2008年11月13日

◆宝珠山元長官の正論

渡部亮次郎

田母神空幕長が投じた論文が麻生政権の方針に反するとして更迭された問題について私は異論がなかったので発言しないできたが、自衛隊に言論の自由があるべきだという論が出てきたので黙っていられなくなった。

自衛隊は日本国憲法に保証されていない。昔流に揶揄すれば「妾の子」である。また憲法は第9条で武力行使を禁じているから、自衛隊は戦意なき軍隊。戦うことの無い軍隊。インポテンツである。

戦意、戦場なき軍隊は戦死することもないはず。そのように遊びの集団だったら言論の自由が許されてもいいだろう。田母神氏も、そんな雰囲気の中で、つい、政府に対して行なった入隊時の「宣誓」を忘れてしまったらしい。

この点について防衛省で官房長、防衛施設庁長官などを歴任した宝珠山昇(ほうしゅやま・のぼる)氏の所信(花岡信昭メールマガジン 08・1112号)は田母神氏を厳しく批判している。宝珠山氏自身、「談話」を出した「総理が阿呆だから」が失言となり退職に追い込まれた人である。その人が今度の処分を支持しているのだ。

防衛省、自衛隊の幹部としての基本的姿勢のあり方を説いたものだ。「田母神問題」をめぐる主宰者の立場と同様、その真摯なお考えは傾聴に値する。

<「法令順守」は自衛隊の生命

【要旨】法令順守即ち規律の順守と命令に対する服従は自衛隊の生命である。田母神氏は自衛隊の最高指導者群に列しながらこれに違う行為をした。これを慫慂するが如き論議は国益を著しく損なう。

自衛隊は、高度な部隊行動能力を身につけて初めて任務を遂行できる組織体である。隊員は規律厳守の義務〔法令(憲法、法律、政令、各種規則、極秘のマニュアルなどを含む)を順守し、命令に服従する〕を負わされている。旧日本軍は、重い刑罰を科すことができる軍事特別裁判所を運用し、厳しい教育訓練、厚い処遇などによって、高い規律を確保していた。

日本国憲法は、特別裁判所の設置を認めていない(第76条第2項)。このため、防衛省・自衛隊は、隊員(文官を含む)に任命するとき、「宣誓書」(後記参照)に署名する契約を結ぶことによって規律を保持することにしている。規律違反に対する罰則は、他の公務員等より重いものとなっているが、旧軍刑法や諸外国の例には及ばない。処遇は一般公務員に準じている。

緊急事態において、一致団結、規律を厳守し、任務を遂行できるように指揮・指導・訓練するのが、各段階における部隊の指揮官・部隊長、これを補佐する幕僚の責務である。

自衛隊員の宣誓「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」(根拠法令:自衛隊法第52条及び53条及び自衛隊法施行規則第39条)

田母神氏は、これを率先垂範すべき最高指導者群に列しながら、自衛官に任官するとき署名した「宣誓」、即ち、国との契約に反した行動を取るという大きな誤りを犯したのである。

その1つは、自衛隊員が職務に関連する意見などを公表するときには文書をもって承認を得ることとされている内部規律を、周辺の諫言をも無視して、守らなかったことである。

これは、それがいかに軽度なものであれ、最高指導者としては「脇が甘かった」、「手続きミス」等では済ませられない、重大な失態、自覚不足といわざるを得ない。仮にこれが下部組織に蔓延すれば、自衛隊は任務を達成できなくなるのみならず、旧帝国軍と同じ道に進む危険性をも孕むものである。

2つ目の反則は、反政府言動とも解される恐れのある主張を公表したことである。これは悪意に解すれば反体制行動を扇動するものともなるもの。

その影響は、意図するにしろしないにしろ、階級社会であればあるほど、発言者の地位が上がれば上がるほど、閉鎖社会であればあるほど、大きくなるものである。彼は国の武力集団の指導者としての自覚・自制を欠いていたことになる。

言うまでもなく、「自虐史観」、「東京裁判史観」、「村山談話」等への批判を展開し、日本の独立度の向上を図ることは自由であり、小生も歓迎している者の一人である。

しかし、これが武力集団の構成員である自衛官を宣誓や規律違反も恐れない行動に誘導・扇動することとなれば、著しく国益を害する。論者がこの点に関しても配慮されることを希望・期待する。(2008.11.11:宝珠山 昇 記)>

麻生太郎首相は2008年10月2日の衆院本会議で、日本の過去に対する反省と謝罪を明確にした平成7年の村山富市首相談話への認識を問われ、「いわゆる村山談話と平成17年8月15日の小泉純一郎首相の談話は、先の大戦をめぐる政府としての認識を示すものであり、私の内閣においても引き継いでいく」と述べた。

社民党の重野安正幹事長が「『村山談話』を受け継ぐか」と質問したのに答えた。
政府が3年前に閣議決定し、小泉首相(当時)が戦後60年を迎えるに当たり出した「小泉談話」は、村山談話の内容を踏襲しつつ、「国策を誤り」「国民を存亡の危機に陥れ」との表現を避け、アジアとの「未来志向の協力関係」に力点を置いていた。

村山談話は、「村山」と個人名を冠して呼称されることが多いが、閣議決定を経た談話であり、村山個人の私的な見解ではなく、当時の政府公式見解である。

政権の主が日本社会党党首であったにしろ、自民党とのれっきとした連立であったのだから、自民党も責任を負うべき談話である。当時、日本を取り巻くアジア情勢が如何なる状況であったにしろ、綸言汗の如し。総理が一度口にした言葉は取り消しが利かないのである。

したがって田母神発言を支持する人たちが非難すべきは村山談話ではあっても防衛省の問題処理方法であってはならない。これら大方の論は感情に流れ「法令遵守」「宣誓」「契約遵守」と言った問題の「ハード」部分を無視した誤謬である。

1995年8月15日の戦後50周年記念式典において、村山首相(当時)は「閣議決定」に基づき、日本が戦前、戦中に行ったとされる「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した。この『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話(「村山談話」)は日本国政府の公式歴史見解として扱われており、歴代政権に引き継がれている。

小泉内閣においては、2005年8月15日に小泉純一郎が村山談話を踏襲した「小泉談話」を発表した。安倍内閣においても、2006年10月5日に安倍晋三が「アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実」「国として示した通りであると、私は考えている」と語り、政府として個人として村山談話を受け継いで行く姿勢を見せている。

これ以後も保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。

「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である」との批判がある一方、逆に「この談話は結局のところ『戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある。

なお、村山談話の中では、日本は「国策を誤り、戦争への道を歩んだ」とされている。この表現に対し、村山は「戦争が終わった時点で国内的にも国際的にも(昭和)天皇の責任は問われていない。

談話の『国策を誤った』ということをもって(先帝)陛下の責任を云々するつもりはない」と述べており、村山談話は昭和天皇の戦争責任を追及するものではないと明確に示している。

さらに、具体的にどの内閣の誰が「国策を誤」ったのかについては、「どの時期かについて断言的に言うのは適当ではない」と述べており、どの内閣に責任があるのかについても明示はされていない。参考『ウィキペディア』2008・11・12


