2009年03月22日

◆植物性乳酸水で花粉症克服

渡部 亮次郎

2009年3月16日の産経新聞に、花粉症克服のため、東京の食堂会社が花粉症対策メニューを提供して好評を得ているとの記事があった。

魚、レンコン、ヨーグルトなどの食材を継続して食べれば、体質が改善され、症状緩和が期待できるという研究成果が浸透したのに応えたものだそうだ。

私はそんな事を全く考えずに植物性乳酸水を飲み続けたが、酷い花粉症が完全に治り、完治3年目の春を悠々と闊歩している。

植物性乳酸菌は動物性乳酸菌の10倍もの種類があるといわれ、漬物や味噌、醤油など、さまざまな食品にその存在を確認することができる。

植物性乳酸菌には、免疫賦活作用が確認され、病気になりにくい体を守る効果が期待できるとされている。

それは植物性乳酸菌の「生きて腸まで届く力」があるからで、腸内環境を改善する力として注目を集めているわけだ。

日本人の食生活と植物性乳酸菌の関係は、はるか昔にさかのぼる。その代表的なものが、醤油や味噌、糠漬、日本酒、ハタハタ、鮒などのなれ鮨といった発酵食品である。

もともと農耕が盛んだった日本や東アジア諸国では、田畑でとれる作物や魚介類が食糧の中心となる食文化が定着している。

これらの食べ物を乳酸菌や微生物、カビ、酵母などで発酵させておいしくしたり、保存できるようにした日本の食生活に、植物性乳酸菌は古くから関係していた。つまり、植物性乳酸菌は日本人のおなかになじんだ乳酸菌であるといえる。

日本の食文化に古くから根付いた植物性乳酸菌だが、実は世界のさまざまな国の食べ物にも、植物性乳酸菌が含まれていることは日本人はあまり知らない。

近いところでは、韓国のキムチ、中国のザーサイがそれにあたる。ドイツなどヨーロッパのサワークラフト、インドのチャツネ(野菜と果実を煮込んだソース)、タンザニア・ケニアのマサイ族で作られている発酵乳など、植物性乳酸菌は各国で力を発揮している。

ウイルスなどの感染から体を守る「インターフェロン」。その産生能力を高める物質の研究が、ラブレ菌発見のきっかけだ。 京都の人たちが好んで食べる「すぐき漬」から全く新しい乳酸菌の一種であるラブレ菌が発見された。

現在、ラブレ菌でもっとも注目されている働きが、「免疫力アップ」の力だ。ラブレ菌の腸内で生きぬく力の強さを、動物性乳酸菌の代表格である

免疫力は加齢によっても影響を受け、20歳頃をピークにその力が急降下する。そこで普段の食事などから免疫力をアップさせる物質を積極的に取る必要がある。

日本人は古代から米や野菜など食物繊維が多いものを食べてきたので、欧米人にくらべて腸が長いといわれている。その長い腸をくぐりぬけて日本人の健康を長く支えてきたのが味噌・漬け物などの「植物性乳酸菌」由来の発酵食品だった。、「動物性乳酸菌」に比べて、より生きて菌が腸まで届くからだ。

植物性乳酸菌の一種「ラブレ菌」は、腸内の免疫器官に作用し、免疫担当細胞を活性化する「インターフェロン」の産生を助ける大切な役割を担っている菌なわけだ。

食生活の欧米化で植物性乳酸菌を摂る機会が少なくなった今だからこそ、普段の食生活で毎日摂ることを心がけたいものだ。

人生100年といわれる時代、いきいきと健康に歳を重ねて人生を送りたいものだ。

友人の紹介で知り合った長野県安曇野市の会社会長森山憲義さんは独学で植物乳酸水を生産、頒布している。薬事法違反になるからどんな風に効くか、病名を挙げて宣伝する事は絶対に慎んでいる。

だがアトピーが全快したとか慢性の下痢がピタリと止まったという噂を聞いたので取り寄せて飲んでみた。

7年間苦しんだスギ花粉症が完治した。一昨年春からくしゃみも涙も止まった。昨年は花粉が少ないからだろうと思っていたが、格別多いといわれた今年も症状が全くでない。完治していたのだ。

森山さんの植物乳酸水以外に格別飲んだものはないのだから抵抗力がついて花粉症を克服したわけである。友人の中には糖尿病になりかかっている人の血糖値抑制に格別の効果があると喧伝する人もいるが、薬学的な検証はまだなされていないようだ。(執筆 2009・03・16)

資料:カゴメ植物性乳酸菌大学
http://www.kagome.co.jp/style/nyusankin-univ/comprehensive/index.html

2009年03月17日

◆別れの一本松?杉?

渡部亮次郎

ラジオ深夜便を聴いていると、時々吹きだすことがある。

ある日、斉藤季夫アンカーが春日八郎の「別れの一本杉」を紹介する時に「春日さんは郷里の一本松を思い浮かべながら吹き込んだそうです」と言った。

そうしたら次の週、投書があって「斉藤さんは一本松と言ったが、春日さんの郷里は二本松では無いか」と主張。しかし、投書が間違い。春日の郷里は勿論二本松市ではなく、福島県会津西部の中心地 会津坂下町=あいづばんげまち=である。

会津坂下は日本海に注ぐ阿賀川の舟運と、越後街道の宿場として江戸時代から栄えた町。会津若松、喜多方、会津高田、柳津までいずれも3里(12キロ)という地の利が、会津西部の物資の主要な集散地として発展してきた。

大通りに残る老舗の家並みや、裏通りの路地、ひっそりとした寺町のたたずまいに、往時の町の姿を見てとることができる。町内には有名な立木観音や宇内の薬師堂などがあり、町はずれには坂下出身の歌手、春日八郎が歌った「別れの一本松」もある。

越後街道と沼田街道の分かれ道には、かつて心清水八幡宮の門前宿として栄えた気多宮の宿があった。現在も旧郵便局あたりの家並みに、越後と会津を従来した旅人の姿を彷彿とさせる街道の雰囲気が残っている。

若い頃の春日はなぜか出身地を会津若松市と公表していたがが、後に会津坂下町と訂正した。この町からは超有名な作曲家猪俣公章も出た。共に故人。

猪俣未亡人の住んでいた目黒のマンションに私の義姉夫婦が住んでいたが、義兄が2年前に逝去。未亡人となった義姉は近く別のところに引っ越す。

さて「別れの一本杉」は春日の美声で世に出たが、作曲船村徹の出世作であるよりも作詞の高野公男の詞が当時(1955年)の世相にマッチしていたと言われている。高度経済成長で若者が都会に怒涛の如く流入した反面、望郷の歌が望まれたのである。

一、
泣けた 泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘(こ)と別れた 哀しさに
山のかけすも 鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ
村はずれ


二、
遠い 遠い
想い出しても 遠い空
必ず東京へ ついたなら
便りおくれと 云った娘(ひと)
りんごのような 赤いほっぺたのよ
あの泪(なみだ)


