2019年03月22日

◆北前船で裏日本が表だった

渡部 亮次郎


私の郷里(秋田県)には姓に越後谷、越中谷、越前谷、加賀谷、能登谷といった北陸を名乗るのが多い。播磨谷というのは瀬戸内海が先祖か。

若いとき地元の古老に尋ねたら「北前船の男衆(乗組員)が途中の寄港地・秋田の女にいかれて下船し、住み着いたのが子孫だ」とのことだった。

北前船(きたまえぶね)とは耳にした事はあるが、明治以降、全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった、というもの。実感は無い。「ウィキ」に頼る。

<北前船は江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。

買積み廻船とは商品を預かって運送するのではなく、航行する船主自身が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。

(太平洋側だと西風に吹かれてアメリカ大陸まで流される「難破」の危険があったが、日本海にはその危険は殆ど存在しなかった。西風はつねに陸側に吹く)。

西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。

この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。

この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。

これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。

また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。

さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。

前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船。

はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。

北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。

日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。

これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。

スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見方もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに鉄道の普及で水上輸送の意味がなくなって消滅した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鉄道が普及するまでは、東西文化の交流は北前船が担っていた。秋田の女にほだされて下船した男たちは学問の大切さも上方から持ってきた。

東北の名門校として知られる福島県立安積(あさか)高校だが、創立は明治17(1884)年。対する県立秋田高校の創立はそれより11年も前の1873(明治6)年。当に「北前船」のお陰で。いま「裏日本」とやや蔑視されている日本海側は昔は「表」だったのである。

それにしても近畿や北陸の男たちを魅了した昔の秋田女性のどんなところに魅力があったのか、失礼ながら今では確かめようがない。

とはいえ大阪と秋田の縁は未だに深く私の友人の一人も大阪の親戚を頼って就職したが、昔とは逆に自分が婿入りして生涯を全うした。        (2013・1・5)


2019年03月21日

◆1億総白痴化は成った

渡部 亮次郎


<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

2019年03月20日

◆「しょっつる」は苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は秋田の冬を代表する名物鍋。標準語でいえば「塩汁」。
秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた
旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたの
は40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食
べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売って
いて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっ
つる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を
入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在
作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られてい
る。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る
「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも
用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味
として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働
きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分
解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚な
うま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働き
が強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤
は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、
いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用
されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」
(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されて
いる。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発さ
れ、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道
日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発
酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メー
カーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっ
け醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造
する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いく
つかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアで
は、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いら
れる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している
地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマム
とも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、
カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャン
マーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・
イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ
ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露
(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の
「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。


歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれ
る魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペー
ストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われて
いた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっている
が、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚
醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにした
り、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚
をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレ
などを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用
いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵さ
せる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進
んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いも
のから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚
と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調え
るものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11


2019年03月19日

◆4人目の金日成

渡部 亮次郎


金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、
はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒
的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしま
うのだ。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の
今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでい
るはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦って
いたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦
を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首
相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンときた
というのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項
では「この人の経歴については、不明な部分が多く、いわゆる4人目の金
日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従っ
て」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネー
ム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語
に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処
分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文
書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成と
マッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサー
はそれを事前に知っていたが、韓国には知らせなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日
成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮
名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に
追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在
である(2000年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて
行ったのはスターリンソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので
「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわ
ざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将
来の後継者として権威付けるためだったという。  2011・10・11執筆

2019年03月13日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であ
り、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町
の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になっ
て調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。
もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。
1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高い
のは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品
で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年
10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したの
である。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも
歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀し
い」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソード
は大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた
青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。
私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については
「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発
表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、
小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっ
ているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校
の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等
女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学
校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立
横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田
文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸
軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、
「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ド
ラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中
央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生
活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞
記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であっ
たのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何の
ためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手
俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折か
らの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピ
ソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎
、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガン
ちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太
郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新
文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳で
したが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を
渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」
という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前
で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソー
ドを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳
 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は
1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳
優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が
終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以
内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町に
よく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カ
ネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名され
た。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。
家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日
があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えな
がらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い
出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に
誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山
脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入
社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆


2019年03月12日

◆「わが祖国」を聴きながら

渡部 亮次郎


高く済んだ秋空の下(もと)、ひさしぶり、MDでスメタナの「わが祖国」
を聴きながら、落葉で金色に輝く公園の道を散歩した。いつもは「ラジオ
深夜便」の録音を再生したのにつづいて聴くのはモーツアルトかベートー
ヴェンなのに。

