2008年09月08日

◆隠す事は顕(あらわ)る


渡部亮次郎

What is done by night appears by day.
直訳すると、夜行なわれた事は日中にばれる。英語でもこう言って戒めている。「隠す事は顕(あらわ)る」。

「隠し事は、隠せば隠すほど、人々の注意を惹き、早く知れ渡ってしまう」ということ。「隠せば、いよいよ現る」「隠すより現る」とも。旺文社「成語林」より。

だから「壁に耳あり 障子に目あり」と言った。それなのに福田首相の隠し事(総理を辞めたい)は最後まで顕れなかった。見事なのはこれだけにしても。醜女がサングラスをすると却って目立つと同じ。

<福田首相辞任 4月から「辞めたいなあ…」

退陣会見(9月1日)は突然のものだったが、首相にはすでに今年4月から退陣の2文字が頭をよぎっていた。

首相が後見人でもある森喜朗元首相に辞意を漏らしたのは、改正租税特別措置法の衆院再可決を前にした今年4月だった。

大連立構想の破綻(はたん)に始まり、日銀総裁の空席、ガソリン税の暫定税率失効と「ねじれ国会」にくたびれ果て、「辞めたいなあ。もう外遊もしたくないよ」と、森氏に赤裸々に語っていた。

首相は、4月末から5月の大型連休にかけて予定していたロシアとイギリス、ドイツ、フランスの欧州3カ国訪問を取りやめたいと漏らした。

ロシアとのパイプが深い森氏は「少なくともロシアだけは行くべきだ」と説得した。

その結果、首相は欧州3カ国歴訪は見送ったものの、ロシアには出向き、メドべージェフ、プーチンの新旧大統領と会談した。

森氏らは、北海道洞爺湖サミットが終了後、声高に内閣改造熱をあおった。

森氏は福田首相が内閣改造(8月1日)を断行する半月ほど前の7月中旬、周辺にこう語った。「おれは福田さんの背中を押してやるだけだ。自前の内閣を作って、9月までしか持たないかもしれないが、そこまでは頑張ってほしい」

人事を断行しても支持率は低迷。身内の公明党からも揺さぶられ、臨時国会の乗り切りは誰の目から見ても容易ではなかった。

森氏が首相から、退陣表明の連絡を受けたのは1日午後7時半過ぎ。緊急会見のわずか2時間前だった。2人の関係からすれば水くさいものだ。

驚いた森氏は「待て。慌てるな。これから官邸に行く。話し合おう」と電話口で食い下がった。

首相はきっぱり拒否した。「来なくていいですよ。もう遅い。記者会見をすでにセットしたから」

決断できないリーダーと言われた福田首相の最後の決断だった。>
(9月3日2時31分配信 毎日新聞)

明確に分かるように、この記事は森氏の述懐で成り立っている。福田首相は「辞めたい」と4月から言い始めていたことを明快に述べている。

ところが、私のところに「福田は辞めるよ」との特ダネ情報のメイルで入ってきたのが4月8日だった。直接、森氏からではなかったが、森氏に接近できる筋からではあった。

あの時点で「辞めたい」という福田首相の声を生で聞いたのは今のところ森氏しかいない。だとすれば森氏がどこかで誰かに洩らしたからこそ「4月8日」情報が、密かながら流れたのである。

だから専門家筋では「福田辞任は近い」と見るのが一般的だった。従って、内閣改造と党4役入れ替えを断行(8月2日)したことに驚いた筈である。「辞意を撤回したかな」と。

隠せば顕(あらわ)る。顕れなかったところからすると逆に福田首相は隠さなかったのか。辞意表明のタイミングを狙い始めた頃は既に顔に出ていたと、彼と親しい「山堂」氏(『頂門の一針』常連執筆者)は言っている。

毎日、追いかけている政治記者1年生たちの目が節穴だったのは残念だったが、何もできなかった福田氏、自分の危機管理だけは出来たという事か。そこが「あなたと違うんです」か。

ところで「隠せば顕(あらわ)る」は「広報」の本質を突いている。
そこには「情報」が元々「秘匿」の必然性を持っているから、「広報」は「秘匿」したほうが効果を大きくすると言う原則になる。

「実は、ここだけ、きみにだけ明かす話なんだけどね」と相手を特定して話した話は「特ダネ」だから大きく報道される。「抜かれた」各社は仕方なし「後追い」。これを役人にやらせると共同発表にするから各社一斉「ベタ」(1段)扱いで終わり。確かに情報は「操作
できる。2008・09・07


2008年09月07日

◆小池首相は大穴過ぎる?


渡部亮次郎

確かな筋の情報だと総選挙は11月9日(日)の投票日で動かないだろう、という。年寄り趣味で日めくりを繰ってみると「先負」である。自民党が投票日を「大安」以外に持ってきた例は殆ど無い。いいのかな。公示日は10月28日ということになる。

昔の保守系政党は選挙の投票日を「大安」の日にする事に拘った。1960年代の佐藤栄作総理大臣時代、幹事長の田中角栄が総選挙の投票日を国会運営の都合上から決めようとして適当な日を口にしたが、国会対策委員長だった園田直が別の日取りを口にした。

NHKは幹事長の言った日を見出しにとってニュースを流したが、園田は「総理は縁起を酷く担ぐ人だから、ワシの言った日になる」と断言。実際、園田の言うとおりになった。私はいわば「訂正記事」を放送して報道局長賞を貰った。

さて、今回、自民党の総裁選挙は9月22日に投開票日。結果もその筋によると、「麻生首相は動かないと思うが、小池百合子首相の大穴が出るかもしれない。小泉元首相はそれを予言している」と言う。

今の自民党の総裁選挙劇は多分に仕組まれた段取りを踏んでいる。民主党が密室で小沢3選を強引に決めたのに対して、自民党幹部は次から次へと立候補の名乗りをあげることを容認しているのだとか。

