2011年09月29日

◆64%「中国人に生まれたくない」

渡部 亮次郎
(再掲)【産経新聞2006年09月25日北京=野口東秀】「生まれ変わっても中国人になりたい?」--中国の大手ニュースサイト「網易」がこんなアンケ−ト調査をしたところ、約3人に2人が「なりたくない」と答えた。中国共産党支配と政策に対する人民の不満を浮き彫りにする結果だった。

このサイトは今月4日から13日までネット上でアンケートを実施、約11,000人が参加した。

その結果、「中国人に生まれ変わりたくない」という答えが約64%に達した。「生まれ変わりたくない」理由は、「中国人として尊厳が持てない」が約38%、「マイホームを持てないため、幸福感がない」が約18%だった。

中には「私は中国を愛しているが、中国が私を愛してくれない」という回答もあった。生まれ変わりたい理由には悠久の歴史や文化などがあった。

「生まれ変わりたくない」人のうち、「今度は香港人になりたい」と答えた人は、「中国には人権がない。独裁があるだけで、言論が抑圧されている」と指摘していた。

このほか、「親を養い、子供を育て、家のローンを払う。収入は悪くないはずなのに生活は良くならない」「乱れた社会、人が希望を持てない社会。100回生まれ変わっても中国人にはなりたくない」という声も聞かれた。

香港紙●果日報などによると、今月16日、サイトの編集者2人が突然解雇されたという。愛国教育を推し進める党中央宣伝部など当局の意向に沿わなかったためと見られる。
2006・09・25


2011年09月27日

◆糖尿病で起きる合併症

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病院。患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから23年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴で助かったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要はない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「T−pa」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。

教授はまず脳梗塞に掛からないよう血液の粘りを少なくしようとワーファリンという薬の服用を命じた。だから毎日飲んでいるが、効き過ぎて関節内血腫を起こしてしまった。2011年9月5の緊急入院の理由である。次に起きるのは何だろうと思う。しかし心配しても始まらない。    
                          2011・9・24

2011年09月25日

◆モノが言えなくなった日本

渡部 亮次郎

日米関係はことほど左様に悪化している。大統領に会っても日本の首相は対等にモノが言えなくなっている。これ程、日本の立場を悪くしたのが鳩菅両首相だったのだ。

しかし、国民レヴェルでは、日米関係の悪化をそこまで想像もしていないことを示すのが以下の投書である。

<恰も参勤交代かの如くに、我が国の総理大臣はアメリカに大統領のご機嫌伺いに行っているように見えます。あの様子では臣下のようにしか見えません。国際関係としては鳩山は対等だと言っていましたが、実質はそうではないのですか。

今回も新参の総理大臣はわずか30分の会談で、かなり一方的に?改善要求を突きつけられた感があります。これらの要求、就中、普天間は鳩菅の負の遺産で仕方がないとは思います。だが、我が国からアメリカ側に何か要求することは外交上非礼なのでしょうか。

例えば、

!)貴国が意識的な金融緩和策でドル安を推し進めて、輸出を推進しようとする策で、我が国の輸出産業のみならず産業界全体がドル安=円高の継続的に苦しめられている。是非、貴国の景気を回復する政策を推し進めて、この我が国を悩ます通貨政策を改善願いたい。

!)日本向けの牛肉の輸出の振興を図りたいのならば、全頭検査並みに品質の向上を図ると共に、そのための労働力の質を高め、品質管理に遺憾なきを期して頂きたい。現在の不安定な品質では我が国の消費者を満足させられないくらいはご承知ではないか。

!)(到底無理でしょうが)自国の製品の販売を促進したいがために、例えば日本の自動車に謂われなきクレームを付けるような策を講じないで欲しい。

と言うような事柄を要求してはいけないものでしょうか。過去の理不尽なセクハラ裁判にしても、明らかに不当だったにも拘わらず、国として何ら産業側を擁護しなかったために、アメリカ側は「何を言っても大丈夫」という、いわば「これを言って失うものはない」的な高飛車な姿勢でした。

私には日米間の微妙な外交関係は解りませんが、こういう事柄を主張すると何か重大なものを失うのでしょうか。嘗ての繊維交渉などは堂々としていた印象があるのですが。>(前田 正晶)

首脳会談とはいえ、いわば話し合いなのだから、まして「対等」を謳う「話し合い」なのだから、自由に話し合えるもの、と解釈するのがd普通である。

だとすれば、前田さんご指摘のようなことが議題に上って当然、それを敢えて言わないのは野田首相の「萎縮」ではないかとの疑念が生ずるのは当然である。

しかし実は首脳会談となれば、そうはいかないのだ。首相が萎縮したのではない。日米関係の現状は、鳩・菅の食い散らかしの結果、双方対等なんかではなく、日本が下座に置かれている始末なのだ。

