2010年01月08日

◆岩手民謡「沢内甚句」

渡部亮次郎

昔のNHKは記者でも、地元の民謡の2,3曲は覚えないと転勤させないといわれた。仙台で新人教育の1年を終えた私は、福島赴任が噂されたが、なぜか下り線で岩手県の盛岡放送局に発令された。

赴任してみると、ニュースや番組を制作する放送部は、瓦葺、平屋の離れで、些か驚いた。担当は農協、木炭協会などで、たまには市町村長や県会議員を相手に「雑談」に花を咲かせた。その中から、結構、ニュースが出た。北上山中に「ウラン」発見などもあった。

雑談は夜に及ぶ事しばしば、花柳界に繰り込んで唄う羽目になった。今と違って「カラオケ」は無い。自然、芸者さんに地元の民謡を口移しで習うのが常だった。

「南部牛追い唄」や「外山(そとやま)節」「沢内甚句」などを習った。
中でも「南部牛追い唄」は50年以上過ぎた今でも、鼻歌になって出るし、「外山節」もそうだ。

明治24年に盛岡市玉山区外川に宮内省の御料(馬)牧場が発足し、多くの馬が育成されたが、「外山節」はその時には草刈り作業の唄だった。

後に、東北民謡の父と仰がれる遠野(とおの)出身の武田忠一郎は星川万多蔵と2人で外山へ出かけ作業員の唄を聞き、横笛をあわせてこれを採譜した(昭和7年)。

昭和12年、忠一郎は民謡歌手大西玉子の協力を得て、この元唄を編曲、キングレコードから発売、これが人気を呼んで岩手県を代表する民謡となった。(『東北民謡の父 武田忠一郎伝』黒沢勉による)

外山節

わたしゃ外山の
日陰のわらび
(ハイハイ)
誰も折らぬでほだ(木)となる
コラサーノ サンーサ
コラサーノ サンーサ

外山街道に 笠松名所
名所越えれば 行在所

あんこ行かねか
あの山越えて
わしと二人でわらびとり

わたしゃ外山の
野に咲く桔梗
折らば折らんせ今のうち

南部外山は 山中なれど
馬コ買うなら 外山に

西和賀町沢内は藩政時代、盛岡藩の隠し田の地であった。「沢内甚句」は飢饉の際に、庄屋の娘・よね(米)を藩に差し出し、年貢米減免の身代わりとした。その悲しみを唄った盆踊り唄。

「沢内三千石 お米(およね)の出どこ 桝で計らねで箕(身)で計る」

元は太鼓と手拍子だけで唄われる素朴な唄だったが、昭和の初めに三味線の伴奏付きでレコード発売されたことから全国に広がった。原曲は県北地方の「ナニャドヤラ」といわれ、低音から唄い始めるものと、中音、高音からのものという三つの様式があり、甚句の形式としても完璧な曲である。

ところで、東北民謡の父 武田忠一郎 は明治25(1892)年5月、遠野の士族の家に生まれた。父祖2代が教育者という厳格な家庭に育った。

県立遠野中学校(現在の遠野高等学校)に進み、明治43(1910)年に岩手師範学校(現在の岩手大学教育学部)を卒業後、釜石高等小学校を振り出しに県下各地で教員生活を送るが、

大正5(1916)年、少年時代から興味をもっていた民謡とわらべ唄の本格的な研究のために東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に通い、同7(1918)年に卒業。

岩手に帰り、大槌女子職業学校をはじめ方々の女学校で教鞭をとるかたわら、東北各地を訪ねて採譜の仕事を続けた。

この間に同僚の教員・石垣きんと結婚し四人の子に恵まれるが、昭和8(1933)年に妻・きんが死去。のちに弟子の大西玉子(民謡歌手)と昭和14(1939)年に再婚。

昭和16(1941)年にNHK仙台中央放送局に嘱託として迎えられ、"民謡採譜編集業務"を担当し、戦時下の物資不足の中で昭和17(1942)年から『東北の民謡第一篇〜岩手県の巻』の発刊を開始し、昭和37(1962)年までに『東北民謡集全8巻』を完成させた。

また昭和30(1955)年には仙台市に我が国初の「東北民謡学校」を開設し、校長に就任した。

作曲家としても知られ、母校・遠野中学校の校歌をはじめ、展勝地小唄や松尾鉱山小唄など県内外の民謡を作曲、「外山節」を編曲してヒットさせた。

多年にわたる功績に対し帝国教育会長賞、日本放送協会長賞、日本民謡文化賞などが贈られ、昭和44(1969)年には勲5等瑞宝章を受章した。晩年は仙台市の自宅で「太鼓教本」の編集に取り組んだが、昭和45(1970)年12月、82歳で生涯を終えた。

長女の安藤澄子は父の教えを受けて岩手の弦楽教育のために尽くした。末娘、真木は民謡歌手原田直之に嫁し、姉の武田歌子と共に民謡の指導にあたっている。2020・1・6

2010年01月07日

◆コショウ(胡椒)知らず

渡部 亮次郎

コショウを全く知らずに育った。米どころ秋田で生まれ育ったため、麺類を知らず、大学の食堂で友人がラーメンを食べる前に振りかけたのがコショウ(胡椒)というものであることを初めて知った。

田舎時代は肉料理といっても庭で放し飼いの鶏を潰すだけ。牛肉も大学に入って初めてだったから、肉料理に胡椒を振りかけたほうが美味しいというのも学生になってからである。

