2008年10月27日

◆狐と狸の化かし合い

                   渡部亮次郎

政治記者になりたての頃、以下のように首相と幹事長が違った事を言うと「党内で意見対立」と思ったが、違っていた。党内を騙し、野党を無駄走りさせるための役割分担を阿吽の呼吸のうちに演じているのに間もなく気付いた。

<首相、解散先送りに傾く…金融危機への対応重視
経済情勢の悪化で、「11月18日公示―30日投開票」の衆院選日程を想定した今月末の衆院解散は難しいとの見方が強まってきた。

首相は金融危機が欧州や新興国に広がっていることを憂慮、「日本が米国に代わり、国際協調でリーダーシップを取らないといけない」と周辺に漏らしている。

首相は30日に記者会見を開き、中小企業対策などを盛り込んだ新たな経済対策を発表し、国内対応に万全を期す考えだ。また、金融機関に公的資金を予防的に注入できる金融機能強化法改正案の早期成立に向け、民主党に協力を求める意向と見られる。

ただ、与党内でも、早期解散を求める公明党を中心に、「先送り」への反対論は根強い。先送りすれば、衆院選の時期の設定が、より困難になるとの見方もあり、「金融法案への民主党の抵抗などを理由に首相は11月衆院選に踏み切る」との見方も残っている。>
(2008年10月25日03時01分 読売新聞)

,<一方、自民党の細田幹事長は25日島根県斐川町の出雲空港で記者会見し、「今月中に解散し、11月に選挙をやれば、12月いっぱいを使って税制改正や(2008年度第2次)補正予算案、来年度予算案を速やかに編成することが出来る。(解散判断の)ぎりぎりの線は今月いっぱいだ」と強調した。>(2008年10月25日13時22分 読売新聞)

自民党と公明党の間に立つ細田幹事長にしてみれば、来年夏の東京都議会選挙対策の都合上、年内総選挙に拘る公明党への配慮を余儀なくされている。また自民党内には緊張を維持して麻生首相の求心力を維持しなければならない立場だ。

また、民主党に対しては年内総選挙を匂わせることによって、補正予算も関連法案も賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続も
「容認」、空席の日銀副総裁人事も認めるという望外の成果を挙げた。

しかも解散風を煽ることによって民主党候補を一斉に走らせ,「弾丸」の無駄遣いを長引かせろという兵糧攻めで成果を挙げている。自分としては本心は来年の任期満了までは無理としても、できるだけ有利な地点探しに首相がフリー・ハンドを維持できるよう芝居を続けていると見るべきだ。

一方の小沢民主党代表にも海千山千を生き抜いてきた矜持がある。
麻生に財界人として鍛えた度胸があると言うなら、当方には角栄、金丸、竹下の下で研いで来た鋭利な政局感があり、誰にも負けないという自負である。

補正予算も関連法案も賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続も「容認」、空席の日銀副総裁人事も認めるとしたことは、言われるまでもなく禁じ手ではあった。

あのまま世界的規模の経済動乱がなければ、麻生、細田如きが自分の前で完全に屈服するはずの妙手ではあった。しかし不運であった。惜しむらくは鳩山幹事長も菅代表代行も共に理科系出身。数学は得意だが政界心理の2次,3次方程式が解けないから、小沢の代役として大博打が打てない。

大博打が打てるのだったら、福田内閣時代の「大連立」で自民党を乗っ取り、今頃は政局の主導権を完全に掌握し次期政権を確実なものにしていたはずだった。トロイの木馬は数学では解けない。もどかしい。

政界は譬えて言えば常に「狐と狸の化かし合い」である。この頃の政治記者はこの意味が判らないらしいが、与野党が互いに本心を明かさず、本心を明かしたように見せて相手を泥沼に誘導すると言う意味と説明した。

麻生政権は算数的に見れば未来は絶望しかない。だから死力を尽くすだろう。小沢氏も蓄えてきた半生の経験のすべてを結集して化かし合いに集中する事だろう。見ている政治記者たちがその謎のすべてを解いてくれる事に期待している。2008・10・26

2008年10月26日

◆焦らし作戦に出た麻生首相

渡部亮次郎

<【北京=加藤淳】アジア欧州会議(ASEM)首脳会議出席のため、中国訪問中の麻生首相は24日、北京市内で中韓両国首脳とそれぞれ会談した。

 ◆12月に日中韓会談◆

麻生首相は24日午前、北京市内のホテルで韓国の李明博大統領と就任後初の首脳会談を行った。首相は、日本、韓国、中国の3国首脳会談を年内に日本で開く方針を説明し、大統領も同意した。日本日本政府は12月中旬の福岡開催で調整している。>読売24日

私の判断では首相の胸中について野党は勿論、野党も間違っている。
一時の解散風などとっくに温帯低気圧になって、風など吹いていない。そこを見据えて解散権を持っている麻生首相は焦らし作戦により民主党議員たちの懐が空になることを狙っている。

元産経新聞の政治部長花岡信昭氏に依れば、
<早期解散を引き出そうとする民主党は、補正予算賛成、インド洋での海上自衛隊の給油支援継続の事実上の容認、日銀副総裁人事承認など、これまでの「何でも反対」を一変させ、国会審議の促進に
躍起だ。

給油支援継続法(新テロ対策特措法改正案)は昨年は参院でたなざらしにして補給艦の一時帰国を余儀なくさせたのだが、今回は、衆院再可決を早々と認める方針を打ち出し、今月30日に成立する見込みだ。

国会審議をスピードアップさせ、解散に応じようとしない首相を追い込もうという作戦だが、解散権は首相の専権事項で、審議促進戦術が功を奏すかどうかは不透明な状況になってきた。>

<政府提出の予算案への賛否を小沢代表に「一任」したというのも、公党のあり方としては疑問が残る。党内論議を経て党の最高意思決定機関常任幹事会)で決めるのがスジではないか。>(いずれも
花岡信昭メールマガジン 636号[2008・10・25])

書生論をいえば政府提出の予算とは施政方針を裏付けるものである。従って、政府に対抗している野党は、予算が本予算であろうが補正予算であろうが反対しなければ「筋」が通らない。

如何なる大目的が秘められていようが邪道である。加えて予算への賛否を小沢代表に一任とは呆れてものがいえない。一任を求めたのが小沢本人だとすれば、既に小沢氏は解散を急ぐあまり禁句であるはずの大連立と同じことをやったのである。

確かに総選挙をやれば自公が過半数を握れる可能性は低いらしい。
各種の世論調査がそう言っている。麻生首相は十分承知している。
そこへ起きたのがアメリカを震源地とする経済危機である。

<衆院解散をめぐる与野党の攻防は大詰めを迎えているが、ここへきて解散先送りの公算が強まってきた。「11月初めまでの解散、11月30日総選挙」が現時点で残された唯一の解散時期のタイミングのようで、麻生首相としては、これをしのぐと予算の年内編成をタテに解散越年に転じる可能性が濃い。>(同)

私の見方では麻生氏は福田康夫、安倍晋三氏らと全く違うものを持っている。それは「度胸」である。石炭から石油へのエネルギー「革命」の時に炭坑を経営していた「実績」がある。「血筋はいいが育ちは悪い」とご本人が言っている意味は、このことで「自負」している意味なのである。

何年にも亘って野中広務氏に煮え湯を飲まされながら平然としていられた「度胸」は血の小便を出しながら経営危機に耐えてきた年数に比べれば「屁の河童」のはずだ。タマが違う。