特に普天間移転問題では、オバマ大統領が共和党から「監視」されている状態にあり、その分、日本政府に対していわば居丈高な態度を隠さない状態になっている。この点は鳩山に特に責任がある。如何に厚顔無恥を決め込んでも取り上げる議題について発言できる官僚はいま不在である。

「話し合い」とはいえ、国家間の公式会談となれば、そこでなされた約束は条約に準じた約束となる。したがって事前に専門家による折衝が行なわれる。民主党がいかに政治優先と避けんでも、外務省抜きに大統領とは太刀打ちできない。

日本外務省とアメリカ国務省との間で事前折衝が官僚によっておこなわれる。ここでは両首脳が会談で取り上げる議題について細かく折衝がおこなわれる。日本がアメリカに対して真に対等な位置が確保できている状態なら、前田さんご指摘の会談議題になっただろう。

しかし、普天間という宿題を済ませていない立場の日本はいまや対等にモノを言える立場には無い。なんでもかんでも「対等」と誤解して両国の友好関係を目茶くちゃにした鳩山。それを戻す努力を怠った菅の罪はこれだけ大きいのだ。

嘗ての繊維交渉とは沖縄を縄で買ったと称されたとおり、大平・宮澤と2代に亘る通産大臣が解決できず、当時の首相佐藤栄作はニクソン大統領の前で肩を顰めたものだった。

そこで最後に登場した通産大臣は田中角栄。いきなり2000億円でわが国繊維業界を買占め、織機をすべて潰して解決した。

流石のニクソンも角栄だけを絶賛、沖縄返還は本決まり。福田を引き連れての首脳会談で後継者として紹介しようとしたがニクソンが隣席に招きいれたのは通産大臣角栄だった。あの「角福戦争」がここで事実上決着したのであった。

対等な日米関係とはお互いに「宿題」を解決してこそはかれるもの。普天間が解決するまで日米は対等な関係は望めない。(敬称略)

<オバマ氏「彼とは仕事ができる」=首相を評価―同行筋明かす

【ニューヨーク時事】21日の野田佳彦首相とオバマ米大統領との首脳会談後、大統領が首相について「彼となら仕事ができる(I can do business with him)」と語っていたことが分かった。大統領周辺から日本政府関係者に伝わってきたもので、首相同行筋が22日、明らかにし
た。

大統領の発言は「彼とは取引できる」とも訳され、初の首脳会談で大統領が首相を評価し、個人的な信頼感を示したものと受け取れる。ただ、首相がその信頼に応えることができるかは、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題などの取り組み次第だ。>
時事通信 9月23日(金)12時12分配信

これが真実なら「なんとか回復できるか」とやや安堵する。 
                          
                           2011・9・23


普天間、地元説得に全力=被災地で「災害」国際会議―野田首相

【ニューヨーク時事】野田佳彦首相は23日午後(日本時間24日早朝)、ニューヨーク市内のホテルで内外記者会見を行い、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「昨年の日米合意にのっとり、日米が協力して推進する」と述べ、同県名護市辺野古に移す日米合意を堅持する考えを強調した。

その上で「沖縄に丁寧に説明し、理解をいただく。沖縄も普天間の固定化は避けたい気持ちが強い」として、地元の説得に全力を挙げる考えを示した。

首相は「抑止力を維持しながら、沖縄の負担をできるだけ軽減する」と指摘。オバマ米大統領との初会談については「日米間の懸案の解決に向け、個人的な信頼関係を築く良いスタートが切れたと自負している」と述べた。

首相は、国連での演説や一連の首脳会談で、東日本大震災への支援に謝意を示し、東京電力福島第1原発事故収束へ向けた決意を訴えたとし、「好意的に受け止めていただき、一定の成果があった」と振り返った。

また、来年日本が国際原子力機関(IAEA)と共催する国際会議に加えて、大規模自然災害をテーマとする国際会議も開く考えを表明した。政府は災害に関する会議を東北で、原子力安全に関する会議を福島県で開催することを検討している。

北朝鮮の核開発問題では、日米韓3カ国が連携して北朝鮮に具体的な行動を求めていくと指摘。日中両政府が年内で調整している首相の訪中については「お互いにとって都合のいい時期を選んだ上で、ぜひ実現したい」と意欲を示した。

時事通信 9月24日(土)4時48分配信

2011年09月23日

◆辞める首相 辞めない首相

渡部 亮次郎

気鋭の作家 塩田潮さんが標題の新書をこのたび日経プレミアシリーズ136として上梓され、中に私も証言者として登場した。

菅直人による、前例のない居座りが齎した政治の機能停止が出版の動機ではないか。

<田中角栄から菅まで、大平と小渕をのぞく20人の事例を振り返って、政権の手放し方は十人十色ナならぬ、20人20色である。「辞め時」と「辞め方」というフィルターを通せば、その政治家の本質が透けて見える。>という。

