2009年08月16日

◆生還後は「お釣の人生」

       
渡部亮次郎

わが師、故園田直(そのだ すなお)は「8月17日」が命日になるべきところ、2日まえに敗戦となったため生き残った。昭和20(1945)年のこと。「特攻隊」として死ぬはずだったのだ。

「31歳。残りの人生はお釣のようなもの。何が起きても怖いことはなくなっていたね」とよく述懐していた。復員後は郷里・天草で役場の助役。代議士に立候補したが落選。次の選挙から死ぬまで当選を続けた。

政治の隙間に剣道、居合道、合気道に精進した。結婚3度。衆院副議長を経て初入閣したのは既に9年生だった。これは日米安保条約は再軍備を阻害するものだと、保守党にありながら反対票を投じて
いわば長い事党の幹部に忌避されたため。

その後、官房長官、外務大臣3期、厚生大臣2回をつとめ、糖尿病に伴う腎不全で死んだ。70歳。インスリンの注射を痛がって逃げ回ったツケだった。

実は8月13日に「天雷特別攻撃隊長」として沖縄海戦に燃料片道で出動、アメリカ艦に体当たりして果てるよう指令が下っていた。
だが、当日は天候不良により、出撃中止。次は17日出撃が予定された。

「死」を覚悟すると、人間は如何なる状態になるか。「生」への飽くなき執着を絶つために不思議な行動に走った。誰かが道端に捨てた鼻紙を拾って広げ、自分の頬を押し当ててこすった。

かつて中国でスパイとして逮捕されそうになったとき、目前に落ちていた牛の糞を口に突っ込んだ。狂人のふりをして難を逃れたことがある。あれは生き延びるための芝居だったが、こんどは生への執着を絶ち切るための行動。芝居ではない。

だが、如何に努力をしても生存している限り、生への執着は絶てるものではない。体中に爆雷を巻き、盲滅法、最後は目を確り開けて
敵艦に体当たりする以外にないだろう。

そう決意して爆撃機に隊員たちと搭乗したのに、出撃直前に悪天中止。気落ちして腰が抜けたようになって17日を待った。

だが運命は狂った。2日前の15日に「敗戦」万事休す。今度は本当に腰が抜けた。一旦決意した以上、自分は生きていても心は既に死んでいた。だから死から強制的に生還させられたようなものだった。

「死ぬはずが生きているというのは変なものだよ」とよく言っていた。

園田は昭和13(1938)年9月10日、血書志願して歩兵第13連隊に入隊。26歳で中尉に昇進したが日本陸軍初の落下傘部隊員となる。
危険だからと長男は除外されるべきところを、特に願い出て許可された。

さらに進んでパイロットとなり、昭和20年7月20日には特攻隊員となり,第1「剣」部隊創設「天雷」特別攻撃隊の隊長に任じられていたのである。

大東亜戦争時、日本には「空軍」はなく陸軍と海軍それぞれに飛行隊が存在した。アメリカは初めから飛行機を先頭にした海軍なのに、
わが軍は軍艦の大型化で対抗しようとして最後は「特攻隊」の体当たり爆死しかなくなって敗れた。

血書志願といい、落下傘部隊といい、パイロットと言い、最後には必ず死ぬべき特攻隊への志願。すべて「生」よりも「死」を志願して結局、生き残ったわけである。

晩年、外務大臣を福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸の3内閣で勤めた。
酒を全く嗜まなかったが、外遊すると夜、外へ出たがる秘書官の私にウイスキーの水割りを作ってくれながら、時折、戦争の話や得意の武道の真髄を聞かせてくれた。

その内容はおそらく子どもたちにも語った事はなかったはずだ。

戦場では当然、弾丸は怖い。「だが、変なものだ。タマは逃げれば当る。こっちからタマに向かっていけば当らない」。「危険は回避しようとすれば襲いかかってくる。積極的に挑戦して行けば危険のほうが逃げて行くよ」

園田の命日は4月2日である。エイプリル・フールの翌日。園田に実に相応しいと独り心地ている。2009・8・15

2009年08月11日

◆園田が教えた1本足打法



              渡部亮次郎

私がその晩年に外務大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)は剣道7段、居合道8段、合気道8段など「武道」の猛者としても知られた。

福田赳夫内閣の官房長官当時、王 貞治選手の本塁打数868本を祝って日本国民栄誉賞を授与した時、私に「ワンちゃんに1本足打法を教授したのはワシたい」と胸を張った。

王に1本足打法を薦めたのは荒川博ということになっているから、それを「完成」させる過程で、居合や剣道の達人として手伝ったと言う事のようである。

<剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた。>(堂本昭彦 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年)

当時、羽賀道場では既に園田が師範代だったから「球の芯を斬る」真髄を教えた、とよく言っていた。剣道家羽賀準一のもとに連れてきた荒川の見識を高く評価すべきだろう。

<特に天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあった。>(「ウィキペディア」)

王 貞治(おう さだはる、1940年5月20日―)は、日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。

日本国民栄誉賞の初受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、宮崎市名誉市民。69歳。

荒川との出逢いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王の出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。

観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と言った。

荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それで王はすぐに左打ちを実践したところ2塁打を打ち、以後左で打つようになった。

荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。

また、この出逢いの時王は身長176cmで当時の若者としては長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えた。

荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えた為、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。

小学生の頃、当時の横綱:吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。

1962年、荒川博が巨人の打撃コーチに就任。荒川就任は読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの。川上は榎本喜八を育てた荒川の手腕に王の指導を託した。

