2009年02月27日

◆鞭屍を恐れた毛沢東

渡部亮次郎 (全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

「中国がひた隠す毛沢東の真実」について書評を書く心算だったが、その残酷さに何回も反吐が出そうになった。あまりにも友人、同郷者を中心にした若い頃からの支持者を粛清した物語の連続。とても血の通った人間とは思えない。

この本の原著者「北海閑人」勿論仮名。北京に住む中国人男性とみられる。相当のインテリである事は間違いないが、当局の拘束を恐れて経歴は一時教授をしたか、政府の職員をしたらしいぐらいしかわからない。

1976年は毛沢東が死亡した年だが、翌77年に香港で雑誌「争鳴」ガ創刊された。密かに民主化、自由化を望む党幹部の支持があってのオピニオン雑誌ながら、当局の弾圧を逃れて刊行がつづいている。

この「争鳴」の2001年4月号から痛烈な毛沢東批判文が掲載されるようになった。そのうちの2004年2月号までを14章に分けて翻訳したのが本書「中国がひた隠す毛沢東の真実」である。発行は草思社(電話 (営業) :03-3470-6565 書籍番号ISBN 4-7942-1443-X。

非正常死亡者。正常ならざる死亡者とは餓死させれたり治療と偽って殺された人を呼ぶ中国語。毛沢東が生涯に犯した罪による非正常死亡の中国人は統計がないから誰も判らないがおそらく1億や2億人には達するだろう。

文化大革命(文革)中には突出した事例が出現した。元国家主席劉少奇はそれまでの住まいを牢獄に改変され、3年近い日々を24時間監視されあらゆる凌辱を受けた。脚を折られ、肋骨を折られた。

3日に1度の食事を、犬のように地面に伏して舐めて食べざるを得なかった。看守たちは洗面、風呂、調髪をさせず四肢を床柱に縛り付けた。国家主席劉少奇は死ぬ時、頭髪も髭もぼうぼうだった。

これに対して毛は拘束の指令しか与えていない。具体的な事は指令していないと逃げた。自分より人民に人気のあった劉をそれほど憎かった。だからこそ文革まで起こして劉を逮捕したのである。

文革前夜に失脚に追い込まれた初代公安部長羅瑞卿は牢獄内の虐待に耐えられず飛び降り自殺を図ったが右足の踵の骨折だけで済んだ。しかも治療不十分だったため傷口が化膿。医師は2度目の手術をしたが、無傷の左足をも切断、義足を付けさせなかった。その2日後、羅は竹かごにおしこまれ、20万人批判闘争大会に引っ張り出された。

羅はそれでもしぶとく生き抜き1978年に当時の西ドイツで3度目の手術を受けたが急死した。毛より2年長生きしたわけだが本心,羅は失脚前に死にたかったろう。

1967年、賀龍元帥は隔離審査中、空腹でたまらず、反省調書を噛み砕いて紛らわした。医師団は糖尿病の彼に毒であるブドウ糖液を注射し、結果、欲しがる水を日にコップ2杯しか与えずに殺した。噛んだ紙くずは消化せずハラは鉄のように硬くなっていた。

彭徳懐元帥は文革中、紅衛兵に痛めつけられた末直腸がんを患ったが、医者は痛み止めの注射を拒んだ。最期の日、一目、空を見せてくれと頼んだが断られて死んだ。

かくて中華人民共和国主席・劉少奇と三軍元帥・彭徳懐の2人は死ぬまで迫害され、骨壷の姓名を変えられ、職業も「無職遊民」とされてしまった。

毛沢東が侵攻してきた日本軍のお陰で蒋介石を倒し、共産主義政府を樹立できたと親日媚日論を展開していた事は知る人も多い話だが、中国ではこの件りは今も公開文献からは削除されている。日本軍と戦ったのは共産党だとうそを教えているからである。

終いにエピソード。中国人は朝代が代るたびに前朝代の皇陵を壊すのが習いだった。鞭屍(べんし)といった。それを毛沢東は自らの重臣や党幹部の祖墓壊しを紅衛兵に許したために中国全土でそうした墓が無くなってしまった。


だが、毛自身も死後「鞭屍」に遭う事を恐れるようになり、死ぬ間際には「火葬」を遺言していた。しかし火葬にはならず「死んで生き恥」を天安門にさらしている。2009・02・26

■渡部亮次郎主宰の「頂門の一針」1457号
平成21(2009)年2月27日(金)
<同上号の目次>

・鞭屍を恐れた毛沢東:渡部亮次郎
・行革?利権の移譲よ:山堂コラム 255
・米国並み新聞の危機近し:前田正晶
・胡錦涛、糖尿病悪化説:宮崎正弘
・「おくりびと」に思う:馬場伯明

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年02月22日

◆嘆きのわがペイン・クリニック

            渡部亮次郎
      
 (「頂門の一針」が復刊しました。同誌目次は下段に記載ー編集部)

長時間、椅子に坐れば次に歩行が困難になるという奇態?に陥ったためほぼ日刊化していたわがメイル・マガジン「頂門の一針」を一旦、休刊せざるを得なかった。読者各位のお励ましを沢山戴き、カイロプラクティックのお陰でなんとか復帰いたしました。

坐骨神経痛。机に覆いかぶさるようにして原稿を書いたり、パソコンを打ったりの姿勢を長時間続けているうちに、脊椎が盛り上がるように曲がり、坐骨神経をいたぶるようになった。1歩も歩けなくなってしまった。

そこで若い頃から信じているカイロプラクティック(渋谷カイロプラクティック院 電話:03-3463-4803)で曲がった箇所を押し込んでもらう治療をしていただいた結果、何とか回復した。休刊中も読者は増え続けるし、あまり休むと忘れられるわよという家人の声にも押されて復刊いたしました。カイロプラクターはもう少し休めと反対しています。

病院でCTとレントゲン写真を撮影しました。酷く曲がった脊椎に唖然となりました。しかし、整形外科医は「直しようがありません」と口少なく鎮痛剤と湿布薬を処方しただけでした。

20代の終わりごろ、NHKの政治記者になって間もなく、右足のかかとに痛みを感じ、はじめて鍼の世話になったが遂に治らなかった。直後、書いたり、読んだりの姿勢をとると目の奥が痛むようになった。脳腫瘍を疑って病院にかよったが、「脳腫瘍でそれぐらい痛くなったら死んでいるよ」と笑われた。

日本大学駿河台病院のペイン・クリニックで判明した事は頚椎のズレだった。かかとの痛みは頚椎に発していたのだ。ハリで治らなかったわけだ。そのうちにギックリ腰を起こして、担ぎ込まれたところがNHK放送センター近くの渋谷カイロプラクティック院だった。

