2010年09月23日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部亮次郎

「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから32年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主
張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この数ヵ月後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平和友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

「イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったのである。(文中敬称略)2010・9・21

2010年09月18日

◆小沢抜き左翼片肺内閣

渡部亮次郎

<菅改造内閣の顔ぶれ決まる…経財相に海江田氏

菅改造内閣が予定通り17日夕、発足した。

官房長官に留任した仙谷官房長官が同日午後、閣僚名簿を発表した。

岡田外相の後任に前原国土交通相が就くほか、海江田万里衆院財務金融委員長が経済財政相で初入閣した。

野田財務相、北沢防衛相、蓮舫行政刷新相らは留任した。

          ◇

 菅改造内閣の顔ぶれは次の通り(敬称略)。

 ◆総理=菅直人(衆)

 ◆総務=片山善博(民間)

 ◆法務=柳田稔(参)

 ◆外務=前原誠司(衆)

 ◆財務=野田佳彦(衆・留任)

 ◆文部科学=高木義明(衆)

 ◆厚生労働=細川律夫(衆)

 ◆農林水産=鹿野道彦(衆)

 ◆経済産業=大畠章宏(衆)

 ◆国土交通=馬淵澄夫(衆)

 ◆環境=松本龍(衆)

 ◆防衛=北沢俊美(参・留任)

 ◆官房=仙谷由人(衆・留任)

 ◆消費者・少子化・国家公安=岡崎トミ子(参)

 ◆金融・郵政改革=自見庄三郎(参・留任)

 ◆経済財政=海江田万里(衆)

 ◆国家戦略=玄葉光一郎(衆)

◆ 行政刷新・公務員改革=蓮舫(参・留任)>
読売新聞 9月17日(金)13時6分配信


<首相は非小沢系で党中枢を固め、「脱小沢」路線を事実上、強化した。首相は16日、小沢氏と輿石東参院議員会長に「代表代行」への就任を打診。代表選で戦った小沢氏側に配慮を示した形だが、輿石氏は辞退し、小沢氏は17日の両院議員総会を欠席した。>(毎日)

代表選挙の結果を見れば、世論は「脱小沢」を支持している以上、例えば小沢幹事長復活などは許されなかった。したがって本人が流したらしい。

「山岡農林水産大臣」はなかったし田中真紀子の流した「田中真紀子外務大臣」も「田中直紀農水大臣」もなかった。

官房、外務、財務、防衛、をすべて菅支持層で固たほか、経済財政=海江田万里を抜擢して新鮮味を出し、口蹄疫でケチの付いた農水大臣にはベテランの鹿野道彦を起用するなど、手堅さを狙った布陣である。今の菅としては最高の人事ではないか。

この結果、小沢支持グループは副大臣、政務官のポストしか与えてもらえないことが確定した.そんなものはポストでもなんでもない事、素人でも分かるから、菅改造内閣は「脱小沢左派片肺内閣」と名づけよう。

何度も言うが、所属国会議員の半数は「反菅」である。「ねじれ国会」の運営に積極的に協力するとは考えにくい。とりあえず小澤は「手本」を示すように幹事長人事承認のための両院議員総会をすっぽかした。

これを要するに野次馬としてみている分には面白いが数々の「国難」に思いを致すとき、胸のつぶれる思いである。

如何にして斯くの如き内閣を出現させねばならなかったか。すべて国民が切磋琢磨を忘れた自民党を支持し続けた怠慢にある。当然、かつて自民党政権の一隅を穢していたものとして改めて深くお詫びする次第である。(文中敬称略)2010・9・17

2010年09月17日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎

日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラが大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を縫ってインスリン注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死んだ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもたらした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。

だが日本では「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろう。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓がどのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあと、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切っても切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は 内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。

膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないとか、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公はBanting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリンを発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのはさらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用には耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に、糖尿病が一気に蔓延しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響している。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられている。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くなかった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食とは無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのであ
る。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人比べるとヨーロッパ人の体格は立派であったのだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べていたものが、ひと切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。(再掲 文中敬称略)

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」
http://members.jcom.home.ne.jp/3220398001/discovary/index.html