荒川に最も強く期待したのは王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。

秋季キャンプで久々に王を見た荒川は、「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。

王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川はこの時「これだけ悪い打ち方(打ちにいく際、手足の動きがバラバラな点だと説明)でも、2割7分打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。

荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまりボールを迎えに行ってしまうためグリップが安定しないことが欠点と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。

その1つが1本足打法だった。但し、キャンプの時はいくつか試した打法の1つに過ぎず、ほんの2、3日練習しただけだった。

このシーズン、開幕から3ヶ月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れない。

2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いた荒川が、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から1本足で打つことを王に命じた。

なお、王本人によれば「1本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっその事右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている。

1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でこの打法を試行、第1打席は2塁ゴロで凡退したものの、第2打席で稲川誠からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残した。

後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら1本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。

王自身もこの日結果が出たことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。

この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。

また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けたことは前述の通り。

このような王の練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」。

「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。

この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。以後、王は引退まで1本足打法を貫くこととなった。1977年の梶原一騎との対談では「2本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「1本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。

翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。出典:「ウィキペディア」(文中敬称略) 2009・08・10

2009年08月08日

◆中華料理の渡来



     
                 渡部亮次郎

中国人が獣肉を食べていることは江戸時代から知られており「遣唐使少しは牛も喰ひならい 日本の牛は畳のうへで死に」といった川柳も作られていた。

長崎の卓袱(しっぽく)料理は江戸や上方でも流行したが、これらの紹介の書には、中国人は鹿豕(ブタ)を食べることに言及しつつ、取捨選択が可能であることを断る記述が見られる。

明治になって開国すると、長崎に加えて横浜や神戸に中華街(南京町)が形成されたが、「支那うどん」「支那(南京)そば」と呼ばれたちゃんぽんやラーメンを除けば日本人の間に中国料理は広まらず、1906(明治39)年時点で東京にあった中国料理店はわずか2軒であった。

いずれも貿易商や高級役人が利用する高級料理店であった。尤も1906(明治39)年には東京の成女学校が毎週中国料理店から料理人を招いて中国語での料理講習会を行っている。

明治期に刊行された西洋料理書が約130冊であるのに対し、中国料理書はわずか7冊であったが、明治末年には肉料理も紹介されるようになった。

大正時代になって日本の大陸進出が進むと、中国からも民間人がやってきて一般向けの中華料理店が開かれることになった。中国料理は豚肉の普及と共に家庭料理にも取り入れられた。

1920(大正9)年頃からは新聞でも中国料理の紹介記事が増えた。1925(大正14)年から始まったラジオ料理でも青椒肉絲などが時々紹介された。    出典:『ウィキペディア』2009・06・19

私は60歳までは刺身を食べられなかったので、それまでは料理といえば中華料理一辺倒だった。東京ではホテル・ニュー・オータニの大観苑が贔屓だったが、ここ20年ぐらいは赤坂・弁慶橋脇の
「維新號」一辺倒。

きょう(8月8日)は園田直外務大臣と共に「日中平和友好条約」
締結交渉のため特別機で羽田を発った記念の日である(1978年)。
緊張していた所為で、釣魚台の迎賓館で何を食べたか、記憶が、全く無い。

田中角栄首相に同行して初訪中した時(1972年9月)には北京の人民大会堂で時の周恩来総理に「海鼠の醤油煮」を生まれて初めてご馳走になった。

我々に先立って訪中したアメリカのニクソン大統領が遠慮したメニューだった。2009・08・08

2009年08月07日

◆スッポンは低カロリー



                  渡部 亮次郎

私は記者当時、「すっぽんのナベ」といわれた。取材相手を捕らえて離さないという意味だといわれたが、東北地方にスッポンはおらず、実感が湧かなかった。

記者を辞めた後、赤坂のスッポン屋を知り、友人を連れて連日通った。合間に料理(解体「四つほどき」)の仕方を見学したりした。但し、噛み付いて離さぬ現場を見ることはできなかった。

スッポンは韓国、中国、台湾、北朝鮮、日本、ロシア南東部、東南アジアにいる。

日本では本州以南に生息する。養殖場から逃亡した個体が群れた個体群然個体群の両方が生息するため、正確な自然分布については不明な点が多い。

日本国内に生息している群は、本州、四国、九州のものは主として在来個体に起源すると考えられているが、南西諸島の群は過去に中国など海外から人為的に持ちこまれたものが起源と考えられている。

食用するものは主に養殖され、養鼈(ようべつ)という。静岡県浜松市は嘗て鰻の養殖で有名だが、スッポンの養殖も盛んで、名物の一つである。

宗教上の理由などから4つ足動物の肉を食べなかった江戸時代までは、4つ足にして水中に生息するスッポンこそは有力な動物蛋白源として珍重されたと見られる。現代でも養殖と解体に手間が掛かる所為で超高級料理である。俗にいわれる強請作用は無い。

下顎の唇の内側にくちばし状の鋭い角質版が見える最大甲長は35cm。他の亀と異なり甲羅は軟らかい。幼体は腹甲が赤みがかり黒い斑紋がある。成体の腹甲は白やクリーム色。

噛みつく力は強いが性格は臆病。すぐ食いつこうとするのは防御のため。「雷が鳴っても離さない」という喩えがあるのは、聴覚が弱くて雷鳴を聞いても驚くということはないことによる。