甲木(かつき)院長の説明と治療に納得、帰りはサッサと歩いて帰れた。頚椎のズレも治していただいた。世の中が明るくなったような気がした。

あれから既に40年。事あるごとに世話になってきたカイロプラクティック。アメリカと反対で、国は依然,医療として公認しないため、カイロプラクティックはわが国では継子扱いである。だが私にとっては最後に掴むワラである。

脊椎は背骨の筋肉で守られている。右利きの人は右の背筋が発達するから脊椎も右に湾曲しがちになる。体操をして戻さないと「右側湾症」となって坐骨神経を刺激したりする。加えて私のはパソコンのやりすぎで腰が猫背のような状態になってしまった。

ときどき、指を休めて背骨を伸ばす体操を怠ったからである。原稿を書き始めると煙草を吸う(禁煙後30年)のを忘れると言う、ありすぎる集中力の結果である。再び、そうならぬよう、休み休み止まらずに走ろう.酒瓶を亀に変えて。2009・02・21

◆メイル・マガジン「頂門の一針」 1455号(復刊号)
             平成21(2009)年2月22日(日)

<同号目次>
・ 嘆きのわがペイン・クリニック:渡部亮次郎
・「感情的反捕鯨論との闘い方」:櫻井よしこ
・サムライ・ニッポン:山堂コラム 254
・「政治家と酒」:花岡信昭 
・秘密口座ビジネスの終焉か:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年02月20日

◆湯豆腐も味噌も外国頼み

渡部 亮次郎

対米戦争の始まった翌年から国民学校(尋常小学校)に入ったが、間もなく道端に大豆を植えさせられた。同時に農家では農地に仮にも隙間があれば大豆を植えたから、毎日が大豆との付き合いだった。

戦争が始まって間もなくは満洲帝国から、今で言えば小型乗用車のタイヤ大の「豆滓(まめかす)」が農家には配給され,戦局激化に伴う食糧難の折には,ご飯に混ぜて食べた。大豆から油脂を搾り取ったあとの滓(かす)。下痢の元になった。

そうした時代になると豆腐屋の親父も戦場に狩り出された。仕方無しにお袋は水に一夜浸した大豆を擂鉢で摩り下ろし(呉=ご)て味噌汁に放った。「呉汁=ごじる」。結構美味かった。また食べたいが面倒だし、東京のマンションでは台所に乾燥大豆は無い。

中国、日本、朝鮮半島で古くから穀物として栽培されており、アメリカへは1800年代の初めに伝わったが、長いこと飼料として栽培され、主流作物ではなかった。

1920年代初め大豆加工業が発展したことによって、大豆栽培に弾みがつき、今日ではトウモロコシ、コムギについてアメリカの主要穀物となっている。

93年にアメリカは世界の生産量の約45%を占め、ブラジル、中国、アルゼンチン、インド、カナダなどが続いている。アメリカ国内では主に中西部とミシシッピ下流域で生産され、ダイズ生産量の40%以上が輸出されている。

日本はダイズ消費量の95%ぐらいを外国に頼っていて、大半はアメリカから輸入している。日本の国内では、北海道、秋田県、栃木県、茨城県、富山県などで生産される。納豆用、豆腐用、エダマメ用が主流である。エダマメは今度エンサイクロペディアに入った。

2004年における世界の10a(1反歩=300坪)当たり収量の平均は 223kgであり、日本の平均収量に比べ3割ほど高い。

主産国の単収は、アメリカ:286kg/10a、ブラジル:229kg/10a、パラグアイ:192kg/10a、中国:180kg/10a。

日本の大豆が諸外国に比べて低収であることの主な要因は、油糧用大豆中心のアメリカ・南米に対し、粒大やタンパク質含量等を重視する食品用大豆が中心であるためである。

ちなみに国産大豆と外国産大豆の成分を比較すると、国産大豆はタンパク質含量が多く、外国産大豆は脂質含量が多い。タンパク質含量は国産が35%、米国産が33%。脂質含量は国産が19%、米国産が22%。

わが国では高音多湿な気候の所為で「発酵」による納豆や味噌として食べ、ほか豆腐や枝豆など大豆を直接食べる方が重点となったから品種改良は蛋白質を多くすることに力点が置かれた。

これに対しアメリカでは油脂をしぼるだけが目的だったからこうなった。ダイズの良質な脂肪分は食用油に精製され、サラダオイル、ドレッシング、マーガリン、マヨネーズなどになる。また、ダイズ油は繊維、化学製品などにも使われる。

ただし日本占領軍として滞在した兵士たちが豆腐にダイエット価値を認めた結果、最近は「豆腐ステーキ」が普及している。いくら「長生きの素」とはやしても納豆からは逃げる。臭いらしい。私の友人で納豆を食べられるアメリカ人はたった1人しかいない。


2009年02月16日

◆毛沢東重返人間

渡部亮次郎

相変わらず北京からは外国報道陣に対する規制の報道が伝わってくる反面、毛沢東を生き帰らせてトウ小平の改革開放に腹立ちさせる小説が海外に流れるなど、上手の手から漏れる水も結構あることを知らされて面白い。

次の福島特派員は既に東京に戻っているが戻る直前に打ってきた通信である。
<【北京=福島香織】中国国営新華社通信は2007・9・10日、国務院(内閣)の決定に従って、外国通信社の中国国内における配信を新華社管理下に置き、配信内容に制限をもうけることを定めた「外国通信社中国国内配信記事管理弁法」を発布。同日から施行された。

同法では、外国通信社やそれに類するニュース配信機関が国内ユーザーと契約する場合、新華社系代理店を通すことを義務付けた。

また配信記事、写真、図表について、国家統一や主権領土の完全性を損なう▽国家の安全、栄誉を損なう▽中国の宗教政策に反した邪教、迷信の宣伝▽民族団結や民族感情を損なう▽経済、社会秩序を乱す▽中国伝統文化を損なう−などの10項目の内容を禁止。

これに違反すれば、警告ののち、通信社の資格を取り消す場合もあるとしている。国内メディアが外国通信社記事を使用する場合も同様の規制が設けられた。>(Sankei Web 09/12 00:13)

現在はどうか。
<外国人記者の取材緩和規定は、五輪後の08年10月まで。その後の揺り戻しを思うと、ひどく憂鬱(ゆううつ)になる>と産経野口東秀特派員は嘆いている。2007.10.7 02:52