2010年09月16日

◆円高 異聞

真鍋 峰松

最近の急激且つやや長期化しつある円高を観ていると、もともと経済音痴の私でも、少々心配になってくる。

株や公債等を多量に所有しているわけでもない我が身としては、本来、円高・円安による株価の乱高下等に一喜一憂する必要性は全く感じない。むしろ、一般消費者として、円高は本来、輸入品の値下げを通じ物価の下落を齎す歓迎するべき事柄、と昔に教えられた。

ところが、昨今のニュース等を見聞きすると、明日には日本の輸出産業が壊滅するが如き騒ぎで、我が国の製造業の外国移転が一層促進され、国内雇用の喪失を招来する危険性があるとのこと。果たしていつもの狼少年のような過熱報道なのかどうか、私には判断する知識とてない。

ただ、昔の経済学の知識では解析不能な現象が起こっており、それは20世紀末からの経済の急激なグローバル化に起因するのだ、と知るのみ。

ところがこの円高騒ぎの最中、ほん身近な処でも、一喜一憂している現実的な話を聞き驚いた。それは、日本の損害保険会社・A社の第一線営業マンからの話。
 
A社では、数年前から毎年某大ホテルの施設やホテル利用客に絡む事故に関する損害賠償責任保険を単独で取得してきたのだが、今年はライバル会社が参入し競争入札となった。そのライバル会社とは世界的に有名な某外資系保険会社のことだそうだ。
 
だが、A社は「この円高の中で非常に不利な立場になる」と、彼は説明する。何故なら、もし両者とも適切な応札保険料が100万円だと仮定すると、A社は100万円で応札。

しかしその某外資系ライバル社は85万円(1ドル=100円→85円の円高と想定)で応札するだろう、と言うのである。
 
つまり、両社の社内の内部協議の結果、そうならざるを得ない。A社は勿論のこと日本円で、ライバル社は外資系の故に内部経理上ドルを中心に考えるだろうから、と言うのだが・・・・。                          
この話、どうも余りにも専門的・特殊的に過ぎて、聞けば成る程と思わされるものの、私も一知半解の状態。
 
それでは、もし万一事故が発生し保険金支払いの場合には、円相場が現在より一層円高に振れていれば、ライバル社にとっては想定以上の出費を強いられ、逆に円安に振れれば予想外の儲けと言うことになるのであろうか。

とにかく、ややこしい社会になったものだ、と慨嘆するのみ。
  
(参考) 現在 1ドル=85円として、損害発生時の保険金支払いが1億円とする。
@1ドル=85円   1億円÷85円≒118万ドルの支払い
A1ドル=50円   1億円÷50円=200万ドルの支払い
B1ドル=100円  1億円÷100円=100万ドルの支払い

2010年09月15日

◆小沢敗戦は「惨敗」

渡部亮次郎

民主党代表選で721対491で敗戦とは小沢の「惨敗」と言うべきだろう。ちょっと立ち上がれない数字だ。

<民主党は14日午後の臨時党大会(党代表選挙集会)で、菅直人首相(63)の代表再選を決めた。党所属国会議員と地方議員、党員・サポーターによる投票の結果、小沢一郎前幹事長(68)を破った。

菅首相の獲得ポイントは721(国会議員412、地方議員60、党員・サポーター249)、小沢氏の獲得ポイントは491(国会議員400、地方議員40、党員・サポーター51)だった>。
産経ニュース2010.9.14 15:36

得票率は約60%対40%。特に小澤は国会議員で逆転された他、世論を直接反映した「党員・サポーター」票で圧倒的な差をつけられ、「剛腕」への期待よりも「カネ」まみれの体質が徹底的に嫌われたことを物語っている。

つまり菅首相の「脱小沢体制」は党員から支持され、参院選敗北の責任は余り問われていないことも裏付けられた。詰まり菅首相はねじれ国会対策のあまり、小沢勢力を重用すると世論の支持を失う危険のあることが示されたわけである。党役員・内閣改造は極めて難しい。

果たして小澤はどう動くか。暫く様子を窺うだろうが、離党しても明るい展望は持てない数字だ。
(文中敬称略)2010・9・14

 