小沢氏はいろいろな手を用いて麻生氏を篭絡したつもりだったろうが、円高、株安を連日見せられている国民は、小沢氏の言う事を聞くだろうか。「今は選挙とか政権交代なんかしている時ではない」と言う雰囲気に変わり、日一日と強まっていくだろう。

この立場から麻生首相に金融法案成立などについて協力を求められた場合、、それを峻拒する度胸が小沢氏にあるか、どうか。

確かに走り出したら止まらないのも解散風だ。普通の選挙運動で1日で数百万円は飛ぶ。自民党内からさえ解散断行を迫る声が上がるのはカネのない若手議員に迫られた派閥領袖のうめきなのである。

しかし、経済危機に伴う政治的な国際外交日程を梃子にして麻生首相は政局を楽しむが如く、民主党焦らし作戦に転換したとみるべきである。

戦場で弾を受けたことが無いのに弾除けを知っている「度胸」は政局を食うだろう。2008・10・25

2008年10月23日

◆盲目で死んだ北原白秋

渡部 亮次郎

北原白秋は広辞苑(岩波書店)では福岡県柳川生まれの詩人・歌人と出ているが、『ウィキペディア』だと1885年1月25日、熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰る、とある。

その縁だろう、数多く作詞した校歌の中に熊本県南関町立南関第一小学校の校歌がある。独身の頃、隣家の戸籍上は人妻だった女性と関係し、当時は存在した姦通罪で訴えられている。

その人俊子と結婚した所為か、お堅いNHKでもラジオ深夜便で2008年10月21日に「作品集」を放送していたが、白秋の父母と俊子との折合いが悪く、ついに離婚に至っている。

また1937年、糖尿病の合併症たる腎臓病により眼底出血を引きおこし視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭した。世界初のインスリンによる糖尿病の治療は1922年、カナダで行なわれたが日本ではまだ普及していなかった。

わが師・園田直(外相、厚相、官房長官)と同じ死に方。ただし園田は人工透析を拒否し「自殺」のような死に方。それでも70歳、注射を早くに始めていれば100も夢ではなかったのに。

白秋の頃は戦争中でもあって腎臓病に対する人工透析は全く行なわれておらず、天才詩人も1942(昭和17)年、11月2日逝去。享年わずか57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。

きたはら はくしゅうは1885年(明治18年)1月25日に生まれた。父・長太郎、母・シケ。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。

詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、日本を代表する詩人である。

北原家は江戸時代以来栄えた商家で、白秋が生まれた当時は主に酒造を業としていた。1887年、弟鉄雄が生まれる。

1891年、矢留尋常小学校入学。1897年、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年には成績下落のため落第。

このころより詩歌に熱中し、雑誌「文庫」「明星」などを濫読する。ことに明星派に傾倒したようだ。1901年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾きはじめる。その後、倒産。

白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年はじめて「白秋」の号を用いる。1904年、長詩『林下の黙想』が河井酔茗の称揚するところとなり、「文庫」4月号に掲載。

感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。

1910年、隣家にいた松下俊子と恋におちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。俊子、章子、菊子と生涯3度の結婚。

{作品}

(詩集)邪宗門 思ひ出 東京景物詩及其他(第3版の刊行の際に『雪と花火』に改題) 真珠抄 白金之独楽 畑の祭 水墨集 海豹と雲 新頌 

(歌集)桐の花 雲母集 黒檜 牡丹の木 白南風 (句集)竹林清興 (木俣修責任編集) (童謡集)からたちの花 トンボの眼玉

(童謡・作詞)ゆりかごのうた 砂山 からたちの花 この道 ペチカ あわて床屋 待ちぼうけ 城ヶ島の雨 伏見軍令部総長宮を讃え奉る

万歳ヒットラー・ユーゲント ハワイ大海戦 海道東征 福島県福島市歌 東京都八王子市歌 愛知県岡崎市歌 ちゃっきり節 多摩川音頭 白洋舎の歌

(校歌・応援歌)東京大学の歌(準校歌)運動会歌「大空と」など多数。作曲は多くが山田耕筰。

(著書)白秋詩抄 岩波文庫 白秋抒情詩抄 岩波文庫 白秋愛唱歌集 岩波文庫 北原白秋歌集 岩波文庫     2008・10・21
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年10月20日

◆毛沢東の銃口「八路軍」


渡部 亮次郎

「革命は銃口から生まれる」といった毛沢東。彼が共産中国を実現するためには「軍」が不可欠だった。今や列強を脅かす中華人民共和国。その先頭に立つ人民解放軍だが、その始まりは毛沢東の尖兵としてのゲリラ隊「八路軍」(はちろぐん[パーロとも呼んだ])だった。

正確には現在の人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織であったというのが正確だろう。

毛が戦う相手は政府としての蒋介石の「国民党軍」と蒋にとっての「侵略者」としての日本陸軍。そのための「銃口」としてはどうしても「軍」を組織する必要に迫られていた。

だから共通の敵たる日本軍に対して国民党と共産党が一時的にしろ手を結ぶ国共合作が時々出来たわけ。

毛沢東は自らの人民戦争理論にしたがい「点化した敵軍を、人民の海の中に埋葬させる」戦術を考えた。「人海戦術」がそれである。

共産党は積極的に各地に共産党を広める浸透工作を行なった。共産党に好意的、または恐怖で屈服する村落、都市を増加させるのである。その結果共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させるのも容易になった。

実際、八路軍の活躍はめざましく、攻めて来た日本軍の将兵にとって大きな脅威となった。但し、戦後多くの人々に信じられた「八路軍によって日本軍が敗れ去った」という話は嘘である。

あれは共産中国を無条件に礼賛していたいわゆる左翼文化人の過大な宣伝によるもので、実際に日本軍師団長に「敵(八路軍)より味方の方が被害が多い」と証言しており、国民党軍による被害が大きかった。

八路軍のゲリラ活動は、むしろ日本軍撤退後の国共内戦において国民党軍を撃破する際には更に大きな力を発揮した。

当初組織された共産党軍(紅軍)は、秋収蜂起を戦った毛沢東指揮下の中国工農紅軍と南昌蜂起で決起した朱徳翼下の紅軍が井崗山で合流し、中国工農革命紅軍第四軍となり、後に中国工農紅軍第四軍となった。

第四軍はその後江西省瑞金の中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。

この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を伺う情勢にあった。

このような情勢下、西安事件(1936年12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件)を受けて第2次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第八路軍と改組され、一般に「八路軍」と呼ばれることになる。

同時に中国南方地域では「紅軍」は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に「新四軍」と呼ばれることになる。

1947年に第2次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された。

八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北において百団大戦という鉄道や炭鉱に対する大規模なゲリラ攻勢を行い、日本軍を一時的に混乱させたが、日本軍の本格的な攻勢が始まると忽ち一掃された。

八路軍はゲリラ戦を主に担当していたことから、正確な戦果は把握できないが、1944年までの戦果報告によると作戦行動は7万4000回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したと主張している。

しかし日本軍の記録によれば日本側の損害はこれよりは少ないが八路軍より味方(日本軍)の損害の方が多いとある。また、兵力は1945年8月段階で80万を超える規模に達していた。

総指揮官:朱徳  副総指揮官:彭徳懐  正規師団:第115師団・第120師団・第129師団が存在したが、民兵組織も多数参加したらしい。

民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であると共に、一般市民に紛れ、攻撃は神出鬼没のゲリラ戦を行った。しかし、八路軍に戦況を左右するだけの力はなかった。また、日本軍と同盟関係にあった南京政府側の民衆組織「新民会」等が同様の民衆工作に取り組み、八路軍に対抗していた。