マスコミも山本一太まで追いかける騒ぎだ。自民党はマスコミから民主党を孤立させる一方、候補乱立で麻生を決選投票に追い込み、各派が恩を売るハラだ。

臨時国会は9月24日に召集、ただちに衆院で新首相の選出が行われ、夕刻から組閣。新内閣の顔ぶれが決まる。麻生首相ならほとんどの閣僚が留任、幹事長と官房長官を中心とした小幅人事になるだろう。

しかし、大穴の小池女性総理となると、新内閣の顔ぶれはガラリと変わる。小泉改革派が復活し女性閣僚も大幅に増えるだろう。政策がどう変わるかより、日本憲政史上初の女性宰相と言うことで、世の中、騒然となることだろう。

民主党はその前日に小沢代表が無競争で3選されている。マスコミ上は沈黙のままだ。新首相の所信表明は9月29日。10月2日から各党代表質問を行って早ければ3日に衆院解散。総選挙は10月28日公示、11月9日投票日となる。

自民党に話題を浚われた形の民主党は今になって小沢無競争3選を早々と決めたのは戦術的な誤りと言っているが祭り後の侘しさなった。完全に自民党の総裁選劇に埋没している。22日までこの調子が続くであろう。

それに大穴の小池女性総理にでもなるとマスコミは衆院解散後も小池内閣を追い回さねばならない。新閣僚のインタビューだけで10日以上はかかるから、民主党の出る幕はなくなる。「いかにも小泉さんが考えそうな劇場型の政治である」。と長老。

「日本初の女性首相を売り文句にする小池百合子元防衛相、意外と人気がない。地方県連では小池氏の声がかからない。

小池人気が沸かないのは、小泉構造改革がここにきて叩かれる傾向が強まっていることと無縁ではない。小泉改革の継承者というのは、もはや錦の御旗ではなくなっている。それだけ大都市と地方の格差が大きくなっている証拠だろう。

麻生人気の高まりで、反麻生の急先鋒だった野中広務氏は沈黙を守っている。

どうやら総裁選をやるまでもなく麻生首相の道筋が固まったようだ」。大穴狙いは駄目か。                  2008・09・07


◆おらゴム長と織田信長


渡部亮次郎

「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈(いずれも故人)らに流れを発する「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」を指す場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」が付く曲は概ね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12(1937)年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。参考:ウィキペディア  誰か昭和を思わざる http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html

2008年09月06日

◆麻生総理阻止の野中


渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)


元政治記者とは言えど、現場を離れて久しい。国会議員の大半と対面した事が無い。厭がる福田を無理矢理、担ぎ上げる主役を演じたとされる引退者野中広務という人とも会ったことは無い。

厚生大臣秘書官時代、京都の医療団体によるアサヒビール株の買占め事件が起こり、担当部長を派遣したが、官側とみられた副知事は買占め側だったので慌てたことがある。野中が副知事だった。

以下はすべてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠る。ただ、ウィキをつなげて読むと今の「坊ちゃん政治家」、いな森喜朗、小泉、麻生クラスでもとても太刀打ちできまい、と納得せざるを得ない。

共同通信社社会部出身の作家魚住昭の『野中広務 差別と権力』によると、麻生太郎は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の自由民主党総務会で、野中に以下のとおり非難された

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。

そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

大勇会=たいゆうかいは、自由民主党内の派閥のひとつ。旧河野グループ。現在衆議院議員10名・参議院議員1名で構成されている。

1998年12月、宏池会=宮澤派=が加藤紘一会長の加藤派となることに河野洋平が反発する形で脱退・結成。会長は河野。メンバーには息子の河野太郎がいる。

部落問題を抱えない殆どの東北人に、被差別問題の深刻さは理解が困難だろう。秋田生まれの私も大阪勤務を経験して初めて少し理解した程度。

口先では普通に付き合いながら、心の底では軽蔑されている屈辱。想像を絶する被差別感。拭っても拭いきれない。

先祖が止むを得ず家畜の屠殺に関与していただけを理由に就職や結婚で受けるいわれなき被差別。これによって自殺に追い込まれる例も多い。

関東にも戦前はあったが、東京大空襲で文字通り殆ど消滅したので、実感する人はなくなった。被差別だった人が権力を持つと如何なる事になるか、日本政界は野中によって初めて振り回された。

2000年に小渕首相が倒れると、野中幹事長「代理」が呼びかけて森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。(これ以後、森は野中に頭が上がらない)。

この協議は、首相を5人組によって密室で選出させたたものとして、野党から厳しく追及され、国民からも大きく批判された。野中は、森の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格し『権力』を握った。

国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫民主党代表に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した(野党ながら鳩山も野中に頭が上がらない)。

同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。その直後、野中は幹事長を辞任、後任に古賀が就任した(加藤も古賀も野中に頭が上がらない)。

この頃、小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたることもあった(「影」だから逆に威力がある)。

森首相退任に伴う2001年自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀、鈴木宗男らや公明党から野中待望論が挙がるも、橋本龍太郎や村岡兼造ら派幹部からその突出振りを疎まれていたため支持が集まらず、結局橋本を担ぐことになる。先の麻生発言は、このような時期になされた。(恨みは骨髄に徹した)。

橋本派は業界団体との強いパイプなどから圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。

2003年自民党総裁選で、主戦論を唱え、青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、新藤義孝外務政務官、村岡兼造元官房長官、大村秀章内閣政務官らと激しく対立。

一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した(「毒まんじゅう」はこの年の流行語大賞に選出され、本人が授賞式に出席した)。

野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に望んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。

2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を『非情の政治』と批判した。また、野中自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。

2005年の第44回衆議院議員総選挙に立候補せず引退。かつて選挙区(京都府第4区)で後継者指名をした田中英夫(前亀岡市長)が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民党から公認を得られず無所属で出馬するも落選。

刺客として自民公認で出馬した中川泰宏元船井郡八木町長に敗れたもの。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、2002年の京都府知事選に笹野貞子元民主党副代表の応援を受けて立候補・落選して以来、野中との対立が決定的なものとなった。

小泉の後継者である安倍晋三が総理大臣を辞職すると、古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新5人組)の1人とも言われた。しかも手下の古賀誠が自民党選対委員長に就任していることもあり、低下していた野中の影響力がまた大きくなっている。

2006年10月より平安女学院大学客員教授として政治学を中心とした教育、研究を実施している。(文中敬称略)出典:「ウィキペディア」2008・09・05

2008年09月05日

◆貝原益軒を知らない?


