2008年12月31日

◆今じゃ毎日が正月だよ

渡部亮次郎

正月が来る。来れば晩酌が午後2時に繰り上がり、滅多に会わない親戚、家人の姉、弟、甥らがやってきて料理を食べる。料理の値が少し張るだけで昨日と同じ。考えるまでもなく、今は毎日が正月みたいなものだから感激は一つもない

生活が楽になったのだ。雪国秋田での少年時代。隙間風だらけで寒かった。居間では囲炉裏で焚き火。正月だけ座敷で炭火。煙たくないだけ良かったが、良かったのはそれだけ。あ、田圃へ出なくてもいいのも良かったか。

餅と膾(なます)が出たが、餅は今に至るも好きでは無いから喜ばない、膾は酸っぱい上に甘いから嫌い。こんな正月のどこが良くて大人は盆踊りで「盆の十三日、正月から待っていた」なんて唄うのだろうか。とにかく私はこの集落を出てゆこうと早くからハラを決めていた。

当時の米単作地帯では雨が降らない限り田圃に毎日出なければならなかった。田圃では畦道の草刈はじめ何かかにか仕事があった。だから夜中に降る雨を百姓泣かせの雨と嘆いた。雨だ仕事は休みだと喜んだのもつかの間、朝飯が終わった頃には止んでいる。結局、田圃に出ざるを得ないのだから百姓泣かせの雨なわけだ。

当時はすべての農作業は手仕事。米という字が八十八と書くように米作りには88の手間がかかる。苗作りのための籾撒きに始まって代掻き、田植え、草取り、稲刈り,乾燥、運搬、脱穀。指の爪先に泥が詰まり腰が曲がってゆくのがよくわかった。

今では田植えですら機械化されたし、草取りも除草剤のおかげでなくなった。稲刈りも機械だから女たちが田圃に動員されることは殆ど皆無になった。その代わり田圃からは秋田音頭も聞えないしちょっとなまめかしい風景もなくなり用水路からは泥鰌もタニシも姿を消した。

私も秋田の田圃から逃走して55年になった。農作業の手順はすっかり忘れた。学校へ穿いてゆくために独りで編んだ藁沓の編み方も草鞋の編み方も思い出せなくなって久しい。

正月近くなると霜焼が痛いと泣く子供たちの声が近所のあちこちにこだまするように泣いた。あれはビタミンC不足だったという話だ。雪国でみかは無し。津軽から行商にくる林檎売りも大東亜戦争中は皆無。Cを補う食べ物はなかった。だから手の甲と両足の甲に霜焼の跡が歴然と残っている貧しさの象徴というべきか。

正月がくる。来れば間もなく誕生日。何歳になる?脳梗塞をやり損なって以来70歳以上は考えない事にした。高層マンションとやらで隙間風もない暖かさ。田圃の事も考えなくていい暮らし。毎日が正月みたいなものだから既に正月の感激も緊張もない。

秋田でも正月の感激はなかったから同じことか。それにしても私は今年、入院だけで済んだが周囲で多くの友人を失った。忘年の晩酌のグラスに逝った友人、ひとり一人の面影を浮かべながら2008年を送ろうとしている。2008・12・30

2008年12月30日

◆「08憲章」石平氏の見方

渡部 亮次郎

中国の民主化を求める「08憲章」は世界人権宣言採択60周年にあわせ、2008年12月10日、インターネット上で発表された(AP)

中国の学者や弁護士ら303人が公表したものだが、89年の天安門事件で母国と「精神的に決別し」、2007年日本に帰化した石平(せきへい)氏は12日の産経紙上で論評した。

「共産党政権おそらく彼らは、08憲章の発表を中国の発展を阻害しようとする外国勢力の陰謀だと決めつけ08憲章」の連邦共和構想を「祖国を分裂させるたくらみだと断罪した上で、いわば愛国主義の大義名分において民主化運動を潰しにかかってくるのであろう」と分析した。

石平氏はさらに「それでも事態の収拾がつかなくなる場合、国民的なナショナリズム情念をもう1度焚付け、対外的な危機を人為的に作り出すことによって、内部統制を強化して生き延びていくというのは、政権にとっての魅力的な選択肢の一つとなってくるはずである」とし以下のように述べている。

「08憲章」の原文に接したとき、昔の天安門民主化運動にかかわったことのある私は、久しぶりに血が湧くような思いをした。民主化の夢は再び、かの国の大地で蘇ってくるのか。

「08憲章」の示した民主化の理念と構想は、私たちの時代の単純な「理想論」と比べれば、実によく成熟して高次元なものとなった。

それは、中国の現状に対する冷徹な分析と、民主化の障害となる諸問題に対する深い洞察の上、政治・経済・教育・司法・宗教などの多方面における変革の構想と問題解決の道筋を提示し、中国民主化のための総合的なガイドラインを打ち出したものである。

その中で、たとえば「軍の国家化」の主張はまさに現体制の核心部分を突いた鋭い切り口であり、「連邦共和制」の構想はまた、「中国のような巨大国で民主化が実現可能なのか」という長年の難題の解消に方向性を示した歴史的な突破である。

発起人の多くが天安門民主化運動の中心人物の生き残りであることからすれば、今の成熟は過去の運動の挫折に対する反省の結果であると思うが、完成度の高い「08憲章」の発表自体は、民主化運動の一歩前進を示した画期的な出来事である。

何よりも注目すべきなのは、天安門事件から19年目の2008年に、この「08憲章」が発表されたタイミングの重大な意味である。

天安門事件以来の19年間、中国の民主化運動が低潮期に入ったことは事実だが、その最大の原因はやはり、1990年代から始まった市場経済への本格的な移行と、その結果としての高度経済成長にある。

つまり、時代のパラダイム(思考の枠組み)が「政治」から「経済」へと変えられていく中、この国のエリートと民衆が富と豊かさを求めて市場経済の波に呑(の)み込まれていくと、民主化の理想と欲求が徐々に忘れ去られる。そして高度成長のもたらす経済の繁栄はまた、共産党の一党独裁に新たな正当化の根拠を与えて政権安定の基盤を作った。

その結果、党と政府の思惑通りに、十数年にわたる「繁栄と安定」の時代が「めでたく」出現したわけである。

しかしその半面、政治的一党独裁と経済的市場化との矛盾が棚上げにされたままの経済成長は、やがて腐敗の蔓延(まんえん)や貧富の差の拡大や農村の疲弊などの問題を生み出し、経済が繁栄しながらも年間に数万件の暴動が起きるようないびつな社会を作り出すに至った。

かくて運命の2008年から、肝腎の経済繁栄も陰りを見せ始め、特に08年後半に入ってからは、「急落」、「減速」、「減産」、「リストラ」、「倒産」などの不吉な単語が毎日の新聞記事に登場してくる中、十数年間の高度経済成長はその終焉(しゅうえん)を告げようとしている。

これまで経済の繁栄によって覆い隠されていた社会的諸矛盾が一気に噴出してきて、経済の後退がもたらす失業の拡大が社会的不安をさらに増大させる事態の発生が必至だ。つまり今度は、「繁栄と安定」の時代に取って代わって、衰退と混乱の時代が再びやってくるのである。

そうすると、中国はどこへ向かうべきか、という忘れ去られていた根本問題が再び浮上してきて、変化と改革を求める声は再び時代のパラダイムとなってくる。

したがって、このような歴史的な節目に堂々と登場してきた「08憲章」は、まさに中国の直面る難局を打開し、国づくりの新しい道を切り開こうとする民主化運動の「再出発宣言」となるのである。

インターネットが発達し、市場経済の広がりが党の直接支配の及ばない自由空間を作り出したこの時代、彼ら民主派知識人や人権活動家を中軸に、いびつな経済繁栄から取り残された農民工や都市部労働者、経済衰退の中で生活破綻(はたん)をきたしていく中産階層、