国民党軍(重慶政府軍)はアメリカからの援助により装備は優れていたものの、兵力温存を図り日本軍との正面決戦を避ける傾向があり、弱兵として日本軍に侮られた。背中に傘を背負っていた。

一方、地域によっては国民党軍がむしろ八路軍を弾圧、あるいは八路軍に対して積極攻勢に出る場合もあった(百団大戦直後の1940年10月にも重慶政府軍は八路・新四軍へ大規模な攻撃を行っている)。

国民党軍が兵力温存を図ったのは、抗日戦勝利後の共産党との決戦に備えたものであるが、この戦略は完全に裏目に出てしまう。

抗日戦で果敢に日本軍と戦った八路軍が特に華北を中心に民衆の支持を集めたのに対し、国民党軍は民衆と完全に乖離してしまった。

また国民党を援助していたアメリカも、国民党の態度に不審を覚え、むしろ八路軍に好意を抱く事となった(アメリカ陸軍から派遣されていたジョセフ・スチルウェル中将の解任もこれが原因)。

結果的に八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において大衆の支持を集め、中華人民共和国政府の樹立に貢献した。

八路軍に降った日本軍将兵はソ連赤軍に降った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵は少なくない。

但し特殊技能を持つ旧日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)は永く留め置かれ、帰国が遅れた者も少なくない。

八路軍将兵に対しては「三大紀律八項注意」という規則があったが実際に守られていたかは疑義が残る。

また占領地で「富農」と認定した、地主をはじめある程度の土地や家畜を持つ自作農を人民裁判にかけ、処刑を行った。

これは八路軍の力を見せつけて住民に恐怖心を抱かせるものであり、国共内戦時には、中国住民の虐殺事件を起こしており、八路軍に対する否定的側面として語られるものである。

ただし、このような残虐行為は地域内の貧者の嫉妬心・復讐心を満たす事になり、かえって大衆の支持を集める事に貢献した。

第2次世界大戦後、八路軍に拘束された日本人軍人が、逆さ吊りの上に4斗(72リットル)程度の水を飲ませる水責め、600発以上を超える全身殴打などに遭った。

坐らせて足と手を一緒にして縛って、これに太い梶棒を入れて吊るし上げる等の拷問を約15日加えられた上、「民主裁判」にかけて死刑宣告を受け、八路軍への協力を強要された事件も、被害者自身の口から衆議院で生々しく語られた[昭和25年3月31日の衆議院海外同胞引揚に関する特別委員会における山田勝治参考人の証言]。2008・09・30

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年10月19日

◆植物性乳酸菌が効いた


渡部 亮次郎

植物性乳酸菌は動物性乳酸菌の10倍もの種類があるといわれ、漬物や味噌、醤油など、さまざまな食品にその存在を確認することができる。

植物性乳酸菌には、免疫賦活作用が確認され、病気になりにくい体を守る効果が期待できるとされている。

それは植物性乳酸菌の「生きて腸まで届く力」があるからで、腸内環境を改善する力として注目を集めているわけだ。

日本人の食生活と植物性乳酸菌の関係は、はるか昔にさかのぼる。その代表的なものが、醤油や味噌、糠漬、日本酒、「ハタハタ、鮒などのなれ鮨」といった発酵食品である。

もともと農耕が盛んだった日本や東アジア諸国では、田畑でとれる作物や魚介類が食糧の中心となる食文化が定着している。

これらの食べ物を乳酸菌や微生物、カビ、酵母などで発酵させておいしくしたり、保存できるようにした日本の食生活に、植物性乳酸菌は古くから関係していた。つまり、植物性乳酸菌は日本人のおなかになじんだ乳酸菌であるといえる。

日本の食文化に古くから根付いた植物性乳酸菌だが、実は世界のさまざまな国の食べ物にも、植物性乳酸菌が含まれていることは日本人はあまり知らない。

近いところでは、韓国のキムチ、中国のザーサイがそれにあたる。ドイツなどヨーロッパのサワークラフト、インドのチャツネ(野菜と果実を煮込んだソース)、タンザニア・ケニアのマサイ族で作られている発酵乳など、植物性乳酸菌は各国で力を発揮している。

ウイルスなどの感染から体を守る「インターフェロン」。その産生能力を高める物質の研究が、ラブレ菌発見のきっかけだ。 京都の人たちが好んで食べる「すぐき漬」から全く新しい乳酸菌の一種であるラブレ菌が発見された。

現在、ラブレ菌でもっとも注目されている働きが、「免疫力アップ」の力だ。ラブレ菌の腸内で生きぬく力の強さを、動物性乳酸菌の代表格である

免疫力は加齢によっても影響を受け、20歳頃をピークにその力が急降下する。そこで普段の食事などから免疫力をアップさせる物質を積極的に取る必要がある。

日本人は古代から米や野菜など食物繊維が多いものを食べてきたので、欧米人にくらべて腸が長いといわれている。その長い腸をくぐりぬけて日本人の健康を長く支えてきたのが味噌・漬け物などの「植物性乳酸菌」由来の発酵食品だった。、「動物性乳酸菌」に比べて、より生きて菌が腸まで届くからだ。

植物性乳酸菌の一種「ラブレ菌」は、腸内の免疫器官に作用し、免疫担当細胞を活性化する「インターフェロン」の産生を助ける大切な役割を担っている菌なわけだ。

食生活の欧米化で植物性乳酸菌を摂る機会が少なくなった今だからこそ、普段の食生活で毎日摂ることを心がけたいものだ。

人生100年といわれる時代、いきいきと健康に歳を重ねて人生を送りたいものだ。

友人の紹介で知り合った長野県安曇野市の会社会長森山憲義さんは独学で植物乳酸水を生産、頒布している。薬事法違反になるからどんな風に効くか、病名を挙げて宣伝する事は絶対に慎んでいる。

だがアトピーが全快したとか慢性の下痢がピタリと止まったという噂を聞いたので数年前から取り寄せて飲んでみた。

7年間苦しんだスギ花粉症が完治した。昨年春からくしゃみも涙も止まった。昨年は花粉が少ないからだろうと思っていたが、格別多いといわれた今年も症状が全くでなかった。完治していたのだ。

だとすれば森山さんの植物乳酸水以外に格別飲んだものはないのだから抵抗力がついて花粉症を克服したわけである。友人の中には糖尿病になりかかっている人の血糖値抑制に格別の効果があると喧伝する人もいるが、薬学的な検証はまだなされていないようだ。

そういえば、風邪をここ10年はひいていない。(執筆 2008・1016)
資料:カゴメ植物性乳酸菌大学より
http://www.kagome.co.jp/style/nyusankin-univ/comprehensive/index.html

2008年10月16日

◆日本を羨んだフルシチョフ


渡部 亮次郎

私の学生時代(1954―58年)にスターリンが死に、替わって登場したのがフルシチョフ。如何にも田舎の爺さんに見えた。なるほど1894年4月17日、ロシア帝国のクルスク県カリノフカに生まれる。父親セルゲイ・フルシチョフは炭坑夫。祖父は農奴で帝政ロシアの陸軍に勤務していた。

アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会談したフルシチョフはアメリカ合衆国やフランスなどの資本主義諸国との平和共存外交をすすめ、冷戦下の世界に一時的な「雪どけ」をもたらした。

