2009年09月03日

◆議会政治全治20年



              渡部亮次郎

今回の惨敗の結果、自民党は最早、政党としての体裁を保てず、政権奪還の力を次第に失っていくだろう。だが、民主党もこのまま上昇を続ける事は不可能。したがって政党再編成を繰り返しながら、日本の政党政治はおそらく向こう20年ぐらいは混乱を繰り返す。

1950年の結党以来、自民党は経済の高度成長と共に歩んできた。その結果、老人医療を無料に出来た時期すらあった。夢のような自民党政治は1960年代後半の「公害問題」でその存在を問われる。

これに対して自民党の取り組み方は消極的だったが、むしろ自民党の問題児とも言えた元特攻隊員の園田直(そのだ すなお)がたまたま厚生大臣だったことから、蛮勇とも言える彼の決断で自民党は
「公害病」を認定して乗り切った。

園田は、日米安保条約は再軍備を不可能にするものだと本会議で反対票を投じて党を除名。厚生大臣として初入閣した時は当選9回生だった、と言う変り種。

これは国民への謝罪である。あらゆる階層を組織化し、それをバックに国民に利害を配分する政治から、世論を取り入れて国民を懐柔する政治に舵を少し切り替えたのである。

国民の総反発を食らって退陣した岸信介総理の実弟佐藤栄作総理が長期政権を維持できた理由である。

田中内閣による日中国交正常化もマスコミと世論に従った政策だったが、何よりも日本列島改造論とロッキード事件による「利権政治」の顕在化は、国民を次第に自民党支持から離れさせた。公明党の進出がそれを裏付けた。

幸い日本社会党が消滅して、一時的に野党勢力が弱体化したために
自民党は根本的な党改革を怠った。怠る余裕が出来た。それが今回惨敗の原因となった。

自民党を追われるように去った小澤一郎はこの間、自民党と連立を組むなどして、自民党の怠慢を助長させた功労者。それが証拠に一時、細川政権の成立があったが、すぐに潰れたために自民党は益々党改革に怠慢になった。

国民は自民党に失望したが、10年前、公明党に膝を屈した実態を見てさらに失望。半数近くが無党派層という存在になった。特に森、小泉、安倍、福田と言う政権は、無党派層にとってはわけのわからない政権だった。この10年間でつくづく愛想が尽きたのである。

したがって総選挙の結果についてマスコミは大衆が民主党のマニフェストを支持したから民主党が大勝利したと結論付けたけれども、様々な調査は民主党のばら撒きマニフェストは、必ずしも支持者の賛成を得ていないことを証明している。

明らかなのは、自民党が信用を失い、飽きられた、呆れられた結果なのである。

この間総裁麻生はばら撒きを批判して回ったが、大衆は聞いてなかった。風は50対50に感じられたかも知れないが、結果は49対51だったらオセロ・ゲーム宜しく惨敗と大勝利となる。おそらく麻生は台風の目に立っていて風を感じられなくなっていたのだろう。漢字を読めないだけじゃなかった。

自民党は貧乏政党に陥った。党本部は維持できるか。派閥はばらばらになる。国会に行っても坐る椅子が無くなる。たまる部屋もとりあげられる。役人も来ない。マスコミも寄り付かない。国会議員を辞めたくなる孤独感にさいなまれる筈だ。

とりあえず、来年の参議院選挙対策に取り組まなければならないが、
秋の臨時国会で代表質問に立つ元気すら沸いてこないだろう。

しかし、民主党の「わが世の春」は長続きしない。かつての自民党
がそうだったようにすぐ起きるのが派閥抗争だ。嘗ての田中派みたいな大派閥になった小沢派。小沢は派閥政治こそが政治の原点と心得ている政治家だ。なりふり構わず、党内でゴリ押しを始める。

とりあえず党役員の構成、内閣の組閣でも陰湿なごり押しを展開して鳩山を困らせ、他の幹部の反発をかうだろうが、権力とは数であり地位であると言うのが師匠角栄、金丸直伝の手法なのだから遠慮はしない。権力の二重構造。しばしば立ち往生する鳩山に手を貸すのは誰になるだろう。

鳩山の故人献金、小澤の不動産買い込みに東京地検の動いている事を自民党は期待しているだろうが、検事も人の子、国家公務員でしかない。いきなり事件にする度胸はあるまい。

とにかく、素人集団の民社党。マスコミにとっては想像もつかないような珍事が展開する事、間違いない。

率直な見通しを言えば、自民党は新総裁や新三役を選んだ後も茫然自失のままで越年するだし、党再建のきっかけをつかめるのはいつか想像もできない。

まして次期総選挙で政権奪回に見通しなんか立たない。生き残ったのは殆どが古狸。反省はできないし新しい発想なぞ、あるわけがない。我利我利亡者の集団だから新人の発掘もおぼつかない。

民主党は連立する社民党に足を引っ張られ、アメリカに脅されながら、その日暮らしの政局運営を続けるしかない。その中で小澤の暴力にどう内閣や執行部が耐えてゆくか。

かくして、わが国の政局は、向こう20年ぐらいは安定しないだろう。小選挙区制再建討論も出てくるだろう。しかし、私はその頃、この世にいない。大きな声では言えないが、私欲のため、民主党圧勝を仕掛けたマスコミの親分も亦。(文中敬称略)2009・09・02