噛み付いた個体を無理に引き離そうとすると余計怯えてさらに激しく食いつこうとして首を甲の内側に引っ込めるのでよりひどく傷つく羽目になる。

このことから、古くは物事をしつこく探求する者を「スッポンの何某」と呼ぶこともあった。噛み付かれても大抵の場合は水に戻せばそのまま泳いで逃げる。

生息環境はクサガメやイシガメと似通っているが、水中生活により適応しており、長時間水底で自らの体色に似た泥や砂に伏せている。これは喉の部分の毛細血管が極度に発達していてある程度水中の溶存酸素を取り入れることができることによる。

大きく発達した水かき、殺傷力の高い顎、荒い性格ともあわせ、甲羅による防御に頼らない繁栄戦略をとった彼らの特色といえる。

このため、上陸して歩行することは滅多に無いが、皮膚病に弱いため、あまり頻繁ではないものの護岸などで甲羅干しをしている姿も時折見かける。また水中だけでなく、陸上でも非常に素早い動きを見せる。

食性は動物食の強い雑食で魚類、両生類、甲殻類、貝類、稀に水草等を食べる。繁殖形態は卵生で、1回に10-50個の卵を産む。

日本国内ではスッポン鍋にして食用とされるのはスッポンの養殖個体である。一般に栄養価が高いとされているが、カロリーは低い。肉には水分が多い。蛋白質、脂質が少なくビタミンA、ビタミンB1は多い。

生血の日本酒割美味しい出汁が出るため、スッポンを使った鍋料理(まる鍋)や雑炊、吸い物は日本料理の中では高級料理とされる。甲羅、爪、膀胱、胆のう以外はすべて食べられることが特徴である。そのため「まる」ともよばれる。

解体することを「四つほどき」などとも言う。専門店や料亭では食前酒として、スッポンの血をワイン等で割ったものを供することもある。病気感染を恐れる私は生き血は敬遠。

甲羅を乾燥させたものを土鼈甲(どべっこう)といい粉末にして精力剤とされるほか、市販の栄養ドリンクや健康食品の原材料に用いられることも多い。

かつて日本ではキツネやタヌキといった動物と同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた。

月とすっぽん。ある点(丸い)では似たところがあるけど、実質的には差が非常に激しいときのたとえに使われる。

月もすっぽんも形が丸いことは似ているけど、いっぽうはおよそ醜さのようなすっぽん。もう一方は、美しさの象徴のようなお月様。そこから大きく隔たりのあるもののたとえとなった。 2009・08・03

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年08月06日

◆石油の恨み数々ござる



                 渡部亮次郎

オイルショックは、1970年代に2度あった、とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』はいうが、大東亜戦争も石油が原因で敗戦となったのだから、あれが初の石油ショックといえないことはない。

私の子供のころ、郷里の秋田や新潟では石油が産出されていた。だが極わずか。大東亜戦争の頃、中東の石油はまだ発見されておらず、アメリカとの戦争を決意した日本は当のアメリカからの輸入石油を1年分備蓄した。

開戦後は産油国インドネシアの石油に頼ろうとした。そのために陸軍落下傘部隊第1期生となった園田直はパレンバン石油基地に降下しようとしたが上手く行かなかった。戦争末期には「石油の1滴は血の1滴」と泣かされた。

やがて敗戦。時をおいて経済の高度成長期に達する。その間、産業界では使用エネルギーが石炭から石油に代わった。そのために歴史に残る三池炭坑争議などを招来したがエネルギー(石油)を何処から確保しているのか、一般国民は関心を持たなかった。

通産大臣を経て総理大臣になった田中角栄ですら「角福戦争」圧勝のネタ本「日本列島改造論」の中で「石油」をどうやってどこから確保するかの記述を忘れたぐらいだった。

1973年10月6日に第4次中東戦争(イスラエル対アラブ産油国)が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格の21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。

さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。

当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、中立の立場であった。しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟関係にあった日本としてはイスラエル支援国家と見做される可能性が高かった。

そこで田中首相は急遽、三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。

石油ショックは前の佐藤内閣当時のニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、オイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速されることとなった。

国内の消費者物価指数で1974年は23%上昇し、福田赳夫が「狂乱物価」という造語で表現した。インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。

結果1974年はマイナス1・2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。田中「今太閤」内閣の足を強烈に引っ張った。

当時、私はNHK政治部を追われて大阪にいたが、トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動)が大阪から始まった。デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。

この時も私は上司と対立した。事態を克明に報道することはパニックを煽ることになり混乱を助長すると抵抗したのだ。事実、物資は豊富にあり買い占める必要のなかったことがすぐ判明したのだった。

雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)のほか、テレビの深夜放送の休止。そのほか、ネオンサインの早期消灯やガソリンスタンドの日曜休業などの処置が取られた。

他に、本州四国連絡橋3ルートの着工延期の指示が下った。起工式5日前の事であった。その後、計画された3ルートのうち、1ルート(瀬戸大橋)のみ、着工が1975年に決定した。日本列島改造論の「つまずき」の始まりだった。

フランスのジスカール・デスタン大統領の発案により、1975年に第1次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第1回先進6カ国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエ城で開催された時、田中内閣既に倒れ。日本から初参加した首相は三木武夫だった。

続く福田赳夫政権が第2次オイルショックを被った。1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。前以てイラン1を訪問して居りながらイラん革命を予測できなかったわけで、「経済の福田」はこれにより不景気を克服できないまま退陣した。