「いつでも辞める」の政権不執着の首相=鈴木善幸、村山富市、福田康夫。

行き詰まり・沈没型の首相=竹下 登、宇野宗佑、羽田孜、森喜朗。

返り咲きを目指した不完全燃焼型の首相=田中角栄、福田赳夫、海部俊樹、橋本龍太郎。

天寿全うの首相=中曽根康弘、小泉純一郎。

ご一読をお奨めする。           2011・9・22

2011年09月22日

◆まだ遠い新特効薬プラザサキ

渡部 亮次郎

納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬の製造・販売が厚生労働省から承認され、11年4月から国内で発売された。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほか、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまったそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」の発売は実に待ち遠しいものだった。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられていて、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているためだそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用であることが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないことや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現などの点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一選択薬として推奨されています。

しかし、この「プラザキサ」や現在、開発が進められているファクター!)a阻害剤などが次々に出てくるので、このガイドラインも近々変わるだ
ろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったがたが、?納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多い?感受性に個人差があり、血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もなく、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンのマイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。

しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段が上がる。

採血が無くなるのでその分で相殺できるという考え方もあるが、それでもプラザキサのほうが高い。しかも規則上、承認から1年間は1回、20日分しか処方されない。20日に1回、医師を尋ねなければならないのだ。
2011・8・04

2011年09月20日

◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎

1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとっては、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機に乗るのは平気である。故迫水久常経済企画庁長官は、当時の池田勇人首相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで前の背もたれに掴まり下を向いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に招いたソビエト技術者が自分たちの背丈で設計したものだった。

日中の国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとってのプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったことも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年近く。いまだに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。

ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取るようにしてポケットにしまった。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからである。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

かの人民大会堂。3000人は収容可能という大宴会場。周恩来首相の招待だ。出てきたメインデッシュが「海鼠の醤油煮」生まれて初めて食した。演奏される歌に角さんの郷里新潟にちなんで「佐渡おけさ」が出る事は、政府の会議を裏取材して知っていたが海鼠の出る事は知らなかった。あまり歓迎しない客への料理らしい。

役人は主人が出す者は文句を言わずに口にするものという日本式に解釈して問題視しなかったのではなかろうか。2月に来たニクソンは断った代物だった。中国に舐められたのだ。海燕の巣か鱶鰭の姿煮が本来とか。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれて入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙に書いていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害について「迷惑をかけた」と言った。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったことなどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいいことと慰めた。だからインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走っていない時代。

怪しげなフランス語で交渉したら共産党の指示でガタガタの車が迎えに来た。フランスとは既に国交があったから、錆び付いたフランス語でも通じると判断したのが正解だった。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとしたら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してでてきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2mまで近づける「近距離記者」はわたししかいないのだからあわておってきたわけさ。

一体、中国共産党にとって党員以外はすべて敵である。遠距離記者は首脳らに20m以上は近づいてはならず、日本のカメラマンたちが携行した望遠レンズにはすべて仕込み銃が仕込んである如く1本1本を手にとって検査された。呆れた。

そうかと思うと、NHKの持ち込んだTV中継車の夜間の管理をさせず中国側が管理した。案の定、夜間に中継者を分解し、ノウハウを盗んだのである。ネジが見つからずNHKの技術者たちは嘆いていた。嘘と盗みの民族?

そういえば田中訪中の直後、コマツへブルドーザー3台の発注があってコマツを歓喜させた。ところが注文はそれっきり。3台を分解して真似たブルを大量生産したのである。

共同声明の調印が成り、一行は周恩来首相に案内されて上海を訪問した。上海派の顔を立てなければならなかったらしい。帳春橋が市長と称して迎えに出た。間もなく「4人組」の一人として逮捕されたあの人物。

作家らしく実に軟らかい手であった。似たような軟らかい手はソヴィエトのコスイギン首相のそれだった。

街を歩いてみたが、市民にとってみれば戦後はじめてみるにっくき日本人である。道端に並び、鋭い目で私を睨みつける。怖くなってきてホテルに早々、逃げ帰った。

国慶節の前日に帰国した。羽田に帰着して分かったが、別れ際、周恩来は田中首相に「天皇陛下によろしく」といったという。そんなこともあってか、日本では日中友好ガブームとなりつづいた。