卒業しても職にありつけない大学生、そして「中華帝国」の支配に反発するウイグル人やチベット人などが、自由・人権・民主の普遍的価値を掲げた「08憲章」の旗印の元に結集してくるのであれば、それが間違いなく、中国の行方を決定する大きな流れを作り出していくのであろう。

日本がどう対応すべきかこそはわれわれにとっての大問題であるが、とにかく、08年12月から、巨大隣国・中国の変革と激動の時代がいよいよその幕を開けようとしていることを、まず認識しておくべきであろう。



■天安門事件 1989年6月、中国政府が軍隊を出動させ、民主化を求める学生らを弾圧した事件。4月15日に急死した中国共産党の改革派指導者、胡耀邦氏の追悼を契機に、学生らが北京の天安門広場でデモを繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。トウ()小平氏ら指導部は運動を「動乱」と断じ、6月3日夜から4日未明にかけて、軍を動員して広場を制圧し、少なくとも数百人の死者が出た。


■せき・へい 1984年北京大哲学科卒。88年に来日。89年の天安門事件で母国と「精神的に決別」。95年神戸大大学院で博士課程修了。2007年日本に帰化し08年拓殖大客員教授。「私は『毛主席の小戦士』だった」(飛鳥新社)など著書多数。四川省出身。46歳。産経ニュース
2008.12.23 18:18


2008年12月28日

◆トウ小平に贈られた高級車

渡部亮次郎

<12月5日発行の共産党中央宣伝部の機関誌「半月談」は「1978年にケ(トウ)小平氏は日本から何を学んだのか」と題する記事を掲載した。同年10月の訪日で新幹線に初めて乗り、松下電器産業や新日本製鉄などを見学したケ小平氏が日本の発展ぶりに大きな刺激を受けたことを詳しく紹介、「この経験は後の中国の近代化構想の中で大いに参考となったに違いない」と論評した。

また、23日付の中国紙「中国青年報」は「日本がなければ、改革・開放は大きく異なっていた」とするコラムの中で「1979年以来、日本は中国の最大の援助国となり、総額2000億元(約2兆6000億円)以上を提供し、中国が受け取った援助額全体の67%を占める」と紹介。

「2002年までに日本は1万2000人の専門家を中国に派遣し、農村開発などの分野で大きな役割を果たした」と指摘した。北京紙「新京報」なども最近、同様の内容の記事を掲載している。

これまでの中国メディアの日本報道といえば、歴史認識や領土問題などで日本を批判し、旧日本兵の残虐行為を強調するものが目立ち、戦後の日本を客観的に伝える記事は少なかった。このため多くの中国人は中国の近代化に日本が資金面や技術面で大きな役割を果たしたことをまったく知らない。

偏った日本報道や愛国主義教育の結果、胡政権が推進する日本重視路線は国内世論から強い抵抗を受けているのが実情だ。

今回の日本報道の変化について、中国の日中問題専門家は「戦後の日中関係史に光を当てることで日本の良いところを伝え、若者の反日感情をやわらげる世論対策の意味がある」と指摘する。

また、「中国が政府開発援助(ODA)に感謝していないことが日本世論の対中感情悪化の原因の一つになっているので、今回の一連の報道は日本の国民感情に対する配慮も込められている」と分析している。>産経ニュース2008.12.25 21:17

1978年10月、ケ(トウ)小平氏が、初来日した時、肩書きは中国政府の「副首相」に過ぎなかった。3度目の失脚から奇跡の復活を遂げてまだ1年未満だった。しかし実力は既に華国鋒主席を凌ぎ実力No.1だった。

当時、日本は福田赳夫内閣。福田首相は2年前、幹事長大平正芳氏に対し「2年後には大平にバトンタッチする」との蜜約書を渡していたが、これを勝手に「反故」にし、大平氏と力で争う事を決意していた。

トウ副首相はそんな事情を知る由もない。私は当時、外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、トウ一行接遇を横目に、自民党総裁選の行方に最大の関心を払っていた。首相交代ともなれば園田の政治的立場が変わるからだ。福田総理は『密約』反故で総裁再選後は園田氏を外相留任か通産大臣への横滑りをエサに密約反故への加担を誘ってきていた。中には幹事長就任を言ってくる側近もいた。

海千山千といわれた園田氏だったが、密約立会人としては、約束遵守の決意は固かった。さすが元特攻隊員だった。

トウ氏は歓迎の晩餐会や天皇陛下の謁見を滞りなくこなしながら、敗戦日本の経済復興の実態の見学を早くしたがった。実際、昭和天皇の謁見の時は胸を張って入って行ったったが、謁見の後はうなだれて小さくなって出てきた。会談中、日本の工業発展に伴う大気汚染など公害問題ばかりを話題にしようとしたらしい。

そうした中、某大手自動車メーカーが通産省(当時)ルートを通じてツ氏に最高級乗用車1台を贈りたいと私に打診を依頼してきた。

毛時代はホテルのボーイでさえチップを拒否するように言われている国。さてどうかなと思ったが、あにはからんや二つ返事で「是非いただきます」さっさと船での持ち帰りを早々に手配する始末。

福田首相からの土産はたった85万円の陶器だったが、1000万円の乗用車をこともなげに受け取る共産主義者。私はそれまで見聞してきた中国幹部と全く異質なものをトウ氏から感じ取った。「とんでもない事を平然とやってのけられる太い神経を持っている」。

トウ氏はやがて一行と共に新日鉄や松下電器の視察を終え、東海道新幹線に乗車、大阪に向かった。日本側記者団に感想求められ、たった一言「鞭で首を打たれ続けるようだった」。その意味を追求した記者はいなかったようだが。敗戦国ですらこれだけの経済発展を可能にしたもの、それが資本主義体制による自由競争にあることを痛感したのだと私は受け取った。

果たせるかなトウ氏は、帰国直後から経済の改革・開放の必要性を強調、遂に暮までには党全体の了承を取り付けたのだった。経済の改革とはすなわち資本主義と自由競争体制の取り入れであり、開放とは外国資本受け入れの事である。ここから中国は「トウ小平」時代の幕をあけたのである。

自民党の総裁選挙は大方の予想に反して福田氏が惨敗、下野。大平内閣に園田外相は再任となり、中国への政府開発援助(ODA)供与開始に踏み切った。しかし、その事実を中国は国民に対して絶対明らかにしなかった。経済建設が宿敵日本の「お蔭」とは口が裂けても言いたくなかったのだ。

だが、生前のトウ小平は口では一言も言わなかったが、日本人あるいは技術を極めて高く評価してていた。というのは、日本から帰って暫くしてある秘密ルートを通じて園田外相の下に1枚のレントゲン写真が届けられた。「可能性を医学界に打診して欲しい」の一言だけだったが、脊髄のぷっつりと切断されたその写真が、文革中、北京大学の4階から転落して身体障害者になったトウ氏長男のそれである事は明らかだった。

切れた脊髄が日本でなら繋がるかも知れないと「父トウ小平」は考えたのだ。勿論日本の医学界とて下す手立てはなかったわけだが、あれから丁度30年。「日本なくして新中国は無い」とトウ氏は思っていたはずだと回想することしきりなのである。

じつはこれに先立って田中角栄首相に同行して北京で日中国交正常化に立ち会った1972年。「日本の敗戦直後よりも50年は遅れている」と感じた中国が、たった30年で今や日本に経済面で牙をむくようになった。

ここで改革・開放体制から日本を否定する事は絶対に不可能なのだ。それを弁えない限り中国の正しい発展はあり得ない。中国メディアにも日本との関係を科学的に考えられる御仁がようやく出てきたようである。2008・12・27


