2008年08月15日

◆敗戦前夜の猛爆撃


渡部亮次郎

昭和20年8月の敗戦前夜、アメリカ空軍B29機による猛爆撃を食らった。もうお手上げをしていたのに百何人も殺すことがある、それが私の国際関係を見る基礎となった。

大東亜戦争(アメリカは太平洋戦争或いは第2時世界大戦と呼ぶ)敗戦前日の1945年(昭和20年)8月14日夜,秋田市土崎(つちざき)に対して米軍が空襲を行なった。

後に考えれば全面無条件降伏ポツダム宣言受諾を連合国側に通告した後の午後10時半ころからB29が来襲し,約4時間にわたって土崎地区を爆撃したのである。正義の国のやる事ではない。

攻撃目標は,日本石油の製油所と貯蔵タンクだった。工業地帯を攻撃する場合は,普通白昼に行われ,精密な爆撃が多い中で,土崎の場合は後にわかったことだが、夜間レ−ダ−スコ−プ写真による計算で爆弾が投下されたのだ。

私は小学校(国民学校といった)4年生、9歳だった。秋田中学(旧制)2年の兄は勤労動員で田沢湖周辺の農家作業員として赴任していた。祖父、両親、姉、妹2人に私と言う7人家族。

数キロしか離れていない土崎に火の手が上がって上空に聞いたことの無い大爆音。投下した爆弾の炎に腹を赤く染めて八郎潟を周回するようにして現場に戻ってゆく。田圃の畦道に身を伏せて見上げる私には、1ヶ月前の艦載機の襲撃に続く2度目の「敵機」襲来。震えていた。

4時間の爆撃の結果,石油精製工場の87%,貯蔵設備の70%が破壊さた。しかも,夜間の攻撃では目標が外れやすく,工場周辺の住宅地も巻き添えに遭った。

飯島穀町・大浜・ハマナシ山・古川町・七軒町・稲荷町・上酒田町・新城町などに投弾され,特に通称ハマナシ山には日石社員の住宅があり,住民の被害が大きかった。

「日本の空襲」には,ANIM30型爆弾386トン,ANIM50型爆弾585.9トンなどが投下されたと記録されている。死者102人(日石社員・家族37人,一般市民48人,軍人17人)とされている。

ま全焼戸数104戸,半焼6戸,全半壊合わせて30戸とされている。

1975年(昭和50年)爆心地に近い公園に「秋田港被爆者慰霊碑」が,平和を願う土崎地区の人々を中心にして建立された。秋田文化出版社発行の「はまなすはみた」 (佐々木久春・斎藤昇,1981年8月初版)に詳しく紹介されている。

2007年、読売新聞秋田支局が特集を組んだ。以下引用。

終戦前夜、生と死分かつ炎の土崎

宇佐美峰吉(86)は秋田市土崎地区の自宅で眠れずにいた。蒸し暑い夜。いつもの夏のように、生ぬるい“だし”と呼ばれる南東の風が吹いていた。

突然の大音響に跳び起き、屋根に登った。勤務する日本石油秋田製油所方面に火の手が見えた。「やられた」。敵機監視班長でもあった宇佐美は鉄かぶとを持ち、家を飛び出した。

約1キロを全力で走り、製油所に到着した。けが人を救出したが、一方的な爆撃になすすべもなかった。社員らに「逃げろ」と指示し、自分は班長として現場に残った。死を覚悟した。

くぼ地を掘り、身を潜めた。不気味なうなりを発し米軍爆撃機B29が低空で向かってきた。全長30メートルの腹と尾灯を仰ぎ見た。建物が跡形もなく吹き飛ぶ爆弾の威力を目の当たりにした。

1945年8月14日午後10時30分ごろに始まった「土崎空襲」は、翌日午前3時30分ごろまで続いた。秋田県が受けた最初で最後の大規模空襲は、日本国土を襲った終戦間際の空爆の一つでもあった。数十とも数百機とも言われるB29は、ターゲットの製油所を中心に1000トンを超す爆弾を投下、社員、住民らの命を奪い去った。

夕食前、「15日に天皇陛下から重大放送がある」と聞かされた。県警察部(現県警)警防課警部補の皆川忠彦(90)は「終戦」を感じ取ってい
た。

秋田市中心部の「防空本部」近くの食堂で夕食を取っていたとき、ラジオが山形県に警戒警報が発令されたと伝えた。「まさか」。本部に駆け戻ると間もなく、市内に警戒警報が発令された。それはすぐ、空襲警報に切り替わった。

本部のベランダから空を眺めた。グワン、グワンと爆音をとどろかせ、土崎方面に向かうおびただしい機体を見た。航跡を報告書に書き込むため、地下室には避難できない。

B29は旋回を繰り返し、爆弾を投下し続けた。ポン、ポン。おもちゃのような音がした。軍の高射砲だった。日本の非力をかみしめた。

「予感はあった」と浅野文治(86)(同市土崎港南)は言う。7月から2回、上空に現れた米軍機が、秋田を攻撃目標の一つとして挙げるビラを落としていたのである。

恐れていた現実が迫ろうとしていた。14日午後9時30分ごろ、ラジオが「B29が日本海沿いに北上中」と伝えた。やがて激しい轟音(ごうおん)が響き、ぱらぱらと壁土が落ちた。

製油所が燃えていた。自宅前の防空壕(ごう)に避難したが、炎はにじり寄っていた。妻の喜代(81)を松林に逃げさせた。一時的に攻撃がやんだ。土崎空襲“空白の30分”と呼ばれる時間帯だ。

そうとも知らない41歳の親戚浅野トメは、子ども4人を連れて家に戻っていた。空白後の第2波が家族を襲った。15日朝、トメの家を訪れた。供養しようにも骨は見つからなかった。

「直撃弾に 一家五人は 跡もなく 大きな穴のみ 残る朝明け」。浅野は1972年に自費出版した短歌集の中でこう詠んだ。盆暮れに5人の墓参りをするたび思う。「終戦があと1日でも早ければ、たくさんの命が救われた」

宇佐美は生きた。15日正午、家族と共に昭和天皇の声を聞いた。敗戦など想像もしなかった。体から力が抜けたまま、1日を過ごしたことだけを覚えている。

死を覚悟した15日を自分の「命日」と思い、願いを込めて、宇佐美は戦禍を子どもたちに語り継いできた。「生かされている代価として、戦争を起こさない世の中に」と。(敬称略)2008・08・13

2008年08月14日

◆中国人は柔道をしないのに

渡部亮次郎

中国人は柔道を全くしないのに女子柔道では8月10日、52キロ級で洗東妹選手が前回アテネ大会に続いて連続優勝した。産経新聞の古森義久記者(編集特別委員、前中国総局長、柔道有段者)はだから12日の紙面で「中国の柔道はミステリー」と書いた