2009年09月02日

◆中国が「糖尿病大国」に



渡部亮次郎

(CNSPHOTO)2008/10/15によると2008年10月11日、上海で米国糖尿病学会主催の第2回アジア太平洋地区育成会議が開催され、中華医学会糖尿病学分会の主任委員である楊文英教授は中国における糖尿病の増加傾向に懸念を表わした。

楊教授によると、最近行った調査から、生活レベルの向上のため国内の都市部では糖尿病の発病者数が増加しており、特に男性では30歳から60歳の間に発病する確率が急激に高くなっていることが分かった。

現在、中国の糖尿病患者数はインドに次いで世界第2位となっており、2050年には5930万人に上ると予測されている。中国がインドに次いで世界第2位の「糖尿病大国」になったのである。


中華料理を見れば明らかなように、材料は、四足は椅子以外、飛ぶ物は飛行機以外、何でも食べている。香港では蛇も平然と入っている。しかし、牛肉料理は少ない。鶏か、せいぜい豚肉が多い。

ところが、経済の開放、改革路線の結果、懐の豊かな階層が出現し、彼らはこれまで食べたことの無かったステーキ(牛肉)をふんだんに食べるようになった。鶏の何倍もの高カロリーだ。また日本人の常食する生魚も海のものなら安全なことを知り、鮪を競って買うようになった。

有史以来、アジアは長い事飢餓に苦しんできた。このため、栄養過多になると、インスリンがすぐ不足して、余剰なカロリー(ブドウ糖)は消化できず尿と共に排出される。これが、糖尿病である。

中国では共産革命を起こさざるを得ないくらい、冨が偏在していた。
毛沢東による革命(1949年)後も、人民は栄養不良に悩んできたが、
トウ小平による経済の事実上の資本主義化の結果、少なくとも沿岸部では、美味い物を好きなだけ食べられる階層が出現した。

その結果の糖尿病である。以前は聞いたこともない病気であるから患者に予防知識が無い。発病しても痛くも痒くもないため、症状は猛烈な勢いで悪化し、ある日、突然、盲目になったり、腎機能不全に陥ってようやく糖尿病と分かる始末である。

日本人だって総理大臣を務めた田中角栄も大平正芳も糖尿病患者だった。田中はその合併症として脳梗塞を患った末に、身内にひっぱたかれながら死んだ。

大平は酒は嗜まなかったが、甘いもの大好き。主治医に言わせると最低の患者だった。首相在任中、合併症としての心筋梗塞の発作2度目で冥土へ旅立った。

中国では急激な糖尿病患者の大出現に、医者も教育係も追いつかない。だから先進国から専門医を大量に招いている。日本からも相当の数の医者が駆けつけている。

しかし、患者の発生の多さにはとても追いつかない。共産党政権は
経済の高度成長こそが存在の正当性を裏付けるものだから、「食」の高度化をますます進めてゆく以外に無い。即ちそれは糖尿病大国の肥大化の道に他ならない。

実に皮肉なことだが、経済の開放、改革こそは糖尿病への道だったのである。

予防のためには適度な運動と食事制限意外に無いのだが、中国人に食事制限の知識はないし、適度な運動のための時間的な余裕は考えられない。日本人も同様だが。(文中敬称略)2009・08・31

2009年08月30日

◆古関裕而こそ努力の天才



               渡部亮次郎

私が天才作曲家と呼んでやまない古関裕而(こせき ゆうじ)の今年は生誕100年であり、郷里福島県では様々な催しものが展開されている。

ところが彼は戦時中、多数の軍歌を作曲した故を以て作曲界の大御所だった高木東六は死ぬまで古関の悪口を言い続けた。天才ぶりがよほど堪えたのか、さすがに学歴の無さには言及しなかったが、私には実にハラの立つ悪口だった。自身も「空の神兵」を作曲しているくせに。

高木は、演歌や歌謡曲に関しては、終生、「喜びや笑い、ユーモアがない」や「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど、批判的な意見で有名だった。

一方の古関裕而 1909(明治42)年8月11日―1989(平成元)年8月18日)は、作曲家だったが、それらしい学歴はなくすべて独学でやり遂げた。本名は古關勇治。従五位勲三等瑞宝章、紫綬褒章受勲受章。

福島に住みながら仙台に通い、金須嘉之進に師事した。金須はリムスキー=コルサコフの弟子。正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んだ。

古関はこの師金須をたいへん尊敬し、自分がリムスキー=コルサコフの孫弟子になることを誇りとしていた。

1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家。

それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。倒産した一族を養うためクラシック畑からポピュラー畑に転進し、多数の軍歌、歌謡曲を作曲」した。

早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」が有名。

全国高等学校野球選手権(甲子園)大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲おろし」)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、東京五輪のオリンピックマーチなどの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ、和製スーザ(行進曲王)と呼ばれる。

NHKで使われているテーマ曲も多くは古関の作。スポーツ中継の冒頭に流されるスポーツ行進曲は一番親しまれている。気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。