わたしは苦々しく耳目をふさいでいた。まさか6年後、こんどは外相秘書官として訪中することになるとは夢にも思わなかった。
文中敬称略  2011・9・19


2011年09月19日

◆日中は角栄の政局手段

渡部 亮次郎

例えば「ウイキ」にはこうある。

<田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。

背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交正常化を条件としたことがある。

これによって田中は中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も?小平が田中の私邸を訪問し敬意を表している。>

忘れもし無い。9月25日こそは田中角栄首相の初訪中の日であり特別機にテレビ界を代表して同乗を許され、同行取材を開始した日である。1972(昭和47)年。今から39年前。来年は日中国交正常化40周年である。

田中の親分は佐藤栄作。岸信介首相の実弟にして運輸次官から政界入りした官僚派のチャンピオン。角栄はその下で派閥佐藤はの資金作りを黙々として信用を得たらしい。佐藤が7年の長期政権を降りるといった時、真っ先に手をあげた。

このとき、自他共に許すライバルとして立ち向かったのが福田赳夫であった。大蔵官僚上がりの秀才とされ、かねて佐藤は彼を後継者に見た立ていた。しかし、党内の人気は薄かった。

同時に大平正芳、三木武夫、中曽根康弘が立候補。彼らはいずれも日中国交回復を条件に田中氏支持を表明した。佐藤支持を背景にする福田と接線の戦いを余儀なくされる田中だったが、決選投票で大勝利したのは当然だった。

記者の矩を越えて、佐藤のところへ電話で福田への梃入れを要請したが佐藤は言を左右するばかりだった。当時佐藤は生まれ故郷に帰省していた。

この点について党内のある実両者は「カネがまわったのだろう」と推測し後に「3億円だったよ」と教えてくれた。確たる証拠は無いが、耳にしたことを書いておく。

首相特別機の他に記者団80人の特別機が同行した。到着した北京空港は昼過ぎ、快晴。ブラスバンドが盛んに鳴らされた。街路樹の植えられた道をだらだらと北京のホテルへ急いだ。

田中首相、大平外相、二階堂官長官と中国側周恩来首相らとの交渉は休みなく行なわれたようだったが、発表に来る都度、官房長官は「発表するものは、ありません」。

それでも29日、突如、人民大会堂で、日中両国首相日中共同声明に調印、発表した。整列する記者団席から見つめていた。

○ 国交を樹立(日本側、戦争で中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感して深く反省、

○ 復興3原則を尊重、中国側は賠償放棄

○ 両国、平和友好条約締結に同意)

なお、大平外相は記者会見で「日台条約は存続の意義を失い終了」と表明した。

これに至るまで田中首相ら3人は深夜、通訳帯同も許されずに毛沢東主席への表敬が許されたが、我々記者団にはカラー写真が翌朝、中国側から配布されただけだった。

かくて一行は上海に1泊して帰国したのだが、それからの田中内閣も三木内閣も日中平和友好条約の締結交渉に失敗、福田赳夫内閣にひきつがれ、園田直外相が6年ぶりに締結した。

振り返ってみると、角栄も園田も中国側から見て「井戸掘り」の恩人だが、彼ら自身は何の政治的メリットを負ってない。

ただ、角栄だけは、これによって政局の求心力を増したから、マイナスではなかったろう。それでも「金脈」で失脚し、ロッキードで裁判に引き出されて脳梗塞で死亡。園田もその先に腎不全で死亡した。足跡は歴史にしか残ってない。(文中敬称略)2011・9・17

2011年09月15日

◆歩行回復顛末記

渡部 亮次郎

2011年9月4日、栃木県の鬼怒川温泉で目覚めたが、右の膝に言い知れぬ痛みを覚え、歩きにくくなった。求めた杖や家人の肩を借りて、用事をこなし、なんとか帰京した。

5日は毎日服用している血液さらさら剤「ワーファリン」の効き目を検査する大学病院の定期検診日である。まず採血室を訪れたが「担当医からの指示」が出ていないと採血拒否。博士でも採血指示を「忘れる」こともあるらしい。

指示を出しなおしてもらった。この時点で相当、頭に血が上っているが、真実、血が出ていたのは昨日痛めた右足だった、内出血らしく、青黒く、2倍ぐらいに腫れている、気が気ではない。

神経内科の担当医(教授)の診察では、肝腎のワーファリンは効きすぎだ、期待値は「2」だったが、なんと「4・5」に上がっている。

「そういえば先生、昨日から右足が腫れて痛いんですけど」「どれどれ、ありゃ、これは右足動脈に血栓が詰まり、血液が漏れ出したのかも知れない、形成外科で診てもらってくれ、とにかく暫く入院してください」。私は帰宅したら近所の整形外科医院で診てもらおうと考えていたのに、えらいことになってしまった。