その一方で、U-2撃墜事件ではアメリカと激しく対立、さらにはキューバ危機ではアメリカとの戦争の瀬戸際まで進むことになる。

また、同じ社会主義国との関係では、ハンガリー動乱に軍事介入するなど東欧諸国の自由化要求に対しては厳しい態度で臨み、毛沢東率いる中華人民共和国とは社会主義の路線をめぐって論争となり(中ソ対立)、アルバニアとも1961年に断交し軍事衝突寸前まで行くこととなる。

フルシチョフは激情家として知られ、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なもののひとつは、1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」との暴言を吐いたことである。

他にも1960年10月12日の国連総会で、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、フィリピン代表Lorenzo Sumulongが「ソ連の東欧諸国への関与こそ当に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲した。

これに怒ったフルシチョフは、自分の靴を脱いでこれで机をバンバンと繰り返し叩いてSumulongの演説を妨害した事件がある。

集団指導体制を無視し自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかに追い落とし謀られた。

ニコライ・イグナトフ、アレクサンドル・シェレーピン、ウラジーミル・セミチャストヌイ、レオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループである。

フルシチョフの追い落としは着実に準備されていった。中でもブレジネフは暗殺をも企んだとも言われている。

宮廷クーデターの噂はひそかに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとした。息子のセルゲイ・フルシチョフや娘のラーダ・アジュベイに接触した。

セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。

1964年10月、黒海沿岸のピツンダで休暇中のフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、ミハイル・スースロフからの突然の電話で呼び出された。

「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためとされた。10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。

これに対してミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、否決された。

孤立無援となったフルシチョフは、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の両方を辞任することに同意した。

後任にはレオニード・ブレジネフとアレクセイ・コスイギンがそれぞれ選ばれた。1978年1月、園田直外相の秘書官として日ソ外相定期交渉に同行した際、ブレジネフは風邪で臥せっており、コスイギン首相が握手してくれた。

引退後のフルシチョフは、公式には1966年まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、恩給と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有ダーチャ(別荘)に住まわされた。

移動の制限は受けなかったが、ダーチャのいたるところに盗聴器が仕掛けられており、事実上軟禁状態にあった。

この間、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子のセルゲイ・フルシチョフらがテープをタイプライターで書き起こした。この行動に対しキリレンコらソ連指導部はフルシチョフを呼び出して回想録の執筆の中止を要求した。

フルシチョフは当然この要求を拒絶した上、逆にブレジネフ指導部の政治をこきおろしてキリレンコらに説教をした。

この結果、息子のセルゲイ・フルシチョフや娘婿のアレクセイ・アジュベイは、当局から様々な嫌がらせを受けることになった。セルゲイはミサイルの専門家であったが、転職を余儀なくされた。

1970年7月には、フルシチョフの入院中に国家保安委員会 (KGB) が息子セルゲイを騙して回想録原稿とテープを押収することに成功するが、原稿のコピーはすでにアメリカのタイム社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに報復した。

なお、セルゲイが西側に原稿を送るのを仲介したのは実はKGB自身であり、その代償としてフルシチョフ自身が回想録の内容の一部削除に応じたという。

回想録が西側で出版されると、激怒したソ連指導部はフルシチョフに新聞プラウダ紙上で「回想録はニセモノである」との声明を発表させた。

実際のところ、回想録がニセモノでないかどうか、すなわち仲介相手からニセモノを掴まされていないかをタイム社は非常に気を揉み、録音テープの声紋分析を徹底して行った。

少しでもテープが途切れた部分はそのつど鑑定しなおす必要があったことから、声紋分析の数は数千にも及んだ。本物と判断され、出版。

7年間の年金生活の後に、フルシチョフは1971年9月11日にモスクワの病院で死去した。歴代の要人が埋葬されている赤の広場脇には埋葬されず、モスクワにあるノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。

当局との数年にわたる戦いの末に、家族らは墓地に記念碑を建てることを許されたが、その設計を請け負ったのはフルシチョフがマネージ展覧会ホールで罵倒した彫刻家エルンスト・ネイズヴェスヌイだった。

1984年に死去したフルシチョフの妻ニーナ・ペトロブナも、フルシチョフの脇に眠っている。

日本との関係ではフルシチョフは、鳩山一郎首相が日ソ交渉をしたときの最高指導者である。回想記の中で、は日本の戦後の発展を羨み、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。

フルシチョフは、日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあったと指摘している。

このくだりは結局フルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって1989年になってはじめてその内容が公開された。出典:『ウィキペディア』  2008・10・14


2008年10月11日

◆健康食品No.1が大豆 

  
渡部亮次郎

大豆の語源は「大きい豆」ではなく「大いなる豆」である。何故かと言えば、これほど安くて栄養のある食品は他に無いからである。

たとえば納豆を欧米初め全世界が食べるようになれば人類全体の寿命が伸びる事だろう。

米語:soybean、英語:Soya bean ダイズ(大豆、学名Glycine max)は、マメ科の1年草、また、その種子のこと。

大豆は低カロリーながらタンパク質やカルシウムを多く含むため、栄養源として重要である。

さらに含まれるゲニステイン、ダイゼイン、グリシテインなどのイソフラボンは大豆イソフラボンと総称され、弱い女性ホルモン作用を示すことから骨粗鬆症や更年期障害の軽減が期待できる。

これらの作用から、大豆製品の中には特定保健用食品に指定されている物もある。また、大豆イソフラボンはサプリメントとしても用いられる。

世界中で広く栽培されている。日本には縄文時代(紀元前1万年―前4世紀頃)の出土例や、古事記にも大豆の記録が記載されている。

大豆の種子には苦み成分であるサポニンが多く含まれており、人類の主食にまではなっていないが、植物の中では唯一、肉に匹敵するだけのタンパク質を含有する。

このことから、近年の世界的な健康志向の中で、「ミラクルフード」として脚光を集めている。「畑の牛肉」の異名もある。また、日本料理やその調味料の原材料として中心的役割を果たしている。

原産地と日本への伝来については説が各種あり定かではない。原産地は中国東北部からシベリアとの説が有力で、日本にも自生しているツルマメが原種と考えられている。

栽培の歴史も諸説あるが、約4000年前に中国で野生種大豆の栽培が始められたと考えられている。日本では縄文時代の遺跡から炭化物や土器内部の植物圧痕として確認された例があり、その頃の伝来と考えられている。

ダイズは蛋白質や脂肪、鉄分、カルシウムなどミネラルが多い。日本では色々な形に加工され利用されている。まず、大豆を暗所で発芽させるともやし、畑で育てて未熟大豆を枝ごと収穫し茹でると枝豆。

さらに育てて完熟したらダイズ。ダイズを搾ると大豆油、煎って粉にするときな粉、蒸したダイズを麹菌で発酵させると醤油・味噌。

また蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆。熟したダイズを搾ると液体は豆乳、その残りはおから、豆乳を温めてラムスデン現象によって液面に形成される膜を湯葉、にがりを入れて塩析でたんぱく質を固めると豆腐。

豆腐を揚げると「油揚げ」「厚揚げ」、焼くと「焼き豆腐」、凍らせて「凍み(高野)豆腐」。 大豆にはサポニン等水溶性の毒性物質が含まれており、これらの加工は毒性物質を取り除く意味もある。

蒸した種子を発酵させてから乾燥させたものは、香鼓(こうし)という生薬である。これには発汗作用、健胃作用がある。

大豆から作られる大豆油は、かつては燃料としても用いられたが、現在最も安い食用油として発展途上国で、大量に消費されている。近年では大豆油インクが環境に優しいなどとして利用が増加している。油の搾り粕は醤油の原料や家畜の飼料となる。