また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14・55%値上げする」ことを決定し、第1次オイルショック並に原油価格が高騰した。

しかし、第1次での学習効果により、日本経済に対する影響は第1次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第1次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。2009・08・05
出典:「ウィキペディア」

2009年08月05日

◆日本列島改造論の頃



                  渡部亮次郎

田中角栄が日本列島改造論を発表した時、主張に肝腎の裏付け「エネルギー(石油)論が欠落していてやがて破綻する」と批判した国会議員はわが園田直(すなお)ただ1人だった。

予言はぴたり的中。田中政権誕生の1年後、第1次オイルショック
が発生。日本は官民挙げて、はじめて「石油とは何であるか」に目覚めることになる。

つまり1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格の21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。

さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定したのである。

日本国中に開発の波を及ぼし、経済成長を促すと言う日本列島改造論は、そのための石油に思いを致していなかったため、石油ショックにより、ほぼ頓挫する事になった。

「日本列島改造論」はポスト佐藤政権を争った角栄と福田赳夫による「角福戦争」最中の1972年6月、日刊工業新聞社から刊行され、当時発行部数91万部、年間4位(出版科学研究所調べ)のベストセラーとなった。

これに勢いを得た角栄は佐藤栄作の腹心福田を圧倒し7月の自由民主党総裁選挙で当選し、首相となった。

著書は角栄のかねての主張を秘書やブレインが、それらしく纏めた作文。それが証拠に、開発推進に必要な石油(エネルギー)確保策に1行も触れていない。

要は日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決するというものだった。

イタリアやアメリカ合衆国の例が挙げられ、国土のうち、北部を工業地帯に、南部を農業地帯にすべきである(日本の現状は逆である)という持論が展開されている。

これは、田中の出身地と地盤が長岡にあり、長岡が日本の北部に当たるという考え方に起因すると見られる。豪雪地帯の貧困の解消は、田中の悲願であった。

1972年7月に田中内閣が発足すると、田中は首相の私的諮問機関として「日本列島改造問題懇談会」を設置し、8月7日の第一回を皮切りに会合を重ねた。

しかし、『日本列島改造論』で開発の候補地とされた地域では土地の買い占めが行われ、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレが発生し、1973年春頃には物価高が社会問題化した。

その矢先の1973年10月に勃発した第4次中東戦争をきっかけに起きたオイルショックは、物価と経済の混乱に決定的な打撃を与え、「狂乱物価」と呼ばれる様相を呈した。この影響で、本州四国連絡橋の着工は11月20日に延期が決定した。

11月23日に愛知揆一大蔵大臣が急死し、田中は内閣改造に際して後任に政敵で均衡財政論者でもある福田赳夫を起用。福田は総需要抑制策による経済安定化を図ることになり、「列島改造論」の施策は大きく後退することとなった。

1974年12月に、田中は、「金脈問題」で首相の座を追われた。オイルショックによる経済の混乱などもあり、交通網の整備は順調に進まなくなった。結果として、多額の借金を国や地方自治体は抱えることとなり、様々な批判が出るようになった。

日本にとって、首都の過密と地方の過疎は、当時よりも一層深刻な問題になっており、少なくとも田中が「日本列島改造論」を著したのはこうした状況への問題提起としての意味を持っていた。

交通網の整備で様々な課題が解決するという発想は、余りに楽観的で「土建業一辺倒だ」と批判された。

地方から過密地(特に首都の東京)へ向かう交通網の整備は、東京一極集中を促進して、過疎化を逆に促進した(ストロー効果)。

地方での道路の整備は地方都市の郊外化を招き、中心市街地を衰退させる結果となった。

現在建設されている、新幹線や高速道路などは、首都の東京へ向かう路線が多く、地方間を結ぶ路線の建設が遅れているという側面もある。

こういった場合、東京へ人口が流入するという現象が現れるのは仕方がなく、地方間の路線を建設することにより、「均衡ある発展」が実現するという論説もある。

田中は、本書の結びに、『情報通信の全国的ネットワーク』の時代の到来を予言しているがパソコン通信サービスが一般化されるのは、10年後、80年代のことであった。その頃、既に退陣して久しい角栄は脳を病み、93年12月16日に死んだ。(文中敬称略)2009・08・03出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2009年07月30日

◆団塊が知らない2・1ゼネスト



          渡部亮次郎

1947(昭和22)年2月1日予定の「ゼネラル・ストライキ」がマッカーサーの命令で中止されるという事態になった。今では全く論ぜられない「占領史」の一端である。あれが実施されていたら、その後の自民党長期政権は無かった。

私はまだ秋田で12歳だったが、毎日お昼ごろ届く「毎日新聞」を詳しく読んで「事態」を知っていた。それまでの「東京日日新聞」が戦時中の昭和18年から「毎日新聞」に変わった。

私が生まれた年、1936(昭和11)年に42万人いた労働組合員は、大東亞戦争の勃発で労働運動が禁止、解体されていた。これに対し戦後に進駐したマッカーサーGHQは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認していた。

大東亜戦争(太平洋戦争)後の激しいインフレの中で、日本共産党と戦前の日本労働総同盟の指導で労働運動が高揚し、1946(昭和21)年には国鉄労組が50万名、全逓信労組が40万名、民間の労組は合計70万名に達した。

日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない」と労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を図った。

冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。

吉田もまた共産党との対決を意識し、内部分裂した日本社会党右派に連立を持ちかけるなど、革新勢力の切り崩しを図った。

1947年(昭和22)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。

「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」

「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。」いわゆる「労働組合不逞の輩」発言である。

非難されたと受け取った労組はいっせいに反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日に4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。

公然と叫ばれるスト実施と政情不安によって、社会不安が蔓延した。1月21日には天変地異を予言していた神道系の宗教団体璽宇教(横綱双葉山が入信し話題となった)が、GHQの指令によって摘発された。

1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警戒態勢に入った。午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」として、ゼネストの中止を指令した。

伊井委員長はGHQによって強制的に連行された。NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された伊井は、午後9時15分に叫んだ。

「敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進」と、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙ながらに発表した。テレビがまだ無かったから、この涙を私は見ていない。

伊井は占領政策に違反したとして逮捕され、懲役2年を宣告された。

2・1ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であった。意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示した。

その後も労働運動はなお盛んであったため、マッカーサーは吉田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示した。

これに基づき、1948年(昭和23)7月31日に公布された政令201号によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。

後に国家公務員法・地方公務員法で正式に公務員のストライキ禁止が明文化された。この公務員のスト禁止は、1970年代の国鉄による「遵法闘争」の要因となる。

1932年テーゼの中で占領軍を解放軍と規定していた日本共産党は、しばらくの間、この事実を受け入れられずに迷走した後、暴力革命路線へ転換することとなる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・07・22

2009年07月27日

◆サントリービール黒字まで45年



 
                     渡部 亮次郎

サントリーの武蔵野ビール工場は歌にも歌われているが、サントリーがビール製造に乗り出したのは、あれが初めてではない。

1928(昭和3)年に横浜市鶴見区の日英醸造(商標名「カスケードビール」)を買収して「新カスケードビール」を製造販売したのが始まりだった。

1930(昭和5)年に前首相・田中義一の愛称に因んで「オラガビール」と改称し、低価格競争を仕掛けたが、大手各社の反撃に遭い、1934(昭和9)年にビール事業からの撤退を余儀なくされる。

1945年、敗戦となって大東亜戦争は終わったが、サントリーは長く国産ウィスキーで王者の地位を占め、ビールには見向きもしなかった。

学生の頃、「アサヒビール」のアルバイトをしたことがある。たとえば東京郊外のバーに入ってアサヒビールを注文。「さくら」である。

殆どの店はおいてなかったから、そのご「アサヒビールはアナタのビール」は売れ始めた。さらに何十年も経って「ドライ」で「キリン」を抜いた。

サントリーは1963(昭和38)年、社長佐治敬三が「洋酒が絶好調で、作れば何ぼでも売れる状態。そんなことでは(=努力しなくても売れることに慣れれば)会社がやがて傾く。だからビールに再進出する」と武蔵野ビール工場でサントリービールを製造、大手三社が寡占状態のビール業界に再進出した。故園田直の友人が責任者になった。

しかし、当時、日本では「キリン」の寡占時代。「アサヒ」もまだ追いつけない状態だったから、サントリーのビールは誰にも相手にされなかった。この頃の佐治社長はそれ程苦にしていなかった。

寡占に胡坐をかくキリンは「営業なんて不要」と言っていたとか。

1967(昭和42)年にサントリーは「純生」を発売。この時「純生」の商標登録を巡って他のビール会社との間で純生論争が展開された。1980年代末からのドライ戦争の只中に、麦芽100%ビール「モルツ」を発売し、以降同社の主力ビールとなる。それでも私がサントリービールを買うことは無かった。

CMで、1980年代にペンギン(パピプペンギンズ)のアニメCM、1990年にプロ野球OBで作られた球団「MALT'S」のCMで多く話題を提供する。1994年には格安の輸入ビールに対抗して、日本で初めて発泡酒「ホップス」を発売する。当初は「節税ビール」と呼ばれた時があったが現在では市民権を得ているようだ。

2005年から、全てのビールを天然水仕込みに変更。同2005年、「ザ・プレミアム・モルツ」がビールとして日本初のモンドセレクション最高金賞を受賞し、サッポロの「ヱビスビール」を中心とするプレミアムビール市場に一石を投じた。

2006-2007年にも、モンドセレクション最高金賞を連続受賞(3年連続最高金賞受賞により「ハイ・クオリティ・トロフィー」を授与されている)。2007年、新ジャンル(第三のビール)である「金麦」を発売。

「ザ・プレミアム・モルツ」「金麦」「ジョッキ生」の好調が追い風となり、2008年上半期には、ビールへの参入を行って初めて日本での課税出荷量の業界シェアの第3位を確保。

また1963年から45年目にしてビール事業が初の黒字となる見通しになった。2009年2月3日の2008年12月期連結決算発表により、ビール事業が初の黒字に転じたと発表、過去最高益も更新することになった。

かくて今やライバル「キリン」との合併話が持ち上がるまでになった。「どうだ、ナベさん、ビールに賭けるボクの経営戦略は当ったろう」佐治さんの声があの世から聞えそうだ。2009・07・25

2009年07月24日

◆ノーベル平和賞の怪しさ


. 渡部亮次郎

ノーベル賞は日本人にとって遠いものだったが、ノーベル賞の受賞者は2009年7月23日現在 1949年の湯川秀樹氏(物理学賞)をはじめとして12人に達している。科学者以外でも佐藤栄作(元首相)、大江健三郎(作家)がいる。