あれからたった1年。以下のような「お話」が書かれた。
樋泉克夫のコラム――お笑い・おとぼけ・ずっこけ毛沢東・・・『毛沢東重返人間』(葉永烈 風雲時代出版 2002年)
中国でどのように読まれているかは判らない。7年経って日本に紹介された。

張霞は毛沢東の遺体が収められている毛主席紀念堂に勤務する女医。

夫は香港生まれの台湾育ちで香港証券公司北京事務所首席代表。たまたま2人は留学先のハーバード大学で知り合って結ばれた。

現在の住まいは北京の超高層マンションで子供はいない。彼女の父親の張豪は、北京を中心に超高級大型マンション開発を次々と手がけるやり手不動産デベロッパー。

祖父の張軍は毛沢東から強い信頼を寄せられていた身辺警護責任者。共産党長老であればこそ、様々な恩典を享受している。

いわば歴代共産党政権の“いいとこ取り”を享受する典型的な老壮青三世代一家。毛主席万々歳で改革・開放もバンザイだ。

ある冬の日の午後、アメリカ人の友人に誘われ北京郊外でゴルフを楽しんだ疲れからだろう、毛主席紀念堂2階の執務室で英文で書かれた『この目でみたソ連解体』を読みながら、彼女は寝入ってしまう。

どれほどの時間が過ぎたのか。ふと彼女の耳に、コツコツと怪しげな音が。夢か現か。目覚めた彼女が階段を降りて音のする方へ向かうと、ケースに納められた毛沢東がカッと目を見開き、ジッと彼女に見入る。

20数年の眠りから目覚めたのだ。彼女は祖父に連絡し、誰にも知られることなく祖父の家に毛沢東を案内する。

毛沢東を長患いがやっと癒えた書家の文潤之に変装させ、張霞と張軍が連れ出す。先ず北京の街をドライブだ。因みに文は毛沢東の母方の生家の姓で、潤之は毛沢東の号である。
張豪が自家用車を2台持っていることを知るや、毛沢東は「断固として改めねばならない資本主義的傾向だ」と、いきり立つ。

毛沢東の目の前に車庫から引き出された「桑塔納(サンタナ)」のハンドルを握っていたのは張霞。

「若い娘が車の運転か」と怪訝な顔つきの毛沢東に、彼女は「英語、コンピューター、車は今時の中国の若者にとって当たり前よ」と追い討ちをかける。

「20年ほど眠っていたが、まるで1世紀も後れを取ってしまったようだ」と嘆く毛沢東。サンタナはドイツのメーカーと合弁で上海で生産され、目下の中国では一般的な大衆車だとの彼女の説明に、「自力更生。独立自主という我が国工業政策の大方針に真っ向から違反している」と、トンチンカンにも心の底から不満をぶちまける。

北京の街並みは一変し、文革当時の面影は皆無。「M(マック)」や「KFC(ケンタ)」の看板に驚き、若い男女の派手な服装に眉を顰める。繁華街を歩く彼の手に若い娘がパンフレットを手渡す。

「文革の宣伝ビラ。それとも中央トップの講話かな」と喜んだのも束の間。高級マンションの宣伝ビラだった。

落胆頻り。自分と共に、周恩来、劉少奇、朱徳の横顔が並んで印刷された100元紙幣を手にし、「劉は党内外の一切の職務を解任され永遠に党籍を剥奪されたのに、なぜいま、多くの人民が使う紙幣に印刷されているんだ。

これは文革をひっくり返そうという陰謀だーッ」と激怒。当たり前の話だが、まさにKYの極致。
 
以後、故郷の韶山を訪ねては資本主義的変貌に驚き、蒋介石、江青からフルシチョフまで因縁浅からぬ人々と再会し論争し往時を語る。

ついには彼のソックリさんに見間違えられ公安まで出動する羽目に・・・。

「張先生、ぐっすりお休みでしたね」。暫しの眠りから目覚めた彼女は慌てて1階へ。やはり毛沢東は、目を閉じてケースの中に横たわっていた。

「幻想政治小説」と著者がいう『毛沢東、重(ふたた)び人間(じんかん)に返る』は激変する中国社会の矛盾を抉りだし茶化す。狂言回しの毛沢東が可笑しくも悲しい。

(ひいずみかつお氏は愛知県立大学教授。日本における京劇、華僑研究の第一人者。このコラムは宮崎正弘の「国際ニュース早読み」に独占的に連載されております)。

2009年02月13日

◆底流に町村・小池

         渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

各種報道を見ていて気付くことは、自民党各派は次の総選挙を麻生総裁で戦うことはとっくに断念し、後継者を誰にするかで口を閉ざしたまま死闘を展開している。

長老森喜朗氏は麻生氏からの「禅譲」で「清和会」会長の元外相町村信孝氏を考え、それが故に、最近、反麻生色を鮮明にさせだした直系中川秀直氏を派閥指導者から降格させる一方、元首相で派閥顧問の安倍晋太郎氏をわざわざ麻生の私邸に訪問させて「麻生支持」を再確認させて見せた。

森氏の構想として町村禅譲政権が実現した場合、首相としては弱かったけれど幹事長としては合格だった安倍晋太郎氏の幹事長再登板。安倍も満更ではなさそうだ。

一方麻生は自らの派閥を古賀派と合併させて嘗ての大派閥「宏池会」の再現を目指して、あえて党内の求心向上を企てている。こうした筋書きを描いたのがサメの脳味噌、ノミの心臓と揶揄される森氏だというから驚く人はおおい。

要するにこのシナリオは今国会終了の時点までは森・麻生のハラは一致するだろうが、それ以後の麻生のハラは誰も読めないことである。

詰まり、自民党政治の将来に展望を描ける人材は既に払底したことの証明であろう。その中でも中川秀直氏は資金力も豊富、識見も日経新聞政治記者出身と言うだけあって、今でも清和会の中ではかなりの支持者がいる。麻生の後継、オレで駄目なら目先を変えて女性小池百合子でどうだ、と気球を揚げている。清和会のごたごたは町村か小池かの争いなのである。

小池は清和会所属だが、森からは徹底的に忌避されている。派内では他にも厚化粧をとらえて「白塗りババア」と貶す幹部もいる。

こうした分析に対して自民党派内の表立った反応はない。しかし、党内最大派閥が森シナリオにしたがって動き始めている事は間違いない。それに従えば麻生首相は東京都議会選挙で公明党に義理を返したところで8月に下野、町村首相で総選挙に臨むという。
2009・02・12

■全国版メルマガ「頂門の一針」 1451号
         平成21年2月12日(木)
<同号目次>
・底流に町村・小池:渡部亮次郎
・歴史観持ち使命果たせ:櫻井よしこ
・「国なき民」台湾の国際地位:Andy Chang
・名門のNYタイムズとて:宮崎正弘