長じて「常識」を学んだ。ペッパー pepper はサンスクリット語のpippali(ナガコショウ)が転訛した語とされるが,インド産のものが中央アジアの通商路を経由して中国にもたらされたため,〈胡=西方〉の〈さんしょう(椒)〉とよびならわされた。

ギリシア・ローマ時代には南インドのマラバル産コショウがインド洋の貿易風(ヒッパロスの風)を利用して輸出された。中世に入るともっぱらアラビア商人が独占的に扱った。

15世紀末に新航路が開拓されると,ポルトガル,スペインなどは香料の獲得に力を入れ,マラッカ,キャンベイはその中継・集積港として栄え,また南インドのアラビア海沿岸の小海洋王国はコショウの輸出や関税収入を財源としていた。

17世紀にはイギリス東インド会社がアジア貿易を一手に握り,コショウはアイ(藍),キャラコとともにインドからの主要な輸出商品となった。

東インド原産のコショウ科の常緑つる植物。その実は最も古くから著名なスパイスの一つで,香辛味のほか防腐効果,食欲増進の効果などがある。

古代ローマ時代のヨーロッパでは,シナモンとともに最も珍重され,コショウの粒は同量の銀と等価といわれた。コショウ貿易の利益の独占をめぐって,15世紀からのいわゆる大航海時代には,ヨーロッパ列強の東方進出,植民地争奪戦争などの事件が相次ぎ,世界史をゆり動かす原動力にもなったといわれる。

青い未熟の果実を,房ごと収穫する。2日間日干しすると,しわがよって黒くなる。足で踏んで柄を除き,粒だけにしたものが黒コショウ blackpepper である。

完熟果を収穫し,流水に漬けるかした後,乾かしてから摩擦によって果皮と果肉を除去し,灰白色の種子だけにしたものが白コショウ whitepepper である。

コショウが日本にもたらされたのはかなり古いことで,天平勝宝8年(756)の《種々薬帳》(《東大寺献物帳》)に名が見えるように,はじめは薬種とされていた。

しかし,獣肉や魚の料理に用いられたこともあったようで,後三条天皇はしばしばサバの頭にコショウをぬって焼いて食べたと,《古事談》は記している。

いまでもトウガラシをコショウと呼ぶ地方がある(九州)が,トウガラシは渡来当初はコショウの一種と考えられていたらしい。


元禄(1688‐1704)ごろには薬屋で売られる一方,粉ザンショウなどといっしょにコショウの粉を売り歩く行商人があったことは,西鶴の作品などに見える。

近松門左衛門の《大経師昔暦》に〈本妻の悋気(りんき)と饂飩に胡椒はお定り〉とあるように,江戸前期、うどんにはコショウがつき物であった。後期になってそれが廃れたようで,大田南畝は〈近頃まで市の温飩に胡椒の粉をつゝみておこせしが,今はなし〉と《奴師労之(やつこだこ)》に書いている。

日本には,つる性常緑草本のフウトウカズラ P.kadzura (Chois.) Ohwi が関東地方以南の暖地に分布している。参考:世界大百科事典
2009・12・14

2010年01月06日

◆だまこもち食べる?

渡部亮次郎

「だまこもち」は、秋田県中央部の郷土料理。干拓以前の八郎潟の東側沿岸(湖東部といった)が発祥地である。潰したご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれ、主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

潰すご飯は新米が望ましい。したがって私が育った頃は、秋から冬にかけての定番料理。お袋は鶏肉と一緒に煮たが、シベリヤから飛んでくる鴨(かも)の肉が一番美味しかった。だまこ抜きでも。

隣町の五城目町(ごじょうのめまち)で、1959(昭和34)年に三笠宮崇仁親王がだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、周辺地域を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。

鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。


八郎潟周辺地域の、山林で働く木こりが弁当の飯を切り株の上に乗せ、斧の背で潰したものが起源とされている。一方、マタギ料理が起源であるとも言われ、だまこもちがきりたんぽの原型になったとする説もある。

以前は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

鍋に残っただまこを、翌朝、串刺しにし、囲炉裏の焚き火にかざして、こんがり焼けたところを食べるのが好きだった。60年前の話だ。

実を言うと、東京では、鮟鱇鍋や牡蠣鍋などを知ったし、冬は加えて「おでん」も美味であるため、だまこもち鍋はしたことがない。
2010年の正月鍋は同じ秋田県でも角館の隣「田沢高原」でとれた「山の芋」鍋をした。

グローブに似た「山の芋」を摩り下ろすと、強い粘りの為、団子状に丸める事ができる。これを鶏肉と「舞茸」、葱などを煮た鍋に落とし込んで食べるもの。なかなか風味があってよろしかった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2010・1・4

2010年01月04日

◆吉田茂の特別食は「人」

渡部亮次郎

吉田茂は妻の雪子を1941(昭和16)年に亡くしていたが、まもなく愛人の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて生活を共にし始めた。

ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたのだが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。

吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには良い感情を持っていなかったのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげでかえって世間体を気にする必要もなくなり、1944(昭和19)年には晴れて彼女と再婚している。

かつて石川県選出の参議院議員だった林屋亀次郎は、小りんと親戚だった関係で、大磯の吉田邸に出入りを許されていた。その林屋に言わせると、吉田が健康の素としていた「人を食っている」からは
もはや口癖になっていたという。