それによると中国の社会では柔道は実在しない。一般市民が通える柔道場はどこにも無い。各種学校の体育の授業でも部活動でも柔道は無い。一般国民は知らない種目なのだ。

だから日本の愛知大学から北京に留学中の残留孤児3世の加留部遥さんは五輪前に中国の友人に柔道を話題にしたら「それ、なに?」と問われ、戸惑った。

東海大学体育学部教授の光本健次7段によると、国家が各省を通じて、全国規模で素質ある少数の少女を集める。官営の特別施設に住まわせ、徹底した訓練を何年も重ねた結果、成果が出ているのだという。

関係者によると、要するに柔道によって心身を鍛錬するとか人格を高めるとか礼儀を教えるとかといった柔「道」とは全く無関係な国威発揚、メダル獲得大作戦の一環に過ぎないのである。

だから他国に強者の多い男子柔道は諦め、女子だけの強化に努めているのだと言うのだから、日本人としてはもはや「なにをかいわんや」だ。

女性選手達は北京市内の国家柔道センターに住まわされ、一日中、練習を続けている。約50人の選手に30人ほどの男子が専属の練習相手として付けられている。

これら男子は各省から選ばれて来るけれども、女子の練習台専門。男子の試合に出ることは無い。光本教授は中国の男子選手の強化のために今春まで8ヶ月ほど中国柔道連盟の特別コーチを務めたそうだが、さて教え子は女子の「台」にしかなれない?

国家柔道センターは50畳の練習場が十数面も並ぶほど広大で、施設の主体となる1階は女子用、男子用は2階。

女子各選手には個別にコーチと練習台の男子選手がつき、柔道そのものよりも筋力パワーの強化に重点が置かれている。柔道家でもある古森記者は「なるほど相手を持ち上げ、ひねり、ねじ伏せるという洗選手の戦闘的な試合振りはそんな訓練方法を連想させる」。

だから洗選手。32歳の母親で、1歳半の娘がいるが五輪合宿のため1年も娘と会っていない。そればかりか「金メダルを取るために結婚式も新婚旅行もせず、夫には申し訳ない」と。

金メダルを手にしては「今一番したい事は1年も会っていない娘に会うことです。母親としてすまない事ばかりで、これから必ず埋め合わせます」と言っていたそうだ。

尚、中国の五輪中継では柔道は報じていないと古森さんは書いている。要するに共産中国にとって柔道は「道」でもスポーツデさえなく単にメダルを獲得するだけの「作戦」に過ぎない。

中国女子柔道を「評価」する諸氏は考えを改めるべきではないか。それとも日本武道もここまで落ちるか? 2008・08・12

2008年08月12日

◆中国のインターネット規制


渡部亮次郎

7年前まで産経新聞の中国総局長だった古森義久記者(ワシントン)がオリンピックの取材に北京を訪れ、中国当局によるインターネット規制のあまりの激しさに「衝撃的な違和感に襲われる」と嘆いている(200・08・10産経)。

中国当局は北京五輪の事前報道に当った各国報道陣に対して米欧の大手メディア、チベット、法輪功などのウェブサイトへのアクセスを阻んでいるので、各国報道陣から抗議が起きているそうだ。

古森さん自身、試みてみたそうだがアクセスできなかった。

「中国での、こうしたインターネット規制についてのイギリスBBCテレビのリポートを見ていたら、規制の批判部分でピッという音と共に音声が途切れ、映像が乱れた。これは明らかに当局の検閲だった」。

だから古森さんは言う。「灰色のモヤモヤに包まれた北京の街を埋め尽くしている『1つの世界、1つの夢』という真紅の垂れ幕は壮大な反語なのか」と。

「開会式(8日)前から競技開始までの3日間、北京での実体験は世界も、夢も、決して1つではないと痛感させられる連続だったからだ。ホテルでパスポートを取り上げられた。インターネットの接続も尋常ではなかった」。

外国人報道陣に制約や監視のタガが二重,三重に課されている。加えて市内を走る7万台のタクシーの大多数には当局によりGPS(衛星利用測位システム)に基づく車内盗聴マイクが設置されているようだ。

この運営には気の遠くなるほど膨大な国家の資源や人材が投入されている。即ち、「平和でないところで平和の祭典」をやろうとすれば共産主義を祭典の期間中、休止しなければならない。五輪を囲い込んでしまわないといけないのだから、こうせざるを得まい。

小森さんは呆れる「当にジョージ・オーウェルが未来小説『1984年』で描いた全体主義国家管理のための『ビッグ。ブラザー』は健在なのだ」

7年前までの2年間、産経新聞の中国総局長を務めていた小森さん名だから中国当局による監視や管理はさんざん経験したが、「7年の空白を経て身をさらすと、他の普通の国の規範とは如何に異質であるか、衝撃的な違和感に襲われる」

さてこの北京五輪が中国の希望する飛躍のきっかけとなるのか。少なくとも二重、三重に規制、監視を受けた多数の自由圏ジャーナリストの帰国後の反応に注目したい。

少なくとも古森さんは「今や新しい史劇のカーテンが引き上げられた」と結んでいる。2008・08・11

2008年08月08日

◆黒衣の功績日中友好条約

     渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」主宰)

今年2008年の「八月八日は吉祥にて北京五輪」の開会式だが、30年前のこの日は外務大臣園田直(そのだ すなお)が吉祥と思って訪中したものの、後になって見ればトウ小平に騙された日だった。

いうまでも無く日中平和友好条約の締結こそは日中友好の「鉄の橋」(福田赳夫首相)と信じて羽田から日航特別機で出発したのだった。1978年。今年が2008年だから、ちょうど30年、今年は節目の年だ。

その6年前、NHK記者として同行した田中角栄総理大臣が、国内世論に押されたとは雖も、昭和47年7月の就任から僅か3ヶ月にも満たないうちに対中国との国交正常化を決断。9月末に共同声明を発表して目的を遂げた。

その共同声明の第8項目にこうある。

<日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行なうことに合意した。>

つまり日中平和友好条約は共同声明にそって日本からの経済・技術協力など支援策を具体化するための基本条約だから、中国側はすぐにでも手にしたい条約である。それなのに中国が反対して田中に続く三木内閣でも締結できなかった。6年が流れた。

ソ連(当時)が日中離間を策して条約締結に反対を表明。これが「覇権」条項となって交渉は乗り上げたからである。改革開放派のトウ小平は失脚、下放中。主導権を握る強硬派はいわば原理派であった。

三木に続く福田赳夫内閣。外務大臣は大蔵事務次官から参議院議員になって間が無い鳩山威一郎。目立つ実績を挙げられないまま1年で退任。その後を襲ったのが官房長官だった園田直(そのだすなお)。初外遊をソ連にして環境整備に成功した。

その前に内閣改造の朝に自宅へ電話を掛けてきて「ナベしゃん、ワシの秘書官になってよ」というから「いいですよ、何大臣ですか」「ま、留任だと思うがね、なんでもいいじゃない」

簡単に転身を了承してしまったが、電車で総理官邸に辿り着いてみたら「外務大臣園田直」になっていて私は足を踏み入れた事も無い外務省で大臣秘書官になっていた。

マスコミや世間は園田の外相への転出を誤解した。予て官房長官時代から、鳩山外相よりも日中条約締結に積極姿勢を見せていた園田氏を外相に据えたのだから福田首相は愈々条約締結を決断という誤解である。