2010年09月14日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎

北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さん(註 その後退官)がベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞えた内閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。

こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

福田康夫氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。(再掲)(了)2005.02.23 加筆2006.03.25

2010年09月13日

◆滿洲が気にかかる

渡部 亮次郎

芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった音丸(おとまる=1906-1976)。芸者歌手は地方巡業に際して、時間拘束の費用として莫大な花代がかかる事から、苦肉の策として芸者と同じに小唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性をレコード会社で探していた。

その結果、東京・麻布(あざぶ)の末広神社近くの下駄屋の内儀であった永井満津に白羽の矢が立ったのだった。

昭和9(1934)年にレコードデビュー。芸名は音は丸いレコードから、という意味。翌年に古関裕而作曲の「船頭可愛や」がヒット。同曲を沖縄民謡の普久原恒勇が日本最高の歌謡曲と絶賛している。

散歩しながら音丸のMDで聴いていたら「満洲想えば」が聞えてきた。昭和11年生まれの私だが、よく覚えていた。幼くしてレコードで聴かされたのであろう。

「満洲想えば」は敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満洲に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの、という。


作詞=高橋掬太郎、作曲=大村能章。

1.ハア― またも雪空 夜風の寒さ
  遠い満洲が エー満洲が気にかかる
(以下省略)

国民学校(小学校)4年の時「敗戦」。それっきり 満洲の事は学校で習わぬまま老人になってしまった。

満州国(満洲国、まんしゅうこく、英語: Manchukuo)は、1932年から1945年までの12年間間、満洲(現在の中国東北部)にれっきとして存在した国家。

日本領有下の朝鮮および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古自治邦政府と国境を接していた。面積  1,133,437km2  人口1937年 36,933,206人
 
満洲(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満洲族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。

清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931(昭和6)年、柳条湖事件に端を発した満洲事変が勃発。

関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932(昭和7)年、満洲国の建国に至った。元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就いた。

愛新覚羅溥儀満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は関東軍及び日本政府の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

このことが、1933(昭和8)年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。その後ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国が満洲国を承認し、外交関係を持つこととなった。

第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦(赤軍)による侵攻を受け、8月15日の日本降伏により崩壊。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還された。

その後の国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。

現在この地域を統治している中華人民共和国や、かつて統治していた中華民国は同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。

当時複数の国が満洲国を国家として承認していたものの、日本の敗戦とそれに続く極東裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、日本の傀儡政権との認識が現在においては一般的である。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満州国」と表記することがある。

若い頃、官僚として満洲に出向したことのある岸信介は、後にA級戦犯に問われながら無罪となり、首相に就任した。2010・8・9
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年09月11日

◆両刀遣いの記者はいない

渡部 亮次郎

産経新聞のワシントン、北京、ソウルの責任ある記者はいずれも他社から引き抜いてきた一騎とうせんの大記者である。定年を既に過ぎながら、そのまま頑張っている。

英語、北京語、韓国語に堪能なだけでなく、駐在期間が長いだけ、各界への人脈が豊富。他社の追随を許さない。

特に政治分野の取材。日本とは違って、役人のテーブルに勝手に近付くことは不可能。政治家へのインタービューなど容易なことではない。

アメリカの役人は誘い出しても、夜の会食には殆ど応じない。よほど仲良くなったら、昼食を共にしながら情報提供に応ずる事はありうるが、そういう役人を複数作った頃には本社から帰任命令がくるから、元の木阿弥だ。

本社が、何ゆえに、馬鹿なことをするかというと、海外に出たいという希望者が待ちきれないからである。

外信、外報記者予備軍は、人事部が毎年、採用し、一般的な取材や執筆などの訓練を施すために地方支局や放送局に配属する。数年経ったところで東京本社に帰し、まず外務省を担当させる。

1年か、2年で、海外支局に派遣する。そうしない事には一人前の海外取材記者に育たないからである。逆に前任者は、現地で折角創り上げた人脈をごっそり捨てて、本社に帰任する。

