2012年01月22日

◆「味の素」発明は104年前

渡部 亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは104年前だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまい。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から104年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。筆者の生まれた年だ。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして医薬品分野への進出に力を入れている。>
世界大百科事典  2008・07・27


2012年01月21日

◆糖尿病だった明治天皇

渡部 亮次郎


わが国を近代国家として確立した明治天皇は、脚気は克服したが糖尿病についてはまだインスリンも発明されていなかったため、医師団もなすすべをしらず、明治45(1912)年7月30日、尿毒症を併発し61歳(満59歳)で崩御した。

大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。

同年(大正元)年9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。

なお『聖徳記念絵画館』は、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地に建てられたものである。

皇后陛下にお子はなかった。5人の側室に大正天皇をはじめ13人のお子ができた。

明治天皇は明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。

一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達を自分が考えたあだ名で呼んでいたという。

若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。

当時「江戸患い」と呼ばれていたビタミンB1欠乏症(脚気)に皇后とともに罹られたが、英国留学帰りの海軍軍艦医総監になる高木兼寛の意見を容れて食事療法で全快した。

このため、高木は4度も陪食を賜ったが「脚気黴菌説」を譲らぬ陸軍医総監森 林太郎(森鴎外)は1度も招かれなかった。

明治天皇はまた今で言う2型糖尿病も患っておられた。しかし国内では糖尿病の研究がさっぱり進んでいないことを残念がり 1911(明治44)年2月11日、『勅語』によって、皇室よりの下付金150万円と朝野の寄付金を合わせて済生会が創設される。

天皇の意向により「恩賜」と「財団」は1行に書かずに、済生会よりも小さい文字で2行に組み文字にすることとなっている。

同年5月30日、「恩賜財團済生會」設立認可。

組織の運営は内務省が管理し、具体的な事業計画は地方自治体に委託す
る形式をとった。

1952年、社会福祉法人として認可。 現在は、厚生労働省が所轄している。

これでできたのが東京・港区赤羽橋にある済世会中央病院で、わが国糖尿病研究の中心施設である。

糖尿病の特効薬「インスリン」が発見されて一般化するのは1921(大正10)年。つまり明治天皇が糖尿病から来る腎不全による尿毒症で崩御してから10年後だった。

インスリンについては5人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger)。

1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)が、1977年にはロサリン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)がラジオイムノアッセイをインスリンで開発した事で、それぞれノーベル賞を受賞している。

1921(大正10)年にインスリンの分離に成功。1型糖尿病における薬物療法として、現在のところ唯一の治療法である。インスリンは蛋白質であるため、消化管内で速やかに分解されることから経口投与不可能である。そのため皮下注射によって投与するしかない。

ところで明治天皇は教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。

特に明治17(1884)年4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

その結果、明治19(1886)年6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。

奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を明治5年、自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。

明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。

一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。

無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14(1881)年の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になるあまり、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞であった)。

以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、重要刀剣の散逸が防がれることとなった。

写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。

ただ、最晩年の明治44(1911)年、福岡県下広川村において軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。

戊辰戦争で新政府と戦った東北地方を、強く憎んでいたといわれる。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主に就任した輪王寺宮(北白川宮能久親王)を、台湾へ送り込んだ。北白川宮には現地での暗殺説が存在する。

明治天皇の内親王(天皇の娘)の長男である小林隆利(キリスト教の牧師)は母から聞いた話として、明治天皇が、「私が天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語ったと述べている。再掲  2010・9・25

◆糖尿闘病体験と終末期

渡部 亮次郎


48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。75歳で今生きているのはインシュリン注射のお蔭。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ伯父、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症していた。

また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られて病院が済生会中央病院。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ東京高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから24年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて手術を受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。正常値が100の血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった。あれを放置されたら確実に死んでいたはず。

(その友人も糖尿病。全くほったらかしをしたため2010年、60を待たずに脳梗塞で死んだ。インシュリンを注射していれば死ななかったが、言うことを聴かなかった)。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。長嶋さんは3時間を過ぎていたため、これを使えず、後遺症が残った。


脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。再掲 2011・5・18

(明治天皇と糖尿病をYAHOOで検索した結果、この文章が出てきておどろいた)

2012年01月19日

◆メシに良く合うのが洋食

渡部 亮次郎


洋食(ようしょく)は狭義では日本で独自に発展した西洋風の料理を指す。岡田哲は『とんかつの誕生』で、「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食」という説を唱えた。

私は東京向島の洋食屋へ良く行くが、そういえばここでパンをちぎっている客は見たことが無い。「米飯と合うのが洋食」とは良く言ったものだ。

フランス料理にならワインだろうが、洋食には日本酒は勿論、焼酎も良く合う。

幕末から明治期にかけて来日した西洋人(おもにイギリス人)たちを相手に生まれた西洋料理店の料理が 「洋食」のルーツである。それらの店で下働きしていた日本人コックたちは、のちに独立開業し、日本全土にその料理を広めた。

この流れとは別に、日本海軍はイギリス海軍を手本にして早くから西洋式の食事を取り入れ、洋食の普及に大きな役割を果たした。

これらの西洋料理は、日本の伝統的な「和食」に対して、次第に「洋食」と呼ばれるようになった。

かつて日本では肉食を忌避する習慣があったため、肉料理を主体とする西洋料理は日本人には馴染みにくかった。

しかし、1872(明治5)年、明治天皇が「これまで肉食を忌避してきたのは謂われのないことである」という趣旨のことを言ったという報道などもあり、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まった。

当時の洋食黎明期の日本で、西洋料理の食材を揃えることは難しかったが、徐々に改善された。日本人の味覚に合わせるためのアレンジが加えられることもあり、日本生まれの洋食としては、ポークカツレツ、カキフライ、エビフライ、ポテトコロッケ、ハヤシライス、オムライス、ドリアなどが挙げられる。

「とんかつ」のように、ほとんど和食と化したような料理もある。またエスカロップ(北海道根室市)やトルコライス(長崎県)のように、郷土料理と呼ばれている料理もある。

マカロニグラタン、クリームコロッケ、コンソメスープ、ポタージュ(フランス料理)、ビーフシチュー(イギリス料理)、ピカタ(イタリア料理)などは、西洋の調理法をほぼそのまま踏襲している洋食である。

