2010年10月21日

◆取られた金箔ライター

渡部亮次郎(元NHK政治記者 元外相・厚相秘書官)
「中国の人たちはチップとしての金品は絶対受け取りませんからくれぐれも注意してください)と日本外務省報道課の担当官からの注意。

だが、北京に着いたら某社の記者がバスの運転手に金メッキのライターを見せた。運転手、きょろきょろ、辺りを見回した後、すばやくポケットに入れた。冗談だった、あんたを試したんだよ、返してくれ、とはいえない。数万円の損害だった。1972年9月末、田中訪中同行記者団の失敗談である。

あれが「日中友好」の始まりであり、我々が徹底的な内政干渉を受けることになる「屈辱」の始まりであった。

当時、私は36歳。所謂「角福戦争」で福田赳夫陣営の取材を担当した後、総理官邸入りした角栄番として官邸記者クラブに所属替えになった。妙な人事だった。

角福戦争は、今では莫大な金銭の絡んだ自民党総裁選挙として記録されているが、本質的には共産中国との国交の是非を問う争いで、同時に立候補した三木武夫、大平正芳氏と中曽根康弘は国交再開促進で角栄と協定していた。だから田中は勝利した途端、北京行きの準備にとりかかった。

 私は積極派に組みしたくない心境だったが、NHKの官邸サブキャップであってみれば、当然の如く総理同行となった。しかも記者団機ではなく、テレビ代表に資格で総理機への同乗を許可された。

 かくて九月二十五日、北京に着いたところで起きたのがライター事件。「こりゃ建前と本音は違うぞ」との認識は芽生えたものの、彼らを統率する共産党が自ら「友好」を掲げながら、これ程嘘を言い、これ程内政干渉をしてくるとは思わなかった。

上海空港まで見送りにきた周恩来総理が「天皇に宜しく」とまで田中に言ったのだもの、単純な日本人は「日中友好」に酔ってしまったのがいけなかった。

六年後、今度は外務大臣秘書官に発令されて日中平和友好条約の締結交渉に当った。今から考えれば、毛沢東の死後、権力奪回に成功したケ小平は、早くから経済の改革開放を構想し、そのためには日本の資金と技術に依存する以外に途は無いと覚悟していた。

日本は急ぐことは無かったのだ。それなのに条約の締結がソ連(当時)の妨害工作で遷延していたものだから、福田総理が助平心を起こして早期締結に走る外相園田を敢えて止めなかった。すべては後の祭りだが、園田こそは「黒衣」を早くに放ってケ周辺の動きを掌握していたのだから、情報を独占せず、格別慎重に対処すべきだった。

但し、日中平和友好条約の締結は、日中国交回復のための日中共同宣言で田中首相が確約したもので、福田内閣は、それを引き継いだもの。田中内閣が倒れた後を引き継いだ三木内閣では、外務大臣宮澤喜一の努力空しく締結できなかった。

なんとなく政界では「日中平和友好条約の締結」が至上命題の雰囲気だった。例によって新聞、テレビがそれを煽っていたことも手伝った。

そこへ登場した園田外務大臣は、内閣改造に当って福田首相により官房長官を更迭されての横滑りだった。福田の親分筋たる岸元首相が自らの女婿である安倍晋太郎を官房長官に据えろ途の強引な要求をもだし難かった。

しかし、園田こそは福田政権成立の功労者。怒らせてはいけない。福田としては窮余の一策で、外交では素人であるはずの園田に外相という「破格」のポストを与えて「慰留」した心算だった。

ところが園田は外交については「素人」ではなかった。鳩山一郎内閣で重光外相の下で政務次官を勤めたことがあった。外務省の新庁舎建設の推進を殆ど大臣を煩わせずに完成した。人脈も残っていた。それなりに自負は持っていた。

その最大のものは復活したトウ小平に関する個人情報だった。外務省の出先たる在北京大使館はこの情報を全く得ていなかった。それを園田は旧知のリョウ・ショウシ周辺から得ていた。

中国側に大変化あり。条約締結を中国側が急いでいる。それを知っていたのはあの時点では園田だけだった。だから東京のマスメディアは的外れに「外相突出」と揶揄したのである。こうした事はいずれ詳しく書き残したい。

(文中敬称略)2010・10・20

2010年10月19日

◆日本にもあった徴兵制

渡部 亮次郎

夜のプラットホーム 作詩 奥野椰子夫 作曲 服部良一
昭和22年 
1 星はままたき 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホームの 別れのベルよ
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

これが徴兵制度の実態である。歌は戦時中に作られた。新婚の夫は帰還しないかも知れない。東京・新橋駅の柱の陰で泣き崩れる新妻を見て新聞記者奥野椰子夫が詩を綴った。当然発売禁止になった。

仕方なし、戦後の昭和22年に二葉あき子の歌でヒットした。戦後になってみると、出かける夫は「旅」に行く風情。だが本当の意味は「死出の旅」だったのだ。それを考えると私はこの歌を歌えない。

日本では1873(明治6年)年に国民皆兵を目指す徴兵令が出され、のち兵役法となった。大日本帝国憲法では兵役の義務が盛り込まれた。当初は、免役率が80%と高く、肉体的に頑強な男性の中から、籤引きでごく僅かのみ徴兵されていた。

しかし、不公平感から全国で徴兵反対運動が起こり、そのため徴兵制度は大改正され1889(明治22)年には法制度上、男性に対して国民皆兵が義務付けられた。

実際に徴兵される男性が増加して行き、大東亞戦争末期には、700万人以上も根こそぎ徴兵された。敗れた1945(昭和20)年に廃止された。

日本の徴兵制度は戸籍制度を前提にしており、明治6年1月10日法では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。

だから渡部家では日露戦争(明治37ー38)に次男の慶蔵が応召した。

戸籍法の適用を受ける日本国民の男性は、満20歳(1943年からは19歳)の時に受ける徴兵検査によって身体能力別に甲-乙-丙-丁-戊の5種類に分けられた。

甲が最も健康に優れ体格が標準である甲種合格とされ、ついで乙種合格、丙種合格の順である。丁は徴兵に不適格な身体である場合、戊は病気療養中に付き翌年に再検査という意味である。

大東亜戦争(1941―45年)では、甲から順次徴兵されて行った。当初、一番体格が標準的である甲種の国民が抽選で選ばれた場合に「現役兵」として徴兵されるにとどまっていた。

具体的にはおおよそ10人に1人から4人に1人程度であり、これらの兵士が正規の訓練を受け、終えた兵であった。

しかし、戦局が激化するにつれ、現役兵としての期間を終えた後の予備役・後備役にあった(元の生活に戻っていた)元兵士の国民も召集令状によって召集された(徴兵は増え、大戦末期の昭和20年には徴集率は9割を超えた)。

