2008年11月06日

◆オバマが勝ったから

渡部亮次郎({頂門の一針」主宰)

米大統領選挙は民主党の黒人候補オバマが4日(日本時間5日)、大勝利した。2008年3月初めには私のところにも、もともとヒラリーを降せないから「オバマは大統領にはなれない」とのアメリカ情報が届いていた。だからオバマの勝利は全く以って突如として起きた経済危機の所為である。

「それでもオバマが勝てない理由」と言いふらしていたのは、アメリカの黒人保守論客シェルビー・スティールであった。「A Bound Man: Why We Are Excited About Obama andWhy He Can’t Win」の著者。

スタンフォード大学のシンクタンク・フーバー研究所の研究員で、オバマの支持者なのだが、メデイアがオバマ優勢を言う中で冷静な分析をしていた。ヒラリーの反撃を早くから予見して、最終的には民主党大会でオバマは劇的な僅差敗北を喫すると断言していた。

しかし、オバマはヒラリーを降して民主党候補に躍り出た。対抗馬は共和党の古参上院議員マケイン。ベトナム戦争で捕虜となりながら虐待に耐えた「英雄」。国家安全保障問題のベテラン、とされ、オバマは「未経験者」扱いされた。

スティールが指摘しているのは、アメリカで成功する黒人は「挑戦型」か「取り引き型」の2つのパターンだという。オバマは「取り引き型」、芸能人やスポーツ選手として白人社会に受け入れられている黒人の大半がこれに当てはまる。政治家としてはコリン・パウエル元国務長官を挙げている。パウエルは暗殺を恐れて大統領選挙への出馬を拒否した。

これに対して「挑戦型」はジェシー・ジャクソンやアル・シャープトンといった市民権運動指導者であり、政治家としてはシンシア・マッキニー、キャロル・モーズリー・ブラウンら。

オバマの弱点は「取り引き型」なるが故に、白人社会に受け入れられ人気を得るための代償として政治的な意見を言うことがタブーになり、あたりさわりのない発言しかできなくなることにある。”変革”をいうが、内容がないにはそのためだという。

選挙期間が長い米大統領選では、オバマの雄弁だけで支持者を引っ張り続けるには限界がある、とも言われた。具体的な政策・理念が欠けるというわけだった。

スティールの論評とは別だが、オバマ旋風を見ているとジミー・カーターの再来という批評もあった。ジョージア州知事だったカーターは草の根運動で支持を集め、現職のフォードを破って大統領となった。

ワシントン政治の経験がない全く無名の候補が熱狂的な支持を集めた背景には、
ウォーターゲート事件による深刻な政治不信があった。対するカーターは素人故に「在韓米軍の撤退」など、出来もしないから約束を平気で言えた。就任後あっさり撤回した。

今回、米国民はイラク介入で失敗したブッシュを見て、その失望の深さが裏返しとしての熱狂となり「最も経験のない」オバマ期待を高めているという。

秋口ごろにオバマの弁舌は冴えを欠きそうになっていた。スティールの論評が当たりそうだった。

ところが、そこへ突然明らかになったのが経済危機。「経済」が主題となればマケインとオバマに差はなくなる。経済に無為無策だったブッシュ=マケインの図式はわかりやすかった。選挙戦の終盤になって、金融危機に対するオバマ氏のリーダーシップや提案が有権者から評価され、支持率が上昇した。

ロイター電によれば、出口調査では、有権者の6割が最優先課題として経済問題を挙げた。とすれば、マケインは「お呼びでなかった?」だった。

しかし、オバマへの支持は政策ではない。ただ未知であることへの期待である。だからカーターに似ている。そのカーターは大統領として有能ではなかった。イラン革命に対応できず、政治経験のなさをさらけ出して1期で共和党に政権を明け渡した。

政治記者の先輩・古澤襄さん(元共同通信社常務理事)に教えられたことだが、「国民の熱狂というのはその程度である。だから国民が全てを決める直接民主主義は危険だと昔から考えられている」。オバマとカーターの比較論は面白い。

北米担当のわが外務官僚は「対日姿勢に大変化なし」とのコメントを首相の揚げているだろう。本当のことを言うと、中国にいびられるから言わないのだが、
オバマのアジア外交は中国に重点があり、日本にはお座なりな付き合い士かしない筈である。だから「大変化」が来る。

それでも国民を安心(油断)させるべく「大変化なし」と発表するのが「外交」。それを信ずるのが馬鹿、信じないのが国民。2008・11・05
 

2008年11月05日

◆麻生首相は変心したのだ

渡部 亮次郎

毎日新聞(11月2日2時30分配信 )が「2晩にわたった秘密裏の自公党首会談は、麻生太郎首相がいったんは公明党に年内選挙を約束しながら、後に心変わりしたことに伴う亀裂の弥縫(びほう)場面だった」と暴いてみせた。

「解散時期は決めていない」と繰り返していた首相だが、実は違った。10月13日夜、帝国ホテルの会員制バー。極秘に公明党の太田代表を呼び出した首相は「総選挙は11月30日投票でお願いしたい」と告げていた。尤もこの記事全体が公明党首脳の暴露に基づいている事を明らかにしている

麻生太郎首相が太田代表に「11月30日衆院選」と明言した10月13日の夜、時間を置いて自民党の古賀誠選対委員長が首相の待つ帝国ホテルのバーに姿を現した。

首相が「10月末に解散し、11月30日投票でやろうと思う。選挙準備はできてるかな」と胸の内を明かすと、古賀氏は「大丈夫です」と答えた。首相はその日昼、自民党本部で選挙用CMの撮影をすませていた。

太田氏は翌14日、大阪市内で街頭演説し、雨にぬれながら「激しい衆院選が間近のようでございます。雨が降ろうとどうなろうと、私たちはひるまない」と声を張り上げた。自民党の細田博之幹事長や大島理森国対委員長には10日ごろに首相の意向が伝わっていた。

首相の考えを承諾した古賀氏だったが、9月下旬に続いて自民党が実施した追加の選挙情勢調査で「自民党198議席」という衝撃的な予測が届いた。公明党と合算しても衆院の過半数には届かない。古賀氏は「今選挙をやったら負ける」と確信し、首相に近い菅義偉選対副委員長に「総理に選挙を先送りするよう進言してほしい」と要請した。

後に潮目を変えたと評される10月16日、08年度補正予算が成立したその日の夜、首相は東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテルで腹心の中川昭一財務・金融担当相、甘利明行革担当相、さらに菅氏とひそかに会談した。

甘利氏は「いつやるのが一番いいか、あらゆるデータを分析して冷静に決めてほしい」と慎重な判断を求めた。中川、菅両氏は「政治空白を作るより、景気対策を求める国民が圧倒的に多い。在任期間2カ月半の首相になりますよ」と詰め寄った。首相は「うーん」とうなるだけだった。

翌17日、首相は党本部で選対職員らと各種世論調査の数字をさらに精査した。数字の厳しさを実感した首相は先送りを決断した。「解散先送り」の瞬間だった。

「我々の支持母体(創価学会)は簡単に選挙日程を変えるわけにはいかないんです。日程が頻繁に変わるのは困る。選挙協力をやる上でもよく考えていただきたい」

10月26日夜、グランドプリンスホテル赤坂の一室。公明党の太田昭宏代表は、北側一雄幹事長とともに首相に再考を迫ったが、首相は「国民の多くは今、選挙より景気対策を望んでいると思う」と繰り返し、論議は平行線をたどった。

