2009年06月16日

◆飛行機停めるカレー粉



               渡部亮次郎

昔と言っても30年ぐらい前の話。アメリカ、ニューヨークの真ん中マンハッタンのアパートでカレー・ライスを作ったら、管理組合の理事会で査問された末に「退去」させられた。実話だった。

教えてくれたのは著名なジャーナリスト。当時ニューヨーク特派員として滞在していて、私にカレー・ライスを馳走してくれながらの話だった。カレーの匂いをアメリカ人はそれほど嫌うのだということだった。

それから何年かして英会話の個人教授を受けたアメリカ人女性(ユダヤ系)が言う事には「私は、何処と言って、インドだけは2度と行かない」その理由がインドは人糞とカレーの混じった匂いが充満しているから、とのことだった。

なぜ、こんな事を思い出したか、というと、6月15日のインターネット上で、<インド航空機、「カレーの匂い」で火災警報、引き返し>というニュースに接したからである。(6月15日10時18分配信 サーチナ)

これによると、15日付中国新聞社電で、12日にインド・ムンバイを出発したインド航空機(エア・インディア機)が、離陸約30分後に貨物室の火災発生を知らせる警報が出たため、引き返した。

貨物室を調べたが出火した形跡はなく、検査員は濃厚に漂っていたスパイスの香りに火災探知機が反応したとみている、というのである。アメリカ人だけじゃなく飛行機もカレーが苦手と分かったわけ。

同機はドイツ・フランクフルト行きのボーイング747型機。火災警報器が反応した際、操縦士は出火場所や煙を確認できなかったが、ムンバイへの引き返しを決めた。

着陸後に空港で調べたところ、貨物室は強いスパイスの香りが充満しており、積んでいたミックススパイスの粉、いわゆるカレー粉から出たものと分かった。

専門家によると、これまでも航空機の火災警報器が積み荷の匂いに反応したことがある。2004年には、ムンバイ発ロンドン行きの航空機が飛行中に火災警報機が貨物室内のマンゴーの匂いに反応し、ルーマニアのブカレスト空港に緊急着陸した。

また、強烈な匂いで知られる果物のドリアンに、火災警報器が反応したこともある。ドリアンの匂いは当に人糞の匂いだ。とすると
飛行機の火災報知機とは匂い感知器なんだね。

私の古い友人のアメリカ人は大の日本料理好きで、蕎麦も納豆も食べるがおでんだけは食べない。「炉辺焼き」に行きたがるがおでんは匂いが好きじゃないと言う。こちとら、納豆の方が匂いがきついと思うのだが。

そういえば彼もカレーライスは食べたいと言った事が無い。

日本のカレー料理の片方は海軍を通じてイギリスから入ってきたのだから、イギリス人も多分、拒否しないだろう。アメリカ人と火災報知機はなんでカレーが嫌いなんだろうか。そのうちに聞いてみよう。2009・06・15

2009年06月15日

◆鳩山邦夫は調教不足馬



                 渡部亮次郎

<日本郵政社長人事の混乱を巡り総務相を更迭された鳩山邦夫氏=衆院福岡6区=は13日午前、自民党離党の可能性について「すぐには考えていない。(新党結成は)視野にない。政局とは一切関係ない」と述べ、否定した。地元・福岡市の福岡空港で記者団の質問に答えた。

鳩山氏は今回の自らの対応について「後悔はない。自分が決断したことだから。責任を取ることだ」と話した。さらに「スタンドプレーをしているかのように言われるが、私は不器用で一本勝負しかできない。兄(鳩山由紀夫・民主党代表)のような遊泳はできない」と語った。>【毎日新聞6月13日12時56分配信】

ところで読売の報ずるところによれば、首相、当初は「西川交代」だったのを竹中・小泉コンビが封じ込め、ということだそうだ。鳩山は麻生を信じたが、小泉らに荒された畑に嫌気がさして麻生変心。鳩山は梯子を外された。最後は辞めるしかなかった。

こういう場面を見ていると、その昔、鳩山の爺さんを遂に総理の座に押し上げた実力者河野一郎なら「邦夫、競馬でいえば調教不足ダネ」と言ったはずだ。

総理が西川社長を交代させるハラだと打ち明けられたとき、担当の閣僚として打つべき手はいろいろあろうが、鳩山が選んだ手法は
「世論工作」だった。

まず東京駅前の中央郵便局の庁舎の一部を文化財として残すべきものを「朱鷺を焼き鳥にするのか」と噛み付いた。庶民受けする一言だった。世論受けした。だがこれは西川が確りしていたので失敗。西川の尽くした法的な手続きに誤りは無かったのだ。

続いて「カンポの宿」払い下げ問題を晒した。西川は国民の貴重な財産をまるで捨て値で投売りしている。世論は単純だから鳩山の期待するとおりに反応したが、財界が承知しなかった。あれは不良資産を処分する際の常道だった、正しい遣り方だったからである。

鳩山に焦りが出たのは5月に入っても「西川辞めろ」のヒュプレヒコールが上がらなかったからである。振り返ると、

<今年2月、首相官邸の執務室。首相は鳩山邦夫総務相と会い、日本郵政の6月の株主総会で西川社長を含む取締役を一新するよう指示した。

「ポスト西川」の候補として、NTTの和田紀夫会長、生田正治・元日本郵政公社総裁、西室泰三・東京証券取引所会長らの名を記したリストも手渡し、水面下の調整をゆだねた。

首相の意を受けた鳩山氏は5月に入り、日本郵政の取締役人事を決める指名委員会の一部委員に「首相は西川氏を代えるつもりだ」と伝え、「西川辞任」に向けた多数派工作を始めた。