この召集令状(召集時に来る命令書)は用紙の色が赤いので(実際はピンク)、「赤紙」と広く国民に呼ばれた。

通常、現役での徴兵を「徴集」、予備役・後備役での徴兵を「召集」と呼んで区別していた(混乱期には区別せずに「徴集」を用いることもあった)。

この召集制度が悪用された例として竹槍事件がある。真珠湾攻撃による日米開戦時の首相であった東条英機は、戦争遂行の為に「東条幕府」と揶揄される程の独裁的政治を行った事で様々な問題や軋轢を生んでいた。

また、軍務や政務に私情を持ち込む傾向があり、反対意見に耳を塞いだのみならず、個人的に嫌いな人物や敵対者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをした。

東条が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。

そうした中、1944年2月23日の毎日新聞朝刊に『竹槍では勝てない、飛行機だ』と新名丈夫記者(当時37歳)が執筆した記事が掲載された。

新名の記事は「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」という意味の記事で、陸軍の本土決戦構想に反対する海軍の指導によって書かれた。

この記事に対し、東条は自分に批判的な記事を書いた新名を二等兵として召集し、激戦地となることが予想される硫黄島へ送ろうとした。

これに対し、新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であったことから、海軍が召集に抗議した。そのため、新名は海軍の庇護により連隊内で特別待遇を受けて3ヵ月で召集解除になった。

その後、東条の意志で陸軍が新名を再召集しようとしたが、海軍が先に徴用令を出し新名を救った。

召集令状が届けられた人は「出征兵士を送る歌」などが流れる中、家族・地区(隣組など)を挙げて送り出された。

さらに、大東亜戦争末期になると、兵力不足が顕著になり、文科系学生への徴兵(学徒出陣)や熟練工、植民地人の徴兵が行われた。

戦後は陸海軍省の解体にともない軍そのものは消滅し、徴兵制度の根拠となる兵役法は昭和20年11月17日に廃止された。

その後警察予備隊(後の自衛隊)が発足したものの、憲法9条などに見られる国民の軍隊アレルギーから徴兵制は見送られ、志願制が採用された。

現在の自衛隊は完全志願兵制を採用している。 一部の保守系の政治家の中に徴兵制復活の意見も存在しないわけではない。

だが、仮にそれを政策として実行しようとした場合、世論の批判や選挙への影響が懸念されるという政治的なリスクもあり、政治家の個人的見解として述べられることはあっても、実際の政策課題として国会などで議論されることはない。

なお、戦時中でも徴兵拒否者はいたとされ、俳優の伴淳三郎は召集令状は受け取っていたのだが、徴兵検査にはきれいに化粧、女装をして出かけていき、その格好を見た検査官が激怒、検査場から追い出され、検査直前に醤油を大量に(一升瓶1本分)飲み、「肝臓病」を装って徴兵を逃れている(一時的に同一症状が出せる)。

他にも灯台社の明石順三による徴兵拒否が有名。
出典:「ウィキペディア」2008・05・05

◆本稿は、10月19日(火)刊の「頂門の一針」2070号に
掲載されました。著名寄稿者の卓見も拝読下さい!

◆<2070号目次>
・日本にもあった徴兵制:渡部亮次郎
・脱仙谷カードを切る必要が:古澤 襄
・畏友、「柳腰さん」との対話:阿比留瑠比
・「反日」に名を借りた反政府暴動:宮崎正弘
・対中国抗議デモ報道規制のあきれた末路:泉 幸男
・還暦ヂイヂの憂鬱:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
◆拝読の方は、下記のホームページで手続きして下さい。(購読無料)
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2010年10月18日

◆収監される鈴木宗男氏

渡部 亮次郎

<鈴木議員の実刑確定へ=無罪主張の上告棄却―受託収賄など4事件・最高裁>時事通信 9月8日(水)13時47分配信

鈴木氏と私は鈴木善幸内閣で大臣秘書官仲間だった。私は外務大臣秘書官を3年もやった中で政治家がつくづく嫌いになって政界から逃れたが、鈴木氏は中川一郎農林大臣秘書官から政界入りを目指し、様々な波風を立てた末に衆院議員になった。

田中角栄氏の下に草鞋を脱ぎ、政治資金の収集ではいつも強引な手法が噂されたものだ。私より12歳も年下だが、その度胸たるや大したものと感心する場面が多かった。

私は政治家になる為の秘書官ではなかったが、鈴木氏ははじめから決意していたらしく。中川氏の制止を振り切って政界入りした。しかし、肩書きをもがれ、なおかつ収監される将来までは見通せなかっただろう。

<受託収賄、あっせん収賄など4つの罪に問われた衆院議員鈴木宗男被告(62)の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は7日付で、被告側上告を棄却する決定をした。懲役2年、追徴金1100万円の実刑とした一、二審判決が確定する。

鈴木被告は確定後、収監される。公選法などの規定により、確定すれば失職し、懲役刑の執行後5年間は立候補できなくなる。

鈴木被告は、政治資金規正法違反罪と議院証言法違反罪を含め、一貫して全面無罪を主張していた。

2004年の一審東京地裁判決は、すべての事件を有罪と認定した上で、「高度の廉潔性を求められる要職にありながら国民の信頼を裏切った」と非難。「反省は皆無で、虚偽の陳述をしてはばからない被告に刑を猶予するのは相当ではない」として、実刑を言い渡した。

二審東京高裁も08年、「行政に不当な影響を及ぼし、社会の信頼を害した」として、一審を支持していた。鈴木被告をめぐる一連の事件では、佐藤優外務省元主任分析官(50)ら12人が起訴され、鈴木被告を除く11人の有罪が確定している。

判決によると、鈴木被告は北海道開発庁長官、官房副長官だった1997〜98年、林野庁への口利きの見返りなどとして、2社から1100万円のわいろを受領するなどした。>(時事)

<1997年9月に北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官として初入閣。1998年6月には現職閣僚として初めて国後、択捉両島を訪問した。

2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中真紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として数々の疑惑が浮上。

2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党の辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど疑惑の総合商社なんですよ!」と批判を受けた。

3月15日、自民党を離党。6月19日、やまりん事件であっせん収賄容疑で衆議院本会議で逮捕許諾決議が可決されて逮捕される。6月21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決された。

7月20日に斡旋収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で起訴。政治資金規正法違反の罪でも起訴された。

2003年9月、衆議院選挙の直前に保釈。その後衆議院本会議に出席。議員辞職勧告決議がされた国会議員が決議を無視して登院したのは初めてのことであった。

2003年10月、胃癌を手術。 2004年の参議院選挙に北海道選挙区で無所属で出馬するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第1審で懲役2年、追徴金1,100万円の実刑判決が下された。