2008年12月27日

◆脳梗塞は2分20秒に1人

渡部 亮次郎

軽度とはいえ、脳梗塞で10日間の入院生活をして、改めて人生について考えさせられた。「人間、独りでは生きて行けない」のである。

洗面器に湯を張って、手を入れてふと考える。湯にすれば突然入ってきた異物の手である。手を抜けば、手なんかなかった元に還る。私の入院していたあのベッドには、既に次の患者が入り、西病棟4階は渡部亮次郎なんか忘れた日常に還っているだろう。

久しぶりに帰ってきた自宅のベッド。深夜、レシーバーを耳に当てるとラジオ深夜便がいつものオーダーで、私と無関係に番組をすすめている。私がいてもいなくても世のなかは粛々と営まれているのだ。

翻って私は世の中に対して粛々、唯々諾々としていられるか。決してそうではない。家庭には家族、外では友人。知人、先輩、同僚、後輩に手を引っ張られて浮いているに過ぎない。決して独りでは生きてゆけないのだ。病気になってみて改めて痛感した。

2008年11月17日(月)の朝7時に起きて、いつものようにパソコンを開けた。いつものように愛読者4千人にメイル・マガジン「頂門の一針」最新号を配信すべく編集に取り掛かったが、どうも違和感がある。左手小指の先が痺れる。

おかしいな、脳梗塞かなと思いつつ配信を終えた。8時半、掛かりつけ東京高輪病院の内科医に電話。「このところ続いた高血糖による異変では無いでしょうか」「そんな事はありませんよ、ご心配なら脳神経科にいらしてみたら」であった。

そうだ、糖尿病患者は脳梗塞や脳内出血を普通の人の何倍も起こしやすいと教わっていたではないか。そうだ「権威」友人石岡荘十に聞いてみよう。彼は自身、心臓手術を体験して以来、勉強の成果を文藝春秋から上梓したばかり。

「それは間違いなく脳梗塞だ、急いで病院へ行きMRIを撮ってもらいなさい!」叫ぶような声。アパートの真向かいが小さな総合病院だが嫌いだから30分以上かかる港区高輪台にある掛かりつけ「せんぽ東京高輪病院」に駆け込む。

MRIの結果は右耳の脇あたりにご飯粒ぐらいの梗塞(血栓のつまり)が発見されて、即時入院、20日間の点滴治療が宣告されたのだった。

詰まったまま時間が経つと先の脳神経が死んで不具者になってしまうが、早く血流を再開すれば元に戻る。急がなければ無意味なのだ。

院内エレベーターの「痺れ研修会」案内ポスターによると、「痺れ」の原因は4つあるそうだ。
(1)手根管症候群
(2)肘部管症候群
(3)頚椎症
(4)脳梗塞

脳梗塞にもいろいろあって、私のように極小さい梗塞はCTなんかでは発見できないから「微小脳梗塞」と言ってMRIが発明されるまでは見逃されていたらしい。MRIは最近の臨床では、主に脳と中枢神経系の病気を診断するの使われている。やわらかい組織をうつしだす点ですぐれているため、X線ではみえない部分も画像としてとらえることができる。

直ちにとラジカット30mg100mlとキサンポン40mg 100mlの点滴の点滴が開始された。点滴は午前と夜の2回。10日間続いた。

受けた点滴は微小脳梗塞初期に対しては標準的な治療法だそうで、小指の痺れは翌日には取れた。

その後の検査で右の頚動脈に狭窄が発見されて、ドッキリしたが、幸い手術するまでもないとなって予定より早く10日間で退院となった。死神を遣り過ごしたわけである。予後、血栓予防薬剤として錠剤「プレタール」の服用を一生義務づけられたが、アルコールの飲用が禁止とはならなかったので二重に助かった思いである。後遺症は全くなし。

大阪の安井敏裕氏(脳外科医・産業医)によると、脳梗塞に対して米国では1996年から特別な手技や道具が不要で、ただ静脈内注射するだけで詰まった血管の血栓を溶かしてくれる「アルテプラーゼ」と言う薬の使用が始まり、2002年にはヨーロッパ連合(EU)でもこの薬剤による血栓溶解療法が認可された。

この薬は血管に詰まった血栓を溶かしてくれる血栓溶解剤で、発症後3時間以内に静脈内注射するだけで良好な予後が得られる。わが国では米国から遅れること約10年の2005年10月11日に漸く承認された。

安井氏によると脳卒中とは、脳に酸素やブドウ糖などの栄養を送る血管が「詰まったり、切れたり、破裂して」、にわかに倒れる病気の総称である。

脳卒中には、脳梗塞(詰まる)、脳出血(切れる)、くも膜下出血(破裂)の3種類ある。

この病気の歴史は古く、「医学の父」と言われているヒポクラテスは既に今から2400年前の紀元前400年頃に、この脳卒中の存在を認識し「急に起こる麻痺」という表現で記載している。脳卒中による死亡率は日本では癌、心臓病に次ぎ、第3位で、毎年15万人程度の人が亡くなっている。

しかし、本当に問題となるのは、脳卒中が原因で障害を持ち入院あるいは通院している人たちが、その約10倍の150万人もいることである。

現在、脳卒中の中では、脳梗塞の発生頻度が突出して多い。2分20秒に1人が脳梗塞になっていると言うデータもあり、全脳卒中の70%程度を占めている。

この最も多い脳卒中である「脳梗塞」について、大きな治療上の進歩があった。アメリカで12年前の1996年である。

脳梗塞は、脳の動脈が血栓や塞栓という血の固まりのために詰まることで起こる。この血の固まりで閉塞さえた血管から血流を受けていた部分の脳は、いきなり脳梗塞という不可逆的な状態になってしまうのではなく、3時間の猶予があり、徐々に脳梗塞になる。

この3時間の間に血流を再開してやれば、再度、機能を回復できることになる。いわば、「眠れる森の美女」のような状態で、医学的には、このような状態の部分の脳を「ペナンブラ」と言う。見方を変えると、この部分は、血流が再開しないと3時間後には脳梗塞という不可逆的な状態となってしまう訳である。

このペナンブラの部分に血流を再開する方法として、古くは開頭手術をして、目的の血管を切開し、中に詰まっている血の固まりを取り除く方法を行っていたこともあるが、それでは、多くの場合に時間がかかりすぎ、再開通させた時には、ペナンブラの部分は既に脳梗塞になっている。また、間に合わないばかりか、出血性梗塞というさらに悪い状況になってしまうことさえある。

開頭術の次に登場した再開通法は、カテーテルという長い管を血管の中に通し、その先端を詰まった部分にまで誘導して、血栓を溶かす薬を注入する方法である。

この方法では開頭手術よりも早く、血管を再開通させることができるが、この方法であっても、血管が閉塞してから6時間以内に再開通させないとペナンブラが脳梗塞になってしまうことが防げないし、間に合わずに血流を再開させた場合には、やはり脳出血が起こってしまう。

このようなことから、一時、脳卒中に関わる医師は、口には出さないが、最も理屈にあった治療法である「急性期に閉塞血管を再開通させて脳梗塞になることを防ぐ」と言う治療を諦め、虚無的になっていた時期がある。

再開通させることを諦め、梗塞に陥ってしまった脳自体の治療として、脳保護薬や低体温療法へと興味が移行していた時期もあった。

しかし、米国で1996年から特別な手技や道具が不要で、ただ静脈内注射するだけで詰まった血管の血栓を溶かしてくれるアルテプラーゼと言う薬の使用が始まり、2002年にはヨーロッパ連合(EU)でもこの薬剤による血栓溶解療法が認可された。