28日夜の再会談を求めたのは太田氏だった。「金融サミットに行って日中印3カ国でアジア版ニューディール政策を打ち上げたら格好の選挙対策になる」と食い下がる太田氏に、首相は「やはりこの時期に政治空白は作れない。理解していただきたい」。

首相は自民党の細田、大島両氏に「早期に解散があるという言い方を変えるな」と指示した。

首相の意を受け、細田氏は18日夜、埼玉県川島町での講演で「麻生さんは解散して民意を問うて、勝利を収めて次の政策、景気対策を打ち出していくことが最も望ましいという考えを今のところ持っておられる」と発言。

大島氏も同日、青森県八戸市での記者会見で「首相が非常に強い思いを持つ追加経済対策が27日からの週に出る。その時点で明確に方針を示していただけるのではないか」と早期解散を強くにじませた。

解散について口をぬぐう首相、解散風をあおる幹事長という役割分担は、
この時期から定着し始めた。10月27日夜、首相は河村建夫官房長官、細田氏、大島氏、松本氏とホテルオークラの日本料理店で、先送り表明後の国会対策を協議した。大島氏は机の上に紙を広げ、総選挙の時期について「年末年始」「4月、5月」「任期満了」の3パターンを提示した。

河村氏は29日夜、党内各派閥の領袖に電話を入れ、30日の首相会見について「2次補正予算を提出するかどうかは言わない。解散についても何も言わない」と説明した。

「これだけ選挙の日程がくるくる変わった経験は初めてだ」と衆院事務局のベテラン職員が振り返る先送り政局は、こうして幕を閉じた。

麻生首相はやはり人間だった。揺れて迷っていたのである。これからもそうだろう。最大の誤算は自らの人気がさっぱり上がらないことだった。上がってくれれば解散をすぐやる心算だった。この先、上がるとも思えない。2008・11・03

2008年10月31日

◆麻生「したたか」

渡部亮次郎

今の総理官邸キャップは各社とも感度が鈍い。「解散」にはやるマスコミ各社の力みを逆手にとって「3年後に消費税引き上げ」を言明したのに、揃いもそろって各社の官邸キャップは質問一つしなかった。麻生に呑まれたのである。

<麻生首相は30日、首相官邸で記者会見して追加経済対策を発表し、「経済状況を見た上で、3年後に消費税引き上げをお願いしたい。大胆な行政改革を行い、政府の無駄をなくすことが前提だ」と述べ、消費税率引き上げを言明した。

衆院解散・総選挙の時期については「しかるべき時期に私が判断させていただく」と述べる一方、「国民の生活不安に応えるのが、優先順位としては一番だ」と述べた。>10月30日18時19分配信 読売新聞

こう速報した読売だけが気が付いたようである。情けない。麻生は「したたか」。小泉より余程、度胸が良い。麻生が逸材である事に気付かなかった私の不明を愧じる。

<引き上げ幅には言及しなかったものの、与謝野経済財政相は30日の記者会見で「一挙に5から10%のレベルにはなかなかいけない。10%になったら生活必需品は低い税率で据え置くべきだというのも有力な説だ」として、10%程度を目指し、複数の税率を設定する可能性に言及した。>Asahi Com 2008年 10月30日21時29分

マスコミの中でも特に朝日新聞は、麻生首相の意向を悉く無視して衆議院解散について無責任なデマを掲載するなどして、早期解散要求の民主党へのゴマすりに専念してきた。

流石に世界的な経済危機が始まってからは多少納まってきたが、30日の会見でも、各社は首相の口から解散日程を吐き出させようと浮き足立っていた。

これに対して麻生首相は、各社の躍起振りをかねてから見据え、経済対策について十分な説明をなし終える中で、消費税引き上げをさらりと言明し、もはや引き揚げを既成事実化することに成功したのである。

やんぬるかな、朝日新聞までが,与謝野大臣の言葉まで引用して、上げ幅10%とまで解説してみせる「サービス」。政府にとっては願ったり叶ったりの首相記者会見であった。

麻生・与謝野の呼吸は綿密に計算された合わせ方である。閣内を統率し、公明党を押さえ、自民党内を思い通りに引っ張ってゆく辣腕ぶりは大したものだ。父の多賀吉を超えたばかりか、政局運営の手腕は祖父の吉田茂をも超えているかも知れない。文中敬称略2008・10・30




2008年10月29日

◆時期を失した政治休戦

渡部亮次郎

<11月中旬には金融サミットも予定されている。世界経済に大きな責任を持つ日本が国内事情だけで総選挙をやるというのでは、国際社会に悪いメッセージを与えることになってしまう。

「100年に1度」あるかないかといわれる世界経済危機だ。民主党が政権担当能力を示す最もいい方法は、政治休戦に出て、自民党とこの金融危機に協調して対処することではないか。>(花岡信昭メールマガジン★★639号[2008・10・28])

さすが。産経新聞政治部長経験者だけあって、高所からの警告である。満腔の同意を表明するが、果たして民主党にこれだけの読みが出来る策士ありや、小沢に度胸ありや。無かった。

もたもたしていたわけじゃない。はじめから申し入れる意思も度胸もなかった。ただただ「解散しろ」と叫ぶだけで、「策」がなかった。麻生の作戦勝ちで納まりそうな雲行きだ。

<麻生首相 衆院選、年内は見送る方針固める

麻生太郎首相は次期衆院選の時期について、年内は見送る方針を固めた。世界的な金融危機が株価急落や実体経済に影響を及ぼしていることを踏まえ、解散により政治空白を作ることは好ましくないと判断した。

首相は30日にも追加経済対策を記者会見して発表する予定で、年内見送りをその際表明する。

与党の公明党が強く早期解散を求めていたが、首相は26日、同党の太田昭宏代表と会談した際、「国際金融情勢が大事な折、政治空白は作れない」と先送りを伝えた。

公明党の支持母体の創価学会は先送りを容認する方向になっている。>(10月28日2時30分配信 毎日新聞)

民主党に厳しいことを言うが、世界的規模の経済危機になぜ鈍感なのか。それとも経済危機の責任は政府、与党が被るべきで、野党たる民主党とは全く無関係な事なのか。

責任が無いなら経済危機に全く関心を払わないでいいというのか.そうでは無いだろう。

<最新の世論調査(日経)によれば、「解散よりも景気対策を」という声が63%に達したという。内閣支持率は48%、不支持率43%。政党支持率は自民41%、民主31%だ。

民主党の小沢代表は「国民の信頼を得た政権が経済対策をやるべきだ」などと、早期解散の必要性を強調しているが、どうやら、追い込まれているのは民主党のほうだ。>(花岡信昭メールマガジン★★639号[2008・10・28])

「解散よりも景気対策を」という声が63%にも達していたことに民主党が鈍感だった。経済を解る人がいない政党=民主党という図柄が浮き出てしまった。輿石日教組には無理としても小沢、菅、鳩山にそろって経済的知識が無かったとは、政権担当能力を云々されても文句が言えないだろう。

明らかに波目が変わっていた。それを小沢政局士が読めなかったと言う事だろう。まず日本でも株価の暴落が始まった日に民主党のほうから「政治休戦」を政府・与党に申し出ていれば、ここへ来ての政党支持率で自民党に10ポイントも離される理由はなかった。