渡部亮次郎

貝原益軒 かいはら えきけん 1630年11月14日〜1714年10月05日(陰暦 08月27日)。世界最長寿国日本誕生のための学問の元祖とも言うべき大学者なのだ。或いは日本のアリストテレスと称える人もいる。

当時としては驚くべき長寿の83歳の正徳2年(1712年)に自身の実体験に基づいて「養生訓」(ようじょうくん)を遺し2年後、当時としては想像もできない長寿を実践した。長寿を全うするための身体の養生だけでなく心の養生も説くというところに特徴がある。

『孟子』の君子の三楽にちなんで、彼は養生という点からの三楽として次のものを挙げている。

(1)道を行い、善を積むことを楽しむ
(2)病にかかることのないのを快く楽しむ
(3)長寿を全うすることを楽しむ。

また、その長寿を全うするための条件として、彼は、自分の内外の条件を指摘している。まず自らの内にある4つの欲を抑えることとして、次のものを我慢するべきだという。

(1)あれこれ食べてみたいという食欲(メタボ)
(2)色欲(SEX)
(3)むやみに眠りたがる欲(宿酔い?)
(4)徒らに喋りたがる欲(この輩は案外多い)

これらを押さえた上で、季節の暑さ、寒さ、湿度などの変化に合わせた体調の管理、これらが揃って初めて健康で長寿が生きられるという。結婚を39までせず、岡場所へも行かないと言うのでは私に長寿は無縁だ。

これらすべて彼自身の体験で、これは愛妻家であった彼の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都などに物見遊山にでかけたりし、睦まじく長生きしたという。

福岡市生まれ 福岡藩士。大学者として『養生訓』他多くの著書を残す。

1630(寛永7)年11月14日、福岡城内の東邸で誕生、父貝原寛斎(1597-1665)の五男として。父寛斎(孫太夫利貞)は黒田藩主、忠之、光之に前後15年間仕えた。食禄百。50石ほどであった。

益軒は名を篤信(あつのぶ)、通称は久兵衛と言った。6歳で母死別、母親代わりの「地行婆」という家政婦に当たる人に兄弟共に育てられた。

7歳ころ現在の博多築港辺りに移住、幼い頃から環境もあったか、読書好学の精神が見られ平仮名、片仮名を覚え小説・草子類を好んで読んでいた。

8歳の冬、父の異動で一家は穂波群は八木山(現飯塚市)に又父、長兄が島原の乱に参加、留守中次兄から漢字、漢詩等を学びいろいろ勉強、読書好きで「平家物語」「保元物語」・・・古典を人に借りて愛読している。彼が「四書」を始めて読むようになったのは14歳のときである。

11歳の時、福岡に帰り、さらに怡土群(いとぐん)井原村(前原市前原)に移住、この時に「太平記」を読んでいる。次兄存斎について学んだ益軒は、終生特定の師について学ぶことはなかった。

次兄は医学を学びに京都に留学しているが、医学より儒学を好みしかも仏教を排斥、益軒にも仏教信仰を捨てるように教えている。この影響は大きく、この頃当時の新しい学問、朱子学への第1歩を踏み出した。

一方、父からも医薬の知識を受け、自らは「医学正伝」「医方撰要」「万病回春」等を読み、ほぼ医薬の道も知るようになっている。次兄について学んだ儒学、17歳の時に「小学」を読んでいる。

1648(慶安元)年、19歳の時に初めて出仕(藩主に仕えること)、藩主忠之の御納戸御召料方(おなんどおめしりょうかた)という衣服調度の出納係りの近侍となり4人扶持を受けるようになった、これ以降48年間、光之・綱正と3人の藩主に仕えてさまざまな業績を残した。

出仕・長崎生活・浪人・江戸生活(19-27歳)、生涯12回江戸へ。京都へは24回も行っている、福岡藩長崎警備で藩主に同行、一時期藩主の機嫌を損ね、免職、浪人生活(7年間)にもなっている。

この間自費で前後3回にわたって長崎に遊学、積極的に中国文化の摂取・吸収に務め、唐通事・蘭通事とも交際している。

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2008年09月04日

◆スパイからの領収書


渡部亮次郎

大韓民国第5〜9代大統領朴正煕氏が嘆いたことがある。「スパイから領収書を取って来いと会計検査院(?)は言う、わが国の先は長くない」。在任中、青瓦台(大統領官邸)に招いて会談した日本政界の指導者園田直氏に打ち明けたものである。

当時、韓国政府に会計検査院があったかどうかは知らない、日本で言えば会計検査院のように「領収書」一点張りで国家予算の行方を監視する組織の事だろう。

問題は敵のスパイを懐柔するために握らせた現金(ゲンナマ)について領収書が取れるか取れないか。取れないのが常識だが、検査院は「領収書の添付されていないカネは使途不明金」との主張を変えない。

検査院とは、そういう姿勢を貫く事が大事だが、「常識」をまた認めないことには「政治」が行き詰まってしまうのも事実だ。朴大統領としては検査院が業務を厳しく遂行して欲しいが、スパイから領収書を取って来いなどと言う馬鹿げた事は言うべきでないというのが嘆きだったろう。

大手建設コンサルタント会社「PIC」によるベトナムでの贈賄事件は東京地検が8月25日、関係者4人と会社を起訴したことで、一連の捜査は終結(産経新聞26日付)。

<ベトナムでの政府開発援助(ODA)事業をめぐる贈賄事件で、東京地検特捜部は25日、不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)罪で、大手建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)前社長多賀正義容疑者(62)=詐欺罪で起訴=ら4人と法人としての同社を起訴した。