こんなことになるとは想像していなかったが、なんとなく手間がかかるとは思って、メルマガやブログの読者には「暫く休刊する」旨を書き残してきた、2−3日の休刊を想定していたにすぎない。

あとで聞けば、早々にMRIによる撮影ができれば、入院は長引かなかったらしい。ところが大きな大学病院。撮影待ちの患者がすでに40人に達していた。地方の大学病院なんかでは考えられないこと。しかも、私には「40人待ち」の事実は隠したまま。

とりあえず初日は形成外科で、足その他に動脈血栓があるかを調べてもらった。しかし「血栓(血の塊)はありません」。猛烈、不味い夕食で日が暮れた。4人部屋に3人。隣と頭上から猛烈な鼾。足の血は頭にのぼった。

いちいち書いていたらハラが立つ。鼾は睡眠薬でのがれた。特に酷かった老人(こちらも老人だが)が翌日退院していったので鼾は半減。私も酒を呑めばどうか知らんが、家人が私の鼾で苦情を言うことは無い。睡眠薬で何とか朝を朝らしく迎えた。

盛んにCTを撮る。レントゲンを何回も撮る。当然、骨折など、異常は発見されず。毎日のように採血する。腫れが黴菌から来ているかどうかだという。3日間も培養したが何も発見されなかった。

私の入院を決定したのは脳神経科である。だが、もはやどう考えても足は脳ではない。足は足である。足の痛さを治すのは形成外科ではなく整形外科と思う。だが脳神経科は最後まで私を放さなかった。

入院6日目、脳神経科の研修医が突然「病名は滑液包炎(かつえきないほうえん)です」と夕刻に宣告。「どなたの診断ですか」と問えば「各科協議の結果です」。なんだか、訳が分からない。

新しい鼾屋が隣に来た。パーキンソン症候群に脳出血を併発したとか。頭ははっきり、計算も出来るが、咳が絶えない。隣人は寝不足。

病院は医師が最高権力者、看護師は医師の指示以外、何もできない。逆に言えば、研修医の指示でも指示である。その下に介護士。車椅子押しとか、配膳は介護士の役目。私はこんな差別職場は務まらないだろう。

12日夕方、突然、整形外科医のところへ車椅子に乗せられて行った。今朝ようやく撮影できたMRIの画像をみて「膝の関節に水が溜まっているから抜きましょう」。針は痛かった。それよりも驚いたのは出てきたのが水ではなく血液だったことだ。ワーファリンで薄くなった血液はMRIでは水に映るのか。

「これは何かの拍子に傷ついた膝の関節にワーファリンで薄くなった血液が大量に出血したものですね。関節内血腫です。散歩のし過ぎで弱っていた関節に何かの拍子に傷がついたのですね。老齢化も手伝っているでしょう。殆ど再発は無いでしょう。内出血は次第に吸収されて、足の太さは元に戻るでしょう」。

病室に戻ると、神経内科の女医が来て「明日退院」が宣告された。

早々に整形外科に転科し、さらに直ちにMRIが撮影できれば湿布だけで治るものだったのだ。それを脳神経科に捕まったばかりに酷い目にあった。

不必要な検査を様々に受けさせえられた結果、内臓は実に健康であると言う結果を得た事はよかったが。それにしても予期せざる出費を余儀なくされた。2011・9・13
 

2011年09月13日

◆山田敬蔵が勝った日

渡部 亮次郎

郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。

誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(再掲)



2011年09月08日

◆「死んで堪るか」の真実

渡部 亮次郎


河野 一郎(こうの いちろう、明治31(1898)年6月2日 - 昭和40(1965)年7月 8日)は、昭和時代の政治家。自由民主党の実力者。従2位勲1等旭日桐花大綬章。国会議員であるが選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。しかし河野自身は内山県知事を「天皇」と呼んで対抗していた。

参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長をつとめた河野洋平(引退)は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。

大正12(1923)年早稲田大学を卒業。在学中は箱根駅伝の選手。謙三の方が早かったらしい。朝日新聞社に入社。

昭和6(1931)年犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7(1932)年2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選する。当選後は、立憲政友会に所属した。

鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17(1942)年の翼賛選挙では、非推薦で当選した。

敗戦後、昭和20(1945)年11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、昭和21(1946)年5月4日鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ組閣に取り掛かる。

組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。更に6月20日には、河野自身も公職追放となった。弟謙三が身代わりとなって地盤を守った。

昭和26(1951)年8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党した。以後、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走する。

昭和27(1952)年9月29日解散総選挙の目前に鳩山派に打撃をあたえるべく、石橋湛山と共に党を除名された。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消し。

昭和28(1953)年3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。吉田内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙を実現させた。