1965年 朝永 振一郎(物理学賞)
1968年 川端 康成(文学賞)
1973年 江崎 玲於奈(物理学賞)
1974年 佐藤 栄作(平和賞)
1981年 福井 謙一(化学賞)
1987年 利根川 進(医学・生理学賞)
1994年 大江 健三郎(文学賞)
2000年 白川 英樹(化学賞)
2001年 野依 良治(化学賞)
2002年 小柴 昌俊(物理学賞)
2002年 田中 耕一(化学賞)

<賞を作ったノーベルはスウェーデンの人で、ダイナマイトの発明などで富を得て、1896年に亡くなりました。彼の遺言で物理、化学、医学、生理学の科学部門3賞と文学賞、平和賞の授与が始まりました。

ほかに経済学賞がありますが、これはノーベルの遺言とは関係なく、スウェーデン銀行(中央銀行)が1969年から授与しています。

ノーベル平和賞だけはちょっと違う。

ほかの賞はスウェーデンの首都ストックホルムで選考され、授与されますが、平和賞だけは選考はノーベル財団ではなくノルウェー国会による委員会が選んでノルウェーの首都オスロで授与されます。ノーベルがなぜ平和賞だけをノルウェーに任せたのかは、はっきりしません。

賞の対象も、平和賞以外が学問研究や文学作品で世界的な成果をあげた人におくられるのに対し、平和賞は、国と国の関係を良くしたり、戦争のための設備を減らしたりといった社会的な業績に贈られてきました。

最近では環境問題への取り組みも選ばれるようになっています。

2007年は地球温暖化の危機を訴えている前の米国の副大統領アル・ゴアさんと、この問題を調べて対策を提案している国際組織に決まりました。

温暖化問題と平和とは何の関係もないように見えます。でも温暖化が進むと、水や食べものが不足したり、土地が水没して住む場所を失う人が大量に出たり、資源の奪い合いが起きたりする危険が大きくなります。

2004年にはアフリカで植林活動をしたケニアのワンガリ・マータイさんが平和賞を受賞しました。マータイさんは「戦争は資源をめぐって起きる。環境保護は平和につながる」と話しています。>
岐阜新聞Web(2007年10月29日)より。
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/nie/news/news20071029.htm

宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 2009年7月22日(貳)通巻第2672号に依ると、中国で「08憲章」の起草者劉暁波にノーベル平和賞を、という動きを巡って共産党政府との対立が予想され「平和賞」とは裏腹なことになりそうだ。中国政府は猛烈に反対し、まず米国に圧力をかけるだろう、というのだ。

それによると、「中国民主論壇」は米国の人権団体と中国人留学生らが中心のグループで、劉暁波にノーベル平和賞を!のキャンペーンを開始するための委員会を設立する(多維新聞網、7月21日付け)。

劉は「08憲章」起草者として著名な活動家で、現在中国当局に拘束されている。

同憲章は中国の平和的発展と民主化を基軸に中国政治の変革を希求したもので、300人あまりの知識人らが署名した。

「世界の普遍的価値観と中国の特殊状況は乖離し過ぎており、世界最大の人口を抱える国が平和に発展することは世界の平和に繋がる」ので、あり、この価値観を推進する劉暁波に、この時点でノーベル平和賞を与えることは有意義である、と「中国民主論壇」は声明で述べている。

宮崎氏によると中国の反応はまだないが、嘗て魏京生のノーベル平和賞を直前で巧妙に潰し、昨年はカディール女史(「世界ウィグル会議=在ワシントン=代表」の平和賞受賞も政治力を駆使して潰した「実績」があるだけに、ノーベル財団やノルウェー議会に巨大な圧力をかけることが予測される、という。

この際、佐藤元首相の受賞についての論評は避けるが、ノーブベル平和賞を巡る争いは当に戦争である。多分、戦いは共産党が勝つだろう。負けたら共産党政府が立ち行かなくなるから。

最後に「Yahoo智恵袋」から。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119726571

<中国人は基本的にノーベル賞が大っ嫌いです?
ダライラマが受賞したのなんか、やつらからすると、われわれの感覚で言ったら麻原がノーベル賞取ったぐらいの感覚なので。そりゃ嫌いになりますよ。

あくまで「あいつらにとっては」ってことですよ。断っておきますが、私はダライラマ尊敬してます。あと台湾人がとってるのも気に入らないらしいです。

中国人の知り合いがノーベル賞のことぼろっかす言ってました。
あんなものは欧米人の感性ですばらしいということで、われわれ東洋人は関係ない。

「あんなものに迎合していてはいけない。日本人の皆さんは、いっそのことノーベル賞なんか全部お返ししてしまったほうがいいです。そして中国が中心になって、アジアのノーベル賞を作るべきだ」
と主張していました。

中国からは当分ノーベル賞に値する研究は出ないと思います。最近中国は数学オリンピックなんかで頑張っていますが、はっきり言って方向性間違えてます。

特に大学教育はひどいものだと思います。奴ら論文がまともに書けないんですよ。

自分で考えて、理論を組み立てることがまったく出来ません。本を引き写して、最後に「私もそう思います」みたいな、しょうもない論文しかかけません。それが、結構勉強ができる優秀な連中なんですよ。

中国人は勤勉だといわれます。確かに非常に勤勉です、でも「勉強」と「研究」は違います。中国は優秀な奴らに「研究」ではなく「がり勉」させて、ドンドン潰しています。
「公文式」で研究はできません。