三、
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ 呼んでみた
嫁にもゆかずに この俺の
帰りひたすら 待っている
あの娘(こ)はいくつ とうに二十(はたち)はよ
過ぎたろに

高野公男(たかのきみお)

昭和5年茨城県笠間市生まれ。本名・高野吉郎(きちろう)。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を中退して歌謡界に入り、ともに学んだ船村徹と「流し」や「新聞配達」など苦労しながら活動。

当初はビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたもののこれといったヒット曲もなく、鳴かず飛ばずの状態が続いたがもう後がないと思って船村と共に売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、春日の歌唱による『別れの一本杉』が大ヒットして一躍名の知られる作詞家となった。

その後コロムビア専属となっても、船村とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。高度経済成長時代の当時、田舎のにおいが感じられる公男の詞による曲は集団就職などで都会に出てきた若者たちの心をとらえた。

「あの娘が泣いてる波止場」(三橋美智也)、「早く帰ってコ」「男の友情」(青木光一)など船村徹とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。

しかし1955年、『別れの-』のヒットから間もなく公男は肺結核に侵され翌年9月8日、26歳の若さで帰らぬ人となった。

後に彼の生涯は松竹から『別れの一本杉』という題名で映画化された。
船村は未だに高野との友情を語る。2009・03・16

2009年03月15日

◆マシュマロ君、元気かね

渡部亮次郎

見出しにしたマシュマロとは丸いしふにゃふにゃした菓子である。精力の衰えた男性をからかう科白(せりふ)に使われる。話題にこれを持って来たのは、総理大臣が党内大物の権勢をやんわりと、しかし強く牽制するために、前夜の房事で君がマシュマロ状態だったのをオレは知ってるんだぜ、との意味を、肩を叩いて口に出した故事を持ち出して、情報収集の今昔を話そうというのである。

男性の精力。個人差は大きいというが、最も強いのは17歳ごろで、あとは次第に衰えるとの説がある。以後、若人は中年、壮年、老年と進んで死ぬわけだが、伴って生じる地位や権勢、所得がどこまで高く多くなっても、肉体の持つ精力が衰えてはなんとも味気ない、と嘆くのは大体、成功の人生を送った男である。それらと無縁の小生はとうに人畜無害である。

精神的な勢力の権化(ごんげ)こそは政治家だとは良く言われることだが、体験からするに政治家こそは肉体的にも精力の強い者でなければ勤まらない。

田中真紀子の父親の角栄氏が1970年前後、自民党幹事長を勤めた頃、国会で野党を抑えて採決を強行しようとする寸前、泣くような表情で「ちょっと、ちょっとにわとり、鶏」といいながら姿を消した。

記者たちはそれならばと現場指揮の国対委員長を探すと、こちらも秘書にも言わずに姿を消していた。野党も殺気だって来る。田中幹事長はにわとり,にわとりといって姿を消したがなんの意味か。考えて、なるほど、オレは鶏のようにあっという間に(房事を)終わって来るから行かしてくれ、目をつぶってくれと言う意味だったのだ。

敵を攻めに行くとなると戦国武将は俄然、性欲が昂然ときざしたものだと何かで読んだ事がある。幹事長と国対委員長は現代の戦(いくさ)を目前にして戦国武将になったのだ。第2次大戦の最後のところしか体験していない当方に戦国武将は理解できない。しかし幹事長らは間もなく戻って、国会は採決強行で大混乱。しかし幹事長らは既に涼しい顔だった。

政治家のそうした性(さが)を知ってそのウラをかき続けたのが佐藤栄作である。後に総理大臣となりさらにノーベル平和賞も受賞する佐藤だが、「人事の佐藤」と言われる前から「早耳の佐藤」と言われていた。

運輸省(今の国土交通省)事務次官からいきなり内閣官房長官に抜擢されて政界入りした佐藤は外交官上がりの宰相吉田茂に重用され続け、若くして自由党幹事長に達した。その時に危機が訪れる。

大汚職事件・造船疑獄の容疑者の一人に数えられ東京地検に逮捕寸前に追い込まれる。そこで吉田首相が伝家の宝刀を抜くが如く法相に指揮権を発動させて捜査をやめさせるよう命じ、佐藤を逃がした。佐藤はこれが無ければ後世、首相に昇ることは叶わなかっただろうと言われた。

佐藤はこの頃から政界の弱点こそはヘソの下に有りと感得。赤坂、新橋、柳橋といった花柳界における政治家の隠れた動静の掌握(つかむこと)に励むようになる。後年アメリカではニクソン大統領が上下両院議員の弱点掌握に努め、法案の通過に利用したと言われた。有名なウォーターゲート事件はその一環だったと言われたものだ。

ところで佐藤が目をつけたのは料亭の玄関に立っている下足番の男たちである。料亭では客は必ず靴を脱いで上がるが、その靴を下駄箱に座敷ごとに整理して置かないと帰りの時に混乱するから、予め女将から今夜のお客はどこの座敷はどなたとどなたと聞かされている。

どの座敷では如何なるメンバーが会っているかを手に取るように知っているわけだ。何時に来て何時ごろ帰ったか、上機嫌だったのは誰で、誰はどのように不機嫌だったとか。

佐藤はその手を何軒の料亭にも使っていた。秘書がメモを回収し、酒を飲めない佐藤は夜のうちに情報のいわば分析を済ませていた。マシュマロ君、どうかねの科白はこうして簡単に出てきたのである。

君は男としての能力は低下しているらしいね、困ったね、僕はそれを知っているよと言われれば、男は昨夜の秘密をこの男は何で知っているんだとの疑問を持つより先に恐れを抱くだろう。昔から朝何とかの立たない奴にカネは貸すなの喩えがある。マシュマロの旦夕(たんせき=政治生命)は長くないよ。

佐藤はそうやって党の内外を掌握して行った。ヒマさえあれば国会議員の経歴簿を見ている佐藤だった。

大なり小なり国会議員は自分が生きるも死ぬも情報を早く得る事にあるとは知っているから、どんな情報も知りたがる。しかし佐藤のように花柳界にまで特別な方法を尽くしてまで情報を集めた人物はほかに知らない。

翻ってマスコミの情報収集は、少なくとも永田町に関する限りは記者会見に限られるのが今日この頃である。いや、朝駆け夜回りもしているよといってもそれらもまたすべて群れてやるから、本当の情報は掌握していない。

政治家は情報を得たいからマスコミに会う。その時は一度に多数が良い。しかし情報を漏らすのは一対一でなければならない。漏らした情報がどこの誰によってどのように漏れて行ったかが判らなくては困るからである。

従って記者の取る情報は政治家と一対一の時に得たものでない限り信憑性に欠けるといわざるを得ないことになる。小泉首相が毎日マイクの前に来て喋る一言などは真実からは程遠い。自分の都合の良いことを短く切って言っているだけである。短い方がテレビ局のデスクには好都合だと知っているからである。

そうやって世の中を見直して見ると今更ながら気のつくことは幾らでもある。テレビは見ない方が自分を守ることである。また例えば授業で先生がしつこく喋る箇所は試験に必ず出る。