2008年11月12日

◆風邪とインフルエンザ

     
渡部 亮次郎

2008年10月、東京ではインフルエンザの流行が始まり、学校の学級閉鎖のニュースが聞かれるようになった。

日本などの温帯では冬期に毎年のように流行する。通常、11月下旬から12月上旬頃に最初の発生、12月下旬に小ピーク。学校が冬休みの間は小康状態で、翌年の1―3月頃にその数が増加しピークを迎えて4―5月には流行は収まるパターンである。

区役所の奨めで2008年も10月中旬に近所の医院でインフルエンザの予防接種を受けた。ここ20年で、風邪は1度しか引いたことはないが、インフルエンザは風邪とは別物らしいから奨めに応じた。

インフルエンザは風邪(普通感冒)とは異なる。インフルエンザ(Influenza)はイン「フルエンザウイルス」による急性感染症の一種で流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)、略称・流感(りゅうかん)ともいう。

発病すると、高熱、筋肉痛などを伴う風邪の様な症状があらわれる。症状は似ているが黴菌の種類が違う。いずれ、合併症としての肺炎とインフルエンザ脳症があり、ごく稀に急性脳症や2次感染により死亡することもあるというから老人にとっては只事ではない。最近は略して「イン
フル」と言うらしい。

インフルエンザウイルスにはA・B・Cの3型があり、このうちA型とB型がヒトのインフルエンザの原因になる。

予防の一般的な方法として最も効果が高いのはワクチンを使用した予防接種である。A型インフルエンザはとりわけ感染力が強く、症状も重篤になる傾向がある。 稀にA型、B型の両方を併発する場合もある。

現行の皮下接種(注射)ワクチンは感染予防より重症化の防止に重点が置かれた予防法であり、健康な成人でも感染防御レベルの免疫を獲得できる割合は70%弱(同時期に2度接種した場合は90%程度までUP)である。

感染経路は咳・くしゃみなどによる飛沫感染が主であり、口・鼻から呼吸器系に感染する。ただし、飛沫核感染(空気感染)や接触感染など違った形式によるものもある。

予防にはマスクが大変有用であり飛沫感染に対しては特に効果的であるが、形状や機能性などによっては完全に防げない場合もある。マスクだけでは接触感染を防ぐことができないため、手洗いなどの対策も必要である。

潜伏期間は1―2日が通常であるが、最大7日までである。 感染者が他人へウイルスを伝播させる時期は発症の前日から症状が軽快してのちおよそ2日後までである。症状が軽快してから2日ほど経つまでは通勤や通学は控えた方がよい。

インフルエンザと人類との関わりは古く、古代エジプトにはすでにインフルエンザと見られる病気の記録が残っている。最も重大な転機は1918(大正7)年から翌」1919年にかけて発生したスペインインフルエンザの世界的な大流行(パンデミック)である。

古老はこれを「スペイン風邪」というからインフルエンザでは無いと思っていたが、正確には「スペインインフルエンザ」だったのである。感染者数6億人、死亡者数4000―5000万人(さらに多いという説もある)にのぼり、第1次世界大戦終結の遠因ともいわれる。

このスペインインフルエンザ以降も、インフルエンザは毎年継続して感染流行を起こしている。また、さらに数年から数十年ごとに新型のヒトインフルエンザの出現とその新型ウイルスのパンデミックが起こっており、毒性の強い場合は多数の死者が出る。

近年は新型ヒトインフルエンザのパンデミックが数十年起こっていないこと、死亡率の減少などから「インフルエンザは風邪の一種、恐れる病気にあらず」と捉える人が多くなったが、これは誤解である。

インフルエンザの症状はいわゆる風邪と呼ばれる症状の中でも別格と言えるほど重く、区別して扱う事も多い。また、パンデミック化したインフルエンザは人類にとって危険なウイルスである。

日本では江戸時代に長崎から持ち込まれたインフルエンザウイルスが幾度か全国的に流行し、「お七かぜ」「谷風」「琉球風」「お駒風」など当時の世相を反映した名称で呼ばれた。

古くから風邪、風疫とされるとおり、悪い風が吹いて人々を病気にするという認識があった。幕末にはインフルエンザの名称が蘭学者より持ち込まれ、流行性感冒と訳された。

「インフルエンザ」の語は16世紀のイタリアで名付けられた、「影響」を意味するラテン語:influentia(英語でいうinfluence)にちなんでこの流行性の感冒をインフルエンザと名付けた。この語が18世紀にイギリスで流行した際に英語に持ち込まれ、世界的に使用されるようになった。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・08

2008年11月11日

◆米国の天皇陛下「GM」

渡部亮次郎

アメリカをよく知る知人たちは落ち目の三度笠GM(ゼネラルモーターズ)こそがアメリカの象徴だという。マッカーサーの作った日本国憲法では日本の象徴は天皇陛下である。するとGMはEmperorなのか。米国のEmperorが薨去遊ばすというのでは大変だ。

ケチな個人感情を言えば大気汚染、地球温暖化、捕鯨反対の影の主役こそGMだった。そのくせ、小回りの利く日本を軽く見て、馬鹿でかいガソリン撒布車ばかりを作り続けて、遂にといおうか、やっとといおうかアゴを出した。『驕れる者 久しからず』と言う諺はアメリカの経営者哲学には存在しない。

2007年の自動車販売台数は、トヨタ自動車グループと僅差で世界一であったが、ガソリン価格の高騰、サブプライムローン問題の顕在化の影響で、北米での売上が大きく落ち込んだ。

その結果、2007年度決算で3兆円という途方もない額の赤字を生むこととなった。また、2008年上半期では販売台数世界一の座も明け渡している。

巨額の年金・退職者医療の債務を抱え2008年現在6兆円を超える債務超過に陥っている。株主配当も停止されており、金融市場から債券発行による資金調達も困難な状態になっている。環境対応車開発を名目にアメリカ政府に低利融資を求めている。

しかし、2008年11月2日のニューヨークタイムズは、「財務省がクライスラーとの合併に必要なリストラ費用100億ドルを2008年金融安定化法から支出することを10月31日に拒否した」と報じた。

2008年10月のGMの新車販売台数が前年同月比45%減になる状況での決定である。他はフォード30%、トヨタ23%、本田25%、日産33%、クライスラー35%減であった。

2008年9月末7―9月期の売上高は前年同期比13%減の379.41億ドル、債務超過額は599億ドルで、6月末の570億ドルよりさらに拡大した。手元資金は6月末の210億ドルから9月末に約160億ドルに減少し、09年上半期には事業継続が難しくなるだろうと見られる。クライスラーとの合併協議を中断した。

格付け会社S&PはB-からCCC+に格下げし、見通しもネガティブとした。

私に強く印象に残るのはオーストリア生まれの経営学者・社会学者ピーター・ドラッカーがGMを研究した好意的な著書「会社という概念」(1946)で書かれた「戦後期には組織・事業・目標を見直す必要がある」という穏健な記述に対してGM内部が憤激で応じたことである。

「GMは世界一なのだから、批判はもってのほか」という理屈。だがドラッガーはGMの最上層部(「14階」)には自動車産業運営の知識と経験と能力がないとも書いている。

また、著名なジャーナリストのデビッド・ハルバースタムは『覇者の驕り―自動車・男たちの産業史』(原著1986年)で、GMをはじめとするビッグスリーが驕り高ぶり、その結果として日本車の攻勢に徐々に敗れていく姿と、それでも改革を拒む姿勢をいきいきと描いている。

