2008年12月11日

◆審議なき国籍法の改正

川原俊明(弁護士)

改正国籍法が、与党と民主党などの賛成多数で国会を通過し、法律として成立しました。

この改正法は、最高裁判所が、日本人の父とフィリッピン人の母との間に生まれた子供の国籍取得にあたり、両親が婚姻していないことを理由に国籍取得を認めない旧国籍法は違憲である、という判決を下し、これを受けて法律改正に至ったものです。(平成20年6月4日最高裁大法廷判決)

確かに、片親が日本人である限り、その子供は日本人として国籍を与えるべきです。両親が結婚していない、という理由だけで、日本人の子供に日本の国籍取得を認めないのは、憲法第14条が定める「法の下の平等」に違反します。
最高裁判所が下した違憲判断は、十分、評価に値します。

しかし、改正国籍法には問題があります。

母親が外国人の場合、日本人男性が、その子供を自分の子供だと主張して認知した場合、そのまま子供に日本国籍を与えられる、というのが改正国籍法の内容です。ここでの問題点は、認知をした日本人男性が、本当に、当該外国人女性の子供の父親なのか、ということです。

日本人男性の認知という手続だけで、外国人女性の子供が、日本国籍を取得できてしますことに問題があるのです。日本人男性と外国人女性の子供とが、本当に親子であるかどうかは、DNA鑑定によって99.999%判明します。

国籍申請の際、「認知」だけが要件で、DNA鑑定など「親子の証明」を要件としていないことが重大な問題なのです。最高裁判所は、両親が法律上の結婚関係にない、という理由だけで、婚姻中の両親の子供と、国籍取得手続において差別すべきでない、といっているだけなのです。

実際の父親が日本人男性でないのに、外国人女性が子供を産み、認知手続だけを別の日本人男性に任せた場合、両親ともに外国人なのに、その子供はいとも簡単に日本国籍を取得できることになります。認知手続は、役所への届けだけで成立するから問題なのです。

最近、「偽装認知」という言葉が、世間を騒がしています。本当の血縁のない父親が、父親と称して子供を認知するのを指します。

「認知」といっても、生まれたての子供ばかりを対象にするばかりではありません。成人であっても、父親から認知を受けていない外国人が、日本人男性と手を組んで、「認知」を金で買うこともできるのです。

最高裁判所は、国籍取得にあたり、婚姻要件を法の下の平等に違反するとしただけで、日本人男性による「認知」さえあれば、外国人に日本国籍を与えて良い、といっているのではないのです。

今回の改正国籍法の制定―。

国会議員のうち、どれだけが最高裁判所判決を読み、官僚が作成した法案に目を通しているのでしょうか。国民の代表者は、選挙活動に血眼になっている時間があれば、もっと国会の審議に時間を費やすべきです。

改正国籍法も、ほとんど審理されないまま、法案として国会を通過しているのです。


2008年12月10日

◆ビッグ3が煽った反捕鯨

渡部亮次郎

いま経営危機で政府に資金援助を求めている自動車メーカー「ビッグスリー」こそは日本等の望む捕鯨に対して資金を出して反対運動を煽った元凶である。排気ガスに対する反対運動に正面から向き合うことを避け手方向を間違えた事が今日の危機を招いたのだと思うと、ビッグ3の救済問題には複雑な陰がある。

このことについてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』も指摘している。

<この問題は一時期、欧米諸国の自然保護団体を始め、彼らに同調した自動車産業団体や、農産物生産者等によって利用され、日本人に対しての人種偏見や反日運動ジャパンバッシングなどの一つとして、過激な運動やパフォーマンスも行われた。>

つまり1970年代から「80年代の前半にかけて私は園田直(故人)の下で外務大臣や厚生大臣の秘書官として、捕鯨反対運動に直面した。ワシントンDCでは外務大臣一行の車列にデモを掛けられたことがあり、担当の経済局幹部は欧州での国際会議で反対グループに生卵をぶつけられたりもした。

そこでワシントンに留まって背景を詳しく調査してみた。その結果、驚くべき事実が判明した。ビッグ3が、自らに向けられた公害問題とくに排気ガスの排出責任を追及するラルフ・ネーダー主導の反自動車運動とも言える消費者団体の攻撃を一時的に回避するため、彼らに莫大な資金を提供し、運動のうねりを捕鯨反対に向かわせて煽ったのである。

その結果、クジラの巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいこと、ヒトと同様の哺乳類である事を挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と食のタブーとする意見が高まるなど資源としてのクジラ問題を離れた問題に捻じ曲げられる結果になった。このため捕鯨問題は感情問題に発展し、解決を一層難しくしている。

最近、反捕鯨の運動にも参入しているグリーンピースやシーシェパードといったNGOの活動船と日本やノルウェーなどの捕鯨船とのトラブル、特にシーシェパードの暴力的な示威活動による問題も起きており、日本の捕鯨船との衝突事故は日本国内で大きく報道され、
次の場面では水産庁は彼らを国内法で処罰すると主張している。

その背としては日本国内の世論の多数は捕鯨自体に積極的に賛成というよりは、他国による自国文化への干渉に対するナショナリズム的な反応として反捕鯨を非難することが多い。

今日になってみるとビッグ3と反捕鯨は無関係だが、ビッグ3は
反捕鯨運動に資金を投入するよりは低燃費や小型車の開発に頭を切り替えるべきだったが、遠い将来を考慮できないアメリカ式経営としては止むを得なかったのだろう。2008・12・08