先生は得意のところだから、生徒、学生に覚えてほしいからである。このエッセイは例えばこの4行に眼目がある。これまではここまで解説するのは失礼かと慮って書かなかった。(文中敬称略)2003.10.05


2009年03月12日

◆小沢に代るべき人物なし

前田正晶+渡部亮次郎

西松建設問題が発生して以来の民主党と、麻生首相の迷走が顕著になって以降の自民党の様子を比較すると、非常に対照的で興味深いものがある。

アメリカの企業社会は権力者であり実力者である事業本部長、(屡々副社長)である、は全権を保有しその権力は絶大なものがある。すなわち、その人物に逆らうとか批判することなどは、いわば職を賭して行うものとなる。

イヤ、そのような暴挙は慎むべきことである。嘗てアメリカのW社日本法人の社長を最長期間務め、我々が成し遂げた実績の上に絶大な権力を誇ったアメリカ本社からの駐在員のやり方を私は「恐怖政治」と批判して憎まれた経験がある。

彼に抵抗することはかなり勇気が必要であったにも拘わらず、愚かにも敢えて反抗したからだ。

現在の民主党は11日の産経で「一致結束箱弁当」を想起させると皮肉られていた。同感である。真っ向から小澤退任せよとの声が上がらず表面上は一致団結であるようだ。

鳩山幹事長の談話などは涙ぐましいものがある。あれが「民主」を標榜する政党かと言いたくなる。

一方の自民党はどうだろう。党の有力幹部は言うに及ばず、閣僚までも普通に麻生批判を打ち上げているではないか。こちらでは「自由」と「民主」ともに健在であるようだ、良い悪いは別にして。

私は民主党があの有様では、往年の我が日本法人の恐怖政治を想起せずにはいられない。いい歳をした政治家(だろうが)が集まって表面的には何も言えないようでは、仮令語る足る次期首相候補の姿が見えなくとも、自民党の方が大いにマシかなと思わざるを得ないのだ。それでも小澤代表は政権奪取のために辞任はしないとの声明を出した。矛盾している。(前田正晶)

渡部亮次郎より:前田様誤解しています。即戦力のある政治家がこの民主党にいないだけです。恐怖政治ではなく、発言できる人物がいないだけです。貫禄が無くて。

渡部亮次郎様 有り難う御座いました。そう伺えば、係長や課長級かと思わせる綺麗に纏まった人物はいますが、部長や辺りを睥睨する取締役級がいないようです。(前田正晶)


前田様 誤解を恐れずに言えば、日本の政界から戦争体験者の消えた事が日本の政治を漂流させている原因だと思う。あの大東亜戦争(アメリカは太平洋戦争と呼ぶよう命令したが)の勃発と敗戦の中で、国体護持に切歯扼腕した日本人。

銃弾にさらされ、砲弾、爆弾を逃れるために削った生命の恐怖。そのなかで思いを致した国家、国民の防護。こうした中で日本人は喜怒哀楽を味わい、何時の間にか胆力を養った。それが貫禄となり、その中の優れたものが政治家となって国を支えてきた。

戦争の惨禍と悲哀を知る総理大臣の最後は竹下登に指名された宇野宗佑であった。神戸高商出身の宇野は小指騒動であえなく舞台を去ったが、元を正せば、シベリア抑留の体験を持ち、胆力のある立派な政治家だった。

それ以後この国を治めようとした総理大臣は戦争とか戦場を体験していない。学力は有しても政治家として最も必要な次代の見通す識見や胆力に欠ける。

安倍、福田、麻生にいたっては3代目が顔を出し、酷いもので、日本語の読み書き不十分という凄い輩さえ出てきた。戦後政治が極まった訳である。

翻って民主党。政界はぐれ鴉の集団。党内に睨みの効く親分資格のある者は小沢一人しかいない。秘蔵ツ子だったかどうかは別として、自民党暗史を彩った角栄門下であり、筋も信念も無かった金丸の門弟である。

しかも秘蔵してもらったという角栄を裏切って竹下に走り、次には金丸をも守れなくなって自民党を裏切って飛び出していった。そんな男でしかないが、その男の下に集まってみたらやっと政権獲得の目が出てきたというのだから、民主党とは初めから情けない政党に過ぎない。

小沢は角栄であり、金丸なのである。民主党は角栄、金丸の下に集まってやっと一人前になりかけた。その途端、角栄バブルははじけた。たった一つの小沢風船がはじけた。代るべき風船は元々ありはしないのだから、「小沢やめろ」という声の出るわけが無い。

残った菅はただの野次り屋、鳩山ただの金持ち、喧嘩できない。松下政経塾も政治学は教えたかもしれないが、政治とは学問ではない。経験に過ぎない。衆議院議員当選3回ぐらいは何の足しにもならないただの経歴。

アメリカといわず日本といわず、会社と政党は訳が違うから比較するのは無理だが、日本の政党にはアメリカの会社の副社クラスもいないことが暴露された。麻生不人気政権と小沢バブルの実態である。
(文中敬称略)2009・03・11



2009年03月11日

◆医学は科学ではない

渡部亮次郎

「医学は科学ではない」と喝破しているのは元医者の作家渡辺淳一氏である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)でそう主張している。

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の固体差を無視して検査データだけを見て。Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

「例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で津kられて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか固体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。固体差があるからである。。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている医者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは患者の立場から見ると「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8





2009年03月09日

◆毛沢東は板に寝た

渡部亮次郎

「中国がひた隠す毛沢東の真実」は何度読んでも面白い。初版2005年10月7日、著者 北海閑人 訳者 廖健龍 刊行「草思社」
著者の身元は完全に遮蔽されている。ばれたら当然粛清されるからである。毛沢東の化けの皮を剥げるだけ剥いだ。

訳者あとがきに依れば香港の雑誌「争鳴」に1996年ごろから北海閑人の名で発表されるようになった毛批判文集で、筆者は「江戸っ子にも似た、気風のいい生粋の北京っ子のようだ。北方語、北京語や古来の熟語を好んで使うところから。年配の知識人である。

この書の最終章は「毛夫妻の私生活―飢饉のさなかに、数多の別荘」である。中でも夜中に起きて、昼間寝る生活だったため、周囲がいかに苦しんだかを読むと他人事ながら笑いたくても笑えない。

1972年9月政権に就いて間もない田中角栄首相は、中国との国交正常化をなすため、われわれ80人の同行記者団を引き連れて北京空港に降り立った。

しかし、肝腎の田中・毛沢東会談が行われるのか行なわれないのか一切の説明がなかった。それがある朝起きたら「今日未明に行なわれた」との発表。既に終わったのだからTVの取材は不能。NHK記者の私としては面子丸つぶれ。

聞けば毛が昼間眠って真夜中に仕事をするという習慣は革命当時に身につけたもの。1949年3月23日、党の中央機関を率いて北京に入城したとき56歳。劉少奇、朱徳、周恩来らは生活を昼型に戻したが、毛だけはそうしなかった。