学者や識者と言った人たちは企業や経営を長い目で見ているのに、アメリカの経理者は四半期(3ヶ月)でしか判断しないのである。だから学者は将来の倒産が予測できて対策も助言できるが、経営者は目先の利益しか見えないから言う事を聞かない。

残る提携関係の現状
トヨタ自動車―カリフォルニア州での合弁事業(NUMMI)、燃料電池車の開発など。
BMW、ダイムラー ハイブリッドシステム「2モードハイブリッド」の3社共同開発など。

既に手を切った関連企業
富士重工業→資本提携解消。保有株式の一部をトヨタ自動車へ売却。
フィアット(イタリア)→資本提携解消
いすゞ自動車→資本提携解消(のち保有株式の一部を伊藤忠と三菱商事が取得)。ただし業務提携関係は維持。

出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・09




2008年11月09日

◆ハンカチーフの日

               渡部 亮次郎

そんな日があろうとは思いもよらなかったが、文化の日の11月3日だそうである。何でも、様々な形だったハンカチーフを、夫のルイ16世をせっついて「正方形にすべし」との法令を出させたマリー・アントワネットの誕生日(11月2日)に近い祝日を、日本ハンカチーフ連合会が1983年に制定した。

ハンカチ (handkerchief) とは、主に身だしなみとして日常的に用いられる、通常は四辺を一にする正方形の布のことだが、育ちのよくない私は大学生になるまで持たなかった。

歌謡曲「高原列車は行く」で作詞家の丘灯至夫(おか・としを)は歌手の岡本敦郎(おかもと・あつを)に「汽車の窓からハンケチ振れば」と唄わせているところを見ると、戦前は「ハンケチ」と呼ばれていたらしい。「ウィキペディア」でも「ハンカチーフの省略形であり、ハンケチと称されることもある」と説明している。

芥川龍之介の『手巾』。手巾はハンケチと読む。

ハンカチの起源は遥かに遡り、紀元前3000年頃のエジプト文明の頃には存在していたとされる。飾りの施された麻製と思われる布の発掘が認められ、ハンカチがこの時代の身分の高い人物の持ち物であったことが推測された。

ルイ16世王妃マリー・アントワネット以前のハンカチの形態は円形や長方形など様々であり、貴族たちが刺繍や豪華な飾りで贅を競う持ち物のひとつでもあった。なぜ正方形に統一させたかの理由は調べても判らなかった。

日本におけるハンカチの普及は洋装が導入された明治時代以降。しかしわが師・政治家の園田直(そのだ すなお)は如何なる時でもハンカチで顔を拭く事は絶対しなかった。「新聞に写真を撮られて、泣いたと誤まった説明を付けられる」と言った。

彼は変わっていて、絹のポケット・チーフを上着の胸ポケットに入れるのだが、端に付けられた印をわざと見えるようにした。細かい事に頓着しない人との印象を与えるため、と言った。少々呆れた。それだけ頓着する「小心」「細心」な人物だった。

ハンカチの素材は綿、絹及び麻(リネン)など吸水性に優れた織物素材が主に用いられる。近年の清潔志向を反映し抗菌加工を施した素材もある。

徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』で、プラットホームで別れる場面で振られるハンカチは忘れがたい。

映画『幸福の黄色いハンカチ』は主演 高倉健、倍賞千恵子。倍賞の父上は秋田県花輪の人。

歌『水色のワルツ』(藤浦洸作詞、高木東六作曲)では、水色のハンカチが重要な位置を占める。歌唱二葉あき子。高木東六の数少ない歌謡曲作品。」高木は演歌と古関裕而を死ぬまで嫌った。古関が軍歌の作曲を多くしたからである。

歌『赤いハンカチ』(歌:石原裕次郎)1962年のヒット曲。「アカシヤの花の下で」で始まるので札幌からヒットした。

歌『木綿のハンカチーフ』(松本隆作詞、筒美京平作曲、歌:太田裕美)1976年のヒット曲 。32年前だ。

絹製のハンカチ(シルクと呼ばれる)は奇術の小道具として用いられる。昔、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎が岸内閣の外相として入閣し、政界入りしたとき、評論家の大宅壮一は「絹のハンカチを雑巾にした」と言って喝采を浴びた。

アマチュアレスリングでは、競技に際して選手は必ず白色のハンカチを携行しなければならないルールがある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                        2008・10・31


2008年11月07日

◆自由民主党の耐用年数

渡部亮次郎(全国版メルマガ・「頂門の一針」主宰)

私は日本社会党支持者の両親から生まれたが、学校や記者生活を通じて,いわゆる革新政党所属政治家のいやらしさを徹底的に見せ付けられたので、両親とは反対の政治行動をとってきた。自民党内閣(福田赳夫)の外相や厚相の秘書官を勤めた事もある。

自由民主党は私が大学在学中の昭和30(1955)年11月15日、当時の自由党と日本民主党が合併して成立した。戦前の2大政党の1つである「立憲政友会」の流れを汲んでいる。

民主党を率いていた革新官僚上がりの岸信介は初めからマッカーサー憲法の改正を主張。それまで吉田茂に率いられていた自由党は経済優先主義の立場からそれには積極的ではなかった。

それでも戦後の一時期を除いて自民党は結党以来ほぼ一貫して議会で多数を占め、与党の立場にある。しかし2008年で既に結党以来53年。対米追従型の親米保守政党は耐用年数がきたのか、いずれも離党して行った小沢一郎や初代総裁の孫鳩山由紀夫から政権交代を迫られている。

これに対し、総裁・総理大臣に就任したばかりの麻生太郎は、毎日新聞に依れば10月13日夜、帝国ホテルの会員制バー。極秘に公明党の太田代表を呼び出して「総選挙は11月30日投票でお願いしたい」と告げていた。民主党の押せ押せムードをはね返して勝てると思い込んだのである。

しかし、9月下旬に続いて自民党が実施した追加の選挙情勢調査で「自民党198議席」という衝撃的な予測が届いた。公明党と合算しても衆院の過半数には届かない、と出たので、結局、衆院解散は先送り。納まらない民主党は国会で硬直した態度で対決するようである。

かつては、地方の建設業界(ゼネコン)に対して一定の公共事業を発注するなど特定利権があるものの富の再分配政策(リベラル)を行い、地方の経済を回していくことを重視し、「一億総中流」を唱えるなど平等を重視する経済左派の「保守本流派」が主流であった。

農山漁村や小都市など地方を基盤にしており、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは日本社会党(社会党)や日本共産党(共産党)と票の奪い合いが続いていた。自民党が頼っていた専業農家は絶無。公務員か会社員の「兼業農家」なのだ。

平成期に入ると経済不況でそれらの諸政策も行き詰まり国と地方も莫大な財政赤字を抱えるようになって建設族の「保守本流派」は人材を野党に流失(最近では郵政民営化問題で大量離党)して影響力を失い始めた。

近年の自民党(1990年代後半以降、特に小泉政権以後)は東京大都市圏を中心とする大銀行・大企業・外資系企業の利益を特に重視する金融族のネオコン型新自由主義派が圧倒的に主流となっているとされる。