1964(昭和39)年11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯は暖かいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。

日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつき良くないし、口は美味いもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。

特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には「はい、強いて挙げれば人を食っております」とすました顔で即答した。

米寿をすぎてもまだ矍鑠としていたが、ある日、大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。

そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった(戸川猪佐武「小説吉田茂」あとがき)。

「人を食う」とは人を小ばかにしたような言動をとること。

1946(昭和21)年4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。自由党総裁の鳩山一郎はただちに組閣体制に入ったが、5月4日になって突然、GHQから鳩山の公職追放指令が送付された。

毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を受けるよう吉田を口説き、ついにはその気にさせてしまったのが、その手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた元政友会幹事長の松野鶴平だった。鳩山内閣の官房副長官松野頼久氏の祖父である。

吉田は、蓋を開けてみると松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、

「金作りは一切やらない
閣僚の選考に一切の口出しは無用
辞めたくなったらいつでも辞める」
という勝手な三条件を提示して鳩山を憤慨させている。

しかし総選挙からすでに1ヵ月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くか分らなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。

5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。

自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。戦後政治はここに始まる。

自由党入党・総裁就任後の吉田は、多くの官僚出身者を国会議員に引き立てた。吉田は1949(昭和24)年の第24回総選挙の勝利と第3次吉田内閣の組閣を通して、自由党(民主自由党)内を完全に掌握した。こうして「吉田ワンマン体制」が確立した。

吉田ワンマン体制の中で側近として大きな位置を占めたのが官僚出身者を中心とする国会議員たち、すなわち「吉田学校」と呼ばれた集団である。

官僚出身者では、大蔵省の池田勇人、運輸省(元鉄道省)の佐藤栄作がその代表的人物(共に次官経験者である。現在は、事務次官を経て内閣総理大臣に就任するのは不可能に近い)。

吉田が登用した人材は全部が全部成功したわけではないが、戦後、保守政治の中で中核を担うこととなり、後の保守本流を形成する。また、吉田の人物に対する鑑定眼が高い評価を受ける所以ともなった。

1951年9月8日、日本はサンフランシスコ講和会議で吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の6人全員で署名した。

講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。

吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。

ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約にたった一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。

復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。(「ウィキペディア」)2010・1・3


2010年01月03日

◆米どころ秋田の蕎麦

渡部 亮次郎

私の生まれた秋田県は米どころ、酒どころといわれ、美人の酌で酔い、高血圧による脳卒中であの世行きと言う男が多かった。健康にも良いという蕎麦など雑穀を食べなかったのは、コメが十分取れたからであろう。

その所為で、大学入学で上京するまで、蕎麦は食べたことも見たことも無かった。恥ずかしくも上京後、初めて入った蕎麦屋で「もりかけ」を下さいといって笑われた。

一番安い「20円」の上に「もり かけ」と出ていたからである。その区別も知らなかった。のちに菊池寛も四国から初めて上京したとき、同じく「もり かけ」を注文して笑われたことを知って安堵したものだ。

そばの実の果皮色は黒、茶褐色、銀色である。土壌が痩せていて、かつ、寒冷地でも容易に生育することから、救荒作物として5世紀頃から栽培されていた。

秋田は痩せた土地は少ないし、畑も少ないからそばの栽培は昔は全くされなかった。その後、水田の減反政策の浸透により、止むを得ず稲からそばへの転作が余儀なくされ、2008年には704トンを生産し、全国で第8位を記録した。

因みに1位は連続して北海道11,400トン(2)長野県2,130トン(3)福島県1,910トン(4)山形県1,610トン(5)茨城県1,600トン(6)福井県1,420トン(7)栃木県994トン(9)新潟県686トン10位青森県611トンであった。

休耕田などを利用した栽培が増えており、生産量は増加傾向にある。農林水産省の統計によると、ソバの作付面積は、1986年の19,600haから2008年では47,300haへ増加し、2008年の主産道県の収穫量は23,200トンである。

第2次世界大戦以前に満州からの輸入が行われた。戦後、1952年に南アフリカからの輸入が開始され、その後は急激な伸びを続け、1970年頃には70%を超え、1980年頃に80%を超えてからは80%台を推移している。

日本国内でのソバ消費と生産の上方傾向によって近年の消費量の約80%は輸入品であり、2006年貿易統計によると、中華人民共和国・63,363トン、アメリカ合衆国・11,196トンと万トン単位の輸入があるが、それ以下は極めて少なく、カナダ・1,474トン、その他となっている。国内産は11道県で合計23,200トンに過ぎない。

そばの原産地は、ド・カンドルが中国北部からシベリアという説を提出し、これが信じられてきたが、1992年に京都大学のグループが中国南部で野生祖先種 F. esculentum ssp. ancestrale を発見したことから、中国南部説が有力となっている。

播種期の違いにより春播きの夏蕎麦と夏播きの秋蕎麦がある。しかし、主産地北海道では年一作で、夏蕎麦、秋蕎麦の区別はない。つまり、北海道のソバは夏型であるが夏蕎麦ではない。

