情と言うものの大切さに目をひらかされる。

変な結論になったが、わがメールマガジン「頂門の一針」は豊富な「情報の引き出し」である。先輩、同僚諸氏に感謝するのみ。
09・04・13

2009年04月16日

◆小沢一郎のルーツ


渡部 亮次郎

NHK記者として1960年以来4年間を岩手県盛岡市(県庁所在地)に在勤。主に政治を担当。何のことは無い衆参院議員、知事選挙の票読みに明け暮れた。

この間、東京から選挙区入りする政治家とは殆ど顔見知りになったが、小沢佐重喜(おざわ さえき)にだけは会う機会がなかった。彼のライバアルだった椎名悦三郎や志賀健次郎とは昵懇にねがったぐらいだが。

私が政治記者活動の舞台を東京に移したのは東京オリムピックのあった1964年。河野派や参議院担当と慌しく送っている間に「日米安保改定実現に大きな役割を果たした」佐重喜は昭和43(1968)年5月8日、心不全のため東京慈恵会医大病院で死去してしまった。享年70。

当時、東京都内の高校から慶応大学を経て日本大学大学院で司法試験に備えていた長男一郎が後継者となり、はや当選13回、民主党代表にあること、ご承知のとおり。

だから岩手県や小澤周辺の事は他人(ひと)よりは多少詳しいはずだったのに、先ごろの秋田県知事選挙で小沢勢力が敗北した事に関する評論で小澤(南部藩)というミスを犯してしまった。小澤の選挙区は旧伊達(だて)藩である。

ところで戸籍上、一郎には異母姉妹が2人居ることを知っている人は今では少ないだろう。佐重喜が妻・みち(旧姓荒木)に生ませた子供は長男一郎だけ。

佐重喜の経歴のどこにも離婚の記録はないから娘・スミ子、則子(いずれも養女として入籍)は 佐重喜が外で作った子である(松田賢弥著『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』194-195頁)。

後に述べる如く小澤佐重喜は苦学力行の人だったが、「妾(めかけ)囲うは男の甲斐性」と言われた戦前。「我も一つ」と頑張ったのだろうが、私の知る限りでは、これが選挙に影響したことは無かった。

小澤佐重喜は吉田茂が政界にある間は吉田側近でありつづけたが、吉田引退後は日本商工会議所会頭から政界入りして総理総裁を目指した藤山愛一郎の派閥にいた。

明治31(1898)年11月25日、岩手県胆沢郡水沢町(のちに水沢市を経て、現:奥州市)の貧しい小作農家(父・徳太郎母・トメ )に生まれる。

水沢は明治4年の廃藩置県前は、伊達(だて)藩(現在は宮城県)に所属した。

佐重喜は経済的に恵まれなかったため小学校5年で退学。隣県の仙台市へ行き鍛冶屋、大工の弟子入りした経験を持つ。後年、その押しの強さから、「闘牛」の異名をとったのはこの時代の苦労が肥やしになったのだろう。

その後、大正12(1923)年、日本大学法学部夜間部を卒業し、同年中に弁護士試験に合格。翌大正13(1924)年3月、東京市下谷区御徒町に弁護士事務所を開業

昭和4年(1929)年3月、東京市会議員に当選
昭和11(1936)年5月、東京府会議員に当選
昭和17(1942)年4月13日、長男一郎誕生。自宅も台東区御徒町だった。

だが佐重喜は一郎を戦局の悪化に伴う「疎開」のようにして妻と共に郷里水沢に帰し、一郎は3歳から14歳まで水沢で育った。一郎の口下手は岩手訛の劣等感から来ているようだ。

さて佐重喜である。戦後の昭和21(1946)年、戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙に旧岩手2区から立候補し当選する。以後、当選通算10回。

自由党に所属し、吉田茂に重用される。第2次吉田茂内閣の運輸大臣として初入閣。この時、首相である吉田が昭和天皇に閣僚名簿を奏上した際誤って名前を「さじゅうき」と読み上げたところ、昭和天皇から誤りを指摘されたという一幕が伝わっている。

第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵年政大臣兼初代電気通信大臣、第5次吉田茂内閣の建設大臣を歴任する。

昭和30(1955)年、保守合同・自由民主党に参加。議運委員長の経験から社会党との調整力に長けたことから、岸信介から日米安全保障条約に関する特別委員長に指名され、川島正次郎幹事長らと共に安保改定を実現した。

昭和35(1960)年、第2次池田内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官に就任したのが最期。長年、小選挙区制の導入を唱え、その遺志は息子の小沢一郎に引き継がれた形で一郎が実現した。

衆議院議院運営委員長をしたのは昭和25(1950)年7月から26(1951)年12月までだったが、参議院で衆議院法案が4回否決(内3回は参議院修正案)された際、参議院の議決を否定し衆議院案の再可決という形で法案を成立させる道筋を作った。

56年後の平成19(2007)年に、息子の小沢一郎が第一野党党首として参院選で参議院野党過半数を獲得し、衆議院で法案再可決権である3分の2以上の議席を持つ与党に対峙することとなった。