それなのに、民主党危機存亡の時、小沢氏は顔中にマスクをかけて風邪を引いたの、入院だのと「明後日」の動きに終始し、民主党が理屈の政党で現実の政党でない、つまり政権担当能力の無い政党だということを露呈してしまった。

あのとき仮に小沢氏が麻生首相に会談を求め「麻生さん、経済がこの惨状だ。我々の衆院解散要求の正当性は降ろさないが、緊急事態に際し、この際、政治休戦を申し入れる」とやったらどうなったろう。

「さすが小沢だ。麻生の上を行く大政治家だ」と経済の仕組みが詳しくわからぬ人でも「敵に塩を贈った」と小沢に喝采した事だろう。外国ではいざ知らず、わが国においては歴史が変わるとき、人々を感動させるドラマが必ずあった。江戸城無血開城のドラマにも似た感激を民主党は国民に与えたであろう。

本当は小沢とて、この程度のことは考えたに違いない。だが、あのときのことが頭をよぎったので止めた。「大連立」に関する党内の未熟さである。菅も理数科、鳩も理数科。人間心理の絡む世論の方程式は殆ど1次しか読めない。また党内が揉めて混乱するだけだ。

<首相は、来年度予算編成の作業終了後に改めて解散のタイミングを探ることになる。

ただ、解散を先送りすることで、民主党が対決路線に転換し、インド洋給油活動を延長する新テロ対策特別措置法改正案など重要法案の審議に影響が出るのは必至。「ねじれ国会」に翻弄(ほんろう)され、麻生政権はレームダック化するとの指摘もある。>(毎日)
(文中敬称略)2008・10・28


2008年10月28日

◆行方不明の秋田音頭

渡部亮次郎

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、わが郷里の秋田音頭(あきたおんど)は、以下のように説明されているが、これは全くの嘘である。

本物の秋田音頭は失踪して久しいのだ。放送の普及が「コード」とやらを作って本物を隠し、県民に忘れさせたのである。秋田の文化である以上、地元の放送業界は守護に責任を感ずるべきだと思うが、そんなホネのある奴は地元には帰らないらしい。

<秋田県の民謡。1663年(寛文3年)秋田藩主佐竹義隆に上覧した時に成立したといわれる。三味線、笛、太鼓、鐘などの伴奏で滑稽な歌詞をリズミカルに並び上げるのが特徴。

出だしの「ヤートナー」というかけ声以外はあまり音程がなく、7-7-9を基本としたリズムに乗せて台詞を述べ上げるだけである。いわゆる地口のようなもの。

多くの歌詞があるが、「秋田名物八森ハタハタ…」と秋田名物を並べたものが有名である。その他にも、小野小町が秋田美人の代表であるなどを歌った有名な歌詞がいくつかあるが、即興でおもしろおかしい事を歌うというのが本来であった。

このため、時事の風刺や、卑猥な話が歌われる事も多い。これを春歌というが、秋田音頭はもともと春歌だったという説もある。>

馬鹿なことを書いては困る。秋田音頭は「春歌だったという説もある」どころでは無い。春歌そのものだったのである。1936年生まれの私は秋田音頭によって性教育を受けたと言ってもいい。

「女という奴、純情な顔して鬼よりまだおっかね。生きたヘンノゴ(マラ)生でまぐらて(食って)似たよなガギ(赤子)こしゃる(作る)」と聞けば立派な性教育だった。

「難産だ、難産だ、難産した時ゃ、一生すめぇと神コさ願かけた。3日も経たたねで むりっと入れたば 嗚呼 これだば死んでも止められね」。

子供の頃は隣町五城目(ごじょうのめ)の民謡家鳥井森鈴(とりい しんれい)さんがレコードに吹き込んで地元でも大いに売れた。

本名 鳥井儀助は若くしてプロの民謡歌手となり数々の秋田民謡をレコードに吹き込んだ。私が小学校当時から「秋田音頭」を覚え
たのも森鈴のレコードを聴いたからである。

歌詞は「誰唄うともなく伝わってきたもの」らしいが、殆どは森鈴の作と信じられている。

「秋田追分」や「秋田馬方節」の普及に功績があったとして昭和46(1971)年に 民謡の分野で秋田県文化功労者に選ばれている。しかし大部分の秋田県民は「秋田音頭」の作者と心得たに違いない。

潟eイチクエンタテインメントが制作・販売している「日本民謡名人撰」CD10枚組/カセット10巻組・全160曲の中に森鈴の「秋田追分」と「秋田馬方節」が収録されているが、最高の力作「秋田音頭」は入っていない。「秋田音頭」は行方不明になったのだ。

民放が普及した1955年前後から、放送コードとやらがつくられて放送局は本歌を放送しなくなり、以下のような毒にも薬にもならない歌詞が秋田音頭の本歌と誤解され、私の唄う本歌は替え歌扱いされるようになってしまった。

従ってここに示す代表的な歌詞こそは殆どが替え歌であって本歌とは無関係である。

(ヤートナー)コラ、秋田音頭です(ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイナー)

コラ、いずれこれよりご免こうむり音頭の無駄をいう(アーソレソレ)お耳障りもあろうけれどもさっさと出しかける

(以降、歌詞の終わりに「ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイナー」のかけ声が入る)

コラ、秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ

コラ、秋田の国では雨が降っても唐傘などいらぬ(アーソレソレ)手頃な蕗の葉さらりとからげてサッサと出しかける

コラ、秋田の女ご何どしてきれ(い)だと聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)小野小町の生まれ在所お前(め)はん知らねのげ

コラ、お前(め)がたお前がた踊りコ見るならあんまり口開ぐな(アーソレソレ)今だばええども春先などだば雀コ巣コかける
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

放送では以上のような歌しか歌えないだろう。本歌は凄い。

おみゃがた(あなたがた) おみゃがた 踊りこ見るとて 立って見るな 立っていいのは電信柱とあんちゃ(兄さん)のがも(マラ)ばかり

オラ家のあねちゃ(嫁)田の草取りに行って 穴コさ泥鰌いれた
あねちゃもあねちゃ 泥鰌コも泥鰌コ あちゃこちゃぶつかって
出た時ゃ ほんわ ほわ

他人(ひと)の嬶(かかあ)すりゃ、忙しもんだと来たもんだ
湯文字紐解く褌外す、 いれる もちゃげる 気をやる いく
抜く 拭く 下駄めっけるやら逃げるやら

ぎっちもち ぎっちもち 板の間ぎっちもち たましコ(幽霊)来たかと 念仏コ申したら 鼠コ夜這いに来た

白玉食(く)にあべ(行こう)、白玉食(く)にあべ(行こう)
白玉食に行ったら 上から白玉 下から金玉 腹中(はらなか)玉だらけ

おら家の爺様と隣の婆様と この世の名残に 一発ぶっぱめた
行くよ行くよと 気ばかり焦って とうとう夜が明けた

あの税 この税 役場の税金 息つく暇のねぇ いっそこれだば
有る物 ぶち売って 1発 ぶっぱめて 死んだほいい。

メルマガに「コード」は無いから「天国」だね。2008・10・23




2008年10月27日

◆狐と狸の化かし合い

                   渡部亮次郎

政治記者になりたての頃、以下のように首相と幹事長が違った事を言うと「党内で意見対立」と思ったが、違っていた。党内を騙し、野党を無駄走りさせるための役割分担を阿吽の呼吸のうちに演じているのに間もなく気付いた。