なにか壮大で厳粛な気分に浸ることができるからである。とても演歌や
フォークソングではこうは行かない。祖国、国土、独立、さらに故郷の風
物への愛を強烈に感じる。

連作交響詩『わが祖国』 (わがそこく、Ma Vlast) は、ベドルジハ・スメ
タナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響
詩から成る。スメタナは聾唖者になっていた。

全6作の初演は、1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島にあ
る会場で行われた。この曲は、近来、毎年行なわれるプラハの春音楽祭の
オープニング曲として演奏されることが恒例になっている。

1 ヴィシェフラド  2 ヴルタヴァ  3 シャールカ  4 ボヘミアの牧場
と森から  5 ターボル  6 ブラニークの6曲から成るから、通しで聴け
ば1時間20分ぐらいかかる。

音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の
座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受
け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)となるが、作曲活動を続け、この
出来事の後に書かれた代表的な作品が『わが祖国』である。

1 ヴィシェフラド
『高い城』とも訳される。かつてボヘミア国王の住んでいた、プラハの大
きな城が描かれた作品。1874年に作曲された。吟遊詩人が古代王国の栄枯
盛衰を歌う、という内容である。

この作品の冒頭に現れ、全曲を通じて繰り返し用いられる旋律の最初の部
分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭)が音として刻まれている。

2 ヴルタヴァ 『モルダウ』の名で知られる。一連の交響詩群の中で最
も知られた作品であり、単独で演奏されたり、録音されることも多い。ヴ
ルタヴァ川(モルダウ川)の、源流近くからプラハへと流れ込むまでの様
子が描かれている。1874年に作曲された。 スメタナの故郷を思う気持ち
が現れている。

3 シャールカ 1875年に作曲された。シャールカとはチェコの伝説に登
場する勇女の名である。恋人に裏切られたことによって男への復讐を決意
した、という。そのシャールカが男の兵士達を策略にはめて皆殺しにす
る、という(男性にとっては首筋が寒くなる)内容である。

4 ボヘミアの牧場と森から 1875年に作曲された。ボヘミアの美しい風
景を音楽としたもの。途中、ドイツ風の歌やボヘミア風の歌といった民族
的な旋律も現れる。

5 ターボル 1879年に作曲された。ターボルとはボヘミア南部の町の名
である。フス派の人々の拠点であった。フス派の戦士の不屈の戦いを描い
ている。彼らの間で歌われたコラール『汝ら神の戦士たち』が用いられて
いるが、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。

6 ブラニーク 1879年に作曲された。ブラニークとはボヘミア中部の山
地の名である。その山々の深い森の中にて1000年前のチェコ民族の守護聖
人と勇士達が眠っており、チェコ民族が存続の危機に瀕した時に彼らがよ
みがえって救いの手を差し伸べる、という伝説がある。

曲は、邪悪に覆われた祖国をその勇士達が勝利を収めて解放する、という
内容である。

ベドジフ(またはベドルジハ、ベトルジヒ)・スメタナ(Friedrich)
Smetana, 1824年3月2日― 1884年5月12日)

ビール(チェコ・ビール)の醸造技師の息子として、ボヘミア北部のリト
ミシュル(Leitomischl)に生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを
学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の反対にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、あ
る貴族の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストか
らの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)になっても作曲をつづけた。のち
1884年に正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を終え
た。ヴィシェフラトの有名人墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であ
るといわれる。そのため、チェコ国民楽派 の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』
は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを
多用している。

また、彼の旋律は民謡を彷彿とさせる。同じ様にチェコの題材をその作品
中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな
影響を与えた。

主な作品

歌劇
『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862)
『売られた花嫁』(1863)
『ダリボル』(1867)
『リブシェ』(1872)
『二人のやもめ』(1874)
『口づけ』(1876)
『秘密』(1878)
『悪魔の壁』(1882)
『ヴィオラ』(未完)

管弦楽曲
祝典交響曲 作品6(1853)
交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58)
交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59)
交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62)
連作交響詩『わが祖国』(Ma Vlast)(6曲)(1874-79)
祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49)
プラハの謝肉祭

室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876)
弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83)
ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855)
『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880)

「わが祖国」の初演から100年に当たる1982年に、記念演奏会が東京で開
催された。(演奏は、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮によるチェコ・フィ
ルハーモニー管弦楽団)同公演はライブ録音され、翌年レコードとして発
売された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・14

2019年03月10日

◆「なめたらいかんぜよ」

   渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏
が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是
非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でにな
るのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次
官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保
障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画である
ことを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長
は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請
した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も
根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス
2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役
割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強
く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長
クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だ
ろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のも
のを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国
務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がっ
たのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に
次ぐ失態になる。2010・1・10