確かに園田氏は締結に積極的な態度を示していた。国交の無い時代に政府の制止を振り切って中国入りした過去もあるし、非公式に来日した廖承志(対日関係責任者)と面談するなどの実績もあるから誤解も当然といえた。

しかし福田首相のハラは逆だった。日中平和条約の締結よりも「総裁(総理)の任期2年」という大平正芳幹事長との密約を反故(ほご)にする事に、密約の立会人たる園田に了承を求めるための外相起用だった。確かに改造で園田だけが残留、横滑りだった。

予て記者の則を越えて親しくしていた園田さんだったが、さすが秘書官(使用人)になってみると私邸に伺っても以後は玄関ではなく勝手口から入れとう言われるなど「矩」を強いられた。

その分、大臣との一体感を要求されてゆくわけだが私の場合は違って、もう1人の自分が自分を冷静に見るようになっていった。その目で見ると、園田の対中戦術の要点が見えてきた。官房長官時代から対中「黒衣(くろこ)」を密かに放って直に中国首脳の動きを掌握していたのである。

この人物は父親が石炭採掘の学者だった故を以て終戦後も中国残留を余儀なくされた人の息子で、園田氏とは趣味の剣道の弟子として結ばれていた。

この人物にカネを渡し、予て交流のあった廖承志(対日関係責任者)とその周辺の動きを探らせ、定期的に情報を得ていたのである。それが裏付けとして黒衣と会うのは記者たちが押しかける前の早朝、私邸の寝室に限られていた。

私は黒衣氏との直接の接触は極力避けたが、絶無ということは無かった。黒衣氏から報告を聴取した後の園田氏の表情から逆に報告の内容を推測できるようになっていった。

1978年の2月ごろから「とにかく園田外務大臣が訪中してくれさえすれば絶対恥はかかせない」という報告が入り始めた。外務省でアジア局長や中国課長からは全く入ってこない情報だった。彼の秘密訪中は計14回に及んだ。

後で考えれば前年(1977年)7月、生涯3度目の復活を果たしたトウ小平が毛沢東、周恩来亡き後の主導権を握り、念願とする経済の改革開放に向けてカジをきり始めた頃である。廖承志氏はトウに近いから園田大臣への黒衣情報はトウ情報だったのである。

この頃、外務省も北京大使館もトウ氏の動きは全くつかめていなかった。だから1978年8月8日に至って有田圭輔事務次官が日航特別機で飛び立って下さいと言ってきたとき、園田氏は黒衣氏の情報と外務省の情報の一致は無いものの北京での「成功」を最早疑っていなかった。

確かに北京では2回目の外相会談であれほど「覇権問題」に拘ってきたのにあっさり日本案を受け入れた。あっけなかった。「引退の花道にされる」として条約の締結に消極的だった福田首相は日中間に鉄の橋がかかった」と喜んだ。しかし、自らの任期延長作戦には失敗、大平に敗れた。

かくて中国のその後の発展を見るとき、地下の福田、園田両氏は如何なる感慨を持っているだろうか。秘書官に過ぎなかった私から見れば資金や技術のとてつもない援助。トウ小平にしてやられたという反省が消えない。

日中平和友好条約の締結と時を同じくするように東京ー大阪の新幹線のスピードに鞭を入れられたケ小平が経済だけの改革開放政策を実施。日本は今日の繁栄の貢献者なのだが感謝されたことはない。元秘書官風情としては何か起きる事を期待する。騙されたままで終わってはならない。2008・08・05

2008年08月06日

必読! ◆竹島「密約」のあった時代


                        渡部亮次郎

韓国人のビジネスマンが日本語で「竹島密約」という本を書き7月を目途に東京の出版社「草思社」から出版する。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について「共に領有を主張しない」という密約があったことを喝破する本である。

日本政府代表を務めた佐藤内閣国務大臣河野一郎。その河野氏を担当して事情を知る記者は私1人になってしまった。著者ロー・ダニエルさんの突然の来訪を受けて、事実を改めて回想する次第。7日夜、江東区内で一献酌み交わす予定である。

ダニエルさんの書き上げた本の「プロローグ」を基に話を進める。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月に「日韓基本条約」が正式に締結される5ヶ月前、河野一郎国務大臣と丁一権韓国国務総理の間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事は無い。

端的に言えば、日韓の国交正常化のために領土紛争を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、宇野宗佑衆院議員(後に総理)、嶋元謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国では丁一権、金鐘珞(金鐘泌元韓国総理の兄)。さらに密約を了承した佐藤栄作総理大臣と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元総理大臣で、2年前の2006年6月のことだったという。ダニエル氏は驚きを以って裏づけ取材に奔走、事実を確認した。

いくら当時の河野番でも、宇野氏と毎晩のように呑んだ仲の私でも知らされなかったこと。おそらく中曽根氏も後に総理になったが故に知った事実であったろう。「河野派を除名する」と河野氏に嫌われていたのに、河野氏の急死に救われた経緯があるから。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三氏が「倭(日本)の奴らの悪い行儀を直す」と公言して「わが領土独島」に新たな接岸施設を作り「密約」を無視して問題は今日に至る。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれていなかった。

これを外交の「敗北」と受け取った当時の李承晩大統領は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから竹島・独島の領有権争いが本格化した。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新」をなすためには、両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのためには韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏と朴氏の姪の夫でもある金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の死去で交渉のエンジンは冷えた。そこで登場するのが河野一郎氏である。

池田総理の懇願で大野後継を受諾。代行は元秘書で衆院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金に代わって兄の金鐘珞氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領には革命同志であり且つ日本で教育を受けた日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのが当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋本氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父の下でソウルで中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、朴大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは河野氏も認めていた。

宇野、鐘珞両氏の作業は順調に進み、1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成にかかる「メモ」が宇野氏から丁一権国務総理に渡された。嶋元氏は側でメモを取っていた。

文書は直ちに朴大統領に届けられ裁可を得た。宇野氏は嶋元氏を伴って直ちにソウル南部の龍山にある米軍基地から特別回線を使って河野氏に報告。

河野氏はそれをワシントン滞在中の佐藤総理に報告した。「竹島密約」成立の瞬間、佐藤・ジョンソン声明が発表される1日前だった。しかし佐藤氏は間もなく河野氏を内閣から追放した。

日韓基本条約は6月22日に調印されたが河野氏は7月8日に腹部大動脈瘤破裂のため急死した。67歳だった。

韓国では朴大統領が部下に射殺された。その後、竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘珞氏は身の危険を感じる事件のために1980年5月17日に連行される前にメモを燃やした。

メモの作成を日本側では逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが韓国側では外務長官は勿論駐日大使にも知らさなかった。だから文書は日本にしか残っていないわけだ。

しかも竹島・独島の置かれた政治的現状を見れば日韓間には「密約を交わせる時代」があった、と悲観的に回顧する以外に無いのは残念だ。
2008・04・05   (再掲)