福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に生まれる。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。

裕而は幼少の頃から、ほとんど独学で作曲の道を志していく。天才の所以だ。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって裕而とともに数々の名曲を世に送り出すこととなる。

戦争の色が濃くなると、音楽関係者らも軍歌・戦時歌謡を作らざるを得なくなった。古関も戦時歌謡で数々の名作を残している。古関メロディのベースであったクラシックと融合した作品は、戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律のもの(愛国の花、暁に祈る等)も多かった。

それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。古関自身、前線の悲惨な体験や目撃が『暁に祈る』や『露営の歌』に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ散花した人への自責の念を持ち続けていた。

戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌『長崎の鐘』。

戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』。戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた『オリンピック・マーチ』。

現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌『栄冠は君に輝く』。その他にも『フランチェスカの鐘』、『君の名は』、『高原列車は行く』などの格調高い曲を多く創作した。クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心を捉えた。

テノールの美しい音色と格調のあるリートのベルカントで歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。

劇作家の菊田一夫と名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルのヒット作品を世に送り出した。
1961年に菊田と手がけた森光子主演の放浪記は現在も公演記録を伸ばし続けている。

また、戦後の古関は、クラシック音楽の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。

半寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日死去。盛大な音楽葬が催された。生前、早稲田大学、慶應義塾大学の応援歌を作曲していた古関のために、参列した両大学の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、古関の棺は、左右からさしかけられた両校の校旗をくぐって、多くの参列者に見送られた。

福島県福島市最初の名誉市民で、同地には1988年11月12日、「古関裕而記念館」も建てられている。本人はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。

2009年8月11日、生誕100年を記念し、モニュメントが地元福島市の駅前に設置された。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が愛用のオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、1時間おきに古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。出典:「ウィキペディア」2009・08・28




2009年08月28日

◆生き残り美声二葉あき子




              渡部 亮次郎

淡谷のり子、藤山一郎、霧島昇ら戦前・戦中・戦後を代表する大物歌手の殆どが世を去る中、彼女は大物歌手の数少ない生き残りと言えるだろう。現在は広島に帰郷して余生を送っている。94歳。

終戦間際、広島原爆投下時に、間一髪、乗っていた汽車がトンネルに入ったので被爆を免れるという強運の持ち主でもある。

芸名「ふたば あきこ」は広島の大須賀町二葉出身で二葉の里で安芸の国と、地元からとった。父は陸軍技師の厳格な家庭に育った。

本名は加藤芳江。歌が好きというよりも何よりも美声が歌手の運命に決めた。

広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)で美声が評判となって、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)進学を奨められた。

短期間の猛勉強が功を奏して合格。師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手で名をなしていた。

後年、出演したラジオ番組で、終生、藤山一郎が「憧れの人」だったと「告白」しているが藤山は「知らないふり」だったらしい。

卒業後、地元の広島の三次(みよし)高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとるも上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。

続いて昭和11(1936)年、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。

「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。

この曲でブルースを歌う自信をつけ、以後多くのブルースをヒットさせるようになった。14年の「古き花園」以外のヒットは他の歌手とのデュエット作が多かった。

当時はデュエットとは言わず、掛け合いと言われた。同年の「父よあなたは強かった」や伊藤久男との「白蘭の歌」、同じく15年の「お島千太郎旅唄」、藤山一郎との「なつかしの歌声」、霧島昇との「新妻鏡」、高橋祐子との「めんこい仔馬」がヒット。戦時中は歌手として慰問活動をする。

戦時下の昭和18(1943)年、結婚し一男をもうけるがすぐに離婚。その後は自立する女として生きた。

1945年8月6日、久しぶりに帰郷する為、広島から芸備線の汽車に乗り、トンネルをくぐっているときに原子爆弾が投下され、トンネルを出たら、きのこ雲と落下傘を見たという。

戦後になると、「別れても」「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「さよならルンバ」「村の一本橋」など多くのヒット曲を放った。昭和25年の「水色のワルツ」は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いを与えた。

日劇では同じコロムビアの淡谷のり子、笠置シヅ子、渡辺はま子らとよくステージに立ったというが、筆者は秋田の田舎で子どもだったから1度も観たことがない。当時はまだ、テレビも無かった。

NHK紅白歌合戦にも1951年の第1回(ラジオ)から1959年の第10(テレビ)回まで10回連続出場した。そのうち、第6回から第10回までは二葉の歌のラジオの音声が現存する、という。

第6回では代表曲の一つである「バラのルムバ」で紅組トリを務めるなど、渡辺はま子・淡谷のり子・松島詩子・笠置シヅ子と並ぶ創世記の紅白を代表する女性スターでもあった。

第10回は2009年4月29日放送のNHK-FM『今日は一日“戦後歌謡”三昧』の中で、二葉の歌を含め全編が再放送された(音声はモノーラル)。

昭和30(1955)年前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。その後、作曲家の服部良一に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。自ら低音発声法を作った。