<首相、解散先送りに傾く…金融危機への対応重視
経済情勢の悪化で、「11月18日公示―30日投開票」の衆院選日程を想定した今月末の衆院解散は難しいとの見方が強まってきた。

首相は金融危機が欧州や新興国に広がっていることを憂慮、「日本が米国に代わり、国際協調でリーダーシップを取らないといけない」と周辺に漏らしている。

首相は30日に記者会見を開き、中小企業対策などを盛り込んだ新たな経済対策を発表し、国内対応に万全を期す考えだ。また、金融機関に公的資金を予防的に注入できる金融機能強化法改正案の早期成立に向け、民主党に協力を求める意向と見られる。

ただ、与党内でも、早期解散を求める公明党を中心に、「先送り」への反対論は根強い。先送りすれば、衆院選の時期の設定が、より困難になるとの見方もあり、「金融法案への民主党の抵抗などを理由に首相は11月衆院選に踏み切る」との見方も残っている。>
(2008年10月25日03時01分 読売新聞)

,<一方、自民党の細田幹事長は25日島根県斐川町の出雲空港で記者会見し、「今月中に解散し、11月に選挙をやれば、12月いっぱいを使って税制改正や(2008年度第2次)補正予算案、来年度予算案を速やかに編成することが出来る。(解散判断の)ぎりぎりの線は今月いっぱいだ」と強調した。>(2008年10月25日13時22分 読売新聞)

自民党と公明党の間に立つ細田幹事長にしてみれば、来年夏の東京都議会選挙対策の都合上、年内総選挙に拘る公明党への配慮を余儀なくされている。また自民党内には緊張を維持して麻生首相の求心力を維持しなければならない立場だ。

また、民主党に対しては年内総選挙を匂わせることによって、補正予算も関連法案も賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続も
「容認」、空席の日銀副総裁人事も認めるという望外の成果を挙げた。

しかも解散風を煽ることによって民主党候補を一斉に走らせ,「弾丸」の無駄遣いを長引かせろという兵糧攻めで成果を挙げている。自分としては本心は来年の任期満了までは無理としても、できるだけ有利な地点探しに首相がフリー・ハンドを維持できるよう芝居を続けていると見るべきだ。

一方の小沢民主党代表にも海千山千を生き抜いてきた矜持がある。
麻生に財界人として鍛えた度胸があると言うなら、当方には角栄、金丸、竹下の下で研いで来た鋭利な政局感があり、誰にも負けないという自負である。

補正予算も関連法案も賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続も「容認」、空席の日銀副総裁人事も認めるとしたことは、言われるまでもなく禁じ手ではあった。

あのまま世界的規模の経済動乱がなければ、麻生、細田如きが自分の前で完全に屈服するはずの妙手ではあった。しかし不運であった。惜しむらくは鳩山幹事長も菅代表代行も共に理科系出身。数学は得意だが政界心理の2次,3次方程式が解けないから、小沢の代役として大博打が打てない。

大博打が打てるのだったら、福田内閣時代の「大連立」で自民党を乗っ取り、今頃は政局の主導権を完全に掌握し次期政権を確実なものにしていたはずだった。トロイの木馬は数学では解けない。もどかしい。

政界は譬えて言えば常に「狐と狸の化かし合い」である。この頃の政治記者はこの意味が判らないらしいが、与野党が互いに本心を明かさず、本心を明かしたように見せて相手を泥沼に誘導すると言う意味と説明した。

麻生政権は算数的に見れば未来は絶望しかない。だから死力を尽くすだろう。小沢氏も蓄えてきた半生の経験のすべてを結集して化かし合いに集中する事だろう。見ている政治記者たちがその謎のすべてを解いてくれる事に期待している。2008・10・26

2008年10月26日

◆焦らし作戦に出た麻生首相

渡部亮次郎

<【北京=加藤淳】アジア欧州会議(ASEM)首脳会議出席のため、中国訪問中の麻生首相は24日、北京市内で中韓両国首脳とそれぞれ会談した。

 ◆12月に日中韓会談◆

麻生首相は24日午前、北京市内のホテルで韓国の李明博大統領と就任後初の首脳会談を行った。首相は、日本、韓国、中国の3国首脳会談を年内に日本で開く方針を説明し、大統領も同意した。日本日本政府は12月中旬の福岡開催で調整している。>読売24日

私の判断では首相の胸中について野党は勿論、野党も間違っている。
一時の解散風などとっくに温帯低気圧になって、風など吹いていない。そこを見据えて解散権を持っている麻生首相は焦らし作戦により民主党議員たちの懐が空になることを狙っている。

元産経新聞の政治部長花岡信昭氏に依れば、
<早期解散を引き出そうとする民主党は、補正予算賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続の事実上の容認、日銀副総裁人事承認など、これまでの「何でも反対」を一変させ、国会審議の促進に
躍起だ。

給油支援継続法(新テロ対策特措法改正案)は昨年は参院でたなざらしにして補給艦の一時帰国を余儀なくさせたのだが、今回は、衆院再可決を早々と認める方針を打ち出し、今月30日に成立する見込みだ。

国会審議をスピードアップさせ、解散に応じようとしない首相を追い込もうという作戦だが、解散権は首相の専権事項で、審議促進戦術が功を奏すかどうかは不透明な状況になってきた。>

<政府提出の予算案への賛否を小沢代表に「一任」したというのも、公党のあり方としては疑問が残る。党内論議を経て党の最高意思決定機関常任幹事会)で決めるのがスジではないか。>(いずれも
花岡信昭メールマガジン 636号[2008・10・25])

書生論をいえば政府提出の予算とは施政方針を裏付けるものである。従って、政府に対抗している野党は、予算が本予算であろうが補正予算であろうが反対しなければ「筋」が通らない。

如何なる大目的が秘められていようが邪道である。加えて予算への賛否を小沢代表に一任とは呆れてものがいえない。一任を求めたのが小沢本人だとすれば、既に小沢氏は解散を急ぐあまり禁句であるはずの大連立と同じことをやったのである。

確かに総選挙をやれば自公が過半数を握れる可能性は低いらしい。
各種の世論調査がそう言っている。麻生首相は十分承知している。
そこへ起きたのがアメリカを震源地とする経済危機である。

<衆院解散をめぐる与野党の攻防は大詰めを迎えているが、ここへきて解散先送りの公算が強まってきた。「11月初めまでの解散、11月30日総選挙」が現時点で残された唯一の解散時期のタイミングのようで、麻生首相としては、これをしのぐと予算の年内編成をタテに解散越年に転じる可能性が濃い。>(同)

私の見方では麻生氏は福田康夫、安倍晋三氏らと全く違うものを持っている。それは「度胸」である。石炭から石油へのエネルギー「革命」の時に炭坑を経営していた「実績」がある。「血筋はいいが育ちは悪い」とご本人が言っている意味は、このことで「自負」している意味なのである。

何年にも亘って野中広務氏に煮え湯を飲まされながら平然としていられた「度胸」は血の小便を出しながら経営危機に耐えてきた年数に比べれば「屁の河童」のはずだ。タマが違う。

小沢氏はいろいろな手を用いて麻生氏を篭絡したつもりだったろうが、円高、株安を連日見せられている国民は、小沢氏の言う事を聞くだろうか。「今は選挙とか政権交代なんかしている時ではない」と言う雰囲気に変わり、日一日と強まっていくだろう。