これらは第2次世界大戦前では非常に高価であったが、戦後になってGHQの指導により西洋食材の普及が進んだこともあって、急速に日本人の食生活に広まり、ポピュラーな洋食となった例である。

1863(文久3)年、日本初の西洋料理店「良林亭」が長崎で開業。店主兼料理長は草野丈吉、パトロンは明治を代表する実業家の渋沢栄一と五代才助。外国人や薩摩藩士に重用された。

1868(慶応4)年、「築地ホテル館」開業。レストラン初代料理長はフランス人コックのルイ・ベギュー。このレストランが日本で最初のフランス料理店とされる。

1872(明治5)年、西洋料理のレシピ集「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。

1876(明治9)年、日本人で初めて「フランス料理店」を名乗る上野精養軒が開業。後年、家人の父親がシェフを務めた。

1987(昭和62)年、和洋折衷料理という言葉が流行。東京の洋食店は1500店に膨らむ。

このうち、銀座の「煉瓦亭」は天ぷらのように大量の油で揚げるポークカツレツや、カキフライなどを考案し、のちの洋食に大きな影響を与えた。

1917(大正6)年、『コロッケー(コロッケの唄)』が流行。歌の内容は「ワイフを貰ってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケー、年がら年中コロッケー、アハハッハ、是りゃ可笑しい」。

新妻は、女学校で学んだ当時のハイカラな洋食であるコロッケを毎日張り切って作っていたのだが、亭主はうんざりしてしまったという内容である。

1924(大正13)年、東京神田に和・洋・中華のすべてを扱う大衆食堂「須田町食堂」が開店し、廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せるなどして人気となった。

このころ、お好み焼きのルーツである「一銭洋食」が駄菓子屋で人気となる。小麦粉を水で溶き、刻みネギなどを乗せて焼き、ウスターソースをかけて売られた。

1956(昭和31)年、アメリカ政府の「小麦戦略」により、日本で栄養改善運動と称して各地にキッチンカーが走り、洋食(および中華料理)が宣伝された。フライパン運動とも呼ばれ、4年余り続いた。

洋食でよく用いられる調味料のひとつであるウスターソースは、もともとイギリスの調味料であったが、大正時代に三ツ矢ソース、イカリソースなどのソースメーカーが関西に誕生して広まり、「新味醤油」「洋式醤油」などと呼ばれて様々な料理に用いられるようになった。記録によると阪神百貨店の大食堂では一人当たり160ccも使用したという。

ドミグラスソースやホワイトソース(ベシャメルソース)は、19世紀頃のフランス料理では主流のソースであったため、現在の洋食店でそれがよく用いられるのは、その当時の名残りと考えられる。

トマトケチャップが大衆化したのは第2次世界大戦後にアメリカ進駐軍が大量に日本に持ち込んでからである。

一般的に「洋食」は、西洋料理全般から西洋風の料理まで幅広く意味する言葉であり、「和食」に対する概念として用いられている。

しかし近年は、フランス料理は「フランス料理」、イタリア料理は「イタリア料理」というように、国名で呼ばれることが多いため、日本で独自に進化した西洋風の料理のことを「洋食」として区別される。

また石毛直道は『講座 食の文化 第2巻 日本の食事文化』で、「「洋食」は特定の欧米に限定されたモデルをもたない。それは、日本人が漠然とイメージした欧米一般のことであり、いわば日本で再構成された外来風の食事システムである」(同書p381)と述べている。

また村岡實は、平凡社の『世界大百科事典』の「洋食」の項のなかで、「洋食には多分に日本的な要素がふくまれている」と指摘している。
2012・1・17 <ウィキペディア>


2012年01月18日

◆流行歌手の晩年(続)

渡部 亮次郎


菊池章子(1924-2002)

下谷出身。天才琵琶少女として騒がれ昭和14年に「お嫁に行くなら」で歌手デビュー。18年の「湖畔の乙女」などでヒット。戦後は「星の流れに」や、「岸壁の母」がヒット。23年には大久保徳二郎と結婚、31年に離婚。

平成14年4/7に心不全で死去。本名は菊池郁子。住まいは品川区上大崎3丁目だった。妹も歌手で多摩幸子。孫の一仁はEvery Little Thingや浜崎あゆみの作品の作曲などを手がけている。

岸井明(1910-1965)

東京出身。歌うスターとして「タバコやの娘」などでヒット。158キロの巨漢を生かして活躍していたが、35年に眼底出血で倒れる。38年に引退。40年7/3午前5時7分、世田谷区世田谷3丁目の自宅で心臓衰弱で死去。葬儀は台東区元浅草の吉祥院で行われた。

霧島昇(1914-1984)

福島のいわき出身。新聞配達、タクシー運転見習いなどをしながら、東洋音楽学校を卒業。昭和11年にコロムビアでデビュー。13年に映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。翌14年には、ミス・コロムビアと、山田耕筰の媒酌で帝国ホテルで結婚した。

またステージに出演中に赤紙が届き、客席から「若鷲の歌」の大合唱で送られたという逸話もある。戦後は「リンゴの唄」を皮切りに、夫人松原操の引退記念曲「三百六十五夜」などのヒットを飛ばした。

ステージに上がる前にはハーモニカを手に必ず楽屋で発声練習を怠らず、無口で真面目な人柄であった。大変なあがり症でこれは死ぬまで治らなかった。綺麗好きでもあり、楽屋の掃除を怠らなかったという。ステーキ好きな一方で、マラソンもかかさなかった。

58年にテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」に出演したのが最後のステージ。59年1月に入院し手術、3月には退院し元気にしていたが、4/24午後4時12分、腎不全で豊島区の一心病院で死去。本名は坂本栄吾。住まいは大田区田園調布1丁目だった。港区の長谷寺に眠る。子息の坂本紀男は東京音大教授。

楠木繁夫(1904-1956)

高知出身。東京音楽学校を学生争議で放校処分に。昭和5年に歌手デビュー「白い椿の歌」「緑の地平線」「女の階級」、「人生劇場」などが代表曲。戦中の19年には「轟沈」がヒット。戦後はヒットにめぐまれなかった。

30年11月には札幌の電電公社の慰安演奏で軽い脳溢血となり3ヶ月の療養を余儀なくされたが、将来を悲観、京都で当たった宝くじで新築したばかりの新宿区西大久保3丁目の自宅の物置小屋で31年12/14午後3時頃に首吊り自殺。