このほか起訴されたのは、元常務高須邦雄(65)、元役員坂下治男(62)、元ハノイ事務所長坂野恒夫(59)の3容疑者>。(同)。

東京地検特捜部の検事たちは一体、ベトナムの公務員たちが、低賃金を補うためODAに絡む多額の「賄賂」を分配し合っている実態を知った上で捜査したのか。

その実態を熟知する日本企業は賄賂の「要求」に応じる結果「落札」する。それに業を煮やした欧米企業がOECDを通じて日本外務省に「実態調査」を要求。

連絡を受けた東京地検は「仕方なし」に捜査に踏み切った、と言うのが実態じゃないか。永年、見て見ぬ振りをした外務省やJICAを責めて月光仮面づらするマスコミだけが「正義の味方」で済まされる問題では無いだろう。

起訴の結果、日本が日本人を罰する事になるけれども、ベトナム政権が役人たちを罰する事は先ず、ありえない。とすれば馬鹿を見るのは誰なのだ。「角を矯めて牛を殺す」のが「正義」とは聞いて呆れる。正義を貫くためには国益を棄てるのか。

<社会主義体制のベトナムでは公務員の権限は強いが、給与は高くない。日本の外務省によると、外資系企業の最低賃金月額80万〜 100万ドン(約6000円)に対し、公務員や国営企業職員は同54万ドン(約 3500円)。

「副収入」を求める公務員もおり、受注でしのぎを削る企業が接触機会を狙う構図だ。

毎日新聞の取材に、局長は「忙しいので何も答えられない」とだけ語った。外国公務員への贈賄を禁じた今回の不正競争防止法に収賄側を罰する規定はなく、局長が日本で罪に問われることはない。

ベトナムでは、公務員に対する一定の贈賄行為は「商慣習」ともささやかれる。ただ、今回の現金授受は道路建設を担当する市の業務管理局事務所執務室で白昼堂々と行われ、局長側が受注額の15%前後を要求したという。駐在員は「慣習といってもPCIの提供額は多すぎる。5%ぐらいが相場のはずだ」と語る。

市局長が暮らす4階建て自宅ビルは、市中心地に近い大通りに面し、玄関には防犯用シャッター。知人は「本人はまじめな印象だが奥さんは派手だ。子供2人を海外に留学させている」と明かした>(8月5日毎日新聞)

東京地検の手入れの結果、ベトナム側と日本企業による贈収賄が一旦は自粛されるだろう。日本に還るべきODAは清く正しくEU各国に流れる事になるだろう。しかし役人たちの糊口は濡れないとすればどうなるか。

贈賄の無いEU各国企業に賄賂を公然と要求するか。しかしできないとなれば、かねて手馴れた日本企業を再びターゲットにするしかないだろう。こうなれば東京地検の面子は放浪する。

大学で六法全書の暗記に身を窶し、実社会とは隔離されたような法曹の籠で「目んない千鳥」を歌っている検察庁と「有り得ぬ」領収書を求める会計検査院。一見、頭脳が良すぎて「アタマ」が不自由な秀才を連想してしまう。

その人たちに一句。「角を矯(た)めて牛を殺す」=少しの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体を駄目にしてしまうこと(広辞苑=岩波書店)。2008・8・31

2008年09月03日

◆透明人間が降板しただけ


                       渡部亮次郎

<首相退陣表明極秘決断 夫人にも相談せず福田康夫首相の退陣準備は極秘の内に進められた。

首相は1日の記者会見で、退陣決意は先週末と語ったが、実際はそれよりも早かったという。ただ首相は周辺にも一切退陣の意思を漏らさず、貴代子夫人にも相談しなかった。

首相は退陣表明の記者会見の草稿執筆を菅原郁郎秘書官に命じ、菅原氏は31日夕、首相官邸の秘書官室で一気に書き上げたが、会見直前まで官邸外には一切漏れなかったようだ。

首相は退陣表明の記者会見後、肩の荷が下りたのか、「表明のタイミングは9月1、2、3日ぐらいしかなかった。小沢(一郎民主党代表)さんの立候補が決まった日に合わせた」と周辺に本音を語り、退陣表明−自民党総裁選によって、民主党代表選を希薄なものにしたいとの考えだったことを明かした。

「(臨時国会で)29日の所信表明と(民主党も公明党も)言っているのだから、新首相が29日にやればいい」とも語った。>9月2日3時0分配信 毎日新聞

なりたくも無い、元から無能力な人間が無理に祭り上げられていた総理大臣が、切羽詰まって椅子を蹴飛ばした。福田康夫総理大臣の辞意表明(2008.9.1)。意欲、能力なき透明人間の下野に何の感慨があろう。

康夫さんとは父親赳夫政権で彼が父親の下で総理大臣首席秘書官、私が元福田派担当記者の故を以って園田直外務大臣の政務担当秘書官という仲。例の「大福密約」(2年で政権を大平幹事長に譲る)の存在を知っている私、知らぬ彼。波長が合わなくて参ったものだ。

高校では捕手をやっていたらしい。投手をリードする係りだが、どうも彼は投球を受けるだけで手一杯だったらしい。性格もそうで、自己主張すべき哲学も抱負経綸も無い。「友達の厭がることはしない」のは中韓に対してだけでは無い。アイデンテティーが無いのだ。

昨年秋、安倍氏が突如、退陣表明をした時、福田氏は既に長男にバトンタッチする準備中だった。当選僅か6回にして当時すでに71歳。「好きで政治家やってんじゃない」の口癖どおり、性格が政治家に向いていなかった事をつくづく知らされたわけだった。

ところが異変が起きた。引退したはずの元幹事長・官房長官野中廣務氏が京都の奥から出てきて「福田神輿」を手下の古賀誠元幹事長に担がせ、自らも森喜朗初め党内実力者の説得を始めた。

