2008年07月26日

◆安倍辞任の真相


渡部亮次郎(電子雑誌・「頂門の一針」主宰者)

<安倍晋三首相は12日、辞任する意向を固めた。参院選で惨敗したものの、内閣改造を断行することによって政権浮揚を図ったが、失敗したことが原因とみられる。これに関連し、麻生太郎幹事長は首相の辞意について「ずっと前から聞いていた。自分には求心力がないと言っていた」ことを明らかにした。

同日午後1時から首相の所信表明演説に対する各党代表質問が予定されていたが、自民党幹部は民主党幹部に対し「わたしは代表質問に出るわけにはいかない。健康上の理由だと首相が言っている」と伝えた。>07年9月12日13時33分配信 時事通信

<自民党の総裁選挙 19日に。政府・自民党関係者によりますと、自民党は、安倍総理大臣の後継を選ぶ総裁選挙を今月14日に告示し、19日に両院議員総会を開いて、国会議員と自民党の地方組織の代表による総裁選挙を行う方向で調整することになりました。>NHKニュース9月12日 16時20分

真相は追々明らかになってくるだろうが、決定的な事は肉体的にも精神的にも限界点に達していた、という事ではないか。半生、精神力を鍛錬する「苦境」に立った事があったとは考えられない。

「参院選で負けても辞めない」は小泉全総理に刷り込まれた事であって、実際の重圧を予想し、自ら決意した事ではなかったはずだ。

私が総理辞意表明の前夜、財界筋から得た情報では、安倍さんの痩せ方が尋常では無い、最盛期より10Kgも痩せた、とのことだった。真相は不明だが、痩せて生気を失っていた事は事実である。

安倍周辺に通じている人の話によると、原因は腸が普通より短い事にある。すぐに消化不良と下痢を繰り返すため、ストレスが溜まるとたちまち痩せることになる。加えて精神力は元々無い。

麻生以外に相談した政治家は無いはずだ。あったとすれば小泉前首相だが、相談すれば「辞めるな」といわれるに違いないから相談しない。派閥を牛耳る森元首相や青木幹雄元参院自民党議員会長は参院選敗戦直後に辞任を勧めて断られた仲だから、今回は無関係。

おそらく「神のお告げがあったから安心してほっぽり投げられた」と周辺は言う。神とは母親にして祖父の一人娘洋子のことである。晋太郎亡後、晋三を総理にする事だけを夢見てきた人。

精神的苦悩で日に日に痩せて行く息子を見るに忍びなく、ついやさしい声をかけたのではないか。おそらく昭恵夫人も同様だったのではないか。

そこで2日前の10日に麻生幹事長とサシで会って、健康上の理由で辞意を匂わせていたようだ。当日の行動記録を読むと夕方5時26分から20分以上も会談している(院内大臣室)。

その一方で小沢民主党代表との党首会談に一縷の望みを託していたのだから、やはりお坊ちゃんというしかない。

こうして「政局」に突如なったわけだが、自民党の領袖たちの中で古賀誠はツンボ桟敷だった。この古賀はおそらく福田康夫に擁立を働きかけると見る向きは多い。これに対して旧経世会(津島派)がどう動くか。

森本首相と青木も福田擁立で動くだろう。だが福田が立たなければ、空振り。

麻生以外は立たない可能性もあり、と事情通。安倍の腹には麻生後継しかないが、後継を指名できる力は残っていない。文中敬称略。 2007・09・12

本稿は安倍辞任表明当日のものだが、今日になっても通用すると確信している。安倍辞任以降の新読者のために敢て再掲した。安倍辞任の情報から独り取り残された観のあった古賀が引退した野中の指令の下、福田康夫を担いで一旗挙げるところ間でも当っていた。              2008・07・25


2008年07月25日

◆国交回復のチョロギ


渡部亮次郎

久しぶりに「チョロギ」を食べた。角館(かくのだて=秋田県仙北市)の安藤醸造さんから戴いた「刻みガッコ」に茶色に漬かって入っていた。日本では東北地方を中心に栽培されている、というが私は北京で初対面だった。それをまた思い出した。

1972(昭和47)年9月25日、田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官の乗った特別機に特に選ばれた5人の記者の1人として同行。梅原龍三郎画伯描く『北京秋天』そのもの、快晴の北京空港に降り立った。日中国交正常化交渉を見守るためである。