2008年08月05日

◆遊んでいた?園田外相


渡部亮次郎

1978年8月13日、園田直外相に従いて日航特別機で北京を訪問した時、日本大使館には佐藤正二大使の下に公使として伴(ばん)正一氏がいた。私は初対面の人だった。

その伴さんが外務省を退官されたあと88年5月に東京・文京区にある(財)日中友好会館の理事長に就任。日中平和友好条約締結10周年にあたる同年8月13日、郷里の高知県高知市の高知阪急ホテルで「日中平和友好条約締結に参加して」と題して講演された。

その講演録を最近、偶然の機会にインッターネト上でみつけたので紹介したい。原文は以下。なお伴氏は中国公使の後退官、衆院選に出たが落選を繰り返した後に日中友好会館理事長。その後死去。

http://www.yorozubp.com/shoichiban/column/1988nicchuyuko.htm

日中平和友好条約は田中、三木の内閣2代に亘って締結できなかったのは中国側の事情による。それが急遽できたのは中国を取り巻く国際情勢が変化したため。

<交渉は大詰めまで我々事務サイドがやった。園田外相は遊んでいたようなものだ>

と園田の死後とはいえ厳しい事を言うものだ。以下、前半部分をほぼ原文のまま紹介する。

後半部分は「終わる対中借款」と題する「頂門の一針」1014号(2007・12・02)上の拙文の中で紹介している。伴氏は昭和26年度外交官試験合格のキャリア。
http://www.melma.com/backnumber_108241/

<日中間のことに携わるのは気の重いことが多いわけでして、私にとっては(理事長就任を)祝って頂くという気分には到底なれません。

そんなことはどうでもいい、と言っているうちに妥協案としてこの記念講演会ということになった訳であります。

日取りについては、そこまで考えずに13日のこの日を取ったんですけれども、実は10年前の丁度今ごろの時刻、当時の北京時間の正午、意気揚々たる園田外務大臣が北京から飛び立ちました。

日本時間で言うと午後1時であります。いま1時半を廻ったところですから、ピタリ10年前の今頃、園田大臣は条約調印の大任を果たし日航特別機の機上で記者団にホラを吹いていたはずであります。

我々大使館員は、ちょっと趣が違いまして、何か気が抜けたような感じで、今頃大臣を見送って空港から帰りつつあった。

それからちょうど10年、この演壇に立って感慨一入であります。

駐中国公使として北京へ

私が昭和52(1977)年に着任いたしまして、経済界、文学の世界、政界の方が北京へみえます。例によりまして、皆さんもご経験がおありでしょうけど、中国へ行くと必ず向こうが歓迎宴というのをやる。

そうするとこちらが又答礼宴というのをやる。その始めにまことに仰々しいかしこまった挨拶をやるわけですけれども、その挨拶をずっと半年間聞いておりまして、ほんとにイヤになりました。

日中平和友好条約が締結に至りませんで誠に申し訳ない。いかにも福田{赳夫}総理が優柔不断でお国に迷惑をかけておりますと解釈されるような挨拶ばかりなさる。日本の政界、経済の方がなさる。

私が1番ガッカリしたのは、誰かが書いた原稿を読んだのかも知れませんが、井上靖さんまでが申し訳ない式の挨拶、少なくとも先方はそう受け取るであろう挨拶をされたときでした。

着任してから1年間で、中国側にそういうおべっかを言わなかった代表団は私の記憶ではたった1つ。それは今は冴えておりませんけれど、二階堂さん。二階堂進さんだけはそんなこと言わなかった。だからよく覚えております。そういう状況でございました。

条約締結交渉の始まり

日本と中国の間には2000年の繋がりというか、親しくなるとどの国もそうなるんですが、日米だってそうだし、日韓だってそうですが、正規の外交ルート以外のいろんなルートやパイプができ上がるものです。

外務省にいた我々はそれを雑音といったわけですけれども、雑音があちらこちらに出る。

雑音といっては失礼になりますが、その1つが矢野訪中。矢野公明党書記長がやってきて、そのときにこともあろうに、安倍晋太郎官房長官のメモなるものを持ってくるわけです。そして向こう側へ渡す。

そしたらその翌々日に廖承志がこっそりホテルの矢野さんのところへ来て中国側のメモを渡す。!)(トウ)小平と矢野さんが話すときにまるで条約交渉みたいな話が行われる。

我々はもうあっと驚いたわけです。こういうことをやっとったら政府間交渉は馬鹿みたいなことになるではないかということで、これの後始末をいたします。中国側も日本側もそれからは雑音が少し減るわけです。

いよいよ外務大臣がいつ来る、などという話に入りかかつておりますと、今後は4月12日明け方、尖閣列島周辺に200隻近い中国の大型の漁船が我が領土、尖閣列島を取り巻くわけです。日本側は上を下への大騒ぎになります。

私もその頃、日本側として尖閣列島問題に対して当然、不快感を示さなくてはいかんと、いつも仲のいい外交部の人たちにモノを言いかけられてもこっちは返事もせん、ブスッとして、「なんということをなさるんじゃ」という顔をし続けたわけでございます。

今後もこれに似たようなことはあるかもしれない。ちゃんと和やかな話をしているときにそんなことしなくてもいいじゃないか。中国側は全く偶然だったというんですけれど、どう考えても偶然とは考えられない、というのが偽らざる気持ちでした。

中には機銃を積んでいた船もあるというんですからね。 

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2008年08月01日

◆文明は気候風土に立脚


渡部亮次郎

「文明」に関する「広辞苑」(岩波書店)の説明の一節。「弁明」は「生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均などの原則が認められている社会、即ち近代社会の状態」とある。

さすがアカの辞書だが「したがって中華人民共和国は人権尊重も機会均等も認められていないから文明国とはいえない」とは書いていない。

世界陸地の3分の1を占めるアジアは穀物で生命を維持してきた。殆どが米(コメ)と小麦である。米飯、パン,餃子,麺で生きているがこの材料を得るためには人々は農地から遠ざかる事はできない。

また植物を育てる水は上流から流れてくるから、下流は上流に気を遣わざるを得ない。話し合いによれば、それは民主主義と呼ばれるが、長(おさ)の命令に従う場合もある。いずれ平等は尊重されても自由は奔放と同義語だから概ね許されない。

自由の許されない国家は競争力が弱いから外敵に弱い。アジアが大東亜戦争の結果として独立を獲得するまで長く西欧に隷属したのは、このためである。

中国は何千の歴史と誇らしげに言うが、誇れるほど、連綿とした歴史は無い。多民族故の民族抗争の年月を過ごして来たに過ぎない。

近代になっても明(みん)が清(しん)に滅ぼされ、20世紀に入って漢民族が暴力革命によって統一を成し遂げた。

従って中華人民共和国の歴史は1949年10月1日の建国宣言以来僅か59年しかない。彼らを攻めて行った日本陸軍と闘ったのは国民政府軍(蒋介石)であった。毛沢東指揮下の人民軍の敵は内戦としての国民政府軍であった。