妻の三原純子は岐阜の高山市の日赤病院で療養中だったが、ラジオニュースで夫の悲報を聞き絶句したという。

当時売れっ子の歌手を含め、この自殺は芸能界に「自分もいつかは」と深刻な影を落とした。高山の法華寺には楠木と三原純子の比翼塚がある。後に老齢を迎えた古賀はこの比翼塚の前で号泣したという。

小唄勝太郎(1904-1974)

新潟生まれ、11歳で料亭の養女となり、昭和4年、13歳で上京し日本橋葭町で芸者となる。芸の葭町と呼ばれた東京屈指の花街の名を負って、5年、新内の美声を買われてレコードデビュー。

試験盤を37枚使って吹き込んだ「島の娘」が大ヒット。当時としては破格の60万枚のセールスという余りの人気ぶり。「東京音頭」、二匹目のどじょうを狙った「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒットし、一大ブームを巻き起こした。

軍医の真野博士と戦後に結婚、家庭人と歌手の二足の草鞋を生涯、履き続けた。真野博士は中国で10年の抑留生活の末の帰国だったが、ずっと思い続けていた勝太郎が銀座の喫茶店に呼び出したもの。

実は競馬好きで、競走馬まで所有していた事は知られていない。48年12月の東京12チャンネルの「なつかしの歌声」が最後のステージ。その後、風邪をこじらせ、慶応病院に入院。49年6/21午前3時、肺ガンのため、府中市八幡町2丁目の自宅で死去、葬儀は中野区の竜興寺で行われた。本名は真野かつ。

小坂一也(1935-1997)

名古屋出身。成城学園高校時代より進駐軍まわりのバンドに参加。18歳でワゴン・マスターズを結成し、昭和29年に歌手デビュー。カウボーイスタイルでカントリーなどを歌っていたが、32年には「青春サイクリング」がヒット。その後は映画、テレビなどで活躍。49年には十朱幸代と結婚、翌年に離婚。平成9年11/1午前6時10分、食道ガンで死去した。

小林千代子(1910-1976)

小樽出身。東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団で活躍。昭和7年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。9年に夏川静江に婚約者だった新進作曲家を奪われて話題となった。51年11/25午後5時13分、膵臓壊死で赤坂病院で死去。住まいは渋谷区上原1丁目だった。 
             
佐藤千夜子(1897-1968)

山形の天童出身。終生、歌唱から山形訛りが消えなかった。東京音楽学校を中退後、昭和3年、「波浮の港」によって日本の国産レコード歌手第1号となる。「当世銀座節」「東京行進曲」「紅屋の娘」などヒットを飛ばし一躍、スターダムにのしあがった。

本来、クラシックを目指していた事情もあり、「東京行進曲」の印税で人気絶頂の4年にイタリアへオペラの勉強のため留学。しかしこれが千夜子の命取りになった。5年間のブランクは、もはやレコード界に千夜子の席を用意していなかった。

43年8月に医療保護患者として都立大久保病院に入院、12/13午後、ガンのため死去。生涯独身で家族はいない。天童教会の共同墓地に眠る。

訃報は新聞の東京版のみの掲載となり、その死を知ったのは都内在住者など一部に限られた。その数奇な運命はNHKの朝ドラ「いちばん星」のモデルとなった。故郷の天童には佐藤千夜子記念館がある。

小夜福子(1909-1989)

沼津出身。大正11年に宝塚少女歌劇団月組に入り、昭和2年に男役で人気に、14年には月組の組長になる。15年に「小雨の丘」でヒットを出すが、結婚し引退。

63年の舞台を最後に、芸能活動から引退。平成1年12/29午前9時、心不全で目黒の東京共済病院で死去。本名は東郷富美子。住まいは目黒区下目黒6丁目だった。

塩まさる(1908-2003)

福島のいわき出身。早稲田大学卒業後、千葉鉄道管理局に勤務。昭和12年にレコードデビュー。同年に「軍国子守唄」がヒット。14年には「九段の母」がヒットし、軍国調の歌を多く吹き込む。

同世代の歌手のほとんどが鬼籍に入る中、21世紀に入ってからも「私の子供みたいな年齢の」老人達の慰問に東奔西走する日々だった。平成15年10/16午前5時32分、老衰で死去。享年95.本名は塩正吉。

東海林太郎(1898-1972)

秋田出身。秋田中から早稲田大学商学部へ進み、卒業してすぐに満鉄の職員として8年間勤務。早大在学中より佐野学に師事して左翼思想に傾斜し、満鉄時代にも労働組合の調査研究などをしたため、図書館長という閑職に左遷させられる。一時期は特高にマークされるほどであったという。

9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。「国境の町」、「旅笠道中」、むらさき小唄」、野崎観音のPR盤として制作された「野崎小唄」、「麦と兵隊」など次々とヒットを飛ばした。戦後の一時期は進駐軍によって、封建的な歌を歌うと干されるなど不遇が続いた。

23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。終戦近くから南軽井沢に住み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりしていたが、

晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年7月からマネージャーの住む立川市の羽衣町3丁目に引越し、地元に溶け込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地元の障害者施設に寄付するなどした。

44年に勲四等旭日小綬章、47年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午前には病院へ入院。次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。

47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参列した。秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは有名だが、

「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。

戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキーとキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。酒豪としても知られ、歌手協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名である。
 http://www.geocities.jp/showahistory/


2012年01月16日

◆眼目は国対と副総理

渡部 亮次郎


マスコミに吊られて、内閣改造の目的は岡田副総理の誕生だと思っていたが、じつはそれ以上に平野国対委員長を交代させることに眼目があったようだ。読売新聞がバラしている。

平野氏は労組幹部上がりにも拘らず、人当たりが悪い。特に野党対策は下の下らしい。12月30日、野田は藤村官房長官ら側近と個別に会い、今後の政権運営について意見を求めた。

側近の一人は「年明けの通常国会は、消費税率引き上げ関連法案の成立が最重要課題で、国会対策こそ重要だ」と語り、内閣改造に伴い、平野博文国会対策委員長を交代させる必要性を指摘した。