しかし、交渉の様子は全く分からない。日本側同行記者団80人に対する説明者の二階堂官房長官の毎日の発表は「発表できる事はありません」だけ。肝腎の田中首相とは釣魚台の迎賓館の部屋で到着翌日に短時間面会が許されただけで、後は梨のつぶて。

ホテルはソヴィエト人の設計とかで、天井がやたらに高くて、シャワーからは湯がろくに出ない。食事はやたら脂っこくて大抵の記者たちは3日目ぐらいで音を上げた。誰言うとなく出た言葉が「こんな時は粥(かゆ)が食いたいね」

そうしたら翌朝が白粥に漬物。それが「チョロギ」の漬物だった。赤く染まっていた。恥かしい話だが日本では東北地方を中心に栽培されているというのに、初対面が北京でとは妙な成り行きだった。実家は秋田の農家なのに、隣近所でも栽培していなかった。

高さ60cmほどに育ち、6月〜7月頃に薄い青紫の花を咲かせる。10月〜11月頃に根にできる塊茎を収穫し食用とする。
Chinese artichoke‖Japanese artichoke‖Stachys sieboldii Miq.

シソ科の多年草。地下にできる塊茎を食用にする。中国の原産で水湿地を好み,日本には元禄年間(1688‐1704)に入ったらしく《農業全書》に最初の記載がある。

和名は朝鮮を経て入ってきたため,朝鮮語のジロイ(ミミズ)の転訛といわれている。

19世紀になってヨーロッパに,20世紀になってアメリカに入ったといわれる。夏から秋に地下茎が伸び,その先端に径約1.5cmで長さ約3cmの白色で駐質の細長い塊茎をつける。

塊茎には数個の輪状のくびれがある。シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ,黒豆に混ぜて正月料理としたり祝儀用に使う。中国では風邪や咳止めにも利用される。平岡 達也(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

以下は「ウィキペディア」による。漢字表記は多数ある。塊茎が蚕の姿に似ていることから「草石蚕」と書かれたり、音から「丁呂木」「丁梠木」と書かれたりする。祝い事の際に食べる場合、縁起をかついで「長老木」「長老喜」「長老貴」「千代呂木」などと書かれることもある。

東北地方のほか京都など西の各地でも栽培されている。西日本での収穫期は東北よりもやや遅く、12月頃になる。その形からネジ芋、法螺芋と呼ばれることもある。

塊茎は長さ1〜3cm程度の巻貝のような形をしており、泥を落とすと白い。この塊茎を塩漬けにしたり茹でたりして食べる。ゆり根に似た食感と生姜のようにピリッと辛い味がする。

塩漬けの場合、4〜5日ほど漬けた後に梅酢やシソ酢に漬けて赤い色をつけることが多い。この赤く漬けたチョロギは、正月のおせち料理によく用いられる。おせちではそのまま単品として用いられるほか、黒豆を煮たものに添えて供されることも多い。

その他の調理法としては、天ぷら、吸い物の具などが挙げられる。チョロギは中国からヨーロッパにも伝わり、フランスでも食用とされる。フランスではクリーム煮やサラダとして食べることがある。

フランスでjaponaise(ジャポネーゼ、日本風)と名前に付く料理には、なぜか必ず付け合せにチョロギを盛り付ける。

稀に、チョロギは魚との食いあわせが悪いと言われることがある。「本草綱目」(著者:李時珍)には「徐風破血、下気精神」とあり、外からの病の侵入から身体を守り、血の滞りを治し、気を静め精神を安定させる効果があるとされている。2008・02・19   (再掲)

2008年07月23日

◆冷奴も味噌も外国頼み


渡部亮次郎

対米戦争の始まった翌年から国民学校(尋常小学校)に入ったが、間もなく道端に大豆を植えさせられた。同時に農家では農地に仮にも隙間があれば大豆を植えたから、毎日が大豆との付き合いだった。

戦争が始まって間もなくは満洲帝国から、今で言えば小型乗用車のタイヤ大の「豆滓(まめかす)」が農家には配給され,戦局激化に伴う食糧難の折には,ご飯に混ぜて食べた。大豆から油脂を搾り取ったあとの滓(かす)。下痢の元になった。

昔から日本は大豆を海外に頼っていたが、戦争中では輸入が不可能。小学生まで動員して少ない国内生産に少しでも上積みしようとしたのだった。

そうした時代になると豆腐屋の親父も戦場に狩り出された。仕方無しにお袋は水に一夜浸した大豆を擂鉢で摩り下ろし(呉=ご)て味噌汁に放った。「呉汁=ごじる」。結構美味かった。また食べたいが面倒だし、東京のマンションでは台所に乾燥大豆は無い。

