2008年09月15日

◆沖縄産モズクから腸の薬


渡部亮次郎

モズクは苦手だが、大腸菌O―157に対する殺菌効果を発揮するなど腸内環境改善作用が確認できたとして、薬品利用の特許が申請される。

<水産物加工・モズク製品販売を展開する海産物の「きむらや」(鳥取県、木村隆之社長)はこのほど、オキナワモズク(本モズク)などに含まれる「フコイダン」に腸内環境改善作用が確認できたとして、薬品利用の特許を出願した。

「きむらや」は昨秋から今春まで、鳥取大学の協力を得てフコイダンの腸内環境改善作用を研究。腸過敏性症候群と呼ばれるストレスなどを原因とした下痢や便秘の改善が見られたという。

同社はこれまでに、「フコイダン」による抗がん剤の副作用の抑制効果でも特許を取得している。酢の物の需要が頭打ちとなり取引価格が低迷する沖縄県産養殖モズクの新たな需要拡大に、県漁連なども期待を寄せている。

フコイダンはモズクやメカブ、コンブなどの海草類に含まれるが、含有量はオキナワモズクが最も多いという。

同社は1996年、製造する味付けモズクが大腸菌O―157に対する殺菌効果を発揮したことを発見。以降、食品としてだけでなく医薬品などとしてオキナワモズクの可能性を研究している。

2006年にはがん細胞と同時に正常な細胞も破壊する抗がん剤の副作用から正常細胞を守る働きも発見し、特許を取得した。

当面は特定保健用食品として液状や粒状の「腸内環境改善剤」を販売する方針で、同時に医薬品としての実用化も目指すという。商品は子会社のキムラヤファンクショナルフーズでネット販売する。
URLはhttp://www.fucoidan1.jp/index.html

沖縄県漁業協同組合連合会(下地敏彦会長)の担当者は「定番の酢の物の需要は頭打ち状態だ。開発は新分野での需要開拓につながる」と期待を寄せた。同時に今後は県内でも2次加工品の開発を進める必要性も指摘した。>琉球新報 2008年9月10日


モズクを食べるのは日本人ぐらいだろう、と思ったが台湾でも食べるようだし、身体にいいと分かったからには、やがてハンバーガーの人も食うだろう。

雪国の海では採れない所為か、秋田生まれの私は東京で大人になったけれど、だからと言ってモズクの酢の物は苦手な食べ物のトップである。

腸は記者時代、水害取材で赤痢にやられて以来、強くないほうだから液状や粒状の「腸内環境改善剤」が販売されたら買いたいものだ。

ところでモズク(水雲、海蘊)は、褐藻綱・ナガマツモ目のうち、モズク科やナガマツモ科に属する海藻の総称。枝分かれのある糸状藻類である。漢字表記では「藻付く」とも。

長さは数十cmほどもあるが、幅は1―数mmほどしかなく、各所で枝分かれする。表面には多糖類が分泌されており、手で触れるとぬめりがある。

おもに熱帯から温帯の浅い海に分布する。日本沿岸では冬から春にかけて、光が届く潮下帯の岩礁に生えるが、夏には他の海藻類と同様に枯れてしまう。

ホンダワラなど他の褐藻類に付着することから「藻付く」という名がついたといわれる。オキナワモズクなどは褐藻ではなく石に直接付着する。

主産地は、日本では沖縄県、日本国外では、トンガが特に有名である。台湾などでも、髪菜(ネンジュモ)の代用品としてオキナワモズクの養殖が試みられており、「海髪菜」という商品名を付けている。

食材としては、食酢で和えた「もずく酢」や、塩に漬け込んだ塩辛などが一般的である。土佐酢、三杯酢などと合わせてプラスチック容器に入れ、そのまま食べられるように加工した食品が主に流通する。

他にも生のモズク(あるいは塩漬けを十分塩抜きしたもの)に衣をつけて天ぷらにしたり、吸い物、雑炊などにも利用される。沖縄では衣が厚い独特のてんぷらにソースをつけて食べる。

海中に自生している時は褐色だが、他の褐藻類と同様熱湯に通すと緑色が出てくる。噛むとワカメのような歯ざわりがあるが、表面の多糖類のため、ぬるぬるとした食感が先に立つ。

成分

ぬめり成分―多糖類(食物繊維)
フコイダン(Fucoidan)―フコース
アルギン酸
フコオリゴ糖
キシロース
カロテノイド - フコキサンチン(ビタミンAの1つ)
アラキドン酸(必須脂肪酸・ビタミンFの1つ)
ビタミンC
ビタミンK
エイコサペンタエン酸(EPA)
フコステロール
アミノ酸 - グリシン
無機質 - マグネシウム、カルシウム、カリウム、リン、ナトリウム、鉄

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・09・11

2008年09月12日

◆上海でも焼肉食べるのか


                     渡部亮次郎

上海には4年ぐらい前にも行ったが焼肉屋には入らなかった。中国へ日本食を食いに行く事は無いからだ。だが、情報によれば、このところ上海市内には400あまりの日本料理店があり、そのうち焼肉専門店も年々増加しているそうだ。

中には人気があるため予約なしでは座れない店もあるほどとか。焼肉店の様子は日本と大差ないが、他の日本料理店に比べて中国人客も多いようである。

味について言うならば日本とはかなりの「開き」。日本の「霜降り牛肉」のような上等な肉はあまり見られず、現在はまだ産地やグレードへのこだわりも少ないようだ。

そもそも中国では「肉」といえば豚肉であり、牛肉の消費量は比較的少ない。例えば2004年の上海市都市住民の年間平均消費量は、豚肉18・4キロ、家禽(あひる)11・8キロに対して牛・羊肉は2・5キロである(「上海統計年鑑」)。

年間国内生産量も豚肉4,702万トンに対し牛肉は676万トンで豚肉の1/7しかない(「中国統計年鑑」)。

ただ、「中国人は牛肉が嫌い」なわけではなく、従来は伝統的に食べる習慣がなかったということである。最近では「火鍋」(中国風の寄せ鍋)料理のブームで、羊肉や牛肉の消費が飛躍的に高まっており、また焼肉を好む人も多くなっているというわけだ。

中華料理には焼き網や鉄板で肉をあぶって食べるというスタイルはないことから、中国で焼肉といえば韓国式か日本式ということになる。現在、上海市内に韓式焼肉店は約300店、日式焼肉店は約50店ある。