2008年2月26日に東京高等裁判所においても、控訴棄却となり、即日最高裁判所に対し上告した。

2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成し代表に就任。9月の第44回衆議院議員総選挙に北海道ブロックでの比例1位候補として立候補して当選、衆議院議員復帰を果たした。>
(「ウィキペディア」)2010・9・8

◆本稿は、10月18日(月)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2069号に掲載されています。

◆<目次>
・収監される鈴木宗男氏:渡部亮次郎
・資料が語る「尖閣は固有の領土」:平松茂雄
・中国国家ファンドの脅威:古森義久
・中国依存というリスク:平井修一
・海外勤務が敬遠される:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年10月16日

◆規制されている中国報道

渡部 亮次郎

(再掲)中国に関する報道、特に中国特派員の報道について私のメメールマガジンにも苦情が寄せられる。政治問題を取り上げないとか、情報が遅いなどと言ったことである。

しかし、結論を言えば、中国とは共産党政権であって、基本的には報道の自由の無い国であることを忘れての「苦情」が多い。しかも1974(昭和49)年1月5日に交わされた「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)に「拘束」されていることを一般の人は知らない。

この覚書をたてにこれまで何人もの特派員が強制退去を命じられている。1968(昭和43)年6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に亘って拘留された(鮫島事件)。

1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。

1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。

このように、「中国共産党に都合の悪い記事」を書くことは、事実上不可能となっている。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。

こうして追放されたり、睨まれた記者には中国は2度と入国ビザを発給しない。つまり「中国語」を売り物に入社したこの記者は、中国に睨まれたことが致命傷となって社内でも失業状態に追い込まれる。こんな危険を冒す者は変わり者以外に無い。

しかしこの覚書は日本側のいわばフライングが招いた「身から出た錆」なのである。国交正常化以前に中国特派員送り込み競争を演じる日本マスコミ界の足元を見た中国が、取材制限のハードルを高くした。それなのにマスコミ各社はそれを唯々諾々と呑んだのだ。

<紆余曲折を経て、1962(昭和37)年には、日本と中華人民共和国との間で「日中総合貿易に関する覚書」が交わされ、経済交流(いわゆるLT貿易)が行われるようになった。

1964(昭和39)年9月には、このLT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることとなった>。「ウィキペディア」)

ところが、この協定には重大な「毒」が入っていた。

 (1)日本政府は中国を敵視してはならないこと。

 (2)米国追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しないこと。

 (3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないこと。

中華人民共和国政府の外務省報道局は、各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に牴触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。

記者交換協定の改定に先立つ1967(昭和42)年には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。

この「協定」から現行の「覚書」まで約束の細かいところ、たとえば滞在記者の人数などはこれまで何回も改訂されているが、三項目は絶対条件になっている。

その後、外務大臣秘書官となった私は、それ以前は政治記者だったこともあって協定に格別な関心を持って中国側に対応したが、中国は基本的にマスコミを「敵」とみなしており、外国人記者は反革命分子としか認めておらず、取材の自由を与える事は国家的な危険を冒すことだと考えている。

余談だが、1972(昭和47)年9月、日中国交正常化交渉の為、日本の総理大臣として始めた北京を訪問した田中角栄首相。私も記者として同行したが、中国は日本人記者団を近距離記者と遠距離記者に分断。カメラマンは望遠レンズの使用を禁止された。中に銃を隠せるからが理由だった。

こうした中国の態度に日本のマスコミ各社は手を焼いているが、だからと言って妙手があるわけじゃなく、泣き寝入りが現状だ。中国報道が中途半端だったり、隔靴掻痒の感がする理由の一端を紹介した。マスコミはいちいち、こんな説明をしないだけ。

中国の裏情報に接する方法としては「大紀元」があるが、例えばこれを新聞社が転載しても何らかの報復措置を覚悟しなければならない。宮崎正弘さんのように、観光客として訪問した見聞とか、英字紙から中国情報を拾い出すのが安全といえるだろう。2010・6・30

◆本稿は10月16日(土)刊・全国版メルマガ「頂門の一針」2067号に
掲載されています。他の特筆卓見もご拝読下さい!

◆<目次>
・規制されている中国報道:渡部亮次郎
・尖閣事件は日本国への重大なテストだった:古森義久
・仙谷氏が産経新聞に果たし状:古澤 襄
・レアアース問題 困るのは中国だ:宮崎正弘
・中国は恐くない、日本は資源大国だ:櫻井よしこ
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
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2010年10月12日

◆民族力の低下

渡部亮次郎

<いまどきの政治家の資質が気になっていたところに、驚きいったことが起きていた。蓮舫行政刷新担当相が、国会内で「議員活動のため」という偽りの許可条件で、8月中旬にファッション雑誌のために撮影に応じていたというのだ。

西岡武夫参院議長から不適切のお小言をいただいたのは当然だが、その後の記者会見での言訳がすこぶる振るっている。「撮影場所が不適切であるとか懸念を抱かせてしまったとしたら率直におわび申し上げる」、

「国会議員はさまざまな手段で情報を発信しているが、その一つの手段として雑誌の取材に応えることは大切だ」、「(参院議長から7日に口頭で注意されたことは)個人的な立場で、心配をされているという先輩議員としてのアドバイスをいただいた」というものだ。

何処がどうだと言うまでもなく、まさに女々しくタチのよくない言い訳である。政治家になって6年、はやくもメディアのちやほやと選挙の大量得票の所為か性根の腐りぶりはなかなか堂に入っている。

そこにもう一人同類がいた。自民党の片山さつき参議院議員である。片山議員は8日の代表質問で蓮舫行政刷新担当相の国会内のファッション雑誌撮影問題を取り上げて非難したが、なんと自分自身も3年前に同じ過誤を犯していたというのだ。まさに眼くそ鼻くその話である。

そして記者団に追及されて「自分は大臣じゃなかった。」「あんな高い服じゃなかった。」と言訳にならない言訳で逃げを打とうとしたという。遣ることも言訳もともにお粗末そのものの同類である。

両名に、それぞれ所属党派の党首、幹事長からの注意措置が執られた話はない。蓮舫行政刷新担当相の場合は閣僚でもある。議会内での職務に無関係な雑誌写真の撮影は些事に見えるかもしれないが、物事のケジメに反する。

政治は物事のケジメから始まる。物事のケジメがまるで判らない議員には物事のケジメが付けられない党首脳が似合いかもしれないが、このような手合いが日本を迷走させ破綻させようとしているというのは大袈裟な話でない。>(品川 阿生居士)