わが国でも日本脳卒中学会を中心にこの薬の早期承認を厚生労働省に求めたが、「日本人を対象とした治験で良い結果が出ない限り承認できない」という厚生労働省の方針に答える準備のために時間がかかり(druglag)、米国から遅れること約10年の2005年10月11日に漸く承認された。

この薬は血管に詰まった血栓を溶かしてくれる血栓溶解剤で、発症後3時間以内に静脈内注射するだけで良好な予後が得られる。

しかし、この薬剤は両刃の剣で、39項目に亘る使用基準を尊守しないと、脳出血の危険性が著しく増大することが分かっている。従って、厚生労働省も非常に厳しく市販後調査(2.5年間に3000例以上の全例調査)を課している。現在は、言わば試運転ないしは仮免状態と心得て、慎重に使
用する必要がある。

この薬剤を用いるためには、一定の講習を受ける必要があり、全国で130回以上行われ、8000人以上が受講した。実際に、この薬剤を発症後3時間以内に注射するには、患者さんには、遅くとも発症後2時間以内に病院へ到着してもらう必要がある。

すなわち、病院へ到着しても、患者の診察、一般検査、脳のCT検査、家族への説明など、最低1時間は必要であるためである。そのために、最初にこの薬剤の使用を始めた米国では、脳梗塞を“ブレインアタック(brain attack)”と言い直し、社会全体に向かって、その緊急性を啓発した。

すなわち、“Time is brain. Time loss is brain loss.”などの標語で注意を喚起した。日本においても脳梗塞を“ブレインアタック”という緊急を要する疾患として一般の方々に認識していただくために、学会や医師会などの啓発運動も行なわれるようになっている。

さらに、平成9年3月に創設された日本脳卒中協会においても、毎年5月25日〜5月31日までの1週間を脳卒中週間と定め啓発運動に努めるようになっている。

脳卒中週間をこの時期にしたのは、とかく脳卒中は冬に多いと思われがちであるが、脳卒中の中で最も多い脳梗塞は、最近の研究では6−8月に増えだすため、脳卒中予防は夏から気をつけなければならないことを啓発するためである。

この週間で使用される標語も、昨年(2006年)はアルテプラーゼの使用が認められたことを念頭において「1分が分ける運命、脳卒中」であった。2001年の日本での脳梗塞急性期来院時間調査の結果では36.8%の患者が3時間以内に来院している。この中の一部の方がアルテプラーゼ治療を受けることになるが、この割合をさらに増やして、本薬剤の恩恵を受ける人を増やす必要がある。

この治療では10年の経験を持つ米国では、この治療を受けるためには、
1)患者の知識、
2)救急車要請
3)救急隊システム、
4)救急外来、
5)脳卒中専門チーム、
6)脳卒中専門病棟、とういう6つの連鎖の充実と潤滑な流れを推奨している。
 
一般市民への啓発や行政への働きかけなどが必要である。一方で、来院から治療までの時間も1時間以内にする努力が病院側に求められている。いつでも、3人程度の医師が対応できなければならないし、他職種(レントゲン部門、検査部門、看護部門)の協力も不可欠である。(了)

(安井氏は元大阪市立総合医療センター・脳神経外科部長・現社会福祉法人「聖徳会」岩田記念   診療所 勤務)

私は1時間遅かったが、角さんは死神に遭うのが何年も早すぎたのである。
2008・11・30Microsoft(R) Encarta(R)


2008年12月24日

◆百花斉放 百家争鳴で一網打尽

          渡部亮次郎

2008年12月10日、中国の一党独裁中止を要求する08憲章が発表され、呼びかけ人は直ちに拘束された。それでも同調の署名者は何百人に達したと報じられたが、大した騒動にはなっていない。

現地では当局がニュースサイトの閉鎖に乗り出したと噂されているが、産経新聞中国総局長の伊藤正氏は「中国指導部は、憲章のネット情報をほとんど規制しておらず、一党独裁を揺るがすことはないと踏んでいるようだ」と報じている(19日)。

かつては当局に刃向かった学生たちも今回は温和しいようだ。そこで思い出すのが「百花斉放 百家争鳴」の罠だ。今から半世紀前の1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。

この運動は、文学、芸術、科学技術に従事する者たちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。

ところがインテリたちは罠を感じて反応しなかった。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。

毛沢東や人民日報からは「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」
「言う者に罪無し」「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」
という発言が飛び出し、知識人を大いに刺激した。

民主主義国家では当たり前のことだが、共産党独裁の中国では現在でも容認されない画期的な政策であった。

こうして1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。中共による独裁が批判される一方で、儲安平は全ての分野に党員を配置する党天下を痛烈に批判した。批判の対象は毛沢東と周恩来にまで広がった。

1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。

もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

集団虐殺がなかったとはいっても、右派分子と断罪された人々が名誉を回復するには、改革解放が始まる20年後まで待たなければならなかった。生きて名誉回復ができたのは20数万人に過ぎなかった。残りの約30万人は中国共産党によって生命を奪われたと言ってもいいであろう。また、1980年の時点で最終的に90人の右派分子が名誉を回復することができなかった。

毛沢東自身は1958年5月8日の会議で述べている。「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」と言って自ら大笑いしたという。
08憲章ではしゃいでいると一網打尽が待っている、と感じているインテリは多いだろう。2008・12・23

2008年12月21日

◆外務次官北朝鮮人説の真贋

        渡部亮次郎

「外務事務次官の藪中三十二(やぶなかみとじ)は母親が北朝鮮人だ。だから北朝鮮による日本人拉致事件は彼の次官在任中は解決しない。確かに藪中は大阪出身だが。実にショックな発言だった。

2008年12月12日夜9時過ぎ。都内有名ホテルでの宴席、その日が初対面の元閣僚が、宴会のお開き間際にショックな発言をしたあと、手嶋さん(前NHKワシントン支局長)の著書に詳しいよと述べて去ったのである。

北朝鮮との際どい外交交渉の先頭に立っている外務事務次官がこともあろうに母親が北朝鮮人とは、俄かには信じられない話では無いか。発言者が元閣僚という重さを持った人物とあっては一笑に付すわけには行くまい。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による
薮中三十二。

薮中三十二(やぶなか みとじ、1948年1月23日―)は、日本の外交官。外務事務次官。

大阪府立住吉高等学校卒。大阪大学法学部を昭和44年(1969年)に中退し『中級』公務員として外務省に入省。しかし翌年、外交官試験上級職試験を受け直して、昭和45年(1970年)外務省に再入省。小嶋光昭、西田芳弘(外務省中南米局長)、小野正昭(駐墨大使)らが同期。その後、コーネル大学に留学し、昭和48年(1973年)に卒業している。

昭和58年(1983年)、書記官として在韓大使館勤務。勤務期間中にデモ隊が大使館に乱入、大使のボディガード役を務める。その後在米大使館などで勤務。北米局2課長やシカゴ総領事、官房総務課長を経て、平成14年(2002年)12月、外務省アジア大洋州局長に就任。対北朝鮮外交、対中国外交での拉致被害者の返還交渉と北朝鮮の核問題における交渉担当者。平成19年(2007年)1月に政務担当外務審議官。

平成20年(2008年)1月17日、谷内正太郎の後任として、本命の条約局ルートを歩んできた海老原紳(駐インドネシア大使)を制して外務事務次官に就任。
外務省関係者の評価では後に「上級」で入りなおした人物が事務次官になりえたのは珍しいという。


手嶋龍一(元NHKワシントン支局長が書いたのは「ウルトラ・ダラー」(新潮社)政治スリラー小説。彼を快く思っていない嘗ての彼の同僚たちは手嶋を全く評価しない。私の代りに読んでくれと頼んでも珍しく拒否された。