中国の牛肉の産地は、河南、河北、山東、吉林省など華北、東北地域に多い。牛肉の対象となる牛は「黄牛」といわれる農耕牛の系統や、水牛が多い。

韓国式焼肉はタレの味で勝負し、日本のように肉そのものの品種やグレードにはうるさくないため、主にこうした肉を使用している。

かつて上海の日本式焼肉店も、中華料理や韓国料理と同じ牛肉を使用していたが、近年になって、霜降りの「黒毛和牛」を使用しているという宣伝文句で差別化をはかる店が次々と現れた。中には、「神戸牛」や「松阪牛」を出すという店もある。

ただし、日本は中国から狂牛病発生国に指定され、中国への牛肉の輸出は禁止されている。従って、もし「神戸牛」や「松阪牛」という日本産の牛肉が出回っているとすれば、それは通常ルートで入ってきた商品ではない。

中国で食べることのできる「黒毛和牛」には大きく2つのルートがある。1つは「オーストラリア産」で、もう1つは「中国産」である。

2004年中国の牛肉輸入は、オーストラリアからが最も多く、2,147トン(生鮮・冷蔵・冷凍、骨付き・骨なし合計、以下同)であった。次いでニュージーランド825トン、ブラジル422トンの順である。米国からは41トンで、2002年の8,422トンから著しく減少している(「税関統計」)。

オーストラリア産牛肉の中には、黒毛牛の血統のものがあり、それらのうち上質のものが「黒毛和牛」として日本式焼肉店で出されている。

一方、中国産の黒毛牛の流通ルートが確立されたのは、つい最近のことである。

2005年8月に日中合弁で遼寧省に設立された大連兼松雪龍食品有限公司は、瓦房店市(大連郊外)の「雪龍牧場」で黒毛和牛の血統を肥育し、併設の食肉センターで加工し、中国各地に販売している。

肥育技術は、鹿児島県の業者が指導している。現在牧場には約1万頭肥育されており、2年後には1万5,000頭に増加する予定である。

懐が豊かになると本物(日本産)を食べたくなるのは何処でも同じ。

2006年4月、上海市出入境検験検疫局は市内の食品会社や卸売市場の検査を行い、日本、米国、カナダから密輸された牛肉2トン余りを押収した。

このニュースが5月10日付けの新聞で一斉に報道され、狂牛病発生地域からの牛肉密輸に対し警告が発せられる形となった。

この摘発報道を受けて、日本式焼肉店でもフリーペーパーに載せる広告から「黒毛和牛」や「神戸牛」などといった表記を減らし、「黒毛牛」という表記にとどめるものが増えたそうだ。

2008年でも魚の底に日本から牛肉を密輸しようとした事件が北海道で摘発されている。反面、国内生産も本格化しそうだ。

税関統計によれば、2002年に9,000頭、2003年に4万1,000頭、2004年に6万9,000頭と、この3年間で約12万頭の種牛がオーストラリアから輸入された。

遼寧省には「雪龍黒牛」のほかに、オーストラリアから導入したアンガス牛(イギリス原産の黒毛牛)を大規模に飼育している「大連華牧集団」もあり、焼肉用牛肉の一大生育地が形成されつつある。

また「焼肉文化」は地方都市にも徐々に波及しようとしている。大分県で建設業を経営する深田栄次さんは、2002年に単身で湖北省の荊州市に乗り込み、牧場経営を始めた。

今後、中国でも焼肉を食べる時代が来るだろうと見込んで、研修生受け容れなどで縁のあった荊州市に投資をした。現在、黒毛アンガス牛を約200頭肥育しており、省都の武漢市に焼肉店を開く準備中をしている。

魚が中心の日本料理は、地方都市に浸透しにくいのに対し、焼肉は中国人社会に比較的簡単に受け入れられやすいらしい。羊肉しゃぶしゃぶの「火鍋」料理がここ5年の間に中国で急速に拡大したように、日式焼肉が中国全土に拡大することも十分に考えられる。

焼肉が普及すれば、それを中心としてロースター、炭、タレ、サイドメニューなどの分野でのビジネスチャンスも発生する。

また、日本からの牛肉の輸入が解禁されれば本物の「黒毛和牛」も流通することになり、富裕層を中心に顧客層の幅、数も更に増加するとみられ、今後の展開が注目されよう。2008・08・04

参考;『中国経済』(JETRO)2006年9月号
http://www.pref.oita.jp/14300/shanghai/report/2006-4.htm

2008年09月11日

◆佐藤千夜子色気なし


                    渡部亮次郎

佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日―1968年(昭和43年)12月13日)は日本初のレコード歌手。
1946年(昭和21年)、千葉の教師から大金を詐取して逮捕。

1952年(昭和27年)、古着屋からかつて自分の所有品だったコートを無断で持ち帰ろうとして新聞沙汰となり、事実上芸能界から引退。

本名は佐藤千代。山形県天童市出身。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。

日本初のレコード歌手だったから、初めは各方面で「もてた」。後に歌謡界の大御所となる古賀政男も「酒は涙か溜息か」が名曲となったのも千夜子に最初に歌ってもらったからだった。

しかし、とにかく色気が無い。女性らしい、ふくよかさゼロ。温かみも皆無。ただただ高い声で叫んでいるだけだ。ソプラノかも知れないが、当時の日本男性、歌手が女性でありさえすれば夢中になったとは情けない。

子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン(Miss.Kirwan)と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。

ミッション系である普連土女学校(現普連土学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し強い感銘を受け、音楽を志す。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学。在学中に作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情らと知り合う。中山、野口と共に「全国歌の旅」に出る。

1925年(大正14年)、ラジオ放送(NHK)が開始され、ラジオを通して歌うようになり「青い芒(すすき)」でレコードデビュー。発売元は内外蓄音器(後の太平蓄音器)。

1928年(昭和3年)、中山、野口らと共に行っていた「新民謡・新童話コンサート」から生まれた「波浮の港」を日本ビクターよりリリース。これが日本初の商業レコードとされている。

「波浮の港」は10万枚の大ヒットとなる。同年に「当世銀座節」をリリースしヒットする。また古賀政男の「影を慕いて」を歌う。これにより、古賀はメジャーデビューのきっかけを掴む。

1929年(昭和4年)、「東京行進曲」を5月1日にリリース。菊池寛原作の同名小説を映画化した作品(主演夏川静江、入江たか子)の主題歌に用いられ、日本初のタイアップ曲。25万枚以上を売り上げ特大ヒットとなった。

また、全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となる。この曲は「歌謡曲」というジャンルを確立した曲でもある。「東京行進曲」のB面曲だった「紅屋の娘」も一世を風靡した。