また、旧来の地方の組織的動員よりも、東京のマスメディアを利用した大都市圏における候補者個人の大衆的人気に依存している面が大きくなってきている。

2000年代になると自民党は2005年衆議院の小泉郵政改革選挙でこそ大勝したものの、2007年には参議院選挙では民主党に惨敗した。小泉の構造改革路線により疲弊した地方の自民党離れによるものだった。

更に、公明党とその支持母体である宗教法人創価学会の選挙協力による組織的動員なしには選挙戦を戦えない不安定な状態になっているのが自民党の現状である。創価学会嫌いのため自民党支持を止めた人も多い。

自民党内部では早くから危機感が漂い、その都度、党改革の動きがあった。だが本格的なものはその都度、不発に終わっている。『ぬるま湯』に漬かりすぎ、出るに出られぬ『煮え切らなさ』がもはや体質と化しているのだ。

結党から21年経った1976年 6月25日 河野洋平ら6名[が離党、新自由クラブ結成。(だが、なんの発展的動きをしめせないまま10年後の1986年8月15日解党して終わった)。

この動きは自民党にとっては「綻び」に過ぎなかったが、決定的な傷は1993年6月23日、竹下派の小沢一郎ら44人の離党だった。その2ヵ月後、細川内閣が発足する核となった。自民党は初めて野党の悲哀を味わうが、村山党首を担ぐ事によって『自社』政権と言うあられもない姿で政権に復帰した。

長いこと「落ち目の三度笠」を続けてきた自民党。2007年 7月29日の第21回参議院議員通常選挙で、野党第1党である民主党に大敗。結党以来初めて参議院で第1党から転落、安倍、福田政権が政権を放棄して今日に至ったわけである。

とは言いながら、民主党の最大の弱点は党首に小沢を担がざるを得ない求心力の弱さである。小沢は自民党内から最初に離脱した新自由クラブが離脱の最大理由とした田中角栄体質そのものを特質としている。民主党は旧田中角栄党であり、さらに旧社会党と言う鵺みたいな政党である。だから小沢自身「民主党に政権担当能力は無い」と高言したではないか。

従って仮に政権を奪取してもすぐに対米姿勢など路線や感情の対立が始まる事は必定。野党に回った自民党からの仕掛けもあって政権発足後、すぐに政党再編成に逃げ込む事だろう。

国際情勢の急変は日本のそうした政変の連続を許しておく筈は無い。割を食うのは有権者という名の国民である。いずれにしても自民党の耐用年数は過ぎている。年金チョンボ、患者放置、親殺し,子殺し、等々がその証拠。だが、民主党はアテにならない。投票する政党が無い。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(文中敬称略)2008・11・03


2008年11月06日

◆オバマが勝ったから

渡部亮次郎({頂門の一針」主宰)

米大統領選挙は民主党の黒人候補オバマが4日(日本時間5日)、大勝利した。2008年3月初めには私のところにも、もともとヒラリーを降せないから「オバマは大統領にはなれない」とのアメリカ情報が届いていた。だからオバマの勝利は全く以って突如として起きた経済危機の所為である。

「それでもオバマが勝てない理由」と言いふらしていたのは、アメリカの黒人保守論客シェルビー・スティールであった。「A Bound Man: Why We Are Excited About Obama andWhy He Can’t Win」の著者。

スタンフォード大学のシンクタンク・フーバー研究所の研究員で、オバマの支持者なのだが、メデイアがオバマ優勢を言う中で冷静な分析をしていた。ヒラリーの反撃を早くから予見して、最終的には民主党大会でオバマは劇的な僅差敗北を喫すると断言していた。

しかし、オバマはヒラリーを降して民主党候補に躍り出た。対抗馬は共和党の古参上院議員マケイン。ベトナム戦争で捕虜となりながら虐待に耐えた「英雄」。国家安全保障問題のベテラン、とされ、オバマは「未経験者」扱いされた。

スティールが指摘しているのは、アメリカで成功する黒人は「挑戦型」か「取り引き型」の2つのパターンだという。オバマは「取り引き型」、芸能人やスポーツ選手として白人社会に受け入れられている黒人の大半がこれに当てはまる。政治家としてはコリン・パウエル元国務長官を挙げている。パウエルは暗殺を恐れて大統領選挙への出馬を拒否した。

これに対して「挑戦型」はジェシー・ジャクソンやアル・シャープトンといった市民権運動指導者であり、政治家としてはシンシア・マッキニー、キャロル・モーズリー・ブラウンら。

オバマの弱点は「取り引き型」なるが故に、白人社会に受け入れられ人気を得るための代償として政治的な意見を言うことがタブーになり、あたりさわりのない発言しかできなくなることにある。”変革”をいうが、内容がないにはそのためだという。

選挙期間が長い米大統領選では、オバマの雄弁だけで支持者を引っ張り続けるには限界がある、とも言われた。具体的な政策・理念が欠けるというわけだった。

スティールの論評とは別だが、オバマ旋風を見ているとジミー・カーターの再来という批評もあった。ジョージア州知事だったカーターは草の根運動で支持を集め、現職のフォードを破って大統領となった。

ワシントン政治の経験がない全く無名の候補が熱狂的な支持を集めた背景には、
ウォーターゲート事件による深刻な政治不信があった。対するカーターは素人故に「在韓米軍の撤退」など、出来もしないから約束を平気で言えた。就任後あっさり撤回した。

今回、米国民はイラク介入で失敗したブッシュを見て、その失望の深さが裏返しとしての熱狂となり「最も経験のない」オバマ期待を高めているという。

秋口ごろにオバマの弁舌は冴えを欠きそうになっていた。スティールの論評が当たりそうだった。

ところが、そこへ突然明らかになったのが経済危機。「経済」が主題となればマケインとオバマに差はなくなる。経済に無為無策だったブッシュ=マケインの図式はわかりやすかった。選挙戦の終盤になって、金融危機に対するオバマ氏のリーダーシップや提案が有権者から評価され、支持率が上昇した。

ロイター電によれば、出口調査では、有権者の6割が最優先課題として経済問題を挙げた。とすれば、マケインは「お呼びでなかった?」だった。

しかし、オバマへの支持は政策ではない。ただ未知であることへの期待である。だからカーターに似ている。そのカーターは大統領として有能ではなかった。イラン革命に対応できず、政治経験のなさをさらけ出して1期で共和党に政権を明け渡した。

政治記者の先輩・古澤襄さん(元共同通信社常務理事)に教えられたことだが、「国民の熱狂というのはその程度である。だから国民が全てを決める直接民主主義は危険だと昔から考えられている」。オバマとカーターの比較論は面白い。

北米担当のわが外務官僚は「対日姿勢に大変化なし」とのコメントを首相の揚げているだろう。本当のことを言うと、中国にいびられるから言わないのだが、
オバマのアジア外交は中国に重点があり、日本にはお座なりな付き合い士かしない筈である。だから「大変化」が来る。

それでも国民を安心(油断)させるべく「大変化なし」と発表するのが「外交」。それを信ずるのが馬鹿、信じないのが国民。2008・11・05
 

2008年11月05日

◆麻生首相は変心したのだ

渡部 亮次郎

毎日新聞(11月2日2時30分配信 )が「2晩にわたった秘密裏の自公党首会談は、麻生太郎首相がいったんは公明党に年内選挙を約束しながら、後に心変わりしたことに伴う亀裂の弥縫(びほう)場面だった」と暴いてみせた。