これは客観的な事実である。にも拘らず、日本軍と闘ったのは共産党の人民軍であると教える中共の歴史教育は気候風土に反する虚無的教育に過ぎない。

ケ(トウ)小平による外資導入を伴う経済だけの開放改革路線を走った結果、五輪を北京で開催できるところまで来たが、同時に自由経済は束縛を否定するから経済は今や共産党を否定し始めた。

そこで共産党は嘘の歴史をでっちあげ、存在を正当化するのに躍起なのである。これはマルクス理論に反する。

経済が自由であれば政治も自由でなければ矛盾が日に日に拡大し、やがて人民が爆発する事は避けられない。それが何時かは断言できないが、中国人民が世界の「気候風土」に接触する北京五輪がそのスタートである事は間違いない。

8月8日の開会式が迫るにつれて当局の警戒態勢が異常といえるほど緊張するのは以上を意識するからである。周恩来もケ小平も墓を敢えて造らなかったのは「墓を暴かれる」と言う大屈辱を避けた、つまり暴かれること必定を予言して逝ったようなものである。

一方、イギリスから独立したアメリカはアメリカ大陸の燦々たる日光に耐えられなかった。曇天ばかりのヨーロッパの虹彩は音を上げた。サングラスが発明された。気候風土の違いを克服したのである。

やがて自由と冨を求めて世界中から殺到した多民族を政治的に統一するためには国旗と単純明快な政治原則が必要であった。それが民主主義に基づく政治手段である。

地球上で最も単純な政治原則で大国となったアメリカは太平洋戦争で日本には勝利し、その後、日本を多面的に支配しているけれども、あのベトナムに決定的に敗北したほか、イラクでは大変な苦戦を強いられている。

アメリカで多民族社会を統一、統括してきた民主主義は、従って世界共通の政治原則であると誤解したところに失敗の原因がある。

先に勝利した日本に対して民主主義の移植に成功したが、それは日本人が渇望していた。或いは気候風土がワシントンDCに似ていたからに過ぎない。

沙漠では米も小麦もハンバーガーも育たない。砂嵐は常にある。
そこで衆愚政治を展開していたのでは生命の保証が無い。気候風土が文明を作り政治はそれに立脚すると言う立場からすると、アメリカのイラク撤退は不可避であり、イラクの悲劇もまた避けられないであろう。2008・07・31

2008年07月30日

◆懐かしや鯰の味噌煮


渡部亮次郎

毎度語る旧八郎潟(秋田)だが、ここの産物で一番食べたのは鮒(ふな)で、次が何を隠そう鯰(なまず)であった。

「ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である」と各種事典にある。昔の八郎潟沿岸の家庭では泥臭さを消すために味噌煮にするのが普通だっ
た。

春の田植え、秋の稲刈りの際は、いちいち家に戻るのももどかしいからお櫃(ひつ)の飯に味噌煮にした鯰鍋それに漬物を携え、昼飯は青草の上にそれを広げて食べたものだった。

長じて東京で暮すようになり、八郎潟も干拓で縮ったこともあって高校生以後は鯰にはお目にかかってない。

その後、アメリカ南部を旅した際、若い女性たちがダイエットのために鯰を食べることが流行していると現地の人に聴かされて感心したものだ。鯰は低カロリー多蛋白とのことだった。美人を維持するためには鯰をどうぞ、というわけだ。

だとすれば、鯰を常食したために体格が小ぶりに出来たのも頷ける。恨みは深し八郎潟か。とはいえ、1950年代の身長171センチは長身の方だったが。

数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、中には体重が70kgに及ぶものもある。

とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスと並んで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。

アジアでナマズは北海道を除く日本、アジア東部に広く分布する。体は細長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右に押し潰したように平たい。全長60cmに達する。

湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを食べている。長いヒゲには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌(えさ)を探るのに使われる。

また、側線器官に敏感な電気受容器があることも知られており、他の動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。

鯰は日本ではナマズ科、ギギ科、アカザ科、海生のハマギギ科、ゴンズイ科が知られ、沖縄の石垣島にはヒレナマズが台湾から移殖されて生息している。

ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがあり、全長1mに達する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。

昔の八郎潟沿岸では水田の灌漑用水路の岸に夕方、竹竿の先に泥鰌をエサにして川岸に挿しておくと朝に鯰が釣れた。兄が随分捕った。4歳下の私も真似したが1匹も釣れなかった。止めた。

地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない。

かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、食べてみると美味と分かり鍋物や蒲焼になるようだ。刺身用に寄生虫がつかないように養殖された鯰は、「洗い」にして賞味される。

鯰を英名でキャットフィッシュと呼ぶのは、上顎(うわあご)、種によっては下顎の両側から延びている髭がネコを連想させることに由来する。
2008・01・16資料:マイクロソフトの辞書「エンカルタ」

2008年07月29日

◆鈴木善幸内閣誕生の経緯


                      渡部亮次郎

2007年6月12日は総理在職中に急死した大平正芳さんの28回目の命日だった。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が最近著した「権力の病室 大平総理最期の14日間」(文藝春秋)を読んで、その死を改めて回想すると共に「後継総理 鈴木善幸」と叫んだ田中角栄氏の判断は瞬時だったなぁと思い出した。

私は当時、既に大平内閣の外務大臣(園田直)の秘書官を退任(1979年11月8日)、一代議士の戻った園田氏の私設秘書をしていた。1980年5月30日には第12回の参院選挙が公示されたが、その初日に大平総理は倒れた。

入院先は国家公務員の指定病院としても名の知られた東京虎ノ門病院。発表された病名は過労が引き金となったと考えられる「狭心症」だったが、予ねて総理が自分と同じ糖尿病を持病としていることを知っている園田氏は「いやぁ心筋梗塞の1回目の発作だよ」と主張して譲らなかった。

果たして死後、解剖の結果は当にその通りだったわけだが、心筋梗塞の発作だとすると、近いうちに2回目の発作があるはずで、絶命するだろう、園田氏は早くから言っていた。

園田氏も30歳代で2型糖尿病を発症している。糖尿病のDNAを遺伝により所持しており暴飲暴食、運動不足、肥満によって発症する。酒を嗜まなかったが、豆大福や焼き芋が大好き。3番目の結婚となった天光光(てんこうこう)さんとの結婚直後から大肥満。多分、これが引き金となって発症したはずだ。

糖尿病患者は最終的にはインスリンというホルモンを毎日、1回から3回、注射で体内に補給する必要がある。口から入れても胃液(酸)で無効になるからである。しかし、武道の大家も何が嫌いって注射ぐらい嫌いなものは無いという人。

この後、生涯2度目の厚生大臣になり、患者が自分で注射できるよう、厚生省令の改正を決断するが、その恩恵に浴する事は無かった。理由は後述。

問題の12日は、私は都合で都心のホテルに泊っていたが、午前2時ごろ、園田さんから電話があり「ナベしゃん、総理が亡くなったらしいよ、調べてよ」という。なんでも信仰している新興宗教の教祖に霊感があったというのだ。

古巣のNHK政治部に電話してみたが何も入っていない。結局は午前6時41分になって「5時54分逝去」が発表されてわかったが、やはり大平さんは午前2時25分に本当は絶命していた。後は蘇生が試みられたが空しかったということだったのだ。