これは奇手にして妙手だった。親中、親韓、半靖国、反麻生との共通項で党内多数を占める妙手。最大派閥の安倍派も旧竹下派も皆乗った。「それなら載ってみるか」と康夫氏、やおら「救国の士」面
して受諾。これが福田政権の実像。元々蜃気楼政権だったのだ。

自らに力なし、友人なし、策士なし。友党の公明に気遣うあまり、しまいには財政政策にかみつかれたばかりか臨時国会の召集日にまで駄々をこねられた。舐められつくしたのだ。

辞めるしか、投げ出すしかなかったのだ。せめて厭味の一つぐらいを放つか、というタイミングが関東大震災の日だったのである。
そのあたりを評論家の花岡信昭氏(元産経新聞政治部長)は私より紳士である。

<「福田退陣-新首相の手による早期解散」の流れをつくったのは公明党だ。内閣支持率の低迷を理由に、連立からの離脱もちらつかせるような態度はいかがなものか、という暗黙の抗議が、福田首相の退陣表明に隠されている。

それを最もよく感じているのは、当の公明党だろう。自民党に対して大きな「借り」を作ったことになる。来年夏の東京都議選対策を最優先させる公明党の立場に、自民党側が最大限の配慮を見せたわけだ。

「好き好んで政治家になったわけじゃない」というのが福田首相の口癖であった。安倍前首相の突然の退陣による党内の混乱を、自身が立つことで救ったという自負もある。これ以上、政権にしがみついていても得るものはない、と判断したのであろう。

故竹下登氏が「武士(もののふ)の進退は瞬時にして決すべし」と、ことあるごとに言っていたのを思い出した。竹下氏はその言の通り、大方の予測を裏切って早期退陣表明に踏み切った。

政治家は引き際が一番難しい。そういう意味合いでいえば、福田首相のこの段階での退陣表明は世間をあっと驚かせた点で、きわめて効果的であった。>(花岡信昭メールマガジン★616号[2008/09/02] 2008・09・02

2008年09月02日

◆特派員電が偏るわけ


渡部亮次郎


<日本の大手マスコミが、いつもアメリカ大統領選挙で予想を大きく外す傾向があります。

第1に特派員の多くがNYタイムズなど北東部のリベラルな新聞の後追いが多いため、気づかない裡に民主党有利の記事を書いていることです。

第2に日本の特派員はワシントンやNYにいても、記者クラブというムラに住んでいて、独自取材が不得手。積極性がないのが致命傷ですね。もちろん産経の古森さんとか、例外もたくさんいますが。

第3は共和党との人脈が極端に薄いためです。まして特派員の多くの日本人が本質的に民主党リベラル支持派ですから、その分析が偏向しているのです>。(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20(2008)年9月1日(月曜日)通巻第2303号)。

私は国内政治だけの記者をたった20年しかしなかった中途半端記者だったが、NHKというマスコミに居た事は間違いないので他人事(ひとごと)ではなく受け留めた。

記者の途中で1977年11月に、福田赳夫内閣の改造で官房長官から外務大臣になった園田直(そのだ すなお)氏に求められて秘書官(政務担当)に就任した。

その後も園田氏は外務大臣を次の大平正芳内閣、鈴木善幸内閣と3代に亘って勤めたので、私もそれなりに外務省に知己ができた。それとなく彼らの話を聞いていると「外国語に優れた外交官は外務事務次官にはなれない」というジンクスがあるということだ。

その後の外務省人事では、これは外れもあったかもしれないが、その時までの説明によると、人間の頭脳は左脳と右脳があり、外国語を記憶するための脳を発達させると、総合判断力を磨く能力が落ちる。

外国語を磨くと通訳には優れるが、外交官としての判断力とか洞察力、推理力、人事管理能力とかは二の次になってしまうから、省内ナムバー2として、官僚の頂点には立てない、と言う事だった。

NHKや民報、新聞各社も同様だと思うが、記者の採用試験の際、人事部は予め、将来の海外特派員候補として、外国語に優れた人材を採用する。

ただし将来の海外特派員を保証はしない。知らん振りをしてまず地方の支局に一般取材記者として赴任させ、一般的な取材能力を磨かせる。数年後に一旦、東京本社に引き揚げた後、政治部なり経済部なり社会部などで仕上げをした後に、特派員として海外に派遣する。

ワシントンは政治と犯罪NYは国連と株と犯罪が分からなければ話にならないから、予め訓練は東京で受けてきたはずだが、すんなりとは行かない。発表物はこなせるけれども、役人や企業幹部はなかなか単独では取材の応じてはくれない。

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2008年08月31日

◆巴里だより 「丹精を込める」への読者の声

 
                   岩本宏紀(在仏)

<本稿は、本欄8月11日に掲載した上記エッセーへ寄せられた「読者の声」です>。    

・思無邪 。。。。シカゴの男性
残念ながら米国にはあまり丹精を込めた物に出会うことは多くありません。
でも、たまに普通の民家で、しっかりガーデニングされた庭を見ると、ものすごくホッとしますね。

手間隙かけて作ったものは、その作り手の情熱がずんずんと胸に響いてくる感触があります。

思無邪(思いよこしまなし)。純粋に何かを成し遂げようとする心意気を
忘れていた自分を気づかせてくれた、そんな一枚の写真でした。
ありがとうございました。

(岩本: 「思い、邪無し」いい言葉ですね。ぼくも自分を振り返って反省しています。)

・ピアノの演奏とチューリップの育てかた 。。。。巴里の女性

私、本業はピアノでございますが、と〜っても共感できる部分がありました。

‘丹精を込めて‘。良い言葉ですね。
そして、愛おしさという言葉にもとても共感を覚えます。
愛していないと‘それ‘は美しくならないんですね。

‘それ‘とは、いろんなモノが当てはまるのだと思いますが・・・。

私もピアノの作品を弾く時には、とても気を遣います。
それは、まずは作曲者への配慮です。

時代背景や、作曲者のキャラクターもありますし、また
もちろんそれを聴いて下さる観客への配慮でもあります。

クラシック音楽の演奏者とは、常にそこに生きた作曲者の時代を体現するものだと考えています。それを体現するには、まさに‘丹精を込めて‘。
時間をかけて、その一曲一曲と対話をする。

