2017年02月07日

◆アルゼンチンの牛肉

渡部 亮次郎



日本アルゼンチン協会報を見ていたら、飛行機で二十何時間も掛かるアルゼンチンから日本への資本進出が行なわれ、鉄鋼大手の「シデルカ」とNKK(日本鋼管)の合併企業「NKK−t」の資本比率は51対49だという。あのパンパス(草原)の国に、そんな強力な鉄鋼会社があったのか。

「つい最近まで世界に冠たる鉄鋼メーカーであり、油田用パイプの最大供給源であった日本の鉄鋼会社がなぜアルゼンチンの傘下に入らざるを得なくなったのか。

「それは独り鉄鋼だけの問題ではなく、モノ造りを続け、貿易立国でしか生存できない日本にとっての深刻な課題といえよう」と協会の専務理事野村秀隆氏が警鐘を鳴らしている。

アルゼンチンの企業は、いち早く規制緩和を進め、民営化に徹した。いち早く世界規模でのマーケット戦略を展開してきた。

これに対して日本は国内マーケットに固執し、グローバルなマーケット動向を見失った、だから国際競争力を失っているのだとも野村氏は言っている。

日本から南米への移民はアルゼンチンにも多い。特に沖縄からの移民が多い。ヨーロッパからのそれはイタリアからも多いが、上層をなしているのはドイツからの移民である。だから第2次大戦後、ナチの残党の多く逃げ込んだ国がアルゼンチンだった。

アルゼンチンを私たちは太平洋の向かいの国と考えがちだが、大西洋を挟んではアルゼンチンはドイツの隣国なのである。

行けども行けども草原の国である。そこに肉牛が放し飼いされている。景色は何処まで行っても同じである。「ですから遠足をやっても意味が無いのです、と日本人学校の先生が笑っていた。

そのパンパスの中でたらふく牛肉を食べてみようとなって草原の中のレストランに入ってみた。やがて出てきた牛肉はやたら大きくて皿からはみ出していた。

だが、がっかり。さっぱり美味しく無い。調味料は塩だけ。どうにも筋っぽくて残してしまった。

日本大使が語るように米国と豪州の牛は少しはトウモロコシなど穀類を食べるがアルゼンチンのは牧草だけの放牧飼育。筋っぽいわけである。

日本の牛肉は草と穀物による人工飼育だから脂っぽく柔らかい。これに慣れて育った日本人はアルゼンチンの牛肉に慣れるのは手間が掛かるだろう。

江戸にやってきたアメリカの黒船が幕府に牛の差し入れを求めた時、えっ、アメリカ人は船の中で農作業をするのかと思ったと伝えられている。殺して食べるなんて想像もできなかった。

その日本人が表向き四足を食べるようになったのは、明治天皇が食した明治4年以降である。それも精々すき焼き。ステーキはもっともっと後である。アルゼンチンの牛肉にはまだ遠い。


2017年02月06日

戊辰戦争を知らずに老いる

渡部 亮次郎



私は大学まで出る事が出来たが、戊辰戦争のことは中学・高校はもちろん、大学でも近現代の日本史を教わる事は無かった。政府の方針だったのだろう。

そこで、ある日、自分で学ぶことを決意した。NHK記者になってから秋田、大館、仙台、盛岡に合計6年間駐在したが、生まれ在所の秋田とは、なんとなしの違和感が、いつも感じられた。

大館駐在の際は、隣の鹿角郡をも担当したが、大館に対する敵意みたいなものすら感じた。あの郡は元は盛岡藩だったが、戊辰戦争で割譲されたのだった、と後で知った。

高校を出るとき、仙台にある東北大学にだけは進みたくなかった。これも戊辰戦争以来、秋田人は仙台を敵視する風習が子供にまで浸みていた
からだろう。

そういう戊辰戦争なのだが、今となっては「ウィキペディア」を丸呑みする以外に簡単な手段はない。

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 -1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められる
こととなった。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家であったが、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝)

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

 1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)

 2.「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権“奥羽越列藩同盟”との戦争」(東北戦争)

 3.「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。

また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。いずれの陣営とも外国の軍隊の直接派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。慶喜は10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。

朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。

つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以降京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。

12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と戦端を開くことを欲し、各地で騒擾工作を行った。江戸市中においても薩摩藩士及び彼らと通じた浪士により放火・強盗などが繰り返され、江戸の町は混乱に陥った。

12月23日には江戸城西ノ丸が焼失するが、これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生。

これも薩摩藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・老中格大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸
臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。

翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。

両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約1万5000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。

翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩なども新政府軍に参加した。

逆に旧幕府軍は賊軍とされることにより、佐幕派諸藩の動揺を招いた。1月5日、淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。

1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。

慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

5日、山陰道鎮撫総督西園寺公望及び東海道鎮撫総督橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。

9日、長州軍が大阪城を接収、大阪は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。

11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督高倉が発遣された。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。

また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西日本及び東海地方では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。

鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じ、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩へ進軍させた。

ところが彦根藩はすでに尊王に藩論が転換しており9日東海道軍は大津にて桑名藩の征討に移った。22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。

藩主の座を追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の命により粛清が行われ、藩論は勤皇に一本化された。大垣藩は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に属していたが、東山道軍の先鋒となった。

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。

そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となり、丸亀藩・多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。

27日には残る伊予松山藩も開城し、四国は新政府支持に統一された。

長州藩兵が上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し、家老三浦義建及び御用係関藤藤陰に勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政山田方谷は城を無血開城した。

姫路藩は藩主酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守だったが、在藩家臣が降伏した。

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩・大村藩・薩摩藩・福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。

日田代官所にあった西国郡代の窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。

天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。他の佐幕派高鍋藩・府内藩も降伏。鳥羽・伏見の戦いで敵対した延岡藩も4月に藩主内藤政挙が上京して許された。

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志のないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。

その一方で松平容保は、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。 しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣退助が率いる別働隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。

新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は

慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること

江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること

等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、慶喜は水戸にて謹慎すること

江戸城は尾張家に預けること

等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。

同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。

この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。

この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大量に江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。

一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁で下総国流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。

近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発。

途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。

兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。

翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・彰義隊があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝にとって、一定の成果ではあった。

しかし実際は彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。江戸城会談での当事者となった西郷隆盛は、勝海舟との関係から彰義隊等への対応が手ぬるいとの批判を受けた。

大総督府は西郷隆盛を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。5月1日、大村は旧幕府による江戸府中取締の任を解いた。

仙台藩藩主・伊達慶邦らにより奥羽列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日(同7月4日)、新政府軍は彰義隊を攻撃し上野戦争が始まった。兵砲学者出身の大村益次郎は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。

文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保及び桑名藩主松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。

また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。

両藩はそれぞれ蝦夷地に領地を有し、密かにこれをプロイセンに割譲するかわりに援軍を要請しようとしたが、普仏戦争直前で余裕のなかったビスマルクにより断られている。

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。

会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。しかし新政府へ対してはこの行為は“武装・敵対”でしかなかった。

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督九条道孝・副総督沢為量・参謀醍醐忠敬・下参謀世良修蔵・大山綱良を数えることができる。

3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。

4月19日、藩主伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。

会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。4月23日、沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍は庄内藩を攻撃した。しかし庄内藩が勝っており閏4月4日、庄内藩が天童城を攻め落とした。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。

閏4月4日、仙台藩主席家老但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。

会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定し、藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。

閏4月20日、仙台藩で藩家老の命令によって世良修蔵が殺害され、続いて新政府軍部隊も殺害された。九条総督・醍醐参謀らは仙台城下に軟禁された。

これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。

赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。 閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。

さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。

奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。

ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟が誕生したが、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。

6月に上野戦争から逃れてきた孝明天皇の弟輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。

仙台藩と会津藩には輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があったが、輪王寺宮の即位の有無は議論がある。なお、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定であった。

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。

その後列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。

新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を仙台藩に派遣した。

閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったために仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。

5月18日、前山と救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主南部利剛は1万両を献金したが態度は曖昧なままだった。

続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。

次に沢為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖された。そのため奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩にとどまることになった。

久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。

こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。新庄藩の新政府軍への恭順に対して庄内藩は7月14日、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。

庄内藩の軍勢は久保田城の目前にまで迫ったが、列藩同盟の中核となっていた米沢藩・仙台藩が降伏したため一斉に領内へ撤退した。

9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日、庄内藩は降伏した。盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することが決定した。

8月9日、盛岡藩兵は久保田藩に攻め込んだが一進一退のまま奥羽越列藩同盟の敗北に伴い降伏した。

白河は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点でこの地は新政府の管理下となっていた。

仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同日の閏4月20日、会津軍と仙台藩は呼応して白河城を新政府から奪い取った。

しかし5月1日、伊地知正治率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。

以後100日余りに亘って攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかったが、会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍4500人弱は7次にわたって白河城の奪取を試み失敗に終わった。この戦いで両軍併せ約1000人の死者が出た。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。

5月2日、新政府軍の岩村精一郎は長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に行わせていた各種支援を拒否し、武装中立の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府への権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。

これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。長岡藩は河井継之助により兵制改革が進められ武装も更新されていた。

同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが7月に長岡城が落城した。7月25日同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたがこの際指揮をとっていた河井継之助が負傷(のち死亡)した。

新政府軍は長岡城を再奪取し、7月29日長岡藩兵及び会津藩兵は城下全域に放火し撤退した。

一方、新政府軍が軍艦で上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩であった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。

当時榎本武揚の旧幕府艦隊は健在であったが新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1500人となった。

6月24日、新政府軍は板垣退助が白河から小隊を率い、平潟との中間にあった棚倉城を占領した。7月14日、新政府軍は海岸に近い平城を占領した(平城の戦い)。7月16日、三春藩が新政府軍に進んで降伏した。7月29日、二本松城を新政府軍が占領した(二本松の戦い)( 二本松少年隊)。8月7日、相馬藩が新政府軍に降伏した。

白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。

また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。新政府軍総司令官・大村益次郎(長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。

8月22日二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。

当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。

またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。

この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。9月4日米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり9月10日仙台藩は新政府に降伏した。

9月22日会津藩が新政府に降伏した。明治天皇の新政府は会津藩に対し、戦死者の調査終了後に命を落とした会津藩士や農民・町人らの遺体を埋葬することを許した。

それまでの間は会津城下に無残な姿の遺体が山のように放置され異臭を放った。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。

新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。

榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。出航が遅れたのは、徳川喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。

8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容し、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。

北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。

10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。

榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。

旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。

その後新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる

戦功賞典

永世禄 10万石-島津久光父子(薩摩)・毛利敬親父子(長州) 4万石-山内豊信父子(土佐) 3万石-池田慶徳(鳥取)・戸田氏共(大垣)・大村順煕(大村)・島津忠寛(佐土原)・真田幸民(松代) 2万石-佐竹義尭(久保田)・

藤堂高猷(津)・井伊直憲(彦根)・池田章政(岡山)・鍋島直大(佐賀)・毛利元敏(長府)・松前兼弘(松前) 1万5千石-前田慶寧(金沢)・戸沢正実(新庄)・徳川慶勝父子(尾張)・浅野長勲(広島)・大関増勤(黒羽) 1万石-松平慶永父子(福井)・六郷政鑑(本荘)・榊原政敬(高田)・津軽承昭(弘前)・戸田忠恕父子(宇都宮)・黒田長知(福岡)・有馬頼咸(久留米)・秋元礼朝(館林)など

処分された藩

仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。

会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。

盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。

米沢藩 - 14万石に減封(18万石)

庄内藩 - 12万石に減封(17万石)

山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。

二本松藩 - 5万石に減封(10万石)

棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)


長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)。家老1名が処刑された。すでに死亡していた処刑が相当の家老1名は家名断絶とされた。

請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。

一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)

上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)

福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)

亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)

天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)

泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)

湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)

下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。

所領安堵となった藩

八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。

村松藩 - 家老1名が処刑された。

村上藩 - 家老1名が処刑された。

磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。

相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。

三春藩

新発田藩

三根山藩

黒川藩

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老但木成行・仙台藩江戸詰め家老坂英力・会津藩家老萱野権兵衛・盛岡藩家老楢山佐渡が東京で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老玉虫左太夫・若生文十郎が切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩に対する処分は「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩は議論の末に斗南を選択した。

斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。猪苗代地域では明治新政府によって開拓が行われ現在の郡山市都市圏が誕生した。

庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。これに感激した庄内の人々は西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。

この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

戊辰戦争以降、明治新政府は明治維新として総称される一連の改革を行うが、これについては主に敗北者側からは「この程度の内容の改革なら大戦争をしなくても実行可能であった」とする意見がある。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名をそそいでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」とする「仙台首都説」がある。

遺恨戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。京都守護職だった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち、禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討、会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。

また実際に、長州藩は立場が転じて官軍になると旧幕府側を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋のような人物が見られ、俗説ほど多くないにせよ鹿児島で起きた西南戦争においては旧幕府側出身の抜刀隊員のなかには、賊軍の汚名をそそぐべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった者もいた。(2012/4/5)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2017年02月05日

生殖補助医療の進歩

渡部 亮次郎



知り合いの弁護士が昨年、最高裁判所の判事に任命されて、2006年9月4日に凍結保存した夫の精子で夫の死後に妊娠、出産しても法律上の父子といえるかどうかが争われた裁判に判決を出した。

判決は妊娠前に既に父親が生存していない子の出生を、法律上も認めることについては、「本来、子は両親が存在して生まれてくる」「親の意思と自己決定を過大視したもの」と述べている。

凍結保存した夫の精子で夫の死後に妊娠、出産しても法律上の父子とはいえない、つまり現行の法体系では実子とは認められないとの判断を示した。原告の母親(西日本)は敗訴した。

しかし同時に判決は、「立法によって解決されるべき問題だ」と指摘した。。問題は司法にあるのではなく、国会が新事態に対処する法律を早く作るべきだと言っているのである。
生殖補助医療の進歩に、どう対処すべきか。最高裁が、新たな法制度の整備を求める一歩踏み込んだ判断を示したものといえる。さすがである。

現在の民法では死後の生殖を想定していないとし、「法律上の親子関係は認められない」と結論付けているのは常識的ではあるが、その上で法体系の整備を助言したところを評価したい。

もともと控訴審の高松高裁は一昨年、血縁上の親子関係があるうえ、夫も生前、この手法に同意していたとして、法律上の父子関係を認めていた。

これに対し、同種の訴訟で、東京、大阪の両高裁は認知することを否定しており、高裁により判断が分かれていたもので、最高裁の判断が待たれていた。

遺伝上の父子なら、たとえ父親の死後でも、法律上の父子と認めてやりたいと考えるのは人情だ。とはいえ、現行の法体系では親子関係を立証できないのだから、人情論は貫けなかったのは当然と言うことにはなる。

しかし、判決には裁判官の補足意見として、今回のような妊娠は「自然の摂理に反する」との見方も付けられているものの判決が、この問題にとどまらず、生殖補助医療の現状に危惧(きぐ)を表明し、助言したところが注目点だ。