「解散時期は決めていない」と繰り返していた首相だが、実は違った。10月13日夜、帝国ホテルの会員制バー。極秘に公明党の太田代表を呼び出した首相は「総選挙は11月30日投票でお願いしたい」と告げていた。尤もこの記事全体が公明党首脳の暴露に基づいている事を明らかにしている

麻生太郎首相が太田代表に「11月30日衆院選」と明言した10月13日の夜、時間を置いて自民党の古賀誠選対委員長が首相の待つ帝国ホテルのバーに姿を現した。

首相が「10月末に解散し、11月30日投票でやろうと思う。選挙準備はできてるかな」と胸の内を明かすと、古賀氏は「大丈夫です」と答えた。首相はその日昼、自民党本部で選挙用CMの撮影をすませていた。

太田氏は翌14日、大阪市内で街頭演説し、雨にぬれながら「激しい衆院選が間近のようでございます。雨が降ろうとどうなろうと、私たちはひるまない」と声を張り上げた。自民党の細田博之幹事長や大島理森国対委員長には10日ごろに首相の意向が伝わっていた。

首相の考えを承諾した古賀氏だったが、9月下旬に続いて自民党が実施した追加の選挙情勢調査で「自民党198議席」という衝撃的な予測が届いた。公明党と合算しても衆院の過半数には届かない。古賀氏は「今選挙をやったら負ける」と確信し、首相に近い菅義偉選対副委員長に「総理に選挙を先送りするよう進言してほしい」と要請した。

後に潮目を変えたと評される10月16日、08年度補正予算が成立したその日の夜、首相は東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテルで腹心の中川昭一財務・金融担当相、甘利明行革担当相、さらに菅氏とひそかに会談した。

甘利氏は「いつやるのが一番いいか、あらゆるデータを分析して冷静に決めてほしい」と慎重な判断を求めた。中川、菅両氏は「政治空白を作るより、景気対策を求める国民が圧倒的に多い。在任期間2カ月半の首相になりますよ」と詰め寄った。首相は「うーん」とうなるだけだった。

翌17日、首相は党本部で選対職員らと各種世論調査の数字をさらに精査した。数字の厳しさを実感した首相は先送りを決断した。「解散先送り」の瞬間だった。

「我々の支持母体(創価学会)は簡単に選挙日程を変えるわけにはいかないんです。日程が頻繁に変わるのは困る。選挙協力をやる上でもよく考えていただきたい」

10月26日夜、グランドプリンスホテル赤坂の一室。公明党の太田昭宏代表は、北側一雄幹事長とともに首相に再考を迫ったが、首相は「国民の多くは今、選挙より景気対策を望んでいると思う」と繰り返し、論議は平行線をたどった。

28日夜の再会談を求めたのは太田氏だった。「金融サミットに行って日中印3カ国でアジア版ニューディール政策を打ち上げたら格好の選挙対策になる」と食い下がる太田氏に、首相は「やはりこの時期に政治空白は作れない。理解していただきたい」。

首相は自民党の細田、大島両氏に「早期に解散があるという言い方を変えるな」と指示した。

首相の意を受け、細田氏は18日夜、埼玉県川島町での講演で「麻生さんは解散して民意を問うて、勝利を収めて次の政策、景気対策を打ち出していくことが最も望ましいという考えを今のところ持っておられる」と発言。

大島氏も同日、青森県八戸市での記者会見で「首相が非常に強い思いを持つ追加経済対策が27日からの週に出る。その時点で明確に方針を示していただけるのではないか」と早期解散を強くにじませた。

解散について口をぬぐう首相、解散風をあおる幹事長という役割分担は、
この時期から定着し始めた。10月27日夜、首相は河村建夫官房長官、細田氏、大島氏、松本氏とホテルオークラの日本料理店で、先送り表明後の国会対策を協議した。大島氏は机の上に紙を広げ、総選挙の時期について「年末年始」「4月、5月」「任期満了」の3パターンを提示した。

河村氏は29日夜、党内各派閥の領袖に電話を入れ、30日の首相会見について「2次補正予算を提出するかどうかは言わない。解散についても何も言わない」と説明した。

「これだけ選挙の日程がくるくる変わった経験は初めてだ」と衆院事務局のベテラン職員が振り返る先送り政局は、こうして幕を閉じた。

麻生首相はやはり人間だった。揺れて迷っていたのである。これからもそうだろう。最大の誤算は自らの人気がさっぱり上がらないことだった。上がってくれれば解散をすぐやる心算だった。この先、上がるとも思えない。2008・11・03

2008年10月31日

◆麻生「したたか」

渡部亮次郎

今の総理官邸キャップは各社とも感度が鈍い。「解散」にはやるマスコミ各社の力みを逆手にとって「3年後に消費税引き上げ」を言明したのに、揃いもそろって各社の官邸キャップは質問一つしなかった。麻生に呑まれたのである。

<麻生首相は30日、首相官邸で記者会見して追加経済対策を発表し、「経済状況を見た上で、3年後に消費税引き上げをお願いしたい。大胆な行政改革を行い、政府の無駄をなくすことが前提だ」と述べ、消費税率引き上げを言明した。

衆院解散・総選挙の時期については「しかるべき時期に私が判断させていただく」と述べる一方、「国民の生活不安に応えるのが、優先順位としては一番だ」と述べた。>10月30日18時19分配信 読売新聞

こう速報した読売だけが気が付いたようである。情けない。麻生は「したたか」。小泉より余程、度胸が良い。麻生が逸材である事に気付かなかった私の不明を愧じる。

<引き上げ幅には言及しなかったものの、与謝野経済財政相は30日の記者会見で「一挙に5から10%のレベルにはなかなかいけない。10%になったら生活必需品は低い税率で据え置くべきだというのも有力な説だ」として、10%程度を目指し、複数の税率を設定する可能性に言及した。>Asahi Com 2008年 10月30日21時29分

マスコミの中でも特に朝日新聞は、麻生首相の意向を悉く無視して衆議院解散について無責任なデマを掲載するなどして、早期解散要求の民主党へのゴマすりに専念してきた。

流石に世界的な経済危機が始まってからは多少納まってきたが、30日の会見でも、各社は首相の口から解散日程を吐き出させようと浮き足立っていた。

これに対して麻生首相は、各社の躍起振りをかねてから見据え、経済対策について十分な説明をなし終える中で、消費税引き上げをさらりと言明し、もはや引き揚げを既成事実化することに成功したのである。

やんぬるかな、朝日新聞までが,与謝野大臣の言葉まで引用して、上げ幅10%とまで解説してみせる「サービス」。政府にとっては願ったり叶ったりの首相記者会見であった。

麻生・与謝野の呼吸は綿密に計算された合わせ方である。閣内を統率し、公明党を押さえ、自民党内を思い通りに引っ張ってゆく辣腕ぶりは大したものだ。父の多賀吉を超えたばかりか、政局運営の手腕は祖父の吉田茂をも超えているかも知れない。文中敬称略2008・10・30