5:54 総理死去。立ち会ったのは志げ子夫人、伊東官房長官、田中六助副幹事長、森田一秘書官、次男裕氏夫人、三男明氏夫妻ら。

5:55 鈴木善幸党総務会長
6:15 田中角栄氏
6:35 西村副総裁。桜内幹事長。

園田氏も遺体に対面した。午前7時ごろだったろう。彼は私を伴って「これから目白(田中角栄邸)へ行こう」と言った。予ての大福密約に従って、首班指名では嘗ての親分福田赳夫氏に背いて大平さんに投票したために福田派を除名されていた園田氏。政界「はぐれ鴉」なんて揶揄されていた。目白に行くしかなかった。

しかも誰かに奨められて痩せるためと称して利尿剤を多用。急激に体重を落としたため、人相が変わるほどやせて久しぶりTVの前に姿を現したため、マスコミは悪い噂を立てた。

田中氏とのサシの会談は1時間に及んだ。園田さんは明るい顔に変わって出て来た。後総理には大平派の番頭鈴木善幸氏を推進することで意見の一致を見たと言うのである。

「政界闇将軍」と「政界はぐれ鴉」で一致した「鈴木善幸総理」案は政界で誰一人予想しない奇想天外。もちろん鈴木さんご本人も岩手の漁師が総理大臣になんて想像したこともなかった。衆議院議長は目指していたが。

しかし乃公出でずんば(だいこう いでずんば)=この俺様が出ないで、他の者に何ができるもんか=と言ってきた福田氏も、今回は大平急死の下手人呼ばわりされる中では、田中闇将軍の仕掛けに抗する術はなかった。

あれよあれよと言う中で鈴木内閣は平穏のうちに発足した。郵政、農林の閣僚経験しかなく、長く自民党総務会長としての地味な活動しかして来なかった政治家だけに、外国人記者は口をそろえて言った。Zenko Who?

園田氏は鈴木内閣には入閣しなかった。しかし3ヵ月後の9月に入って、女性の子宮や卵巣の摘出手術を乱発していた埼玉県の富士見病院事件が起き、ここから齋藤邦吉厚生大臣が千数百万円もの献金を受けていた事が発覚して辞任。

むかし厚生大臣の経験があり、すぐにも国会答弁で野党に対処できるとの鈴木派の栗原祐幸氏らの推薦で園田氏が後任に決まった。大平内閣の外務大臣を退いてから10ヶ月ぶりだった。私はまた秘書官に引っ張り出された。

さらにその8ヵ月後、今度は伊東正義外務大臣が途中退任、後任に園田厚生大臣が横滑りを命ぜられた。1981年5月18日、杉並区富士見が丘のNHKグランドで記者クラブとソフトボールの親善試合をしている最中だった。

この頃から園田さんの身体に糖尿病の合併症が表れるようになった。

腎臓の機能が極端に弱り、浮腫みが酷く成りだした。終いには顔も浮腫むようになって閣議で驚かれたりした。

インスリンの患者自己注射を許可すれば、衛生材料メーカーは競って注射器を携帯用に小さくしたり、針を細くして痛みが軽くなるように研究する。

実際、あれから30年、針の細さは0・2ミリと世界一。毛の細さだから殆ど痛くない。だが許可が遅れたために大平さんも園田さんもその恩恵には浴せ無いまま、共に70歳にして糖尿病のためこの世を去った。
2007・06・17  (再掲)      <「頂門の一針」より転載>


2008年07月26日

◆安倍辞任の真相


渡部亮次郎(電子雑誌・「頂門の一針」主宰者)

<安倍晋三首相は12日、辞任する意向を固めた。参院選で惨敗したものの、内閣改造を断行することによって政権浮揚を図ったが、失敗したことが原因とみられる。これに関連し、麻生太郎幹事長は首相の辞意について「ずっと前から聞いていた。自分には求心力がないと言っていた」ことを明らかにした。

同日午後1時から首相の所信表明演説に対する各党代表質問が予定されていたが、自民党幹部は民主党幹部に対し「わたしは代表質問に出るわけにはいかない。健康上の理由だと首相が言っている」と伝えた。>07年9月12日13時33分配信 時事通信

<自民党の総裁選挙 19日に。政府・自民党関係者によりますと、自民党は、安倍総理大臣の後継を選ぶ総裁選挙を今月14日に告示し、19日に両院議員総会を開いて、国会議員と自民党の地方組織の代表による総裁選挙を行う方向で調整することになりました。>NHKニュース9月12日 16時20分

真相は追々明らかになってくるだろうが、決定的な事は肉体的にも精神的にも限界点に達していた、という事ではないか。半生、精神力を鍛錬する「苦境」に立った事があったとは考えられない。

「参院選で負けても辞めない」は小泉全総理に刷り込まれた事であって、実際の重圧を予想し、自ら決意した事ではなかったはずだ。

私が総理辞意表明の前夜、財界筋から得た情報では、安倍さんの痩せ方が尋常では無い、最盛期より10Kgも痩せた、とのことだった。真相は不明だが、痩せて生気を失っていた事は事実である。

安倍周辺に通じている人の話によると、原因は腸が普通より短い事にある。すぐに消化不良と下痢を繰り返すため、ストレスが溜まるとたちまち痩せることになる。加えて精神力は元々無い。

麻生以外に相談した政治家は無いはずだ。あったとすれば小泉前首相だが、相談すれば「辞めるな」といわれるに違いないから相談しない。派閥を牛耳る森元首相や青木幹雄元参院自民党議員会長は参院選敗戦直後に辞任を勧めて断られた仲だから、今回は無関係。

おそらく「神のお告げがあったから安心してほっぽり投げられた」と周辺は言う。神とは母親にして祖父の一人娘洋子のことである。晋太郎亡後、晋三を総理にする事だけを夢見てきた人。

精神的苦悩で日に日に痩せて行く息子を見るに忍びなく、ついやさしい声をかけたのではないか。おそらく昭恵夫人も同様だったのではないか。

そこで2日前の10日に麻生幹事長とサシで会って、健康上の理由で辞意を匂わせていたようだ。当日の行動記録を読むと夕方5時26分から20分以上も会談している(院内大臣室)。

その一方で小沢民主党代表との党首会談に一縷の望みを託していたのだから、やはりお坊ちゃんというしかない。

こうして「政局」に突如なったわけだが、自民党の領袖たちの中で古賀誠はツンボ桟敷だった。この古賀はおそらく福田康夫に擁立を働きかけると見る向きは多い。これに対して旧経世会(津島派)がどう動くか。

森本首相と青木も福田擁立で動くだろう。だが福田が立たなければ、空振り。

麻生以外は立たない可能性もあり、と事情通。安倍の腹には麻生後継しかないが、後継を指名できる力は残っていない。文中敬称略。 2007・09・12

本稿は安倍辞任表明当日のものだが、今日になっても通用すると確信している。安倍辞任以降の新読者のために敢て再掲した。安倍辞任の情報から独り取り残された観のあった古賀が引退した野中の指令の下、福田康夫を担いで一旗挙げるところ間でも当っていた。              2008・07・25