2008年12月09日

◆特ダネ競争の終焉

渡部亮次郎

日本の新聞各社は2009年から特ダネ競争をやめることにしたらしい。産経新聞の販売店から来た平成21年の新聞休刊日の知らせの冒頭が1月の休刊日は元旦とあるから飛び上がった。

新聞といわずメディアの命の本質は特ダネ競争であり、私が現役の記者時代の極みは元旦号を飾る特ダネ競争だった。記憶に残る特ダネの数々は各紙の元旦号を飾ったものだ。

中でも強烈だったのは読売がモノした「八幡・富士製鉄合併」だった。昭和43年か44年の元旦号だった。まさしく45年には新日本製鉄として合併が実現したから実に大の付く特ダネだった。

以後、元旦号を舞台にした特ダネ競争は何年も続いたが、何時の間にか消え、遂に2009年からは元旦号そのものがなくなるのだから、
新聞の衰退もここまでか、という感慨を深くする。

社会が動いている限り競争して捕るタネは常に存在する。したがって特ダネが無いという事はそれを捕る能力が記者になくなったか、捕らせる体制に新聞社や放送局になくなったかである。

私の若いころ在職したNHKを報道機関とは内外ともに認めなかったからだろうか、新聞を出し抜く精神はどこにもなかった。私なんかはそれを是としなかったのでしばしば上と衝突した。それかあらぬか41歳までの在職中、元旦の特ダネ競争に参加した事は1度もなかった。

NHKのニュースは通信社から受け取る記事の語尾を「です」「ます」に書き換えるだけの時代を経て、自主取材を始めたのは戦後もしばらく経ってから。先輩たちは各省庁の記者クラブに加盟させてもらうのに大変な苦労をしたそうだ。

地方では取材先に「NHKですが」と行くと「聴取料は先日払ったじゃないか」と追い返されそうになることしばしばだったそうだ。
しかしNHK自体、ニュースで新聞各社を超えようとする意欲を持ち出した時代だった。

1960年代に入ると、テレビの普及も手伝って、そういうことはなく、朝日新聞社から迎えた前田義徳会長時代は報道最優先体制が敷かれた。だが、視聴料不払いで財政難に陥った昨今は、政治記者の夜討ち朝駆けの車使用もままならないとか。こんな体制とあっては特ダネ記者の誕生は夢である。

一方、新聞各社の取材体制も似たり寄ったりだろう。取材費を惜しめばまず出稿料がガクンと減る。減れば買わない宝くじみたいなもので当りくじはなくなる。特ダネは遊んでいる記者の多いほどあるとはよく言われること。

こうなってくると、特ダネのない新聞は売れないし、売れない新聞に広告を出す企業は無い、となって悪循環の毎日になる。

かくして2009年からは新聞そのものが元旦から配達がされなくなるのだ。歴史に残る事実となるだろう「新聞の決定的な退潮はあの日から始まった」と。2008・12・08

2008年12月08日

◆天に唾するマスコミ批判

渡部亮次郎

最近はマスコミ批判が花盛りである。だが、マスコミ批判こそは戦争に敗けた日本の生んだ仇花そのものだから、マスコミを批判する事は即ち己や衆愚を批判する事である。だからマスコミは昔流に言えば当に「天に唾するもの」、私は恥ずかしくてできない。

お前は以前、NHKという代表的なマスコミに棲んでいたから「言い訳」をしているのだろうと勘繰るなら勘繰れ。そうではないことを諄々と説く心算で夜中に起きだした。

現代日本のマスコミは、敗戦の廃墟から立ち上がるに際して、生きることのすべてを生産優先に置き,大和精神を置き去りにしたことすらも忘れて経済主義に奔走した結果の産物である。既に今から数十年前、評論家の大宅壮一が民放のアチャラカ番組をダシに「一億総白痴化」と予言
していた。

結果、半分白痴化した一億人が、テレビの偏向をとらえて「白痴化だ」と批判するのは、天に唾するもの。唾は己の面を汚すから、批判する事自体,滑稽だ。

例の田母神論文で、常識ある人たちは、日本政府が既に中国と韓国に迎合するために、いわゆる東京裁判史観を認めてしまっている事を知り、やや逆上したが、これも噴飯物である。

連合国に対して無条件降伏を受け入れ、日米安保条約を受け入れた日本に独立国家としての矜持は所持しえなかった。これを是正すべく安保条約をせめて双務条約に改めようとした1960年、今マスコミ批判を口にする知識階層は岸政権に対して何をなしたか。

4大紙とグルになって岸を倒したではないか。デモに加わった左翼東大生加藤紘一の潜り込んだ自民党政権を認知してきたではないか。

昭和20年の敗戦は消える事の無い悲しみである。だが、それよりも悲しいのは大和民族が誇りとしたモラルのすべてがマッカーサー憲法によって悉く否定された事である。それを悲しむのは愚か,嬉々としてマッカーサーを肯んじ結成されたのが日教組である。

その日教組が展開している運動こそは1950年(昭和25年)以降、国旗掲揚と国歌斉唱の反対である。国家統一の象徴たる行為が教育の国家統制だとか戦争反対だから国家統一反対というのは陳腐にして牽強付会な理屈である。

それでいながら今やわが国公教育の現場は完全に日教組に支配され、その「製品」たる記者たちに支配されているのが新聞、通信社、放送局の実態であり、憲法を容認し、日教組を泳がし、アチャラカテレビを楽しんできた人々からいまさらマスコミ偏向批判の声をあげられても、私は聞
く耳を持たない。マスコミに感覚を閉ざすと同時に批判にも目や耳を閉ざしたくなる。