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年02月11日

◆建国記念「の」日の「の」

渡部 亮次郎

(再掲)建国記念「の」日がやってくる。この「の」こそが復活のキーワードであり、園田直(衆院副議長、外相、厚相、官房長官、故人)と私を結びつけた「の」である。

この日はかつて紀元節という祝日であったが、戦後になって紀元節の祝日化は廃止された。1951(昭和26)年頃から自由民主党タカ派を中心に復活の動きが見られるようになった。

やがて1957(昭和32)年2月13日、自民党の纐纈弥三(こうけつ やぞう)衆院議員らによる議員立法として国会に登場した。廃止以前のように「2月11日」を紀元節は無理としても「建国記念日」として復活させようというものであった。

ところが当時の野党第1党たる日本社会党はまず復活は保守反動の最たるものとして大反対。しかも、この「2月11日」という日付は「神武天皇元年(紀元前660年)1月1日」を、当時の歴史家が誤ってグレゴリウス暦で算出してしまったために弾き出された日付である。

だが「1582年10月4日以前はユリウス暦で算出する」という正しい方法で計算した場合、神武天皇元年1月1日は「2月18日」となる。つまり、正しい計算による建国記念の日は「2月18日」ということになる。このため皇族にも2月11日に反対する人がいた。

当然ながら以降9回の議案提出・廃案を繰り返した。もし自民党がシビレを切らして本会議で成立を図れば血の雨が降るだろうといわれていた。

折しも血の雨は日米安保条約改訂をめぐって1960(昭和35)年、降ったばかりであった。なんとなく紀元節復活くわばらくわばらというムードが漂っていた。

昭和40(1965)年11―12月、国会は韓国との関係正常化の是非をめぐって自民対社会党が激突。混乱の責任を取って衆院では船田中議長、田中伊三次副議長が辞任、後任の議長に山口喜久一郎(やまぐち きくいちろう)氏、副議長に入閣未経験ながら当選8回の園田直(そのだ すなお)氏が
選出された。

2人とも佐藤栄作首相のライバルながら数ヶ月前に急死した河野一郎派の所属。党内は不思議がったものだ。園田氏は当選8回なのに未入閣。国対族としてここで一旗上げようと張り切っていた。

翌1966年の正月、正副議長は伊勢神宮に参拝。衆院記者クラブに異動していた私(NHK)も同行、記者会見その他をこなした。

私は山口さんはともかく園田さんにはいい感情を持ってなかった。なぜならば、先立って河野派担当当時の総裁争いの時、朝駆けしても夜回りしても決まって留守で1度たりとも取材に応じて貰えなかったからである。

のちに外相になったときに秘書官として就いて分かったことだが、総裁選挙での多忙を理由に外泊を続けていたのである。3人目の夫人と「白亜の恋」で結ばれて勇名を馳せた人ではあったが、既に当時は○○○誑しとして有名だったから、得たりや応というわけだったのだろう。

伊勢参りから帰って間もないある日、数人の記者と懇談していて園田副議長がふと「菅原通済さんに勲1等を摂ってやる上手い手はないものだろうか」と言った。

戦前からの財界人であり、「売春・麻薬・性病」の三悪追放キャンペーンを主唱。売春防止法制定に力を尽くした人として有名であったが品性の点で大宅壮一(評論家)らの批判を浴びていた人である。

私は何気なしに「建国記念日法案でも解決したらね」と揶揄して御開きになった。

ところが翌日確かめてみると、建国法案をめぐって妙な動きが始まっていた。議長室と副議長室の間に議長サロン(応接室)が有るが、田中副議長時代は書棚が置かれて開けられなかったサロンへの扉が開くように変わっている。

しかも議長室に入った社会党の石橋正嗣(いしばし まさし)国対委員長が副議長室から出てきたりするではないか。

これは何かある。ひょっとして建国法案をめぐる動きではないか。園田副議長に出入りするのは社会党だけ。山口議長の部屋には自民党だけ。これは両党が秘密裏にサロンで建国法案について談合している。先日、菅原叙勲の話は瓢箪から駒だったのだ。

「あなたは菅原さんを使って建国法案を成立させるハラでしょう。日取りを決めずに法案を成立させ、日取りは菅原さんを会長とする諮問委員会に答申させて『2月11日』ずばりでしょう?」園田さんの顔色が変わった。

「そこまで読まれちゃ仕方が無い。事実をいうから合図をするまで書かないでくれ」となって問題は決着した。これをきっかけに代議士と記者の関係は友人関係になっていった。

説明によると建国記念「の」日とすることで社会党内は纏まる、つまり建国記念日法案ではなくなるからだ。自民党は「の」はたんこぶみたいで厭だが拘らない。

建国「記念日」ではなく「記念の日」なのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものである。これでは社会党も反対しにくいわけだ。

1966年6月3日、与野党は山口議長の調停という手続きにより「建国記念の日の日取りを決める審議会の設置で妥協。国民の祝日法改正案はこうして7日衆院通過、25日参院で成立。

7月8日、政府は建国記念の日審議会を設置、菅原通済、森繁久弥ら10人を委嘱。審議会は12日8日『2月11日』を答申、翌9日直ちに公布。その1週間前に山口議長が経済事件に連座して辞任。後任は綾部健太郎氏を特種で抜いた。予めの挨拶に園田副議長が単独同行を許してくれたから分かった。

園田副議長は衆院解散後も副議長に選出され、結局3代の議長を補佐し、1967年11月25日、厚生大臣として初入閣(佐藤内閣)した。遅すぎる入閣は当選9回、53歳だった。参照「ウィキペディア」 2007.02.02

追記:筆者にとっても佐藤首相にとっても忘れられない「の」であるが、事の次第はNHKの特ダネに終始した。新聞は「抜かれ」続けたから扱いは大きくしなかった。石澤さん(本誌寄稿者)はこのころNY勤務?でしたか。


◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部 亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

(再掲)離党届を出していたと伝えられる華国鋒・元党主席死んだ。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任した。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は毛沢東の庶子と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、!)憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の腐敗を監督!)中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求めた。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようになり、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒りを示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたようだが、結果は不明だという。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は皆無だった。

むしろ陰が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退く>ことを予感させた。2008・10・23

2009年02月10日

◆巴里だより 犬がこわかった

          岩本宏紀(在仏)