((西川を辞めさせるべきという自分の信念を展開して説得せず「総理の意向なんだから呑むべきだ」とやってはやり込められて当然だ)。

しかし、直後から巻き返しに遭う。(鳩山の読みが間違ったのだ)。

指名委員会は、委員長を務める牛尾治朗・ウシオ電機会長を始め、郵政民営化など、小泉元首相が進めた構造改革に積極的な財界人が名を連ねる。

そうした委員を通じて鳩山氏の動きを察知したのは、構造改革の旗振り役だった竹中平蔵・元総務相だった。

竹中氏は小泉氏に相談した。小泉氏は2005年、竹中氏を通じて西川氏と知り合い、社長就任を要請した経緯がある。すぐに指名委の委員を「西川続投」で説得して回り、首相や鳩山氏の動きを封じ込めた。

結局、指名委は5月18日、西川氏を続投させる方針を決めた。>
(読売新聞 6月13日1時49分配信)

こうなってしまっては、首相たる麻生といえども自民党内大多数と財界を敵に回す余裕のあろう筈もない。鳩山を斬り捨てて虎口を脱する以外になかったのだ。

鳩山は閣僚としては勿論、盟友でありながら麻生に裏切られたことになる。当たり前なら後ろ足で砂を掛けるようにして脱党するか新党結成に走るのが常道だから、福岡空港での記者団の質問になったのだ。

馬に譬えて調教不足のタマとわかってしまったから仲間がどっとよってくるわけもない。東大法学部を優秀な成績で卒業したから学生としては」秀才だったが、世の中に掛けては秀才とは決して言えない。

自ら言うように「不器用で一本勝負しかできない」のであれば乱世には通用しない駄馬だ。(文中敬称略)2009・06・14


2009年06月13日

◆どちらが阿呆か



                渡部亮次郎

鳩山邦夫総務大臣が辞任し、私の許には辞任させた麻生首相を非難する書き込みが殺到したが、これは真相を知らず、コトを利権取引と勘違いしたものだ。真相は官僚の手に乗せられた鳩山氏の失策そのものである。

<鳩山総務相が辞任 日本郵政社長人事で 後任に佐藤国家公安委員長

鳩山邦夫総務相は12日午後、首相官邸で麻生太郎首相に会い、日本郵政の西川善文社長の続投に反対している問題にけじめをつける形で辞表を提出し、首相はこれを受理した。事実上の首相による更迭だ。後任は佐藤勉国家公安委員長が兼務する。

麻生内閣での閣僚の辞任は、首相の盟友で知られる中川昭一財務・金融担当相に次いで3人目。鳩山氏は、首相を支える国会議員による「太郎会」の会長を務め、過去3回の総裁選で首相を支持する中心人物の1人だった。

鳩山氏は記者団に「世の中、正しいことが通らない時があるんだな、今はそういう思いです。今の政治は正しいことを言っても認められないこともある。潔さが大事」と語った。>6月12日14時8分配信 産経新聞

問題の「カンポの宿」はいわば不良資産となっており、1軒ごとにバラ売りに出しても引き受け手のあるはずがない。だから西川社長は(マイナス付き資産だから格安でも仕方がない)と判断して、オリックスに払い下げようと決断したものである。

これを単細胞の連中(マスコミ)が曲解した。「国民の財産を不当に処分しようとした」「利権がらみの裏取引は許せない」と煽り立てた。単細胞の頭脳だとそうなる。世間の大方は倒産を経験したことが無いから、こうした資産処理の常道を知らない。

意地の悪い分析をすれば、お坊ちゃん育ちで、政治家の道をあの田中角栄の許で始めた鳩山は、すべての「取引」を「利権がらみ」と見る癖がついている。だから今回、特にそう思ったに違いない。

だが今回は世論の方が単細胞で、間違っている事に最後まで気付かなかったのは残念だ。

頭が良くてズル賢い総務官僚(元の郵政省幹部)がこれに乗った。
「この際、大臣を世論に乗せて西川のクビを取り、後任社長の椅子を我が物にしよう」。

西川社長の遣り方は、不良資産整理の際の正当な手段。このことを会社経営者のキャリアを持つ麻生首相はよく理解していたが、お坊ちゃん育ちの鳩山は理解できない。「真剣に取り組めばもっと高く売れたはず。利権がらみ、裏取引だ」と理解して騒いだ。

鳩山が「誤解」「不勉強」を「信念」だの「正義」だのといいはじめたとき、つまり問題が表面化したときから麻生首相は鳩山のクビ
を取る以外に方法は無いとのハラヲ括っていたはずだ。

もっと早く真相を明らかにして鳩山を切れば、問題はなかった。それをしなかったのは党内基盤の弱さから来る「迷い」がこうさせた。
だから麻生の政治生命も長くはない。(文中敬称略)2009・06・12

2009年06月10日

◆記念日でない日はない



                   渡部亮次郎

6月10日は時の記念日(ときのきねんび)。同時に路面電車の日、商工会の日、歩行者天国の日、ミルクキャラメルの日でもある。

皇太子ご夫妻の結婚記念日の翌日だからではない。なんだか私は強烈に記憶しているのは、記憶力の良い子どもの頃、国民学校(今の小学校)で教えられたからだろう。

1920(大正9)年に東京天文台と生活改善同盟会によって制定された。日本国民に「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」と呼びかけ、時間の大切さを尊重する意識を広めるために設けられた。

記念日ではあるが国民の祝日ではない。制定の翌年1921年より外地の台湾も実施されたが、戦後は自然消滅。

『日本書紀』天智天皇十年四月辛卯条(西暦671年6月10日(旧暦4月25日))に、

「置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也(註1)云々。」(漏尅を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用いる。