同年、「愛して頂戴」「黒ゆりの花」をリリースしこれらもヒットを記録。

1930年(昭和5年)、「唐人お吉の歌(黒船篇)」、「この太陽」をリリース。次々とヒットを飛ばす。同年にイタリアに渡る。理由については、中山との不倫問題を決着させるため、当初から志望していたオペラ歌手になるためなどの説がある。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。
しかし、アメリカに残る伝説では日本を出発した船中で日本人の柔道家と恋仲になり、イタリアへ渡る前、爛れた生活を送った。

1934年(昭和9年)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与されるもののオペラで名声を得ることはできなかった。

同年に帰国し、日本国内での復帰を目指すが、若手の台頭などもあり果たせず終わる。彼女の時代は終わっていた。

戦時中は南方戦線の慰問をして回る。山本五十六に前線で兵士が愛唱していた「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと依願されたこともあった。

癌は乳癌に始まり、嘗てアメリカで馴染んだ男性の縁者が東京に呼び出されて面会すると、乳癌の悪臭で息が詰まったと言う。


1968年(昭和43年)12月13日、ガンのため都立大久保病院で死去。享年71。生涯独身で家族はいなかった。地元天童市の共同墓地に埋葬されている。同市の佐藤千夜子記念館は佐藤の生家を再現したものである。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「東京行進曲」は当時としては天文学的なセールスを記録し、大震災で消滅していた銀座の柳がこの曲の「昔恋しい銀座の柳」の歌詞から復活したという経緯もある位であった。

この「東京行進曲」の4番は元々、「長い髪してマルクス・ボーイ、今日も抱える赤い恋」という歌詞だったが、「シネマ見ましょか、お茶飲みましょか、いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞に改められた。

作詞家の西条八十は後に、この歌が縁になって小田急の顧問に迎えられている。また「愛して頂戴」の作曲者は松竹蒲田音楽部となっているが、実際は中山晋平が、あまりに低俗な歌のため作曲者として実名を出すのを憚ったという話がある。

飛ぶ鳥落とす勢いであった千夜子だが、当時は流行歌手の地位は低く、本来、クラシックを目指していた事情もあり、「東京行進曲」の印税で人気絶頂の4年にイタリアへオペラの勉強のため留学。

しかしこれが千夜子の命取りになった。5年間のブランクは、もはやレコード界に千夜子の席を用意していなかった。ミラノでも日本民謡などは評価されたが、肝腎の西洋ものは全く評価されず、派手な生活もあって領事に金の無心をするなど滅茶苦茶な生活を送っていた。

9年の日本への帰国船では、ローマで交友があったテニス日本代表選手が先に帰国途中の船からインド洋に身投げをした事から、その場所を通りかかった際に洋上に花束を投げて故人の好きだった「上州小唄」を歌い、大変な話題になった。

しかし肝腎な歌の方では鳴かず飛ばず。これ以降の千夜子は歌と関係のない話題で世間を騒がせ続ける事になる。

しばらくは二流の劇場でアリアなどを歌っていたが、10年にはミラノ領事に借りた金を返さなかった事から、領事の遺族に訴えられ、新聞沙汰になる。

戦時中は南方戦線の慰問などをしてまわり、18年には山本五十六に前線で兵士が愛唱している「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと頼まれたりもしている。

その後は地方巡業などで生計を立てるが、26年には銀座のビル内でたまたま強盗に遭遇し縛り上げられ、この事件は当時の新聞などで大変な話題となった。

ガンとなり、外人家庭のメイドなどをして暮らし、晩年はその日の生活費を無心して歩くほどの困窮を極めた。

死の直前までリサイタルを開く事を夢見て、入院先の病院でも担当医師に「東京行進曲ってご存知?」と問うて、世代的に千夜子の名声を知るべくもない壮年のその医師が東京音頭と勘違いして答えると、大変に不機嫌な態度をとったり、最後の最後まで往年の名声を忘れられずに生きた不幸な人だった。

派手な生活も改める事を出来ず、43年8月に医療保護患者として都立大久保病院に入院、11月に知人が見舞いに訪れた際にも「モンテカルロでバクチで儲けた」などとかつての栄光の日々の思い出話ばかりをしていたという。

生涯独身で家族はいない。天童教会の共同墓地に眠る。訃報は新聞の東京版のみの掲載となり、その死を知ったのは都内在住者など一部に限られた。

その数奇な運命はNHKの朝ドラ「いちばん星」のモデルとなった。故郷の天童には佐藤千夜子記念館がある。

「誰か昭和を思わざる」。
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer04.html

2008年09月09日

◆「負けるが勝ち」とは



渡部亮次郎

「負けるが勝ち」とは「一時は相手に勝ちを譲り、強(し)いて争わないのが、結局は自分に勝利をもたらすということ」(「大辞泉」)「強いて争わず、相手に勝ちを譲るのが結局は勝利となる」(広辞苑)

連合国に敗戦を体験した世代はこの諺を叩き込まれた。しかし体験せず、生まれ落ちた瞬間から自由と民主主義と自己主張の大切さを教え込まれた団塊の世代以降の人たちは、負ける事が最後には勝者になることの真意が理解できない人が多い。

ところがインターネットを逍遥していたら、多分、アメリカからの留学生が、自己主張の国育ちの青年が、京都のおばあさんからこの諺を教わり、納得した事を弁論大会で語っていた。

日本で得た知識や経験

「負けるが勝ち」 ジョシュワ・ウィークス(Joshua Weeks)
http://kyotowestlions.jp/benron01/t01-06.html

この間、お世話になっているホストファミリーのおばあさんからおもしろい話を聞きました。日本では「負けるが勝ち」という慣用句がある、という話でした。

僕はその日、ホストのお母さんと小さなケンカをしていたので、おばあさんはその解決法をアドバイスしようとしたのです。

「負けるが勝ち」というのはつまり、自分が賛成していなくても周りの人の意志に流されたり、自分が悪くないと思っても謝ったり、自分のプライドを犠牲にすることで結局自分が得をする、ということです。

「私はずっとこうして生きてきて、今は友達がいっぱいいて、楽しいのや。お兄ちゃん(僕のこと)もね、日本語上手やけど、日本人の心がまだわからへんやろ?」とおばあさんは言ってくれました。

この話を聞いて、僕はいろいろ考えさせられました。アメリカ人と日本人の心理の違いとか、集団主義と個人主義とか、両国の子供の育て方とか。そして僕は、アメリカ人は、これで何が学べるのかということも考えました。

僕のホストファミリーには2歳と5歳の子供がいて、ホストのお母さんとよく子供の育て方やケンカの解決のし方について話をしています。

日本では、ケンカなどをする時、お互いの行動を読み、自分の行動をそれに合わせて大ゲンカを避けることが好ましいと、お母さんが言いました。これを「以心伝心」と呼びます。