そうだから中南海にある機関の人員は誰もが昼夜転倒した毛の執務習慣に従うしかなかった。田中角栄も若い頃から早起きでは有名だったが、寝るのは夜だった。毛に引見できたのは確か午前1時ごろだった。

毛はしばしば突発的に何かを思いついた。それが夜の11時、12時だろうが、早朝3時、4時だろうが相手を呼び出した。劉少奇、朱徳、周恩来、陳雲、トウ小平を含めて、呼び出された者は、たった今、睡眠薬を飲んで横になったところであっても、秘書に寝台から揺り起こされ、直ちに毛主席に会いに行かされるのだった。

劉少奇は1959年、廬山会議の間、真夜中の2時に毛に呼ばれたことがあった。彼は睡眠薬で熟睡中だったので、2人の衛士に担がれ、車に押し込まれて、毛のところに運ばれると、濃いお茶を飲み、煙草を吸ってやっと目を覚ました。

毛は北京入城後、最高指導者になると、嘗て無い政治権力を持つようになって常に「全党推戴」「全民熱愛」の類の称揚と栄誉に囲まれ、それが身体に染込んで精神のバランスを失った結果、感情の起伏が激しく、些細な得失に拘泥する疑心暗鬼の精神病患者になった。

毛は両性愛者だったと言う人も居る。若い衛士や看護婦は1度は彼のセックスの相手をさせられた。

毛に十分に睡眠をとってもらうため中南海で雀退治が行なわれた。幹部職員には1日何羽というノルマが課せられた。それでも北京市内の雀が入ってくるので市内全部の小中学校の児童・生徒に雀捕りの号令が掛けられた。或る幹部は孟浩然の詩を読み替えて詠んだ。

「春眠暁を覚えず いたるところ 雀啼く 日夜パチンコの声
死雀幾羽か知らん」

毛は板のベッドでしか眠れなかった。北京入城後の仮住まいのベッッドはシモンズだった。「おれは木の板になれているのだ」彼のベッドは遠い河北省に置いてきてしまった。仕方なし深夜にも拘らず大工を集めて木の板のベッドが作られた。

1949年12月下旬、毛沢東は初めて当時のソ連を訪問し、モスクワの迎賓館に泊まった彼は専用列車に料理人から厨房道具、野菜、果物、調味料を持ち込んだが、モスクワの冬は寒く、ソ連側は魚は冷凍魚しか提供できなかった。それを知った毛は怒った。「死んだ魚など捨てろ」。江青の影響で活魚料理が好きになっていた。

別の説では、以前、密かに隠れ家を訪ねてきたソ連のミコヤンが食事の時、通訳に「この魚は新鮮か」と尋ねたことを覚えていて、そのお返しをしたのだと言う。

毛は木や竹の箸しか使わなかった、或る席を設けたとき、中央弁公庁主任の楊尚昆が高価な食器に合わせて象牙の箸を用意したところ怒鳴って立ち去ってしまった。

専用列車側近が木の箸ヲ積む野を忘れた時も象牙の箸は使わず、ボイラー室で見つけた不ぞろいの竹ハシを洗って使った。2009・3・7

◆本稿掲載の全国版メルマガ「頂門の一針」1467号 平成21年3月8日
(本号目次)
・<小沢代表>「辞めるべきだ」57%:毎日新聞
・乗っ取り型リーダー小沢:岩見隆夫
・小沢一郎が壊すもの:平井修一
・大詰めの西松建設献金事件:古澤 襄
・「落日の小沢王国」?:古澤 襄
・日本から吸いとれ:山堂コラム 256
・毛沢東は板に寝た:渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年03月08日

◆朴正煕政治の再評価

渡部 亮次郎

朴正煕(パク・チョンヒ)大韓民国第5〜9代大統領 任期:1963年10月15日―1979年10月26日。会ったことは無いが、韓国を今日有らしめた最高の貢献者と評価している。

後に私が秘書官として仕えた園田直氏は公害病初認定後の不遇時代、河野一郎派時代から親しかった右翼の児玉誉士夫氏に誘われて朴大統領と会談したことがある。帰国して語っていた。「オレの目前で衛兵に自らビンタを食らわすんだよ、驚いたね」とやゝ軽蔑して明かした。

青瓦台の地下を案内した時、トイレの戸が開け放しになっていた。怪しからんとばかり大統領がいきなり衛兵を殴ったと言うのだ。

「軍隊時代、ワシは部下にビンタを食らわした事が無かったので驚いた。ありゃ、心底、日本軍人だね」。

2009年現在の大韓民国では政治的な事情もあり評価は各人の立場においてまちまちではあるが、一般論としては、政治面では目的の為には不当な手段も厭わないものの、私人としては清廉であると評価されつつある。

朴正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日―1979年10月26日)は、大韓民国の軍人・政治家。クーデターで政権を奪取して第5〜9代大統領を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。号は「中樹」(チュンス)。

日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお)(-1945年)。日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになり、漢字表記のままで「パク・チョンヒ」と韓国語読みされるのが一般的である。ハンナラ党前代表の朴槿恵は長女。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判され続けていた。

その後、民主化の達成感によって朴批判運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。

特に政敵であった金大中が、大統領選の際、保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。

独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であった。ネポティズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるといわれる。

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因となった。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。

経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委員会の名簿に記載された。

2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。

朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝国の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは歴史家によって意見がまちまちである。

日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。

また、ベトナム戦争への参戦については、派遣された韓国軍部隊が現地でベトコンと見なした一般市民を女性や子供も含めて大量虐殺する事件やベトナムの女性を強姦する事件、その他数々の野獣のような蛮行を起こしたことなどベトナム人の視点からすれば朴大統領はまぎれもない「侵略者の一員」であると指摘されている。

1999年にはアメリカの雑誌『TIME』で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。

酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたと言われている。

陸英修夫人とは、仲の睦まじさを演出したが、家庭内では夫人が「青瓦台(大統領官邸)の中の野党」の役割を果たし、政治的な助言も惜しまなかった為、時々「陸‐朴戦」(韓国語では「肉薄戦」と発音が同じ)、つまり夫婦喧嘩があったという。

終生、夫人に対してはただの妻以上に尊敬し続け、もし夫人が生きていたら、政権の末期もかなり違っていたかも知れないとよく言われる。

無名の若者たちが国の近代化を推し進めた明治維新を「明治維新の志士を見習いたい」と称賛していた。特に、中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬していた。

西郷が語った「子孫のために美田を残さず」という言葉を好んで使っていた事から、前述の浦項製鉄所や石油化学工場の建設の推進など、経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本の影響を色濃く受けていた事が伺える。

日本の英文学家・劇作家で保守思想家としても評価の高い福田恆存と親交を結んだ。福田は朴の暗殺を聞き追悼文「孤獨の人、朴正煕」を書いている。その中で福田は、朴と昼食を共にした時を回想し、以下のように書いている。