<蓮舫さんのヴォーグの雑誌はごらんになりましたか。
http://www.vogue.co.jp/fashion/news/2010-09/24/renhou

そこにリンクのあるブログもごらんになるといいと思います。
蓮舫さんが写っている背景にあるのは、国会議員さえも使わない中央階段、その先には天皇や皇族の御休所ですよね。ちょっとこれはまずいんじゃないかと、ロケハンの段階、当日の撮影で本人を含めどなたか思わなかったんでしょうか。

日本には批判されるほどたくさんの国会議員がいて、国会内で撮られたと思われる写真が日々ブログにアップされていたりしますが、こんな構図をアップする人を見たことがないです。みんな遠慮するものなのかなと理解しています。

蓮舫さんといえば、北京留学時に、教授と「台湾は国だ」という議論をして、そのことを教授にわからせたなどという自慢話をネットに紹介していたと思うんですが、ネットからは今は姿が消されていますね。>(T・M)

菅直人は一度として秩序ある組織を経験しておらず、組織の長になることは言うに及ばず、総理大臣とは如何なる責務を負うかも解っていない。

先ずは彼は如何に責められようと詰問されようと、小澤一郎の処分は「ご自身でお考えになること」であり、「国会で審議されるべきこと」しか、仏頂面で言うことしかできない国家と与党のリーダーである。岡田を幹事長にしたのはその仕事を担当させるためだという評論家の解説には迫力がある。

<菅は会社に喩えれば社長でありCEOである。それが元は上司であった部下(小沢)の不始末、それも起訴までされる性質である、をどう処分するかも判断出来ず、差詰め人事部にお任せしようという程度の器である。無責任以下の対応ではないか。>(前田正晶)

<時津風親方、NHK記者からのメール受信認める
NHKの記者が警視庁の捜査情報を漏らしていた問題で、この記者から捜査情報に関するメールを受け取ったとされる時津風親方(36)=元幕内時津海=は9日午前、東京都墨田区内で報道関係者の取材に応じ、メールを受け取ったことを認めた。

ただ、「返信はしていないし、何もしていない」と、メールでの情報をもとに警視庁の家宅捜索に備え、証拠になりそうな物を隠すなどの行為はしなかったと述べた。

親方によると、NHK記者からのメール受信に気づいたのは、警視庁が賭博問題で関係先を捜索した当日の7月7日朝。ただし、返信などはせず、弟子たちの指導にあたるため、そのまま部屋のけいこ場に入ったという。

親方は、メール受信に気づいた時のことについて「特に何も考えなかった」と説明。「(日本相撲協会からは)まだ何も言われていないが、聞かれたらきちんと説明する」と話した。>
(Asahi Com 2010年10月9日11時56分)

<証拠改ざん>「皆に認められたかった」前田検事が動機供述

郵便不正事件に絡む証拠隠滅容疑で逮捕された大阪地検特捜部の主任検事、前田恒彦容疑者(43)が、動機について「皆に認めてもらいたかった」という趣旨の供述をしていることが分かった。

最高検は、検察内部で証拠の矛盾を指摘されて自身の評価が下がることを恐れた前田検事が事件の構図に合わない証拠品のデータを改ざんしたとみている模様だ。

前田検事は、証拠品のフロッピーディスク(FD)内に記録された偽証明書のデータの最終更新日時を「04年6月1日」から検察側の構図に合う「04年6月8日」に改ざんした疑いで逮捕された。

関係者によると、前田検事が官僚絡みの事件で主任を務めたのは初めてだったといい、調べに対し「主任検事として事件をまとめなければならないプレッシャーを感じていた」という趣旨の説明もしているという。

事件の動機についてはこれまで「不利な証拠を消したかった」と供述していたことが判明。改ざんしたFDを「手元に置いておきたくなかった」として、所有者の厚生労働省元係長、上村勉被告(41)側に返却し「検察に有利な証拠を被告側が申請するとは思わなかった」と述べていることが分かっていた。

最高検は前田検事が改ざんしたFDを公判で証拠として利用しようとした可能性は低いと判断している模様だ。>
毎日新聞 10月9日(土)2時33分配信

いずれも私のメルマガ「頂門の一針」2010年10月10日号に掲載した記事である。たった1日でこれほどの「お粗末」が朝野で繰り広げられているのである。

蓮舫の言動が一番悲惨である。国会議事堂を訪問された天皇陛下のお休みの間近くでファッション雑誌に載せる自分の写真を撮らせるなどと言う事は、国民の一人の行為としても許されることではないぐらい分からないのだろうか。帰化を許可すべきではなかった。
本当の大和民族ではないから、似たようなことをまたやるだろう。

主任検事、前田恒彦容疑者(43)が、動機について「皆に認めてもらいたかった」という趣旨の供述をしていることが分かったというのも情けない話だ。これじゃ並みのサラリーマンと変わるところがない。

出世のために証拠物件を改竄することが如何に重大な罪かを判っていない。大学や司法試験でもカンニングを盛んにやっていたのではないか。検事以前に、人間として落第だ。せめて今のうちにバレて良かった。それにしても他にもおかしなのが法律の世界には居るんじゃないかと思わせたのは功績?。

国民を守ることをせず、中国に阿る総理大臣。ネタを犯人?のもらす記者。いずれも昭和生まれ、それも敗戦後、日教組教育に染められた年代の男女である。

飛躍するように感じるかもしれないが、これは1945年8月15日の敗戦とともにやってきたアメリカからの占領軍が目指した大和民族腰抜け政策の完了を意味するのだ。大和民族の「民族力」が低下したのだ。元へ戻すには何百年も掛かるだろう。2010・10・9


2010年10月09日

◆「尖閣」から遁走の売国政権

渡部亮次郎

<尖閣ビデオは非公開、「日中」再悪化を懸念

政府・与党は7日、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件の様子を海上保安庁が撮影したビデオについて、公開に応じない方針を固めた。

公開すれば日中両国で相互批判が再燃し、4日の日中首脳会談を機に改善の兆しが出てきた日中関係が再び悪化しかねないとの判断からだ。

国会がビデオ提出を求める議決をした場合などは、予算委員会など関連委員会の「秘密会」への提出とし、限定的な開示にとどめたい考えだ。

衆院予算委員会は7日開いた理事懇談会に法務省の小川敏夫法務副大臣らを呼び、ビデオの扱いについて協議した。法務省側は「中国人船長を起訴するか否かの結論が出ていない段階で、捜査資料を出したケースは今までない」と説明し、現時点での国会提出に難色を示した。与党側も慎重な姿勢を示した。>
読売新聞 10月8日(金)5時14分配信

この答弁からして反日だ。あわてて釈放した船長を起訴する自信もハラも無いくせに「起訴するか否かの結論が出ていない段階で、捜査資料を出したケースは今までない」とは誤魔化しもいい加減にしろ、だ。