死後生殖だけでなく、他の夫婦の子を代わって宿す代理母、第3者からの精子や卵子の提供、妊娠前と妊娠中の遺伝子診断による妊娠継続の判断技術など、さまざまな手法が普及している。

しかし、法律は事態に遅れたまま、何ができて、何が許されないかは、医学界や、個々の医師の自己規制に委ねられているのが現状である。

判決の補足意見は、これについて「医療行為の名において既成事実が積み重ねられてゆくという事態を放置することはできない」と批判しているわけだ。

厚生労働省や法務省は、この問題で法整備を検討したことがある。厚労省が2003年にまとめた報告書は、死後の生殖を規制することを含め、生殖補助医療の全般に一応の見解を示している。

だが、理解は広まらず、法制化は頓挫したままだ。最高裁は、こうした行政と立法の姿勢に疑問を呈したわけで、異例とも言える。しかし事態は法体系を超えて進展している。医学の進歩に国会や政府が付いて行けない状態になっているのだ。それを考えれば、至極まともな判決だった。

結婚したカップルの10組に1組が生殖補助医療で妊娠、出産する時代といわれる。生まれてくる子のためには、どんな法整備が必要か。政府、国会は本格的に論議を始める必要がある。急げ!


2017年02月03日

◆生殖補助医療の進歩

渡部 亮次郎



知り合いの弁護士が昨年、最高裁判所の判事に任命されて、2006年9月4日に凍結保存した夫の精子で夫の死後に妊娠、出産しても法律上の父子といえるかどうかが争われた裁判に判決を出した。

判決は妊娠前に既に父親が生存していない子の出生を、法律上も認めることについては、「本来、子は両親が存在して生まれてくる」「親の意思と自己決定を過大視したもの」と述べている。

凍結保存した夫の精子で夫の死後に妊娠、出産しても法律上の父子とはいえない、つまり現行の法体系では実子とは認められないとの判断を示した。原告の母親(西日本)は敗訴した。

しかし同時に判決は、「立法によって解決されるべき問題だ」と指摘した。。問題は司法にあるのではなく、国会が新事態に対処する法律を早く作るべきだと言っているのである。
生殖補助医療の進歩に、どう対処すべきか。最高裁が、新たな法制度の整備を求める一歩踏み込んだ判断を示したものといえる。さすがである。

現在の民法では死後の生殖を想定していないとし、「法律上の親子関係は認められない」と結論付けているのは常識的ではあるが、その上で法体系の整備を助言したところを評価したい。

もともと控訴審の高松高裁は一昨年、血縁上の親子関係があるうえ、夫も生前、この手法に同意していたとして、法律上の父子関係を認めていた。

これに対し、同種の訴訟で、東京、大阪の両高裁は認知することを否定しており、高裁により判断が分かれていたもので、最高裁の判断が待たれていた。

遺伝上の父子なら、たとえ父親の死後でも、法律上の父子と認めてやりたいと考えるのは人情だ。とはいえ、現行の法体系では親子関係を立証できないのだから、人情論は貫けなかったのは当然と言うことにはなる。

しかし、判決には裁判官の補足意見として、今回のような妊娠は「自然の摂理に反する」との見方も付けられているものの判決が、この問題にとどまらず、生殖補助医療の現状に危惧(きぐ)を表明し、助言したところが注目点だ。

死後生殖だけでなく、他の夫婦の子を代わって宿す代理母、第3者からの精子や卵子の提供、妊娠前と妊娠中の遺伝子診断による妊娠継続の判断技術など、さまざまな手法が普及している。

しかし、法律は事態に遅れたまま、何ができて、何が許されないかは、医学界や、個々の医師の自己規制に委ねられているのが現状である。

判決の補足意見は、これについて「医療行為の名において既成事実が積み重ねられてゆくという事態を放置することはできない」と批判しているわけだ。

厚生労働省や法務省は、この問題で法整備を検討したことがある。厚労省が2003年にまとめた報告書は、死後の生殖を規制することを含め、生殖補助医療の全般に一応の見解を示している。

だが、理解は広まらず、法制化は頓挫したままだ。最高裁は、こうした行政と立法の姿勢に疑問を呈したわけで、異例とも言える。しかし事態は法体系を超えて進展している。医学の進歩に国会や政府が付いて行けない状態になっているのだ。それを考えれば、至極まともな判決だった。

結婚したカップルの10組に1組が生殖補助医療で妊娠、出産する時代といわれる。生まれてくる子のためには、どんな法整備が必要か。政府、国会は本格的に論議を始める必要がある。急げ!


2017年02月02日

◆五・一五事件

渡部 亮次郎



五・一五事件(ごいちごじけんと)は1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国「海軍」急進派の青年将校を中心とする反乱事件。4年後1936年のニ・ニ六事件は陸軍の将校による叛乱事件。

武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅総理を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退した。

事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達された。

また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。

同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いが、本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸、立憲政友会(政友会)本部、警視庁とともに牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。

しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第2の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。

後に小説家松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪(いたる)らが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『昭和史発掘』)。

だが、中谷武世(国士)は首謀者古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したものであって、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたものの、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ている。

また中谷は大川と政党人との関係が希薄であったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している(『昭和動乱期の回想』)。

当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している時代であった。

1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。

計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に容らない点であった。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をした。

それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友であった。故に犬養は満州侵略に反対であり、日本は中国から手を引くべきだとの持論を兼ねてよりもっていた。

これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由なのである。

事件は昭和天皇の勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

なお、事件前日の5月14日には映画俳優のチャーリー・チャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって犬養との会談をキャンセルしたため、難を逃れた。


チャップリンの訪日は世界旅行の一環。日本人秘書高野虎市が暗殺情報を入手、犬養首相との15日の面会を取りやめ、国技館で相撲観戦をしていたため、難を逃れた。

その後チャップリンは6月2日まで滞在。東京・日本橋で海老の天婦羅ヲ36尾も平らげたので天婦羅男の異名が付いた。生涯計4回の来日を果たした。

時の首相犬養毅が殺害された際の「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名であるが、これは犬養毅の最期の言葉と言う訳ではない。

元々、犯人の青年将校らは問答などに時間をとられては殺害に失敗する恐れがあるため、犬養を見つけ次第射殺する計画であった。

ところが実行時には、表から突入した三上隊が最初に犬養を発見したものの、犬養自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

そこへ、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養腹部に銃撃、次いで三上が頭部に銃撃した。それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言う。

「話せば分かる」「問答無用」という言葉については、元海軍中尉山岸宏の次の回想がある。

「『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て。』と言ったんです」

また、元海軍中尉三上卓は裁判証言で次のように語っている。

「食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ」と申された。

私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て。』と叫んだ。

黒岩が飛び込んできて1発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかめに小さな穴があき血が流れるのを目撃した」

一方、儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養、討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。

海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締規則・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。

当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。

このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

その一方で大川周明ら民間人に対する言渡刑は非常に重かった。このことは、二・二六事件でも民間人の北一輝や西田税が死刑となったことと共通する。2008・05・14

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2017年02月01日

◆君が代完成記念日

渡部 亮次郎



国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

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2017年01月31日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎



L日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなか
った。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京
に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからで
ある。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部にな
ると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪さ
れた前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘され
た。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに
対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党
内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正
常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官とし
て日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供
与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲
げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代
化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技
術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友
好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといっ
て田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識
もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れ
た。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を
条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は
対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたの
だ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳
い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図して
いた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼として
いたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていた
のである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論も
なしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。


あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなっ
たように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共
産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖
国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点
にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。


政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国
が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。
まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのと
きは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇す
るためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪って
しまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する
輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友
好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。





2017年01月30日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎



日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなか
った。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京
に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからで
ある。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部にな
ると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪さ
れた前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘され
た。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに
対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党
内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正
常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官とし
て日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供
与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲
げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代
化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技
術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友
好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといっ
て田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識
もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れ
た。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を
条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は
対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたの
だ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳
い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図して
いた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼として
いたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていた
のである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論も
なしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。


あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなっ
たように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共
産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖
国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点
にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。


政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国
が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。
まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのと
きは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇す
るためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪って
しまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する
輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友
好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。2012・9・30


2017年01月29日

◆日本の脚気史

渡部 亮次郎



脚気(かっけ)と言っても、このごろでは何のことか分からない人が多
い。ビタミンB1欠乏症で最悪は死に至る病。筆者は子どものころ、疲労
回復を急ぐ為,砂糖を大量にたべたところ炎天下で昏倒。脚気が悪化して
心臓が犯されている。良く死ななかったものだ、と診断された。

砂糖でなぜ脚気になるのか。それは体内で砂糖が消化されるためには大量
のビタミンB1が消費されるからである。砂糖を多く食べれば脚気になる理
屈である。

日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない。しかし、
『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されてお
り、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。

江戸時代に入ると、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまり、上層階
級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に
一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方にひろがり、また文化・文政に
町人にも脚気が流行した。

江戸を離れると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」とよばれた。経
験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気
が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。

明治期には、1870年(明治3年)とその翌年から脚気がはやった。東京な
ど都市部、陸軍の鎮台所在地、港町で流行し、上層階級よりも中・下層階
級に多発し、死亡率が高かった。

『人口動態統計』(1899年(明治32年)開始)、『死因統計』(1906年
(明治39年)開始)によれば、明治末期までの国民の脚気死亡者数は、最
小6,500人(1900年)〜最大15,085人(1909年)であった。ただし当時
は、乳児脚気の知識があまりなかったため、「乳児脚気死亡」が大幅に見
落とされており、毎年1万人〜3万人が死亡していたと推測されている。

大正期以降、ビタミンB1(チアミン)をふくまない精米された白米が普及
するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったため、脚
気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も、多くの
患者と死亡者をだし、「脚気」は「結核」とならぶ二大国民病といわれた。

ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年の26,796人がピークであり、
1915年から日中戦争の拡大と移入米の減少によって食糧事情が悪化する
1938年まで年間1万人〜2万人で推移した。

ようやく1千人を割ったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する
1950年代後半のことであった(1950年3,968人、1955年1,126人、1960年
350人、1965年。

しかし、1975年頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してき
た。アルコール依存症患者にも多く、高齢社会(超高齢社会)をむかえた
今日では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されて
いる。

脚気の原因がわからなかった明治期、脚気の流行に拍車がかかり(都市部
の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。

脚気の原因がわからなかった理由として、いろいろな症状があるうえに病
気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者
など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい
食物をとっている者が冒されて一見粗食をとっている者が冒されないこ
と、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの栄養に不可
欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。

明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の
遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒
説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。

ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど
西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」は、たちまち医界で
受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持されつづけた。

海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたったイギリス人
医師のウィリアム・アンダーソン(1873年10月−1880年1月に在日)も伝
染病説を信じていた。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤り
であり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原
因と判明したのは後。

先覚的な業績を挙げたのが海軍軍医の高木兼寛であった。臨床主体のイギ
リス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また
患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。

さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはた
んぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。

その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱ
く質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折
をへて1884年1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の
節約による粗食をまねいていた)が一部みなおされ、洋食への切りかえが
はかられた。

同年2月3日、海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予
防試験をかねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海をおえて無事帰港
した。

乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、
高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づいた医
療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革をすすめた結果、海軍
の脚気発生率が1883年23.1%、1884年12.7%、1885年以降1%未満と激減し
た。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌年3月1日か
らパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。

1885年3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。し
かし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先するドイツ医学を範とし
ていたため、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦
が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死
病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象をあた
えた。

そのため、東京大学医学部を筆頭に、次々に批判された。1ヶ月後の4月
25日には、同誌に村田豊作(東京大学生理学助手)の反論が掲載され、と
くに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化
吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優
秀の理論は、机上の空論であるとされた。

また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかか
りやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問
をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。

そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回
にわたって公表したものの、1886年2月の公表を最後に学理的に反証しな
いまま沈黙した。

のちに高木は「当時斯学会(しがっかい)に一人としてこの自説に賛する
人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁
(はんばく)の声であった」と述懐したように、高木の説は、海軍軍医部
を除き、国内で賛同を得られなかった。

高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べ
ると脚気が減少する」という有益なエビデンスは得られていた。その後も
海軍軍医部は、日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、
石神亨と斎藤有記の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判した。

しかし麦飯優秀説について学問上の疑問点をあげて反論されると両軍医と
も沈黙したなど、学問上の疑問点を解消できずにいた(ビタミンを知らな
い当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)。

麦食縮小以降、脚気が増加する海軍 。高木の思いに反して兵員には、
「銀しゃり」という俗語のある白米飯にくらべて麦飯も不評であり、1890
年2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され
(1945年(昭和20年)まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ない
し麦飯)の混用となった。1917年(大正6年)以降、海軍では麦の割合が2
割5分まで低下した[11]。

学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の
脚気患者が発生しただけであり、陸軍の脚気惨害と対照的であった。

当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患
者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海
軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっているとさ
れるような状況であった。

ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者
数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚
気の入院率が50%〜70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気
の入院率は数%)。

その後、高木とその後任者たちのような薩摩閥のイギリス医学系軍医では
なく、栃木県出身で東京大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局
長になった1915年12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。

脚気患者の増加をうけて海軍省では、1921年に「兵食研究調査委員会」を
設置し、1930年まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない
麦飯で麦の比率をあげることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しいなか、
苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。

1927年から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は
1933年9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した。しかし、胚芽米をつ
くる機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が
多発する夏に供給するのが困難であった。

このため、現場で研究の成果が十分にあらわれず、脚気患者数は、1928年
1,153人、日中戦争が勃発した1937年から1941年まで1,000人を割ることが
なく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)で
あった。

また、現場で炊事を行う主計科では、兵員に不人気な麦の比率を意図的に
下げ、余った「帳簿外」の麦を秘密裏に海へ投棄する(「レッコー」と呼
ばれた)ことも戦前戦中を通して日常的に行われ、脚気の増加に拍車を掛
けた。

戦前、海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型
まで統計に上るようになった事」(それ以前、神経疾患に混入していた可
能性がある)と指摘されていた。

また、その他の原因として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン
欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足
説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、た
んぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」
という信仰がくずれたこととの指摘もある。

海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で
「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米
900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用
した(1894年7月31日)。

ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍省医務局
長)の米飯過信・副食軽視が災いの大もとであった。

戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、し
ばしば兵站がとどこおった。とくに緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達
と補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第五師団長以下が黒粟などを口
にする状況であった。

黄海海戦後、1894年10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気
患者が出ると、経験的に夏の脚気多発が知られているなか、事態を憂慮し
た土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した(1895年2月15日)。

しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上海運す
こぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運(はこび)に
至らさりしは、最も遺憾とする所なり」と、結局のところ麦飯は給与され
なかった。

その困難の一つは、森林太郎(鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したと
される(もっとも上記のとおり勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、
また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務
令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶
ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限があたえられた[23])。