2008年07月25日

◆国交回復のチョロギ


渡部亮次郎

久しぶりに「チョロギ」を食べた。角館(かくのだて=秋田県仙北市)の安藤醸造さんから戴いた「刻みガッコ」に茶色に漬かって入っていた。日本では東北地方を中心に栽培されている、というが私は北京で初対面だった。それをまた思い出した。

1972(昭和47)年9月25日、田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官の乗った特別機に特に選ばれた5人の記者の1人として同行。梅原龍三郎画伯描く『北京秋天』そのもの、快晴の北京空港に降り立った。日中国交正常化交渉を見守るためである。

しかし、交渉の様子は全く分からない。日本側同行記者団80人に対する説明者の二階堂官房長官の毎日の発表は「発表できる事はありません」だけ。肝腎の田中首相とは釣魚台の迎賓館の部屋で到着翌日に短時間面会が許されただけで、後は梨のつぶて。

ホテルはソヴィエト人の設計とかで、天井がやたらに高くて、シャワーからは湯がろくに出ない。食事はやたら脂っこくて大抵の記者たちは3日目ぐらいで音を上げた。誰言うとなく出た言葉が「こんな時は粥(かゆ)が食いたいね」

そうしたら翌朝が白粥に漬物。それが「チョロギ」の漬物だった。赤く染まっていた。恥かしい話だが日本では東北地方を中心に栽培されているというのに、初対面が北京でとは妙な成り行きだった。実家は秋田の農家なのに、隣近所でも栽培していなかった。

高さ60cmほどに育ち、6月〜7月頃に薄い青紫の花を咲かせる。10月〜11月頃に根にできる塊茎を収穫し食用とする。
Chinese artichoke‖Japanese artichoke‖Stachys sieboldii Miq.

シソ科の多年草。地下にできる塊茎を食用にする。中国の原産で水湿地を好み,日本には元禄年間(1688‐1704)に入ったらしく《農業全書》に最初の記載がある。

和名は朝鮮を経て入ってきたため,朝鮮語のジロイ(ミミズ)の転訛といわれている。

19世紀になってヨーロッパに,20世紀になってアメリカに入ったといわれる。夏から秋に地下茎が伸び,その先端に径約1.5cmで長さ約3cmの白色で駐質の細長い塊茎をつける。

塊茎には数個の輪状のくびれがある。シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ,黒豆に混ぜて正月料理としたり祝儀用に使う。中国では風邪や咳止めにも利用される。平岡 達也(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

以下は「ウィキペディア」による。漢字表記は多数ある。塊茎が蚕の姿に似ていることから「草石蚕」と書かれたり、音から「丁呂木」「丁梠木」と書かれたりする。祝い事の際に食べる場合、縁起をかついで「長老木」「長老喜」「長老貴」「千代呂木」などと書かれることもある。

東北地方のほか京都など西の各地でも栽培されている。西日本での収穫期は東北よりもやや遅く、12月頃になる。その形からネジ芋、法螺芋と呼ばれることもある。

塊茎は長さ1〜3cm程度の巻貝のような形をしており、泥を落とすと白い。この塊茎を塩漬けにしたり茹でたりして食べる。ゆり根に似た食感と生姜のようにピリッと辛い味がする。

塩漬けの場合、4〜5日ほど漬けた後に梅酢やシソ酢に漬けて赤い色をつけることが多い。この赤く漬けたチョロギは、正月のおせち料理によく用いられる。おせちではそのまま単品として用いられるほか、黒豆を煮たものに添えて供されることも多い。

その他の調理法としては、天ぷら、吸い物の具などが挙げられる。チョロギは中国からヨーロッパにも伝わり、フランスでも食用とされる。フランスではクリーム煮やサラダとして食べることがある。

フランスでjaponaise(ジャポネーゼ、日本風)と名前に付く料理には、なぜか必ず付け合せにチョロギを盛り付ける。

稀に、チョロギは魚との食いあわせが悪いと言われることがある。「本草綱目」(著者:李時珍)には「徐風破血、下気精神」とあり、外からの病の侵入から身体を守り、血の滞りを治し、気を静め精神を安定させる効果があるとされている。2008・02・19   (再掲)

2008年07月23日

◆冷奴も味噌も外国頼み


渡部亮次郎

対米戦争の始まった翌年から国民学校(尋常小学校)に入ったが、間もなく道端に大豆を植えさせられた。同時に農家では農地に仮にも隙間があれば大豆を植えたから、毎日が大豆との付き合いだった。

戦争が始まって間もなくは満洲帝国から、今で言えば小型乗用車のタイヤ大の「豆滓(まめかす)」が農家には配給され,戦局激化に伴う食糧難の折には,ご飯に混ぜて食べた。大豆から油脂を搾り取ったあとの滓(かす)。下痢の元になった。

昔から日本は大豆を海外に頼っていたが、戦争中では輸入が不可能。小学生まで動員して少ない国内生産に少しでも上積みしようとしたのだった。

そうした時代になると豆腐屋の親父も戦場に狩り出された。仕方無しにお袋は水に一夜浸した大豆を擂鉢で摩り下ろし(呉=ご)て味噌汁に放った。「呉汁=ごじる」。結構美味かった。また食べたいが面倒だし、東京のマンションでは台所に乾燥大豆は無い。

中国、日本、朝鮮半島で古くから穀物として栽培されており、アメリカへは1800年代の初めに伝わったが、長いこと飼料として栽培され、主流作物ではなかった。

1920年代初め大豆加工業が発展したことによって、大豆栽培に弾みがつき、今日ではトウモロコシ、コムギについてアメリカの主要穀物となっている。

93年にアメリカは世界の生産量の約45%を占め、ブラジル、中国、アルゼンチン、インド、カナダなどが続いている。アメリカ国内では主に中西部とミシシッピ下流域で生産され、ダイズ生産量の40%以上が輸出されている。

日本はダイズ消費量の95%ぐらいを外国に頼っていて、大半はアメリカから輸入している。日本の国内では、北海道、秋田県、栃木県、茨城県、富山県などで生産される。納豆用、豆腐用、エダマメ用が主流である。エダマメは今度エンサイクロペディアに入った。


2004年における世界の10a(1反歩=300坪)当たり収量の平均は 223kgであり、日本の平均収量に比べ3割ほど高い。主産国の単収は、アメリカ:286kg/10a、ブラジル:229kg/10a、パラグアイ:192kg/10a、中国:180kg/10a。

日本の大豆が諸外国に比べて低収であることの主な要因は、油糧用大豆中心のアメリカ・南米に対し、粒大やタンパク質含量等を重視する食品用大豆が中心であるためである。

ちなみに国産大豆と外国産大豆の成分を比較すると、国産大豆はタンパク質含量が多く、外国産大豆は脂質含量が多い。タンパク質含量は国産が35%、米国産が33%。脂質含量は国産が19%、米国産が22%。

わが国では高音多湿な気候の所為で「発酵」による納豆や味噌として食べほか豆腐や枝豆など大豆を直接食べる方が重点となったから品種改良は蛋白質を多くすることに力点が置かれた。