昭和57(1982)年に紫綬褒章、平成2年(1990年)には勲四等瑞宝章を受章。

懐メロ歌手として21世紀を超えてもなお活躍したが、2003年夏にファンのつどいにて引退宣言。難聴が進行した影響でバンドの演奏の音が聞き取りづらくなっており、それが引退の理由であったと伝えられている。

絵画と書道の腕前は一流という。

出典:『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

及び『ウィキペディア』2009・8・17

2009年08月27日

◆そうめん(素麺)知らず



              渡部 亮次郎

そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争(戦後、占領軍=アメリカの命令で太平洋戦争と呼ぶようになり、以後、日教組の意図もあって大東亜戦争とは呼ばれなくなっているが、日本政府としてはアジア各国を欧米各国の植民地から解放するという意図を持った戦争と位置付けていた)による物資不足で、見たこともなかった。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可をどこかの役所から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創刊者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典によると、そうめん(素麺)は古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質のコムギを産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。

これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。(新島 繁)

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で始めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。2006・07・03(再掲)

2009年08月26日

◆水携行不可欠の旅行



              渡部 亮次郎

数年前、中国を訪れて、つい水道水を飲んでしまい猛烈な下痢に襲われた末、低血糖を起こして病院に担ぎ込まれた。原因は中国の水が「硬水」であるため。

含まれているマグネシウムイオンは水分子と強く結合(水和)し、体内に吸収されにくい。これを人間が摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

だから田中訪中(1972年)の同行取材に先立って外務省の担当官から「決して生水は飲まないで。湯冷ましを飲んでください」と注意されたものだ。中国はいくら金持ち国になっても硬水の国からは抜けられない。飲み水は携帯していかなければならない。

アメリカやヨーロッパの水には硬水(こうすい)が多い。カルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。日本では関東地方の一部や沖縄で見られる。逆のものは軟水という。

語源については、欧米の hard water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる(『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものがある)。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。中国のはこれだ。

ヨーロッパの水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

硬水は一般に、飲料水、洗濯、染色や工業等の用途には適さない。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれている
ミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩であるから、硬水のマグネシウムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため使用感が悪い。また、衣類にその塩が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。

染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。一時硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下
させる。

一時硬水を煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させることができる。

また、軟水化剤の投入でカルシウム塩を沈殿させることもできる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代は軟水の確保は深刻な問題だった。砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

軟水(なんすい)は、カルシウムやマグネシウムのイオン含有量が少ない水。工業用水に向き、飲用、炊飯にも適す。日本では、カルシウムとマグネシウムの量がリットル当たり177mg(硬度178)以下の水のことを言う。

軟水は金属石けん(石けんカス)が出来にくい。また、硬度60の水と硬度1の水では、石けんを溶かす能力に2倍の差がある。飲んだときまろやかな感じなのが特徴。

日本の水は外国に比べて、硬度が低いとされている。 また、一般的に和食やコーヒー、お茶などの用途には軟水がよいとされている。

日本の水道水は、硬度80前後で軟水と言われている。近年エコキュート機器等普及で硬度ゼロの軟水が求められる時代になって来ている。

軟水を用いて日本酒を醸造すると比較的まろやかな甘口の酒(女酒)が、硬水を用いるときりりとしまった辛口の酒(男酒)ができるとされる。

ミネラルウォーター (Mineral water) とは、容器入り飲料水のうち、地下水を原水とするものを言う。特に、原水の成分に無機塩添加などの調整を行っていないものは、ナチュラルウォーター・ナチュラルミネラルウォーターと呼ぶ。国内生産量では山梨県が日本一である。

炭酸含有の有無

欧米では、ミネラルウォーターの原料となる水に元々炭酸が含まれているものがあり、ミネラルウォーターといえば炭酸水を指すことが多い(代表例:サンペレグリノ)。

炭酸水を冷やさずに常温で飲むと独特の味わいになるため、日常的に炭酸水を飲む習慣がない日本人には馴染めないことがある。特に「ガスなし」と断らないと炭酸水が出てくることがあるので注意すること。
2009・07・16
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年08月24日

◆低学力をルビでは補えない



              渡部亮次郎

毎日新聞編集局顧問の岩見隆夫さんが怒った(「頂門の一針」09・8・22)。

<またも飛び出した麻生太郎首相の漢字読み違いだ。9日、麻生さ
んは、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での挨拶で、「7万ともいわれる尊い生命が、一瞬にして失われました。一命をとりとめた方も、癒やすことのできない傷跡を残すこととなられました。……」

と述べた際、傷跡を〈きずあと〉でなく、〈しょうせき〉と読んだのである。何ということだ。一命をとりとめた方が聞いても、意味が通じない。

新聞の小さな記事でそのことを知って、私は非常に腹が立った。またか、でなく、これは許せない。麻生さんに対してではない。麻生さんはもうあきらめている。わざと読み違えたわけでもあるまいから。

先日、河村建夫官房長官から話を聞いた時、「あの方(麻生さん)は〈英語脳〉といわれるけど、本当にそうなんです。難しい漢字にぶつかると、まず相当する英語が先に口に出て、それから日本読みという順番だから」