しかし子供達は小さい頃にまだこういったことができなくて、自分が考えたことをそのまま口に出してしまいます。

歳をとって行くにつれ、だんだん他人と調和して接することができるようになると、お母さんが続けました。

僕の考えでは、このような社交性はおばあさんが言っていた「負けるが勝ち」にとても似ていると思います。日本ではこのように、周りを見て、自分から合わせようとする行動が社会化と見られているようです。さらに一生を通して、このことが人間の成長と思われているようです。

アメリカ人はこれで何が学べるのでしょうか。

アメリカでは、争いをどう解決しているのかと質問されても、答えは不明です。自分が「素直に生きている」と思い、争いが続いても謝らないでいられる人が多いと思います。

日本では、平和そのものが好ましい目的として考えられているからこそ、人は簡単にうなずいたり、謝ったりすることができます。

アメリカ人も平和を自分のプライドより優先したら、ケンカや問題の解決や、平和の達成に役に立つはずです。

僕はその日、ホストのお母さんとケンカしてしまった時、早くこれに気付き、早く謝ったとしたら、絶対に問題が解決され、進んで行けるようになったはずです。

アメリカには、日本人、またはアジア人の「集団主義」を「自我の抑圧」として非難する人がたくさんいると思います。僕も、日本人の行動の中で個人の意志がなくされているのではないかと思ったことがあります。

しかしおばあさんの話を聞いて、彼女の生活を見て、感覚的に、「集団主義」を通じて幸せになっている人がいる、と分かりました。

毎日何時間も色々な地元に散らばっている友達と嬉しそうに話して、こう生きてきたことを誇り、そして自分の人生に満足感を持っている人だと強く感じました。

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2008年09月08日

◆隠す事は顕(あらわ)る


渡部亮次郎

What is done by night appears by day.
直訳すると、夜行なわれた事は日中にばれる。英語でもこう言って戒めている。「隠す事は顕(あらわ)る」。

「隠し事は、隠せば隠すほど、人々の注意を惹き、早く知れ渡ってしまう」ということ。「隠せば、いよいよ現る」「隠すより現る」とも。旺文社「成語林」より。

だから「壁に耳あり 障子に目あり」と言った。それなのに福田首相の隠し事(総理を辞めたい)は最後まで顕れなかった。見事なのはこれだけにしても。醜女がサングラスをすると却って目立つと同じ。

<福田首相辞任 4月から「辞めたいなあ…」

退陣会見(9月1日)は突然のものだったが、首相にはすでに今年4月から退陣の2文字が頭をよぎっていた。

首相が後見人でもある森喜朗元首相に辞意を漏らしたのは、改正租税特別措置法の衆院再可決を前にした今年4月だった。

大連立構想の破綻(はたん)に始まり、日銀総裁の空席、ガソリン税の暫定税率失効と「ねじれ国会」にくたびれ果て、「辞めたいなあ。もう外遊もしたくないよ」と、森氏に赤裸々に語っていた。

首相は、4月末から5月の大型連休にかけて予定していたロシアとイギリス、ドイツ、フランスの欧州3カ国訪問を取りやめたいと漏らした。

ロシアとのパイプが深い森氏は「少なくともロシアだけは行くべきだ」と説得した。

その結果、首相は欧州3カ国歴訪は見送ったものの、ロシアには出向き、メドべージェフ、プーチンの新旧大統領と会談した。

森氏らは、北海道洞爺湖サミットが終了後、声高に内閣改造熱をあおった。

森氏は福田首相が内閣改造(8月1日)を断行する半月ほど前の7月中旬、周辺にこう語った。「おれは福田さんの背中を押してやるだけだ。自前の内閣を作って、9月までしか持たないかもしれないが、そこまでは頑張ってほしい」

人事を断行しても支持率は低迷。身内の公明党からも揺さぶられ、臨時国会の乗り切りは誰の目から見ても容易ではなかった。

森氏が首相から、退陣表明の連絡を受けたのは1日午後7時半過ぎ。緊急会見のわずか2時間前だった。2人の関係からすれば水くさいものだ。

驚いた森氏は「待て。慌てるな。これから官邸に行く。話し合おう」と電話口で食い下がった。

首相はきっぱり拒否した。「来なくていいですよ。もう遅い。記者会見をすでにセットしたから」

決断できないリーダーと言われた福田首相の最後の決断だった。>
(9月3日2時31分配信 毎日新聞)

明確に分かるように、この記事は森氏の述懐で成り立っている。福田首相は「辞めたい」と4月から言い始めていたことを明快に述べている。

ところが、私のところに「福田は辞めるよ」との特ダネ情報のメイルで入ってきたのが4月8日だった。直接、森氏からではなかったが、森氏に接近できる筋からではあった。

あの時点で「辞めたい」という福田首相の声を生で聞いたのは今のところ森氏しかいない。だとすれば森氏がどこかで誰かに洩らしたからこそ「4月8日」情報が、密かながら流れたのである。

だから専門家筋では「福田辞任は近い」と見るのが一般的だった。従って、内閣改造と党4役入れ替えを断行(8月2日)したことに驚いた筈である。「辞意を撤回したかな」と。

隠せば顕(あらわ)る。顕れなかったところからすると逆に福田首相は隠さなかったのか。辞意表明のタイミングを狙い始めた頃は既に顔に出ていたと、彼と親しい「山堂」氏(『頂門の一針』常連執筆者)は言っている。

毎日、追いかけている政治記者1年生たちの目が節穴だったのは残念だったが、何もできなかった福田氏、自分の危機管理だけは出来たという事か。そこが「あなたと違うんです」か。

ところで「隠せば顕(あらわ)る」は「広報」の本質を突いている。
そこには「情報」が元々「秘匿」の必然性を持っているから、「広報」は「秘匿」したほうが効果を大きくすると言う原則になる。

「実は、ここだけ、きみにだけ明かす話なんだけどね」と相手を特定して話した話は「特ダネ」だから大きく報道される。「抜かれた」各社は仕方なし「後追い」。これを役人にやらせると共同発表にするから各社一斉「ベタ」(1段)扱いで終わり。確かに情報は「操作
できる。2008・09・07


2008年09月07日

◆小池首相は大穴過ぎる?