「故人に對して、そしてまた一國の元首に對して、頗る禮を缺いた話だが、私は敢へて書く、正直、私はその粗食に驚いた、オムレツは中まで硬く、表面がまだらに焦げてゐる。

もし日本のホテルだつたら、「これがオムレツか」と私は文句を言つたであらう。が、それを平氣で口にしてゐる青瓦臺の「獨裁者」をまじまじと眺め(後略)」

他の大統領と同様に、よく教会に通っていた。 自身の政治家としての潔白さを証明するため、親戚のソウルへの立ち入りを禁じていたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・08・31



2009年03月06日

◆襲来!糖尿病との闘い

渡部 亮次郎

世界保健機関(WHO)によると、2006年の時点で世界には少なくとも1億7100万人の糖尿病患者がいたという。患者数は急増し続けており、2030年までにこの数は倍増すると推定されている(「ウィキペディア」)。

患者は先進国ほど(2型=中年発症型)の)患者数が多い。もっとも増加率の高い地域はアジアとアフリカになるとみられており、2030年までに患者数が最多になると考えられている。

発展途上国の糖尿病は、都市化とライフスタイルの変化にともなって増加する傾向があり、食生活の「西欧化」と関連している可能性がある。

このことから糖尿病には(食事など)環境の変化が大きくかかわってくると考えられているが、詳しいメカニズムはまだわかっていない。

先進国において、糖尿病は 十大(あるいは五大)疾病となっており、他の国でもその影響は増加しつつある。2005年には、米国だけでおよそ2080万人の糖尿病患者がいた。全米糖尿病協会(American DiabetesAssociation)によると、その上に620万人の人々がまだ診断を受けておらず、糖尿病予備軍は4100万人に達する。

日本国内の患者数は、この40年間で約3万人から700万人程度にまで膨れ上がってきており、境界型糖尿病(糖尿病予備軍)を含めると2000万人に及ぶとも言われる。

クルマ社会になって歩かなくなった。せめて1日1万歩というが、成人男性平均7575歩、女性6821歩である。食べ物はいつでもどこの国からでも手に入るような「飽食の時代」になって、男性の24・3%、女性の25・2%が「肥満」だ。戦中、戦後の生活苦の時代には患者「0」だった。名前すら聞いたことが無かった。

健康診断で糖尿病の「け」があるといわれて、それではと本格的に対策に取り組む人は男性で74・2%,女性75・0%。残りはある日突然、発症して「後の祭り」となる。

知り合いの50代の主婦は、「恥かしい」と隠したまま、何の手も打たなかったため、腎臓がすっかり駄目になり、突然、1日置きの人工透析通いになって間もなく死んでしまった。早くに医者に診せ、インスリン注射をしていれば、普通の人と全く同じにすごせるのに。

田中角栄は扇子を冬でもバタバタやる暑がりだった。「これはバセドーでね、心身機能亢進症でね」といい、世間もそう思っていたが、実は退陣後、脳梗塞になってみればそれは糖尿病が主たる原因だった、とばれた。

大平正芳は首相在任中、福田赳夫の仕掛けた造反で強烈なストレスに見舞われ、結果、心筋梗塞で急死した。大変な甘党で糖尿病だった。御巫(みかなぎ)という主治医の兄弟が外交官で「大平さんは患者としては最低だとこぼしている」と聞いていた。

診療に来ない、食事制限を守らない。糖尿病を放置すると、クルマのガソリンに砂糖を混ぜたのと同じ現象が体内に起こり、血管という血管が内部から腐るように弱くなる。

内部で崩れたゴミ(血栓)が頭に行けば脳梗塞、心臓に行けば心筋梗塞となる。先ほどの女性の腎臓は死んだようになり、機能しなくなったのだ。尿を造れないから血液を人工的に濾過するしかないわけだ。半日がかりを1日置き。

昔、日本経済新聞の政治部長から代議士になり幹事長にもなった傑物に田中六助という人が居た。ある日、衆議院本会議場での代表質問に登壇したのはいいが、原稿の文字が10センチ角の大きさだったので、満場静まりかえった。

彼は糖尿病を放置したために目の奥の眼底に出血を起こし、視力を失いかけていたのである。出血すれば、カメラで言えばフィルムに相当する網膜が血に遮られるから良く見えなくなる。外見上は他人には分からない。田中六助は間もなくして死んだ。

伊東正義。大平内閣の官房長官だった。大平が急死したとき総理大臣臨時代理を務めた。当然後継総理に指名されると思ったろうが、政局の主導権を握る角栄が指名したのは鈴木善幸。外人記者たちが「ゼンコウ Who?」といった話は有名だ。

鈴木は同じ大平派ながらいけ好かない宮沢喜一を官房長官、伊東を外務大臣にしてスタートしたが、翌年5月の訪米でミソをつけた。共同声明に朝日新聞が「軍事同盟を約束して来た」と噛み付いた。

ところが総理は「レーガン大統領とはそんな話はしていない」と外務省事務方を非難。「ゼンコウ如きに総理が勤まってたまるかい」とかねて鈴木をバカにしていた伊東はさっさと辞職。

それから何年かして竹下登総理がリクルート事件への関与が明らかになって辞任したとき、伊東に今度こそお鉢が回った。ところが「健康に自信がない」と断わった。何を隠そう、伊東は若いときから大糖尿病であり、心臓に合併症を患っていたのを隠しとおしてきたのだった。

伊東が外相を辞めたとき、後任に指名されたのは厚生大臣をしていた園田直(すなお)で、秘書官が私だった。実は園田も糖尿病を30代から患っておりながら秘匿していた。既にインスリン注射をし続けなければならないのに注射が大の苦手だったのだ。

わが国最古の糖尿病患者で記録に残っている人物は平安時代の貴族藤原道長(966〜1028である。「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることの無しと思へば」と詠んだあの人で、喉の渇きが酷く多量の水を飲んだと記録されていることから記録上第1号にされた。それでも当時としては驚異的長命、62歳まで生きた。食事を制限したのかも知れない。

インスリンが発見されるまで洋の東西を問わず糖尿病で死ぬ人は絶えなかった。喉が渇き、痩せて死んだ。それを阻んだのがインスリンだが、カナダで発見されてまだ85年しか経っていない。

29歳の田舎外科医バンティングと22歳の優秀な学生ベストによって発見された。これで人類は救われた。しかも純度は高くなり、今では即効性に優れたもの、長く効き目が長く持続するものなど開発された。

問題は糖尿病は痛くも痒くも無いものだから、気付かない。気付いても治療を怠り、結果、急に死を招く人が多いということだ。

我々が食べて有用なものは全てが糖になる。それに膵臓のランゲルハンス島という部位から分泌するインスリンという酵素が加わって血となり肉となる。だが遺伝や不摂生で、インスリンが十分に出なくなる人が居る。すると消費されない糖分は尿に混じって排出される。糖尿病といわれる所以だ。

子供の時からなるのは1型でインスリンが全く分泌しないから、インスリンを子供の時から注射する以外にない。中年になってかかるのは2型。遺伝、肥満、運動不足、暴飲暴食から発症する。