ぼくがまだ片言(かたこと)しか喋れなかった頃のことを、おじさんからよく聞かされる。

「宏紀(ひろき)を負うて歩いとったら、急に脚をひょいと上げるんじゃ。なしてかいのう(何故の広島弁)と思うと、はーるか先に、こーまい犬がおったんよぉ。」

婚約者のおばの家に行ったときは悲惨だった。家のなかにボクサーがいたのだ。そいつが立ちあがったとき、ぼくは思わす彼女、つまり婚約者のうしろに逃げ込んでしまった。

居合わせたひとたちは、ぼくの人格を疑ったに違いないが、幸い婚約解消には至らなかった。

そのくらい犬がこわかった。理由はわからない。噛まれたわけでも、追いかけられたわけでもない。

ところが28歳で初めて巴里を訪れて以来、でかい犬とすれ違う機会が多くなった。それも鎖なしで飼い主の前を歩いている。狭い歩道では強面(こわもて)の鼻先30センチ以内に近づくこともある。

けれど、巴里の犬がひとに向かって吠えているところは、ほとんど見ない。また犬同士も冷静で、近寄って互いの匂いを嗅ぎあうだけだ。たまにヨークシャーテリアが、自分の何倍もある犬に向かって必死で吠えているのを見ることがあるが、喧嘩はまず無い。

もっとも田舎では番犬として飼っている農家があるので、安易に敷地内に入ると、領土侵犯と見なされて吠えられるそうだ。

犬を飼っている友だちも少なくない。初めのうちはこわかったが、ぼくのことを覚え、懐(なつ)いてくれると、今度はかわいくてしかたがない。

かつては、人間に懐く犬よりも、人間に媚(こ)びず自分の世界に生きる猫のほうが断然好きだったぼくだが、今では「犬」と呼ぶのに抵抗を感じるほどになってしまった。(完)


2009年02月09日

◆分析器と推理力

渡部亮次郎

突然の不整脈、高血圧、下肢の浮腫を訴える私に内科医は種々の検査(分析)に基づいて「何でもありません」と言い続けた末、脳外科医の処方した薬の副作用であろう事にようやく気付いて、今のところ一件落着である。

一方、百年に一度の経済不況の中、不人気に苦慮する麻生首相や派閥の領袖たちは、推理力のなさはもともと凡々の2世議員だから当然だが、分析力も想像力も無いから、この国を運転できずにいる。

若い頃からU型糖尿病に悩まされた政治家園田直氏は終いには人工透析を拒否し、腎不全で死んだ。晩節は哀れだった。腎臓が殆ど機能しない(腎虚)から脚も顔も酷く浮腫み、とうとう靴がはけなくなった。両目も網膜症のため失明して死んだ。僅か70歳。昭和59(1984)年4月2日の朝だった。

その3ヵ月後、秘書官だった私が同じU型糖尿病と診断された。勿論、伝染病ではない。糖尿病にかかりやすい体質(DNA)が母親から遺伝していたのである。暴飲暴食が引き金になったのは当然である。園田亡きあとの身の処遇を巡って自暴自棄になっていたらしい。

あれから24年。糖尿病のコントロールは順調に来たようだったが、
2008年11月17日、脳の動脈が詰まる脳梗塞の症状が現れたのでかかりつけの病院に駆け込み、10日間の入院で後遺症は無く事なきを得て安堵した。

ところが退院直後から真夜中に動悸が激しくなって目覚めるようになり、起床直後の最高血圧も130前後だったのが150-160に上昇、さらに両下肢の浮腫が激しくなり、散歩用の運動靴のジッパーが締まらなくなった。「あ、園田さんになっちゃった!」そのショックたるや想像を絶する。

さっそく罹りつけの病院に駆け込む。内科医は血液検査だけで「何ら異常はありません。血圧降下剤を増やします。浮腫は時々机に両足を上げるようにして防いでください」。それでも心臓のCTスキャンをとり、24時間心電図もとった。

その結果、7日の最終診断。「何も出てきません。心臓は特に丈夫です。肝臓、腎臓の機能にも障害はありません」。私も先生もしばし沈黙。突然,内科医曰く「退院後、新たに呑み始めた薬はありますか」「あります、血栓のできるのを防ぐプレタールです」「あ、それの副作用ですね。脳神経外科の先生に相談してみて下さい。私の診察はこれでおしまいです」。

急遽、脳神経外科医へ。「あ、内科でそういわれましたか。そうですね。プレタールは動悸を高める副作用がありますからね。薬を変えましょう」と新処方。帰宅後、プレタールの代わりを服用して就寝。夜中に不整脈は起きなかった。血圧はまだ高いものの浮腫はおさまった。要するに薬の副作用。悪く言えば薬害だったのだ。

今の医師は殆ど聴診器を首から提げていないし、患者の身体に触る事も殆ど無い。コンピュータに連動する様々な検査機械ができて、昔のように聴診器をあてて頭を捻り病名や患部を推測する必要は殆ど不要になったからであろう。

しかし患者の側から言うと医師たちの推理力が落ちる事には大いなる不安がある。たとえば同居していた義母は背中がいたいといったら内科医は「骨ソショウ症」と決め付けて整形外科医まかせにしたが、実のところは胃癌の手遅れで死んだ。

素人知恵では「背中が痛かったら胃癌を疑え」というが、最近の医師は血液検査だけで診断し、推理で想像を逞しくすると言う事をしなくなった。推理力は発揮しても保険の点数は稼げないからだろう。
こうなると患者は常に医師を疑い、薬を疑って疑心暗鬼にしていないと助からない事になる。

引き換えて政界には角さん以後コンピュータ付き分析器がないから日本では2世、3世たちの乏しい頭脳にしか頼るものが無く国民はすがるところが無い、あぁ。 2009・02・08

2009年02月08日

◆薩摩汁は豚汁になった

                 渡部 亮次郎

<マイケル・ハワードさんは薩英戦争(文久3年 1863年)時の薩摩藩士の戦いぶりを紹介します。

「この国の国民は女子供から僧侶に至るまで、軍事に関しては天才的である。東洋艦隊が鹿児島湾に入ってどんどん砲撃をするのだが、対する薩摩藩士たちは大変な勇気を示して、こちらがちょっと休息していると、小船を駆って襲来してくる。其の為寝る暇も無い」(イギリス東洋艦隊士官日記)

この時、東郷提督も既に元服しており両刀を挿し、火縄銃を携えて初陣を踏みます。女達も薩摩汁(鶏汁)を作り、砲弾をくぐりながら兵糧運びをやりました。>(JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■No.1491 ■ H20.10.29 タフを忘れた日本MoMotarou放送局)

その頃の日本はまだ「四足」を食させなかった。反徳川色の強かった薩摩だから豚を公然と食していたのか。調べてみると違っていた。豚ではなく鶏だった。2本足ならなぜ良かったのかは忘れてしまったが。