中国、日本、朝鮮半島で古くから穀物として栽培されており、アメリカへは1800年代の初めに伝わったが、長いこと飼料として栽培され、主流作物ではなかった。

1920年代初め大豆加工業が発展したことによって、大豆栽培に弾みがつき、今日ではトウモロコシ、コムギについてアメリカの主要穀物となっている。

93年にアメリカは世界の生産量の約45%を占め、ブラジル、中国、アルゼンチン、インド、カナダなどが続いている。アメリカ国内では主に中西部とミシシッピ下流域で生産され、ダイズ生産量の40%以上が輸出されている。

日本はダイズ消費量の95%ぐらいを外国に頼っていて、大半はアメリカから輸入している。日本の国内では、北海道、秋田県、栃木県、茨城県、富山県などで生産される。納豆用、豆腐用、エダマメ用が主流である。エダマメは今度エンサイクロペディアに入った。


2004年における世界の10a(1反歩=300坪)当たり収量の平均は 223kgであり、日本の平均収量に比べ3割ほど高い。主産国の単収は、アメリカ:286kg/10a、ブラジル:229kg/10a、パラグアイ:192kg/10a、中国:180kg/10a。

日本の大豆が諸外国に比べて低収であることの主な要因は、油糧用大豆中心のアメリカ・南米に対し、粒大やタンパク質含量等を重視する食品用大豆が中心であるためである。

ちなみに国産大豆と外国産大豆の成分を比較すると、国産大豆はタンパク質含量が多く、外国産大豆は脂質含量が多い。タンパク質含量は国産が35%、米国産が33%。脂質含量は国産が19%、米国産が22%。

わが国では高音多湿な気候の所為で「発酵」による納豆や味噌として食べほか豆腐や枝豆など大豆を直接食べる方が重点となったから品種改良は蛋白質を多くすることに力点が置かれた。

これに対しアメリカでは油脂をしぼるだけが目的だったからこうなった。ダイズの良質な脂肪分は食用油に精製され、サラダオイル、ドレッシング、マーガリン、マヨネーズなどになる。また、ダイズ油は繊維、化学製品などにも使われる。

ただし日本占領軍として滞在した兵士たちが豆腐にダイエット価値を認めた結果、最近は「豆腐ステーキ」が普及している。いくら「長生きの素」とはやしても納豆からは逃げる。臭いらしい。

日本の大豆の輸入相手先は、平成16(2004)年の実績では、
(1)アメリカ(318万トン)、
(2)ブラジル(78万トン)、
(3)カナダ(26万トン)、
(4)中国(19万トン)。

近年、カナダやブラジルをはじめとする南米諸国からの輸入が増加。なお、世界における2004年生産量ベスト6は
(1)アメリカ(8,550万!))、
(2)ブラジル(4,920万!))、
(3)アルゼンチン(3,150万!))、
(4)中国(1,760万!))、
(5)インド(550万!))、
(6)パラグアイ(360万!))
 
豆腐用としては主にアメリカのnon−GMO大豆が使われている。、日本の流通業者が輸入先を中国からアメリカ・カナダに変更したことにより、両国では、日本への食用大豆としての輸出を狙いにした品種改良などが積極的に進められている。

近年、アメリカでGMO大豆の生産が拡大し、消費者から敬遠されたことから、non−GMO大豆の分別流通が短期間に進展した。

GMO大豆とは、組換えDNA技術(酵素等を用いた切断及び再結合の操作によって、DNAをつなぎ合わせた組換えDNAを作成し、それを生細胞に移入し、増殖させる技術)を用いて生産された大豆をいう。

従ってnon−GMO大豆とは、すなわち遺伝子組換えでない大豆をいう。

アメリカでの食品用大豆の主な産地は、アメリカ大豆協会からの聞き取りによると、納豆用は、アーカンソー州、ミネソタ州、アイオワ州、ヴァージニア州。

豆腐用は、主産地は、インディアナ州、オハイオ州、ミシガン州だが、バラエティ大豆も各州(アイオワ、イリノイ、ウィスコンシン、オハイオ、カンザス、ミズーリ、ミネソタ等)が力を入れて開発している。

アメリカIOM大豆とは、5大湖周辺のインディアナ州 (I)、オハイオ州(0)、ミシガン州(M)で生産された黄大豆2等級のもの。本来は油糧用ですが豆腐用にも利用されている。