政権発足以来、野党との関係構築は進まず、秋の臨時国会での政府提出法案の成立率は、過去20年で最低の「34%」と散々な結果だった。

国対委員長を交代させるなら、法案審議が始まる通常国会の召集後は難しい。野田は当初、「問責決議を受けた一川防衛相と山岡消費者相の更迭」のイメージを薄めるため、復興庁発足で閣僚1増が可能となる2月に人事を行う案を検討したが、平野の交代を優先し、前倒しを選んだ。

<宿願の副総理、藤村官房長官がジムで説得

今回の内閣改造の柱である岡田克也前幹事長の副総理起用は、野田首相の政権発足以来の宿願だった。

一方で、首相はこれまで二人三脚で政権運営をしてきた民主党の輿石幹事長にも最大限、配慮しながら人事を進めた。(敬称略)「副総理を置こうと考えている。どう思う?」

今月3日、東京・永田町の首相公邸。野田首相は腹心の長浜博行官房副長官をひそかに呼び入れ、人事構想の一端を打ち明けた。野田は副総理候補として岡田克也前幹事長、鹿野農相ら3人の名を挙げ、こう付け加えた。

「まず、岡田さんと相談してから決めたい」

野田の「本命」は、昨年9月の野田内閣発足時に官房長官への就任を打診した岡田だった。野田は首相就任時も岡田を副総理で処遇しようとしたが、岡田に固辞され、断念した。

野田が内閣改造・党役員人事を決意したのは昨年末だ。

12月30日、野田は藤村官房長官ら側近と個別に会い、今後の政権運営について意見を求めた。側近の一人は「年明けの通常国会は、消費税率引き上げ関連法案の成立が最重要課題で、国会対策こそ重要だ」と語り、内閣改造に伴い、平野博文国会対策委員長を交代させる必要性を指摘した。

政権発足以来、野党との関係構築は進まず、秋の臨時国会での政府提出法案の成立率は、過去20年で最低の「34%」と散々な結果だった。

国対委員長を交代させるなら、法案審議が始まる通常国会の召集後は難しい。野田は当初、「問責決議を受けた一川防衛相と山岡消費者相の更迭」のイメージを薄めるため、復興庁発足で閣僚1増が可能となる2月に人事を行う案を検討したが、平野の交代を優先し、前倒しを選んだ。

野田は12月31日、輿石幹事長と電話し、理解を求めた。「問責を受けるたびに交代させていたらキリがない」と改造に否定的だった輿石だが、野田の意をくみ、容認した。ただ、注文を付けることも忘れなかった。

「改造するなら大義が大事だ。どうせやるなら、態勢強化ということで、大きく代えないと。2人だけの交代は絶対に許さない」

人事断行の方針を決めた野田は宿願である「岡田副総理」の実現に動き出す。社会保障・税一体改革の素案策定に取り組んだ野田は、官邸機能の強化が必要との思いを強くしていた。

一体改革を担当する古川元久国家戦略相は当選5回と党内では中堅に位置し、増税に慎重なベテラン議員らににらみが利かないという事情もあった。

1月6日、野田は岡田と首相公邸で直接会い、岡田の副総理起用を念頭に人事構想を話し合った。岡田の感触を探る狙いもあった。野田の胸中には、一体改革に意欲的な岡田の起用に成功すれば、輿石が強調した「大義」を掲げることもできるとの考えがあった。

ただ、岡田は、当選回数が野田や藤村より多い自分が「政権ナンバー2」として官邸入りすれば、政府内の指揮命令機能が混乱すると見ていた。関係が良くない小沢一郎元代表のグループから反発が予想されることも、入閣に慎重な姿勢につながっていた。

こうした岡田の意向を伝え聞いた野田は、岡田を再度説得する必要があると判断。野田の意を受けた藤村は、11日に都内のスポーツジムで岡田と会った。> 読売新聞 1月14日(土)9時57分配信

2012年01月14日

◆2・26事件直前に誕生

渡部 亮次郎


1月13日。76年前のこの日に雪国秋田・八郎潟沿岸の米作農家の寝床で誕生した。渡部慶太郎・鈴江の次男だが三男として届けられた。次男琢次郎が夭折していたためである。次男のピンチヒッターだ。

今年の誕生日は金曜日と重なって不吉だがだが1936年には月曜日だった。私のあとに妹2人、弟1人が生まれて姉と兄とを合わせて6人きょうだい。全員生存。

私はこれまでに結婚2度、離婚1度。転職3度。子供2人は独立しており、孫3人いるが、逢ったことはない。後10年は生きそうな気がする。

私が生まれて約1ヶ月後、有名な「2・26事件」が起きた。皇道派青年将校によるクーデタである。以下、世界大百科事典第2版からの引用である。

満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展。

さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。

1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。

皇道派青年将校は,拠点である第1師団の満州派遣が決定されると,現維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行につきすすんだ。

36年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。

栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。

坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。

また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し,襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。

さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。

村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入。

さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。

天皇は重臣殺傷に激怒し,海軍も激しく反発,杉山元(はじめ)陸軍次官,石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集した。

27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され,28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により,29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し,戦闘態勢をとるとともに,ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告した。

青年将校らは奉勅命令に動揺し,目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順,青年将校らは逮捕された。また皇道派の理論的指導者北一輝および西田税(みつぎ)らも逮捕され,クーデタは失敗した。

陸軍首脳部は当初反乱を容認するかのような措置をとった失態を隠し,事件に対する非難をそらすため,青年将校らを極刑に処す方針をとり,一審制・非公開・弁護人なしの特設軍法会議で,7月5日17名に死刑の判決を下し,12日うち15名を処刑,翌37年8月19日北,西田,村中,磯部を死刑に処した。

この間〈粛軍〉人事により皇道派系分子は一掃され,寺内寿一(ひさいち)陸相ら新統制派が陸軍主流として実権を掌握し,事件の威圧効果を利用して広田弘毅内閣の組閣に干渉,軍部大臣現役武官制復活など軍部の政治的発言力の著しい強化をもたらした。

結局,統制派的勢力は,皇道派のクーデタを利用したカウンター・クーデタにより,皇道派を環(ほふ)るとともに対英米協調的勢力を屈伏させ,圧倒的優位を築いたのである。(江口 圭一)