今度の尖閣問題について菅首相には国家的見地にたった戦略がまるでない。背負っているのが日本という国家の運命であり、その誇りであるという責任感がまるでない。

7日、偶然、取材できたところによると、最初、菅首相の訪米中、仙谷官房長官は、困り抜いた挙句、民間人の手づるで元中国政府高官に接触。

そのルートで、ASEM会場での「偶然」の温首相との会談設営に成功した。これが「改善の兆し」なんだそうだ。

その結果、菅首相と仙谷官房長官は「これ以上もめさせない」で一致。問題のヴィデオの非公開の方針を決めたしまった。言うなれば「尖閣」を手放す結果を招くかも知れないが、菅政権維持のためには、日中関係を穏便に保つこと、止む無しと決めたのである。

これは明らかな「売国行為」である。或いは「偶然」会談をセットした「根回し」の際、ここまで約束させられた疑いも濃厚だ。「今は書かないで欲しい」というのが、7日取材の中国側の態度だったことからの推測だ。

尖閣諸島が日本固有の領土、東シナ海に領土問題が存在しない事は様々な資料からも歴然たる事実である。たとえばジャーナリストの水間政憲氏が「週刊ポスト」(10月15日号)で明らかにした1960年4月に北京市地図出版社発行の「世界地図集」では尖閣諸島は日本の領土として日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されている。

水間氏によれば、その12年後の1972年発行の同じ北京市地図出版社の地図ではいきなり自国領として「釣魚島」「赤尾嶼)とか書き変えてある。

更に驚くべき事に中国は「清」時代の地図の改竄まで行なっているのだ。「目的のためには、どんな手段も正当化してしまうのだ」(水間氏)。

1960年4月に北京市地図出版社発行の「世界地図集」は日本外務省中国課が現在も所蔵しているはず。それなのに、中国と対等に向き合うのが厭だとばかり、遁走した菅首相。さっさと総辞職すべきだ。

私は中国人にされたくない。2010・10・8

◆本稿は、10月9日(土)刊・全国版メルマガ「頂門の一針」2060号に
掲載されました。他の寄稿卓見をご高覧ください。
◆<同号目次>
・「尖閣」から遁走の売国政権:渡部亮次郎
・尖閣衝突は江沢民派・軍閥の謀略の可能性:宮崎正弘
・百年ぶりに入れ代わった日本と中国 韓国紙評:古澤 襄
・オバマ外交の欠陥が指摘された:古森義久
・調理人の過酷な世界:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年10月07日

◆気高い「きだかい」

渡部 亮次郎

2007年12月19日NHK正午のニュースでアナウンサーが気高い(けだかい)と読むべきを「きだかい」と読んだと呆れて電話があった。記者の先輩だった人からである。

気高いがなぜ「きだかい」になったのか理由は調べようがない。深夜便に出るようになった男のアナウンサーは股引(ももひき)を「またひき」と読んだことがある。

私がNHK国際局でデスクをしていた時、女子アナウンサーは民社党の春日「はるひ」委員長と読み、内科、外科(がいか)と読んでこっちを仰天させた。

アナウンサーとは難しい商売である。間違って覚えてしまっている言葉もあるかもしれないが、つい咄嗟に口を出てしまう誤りがあっても、聴取者には言い訳が利かない。因果な職業であり、同情する。

しかし政治家の日本語誤用は許されない。額賀福志郎財務大臣(当時)の言語道断を「げんごどうだん」には呆れた。彼は早稲田大学を出て産経新聞の政治部記者だった。角栄番から茨城県議を経るという経歴豊富な教養人であるはずが、様にならない。

論功行賞を「ろんこうぎょうしょう」と連発した大臣がいた。なんとかコンチェルンの一族だったが、どの学校で何を習ったのか、早くに死んだから恥を長く曝さないで済んだと言うべか。

自民党のある国対委員長は「がっぽうてきてだん」をとって野党の議事妨害を排除するという。記者団はみんな首を捻ったが、長老があとで「合法的手段」と助けてくれた。

それ以前には本会議場(全議員が一堂に会する会議)での演説で「ここで水を飲む」とト書(とがき)まで読んでしまった代議士がいたそうだし、追加更正予算を「おいかさらまさよさん」といった代議士もいたそうだ。

以後は学歴も向上したからこうした話題は少なくなったが、額賀氏の「げんごどうだん」は久々の事だったので言語道断の日本語と話題になったわけだった。

しかしわが大臣も旗幟鮮明を「きしょく」鮮明というものだからさぞかし外務省は陰で笑った事だろう。私も注意する勇気はなかった。殺陣(たて)をさつじんとも言った。

こういう話題は探せばいくらでもあるはずだ。しかも今は学歴は高いが勉強は全くせずに社会に出てくる子供が益々多くなっていることだから「きだかい」は序の口かと思う。多分「じょのくち」は分からないだろう。2007・12・21

追記:最近では国連で、菅首相が「疾病(しっぺい)」を「しつびょう」と読んだ。
2010・10・5

◆本稿は10月7日(木)刊の「頂門の一針」2058号に
掲載されています。

◆<同号目次>
・気高い「きだかい」:渡部亮次郎
・国防省創設を:MoMotarou
・中国監視船、尖閣沖を離れる:古澤 襄
・不埒なマスメディアを糾弾する:東郷勇策
・電車内読書と居丈高な女たち:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年10月03日

◆尖閣、海洋権益の確保が狙い

渡部亮次郎

今から30年前、外務省で大臣秘書官だった頃、アメリカ局安保課の事務官だった岡本行夫さんが書いている。(「人界観望楼」10月1日付産経新聞)。

尖閣諸島に攻め込んできた中国の最終的な目的はエネルギーの確保に留まらず、南シナ海、東シナ海、さらには日本の正面の太平洋での海洋権益の確保にある、というのである。

したがって今後、中国は古森義久さん(ワシントン駐在産経記者)が指摘する如く @軍の存在の顕示 A空からの偵察 B潜水艦の巡航 C水上艦艇など中国はまさに多種多様な方法でアジアの海を舞台に日本に対しても領有権紛争、主権紛争を挑んでいるのである。

菅認知症内閣は、当然ながら以上のような「認識」が無い。相手は「布告なき」宣戦を挑んでいるのに未だに「冷静な話し合い」しか考えられない。事態は毛沢東が言った流血なき戦争(外交)を通り過ぎて流血を伴う外交(戦争)の段階に突入しているのに。

産経の世論調査によれば菅よたよた内閣が唯一の拠り所とする支持率は今回の腑抜けを批判し、一挙に15ポイント以上下落したそうだ。

戦略を持たぬ内閣だ。支持率の更なる低下を恐れれば、フジタの人質のことを考えすぎて、巡視船にぶつかってきた中国船の証拠ビデオの公開をもたもたと躊躇うであろう。

躊躇いは「善意」と考えるから、当然中国は「譲歩」し、人質を解放すると考える。しかし逆だ。日本の足許(あしもと)を見て更なる攻撃に出てきて、おたおた内閣は仰天することになる。