発症してしまうと今の医学では絶対治らない。初めのうちは薬を飲んで膵臓を激励する。やがて膵臓もギブアップして注射と言うことになる。

前後するが、インスリンは胃酸で無効になるから服用(丸薬など)では駄目で、今のところは注射が一番。アメリカで最近、鼻から吸入する研究が完成したとのニュースがあったが、まだ日本には普及してない。

インスリンが発見されてからと言うもの、人類は糖尿病そのものでは殆ど死ななくなった。しかし甘すぎる血のまま(治療を怠る)でいると腎臓が機能を失ったり(腎不全)、心臓の筋肉が腐ったり(心筋梗塞)、脳への血管を塞がれたり(脳梗塞)、失明したりという「合併症」で死ぬことが猛烈増えてきているわけだ。

足の先へ血が通わなくなれば壊疽を起こし足を切断しなければならなくなる。歌手の村田英雄だそうだった。あらゆる癌にも普通の人の何倍もかかりやすい。

ただ、何度も言うように糖尿病そのものは痛くも痒くも無いために、分かったときは既に手遅れと言う例が増えているわけだ。なんとも厄介な病気なのだ。知らないで居ると平均寿命よりは10年早く死ぬ、とされている。

私が秘書官として仕えた園田直外務大臣は、そのあと2度目の厚生大臣をやったとき、患者団体の永年の念願だったインスリンの「自己注射」をたちどころに許可して患者たちを喜ばせた。

役人や医者たちは「器具が無いから危険」として許可して来なかったのだ。だけど園田大臣は「許可すればメーカーはすぐ便利な器具を作るよ」と許可した。1985年ごろから、予想通りペン型注入器がすぐ出来、使い捨ての針は今や0・20mmが登場した。殆ど痛くなくなった。日本が世界一を造った。

しかし園田直はどうしても注射が嫌いと医者から逃げ回り、3度目の外務大臣を辞めてすぐ人工透析。それも厭がったものだから失明の上、腎不全で、「わずか」70で死んでしまった。4月2日が命日である。1984年のことだった。
(文中敬称略)


参考:普通の人がインスリン注射をすると、量が多ければ死ぬ。途中で救助されても植物人間になる。それを実証する事件が千葉県で起きた。夕刊フジ2006年3月14日付から

<鬼嫁 夫「殺されるかも」「妻が家の金を使う」とも インスリン事件1カ月前に周囲に漏らす

千葉県光町の農業、鈴木茂さん(54)が鬼嫁に糖尿病治療用のインスリンを大量に投与されて意識不明に陥った事件で、鈴木さんが「殺されるかも」「もし自分が死ぬようなことがあれば解剖してほしい」などと周囲に話していたことが13日、分かった。

千葉県警捜査1課では、鈴木さんが殺人未遂容疑で再逮捕された中国出身の妻、詩織容疑者(33)の計画的な犯行を裏付ける証言とみている。

これまでの調べによると、詩織容疑者は平成16年4月、共犯として再逮捕された女(41)=別の詐欺罪で起訴=からもらったインスリンを、糖尿病ではない鈴木さんに自宅で大量に注射し、殺害しようとした疑い。

鈴木さんは低血糖による脳障害で現在も意識不明の重体が続いている。 鈴木さんは15年10月、自宅で鍋に入れた熱湯を背中などにかけられ、一時重体に陥った。

関係者によると、鈴木さんはこのころから何者かに狙われていると知人に訴えており、インスリン事件の約1カ月前の16年3月ごろに開かれた地元の会合では、「殺されるかも」と周囲に話していたという。また、「妻が家の金を使ってしまう」などとも漏らしていた。

鈴木さんには詩織容疑者を受取人とする千数百万円の生命保険がかけられているが、不審な点が多いことから保険金は支払われていない。> ZAKZAK 2006/03/13  2009・02・27

2009年03月05日

◆「国策捜査」ってなんだ

渡部亮次郎

<小沢氏、続投表明 民主党緊急役員会
民主党は4日午前、小沢一郎代表の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕されたことを受け、緊急役員会を開き、小沢代表が経緯を説明した。出席者によると、小沢氏は「この時期になってこんなことになって申し訳ない。しかし、政治資金規正法にのっとって適切に処理している」と述べ、代表職を辞任しない意向を示した。

この後、小沢氏は緊急役員会終了後、記者会見し、事実関係や役員会の結論について説明。小沢氏は、秘書の逮捕容疑となった西松建設OBが代表を務めていた政治団体からの献金に関し「適切に処理している」と違法性を一貫して否定。同氏や鳩山由紀夫幹事長らによる3日の幹部会では、党として献金の正当性を訴えていくことを確認した。

事件が野党第一党党首の秘書逮捕という異例の展開となったことに対し、民主党内では「国策捜査」と政府・与党に反発する声が上がっている。執行部には、小沢氏の進退問題に発展する事態は避けたいとする空気が強い>。 3月4日9時53分配信 産経新聞

「国策捜査」と言う言葉は「鈴木宗男事件」の際、東京地検に逮捕された外務省元主任分析官・佐藤優の著書『国家の罠』で主張されたもの。

ここから、政府の政治的意図によって行われたものだと関係当事者等が主張する刑事事件の捜査のこと。

佐藤優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』 新潮社(原著2005-03-26)。ISBN 9784104752010。この書の文庫版P365-367によれば、佐藤氏の取調べに当った西村検事は、逮捕後3日目の時点で「本件は国策捜査だ」と明言、「我々と闘っても無駄だ」と言う事を理解させようとした。

西村検事の弁。「これは国策捜査なんだから、あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、なにか象徴的な事件を作り出してそれを断罪するのです」

「見事僕はそれに当ってしまったわけだ」

「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」

「しかし、僕が悪運を引き寄せた面もある。今まで、普通に行なわれてきた,否、それよりも評価されてきた価値が、ある時点から逆転するわけか」

「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下ってくるんだ」

「僕からすると、事後法で裁かれている感じがする」

「しかし、法律は元々ある。その適用基準が変わって来るんだ。特に政治家に対する国策捜査は、近年驚くほど下ってきているんだ。

一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下っていくんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳しくなっている。時代の変化としか言えない」

「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショウと週刊誌の論調で事件が出来ていくことになるよ」

「そういうことなのだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」

以上のような方針が東京地検の時代認識ならば小沢氏の判断は甘かったと言うべきだろう。

東京地方検察庁特別捜査部は特定のマスコミにリークしながら、大きく注目を集める人物を小さい犯罪でも逮捕することにより世論、ひいては国家全体を「彼等自身が考える、あるべき姿に直す」という目的で捜査しているとされる。