2012年01月13日

◆ボールペンとの出合い

渡部 亮次郎


私にとって最初のアメリカは父が東京から買ってきたボールペンであった。昭和25(1950)年の秋だったのではないか。それまで見たことも聞いたことも無い筆記用具の出現だった。

ボールペンは先端に金属又はセラミックスの極小の球(ボール)が填め込まれており、このボールが筆記される面で回転することにより、ボールの裏側にある細い管に収められたインクが送られて、線を描くことができるペンの一種。この一連の機構がユニット化されたものをペン軸の内部に収めて使用する。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に言われてみればこの通りなのだが、鉛筆と万年筆しか見たことのない田舎の少年にとっては、革命的な出合いであったのだ。当時の日本の筆記用具は筆と鉛筆か万年筆しかなかった。

1884年にアメリカ人のジョン・ラウドが着想しているが、インク漏れを防止できず実用にならなかった。

1943年にハンガリー人のラディスラオ・ピロの手で、一応の完成を見る。すぐにレイノルズ社とエバーシャープ社が量産化、戦後アメリカでブームとなったが、インク漏れをほぼ完全に防止でき、安定した製品が市場に出されるのは、1950年代に至ってからだったそうだ。

日本でも1950(昭和25)年代以降国産化されたが、当初は高価で普及せず、公文書に用いることも認められなかった。しかし、量産効果と改良で品質改善・低価格化が進み、公文書への使用が可能となった。1970年代以降は万年筆やつけペンに代わる、最もありふれた筆記具となっている。

現在では太さ、色、インクの特性(油性、水性など)、ペン先の繰り出し方(キャップ式、ノック式)などにより多くの種類が存在する。

ボールペンの特徴として、独特の構造により弱い力でスムーズな線を描ける事などが挙げられるが、このインクは先端に送られるために重力を必要とするため、仰向けで長く筆記することができない。

特に微小重力の空間ではボールペンはまともに動作しないため、宇宙船内などではインクを窒素ガスで強制的に送り出す特殊なペンを使っている。 また、最近では超高粘度インクを利用した消しゴムで消せるボールペンなども市販されている。

また、ボールペンの欠点として、凹凸面があるとボールがうまく回転せず、筆記した線が湾曲してしまう点、長期間の放置に弱い点がある。

ボールペンの場合、万年筆と違い紙面に直角に近い角度で保ち筆記することが求められる。この結果、書道的手法が無視されるため、字は下手になる、と私は信じている。

ボールペンを発明するにあたっては、ペン先用極小ボールの高精度な加工・固定技術と、高粘度インクの開発が必要であった。従来の低粘度インクでは、ボールの回転と共に多量のインクがにじみ出してしまい、シャープな線を描くことができなかったのである。

ペン先用ボールの太さは 1.0mm、0.7mm、0.5mm のものが主流だが、技術革新により0.3mm、0.25mm、0.18mm といった極細のものも登場している。

これまでは主として油性、水性が主流だったが、油性ペンは長時間使わずに保管してしまうと時間が経過するに連れてチューブにあるインクが固まってしまい書き味が鈍ってしまったり、また水性ペンだと書き味はある程度保障されるものの、水にぬれてしまうとインクが消えてしまうなど弱点が多かった。

これらの弱点を改善するため、近年のボールペンでは油性インクの場合、インクの固まりを抑えて長時間保管しても書き味が維持できる「低粘インク」を採用したり、また「水性顔料(染料)インク」も登場している。

水性顔料(染料)インクは、水性ではあるが、たとえ紙が水にぬれた場合でもインクの脱色がないこと。また万が一手についた場合でもすぐに水洗いで落ちること。低粘インクと同様に長時間の保存でも書き味が落ちないなどのメリットが多数ある。

主なボールペン・メーカー

三菱鉛筆 (なぜか三菱グループではない)、コクヨ 、トンボ鉛筆 、サクラクレパス、 ぺんてる、 ゼブラ、 パイロット 、セーラー万年筆、 サンスター文具 、京セラ、 ビック 、オート 。

ところで私は父の机から勝手に持ち出したボールペンを学校で遺失してしまったが、誰かが拾って届けてくれた。その経緯を思い出そうとしても思い出せない。

2012年01月12日

◆呆け老人の勘どころ

渡部 亮次郎


若い頃は「ぢぢいころし」の記者といわれたのに、いつの間にか本人がぢぢいになってしまった。少子高齢化は言うなればぢぢいの時代。

国会に来て取材を始めた時はまだ28歳。それなのに相手は65歳以上の老人ばかり。それまで取材していた地方議会に比べたら圧倒的に老人の世界だった。

戦争から還って我先に国会議員になった人たちが、そのまま当選を続けているうちに、一斉に老化した時代に遭遇していたのである。

その子供たちが後継者として登場した時、自民党の凋落が始まった。創価学会の厄介になるに及んで、世論に見捨てられた。こちらも取材から完全に足を洗った。

老人たちの国会議事堂。中には戦前からの議員もいて、独りでは用便を足せず、うら若き女性にズボンにチャックを揚げ下げさせる場面にも遭遇した。その女性は100近くなって今でも政界に大きな影響力を持っている。

衆議院には2階に閣員便所と言うのがあった。つまり大臣たちの便所である。追っかけの記者たちも利用が許されていた。或る時某社の記者がしゃがんでいたところ、閣僚2人が小便をしながら倒閣の相談。

中で記者が聞いているとは気づかず去ったが、聴いてしまった記者は飛び出して「特ダネ」を飛ばした、あの便所が閣員便所である。

伝説の便所を開けたら、鍵を掛けていない中で官房長官がズボンをずりあげているところだった。慌てて閉めたが、目が合ってしまったので、長いこと、バツが悪かった。

総理大臣は60代、衆参議長は70代、閣僚は60前という時代に、30代で初入閣を遂げたのが田中角栄。如何に出世が早かったか、分かるでしょう。

ところで、老人は経験が豊富、各所に繋がる人脈も多彩、貫禄十分。とにかく握っている情報の量が格別である。

ところが如何にせん、物忘れが次第に酷くなる。足元もふらつくようになる。政治家じゃなくてもこうなる。だから若者は老人を避けるようになるが、反対だ。

政治家ほどお喋りの好きな人種はいない、ここだけの話だがナ、と言っていつまででも喋りたがる。しかしニュースにしてはいけない「オフレコ」をかまされては時には時間の無駄である。遠慮の要らない仲になってからは「ここ以外の話にしてよ」と持ちかけて、結局特ダネにしたこともある。