2008年10月29日

◆時期を失した政治休戦

渡部亮次郎

<11月中旬には金融サミットも予定されている。世界経済に大きな責任を持つ日本が国内事情だけで総選挙をやるというのでは、国際社会に悪いメッセージを与えることになってしまう。

「100年に1度」あるかないかといわれる世界経済危機だ。民主党が政権担当能力を示す最もいい方法は、政治休戦に出て、自民党とこの金融危機に協調して対処することではないか。>(花岡信昭メールマガジン★★639号[2008・10・28])

さすが。産経新聞政治部長経験者だけあって、高所からの警告である。満腔の同意を表明するが、果たして民主党にこれだけの読みが出来る策士ありや、小沢に度胸ありや。無かった。

もたもたしていたわけじゃない。はじめから申し入れる意思も度胸もなかった。ただただ「解散しろ」と叫ぶだけで、「策」がなかった。麻生の作戦勝ちで納まりそうな雲行きだ。

<麻生首相 衆院選、年内は見送る方針固める

麻生太郎首相は次期衆院選の時期について、年内は見送る方針を固めた。世界的な金融危機が株価急落や実体経済に影響を及ぼしていることを踏まえ、解散により政治空白を作ることは好ましくないと判断した。

首相は30日にも追加経済対策を記者会見して発表する予定で、年内見送りをその際表明する。

与党の公明党が強く早期解散を求めていたが、首相は26日、同党の太田昭宏代表と会談した際、「国際金融情勢が大事な折、政治空白は作れない」と先送りを伝えた。

公明党の支持母体の創価学会は先送りを容認する方向になっている。>(10月28日2時30分配信 毎日新聞)

民主党に厳しいことを言うが、世界的規模の経済危機になぜ鈍感なのか。それとも経済危機の責任は政府、与党が被るべきで、野党たる民主党とは全く無関係な事なのか。

責任が無いなら経済危機に全く関心を払わないでいいというのか.そうでは無いだろう。

<最新の世論調査(日経)によれば、「解散よりも景気対策を」という声が63%に達したという。内閣支持率は48%、不支持率43%。政党支持率は自民41%、民主31%だ。

民主党の小沢代表は「国民の信頼を得た政権が経済対策をやるべきだ」などと、早期解散の必要性を強調しているが、どうやら、追い込まれているのは民主党のほうだ。>(花岡信昭メールマガジン★★639号[2008・10・28])

「解散よりも景気対策を」という声が63%にも達していたことに民主党が鈍感だった。経済を解る人がいない政党=民主党という図柄が浮き出てしまった。輿石日教組には無理としても小沢、菅、鳩山にそろって経済的知識が無かったとは、政権担当能力を云々されても文句が言えないだろう。

明らかに波目が変わっていた。それを小沢政局士が読めなかったと言う事だろう。まず日本でも株価の暴落が始まった日に民主党のほうから「政治休戦」を政府・与党に申し出ていれば、ここへ来ての政党支持率で自民党に10ポイントも離される理由はなかった。

それなのに、民主党危機存亡の時、小沢氏は顔中にマスクをかけて風邪を引いたの、入院だのと「明後日」の動きに終始し、民主党が理屈の政党で現実の政党でない、つまり政権担当能力の無い政党だということを露呈してしまった。

あのとき仮に小沢氏が麻生首相に会談を求め「麻生さん、経済がこの惨状だ。我々の衆院解散要求の正当性は降ろさないが、緊急事態に際し、この際、政治休戦を申し入れる」とやったらどうなったろう。

「さすが小沢だ。麻生の上を行く大政治家だ」と経済の仕組みが詳しくわからぬ人でも「敵に塩を贈った」と小沢に喝采した事だろう。外国ではいざ知らず、わが国においては歴史が変わるとき、人々を感動させるドラマが必ずあった。江戸城無血開城のドラマにも似た感激を民主党は国民に与えたであろう。

本当は小沢とて、この程度のことは考えたに違いない。だが、あのときのことが頭をよぎったので止めた。「大連立」に関する党内の未熟さである。菅も理数科、鳩も理数科。人間心理の絡む世論の方程式は殆ど1次しか読めない。また党内が揉めて混乱するだけだ。

<首相は、来年度予算編成の作業終了後に改めて解散のタイミングを探ることになる。

ただ、解散を先送りすることで、民主党が対決路線に転換し、インド洋給油活動を延長する新テロ対策特別措置法改正案など重要法案の審議に影響が出るのは必至。「ねじれ国会」に翻弄(ほんろう)され、麻生政権はレームダック化するとの指摘もある。>(毎日)
(文中敬称略)2008・10・28


2008年10月28日

◆行方不明の秋田音頭

渡部亮次郎

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、わが郷里の秋田音頭(あきたおんど)は、以下のように説明されているが、これは全くの嘘である。

本物の秋田音頭は失踪して久しいのだ。放送の普及が「コード」とやらを作って本物を隠し、県民に忘れさせたのである。秋田の文化である以上、地元の放送業界は守護に責任を感ずるべきだと思うが、そんなホネのある奴は地元には帰らないらしい。

<秋田県の民謡。1663年(寛文3年)秋田藩主佐竹義隆に上覧した時に成立したといわれる。三味線、笛、太鼓、鐘などの伴奏で滑稽な歌詞をリズミカルに並び上げるのが特徴。

出だしの「ヤートナー」というかけ声以外はあまり音程がなく、7-7-9を基本としたリズムに乗せて台詞を述べ上げるだけである。いわゆる地口のようなもの。

多くの歌詞があるが、「秋田名物八森ハタハタ…」と秋田名物を並べたものが有名である。その他にも、小野小町が秋田美人の代表であるなどを歌った有名な歌詞がいくつかあるが、即興でおもしろおかしい事を歌うというのが本来であった。

このため、時事の風刺や、卑猥な話が歌われる事も多い。これを春歌というが、秋田音頭はもともと春歌だったという説もある。>

馬鹿なことを書いては困る。秋田音頭は「春歌だったという説もある」どころでは無い。春歌そのものだったのである。1936年生まれの私は秋田音頭によって性教育を受けたと言ってもいい。

「女という奴、純情な顔して鬼よりまだおっかね。生きたヘンノゴ(マラ)生でまぐらて(食って)似たよなガギ(赤子)こしゃる(作る)」と聞けば立派な性教育だった。

「難産だ、難産だ、難産した時ゃ、一生すめぇと神コさ願かけた。3日も経たたねで むりっと入れたば 嗚呼 これだば死んでも止められね」。

子供の頃は隣町五城目(ごじょうのめ)の民謡家鳥井森鈴(とりい しんれい)さんがレコードに吹き込んで地元でも大いに売れた。

本名 鳥井儀助は若くしてプロの民謡歌手となり数々の秋田民謡をレコードに吹き込んだ。私が小学校当時から「秋田音頭」を覚え
たのも森鈴のレコードを聴いたからである。

歌詞は「誰唄うともなく伝わってきたもの」らしいが、殆どは森鈴の作と信じられている。

「秋田追分」や「秋田馬方節」の普及に功績があったとして昭和46(1971)年に 民謡の分野で秋田県文化功労者に選ばれている。しかし大部分の秋田県民は「秋田音頭」の作者と心得たに違いない。