作曲者が何を求めているのか、何を表現したら良いのかを一番に考える。
チューリップを育てている方も、きっと花と会話をしているのではないでしょうか。

日本語には、愛でる、といういう美しい言葉がありますが、その作業員の方のチューリップへの愛情がひしひしと伝わってくる、とても素敵なメールでした。

職人の技とプライド、後世にも残していって頂きたいものですね。

(岩本: ピアニストの仕事のしかたの一面を知ることができて、大変参考になりました。曲と対話しながら自分の演奏を作り上げていくのですね。何事も手間隙かけないとひとの心を打つものはできない、そう感じました。)

・花を綺麗と思える心 。。。巴里の男性
あの公園を満喫するのはタイミングがすべてですね。僕は1度目は成功(満開)、二度目はまだ蕾ばかりでした。

日本では悪質ないたずらで市内の花壇の花が切られたり、
落書きなども話題になっていましたね。
前者についてこちらでは聞いたことがないのです、知らないのか、そういう輩がいないのか!?
後者は特にイタリア人の公衆道徳が悪いとか・・・

いずれにしろ、花を奇麗と思える心を大切にしたいものです、加齢して鈍感になり易いので。

(岩本: 加齢と言えば加齢臭。 耳の後ろや首筋から発するようですね。腸がきれいかどうかも影響すると聞きました。もうひとつ加齢現象は涙脆くなったこと。 そう思うことはありませんか?)(完)
2008年8月13日

2008年08月30日

◆マッカーサー到着が今日


渡部亮次郎

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、マッカーサーが8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。降り立った彼はコーンパイプを咥え威張っていた。

以後罷免される1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。日本軍の恐ろしさを知り、テロを恐れたと言うのが一般的な解釈だ。

滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。

不思議に思ったマッカーサーは、料理人を呼び出して問いただした。料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が1つ手に入りました」と答えた。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、牛ならぬ鯨肉のステーキであった。

マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされた。

9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の我々はショックを受けた。マの計算に入っていた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。

占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいたが、すべての工作は失敗した。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

1950(昭和25)年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

半島育ちの作曲家古賀政男は丘 灯至夫に詞を書かせ「涙のチャング」を作曲。動乱で民族が「思想」で殺しあう悲劇を訴えた。歌唱したのは平壌出身の歌手小畑実だったが、気付いた日本人は限られていた。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)や麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

だから北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから1人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。

マッカーサーは状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。

1951年になると、核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛けた。

毎日新聞と共に朝日新聞がマッカーサーに感謝する文章を掲載した。今では想像もできない。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支持を得られず断念した。

1964(昭和39)年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。「偉人」として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂(マッカーサー時代の首相)が出席した。2008・08・27

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年08月28日

◆政治家の内懐と外面

渡部亮次郎

先輩の政治記者古澤 襄(のぼる 元共同通信社常務理事)さんが2008年8月23日、自らのブログに書いておられる。政治記者は永遠のアウトサイダーと。http://blog.kajika.net/

<昭和30年代に岸内閣が出来た頃、”岸派の三羽烏”といわれた派閥記者がいた。毎日新聞の安倍晋太郎、共同通信の清水二三夫、日経新聞の大日向一郎の三氏。

岸首相は閑があると(東京湾岸)東雲(しののめ)の河川敷ゴルフ場に行ったが、ゴルフから上ってくると、いつも岸首相、中村長芳秘書官と清水氏の3人連れ。

こうなると政治記者というより秘書ではないかと私などは思ったものである。事実、清水氏はしばらくして共同を退社して、山口県の防長新聞の専務になった。防長新聞のオーナーは女優の有馬稲子さんのご主人、岸側近の財界人だった。

ところが防長新聞の経営をめぐって清水氏はオーナー氏と大喧嘩のあげく、さっさと退社して東京に戻ってきてしまった。清水氏と親しかった私は東京のホテルのバアで退社のいきさつを聞かされた。岸さんは烈火のごとく怒って清水氏を破門にしたそうである。

「政治記者として誰よりも岸に食い込んだと自負していたが、結局は政治記者とか政治評論家というのは永遠のアウトサイダーだな。岸の家の子郎党になって、それを知ったよ」と破門となった割には、意外とサバサバしている>。

この話を読んで、園田直(衆院副議長、官房長官、外相3度、厚生大臣2度)を担当する政治記者からとうとう彼の秘書官になって政治家の外面(外面)と内面(うちづら)を見分けた経験を思い出した。

結論から言えば、防長新聞の専務になった清水さんは現役政治記者の感覚で仕事をしただろうからオーナーと真っ向から衝突しない方がおかしい。自分の方が上だと思っているからである。

政治家は政治記者を「敵」と思っている。機嫌をとらなければ面倒だと思って「対等」を装う。記者は勘違いしてその政治家が気を自分に許したと思い込んで、本当に対等と思い込んでしまう。

また、財界人に対して政治家は財政的援助を受けながら、殆どは「利権」で「報恩」をしているから対等のようには表面上は振舞わない。「下」と見せる。

これを見た政治記者は財界人といえども献金を受けていない俺は財界人より「上」だと思い込む。何しろ「オレは岸首相と対等だ」と思い込んでいるから尚更である。オーナーと喧嘩になるのは当然である。

園田さんとは十数年の交際の末に秘書官になったが、その日から私邸の玄関からの出入りを禁じられた。秘書官は「官」と言えども使用人。台所から出入りしろ。「対等感」をぺしゃんこにされた。清水さんはこうしたことがないまま専務になったから失敗したのではないか。