注意することが2つある。礼儀を正しくする。部屋の出入りの際は特別丁寧にお辞儀をしたほうがよい。

その次が最も大切だ。その話は何度目だとか、それは昨日あなたに私が入れた情報じゃないですか、などとは絶対言っちゃいけない。

こちらが昨日教えてやった情報でも、さながら初耳の如くきいていればいい。相手の老人はやがて、そのことに気づく。「こいつ、それに気づきながら黙って聴いている。参ったなこりゃ、と内心感心。

感心するだけでなく、畏敬の念すら抱くようになる。こうした老人を国会の中で4〜5人持っていれば特種記者になれる。岸信介、賀屋興宣、山口喜久一郎、重宗雄三、河野一郎、河野謙三、皆老人だった。

これは政界に限った話では無いだろう。老人はいつでも何処でも周りを支配している。これから世の中は老人は多くなり、邪悪な力を振り回すことも多いのではないか。

それに対して真正面から立ち向かえば、納まるものも納まらなくなる。従う振りをしながら、老人の面子を立てながら利用するようにしたほうが円く収まるように思う。敬称略。再掲


2012年01月10日

◆1月10日 110番の日

渡部 亮次郎


110番の豆知泉

警察直通電話「110番」の正式名称は『警察通報用電話』。

110番の歴史

警察に緊急通報するための電話がGHQの勧告により開設されたのは1948(昭和23)年10月1日のことです。

これはヨーロッパやアメリカの緊急通報制度を取り入れたものですが、最初は全国ではなく、東京も23区内だけで、大阪も中心部だけ。あとは名古屋(愛知県)・福岡(福岡県)・京都(京都府)・神戸(兵庫県)という6大都市のみでのスタートだった。

さらに、この時は東京と名古屋だけが「110」で、あとの都市では「110番」に統一できず、大阪・福岡・神戸・京都は「1110」と言う4ケタの番号だった。

しかも統一化しようと考えているにも拘わらず、その後、名古屋はなぜか一度「118」に変更したりしています。

全国統一の「110」になったのは、スタートから12年も経過した昭和35年5月からだ。

東京の場合は、23区内にあった32の電話局からそれぞれ1回線を確保して受信にあたった。

今から考えるとかなり間抜けだが、警察の電話室に32個の電話機を置いて、電話が鳴ると同時に担当係員が、どの電話が鳴っているのかを確かめる為にそれぞれの電話に耳を近づけて確認すると言うものだった。

当時は、無線司令などのシステムは無く(当然、現場近くのパトカーに直接電話するなんて事は無理)、警察で受け取った電話の内容を、再び事件通報に関係した警察署に電話をしなおして報告すると言うシステムになっていた。

↑1・1・0の理由

警察への緊急電話は「110番」と言うのは子供でも知っているが、何故110なのか?

これは、ダイヤル式だった頃に考えられたもので、基本的に警察に掛けるときは急いでいるので、一番ストッパーに近く、シャッシャッと掛けられる1を2回、そして最後の1つは「でもとりあえず冷静になって見よう」と言うことでストッパーから一番遠い0が採用された。

と言っても、これはダイヤル式の時代の話なので、現在のようにプッシュ式が主流になってしまうと意味はなくなってしまう話ではある。

アメリカの場合、イギリスの場合

アメリカやイギリスの電話は日本とダイヤルの配列が逆になっている為に、警察緊急電話もちょっと事情が違ってきます。


アメリカの警察緊急電話番号は「911」

これは急いで掛けられる9を1回、ゆっくりの1を2回と言う状態です。


それに比べてイギリスの緊急電話番号は「999」で、とにかく迅速に掛ける事が出来るようになっている。

イギリス人はとにかくせっかちなのか、それともジェントルマンの国で常に冷静なので、冷静に戻す必要はないのかも知れません。

1月10日 110番の日

年々増えつつある110番の利用に対し、いたずら電話を防止し、有効かつ適切な利用を呼びかけるためのキャンペーンのため、1986年に警視庁が制定した。「事件・事故・見たら聞いたら110番」などの標語も誕生している。

出典:知泉Wiki
http://www.tisen.jp/tisenwiki/?110%C8%D6

携帯からは単に「110」を押すこと。

2012年01月07日

◆おっかなくない新聞

渡部 亮次郎


「新聞も昔はおっかなかったが、今はおっかなくないじゃないか」大勲位中曽根康弘氏が5日の産経紙上で阿比留瑠比記者相手に言いたい放題に語った「単刀直言」の最後にこう喝破している。

新聞が政治家に恐れられていない!とは。もはや「社会の木鐸(ぼくたく)でなくなったのでは、極言すれば「新聞はもはや無用の長物」と化したのではないか。

中曽根さんの指摘を俟つまでも無く、最近の新聞は読んでスカツとする話題や前につんのめさせるようなニュースがない。政治関係でいえば明らかに単独会見で取ってきたようなネタがない。朝日も毎日も読まなくなって10年以上経つ。

中でも朝日はリクルート事件では徹底した「調査報道」を展開。遂に竹下内閣を総辞職に追い込んだものだ。しかし、今日では政治家の生の声は一つも無い。発行部数が減るのは当然だ。

NHKで短期間ながら政治記者をした経験からすれば、政治部の記者たちは既に政治に対するファイトをなくしている。それが証拠にベタ記事が全く無い。

雑報といってベタ記事は、政治家の生の声を伝えるもので、マンツーマンでなければ獲得できないもの。それらを専門家がつき合わせて読めば、政治の大きな流れを突き止めることが可能な情報なのである。

あるのは「会見」を基に書いた薄っぺらな記事でしかない。これはどうも新聞がテレビのあとを追うようになったけっかではないか。

テレビは絵(映像)ガナケレバモノを語れない。政治家にマイクを突きつけ、後ろからカメラが撮影する。

それを追うようにして新聞記者も取り囲む。マイクを突きつけられた政治家は一応の事は言う。この取材形式は「ぶら下がり」と称するようだが、発言に辻褄が一応合っていれば、マイクもカメラも引き下がる。