東北以南では、いわゆる夏蕎麦、秋蕎麦に別れ、地域により年に2?3回収穫できる。例えば、北海道の夏型の牡丹そばを本州で夏播きした場合には秋蕎麦になる。

北海道産品種は夏蕎麦にも秋蕎麦にも利用できる品種群である。そのため、北海道の新蕎麦も秋の味覚の走りとして最近は「秋新」と呼ばれる。

また、最近、4〜5月播種の春播きソバを春蕎麦と呼ぶ事例があるが、夏蕎麦の低質のイメージを回避した呼称であり、従来通り夏蕎麦と呼ばれるべき作型である。

休耕田などを利用した栽培が増えているので、日本での生産量は増加傾向ではあるが、消費量の80%は輸入品であり、その84%の中華人民共和国、12%のアメリカ合衆国と続き、カナダからの輸入はわずか1.2%に過ぎない。

日本での主要産地は北海道、茨城県、長野県である。世界の主産国として中国、ロシア、ウクライナ、スロベニアが挙げられる。

食品衛生法によるアレルゲンの特定原材料5品目の一つとして表示が義務付けられている。(「ウィキペディア」)2009・12・11

2009年12月26日

◆続報:「声楽家の山本健二さん」

渡部亮次郎氏

声楽家の山本健二さん(千葉県在住)は叙情歌をCDアルバムにしてきた。日本の心を歌ってきた。このほど23枚目のCDを出した

▼タイトルは「潮風のうた」。森繁久弥さんが88歳の米寿を迎えた2001年に作った詩から取った。作曲家の平野淳一さんにメロディーをつけてもらい、自分で歌ってアルバム中の1曲として収めた

▼〈潮騒を聞きながら わたしは/踏み込む砂の中に/桜貝の小さな片割れを見つけた〉と始まる。いのちを枝分かれさせてきた地球の歴史を桜貝に思う。いのちの一つとしての人間に思いを巡らす。物語風の長い詩だ

▼NHKアナウンサーから出発した森繁さんは、晩年は「語る」ことに特に情熱を傾けた。詩人らの作品を朗読したCDもある。自身で詩も作ることは「知床旅情」で知られる

▼曲にすると9分近い「潮騒のうた」には祈りが込められている。昭和の名優の「知られざる一面を物語るものとして、また、地球の今を生きる私たちへの警鐘として聴いていただければ」と山本さん。CDは西日本新聞会館(福岡市・天神)の1階受付でも手にできる

▼山本さんは昭和26年に福岡高校を卒業した。森繁さんが福岡に縁を持つことは小欄でも既に書いた。そんな人の祈りを福岡出身の声楽家が歌い継ぐ。いつか歌いたいと思って8年になるという。CDが出たのは11月10日。くしくもその日に森繁さんは祈りの発信地を天上に変えた。
=2009/12/16付 西日本新聞朝刊=

<主宰より:これを拝読された福中・福校同窓会の諸氏は、先輩・声楽家の山本健二さんの叙情歌CDアルバムを求めて、福校校歌は勿論、「日本の心の歌」を聴いてください。>

◆喜寿「バリ建」さんの豊かな歌声

渡部 亮次郎

「バリ建」こと歌手・山本健二さんから24日、最新作「潮騒のうた」CDを戴いた。ゴンドラの唄、あざみの歌、さくら貝の歌、早春賦など20曲。

喜寿と言うのに、豊かな声量。驚く。最後に出身の福岡県立福岡高等学校の校歌を歌っている。

山本さんははじめから歌手になりたかったが、事情が許さず、大きな会社のサラリーマンとして過ごした。傍ら、音楽への希望を捨てず、会社を終えてからとか、休日に音楽に専念。以下HPより。

<昭和26 (1951)年、県立福岡高等学校卒業。早稲田大学に進学。在学中はグリークラブ学生指揮者として活躍。早大卒業後日本信販に入社し、フジタ道路監査役で終えるまで44年間のサラリーマン生活を送る。

その間音楽活動を続け、早稲田大学グリークラブ、共立女子大学合唱団、稲門グリークラブ、フレーベル少年合唱団の指揮者を歴任、早大グリークラブのヴォイストレーナーとして2003年まで23年間指導に当る。

コンクール歴は、第35回NHK・毎日音楽コンクール (現・日本音楽コンクール) 声楽部門入選、第3回新波の会日本歌曲コンクール歌唱部門第1位、並びに荻野綾子賞受賞、朝日新聞社主催西日本高校独唱コンクール (現・全日本高等学校声楽コンクール) 第2位、NHK洋楽オーディション合格。ニコラ・ルッチ、ロドルフォ・リッチ、中山悌一の各氏に師事。特に中山悌一氏には16年歌唱の基本を学ぶ。

NHKラジオ深夜便では、山本健二のCDより日本の抒情歌などがよく放送されている。2002年各地の女子少年院(福岡、広島、丸亀、仙台、千歳)を訪問した時、「荒城の月」は少女達(15〜18歳)に深い感銘を与えた。その時の少女達からの感想文は、NHKラジオ深夜便「こころの時間」で放送された。

また2005年11月の柳川白秋祭においては、3日間連続の音楽会を行ない、それらの情景は11月5日のNHKラジオ深夜便インタビューコーナー・スペシャルで放送された。

都内におけるリサイタルは有楽町マリオン朝日ホール、銀座ヤマハホール、王子ホールにおいて連続23年間行った。その他、札幌、仙台、盛岡、象潟、浦和、横浜、宝塚、広島、北九州、長崎、宗像、福岡、名瀬市(奄美大島)などの日本各地で行っている。