潟eイチクエンタテインメントが制作・販売している「日本民謡名人撰」CD10枚組/カセット10巻組・全160曲の中に森鈴の「秋田追分」と「秋田馬方節」が収録されているが、最高の力作「秋田音頭」は入っていない。「秋田音頭」は行方不明になったのだ。

民放が普及した1955年前後から、放送コードとやらがつくられて放送局は本歌を放送しなくなり、以下のような毒にも薬にもならない歌詞が秋田音頭の本歌と誤解され、私の唄う本歌は替え歌扱いされるようになってしまった。

従ってここに示す代表的な歌詞こそは殆どが替え歌であって本歌とは無関係である。

(ヤートナー)コラ、秋田音頭です(ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイナー)

コラ、いずれこれよりご免こうむり音頭の無駄をいう(アーソレソレ)お耳障りもあろうけれどもさっさと出しかける

(以降、歌詞の終わりに「ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイナー」のかけ声が入る)

コラ、秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ

コラ、秋田の国では雨が降っても唐傘などいらぬ(アーソレソレ)手頃な蕗の葉さらりとからげてサッサと出しかける

コラ、秋田の女ご何どしてきれ(い)だと聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)小野小町の生まれ在所お前(め)はん知らねのげ

コラ、お前(め)がたお前がた踊りコ見るならあんまり口開ぐな(アーソレソレ)今だばええども春先などだば雀コ巣コかける
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

放送では以上のような歌しか歌えないだろう。本歌は凄い。

おみゃがた(あなたがた) おみゃがた 踊りこ見るとて 立って見るな 立っていいのは電信柱とあんちゃ(兄さん)のがも(マラ)ばかり

オラ家のあねちゃ(嫁)田の草取りに行って 穴コさ泥鰌いれた
あねちゃもあねちゃ 泥鰌コも泥鰌コ あちゃこちゃぶつかって
出た時ゃ ほんわ ほわ

他人(ひと)の嬶(かかあ)すりゃ、忙しもんだと来たもんだ
湯文字紐解く褌外す、 いれる もちゃげる 気をやる いく
抜く 拭く 下駄めっけるやら逃げるやら

ぎっちもち ぎっちもち 板の間ぎっちもち たましコ(幽霊)来たかと 念仏コ申したら 鼠コ夜這いに来た

白玉食(く)にあべ(行こう)、白玉食(く)にあべ(行こう)
白玉食に行ったら 上から白玉 下から金玉 腹中(はらなか)玉だらけ

おら家の爺様と隣の婆様と この世の名残に 一発ぶっぱめた
行くよ行くよと 気ばかり焦って とうとう夜が明けた

あの税 この税 役場の税金 息つく暇のねぇ いっそこれだば
有る物 ぶち売って 1発 ぶっぱめて 死んだほいい。

メルマガに「コード」は無いから「天国」だね。2008・10・23




2008年10月27日

◆狐と狸の化かし合い

                   渡部亮次郎

政治記者になりたての頃、以下のように首相と幹事長が違った事を言うと「党内で意見対立」と思ったが、違っていた。党内を騙し、野党を無駄走りさせるための役割分担を阿吽の呼吸のうちに演じているのに間もなく気付いた。

<首相、解散先送りに傾く…金融危機への対応重視
経済情勢の悪化で、「11月18日公示―30日投開票」の衆院選日程を想定した今月末の衆院解散は難しいとの見方が強まってきた。

首相は金融危機が欧州や新興国に広がっていることを憂慮、「日本が米国に代わり、国際協調でリーダーシップを取らないといけない」と周辺に漏らしている。

首相は30日に記者会見を開き、中小企業対策などを盛り込んだ新たな経済対策を発表し、国内対応に万全を期す考えだ。また、金融機関に公的資金を予防的に注入できる金融機能強化法改正案の早期成立に向け、民主党に協力を求める意向と見られる。

ただ、与党内でも、早期解散を求める公明党を中心に、「先送り」への反対論は根強い。先送りすれば、衆院選の時期の設定が、より困難になるとの見方もあり、「金融法案への民主党の抵抗などを理由に首相は11月衆院選に踏み切る」との見方も残っている。>
(2008年10月25日03時01分 読売新聞)

,<一方、自民党の細田幹事長は25日島根県斐川町の出雲空港で記者会見し、「今月中に解散し、11月に選挙をやれば、12月いっぱいを使って税制改正や(2008年度第2次)補正予算案、来年度予算案を速やかに編成することが出来る。(解散判断の)ぎりぎりの線は今月いっぱいだ」と強調した。>(2008年10月25日13時22分 読売新聞)

自民党と公明党の間に立つ細田幹事長にしてみれば、来年夏の東京都議会選挙対策の都合上、年内総選挙に拘る公明党への配慮を余儀なくされている。また自民党内には緊張を維持して麻生首相の求心力を維持しなければならない立場だ。

また、民主党に対しては年内総選挙を匂わせることによって、補正予算も関連法案も賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続も
「容認」、空席の日銀副総裁人事も認めるという望外の成果を挙げた。

しかも解散風を煽ることによって民主党候補を一斉に走らせ,「弾丸」の無駄遣いを長引かせろという兵糧攻めで成果を挙げている。自分としては本心は来年の任期満了までは無理としても、できるだけ有利な地点探しに首相がフリー・ハンドを維持できるよう芝居を続けていると見るべきだ。

一方の小沢民主党代表にも海千山千を生き抜いてきた矜持がある。
麻生に財界人として鍛えた度胸があると言うなら、当方には角栄、金丸、竹下の下で研いで来た鋭利な政局感があり、誰にも負けないという自負である。

補正予算も関連法案も賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続も「容認」、空席の日銀副総裁人事も認めるとしたことは、言われるまでもなく禁じ手ではあった。

あのまま世界的規模の経済動乱がなければ、麻生、細田如きが自分の前で完全に屈服するはずの妙手ではあった。しかし不運であった。惜しむらくは鳩山幹事長も菅代表代行も共に理科系出身。数学は得意だが政界心理の2次,3次方程式が解けないから、小沢の代役として大博打が打てない。

大博打が打てるのだったら、福田内閣時代の「大連立」で自民党を乗っ取り、今頃は政局の主導権を完全に掌握し次期政権を確実なものにしていたはずだった。トロイの木馬は数学では解けない。もどかしい。

政界は譬えて言えば常に「狐と狸の化かし合い」である。この頃の政治記者はこの意味が判らないらしいが、与野党が互いに本心を明かさず、本心を明かしたように見せて相手を泥沼に誘導すると言う意味と説明した。

麻生政権は算数的に見れば未来は絶望しかない。だから死力を尽くすだろう。小沢氏も蓄えてきた半生の経験のすべてを結集して化かし合いに集中する事だろう。見ている政治記者たちがその謎のすべてを解いてくれる事に期待している。2008・10・26

2008年10月26日

◆焦らし作戦に出た麻生首相

渡部亮次郎

<【北京=加藤淳】アジア欧州会議(ASEM)首脳会議出席のため、中国訪問中の麻生首相は24日、北京市内で中韓両国首脳とそれぞれ会談した。

 ◆12月に日中韓会談◆

麻生首相は24日午前、北京市内のホテルで韓国の李明博大統領と就任後初の首脳会談を行った。首相は、日本、韓国、中国の3国首脳会談を年内に日本で開く方針を説明し、大統領も同意した。日本日本政府は12月中旬の福岡開催で調整している。>読売24日