私は生まれてこの方、左翼と呼ばれたことは無いが、右翼と言われたこともない。若いころの41歳までNHKで国内政治担当の記者をしていたことがあるから、少しは事物を視野を広く見る習慣がついた。

例えば自民党に代って政権を担おうとしている民主党は日教組に支えられている。また、日教組支持を厭わないマスコミ各社は概ね民主党支持である。だからこそ反日教組の人々のマスコミ批判の声が高まっているのだろう。

しかし、マスコミ批判を叫ぶ人々は遅すぎる。例の村山談話の時には何も騒がなかった。あの時、自社連立という変形政権は、イデオロギーを超越せざるを得ない立場にあり、そこを中国と韓国に対して叩頭的立場を肯んずる売国連中に押し切られ、ああなった。

マスコミは騒がなかった。当然である。だが、反マスコミ勢力も全く沈黙を守った。以後、自民党政権を自虐史観で厳しく縛る材料となった村山談話であるだけに、保守論客の沈黙が惜しまれる。保守論客それ自体がマスコミに依存しているからである。

あえて言おう。ソマリヤ沖で海賊に襲われるタンカーを初めとする日本の運搬船。野党の攻撃を恐れて拱手傍観する政府、与党。それを追及せぬマスコミ。そのマスコミが支持する民主党。すべて国家の対面と義務を忘れている。

しかし、私はマスコミを非難しない。それでも朝日、毎日や放送各局が潰れないのは国民に支持されているからである。即ちマスコミを批判する事は、その読者,視聴者たる国民を批判する事である。

日本国民が海賊を見逃して左翼論調とアチャラかに酔い痴れている以上、何を言っても無駄なのである。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                        2008・12・05

2008年12月04日

◆レビー小体型認知症

                  渡部亮次郎

東北に住んでいるはずの友人から久し振りに封書が届いたが、開けてみると「病床にある父に代り長女がしたためる「最後の挨拶状」。「父の病はレビー小体型認知症アルツハイマー型認知症」という悲痛な知らせだった。「父に残された時間はいかばかりかわかりません」涙なしには読めなかった。

レビー小体型認知症(れびーしょうたいがたにんちしょう、英Dementia with Lewy Bodies;DLB)はアルツハイマー型認知症や脳血管性認知症と同じく変性性認知症の一種であり、日本では三大認知症の一つである。

彼はちょうど70歳。私がチリ地震津波災害取材を終えて、1960年6月、NHK仙台から盛岡放送局へ赴任して初めて会った。ニュース・フィルム編集に天才的な能力を持っていた。

高卒で仙台市で貯金局に勤めていたがフィルム編集職の公募に合格し、盛岡が初任地だった。記者やカメラマンが撮影してくる16ミリのモノクロ・フィルムをネガでさっと見ると、瞬時にニュースの本質を見抜き、あっという間に1本のニュースに仕上げた。

だから間もなく彼の名は全国に轟き、東京に上がるや、人事管理能力も認められ、高卒者ではNHK始まって以来初めての部長に昇格した。しかし、彼は部長のデスク仕事は「性(しょう)に合わない」といい続け、仙台での現場に戻って定年退職した。

定年後は宮城県内の生家で野菜作りを楽しむ傍ら書道をやっていた。その後庭師の資格も取ったといっていたが、最近は便りも途絶えていた。そこへ「最後の便り」だから驚いた。

この病気は日本で発見されたとされた。1976年以降に小阪憲司医師によって世界的に知られるようになった。レビー小体とはドイツのLewyによってパーキンソン病変の脳幹で発見され名付けられた封入体である。

大脳皮質にこれが多く認められることから、小阪氏によってびまん性レビー小体病(びまんせいれびーしょうたいびょう、英diffuse Lewy body disease;DLBD)と名付けられた。その後1995年イギリスで行われた第1回国際ワークショップにて現在の名称になった。

また、パーキンソン病のような運動障害も併発するのが特徴。以前は、びまん性レビー小体病と呼ばれていた。

この病気特有の症状としては、幻覚を見たり、妄想をしたりすることがあげられる。やがて、アルツハイマーのような認知障害と、パーキンソニズムと呼ばれるパーキンソン病のような運動障害の両方が症状として表れ、徐々に進行し、最終的には寝たきりになる。

この病気はアルツハイマー型に比べ10倍も寝たきりになるのが速いとされる。 また、薬物に過敏に反応し(薬物過敏性)、アルツハイマーの治療薬やパーキンソン病の治療薬を通常量で投与すると逆に症状の悪化を招くことが多い。

初期の段階では、診断が難しくアルツハイマー型認知症やパーキンソン病と診断されたり、初期にうつ病が出てうつ病と診断されることがある。この病気の早期発見と、適切な治療が進行を遅らせ症状を和らげる。

高齢者に多くみられるが、40歳前後で発病する場合もある。アルツハイマー型、脳血管性を合わせるとレビー小体型は約1割以上とされるが、九州大学による研究では41.4%という結果が出ている。
出典::フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「入院から5ヶ月が経過し、父の状態は、初夏の頃に比べると安定しているように見えます。しかしながら、認知症全般には根本的な治療法が無く、せめて症状の進行を遅らせるのがすべてだそうです。

父が混乱する記憶の中、高校時代に打ち込んだ卓球のことと人生の大半を過ごしたNHKで良くしていただいたことを話すときばかりは、少しだけ瞳に力が宿るような気がいたします」。