言葉の情感にふれる歌唱をモットーに、日本の叙情歌を中心としたリサイタル活動並びにCDの制作を続け、 「山本健二歌唱アルバム」全22集(314曲)をリリースしている。

http://bariken.com/bariken-profile.shtml

問い合わせ先ヤマモト音楽事務所、2100円。電話:04-7147-1954
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       http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2009年12月25日

◆1秒でも早く政界引退を

渡部 亮次郎

<鳩山首相「私腹を肥やしたわけではない」と辞任否定 元秘書起訴で会見(12月24日18時10分配信 産経新聞)

鳩山由紀夫首相は24日、自らの資金管理団体「友愛政権懇話会」の偽装献金問題で、東京地検特捜部が元公設秘書を在宅起訴するなど一連の処分を行ったことを受け、東京・平河町のホテルで記者会見を行った。

首相は国民に謝罪しながらも首相辞任は否定、その上で実母からの12億6千万円の資金提供を贈与と認め、平成14年に遡って修正申告し、贈与税約6億円を納める考えを表明した。

偽装献金事件について「国民が疑問に思うのは当然だが、(秘書が献金処理を)滞りなく処理していると任せていた」と説明。贈与についても「承知してなかった」と繰り返した。

一方、首相は、過去に「秘書の行為の責任は議員の責任だ」などと発言してきたことについて「私は私腹を肥やしたり、不正な利得を得た思いは一切ない」と釈明。>


<「努力だけは認めて」=政権3カ月で鳩山首相>(12月16日11時19分配信 時事通信)。努力したのではなく、すべての難問を先送りしただけではないか。嬶を連れての派手な外遊を続けただけではないか。

<「すべてがまだ完ぺきとは言えないと思う。一生懸命努力していることだけは認めていただきたい」。鳩山由紀夫首相は16日午前、政権発足3カ月を迎えたことについて、記者団を前にこう訴えた。

米軍普天間飛行場移設問題や2010年度予算編成作業などの懸案に関し「閣僚の中でいろいろと声が上がって、(首相の)指導力がどうだという話がある」と認め、「それは分かっているが、いずれ国民もこの答えが最適だったと分かるときが来ると思う」。

重要課題の政策決定で足踏みが目立つことへの理解を求めた。> 

私が国内政治の現場を去って既に30年。したがって、現場の情景は全く知らないが、鳩山由紀夫の馬鹿さ加減だけは、インターネットを通じてよく分かる。

政治家になったのに、常識が無い。哲学が無い。困ったことがないから他人の痛みが分からない。したがって戦略も戦術もない。努力を認めろといっても、見える努力は一つも無い。

母上から一と月に1500万円もの小遣いを貰っておいて、知らなかったという。そんなことが世間に通用すると思っているから、宇宙人だといわれる。だが宇宙人は確認されていない。

それなのに宇宙人と、敢えて言われるのは、無形人といわれているのと同じだ。まず悩みがない。有っても悩まないから、悩みが無いのと同じなのだ。

だから本人は努力したといっても、解決した案件は一つも無い。ああじゃない、こうじゃないと、口から出任せを喋っているだけで、どうすれば解決するか、考える事もできない。

多分、母親が元気なら、官邸に据えて、厄介を頼むところだろう。すべてそうしてきたからだ。だが、いまや87歳ともなれば、面倒を見てもらうわけには行かないから、すべてが頓挫してしまったのである。

一方、月額1500万円の小遣いは何に使ったのか。あるいはブレインになる人の買収、接待費に使ったのか。その割には碌なブレインがいない。使えない商社マンしかいない。左翼に凝り固まって有害だ。

アメリカとの同盟関係を可笑しくし、中国に叩頭外交を展開する事になったのは、彼の誤れる哲学と偽情報に頼ったからである。「努力した」のではなく「壊し」に専念した100日だったのだ。

早く総辞職し、議員も辞めたほうがいい。それも1分でも1秒でも早い方が日本のためだ。2009・12・24

2009年12月23日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎

「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から
「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)
も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。(9月21日 榊 寿之アンカー)

<『夜のプラットホーム』(夜のプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947年(昭和22年)に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

榊アンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れな
かった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくした
こと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)
は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげに
ただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず
「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公
開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させ
るとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかか
り、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可
したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。

レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従っ
て内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様
であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll Be
Waiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手が
けたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をして
いたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間
でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カ
ロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」
(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタン
ゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」
を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコ
ードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き
残った東京音楽学校出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあっ
たものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であっ
た。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴
史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、
言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」
を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならな
い事、全世代、共通の願いではなかろうか。2008・09・21

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2009年12月21日

◆宮内庁長官は天皇が任命

渡部亮次郎

小澤一郎氏はご自身、かつては司法試験を目指したのに、実は憲法を読まなければ行政法も見たことが無いらしい。

小沢氏が「一役人」と呼び捨てにした羽毛田宮内庁長官は国会議員より位が上の認証官である。

1947年の宮内府設置、1949年の宮内庁改称と日本国憲法の施行以来一貫して長官の職は認証官であり、その任免は天皇により認証される。

尚、近年では旧内務省系官庁の事務次官あるいはそれに準ずるポスト(警視総監)の経験者が就任するのが慣例となっている。(「ウィキペディア」)