後年、2007年以降で、民主党は参議院が直近の民意であることから与党による衆議院の再議決を牽制しているが、小沢一郎民主党代表の父である佐重喜が衆院議運委員長時代に行った衆議院の再可決4回は参院選が直近の選挙であった(衆院選1949年1月・参院選1950年6月)。

昭和43年(1968年)5月8日、心不全のため東京慈恵会医大病院で死去  叙正三位・叙勲一等・授旭日大綬章。心臓病は小澤家の遺伝?(文中敬称略)出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・04・15

2009年04月15日

◆秋田で民主党が勝てるのは1区だけ

渡部亮次郎

郷里秋田で知事に昔の殿様の血筋に当る佐竹敬久(さたけ のりひさ)氏が当選した(4月12日)。水戸から秋田に左遷された義宣(よしのぶ)の実弟義勝(よしかつ)を始祖とする佐竹北家(仙北市角館)の当主である。

何代目か。佐竹北家は明治維新まで7代を数えたそうだから明治維新から141年経っている。プラス5代と見れば12代目か。

佐竹敬久:1947年11月15日秋田県仙北郡角館町(現:仙北市)で生まれる(61歳)。

出身校 東北大学工学部精密工学科を卒業後、秋田県庁に入り佐々木元知事の側近として総務部次長に出世。佐々木知事失脚後の知事選で寺田氏に対抗し手出馬。落選。失脚した知事の側近が出馬したのだから落選は当然だった。

その後秋田市長に担がれて2期の任期中、寺田知事不出馬の今回 辞職して出馬したもの。

生家は、秋田藩主の一門・佐竹北家である。家系は代々、秋田藩角館一帯に一万石の封を得て、明治時代は男爵に叙せられた旧華族の出身であった。

父 敬二郎は昭和21年(1946年)5月に爵位を返上し、その翌年、太平洋戦争終戦の翌年11月3日に日本国憲法が制定されて間もない時期に敬久が生まれている。

秋田県立角館高等学校を経て、昭和46年(1971年)3月 東北大学工学部精密工学科卒業。 昭和47年(1972年)3月 秋田県庁に入り商工部門、地方行政部門を担当し、工業振興課長、地方課長、総務部次長を歴任したのは既に述べた。

2009年2月23日に、任期を約5ヶ月残して秋田県知事選挙(2009年4月12日投開票)に出馬。民主県連などの支持を受けた川口博(小坂町長)らを破って初当選を果たした。自民党の組織票に加えて、全県的な知名度を生かして無党派層の支持も得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


確定した秋田県知事選の市町村別得票数から計算すると、大雑把にいえば衆院1区(秋田市)で佐竹氏(自民党系)が川口氏(民主党系)に23653票差で勝ったが、佐竹氏が秋田市長の現職だった割には得票差が少なかった。

これは民主党衆院議員の寺田学氏(菅代表代行グループ 寺田前知事の息子)の影響力があったせいであろう。次期総選挙でも寺田学氏の優位は動かないといえる。

加えて元佐々木知事の側近として責任を取らなかったばかりか後継者として佐々木路線を継号とした、秋田市長としてさしたる業績を上げ得なかった事への保守層の不満があった。

だが旧南部藩だった地域から県知事を迎えることの屈辱を秋田市や県南部の有権者は想像もしていない。寺田前知事が南部藩小澤一郎の家来になり得たのは彼が藩意識の希薄な県南出身だったからである。寺田の退場で秋田での小澤色は急速に薄れてゆく。

従って民主党が秋田の3選挙区で勝てるのは1区だけで、2区、3区は自民党が勝つだろう。1区での自民党はタマが悪すぎるから寺田2世は票を減らす事はあっても落選は予想できない。

2区は今回敗戦した川口氏の地盤である。町長を務めた小坂町では90%に近い票を集めて佐竹氏を寄せ付けなかった。隣接する鹿角市でも89%に近い票を集めている。

さらには野呂田芳成氏(無)の地盤である能代市でも勝利し、2区全体では川口氏が43299票の大差で佐竹氏に勝っている。

これだけで見れば、総選挙でも民主党が圧勝する様だが、そうはならない。野呂田芳成氏は知事選では川口氏を推したが、次期総選挙では引退する。しかも野呂田後継は、自民党の金田勝年(元参院議員)に決まった。

民主党は佐々木重人氏を立てるが、前回選挙では45020票しか獲得できていない。社民党票の28131票を貰うために、無所属で立つ苦肉の作戦をとろうとしているが、それでも野呂田氏の前回票80974票には及ばない。

今のところ社民党は前回と同じように山本喜代宏を立てる方針だから、金田勝年氏の圧勝が予想されている。

区はどうか。ここは自民党が孤塁を守ってきた選挙区。佐竹氏は出身地の仙北市で80%近い票を集め、横手市、湯沢市、由利本荘市、大仙市、にかほ市でも川口氏を寄せ付けなかった。3区全体では何と76414票差で川口氏を退けた。

総選挙では自民党現職の御法川信英氏(みのもんたの縁戚)が立つが、地元の大仙市で川口票の3倍の票を集めて、佐竹当選に貢献している。民主党の京野きみこ氏(前回は82480票で次点落選)は及ばないだろう。村岡2世の動き次第。2009・04・14