国としては都合がいいんでしょうね、従順な奴が増えて。

実際に、中国人での受賞者は例外なく、海外の研究施設で受賞してますよね。おそらく北京大学からも、上海大学からも、当分はノーベル賞は出ないでしょう>。2009・7.22

2009年07月23日

◆団塊が知らない2・1ゼネスト



           渡部亮次郎

1947(昭和22)年2月1日予定の「ゼネラル・ストライキ」がマッカーサーの命令で中止されるという事態になった。今では全く論ぜられない「占領史」の一端である。あれが実施されていたら、その後の自民党長期政権は無かった。

私はまだ秋田で12歳だったが、毎日お昼ごろ届く「毎日新聞」を詳しく読んで「事態」を知っていた。それまでの「東京日日新聞」が戦時中の昭和18年から「毎日新聞」に変わった。

私が生まれた年、1936(昭和11)年に42万人いた労働組合員は、大東亞戦争の勃発で労働運動が禁止、解体されていた。これに対し戦後に進駐したマッカーサーGHQは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認していた。

大東亜戦争(太平洋戦争)後の激しいインフレの中で、日本共産党と戦前の日本労働総同盟の指導で労働運動が高揚し、1946(昭和21)年には国鉄労組が50万名、全逓信労組が40万名、民間の労組は合計70万名に達した。

日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない」と労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を図った。

冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。

吉田もまた共産党との対決を意識し、内部分裂した日本社会党右派に連立を持ちかけるなど、革新勢力の切り崩しを図った。

1947年(昭和22)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。

「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」

「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。」いわゆる「労働組合不逞の輩」発言である。

非難されたと受け取った労組はいっせいに反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日に4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。

公然と叫ばれるスト実施と政情不安によって、社会不安が蔓延した。1月21日には天変地異を予言していた神道系の宗教団体璽宇教(横綱双葉山が入信し話題となった)が、GHQの指令によって摘発された。

1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警戒態勢に入った。午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」として、ゼネストの中止を指令した。

伊井委員長はGHQによって強制的に連行された。NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された伊井は、午後9時15分に叫んだ。

「敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進」と、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙ながらに発表した。テレビがまだ無かったから、この涙を私は見ていない。

伊井は占領政策に違反したとして逮捕され、懲役2年を宣告された。

2・1ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であった。意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示した。

その後も労働運動はなお盛んであったため、マッカーサーは吉田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示した。

これに基づき、1948年(昭和23)7月31日に公布された政令201号によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。

後に国家公務員法・地方公務員法で正式に公務員のストライキ禁止が明文化された。この公務員のスト禁止は、1970年代の国鉄による「遵法闘争」の要因となる。

1932年テーゼの中で占領軍を解放軍と規定していた日本共産党は、しばらくの間、この事実を受け入れられずに迷走した後、暴力革命路線へ転換することとなる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・07・22

2009年07月20日

◆マスコミは正義に味方せず



                     渡部亮次郎

マスコミ不信がこのところ激しい。逆説を言えば、人々のマスコミ依存がそれだけ激しい、とも言える。だが、マスコミとは所詮儲け仕事。身勝手なんだから信頼なんかしてはいけない。

昔は「社会の木鐸(ぼくたく)」と誉めそやした。広辞苑によれば、「世人を覚醒させ、教え導く人」とある。昔、中国で法令などを人民に知らせる時に鳴らしたのが「木鐸」で、木製の舌のある鉄製の鈴だった。

私が世間に出た昭和30年代までは日本でもマスコミのことをそういって批判したり、反省を求める「識者」がいた。また批判されればマスコミも少しは反省したような顔をした。

だが民放が本格的になっ来るにつれて,もういけません。ニュースにしろ番組にしろ視聴率こそが彼らの収入を左右するのだから、「映像(絵)」にならない物は取材対象でなくなった。

例えば政治である。経験上、政治こそは、夜、密室で決められるから絵にはならない。したがってテレビは政治家の料亭への出入りの撮影にこだわる。映像と音声を同時に捉えるにはカメラとマイクで押しかけることになる。騒動だ。だがここでは真相からは離れている。

真実はつかめない。近いところを手短に喋ってくれる政治家にレンズもマイクも集中する。順序立てて論理的に話してくれても話の長い政治家は敬遠だ。ニュースの枠は短いのだから、見出しだけを並べたような喋りをしてくれる政治家が画面を独り占めにすることになる。小泉が首相として世の中を振り回せたのも「ワンフレーズ」
人間だったからだ

テレビにかじりついているような視聴者はこれで騙されてしまう。
なぜなら、見出しを並べたような喋りは真相の上っ面をなでただけだから、事態はニュースとやや違って動く。だからニュースを一旦はしっじた人は「騙された」という批判をしたくなる。

「解散」を巡る麻生さんの動き。映像を追っていただけでは判断を間違う。彼は「解散」をするために総理の座についたが解散を渋ったような印象を与えてしまったから不人気のままか解散をせざるを得ない珍しい宰相になってしまった。

勿論「百年に1度の経済不況」対策に専念したためでもある。だから財界には人気がある。しかし当面の役には立たない。

どうせ「解散」すれば任期は無くなる(再選不可能)から解散を延ばせるだけ延ばした方が得策、と進言した大幹部がいた。テレビはもちろん新聞もこの情報をつかめないままに過ぎたが。