<昔、薩摩藩では士気高揚のため、闘鶏が盛んに行われていましが、負けて死んだ鶏を使って武骨な男性が手っ取り早くできる野戦料理としてあみ出したのが薩摩汁です。薩摩鶏・桜島大根・ゴボウ・人参・こんにゃく・ショウガ等を煮込んだ栄養味豊かな味噌汁です。>
http://itp.ne.jp/contents/kankonavi/kagoshima/kyoudo/kag_kyo06.html
問い合わせ 鹿児島市観光課  TEL 099-216-1327

しかし、ご時世だ。鶏より豚の方が味は濃厚。禁断の味は明治5年から許可になったから薩摩汁=豚汁と言う事になったようだ。
http://schroedinger.s10.xrea.com/satumajiru.htm

サツマイモ 大1個、大根 1/3本、ゴボウ 1本、こんにゃく 1枚 厚揚げ1丁、豚肉薄切り200g、味噌 適宜 一味唐辛子 適宜

 1 ゴボウはささがきにして(ピーラーですると意外と簡単です)薄い酢水につけて灰汁抜きをしておきます。サツマイモは輪切りにしてから拍子木に切ってこれも水につけて灰汁抜きをします。大根は太めのせん切りにししておきます。

 2 豚肉はそのまま一口大位に切っても良いですが、エネルギーの気になる人はさっと湯通ししてから一口大に切っても良いでしょう。こんにゃくは下ゆでをして細かく短めのせん切りに、厚揚げは油ぬきをしてから食べやすい一口大に切っておきます。

 3 大鍋に豚肉を入れて軽く炒めてから、厚揚げ、こんにゃくを入れ、続けて野菜類を入れて炒めます。大根が透き通ってきたらひたひたになるまで水を入れます。

ここにお酒少々、だしの素、昆布茶を少々入れ、灰汁を取りながら一煮立ちさせます。灰汁取りは市販の灰汁取りシートを使うと楽です。煮立ったら火を弱め、味噌を少々と、しょうゆを少々入れて煮込みます。

 4 野菜が柔らかく煮えたところで、味を見ながら味噌を入れていきちょうどいい味に調えます。後はお好みで一味唐辛子を振ってお飲み下さい。

野菜などはうちで入れているモノです。お好みで里芋や人参、カボチャなどお好きなモノを入れてみてください毎日火を通せば冬は3日は保(も)ちます。

これは相当に量が多いので、1人暮らしの方などはもっと量を減らして作ってくださいね。根菜たっぷりの暖まるお汁、沢山作って置くと便利です>。

2009年02月02日

◆イラクの心を掴めないのか

                渡部 亮次郎

下記は『頂門の一針』3号(07・2・24)掲載のものだが、今日にも通じるも
のがあると判断するので再掲する。

日本人は中東の国々から石油を売って貰っておきながら、ある時期までは買ってやっているのだと言わんばかりの態度を取り続け、まともな付き合いをしていなかった。

さすがに石油ショック(1973年)の時、三木武夫副総理があわてて中東歴訪をしたが、それっきり。

通産大臣{当時)が訪問する事はあっても外務大臣が中東を訪問した事は1回もなかった。

今から30年近く前、当時の福田赳夫内閣で、官房長官留任を希望しながら外務大臣に「飛ばされた」園田直(そのだすなお)氏がNHKから私を秘書官に招んでやろうとしたことは、前々内閣からの懸案だった日中平和友好条約の締結問題にケリをつけることと中東各国との関係緊密化であった。

このため1978年正月早々にモスクワを訪れて日中条約締結について了解を取り付を図り、その足で中東各国を廻ろうとした。

ところが日中関係緊密化に反対するソビエト(現ロシア)は日本財界を通じて圧力をかけてきた。

またアラブと対立するイスラエルは私を二番町の大使公邸に招待とは名ばかり「中東には外務大臣は公式訪問はしないほうがいいのじゃないか」と大使自らが圧力をかけてきた。

アメリカ一辺倒の日本外務省としては,反石油産出国イスラエル寄りのアメリカの鼻息をうかがっている限り、日本独自の石油外交の展開など考えた事もなかったのだ。

それを聞くと園田外務大臣は何も言わなかった。本当は「内政干渉だ」と怒るべきだったろうが、アジアの戦場で11年も戦ってきて最後は特攻隊の隊。死ぬべき身が生き残った歴戦の勇士は逆に闘志を燃やすのだった。

1978年の1月、厳寒のモスクワで日ソ定期外相会談をやった後、一旦帰国一日東京に居てすぐイランに飛び立った。失脚前のパーレビ国王と会談した、エール・フランスの小型ジェット機をチャーターして出発した。

中東各国では一般の旅客機に王族が乗ってくるとその人数分だけ一般の客は降ろされてしまう仕来り。小型機ヲチャーターするしかなかった。

クエート、アラブ首長国連邦、サウジアラビアを歴訪した。日本から外務大臣が中東を公式訪問するのはこれが初めてだった。

一体、石油とは日本にとって何でもなかった。アメリカと戦争を始める時、わが郷里・秋田や新潟などで石油が採れた。当時は自家用車など殆んど無い時代.それでも戦争をするにはアメリカから輸入した物を1年分ぐらい備蓄して始めた。

それで戦争に負けた後、日本復興を叫んだが、必要な石油をどこから確保するのか、関心を持つ日本人は殆んど居なかった。どこかから入ってくるものとみんなが理解していた。

実は戦争中は中東の石油はまだ発見されてなかった。その後、日本のエネルギーの殆んどは中東に依存していたのである。それを日本人は関心を持たなかった。

それが証拠に、昭和47(1972)年に発表されて田中角栄氏を総理の座に祭りあげた「日本列島改造論」でも改造の石油をどこから確保するかは1行も触れられていない。カネさえ払えば石油は中東から自動的に入って来る、ぐらいの認識だったのである。

ある国で、道端の花壇に水をかけている人、あれは閣僚クラスなのだとわが大使館員の説明。なぜって、ここでは水は石油よりも高価な資源。それをばら撒くのだから担当に高官が当たるのが当然でしょう、との説明だった。

部族と言う物が大変な国民区別の識別標になっている。日本人が見たって判らないが、現地の人たちには一目瞭然らしい。要は山あり谷ありだったから土地、土地に分かれて部族が成立していた。

ところが乾燥で林が消えてしまった。それで却って区別意識が顕在化したものと思える。気候風土の違いで宗教心も異なっていたのに、いきなり沙漠化して一緒くたになったので、宗教の違いだけが浮き立ったので宗派の違いが対立となって残った。