11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も三木、河野ら8名の代議士(「8人の侍」と称された)は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

第1次鳩山内閣で農林大臣に就任。第2次、第3次鳩山内閣でも留任する。昭和31(1956)年日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合う。10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印にこぎつけた。

この時、アルコールを一滴も受け付けない体質なのに、フルシチョフとのやり取りの経緯上、テーブルのウオトカを一気呑み。「部屋へ帰ってから水風呂に入ったり色々したがどうにもならない。あの時は死ぬかと思った」と後年、語っていた。

鳩山引退後の自由民主党総裁公選では、岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。昭和32(1957)年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣では党総務会長に就任。

しかし、昭和34(1959)年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決では、三木派とともに河野派は欠席した。岸は死ぬまで河野を怨んでいた。

岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗れる。

一時、河野新党(いわゆる第2保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され断念する。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、昭和36(1961)年7月の内閣改造で農林大臣として入閣。

昭和37(1962)年7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の1人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。

この時の前後が私が担当記者となる。NHKでは誰もが恐ろしくて担当したくないというので、新人の私に大役がいきなり回ってきたのだ。昭和40(1965)年6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否した。この直後、7月8日大動脈瘤破裂のため急死した。67歳。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられるが、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない。」という穏やかなものであったということで真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。法名禅岳院殿大光政道一義大居士。

「死にはしないよ」を「死んでたまるか」とNHKニュースで流した犯人は誰あろう、私である。歴史を曲げた。ここに謝罪し、訂正します。

この夜、枕元で無邪気に遊んでいたのが河野太郎と妹の2人で、「心配ないから、子供たちを寝かしなさい、死にはしないから」と言うものだったが、翌日の夜には、あっさり、死んでしまった。

倒れる前日、つまり1965年7月6日の夕方、私は河野さんと単独会見をした。夕方、麻布台の河野事務所を訪ねると、大広間で転寝をしていた。口から涎を垂らし、いうなれば、ダンディらしくないイギたなさであった。

ダンディーぶりはただ事ではなかった。ハリュッドで会ったデボラ・カーに握手を求められた時、差し出した自分の手の爪は汚れていて恥かしかった、と爾来、服装に気を遣い、マニキュアまでするようになっていた。ノー・ネクタイの記者には会わなかった。

参議院選挙の疲れかな。29歳の私はその程度にしか感じられなかった。しかしそれが命取り「腹部大動脈瘤破裂」の前兆だったとは。

隣のビルは建設大臣当時は、建設省分室だったが、その頃は河野さんの私物になっていた。ところが、誰をも入れなかった。それなのに、その日は私を4階の自室まで連れて行った。

そこは畳敷きの和室だった。「ここに入る他人はキミが初めてだよ」と言いながら、「近く中曽根(康弘)クンを派から除名しようと思うんだ」という爆弾発言をした。

河野派4天王の1人を除名するとは穏やかではない.しかし、こういうとき、質問してはいけない。「奴はね、ベトナム戦争の見学と称して川島クンに従いて行きたいというんだよ」

川島正次郎は池田勇人が喉頭癌で政権を投げ出した時、河野の願望を差し置いて後継者にあっさり佐藤栄作を据えた張本の副総裁である。河野さんは許せなかったのだ。

「ボクはこれからデートだ。明日は平塚の(有名な)七夕(たなばた)だからね。参議院選挙の当選祝いを平塚の自宅でするからね、キミも是非来たまえ」と言って別れた。デートの相手は?言わない。

ところが翌朝、腹痛で倒れ、藤尾正行代議士のはからいで日本中の名医が枕元に集まった。腹部大動脈瘤破裂。当時の医学としては手の「施しようの無い」病気だった。翌8日午後7時55分「お隠れになりました」と日本医師会会長にして主治医の武見太郎が発表した。

私はその30分前に、既に死亡原稿を全国に放送していた。枕元に集まった側近たちがお題目を唱え始めたのを「死」と早合点したのである。河野さんの命日のたびに反省とともに思い出すが早合点の癖は未だに治らない。

「河野派から中曽根除名」のニュースは遂に流れなかった。中曽根は「河野精神を体して」とか何とか我田引水の主張を繰り返してとうとう中曽根派の結成に成功し、総理総裁の地位を獲得したことご承知の通り。私はこういう人生は嫌いだ。

なお、腹部大動脈破裂は弟の謙三も奇しくも患うが、医学は進歩していたので、何事も無く助かった。

(文中敬称略)  (再掲)