と言っていたが、多分そうなのだろう。傷跡が難しい漢字とも思えないが、仕方ない。

怒りを覚えるのは、首相を補佐する人たちの恐るべき怠慢だ。下読みさせるとか、大きなルビ(仮名)を必ずふるとか、なぜきちんとやらないのだ。そばにおれば、これは間違えそうな漢字だ、とわかるはずじゃないか。しっかりしろ。>

私は昔「しっかりする」側に居た(外務大臣秘書官)のだが、なかなか「しっかり出来るものではないのだ。せいじを家を常に見ているジャーナリストたちだが、所詮「外」からしか見えてない。「内」
では困惑しているのだ。

結論からいえば、ご本人の「低学力をルビでは補えない」のだ。

私の付いた大臣は旧制中学(小学校卒業後5年制)卒業者。世間では
郷里の将来の指導者と期待されたもの。当然、「読み、書き」(国語)
算盤(算数)には十分通じた人間として、一段高く見られた。

既に連続当選10回以上のベテラン代議士。衆議院副議長、厚生大臣、官房長官を経ての外務大臣。麻生総理大臣並みに漢字を知らないとは想像できなかった。

或る時、朝食を共にしながらの雑談でさかんに「さつじん」を連発しながら映画の話をする。さつじんとは殺陣(たて)のことなのである。「大臣、それはタテというものでしょう?」とは失礼だから言えない。初めから殺陣=殺陣、と分かっていたように装って聞き流した。

殺陣(たて=演劇や映画で、闘争、殺人・捕物などの格闘の演技。立ち回りのこと。殺陣師はその演技を振付ける指導者)広辞苑。

話をきいていると、また「しきれつ」という。熾烈(熾烈)を誤まって「しきれつ」と覚えてしまったのであろう。似た様な誤りに「旗幟鮮明」(きしせんめい)がある。旗とのぼり(幟)の色をはっきりさせる、敵か味方かを鮮明(はっきり)させることである。

こころが大臣閣下は「きし」を「きしょく」と誤まって覚えてしまった。若くして衆議院議員になって階段を上ったから回りは誰も注意できないまま70歳になったのである。

外務大臣の行なう演説は各局の担当課長が起案し、次第に上に上がって決裁をうけながら練られてゆく。最後、事務次官の決裁で決定するが、あの時代は、大臣の指示で最終的な添削は秘書官たる私が行なう事になっていた。「話し言葉」でニュースを書いていたNHK政治記者の経験を買われたものである。

それでも失敗した。やはり役人が下書きを書いてくるものだから
漸次とか暫時とかと言った硬い漢字が使われる。優しく書き換えるのだが、あまり中学生程度に理解度を下げると演説そのものの格調の下がってしまう。

第1回国連軍縮特別総会で、大臣は漸次も暫時のすべて「ざんじ」と読んでしまった。演説は何ヶ国語かに同時通訳されるが、通訳は区別して通訳したようだったし、日本のマスコミには正確な日本語のコピーが事前に配られたから問題はおこらなかった。

気がついて恥ずかしく思ったのは演説原稿を筆ペンで清書した私だけだった。

以後はさらに注意して、ルビを振るようにしたが、何でもかんでもルビを振るわけにはゆかない。「ワシだってこれぐらいの字は読めるよ」といわれても困る。では大臣はどの字とどの字を読めないか、
判定することは殆ど不可能だ。麻生側近だってそうだろう。

まさに「低学力をルビで補うことは不可能だなぁ」と言う憂鬱な気持ちになったものだ。麻生側近もそんな気持ちかもしれない。でも、心を入れ替えて最後まで補う努力をするしかないのである。

再度言うが、演説原稿にはルビは振れるが原稿のない演説や会談や座談で大臣の口に戸はたてられない。当に「綸言、汗の如し」。漢字を読めないで政権を失ったとは言われたくないものだ。
2009・08・23

2009年08月20日

◆「やませ」は凶作の使者



         渡部亮次郎

江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。
凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。
稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。
ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。2009・08・18
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2009年08月16日

◆生還後は「お釣の人生」

       
渡部亮次郎

わが師、故園田直(そのだ すなお)は「8月17日」が命日になるべきところ、2日まえに敗戦となったため生き残った。昭和20(1945)年のこと。「特攻隊」として死ぬはずだったのだ。

「31歳。残りの人生はお釣のようなもの。何が起きても怖いことはなくなっていたね」とよく述懐していた。復員後は郷里・天草で役場の助役。代議士に立候補したが落選。次の選挙から死ぬまで当選を続けた。

政治の隙間に剣道、居合道、合気道に精進した。結婚3度。衆院副議長を経て初入閣したのは既に9年生だった。これは日米安保条約は再軍備を阻害するものだと、保守党にありながら反対票を投じて
いわば長い事党の幹部に忌避されたため。

その後、官房長官、外務大臣3期、厚生大臣2回をつとめ、糖尿病に伴う腎不全で死んだ。70歳。インスリンの注射を痛がって逃げ回ったツケだった。

実は8月13日に「天雷特別攻撃隊長」として沖縄海戦に燃料片道で出動、アメリカ艦に体当たりして果てるよう指令が下っていた。
だが、当日は天候不良により、出撃中止。次は17日出撃が予定された。