一寸待って欲しい。テレビが去っても新聞は引き下がってはいけない。
ぶら下がり取材で書かれた新聞を読者は読まない。新聞はおっかなくないと嘯く政治家は相手に本心を語っていないからである。

若い頃、NHKで後に会長に上り詰める島 桂次に良くいわれたものだ。「満座の前で本心をぶちまける政治家など絶対にいない。オフレコでも複数の記者相手には本心を言わない。漏らされたら誰が漏らしたか分からないから、本心は言わない」。

「政治家が本心を言うとすれば、それは単独会見(サシ)のときだけだ。サシを求めて俺は池田首相を蚊帳の中まで追って行ったものだ」。

田中角栄は記者クラブでは饒舌だった。そのかわり嘘を平気で言った。だから会見の後、必ず寄るトイレについて行き、並んで用をたしながら「本当はどうなの」と聞くと「実はね」と本心を打ち明けた。島が言った。嘘をつくと政治家は小便をしたくなる。

実のところ、政治の取材現場を離れて35年が経つ。だから実情は全く不案内。老人の繰言に過ぎないかも知れない。

中曽根さんは阿比留さんに嘆いている。「今は与野党を問わず人材がいないね。学術界にも財界にもいない」。阿比留さんが「残念な時代ですね」といったら中曽根さんが嘯いた「新聞も昔はおっかなかったが、今はおっかなくないじゃないか(笑い)」となっている。
                   2012・1・5

2012年01月06日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8(1996)年頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11(1999)年には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16(2004)年秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。(再掲)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2012年01月05日

◆日中友好40年の虚妄

渡部 亮次郎


今年2012年は日中関係正常化40周年だそうである。周恩来首相と関係正常化声明に調印する為、初訪中する首相田仲角栄氏に私がNHKを代表して同行してから40年の歳月が去ったわけであるが、共同声明の精神は中国によって一方的に葬られいまや「日中友好」は虚妄と言わざるを得ない。

まして「共同声明」を肉付けするために行なわれた日中平和友好条約の締結に外務大臣秘書官として奔走した身にとっては、実に辛いものがある。

私が記者としてNHKに入局したのは1959年、23歳のときだった。仙台、盛岡と5年の地方勤務を経て東京政治部に着任したのは東京オリムピックの年の1964(昭和39)年7月。長男が生まれて2ヶ月が経っていた。

いきなり自民党の「実力者」河野一郎担当を命じられ、のっけから派閥政治の実態を取材しまくった。当時の河野氏は池田勇人内閣の下、オリムピック担当を主とした無任所大臣だったので、折からの東京の水不足も取材した。

そのうちに池田首相が喉頭の「前ガン症状」で入院。昼夜を分かたぬ取材で「前」ガンは嘘で本物の喉頭ガンであることを医師団の一人からスクープしたが、首相が病室でNHKのニュースを見ているからと没にされた。幻の特ダネとなった。首相は翌年8月に死んだ。

その前に池田の後継を争ったのは佐藤栄作、河野、藤山愛一郎だったが、池田の裁定で佐藤が指名された。河野は翌年7月8日夜に死んだ。腹部大動脈瘤破裂。享年67。全国放送で死亡の30分前に死亡の誤報を流してしまった。

佐藤栄作首相は周恩来が連日のように呼びかける両国の関係正常化に反対だった。その後継者と目されている外相福田赳夫も当然消極的だった。その福田派を担当していたのが河野亡き後の私だった。

これに対して派閥を構える三木武夫と中曽根康弘は日中国交正常化推進。大平派もどちらかといえば推進派だった。

外務省も当然、消極的だった。首相が台湾支持だから当然である。

最近になって「日中国交正常化は官僚主導でなった」とする論文を書く人が出てきたから、反論しておく。

<外務省は2011年12月22日午前、日中国交正常化交渉を含む外交記録文書ファイル1265冊を都内の外交史料館で公開した。

世界を揺るがせたニクソン米大統領の1971年7月の訪中電撃発表に先立つ同年2月ごろ、中国の周恩来首相が藤山愛一郎元外相と会談し、米国との和解を示唆していたことが明らかになった。

しかし、当時の佐藤栄作首相は中国との国交正常化には消極的だったとされ、外務省も台湾重視の姿勢を崩さず、水面下で進む米外交の歴史的転換を察知できなかった。

日中国交回復促進議員連盟の会長だった藤山氏は、71年2月下旬から3月上旬にかけて北京を訪問し、周首相と会談。外務省の橋本恕中国課長が同年3月10日、会談内容を藤山氏から聞き取り記録した。

会談は同2月23日と3月3日の2回行われており、いずれかの内容とみられる。

それによると、周首相は藤山氏に「米国は変わり身が早い。中共(中国)との関係においては米国が先行して、日本が取り残されるのではないか」と指摘した。

これを聞いた藤山氏は「中共は昨年来の各国の中共承認の動きを見て、米国も結局は中共承認に追い込まれてゆくと見ているようだ」と分析。

「自分は中共が最も重視しているのは米国よりもむしろソ連の脅威であるという印象を強く受けた」と語った。

外務省はこれに先立つ2月20日、法眼晋作外務審議官(後に事務次官)名で「中国問題処理上の感想」とする極秘文書を作成していた。法眼氏はこの中で「中共のわが国に対する態度は、安保条約の廃止要求、軍国主義攻撃(天皇に対する非難攻撃)など目に余るものがある」と中国を批判した。

その上で「国交正常化が成就した後においても、真に友好的となるわけでなく『コレクト(適切)』な関係を維持することがせいぜいであろう」と冷淡な態度に終始。

「卒然として国府(台湾)を中共に乗り換えることは、わが国が小国の運命に冷淡なりとの非難を被る」と中国との国交樹立に否定的な見解を示している。>時事通信 2月22日。

こうした流れの中で、佐藤長期政権下、大蔵大臣や自民党幹事長として佐藤政権の後継者を目指し始めた田中角栄氏が日中正常化の実現を掲げて総裁選立候補を画策しはじめた。

私は当時、福田派担当だったが、どういうわけか政治部の中に造られた中国研究会メンバーに部長から指名されてはいり、仕方無しに猛烈な勉強を始めた。

こうした中でアメリカの大統領補佐官キッシンジャー氏が極秘裏の訪中、ニクソン大統領の1971年2月訪中を周恩来首相との間で取り付けたことが突如、報じられた。日本の「頭越し訪中」と政界とマスコミは涌いた。