仕方なし取り寄せて読んだ。

北朝鮮が密かに印刷を進める精巧な偽100ドル札、通称「ウルトラ・ダラー」。その製作には日本から拉致された印刷工や密輸された印刷機器が絡んでいる。BBCの東京特派員スティーブン・ブラッドレーは、日本の外交当局や米国諜報機関と連絡をとりながら、偽米ドル札の背後にある陰謀を追う。

最初からドキュメント・ノベルと銘打ち、香港やシンガポール、ジュネーブやパリなど世界各地に舞台を移しながら、中国やウクライナまで巻き込んだ壮大な諜報合戦が繰り広げられる。
書かれていることの多くにはモデルとなった現実の事件や企業があることが透けて見え、小説とはいえ現代国際政治の妖気ただよう様が描かれている。

北朝鮮はドル紙幣の用紙をアメリカ国内で盗み、印刷機をヨーロッパで調達、印刷職人は日本から拉致して精巧な偽100ドル札を大量に印刷する最終目的はウクライナから核」弾頭ミサイルを購入するため。
一連の工作に日本外務省のアジア大洋州局長「瀧澤勲」が実は北朝鮮側の工作員として登場する。

ことが官憲に暴露される寸前、東南アジアに逃亡。自宅への家宅捜索にはいった東京地検の検事が「告白文」を発見。「大阪の鶴橋に程近い舟橋で生まれた私の本当の母親は北朝鮮の工作員」と説明。

母親は「母たる私への思いを些かでも抱いてくれるなら朝鮮民主主義居和国と野国交を樹立し、日本に過去への償いをさせて欲しい」と頼んで姿を消したのだ。

その言葉を胸に秘めた瀧澤は天王寺の中学・高校で在日朝鮮人の友と過ごした後外務省に入省し、やがて北京のホテルで、今や北朝鮮の工作員となった昔の友人会い、偽100ドル札工作弐引き込まれて行く。

日本外務省の動きをマスコミで多少知る人間からすると、モデルを詮索すれば嘗ての外務審議官田中均氏を連想するが、藪中三十二氏を連想することも不可能ではない。ただ小説は小説で終わっていて藪中氏の母親が北朝鮮人だとは決して断定はしていない。
以下は友人の調査。
住吉高校は在日が多い
『在日韓国人ら日本国籍以外の生徒を多く受け入れていることも住吉高校の特徴です。その数は全校840人のうち約50人を占めます。』
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1202982494/

『弟が入学した住吉高校では最初から体操服にもハングルのネーム入れが当たり前のこととして行われてうれしかったことなどが話された。』
http://www.ne.jp/asahi/m-kyouiku/net/2005bunkakai4.htm

◆おまけ、藪中氏の人柄は?
さらば外務省!私は小泉首相と売国官僚を許さない 天木直人著
『ノンキャリア試験で外務省に同期で潜り込んだ藪中が,キャリア試験(上級職試験)を再受験したら,「天木さん」から「天木君」へと呼び方を変えたというエピソードもあった。』
http://www.bk1.jp/review/0000296804

れにしてもあの閣僚経験者ともあろう人物は、たったこれだけのことでなぜ断定した物言いをしたのだろうか。或いは「酔っていた」か私の空耳と片付けたほうが良いのだろうか。それにしてもあの元閣僚は拉致問題解決のすぐ近くにいるのだ。
いずれにせよ筆者は藪中氏や外務省関係者を中傷したり名誉を毀損する意図は全くないことを断っておく。2008・12・17

2008年12月19日

◆どう出る「08憲章」へ当局

          渡部亮次郎

中国で動き始めた「08憲章」について千里の堤も蟻の一穴から」と見るひともいるが、「死に際の猛虎」の凶暴さを見くびるなとの忠告を送る人もいる。何しろこれをうけいれたら中国で共産党はメシの食い上げだから死にもの狂いで取り締まるというのが常識的な見方だろうが、さて。

当局は強硬姿勢、対話より暴力か

中国当局は「08憲章」についてどういう形で対処するか?
中国問題に関する評論や消息筋情報が満載で中国観察には欠かせない、香港の月刊誌『開放』の編集長にして著名なチャイナ・ウォッチャーである金鐘氏がインタビューに応じた。(2008年12月10日/聞き手:河井森太郎)

金鐘氏は劉暁波氏とも親しく、「08憲章」にもすでに署名している。有数の中国観察家にふさわしく、金鐘氏は「08憲章」の内容に対する充足感と希望を託す心情を吐露しつつも、「08憲章」が直面している厳しい現実を冷静に分析・解説してくれた。

「中共当局は強硬な態度で臨んでくる、というのが私の見方だ。劉暁波氏を『刑事拘留』したのは不吉な前兆といえる。2009年は中国の『政治の年』だ。天安門事件20周年、チベット暴動50周年と、いずれも『多事多難の年』になることを感じさせる」

「治安系統を統括する周永康(党中央政治局常務委員)は江沢民系の保守的な人物で、独裁の威力の信奉者だ。劉暁波氏の逮捕を『2009年の鎮圧を控えたお掃除』だなんて言う者もいる」

「『蘇東波』(ソ連・東欧社会主義政権の相次ぐ崩壊)は中共にとっての悪夢。連中は『08憲章』が『憲章77』になることを決して許さないだろう。ネット上の規制を強化して『08憲章』が広まるのを封殺するだろうね」

「08憲章」とは

◆一党独裁に叛旗!全面的民主化求める異例の檄文である。

中国共産党による一党独裁体制の終結と全面的な民主化を求めた「08憲章」と題する文書で2008年12月10日、中国の学者や作家、弁護士,新聞記者など303名の署名とともにインターネット上で発表されたもの。

知識人らの連署による政策批判や政治犯釈放要求は過去にも行われてきたが、天安門事件以後、全国民がすくむ雰囲気にも拘らず300名以上が実名を明らかにして公然と一党独裁を批判するのは極めて異例だ。今のところ世界は運動の広がりと弾圧を企図する共産党政府の出方を緊張して見守っている。

「08憲章」は著名な反体制評論家・劉暁波氏らが発起人となって起草されたもので、「一党独裁」と明記してはいないものの、「新中国は名義上は『人民共和国』だったが、実質的には『共産党の天下』だった」

「執政党が政治,経済,社会の一切を独占し」

「その結果数千万人の生命が失われ、国民も国家も極めて惨憺たる代価を払うことになった」などと一党独裁体制を真っ向から批判。

その一方で多党制、三権分立、普通選挙制,基本的人権の尊重、共産党色の払拭などといった全面的な制度改革を実現することで中国が健全な民主国家に生まれ変わることができると主張している.。

中国当局はこれを「挑戦」と受け止めて強硬姿勢でこ対処するものとみられ、すでに劉氏ら複数を8日、「国家政権顛覆煽動罪」の容疑で刑事拘束。今後も署名者への監視・拘束が相次ぐのは必至だ。

ただしネット上で各所に転載された「08憲章」は現在でも中国国内から検索することができ、その大半はすでにアクセス不能となっているものの、一部のウェブサイトではいまだに全文を読むことが可能。この点は天安門事件当時と違ういわばネット時代の「反革命」とも言えよう。

これについては署名者が出揃ったところで一斉摘発を行うのではという見方もある。

しかし「08憲章」に賛同した署名者数は海外在住の中国人も含め,12日現在ですでに1000名を突破。国内では知識人だけでなく労働者、農民、企業経営者,プログラマー、大学生などの新規署名が目立ちつつあり、賛同者が従来の枠を超えて庶民の間にも広がる勢いを見せ始めている。

折しも主要先進国の景気後退を受けて、輸出頼みでやってきた中国経済は失速中。広東省だけですでに数万社が倒産したとみられ、突然の工場閉鎖や解雇通告、また経営者の夜逃げで失業者となった出稼ぎ農民たちが騒いで官民衝突に発展するなど事件が頻発している。