小沢氏は質問した記者を「憲法を読んでから質問しろ」と怒ったが、
「天皇の国事行為」に国家の賓客との面会は含まれていなかった。従って、天皇が内閣の横車に負けて習近平中国副主席の会見要求の応ずる必要はなかったのである。恥をかいたのは幹事長のほうだった。

天皇の謁見が何であれ、内閣の指示通りに謁見しろ、忙しいなら、他の用事をやめて内閣の要求に従え、というのが小沢氏の見解。
憲法を無視した上に、天皇陛下に指示するという不敬の本質を暴露してしまった。

小沢氏は人気が落ちても、多分構わないだろう。傲岸不遜の記者会見は、それぐらいは覚悟の沙汰だろうからだ。しかし、世間の小沢氏への非難は世論調査を通じて鳩山首相の支持率に反映すること確実。

中身が空っぽ。支持率しか頼るところの無い鳩山首相にとっていまや小沢氏の憲法無視、法律無知は命取りになろうとしている。
2009・12・20

2009年12月20日

◆殺された大富豪安田善次郎

渡部 亮次郎

安田 善次郎(やすだ ぜんじろう、天保9年10月9日(1838年11月25日) - 大正10年(1921年)9月28日)は、富山県富山市出身の実業家。幼名は岩次郎。安田財閥の祖。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父で、レノンとヨーコの息子ショーン・レノンにとっては高祖父にあたる。

ヨーコの従弟である評論家の加瀬英明は安田との血の繋がりは無い。

当然、私にとって安田は何の関係も無いが、今の住まいの近所に旧安田庭園が有り、このような大富豪だったのに殺されたと知って、興味がわいた。

東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものである。 富山市愛宕町にある安田記念公園は安田家の家屋があったところを整備された公園であり、東隣には住居表示実施後に誕生した安田町がある。

東京・墨田区の 旧安田庭園は、安田が所有していたためその名を残している。

旧安田庭園 (きゅうやすだていえん)は、東京都墨田区横網1丁目12番1号に所在する、潮入り回遊式庭園として整備された大名庭園である。

小島の浮かぶ心字池を老樹と散策路が囲む構成。 雪見灯篭が配置され、池には鯉、亀が遊ぶ。 人工的に水位の干満が再現されている。 無料で開放されている。


江戸時代は、本庄氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。元禄年間に、本庄宗資により大名庭園として築造された。 安政年間に、隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。

明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となる。 明治22年、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなった。 大正11年、彼の遺志により東京市(当時)に寄贈された。

翌大正12年、関東大震災によりほとんど旧態を失ったが、東京市により復元され、昭和2年、市民の庭園として開園。 昭和42年、東京都から墨田区に移管され、現在は墨田区が管理する。

かつては隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満を利用し、眺めの変化を鑑賞する庭園であった。

このような潮入の池をもつ庭園として他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園がある。 隅田川の汚れが園に及ぶようになったため直接の接続は停止されている。 現在は、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用し、ポンプで潮入が再現されている。

所在地―東京都墨田区横網一丁目12番1号
利用時間―午前9時から午後4時30分まで
休園日―2月29日から1月1日まで
入園料金―無料
交通:JR総武線両国駅下車徒歩7分 都バス両国公会堂停留所下車徒歩1分 石原一丁目停留所下車徒歩7分 横網一丁目停留所下車徒歩5分

ところで安田善次郎は富山藩の下級武士(足軽)善悦の子として生まれた。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。21歳の時、奉公人として上京。

最初は玩具屋、ついで鰹節兼両替商に勤めた。やがて安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)を次々と設立し、金融財閥としての基礎を築く。

自分の天職を金融業と定め、私的に事業を営むことを自ら戒めたが、同郷だった浅野総一郎の事業を支援するなど事業の育成を惜しむことは無かった。

現在の鶴見線である鶴見臨港鉄道の安善駅は、安田善次郎の名前に因む。また日本電気鉄道や、帝国ホテルの設立発起人、東京電燈会社や南満州鉄道への参画、日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わった。また、チェス嫌いとしても有名である。

1921年9月27日、神奈川県大磯町字北浜496にある別邸・寿楽庵に、弁護士・風間力衛を名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、面会を断られた。

この風間力衛は実在の人物であるが、神州義団団長を名乗る朝日平吾(1890-1921)が勝手に詐称しただけであり、風間本人は事件と何の関係もない。

翌日、門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。午前9時20分ごろ、この朝日平吾に安田は刺殺された。朝日はその場で、剃刀で首を切り自殺した。

所持していた斬奸状に曰く、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」

満82歳没。戒名は正徳院釈善貞楪山大居士。1ヶ月後の原敬首相暗殺は、この事件に刺激を受けたものといわれる。

1921年11月4日、原 敬首相は京都での立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたところ、午後7時25分頃、突進してきた中岡艮一(こんいち)に短刀を右胸に突き刺された。

原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された艮一は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。

この裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の艮一の“特別な”処遇(3度もの大赦で1934年には早くも釈放された。

戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなどとあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。

艮一が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した原の政治に対する不満のほかに、以下のような話もある。

玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。有名な右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。

犯行の1カ月前、艮一と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、艮一が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したとい
う。

このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・11

2009年12月19日

◆唐辛子を格別好む人々

渡部 亮次郎

「唐辛子」は「唐」から伝わった「辛子」の意味である。ただし、この「唐」は漠然と「外国」を指す語とされる。同様に南蛮辛子(なんばんがらし)や、それを略した南蛮という呼び方もある。秋田地方では「なんばん」という。