この立場から麻生首相に金融法案成立などについて協力を求められた場合、、それを峻拒する度胸が小沢氏にあるか、どうか。

確かに走り出したら止まらないのも解散風だ。普通の選挙運動で1日で数百万円は飛ぶ。自民党内からさえ解散断行を迫る声が上がるのはカネのない若手議員に迫られた派閥領袖のうめきなのである。

しかし、経済危機に伴う政治的な国際外交日程を梃子にして麻生首相は政局を楽しむが如く、民主党焦らし作戦に転換したとみるべきである。

戦場で弾を受けたことが無いのに弾除けを知っている「度胸」は政局を食うだろう。2008・10・25

2008年10月23日

◆盲目で死んだ北原白秋

渡部 亮次郎

北原白秋は広辞苑(岩波書店)では福岡県柳川生まれの詩人・歌人と出ているが、『ウィキペディア』だと1885年1月25日、熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰る、とある。

その縁だろう、数多く作詞した校歌の中に熊本県南関町立南関第一小学校の校歌がある。独身の頃、隣家の戸籍上は人妻だった女性と関係し、当時は存在した姦通罪で訴えられている。

その人俊子と結婚した所為か、お堅いNHKでもラジオ深夜便で2008年10月21日に「作品集」を放送していたが、白秋の父母と俊子との折合いが悪く、ついに離婚に至っている。

また1937年、糖尿病の合併症たる腎臓病により眼底出血を引きおこし視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭した。世界初のインスリンによる糖尿病の治療は1922年、カナダで行なわれたが日本ではまだ普及していなかった。

わが師・園田直(外相、厚相、官房長官)と同じ死に方。ただし園田は人工透析を拒否し「自殺」のような死に方。それでも70歳、注射を早くに始めていれば100も夢ではなかったのに。

白秋の頃は戦争中でもあって腎臓病に対する人工透析は全く行なわれておらず、天才詩人も1942(昭和17)年、11月2日逝去。享年わずか57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。

きたはら はくしゅうは1885年(明治18年)1月25日に生まれた。父・長太郎、母・シケ。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。

詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、日本を代表する詩人である。

北原家は江戸時代以来栄えた商家で、白秋が生まれた当時は主に酒造を業としていた。1887年、弟鉄雄が生まれる。

1891年、矢留尋常小学校入学。1897年、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年には成績下落のため落第。

このころより詩歌に熱中し、雑誌「文庫」「明星」などを濫読する。ことに明星派に傾倒したようだ。1901年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾きはじめる。その後、倒産。

白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年はじめて「白秋」の号を用いる。1904年、長詩『林下の黙想』が河井酔茗の称揚するところとなり、「文庫」4月号に掲載。

感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。

1910年、隣家にいた松下俊子と恋におちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。俊子、章子、菊子と生涯3度の結婚。

{作品}

(詩集)邪宗門 思ひ出 東京景物詩及其他(第3版の刊行の際に『雪と花火』に改題) 真珠抄 白金之独楽 畑の祭 水墨集 海豹と雲 新頌 

(歌集)桐の花 雲母集 黒檜 牡丹の木 白南風 (句集)竹林清興 (木俣修責任編集) (童謡集)からたちの花 トンボの眼玉

(童謡・作詞)ゆりかごのうた 砂山 からたちの花 この道 ペチカ あわて床屋 待ちぼうけ 城ヶ島の雨 伏見軍令部総長宮を讃え奉る

万歳ヒットラー・ユーゲント ハワイ大海戦 海道東征 福島県福島市歌 東京都八王子市歌 愛知県岡崎市歌 ちゃっきり節 多摩川音頭 白洋舎の歌

(校歌・応援歌)東京大学の歌(準校歌)運動会歌「大空と」など多数。作曲は多くが山田耕筰。

(著書)白秋詩抄 岩波文庫 白秋抒情詩抄 岩波文庫 白秋愛唱歌集 岩波文庫 北原白秋歌集 岩波文庫     2008・10・21
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年10月20日

◆毛沢東の銃口「八路軍」


渡部 亮次郎

「革命は銃口から生まれる」といった毛沢東。彼が共産中国を実現するためには「軍」が不可欠だった。今や列強を脅かす中華人民共和国。その先頭に立つ人民解放軍だが、その始まりは毛沢東の尖兵としてのゲリラ隊「八路軍」(はちろぐん[パーロとも呼んだ])だった。

正確には現在の人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織であったというのが正確だろう。

毛が戦う相手は政府としての蒋介石の「国民党軍」と蒋にとっての「侵略者」としての日本陸軍。そのための「銃口」としてはどうしても「軍」を組織する必要に迫られていた。

だから共通の敵たる日本軍に対して国民党と共産党が一時的にしろ手を結ぶ国共合作が時々出来たわけ。

毛沢東は自らの人民戦争理論にしたがい「点化した敵軍を、人民の海の中に埋葬させる」戦術を考えた。「人海戦術」がそれである。

共産党は積極的に各地に共産党を広める浸透工作を行なった。共産党に好意的、または恐怖で屈服する村落、都市を増加させるのである。その結果共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させるのも容易になった。

実際、八路軍の活躍はめざましく、攻めて来た日本軍の将兵にとって大きな脅威となった。但し、戦後多くの人々に信じられた「八路軍によって日本軍が敗れ去った」という話は嘘である。

あれは共産中国を無条件に礼賛していたいわゆる左翼文化人の過大な宣伝によるもので、実際に日本軍師団長に「敵(八路軍)より味方の方が被害が多い」と証言しており、国民党軍による被害が大きかった。

八路軍のゲリラ活動は、むしろ日本軍撤退後の国共内戦において国民党軍を撃破する際には更に大きな力を発揮した。

当初組織された共産党軍(紅軍)は、秋収蜂起を戦った毛沢東指揮下の中国工農紅軍と南昌蜂起で決起した朱徳翼下の紅軍が井崗山で合流し、中国工農革命紅軍第四軍となり、後に中国工農紅軍第四軍となった。

第四軍はその後江西省瑞金の中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。

この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を伺う情勢にあった。

このような情勢下、西安事件(1936年12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件)を受けて第2次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第八路軍と改組され、一般に「八路軍」と呼ばれることになる。

同時に中国南方地域では「紅軍」は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に「新四軍」と呼ばれることになる。

1947年に第2次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された。

八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北において百団大戦という鉄道や炭鉱に対する大規模なゲリラ攻勢を行い、日本軍を一時的に混乱させたが、日本軍の本格的な攻勢が始まると忽ち一掃された。

八路軍はゲリラ戦を主に担当していたことから、正確な戦果は把握できないが、1944年までの戦果報告によると作戦行動は7万4000回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したと主張している。

しかし日本軍の記録によれば日本側の損害はこれよりは少ないが八路軍より味方(日本軍)の損害の方が多いとある。また、兵力は1945年8月段階で80万を超える規模に達していた。

総指揮官:朱徳  副総指揮官:彭徳懐  正規師団:第115師団・第120師団・第129師団が存在したが、民兵組織も多数参加したらしい。

民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であると共に、一般市民に紛れ、攻撃は神出鬼没のゲリラ戦を行った。しかし、八路軍に戦況を左右するだけの力はなかった。また、日本軍と同盟関係にあった南京政府側の民衆組織「新民会」等が同様の民衆工作に取り組み、八路軍に対抗していた。

国民党軍(重慶政府軍)はアメリカからの援助により装備は優れていたものの、兵力温存を図り日本軍との正面決戦を避ける傾向があり、弱兵として日本軍に侮られた。背中に傘を背負っていた。