此の漏剋は、天皇の皇太子に爲(ましま)す時に、始めて親(みづか)ら製造(つく)りたまふ所なりと、云々(うんぬん)。(訳:坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系68 日本書紀 下』 岩波書店)

とあり、日本初の時計が鐘を打った日が6月10日であることからこの日となった。なお、「漏尅」すなわち「漏刻」とは水時計のことである。

(註1)
『日本書紀』斉明天皇六年五月是月条(西暦660年)に「又皇太子初造漏尅。使民知時。」とある。

大正時代、台湾内に貼られたポスターには「オ互イ 時間ハ 正確ニ守リマセウ」とある。旧仮名。リヤウジラウの類である。

それにしても、人間(日本)は「記念日」が好きだ。年がら年中、記念日だらけ。6月だけでもこれだけある。大半が語呂合わせ。

6月
1日―気象記念日、電波の日、景観の日、写真の日、麦茶の日、梅の日、チューインガムの日、氷の日、真珠の日、バッジの日、ねじの日、人権擁護委員の日、TUBEの日
2日―路地の日、裏切りの日
3日―測量の日、ムーミンの日
4日―虫の日、天安門事件の日
5日―環境の日、熱気球記念日
6日―補聴器の日、邦楽の日、楽器の日、かえるの日、兄の日
7日―母親大会記念日
8日―バイキングの日
9日―ロックの日、ネッシーの日
10日―時の記念日、路面電車の日、商工会の日、歩行者天国の日、ミルクキャラメルの日
11日―国立銀行設立の日、雨漏り点検の日
12日―恋人の日、日記の日、バザー記念日、宮城県防災の日
13日―鉄人の日、FMの日、小さな親切の日
14日―フラッグデー
15日―信用金庫の日、暑中見舞いの日
16日―和菓子の日、麦とろの日、ケーブルテレビの日、無重力の日
17日―おまわりさんの日、薩摩の日
18日―海外移住の日
19日―元号の日、朗読の日、ベースボール記念日
20日― 難民の日、ペパーミントデー
21日―スナックの日
22日―かにの日、ボウリングの日、沖縄アマチュア無線の日
23日―オリンピックデー、沖縄慰霊の日
24日―UFO記念日、ドレミの日
25日―住宅デー
26日―露天風呂の日、オリエンテーリングの日、国民憲章調印記念日、国際麻薬乱用撲滅デー
27日―演説の日、日照権の日、女性雑誌の日、ちらし寿司の日
28日―貿易記念日、パフェの日
29日―ビートルズ記念日、佃煮の日
30日―トランジスタの日、集団疎開の日
第3日曜日―父の日

365日、何とかの日の付かない日は1日も無い。あろうことか、4年に1回しか回って来ない2月29日は5つもの記念日である。ニンニクの日、跳躍の日、富士急の日、閏肉の日、キン肉マンの日。開いた口を閉めなさい。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・06・09

2009年06月09日

◆親指のように太い蕨

渡部亮次郎

同じ秋田県生まれとはいえ、私は山育ちでは無いから春を告げる山菜には全く弱い。ちなみに千昌夫歌う「北国の春」(1977年)で「季節が都会ではわからないだろうと、届いたおふくろの小さな包み」の中身は山菜である(作詞者:いで はく)。

私が生まれ育ったところは、いまでは干拓(埋め立てではなく、水を抜いて干し上げ、耕地にする)で姿を「大潟村」に変えた八郎潟。その沿岸の田圃の真ん中。春になって山菜の採れる山までは何キロもあった。

辿りつくところは五城目町(ごじょうのめまち)の朝市。この町は歌手小柳ルミ子の母親の出身地として知られる。町外れの道路端で朝市が開かれ、おふくろは春には山菜を買ってきたが「蕨(わらび)」は無かった。アク抜きが面倒だったからだろう。いつもあるのは「みず」だった。

そういうわけで秋田で蕨を食べたのは仙北市がまだ角館町と田沢湖町だった頃、田沢湖町の温泉宿でだった。生まれて初めて食べた。

「大昔、冷害で米の収穫が皆無だった時、山の農家では蕨の根を掘って叩き、澱粉を取り出して食べたものだ」と読んだことがあったので、噛むと幽かな粘りが出たのは澱粉の所為だろうと思った。

意外にも東京・向島(むこうじま)育ちの家人が俄然、蕨に病みつきになった。それで田沢湖の小林清二さんが、毎年、季節になると立派な蕨をどっさり送ってきてくださる。これが届かないと我々には春が来ない。

なぜかと言うと、小林さんの蕨はオーバーに言えば親指ぐらいの太さなのだ。田沢湖の周辺を車で走ると5月か6月にはそこらに蕨が沢山自生している。だが太さは割り箸の片方ぐらい、粘りなんて感じられない。東京のデパートで売っているのも、こんなものだ。

蕨は太くて軟らかいのに限る。特に太ければ太いほど、ヴォリューム感が堪らない。だから小林さんのは日本一の蕨である。

小林さんのは深山に入った秘密の箇所に毎年生えてくるそうだ。秘密は親友にも家族にもまだ教えてない。毎年、そこへ行ってあの太い蕨を採り、東京へ送ってくださるのだそうで、今年も5月下旬に秋田の春を東京で堪能した。家人は鰹節をたっぷりまぶすが、私はただ醤油をかけた方が田舎の味がする。