なお、光の当たらないところで発芽させ、数センチメートル伸びた芽を食べるのが「豆モヤシ」である。

日本は現在大部分を輸入に頼っている為、2003年に世界的不作から価格が高騰したときには大きな影響を受けた。最大の生産国、輸出国はアメリカ合衆国、ついでブラジル。

日本の輸入量は世界第3位。中華人民共和国では経済成長に伴う食生活の変化により消費量が増加しており、これからも増え続けると見られている。この需要に応えるためブラジルでは天然林伐採を伴う大豆農地の拡大が進んでおり、問題視されている。

日本では非常に珍重され、米・麦・粟・稗(ひえ)・豆(大豆)を五穀とし、節分には大豆による豆まきが行なわれるほどである。

日本人はダイズをさまざまな形に加工し、食材や調味料として利用してきた。アジアの多くの地域ではダイズが様々に加工されて食べられているが、日本ほど加工のバリエーションに富んでいる国はない。

中国、日本、朝鮮半島で古くから穀物として栽培されており、アメリカへは1800年代の初めに伝わったが、長いこと飼料としてのみ栽培され、主流作物ではなかった。

1920年代初め大豆加工業が発展したことによって、ダイズ栽培に弾みがつき、今日ではトウモロコシ、小麦に続いてアメリカの主要穀物となっている。

93年にアメリカは世界の生産量の約45%を占め、ブラジル、中国、アルゼンチン、インド、カナダなどが続いている。アメリカ国内では主に中西部とミシシッピ下流域で生産され、ダイズ生産量の40%以上が輸出されている。

私見としてはアメリカ人がダイズを家畜ではなく自分たちで食べるようになれば平均寿命は飛躍的に延びるだろうと思う。脂身の多い牛肉よりも豆腐ステーキを食べたら心臓マヒは激減するだろう。

日本はダイズ消費量の95%ぐらいを外国に頼っていて、大半はアメリカから輸入している。日本の国内では、北海道、秋田県、栃木県、茨城県、富山県などで生産される。納豆用、豆腐用、エダマメ用が主流である。
                         2008・04・21

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及びマイクロソ
フト「エンカルタ百科事典」

2008年10月08日

◆参院議長が知事になる


渡部亮次郎

<参院議長・前埼玉県知事 土屋義彦さん死去

元参院議長で前埼玉県知事の土屋義彦(つちや・よしひこ)さんが5日、多臓器不全のため、埼玉県春日部市の自宅で死去した。82歳だった。通夜・葬儀は密葬で執り行う。喪主は妻栞(しおり)さん。後日、土屋家と自民党の合同葬が執り行われる予定。次女は衆院議員の品子さん。

1926(大正15)年、東京に生まれ、静岡県下田市で育つ。大正製薬のオーナー社長だった叔父の故・上原正吉参院議員の秘書から埼玉県議を経て、 65(昭和40)年、参院議員に当選。連続5期務め、旧環境庁長官、参院自民党幹事長などを歴任し、88(昭和63)年、参院議長となった。


92(平成4)年には埼玉県知事に転じ「『三権の長』経験者が知事に」と話題になった。

以後、さいたま新都心開発やサッカーW杯誘致に伴う埼玉スタジアム2002建設などを手がけた。全国知事会長も務めたが、3期目途中の2003年7月、自らの資金管理団体を舞台にした政治資金規正法違反事件で長女が逮捕され、県庁や自宅が東京地検特捜部の捜索を受けた責任を取り、辞職した。

6日、春日部市内で記者会見した品子さんによると、土屋さんは糖尿病や高血圧で4月ごろから入退院を繰り返していた。最近は体調がよく自宅に戻っており、4日は普段と変わらない様子だったが、5日午前0時ごろ、家族が異変に気づいてから数分で逝ったという。

品子さんは「まさか急に逝ってしまうとは思っていなかった。寂しいが、やるだけの介護はやったという気持ちです」と話した。>
(Asahi Com 2008年10月6日19時22分)

私は記者時代、参院担当が長かった所為で土屋さんは個人的に懇意にしていた政治家である。1978年のボン(旧西ドイツ首都)サミットにも当方は外相秘書官として一緒に出かけた。その時のもう1人の参院議員は大阪選出の森下泰(仁丹社長)だった。

土屋さんは東京・新橋で寿司屋の出前持ちをしていた時代がある。大正製薬社長上原正吉さんの夫人の甥ではあったが、会社がまだ大きくなってないころ、「寿司屋の小僧だったのさ」と自ら語ったように気さくで飾らない明るい性格だった。

当時、参院は議長を3期9年間も務めた重宗雄三さんの「重宗天皇」時代だったが、土屋さんは重宗さんとは着かず離れずの恬淡とした態度を取っていた。時の首相佐藤栄作氏とは叔父を通じて直接つながっているという自負があったのかもしれない。

記者たちの受けもよく、国会内で社会部記者との交流を持っていたのは意外だった。参院議員を連続5期務め、旧環境庁長官、参院自民党幹事長などを歴任した後、自然な形で88(昭和63)年、参院議長となった。党内外に敵のいない政治家だったからだ。

92(平成4)年には埼玉県知事に転じようとした。『三権の長』経験者が知事にというのは三権の長を軽くするものという批判があったが、土屋さんのことなら仕方無いと大騒ぎにならずに知事になった。

<生い立ち。東京府北豊島郡高田町(現・東京都豊島区高田)に土屋澄男・初江の子として生まれる。次弟昭二。三弟祐三。

6歳の時、内務省技師であった父が急性肺炎で死去。母は義彦らを残して家を去ったため、義彦と祐三は父方の祖父母土屋仁作・たつも夫妻に引き取られた。

次弟の昭二(現・大正製薬会長)は澄男の妹・小枝とその夫上原正吉(当時大正製薬取締役)の養子となる。祖父の仁作は高田町会議員を務めた後、静岡県賀茂郡稲梓村(現・下田市)に移住したため、義彦も旧制中学(豆陽中学校)卒業まで同地で過ごす。

仁作は静岡移住後、酒屋を興し、稲梓村会議員も務めたが、義彦が中学在学中に死去。義彦は中学に通いながら祖母たつもと共に酒屋を切り盛りし、三弟祐三を育てるという苦難の少年時代を送った。

中学卒業後は大学進学を希望するも、既に祖父が他界していたこともあり叶わなかった。寿司屋の出前持ちはこの頃のことらしい。

1945年召集。名古屋市の第6連隊に入隊。その後浜松市に派遣され、塹壕掘りを行う。終戦により除隊となり、叔父上原正吉・小枝夫妻を頼って帰京し、大学入学を果たした。上原家に下宿し、大学に通学しながら大正製薬で働く。

妻の栞は上原家の娘で親戚筋にあたる。事実上養父母であった上原正吉・小夜夫妻の存在もあり、家では「かかあ天下」であったという。叔母夫妻や妻の影響力が強く、「女系家族」であったことも県政に長女が介入するに至る素地を作ったとされる。

春日部市の屋敷は叔母夫妻から貰ったと噂される。

死に至るまで実母とは再会しておらず、母の消息は不明。母親への思いは強く、知事在任中、記者会見において「(母は)こんなよい子(自分)を残して家を出たことを後悔しているだろう」と目を潤ませながら語ったことがある。

鷹揚に構えていることが多く、視察先で子供に無邪気に話しかけるなど、温厚な人柄であった。実際は資産家であるが、少年時代の苦労もあり、庶民派であることにこだわりを見せていた。>『ウィキペディア』
2008・10・07