渡部亮次郎

確かな筋の情報だと総選挙は11月9日(日)の投票日で動かないだろう、という。年寄り趣味で日めくりを繰ってみると「先負」である。自民党が投票日を「大安」以外に持ってきた例は殆ど無い。いいのかな。公示日は10月28日ということになる。

昔の保守系政党は選挙の投票日を「大安」の日にする事に拘った。1960年代の佐藤栄作総理大臣時代、幹事長の田中角栄が総選挙の投票日を国会運営の都合上から決めようとして適当な日を口にしたが、国会対策委員長だった園田直が別の日取りを口にした。

NHKは幹事長の言った日を見出しにとってニュースを流したが、園田は「総理は縁起を酷く担ぐ人だから、ワシの言った日になる」と断言。実際、園田の言うとおりになった。私はいわば「訂正記事」を放送して報道局長賞を貰った。

さて、今回、自民党の総裁選挙は9月22日に投開票日。結果もその筋によると、「麻生首相は動かないと思うが、小池百合子首相の大穴が出るかもしれない。小泉元首相はそれを予言している」と言う。

今の自民党の総裁選挙劇は多分に仕組まれた段取りを踏んでいる。民主党が密室で小沢3選を強引に決めたのに対して、自民党幹部は次から次へと立候補の名乗りをあげることを容認しているのだとか。

マスコミも山本一太まで追いかける騒ぎだ。自民党はマスコミから民主党を孤立させる一方、候補乱立で麻生を決選投票に追い込み、各派が恩を売るハラだ。

臨時国会は9月24日に召集、ただちに衆院で新首相の選出が行われ、夕刻から組閣。新内閣の顔ぶれが決まる。麻生首相ならほとんどの閣僚が留任、幹事長と官房長官を中心とした小幅人事になるだろう。

しかし、大穴の小池女性総理となると、新内閣の顔ぶれはガラリと変わる。小泉改革派が復活し女性閣僚も大幅に増えるだろう。政策がどう変わるかより、日本憲政史上初の女性宰相と言うことで、世の中、騒然となることだろう。

民主党はその前日に小沢代表が無競争で3選されている。マスコミ上は沈黙のままだ。新首相の所信表明は9月29日。10月2日から各党代表質問を行って早ければ3日に衆院解散。総選挙は10月28日公示、11月9日投票日となる。

自民党に話題を浚われた形の民主党は今になって小沢無競争3選を早々と決めたのは戦術的な誤りと言っているが祭り後の侘しさなった。完全に自民党の総裁選劇に埋没している。22日までこの調子が続くであろう。

それに大穴の小池女性総理にでもなるとマスコミは衆院解散後も小池内閣を追い回さねばならない。新閣僚のインタビューだけで10日以上はかかるから、民主党の出る幕はなくなる。「いかにも小泉さんが考えそうな劇場型の政治である」。と長老。

「日本初の女性首相を売り文句にする小池百合子元防衛相、意外と人気がない。地方県連では小池氏の声がかからない。

小池人気が沸かないのは、小泉構造改革がここにきて叩かれる傾向が強まっていることと無縁ではない。小泉改革の継承者というのは、もはや錦の御旗ではなくなっている。それだけ大都市と地方の格差が大きくなっている証拠だろう。

麻生人気の高まりで、反麻生の急先鋒だった野中広務氏は沈黙を守っている。

どうやら総裁選をやるまでもなく麻生首相の道筋が固まったようだ」。大穴狙いは駄目か。                  2008・09・07


◆おらゴム長と織田信長


渡部亮次郎

「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈(いずれも故人)らに流れを発する「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」を指す場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」が付く曲は概ね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12(1937)年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。参考:ウィキペディア  誰か昭和を思わざる http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html

2008年09月06日

◆麻生総理阻止の野中


渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)


元政治記者とは言えど、現場を離れて久しい。国会議員の大半と対面した事が無い。厭がる福田を無理矢理、担ぎ上げる主役を演じたとされる引退者野中広務という人とも会ったことは無い。

厚生大臣秘書官時代、京都の医療団体によるアサヒビール株の買占め事件が起こり、担当部長を派遣したが、官側とみられた副知事は買占め側だったので慌てたことがある。野中が副知事だった。

以下はすべてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠る。ただ、ウィキをつなげて読むと今の「坊ちゃん政治家」、いな森喜朗、小泉、麻生クラスでもとても太刀打ちできまい、と納得せざるを得ない。

共同通信社社会部出身の作家魚住昭の『野中広務 差別と権力』によると、麻生太郎は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の自由民主党総務会で、野中に以下のとおり非難された

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。

そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

大勇会=たいゆうかいは、自由民主党内の派閥のひとつ。旧河野グループ。現在衆議院議員10名・参議院議員1名で構成されている。

1998年12月、宏池会=宮澤派=が加藤紘一会長の加藤派となることに河野洋平が反発する形で脱退・結成。会長は河野。メンバーには息子の河野太郎がいる。

部落問題を抱えない殆どの東北人に、被差別問題の深刻さは理解が困難だろう。秋田生まれの私も大阪勤務を経験して初めて少し理解した程度。

口先では普通に付き合いながら、心の底では軽蔑されている屈辱。想像を絶する被差別感。拭っても拭いきれない。

先祖が止むを得ず家畜の屠殺に関与していただけを理由に就職や結婚で受けるいわれなき被差別。これによって自殺に追い込まれる例も多い。

関東にも戦前はあったが、東京大空襲で文字通り殆ど消滅したので、実感する人はなくなった。被差別だった人が権力を持つと如何なる事になるか、日本政界は野中によって初めて振り回された。

2000年に小渕首相が倒れると、野中幹事長「代理」が呼びかけて森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。(これ以後、森は野中に頭が上がらない)。

この協議は、首相を5人組によって密室で選出させたたものとして、野党から厳しく追及され、国民からも大きく批判された。野中は、森の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格し『権力』を握った。

国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫民主党代表に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した(野党ながら鳩山も野中に頭が上がらない)。

同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。その直後、野中は幹事長を辞任、後任に古賀が就任した(加藤も古賀も野中に頭が上がらない)。

この頃、小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたることもあった(「影」だから逆に威力がある)。

森首相退任に伴う2001年自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀、鈴木宗男らや公明党から野中待望論が挙がるも、橋本龍太郎や村岡兼造ら派幹部からその突出振りを疎まれていたため支持が集まらず、結局橋本を担ぐことになる。先の麻生発言は、このような時期になされた。(恨みは骨髄に徹した)。

橋本派は業界団体との強いパイプなどから圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。

2003年自民党総裁選で、主戦論を唱え、青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、新藤義孝外務政務官、村岡兼造元官房長官、大村秀章内閣政務官らと激しく対立。

一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した(「毒まんじゅう」はこの年の流行語大賞に選出され、本人が授賞式に出席した)。

野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に望んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。

2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を『非情の政治』と批判した。また、野中自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。

2005年の第44回衆議院議員総選挙に立候補せず引退。かつて選挙区(京都府第4区)で後継者指名をした田中英夫(前亀岡市長)が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民党から公認を得られず無所属で出馬するも落選。

刺客として自民公認で出馬した中川泰宏元船井郡八木町長に敗れたもの。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、2002年の京都府知事選に笹野貞子元民主党副代表の応援を受けて立候補・落選して以来、野中との対立が決定的なものとなった。

小泉の後継者である安倍晋三が総理大臣を辞職すると、古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新5人組)の1人とも言われた。しかも手下の古賀誠が自民党選対委員長に就任していることもあり、低下していた野中の影響力がまた大きくなっている。

2006年10月より平安女学院大学客員教授として政治学を中心とした教育、研究を実施している。(文中敬称略)出典:「ウィキペディア」2008・09・05

2008年09月05日

◆貝原益軒を知らない?