近年、GMO大豆の生産が増加したことから、食品用大豆ではnon−GMO大豆の分別流通が進んできている。

また、バラエティ大豆とは、アメリカ等から品種を特定して輸入される大豆の総称であり、主な品種に、ビントン81,ビーソン等がある。国産と同様に煮豆、豆腐、納豆等食品用として利用されており、価格もIOM大豆と比べると高価格だ。

バラエティ大豆は、主にアメリカの大学や企業が日本市場向けに開発したもので、煮豆用、豆腐用、納豆用等の用途ごとに品種が異なる。2008・07・20

(財)日本豆類基金協会調査資料及びマイクロソフト社「エンカルタ」参照。

2008年07月19日

◆日本独立もはや不可能

                     渡部亮次郎

北朝鮮のテロ支援国家指定解除をめぐるアメリカの独走を恨んで日本の再軍備や独立論が盛んになったが、日本は今や金玉を抜かれた宦官。こんな政治家で、真の独立なぞ出来るわけがない。

日米安全保障条約を読んだ人が何人いるか。国会議員でも読んだことが無いのに賛成したり反対したりしている。あれを読めば日本は独立国なんかではなく、米国の51番目の「州」であることが明確になる。

<第6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。>

当時の岸信介総理(1956−1960)が、その政治生命を賭した改訂交渉でも、精々ここまでであった。それでも学生ながら反対闘争をした連中が自民党にいる。加藤紘一だ。

このような状況にある限り、米国に押し付けられた憲法を改正することなどで出来るわけがない。安保条約の破棄と核保有の再軍備を米国に認めさせる政治家がどこにいる。主張する政党がどこにある。

<どんな条約を結び,どんな義務を負っても,独立権はそこなわれないとはいえない。弱い主権国家が強い主権国家と保護条約を結んで被保護国となる場合,その独立権は制限され,その国家は,半主権国,不独立国などと呼ばれることになる。>松田 幹夫(平凡社「世界大百科事典」)

弱い主権国家=日本が強い主権国家=アメリカと結んでいる保護条約こそ日米安全保障条約以外の何物でない以上、日本は半主権国、非独立国なのである。

強い主権国家=アメリカに憲法を押し付けられ、再軍備を事実上禁止されている国、日本。北朝鮮に国民を拉致されても、中国、韓国に領土を侵略されても手も足も出ない国を独立国とはいえない。

2008年7月8日の「クライン孝子日記」に「一読者」と称する方が次のような意見を述べておられた。

<米朝緩和は米国が日本に自分で核自衛しなさいといっているのです。未来は過去の延長ではありません。過去を見て将来を考えるのは、バックミラーを見ながら運転するのと同じと言う警句があります。日本人は過去に縛られた頭を切り替える必要があると思います。>

一見、論理的なので説得力があるように見えるが、日本の真の独立と核の所有をアメリカを認める理由がどこにあるだろうか。空論に過ぎない。

翻って国家の現状を見る秋(とき)、統率者たるべき首相(福田康夫)は国家尊厳の志向者足らんとしているや。国家固有の領土についてさえ本来の主張を貫く事をせず、なおかつ隣国の政治情勢を混乱させてテンとして恥じない。

「相手国の厭がることをしないのが福田政治」などと暢気なことをほざいているが、結局それは世界全体に阿(おもね)ることに過ぎない。同盟国に対しては仕方無いにしても中国、韓国、北朝鮮に阿ることが外交の真髄とは聞いて呆れる。

彼は日本を尊厳ある独立国を目指している統率者では断じて無い。むしろ国を敵に売るものの何者でもない。売国者である。売国者を総理に担ぐ国を世界は独立国とは認めない。

戦前、戦後を生きてきて、わが国政党政治の実態をつぶさに観察してきたが、流石に国家を社会主義国会に売ろうとした日本社会党は消滅した。

その対極にあるかに見えた政党こそは自由民主党であった。しかし、
それもいつの間にか一部権力者の私物と化してしまった。だからこそ既に政界引退を密かに決意していた老人を急遽、首相にしてしまったのである。

この演出者は引退して時の経つ京都の野中広務氏と元首相森喜朗氏である。己の恣意的権力発條力維持だけを確保するために両者は妥協したのである。福田氏はそれに含み笑いをしながら乗っただけである。