だからと言って好物ではない。唐辛子の利いた朝鮮半島の漬物「キムチ」を嫌いではないが、特別の好物と言うわけでもない。ほかに無ければ食べる、と言う程度。

毎月1度集まるある会は決って錦糸町駅近くの朝鮮料理店が会場。

格別、唐辛子料理好きが多い。私も焼酎で中和させるようにして食べる。

九州の一部では唐辛子を「胡椒」と呼ぶことがある(「柚子胡椒」の「胡椒」も唐辛子のことである)。これは南蛮胡椒、または高麗胡椒の略らしい。

一説には大陸(唐土)との交易で潤っていた地域では「唐枯らし」に音が通ずる「トウガラシ」の呼び名を避けたためといわれる。また他地域で言うところの「胡椒」を、区別のため「洋胡椒」と呼ぶことがある。

沖縄県の島唐辛子や、それを用いた調味料をコーレーグース(コーレーグス)と呼ぶが、これは高麗胡椒の沖縄方言読みとも、「高麗薬(コーレーグスイ)」が訛ったものだともされる。

唐辛子の総称として鷹の爪を使う者もいるが、正確には「鷹の爪」は唐辛子の1品種である。

胡椒などの他の香辛料と同様、料理に辛みをつけるために使われる。また、健胃薬、凍瘡・凍傷の治療、育毛など薬としても利用される。

鑑賞用のトウガラシ日本への伝来は、1542年にポルトガル人宣教師が大友義鎮に献上したとの記録があるが、他に諸説ある。南蛮胡椒と呼ばれていたのはこのためであるとされる。日本では最初、食用とはならず、観賞用や毒薬として用いられた。

1613年の朝鮮文禄『芝峰縲絏』には「倭国から来た南蛮椒には強い毒が有る」と書かれ、1614年の『芝峰類説』では「南蛮椒には大毒があり、倭国からはじめてきた。

だから俗に倭芥子(倭辛子)というが、近ごろこれを植えているのを見かける」と書かれており、イ・ソンウが『高麗以前の韓国食生活史研究』(1978年)にて日本からの伝来説を示して以降、それが日韓共に通説となっている。

伝来理由としては朝鮮出兵のときに武器(目潰しや毒薬)または血流増進作用による凍傷予防薬として日本からの兵(加藤清正)が持ち込んだのではないかとも言われている。

「大和本草」(貝原益軒著)には蕃椒の記事に「昔は日本に無く、秀吉公の朝鮮伐の時、彼の国より種子を取り来る故に俗に高麗胡椒と云う」と書かれている。

これは一見相反するが、日本に唐辛子が伝わった当初は日本国内ではあまり広まらなかったまま、朝鮮に伝来し、その後日本国内でも広まったためではないか、という見解もある。

一方で1460年に発刊された『食療纂要』にチョジャン(椒醤)という単語があるとし、それがコチュジャンを意味するもので、日本伝来の唐辛子とは違う韓国固有の唐辛子はすでにあったと主張する韓国の研究者も存在する。

しかし、1670年の料理書『飲食知味方』に出てくる数多くのキムチにも唐辛子を使用したものは一つも見られず、 韓国の食品に唐辛子を使用した記録が19世紀に少し出てくる程度であることから疑問の声もあがっている。

ただし日本で料理に唐辛子が多く使われるようになったのは比較的最近のことである。1980年代以降、韓国料理やエスニック料理が浸透し、「激辛ブーム」などが起こる以前は、せいぜい薬味や香り付けに一味唐辛子や日本特有の七味唐辛子が少量使われる程度であった。

市販のカレーでさえ現在ほど辛口の商品が多くはなかった。今も年配の層には唐辛子の辛味を苦手とする人は多い。私の父はカレーライスを食べないまま死んだ。享年80 老衰。それでも50の時、胃癌をやった。

ビタミンAとビタミンCが豊富なことから、夏バテの防止に効果が高く、また殺菌作用があり食中毒を防ぐとも言われるので、特に暑い地域で多く使われている。

殺菌のほかに除虫の効果もあり、園芸では他の作物と共に植えて虫害を減らす目的で栽培されたり、食物の保存に利用される事もある。果実を鑑賞するためのトウガラシの品種もある。

唐辛子の辛味成分はカプサイシンである。この辛さは刺激が強く人により好みがある。唐辛子によって辛みをつけた料理を好む人は多く、また食べたあと胃腸に問題を起こすことも少ない。

インドやタイ、韓国などの唐辛子が日常的に使われる国・地方では、小さい子供の頃から徐々に辛い味に慣らしていき、胃腸を刺激に対して強くしている。

一方で日常的に使う習慣のない場合は、味覚としての辛味というよりも「痛み」として認識され、敬遠される。実際、カプサイシン受容体TRPV1は痛み関連受容体に分類されており、唐辛子の辛味は口内の「痛覚」である。

このことからも、痛みを味覚として好むということ自体、多分に社会文化的条件付けによるものと言える。これらの国が唐辛子を積極的に摂取するのは、メキシコや西アフリカ、中国の四川省・湖南省など夏に暑い地域が多く、発汗を促し暑さ負けを防ぐためであると言われる。