2019年03月07日

◆「大紀元」を知ってますか

渡部 亮次郎


大紀元(だいきげん、英: The Epoch Times)は、新聞とインターネット
を報道媒体とする華僑系報道機関である。

2000年5月、ニューヨークで“中国共産党言論統制を突破する”華人たちに
よって設立された。2011年1月現在、新聞では9ヶ国語、ウェブサイトでは
17ヶ国語でそれぞれ各国支局により運営されている。

日本では東京都台東区に事務所を置き、中国語版を2001年、日本語版を
2005年から発行している。

数年前、私は東京での社員集会に招かれて講演したことがある。社員の多
くは来日後「反共」になった女性が大部分だった。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、
世界30カ国にグループ社がある。

ワシントンD.C.やニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ボス
トン、カナダ、オーストリア、香港、台湾では日刊で、他の国・地域では
週刊で発行している。 全世界での中国語版の発行は週120万部。他に英語
版、ドイツ語版、フランス語版、ロシア語版、韓国語版、日本語版を発行。

紙面およびウェブサイトで、「中国共産党の圧力に屈せずいかなる検閲も
受けていない」ことを売りにしており、「中国国内では発信されない自由
民主に基づく視点」で、中国時事や文化記事を中心に報道している。

中国大陸以外で生活する中国人向けに記事は書かれており、中国共産党の
内政や外交問題を報道し続けている。特に中国共産党に対する報道姿勢は
非常に批判的である。

特に中国大陸における法輪功迫害問題(例:大量虐殺罪と拷問罪で中国前
江沢民国家主席がスペインおよびアルゼンチン裁判所で民事告訴されるな
どについては、他メディアが取り上げない事実を報道している。

他にもチベット民族、ウイグル民族やモンゴル等の少数民族に対する虐殺
や人権蹂躙に関する問題、中国共産党員の国外スパイ活動、中国大陸の環
境問題、中国の民主化運動などについて盛んに報じている。

『九評共産党(共産党についての九つの論評)』という社説を発表し、こ
の中で大紀元は中国共産党の暴政を糾弾し、同党の解体要因を指摘した。

九評共産党について中華民国元総統・李登輝は、「人も山河もみな、本源
へ帰る。奥の細道にたたずむ平安のみなもとを希求するすべての人々に、
この本を薦める」と評価し、「道徳的覚醒を促す」と出版社博大書店へ
メッセージを送った。

中国臓器狩り問題 の追究に熱心だ。2006年3月、中国人ジャーナリストR
氏は大紀元の単独取材の中で、東北部の瀋陽市近郊にある大型刑務所に数
千人の法輪功学習者が監禁され、当局が彼らを殺害した後、販売目的で臓
器を摘出している事を暴露した。

同問題が世界に明るみになった後、カナダの著名人権弁護士デービッド・
マタスと、カナダ政府元内閣大臣デービッド・キルガーは中国の臓器狩り
問題について調査依頼を受け、2007年7月、法輪功学習者が生きたまま臓
器を摘出されるというショッキングな内容を含んだ報告書「血塗られた臓
器狩り」を発表した。

この問題は世界のメディアや人権団体が注視している。この件でアルゼ
ンチンやオランダ、スペインなどで江沢民らを「人道に対する罪」で起
訴する動きがある。

受賞  2005年8月、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会の全国報道
賞、アジア・アメリカ問題ネット報道部門で優秀賞を受賞。 2005年9月、
カナダ全国マイノリティーメディア協会の2005年メディア賞を受賞。

2006年4月20日、アメリカのホワイトハウスで行われた中国の胡錦濤国家
主席の歓迎式典で、大紀元の女性記者・王文怡(ワン・ウェンイ)が式
典中、ジョージ・ブッシュ大統領の目前で胡錦濤を批判する発言(中国
共産党による臓器狩り問題に対して抗議する内容)を叫んだとして、国
際問題になった。その後、大紀元はアメリカ政府に謝罪し、王記者は解
雇された。2012・4・9

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://www.epochtimes.jp/

2019年03月05日

◆陸山は何処から来たか

渡部 亮次郎


小澤一郎さんの政治資金団体の名前が「陸山会」だという。「多分」これ
小澤一郎の「雅号」だろう。雅号を「越山」といったのは師匠田中角栄。
田中の親分佐藤栄作は「周山」と号した。派閥名が周山会だった。

「素准」は吉田茂の雅号。シゲル・ヨシダの頭文字SYを漢字で書いたとい
うわけ。明治の人、吉田ワンマンらしい洒落だ。

吉田茂とは比ぶべくも無い小澤一郎氏が、雅号を名乗ったのは角栄氏の越
山に倣ったものだろうが、選挙区岩手県の三陸(陸前、陸中、陸奥)の
山々を陸山と統一呼称し自らの雅号としたのだという説がある。