「死」を覚悟すると、人間は如何なる状態になるか。「生」への飽くなき執着を絶つために不思議な行動に走った。誰かが道端に捨てた鼻紙を拾って広げ、自分の頬を押し当ててこすった。

かつて中国でスパイとして逮捕されそうになったとき、目前に落ちていた牛の糞を口に突っ込んだ。狂人のふりをして難を逃れたことがある。あれは生き延びるための芝居だったが、こんどは生への執着を絶ち切るための行動。芝居ではない。

だが、如何に努力をしても生存している限り、生への執着は絶てるものではない。体中に爆雷を巻き、盲滅法、最後は目を確り開けて
敵艦に体当たりする以外にないだろう。

そう決意して爆撃機に隊員たちと搭乗したのに、出撃直前に悪天中止。気落ちして腰が抜けたようになって17日を待った。

だが運命は狂った。2日前の15日に「敗戦」万事休す。今度は本当に腰が抜けた。一旦決意した以上、自分は生きていても心は既に死んでいた。だから死から強制的に生還させられたようなものだった。

「死ぬはずが生きているというのは変なものだよ」とよく言っていた。

園田は昭和13(1938)年9月10日、血書志願して歩兵第13連隊に入隊。26歳で中尉に昇進したが日本陸軍初の落下傘部隊員となる。
危険だからと長男は除外されるべきところを、特に願い出て許可された。

さらに進んでパイロットとなり、昭和20年7月20日には特攻隊員となり,第1「剣」部隊創設「天雷」特別攻撃隊の隊長に任じられていたのである。

大東亜戦争時、日本には「空軍」はなく陸軍と海軍それぞれに飛行隊が存在した。アメリカは初めから飛行機を先頭にした海軍なのに、
わが軍は軍艦の大型化で対抗しようとして最後は「特攻隊」の体当たり爆死しかなくなって敗れた。

血書志願といい、落下傘部隊といい、パイロットと言い、最後には必ず死ぬべき特攻隊への志願。すべて「生」よりも「死」を志願して結局、生き残ったわけである。

晩年、外務大臣を福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸の3内閣で勤めた。
酒を全く嗜まなかったが、外遊すると夜、外へ出たがる秘書官の私にウイスキーの水割りを作ってくれながら、時折、戦争の話や得意の武道の真髄を聞かせてくれた。

その内容はおそらく子どもたちにも語った事はなかったはずだ。

戦場では当然、弾丸は怖い。「だが、変なものだ。タマは逃げれば当る。こっちからタマに向かっていけば当らない」。「危険は回避しようとすれば襲いかかってくる。積極的に挑戦して行けば危険のほうが逃げて行くよ」

園田の命日は4月2日である。エイプリル・フールの翌日。園田に実に相応しいと独り心地ている。2009・8・15

2009年08月11日

◆園田が教えた1本足打法



              渡部亮次郎

私がその晩年に外務大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)は剣道7段、居合道8段、合気道8段など「武道」の猛者としても知られた。

福田赳夫内閣の官房長官当時、王 貞治選手の本塁打数868本を祝って日本国民栄誉賞を授与した時、私に「ワンちゃんに1本足打法を教授したのはワシたい」と胸を張った。

王に1本足打法を薦めたのは荒川博ということになっているから、それを「完成」させる過程で、居合や剣道の達人として手伝ったと言う事のようである。

<剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた。>(堂本昭彦 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年)

当時、羽賀道場では既に園田が師範代だったから「球の芯を斬る」真髄を教えた、とよく言っていた。剣道家羽賀準一のもとに連れてきた荒川の見識を高く評価すべきだろう。

<特に天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあった。>(「ウィキペディア」)

王 貞治(おう さだはる、1940年5月20日―)は、日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。

日本国民栄誉賞の初受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、宮崎市名誉市民。69歳。

荒川との出逢いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王の出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。

観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と言った。

荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それで王はすぐに左打ちを実践したところ2塁打を打ち、以後左で打つようになった。

荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。

また、この出逢いの時王は身長176cmで当時の若者としては長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えた。

荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えた為、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。

小学生の頃、当時の横綱:吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。

1962年、荒川博が巨人の打撃コーチに就任。荒川就任は読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの。川上は榎本喜八を育てた荒川の手腕に王の指導を託した。

荒川に最も強く期待したのは王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。

秋季キャンプで久々に王を見た荒川は、「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。

王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川はこの時「これだけ悪い打ち方(打ちにいく際、手足の動きがバラバラな点だと説明)でも、2割7分打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。

荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまりボールを迎えに行ってしまうためグリップが安定しないことが欠点と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。

その1つが1本足打法だった。但し、キャンプの時はいくつか試した打法の1つに過ぎず、ほんの2、3日練習しただけだった。

このシーズン、開幕から3ヶ月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れない。

2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いた荒川が、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から1本足で打つことを王に命じた。

なお、王本人によれば「1本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっその事右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている。

1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でこの打法を試行、第1打席は2塁ゴロで凡退したものの、第2打席で稲川誠からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残した。

後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら1本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。