本社で何をするか。デスクに坐って「翻訳」をするしかない。そんなつまらない事をしながら、再度、外国に出るのを待つのである。痺れが切れた頃、再度既任地へ。

日本の外信、外報記者の不合理ともいえる、配置換えにはこうした裏事情があるのだ。

「外国語が達者」だから入社したとはいえ、次に外国へ出るまでは政治、経済、事件記者でもやったほうが良さそうなものだが、遣らせないし、やろうともしない。

意地悪い観察をすると、外国語の達者な記者ほど、取材力もそれほどかというと、残念ながら、そうでもない人が多い。勿論、両方とも優れた人はいて、産経新聞にスカウトされた人がそうだったのだろう。

日本外務省でいわれていたことは、外国語に極めて優れた能力を持っている奴は事務次官にはなれないということだった。現在ではどうか知らないが、要するに語学は暗記能力。事務次官は判断能力。

左脳と右脳のことを言うのだとか。

複数の外国語を操るキザな元キャスター。外報部長をさせたところ、部下をえこひいきばかり。人事管理能力の無さは「脳足りん」といわれたが、有ろうことか局長になって周りをびっくりさせたもの。

会長の死後、遺品を整理したら「私に管理能力はあります。どうか局長にして下さい」という自薦の手紙が何通も出てきて謎が解けた。

鬼といわれた会長もゴマスリに弱かった。局長は中途で外に飛び出し、巷に埋没した。

余談だが、中国のような建前が共産主義体制の国での取材となれば、行きたいところにも行けない。制限ばかりで自由が全く無い。加えて仮に当局の機嫌を損ねれば、国外追放となり、二度と中国に入国する事は永遠に不可能になる。メシの食い上げだ。

若い頃、命を削るようにして覚えた言葉が、無用の長物にはてて仕舞う。わが国の中国駐在記者たちが、どんなに日本の読者に批判されても、「面白い」記事を送ってこれるわけがないのである。

2010年09月09日

◆鈴木宗男氏収監へ

渡部亮次郎

<鈴木議員の実刑確定へ=無罪主張の上告棄却―受託収賄など4事件・最高裁>時事通信 9月8日(水)13時47分配信

鈴木氏と私は鈴木善幸内閣で大臣秘書官仲間だった。私は外務大臣秘書官を3年もやった中で政治家がつくづく嫌いになって政界から逃れたが、鈴木氏は中川一郎農林大臣秘書官から政界入りを目指し、様々な波風を立てた末に衆院議員になった。

田中角栄氏の下に草鞋を脱ぎ、政治資金の収集ではいつも強引な手法が噂されたものだ。私より12歳も年下だが、その度胸たるや大したものと感心する場面が多かった。

<受託収賄、あっせん収賄など四つの罪に問われた衆院議員鈴木宗男被告(62)の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は7日付で、被告側上告を棄却する決定をした。懲役2年、追徴金1100万円の実刑とした一、二審判決が確定する。

鈴木被告は確定後、収監される。公選法などの規定により、確定すれば失職し、懲役刑の執行後5年間は立候補できなくなる。

鈴木被告は、政治資金規正法違反罪と議院証言法違反罪を含め、一貫して全面無罪を主張していた。

2004年の一審東京地裁判決は、すべての事件を有罪と認定した上で、「高度の廉潔性を求められる要職にありながら国民の信頼を裏切った」と非難。「反省は皆無で、虚偽の陳述をしてはばからない被告に刑を猶予するのは相当ではない」として、実刑を言い渡した。

二審東京高裁も08年、「行政に不当な影響を及ぼし、社会の信頼を害した」として、一審を支持していた。鈴木被告をめぐる一連の事件では、佐藤優外務省元主任分析官(50)ら12人が起訴され、鈴木被告を除く11人の有罪が確定している。

判決によると、鈴木被告は北海道開発庁長官、官房副長官だった1997〜98年、林野庁への口利きの見返りなどとして、2社から1100万円のわいろを受領するなどした。>(時事)

<1997年9月に北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官として初入閣。1998年6月には現職閣僚として初めて国後、択捉両島を訪問した。

2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中真紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として数々の疑惑が浮上。

2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党の辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど、疑惑の総合商社なんですよ!」と批判を受けた。

3月15日、自民党を離党。6月19日、やまりん事件であっせん収賄容疑で衆議院本会議で逮捕許諾決議が可決されて逮捕される。6月21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決された。