不動産と株のバブルもはじけて原野商法や高利を謳った違法な資金集めなどの被害者による暴動も相次いで発生。一方で中国独特の歪んだ経済発展モデルが超格差社会という形で行き詰まった状態でもあり、待遇改善を求めるタクシー運転手が地域を越えて連携し、各地で同時多発的にストライキを決行したのは記憶に新しいところだ。


こうして中国社会に不穏な空気が漂い始めた矢先、基本的に書斎派である知識人を中心に発表された「08憲章」が庶民レベルでも受け入れられることになれば、事態は意外な展開をみせる可能性もある。予測は全くつかない。

署名者には耕地強制収用や再開発事業で生活の場を失った農民や市民など被害者に対する救済活動に奔走している人権派弁護士や、エイズ患者救済活動家なども多数、名を列ねている。すでに半ば組織化されている被害者経由で一般市民などへのつながりが生まれていけばどのようなことになるだろうか。

あるいは、ネットのユーザー数が2億人を突破し、都市部住民の代弁者として政府も無視できない存在感を示すようになったネット世論が、「08憲章」を好意的に受け止めて盛り上がるようであればどうなるか。果たして当局の取り締まりとやらは可能なのか。

生活に行き詰まって蹶起する事件が多発するなか、「民主化」という悠長なテーマを掲げた「08憲章」が一般層に受け入れられるかどうかは甚だ疑問だが、一党独裁体制やその必然的帰結のひとつである党官僚の汚職や特権ビジネスの蔓延を公に批判する、という凛然たるスタンスが共感を呼んで火種となり、反体制的なムーブメントが生まれるという「大化け」の目は無いでも無い。

ともあれ、中共政権に対する「叛旗」、知識人による「宣戦布告」ともいえる、ある意味歴史的な文書が出現しながら、日本のマスコミによる報道は遺憾ながら未だ詳細に欠け不十分だ。

金鐘氏へのインタビューも意義はここにある。

「大化け」はやはり、夢で終わるのだろうか?
続きを読む≫≫「08憲章」が中国を変える!

2008年12月13日

◆真の努力家遠藤実の生涯

渡部亮次郎

歌謡界から初めて文化功労者に選出された(2003年)「北国の春」の作曲家遠藤実(えんどう みのる)氏が急性心筋梗塞のため2008年12月6日10時54分、東京都内の病院で逝去。まだ76歳だった。戦後歌謡界を代表する日本の作曲家だったが、作曲は独学だった。

門外漢ながら演歌の作詞は何とかなるかもしれないが、作曲となると、皆目想像がつかない。古賀政男にしろ遠藤実にしろ市川昭介にしろ、独学で作曲をモノするとは想像を絶する。頭にメロディーは浮かんでもそれを五線紙に落とすに際し、原則や約束事をどうやって「独学」したのか、とにかく尊敬してしまう。


昭和7(1932)年7月6日東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)に生まれたが、大東亜戦争時に父母の郷里、新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)で極貧の疎開生活を送っていた。

1949{昭和24)年、17歳の時上京。ギターを携えて流しの演歌師になり三鷹や荻窪を流していた。産経新聞(2008・12・7)の「産経抄」によれば、その頃、産経新聞社主催のノド自慢に落ちた。

「流し」の頃、ハラが減ると食堂で秋刀魚の開きと味噌汁だけの定食を食べた。そんな時、注文もしないカツ丼を黙って出してくれる3つ年上の店の女性がいた。後の節子夫人である。夫人は既に先立った。

新潟の疎開先で貧乏だったため行けなかった高校への憧れをメロディーにしたのが、舟木一夫の「高校三年生」や「修学旅行」「学園広場」だった。

流し(ながし):街頭や酒場などを流して歩く芸およびその芸人。古くは新内節の〈新内流し〉が有名で,19世紀初めころ(文化年間)から始まった。2人一組の二挺三味線で,太夫が本手を弾き,上調子(高音(たかね))がこれに派手な手をあしらう。街頭を流し,一節を路上で語る〈軒(のき)づけ〉と,呼ばれて座敷へ上がり一段を語るものとがあった。

流しの芸には,ほかに浪花節,民謡などもあり,明治維新後の演歌師などもそれに準ずる。第2次大戦後はギターの流しも流行したが,カラオケが流行するようになって下火となった。世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス

1956年、日本マーキュリーレコードから、『お月さん今晩わ』で作曲家としてデビュー。

また自らの名をつけたレコード会社・ミノルフォン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)を創業し、1960年には専務、1968年には同社社長になる。会社は倒産。それを歌にしたのが小林旭の歌った「ついて来るかい」だ。

生涯に送り出した楽曲(一部は作詞も)は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。

1988年、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける。

1979年、日本演歌大賞を受賞。

1990年、紫綬褒章を受章。

1994年、日本大衆音楽文化協会会長に就任。

1995年、日本音楽著作権協会会長に就任。

2002年、勲三等旭日中緩章を受章。

2003年、文化功労者として顕彰される。

2005年、日本作曲家協会会長に就任。


[編集] 主な作品

お月さん今晩わ(藤島桓夫、1957年4月)
からたち日記(島倉千代子、1958年11月)
浅草姉妹(こまどり姉妹、1959年11月)
アキラのズンドコ節(小林旭、1960年)

ソーラン渡り鳥(こまどり姉妹、1961年5月)
おひまなら来てね(五月みどり、1961年5月)
襟裳岬(島倉千代子、1961年6月)

若いふたり(北原謙二、1962年8月)
高校三年生(舟木一夫、1963年7月)
詩を受け取って2階に上がる途中で完成したとの伝説がある。
ギター仁義(北島三郎、1963年8月)

修学旅行(舟木一夫、1963年9月)
哀愁出船(美空ひばり、1963年)
仲間たち(舟木一夫、1963年12月)

君たちがいて僕がいた(舟木一夫、1964年5月)
青春の城下町(梶光夫、1964年)
星影のワルツ(千昌夫、1966年3月)
こまっちゃうナ(山本リンダ、1966年11月)

新宿そだち(大木英夫・津山洋子、1967年10月)
ついてくるかい(小林旭、1971年4月)
純子(小林旭、1971年10月)

せんせい(森昌子、1972年7月)
中学三年生(森昌子、1973年2月)
くちなしの花(渡哲也、1973年8月)

白樺日記(森昌子、1973年8月)
おかあさん(森昌子、1974年8月)
すきま風(杉良太郎、1976年10月)

北国の春(千昌夫、1977年4月)

ひとり(渡哲也、1977年4月)
江戸の黒豹(『新五捕物帳』主題歌、1977年)
夢追い酒(渥美二郎、1978年) 1979年の年間第1位
みちづれ(牧村三枝子、1978年10月)

大東京音頭(三波春夫/三橋美智也・藤野とし恵 ほかによる競作、1979年)
君は人のために死ねるか(『大捜査線』主題歌 1980年)
南風(小柳ルミ子、1981年)
冬支度(牧村三枝子、1984年)
雪椿(小林幸子、1987年6月)

門下生
橋幸夫(当初は実の門下生で、実の推薦で吉田正の下へ移った)
舟木一夫
千昌夫
小林旭
森昌子
島倉千代子
山本リンダ
渡哲也
五月みどり
杉良太郎
いではく(作詞家)
一節太郎
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2008・12・10

2008年12月12日

◆海賊を見逃す民主党

渡部 亮次郎

ソマリア海賊の無法振りが問題になっているが、自民党に代って政権を担おうとしている小沢民主党には仮に日本の石油タンカーが襲撃された場合の具体策を未だ持っていなことに気付く人は少ない。