それにしても中東は眩しい。スモッグが無いから目を開けていられないくらいまぶしい。みな睫が長いわけだ。1月だと言うのに30度は越している。

2日前まで厳寒のモスクワにいた身は日乾しになりそうだった。加えてアルコールが禁止されている。モーゼの教えなのだ。イランでは呑めたのがサウジアラビアでは外国人といえども禁酒。外国人が酒を呑んでいる事を知りながら申告しなかった人は罰せられるとのこと。これには参った。

時々奇妙な叫びが町の高いところに設けられたスピーカーから流れる。コーラン。買い物の途中でもそれが始まると中断だ。そばに女性らしい人が何人かいるがズタ袋のようなものを被っているから女性とはわからない。

 水と緑の瑞穂の国と水も緑も無い中東。

ある夜、砂漠で一人になる出来事に遭った。明りが一つも無い。聞こえる物は風ばかり。光は遠い星のみ。私は近くに車を待たしているからいいが、これをラクダで旅をしている人が一旦、砂塵にみまわれたらどうなるだろう、民主主義も人権も後回しになるだろうな、と思った。アメリカの中東民主主義支配は至難の業となろう。

後に外務次官やアメリカ大使になる人がクエートのホテルである朝、奇声を発して逃げ回っていた。「アイ・ラヴ・ユー」追い掛け回しているのはむくつけき男性。髭の剃り跡も青々とした彼だが鼻髭が無い。

私はホモですとの合図に見えるらしい。それで求愛されたのだ。日本人は笑うが現地では深刻な話なんだそうだ。イラク先遣隊の佐藤隊長が髭で人気になったと言うのはこのあたりに理由がある。

 男性も履いているスカートみたいなズボン。歩けばあの中は砂塵だ。砂がこびついたといっても水が無いから洗えない。割礼は当然なのだ。女性もそれに対応した措置をしなければなるまい。そこを日本人は知ろうともしないから困る。

園田事務所を通じ手知り合った江崎秀隆さんは国際交流の仕事を主として東南アジアと中東を相手にしており、忙しく国を出たり入ったりしている。たまたま日本にいるこの時期、メイルを打って来て「自衛隊のイラク派遣は『吉』と出そうだ」と言ってきた。

その第1は人種差別の事。中東の人たちは西欧で人種差別を厭と云うほどされているが日本人はそれを露骨にはしないので、日本人に好意を持っている。オマーンから来た青年は「ロンドンでは私がバスや地下鉄で席に座るとイギリス人はスーと立っていった。日本人はそんな事はしない」のだそうだ。

第2は宗教。西洋人はイスラム教を親の仇と思っている。その昔、イスラム教を征伐するために十字軍を派遣したくらいだ。だが日本人はいわば多神教。仏の上に神棚を据えて両方を拝んでいる。

中東へ派遣された日本の技術者がいきなりアラーの祈りをして見せて現地人を感激させた。自衛隊の中東派遣に最後まで渋った創価学会もその理由が宗教上の対立からが理由でなかったと知ったら、どうだろう。アラブの人々は日本人を宗教上の敵とは思ってない。

第3は、日本人は誠実で真面目で勤勉であり、平等意識を持っている。だからアラブの人々に好かれる。例えばいくらフセインが嫌いでもアメリカ軍の拘束直後の仕打ちはイラクの人々のプライドと言うものを傷つける。

あの単細胞ぶりがイラクに受け入れられることは絶対に無い。しかし自衛隊には細やかな心遣いがあり、絶対イラクの人々に受け入れられるはずだと江碕さんは言う。

アメリカという国は単細胞なところが多い。つまらぬことをやって相手の極端な反感を買いながらそれに何時までも気がつかない。それでいて「人間の営みには絶対の正義がある」を信条としている。それだからハンチントン教授が折角「文明の衝突」を著して中東文明との衝突を警告したのに、それをいちばん理解できないのがアメリカなのではないか。

「私の研修員も誇り高いアラブ人でした。空港まで見送りに行った時、やおらオーバーを脱ぎ、江碕さん、お世話になりました。母国(くに)では暑くてこれは要りませんので置いて行きます。ここにある物は皆、あなたの物ですから」と言って出て行った。妙なことを云っていたなと、帰ってそのポケットをみたら硬貨が山のように入っていた」。(了)


2009年01月28日

◆一文無しのヴィヴァルディ

渡部 亮次郎

常にクラシック音楽のヒットチャートの上位にいる名曲「四季」を作曲したのはヴィヴァルディだが、かの大バッハもヴィヴァルディの音楽を研究したという。

ところが、これほど有名な作曲家だったのに、死んだ時には一文無しだった。

生前のヴィヴァルディは名声を欲しいままにしていた。

ヴェネツィアのヴァイオリニスト兼床屋の長男として1678年に生まれたヴィヴァルディは、出世の糸口としてはじめは僧侶になるつもりで教会付属学校に入り、15年後にはめでたくカトリックの司祭になった。

ところがわずか半年で、彼はミサを上げることを辞めてしまった。

酷い喘息持ちであった。神妙にお祈りしている最中に、げほげほ咳き込んでムードを台無しにするような------しかも教会の中は日本のタイル張りの風呂の中のように、わんわんと反響するのであり------、そんな司祭は使い物にならない。

時を同じくしてヴェネツィアのピエタ慈善院付属女子音楽院の先生になったヴィヴァルディは、目を見張る勢いで音楽の才能を伸ばして行った。

作品の最初の出版は早くも1705年に行われ、1711年にはオランダでも出版されたから、その時までには彼の名声はイタリアだけでなく、ヨーロッパ中に鳴り響いていたに違いない。

とくにドイツではあのバッハが協奏曲集「調和の霊感」から何曲かを勉強のためにオルガン独奏用に編曲したし、ヴェルサイユ宮殿ではフランス国王ルイ15世が1730年頃、突然 「わしゃ『四季』(1725)の中の『春』が聴きたいんじゃ!」 と言い出し、取り巻きが大慌てでミュージシャンたちを集めて演奏した、という騒ぎもあった。

ところで、この「赤毛の僧侶」(ヴィヴァルディは当時こう呼ばれていた)は、作曲でどのくらい儲けたのであろうか?
 