7月20日に斡旋収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で起訴。政治資金規正法違反の罪でも起訴された。

2003年9月、衆議院選挙の直前に保釈。その後衆議院本会議に出席。議員辞職勧告決議がされた国会議員が決議を無視して登院したのは初めてのことであった。

2003年10月、胃癌を手術。 2004年の参議院選挙に北海道選挙区で無所属で出馬するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第1審で懲役2年、追徴金1,100万円の実刑判決が下された。

2008年2月26日に東京高等裁判所においても、控訴棄却となり、即日最高裁判所に対し上告した。

2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成し代表に就任。9月の第44回衆議院議員総選挙に北海道ブロックでの比例1位候補として立候補して当選、衆議院議員復帰を果たした。>
(「ウィキペディア」)2010・9・8

■本稿は9月9日(木)刊「頂門の一針」2035号に掲載されました。
他の寄稿者の卓見もご覧下さい。お手続きは下記から。

■<同号 目次>

・日米関係を読む(2):古森義久
・菅首相再選なら来春に総選挙か:花岡信昭
・鈴木宗男氏失職収監へ:渡部亮次郎
・ムネオの最終章:平井修一
・中国の蔬菜戦略の研究〈4〉:野口紘一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年09月07日

◆かやき(貝焼き)で育った

渡部亮次郎

「かやき」とは、主に秋田県、青森県など日本海側の東北地方で食べられる鍋料理の一種。「かやき」は、貝焼きが訛った言葉で、現在では貝でなく小型の鍋を用いた1人用の鍋料理を「貝焼き=かやき」という。

元々は鍋は農漁民にとっては高価だったこともあり、大きな貝殻を鍋に代用した。ホタテが多いが、アワビの貝殻が用いられる事もある。

中味は季節の魚(ハタハタ、カワヤツメなど)、野菜、豆腐、茸などを味付けしただし汁で煮込むもので、東京で言う寄せ鍋の調理法と類似している。

昔はこれを七輪に炭をおこして煮るから手間がかかって皆、厭がったものだが、いまは卓上ガス・こん炉だから簡単。

ハタハタの場合、調味にしょっつる(ハタハタから作られた魚醤)を用いる事から、しょっつるかやき(貝焼き)と呼称する事もある。

また、カワヤツメのかやきは、新鮮なカワヤツメをぶつ切りにしてネギやゴボウと共に味噌味のだし汁で煮た鍋である。日本で賞味されることの少ないカワヤツメの鮮魚を用いた秋田の冬の味覚となっている。

「かやき」は、本来は貝殻を用い、貝からの出汁も利用しようとするものであるが、秋田県内陸部などでは貝を利用しない鍋物料理も「かやき」と呼ばれることが多い。

私の場合は目の前が旧八郎潟。そこへ流れ込む川や用水路にも鮒や鯰がうようよいたから、網や釣り針で釣り、ぶつ切りににしたり、鮒は一匹ごと、葱、豆腐と一緒に煮た。美味しかった。

肝腎なのは煮るのは醤油ではいけないこと。淡水魚はみな泥(ごみ)臭い。それを消すのは味噌である。だから私の食べた「かやき」はすべて「味噌かやき」だった。

実を言うと、小学校(戦時中は国民学校)2年までは味噌汁が医者から止められていた。腎臓が弱く、塩気を摂れば死ぬといわれていた。だが、ある日、盗み飲みで味噌汁を飲んでしまった。ところが死ぬどころか、却って元気になり、運動会では常に1等ではないか。

母親は喜んだ。私の前に生まれた次男坊「琢次郎」が夭折しているので、腎臓の弱く生まれてきた補欠次男坊についても覚悟していたらしい。医者が枕元で「学校へ上がれるかどうか」と父母に言ったのを私は記憶していたから。

それが、味噌汁を飲み始めてから急に元気になり、敗戦後は野球を始めたら、学校では投手で4番バッター、主将になった。爾来、私のおかずは鮒の「味噌かやき」が定番になってしまった。