私の判断では首相の胸中について野党は勿論、野党も間違っている。
一時の解散風などとっくに温帯低気圧になって、風など吹いていない。そこを見据えて解散権を持っている麻生首相は焦らし作戦により民主党議員たちの懐が空になることを狙っている。

元産経新聞の政治部長花岡信昭氏に依れば、
<早期解散を引き出そうとする民主党は、補正予算賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続の事実上の容認、日銀副総裁人事承認など、これまでの「何でも反対」を一変させ、国会審議の促進に
躍起だ。

給油支援継続法(新テロ対策特措法改正案)は昨年は参院でたなざらしにして補給艦の一時帰国を余儀なくさせたのだが、今回は、衆院再可決を早々と認める方針を打ち出し、今月30日に成立する見込みだ。

国会審議をスピードアップさせ、解散に応じようとしない首相を追い込もうという作戦だが、解散権は首相の専権事項で、審議促進戦術が功を奏すかどうかは不透明な状況になってきた。>

<政府提出の予算案への賛否を小沢代表に「一任」したというのも、公党のあり方としては疑問が残る。党内論議を経て党の最高意思決定機関常任幹事会)で決めるのがスジではないか。>(いずれも
花岡信昭メールマガジン 636号[2008・10・25])

書生論をいえば政府提出の予算とは施政方針を裏付けるものである。従って、政府に対抗している野党は、予算が本予算であろうが補正予算であろうが反対しなければ「筋」が通らない。

如何なる大目的が秘められていようが邪道である。加えて予算への賛否を小沢代表に一任とは呆れてものがいえない。一任を求めたのが小沢本人だとすれば、既に小沢氏は解散を急ぐあまり禁句であるはずの大連立と同じことをやったのである。

確かに総選挙をやれば自公が過半数を握れる可能性は低いらしい。
各種の世論調査がそう言っている。麻生首相は十分承知している。
そこへ起きたのがアメリカを震源地とする経済危機である。

<衆院解散をめぐる与野党の攻防は大詰めを迎えているが、ここへきて解散先送りの公算が強まってきた。「11月初めまでの解散、11月30日総選挙」が現時点で残された唯一の解散時期のタイミングのようで、麻生首相としては、これをしのぐと予算の年内編成をタテに解散越年に転じる可能性が濃い。>(同)

私の見方では麻生氏は福田康夫、安倍晋三氏らと全く違うものを持っている。それは「度胸」である。石炭から石油へのエネルギー「革命」の時に炭坑を経営していた「実績」がある。「血筋はいいが育ちは悪い」とご本人が言っている意味は、このことで「自負」している意味なのである。

何年にも亘って野中広務氏に煮え湯を飲まされながら平然としていられた「度胸」は血の小便を出しながら経営危機に耐えてきた年数に比べれば「屁の河童」のはずだ。タマが違う。

小沢氏はいろいろな手を用いて麻生氏を篭絡したつもりだったろうが、円高、株安を連日見せられている国民は、小沢氏の言う事を聞くだろうか。「今は選挙とか政権交代なんかしている時ではない」と言う雰囲気に変わり、日一日と強まっていくだろう。

この立場から麻生首相に金融法案成立などについて協力を求められた場合、、それを峻拒する度胸が小沢氏にあるか、どうか。

確かに走り出したら止まらないのも解散風だ。普通の選挙運動で1日で数百万円は飛ぶ。自民党内からさえ解散断行を迫る声が上がるのはカネのない若手議員に迫られた派閥領袖のうめきなのである。

しかし、経済危機に伴う政治的な国際外交日程を梃子にして麻生首相は政局を楽しむが如く、民主党焦らし作戦に転換したとみるべきである。

戦場で弾を受けたことが無いのに弾除けを知っている「度胸」は政局を食うだろう。2008・10・25

2008年10月23日

◆盲目で死んだ北原白秋

渡部 亮次郎

北原白秋は広辞苑(岩波書店)では福岡県柳川生まれの詩人・歌人と出ているが、『ウィキペディア』だと1885年1月25日、熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰る、とある。

その縁だろう、数多く作詞した校歌の中に熊本県南関町立南関第一小学校の校歌がある。独身の頃、隣家の戸籍上は人妻だった女性と関係し、当時は存在した姦通罪で訴えられている。

その人俊子と結婚した所為か、お堅いNHKでもラジオ深夜便で2008年10月21日に「作品集」を放送していたが、白秋の父母と俊子との折合いが悪く、ついに離婚に至っている。

また1937年、糖尿病の合併症たる腎臓病により眼底出血を引きおこし視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭した。世界初のインスリンによる糖尿病の治療は1922年、カナダで行なわれたが日本ではまだ普及していなかった。

わが師・園田直(外相、厚相、官房長官)と同じ死に方。ただし園田は人工透析を拒否し「自殺」のような死に方。それでも70歳、注射を早くに始めていれば100も夢ではなかったのに。

白秋の頃は戦争中でもあって腎臓病に対する人工透析は全く行なわれておらず、天才詩人も1942(昭和17)年、11月2日逝去。享年わずか57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。

きたはら はくしゅうは1885年(明治18年)1月25日に生まれた。父・長太郎、母・シケ。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。

詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、日本を代表する詩人である。

北原家は江戸時代以来栄えた商家で、白秋が生まれた当時は主に酒造を業としていた。1887年、弟鉄雄が生まれる。

1891年、矢留尋常小学校入学。1897年、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年には成績下落のため落第。

このころより詩歌に熱中し、雑誌「文庫」「明星」などを濫読する。ことに明星派に傾倒したようだ。1901年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾きはじめる。その後、倒産。

白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年はじめて「白秋」の号を用いる。1904年、長詩『林下の黙想』が河井酔茗の称揚するところとなり、「文庫」4月号に掲載。

感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。

1910年、隣家にいた松下俊子と恋におちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。俊子、章子、菊子と生涯3度の結婚。

{作品}

(詩集)邪宗門 思ひ出 東京景物詩及其他(第3版の刊行の際に『雪と花火』に改題) 真珠抄 白金之独楽 畑の祭 水墨集 海豹と雲 新頌 

(歌集)桐の花 雲母集 黒檜 牡丹の木 白南風 (句集)竹林清興 (木俣修責任編集) (童謡集)からたちの花 トンボの眼玉

(童謡・作詞)ゆりかごのうた 砂山 からたちの花 この道 ペチカ あわて床屋 待ちぼうけ 城ヶ島の雨 伏見軍令部総長宮を讃え奉る

万歳ヒットラー・ユーゲント ハワイ大海戦 海道東征 福島県福島市歌 東京都八王子市歌 愛知県岡崎市歌 ちゃっきり節 多摩川音頭 白洋舎の歌

(校歌・応援歌)東京大学の歌(準校歌)運動会歌「大空と」など多数。作曲は多くが山田耕筰。

(著書)白秋詩抄 岩波文庫 白秋抒情詩抄 岩波文庫 白秋愛唱歌集 岩波文庫 北原白秋歌集 岩波文庫     2008・10・21
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』