雅号(がごう)は、文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名
のことである。わが国の場合、政治家は花押と雅号を持って初めて一人前
とされる。特に花押は閣議での署名に使用するものだから、花押を持って
いる事は入閣済みを意味するから大事だ。

雅号の風習は中国から伝わった。特に、俳人であれば俳号、吟詠家であれ
ば吟号などともいう。

江戸時代までは、個人の名前は姓と諱(いみな)、名字と通称、さらには
字など、複数の名前を一人が持つことが認められてきた。しかし、明治時
代になると氏名が戸籍に記録され、それ以外の名前を持つことは禁じられた。

これに反発する形で、「雅号」が当時の知識人にもてはやされる。明治初
期の文人に夏目漱石や森鴎外のような雅号を使用している者が多いのはそ
のためである。

雅号は知識人以外にももてはやされ、軍人や商人などおよそ文化とは関係
ない者まで使用する流行となった。

これが逆に知識人の反発を招き、堺利彦のように「『枯川』といふ号は使
用しません」と雅号の使用をやめるものが増え、大正期には雅号の流行は
終わり、一部の使用にとどまっている。

字よりも雅号でもっぱら知られる人物

素行:山鹿素行で知られる 山鹿義矩。
白石:新井白石で知られる 新井勘解由君美。
松陰:吉田松陰で知られる 吉田寅次郎矩方。
海舟:勝海舟で知られる 勝安房守義邦 / 勝安芳。
漱石:夏目漱石で知られる 夏目金之助。
鴎外:森鴎外で知られる 森林太郎。
哲山:田村哲山で知られる 田村哲夫。

雅号で呼ばれることもある人物

南洲:西郷隆盛 (南洲神社で有名)
甲東:大久保利通
松菊:木戸孝允
東行:高杉晋作
世外:井上馨
木堂:犬養毅
顎堂:尾崎行雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2010・2・5

2019年02月28日

◆「尖閣」から身を隠す米国 

               渡部 亮次郎


アメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」
にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有り、何よりも中国への刺激を避けること
を最優先に考えており、私から言えば「アメリカは先覚問題から常に身を
かくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指
導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては
(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とす
る機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中
国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするた
めの知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるか
どうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答える
のではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府
高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本
政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用され
る」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の
平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないとい
う立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日
本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米
国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入
を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言に
ついて「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を
強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5
条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は
「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日
中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではな
い)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、
日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、
クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え
「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政
府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の
条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処を
する義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認
が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対
応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは
尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改
時の情勢に鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定を
そこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般に
は解釈されている。

なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、
累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、
尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認し
つつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。
軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示
した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締
結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先す
るというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准
(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や
政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄
として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄
としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会
によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでも
サンフランシスコ平和条約2条に帰結する。

なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しな
いことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張の争
いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本に
はない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会
が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更する
わけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリ
ントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣
諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示
し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における
責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレ
ン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明して
いる。2013・12・27

2019年02月27日

◆「食育」の魁石塚左玄

渡部亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選
択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、
知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられ
ている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化
についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思
想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸
軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学
的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育と
いう言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理
念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山
東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺る
がす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除く
ことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り
上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではない
かと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』とい
う著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃
の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民
が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的とし
ている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医
師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵
助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症
の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がま
だ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食
同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民
に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための
寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究
所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったという。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ
語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。
1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医
薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担
架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食
物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国
から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政
治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の
病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血
液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は
穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るよ
うな自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯
8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であると
いう天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をと
る。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にす
ることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム
(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバラ
ンスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウム
の多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物
や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によっ
て陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。
「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は
末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少な
い食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランス
に注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍
耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会
人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養
成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短く
なってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つよう
に食養する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・08・31

2019年02月26日

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎


手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は
死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無
かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自
ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱え
ている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のこと
を調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東
京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力の
みならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってない
から文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時は
アッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろう
と思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本
がどうなるか、どうするのではないか」と言う。
今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきてい
る。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並
べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角
栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、
殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の
流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資
金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って
懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がい
くつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問
題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実
は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出
しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、
立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアン
ケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎
など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアン
ケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うな
ら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷っ
て売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)
2010・2・10

2019年02月24日

◆「味の素」発明は108年前

渡部亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは108年前の7月25日だった。経済産業省特
許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明
家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を
豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無
かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝
国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学
の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような
応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」
の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できる
のではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸
ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第
14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から108
年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料と
して広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており
食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の
食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、
池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京
帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注
ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研
究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代
目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手
を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工
業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味
の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。
大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を
開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統
制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法
へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門
を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工
食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨ
ネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,イン
スタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部
門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開
始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高
比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れてい
る。>世界大百科事典  2008・07・27