2008年10月06日

◆「あきたこまち」の誕生

渡部亮次郎

郷里の秋田県産の米「あきたこまち」が届けられ、コメの美味しさを堪能した。新米が早く食べたいと、南国の早稲を買っていたが、
比べるのもおかしいぐらい美味い。

「あきたこまち」の食味について公的食味試験機関「日本穀物検定協会」1984年11月の総合評価は「0・944」。これは新潟県産「コシヒカリ」「0・7〜0・8」、同「ササニシキ」は「0・5〜0・6」を大きく上回るものだった。

穀物検査官は「『あきたこまち』の高い数値はこれまで出たことがなかった」と評した。これを契機にマスコミや流通業界の関心が高まり、とくに県外における知名度向上に弾みがつき24年の歴史が流れた。

24年前の1984年9月7日に秋田県品種対策協議会を開催し、県農業試験場が作り出した「秋田31号」を奨励品種に採用することを決定した。

同日、知事が県農協中央会長、県農業試験場長同席のもと記者会見を行い、品種名を「あきたこまち」と命名し奨励品種に採用したことを発表した。

命名の由来は、秋田県雄勝町に生まれとされる美人の誉れ高い平安時代の歌人「小野小町」にちなみ、秋田で育成した美味しい米として、末永く愛されるように願いを込めた。

「あきたこまち」は、母親の「コシヒカリ」から良食味性を、父親の「奥羽292号」から早熟性を受け継いでいる。このことから、寒冷地北部でも新潟の「コシヒカリ」並の良食味米栽培が可能となり、倒伏や「いもち」病に対する抵抗性も「コシヒカリ」以上の特性を持っている。

さらに、炊飯すると米粒に美しい光沢と粘りがあり、食味に関する特性は申し分がなかった。

米どころ秋田県とは言いながら10a(1反歩=300坪)当たり平均収量は、戦前(1945年以前)の200s台から1950年頃には350s台に急増。

その後、1955(昭和30)年は450s、1965(昭和40)年には550sと大幅な伸びを示した。この要因は、戦後の食糧難時代に、農地解放に伴う生産者の増産意欲の高揚とともに、保温折衷苗代、三早栽培(早播き、早植え、早刈り)などの普及及び県の増産運動「健康な稲作り運動」と相まって、全県民的な普及によって助長された。

こうした技術開発と多収品種の導入により1976年、1977年、
1980年には「単収日本一」となり全国で最も安定多収県として位置づけられた。また、全国の多収穫競作会では秋田県から「米作日本一」が続出するなど、多収技術が開花した時代であった。

しかし1970年代に入ると、全国的に米の生産過剰となり生産調整が始まった。秋田県も政府米の在庫を抱えながら、多収栽培から脱却できない産地であった。つまり、多収栽培を行うのではなく量より質、消費者に喜ばれる、売れる米づくりへと転換せざるを得なかった。

このような背景から、1974年に秋田県農協中央会が水稲育種事業の実施を県に要請し、翌年に県が水稲育種事業の開始(再開)を決定した。

つまり秋田県では1913年から1941年までの25年間、交雑育種を手掛けて育成したが、その後中断していたのだ。1977年の福井県農業試験場へ調査・享受の折、同場で75年に交配した「コシヒカリ」(母)×奥羽292号(父)の「福交60−6」のF2種子1株を譲り受けた。

譲受けた「福交60−6」は、1981年に系統選抜4年目(F6)を迎え、系統名(地方番号)を「秋田31号」と命名した。1983年には系統選抜6年目(F8)を迎え、1群8系統の栽植し2系統20株を選抜し育成段階を終了した。

当時「コシヒカリ」は育成して約30年になっていたが、それまで「コシヒカリ」を親に交配した品種を奨励品種に採用した事例がなく、「秋田31号」が最初の品種であった。

しかも、「コシヒカリ」の欠点である耐病性、耐倒伏性、収量性を改善した早生品種で、食味は「コシヒカリ」を上回った。

県農協中央会と農協経済連が「美人を育てる秋田米」のキャッチフレーズを発表し、秋田県初の水稲新品種誕生に花を添えた。

県外出荷が開始された「あきたこまち」は、新品種V類の中で破格の仮渡し金60Kg20,133円の高値で取引された。また、キャンペンガール「こまち娘」が誕生し、市女傘を身につけた平安朝の姿と、秋田で育成した美味しい米「あきたこまち」として大いに印象づけた。

出典:秋田県農林水産技術センター農業試験場次長 児玉 徹 氏作成の資料。2008・10・04

2008年10月04日

◆世界を席捲即席ラーメン


渡部亮次郎

インスタント(即席)・ラーメンなる食べ物が日本特有のものである事は知っていたが、外務大臣の秘書官になって、大臣の外遊に同行する記者、カメラマンにとって不可欠の「命綱」である事を知って認識を改めた。

熱湯をかけるだけ、もしくは湯で煮るだけなど、簡易な調理法で食べることができる即席の袋・カップ入り、フライ麺・乾麺等。インスタント食品の一種であり、その中でも主にラーメンを指す呼称として用いられる。「最も手軽な日本食」なのである。

社団法人日本即席食品工業協会の統計によれば、2006年度に全世界で消費された量は約916億食(カップ麺を含む)。うち日本の消費分はたった0・05%約53億食だった。

つまり日本での発明品と言っても現在では、世界各地で作られており、ほぼ製造国で消費されるようになったのだ。主な生産・消費地は東アジアおよびアメリカ合衆国である。

「インスタントラーメンの発明者」は安藤百福(あんどう ももふく)とするのが通例である。

安藤百福(あんどう ももふく、1910年3月5日―2007年1月5日)は商業ベースで成功したインスタントラーメンの開発者。日清食品(株)創業者。

「チキンラーメン」や「カップヌードル」の開発により、日本のみならず世界の食文化に変化をもたらしたことで知られる。

日本統治時代の台湾出身(旧名:呉百福)。第2次世界大戦後に中華民国の国籍を選択、のち日本に帰化。1948年に(株)中交総社(後の日清食品)を設立。

安藤は自邸の庭に建てた小屋でインスタントラーメンの研究を始め、1958(昭和33)年8月25日にチキンラーメンを商品化することに成功した(8月25日は即席ラーメンの。どんぶりに入れて湯を注ぐだけでおいしく食べられる簡便な食品は、瞬く間に人気商品となった。

「瞬間油熱乾燥法」(麺を油で揚げて乾燥させる)というもので、初の「チキンラーメン」である。瞬間油熱乾燥法はインスタントラーメンの基本的な製造特許で、安藤の妻が料理をしていたてんぷらがきっかけだった。

1972年、世間を驚かせたあさま山荘事件のテレビジョン中継放送で、厳寒の中、湯気の上がるカップヌードルを食べる機動隊隊員の姿が映され、視聴者は何を食べているのか興味を持った。これが事実上の宣伝となって、爆発的な売れ行きを示した。

チキンラーメンの好評を見て、追随する業者が多く出た。粗悪品や模造品の懸念から、安藤はチキンラーメンの商標や特許を申請・登録し、会社や商品の信用を守ることに努めた。

日清食品は1961年にチキンラーメンを商標登録し、翌1962年には即席ラーメンの製造法の特許を得る。この際、113社が警告を受けた。類似商法を看過しない姿勢を打ち出した安藤であったが、1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、製法特許権を公開・譲渡した。

1962年(昭和37年)には、明星食品がでん粉を使ってスープを粉末にするスープ別添技術を開発し、粉末スープを麺と別の袋に入れ添付した製品を発売した。

1990年代にはレトルト化した調理済みの具材や麺を同梱した高級品も登場し、2000年代には人気ラーメン店とのコラボレーションへと進化、それらが付属しない通常の製品と2極化が進んでいる。