渡部亮次郎

貝原益軒 かいはら えきけん 1630年11月14日〜1714年10月05日(陰暦 08月27日)。世界最長寿国日本誕生のための学問の元祖とも言うべき大学者なのだ。或いは日本のアリストテレスと称える人もいる。

当時としては驚くべき長寿の83歳の正徳2年(1712年)に自身の実体験に基づいて「養生訓」(ようじょうくん)を遺し2年後、当時としては想像もできない長寿を実践した。長寿を全うするための身体の養生だけでなく心の養生も説くというところに特徴がある。

『孟子』の君子の三楽にちなんで、彼は養生という点からの三楽として次のものを挙げている。

(1)道を行い、善を積むことを楽しむ
(2)病にかかることのないのを快く楽しむ
(3)長寿を全うすることを楽しむ。

また、その長寿を全うするための条件として、彼は、自分の内外の条件を指摘している。まず自らの内にある4つの欲を抑えることとして、次のものを我慢するべきだという。

(1)あれこれ食べてみたいという食欲(メタボ)
(2)色欲(SEX)
(3)むやみに眠りたがる欲(宿酔い?)
(4)徒らに喋りたがる欲(この輩は案外多い)

これらを押さえた上で、季節の暑さ、寒さ、湿度などの変化に合わせた体調の管理、これらが揃って初めて健康で長寿が生きられるという。結婚を39までせず、岡場所へも行かないと言うのでは私に長寿は無縁だ。

これらすべて彼自身の体験で、これは愛妻家であった彼の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都などに物見遊山にでかけたりし、睦まじく長生きしたという。

福岡市生まれ 福岡藩士。大学者として『養生訓』他多くの著書を残す。

1630(寛永7)年11月14日、福岡城内の東邸で誕生、父貝原寛斎(1597-1665)の五男として。父寛斎(孫太夫利貞)は黒田藩主、忠之、光之に前後15年間仕えた。食禄百。50石ほどであった。

益軒は名を篤信(あつのぶ)、通称は久兵衛と言った。6歳で母死別、母親代わりの「地行婆」という家政婦に当たる人に兄弟共に育てられた。

7歳ころ現在の博多築港辺りに移住、幼い頃から環境もあったか、読書好学の精神が見られ平仮名、片仮名を覚え小説・草子類を好んで読んでいた。

8歳の冬、父の異動で一家は穂波群は八木山(現飯塚市)に又父、長兄が島原の乱に参加、留守中次兄から漢字、漢詩等を学びいろいろ勉強、読書好きで「平家物語」「保元物語」・・・古典を人に借りて愛読している。彼が「四書」を始めて読むようになったのは14歳のときである。

11歳の時、福岡に帰り、さらに怡土群(いとぐん)井原村(前原市前原)に移住、この時に「太平記」を読んでいる。次兄存斎について学んだ益軒は、終生特定の師について学ぶことはなかった。

次兄は医学を学びに京都に留学しているが、医学より儒学を好みしかも仏教を排斥、益軒にも仏教信仰を捨てるように教えている。この影響は大きく、この頃当時の新しい学問、朱子学への第1歩を踏み出した。

一方、父からも医薬の知識を受け、自らは「医学正伝」「医方撰要」「万病回春」等を読み、ほぼ医薬の道も知るようになっている。次兄について学んだ儒学、17歳の時に「小学」を読んでいる。

1648(慶安元)年、19歳の時に初めて出仕(藩主に仕えること)、藩主忠之の御納戸御召料方(おなんどおめしりょうかた)という衣服調度の出納係りの近侍となり4人扶持を受けるようになった、これ以降48年間、光之・綱正と3人の藩主に仕えてさまざまな業績を残した。

出仕・長崎生活・浪人・江戸生活(19-27歳)、生涯12回江戸へ。京都へは24回も行っている、福岡藩長崎警備で藩主に同行、一時期藩主の機嫌を損ね、免職、浪人生活(7年間)にもなっている。

この間自費で前後3回にわたって長崎に遊学、積極的に中国文化の摂取・吸収に務め、唐通事・蘭通事とも交際している。

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2008年09月04日

◆スパイからの領収書


渡部亮次郎

大韓民国第5〜9代大統領朴正煕氏が嘆いたことがある。「スパイから領収書を取って来いと会計検査院(?)は言う、わが国の先は長くない」。在任中、青瓦台(大統領官邸)に招いて会談した日本政界の指導者園田直氏に打ち明けたものである。

当時、韓国政府に会計検査院があったかどうかは知らない、日本で言えば会計検査院のように「領収書」一点張りで国家予算の行方を監視する組織の事だろう。

問題は敵のスパイを懐柔するために握らせた現金(ゲンナマ)について領収書が取れるか取れないか。取れないのが常識だが、検査院は「領収書の添付されていないカネは使途不明金」との主張を変えない。

検査院とは、そういう姿勢を貫く事が大事だが、「常識」をまた認めないことには「政治」が行き詰まってしまうのも事実だ。朴大統領としては検査院が業務を厳しく遂行して欲しいが、スパイから領収書を取って来いなどと言う馬鹿げた事は言うべきでないというのが嘆きだったろう。

大手建設コンサルタント会社「PIC」によるベトナムでの贈賄事件は東京地検が8月25日、関係者4人と会社を起訴したことで、一連の捜査は終結(産経新聞26日付)。

<ベトナムでの政府開発援助(ODA)事業をめぐる贈賄事件で、東京地検特捜部は25日、不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)罪で、大手建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)前社長多賀正義容疑者(62)=詐欺罪で起訴=ら4人と法人としての同社を起訴した。