「使用人」扱いされたことからいいこともあったが悪い事も起きた。上司たる大臣を客観視するようになった。またいつ食道を断たれるかの不安を消すため、大臣の延命を画すると言う行動をとるようになる。

園田さんが「福田大平密約」(総理を福田は2年務めた後を大平に譲る=書面)の履行を信じ、一方の福田総理は「反故」を目指して動き出した頃、私は元政治記者だった故を以って反福田の田中角栄への接近を図っていた。

園田氏は私の動きに気付かぬ素振りをしながら、ちゃっかり私の差し出した座布団に坐り、外務大臣を大平内閣でも務め、次の鈴木善幸内閣では厚生大臣と外務大臣を務めた。いずれも田中氏の支持の裏付けがあったからである。

国連での演説原稿まで書いて貰えば,秘書官は使用人で無くなる。だから時には煙たくもなる。そこで敢えてこちらが使用人を演じると安心している。これが政治家の実態。私が政治家を断念した理由の一つである。

役目を終えた後、私は1銭の慰労金も求めず去った。もはや私の方が上だった。

こうした事は岸首相にとどまらず、古今東西、どの政治家でも同じであるはずだ。政治記者は親しくなればなるほど、政治家の全体像を見たように思い込むが、それは勘違いなのだ。政治家は内懐を記者には絶対見せない。

仮に見せたら、その人物は使用人扱いにされ使い捨てにされる。その私を拾ってくれたのは、園田さんを知る前に知り合った河野謙三さん(元参議院議長)だった。私が反河野、重宗議長支持だったことを知りながら。
2008・08・23

2008年08月27日

必読!◆逮捕するな いや逮捕せよ


渡部亮次郎

畏友秋山直紀(社団法人 日米平和・文化交流協会専務理事)が拘置所に縛られて1ヶ月が過ぎた。ところが最近入手した情報によると秋山逮捕は東京地検特捜部のチョンボの上塗りだった。しなくても良い逮捕を敢えて強行したものらしい。

<防衛汚職:秋山理事、山田洋行から25万ドル受領認める 参考人質疑で否定。

防衛関連企業からのコンサルタント料などを隠したとして所得税法違反(脱税)の疑いで逮捕された秋山直紀容疑者(58)が東京地検特捜部の調べに対し、防衛専門商社「山田洋行」から06年10月に25万ドル(約3000万円)を受領したと認めていることが関係者の話で分かった。「交流協会が行う事業の旅費や宿泊費などに使った」と供述しているという。

山田洋行では当時、元専務の宮崎元伸被告(70)=前防衛事務次官の守屋武昌被告(63)への贈賄罪で起訴=が退社し、「日本ミライズ」を設立。海外メーカーとの代理店契約(商権)をミライズに奪われることを恐れた山田洋行は、久間章生元防衛相の支援要請文書を秋山容疑者に託し、25万ドルを提供したとされる。

秋山容疑者は、今年1月の参院外交防衛委員会の参考人質疑で受領を否定したが、特捜部は8月13日、この25万ドルを含む約7300万円を隠したとして再逮捕。

関係者によると、秋山容疑者は最近、25万ドルの受領を認めたが、政治家への資金提供は認めていない。>毎日新聞 2008年8月22日 東京朝刊

実は、特捜部はすでに5月下旬に1度秋山の逮捕状を請求しようとしたが、上の最高検察庁から物言いがついて見送った。特捜部はこの時、東京地検特捜部が無理に3000万円の脱税額で秋山を逮捕しようとした。

脱税に関して任意捜査ではなく逮捕するには、脱税額が1億円を突破することが要件というのが慣例だから、特捜部は無理を通そうとしたわけだ。

最高検 3000万円では額が低すぎる。別件逮捕か。秋山を叩いて政治家を摘発できる決定打はあるのか。

特捜部 確かな立件情報はない。

最高検 ではダメだ。さらに脱税額を積み上げないと逮捕できない。

反対したのは最高検刑事部のトップである刑事部長を務め、7月1日付で東京地検検事正に就いた岩村修二だという。

岩村は、特捜部が八木部長が失意の内に転出した後、新部長ながら何も知らない佐久間達哉に脱税額を倍額の7000万円台まで積み上げたことを良しとし、秋山逮捕のゴーサインを出した。もはや政界ルートに及ばないのを承知である。

秋山と政界ルートをワンセットでやらせろと迫った特捜部長の八木宏幸には逮捕を許さず、7月14日付で八木と交代したばかりの右も左もわからない佐久間達哉に、淡々と脱税事件を立件させたのはなぜか。岩村と佐久間は言い得ぬ関係にあるのだそうだ。

「10年前、経営破たんした旧日本長期信用銀行の粉飾決算事件で元頭取らを逮捕したのが、特捜部副部長だった岩村。戦後史上最大のこの粉飾決算を主任検事として解明したのが佐久間。

岩村は当時『オレの後で特捜部を背負うのは佐久間しかいない』と岩村は当時から絶賛していた。

しかし2人が手がけた長銀事件は“国策捜査”の走りといわれたが、最高裁で7月18日、元頭取ら3人は無罪となった。岩村、佐久間の代失点が白日の下にさらされた。

「体制側によって決められた答え通りの逮捕劇を演じるのが、この2人の特徴。しかも、長銀事件で無罪を出してしまったことで、今後あらゆる事件を小さくまとめようとするだろう。その第1弾が政界ルートとは一切関係のないただの秋山脱税事件。

“最後の捜査派検事”と呼ばれた八木のような政界狙いの大胆な捜査など、もはや望むべくもない、とある司法記者。頑なな政界ルートへの扉をこじ開けて突き進む捜査など、今の特捜部には無理な相談なのだ、と訳知りは慨嘆した。

という事は逮捕の秋山氏は東京地検特捜部の「面子立て」あるいは「恥の上塗り」の犠牲者と言う事にならないか。秋山を叩けば政治家をふん捕まえられる、と秋山氏を舐めてかかった東京地検特捜部のチョンボ。