一方、地域によっては国民党軍がむしろ八路軍を弾圧、あるいは八路軍に対して積極攻勢に出る場合もあった(百団大戦直後の1940年10月にも重慶政府軍は八路・新四軍へ大規模な攻撃を行っている)。

国民党軍が兵力温存を図ったのは、抗日戦勝利後の共産党との決戦に備えたものであるが、この戦略は完全に裏目に出てしまう。

抗日戦で果敢に日本軍と戦った八路軍が特に華北を中心に民衆の支持を集めたのに対し、国民党軍は民衆と完全に乖離してしまった。

また国民党を援助していたアメリカも、国民党の態度に不審を覚え、むしろ八路軍に好意を抱く事となった(アメリカ陸軍から派遣されていたジョセフ・スチルウェル中将の解任もこれが原因)。

結果的に八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において大衆の支持を集め、中華人民共和国政府の樹立に貢献した。

八路軍に降った日本軍将兵はソ連赤軍に降った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵は少なくない。

但し特殊技能を持つ旧日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)は永く留め置かれ、帰国が遅れた者も少なくない。

八路軍将兵に対しては「三大紀律八項注意」という規則があったが実際に守られていたかは疑義が残る。

また占領地で「富農」と認定した、地主をはじめある程度の土地や家畜を持つ自作農を人民裁判にかけ、処刑を行った。

これは八路軍の力を見せつけて住民に恐怖心を抱かせるものであり、国共内戦時には、中国住民の虐殺事件を起こしており、八路軍に対する否定的側面として語られるものである。

ただし、このような残虐行為は地域内の貧者の嫉妬心・復讐心を満たす事になり、かえって大衆の支持を集める事に貢献した。

第2次世界大戦後、八路軍に拘束された日本人軍人が、逆さ吊りの上に4斗(72リットル)程度の水を飲ませる水責め、600発以上を超える全身殴打などに遭った。

坐らせて足と手を一緒にして縛って、これに太い梶棒を入れて吊るし上げる等の拷問を約15日加えられた上、「民主裁判」にかけて死刑宣告を受け、八路軍への協力を強要された事件も、被害者自身の口から衆議院で生々しく語られた[昭和25年3月31日の衆議院海外同胞引揚に関する特別委員会における山田勝治参考人の証言]。2008・09・30

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年10月19日

◆植物性乳酸菌が効いた


渡部 亮次郎

植物性乳酸菌は動物性乳酸菌の10倍もの種類があるといわれ、漬物や味噌、醤油など、さまざまな食品にその存在を確認することができる。

植物性乳酸菌には、免疫賦活作用が確認され、病気になりにくい体を守る効果が期待できるとされている。

それは植物性乳酸菌の「生きて腸まで届く力」があるからで、腸内環境を改善する力として注目を集めているわけだ。

日本人の食生活と植物性乳酸菌の関係は、はるか昔にさかのぼる。その代表的なものが、醤油や味噌、糠漬、日本酒、「ハタハタ、鮒などのなれ鮨」といった発酵食品である。

もともと農耕が盛んだった日本や東アジア諸国では、田畑でとれる作物や魚介類が食糧の中心となる食文化が定着している。

これらの食べ物を乳酸菌や微生物、カビ、酵母などで発酵させておいしくしたり、保存できるようにした日本の食生活に、植物性乳酸菌は古くから関係していた。つまり、植物性乳酸菌は日本人のおなかになじんだ乳酸菌であるといえる。

日本の食文化に古くから根付いた植物性乳酸菌だが、実は世界のさまざまな国の食べ物にも、植物性乳酸菌が含まれていることは日本人はあまり知らない。

近いところでは、韓国のキムチ、中国のザーサイがそれにあたる。ドイツなどヨーロッパのサワークラフト、インドのチャツネ(野菜と果実を煮込んだソース)、タンザニア・ケニアのマサイ族で作られている発酵乳など、植物性乳酸菌は各国で力を発揮している。

ウイルスなどの感染から体を守る「インターフェロン」。その産生能力を高める物質の研究が、ラブレ菌発見のきっかけだ。 京都の人たちが好んで食べる「すぐき漬」から全く新しい乳酸菌の一種であるラブレ菌が発見された。

現在、ラブレ菌でもっとも注目されている働きが、「免疫力アップ」の力だ。ラブレ菌の腸内で生きぬく力の強さを、動物性乳酸菌の代表格である

免疫力は加齢によっても影響を受け、20歳頃をピークにその力が急降下する。そこで普段の食事などから免疫力をアップさせる物質を積極的に取る必要がある。

日本人は古代から米や野菜など食物繊維が多いものを食べてきたので、欧米人にくらべて腸が長いといわれている。その長い腸をくぐりぬけて日本人の健康を長く支えてきたのが味噌・漬け物などの「植物性乳酸菌」由来の発酵食品だった。、「動物性乳酸菌」に比べて、より生きて菌が腸まで届くからだ。

植物性乳酸菌の一種「ラブレ菌」は、腸内の免疫器官に作用し、免疫担当細胞を活性化する「インターフェロン」の産生を助ける大切な役割を担っている菌なわけだ。

食生活の欧米化で植物性乳酸菌を摂る機会が少なくなった今だからこそ、普段の食生活で毎日摂ることを心がけたいものだ。

人生100年といわれる時代、いきいきと健康に歳を重ねて人生を送りたいものだ。

友人の紹介で知り合った長野県安曇野市の会社会長森山憲義さんは独学で植物乳酸水を生産、頒布している。薬事法違反になるからどんな風に効くか、病名を挙げて宣伝する事は絶対に慎んでいる。

だがアトピーが全快したとか慢性の下痢がピタリと止まったという噂を聞いたので数年前から取り寄せて飲んでみた。

7年間苦しんだスギ花粉症が完治した。昨年春からくしゃみも涙も止まった。昨年は花粉が少ないからだろうと思っていたが、格別多いといわれた今年も症状が全くでなかった。完治していたのだ。

だとすれば森山さんの植物乳酸水以外に格別飲んだものはないのだから抵抗力がついて花粉症を克服したわけである。友人の中には糖尿病になりかかっている人の血糖値抑制に格別の効果があると喧伝する人もいるが、薬学的な検証はまだなされていないようだ。

そういえば、風邪をここ10年はひいていない。(執筆 2008・1016)
資料:カゴメ植物性乳酸菌大学より
http://www.kagome.co.jp/style/nyusankin-univ/comprehensive/index.html

2008年10月16日

◆日本を羨んだフルシチョフ


渡部 亮次郎

私の学生時代(1954―58年)にスターリンが死に、替わって登場したのがフルシチョフ。如何にも田舎の爺さんに見えた。なるほど1894年4月17日、ロシア帝国のクルスク県カリノフカに生まれる。父親セルゲイ・フルシチョフは炭坑夫。祖父は農奴で帝政ロシアの陸軍に勤務していた。

アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会談したフルシチョフはアメリカ合衆国やフランスなどの資本主義諸国との平和共存外交をすすめ、冷戦下の世界に一時的な「雪どけ」をもたらした。

その一方で、U-2撃墜事件ではアメリカと激しく対立、さらにはキューバ危機ではアメリカとの戦争の瀬戸際まで進むことになる。

また、同じ社会主義国との関係では、ハンガリー動乱に軍事介入するなど東欧諸国の自由化要求に対しては厳しい態度で臨み、毛沢東率いる中華人民共和国とは社会主義の路線をめぐって論争となり(中ソ対立)、アルバニアとも1961年に断交し軍事衝突寸前まで行くこととなる。