このほか起訴されたのは、元常務高須邦雄(65)、元役員坂下治男(62)、元ハノイ事務所長坂野恒夫(59)の3容疑者>。(同)。

東京地検特捜部の検事たちは一体、ベトナムの公務員たちが、低賃金を補うためODAに絡む多額の「賄賂」を分配し合っている実態を知った上で捜査したのか。

その実態を熟知する日本企業は賄賂の「要求」に応じる結果「落札」する。それに業を煮やした欧米企業がOECDを通じて日本外務省に「実態調査」を要求。

連絡を受けた東京地検は「仕方なし」に捜査に踏み切った、と言うのが実態じゃないか。永年、見て見ぬ振りをした外務省やJICAを責めて月光仮面づらするマスコミだけが「正義の味方」で済まされる問題では無いだろう。

起訴の結果、日本が日本人を罰する事になるけれども、ベトナム政権が役人たちを罰する事は先ず、ありえない。とすれば馬鹿を見るのは誰なのだ。「角を矯めて牛を殺す」のが「正義」とは聞いて呆れる。正義を貫くためには国益を棄てるのか。

<社会主義体制のベトナムでは公務員の権限は強いが、給与は高くない。日本の外務省によると、外資系企業の最低賃金月額80万〜 100万ドン(約6000円)に対し、公務員や国営企業職員は同54万ドン(約 3500円)。

「副収入」を求める公務員もおり、受注でしのぎを削る企業が接触機会を狙う構図だ。

毎日新聞の取材に、局長は「忙しいので何も答えられない」とだけ語った。外国公務員への贈賄を禁じた今回の不正競争防止法に収賄側を罰する規定はなく、局長が日本で罪に問われることはない。

ベトナムでは、公務員に対する一定の贈賄行為は「商慣習」ともささやかれる。ただ、今回の現金授受は道路建設を担当する市の業務管理局事務所執務室で白昼堂々と行われ、局長側が受注額の15%前後を要求したという。駐在員は「慣習といってもPCIの提供額は多すぎる。5%ぐらいが相場のはずだ」と語る。

市局長が暮らす4階建て自宅ビルは、市中心地に近い大通りに面し、玄関には防犯用シャッター。知人は「本人はまじめな印象だが奥さんは派手だ。子供2人を海外に留学させている」と明かした>(8月5日毎日新聞)

東京地検の手入れの結果、ベトナム側と日本企業による贈収賄が一旦は自粛されるだろう。日本に還るべきODAは清く正しくEU各国に流れる事になるだろう。しかし役人たちの糊口は濡れないとすればどうなるか。

贈賄の無いEU各国企業に賄賂を公然と要求するか。しかしできないとなれば、かねて手馴れた日本企業を再びターゲットにするしかないだろう。こうなれば東京地検の面子は放浪する。

大学で六法全書の暗記に身を窶し、実社会とは隔離されたような法曹の籠で「目んない千鳥」を歌っている検察庁と「有り得ぬ」領収書を求める会計検査院。一見、頭脳が良すぎて「アタマ」が不自由な秀才を連想してしまう。

その人たちに一句。「角を矯(た)めて牛を殺す」=少しの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体を駄目にしてしまうこと(広辞苑=岩波書店)。2008・8・31

2008年09月03日

◆透明人間が降板しただけ


                       渡部亮次郎

<首相退陣表明極秘決断 夫人にも相談せず福田康夫首相の退陣準備は極秘の内に進められた。

首相は1日の記者会見で、退陣決意は先週末と語ったが、実際はそれよりも早かったという。ただ首相は周辺にも一切退陣の意思を漏らさず、貴代子夫人にも相談しなかった。

首相は退陣表明の記者会見の草稿執筆を菅原郁郎秘書官に命じ、菅原氏は31日夕、首相官邸の秘書官室で一気に書き上げたが、会見直前まで官邸外には一切漏れなかったようだ。

首相は退陣表明の記者会見後、肩の荷が下りたのか、「表明のタイミングは9月1、2、3日ぐらいしかなかった。小沢(一郎民主党代表)さんの立候補が決まった日に合わせた」と周辺に本音を語り、退陣表明−自民党総裁選によって、民主党代表選を希薄なものにしたいとの考えだったことを明かした。

「(臨時国会で)29日の所信表明と(民主党も公明党も)言っているのだから、新首相が29日にやればいい」とも語った。>9月2日3時0分配信 毎日新聞

なりたくも無い、元から無能力な人間が無理に祭り上げられていた総理大臣が、切羽詰まって椅子を蹴飛ばした。福田康夫総理大臣の辞意表明(2008.9.1)。意欲、能力なき透明人間の下野に何の感慨があろう。

康夫さんとは父親赳夫政権で彼が父親の下で総理大臣首席秘書官、私が元福田派担当記者の故を以って園田直外務大臣の政務担当秘書官という仲。例の「大福密約」(2年で政権を大平幹事長に譲る)の存在を知っている私、知らぬ彼。波長が合わなくて参ったものだ。

高校では捕手をやっていたらしい。投手をリードする係りだが、どうも彼は投球を受けるだけで手一杯だったらしい。性格もそうで、自己主張すべき哲学も抱負経綸も無い。「友達の厭がることはしない」のは中韓に対してだけでは無い。アイデンテティーが無いのだ。

昨年秋、安倍氏が突如、退陣表明をした時、福田氏は既に長男にバトンタッチする準備中だった。当選僅か6回にして当時すでに71歳。「好きで政治家やってんじゃない」の口癖どおり、性格が政治家に向いていなかった事をつくづく知らされたわけだった。

ところが異変が起きた。引退したはずの元幹事長・官房長官野中廣務氏が京都の奥から出てきて「福田神輿」を手下の古賀誠元幹事長に担がせ、自らも森喜朗初め党内実力者の説得を始めた。

これは奇手にして妙手だった。親中、親韓、半靖国、反麻生との共通項で党内多数を占める妙手。最大派閥の安倍派も旧竹下派も皆乗った。「それなら載ってみるか」と康夫氏、やおら「救国の士」面
して受諾。これが福田政権の実像。元々蜃気楼政権だったのだ。

自らに力なし、友人なし、策士なし。友党の公明に気遣うあまり、しまいには財政政策にかみつかれたばかりか臨時国会の召集日にまで駄々をこねられた。舐められつくしたのだ。

辞めるしか、投げ出すしかなかったのだ。せめて厭味の一つぐらいを放つか、というタイミングが関東大震災の日だったのである。
そのあたりを評論家の花岡信昭氏(元産経新聞政治部長)は私より紳士である。

<「福田退陣-新首相の手による早期解散」の流れをつくったのは公明党だ。内閣支持率の低迷を理由に、連立からの離脱もちらつかせるような態度はいかがなものか、という暗黙の抗議が、福田首相の退陣表明に隠されている。