ここまで書いて来たら突然、若い頃居た盛岡市玉山区の民謡「外山(そとやま)節」が突然、口を突いて出た。

「わたしゃ外山の 日蔭のわらび
(ハイハイ)
誰も折らぬで ほだとなる
コラサーノサンサ
コラサーノサンサ

わしと行かねか あの山蔭さ
駒コ育てる 萩刈りに

わたしゃ外山の 野に咲く桔梗(ききょう)
折らば折らんせ 今のうち

外山育ちでも 駒コに劣る
駒コ千両で 買われゆく

外山街道に 笠松名所
名所越えれば 行在所

日の戸越えれば からかさ松よ
外山牧場の お関所よ

わらび折り〜 貯めたる銭コ
駒コ買うとて 皆つかった

あねこ行かねか あの山越えて
わしと二人で わらびとり」

言い伝えによれば、明治時代に盛岡市外山につくられた御料牧場の作業員たちが唄った「草刈唄」がその起源。牧場の閉鎖とともに一時忘れ去られたが、昭和初期に2種類の元唄が発掘され全国に広がった。

レコードで「現代版外山節」が普及したため、「正調」はあまり知られていない。

田沢湖の蕨の話が盛岡に飛んで終わった。人間の頭とは可笑しな動き方をするものだ。2009・06・08

2009年06月07日

◆「葱」知らずで不合格



                      渡部 亮次郎

葱知らずで不合格は石原慎太郎の息子良純。家人のかじりついている民放のクイズ番組で勝ち抜き、最終、「ネギ」を漢字で書けと言われて書けなくて海外旅行をのがした。

そういいえば、まだ子供のころ笠置シズ子の歌う「買い物ブギ」(作詞、作曲服部良一)で「東京ねぎ」というフレーズがあって、ねぎに品種?がいろいろあることを知らないものだから不思議に思っていた。

長じて大阪に左遷されたら関西では葱の白いところじゃ無しに青いところしか食べない。だから白い部分の長い葱は東京葱、と知った。

ネギ(葱)の英名はScallion。植物分類体系ではネギ科ネギ属。原産地は中国西部・中央アジアとする植物。日本では食用などに栽培される。

ネギは「シボル」とも呼ばれ、古名は「き」という。別名の「ひともじぐさ」は「き」の一文字で表されるからとも、枝分れした形が「人」の字に似ているからとも言う。

ネギの花は坊主頭を連想させるため「葱坊主」(ねぎぼうず)と呼ばれる。萌葱色(もえぎいろ)は葱の若芽のような黄色を帯びた緑色のことである。

日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの薬味として用いられる他、鍋料理に欠かせない食材のひとつ。硫化アリルを成分とする特有の辛味と匂いを持つ。

料理の脇役として扱われる事が一般的だが、青ネギはねぎ焼きなど、白ネギはスープなどで主食材としても扱われる。ネギの茎は下にある根から上1cmまでで、そこから上全部は葉である。だから食材に用いられる白い部分も青い部分も全て葉である。

関西では陽に当てて作った若く細い青ネギ(葉葱)が好まれる。一方、関東以北では成長とともに土を盛上げ陽に当てないようにして作った、風味が強く太い白ネギ(長葱・根深葱)が好まれる。また秋田など東北地方では「曲がりねぎ」という栽培法もある。

関東と同様に土を盛上げながらある程度育てたら、一度抜いて横向きに植え直し、植物の光に向かって伸びる性質を利用して曲げる。これは、地下水位が高い土地で効率よく白葱をつくる方法だと言われる。ただし、栽培に手間がかかるため、作付面積は減少している。

欧米ではチャイブ、リーキなどが栽培されている。

古くから薬効成分が含まれている植物と知られていた。痰や鼻水を押さえる作用があるようで、風邪をひいた時に、ネギをくるんだ手拭やガーゼなどを首に巻くというものは有名な民間療法である。 お尻に刺しても効果があると言われるが効果の程は不明である。

病虫害の予防効果を狙って、しばしばユウガオ、トマト、ナス、ホウレンソウなどの畑に混植される(→ コンパニオンプランツ)。

ネギの種類
<青葱>
九条葱(京野菜) 万能葱  谷田部ネギ  観音ネギ
ワケネギ(わけねぎ) 株分れ(分けつ)しながら成長する葉ねぎ

<白葱>
深谷ねぎ(埼玉県) 下仁田ネギ(太く短い)
ポロねぎ 地中海料理などで普通に使われるネギ。
曲がりねぎ(白葱)
一関曲がりねぎ(岩手県一関市)
仙台曲がりねぎ(宮城県仙台市)
横沢曲がりねぎ(秋田県大仙市)
阿久津曲りねぎ(福島県郡山市)
その他

越津ネギ 愛知県発祥。日本の東西の中間だけあり、根の部分も葉の部分も丁度同じぐらいの長さで、白葱と青葱の中間にあたる。

徳田ねぎ 岐阜県特産。白葱と青葱の両方の特徴を持つ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・05・29

2009年06月04日

◆風化進む天安門事件



渡部 亮次郎

20年前のきょう6月4日に北京の天安門広場に集まっていた民主化要求
の学生ら群集に、トウ小平の命令一下、人民解放軍が発砲して武力弾圧
した事件である。

私は中国にも共産党にも全く関心がなかったが、いつの間にか「中国の
動向に注目していないと、何時何をされるか分かったものじゃない」と
思い込むようになった。

NHK時代、中国との国交正常化をやった総理大臣田中角栄に同行取材した
だけだったが、、何の巡り会わせか6年後には外務大臣園田直の許で秘書
官として日中平和友好条約の締結交渉に携わったからである。

中でもトウ小平と北京や東京で何度も接し、彼が経済大国日本を目指し
て、共産中国の舵を「改革開放」の大きく切り替える場面に遭遇した事
は、その後の中国を観察する上で大いに参考になった。