勿論、貧しい、戦中、戦後の農村。肉屋1軒あるわけじゃなし、スーパーも無い時代。同居していた祖父の捕ってくる鮒と鯰しか「具」は無かった。海の魚は高価。現金収入の乏しい農家の口にははいらなかった。

だから上京後も私が刺身を食えなかったのは厳密に言えば貧しすぎる少年時代を過ごしたためであり、よく考えれば悲しい話なのである。

経緯は省略するが、60歳にしてトロの味に目覚めたものの、いまも豚肉と豆腐、葱の「豚かやき」を醤油味で仕立て、家人も食べている。忙しい時は簡単で助かるそうだ。

別に「茄子かやき」もやる。鰹のナマリ節を買い置きしておき、小鍋に茄子と豆腐を加えて、味噌で煮るのだ。最近は茄子が年をつうじて入手できるから、最も安くて簡便な「かやき」である。

なお、貝殻を用いる鍋料理の方法は『料理物語』などで古くから知られており、島根県には鴨肉やセリを用いたすき焼き風の貝焼きがある。こちらは貝焼き(かいやき)と呼ぶそうだ。2010・2・19
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年09月06日

◆未熟語あれこれ

渡部 亮次郎

パソコンを開けるたびにまずうんざりする。数え切れないほどのエロメール。なんとか出会いサイトとやら。アメリカも似たようなものらしく、NYに住んでいる友人(日本人)はとうとうパソコンを閉じてしまった。

とうとう目を疑った。「"飲む"打つ"買う"・・・現代はプラス"寝る"遊ぶ男のエンターテイメント」。昔は「買う」のは女郎だった。だから「飲む(酒)打つ(博打)買う」といえば放蕩の3拍子。「手がつけられねえ、嫁は世話できねぇ」となったものだ。

それが今の若者にかかると3拍子に「寝る」が加わるという事は何を買うというのだろう。宝石か何かか。日に何十通と来るこの種エロメールの頭の程度の低さ。嘆くばかりである。

「買う」をなくそうと政治家は戦後、"苦労“した。外地から引き揚げてきた人、大都会でアメリカ軍の空襲により焼け出された人々らによって日本各地に売春宿の蔓延したのが敗戦直後。

戦後初めて国会進出をGHQ(占領軍)によって許された婦人国会議員。彼女らが史上初めて声を大にして叫んだのが売春禁止!人身売買反対!。業者は男性国会議員に現ナマを渡して法案の骨抜きを策す。

インターネットでと探すと「中日ニュース」に出ている。”売春汚職”大詰めへ

<犯罪の防止と受刑者の処遇に関して国連第2回アジア会議がこの程東京でひらかれ、アジア地域から16ケ国670名が集り、2週間に亘る会議の幕をあげました。

わが国からは、唐沢法務大臣をはじめ花井検事総長石井警察所長らも出席、人身売買や売春汚職について意見が交わされました。こうしたなかで売春汚職を追及中の東京地検では政界への”第3弾”として自民党の首藤代議士を収贈容疑で任意同行を求め、大阪から急行”いずも”で東京に連行されました。

然し、東京駅での混雑を避けるため一行は横浜で下車、車をリレーして東京に向いましたが、通常国会を前に捜査もいよいよ核心に入りました。龍頭蛇尾に終りたくないものです。(1957年)>

怖れていた通り、事件そのものよりも、法案の処理が龍頭蛇尾に終わり売春を「禁止」するのではなく「防止」と逃げ道を作ったため、売春そのものはなくならなかったどころか、パソコンにまで侵入していること、上述の通りである。

筆者の住んでいる地域にある私立幼稚園の創立者こそは嘗て売春汚職で挙げられた代議士だったが、立派な胸像が幼稚園の玄関に飾られ、岸信介首相による紹介文に売春の文字はもちろん無い。

卒業式で校長がめでたい席なのに校長が卒業生を貶したので驚いた。「卒業証書 右のモノは本校の云々・・・」

これは「右は」と読むべきを校長、漢文を習っていない世代なものだから恥を晒しているのである。

「者」という字は「は」と読む場合があるのだ。楚者と書いて「そば」と読ませている蕎麦屋を見かけるのはそのためである。「右者・・・」と書いて「右は・・・」と読んだのだ。