最近では特捜部の捜査手法が社会秩序の安定を目的に、一罰百戒を狙った逮捕に重きを置くものになっているという指摘もごく一部でなされる。

私が参考人として東京地検特捜部で事情聴取を受けた昨年の防衛省不正事件も目論見は国策捜査に見えたが、結局は見込み違い。単なる個人の脱税事件で終わった。

今回の小沢事件は完全な国策捜査だが、検察は確実な証拠を握って居るはずで、小沢氏の見込みは甘い。

関係当事者により国策捜査だと主張される例としては他に以下のようなものがある。

造船疑獄の指揮権発動

三井環逮捕事件

ライブドア事件における堀江貴文逮捕

日歯連闇献金事件における村岡兼造起訴

構造計算書偽造問題

いわゆるムネオハウス事件における鈴木宗男逮捕
佐藤優起訴

石橋産業手形詐欺事件における田中森一起訴

植草一秀逮捕(りそな銀行国有化の裏側を研究していた)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09・03・04




2009年03月01日

◆野鳥捕りで捕まった大臣

渡部亮次郎

九州育ちの人は野鳥を捕まえるのがおしなべて好きなのか、熊本県ながら天草島で生まれ育った故園田直(そのだ すなお)氏は、秘書官の私に隠れて東京・多摩地方の山でメジロ捕りの罠を仕掛けて自然保護員に捕まったことがある。

藪の中から引きずり出してみると、これがなんと知らぬ者なき現職の外務大臣閣下。捕まえた方がびっくりしたらしい。ワナは仕掛けていたが幸か不幸か1羽も捕まえていなかったので、何とか放免されたらしい。

というのは、ご本人、存命中は私には絶対語らなかったからである。
当日(日曜日)の警護の当った警視庁警護課派遣の警護官2人が、その日のうちにこっそり、教えてくれたのである。

とにかく、野鳥を飼うのが好きで、目黒の借家には常に何かしらの野鳥が縁側の籠に入れられていた。だがその世話は書生任せ。そのくせ日曜日に、秘書官に隠れてメジロ捕りに行くとは。なんとも子供じみて思い出しても噴出しそうになる。

仕掛けやワナをどこでどう細工したのか知らないが、多摩の山中で2人の警護官に警護されて息を潜めていた。そこを自然監視員に補導されてしまった。笑い序に「キミたちは大臣を警護していたはずがメジロに気を抜かれていたのかね」といって笑った。

そういう大臣だったから、とうとうフランスから山にいる亀を持ち帰ったこともあった。当時、OECDの大使をしていた人が有名な亀博士。2人で亀談義に花を咲かせ、遂に1匹を貰ってしまったのである。

後日亀が届けられ、縁側でキャベツを齧っていた。

そんな大臣も糖尿病からくる腎臓の悪化で70歳で死んでしまった。

死ぬ直前には網膜症で全盲になっていた。エープリル・フールの翌日「4月2日」が命日である。なおメジロ捕り大臣を警護した警護官の1人は先年、自ら命を絶った。2009・02・28




2009年02月27日

◆鞭屍を恐れた毛沢東

渡部亮次郎 (全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

「中国がひた隠す毛沢東の真実」について書評を書く心算だったが、その残酷さに何回も反吐が出そうになった。あまりにも友人、同郷者を中心にした若い頃からの支持者を粛清した物語の連続。とても血の通った人間とは思えない。

この本の原著者「北海閑人」勿論仮名。北京に住む中国人男性とみられる。相当のインテリである事は間違いないが、当局の拘束を恐れて経歴は一時教授をしたか、政府の職員をしたらしいぐらいしかわからない。

1976年は毛沢東が死亡した年だが、翌77年に香港で雑誌「争鳴」ガ創刊された。密かに民主化、自由化を望む党幹部の支持があってのオピニオン雑誌ながら、当局の弾圧を逃れて刊行がつづいている。

この「争鳴」の2001年4月号から痛烈な毛沢東批判文が掲載されるようになった。そのうちの2004年2月号までを14章に分けて翻訳したのが本書「中国がひた隠す毛沢東の真実」である。発行は草思社(電話 (営業) :03-3470-6565 書籍番号ISBN 4-7942-1443-X。

非正常死亡者。正常ならざる死亡者とは餓死させれたり治療と偽って殺された人を呼ぶ中国語。毛沢東が生涯に犯した罪による非正常死亡の中国人は統計がないから誰も判らないがおそらく1億や2億人には達するだろう。

文化大革命(文革)中には突出した事例が出現した。元国家主席劉少奇はそれまでの住まいを牢獄に改変され、3年近い日々を24時間監視されあらゆる凌辱を受けた。脚を折られ、肋骨を折られた。

3日に1度の食事を、犬のように地面に伏して舐めて食べざるを得なかった。看守たちは洗面、風呂、調髪をさせず四肢を床柱に縛り付けた。国家主席劉少奇は死ぬ時、頭髪も髭もぼうぼうだった。

これに対して毛は拘束の指令しか与えていない。具体的な事は指令していないと逃げた。自分より人民に人気のあった劉をそれほど憎かった。だからこそ文革まで起こして劉を逮捕したのである。

文革前夜に失脚に追い込まれた初代公安部長羅瑞卿は牢獄内の虐待に耐えられず飛び降り自殺を図ったが右足の踵の骨折だけで済んだ。しかも治療不十分だったため傷口が化膿。医師は2度目の手術をしたが、無傷の左足をも切断、義足を付けさせなかった。その2日後、羅は竹かごにおしこまれ、20万人批判闘争大会に引っ張り出された。

羅はそれでもしぶとく生き抜き1978年に当時の西ドイツで3度目の手術を受けたが急死した。毛より2年長生きしたわけだが本心,羅は失脚前に死にたかったろう。

1967年、賀龍元帥は隔離審査中、空腹でたまらず、反省調書を噛み砕いて紛らわした。医師団は糖尿病の彼に毒であるブドウ糖液を注射し、結果、欲しがる水を日にコップ2杯しか与えずに殺した。噛んだ紙くずは消化せずハラは鉄のように硬くなっていた。

彭徳懐元帥は文革中、紅衛兵に痛めつけられた末直腸がんを患ったが、医者は痛み止めの注射を拒んだ。最期の日、一目、空を見せてくれと頼んだが断られて死んだ。

かくて中華人民共和国主席・劉少奇と三軍元帥・彭徳懐の2人は死ぬまで迫害され、骨壷の姓名を変えられ、職業も「無職遊民」とされてしまった。

毛沢東が侵攻してきた日本軍のお陰で蒋介石を倒し、共産主義政府を樹立できたと親日媚日論を展開していた事は知る人も多い話だが、中国ではこの件りは今も公開文献からは削除されている。日本軍と戦ったのは共産党だとうそを教えているからである。

終いにエピソード。中国人は朝代が代るたびに前朝代の皇陵を壊すのが習いだった。鞭屍(べんし)といった。それを毛沢東は自らの重臣や党幹部の祖墓壊しを紅衛兵に許したために中国全土でそうした墓が無くなってしまった。


だが、毛自身も死後「鞭屍」に遭う事を恐れるようになり、死ぬ間際には「火葬」を遺言していた。しかし火葬にはならず「死んで生き恥」を天安門にさらしている。2009・02・26