2011年09月04日

◆「チョロ」の国家機密

渡部 亮次郎

日本の元総理大臣が外国に招待されて打ったゴルフの第1打が、あろうことか「チョロ」だった。本人すかさず側近に「これは国家機密だッ」と緘口令を敷いた、という笑い話。

隅田川に上がる豪快、華麗な花火(2007・07・25)を見ながら聞かされた話だ。福田赳夫が総理を辞めてから、朴正煕韓国大統領が殺害される3ヶ月前の話だというから、時は1979年7月。ソウル市郊外の有名ゴルフ場である。

歴史書を紐解けば、福田は自民党総裁選には初めは田中角栄との「角福戦争」(1972年)に敗れて雌伏。やっと1976年に大平正芳との密約成立により総理総裁に就任、70をとうに過ぎていた。

密約の在任期間は「2年」。ところがもっとやりたい福田は密約を一方的に破って大平に対抗出馬。やはり、あえなく敗退。「天の声にも時には変な声がある」との迷科白を吐いて恥かしさを誤魔化した。

私はこの頃すでに外相園田直(すなお)の秘書官だった。それ以前はNHKで福田派担当記者だったから、福田を比較的、良く知っていた。誘われてゴルフも何回となくしたが、ロンドン仕込みとはいえ腕前は上等とはとても言えなかった。

その福田が朴大統領に招かれるについては、親分岸信介と朴との関係に遡って親密な関係にあった。朴は先にライバル金大中拉致事件では当時の総理田中角栄に現ナマを贈って政治解決を図るなどしたが、岸・福田ラインとの親密さは不変だった。福田を慰労し、発展する韓国を見せたかったのだ。

花火を見上げながらの話だと、朴は福田を招待するについて、随分気を遣った。特にゴルフについては福田が老齢ゆえ、きつい坂は堪えるだろうと春ごろに坂を削るなど改造させて待った。

当日は側近の安倍晋太郎、石原慎太郎、森喜朗らが同行。迎える朴大統領は一行の靴下やパンツからクラブなど道具一式を選り取りみどりをデパートを現地に出張させて用意するという念の入れ方。図体の特に大きい森の身体に合うサイズ取り揃えてあったのには一同感服。

大統領が日本の前総理とゴルフをするというのだから、警備は大変。警察官がティーグラウンドからフェアウェーに沿って10mおき、後ろ向きに並ぶ。北朝鮮が攻めてきたら大変、それに備える態勢だから緊張が走る。ボールが当る危険性、十分。

かくて朴が第1打。あっ、なんと30mぐらいの「チョロ」。上空から警備のヘリの騒音に緊張したのか。

朴正煕は植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれた。貧しい農村部家庭の末子であった。

小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は苦しく、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹を破り、自らが大統領の座に就く。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。この条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に充てた。福田がその頃、大蔵大臣だった。

ついで打ったのは福田。はっ、これはもっと酷い「チョロ」10mも行っていない。ところが福田は平然「三尺下がって師の影を踏まず!」一同、大拍手で緊張が解けた。直後、傍にいた顔見知りの日本大使館員に「これは国家機密!」と緘口令を敷いたのだ。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。朴大統領は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

葬儀に日本は本来、総理大臣大平正芳が参列すべきだったが、日韓議連会長岸信介を派遣した。手間取って岸は葬儀に間に合わなかった。

埋葬の儀は外国人はオフリミット。それでも岸はOK。大使館の韓国ととりなしなど苦労は大変だった。

やはり埋葬にしか間に合わなかったフィリピンのマルコス大統領夫人イメルダが大泣きして娘さんを抱きしめるのに、岸は沈黙。対照的だったそうだ。(文中敬称略)2007・07・31  (再掲)

2011年09月03日

◆幅広く人材起用 布陣固まる

渡部 亮次郎

野田信内閣は「ノーサイド」宣言どおり、党内から広く人材を集めた結果、安定した布陣となり、案外「長命」を予想される。菅と逆のことをやれば、国民は納得するのだから楽だ。

党内は早くも「ポスト野田」を狙い、当面、来年秋の党代表選挙に向けて「派閥化」を進めながら抗争を強めようとするだろうが、野田首相としては信じるところを愚直に進めば、道は開ける。

その時は向かってくるのは小沢氏かもしれないが、恐れることは無い。

<野田佳彦新首相(民主党代表)(54)は2日午前、新内閣の布陣を決めた。外相に玄葉光一郎国家戦略担当相(47)、財務相に安住淳前国対委員長(49)を起用した。

午後に天皇陛下による任命式に臨み、第95代首相に就任、閣僚の認証式を経て新内閣が正式に発足する。新首相が代表就任時に「ノーサイド」と宣言したように小沢一郎元代表のグループを含め党内から幅広く人材を起用した。

総務相兼沖縄・北方担当相に川端達夫衆院議院運営委員長(66)、経済産業相に鉢呂吉雄元国対委員長(63)、法相に平岡秀夫内閣府副大臣(57)、厚生労働相に小宮山洋子厚労副大臣(62)が起用された。