簡保の宿問題。従業員の解雇を阻止するためには郵政の側に真実があった。だから麻生は鳩山総務相を事実上、罷免して解決するしかなかった。だが麻生自身がこのからくりの説明を怠ったために、マスコミの誤まった報道に世論が走ってしまい、支持を失ってしまった。世論操作のミスは大きかった。

マスコミの中には、何が何でも保守大連立実現のためには、この際、麻生を犠牲にして、まず民主党政権を作る必要があるとの考えから、
新聞紙面を麻生打倒の政略にした大新聞もある。

「社会の木鐸」という矜持を完全に捨ててしまっている。それを知らずに従(つ)いて行った読者こそ、いい面の皮というべきだろう。都議選で民主支持に流れたという3割という自民党支持者は「騙された」と、いつか気付くだろう。

私の主宰するメイル・マガジン「頂門の一針」の読者には宮里藍とか石川遼といった人気若手ゴルファーを煽て挙げ終いに駄目にすると、テレビ局を激しく貶し、投書してくる読者が少なからずいる。

私も同感だから投書は採用するが、じつは空しい気がしている。なぜなら民放にとって高い視聴率の取れる映像を作ることこそが目的であって、偉大なゴルファーを育成することとは全く関係ないことなのである。

それを止めてくれ、選手をスポイルしいでくれといっても、民放としてはゼニになる映像がそこに存在するから撮影するのであり、決して彼らをスポイルする気はない。スポイルされたら、それは本人の責任であってテレビ局は次なる「絵」を捜すだけである。

具体例は挙げれば切りの無いほどある。だが挙げ続けても無意味だろう。本質は共通しているのだから。まぜならマスコミはミーハーを煽って新聞、雑誌を売りつけ、テレビ・ラジオは「1億総白痴化」が達成してこそ「儲け」られる「商売」をしているに過ぎないからだ。

偉そうなことを言うようだが、筆者自身、今日ほど無責任でなかった時代の「公共放送」(?)NHKに政治記者を最後に約20年在籍した経験がある。当時ですら「ここに長居したら人生を失う」と悟って41歳で転身してしまった。後悔はしていない。(文中敬称略)
2009・07・19

2009年07月17日

◆平成の「慶喜」さようなら



                   渡部 亮次郎

麻生太郎の命運が尽きようとしている。麻生首相の下では総選挙で勝つのは難しい。かといって表紙を換えても、自民党の凋落を救うことにはならないのだ。自民党の命脈が尽きたのだ。

鳩山では頼りないが、一度、民主党にやらせてみようというのが、多くの選挙民の気分ではないか。しかし実は小沢・鳩山は成立する民主党政権が脆弱であることを認識しているという。

だから成立後の次の一手は、社民党との連立を早く解消し、保守色の強い民主党政権の構築をすで模索している。

結局は自民党との大連立を、民主党の側から仕掛けることになろう。読売のドン・渡邉恒雄がそれを働きかけているようだ。読売新聞の論調がその方向で動いているのがその証拠。「都議選で自民敗退予告」のミニ世論調査を掲げるなど選挙中に自民・公明の足を引っ張った。

これに対して安倍晋三らタカ派は、大連立に抵抗する構え。同じ町村派ながら森喜朗との亀裂がすでに現れている。

安倍らの読みは、民主党と社民党との政策対立を待ち、来年夏の衆参ダブル選挙で一気に政権奪取を図ることだという。政局はすでに第2幕に向かって動き出した、と見る。

かくて江戸幕府の大政奉還という汚名と共に退場した徳川慶喜になぞらえれば麻生太郎は自民党の慶喜ということになるが、彼の経歴を改め見ると、英悟は流暢に喋れるが、米英慮国の詳しい事はほ殆ど知らず、学位も無い。それでいて漢字の読めないことを知れば、文科省の目指す「発育不全」の日本人に最も相応しいモデルであることに気付く。

文科省が小学生から英悟教育を始めるのは、今まで高校・大学で英悟教育をしても、英会話の出来る人間が殆ど育たない。これではアジア各国にも後れを取る結果になるとして財界や大学教授の意見に従った結果、英語教育を小学生から始めることに踏み切ったものである。

日本の英語教育は受験英語しか教えず会話を教えなかっただけ。その過ちに頬被りして文科省はこれで誤りを繰り返すだろう。

尤も米国にも英国にも留学した麻生太郎氏は英会話や漫画やクレー射撃、それに最近はバーや飲食店事情には詳しいようだが、漢字が全くの不得手。読書も好きとは言い難い。同じ本を2度買う。

哲学は大切だが「哲学は優だった」と東大の成績だけを威張った嘗ての福田赳夫首相よろしく、人心を読み取り説得する点では全く心許ないこと甚だしい。鳩山更迭の理由説明を怠って穴を掘った。

改めてその華麗な系図を見れば「政治力」は全く遺伝しないものである事を知るせめての良い材料だった。「平成の慶喜」ひとまず  さようなら。(文中敬称略)2009・07・10

関連情報:

与謝野財務相、麻生首相の自発的辞任を促す

与謝野財務相は15日、首相官邸に麻生首相を訪ね、約40分間、会談し、東京都議選の敗北を受けて次期衆院選は厳しい戦いになるとの考えを伝えた。首相の自発的な退陣を暗に促したものだ。7月16日3時9分配信 読売新聞

2009年07月13日

◆したたか服部良一



       渡部亮次郎

大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の
挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞学芸記者奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷(あわや)のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、
2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・
ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。
内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲みアルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した
『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、

服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。2009・07・10
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