「これまでの、父に対するご厚情に深く感謝いたします。たとい思い出すことが出来なくなっても、父の頭の中には、皆様との思い出が詰まっており、決して消える事は無いと思います。今回を持ちまして父のなまえでのご挨拶は最後にさせていただきます」以下略

2008年11月 妻 長女 長男 「これまでの、父に対するご厚情に深く感謝いたします。たとい思い出すことが出来なくなっても、父の頭の中には、皆様との思い出が詰まっており、決して消える事は無いと思います。今回を持ちまして父の名前でのご挨拶は最後にさせていただきます」以下、涙で読めない。
2008年11月 妻 長女 長男   

電話に出た夫人の話によると、二人暮らしなのに3人分の食事を用意しろという。さっきまでもう1人いたじゃないか。どこへ行ったかな、と言ったたりするようになった。それで病院に行ったらすぐ病名が告げられたという。

奥さんのありもしない浮気を疑ったりするのは、この病気だそうだ。
2008・12・02  

2008年12月03日

◆脳梗塞治療薬に危険も

渡部亮次郎

罹ってからもたもたしているうちに手遅れから半身不随になる脳梗塞について、「3時間以内に治療薬t―PA(アルテラプラーゼ)を注射すれば万全だから恐れる必要が無い」との説明を信じてきたが、よく調べてみると、危険も結構あって、よく勉強しておいた方が良い。。

<厚生労働省医薬食品局が2007年8月31日に」発表した医薬品・医療機器等安全性情報によると、脳梗塞(こうそく)治療薬t―PA(アルテラプラーゼ)の投与によって男女8人が死亡した。2005年10月から07年5月の間に、胸部大動脈解離の悪化と胸部大動脈瘤(りゅう)破裂の副作用に
よるものである。

そこで厚生労働省は製薬会社2社に対し「胸部大動脈解離あるいは胸部大動脈瘤を合併している可能性のある患者では適応を十分に検討する」などと薬剤の添付文書を改訂するよう指示した。

重い頭蓋(ずがい)内出血を起こす危険性が高いことから、CTやMRIによる撮影が可能で画像診断(読影)に熟知した医師がいることなど厳しい使用条件がある。

t―PA(アルテプラーゼ)は、協和発酵工業(東京都千代田区)が「アクチバシン」注射剤として、三菱ウェルファーマ(大阪市)が「グルトパ」注射剤の商品名で医療機関に販売している。

日本では1991年5月、厚労省が急性心筋梗塞時の冠動脈血栓を溶かす効能・効果で承認、05年10月には虚血性脳血管障害急性期に伴う機能障害改善の効能・効果を追加承認した。脳梗塞発症後3時間以内の使用を条件に使われ、寝た切りにならない特効薬として知られている。

日本脳卒中学会は「アルテプラーゼ静脈注射療法適正治療指針」を作成し、指針の解説を中心にした「脳梗塞アルテプラーゼ適正使用講習会」を全国各地で170回以上開催、講習会の受講者は9000人を超えているという。

安全情報の公表に先立ち、同学会は既に会員と講習会受講者にアルテプラーゼ使用と胸部大動脈解離、胸部大動脈瘤の有無に十分な注意を払うよう求める文章を送付している。

急性期脳梗塞患者への使用解禁後、製薬会社2社は、2007年7月10日までに約7,000人に使われたと推定している。(南里秀之)>(くまにちコム「健康・医療」2007年8月31日付)
http://kumanichi.com/iryou/kiji/brain/79.html


2008年12月01日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎

国歌「君が代」は1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われてい
る。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年11月28日

◆古澤 襄と屋山太郎

渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

私を含めて3人は親しい友人。古澤は1931年、屋山は1932年6月4日生まれ。私が一番年下で36年生まれだが、いずれも老人になった。1970年代の自民党総裁を巡って田中角栄と福田赳夫の争った「角福戦争」当時、3人は福田番だった。

ご承知の通り、福田が敗れた。古澤は地方の支局長をいくつか務めた末に、共同通信社の常務理事、屋山は時事通信社で既にローマ特派員を済ましていたが、首相官邸キャップ、ジュネーヴ特派員、編集委員兼解説委員を歴任し、1987年退社した。

私は大阪のデスクに飛ばされた後、福田内閣で園田直外務大臣,の秘書官。屋山はある日地の人の紹介で伊藤忠商事の瀬島龍三と知り合った事から政治や行政に深く関与し、政治評論家としての研鑽を積むことになる。

即ち、瀬島龍三の関係する1981年第2次臨時行政調査会(土光臨調)に参画、以後第1次?第3次行政改革推進審議会専門委員、選挙制度審議会委員、臨時教育審議会専門委員を務めたのである。

行政と選挙制度と教育問題のエキスパートになりおおせたのだから2001年には第産経・フジTVグループの17回正論大賞を受賞するのはたやすかった。

『ウィキペディア』によれば、屋山は保守主義の理論的支柱とも言えるエドマンド・バークの信奉者であり、日本の親米保守論壇を代表する評論家の1人となった。慶賀に堪えない。しかし小選挙区推進論では古澤、渡部とは意見を異にする。

経済政策は新自由主義の立場を採り、外交問題については日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(=日米同盟)の強化の姿勢を示している。

屋山はローマ特派員の経験から強烈な小選挙区推進論を展開していた。日本の政治を腐敗させた元凶として中選挙区制を問題視している。このことが、派閥政治の温床となり田中派・竹下派支配を可能にしてきたとし、選挙制度審議会では小選挙区制の導入を掲げ、細川護煕政権での実現へと至った。