日本国外での生産は、明星食品が1963年(昭和38年)に韓国で、三養食品(Samyang)との合弁で製造を始めたのが最初とされる。

1980年代以降にはアジアの広範囲で同種の即席食品が製造され、地域色の豊かな製品も増えている。

欧米人にとっての「Ramen Noodle」は、日本や中国のような生麺を用いたものではなく、インスタントラーメンを指すようになっている。

一方、マグカップ等に乾燥麺を入れて熱湯を注ぐ軽食向き製品も欧米で人気があり、1990年代には、日本でも同様の製品が登場している。

台湾、香港、中国はもちろん、タイのトムヤンクン味や、インドネシアの即席ミーゴレン、フィリピンの即席パンシット、ベトナムの即席フォーなど多様に進化した。

アジア各国で販売されているのは数百種類に及び、日本にも輸入され、コンビニエンスストアで販売される商品もある。

2000年代では、年間約850億食の即席めんが世界で生産されている。国別で最も多く生産しているのは中国で、2007年で498億食である。国民1人当たりの年間消費量では、韓国の約80食が世界最多で、中国が約39食となっている。

日本からの輸出は、2006年度時点での世界ラーメン協会調べによれば年間約8,700万食。中国最大手のメーカーである康師傅(カンシーフ、台湾系)は日本のサンヨー食品、第2位の華龍日清は日清食品と提携する。

韓国でラーミョン(ラーメンの韓国語読み)といえばインスタントラーメンを指し、生麺を使うラーメンはない。販売メーカーは60社で、キムチラーメンなどを輸出している。伝統食のトッポッキにインスタントラーメンを入れた「ラポッキ」という料理も定着している。

タイ、ベトナム、カンボジア、マレーシア、インドネシアでもインスタントラーメンを供する屋台がある。

香港には朝食などにインスタントラーメンを調理して出す茶餐廳というスタイルの喫茶軽食店が多くある。日本でも形態は異なるものの、同様に調理をして食べさせる店が存在する。

メキシコには1980年代に東洋水産がインスタントラーメンの輸出を開始し、マルちゃんが圧倒的なシェアを獲得している。

日清食品と宇宙航空研究開発機構(JAXA)により、無重量空間で飛び散らないよう麺にまぶす程度にスープを減らし、摂氏70度で戻せるようにしたインスタントラーメンが「スペース・ラム」という名で開発され、2005年7月、国際宇宙ステーションで提供された。

日本での現状:
2005年度…生産量 54・4億食(前年度比1・6%減)
2006年度…生産量 53.1億食、1人当たり年間消費量41.3食

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』08・08・22

2008年10月03日

◆箸にも棒にも掛からない



        渡部亮次郎

標題の意味は@どうにも取り扱えないもののたとえA何の取柄もないことのたとえ(『岩波ことわざ辞典』)。麻生総理にとって小沢代表が「箸にも棒にも掛からない」代表だろう。

来日したケ(トウ)小平閣下に教えられたことがある。中国の箸が長いのは、両脇の客に料理を取ってやる必要があるから。つまりは主人と客人は同一の料理を食する。「毒殺」の意志のないことを証明するのだ、と。

昔は中国でも日本でも招待した客が油断したところで食事に毒を盛って殺す事が多かった。日本では町奴の頭領・幡隋院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)が争っていた旗本奴の首領水野十郎左衛門
に招待され、風呂に入ったところを殺された例がある。歌舞伎にもなっている。

中国で毒殺に使われた毒は「砒素(ひそ)」だったらしい。即効性が買われた。それを見破るために銀製の箸が工夫された。砒素がつけば銀は黒くなるからバレるわけ。

5000年前の中国で、煮えたぎった鍋から食べ物を取り出すのに2本の木の枝を使ったのが箸の始まりと言われている。

世界の約3割の人が、箸で食事をしているとの統計もある。現在、日本、中国、台湾、シンガポール、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジア、モンゴル、韓国、北朝鮮などの国と地区で日常的に使われている。

但し、すべての料理を器ごと持ち上げて食べるのは日本人だけ。韓国人は日本人を馬鹿にする一方で、置いた皿に顔をくっつけて「犬食い」して日本人を苦笑させる。

日本料理や中華料理の世界的な普及により、欧米諸国でも、箸を使える人は少なくない。むしろ学校給食で正しい使い方を教えられてない子供が多くなっているという指摘もある。

宇宙の無重力状態では食事には箸が不可欠だそうだ。スプーンやフォークでは「掴む」ことは難事だろう。その点、箸は掴むだけでなく、割いたり、纏めたりも自由。日本の食文化は箸文化でもある。

しかし、箸の正しい使い方を知らぬ人の増える事は、日本料理の世界普及と共に醤油が外国でよく売れるのに、日本での消費量が少しずつ減っているのと似たような話では無いか。

ところで箸は、日本では、6世紀以前までは食事は手で食べていた。箸の文化は無かったが、遣隋使が日本へ箸を持ち帰り、聖徳太子によって広められたとされる。

食事に用いられる箸の典型は、日本のものでは短い木に漆・合成樹脂を塗ったもので、塗り箸と呼ばれる。日本の箸は先が細くなっているものが多い。

これは骨付きの魚を食べる際、骨と身をより分けやすくするためで、(食卓の上で各自が料理する)日本の箸は、塗り箸など木製が古来から主流であり、次いで竹製が使われる。現代では子供用や一部の食堂などでプラスチック製もよく使われる。

日本の箸の主な産地は福井県の小浜市。他にも産地はあるが、それは漆器の産地とほぼ重なっている。

小浜市の 若狭塗は貝殻や卵殻、松葉が神秘的な模様を生み出す伝統工芸品から大衆の塗り箸、更には携帯箸、子供箸まで幅広く生産されている。全国の箸の80―85%の生産量を誇る箸の一大産地だ。

中国のものはやや長く、先もその反対側も若干細くなっているが、日本の箸に比べてそれほど細くはなっていない。円柱型や四角柱型が多く、また四角形型のものも、食べ物を挟む部分はたいてい円柱型をしている。

最も高級なものは象牙を用いるが、普通は竹や木を用いる。またプラスチック製の箸を用いるところもある。

朝鮮半島では戦乱が多かったため、箸に耐久性が求められた。そのため短く、やや平たい金属製のものを使うことが多い。鉄製などがあるが、現代の韓国ではステンレス製が主である。

歴史上では、支配階級を中心に銀製も使用された。これは硫黄や砒素と反応し変色するため、暗殺を未然に防ぐ効果があった。庶民に暗殺事件はあったかなかったか、貧しい者は銀箸など求められなかった。

日本には箸にちなんだ諺や言い回しが多い。

箸が転んでも可笑しい年頃(十代後半の感情豊かな女性)
箸が進む(食が進む)
箸が端
箸の上げ下ろし
箸より重いものを持たない(裕福な家の子女)
箸を付ける(食べる)
箸を取る(食事する)
塗箸で芋を盛る(滑って難しい)

また、割れ目の入った細長い木片または竹片を縦に2つに割ることで箸になる割箸もある。これは使い捨て用の安価な箸として、店舗などで販売される弁当や一部の食堂などで提供される。

以前は材木として役に立たない木片や間伐材を使っていたが、近年の需要の伸びから森林の乱伐につながり、問題視されていると『ウィキペディア(Wikipedia)』は書いているが嘘。逆。間伐材が売れなくて山林所有者は困っている。杉の柾目の高級割り箸をもっと使ってください、と。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