壮大な狙いからして中国当局の目は既に尖閣や人質から先のほうに移っているはず。なにしろ尖閣諸島に攻め込んできた中国の最終的な目的はエネルギーの確保に留まらず、南シナ海、東シナ海、さらには日本の正面の太平洋での海洋権益の確保にある、というのだから、作戦は広く綿密に練られている。

共産党内部の権力闘争の中で、担当者はそれこそ命がけで作戦を練っている。だが、菅内閣は世論調査の数字と戯れて向こう受けばかりを狙っている。民放のディレクターが単騎で政権を担当しているみたいだ。笑えぬ喜劇と言うしかない。

<問題の構図は、尖閣だけを見ても分からない。中国の狙いは、南シナ海、東シナ海、さらには日本の正面の太平洋での海洋権益の確保にある。

中国は1992年に「領海法」を制定し、尖閣諸島を中国領土に編入した。深刻なことは、尖閣が台湾や南シナ海諸島とともに、同じ法律の同じ条項で中国領土に編入されたことだ。

当時、日本政府はこれに対してごく形式的に抗議しただけだ。中国は最初から日本の足元を見ている。仮にも中国が(歴史的に中国人が上陸したこともない)尖閣を取れば、単に無人島が中国の手に渡るだけではな
い。

そこを基点に、12カイリの領海と200カイリの排他的経済水域が設定される。日本の安全保障と経済活動に甚大な影響が出る。

今回、中国がここまで強硬だった背景には、日米関係の弱体化をかぎとっていたせいもあろう。

かつてアーミテージ元国務副長官は、こう述べた。「米国が中国とエンゲージしていくためには、まず日本との関係を強化することが必要だ。

そこが強くないと中国は米国と日本の分断に力を注いで、米国とまともに向き合ってこない。

逆に米日関係が強固であれば、中国はあきらめて、初めて正面から米国と向き合ってくる」。日米同盟関係がきしんでいる今、中国はアーミテージの第一シナリオの対応をとってきた可能性がある。

(渡部註:今回鳩山前首相は「私だったらもっと中国と上手く話し合って解決できた」と発言したが、中国に付け込まれるほど日米関係を壊したのは鳩山だ。それなのに何を言うか。一昨日おいで!)

しかし中国にとっては誤算となった。クリントン国務長官とゲイツ国防長官が共に、「尖閣は日米安保条約の適用対象」と言明したからだ。中国にとってはヤブをつついて蛇を出したに等しい。中国が最も困るのは、米国との関係の悪化だ。尖閣を巡る日中の緊張のなかで、米国は明確な形で日米同盟の立場にたった。

いちばん重要なのは、日米関係の立て直しだ。尖閣で中国はそのことを教えてくれ、日本国民の安全保障意識も高めてくれた。この意図せざる中国の貢献には感謝と言うべきか。(岡本)>

2010年10月01日

◆国難を認知できぬ人々

渡部 亮次郎

尖閣諸島も北方領土問題は外交マターではない。相手は戦争だと考えている。中でも尖閣について中国は何が何でも領有しなければならない。国運が掛かっているからだ。

アメリカ政府が間違っているのは中国の将来についてである。中国が改革・開放の経済政策(資本主義)を進めていけば、やがて民主国家に変貌すると考えていることである。飛んでもない想像だ。

民主国家になればコキントウはじめ共産党のすべては不要になる。そうなっては困るから、現在の体制を守るしかない。だとすれば確保資源と版図を拡大し、経済成長を持続させなければならない。

だから石油を莫大に抱く尖閣諸島は、中国の願望にかかれば、何処の国の領有かにかかわらず中国のものなのである。訳知りは国連が海底に石油が埋蔵さていると発表してから急に領有を主張した、だから主張に合理性が無いとか非難しても「聞く耳持たず」。

国際ルールを無視と非難しても同様である。「だからなんだというのだ」なのだ。当に石原都知事指摘の如く「ヤクザの論理」なのである。

したがって尖閣の領有に関する限り、中国に「外交」は不要である。なんとしてでも尖閣を領有したいのだから、実にこれは「布告なき宣戦」に他ならない。

そのタイミングとして今が選ばれたのは国家意識の軽薄な民主党政権に交替したからに他ならない。日本列島は日本国民だけのものじゃないとか東シナ海を友愛の海にしたいなどとのたまう政権。安保の抑止力にも無知な連中が統治している今がチャンスと見たのである。

「冷静」な話し合いなど出来るはずは無い。まさに「盗人猛々しい」のだから菅内閣の対応は悉く過った。まして仙谷官房長官のように「多分、これでいいんだろうと。というよりも、中国側も理解してくれるだろうと、ある種、判断をしておったわけですが、やっぱり司法過程についての理解がまったくここまで異なるということについて、もう少しわれわれが習熟すべきだったのかなと思います」。なんて「一昨日おいで」だ。

まして中国側に対して敬語を多用すれば温和詞句なるなんて考えているとすれば噴飯物(ふんぱんもの)である。

重ねて言うがこれは既に戦争なのである。外交でも裁判でもない。戦争なのである。司法過程なんて何処の話だ。いい加減に目を覚ませ。

専守防衛と言ってきたのだから、尖閣に自衛艦を出すとか日米合同演習を展開するとか「防衛」を徹底せよ。

北の海では理不尽なドサクサ占領で北方領土から出て行かないロシアが占拠の既成事実化を更に推進するため大統領の視察を強行しようとしている。

また韓国も竹島領有で新しい行動にでてくるものと思われる。考えるまでも無く、これは「国難」である。民主党政権で政権交代したら国難が来た。民主党が国難を招き寄せた。

9月29日は田中角栄・周恩来両首相による日中国交正常化共同宣言の記念日だった。私はあの1972年のとき、NHKを代表して同行し北京に舞い降りた。

田中首相らを真夜中に呼びつけて毛沢東は言った。「喧嘩は済みましたか」と。平和は紛争の後にしか来ないことを諭したのである。

その6年後、今度は政府入りし、園田直外務大臣の秘書官として北京を訪れた。共同声明に基づき日中平和友好条約を締結する為だった。このときトウ小平は壮大な嘘を吐いた。「尖閣の問題は後世のの知恵に任せましょう」。