屋山は前述の竹下派支配は自民党の左傾化の象徴という位置付けをしている。例えば、小泉内閣発足以降問題視されることになった、6兆円にも及ぶ対中ODAを垂れ流し、その事業の窓口になっていること、日朝国交正常化を画策している勢力が同派の金丸信、野中広務であったことを注視、激しい批判を加えている。

野中が2003年に小泉との権力闘争に敗れ失脚した際は、小泉に対し最大限の賛辞を送っている。

屋山は安倍を最も評価する点として公務員制度改革の際、2007年3月27日に小泉内閣でもできなかった事務次官会議を無視し閣議決定を行った点を挙げている。

他方、かつての橋本龍太郎内閣が行った行政改革には手厳しく、公務員削減を伴わなかったことから痛烈に批判している。例えば、橋本改革には「課」で廃止されたものは唯の一つもない。

屋山は同時に、政府が国会に提出する法案は、議員立法という形で提出すべきだとも述べている。政府の法案提出は米国とは異なり、議院内閣制で多数派が政府を構成しているため憲法上は問題がないとされているが、政府提出の法案は現実には国家公務員がその多くを作成しているのが現実で、このことが官僚支配と、政治の指導力低下を招いていると指摘している。

一方、古澤は別の観点から小選挙区制度に反対していた。

[1人区で1議席を争う制度は、当選するために選挙民受けする選挙運動にならざるを得ない、というのだ。地域の市町村会議員の選挙なら、それで良いのだが、国政を担う衆議院議員を選ぶ選挙は、選挙民受けだけを狙っていては単なる”迎合選挙”に堕落する危険性がある]と警鐘を鳴らす。

<選挙で当選するために目先の生活向上だけを唱え、相手の党のあら探しをする選挙戦術が横行して、日本の将来のビジョンを示す大きな選挙演説が姿を消すのではないか。

戦後の日本の宰相は吉田、鳩山、岸、池田、佐藤と国家のビジョンを熱っぽく語っている。批判される点も多々あるが、一国のリーダーたるスケールの大きさがあった。最近の日本の宰相には、かつての宰相たちのスケールの大きさがない。

やはり小選挙区になって与野党のリーダーが「国民の生活が第一」しか語らなくなったことが、日本政治を矮小化させているのではないか。私は椎名悦三郎氏という政治家は大物だったと思う。

戦中は岸商工相の下で次官だった椎名氏だったが、椎名大臣・岸次官といわれるくらいスケールが大きかった。岸内閣の官房長官時代と佐藤内閣の外相時代に担当記者として付き合ったが、選挙に弱いことでも有名だった。中選挙区制度だったから衆議院議員になれたが、小選挙区制度だったら間違いなく落選が確実だろう。

小選挙区制度が続くかぎり椎名氏のような政治家は出てこない。それは日本政治の劣化につながると思っている。>「杜父魚文庫ブログ」2008・11・16

毎日新聞中部本社編集局長から故安倍晋太郎秘書に転じた金 巌(こん いわお)は屋山太郎を評して嘗ては単細胞といった。私には屋山の意見は単純でわかりやすいが、単細胞よりは古澤さんに説得力がある。(文中敬称略)2008・11・16

2008年11月27日

◆『頂門の一針』休刊のわけ

            渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

私の主宰するメールマガジン『頂門の一針』を突然、10日間、休刊して数多の愛読者に迷惑を掛ける不始末を仕出かした。脳梗塞を発し、急遽、入院を余儀なくされたためだが、幸い早期発見、早期治療で、何の後遺症もなく、26日、無事、退院した。

可笑しなことだった。本人が「脳梗塞だ」と訴えているのに専門の脳神経医が否定、頚椎の異常を主張。「あなたの主張を否定する意味でMRIを撮りましょう」。結果は「アラ、右基底部に極小さいながら梗塞がありました。即時入院,約2週間の入院治療となります。

MRI核磁気共鳴画像法magnetic resonance imaging, MRI)とは、核磁気共鳴 (nuclear magnetic resonance, NMR) 現象を利用して生体内の内部の情報を画像化する方法である。

断層画像という点ではX線CTと一見よく似た画像が得られるが、CTとは全く異なる物質の物理的性質に着目した撮影法であるゆえに、CTで得られない情報が多く得られる。

右基底部に極小さいながら梗塞だと左手小指の先がしびれるのだと専門医。私はだから「脳梗塞だ」とさっきから訴えているじゃないですか。

2008年11月17日{月}の朝7時半ごろ、主宰するメールマガジン『頂門の一針』1383号の配信を終えたが、起きぬけから気になっていた左手小指、第1関節の痺れが治らない。糖尿病(持病)に伴う高血糖が続いたので合併症として、脳梗塞が起きたのではないかと疑った。しかし、掛かりつけである都内港区高輪台の「かんぽ高輪台病院」の内科医は否定。

最近、ご自身、心臓手術の体験から体験記を文藝春秋社から刊行するなど心臓・血管問題の権威といえるようになったNHK大阪{JOBK}時代の同僚記者石岡荘十(いしおか そうじゅう)氏に電話。彼は叫ぶように言った「それは間違いなく脳梗塞です。病院に早く行ってMRIを撮ってください」。