相当なものだった。

例えば、1740年3〜4月にヴェネツィアを訪問したザクセン選帝侯フリートリヒ・クリスチャン公爵のための歓迎コンサート用に、協奏曲3曲、シンフォニア1曲の合計4曲を書いた。

その報酬としてヴィヴァルディが受け取ったのは15ドゥカーツ13リラだが、これは当時としては目玉の飛び出る額だったそうだ。

続く5月には20曲の協奏曲集を書き、70ドゥカーツ23リラをもらっている。これらの例から考えると、1曲4ドゥカーツ弱というのがヴィヴァルディに対する新作委嘱の相場だったようだ。

当時のあるヴェネツィア人は「“赤毛の僧侶”ヴィヴァルディは、一時は推定5万ドゥカーツも稼いだ」と記録している。

このように超人気作曲家だったヴィヴァルディは、何とも不思議なことに、今述べた1740年5月の協奏曲集を仕上げたあと、ぷっつりと行方をくらましてしまった。

研究によると、1740年の秋にオーストリア南部のグラーツに行ったらしいのだが、その翌年の1741年7月末、ヴィヴァルディは同じオーストリアの首都ウィーンで死んでいるのだ。 

ウィーンの聖シュテファン教会の記録によると、「僧侶アントニオ・ヴィヴァルディ」の遺体は、7月28日に市民病院の共同墓地に埋葬されている。

死ぬ直前のヴィヴァルディは、なぜかすっからかんになっていたようだ。なぜなら、彼が埋葬された共同墓地というのは貧民用の公共墓地であり、また、ヴィヴァルディの葬式にかけられた費用も、最低に近いランクだったからである。

もっとも、ヴィヴァルディが贅沢三昧、放蕩を尽くした挙句、文無しになって野垂れ死んだかのように考えるのは、正しくない。 埋葬されたのが貧民墓地だったのは、彼がウィーンの地では身寄りのない外人だったからだ。
 
それに、貧民墓地と言うと聞こえが悪いが、そこは実際には市立病院の付属墓地だった。

また、亡くなるその日まで泊まっていた屋敷は、ウィーンの劇場が作曲家たちのために準備した立派な館。異郷で客死した旅人としては、決してぞんざいな扱いを受けたわけではない。

とは言え、ヴィヴァルディが最後には無一文同様になり、付き人もなく、ひっそりと息を引き取ったのは事実である。

あれほど稼いだお金はどこに行ってしまったのか? この「赤毛の僧侶」の、生涯最後の1年間に、一体何が起こったというのだろうか。

ヴィヴァルディは最晩年に、自分の大ファンであるオーストリア皇帝カール6世の住むウィーンで一旗上げようと考え、相当な準備とお金をかけてウィーンにやって来た。

ところがその矢先、カール6世がぽっくり死んでしまった。ヴィヴァルディには大打撃であった。パトロンと目 (もく) していた人物がいなくなっただけでなく、ウィーン中の劇場が喪に服し、1年間も閉鎖されてしまったからだ。
 
オペラの上演が出来ず、収入がないのに経費だけはかさみ、持ち金がどんどん流れ出していく毎日…… 最後には手持ちの楽譜を叩き売るるほどに落ちぶれ、有り金全部使い果たした挙句、健康を害して・…ということのようである。

以上のことはヴィヴァルディ専門サイト「赤毛の司祭」の管理人:カーザヴェーチャさんが、同サイトの「ヴィヴァルディ資料館」中の「Q & A」で明らかにされている。出典『音楽ミステリー探偵事務所』 http://www.tcat.ne.jp/~eden/MM/PoorViv_fr.htm

2009年01月24日

◆オバマに頭を冷やせ

渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

米国大統領に半黒人が初めて就任したと日本でも誰もが感激しなければならないようにマスコミは呷るか、おかしくないか。おかしいよ。

オバマは確かに選挙演説は上手かった。興奮させるのが上手な人である。だからと言って上手な大統領、上手な政治家とは限らない。口舌の徒とは日本では悪口である。昔は三木武夫がそういわれた。

黒人だから、アメリカ国民の12%を占める黒人層に格別の財力や政治力が有るわけが無い。行政能力に優れていると言う証拠もないから期待しても間もなくがっかりさせられるからみているがいい。

私は英語の演説を100%理解できるわけじゃないが、開口一番、いいわけの演説だとわかった。それはそうだろう、行政の事は何も知らされていないんだから、改めて国民や全世界に約束すべき事はあるわけが無い。

日本語に直せば「頑張りますから、宜しくお願いします」といっているだけだった。団結だの責任だのと通訳は訳していたが、いうなれば「宜しくお願いします、皆さんも頑張って下さい」と言ったに過ぎない。

しかし、英語には「宜しく」も「お願いします」も無いから、抑揚をつけて、それらしいことを「演説」にすれば、あんなもんでしかない。

笑ったのは他所で見た夜のNHKニュースだった。聞いたことも無い大学教授を出して「挨拶」を「演説」として「分析」させたではないか。教授は今後もテレビに出て有名人になりたいから、編集者の喜ぶような事ばかりを言う。それを見せられている視聴者はバカということになる。

未曾有の経済不況を招いたアメリカだが、その責任の大半は産業界の指導者にある。政界はけしからぬ経営人に「自由」しか与えなかったから、政治家にも罪はある。

クリントン民主党が駄目だったからブッシュ共和党に代ったのであった。だが、ブッシュは阿呆な側近に騙されて戦争ばかり起こし、何も解決できないまま牧場に帰った(だけども民主に責任がまったく無いとはいえない)。

「駄目だこりゃ」と後継者たちは後釜戦争(大統領選挙)を実質、2年間も展開してマスコミを大いに儲けさせた。マスコミはもめればもめるほど儲かるから、世界がどうなろうと構うこっちゃない。

益々揉めさせて有権者の手に汗を握らせる。汗が出れば出るほど儲かる。だが、その金は庶民がインターネットで献金したものだった。だとすれば、これは荘厳な権力の争奪戦なんかでは無い。村祭りとおんなじだったのだ。

櫓の上での踊り手は苦い真実を語る奴は引っ込め!、空虚を爽やかにオブラートに包んだ奴こそ人気者になるの決っている。それがオバマだった。ヒラリーはファースト・レディーからの登場だったから初めから二番煎じの茶殻。最後はただの焦るお婆さんだった。

かくて就任式は「祭りの後の寂しさよ」なのに興奮した黒人は200万人も集まった。便所に困ったそうだ。だが、オバマは最早踊る必要も囃す必要も無い。口を開けば、今後は、その一語一語が「国際公約」になる。せめて「頑張りますから、応援宜しくお願いします」と言う日本の最近のアマスポーツ選手(最近はプロもそうか)の言う科白を言うしかなかったのだ。

カネもなし力もなし。あるのは口先だけ。その口も滅多に開いちゃいけないオバマはあれしか演説のし様がなかったのだ。オバマで我々日本人の先は全く明るくない。いい加減頭をひやそうぜ。
2009・01・22

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