王自身もこの日結果が出たことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。

この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。

また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けたことは前述の通り。

このような王の練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」。

「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。

この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。以後、王は引退まで1本足打法を貫くこととなった。1977年の梶原一騎との対談では「2本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「1本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。

翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。出典:「ウィキペディア」(文中敬称略) 2009・08・10

2009年08月08日

◆中華料理の渡来



     
                 渡部亮次郎

中国人が獣肉を食べていることは江戸時代から知られており「遣唐使少しは牛も喰ひならい 日本の牛は畳のうへで死に」といった川柳も作られていた。

長崎の卓袱(しっぽく)料理は江戸や上方でも流行したが、これらの紹介の書には、中国人は鹿豕(ブタ)を食べることに言及しつつ、取捨選択が可能であることを断る記述が見られる。

明治になって開国すると、長崎に加えて横浜や神戸に中華街(南京町)が形成されたが、「支那うどん」「支那(南京)そば」と呼ばれたちゃんぽんやラーメンを除けば日本人の間に中国料理は広まらず、1906(明治39)年時点で東京にあった中国料理店はわずか2軒であった。

いずれも貿易商や高級役人が利用する高級料理店であった。尤も1906(明治39)年には東京の成女学校が毎週中国料理店から料理人を招いて中国語での料理講習会を行っている。

明治期に刊行された西洋料理書が約130冊であるのに対し、中国料理書はわずか7冊であったが、明治末年には肉料理も紹介されるようになった。

大正時代になって日本の大陸進出が進むと、中国からも民間人がやってきて一般向けの中華料理店が開かれることになった。中国料理は豚肉の普及と共に家庭料理にも取り入れられた。

1920(大正9)年頃からは新聞でも中国料理の紹介記事が増えた。1925(大正14)年から始まったラジオ料理でも青椒肉絲などが時々紹介された。    出典:『ウィキペディア』2009・06・19

私は60歳までは刺身を食べられなかったので、それまでは料理といえば中華料理一辺倒だった。東京ではホテル・ニュー・オータニの大観苑が贔屓だったが、ここ20年ぐらいは赤坂・弁慶橋脇の
「維新號」一辺倒。

きょう(8月8日)は園田直外務大臣と共に「日中平和友好条約」
締結交渉のため特別機で羽田を発った記念の日である(1978年)。
緊張していた所為で、釣魚台の迎賓館で何を食べたか、記憶が、全く無い。

田中角栄首相に同行して初訪中した時(1972年9月)には北京の人民大会堂で時の周恩来総理に「海鼠の醤油煮」を生まれて初めてご馳走になった。

我々に先立って訪中したアメリカのニクソン大統領が遠慮したメニューだった。2009・08・08

2009年08月07日

◆スッポンは低カロリー



                  渡部 亮次郎

私は記者当時、「すっぽんのナベ」といわれた。取材相手を捕らえて離さないという意味だといわれたが、東北地方にスッポンはおらず、実感が湧かなかった。

記者を辞めた後、赤坂のスッポン屋を知り、友人を連れて連日通った。合間に料理(解体「四つほどき」)の仕方を見学したりした。但し、噛み付いて離さぬ現場を見ることはできなかった。

スッポンは韓国、中国、台湾、北朝鮮、日本、ロシア南東部、東南アジアにいる。

日本では本州以南に生息する。養殖場から逃亡した個体が群れた個体群然個体群の両方が生息するため、正確な自然分布については不明な点が多い。

日本国内に生息している群は、本州、四国、九州のものは主として在来個体に起源すると考えられているが、南西諸島の群は過去に中国など海外から人為的に持ちこまれたものが起源と考えられている。

食用するものは主に養殖され、養鼈(ようべつ)という。静岡県浜松市は嘗て鰻の養殖で有名だが、スッポンの養殖も盛んで、名物の一つである。

宗教上の理由などから4つ足動物の肉を食べなかった江戸時代までは、4つ足にして水中に生息するスッポンこそは有力な動物蛋白源として珍重されたと見られる。現代でも養殖と解体に手間が掛かる所為で超高級料理である。俗にいわれる強請作用は無い。

下顎の唇の内側にくちばし状の鋭い角質版が見える最大甲長は35cm。他の亀と異なり甲羅は軟らかい。幼体は腹甲が赤みがかり黒い斑紋がある。成体の腹甲は白やクリーム色。

噛みつく力は強いが性格は臆病。すぐ食いつこうとするのは防御のため。「雷が鳴っても離さない」という喩えがあるのは、聴覚が弱くて雷鳴を聞いても驚くということはないことによる。

噛み付いた個体を無理に引き離そうとすると余計怯えてさらに激しく食いつこうとして首を甲の内側に引っ込めるのでよりひどく傷つく羽目になる。

このことから、古くは物事をしつこく探求する者を「スッポンの何某」と呼ぶこともあった。噛み付かれても大抵の場合は水に戻せばそのまま泳いで逃げる。

生息環境はクサガメやイシガメと似通っているが、水中生活により適応しており、長時間水底で自らの体色に似た泥や砂に伏せている。これは喉の部分の毛細血管が極度に発達していてある程度水中の溶存酸素を取り入れることができることによる。