下関条約(日清講和条約)調印後の台湾平定(乙未戦争)では、高温とい
う脚気が発生しやすい条件のもと、内地から白米が十分に送られても副食
が貧弱であったため、脚気が流行した。

しかも、1895年9月18日付けの『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に
掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難であ
る」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、斎藤
有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。

両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた。しか
し、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」という石黒の意
見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を
変えてはならないとした。

そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し
(1896年1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮ま
る兆候がなかった。

ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍軍医総監・序
列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入
された(軍法会議などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任
と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。

陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人(72.3%)
が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍
夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。

ちなみに、総病死者20,159人で、うち脚気以外の病死者が16,095人
(79.8%)であった(陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事
蹟』)。その他の戦死者数には、戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人
(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)[など、さまざまな数字
がある。

多数の病死者が出たように、衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病が
はやり、また広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王が腸チフスを発症
したり、出征部隊の凱旋によってコレラが大流行したりするなど、国内も
安全とは言えなかった(日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年
40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の
戦没者数を大幅に上まわった)。

とくに台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、伝染病がまん
えんし、1895年10月28日、近衛師団長の北白川宮能久親王がマラリアで陣
没し、山根信成近衛第二旅団長も戦病死したほどであった。なお、台湾で
の惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中
枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っているなか、隠蔽(いんぺい)した
い出来事であった。

上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、
日清戦争とその後の台湾平定をあわせて41,431人(脚気以外をふくむ総患
者284,526人。凍傷も少なくなかった)、脚気死亡者4,064人(うち朝鮮
142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人[32])であった。このよう
に陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、
長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと
懇意で、明確な形で責任をとることがなく[33]、陸軍軍医の人事権をもつ
トップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後
年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。

義和団の乱での派遣部隊脚気流行 [編集]トップの陸軍省医務局長が小
池正直にかわっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃
発し、第5師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)
が派遣された[34]。そのときも、首都北京をめぐる局地戦が主で輸送に支
障が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の
給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人
の脚気患者がでた[35]。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。

1901年5月31日、凱旋した第5師団にかわって清国駐屯軍がおかれたとき
(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長にあたえた訓示は、上記
の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した
麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった。

なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』につづけて投稿(1901年5月と7月
に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠まわしの表現で米飯が脚気の原因
という認識をしめした。

しかし、翌1902年4月の『明治33年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』に
は、なぜか脚気のことをまったく記述していない。そして日清戦争で先陣
をつとめ、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の第11
師団に異動した。

日露戦争での陸軍脚気惨害

日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸
軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部
長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵
食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。

その理由として輸送の制約が挙げられ、陸軍は兵員と兵器と弾薬などを送
るのが精一杯で、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった
(近代地上戦での想定補給量の一例)。さらに「麦は虫がつきやすい、変
敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」その上、脚気
予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民あこが
れのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世情
を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたい
という心情があった[42]。

しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増えはじめ、気温
の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦
飯が給与された。

翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、
精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。また国内で、脚気患者の
大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さ
らに大本営の野戦衛生長官で満州軍総兵站監部の総軍医部長、小池正直
(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医
トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづ
いた。

陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第2巻統計、陸軍一等軍医
正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数
999,868人のうち、戦死46.423人(4.6%)、戦傷153,623人(15.4%)、戦
地入院251,185人(25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異な
る])。

戦地入院のうち、脚気が110,751人(44.1%)を占めており、在隊の脚気患
者140,931人(概数)をあわせると、戦地で25万人強の脚気患者が発生し
た(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率をみると、歩兵1.88%、騎兵
0.98%、砲兵1.46%、工兵1.96%、輜重兵1.83%、非戦闘員の補助輸卒
5.32%であり、「軍夫」とよばれていた補助輸卒の数値がいちじるしく高
い(1904年2月〜翌年4月)。患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人につい
で30,559人と多く、過酷な条件のもと任務についていた)。

入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡し
たと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。

陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置

森林太郎

小説家としての森鴎外で著名陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦
争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。

世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法
案」問題に移っていた。『医海時評』が脚気問題を取り上げつづけて孤軍
奮闘するなか(ときにはマッチポンプさえして陸海軍の対立をあおっ
た)、1908年、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された
(同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日
陸軍大臣官邸で発足式)。

当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局
長に就任してまもない森林太郎(ただし日清戦争のとき、石黒野戦衛生長
官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。

その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題
を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、
多額の陸軍費がつぎこまれた。


北里柴三郎発足当初の調査会は、委員長(森・医務局長)と幹事(大西亀
次郎医務局衛生課長)、委員18名、臨時委員2名(青山胤通東京帝国大学
医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長)の計22名で構成された。委員18
名の所属をみると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍医が参
加したほか、伝染病研究所3名、陸軍軍医6名、京都帝大2名、東京帝大3
名、不明2名(日本医史学の大家富士川游・医学博士岡田栄吉)であっ
た。研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)で、
定期的に発表された。

ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査

ロベルト・コッホ調査会の発足式が開かれる直前の1908年6月22日、森
(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学
者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)と帝国ホテル
で会っていた。

脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリ
ベリを研究せよ等の研究法を助言された。調査会の発足後、さっそくバタ
ビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試
験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった。

1908年、都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝
染病研究所)の3委員が派遣されたものの(9月27日〜11月28日まで滞
在)、現地では白米をやめて熟米と緑豆などを食べるようになっており、
また1903年のアチェ戦争(スマトラ島)終結もあってベリベリの入院患者
がほとんどいなかった。

それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが
明らかにされた。しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)がみつからず、食物
原因説に傾くこともなく、歯切れの悪いあいまいな原因論を報告した。

ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)と
ともに伝染病説を支持しつづけ、都築が栄養欠乏説に転換した。

未知栄養素の抽出

都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発

クリスティアーン・エイクマン「動物実験とヒトの食餌試験」という新手
法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった。都築は、動物
脚気の発生実験(エイクマンの追試)を行い、1910年3月の調査会と4月の
日本医学会で発表した。

動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいる
ことを公表したのである。また1911年、都築と志賀潔(1910年8月委員と
なる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効
否試験を行った。

その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値
ではなかったものの、試験をかさねる価値は十分あった。しかし、都築が
12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったた
め、米糠の効否試験は1年で終わった。

都築は、翌1911年4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」
を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮によって調査会でも
発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのよ
うにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり
理解をしめしていたとの見解もある)。

その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するととも
に、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した
卓越した業績であった。

さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定
し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の
発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通
用する内容であり、とくに副食への着眼は、先人の誰も気づいていないも
のだった。

「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究にはげみ、ついに
その製剤を治療薬として販売した(1911年4月アンチベリベリン粉末・丸
などを販売。同年9月、注射液を販売)。

有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)の
アンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期
のはじめまでよく売れ、広く愛用されることになる。

鈴木梅太郎のオリザニン発見

農学者の鈴木梅太郎は、1910年6月14日の東京化学会で、「白米の食品と
しての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した。ニワトリと
ハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと、糠と麦と玄米には
脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏
していることを認めた。

糠の有効成分につよい興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめ
ざして努力した。同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年
1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。と
くに糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまら
ず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、ビタ
ミンの概念をはっきり提示していた。ただし、糠の有効成分を濃縮して樹
脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶にはいたらなかった。
1912年(明治45年)、ドイツの『生物化学雑誌』に掲載された論文で、ピ
クリン酸を使用して粗製オリザニンから有効成分を分離製出、つまりオリ
ザニンを結晶として抽出したこと、その方法などを発表した[55]。