それを最もよく感じているのは、当の公明党だろう。自民党に対して大きな「借り」を作ったことになる。来年夏の東京都議選対策を最優先させる公明党の立場に、自民党側が最大限の配慮を見せたわけだ。

「好き好んで政治家になったわけじゃない」というのが福田首相の口癖であった。安倍前首相の突然の退陣による党内の混乱を、自身が立つことで救ったという自負もある。これ以上、政権にしがみついていても得るものはない、と判断したのであろう。

故竹下登氏が「武士(もののふ)の進退は瞬時にして決すべし」と、ことあるごとに言っていたのを思い出した。竹下氏はその言の通り、大方の予測を裏切って早期退陣表明に踏み切った。

政治家は引き際が一番難しい。そういう意味合いでいえば、福田首相のこの段階での退陣表明は世間をあっと驚かせた点で、きわめて効果的であった。>(花岡信昭メールマガジン★616号[2008/09/02] 2008・09・02

2008年09月02日

◆特派員電が偏るわけ


渡部亮次郎


<日本の大手マスコミが、いつもアメリカ大統領選挙で予想を大きく外す傾向があります。

第1に特派員の多くがNYタイムズなど北東部のリベラルな新聞の後追いが多いため、気づかない裡に民主党有利の記事を書いていることです。

第2に日本の特派員はワシントンやNYにいても、記者クラブというムラに住んでいて、独自取材が不得手。積極性がないのが致命傷ですね。もちろん産経の古森さんとか、例外もたくさんいますが。

第3は共和党との人脈が極端に薄いためです。まして特派員の多くの日本人が本質的に民主党リベラル支持派ですから、その分析が偏向しているのです>。(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20(2008)年9月1日(月曜日)通巻第2303号)。

私は国内政治だけの記者をたった20年しかしなかった中途半端記者だったが、NHKというマスコミに居た事は間違いないので他人事(ひとごと)ではなく受け留めた。

記者の途中で1977年11月に、福田赳夫内閣の改造で官房長官から外務大臣になった園田直(そのだ すなお)氏に求められて秘書官(政務担当)に就任した。

その後も園田氏は外務大臣を次の大平正芳内閣、鈴木善幸内閣と3代に亘って勤めたので、私もそれなりに外務省に知己ができた。それとなく彼らの話を聞いていると「外国語に優れた外交官は外務事務次官にはなれない」というジンクスがあるということだ。

その後の外務省人事では、これは外れもあったかもしれないが、その時までの説明によると、人間の頭脳は左脳と右脳があり、外国語を記憶するための脳を発達させると、総合判断力を磨く能力が落ちる。

外国語を磨くと通訳には優れるが、外交官としての判断力とか洞察力、推理力、人事管理能力とかは二の次になってしまうから、省内ナムバー2として、官僚の頂点には立てない、と言う事だった。

NHKや民報、新聞各社も同様だと思うが、記者の採用試験の際、人事部は予め、将来の海外特派員候補として、外国語に優れた人材を採用する。

ただし将来の海外特派員を保証はしない。知らん振りをしてまず地方の支局に一般取材記者として赴任させ、一般的な取材能力を磨かせる。数年後に一旦、東京本社に引き揚げた後、政治部なり経済部なり社会部などで仕上げをした後に、特派員として海外に派遣する。

ワシントンは政治と犯罪NYは国連と株と犯罪が分からなければ話にならないから、予め訓練は東京で受けてきたはずだが、すんなりとは行かない。発表物はこなせるけれども、役人や企業幹部はなかなか単独では取材の応じてはくれない。

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2008年08月31日

◆巴里だより 「丹精を込める」への読者の声

 
                   岩本宏紀(在仏)

<本稿は、本欄8月11日に掲載した上記エッセーへ寄せられた「読者の声」です>。    

・思無邪 。。。。シカゴの男性
残念ながら米国にはあまり丹精を込めた物に出会うことは多くありません。
でも、たまに普通の民家で、しっかりガーデニングされた庭を見ると、ものすごくホッとしますね。

手間隙かけて作ったものは、その作り手の情熱がずんずんと胸に響いてくる感触があります。

思無邪(思いよこしまなし)。純粋に何かを成し遂げようとする心意気を
忘れていた自分を気づかせてくれた、そんな一枚の写真でした。
ありがとうございました。

(岩本: 「思い、邪無し」いい言葉ですね。ぼくも自分を振り返って反省しています。)

・ピアノの演奏とチューリップの育てかた 。。。。巴里の女性

私、本業はピアノでございますが、と〜っても共感できる部分がありました。

‘丹精を込めて‘。良い言葉ですね。
そして、愛おしさという言葉にもとても共感を覚えます。
愛していないと‘それ‘は美しくならないんですね。

‘それ‘とは、いろんなモノが当てはまるのだと思いますが・・・。

私もピアノの作品を弾く時には、とても気を遣います。
それは、まずは作曲者への配慮です。

時代背景や、作曲者のキャラクターもありますし、また
もちろんそれを聴いて下さる観客への配慮でもあります。

クラシック音楽の演奏者とは、常にそこに生きた作曲者の時代を体現するものだと考えています。それを体現するには、まさに‘丹精を込めて‘。
時間をかけて、その一曲一曲と対話をする。

作曲者が何を求めているのか、何を表現したら良いのかを一番に考える。
チューリップを育てている方も、きっと花と会話をしているのではないでしょうか。

日本語には、愛でる、といういう美しい言葉がありますが、その作業員の方のチューリップへの愛情がひしひしと伝わってくる、とても素敵なメールでした。

職人の技とプライド、後世にも残していって頂きたいものですね。

(岩本: ピアニストの仕事のしかたの一面を知ることができて、大変参考になりました。曲と対話しながら自分の演奏を作り上げていくのですね。何事も手間隙かけないとひとの心を打つものはできない、そう感じました。)

・花を綺麗と思える心 。。。巴里の男性
あの公園を満喫するのはタイミングがすべてですね。僕は1度目は成功(満開)、二度目はまだ蕾ばかりでした。

日本では悪質ないたずらで市内の花壇の花が切られたり、
落書きなども話題になっていましたね。
前者についてこちらでは聞いたことがないのです、知らないのか、そういう輩がいないのか!?
後者は特にイタリア人の公衆道徳が悪いとか・・・

いずれにしろ、花を奇麗と思える心を大切にしたいものです、加齢して鈍感になり易いので。

(岩本: 加齢と言えば加齢臭。 耳の後ろや首筋から発するようですね。腸がきれいかどうかも影響すると聞きました。もうひとつ加齢現象は涙脆くなったこと。 そう思うことはありませんか?)(完)
2008年8月13日