トウ小平にとって、訪日に際しての最大のショックは大阪までの新幹線
乗車だった。「乗っていると鞭で首を叩かれているようだった」と語っ
たが、意味は「資本主体制にならないと中国は貧しさから脱却できない
と知った」ことだった。

これが1978年。3度目の「復活」から1年後、既に毛沢東、周恩来亡く、
彼が「最高の指導者」となっていたため、この年の暮には経済の改革開
放路線を共産党の方針に正式決定した。

経済の「開放」とは外国資本の参加を容認することであり、まず翌79年、
日本からのODA(政府開発援助)供与をきっかけとして日本による資本と技
術の供与が開始された。

トウ小平は経済の改革・開放と共に政治改革も打ち出していたが、79年に
は民主運動の弾圧を開始、人民を不思議がらせた。だがフランス留学を経
験しているトウは西側のブルジョア思想を「敵」とみなしており、それ
に乗ずる胡耀邦も趙紫陽も許す事はなかった。

掲げるのは政治が共産主義、経済は資本主義という矛盾した国家運営を
容易にするためには一党独裁による強権で締め付ける以外に方法はない、
これがトウの信念だった。

大衆はトウを誤解した。甘く見た。6月4日に起きた天安門事件である。
学生たちの民主化要求に寛容だった胡耀邦前総書記の急死に対して追悼
の名目で行なうデモは容認されるだろう、と。

確かに趙紫陽総書記は学生たちに理解を示し始めていた。だが「信念」
を一党独裁におくトウは学生たちのデモを「反党、反社会主義の動乱」
と断じ、趙紫陽総書記を解任し人民解放軍に群集への武力弾圧を指示し
た。20年前の6月3日夜から4日未明にかけて展開された「血の弾圧」で
ある。

この時の犠牲者の数は20年間、明らかにされてこなかったが、最近は
「727」人が中国政府の公式数字になったようだ。

銀座の料亭で、出された鮪の刺身に当惑しながらも最後には瞑目しなが
ら1切れだけ飲み込んだ好々爺。息子の断絶した脊髄を日本の医師たちな
ら繋いでくれるかも信じた「人の親」トウ小平。

彼はあくまでも共産革命の「闘士」であり続けた。尤も、遠い将来には
人民から断罪されると恐れて死んだ。だから墓は無い。遺骨は上空から
撒かれた。撒いたのは若き日の胡錦波濤だった。

<いま中国では、トウ小平氏の功罪が論議されている。中国に市場経済
を持ち込み、今日の経済発展の基礎を築いた功績は大きい。国民の大多
数は、その恩恵を受け、マンションやマイカーを持ち、海外旅行を楽し
む人も少なくない。

その半面で、貧富の格差は拡大、官僚の腐敗も深刻化、社会には不公平
感が広がり、治安の悪化、紛争や暴動の頻発を招き、環境破壊も深刻さ
を増す。これはトウ小平氏が目指した社会ではなかった。彼は引退後の
93年、弟のトウ墾氏に対し、格差拡大への強い懸念を表していた。

しかし、その種をまいたのはトウ小平氏自身だった。天安門事件で趙紫
陽氏ら改革派指導者や知識人、学生たちが追求した政治改革と民主化を
つぶし、一党独裁下で資本主義化を図った結果である。

中国ではいま、権貴体制という表現がある。エリート支配層の党官僚と
資本家が手を結び、労働者、農民を搾取して富を得る体制を指す。そこ
に汚職は付き物だが、腐敗は司法やメディアにもおよび、監視システム
は十分に機能していない。

しかし、この20年間の経済・社会の発展は、共産党の支配体制を揺さ
ぶり始めた。携帯電話、パソコンの普及によってネット情報が行き来し、
一党支配を支える情報と宣伝の独占力は著しく低下した。党の宣伝を人
びとは信じなくなった。

昨年12月、知識人たちが政治改革を求めた08憲章は、そうした社会変化
を背景にしていたが、影響は限定されていた。多くの知識人、学生は格
差社会の上級階級に属し、政治改革の必要は認めても、リスクのある行
動には消極的だ。

その一方で、数億人いる労働者、農民ら社会的弱者層による暴動や当局
襲撃事件が急増した。中国当局が警戒するのは、弱者層の不満を組織化
し、人権や民主化の運動と連動する動きという。当局が天安門事件を再
評価する道はなお遠い。> 
(産経新聞中国総局長 伊藤正=5月28日付け)(文中敬称略)2009・05・28



2009年06月01日

◆八郎潟干拓に奔走した父



                渡部亮次郎

2008年は亡父慶太郎の「生誕100年」だったが、後を継いだ筈の妹婿の倒産で生家も人手に渡ってしまったいま、そんなことを口にしたのは早くに実家から逃げ出した実兄と私だけだった。

明治40年、旧八郎潟東岸の貧農に生まれた父は自分の自作田を増やすためには、水深僅か4mの八郎潟の全面干拓しかないと若い頃から考えていたらしく、敗戦と共に運動を本格化させた。

具体的には水田のあらゆる作業を妻子に押し付け、秋田県庁や時には農林省(当時)に陳情を繰り返すことだった。お陰で私は一人前の百姓に成長しながら県立秋田高校に合格した。

3クラス150人という小さな学校から8人が合格したが、百姓の倅は私1人だけだった。しかも野球部のキャプテン。余りの疲労を早く回復させようと砂糖を無制限に飲み込んだら心臓脚気になって気を失った。砂糖を消化するためのビタミンB1欠乏症だったのだ。

後に政治記者となって、昔農林大臣だった河野一郎を担当したら、陳情に来た父の名前を覚えていた。「キミはワタケーの息子か」。八郎潟の漁業で暮らす人たちからは「ワタケー 馬鹿ケー」と言われたものだ。