庶民は特捜検事を正義の剣士と信じているが、大学生活4年を六法全書暗記で費やし、社会的な常識を備えるいとまがないまま、「人をみたら泥棒と思え」という世界にドップリ漬かってきた人種。

元々「変人」でしかない。「権力を持っている」変人。「逮捕するな いや逮捕せ」無関係の民間人を3日も呼びつけて交通費は愚か日当も出さなくてもいいと考える馬鹿。

憲法で軍備を禁止しながら軍備を増強せざるを得ない自衛隊。それでいて装備、武器調達の情報収集力はゼロ。だから秋山が生まれ役に立ち、自衛隊は世界に伍してきたのだ。

それを脱税如きで罪を着せ裁くというのは天に唾する愚挙以外の何ものでもない。六法全書を知り祖国の命運を知らないものを本当の馬鹿という人を私は止めない。

中には常識豊かな人もいるだろうが、概して法匪という片輪人間。
桑原くわばら。         2008・08・25

2008年08月26日

◆日本の賄賂で暮らす公務員

渡部亮次郎


PCI前社長ら4人起訴
ベトナム政府高官に贈賄−東京地検>
(8月25日15時52分配信 時事通信)

先日、東京地検特捜部の検事に問うたが、明確な答えは得られなかった。一体、ベトナムの公務員たちは、ODAに絡む多額の「賄賂」を生活の足しに分け合っている実態を知った上で捜査しているのか。

答えが無いから教えてやるが、その実態を熟知する日本企業が賄賂の「要求」に応じる結果「落札」する。それに業を煮やした欧米企業がOECDを通じて日本外務省に「実態調査」を要求。

連絡を受けた東京地検は「仕方なし」に捜査に踏み切った、と言うのが実態じゃないか。永年、見て見ぬ振りをした外務省やJICAを攻める月光仮面(マスコミ)だけが「正義の味方」で済まされる問題では無いだろう。

日本が日本人を罰する事になるけれども、ベトナム政権が役人たちを罰する事は先ず、ありえない。とすれば馬鹿を見るのは誰なのだ。「角を矯めて牛を殺す」のが「正義」とは聞いて呆れる・

<ベトナムでの政府開発援助(ODA)事業をめぐる贈賄事件で、東京地検特捜部は25日、不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)罪で、大手建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)前社長多賀正義容疑者(62)=詐欺罪で起訴=ら4人と法人としての同社を起訴した。

このほか起訴されたのは、元常務高須邦雄(65)、元役員坂下治男(62)、元ハノイ事務所長坂野恒夫(59)の3容疑者。 

【関連】<ODA不正野放し わいろ立件 元常務メモ決め手
(2008年8月5日東京新聞 朝刊)

不透明さが度々指摘されてきた政府開発援助(ODA)をめぐって、汚職事件が摘発された。「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)から、ベトナム・ホーチミン市幹部への贈賄容疑。

東南アジアでは、わいろが「商習慣」ともいわれる。日本側の政府機関も「見て見ぬふり」との指摘もあるが、PCI元常務が残していた手帳が決め手となり、関係者が逮捕された。 

逮捕されたPCI元常務高須邦雄容疑者(65)は「メモ魔」(PCI幹部)と呼ばれていた。東京地検特捜部が立件する決め手となったのは、そのメモの押収だった。そこには、いつ、どこで、誰にいくら渡したのかが、詳細に書かれていたとみられる。

ホーチミン市にある東西ハイウエー・水環境業務管理局事務所の一室。高須容疑者は、ここで堂々と米ドルを手渡したとされる。2003年には、元PCIハノイ事務所長の坂野恒夫容疑者(58)も同行。同局の局長から、受注額の1割程度を要求されていたという。

舞台となったのは、途上国が行うインフラ整備などに、国際協力銀行(JBIC)を通じて資金を貸す円借款事業だった。

発注権限を持つのは現地国の政府。ベトナムなどに駐在してODA事業に携わった企業関係者は「現地の役人へのわいろは常識」と明かす。「特にインフラ整備では、実弾(現金)なしで仕事は取れない」

ODAではまず、現地国が日本に個別プロジェクトを要請する。だが、現地に精通したコンサルやゼネコンが現地国に働き掛けて、プロジェクトを初めから“仕込む”例も多いという。

こうした受注活動について「JBICや国際協力機構、外務省は当然知っているが、見て見ぬふりだ」と関係者は指摘する。だが、今回の贈賄容疑について、JBICは「うちは資金を出して入札手続きや実施状況を監理するだけ。贈収賄は当事者間の問題だ」と突き放す。

借款契約の具体的な中身や事前調査への参加企業についても、JBICは「相手国や受注先の同意がいる」として一切情報開示していない。

年間約8千億円(2006年度)もの公金がつぎ込まれる円借款は、「途上国が事業主体」という建前の下、不透明さがつきまとっている>。

<収賄側の幹部、立件は難しく ホーチミン市人民委

【ハノイ=共同】政府開発援助(ODA)事業受注をめぐり、大手建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)から多額の現金を受け取ったとされるベトナム南部ホーチミン市人民委員会の担当局長は、東京地検特捜部がPCIの前社長ら4人を逮捕した4日も通常通り勤務している。

ベトナム政府関係者によると、担当局長はベトナム公安当局の調べに現金の受け取りは認めつつも、わいろ性を否定している。

日本はベトナムにとって最大のODA供与国で、ODAを今後減額されたくないとの政治的配慮などから、収賄容疑で局長が立件される可能性は低いとみられる。

ホーチミン市人民委員会職員は担当局長について「今日も普通に働いている。取材は外務省を通してください」と答えるのみ。しかし、外務省も6月に報道で疑惑が発覚して以降、局長に関する取材を受け付けていない。

ベトナムの首相顧問経験者は「局長を逮捕すれば、ほかに何人も逮捕しなければならなくなる。多額の金は独り占めするのでなく、ホーチミン市の幹部らで分け合っている」と打ち明けた>。

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