知恵どころか、後世はトウの敷いた経済の改革開放(資本主義)の為膨大なエネルギー資源の確保に苦慮し、尖閣の領有を暴力的に強行しようとしている。

これを国難と認知できないのが菅内閣である。閣内上げて国際認知症である。
2010・9・30


2010年09月30日

◆糖尿病だった明治天皇

渡部 亮次郎

わが国を近代国家として確立した明治天皇は、脚気は克服したが糖尿病についてはまだインスリンも発明されていなかったため、医師団もなすすべをしらず、明治45(1912)年7月30日、尿毒症を併発し61歳(満59歳)で崩御した。

大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。

同年(大正元)年9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。

なお『聖徳記念絵画館』は、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地に建てられたものである。

皇后陛下にお子はなかった。5人の側室に大正天皇をはじめ13人のお子ができた。

明治天皇は明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。

一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達を自分が考えたあだ名で呼んでいたという。

若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。

当時「江戸患い」と呼ばれていたビタミンB1欠乏症(脚気)に皇后とともに罹られたが、英国留学帰りの海軍軍艦医総監になる高木兼寛の意見を容れて食事療法で全快した。

このため、高木は4度も陪食を賜ったが「脚気黴菌説」を譲らぬ陸軍医総監森 林太郎(森鴎外)は1度も招かれなかった。

明治天皇はまた今で言う2型糖尿病も患っておられた。しかし国内では糖尿病の研究がさっぱり進んでいないことを残念がり 1911年(明治44)年2月11日、『勅語』によって、皇室よりの下付金150万円と朝野の寄付金を合わせて済生会が創設される。

天皇の意向により「恩賜」と「財団」は1行に書かずに、済生会よりも小さい文字で2行に組み文字にすることとなっている。

同年5月30日、「恩賜財團済生會」設立認可。

組織の運営は内務省が管理し、具体的な事業計画は地方自治体に委託する形式をとった。

1952年、社会福祉法人として認可。 現在は、厚生労働省が所轄している。

これでできたのが東京・港区赤羽橋にある済世会中央病院で、わが国糖尿病研究の中心施設である。

糖尿病の特効薬「インスリン」が発見されて一般化するのは1921(大正10)年。つまり明治天皇が糖尿病から来る腎不全による尿毒症で崩御してから10年後だった。

インスリンについては5人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger)。

1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)が、1977年にはロサリン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)がラジオイムノアッセイをインスリンで開発した事で、それぞれノーベル賞を受賞している。

1921(大正10)年にインスリンの分離に成功。1型糖尿病における薬物療法として、現在のところ唯一の治療法である。インスリンは蛋白質であるため、消化管内で速やかに分解されることから経口投与不可能である。そのため皮下注射によって投与するしかない。

ところで明治天皇は教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。

特に明治17(1884)年4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

その結果、明治19(1886)年6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。

奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を明治5年、自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。

明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。

一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。

無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14(1881)年の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になるあまり、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞であった)。

以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、重要刀剣の散逸が防がれることとなった。

写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。

ただ、最晩年の明治44年(1911年)、福岡県下広川村において軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。

戊辰戦争で新政府と戦った東北地方を、強く憎んでいたといわれる。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主に就任した輪王寺宮(北白川宮能久親王)を、台湾へ送り込んだ。北白川宮には現地での暗殺説が存在する。

明治天皇の内親王(天皇の娘)の長男である小林隆利(キリスト教の牧師)は母から聞いた話として、明治天皇が、「私が天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語ったと述べている。 2010・9・25 出典:「ウィキペディア」

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◆<目次>
         
・糖尿病だった明治天皇:渡部亮次郎
・世界で類例のない「3代世襲」:古澤 襄
・実は人民解放軍の海軍将校だ?!:古森義久
・一から三まで雇用:前田正晶
・「不揃いの葡萄たち」と松下政経塾:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年09月29日

◆有りすぎる集中力が災い

渡部 亮次郎

2010年9月25日朝、起きると腰に激痛が走り、一歩も歩けなくなった。昔やった「ぎっくり腰」と似ているが、違う。かねてカイロプラクティックで矯正を図っていた腰椎の後湾曲が酷くなったことによる筋肉痛と27日に分かり、治療で痛みは殆どなくなった。

この間、友人や多くの読者からお見舞や様々なご助言をいただきました。略儀ながら誌上にて御礼申し上げます。

こんなに早く回復するとは思っても見なかったから、メルマガ「頂門の一針」を当分休刊して、治療に専念する決意だった。酷かった今夏の猛暑に抗して散歩を強行した後遺症かもしれないとの考えがかすめたからである。

しかし、どうして急に回復したのか。NHK時代の同僚の体験に基づく助言に従って27日夜にうけた変わった治療が効いた(後述)。西洋医学にない療術だった。

いずれ27日は朝から大学病院で「ワーファリン」の効要状態を調べる内山真一郎教授の月例検診が予定されていた。検診で「OK」が出た後、家人がインターネットで見つけた腰痛の権威がこの大学にいらっしゃるというので受付で聞いたら「2年前に」定年退職されたとの事。

レントゲンで検査したら腰椎は後湾曲しているだけでなく右側湾曲も起こしており、これらが神経を痛めつけているものと、若い医師の診断。整形外科としては手術を勧めることになるとのことだった。

しかし腰痛の手術については「きわめて危険」との認識があるので、なんとか「だまし。だまし」して生涯を終える考えである。実は厚生大臣秘書官当時、国立病院に敵意を持つ25歳の青年が凶器を持って闖入してきた。

秘書官の私が捕らえて事情を訊くと当に「無理もない」話だった。

国立病院の整形外科で奨められて腰痛の手術を受けた。その結果、腰痛は治ったが、小便が止まらなくなり、勃起もしなくなった。

離婚された。整形外科に抗議したら、泌尿器科行きを指示された。

しかし泌尿器科では「ここは小便を出す科であって止める科ではない」とからかうように断られた。

最後の手段として最高責任者たる厚生大臣に談判に来た、というものだった。

腰痛の手術は危険を伴い、失敗は救えないのだ。今回も手術を奨める友人がメールを送ってきたが、手術は受けない決意である。

それにしても腰椎がこんなに曲がってしまったのは、有りすぎる集中力が災いしているのである。原稿執筆にしてもパソコン打ちにしても、夢中になってしまって、時を忘れて同じ姿勢を長時間続けてしまう結果なのである。

若い頃、政治評論のアルバイト原稿を書いていたが、書き始めると煙草を吸うのも、時間の進行も忘れてしまうのである。夜が明けてから徹夜してしまったことに初めて気づく始末だった(喫煙は止めて30年以上経つ)。

パソコン打ちについても同様。何かのきっかけで中断すると、文章の構想が崩れてしまい、先へ進めなくなってしまう。だから2時間でも3時間でも同じ姿勢で坐っていることになる。

この点をカイロプラクティックの先生は強調し、30分に一回は休み、姿勢を変えなさい、というのだが、治らないまま、今回の事態を招いてしまった。後悔、先に立たず、の通りではないか。