これに対しアメリカでは油脂をしぼるだけが目的だったからこうなった。ダイズの良質な脂肪分は食用油に精製され、サラダオイル、ドレッシング、マーガリン、マヨネーズなどになる。また、ダイズ油は繊維、化学製品などにも使われる。

ただし日本占領軍として滞在した兵士たちが豆腐にダイエット価値を認めた結果、最近は「豆腐ステーキ」が普及している。いくら「長生きの素」とはやしても納豆からは逃げる。臭いらしい。

日本の大豆の輸入相手先は、平成16(2004)年の実績では、
(1)アメリカ(318万トン)、
(2)ブラジル(78万トン)、
(3)カナダ(26万トン)、
(4)中国(19万トン)。

近年、カナダやブラジルをはじめとする南米諸国からの輸入が増加。なお、世界における2004年生産量ベスト6は
(1)アメリカ(8,550万!))、
(2)ブラジル(4,920万!))、
(3)アルゼンチン(3,150万!))、
(4)中国(1,760万!))、
(5)インド(550万!))、
(6)パラグアイ(360万!))
 
豆腐用としては主にアメリカのnon−GMO大豆が使われている。、日本の流通業者が輸入先を中国からアメリカ・カナダに変更したことにより、両国では、日本への食用大豆としての輸出を狙いにした品種改良などが積極的に進められている。

近年、アメリカでGMO大豆の生産が拡大し、消費者から敬遠されたことから、non−GMO大豆の分別流通が短期間に進展した。

GMO大豆とは、組換えDNA技術(酵素等を用いた切断及び再結合の操作によって、DNAをつなぎ合わせた組換えDNAを作成し、それを生細胞に移入し、増殖させる技術)を用いて生産された大豆をいう。

従ってnon−GMO大豆とは、すなわち遺伝子組換えでない大豆をいう。

アメリカでの食品用大豆の主な産地は、アメリカ大豆協会からの聞き取りによると、納豆用は、アーカンソー州、ミネソタ州、アイオワ州、ヴァージニア州。

豆腐用は、主産地は、インディアナ州、オハイオ州、ミシガン州だが、バラエティ大豆も各州(アイオワ、イリノイ、ウィスコンシン、オハイオ、カンザス、ミズーリ、ミネソタ等)が力を入れて開発している。

アメリカIOM大豆とは、5大湖周辺のインディアナ州 (I)、オハイオ州(0)、ミシガン州(M)で生産された黄大豆2等級のもの。本来は油糧用ですが豆腐用にも利用されている。

近年、GMO大豆の生産が増加したことから、食品用大豆ではnon−GMO大豆の分別流通が進んできている。

また、バラエティ大豆とは、アメリカ等から品種を特定して輸入される大豆の総称であり、主な品種に、ビントン81,ビーソン等がある。国産と同様に煮豆、豆腐、納豆等食品用として利用されており、価格もIOM大豆と比べると高価格だ。

バラエティ大豆は、主にアメリカの大学や企業が日本市場向けに開発したもので、煮豆用、豆腐用、納豆用等の用途ごとに品種が異なる。2008・07・20

(財)日本豆類基金協会調査資料及びマイクロソフト社「エンカルタ」参照。

2008年07月19日

◆日本独立もはや不可能

                     渡部亮次郎

北朝鮮のテロ支援国家指定解除をめぐるアメリカの独走を恨んで日本の再軍備や独立論が盛んになったが、日本は今や金玉を抜かれた宦官。こんな政治家で、真の独立なぞ出来るわけがない。

日米安全保障条約を読んだ人が何人いるか。国会議員でも読んだことが無いのに賛成したり反対したりしている。あれを読めば日本は独立国なんかではなく、米国の51番目の「州」であることが明確になる。

<第6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。>

当時の岸信介総理(1956−1960)が、その政治生命を賭した改訂交渉でも、精々ここまでであった。それでも学生ながら反対闘争をした連中が自民党にいる。加藤紘一だ。

このような状況にある限り、米国に押し付けられた憲法を改正することなどで出来るわけがない。安保条約の破棄と核保有の再軍備を米国に認めさせる政治家がどこにいる。主張する政党がどこにある。

<どんな条約を結び,どんな義務を負っても,独立権はそこなわれないとはいえない。弱い主権国家が強い主権国家と保護条約を結んで被保護国となる場合,その独立権は制限され,その国家は,半主権国,不独立国などと呼ばれることになる。>松田 幹夫(平凡社「世界大百科事典」)

弱い主権国家=日本が強い主権国家=アメリカと結んでいる保護条約こそ日米安全保障条約以外の何物でない以上、日本は半主権国、非独立国なのである。

強い主権国家=アメリカに憲法を押し付けられ、再軍備を事実上禁止されている国、日本。北朝鮮に国民を拉致されても、中国、韓国に領土を侵略されても手も足も出ない国を独立国とはいえない。

2008年7月8日の「クライン孝子日記」に「一読者」と称する方が次のような意見を述べておられた。

<米朝緩和は米国が日本に自分で核自衛しなさいといっているのです。未来は過去の延長ではありません。過去を見て将来を考えるのは、バックミラーを見ながら運転するのと同じと言う警句があります。日本人は過去に縛られた頭を切り替える必要があると思います。>

一見、論理的なので説得力があるように見えるが、日本の真の独立と核の所有をアメリカを認める理由がどこにあるだろうか。空論に過ぎない。

翻って国家の現状を見る秋(とき)、統率者たるべき首相(福田康夫)は国家尊厳の志向者足らんとしているや。国家固有の領土についてさえ本来の主張を貫く事をせず、なおかつ隣国の政治情勢を混乱させてテンとして恥じない。

「相手国の厭がることをしないのが福田政治」などと暢気なことをほざいているが、結局それは世界全体に阿(おもね)ることに過ぎない。同盟国に対しては仕方無いにしても中国、韓国、北朝鮮に阿ることが外交の真髄とは聞いて呆れる。

彼は日本を尊厳ある独立国を目指している統率者では断じて無い。むしろ国を敵に売るものの何者でもない。売国者である。売国者を総理に担ぐ国を世界は独立国とは認めない。

戦前、戦後を生きてきて、わが国政党政治の実態をつぶさに観察してきたが、流石に国家を社会主義国会に売ろうとした日本社会党は消滅した。

その対極にあるかに見えた政党こそは自由民主党であった。しかし、
それもいつの間にか一部権力者の私物と化してしまった。だからこそ既に政界引退を密かに決意していた老人を急遽、首相にしてしまったのである。

この演出者は引退して時の経つ京都の野中広務氏と元首相森喜朗氏である。己の恣意的権力発條力維持だけを確保するために両者は妥協したのである。福田氏はそれに含み笑いをしながら乗っただけである。

来るべき総選挙で政権が民主党に移る事は必至である。だが小澤一郎代表が、日本を独立志向の国家に相応しい国家として運営して行く保証は一つも無い。郵政省復活を言い出しているようでは何も期待できない。さりとて、どこへも逃げられないよ、ご同輩。
2008・07・19