発症から既に3時間は過ぎていたが。脳の細い動脈をふさいだ
血栓を溶かす薬を点滴で注入開始。翌朝には痺れは解消、口や手足などのどこにも後遺症らいい物は残らなかった。先輩記者は脳梗塞による失語症を苦にして自殺したが、私は、なるほど、死に至る病の一つに72歳にして至ったが、外見上は全く健常者と変わらない状態で退院する事が出来たのは全く、不幸中の幸いといわなければならない。

脳梗塞(のうこうそく、cerebral infarction、別名:脳軟化症(のうなんかしょう))とは、脳に栄養を運ぶ動脈の閉塞、または狭窄のため、脳虚血を来たし、脳組織が酸素、または栄養の不足のため壊死、または壊死に近い状態になる事をいう。また、それによる諸症状も脳梗塞と呼ばれる事がある。

なかでも、症状が激烈で(片麻痺、意識障害、失語など)突然に発症したものは、他の原因によるものも含め、一般に脳卒中と呼ばれる。それに対して、緩徐に進行して痴呆(脳血管性痴呆)などの形をとるものもある。

日本人の死亡原因の中でも多くを占めている高頻度な疾患である上、後遺症を残して介護が必要となることが多く福祉の面でも大きな課題を伴う疾患である。ちなみに「脳軟化症」の名の由来は、脳細胞は壊死すると溶けてしまうため(「融解壊死」という)こう呼ぶ。

再発を避けるためには塩辛いとか、脂濃い食べ物を避ける、アルコールは自身で止められる程度。日本酒なら1日2合に制限された。一番害のあるタバコは30年前、イギリスのサッチャー首相(当時)のお陰で禁煙しているから問題ない。

脳梗塞といえばミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄、「闇将軍」田中角栄氏を思い出す。長嶋さんは医者に掛かるのが遅れたことが致命傷となって後遺症が残ったし、角さんは血管の詰まった部位が悪くて手術も出来ぬまま娘に邪険にされて死んだ。

それを考え合わせると、私の場合は実にラッキーだったのだ。石岡さんは友達というだけでなく、命の恩人になった。

実は98歳、施設の個室の簡易トイレ上で即死した母親の死因は心筋梗塞か脳梗塞かはっきりしなかったが、DNAから逆に判断すると脳梗塞だったのではないか。2008・11・26
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆冬を告げる鮟鱇鍋

渡部 亮次郎

2007年11月21日の夜、昨冬初めての鮟鱇(あんこう)鍋で麦焼酎をやり、いい機嫌になったところへ郷里の古参代議士野呂田芳成さんから突然、電話があって、ちょっと驚いた。

友人加瀬英明氏と大森で飲んで、電話しようかとなったらしいが、秋田県2区での自民党の公認問題を尋ねたところ「納まるところに納まる」と当選への自信はたっぷりだった。

ところで、「鍋料理の秋田」でも鮟鱇鍋は無い。茨城県北部の海岸地方の郷土料理というのだから無理も無い。国立(くにたち)時代は食べた事は無かったが、向島生まれの家人と一緒になって初めて食べた。

今年も日本橋高島屋では2人前、1500円前後。1鍋を煮ると3食分ぐらいあるから安い鍋といえる。しかし、何年か前、本場水戸の有名店のはアンモニア臭くて一切れも食べずに出てきた。

アンコウ鍋(鮟鱇鍋) アンコウなべ 。アンコウの身や内臓、皮を野菜や豆腐と煮た鍋料理で、醤油をベースにし、味噌をかくし味につかう。拙宅では味噌を主体に、醤油を隠し味にする。

汁に肝を刷り込んで溶かさないと野趣豊かな味の鍋にはならない。

アンコウは骨以外全部食べられ、俗にアンコウの可食部分を「アンコウの7つ道具」とよぶ。とくに冬は身がしまっておいしい。

身より美味といわれる肝臓は「あん肝(きも)」とよばれて珍重される。

肝を炒ってペースト状にすりつぶし、味噌や酢で調味して身をあえた「ともあえ」は、酒の肴(さかな)に向く。但し尿酸が多くなるので、通風を恐れる人は食べない方がいい。

アンコウは骨が非常に硬く、体が柔らかすぎて、おろしにくいので、鉤(かぎ)につるしながらさばく。これを「アンコウのつるし切り」という。

もともとは、福島県境に近い平潟や大津などの、「どぶ汁」とよばれる漁師料理がもとだといわれる。この料理はアンコウを味噌と醤油で煮てアツアツを浜で食べる。

このどぶ汁を一般向けにやや上品に改造したものが、今日のアンコウ鍋である。アンコウの漁獲量が減って高級料理になってしまったが、昔は庶民の日常の食べ物だった。参考Microsoft(R) Encarta(R)

アンコウの美味が認められたのは,江戸時代に入ってからのことのようである。

《料理物語》は初めて調理法を記載し,《古今料理集》は〈上魚賞専也〉と身分の高い人にも供しうるご馳走だとしている。《本朝食鑑》は,ほとんど捨てるところなく食べられること,肝がとく美味いことなどを述べ,アンコウ独特の〈つるし切り〉についても詳細適切な解説を行っている。

江戸時代でもアンコウの肝は極めて脂が強いので,たっぷり塩をあてて竹などの簀(す)で巻き,1時間ほど蒸してから冷水にさらす。これを薄切りにしてワサビじょうゆで食べる、とある。