来るべき総選挙で政権が民主党に移る事は必至である。だが小澤一郎代表が、日本を独立志向の国家に相応しい国家として運営して行く保証は一つも無い。郵政省復活を言い出しているようでは何も期待できない。さりとて、どこへも逃げられないよ、ご同輩。
2008・07・19

2008年07月15日

◆飲めない水道水

    渡部亮次郎(全国版電子雑誌{頂門の一針」 主宰)


日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民
共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相につ
いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水に
は飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人
が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量
に含まれている。逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard
water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでい
るため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』
というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けるこ
とができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水
素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。
煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでい
るもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、
現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等
にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合
(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取
すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような
理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれている
ミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているもの
もいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウ
ムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちに
くい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の
保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカ
ルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結び
つくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の
洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏
れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加
熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下
させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保
は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のため
の施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定
期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海
外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸
ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。
ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気
です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を
飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下が
る。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖
分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若
い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使っ
たのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく
汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。2008・07・10

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年07月12日

◆国産泥鰌やーい

                     渡部亮次郎

島根県に伝わる「泥鰌掬い」は水田を動き回る泥鰌をザルで掬い捕る百姓の動作がとてもユーモラスな様に見えたことから生じた民俗舞踊。泥鰌がそれだけ農民に重用されていた事の裏づけでもあろう。

日本でドジョウは以前は各地の水田などから多量に生産,漁獲されたが,第2次大戦後に水銀系農薬の使用が盛んになり,そのため1957(昭和32)年から63(昭和38)年ころまで天然産のドジョウの産額が死滅に近いぐらいに著しく減少した。

そこで各地で農家の副業を兼ねてドジョウの養殖が試みられた。種苗生産の一環としてカエルの脳下垂体ホルモン注射による卵の催熟法が開発されて人工採卵の技術なども進歩した。

一方,稲田などに低毒性の農薬を使用するようになって,天然ドジョウの生産はやや回復した。しかし,現在では生産が消費に追いつかず,韓国から活魚で輸入している。

だが、韓国ドジョウはなぜか国産ドジョウよりも骨が硬く、市場では安く取り引きされている。だから国産泥鰌やーいなのである。しかし、ほぼ死滅したのだから最早無いもの強請(ねだ)りである。

ドジョウは日本では古くから食べられていたはずだが,室町時代になるまで文献に名を見ることができない。上流階級が食べてなかった証拠だろう。

浅井了意の《東海道名所記》を見ると,牛の皮を切って馬糞とかきまぜ,水に浸しておくとドジョウになるという俗説があったようで,こんなことから食用が卑(いや)しまれていたのかもしれない。

ところが江戸時代になると,《雍州府志》(1682)が〈甚味甘美〉,《本朝食鑑》(1697)が〈味最鮮美〉というように,大変美味なものと認められるようになっていた。

食べ方としては,《料理物語》(1643)が〈鰌 汁,すし〉と記しているように,みそ汁やなれ寿司にしていたようである。

ドジョウのなれ寿司は,狂言《末広がり》などを見ても,当時はごく一般的な食べものだったらしいが,間もなく他のなれ寿司ともども姿を消した。

現在,ドジョウ料理で最も好まれているのは「柳川なべ」で,丸のままのドジョウ汁やドジョウ鍋を嗜む人は少なくなっている。

その柳川なべは骨抜きドジョウを使うが,裂いて頭と内臓と骨を除くという調理法に気がついたのは江戸時代も後期に入ってからのことであった。

なお,江戸時代にはドジョウに強精効果があると信じられていたようで,《好色一代男》などの西鶴の作品その他にその例を見ることができる。

ドジョウは高級魚と縁の無い農民にとって動物性食品として重要なものであった。ドジョウを捕るには,夜間灯火を点じて水面を照らし水中に静止しているものをすくい取り,または鋭い針を植えた棒などで突いて捕った。

また,竹を細く割って編んだ筌(うけ)を小流にすえてとる漁法も行われた。私の兄はこの方法で捕る名人だったが私は1匹も捕れなかった。

冬は冬眠状態となって餌(えさ)をほとんど食べないのでやせており、旬(しゅん)は7月ごろとなる。今や地方より東京の下町にある「どぜう屋」の方が便利な事態になった。

また、ドジョウはスズキやヒラメなどの釣り餌(え)としても利用されていたが、最近はすぐれたルアーが出まわるようになったために餌としての利用は減ってしまった。(マイクロソフト「エンカルタ」)