八郎潟(はちろうがた)は、かつては琵琶湖に次いで日本第2位の広さ(220km2)を誇っていた。鮒、鯰、鰻、など沿岸住民の蛋白源の補給湖でもあった。しかし干拓により大部分の水域が陸地化された。陸地部分が大潟村となっている。

秋田県西部、男鹿半島の付け根に位置した。もともとは海と繋がった「汽水湖」であったが、八郎潟防潮水門によって締め切られており、残存湖は淡水になっている。

琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった八郎潟では、戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われた。あの頃は現在の米余り現象など想像する人は皆無だった。

工事は私が大学入学で上京したあとの1957年に着工し、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。1967年から入植を開始。全体の事業は1977年に竣工した。

それとは別に父ら沿岸農家は沿岸に広がっていた葦谷地を入手、開墾によって水田に造成、そこそこの増反を果たしたのだった。妹婿に悪意はなかったろうが、この田圃も担保に取られて失われた。

干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年10月1日に秋田県で69番目の自治体として、大潟村が発足した。

最終的には、米の増産を目指していたが、減反政策によって「失敗した計画」とする人たちもいる。特に環境の方面では、葦谷地という湿地(魚の産卵地と汚水の浄化)喪失を嘆く向きもある。「他所者」の村との合併を望む周辺町村はなく大潟村は「村」のままである。

かつては汽水湖としてシジミが多く採れていたが、近年は干拓のために淡水化され、その収量は撃減している。夏はシジミを採取するために水潜りで水泳を自然に覚えたものだ。懐かしいなぁ。

冬期間は今も凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。

反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。
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八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎はこの湖には滅多に戻らないとされている。

父の遣ったことだから文句はいえないが、嘗ての八郎潟を失い、生まれた家を失い、私は二重に故郷喪失感を深くしている。「帰省」は無くなった。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・05・29

2009年05月26日

◆生まれながらの死刑囚


                    渡部亮次郎

フランスの哲学者パスカルが「人間は考える葦である」と言ったとは知っていたが、(だから)「人間は生まれながらの死刑囚である」とも言っているとは知らなかった。『週刊新潮』5月28日号P 67に東大病院放射線科準教授中川恵一氏が「がんの練習帳」で書いている。

人間で死なない人間は居ない。生まれれば必ず死ぬのだから、「生まれながらの死刑囚」といわれても否定はできない。畏友小野善邦君も、言い方は悪いが癌により24日「処刑」されてしまった。

私がメルマガ『頂門の一針』で取り上げた「島ゲジ評伝」の著者小野善邦君である。以下< >内は島ゲジの秘書だった山下頼充さん(昔、NHKでは「五つ子のパパ」として有名だった)からのFAXによる。

<小野さんは数年前から肝臓癌を発症し、東京女子医大病院で癌が見つかる度に患部を焼切るという治療を続け、入退院を繰り返していました>

そうした苦しい中で、縁の全く無かった大来佐武郎氏(外務大臣)の評伝を日経新聞社から上梓した。当然、出版記念会に加わったが、その時初めて「発症」を当人から打ち明けられたのだった。

その後も入退院を繰り返していたが、

<島桂次氏とNHK同期入社の玉木存氏から「島の実像をあるがままに描いて欲しい」と依頼を受けて「評伝」の取材を始めた>。

島氏は自伝は残したが、NHK会長の辞任が異常な形だった事もあって、彼の実績やNHK改革の理想を記録した「評伝」は皆無である。玉木氏はそれを残念がり、島氏の周辺に長くいた小野君が適役と見て執筆を依頼したものらしい。

<入退院の合間を縫って100人近い政治家・マスコミ関係者などにインタビューしたり資料収集したり、当に命を削りながらの取材、執筆活動を続けました>

私はNHKで島氏と同じコースを歩いた。初任地仙台、下り線に乗っての万歳見送りで岩手県盛岡へ。放送部は瓦葺きの平屋だった。

島氏は暴れ者。局長も部長も持て余して東京に引き取ってもらったと言う。政経部で政治記者を始め、池田勇人攻略の伝説を遺した。

私は盛岡に4年いて、東京政経部(後にすぐ政治部、経済部に分割、私は政治部所属となる。島氏は外務省(霞クラブ)キャップ、私は総理官邸クラブの初年兵で小さくなっていたが、間もなく自民党実力者河野一郎担当となった。

当時、河野は東京オリムピックと日韓国交正常化の担当の無任所大臣。日韓交渉で外務省キャップの島氏との接点ができた。その事は別に書いたから省略。小野君は拙宅へ取材に来た。

<小野さんは島さんの13回忌には間に合わせたいと言う計画だったが入退院のため完成は2年遅れました。しかし政治に翻弄され続けるNHKの自立のため、島さんが目指したもの、そのビジョンや想い、足跡を元社会部記者らしい鋭い視点と丁寧な取材で纏めあげました。

2年2ヶ月、会長秘書として私が身近で感じていたことや知らなかったことなど島さんの人物像まで見事に浮き彫りにした力作になりました>

『本気で巨大メディアを変えよう賭した男 異色NHK会長「シマゲジ」・改革なくして生存無し』(現代書館 2300円+税で発売中。
ISBN978―4―7684―5607−1)

<評伝が完成し、取材先や知人など著者献本先の手配を終えて大型連休明けの5月11日に確か14回目の入院。「今回はパンパンになった腹の腹水を抜くので、3〜4週間はかかりそうだ」と電話で話して入院されました。

入院後は、メールや電話で「評伝」の反響を気にしながら「今日は2リットル腹水を抜いたが、横になっていないと辛い」と珍しく弱音を吐いたので心配していたのですが、こんなにも早く最悪の事態を迎え、呆然としております。