■渡部亮次郎主宰の「頂門の一針」1457号
平成21(2009)年2月27日(金)
<同上号の目次>

・鞭屍を恐れた毛沢東:渡部亮次郎
・行革?利権の移譲よ:山堂コラム 255
・米国並み新聞の危機近し:前田正晶
・胡錦涛、糖尿病悪化説:宮崎正弘
・「おくりびと」に思う:馬場伯明

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年02月22日

◆嘆きのわがペイン・クリニック

            渡部亮次郎
      
 (「頂門の一針」が復刊しました。同誌目次は下段に記載ー編集部)

長時間、椅子に坐れば次に歩行が困難になるという奇態?に陥ったためほぼ日刊化していたわがメイル・マガジン「頂門の一針」を一旦、休刊せざるを得なかった。読者各位のお励ましを沢山戴き、カイロプラクティックのお陰でなんとか復帰いたしました。

坐骨神経痛。机に覆いかぶさるようにして原稿を書いたり、パソコンを打ったりの姿勢を長時間続けているうちに、脊椎が盛り上がるように曲がり、坐骨神経をいたぶるようになった。1歩も歩けなくなってしまった。

そこで若い頃から信じているカイロプラクティック(渋谷カイロプラクティック院 電話:03-3463-4803)で曲がった箇所を押し込んでもらう治療をしていただいた結果、何とか回復した。休刊中も読者は増え続けるし、あまり休むと忘れられるわよという家人の声にも押されて復刊いたしました。カイロプラクターはもう少し休めと反対しています。

病院でCTとレントゲン写真を撮影しました。酷く曲がった脊椎に唖然となりました。しかし、整形外科医は「直しようがありません」と口少なく鎮痛剤と湿布薬を処方しただけでした。

20代の終わりごろ、NHKの政治記者になって間もなく、右足のかかとに痛みを感じ、はじめて鍼の世話になったが遂に治らなかった。直後、書いたり、読んだりの姿勢をとると目の奥が痛むようになった。脳腫瘍を疑って病院にかよったが、「脳腫瘍でそれぐらい痛くなったら死んでいるよ」と笑われた。

日本大学駿河台病院のペイン・クリニックで判明した事は頚椎のズレだった。かかとの痛みは頚椎に発していたのだ。ハリで治らなかったわけだ。そのうちにギックリ腰を起こして、担ぎ込まれたところがNHK放送センター近くの渋谷カイロプラクティック院だった。

甲木(かつき)院長の説明と治療に納得、帰りはサッサと歩いて帰れた。頚椎のズレも治していただいた。世の中が明るくなったような気がした。

あれから既に40年。事あるごとに世話になってきたカイロプラクティック。アメリカと反対で、国は依然,医療として公認しないため、カイロプラクティックはわが国では継子扱いである。だが私にとっては最後に掴むワラである。

脊椎は背骨の筋肉で守られている。右利きの人は右の背筋が発達するから脊椎も右に湾曲しがちになる。体操をして戻さないと「右側湾症」となって坐骨神経を刺激したりする。加えて私のはパソコンのやりすぎで腰が猫背のような状態になってしまった。

ときどき、指を休めて背骨を伸ばす体操を怠ったからである。原稿を書き始めると煙草を吸う(禁煙後30年)のを忘れると言う、ありすぎる集中力の結果である。再び、そうならぬよう、休み休み止まらずに走ろう.酒瓶を亀に変えて。2009・02・21

◆メイル・マガジン「頂門の一針」 1455号(復刊号)
             平成21(2009)年2月22日(日)

<同号目次>
・ 嘆きのわがペイン・クリニック:渡部亮次郎
・「感情的反捕鯨論との闘い方」:櫻井よしこ
・サムライ・ニッポン:山堂コラム 254
・「政治家と酒」:花岡信昭 
・秘密口座ビジネスの終焉か:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年02月20日

◆湯豆腐も味噌も外国頼み

渡部 亮次郎

対米戦争の始まった翌年から国民学校(尋常小学校)に入ったが、間もなく道端に大豆を植えさせられた。同時に農家では農地に仮にも隙間があれば大豆を植えたから、毎日が大豆との付き合いだった。

戦争が始まって間もなくは満洲帝国から、今で言えば小型乗用車のタイヤ大の「豆滓(まめかす)」が農家には配給され,戦局激化に伴う食糧難の折には,ご飯に混ぜて食べた。大豆から油脂を搾り取ったあとの滓(かす)。下痢の元になった。

そうした時代になると豆腐屋の親父も戦場に狩り出された。仕方無しにお袋は水に一夜浸した大豆を擂鉢で摩り下ろし(呉=ご)て味噌汁に放った。「呉汁=ごじる」。結構美味かった。また食べたいが面倒だし、東京のマンションでは台所に乾燥大豆は無い。

中国、日本、朝鮮半島で古くから穀物として栽培されており、アメリカへは1800年代の初めに伝わったが、長いこと飼料として栽培され、主流作物ではなかった。

1920年代初め大豆加工業が発展したことによって、大豆栽培に弾みがつき、今日ではトウモロコシ、コムギについてアメリカの主要穀物となっている。

93年にアメリカは世界の生産量の約45%を占め、ブラジル、中国、アルゼンチン、インド、カナダなどが続いている。アメリカ国内では主に中西部とミシシッピ下流域で生産され、ダイズ生産量の40%以上が輸出されている。

日本はダイズ消費量の95%ぐらいを外国に頼っていて、大半はアメリカから輸入している。日本の国内では、北海道、秋田県、栃木県、茨城県、富山県などで生産される。納豆用、豆腐用、エダマメ用が主流である。エダマメは今度エンサイクロペディアに入った。

2004年における世界の10a(1反歩=300坪)当たり収量の平均は 223kgであり、日本の平均収量に比べ3割ほど高い。

主産国の単収は、アメリカ:286kg/10a、ブラジル:229kg/10a、パラグアイ:192kg/10a、中国:180kg/10a。

日本の大豆が諸外国に比べて低収であることの主な要因は、油糧用大豆中心のアメリカ・南米に対し、粒大やタンパク質含量等を重視する食品用大豆が中心であるためである。

ちなみに国産大豆と外国産大豆の成分を比較すると、国産大豆はタンパク質含量が多く、外国産大豆は脂質含量が多い。タンパク質含量は国産が35%、米国産が33%。脂質含量は国産が19%、米国産が22%。

わが国では高音多湿な気候の所為で「発酵」による納豆や味噌として食べ、ほか豆腐や枝豆など大豆を直接食べる方が重点となったから品種改良は蛋白質を多くすることに力点が置かれた。

これに対しアメリカでは油脂をしぼるだけが目的だったからこうなった。ダイズの良質な脂肪分は食用油に精製され、サラダオイル、ドレッシング、マーガリン、マヨネーズなどになる。また、ダイズ油は繊維、化学製品などにも使われる。

ただし日本占領軍として滞在した兵士たちが豆腐にダイエット価値を認めた結果、最近は「豆腐ステーキ」が普及している。いくら「長生きの素」とはやしても納豆からは逃げる。臭いらしい。私の友人で納豆を食べられるアメリカ人はたった1人しかいない。