ドジョウは中国、台湾、朝鮮半島にも分布する。

多くのドジョウ料理店などでは「どぜう」と書かれていることもあるが、歴史的仮名遣では「どぢやう」が正しい。(大槻文彦によれば高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから、「どぢょう」としたという)。

「どぜう」の表記は、江戸時代の商人が、「どぢやう」が四文字で縁起が悪いとして、同音に読める「どぜう」と看板に書くようになったのが始まりといわれている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

なお,〈柳の下にいつも鰌はおらぬ〉ということわざは,偶然得た幸運を再び同じ方法で得ることができるとは限らないという意味だが,ドジョウの生息する場所が川柳の育っている湿田地域に多かったことから出たものであろう。(平凡社「世界大百科事典」)
 2008・07・07





2008年07月11日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

          渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正でもない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みんなして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃からは女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょう)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生して大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止めたものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測していたが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられている。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもちなど稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しかしせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコクビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス 2008・07・07




2008年07月10日

◆「鮮人に砂糖食わすな」

渡部亮次郎

小便が甘くなる糖尿病だが、砂糖を食いすぎたからなる病気ではない。口から入れた栄養素を血肉に変化させるためのホルモン「インスリン」が膵臓の「ランゲルハンス島」から十分に出なくなる病気である。

インスリンに見向きされなかった栄養(ブドウ糖)が小便に混じって廃棄されるから糖尿病と名づけられた。

往々にして糖尿病は甘い物の摂り過ぎと誤解している人がいる。だがそのために糖尿病になる人は稀だ。私は少年の頃、砂糖を食べすぎたら脚気になった。ビタミンB1欠乏症である。日露戦争当時何万の将兵がこれで死んだ。

つまり砂糖や糖分を消化するにはビタミンB1が不可欠。砂糖を食ってビタミンB1を補充しないと脚気になる理屈である。脚気は昔の病気だろ、この世から消えたと思っている向きに警告。清涼飲料水は砂糖過剰。それで最近、脚気になっている人(若者)が多いそうです。

先にどこかに書いたが、併合時代、統治する日本人は朝鮮人に砂糖を全く与えなかった。高価だったからである。砂糖醤油にまぶした牛肉(やまと焼き)をどれほど食べたかったことか。1973年に訪韓した際、朴正権の閣僚が述懐していた。

だから1945年8月15日、日本から解放されるや、韓国の国民1人当りの砂糖消費量は一時的に世界一になったそうだ。「焼肉」は日本人が韓国で始めたものなのだ。

ところで砂糖 さとう Sugarは蔗糖を主成分とする代表的な甘味料。原料は蔗糖を含む植物で、砂糖黍(さとうきび)からは甘蔗糖、テンサイ(砂糖大根)からは甜菜(てんさい)糖またはビート糖が造られる。

また、砂糖楓サトウカエデ(楓)からはカエデ糖(メープルシロップ)、サトウヤシ(椰子)からはヤシ糖、サトウモロコシからはソルガムシュガー(バイオマス)がつくられている。

紀元前327年アレクサンドロス大王の西インド遠征の折、すでにインドではサトウキビの茎から蜜を造っていた。サトウキビは、原産地と考えられるニューギニアから7世紀ごろ地中海東部に伝わったが、砂糖は薬として扱われ珍重されていた。

続きを読む≫≫

2008年07月09日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎 (全国版電子雑誌「頂門の一針・主宰」)

「頂門の一針」のホームページには下記から手続きしてください。(無料)
     http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

  

河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、
広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らだ「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野一郎河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日は、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05

2008年07月08日

◆作文に不可欠なリズム

 渡部亮次郎   (全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

「頂門の一針」のホームページには下記から手続きしてください。(無料)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHkだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だった。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を悪文という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのは切るべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、「そして」でつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。

高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。2008・06・29


2008年07月07日

◆人間の皮を被った猿

                     渡部亮次郎

<「食べる」ということは、セックスや排便と同じような生理活動であって、本来は「秘め事」であるべきものだ。>と親しい評論家の加瀬英明さんが指摘している(「頂門の一針」1238号 2008・7・5)