また、一川保夫参院議員(69)が防衛相、古川元久元官房副長官(45)が国家戦略・経済財政担当相、山岡賢次前副代表(66)が国家公安委員長・拉致担当相、中川正春元文科副大臣(61)が文部科学相、前田武志参院予算委員長(73)が国土交通相としてそれぞれ初入閣した。

行政刷新・公務員制度改革担当相には蓮舫元行政刷新担当相(42)が返り咲いた。

代表選を戦った鹿野道彦農水相(69)、平野達男震災復興担当相(57)は再任された。国民新党からは自見庄三郎金融・郵政改革担当相(65)を再任。細野豪志原発事故担当相(40)は再任の上、環境相も兼務する。

官房副長官には斎藤勁前国対委員長代理(66)、長浜博行参院議員(52)を起用。滝野欣弥官房副長官(事務)の後任には竹歳誠国土交通事務次官(61)の就任が決まった。

新首相は同日午前10時前、首相官邸入り。国民新党の亀井静香代表との会談後に組閣本部を設置し、入閣内定者を次々に官邸に呼び込んだ。官房長官に決まった藤村修氏(61)が午前10時50分から記者会見を行い、閣僚名簿を発表した。

新首相は2日夕、首相官邸で記者会見を行い、閣僚人事の狙いや政権運営の基本方針を説明する。その後、初閣議に臨み、各閣僚に基本方針を指示する予定となっている。

新首相は、財務相に岡田克也前幹事長(58)を充てる考えだったが、岡田氏が入閣を固辞したため断念した。
(産経ニュース2011.9.2 11:41)

2011年08月31日

◆小沢「派」で再結束

渡部 亮次郎


民主党代表選挙で又も負けた小沢氏は、かくてはならじと小沢「派」の結成に踏み切ることを表明した。じつは小沢氏支持のグループは3つも在り、鳩山G所属の海江田を担いで臨んだ今度の代表選挙でも1回目の投票で143票をまとめてトップとなった。

しかし決選投票では積み重ねに失敗、あえなく敗戦となった。つまりグループという結束力の弱い集まりでは「戦力」にはならないことを痛感させられたわけだ。

思えば嘗て角栄の下での田中派は、結束力の強さが戦闘力となった。嘗ての大平正芳幹事長対福田赳夫現職首相による「大福戦争」では、当初、大平は全く不利と見られていたが、カミソリ後藤田指揮による軍団の絨毯攻撃で、福田を総理の座から引きずり降ろすことに成功したものだ。

嘗て田中派にいてこれをつぶさに見た小沢氏は、「やはり派閥で無いと結束力に欠け、戦闘力にはならない」と今回、苦く振り返ったのだろう。

3つのグループを一つにまとめたうえに会長になって先頭に立つというのだから「軍団」の発足を思わせる。

小沢氏がこのように決意した事は、当面はともかく、来年の代表選挙をめざして刃を研ぎ始めたことを意味する。30日にめでたく首班に指名された野田氏、褌をきつく縛らないと、小沢氏によって嘗ての福田赳夫にされかねない。


<小沢氏が3グループを統合 会長就任へ 結束強化急ぐ

民主党の小沢一郎元代表は30日午前、衆院議員会館内で小沢グループの幹部約30人を集めた会合を開き、衆参で3つに分かれているグループを統合することを決めた。

近く発足する新グループは100人を超える規模の勢力となり、小沢氏が会長に就く見通しだ。

小沢氏は幹部会合で「私がグループをまとめて、今までにできなかったことをやる」と述べ、今後は自身が活動の前面に出ていく意向を示した。

代表選の敗北による求心力低下が背景にあり、小沢氏はグループの結束強化を急いでいる。

小沢グループは衆院当選1回生でつくる「北辰会」(約50人)、衆院の当選2〜4回生でつくる「一新会」(約40人)、参院小沢系(約20人)に分かれており、連携不足が指摘された。

会合には3グループに属さない原口一博前総務相、山岡賢次副代表、山田正彦元農水相も出席した。>
(産経ニュース 2011.8.30 13:01

◆本稿は、8月31日(水)刊「頂門の一針」2366号(渡部亮次郎主宰)に掲載
されました、下記「目次」に紹介する著名寄稿者の卓見を拝読ください。

◆ <目次>
・小鳩グループ依存の党役員人事:古澤 襄
・輿石氏の幹事長起用は信を失う:阿比留瑠比
・小沢「派」で再結束:渡部亮次郎
・金の暴騰は何かの予兆:宮崎正弘
・英国の暴動から何を学ぶ?:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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