酢みそにすりこんで身をあえる〈とも酢あえ〉もよい。ちりなべ風に水煮してポンスしょうゆで食べるのもよい。

アンコウ(鮟鱇)
アンコウ goosefish‖anglerfish

アンコウ目アンコウ科 Lophiidae に属する海水魚の総称。温帯から熱帯にかけて広く分布し,沿岸域のやや深い海底に棲む。

体色は黒褐色で,頭部は円盤状をなし上から押しつぶされたように著しく縦扁している。皮膚はうろこがなく滑らかで,多くの皮質突起を生じている。

貪食(どんしよく)で知られ,〈アンコウの待ち食い〉ということわざもあるが,実際には海底に静止したまま品動物の近づくのを待つだけではなく,しばしば中層ないし表層まで泳ぎ上がって回遊性の魚や海鳥を食う。

産卵期は春から夏にわたる。卵は凝集浮性卵で,カエルの卵のようにゼラチン状の卵帯の中に多数の卵が埋まった状態で産み出され海面下を浮漂する。

アンコウ類は底引網,手繰網で漁獲される。〈アンコウは梅が咲くまで〉といわれ,旬は冬。味はアンコウよりキアンコウの方がすぐれている。

アンコウなべ,あえ物などとして賞味されるが,筋肉よりむしろ〈とも〉(肝臓),〈水袋〉(胃),〈ぬの〉(卵巣)などの内臓や〈かわ〉(皮膚),ひれなどの方が珍味とされる。

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス
                              2007・11・21 (再掲)

2008年11月25日

◆おやつの無い子供

渡部 亮次郎(「頂門の一針」主宰)


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべたが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら体勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土とは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

大東亜戦争の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―23)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。

WHO/FAOはレポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet,Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し将来食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。

この摂取量は日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類すべてを砂糖に換算した場合には成人で約50―70g程度の量(3gスティックシュガーで17―23本分)に相当する。しかし「油断大敵」。

一方、米国の消費者団体CSPI(Center for Science in the PublicInterest)は 、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。

平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」2008・10・27


2008年11月19日

◆日本が炭坑を捨てた日

渡部 亮次郎

エネルギー革命
!)木から木炭へ=青銅や鉄の鋳造が可能となった。

!)木炭から石炭へ=蒸気機関の発達を促した。 産業革命を引き起こし、先進国の工業化を後押した。

!)石炭から石油へ=内燃機関の発達を促した。 各種産業の高度化を促した。

日本における「エネルギー革命」は、一般的には第2次世界大戦後の1960(昭和35)年代に、それまで燃料の主役であった石炭から石油や天然ガスへ転換された。

中東やアフリカの石油が発見されたのは、日本が敗戦した1950(昭和25)年代だった。相次いで大油田が発見された結果、エネルギーの主役が石炭から石油へと移行したのである。

それまで石炭は日本では唯一のエネルギー源であり、「黒ダイヤ」と尊ばれた。それなのに日本では原油の輸入自由化(1962年)をきっかけとして、石炭は長く続いたエネルギーの王座を石油に譲ることとなった。

大量に安く供給された石油は、さまざまな交通機関、暖房用、火力発電などの燃料として、また石油化学製品の原料として、その消費量は飛躍的に増えた(資源エネルギー庁)。

他にも日本国内産の石炭の生産を中止して低価格で品質の良い輸入石炭に移行した現象や、家庭での暖房器具が燃料主体から電気を主体とした器具に移行した現象も大げさにいえばエネルギー革命だった。

日本のエネルギー革命は他国と同様、蒸気機関よりも熱効率のよい内燃機関の発達を促し、産業の高度化にもつながった。

反面、北海道空知地域・福島県東部・山口県西部・九州北部(筑豊など)の産炭地ではそれまで産業の基盤であった炭坑が次々と閉山に至り、多くの炭坑労働者が失業し、関係自治体の著しい衰退へとつながっていった。

こうした深刻な問題に率先、自ら身を曝していたのが若き日の麻生太郎氏だった。待遇や転職を巡っての労働組合との折衝一つとっても福田康夫、安倍晋三氏らには無いものである。自らを「血筋は良いが育ちは悪い」というのは、そこに却って「自負」があることを示す。

筑豊の地を訪れた事があるが、無職、無収入を補うために、自分の体を自分で傷つけて国に補償を要求するなど、東京では想像もつかないようなことをする人がいた。麻生氏は、そういう人たちと向き合ってきた。度胸が違うというしかない

日本では、最盛期には石狩炭田、釧路炭田、筑豊炭田などの大規模な炭田を中心に800以上の炭鉱があったが、21世紀初頭までに、坑道掘りでは太平洋炭礦を引き継いだ釧路コールマイン以外すべて閉山した。

露天掘りでは、砂子組が砂子炭坑三笠露天掘坑(三笠市奔別鳥居沢町)で採掘し北海道電力へ納入している他、数社が露天掘りをおこなっている。

元々1930(昭和5)年12月に大阪市の朝鮮人人口は80,500余名であったが、失業率は18%に達し、大阪市の失業者の5人に1人は朝鮮人であった。

労働争議もこの頃になるとかなり戦闘的になっていた。1925(大正15)年結成された在日朝鮮人労働総同盟は27年には組合員数、公称3万余名を数えるにいたった。

しかし29年末、この総同盟は日本労働組合全国協議会(全協)に解消されたとき、2,600余名にまで減少した。全協が民族問題を無視したため、朝鮮人労働者の信頼を失ったからである。

労働争議の際、朝・日労働者の乱闘が数多くあったという。30年代の大争議としては大阪府の「岸和田紡績争議」や愛知県の「三信鉄道建設工事争議」、筑豊の「麻生炭坑争議」などがあった。