フルシチョフは激情家として知られ、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なもののひとつは、1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」との暴言を吐いたことである。

他にも1960年10月12日の国連総会で、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、フィリピン代表Lorenzo Sumulongが「ソ連の東欧諸国への関与こそ当に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲した。

これに怒ったフルシチョフは、自分の靴を脱いでこれで机をバンバンと繰り返し叩いてSumulongの演説を妨害した事件がある。

集団指導体制を無視し自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかに追い落とし謀られた。

ニコライ・イグナトフ、アレクサンドル・シェレーピン、ウラジーミル・セミチャストヌイ、レオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループである。

フルシチョフの追い落としは着実に準備されていった。中でもブレジネフは暗殺をも企んだとも言われている。

宮廷クーデターの噂はひそかに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとした。息子のセルゲイ・フルシチョフや娘のラーダ・アジュベイに接触した。

セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。

1964年10月、黒海沿岸のピツンダで休暇中のフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、ミハイル・スースロフからの突然の電話で呼び出された。

「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためとされた。10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。

これに対してミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、否決された。

孤立無援となったフルシチョフは、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の両方を辞任することに同意した。

後任にはレオニード・ブレジネフとアレクセイ・コスイギンがそれぞれ選ばれた。1978年1月、園田直外相の秘書官として日ソ外相定期交渉に同行した際、ブレジネフは風邪で臥せっており、コスイギン首相が握手してくれた。

引退後のフルシチョフは、公式には1966年まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、恩給と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有ダーチャ(別荘)に住まわされた。

移動の制限は受けなかったが、ダーチャのいたるところに盗聴器が仕掛けられており、事実上軟禁状態にあった。

この間、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子のセルゲイ・フルシチョフらがテープをタイプライターで書き起こした。この行動に対しキリレンコらソ連指導部はフルシチョフを呼び出して回想録の執筆の中止を要求した。

フルシチョフは当然この要求を拒絶した上、逆にブレジネフ指導部の政治をこきおろしてキリレンコらに説教をした。

この結果、息子のセルゲイ・フルシチョフや娘婿のアレクセイ・アジュベイは、当局から様々な嫌がらせを受けることになった。セルゲイはミサイルの専門家であったが、転職を余儀なくされた。

1970年7月には、フルシチョフの入院中に国家保安委員会 (KGB) が息子セルゲイを騙して回想録原稿とテープを押収することに成功するが、原稿のコピーはすでにアメリカのタイム社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに報復した。

なお、セルゲイが西側に原稿を送るのを仲介したのは実はKGB自身であり、その代償としてフルシチョフ自身が回想録の内容の一部削除に応じたという。

回想録が西側で出版されると、激怒したソ連指導部はフルシチョフに新聞プラウダ紙上で「回想録はニセモノである」との声明を発表させた。

実際のところ、回想録がニセモノでないかどうか、すなわち仲介相手からニセモノを掴まされていないかをタイム社は非常に気を揉み、録音テープの声紋分析を徹底して行った。

少しでもテープが途切れた部分はそのつど鑑定しなおす必要があったことから、声紋分析の数は数千にも及んだ。本物と判断され、出版。

7年間の年金生活の後に、フルシチョフは1971年9月11日にモスクワの病院で死去した。歴代の要人が埋葬されている赤の広場脇には埋葬されず、モスクワにあるノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。

当局との数年にわたる戦いの末に、家族らは墓地に記念碑を建てることを許されたが、その設計を請け負ったのはフルシチョフがマネージ展覧会ホールで罵倒した彫刻家エルンスト・ネイズヴェスヌイだった。

1984年に死去したフルシチョフの妻ニーナ・ペトロブナも、フルシチョフの脇に眠っている。

日本との関係ではフルシチョフは、鳩山一郎首相が日ソ交渉をしたときの最高指導者である。回想記の中で、は日本の戦後の発展を羨み、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。

フルシチョフは、日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあったと指摘している。

このくだりは結局フルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって1989年になってはじめてその内容が公開された。出典:『ウィキペディア』  2008・10・14


2008年10月11日

◆健康食品No.1が大豆 

  
渡部亮次郎

大豆の語源は「大きい豆」ではなく「大いなる豆」である。何故かと言えば、これほど安くて栄養のある食品は他に無いからである。

たとえば納豆を欧米初め全世界が食べるようになれば人類全体の寿命が伸びる事だろう。

米語:soybean、英語:Soya bean ダイズ(大豆、学名Glycine max)は、マメ科の1年草、また、その種子のこと。

大豆は低カロリーながらタンパク質やカルシウムを多く含むため、栄養源として重要である。

さらに含まれるゲニステイン、ダイゼイン、グリシテインなどのイソフラボンは大豆イソフラボンと総称され、弱い女性ホルモン作用を示すことから骨粗鬆症や更年期障害の軽減が期待できる。

これらの作用から、大豆製品の中には特定保健用食品に指定されている物もある。また、大豆イソフラボンはサプリメントとしても用いられる。

世界中で広く栽培されている。日本には縄文時代(紀元前1万年―前4世紀頃)の出土例や、古事記にも大豆の記録が記載されている。

大豆の種子には苦み成分であるサポニンが多く含まれており、人類の主食にまではなっていないが、植物の中では唯一、肉に匹敵するだけのタンパク質を含有する。

このことから、近年の世界的な健康志向の中で、「ミラクルフード」として脚光を集めている。「畑の牛肉」の異名もある。また、日本料理やその調味料の原材料として中心的役割を果たしている。

原産地と日本への伝来については説が各種あり定かではない。原産地は中国東北部からシベリアとの説が有力で、日本にも自生しているツルマメが原種と考えられている。

栽培の歴史も諸説あるが、約4000年前に中国で野生種大豆の栽培が始められたと考えられている。日本では縄文時代の遺跡から炭化物や土器内部の植物圧痕として確認された例があり、その頃の伝来と考えられている。

ダイズは蛋白質や脂肪、鉄分、カルシウムなどミネラルが多い。日本では色々な形に加工され利用されている。まず、大豆を暗所で発芽させるともやし、畑で育てて未熟大豆を枝ごと収穫し茹でると枝豆。

さらに育てて完熟したらダイズ。ダイズを搾ると大豆油、煎って粉にするときな粉、蒸したダイズを麹菌で発酵させると醤油・味噌。

また蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆。熟したダイズを搾ると液体は豆乳、その残りはおから、豆乳を温めてラムスデン現象によって液面に形成される膜を湯葉、にがりを入れて塩析でたんぱく質を固めると豆腐。

豆腐を揚げると「油揚げ」「厚揚げ」、焼くと「焼き豆腐」、凍らせて「凍み(高野)豆腐」。 大豆にはサポニン等水溶性の毒性物質が含まれており、これらの加工は毒性物質を取り除く意味もある。

蒸した種子を発酵させてから乾燥させたものは、香鼓(こうし)という生薬である。これには発汗作用、健胃作用がある。

大豆から作られる大豆油は、かつては燃料としても用いられたが、現在最も安い食用油として発展途上国で、大量に消費されている。近年では大豆油インクが環境に優しいなどとして利用が増加している。油の搾り粕は醤油の原料や家畜の飼料となる。