大きく発達した水かき、殺傷力の高い顎、荒い性格ともあわせ、甲羅による防御に頼らない繁栄戦略をとった彼らの特色といえる。

このため、上陸して歩行することは滅多に無いが、皮膚病に弱いため、あまり頻繁ではないものの護岸などで甲羅干しをしている姿も時折見かける。また水中だけでなく、陸上でも非常に素早い動きを見せる。

食性は動物食の強い雑食で魚類、両生類、甲殻類、貝類、稀に水草等を食べる。繁殖形態は卵生で、1回に10-50個の卵を産む。

日本国内ではスッポン鍋にして食用とされるのはスッポンの養殖個体である。一般に栄養価が高いとされているが、カロリーは低い。肉には水分が多い。蛋白質、脂質が少なくビタミンA、ビタミンB1は多い。

生血の日本酒割美味しい出汁が出るため、スッポンを使った鍋料理(まる鍋)や雑炊、吸い物は日本料理の中では高級料理とされる。甲羅、爪、膀胱、胆のう以外はすべて食べられることが特徴である。そのため「まる」ともよばれる。

解体することを「四つほどき」などとも言う。専門店や料亭では食前酒として、スッポンの血をワイン等で割ったものを供することもある。病気感染を恐れる私は生き血は敬遠。

甲羅を乾燥させたものを土鼈甲(どべっこう)といい粉末にして精力剤とされるほか、市販の栄養ドリンクや健康食品の原材料に用いられることも多い。

かつて日本ではキツネやタヌキといった動物と同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた。

月とすっぽん。ある点(丸い)では似たところがあるけど、実質的には差が非常に激しいときのたとえに使われる。

月もすっぽんも形が丸いことは似ているけど、いっぽうはおよそ醜さのようなすっぽん。もう一方は、美しさの象徴のようなお月様。そこから大きく隔たりのあるもののたとえとなった。 2009・08・03

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年08月06日

◆石油の恨み数々ござる



                 渡部亮次郎

オイルショックは、1970年代に2度あった、とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』はいうが、大東亜戦争も石油が原因で敗戦となったのだから、あれが初の石油ショックといえないことはない。

私の子供のころ、郷里の秋田や新潟では石油が産出されていた。だが極わずか。大東亜戦争の頃、中東の石油はまだ発見されておらず、アメリカとの戦争を決意した日本は当のアメリカからの輸入石油を1年分備蓄した。

開戦後は産油国インドネシアの石油に頼ろうとした。そのために陸軍落下傘部隊第1期生となった園田直はパレンバン石油基地に降下しようとしたが上手く行かなかった。戦争末期には「石油の1滴は血の1滴」と泣かされた。

やがて敗戦。時をおいて経済の高度成長期に達する。その間、産業界では使用エネルギーが石炭から石油に代わった。そのために歴史に残る三池炭坑争議などを招来したがエネルギー(石油)を何処から確保しているのか、一般国民は関心を持たなかった。

通産大臣を経て総理大臣になった田中角栄ですら「角福戦争」圧勝のネタ本「日本列島改造論」の中で「石油」をどうやってどこから確保するかの記述を忘れたぐらいだった。

1973年10月6日に第4次中東戦争(イスラエル対アラブ産油国)が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格の21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。

さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。

当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、中立の立場であった。しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟関係にあった日本としてはイスラエル支援国家と見做される可能性が高かった。

そこで田中首相は急遽、三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。

石油ショックは前の佐藤内閣当時のニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、オイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速されることとなった。

国内の消費者物価指数で1974年は23%上昇し、福田赳夫が「狂乱物価」という造語で表現した。インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。

結果1974年はマイナス1・2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。田中「今太閤」内閣の足を強烈に引っ張った。

当時、私はNHK政治部を追われて大阪にいたが、トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動)が大阪から始まった。デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。

この時も私は上司と対立した。事態を克明に報道することはパニックを煽ることになり混乱を助長すると抵抗したのだ。事実、物資は豊富にあり買い占める必要のなかったことがすぐ判明したのだった。

雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)のほか、テレビの深夜放送の休止。そのほか、ネオンサインの早期消灯やガソリンスタンドの日曜休業などの処置が取られた。

他に、本州四国連絡橋3ルートの着工延期の指示が下った。起工式5日前の事であった。その後、計画された3ルートのうち、1ルート(瀬戸大橋)のみ、着工が1975年に決定した。日本列島改造論の「つまずき」の始まりだった。

フランスのジスカール・デスタン大統領の発案により、1975年に第1次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第1回先進6カ国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエ城で開催された時、田中内閣既に倒れ。日本から初参加した首相は三木武夫だった。

続く福田赳夫政権が第2次オイルショックを被った。1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。前以てイラン1を訪問して居りながらイラん革命を予測できなかったわけで、「経済の福田」はこれにより不景気を克服できないまま退陣した。

また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14・55%値上げする」ことを決定し、第1次オイルショック並に原油価格が高騰した。

しかし、第1次での学習効果により、日本経済に対する影響は第1次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第1次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。2009・08・05
出典:「ウィキペディア」