だから加瀬さんは日本のテレビでの料理番組の多さこそは異常だと指摘し、嘆いている。

<チャンネルを回すと、何が美味しいかという食べ物番組を、朝から晩まで流している。これほどテレビで食べ物番組が多い国は、世界に他にない。

タレントとか、セレブといわれる人たちは、何十万人という人々の前で食べることが、恥しくないのか。

経営者の中にも、どの店の何が旨いとか、おいしいとか、好んで話題にする者が少なくないのに辟易させられる。

食べるということは、セックスや排便と同じような生理活動であって、本来は秘め事であるべきものだ。だから、よほど親しい相手でなければ、話すべきことではない。

男であれば、何が美味しいとか、不味いとか、口にしてはなるまい。

食べることに執着することは、精神病理学ではオーラル・フィクゼーション(口腔執着)といって、幼児がオシャブリを啣(くわ)えて離さないような、幼児的なことである。どうも社会が幼児化しているようで、日本の前途が暗い。>

恥をいえば私は1978年1月、モスクワの日本大使館で開かれた日本外務大臣(園田直)の「すき焼午餐会」でグロムイコ外相が左ぎっちょで箸を使い、すき焼を食べたので珍しい光景だと思わずシャッターを切った。後で大臣から猛烈に怒られた。

「口を開けてものを喰う事はセックスと同じ行為なんだよ、知らんのか。口を開いて食事を共にする事は、恥を共にすることだから親しくなる契機(きっかけ)になるんだよ」。

国を代表する者同士が国の予算で高価な料理や高級ワインを飲むのは、従って外交交渉の一環であるわけだ。個人的には親しくなり国家的には国の名誉をかけて失礼の無いレベルの酒肴を出すというわけだ。

日本に国家の賓客が到着すると、国を代表して天皇、皇后両陛下が歓迎式を催され、帰国時は見送りをされる。その間、晩餐会か午餐会が催されるのが仕来りだが、これを中継するテレビが放送できるのは主客のご挨拶に続く乾杯まで。食事場面はご法度である。

したがって両陛下が食事のためにお口を開けたところは一般には公開されたことは無い。これからも無い。食事は生理活動。本来「秘事」という原則が厳しく守られているからである。

この事は下賎階級でも敗戦までは守られていた。歩きながら食べ物を口にする事は恥かしい事と、農家の母親から口を酸っぱくして教え込まれたものだ。

それを破り且つ「良い事」のように振舞って見せたのがアメリカを中心とする占領軍である。大して教養の無いアメリカの田舎の兵隊が人前でガムを噛んだりハンバーガーを歩きながら口に押し込んで見せたから堪らない。日本の馬鹿がそれを真似して粋がって見せた。

汚い兵隊たちを歌手の岡晴夫が「粋なジャンバーのアメリカ兵」と歌った。深刻な敗戦から早く逃げようとすべてをすり替え、アメリカ的な軽薄を受け入れる事が平和に繋がることと誤解してしまった。

今では若い女性も歩きながらパンやおにぎりを食べる。あまつさえ、電車の中で化粧をする事さえ恥かしげも無い。字のとおり化粧とは化けて装うための、いわば「手品」なのだからネタを知られてしまった下手な手品師と同じ。

こういう人種を東京ではでは「おしゃれ しゃれても 惚れ手がないよ」と貶したものだが、もう駄目だ。貶せる「大人」が存在しなくなったもの。いてもこちらが恥かしくなって目を逸らすだけ。

もともと「進駐軍」に化けた占領軍は憲法を始めとする日本の政治体制を徹底的に破壊すると共に世界に冠たる文化社会を腐敗させ2度とアメリカに立ち向かえない無力国家にすることを占領政策の眼目としていた。それが60年余で完成した。

狙いを知らずに占領政策を無批判に受け入れて真っ先に日本人で無くなったのが、労働組合を結成して「聖職」から「労働者」に転落して恥じない日教組である。

その日教組の「製品」が歩きながら物を食ったり電車の中で化粧を公開して恥じない「猿」なのである。いまに車内で性交を公開するのも出てくるだろう。人間の皮を被った猿だから。2008・7・4

2008年07月06日

◆日本人にとっての砂糖

渡部亮次郎 (全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

「頂門の一針」のホームページには下記から手続きしてください。(無料)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


日本に初めて砂糖が伝えられたのは,754年(天平勝宝6)に来朝した鑑真(がんじん)によってであるとされることが多い。それは鑑真の第1次渡航のさいの積荷の中に〈石蜜〉〈蔗糖〉の名が見えるためで,この石蜜を氷砂糖とする説も多い。


鎌倉時代に発した狂言《附子(ぶす)》で毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう滑稽さには,当時の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されている。