「こさか接骨院」では痛い腰は見もせず触りもしなかった。手と足を強く揉んだだけ。10分ぐらい。途端に痛みは完全に無くなり、翌日は散歩にも行けそうだったが、大雨だったので21階までの階段昇りを何の痛みも無く果たすことができた。健保が効いて1500円だった。

板橋区南町63-16「こさか接骨院」のホームページは以下の方針が載っていた。電話:03-3554-8030「こさか接骨院」とインターネットに打つと出てくる。

<板橋区大山のこさか接骨院は、器械に頼らない「手・足」を利用した手当てを中心としており、肩こり(肩凝り)、腰痛、打撲、脱臼、股関節痛、ひざ痛、頭痛、神経痛、むちうち、寝違い、骨盤のゆがみなどの痛みにお悩みの方を治療する接骨院です。

また、レントゲンやCTスキャン、MRI検査などをされてもなかなか治らない、痛みが取れないとお悩みの方はぜひとも一度ご来院頂き、ご相談ください。

施術の具体的な内容

原則的に患部をいじらず、手や足を操作することで、患者様のおけがや長年苦しまれていた痛みを取り除き、体の血行状態、免疫状態を改善致します。

皆様のお仕事、日常生活、スポーツなどへの早期復帰、体力維持や向上をぜひともお手伝いさせてください!

当院はただ治療を受けて頂くという形だけではなく、患者様参加型の治療を目的としておりますので、ご自宅や職場でも簡単に出来る治療やストレッチなどもご提案させて頂いております。> 2010・9・28

2010年09月27日

◆菅内閣は即刻退陣を

渡部 亮次郎

ねじれ国会に耐えられず、菅内閣は来年度予算の成立する3月で退場といわれているが、尖閣事件に見るとおりそれまでにもわが国の国益が日々失われて行く。耐えられないのはこっちだ。一日も早い退陣を望む。

元々、菅直人は政治家ではなく市民運動家である。強大な権力に対する「野次馬」が本質。権力を野次ったり批判するのが仕事であるから独自の戦略も戦術も持ち合わせてはいない。

本人は「リアリスト(現実主義)」と言うが本質は「オポチュニスト(ご都合主義者)」に過ぎない。景気が回復しないのに「雇用優先」などというわけの分からんことが言えて平気なのもそのためである。

要するに他人を批判したり、権力を鋭く追及するのは得意だが、自らは創造的な政策は何一つ持っていないのである。政治知識も持ち合わせていない。その点は宇宙人鳩山と全く変わりがない。

先日、財務省関係者に聴いたが、財務大臣野田佳彦は円安問題をいくらレクチュアしても理解できない、サラリーマンも経営者も経験していない。早稲田大学、松下政経塾、千葉県議、衆院議員5期という経歴。円高って何だ。財務省、日銀の仕事で、政治の仕事では無いとの理解。

閣僚の悉くがこの体たらく。景気回復が内閣最大の仕事と弁えていない首相菅。景気回復が無いのに「一にも雇用。ニにも雇用。三にも雇用」を連発。非論理的な論理を叫んで、自らが空っぽであることを天下に晒している。「オポチュニスト(ご都合主義者)」の本質だ。

各国の在京大使館はこの「空っぽ」ぶりを逐一本国政府に打電している。だから国連総会で菅が演壇に登壇した途端、出席者の4分の3が退席したというのもむべなるかななのだ。民主党政権によってわが国は最早、世界の笑いものに墜ちた。

党首選勝利でV状態で回復した支持率。今回の尖閣事件で絶望的に低落したはずである。

しかも中国は戦略的に菅内閣を攻撃してくる。これに対し同盟国アメリカは中国重視の姿勢をとるはずである。

加えて尖閣列島帰属問題に絡む体当たり中国漁船船長の釈放問題。これで馬鹿な世論も支持率を下げるだろうし、駄目な自民党も臨時国会では少しは責任追及に張り切るだろう。

景気回復目的の補正予算の成立に、参院で野党との妥協には相当苦労するだろう。果たして「原理主義者」の岡田幹事長がどの程度の手腕を見せるか。

「菅内閣の命は来年度予算の成立を賭けた来年3月まで」と常識的に語られているが、国際情勢の激変と小沢ら党内反主流派の動きようによってはもっと早くなる可能性を秘めている。文中敬称略。20109・26

◆本稿は、9月27日(月)刊「頂門の一針」2049号に掲載されました。

◆<目次>
・菅内閣は即刻退陣を:渡部亮次郎
・「尖閣諸島は日本領土、緊急の国民集会」:宮崎正弘
・中国の出方を甘くみて反日行動を誘発:古澤 襄
・政治決着ではなかったのか:花岡信昭
・中国人船長釈放に対する政治家の一言集 :阿比留瑠比
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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◆なぜ「衝突ビデオ」を公開しないのか

川原俊明

尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁巡視船との衝突事件。

公務執行妨害容疑で逮捕していた中国人船長を、那覇地検は、勾留期限を待たず、処分保留のまま身柄を釈放しました。一般的に、勾留期限を10日と定めた場合、期限前釈放の事例は少ないのです。

今回は、最高検察庁とも協議のうえ決定したそうです。しかし、多分に政治的判断が見え隠れしています。もちろん、政治的判断をするのであれば、これほどことが大きくなる前にすべきでした。あるいは、逮捕そのものに、政治的判断をすべきでしょう。

それにしても、日本の外交のお粗末さは、悲しいです。なさけないです。民主党大会での代表選争いは一人前でも、外交は、失格です。

中国は、民主党政権をなめきっています。釈放後も、損害賠償と謝罪を求めています。

海上保安庁は、事件の一部始終をビデオテープに記録していたのでしょう。日本の主張が正当ならば、なぜ、ビデオテープを全世界に公開しないのでしょうか。領土の争いとなっているのであれば、国際司法裁判所の日本から提訴すべきです。日本が平和外交を展開するならば、国際機関をフル活用すべきでしょう。

それよりも、菅総理―。中国トップとのホットラインは、どうして使わないのでしょうか。なぜ、初期に、相手と話し合いを進めなかったのでしょうか。日本の政治家の対話能力のなさは、目に余るものがあります。

中国からも、韓国からも、「日本の敗北」を大きく報道されています。その挽回策は、ビデオテープの全世界配信と、両道に関する国際司法裁判所への提訴でしょう。事実を世界に知らせ、全世界を味方にすることです。

より根本的なこと。それは、中国の覇権主義体制に対抗するため、日本が、経済面で、中国に頼りすぎないことです。レア-アース(希土類)禁輸などで慌てふためかないよう、韓国・インド・ベトナム・ブラジルなどの国々との交流を深め、経済構造の全方位体制を展開すべきです。