しかし、1911年(明治44年)10月1日、オリザニンが販売されたものの、
都築のアンチベリベリンがよく売れたのに対し、医界に受け入れられな
かった(8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎がはじめてオリ
ザニンを使った脚気治療報告を行った)。なお、上記のオリザニン結晶も
ニコチン酸をふくむ不純化合物で、純粋単離に成功するのが1931年(昭和
6年)であった。その純粋単離の成功はオリザニンが販売されて20年後の
ことであり、翌1932年(昭和7年)、脚気病研究会で香川昇三が「オリザ
ニンの純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。

医学界の混乱 [編集] 臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査 [編
集]都築に刺激されて調査会でも、1910年(明治43年)3月-10月と1911年
(明治44年)6月〜翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた
[56]。しかし、試験方法に欠陥があり(試験委員5人の技量と判断に差が
あり、また副食が規定(コントロール)されていなかった)、食米と脚気
発生の関係について明確な結論をえられなかった。他方、外国など各所の
脚気流行について現地調査をし、食物との関係も調査していた。とくに東
南アジアでの脚気研究は、「脚気は未知栄養物質の欠乏による欠乏性疾
患」と結論される段階にまで進んでいた。しかし国内では、依然として伝
染病説と中毒説の勢いがつよく、「未知栄養欠乏説」はなかなか受けいれ
られず、脚気の原因説をめぐる混乱と葛藤がつづいた。

混乱した要因 [編集]国内の脚気医学が混乱していた要因として、三つ
のことが挙げられる[57]。第一の混乱要因は、都築によるエイクマン追試
により、脚気の原因研究は次の段階に進むものの、同時に新たな論争をも
たらしたことである。端的にいえば、「ニワトリの白米病と、ヒトの脚気
が同じなのか違うのか」、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」
が争点になったのである。前者の動物白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚
気(多様な症状と流動的な病変)とが「同じ」か「違う」かの問題は、類
似点と相違点のどちらを重要視するかのという選択の問題でもあった。そ
の意味で、そもそも脚気患者をみたことがないヨーロッパの研究者と異な
り、日本の中心的な基礎医学者が相違点を選択したのは、必ずしも誤りと
いえない[58]。結果的にその選択は、ヨーロッパでの「実験医学」流行に
便乗し、動物実験だけで安易に未知栄養欠乏説に移行しようとする研究グ
ループを抑制した。脚気の原因を解明するには、動物白米病と脚気の
ギャップをうめる研究が必要であった。

後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分か
れた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時
は、糠の不純物をとりのぞいて有効成分を純化するため、アルコールがつ
かわれていた。

しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出
されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対し、顕著な効果を
上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をし
なくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復にむかうことが多かっ
た)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定する
ことが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無
効」とも解釈できるような状態であった。

第二の混乱要因は、脚気伝染病説が根づよく信じられていたにもかかわら
ず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。それでも伝染病説は否
定されることなく、1914年(大正3年)に内科学の権威である青山胤通が
『脚気病論』を著し、三浦謹之助のドイツ語論文「脚気」が掲載され、林
春雄が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張
した。

もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たちまち医
界で受け入れられ、その後も根づよい支持があった。当時の東京帝大で
は、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学(長与又郎・緒方知三
郎)など臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏説」に反対していた。

第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。
アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス
(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべて
が不純化合物であった。たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが
上記のとおり1931年(昭和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オ
リザニン「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された。

ビタミン欠乏説の確定 [編集] 欧米のビタミン学の影響 [編集]
カジュミシェ・フンク国内の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミ
ン学が興隆しつつあった。カジュミシェ・フンクは1912年2月に「ビタミ
ン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱し、1914年(大正3年)
に単行本『ビタミン』を出版した。同書は、『イギリス医学雑誌』で紹介
され、世界に知られることになった。結果的に学術論文よりも、単行本で
フンクの新概念が世界の医界で定着した。

結局のところ、欧米での研究動向は、国内に決定的な影響を与えた。1917
年(大正6年)、田沢鐐二(東京帝大、臨時委員)・入沢達吉(東京帝大・
内科学教授、1923年(大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変
説[59]。1918年(大正7年)、隈川宗雄(東京帝大・生化学教授、委員)が
ビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の須藤憲三
委員が10月16日に代理報告)。

1919年(大正8年)、島薗順次郎(同年9月、臨時委員となる)が日本食に
脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証明し、脚気ビタミン欠乏説を唱
導。1921年(大正10年)、大森憲太(慶應大)と田口勝太(慶應大)が
別々にヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違
いないと主張した。1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定
した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。

臨時脚気病調査会による確定 [編集]1922年(大正11年)10月28日、秋
の調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミン
に関するものであった。翌1923年(大正12年)3月3日の第28回総会では、
脚気の原因が「ビタミンB欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加
わったもの」なのかに絞られていた。

そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、調査会の予
算2万円のうち8千円が使われることになった。1924年(大正13年)4月8日
の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚気の原因は、ビタミンB欠
乏である」ことが99%確定した。99%というのは、実験手法の誤差の範囲
について島薗が厳密すぎて研究を深めることを主張したためである。翌
1925年(大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミン欠乏説が完全に確定し
た[60]。

1924年(大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が
廃止された。脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由
とされる。ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であること
から、翌1925年(大正14年)6月3日、いつものとおり陸軍省第一会議室で
報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があっ
た。その席上、入沢(東京帝大)と北島多一(慶應大、調査会発足時から
の最古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することになる
(元委員がすべて参加)。

なお、16年間に委員として39人、臨時委員として13人が参加した調査会で
は、上述のとおり第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の
研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。その中には、個人の業績
として公表されたものも含まれる。また、脚気ビタミン欠乏説を確定した
調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員のすべてが参加)となる
など、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づ
ける見解がある一方[61]、成果を挙げられなかったとする見解もある[62]。

治療・予防法の確立へ [編集] 脚気病研究会の創設と中絶 [編集]1925
年(大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止をうけて創
設された[63]。翌1926年(昭和元年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研
究報告がなされた。とくに東京帝大・島薗内科の香川昇三は、1932年(昭
和7年)に鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」[64]が脚気に特効がある
ことを報告した。

さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927
年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが
脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られ
ていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、1934年
(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。

真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅
させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面をひらい
た。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療
薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策にしぼられてき
た。しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が1937年(昭和12
年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心
は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学にむけられた。そして脚気病研
究会は、以後、中絶された。

なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった
(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人〜2万人)。その理由として、ビタ
ミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこ
と、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分
の摂取が困難であったことが挙げられる。

ビタミンB研究委員会、「特効薬」の開発 [編集]太平洋戦争末期の1944
年(昭和19年)11月16日、ビタミン生産が思いどおりにならない中、突然
「ビタミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した[65]。会
員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての臨時脚気病調査会(陸軍
大臣所管の国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似ていた。
ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を命じ
られることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」(1954年(昭和
29年)以降)としてつづく。

1950年(昭和25年)12月2日の研究会で、京都大学衛生学の藤原元典は、
ニンニクとビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質がで
きると報告した。さらに藤原は、武田薬品工業研究部と提携して研究をす
すめ、1952年(昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニクの成分アリ
シンがB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリ
チアミン」と命名)。そのアリチアミンは、体内でB1にもどり、さらに腸
管からの吸収がきわめてよく、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、
という従来のビタミンB1にはない特性があることを報告した。B1誘導体ア
リチアミンの特性には、研究会の委員一同が驚き、以後、研究会では、そ
の新物質の本体を解明するため、総力をあげて研究が行われた。