近世初期の日本の砂糖は,中国・オランダ船が舶載するいわゆる唐砂糖だけで,幕府は初め350万斤(きん)に制限していたが,1715年(正徳5)には430万斤に改定された。

国産糖の初めは琉球(沖縄)で,1623年儀間真常(ぎましんじよう)が家人を福建(中国)に遣わして伝習させたのに始まるというが,事実は1392年福建からいわゆる36姓の唐人が帰化したときにもたらしたものらしい。

日本の製糖業は,国内の原料作物から砂糖を作る砂糖製造業と,外国から粗糖を輸入してそれを精製する砂糖精製業に分けられる。

現在では北海道でテンサイ(砂糖大根)が,沖縄,鹿児島でサトウキビが作られている。国産糖の生産量は73万t(1981砂糖年度,1981年10月〜82年9月)で総需要量269万tの27・1%を占めている。

砂糖自給率は1975砂糖年度の15・6%から大幅に上昇している。これには,テンサイが北海道の,サトウキビがとくに沖縄の農業の基幹作物であるため,政府がこれらの生産を振興していることがある。

国産糖保護のため,輸入される粗糖には高い関税や調整金が課されている。

国民1人当りの砂糖消費量は,1981砂糖年度で約23kgで,1970年代後半から減少ないし横ばい状態となっている。これには消費者の砂糖離れと競合商品の異性化糖の急増がその背景にある。

続きを読む≫≫

2008年07月04日

◆悲喜交々各位殿

渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

「頂門の一針」のホームページには下記から手続きしてください。(無料)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


昭和35(1960)年前後にNHK仙台で記者生活を送った仲間が2006年11月14日夕、九段会館の地下レストランに集まり、懐旧談義に時を忘れた。

中華7品にアルコール呑み放題。会費5000円を集めたが、終わってから500円のお釣を返却。珍しいことだ、お前、永久幹事だと大笑いした。

丁度南米のチリ沖で起きた津波が三陸海岸を襲って死者119人を出した「チリ地震津波」の取材の思い出で話は始まったが、あの時、名文を評価された先輩が「俺は著名な国文学者から直接、電話を貰って用語の誤りを指摘されたことがある」と敢えて恥を披露した。

それは大学入試の合否発表のニュース。合格を小躍りして喜ぶ顔、がっかりする顔、悲喜交々(ひきこもごも)でした、と放送したところ、直後に電話がかかって来たのだと言う。

「悲喜交々とは、一人の顔に喜びと悲しみが交互に表れることであって、あのような場面に使う言葉ではありません」と教え、窘められたというのである。

岩波の四字熟語辞典でも「悲しみと喜びが入混じること」とあり「悲喜交交至る」の略。交々は、入混じり、あるいは代る代る訪れる意とある。名文家にも間違って覚えた若輩時代があったのだ。名文家はスペイン語の名手でもあって南米特派員を経て外信部長になった。

NHKには今はどうか知らないが昔は研修所があって、何年かごと、1週間ぐらい泊まりこみで、文章の錆を落とされた。いい大人に言葉を教える事は世間では憚られるだろう、とそっと教えてくれるのである。

各位のあとに様や殿を付けてはいけない。各位というのは、皆様がた、皆様と言う意味で既に様が含まれているのだ、と。皮切りとは包茎と関係があるから使ってはいけない。本腰を入れるもいけない。性行為と関係があるからだ、といった具合。しかし、各位様殿は至る所で見る。

しかし、最近は新聞が自由に使っている。まだ未熟も出てくる。未熟とは未(いまだ)熟さずの意味だから「まだ」は不要。これらは高校で漢文を不履修する時代だからだろう。

漢字そのものを漢の国(中国)に拠っているのに漢文を履修しないとあっては漢字の使用方法を習わないに等しいから、こういうことが起きる。そのうちに馬から落馬なども読まされるかも知れない、ちょと覚悟が要る。

偉い政治家でも、若い頃に間違って覚えた言葉は世間が直してくれないから、陰で笑われることになる。

芝居や映画の立ち回りを殺陣(たて)というが「さつじん」と読んだり、旗幟鮮明(きしせんめい)を「きしょくせんめい」と読む。偉い人だから聴いている人はまさか注意も出来ず、心の中で馬鹿にしている。

この人は憎悪(ぞうお)を「ぞうあ」と国連で演説した。幸い通訳は予め演説原文を持っていたからhatredと訳したから、本人は笑われずに済んだ。消え入りたい思いをしたのは日本語原文を草した私であった。2006.11.15