小野さんは島さんの功罪共に触れながらも、この十数年、低迷と混乱を続けるNHKへの厳しい指摘も多いだけに、特にNHK関係者の反響を気にしていましたが、「渡部さんが、きちんと取材し、島の姿を実によく描いていると高く評価しておられますよ」と伝えたところ「渡部さんは島さんのことを分かってくれていたんだ」と喜んでおられました>2009・05・26

◆ 訃報

小野 善邦 さん ご逝去

元NHK広報室長 小野善邦さんは病気療養中でありましたが、平成21年5月24日(日)午前2時23分逝去されました。謹んで心からお悔やみ申し上げます。小野さんが近著「本気で巨大メディアを代えようとした男」を贈呈された方々に取り急ぎご連絡させて頂きます。

ご葬儀は下記の通り執り行われます。

通 夜 5月27日(水)午後6時から
葬 儀 5月28日(木)午前11時から
喪 主 小谷 瑞枝 様 (長女)  03-3444-4371
葬儀場 練馬区練馬3―22―6
千代田豊島園会館(03-3991―2234)



2009年05月24日

◆日本分割を阻止した日本人


渡部亮次郎

アメリカ大統領ハリー・トルーマンは日本に進駐する連合国軍最高司令官(SCAP:Supreme Commander of the Allied Powers)にダグラス・マッカーサーを任命した。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」をGHQ(General Headquarters)と呼称する。

日本に進駐した連合軍の大部分は米軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。

戦争中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京23区は米中ソ英、近畿地方の大部分と福井県の一部は米中による共同統治)を計画していたが、天皇を通しての統治が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。

この動きは少年だった私の耳にも入り、東北地方はソ連に直接統治されると言われた。それが重光のお陰で救われたとは大人になるまで知らなかったが、ことはトラウマとなり、どういうわけか牛蒡畠
の裏からソ連兵が現れる夢を大人になっても見た。

戦後、重光葵が鳩山内閣で外務大臣を務めた際、政務次官になったのは熊本天草出身の代議士園田直(そのだ すなお)だった。更にその30年後、園田は福田赳夫内閣の中で図らずも外務大臣に横滑りし、要請で私がNHK国際局(当時)副部長から政務秘書官に発令された。

その関係で重光のことは裏話を含めて良く聞かされた。重光が死んだのは自宅ではなく妾宅だったが、自分が早くに駆けつけ、世間の目をくらましたことなど。

鳩山内閣当時、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため外交官出身の重光と鳩山の関係が悪化した。

また鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。というのも、重光の脳裏には駐ソ大使当時、ソ連外務省と対立した事や日ソ中立条約を一方的に破棄し満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。

重光 葵(しげみつ まもる、明治20年(1887年)7月29日―昭和32年(1957年)1月26日)は、日本の外交官・政治家である。

昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判で有期禁錮の判決を受ける。仮釈放と赦免後、政界に再復帰し、再び外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力した。園田政務次官はこの時代。

大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれたが、母の実家(重光家本家)に子供がなかったため葵が養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現・大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。

重光は敗戦直後、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣で外相に再任された。引き受けた大仕事は、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという屈辱だった。

昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、参謀総長の梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行い、その時の心境を「願くは御國の末の栄え行き我が名さけすむ人の多きを」と詠んでいる。このとき随員として艦上にあったのが畏友にして評論家加瀬英明の父俊一(としかず=後に国連大使)である。

重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難を伴うものだったのにもかかわらず、重光自身はその事を全く気にしていないように振舞った。

ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦する米国水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという。

極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だった。アメリカは重光起訴に当初は抵抗したがソ連に乗り切られた。

なお、進駐軍が厚木飛行場に到着した際は、横浜市に対して「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した実現したのは軍票問題だけだった。
(文中敬称略)2009・05・08
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年05月22日

◆私はマスクをしません


渡部亮次郎

新型流感に対して日本の役所は互いにマスクをすれば蔓延を防止できるとしているので、今に日本中がマスクだらけになって世界中の笑いものになるだろう。

若い頃、仕事柄、年がら年中、世界を飛び回っていたが、マスクをした外国人を1人も見たことが無い。わたしも風邪を引いたことがなかったからマスクとは無縁だった。

ところが今回、メキシコを"震源地“とする新型流感が流行りだした途端、役所は上も下も「マスクをしましょう」と呼びかけている。
だがWHOは「マスクは効きません」と言っている。

目に見えないような黴菌がマスクで防げる筈がない。また、患者がマスクをしてウィルスの飛散を抑えようと健気な心がけをしても、マスクの中で咳をすれば、ウィルスは少なからず布の目から飛び出すだろう。

だから要するに「マスクで流感は防げない」。

麻生首相は21日のメルマガで「呼びかけ」をしたが、<手洗い、うがい、咳エチケットの徹底をお願いします>と述べただけでマスクには一言も触れていない。

役人たちがマスクの励行は間違いだったと気付き。例によって、こっそり、軌道修正したのだ。わたしも昔、短期間ながら特別国家公務員をしたことがあるので分かる。

新型流感はこれから益々流行る。私もかかるかもしれない。しかしマスクでは防げないとWHOが言うのだからマスクはしない。

2009・05・21

2009年05月19日

◆唄わせない「九段坂」

渡部亮次郎

島倉千代子の馴染の一曲に「東京だよおっ母さん」があるが、歌詞に「九段坂」があるので、NHKでは歌詞の二番は絶対に歌わせない。だから紅白歌合戦では曲自体を歌わせない。「過剰自己規制のNHK」躍如!