ソマリアの海賊の活動範囲は最近はアデン湾やインド洋の3分の1にも及び、各国の石油タンカーを襲撃している。船はソマリアに係留され、海賊との間で身代金の交渉が行われる事件が相次いでいる。

米国防総省によれば事実上の無政府状態が続いているソマリア沖では少なくとも船舶18隻、乗組員330人が乗っ取られ、身代金を要求されていると発表した。

マレーシアのクアラルンプールにある国際海事局(IMB)海賊情報センターの所長は「今は海賊の攻撃になす術がない。海賊の活動範囲が広がり、どの船も標的になりうる」と警戒を呼びかけている。

やっかいなのは貧困であえいでいたソマリアの沿岸部の町が、身代金を得た海賊たちの落とす金で繁栄を謳歌するれという皮肉な結果となっており、海上で生命の危険を犯して、石油タンカーを乗っ取るようなギャングであってもソマリアにとっては英雄と化していることである。

現在、アデン沖には米欧各国に加え、インド、トルコ、ロシア、マレーシアなどが海軍艦船を派遣しているが、このシーレーン防衛に日本は派遣部隊に給油でしか協力できない現実を考えた時に、国会ソマリア南方のケニア沖で乗っ取られたタンカーはサウジアラビア国営石油会社、サウジアラムコが所有する「シリウス・スター」。同社関係者によると、15日深夜から16日未明にかけ、数隻の高速ボートがタンカーに近づき、20人前後とみられる武装した海賊が側面をよじ登り、侵入したという。

EU、12月8日海賊と「開戦」 軍艦船を派遣

【パリ=山口昌子】欧州連合(EU)議長国のフランスのモラン国防相は19日、来月8日からインド洋やアデン湾にEUの軍艦船を派遣すると語った。国防相によると、作戦は「3カ月の予定」で、フランスをはじめEU加盟国から5、6隻の艦船が参加する。

派遣艦船の役割は、(1)要請による商船の護衛(2)世界食糧計画(WFP)によるソマリアへの食料品輸送船の護衛(3)偵察機を伴う海上パトロールの強化だ。 (2008.11.20 22:47 産経ニュース)


ソマリア沖での海賊対策、韓国が駆逐艦「姜邯賛号」派遣へ 韓国海軍の駆逐艦「姜邯賛(カン・ガムチャン、高麗時代の名将)号」が、海賊が猛威を振るうソマリア沖のアデン湾へ向かう。


軍当局者は「韓国貨物船が海賊に乗っ取られたアデン湾に姜邯賛号を送る方針を決めた」と明らかにした。

SEAL要員らは姜邯賛号に配備された高速ボートやリンクス(LYNX、対潜型ヘリコプター)で海賊に乗っ取られた民間船舶を急襲する訓練を受けている。姜邯賛艦には1回当たり2時間50分間飛行できるリンクス2機を搭載する予定だ。2008・12・08


2008年12月11日

◆審議なき国籍法の改正

川原俊明(弁護士)

改正国籍法が、与党と民主党などの賛成多数で国会を通過し、法律として成立しました。

この改正法は、最高裁判所が、日本人の父とフィリッピン人の母との間に生まれた子供の国籍取得にあたり、両親が婚姻していないことを理由に国籍取得を認めない旧国籍法は違憲である、という判決を下し、これを受けて法律改正に至ったものです。(平成20年6月4日最高裁大法廷判決)

確かに、片親が日本人である限り、その子供は日本人として国籍を与えるべきです。両親が結婚していない、という理由だけで、日本人の子供に日本の国籍取得を認めないのは、憲法第14条が定める「法の下の平等」に違反します。
最高裁判所が下した違憲判断は、十分、評価に値します。

しかし、改正国籍法には問題があります。

母親が外国人の場合、日本人男性が、その子供を自分の子供だと主張して認知した場合、そのまま子供に日本国籍を与えられる、というのが改正国籍法の内容です。ここでの問題点は、認知をした日本人男性が、本当に、当該外国人女性の子供の父親なのか、ということです。

日本人男性の認知という手続だけで、外国人女性の子供が、日本国籍を取得できてしますことに問題があるのです。日本人男性と外国人女性の子供とが、本当に親子であるかどうかは、DNA鑑定によって99.999%判明します。

国籍申請の際、「認知」だけが要件で、DNA鑑定など「親子の証明」を要件としていないことが重大な問題なのです。最高裁判所は、両親が法律上の結婚関係にない、という理由だけで、婚姻中の両親の子供と、国籍取得手続において差別すべきでない、といっているだけなのです。

実際の父親が日本人男性でないのに、外国人女性が子供を産み、認知手続だけを別の日本人男性に任せた場合、両親ともに外国人なのに、その子供はいとも簡単に日本国籍を取得できることになります。認知手続は、役所への届けだけで成立するから問題なのです。

最近、「偽装認知」という言葉が、世間を騒がしています。本当の血縁のない父親が、父親と称して子供を認知するのを指します。

「認知」といっても、生まれたての子供ばかりを対象にするばかりではありません。成人であっても、父親から認知を受けていない外国人が、日本人男性と手を組んで、「認知」を金で買うこともできるのです。

最高裁判所は、国籍取得にあたり、婚姻要件を法の下の平等に違反するとしただけで、日本人男性による「認知」さえあれば、外国人に日本国籍を与えて良い、といっているのではないのです。

今回の改正国籍法の制定―。

国会議員のうち、どれだけが最高裁判所判決を読み、官僚が作成した法案に目を通しているのでしょうか。国民の代表者は、選挙活動に血眼になっている時間があれば、もっと国会の審議に時間を費やすべきです。

改正国籍法も、ほとんど審理されないまま、法案として国会を通過しているのです。


2008年12月10日

◆ビッグ3が煽った反捕鯨

渡部亮次郎

いま経営危機で政府に資金援助を求めている自動車メーカー「ビッグスリー」こそは日本等の望む捕鯨に対して資金を出して反対運動を煽った元凶である。排気ガスに対する反対運動に正面から向き合うことを避け手方向を間違えた事が今日の危機を招いたのだと思うと、ビッグ3の救済問題には複雑な陰がある。

このことについてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』も指摘している。

<この問題は一時期、欧米諸国の自然保護団体を始め、彼らに同調した自動車産業団体や、農産物生産者等によって利用され、日本人に対しての人種偏見や反日運動ジャパンバッシングなどの一つとして、過激な運動やパフォーマンスも行われた。>

つまり1970年代から「80年代の前半にかけて私は園田直(故人)の下で外務大臣や厚生大臣の秘書官として、捕鯨反対運動に直面した。ワシントンDCでは外務大臣一行の車列にデモを掛けられたことがあり、担当の経済局幹部は欧州での国際会議で反対グループに生卵をぶつけられたりもした。

そこでワシントンに留まって背景を詳しく調査してみた。その結果、驚くべき事実が判明した。ビッグ3が、自らに向けられた公害問題とくに排気ガスの排出責任を追及するラルフ・ネーダー主導の反自動車運動とも言える消費者団体の攻撃を一時的に回避するため、彼らに莫大な資金を提供し、運動のうねりを捕鯨反対に向かわせて煽ったのである。

その結果、クジラの巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいこと、ヒトと同様の哺乳類である事を挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と食のタブーとする意見が高まるなど資源としてのクジラ問題を離れた問題に捻じ曲げられる結果になった。このため捕鯨問題は感情問題に発展し、解決を一層難しくしている。

最近、反捕鯨の運動にも参入しているグリーンピースやシーシェパードといったNGOの活動船と日本やノルウェーなどの捕鯨船とのトラブル、特にシーシェパードの暴力的な示威活動による問題も起きており、日本の捕鯨船との衝突事故は日本国内で大きく報道され、
次の場面では水産庁は彼らを国内法で処罰すると主張している。