また、藤原と提携して研究をすすめる武田薬品工業は、アリチアミンの製
剤化に力を入れた(製品開発のきっかけは、旧陸軍から脚気の治療薬開発
を依頼されたこと)。多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する
製品開発につとめた結果、ついに成功したのである。1954年(昭和29
年)3月、アリチアミンの内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬
の「アリナミン注」が発売された。

ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果をしめした。その効果
によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にもひろく
歓迎され、また同業他社をおおいに刺激した。そして1968年(昭和43年)
までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。アリナミンとその類似
品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されること
となった。国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、1955年
(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92
人と減少したのである[66]。

しかし、1975年(昭和50年)には脚気が再燃し[67][68]、原因には砂糖の
多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ない
ジャンクフードがあることが分かった[69]。

トリビア [編集]脚気に苦しんでいた明治天皇は、海軍や漢方医による
食事療法を希望したとき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学
そのものへの不信をいだき、一時的に侍医の診断を拒否するなどしたた
め、侍医団は天皇の糖尿病の悪化に対して有効な治療を取れなかったので
はないか、ともいわれている[70]。

明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった鍼灸医
等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学
の栄養学の概念を取りいれ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を
投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取りいれはじめた。これが
効果を示したことにより、漢方医の社会的地位の保持に貢献した側面がある。

2017年01月28日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎
 
  

北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと
怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も
言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っている
のだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と
思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解だが、まったく的
外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいの
である。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らす
だけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与
えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が
五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは
当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために
注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるとい
う言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうか
い)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知ら
ないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃ
になったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新
潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝
心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。
共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろ
う。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければま
ずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意
がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」
だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様
は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に
日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。
保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角
さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福
田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな
政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内
閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相
が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの
各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが
人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは
実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみ
に立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領
様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分
たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人の
いけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締
結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけて
きて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。
こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書
として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃ
ないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北
としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分
のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条
件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだか
ら、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫
氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が
日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほど
の損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技
術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど
が日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわ
けがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でい
い、東京では「馬鹿」と嗤う。
(了)2005.02.23 加筆2006.03.25

2017年01月26日

◆粋そのもの西条八十(やそ)

渡部 亮次郎



西条八十は早稲田大学仏文科の教授でありながら、童謡「歌を忘れたカナリヤ」から「とんこ節」「芸者ワルツ」まで数多くの作詞を通じて日本の歌謡界に君臨した粋人である。

文末にリストを掲載しますが、戦前、戦中、戦後と筆者が歌わなかった歌はないくらい、歌謡界に尽力している。それでいて本人は音痴だったと子息らは明かしている。

「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)の作詞をデパート社長から依頼された宴席でのこと。「なんですか、最近の歌は。とんこ節、なんて下品なんでしょう」と社長。「あれは私の作品です」。

それは失礼しました。それよりひどいのは芸者ワルツですと社長が嘆けば八十「あれも私の作詞です」と。結局「有楽町で逢いましょう」は弟子の佐伯孝夫が担当した。ちなみに作曲はシベリア抑留帰り「異国の丘」の吉田正。

「トンコ節(昭和24年)

作詞:西条八十
作曲:古賀政雄
唄:久保幸江・加藤雅夫、

あなたのくれた おびどめの
達磨の模様が チョイト気にかかる
さんざ遊んで ころがして
あとでアッサリ つぶす気か
ネー トンコトンコ

言えばよかった ひとことの
何故に言えない 打明けられない
バカな顔して また帰る
恋は苦しい おぼろ月
ネー トンコトンコ

こうしてこうすりゃ こうなると
知りつつこうして こうなったふたり
ほれた私が 悪いのか
迷わすお前が 悪いのか
ネー トンコトンコ

ゲイシャ・ワルツ 昭和27年(1952年)
作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌唱:神楽坂はん子

(一)
あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスのなやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思い出ワルツ

(二)
空には三日月 お座敷帰り
恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた
これが苦労の はじめでしょうか

(三)
あなたのお顔を 見たうれしさに
呑んだら酔ったわ 踊ったわ
今夜はせめて 介抱してね
どうせ一緒にゃ くらせぬ身体

(四)
気強くあきらめ 帰した夜は
更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し


戦時中は「軍歌」も多く作詞した。

若鷲の歌

作詞 西条八十
作曲 古関裕而
歌手 霧島 昇


若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい

西條 八十(さいじょう やそ 1892(明治25)年1月15日 ー 1970(昭和45)年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。

親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。漢字表記は旧字体の西條が正しい。

東京府出身。1898(明治31)年、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。旧制早稲田中学(現早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。

吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

王将は作詞、作曲 船村徹、歌 村田英雄の3人とも将棋を全く指せなかった。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。


名前は筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。

天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた時期がある。

森村誠一の小説『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。1977年に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。なおテレビドラマは、4度製作放映された(2009年8月現在)。

1967年に作詞した「夕笛」は舟木一夫によって歌われ、最後のヒット曲となったが、三木露風の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。

担当編集者の回想に、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。著者は友人の詩人大木惇夫の次女である。 

主な著作

『西條八十全集』 (全17巻 国書刊行会刊 1991年-2007年)

『西條八十著作目録・年譜』 (中央公論事業出版 1972年)
同刊行委員会、西條八束編 

研究書・著作
『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社 1967年)
『西條八十自伝 唄の自叙伝』(人間の記録29:日本図書センターで再刊、1997年)
『女妖記』(中公文庫で再刊 2008年) 自伝的小説集

詩集(象徴詩・純粋詩)
『砂金』(1919年、自費出版)(復刻:日本図書センター、2004年)
『見知らぬ愛人』(1922年)
『美しき喪失』(1929年)
『一握の玻璃』(1947年)

詩集(その他)

『空の羊』
『少女純情詩集』 (国書刊行会で復刻、1984年)
『水色の夢』
『西條八十詩集』 (角川春樹事務所:ハルキ文庫で再刊、2004年)ISBN4758430942

訳詩集
『白孔雀』(1920年)
『世界童謡集』 水谷まさる共訳 (冨山房百科文庫で再刊、1991年)

『かなりあ』(『赤い鳥』1918年11月号)
『肩たたき』
『鞠と殿様』
『お月さん』
『水たまり』
『西條八十 名作童謡西条八十…100選』上田信道編 (春陽堂書店、2005年)


歌謡曲(流行歌)

『当世銀座節』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1928年)
『お菓子と娘』(作曲:橋本国彦、1929年)
『東京行進曲』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)

『鞠と殿さま』(作曲:中山晋平、歌唱:平井英子、1929年)
『愛して頂戴』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)
『唐人お吉の唄(明烏編)』(作曲:中山晋平、歌唱:藤本二三吉、
1930年)

『アラその瞬間よ』(作曲:中山晋平、歌唱:藤野豊子1930年)
『この太陽』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年)
『女給の唄』(作曲:塩尻精八、歌唱:羽衣歌子、1931年)

『侍ニッポン』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)、1931年)
『ルンペン節』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?、(たまき)1931年)
『わたしこの頃変なのよ』(作曲:町田嘉章、歌唱:四家文子、1931年)

『銀座の柳』(作曲:中山晋平、歌唱:四家文子、1932年)
『天國に結ぶ戀』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)・四家文
子、1932年)
『涙の渡り鳥』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小林千代子、1932年)

『東京音頭』(作曲:中山晋平、歌唱:小唄勝太郎・三島一声、1933年)
『佐渡を想えば』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1933年)
『サーカスの唄』(作曲:古賀政男、歌唱:松平晃、1933年)