それを戦後しばらくして高校の授業から漢文を無くすか減らすかしたために「右しゃ」と読んだり、遂には「右の者」と読むに至った。相手を「右のもの」とは誠に失礼な話だ。

「陳者」は「のぶれば」と読む。昔の上流は人を宴席に招待する時はわざわざ書状を発した。巻紙に毛筆でしたためた。時候の挨拶を冒頭にしるしたあと、いまなら「つきましては」という意味で「陳者(のぶればーーさて、申し上げますが)」としるしたのである。1970年代の日本外務省では使っていた言葉だ。

入学式では「まだ未熟者」オンパレードだった。生徒も先生も「まだまだ未熟者」の連発。未熟と書いて「いまだ熟さず」と読むのが本当だから「未熟者」にはすでに「まだ」が含まれている。

まだ未熟といえば2重に未熟をいうことになる。まちがいである。いいたいなら依然、未熟者ですがとかなんとか工夫したほうが良い。

もっとも先生よりは言葉に経験が深そうなNHKの国井雅比古アナウンサー(東大卒)ですら、ラジオ深夜便初出演の4月11日午前3時台で「まだ未開発だった」と言っていたから、未熟者は安心してしまう。

そういえば朝日新聞にも、まだ未熟は時々登場する。漢文を高校でならって居るころ、古色蒼然たる教師は「そのうちに馬から落馬した、などという輩(やから)が出現するだろう、とのたもうたが、あながち外れともいえぬ時代がやってきた。

2010年09月04日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎

まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。

そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。

それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は三年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。2010・7・11

2010年09月03日

◆スキーの出来ぬ雪男

渡部 亮次郎

秋田生まれといえば、れっきとした雪国男といわれるが、事情があってスキーが全くできない。向島生まれの家人は出来るそうだ。

雪国で生まれ育った証拠に、手と足に霜焼の傷跡がケロイド状に残っている。11月で霰(あられ)や雹(ひょう)が降り始めると、手足が霜焼で腫れ、ところどころ破れて傷になる。どうもビタミン不足が齎す栄養不良症らしい。

夕方、気温が低下すると傷は痛みだし、薬を付けるべく膿で張り付いたガーゼを剥がすのが一苦労。洗面器に張った湯に漬けてから剥がした。痛かった。これだけでも雪国は嫌いだ。

少年当時は対米戦争中。南洋から輸入していたゴムがアメリカの潜水艦に沈められるから、冬になってもゴム長は何処にも売っていなかった。学校での「配給」だけで、長距離通学の私には優先的に配給になった。

だから、その大切なゴム長をスキーの金具でこすったりする事は父親に厳禁された。再生ゴムはとても弱くて、中に入れた藁が靴を破って出たぐらい。スキーをはかないまま敗戦を迎えたが、迎えた頃はスキーへの興味も失くしていた。

ところが、仮にスキーの履ける状態だったとしても、スキーの上手くなるはずはなかった。家の周囲は何処まで行っても水田ばかり。坂というものが無いのだから、スキーで滑り降りるところが無いのだ。

それを知らずに、後年、友人が来て、いきなり国立公園八幡台の頂上へ行き、一緒に滑り降りようという。相手は東京生まれながらスキーが出来る。雪国生まれの私をスキーができないなんて思ってない。あれは高所恐怖症でNYの世界貿易センタービルの最上階でキンタマが上がった時より怖かった。

尤も田圃のはるか先にある旧八郎潟は、冬は氷結するからスケートなら上手でしょう、と迫られた。スケートは滑れる。だがこれを履いたのは雪を払った田圃の上であって、八郎潟ではない。

冬の八郎潟はなるほど氷結するが、強風によりところどころに氷結した山が出来ているのでスケートどころではないのだ。しかも春が近付くと氷は割れる。

父方の祖父の兄は氷上漁業中、氷は大きく割れて流されて溺死した。

日露戦争から凱旋した祖父は止むを得ず次男ながら家督を相続、孫に私が生まれてという次第。

そういうわけで高所恐怖症から登山嫌いの私は、夏も冬もレジャーには縁遠い次第。決して都会っ子では無いのに田舎が苦手なのである。
2010・5・24