島倉千代子(1938- )東京の品川出身。高校在学中の昭和29年、コロムビア全国歌謡コンクールに優勝。30年「この世の花」でデビュー。

同年「りんどう峠」、31年「東京の人さようなら」、32年「東京だよおっ母さん」、33年「思い出さん今日は」「からたち日記」と立て続けにヒットを出す。

この間、声が突然、出なくなったり、ファンの投げた紙テープによって失明の危機にさらされたりとのトラブルも多かった。36年「恋しているんだもん」などがヒット。38年にプロ野球選手の藤本勝巳と結婚するが、43年に離婚。

その後、6億円の保証債務を肩代わりするなどの不幸に遭う。56年には「鳳仙花」、62年には「人生いろいろ」をヒットさせ健在ぶりを見せる。「人生いろいろ」は当初、酒で憂さを晴らすという歌詞だったが、島倉自身の経験から、強く小指を噛んだりと改められた経緯がある。

淡谷のり子に酷評されるが、紅白歌合戦に30回連続出演の記録を持ち、コマ劇場での公演でも長期の記録を誇るなど、女流演歌では大御所。漬物嫌い。平成11年、紫綬褒章受章。(「誰か昭和を思わざる」より)
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer04.html

「東京だよおっ母さん」は作曲家古関裕而の親友の作詞家野村俊夫が田舎から上京した老母を東京に住む娘が東京見物を案内するというもので、例の中国が怒るようなものではない。

問題にされる2番。
「やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと
櫻の下で さぞかし待つだろう おっ母さん
あれが、あれが九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんが」

野村俊夫は戦時中は確かに古関と組んで「軍歌」も何曲か作っているが、野村を有名にしたのはむしろ古賀正男作曲、近江俊郎歌「湯の町エレジー」(1948、昭和23年)である。これから9年後に作られたのが「東京だよおっ母さん」。

素朴な母子が東京見物の途次、かつて戦死した兄を偲びに靖国に参拝する、優しい気持ちこそ歌っているが、好戦的な意味は全く感じられない。ところが無理無理そこに「侵略」や「好戦)を感じてしまうNHKの神経にはなにか異常なものを感じてしまう。身を守る余りの自己規制は過剰である。

最近、捏造をしてきされて大問題に発展している『アジアの“一等国”』の問題意識と共通のものを感じる。共通するものは誤まれる歴史観を国民に植え付けるためにはNHKは視聴者を愚弄して恥じないという傲慢さである。

筆者もNHKに20年近く在職し、時々連合国軍総司令部(GHQ)規制の残滓を感じたことはあったが、一つひとつ潰すよう闘った。

公共放送だからと言って言論の自由を守る義務は厳として有するはずだ。それにも拘わらず、はじめから自己規制を過剰にしてちぢこまるというのでは決して「皆様のNHK」とは言い難い。

2009年05月17日

◆鳩山辞退していたら

渡部亮次郎

私のメール・マガジン『頂門の一針』1547号(5月15日)で私は鳩山120:90岡田で鳩山の勝利と読んだ。結果は5票しか違っていない。こんなに当るとは。

15日の「身辺雑記」に以下のように書いた。

<◇民主党グループの色分け。

〈鳩山氏支持色が強いグループ〉
小沢グループ   (約50人)
鳩山グループ   (約30人)
旧社会党系グループ(約20人)
旧民社党系グループ(約20人)
羽田グループ   (約15人)

〈岡田氏支持色が強いグループ〉
菅グループ    (約30人)
前原グループ   (約25人)
野田グループ   (約20人)

(注)民主党所属の国会議員は221人。グループを掛け持ちする議員やどこにも属さない議員もいる。(時事)

鳩山135:岡田75となるが浮動票や良心票が出て鳩山120:岡田90ぐらいになるのじゃないか。いずれ造反が起きるはずだ。

何故なら民主党を作るとき、由紀夫18億、邦夫17億円出した。それなのに小澤に乗っ取られてしまった。由紀夫は感度が鈍いけど、いずれ分かり怒るだろう。造反は代表から?>

民主党とは、この程度の政党でしかない。民主党支持層野「世論」を反映すれば、党内は雪崩を打って「岡田代表」を選ぶべきだったが、たった20票しか流れなかった。

一方、鳩山は小澤と共に150ぐらいを読んでいたはず。それが過半数を超えること僅か15票。これでは「代表」とは言いながら求心力を極めて欠く、裸の王者でしかない。自然、小澤に距離を置いた党運営なんか出来っこない。みずから傀儡への道を選択したのだ。

鳩山が大博打を打って選挙を辞退したらどうなったか。歴史に残る英断として大向こうを唸らせ、大政治家に成長したことだろう。勿論、政権交代を確実なものにし、首相の椅子も確実にしただろう。

しかし、この体たらくでは「元助教授」から成長の止まっている事を晒しただけだ。

多分、党内では岡田票、意外に多かったという受け留め方がなされているはずだが、それでも2桁では少ない。せめて100票を超さないと鳩山への「脅威」とはならないし、近い将来の「造反」の核たり得ないだろう。

反対に幹事長を引き受けたりすれば岡田に総理の目は消えるだろう。むしろ鳩山の陰にいる小澤は岡田勢力の三役入り阻止に邁進するはずだ。

いずれにしろ鳩山を代表に担いだ事で民主党は少なくとも支持者の声に背いてしまった。岡田にすれば来るべき総選挙で政権獲得のチャンスがあったが、小澤の勘違いと、世間の「風」を読めない
鳩山のボンクラにより千載一遇を逃した。

当に平井修一の言う如く「民主党は勝てる戦争で勝利を放棄した。小沢との心中を選んだのだ」2009・05・16