『来る来るサーカス』(作曲:古賀政男、歌唱:淡谷のり子、1933年)
『十九の春』(作曲:江口夜詩、歌唱:ミス・コロムビア(松原操)、1933年)
『祖国の護り』(作曲:村越国保、歌唱:小野巡、1934年)

『勝太郎子守唄』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1936年)『花言葉の唄』(作曲:池田不二男、歌唱:松平晃・伏見信子、1936年)『戦友の唄』(『同期の桜』の元歌、作曲:大村能章、歌唱:樋口静雄、1938年)

『旅の夜風』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・ミス・コロムビア、1938年)

『悲しき子守唄』(作曲:竹岡信幸、歌唱:ミス・コロムビア、1938年)
『支那の夜』(作曲:竹岡信幸、歌唱:渡辺はま子、1938年)

『東京ブルース』(作曲:服部良一、歌唱:淡谷のり子、1939年)
『純情二重奏』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・高峰三枝子、1939年)
『誰か故郷を想わざる』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)

『春よいずこ』(作曲:古賀政男、歌唱:藤山一郎・二葉あき子、1940年)
『お島千太郎旅唄』(作曲:奥山貞吉、歌唱:伊藤久男・二葉あき子、1940年)
『熱砂の誓い(建設の歌)』(作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男、1940年)

『蘇州夜曲』(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇・渡辺はま子、1940年)
『愛馬花嫁』(作曲:万城目正、歌唱:ミス・コロムビア・菊池章子・渡辺はま子、1940年)
『そうだその意気』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操・李香蘭、1941年)

『高原の月』(作曲:仁木他喜雄、歌唱:霧島昇・二葉あき子、1942年)
『若鷲の歌』(作曲:古関裕而、歌唱:霧島昇・波平暁男、1943年)
『風は海から』(作曲:服部良一、歌唱:渡辺はま子、1943年)

『湖畔の乙女』(作曲:早乙女光、歌唱:菊池章子、1943年)
『麗人の歌』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1946年)
『悲しき竹笛』(作曲:古賀政男、歌唱:近江俊郎・奈良光枝、1946年)

『旅の舞姫』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1947年)
『三百六十五夜』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操、1948年)
『恋の曼珠沙華』(作曲:古賀政男、歌唱:二葉あき子、1948年)

『トンコ節』(作曲:古賀政男、歌唱:久保幸江・加藤雅夫、1948年)
『青い山脈』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)
『花の素顔』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1949年)

『山のかなたに』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)
『赤い靴のタンゴ』(作曲:古賀政男、歌唱:奈良光枝、1950年)
『越後獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1950年)

『角兵衛獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)
『こんな私じゃなかったに』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『娘十九はまだ純情よ』(作曲:上原げんと、歌唱:コロムビア・ローズ、1952年)

『ゲイシャ・ワルツ』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『丘は花ざかり』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1952年)
『伊豆の佐太郎』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1952年)

『ひめゆりの塔』(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男、1953年)
『哀愁日記』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1954年)
『白鷺三味線』』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1955年)

『ピレネエの山の男』(作曲:古賀政男、歌唱:岡本敦郎、1955年)
『この世の花』(作曲:万城目正、歌唱:島倉千代子、1955年)
『りんどう峠』(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)

『娘船頭さん』(作曲:古賀政男、歌唱:美空ひばり、1955年)
『別れたっていいじゃないか』(作曲:上原げんと、歌唱:神戸一郎、1956年)
『しあわせはどこに』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1956年)

『王将』(作曲:船村徹、歌唱:村田英雄、1961年)
『絶唱』(作曲:市川昭介、歌唱:舟木一夫、1966年)
『夕笛』(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年)

『芸道一代』(作曲:山本丈晴、歌唱:美空ひばり、1967年)
『乙女はいつか星になる』 1972年、ツームストーンズの歌で、自主制作による限定盤シングル(オーミック N-501)として発売。

西條八十の遺作に西田陽一が作曲した1985年発売の乙女隊のデビューシングル。1993年に「西条八十生誕100周年記念曲」として牧奈一慶が作曲し、飛鳥あおいが歌った別の楽曲もある。

「天國に結ぶ戀」「ルンペン節」 この2作は、作詞者が柳水巴になっているが、西條八十の変名である。

小説

1924年(大正13年)3月「少女倶楽部」読みきり『はかなき誓』から、1960年(昭和35年)11月「なかよし」連載『笛をふく影』まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、多く刊行され大人気を博した。

『人食いバラ』 ゆまに書房で復刻、2003年、解説唐沢俊一
 
校歌
「西條八十全集 第10巻」(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録作品に
『早稲田中学校・高等学校第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)
『横浜市立大学校歌』
『横浜市立鶴見工業高等学校校歌』
『藤沢市立藤沢小学校校歌』
『富山県立富山中部高等学校校歌』
『茨城県立下館第一高等学校校歌』
『富山県立桜井高校』
『日出学園(千葉県)園歌』
『姫路市立琴丘高等学校校歌』
『岡山県立倉敷工業高等学校校歌』
『高岡市国吉小学校校歌』
『北海道立北海道池田高等学校校歌』
『小松島市立小松島中学校校歌』
『滋賀県立近江八幡商業高等学校校歌』
『兵庫県立加古川西高等学校校歌』
『練馬区立石神井東小学校校歌』
『私立桜丘中学・高等学校校歌』
『平和生命保険株式会社 社歌』
未収録作品には、
『明治大学校歌』(「児玉花外」作詞とされているが、西条の作である)

軍歌
『若鷲の歌』
『同期の桜』
『戦友の唄(二輪の桜)』
『桜進軍』
『比島決戦の歌』
『決戦の大空へ』
『乙女の戦士』
『そうだその意気』
『祖国の護り』
?『学徒進軍歌』
『ああ梅林中尉』

(「ウィキペディア」)



2017年01月25日

◆北前船で裏日本が表だった

渡部 亮次郎



私の郷里(秋田県)には姓に越後谷、越中谷、越前谷、加賀谷、能登谷といった北陸を名乗るのが多い。播磨谷というのは瀬戸内海が先祖か。

若いとき地元の古老に尋ねたら「北前船の男衆(乗組員)が途中の寄港地・秋田の女にいかれて下船し、住み着いたのが子孫だ」とのことだった。

北前船(きたまえぶね)とは耳にした事はあるが、明治以降、全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった、というもの。実感は無い。「ウィキ」に頼る。

<北前船は江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。

買積み廻船とは商品を預かって運送するのではなく、航行する船主自身が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。

(太平洋側だと西風に吹かれてアメリカ大陸まで流される「難破」の危険があったが、日本海にはその危険は殆ど存在しなかった。西風はつねに陸側に吹く)。

西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。

この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。

この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。

これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。

また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。

さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。

前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船。

はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。

北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。

日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。

これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。

スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見方もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに鉄道の普及で水上輸送の意味がなくなって消滅した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鉄道が普及するまでは、東西文化の交流は北前船が担っていた。秋田の女にほだされて下船した男たちは学問の大切さも上方から持ってきた。

東北の名門校として知られる福島県立安積(あさか)高校だが、創立は明治17(1884)年。対する県立秋田高校の創立はそれより11年も前の1873(明治6)年。当に「北前船」のお陰で。いま「裏日本」とやや蔑視されている日本海側は昔は「表」だったのである。

それにしても近畿や北陸の男たちを魅了した昔の秋田女性のどんなところに魅力があったのか、失礼ながら今では確かめようがない。

とはいえ大阪と秋田の縁は未だに深く私の友人の一人も大阪の親戚を頼って就職したが、昔とは逆に自分が婿入りして生涯を全うした。        (2013・1・5)

2017年01月24日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることは分かったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)