なお、光の当たらないところで発芽させ、数センチメートル伸びた芽を食べるのが「豆モヤシ」である。

日本は現在大部分を輸入に頼っている為、2003年に世界的不作から価格が高騰したときには大きな影響を受けた。最大の生産国、輸出国はアメリカ合衆国、ついでブラジル。

日本の輸入量は世界第3位。中華人民共和国では経済成長に伴う食生活の変化により消費量が増加しており、これからも増え続けると見られている。この需要に応えるためブラジルでは天然林伐採を伴う大豆農地の拡大が進んでおり、問題視されている。

日本では非常に珍重され、米・麦・粟・稗(ひえ)・豆(大豆)を五穀とし、節分には大豆による豆まきが行なわれるほどである。

日本人はダイズをさまざまな形に加工し、食材や調味料として利用してきた。アジアの多くの地域ではダイズが様々に加工されて食べられているが、日本ほど加工のバリエーションに富んでいる国はない。

中国、日本、朝鮮半島で古くから穀物として栽培されており、アメリカへは1800年代の初めに伝わったが、長いこと飼料としてのみ栽培され、主流作物ではなかった。

1920年代初め大豆加工業が発展したことによって、ダイズ栽培に弾みがつき、今日ではトウモロコシ、小麦に続いてアメリカの主要穀物となっている。

93年にアメリカは世界の生産量の約45%を占め、ブラジル、中国、アルゼンチン、インド、カナダなどが続いている。アメリカ国内では主に中西部とミシシッピ下流域で生産され、ダイズ生産量の40%以上が輸出されている。

私見としてはアメリカ人がダイズを家畜ではなく自分たちで食べるようになれば平均寿命は飛躍的に延びるだろうと思う。脂身の多い牛肉よりも豆腐ステーキを食べたら心臓マヒは激減するだろう。

日本はダイズ消費量の95%ぐらいを外国に頼っていて、大半はアメリカから輸入している。日本の国内では、北海道、秋田県、栃木県、茨城県、富山県などで生産される。納豆用、豆腐用、エダマメ用が主流である。
                         2008・04・21

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及びマイクロソ
フト「エンカルタ百科事典」

2008年10月08日

◆参院議長が知事になる


渡部亮次郎

<参院議長・前埼玉県知事 土屋義彦さん死去

元参院議長で前埼玉県知事の土屋義彦(つちや・よしひこ)さんが5日、多臓器不全のため、埼玉県春日部市の自宅で死去した。82歳だった。通夜・葬儀は密葬で執り行う。喪主は妻栞(しおり)さん。後日、土屋家と自民党の合同葬が執り行われる予定。次女は衆院議員の品子さん。

1926(大正15)年、東京に生まれ、静岡県下田市で育つ。大正製薬のオーナー社長だった叔父の故・上原正吉参院議員の秘書から埼玉県議を経て、 65(昭和40)年、参院議員に当選。連続5期務め、旧環境庁長官、参院自民党幹事長などを歴任し、88(昭和63)年、参院議長となった。


92(平成4)年には埼玉県知事に転じ「『三権の長』経験者が知事に」と話題になった。

以後、さいたま新都心開発やサッカーW杯誘致に伴う埼玉スタジアム2002建設などを手がけた。全国知事会長も務めたが、3期目途中の2003年7月、自らの資金管理団体を舞台にした政治資金規正法違反事件で長女が逮捕され、県庁や自宅が東京地検特捜部の捜索を受けた責任を取り、辞職した。

6日、春日部市内で記者会見した品子さんによると、土屋さんは糖尿病や高血圧で4月ごろから入退院を繰り返していた。最近は体調がよく自宅に戻っており、4日は普段と変わらない様子だったが、5日午前0時ごろ、家族が異変に気づいてから数分で逝ったという。

品子さんは「まさか急に逝ってしまうとは思っていなかった。寂しいが、やるだけの介護はやったという気持ちです」と話した。>
(Asahi Com 2008年10月6日19時22分)

私は記者時代、参院担当が長かった所為で土屋さんは個人的に懇意にしていた政治家である。1978年のボン(旧西ドイツ首都)サミットにも当方は外相秘書官として一緒に出かけた。その時のもう1人の参院議員は大阪選出の森下泰(仁丹社長)だった。

土屋さんは東京・新橋で寿司屋の出前持ちをしていた時代がある。大正製薬社長上原正吉さんの夫人の甥ではあったが、会社がまだ大きくなってないころ、「寿司屋の小僧だったのさ」と自ら語ったように気さくで飾らない明るい性格だった。

当時、参院は議長を3期9年間も務めた重宗雄三さんの「重宗天皇」時代だったが、土屋さんは重宗さんとは着かず離れずの恬淡とした態度を取っていた。時の首相佐藤栄作氏とは叔父を通じて直接つながっているという自負があったのかもしれない。

記者たちの受けもよく、国会内で社会部記者との交流を持っていたのは意外だった。参院議員を連続5期務め、旧環境庁長官、参院自民党幹事長などを歴任した後、自然な形で88(昭和63)年、参院議長となった。党内外に敵のいない政治家だったからだ。

92(平成4)年には埼玉県知事に転じようとした。『三権の長』経験者が知事にというのは三権の長を軽くするものという批判があったが、土屋さんのことなら仕方無いと大騒ぎにならずに知事になった。

<生い立ち。東京府北豊島郡高田町(現・東京都豊島区高田)に土屋澄男・初江の子として生まれる。次弟昭二。三弟祐三。

6歳の時、内務省技師であった父が急性肺炎で死去。母は義彦らを残して家を去ったため、義彦と祐三は父方の祖父母土屋仁作・たつも夫妻に引き取られた。

次弟の昭二(現・大正製薬会長)は澄男の妹・小枝とその夫上原正吉(当時大正製薬取締役)の養子となる。祖父の仁作は高田町会議員を務めた後、静岡県賀茂郡稲梓村(現・下田市)に移住したため、義彦も旧制中学(豆陽中学校)卒業まで同地で過ごす。

仁作は静岡移住後、酒屋を興し、稲梓村会議員も務めたが、義彦が中学在学中に死去。義彦は中学に通いながら祖母たつもと共に酒屋を切り盛りし、三弟祐三を育てるという苦難の少年時代を送った。

中学卒業後は大学進学を希望するも、既に祖父が他界していたこともあり叶わなかった。寿司屋の出前持ちはこの頃のことらしい。

1945年召集。名古屋市の第6連隊に入隊。その後浜松市に派遣され、塹壕掘りを行う。終戦により除隊となり、叔父上原正吉・小枝夫妻を頼って帰京し、大学入学を果たした。上原家に下宿し、大学に通学しながら大正製薬で働く。

妻の栞は上原家の娘で親戚筋にあたる。事実上養父母であった上原正吉・小夜夫妻の存在もあり、家では「かかあ天下」であったという。叔母夫妻や妻の影響力が強く、「女系家族」であったことも県政に長女が介入するに至る素地を作ったとされる。

春日部市の屋敷は叔母夫妻から貰ったと噂される。

死に至るまで実母とは再会しておらず、母の消息は不明。母親への思いは強く、知事在任中、記者会見において「(母は)こんなよい子(自分)を残して家を出たことを後悔しているだろう」と目を潤ませながら語ったことがある。

鷹揚に構えていることが多く、視察先で子供に無邪気に話しかけるなど、温厚な人柄であった。実際は資産家であるが、少年時代の苦労もあり、庶民派であることにこだわりを見せていた。>『ウィキペディア』
2008・10・07