その背としては日本国内の世論の多数は捕鯨自体に積極的に賛成というよりは、他国による自国文化への干渉に対するナショナリズム的な反応として反捕鯨を非難することが多い。

今日になってみるとビッグ3と反捕鯨は無関係だが、ビッグ3は
反捕鯨運動に資金を投入するよりは低燃費や小型車の開発に頭を切り替えるべきだったが、遠い将来を考慮できないアメリカ式経営としては止むを得なかったのだろう。2008・12・08


2008年12月09日

◆特ダネ競争の終焉

渡部亮次郎

日本の新聞各社は2009年から特ダネ競争をやめることにしたらしい。産経新聞の販売店から来た平成21年の新聞休刊日の知らせの冒頭が1月の休刊日は元旦とあるから飛び上がった。

新聞といわずメディアの命の本質は特ダネ競争であり、私が現役の記者時代の極みは元旦号を飾る特ダネ競争だった。記憶に残る特ダネの数々は各紙の元旦号を飾ったものだ。

中でも強烈だったのは読売がモノした「八幡・富士製鉄合併」だった。昭和43年か44年の元旦号だった。まさしく45年には新日本製鉄として合併が実現したから実に大の付く特ダネだった。

以後、元旦号を舞台にした特ダネ競争は何年も続いたが、何時の間にか消え、遂に2009年からは元旦号そのものがなくなるのだから、
新聞の衰退もここまでか、という感慨を深くする。

社会が動いている限り競争して捕るタネは常に存在する。したがって特ダネが無いという事はそれを捕る能力が記者になくなったか、捕らせる体制に新聞社や放送局になくなったかである。

私の若いころ在職したNHKを報道機関とは内外ともに認めなかったからだろうか、新聞を出し抜く精神はどこにもなかった。私なんかはそれを是としなかったのでしばしば上と衝突した。それかあらぬか41歳までの在職中、元旦の特ダネ競争に参加した事は1度もなかった。

NHKのニュースは通信社から受け取る記事の語尾を「です」「ます」に書き換えるだけの時代を経て、自主取材を始めたのは戦後もしばらく経ってから。先輩たちは各省庁の記者クラブに加盟させてもらうのに大変な苦労をしたそうだ。

地方では取材先に「NHKですが」と行くと「聴取料は先日払ったじゃないか」と追い返されそうになることしばしばだったそうだ。
しかしNHK自体、ニュースで新聞各社を超えようとする意欲を持ち出した時代だった。

1960年代に入ると、テレビの普及も手伝って、そういうことはなく、朝日新聞社から迎えた前田義徳会長時代は報道最優先体制が敷かれた。だが、視聴料不払いで財政難に陥った昨今は、政治記者の夜討ち朝駆けの車使用もままならないとか。こんな体制とあっては特ダネ記者の誕生は夢である。

一方、新聞各社の取材体制も似たり寄ったりだろう。取材費を惜しめばまず出稿料がガクンと減る。減れば買わない宝くじみたいなもので当りくじはなくなる。特ダネは遊んでいる記者の多いほどあるとはよく言われること。

こうなってくると、特ダネのない新聞は売れないし、売れない新聞に広告を出す企業は無い、となって悪循環の毎日になる。

かくして2009年からは新聞そのものが元旦から配達がされなくなるのだ。歴史に残る事実となるだろう「新聞の決定的な退潮はあの日から始まった」と。2008・12・08

2008年12月08日

◆天に唾するマスコミ批判

渡部亮次郎

最近はマスコミ批判が花盛りである。だが、マスコミ批判こそは戦争に敗けた日本の生んだ仇花そのものだから、マスコミを批判する事は即ち己や衆愚を批判する事である。だからマスコミは昔流に言えば当に「天に唾するもの」、私は恥ずかしくてできない。

お前は以前、NHKという代表的なマスコミに棲んでいたから「言い訳」をしているのだろうと勘繰るなら勘繰れ。そうではないことを諄々と説く心算で夜中に起きだした。

現代日本のマスコミは、敗戦の廃墟から立ち上がるに際して、生きることのすべてを生産優先に置き,大和精神を置き去りにしたことすらも忘れて経済主義に奔走した結果の産物である。既に今から数十年前、評論家の大宅壮一が民放のアチャラカ番組をダシに「一億総白痴化」と予言
していた。

結果、半分白痴化した一億人が、テレビの偏向をとらえて「白痴化だ」と批判するのは、天に唾するもの。唾は己の面を汚すから、批判する事自体,滑稽だ。

例の田母神論文で、常識ある人たちは、日本政府が既に中国と韓国に迎合するために、いわゆる東京裁判史観を認めてしまっている事を知り、やや逆上したが、これも噴飯物である。

連合国に対して無条件降伏を受け入れ、日米安保条約を受け入れた日本に独立国家としての矜持は所持しえなかった。これを是正すべく安保条約をせめて双務条約に改めようとした1960年、今マスコミ批判を口にする知識階層は岸政権に対して何をなしたか。

4大紙とグルになって岸を倒したではないか。デモに加わった左翼東大生加藤紘一の潜り込んだ自民党政権を認知してきたではないか。

昭和20年の敗戦は消える事の無い悲しみである。だが、それよりも悲しいのは大和民族が誇りとしたモラルのすべてがマッカーサー憲法によって悉く否定された事である。それを悲しむのは愚か,嬉々としてマッカーサーを肯んじ結成されたのが日教組である。

その日教組が展開している運動こそは1950年(昭和25年)以降、国旗掲揚と国歌斉唱の反対である。国家統一の象徴たる行為が教育の国家統制だとか戦争反対だから国家統一反対というのは陳腐にして牽強付会な理屈である。

それでいながら今やわが国公教育の現場は完全に日教組に支配され、その「製品」たる記者たちに支配されているのが新聞、通信社、放送局の実態であり、憲法を容認し、日教組を泳がし、アチャラカテレビを楽しんできた人々からいまさらマスコミ偏向批判の声をあげられても、私は聞
く耳を持たない。マスコミに感覚を閉ざすと同時に批判にも目や耳を閉ざしたくなる。

私は生まれてこの方、左翼と呼ばれたことは無いが、右翼と言われたこともない。若いころの41歳までNHKで国内政治担当の記者をしていたことがあるから、少しは事物を視野を広く見る習慣がついた。

例えば自民党に代って政権を担おうとしている民主党は日教組に支えられている。また、日教組支持を厭わないマスコミ各社は概ね民主党支持である。だからこそ反日教組の人々のマスコミ批判の声が高まっているのだろう。

しかし、マスコミ批判を叫ぶ人々は遅すぎる。例の村山談話の時には何も騒がなかった。あの時、自社連立という変形政権は、イデオロギーを超越せざるを得ない立場にあり、そこを中国と韓国に対して叩頭的立場を肯んずる売国連中に押し切られ、ああなった。

マスコミは騒がなかった。当然である。だが、反マスコミ勢力も全く沈黙を守った。以後、自民党政権を自虐史観で厳しく縛る材料となった村山談話であるだけに、保守論客の沈黙が惜しまれる。保守論客それ自体がマスコミに依存しているからである。

あえて言おう。ソマリヤ沖で海賊に襲われるタンカーを初めとする日本の運搬船。野党の攻撃を恐れて拱手傍観する政府、与党。それを追及せぬマスコミ。そのマスコミが支持する民主党。すべて国家の対面と義務を忘れている。

しかし、私はマスコミを非難しない。それでも朝日、毎日や放送各局が潰れないのは国民に支持されているからである。即ちマスコミを批判する事は、その読者,視聴者たる国民を批判する事である。

日本国民が海賊を見逃して左翼論調とアチャラかに酔い痴れている以上、何を言っても無駄なのである。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                        2008・12・05