ただし、ベトナム(中部を除く)、台湾、沖縄など暑い季節が長いにもかかわらずさほど唐辛子を好まない地域がある一方、韓国、ブータンなどそれほど暑くない地域(韓国も大陸性の気候の影響が強く夏は暑くなるが、高温になる季節は長くはない)で唐辛子を特に好む食文化もあり、唐辛子の嗜好は単なる気候的要因ではなく文化的要因によるものが強い
ことが伺える。

フィリピン、中国などアジアでは葉を青菜と同様に炒めて食べたり、汁物の実とすることもある。日本では佃煮にすることもある。

なお、唐辛子の過剰摂取と発癌の関連性が指摘されており、唐辛子を多く摂る国は胃癌や食道癌の発癌率が高いといわれている。

現在世界中の国で多く使われているが、アメリカ大陸以外においては歴史的に新しい物である。クリストファー・コロンブスが1493年にスペインへ最初の唐辛子を持ち帰った。唐辛子の伝播は各地の食文化に大きな影響を与えた。

ヨーロッパでは、純輸入品の胡椒に代わる自給可能な香辛料として南欧を中心に広まった。16世紀にはインドにも伝来し、様々な料理に香辛料として用いられるようになった。


バルカン半島周辺やハンガリーには、オスマン帝国を経由して16世紀に伝播した。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・11

2009年12月15日

◆日比谷公会堂の80年

渡部亮次郎

今年、創建80年を迎えた日比谷公会堂は、殺された大富豪安田善次郎の法外な寄付によって建てられたものである。市政会館に付属している。

東京市長でもあり、中立な市政のための調査機関の必要性を訴えていた後藤新平の主張に大富豪安田善次郎が共鳴、当時としては巨額の350万円を寄付して、「市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として計画された。

建物は指名設計競技で一等となった佐藤功一の設計になるもので、
1929年に竣工した。現在も同建物(市政会館)内に財団法人・東京市政調査会がある。ちなみに開場式で、新聞を破いた音が参加者全員に聞こえたという。音響効果が良いことを証明した。

完成 1929年10月19日 開館 1929年だから、2009年の今年は80周年の記念の年だったのだ。

鉄筋コンクリート造4階建て、面積6,032m2
定員2,074名(1階1,052席、2〜4階1,022席、車椅子対応席11席)2 - 4階は同一フロアである

設備 日比谷公会堂・日比谷公園大音楽堂
用途 演劇、講演会、集会 等
運営 日比谷公会堂・大音楽堂管理事務所
所在地 東京都千代田区日比谷公園1-3

かつて、東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれたが、次第に影が薄くなっている。

東京文化会館をはじめにNHKホール、昭和女子大学人見記念講堂、サントリーホール、東京芸術劇場、オーチャードホールといったコンサート専用ホールやコンサートに使用可能な多目的ホールが整備されるに従い、コンサートホールとしての地位は低下して行く。講演会、イベントなど音楽会以外の利用が増え、クラシック音楽の演奏会はほとんど開催されなくなった。

この状況を憂う文化人が再興を提唱し、2007年秋、井上道義指揮によるドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏会「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト2007」が開催された。

一方、通りに面した、市政会館。1936年に誕生した同盟通信社は、当初は前身の新聞聯合社や日本電報通信社の社屋を本社としていたが、業務の拡大で社屋が手狭になったことから、1942(昭和17)年1月11日に同会館に移転した。

1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾したことを受けて同盟通信社が共同通信社と時事通信社とに分社すると、両社が引き続き本社として使用した。

のちに共同通信社は、港区の共同通信会館に移転するが、時事通信社は会館に残った。しかし、2001(平成13)年に電通が東証1部に上場すると、大株主である時事通信社は保有する電通株の一部を放出。売却益を基にして新社屋に移転した。

1999(平成11)年6月11日に、東京都景観条例に基づき「東京都選定歴史的建造物」となった。また2003(平成15)年6月9日、千代田区景観まちづくり条例に基づき「景観まちづくり重要物件」に指定された。

ところで、日米安保条約の改訂で国中が大騒ぎした「60年安保」。その最中の1960年、浅沼稲次郎暗殺事件は、この日比谷公会堂での出来事である

1960年10月12日午後3時頃)、日比谷公会堂において、演説中の日本社会党(当時)委員長・浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)が、17歳の右翼少年・山口二矢(おとや)に暗殺された。

10月12日、日比谷公会堂では、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会(東京選挙管理委員会等が主催)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長・西尾末広、社会党委員長・浅沼稲次郎、自民党総裁・池田勇人の順で登壇し演
説することになっていた。

浅沼委員長は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出た。

司会のNHKアナウンサー・小林利光が自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。

浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると…」と発言した午後3時5分頃、突然17歳の少年・山口二矢が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの短刀(のちに銃剣と判明)で浅沼の胸を2度突き刺した。

浅沼は、刺された後によろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書が浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心した。

しかし実は一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断され、巨漢の脂肪で外出血はせず内出血による出血多量によりほぼ即死状態(側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという)で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。

山口二矢はその場で現行犯逮捕、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)の文字を監房の壁に残した後、自殺した。

この事件で警視庁は、大日本愛国党総裁である赤尾敏(当時61歳)を威力業務妨害容疑で逮捕した。

公党の党首に対する攻撃を防げなかったとして山崎巌国家公安委員長が引責辞任。この事件を機に、刃物の追放運動が全国に広がるようになり、また要人警護の手法が“目立たないように”から“見せる警護”へと改められることになった。2009・12・13
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』