<1972年2月のニクソン米大統領の訪中は,それまでの20年間の米中対決とアジアにおける冷戦を終わらせる歴史的出来事でした。ある意味で,この「ニクソン・ショック」が72年9月の日中国交正常化をもたらし,またインドシナ戦争の最終的決着をも実現させました。

ニクソン訪中については,米国国立公文書館(The National Archives)が1999年に会談記録(随行したウインストン・ロードが記録したもの)のほとんどを機密解除しました。

当時公表された全文を邦訳して解説を加えたのが『ニクソン訪中機密会談録』(毛里和子・毛里興三郎訳,名古屋大学出版会,2001年)です。

しかし実は,ニクソン訪中および米中共同コミュニケ(上海コミュニケ)は,前年7月のキッシンジャー大統領補佐官の衝撃的な秘密訪中,2回目の10月訪中の際,周恩来とキッシンジャーとの会談でほとんどお膳立てが出来ていたのです。

その会談記録は米国国立公文書館が2001年4月に機密解除しました.そして2002年2月および5月に,ニクソン訪中30周年を記念してこれらを民間のシンクタンク・国家安全保障公文書館(The National SecurityArchive)が国立公文書館から入手,ウェブを通じて公開しました.

これは,キッシンジャーが,訪中直前のニクソン大統領に提出した 500頁の「報告書」に相当するもので,その公開が米中をはじめ世界の専門家に熱望されていたものです。

本会談録が特に興味深く,専門家やジャーナリストにとって役立つと思われるのは,次のような点です。

第一に,ニクソン政権の「一つの中国」政策,台湾独立運動不支持政策が鮮明に出ています。

第二に,71年7月および10月に周恩来とキッシンジャーの間で実にタフな交渉が続けられた結果,「上海コミュニケ」の内容の95%がこの会談で準備されました.

第三に,米中二国間の問題だけでなく,インドシナ問題を始め,朝鮮半島,ソ連,南アジア,日本,軍縮政策など,国際政治のあらゆる事項について,他の外交文書には見られないほど,きわめて率直に意見が交わされています.その意味では,「模範的な外交交渉」とも言えます。

第四に,71年当時――沖縄返還の前年――の米中の日本に対する正直な認識が語られています。

国家安全保障公文書館のElectronic Briefing Book,No.66, No.70 に収録されているのは,71年7月会談関連のものが41件,同10月会談関連のものが27件で厖大です。

本書は,そのうち最も資料的価値が高いキッシンジャーと周恩来らとの会談記録(7月5件,10月10件),および72年1月のヘイグ副補佐官と周恩来の会談記録(2件)の合計17件。

さらに71年7月のキッシンジャー訪中の公告,ニクソン訪中時の上海コミュニケの本文および草案2件の合計21件を邦訳収録しています.

公告と上海コミュニケ本文を除き,いずれも本邦初公開です.内容は7月記録が国際情勢,中ソ関係,インドシナ情勢,台湾問題,日本問題,ニクソン訪中発表に関する打ち合わせ,10月記録がニクソン訪中の具体的段取り,台湾問題,日本問題,ソ連問題,朝鮮半島問題,ニクソン訪中時の共同コミュニケ草案です。

邦訳に当たっては,正確さと読みやすさを考え,大変苦労しました。また,読者の方の便を考えてかなり詳細な訳注をつけました。さらに,文末の解説は,資料考証に加えて,71〜72年米中交渉のポイントを分析してあります.

本書を通じて,読者の方は,71年〜72年のタフでエネルギッシュで,緊張した世紀の外交交渉を再現することができるでしょう。

(毛里和子) (もうり・かずこ) 1940年東京都に生まれる.62年お茶の水女子大学文教育学部卒業。65年東京都立大学人文科学研究科修士課程修了。博士(政治学)。現代中国論・東アジア国際関係専攻。早稲田大学政治経済学部教授。

著書に『中国とソ連』(岩波新書),『現代中国政治』(名古屋大学出版会),『周縁からの中国』(東京大学出版会),訳書に『ニクソン訪中機密会談録』(共訳,名古屋大学出版会)などがある。>

以上のように、キッシンジャー及びニクソン大統領の頭越し訪中こそは日中国交正常化を主導してといえるのである。このムードを田中角栄氏は巧みに利用。台湾派の福田氏を悪者と位置づけ、一気に総裁選を乗り切った。三木、中曽根、大平の各氏は決選投票で雪崩を打って田中支持に回った。

政権を獲得した田中氏は、その2ヶ月後には北京の人民大会堂にいた。交渉は当然非公開。二階堂官房長官の定例会見も「発表する事はありません」で、9月29日、突如発表された。また毛沢東との会見も真夜中に行なわれ、記者団には翌朝、発表された。

この会見には日本側からの通訳も官僚も同席を認められなかった。毛沢東は日本を初めから舐めてかかっていたのである。このときはまだ「尖閣列島」は問題になっていなかったが、毛沢東の死後に浮上し、トウ小平は後に帰属の決着をつけることを拒否した。

案の定、今や日本の主張を全く無視し舐め続けている。

中国経済の改革・開放と日中平和友好条約の調印は軌を一にしたものである。つまり改革・開放の実現を胸に秘めて3度目の復活を遂げたトウ小平は、そのためにはこの条約こそが中国発展のカギになると判断、締結を急いだものである。

言葉を変えれば、日本の有形・無形の援助こそが、改革・開放による中国発展のカギであり、日本あってこその中国の発展だったのである。

それにも拘らず、中国政府は日本の援助の実態を人民に秘匿したばかりか日本敵視教育を徹底させようとしている。これは団結の綻びを日本敵視によって繕おうとする「毛沢東理論」そのものの実践なのである。当に「日中友好の虚妄」こそは中国側によって一方的になされているものなのだ。

重ねて言うが日中国交正常化は官僚主導で行なわれたものではない。キッシンジャーとニクソンによってかき回されたムードに日本国民が踊り、それを田中角栄氏が政権獲得に利用したものに過ぎない。

そういえば「日中友好」という言葉自体、国交正常化に当って一方的に中国が言い始めた言葉だった。初めから日本を騙す心算だったのだ。2011・12・31


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