そうした伝統の末に生まれた麻生太郎をただの「お坊ちゃん」とは決め付けられないだろう。

あの時期、全協の朝鮮人活動家は根こそぎ検挙された。1933年1−11月に全協活動家が1698人逮捕されているが、そのうち朝鮮人活動家は926名を数える。

彼らに加えられた「取り調べ」の拷問は残忍で陰惨を極めた。日本の敗戦直後、監獄から釈放されたこれらの活動家は、ほとんど朝連(総連の前身)などの幹部として活躍したが、日本の治安当局から残忍な拷問を受けた憎しみの感情を抜きにしては、その後の彼らの行動は理解できない部分がある。

<麻生炭鉱=太郎の父麻生太賀吉の経営した麻生炭鉱(麻生商店、のちの麻生産業、現麻生グループ。炭坑従業員は1966年に全員解雇)は戦前、納屋制度などがあり労働環境が劣悪であった。

また筑豊地方において同社は三菱系に次いで朝鮮人炭鉱労働者が多かった。1932年の朝鮮人による労働争議は筑豊全体に広がる大規模なものであった。この争議により納屋制度の一部が改善された。>(『ウィキペディア』)及び(金 賛汀(キム・チャンジョン) 「在日コリアン百年史」 1997年11月刊 !)三五館)2008・10.29


2008年11月18日

◆きりたんぽ鍋怖い

渡部亮次郎

冬になると「鍋料理、鍋料理は秋田、秋田はきりたんぽ鍋」となるらしく、関係ないはずの秋田県南のみやげ物店からの案内状に「きりたんぽ鍋材料一式」が入ってくる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が<きりたんぽ(切蒲英)は、秋田県の郷土料理>と書くからだ。きりたんぽ発祥の地は、戊辰戦争以前は南部藩だった北部の「鹿角(かづの)」である。

私の生まれ育った旧八郎潟周辺(県中央部)では、「だまこもち」だ。きりたんぽは、つぶした粳米のご飯を杉の棒に竹輪のように巻き付けて焼き、棒から外して、食べやすく切った物をいう。鶏がらのだし汁に入れて煮込んだり、味噌を付けて焼いて食べたりする。秋田県内では、冬場に学校給食のメニューとなる。

これに対して「だまこもち」は同じく潰したご飯(新米)をピンポン玉ぐらいの大きさに丸め、きりたんぽと同じく鶏だしの鍋で煮込んで食べる。左党はもちを食べるより、鍋の具を肴に酒を呑む方が主だから、もちは翌朝に、味がよくしみた奴を串刺しにして囲炉裏で焼いたのが却って美味いといったものだ。

最近では全国で食べられているきりたんぽときりたんぽ鍋。たんぽを切る前の段階でのきりたんぽのことを指し、ほとんどの人がこれを「きりたんぽ」と思い込むが、切っていないのは只の「たんぽ」。

「たんぽ」とは本来、稽古用の槍につける綿を丸めて布で包んだものを指し、杉(秋田杉)の棒に、半殺し(半分潰すという意味)のご飯を巻き付けたところがたんぽをつけた槍(たんぽ槍)に似ていることからその名が付いた。

秋田県北部(現在の鹿角市周辺)に住むマタギ(猟師)の料理が起源とされる。マタギが山から帰った際、残した飯を潰して棒につけ焼き、獲物のヤマドリや山菜、キノコとともに煮たり、味噌をつけて食べたりしたとされている。

家庭料理であることから、鍋に入れる鶏肉に決まりはなかったが、比内地鶏が有名になったことをきっかけに、比内地鶏の産地である、大館市でセットで売り出すことに成功し本場の地位を確立し、その後秋田県の郷土料理として広く親しまれるようになった。

この時大館市が発祥の地として売り出そうとしたため、発祥の地を自負する鹿角市と発祥争いとなったが、現在では鹿角市が発祥、大館市が本場を呼称することで落ち着いた。

22歳から23歳にかけて大館市に記者として駐在した。年末の忘年会はどこも会場は北秋クラブ、料理はきりたんぽ鍋。飽きた。爾来、きりたんぽ怖い、鶏怖い、だ。「だまこもち」も食べたくない。

一方で県北部が起源であるため、由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市周辺の県南部では「きりたんぽ」は北部ほどのなじみはない。

きりたんぽ鍋の作り方。
鶏(比内地鶏)のガラでとっただし汁をベースに、こいくち醤油、酒と砂糖(または味醂)で醤油ベースのスープを作る。煮え難い順に、ゴボウ、(しらたき)、(サトイモ)、(卵巣を含む鷄モツ)、マイタケ(金茸、銀茸)、比内地鶏、(つみれ)を並べ中火で煮立てる。きりたんぽとネギを入れ、味が染みる直前でセリを投入する。セリに火が通ったら完成。(カッコ内はオプションとして好まれるもの)

比内地鶏が品種開発される以前は比内鶏のものを用いていた。比内地鶏が手に入らない場合はブロイラーのトリガラ、もも肉、鳥皮、ネクタイ(首の肉)で代用すると良い味が出る。

基本的に鷄ベースのキリっとした醤油スープ。具材については邪道とされるものがいくつかあり、甘味と水分が多く出る白菜、風味が変わってしまう魚肉(竹輪などの練りもの)、匂いが変わるニンジン、風味が変わるシイタケは入れない。基本はゴボウ、鷄肉、マイタケ、ネギ、たんぽ、セリの6種である。

みそつけたんぽ
焼いたたんぽに味噌を塗って食べるもの。みそたんぽとも呼ばれる。
出典:『ウィキペディア』2008・11・11