2008年10月02日

◆日教組は占領軍の遺失物


渡部亮次郎

戦前、田舎の結婚式はすべて家庭の座敷で執り行われ、そこには小学校の校長先生、駅長、駐在所の巡査が招待され上座に坐った。だが敗戦で日教組ができると校長はよばれなくなった。

敗戦の1945(昭和20)年、マッカーサーを先頭とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は12月、民主化の一環として教員組合の結成を指令した。

1947年(昭和22年)6月8日に奈良県橿原市で日本教職員組合の結成大会が開かれた。

大会では、日教組の地位確立と教育の民主化、民主主義教育の推進を目指すと定めた3つの綱領を採択し、六三制完全実施・教育復興に向けての取り組みを開始するとした。

私は後に日米間の教育交流事業に携わる機会があり、アメリカの初等、中等教育の実態をつぶさに視察した。レーガン大統領(共和党)が、アメリカの小中学生の学力レベルの低下を嘆き、日本に視察団を送ってきたりしていた。

ところが、彼らが持ち帰った結論は「PTA活動の充実」と「塾の発達」だったから驚いた。実際、アメリカの実態を見ると、父母は仕事に追われて教育は学校任せになっていた。

ところが任される教員は教科書を自分で作り努力しているにも拘わらず年収は300万円という低さ。社会的地位も低い。これでは聖職者である前に労働者としての権利を社会に要求を突きつけ、ストライキも辞さないのは当然だと感じた。

敗戦後すぐ遣ってきたGHQの連中にはアメリカで敬遠されている左翼が相当いたという。一方、教育を無力化することで「日本精神」を骨抜きにしようとする右側の意図とも重なって日教組の結成指令に繋がったのだと解釈した。

1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、マッカーサーは国家警察予備隊の創設を指令、再軍備に道を開き、日本を“反共の砦”と位置づけた。

一方で、日本政府は独立を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」復活など、一部から戦前への逆コースといわれる教育政策を志向し始めた。

再軍備や戦後教育を見直す動きの中で、日教組は、1951年1月に開いた中央委員会でスローガン「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」を採択し、戦後教育に関する運動を開始した。

また、1951年11月10日、栃木県日光市で第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催、現在に至っている。

その後も、「教師の倫理綱領」を定めて新しい教員の姿を模索する一方、文部大臣(現在の文部科学大臣)と団体交渉を行ってきた。

教育の国家統制や能力主義教育政策に反対する立場を取り、1956年(昭和31年)における教育委員会が住民による公選制から首長による任命制に移行することへの反対、

1958(昭和33)年における教員の勤務評定を実施することへの反対、

1961(昭和36)年における日本の全国統一学力テスト実施への反対、

1965(昭和40)年における歴史教科書問題をめぐった裁判(家永教科書裁判)運動の展開などを行った。

また、同じく教育の国家統制に反対する立場から1950(昭和25)年以降、国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対し続けている。

国政においては、日教組の政治組織である日本民主教育政治連盟は、1956年の総選挙で日本社会党などから推薦候補20人(うち、日教組組織内候補13人)を当選させ、1956年の参院選では10人を当選させた。

一方、政府・与党側では、第5次吉田内閣の大達茂雄文部大臣(自由党)が「日教組征伐」を叫び、1954年5月14日には教員の政治的中立を定めた教育2法を成立させた。

また日本民主党(現在の民主党とは別物)も、1955年8月13日に刊行した小冊子『うれうべき教科書の問題』の中で日教組批判を展開した。こうした対応の背景には思想的対立に加え、社会主義政党を支援する組織に打撃を与えようとする選挙対策としての側面もあった。

1991(平成3)年に、日本教職員組合を構成していた多くの組合員や一部の単位労働組合(単組)が脱退し、全日本教職員組合(全教)を結成した。

1994年(平成6年)には、日本社会党の路線変更に伴い、それまで社会党を支持していた日本教職員組合も方針を変更し、文部省(現在の文部科学省)と協調路線をとることに決定し、形式的には文部省と和解した。

自民党にはこれは和解ではなく文部官僚の日教組への屈服だと受け止める向きが多く、発足したばかりの麻生内閣でお門違いの中山国土交通大臣が早々と辞任に追い込まれたのも、背景に怯える日教組の姿勢を反映したものといえる。

公立小・中・高等学校における組織率及び組合員数は、文部省及び文部科学省発表による。単組数は直接的な下部組織のみ。

1958年(昭和33年):86.3%(調査開始時)

2003年(平成15年):30.4%、76単組、組合員数約31万8000~33万人

2004年(平成16年):29.9%、76単組、組合員数約31~32万2000人

2006年(平成18年):28.8%、76単組、組合員数約29万6000人

2007年(平成19年):28.3%、76単組、組合員数約29万人

都道府県で組織率に格差があり、山梨県、静岡県、愛知県、新潟県、福井県、三重県、兵庫県、大分県などで比較的高い組織率を保つ一方、、和歌山県、愛媛県など、ほぼゼロのところ、栃木県、京都府のように、100人前後を組織するにとどまるところもある。

また、2007年10月1日現在の新採用教職員の加入者数は5,560人(約21.7%、前年比0.2ポイント減)。2008・09・28
出典:『ウィキペディア』

2008年10月01日

◆中華人民共和国の成立

渡部亮次郎

1949(昭和24)年10月1日、毛沢東主席、北京天安門広場で、中華人民共和国と中央人民政府の成立を宣言。翌2日、ソ連が中国政府を承認(岩波書店『近代日本総合年表』)。

それまで中国を支配していたのは蒋介石。1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交だった。

1945年、抗日戦争(日中戦争)に勝利。実際は日本がアメリカなど連合国軍に無条件降伏したため中国に対しても敗戦したことになった。

蒋介石と毛沢東は1946年、国共内戦に突入する。蒋介石は反共産主義を掲げるアメリカから全面的な軍事支援を受ける。

毛沢東軍は国民党軍の足を引っ張りながら日本軍が捨てて行った近代的な武器を入手、俄然、優勢になったと後に毛沢東が述懐している。

蒋介石は1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)、1949年、国共内戦で毛の「八路軍」に遂に敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に事実上台北へ逃れた。

一方の毛沢東は、日本軍の撤退後は、ソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府からの軍事支援を削減された蒋介石の国民党軍を駆逐し、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利、1949年1月には北平(北京)に平和入城。

同年4月23日国民政府の根拠地首都・南京を制圧。10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言したのであった。この頃、日本では映画「青い山脈」が上映されていたらしいが、秋田の片田舎に着いたのは2年後1951年。

テレビのない時代、中学生の私は中華人民共和国の成立など知る由もなかった。まして将来、記者となって国交正常化に行く総理大臣に同行するなど夢にも思わなかった。

建国直後には、引き続き軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、ヨシフ・スターリンと会見。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエトとともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、毛は長男・毛岸英をアメリカ空軍の爆撃で失っている。

1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で、多くの知識人から硬直した政策を批判されたため、これを弾圧すべく1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。

さらに「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標とし、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用。

量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、結果的に無謀な生産目標に対し実際よりも水増しされた報告書が中央に上がるだけだった。

こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。

このことで「世界3大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。

しかもスターリン批判や対米政策をめぐり、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相とも不仲となった。1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化した。

1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引揚げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。

こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された7千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。

この大会を機に政治の実権は劉少奇−ケ(トウ)小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。そこで大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東はひそかに奪権の機会をうかがっていた。

1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為を「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持。

自ら天安門広場に赴き、百万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。

この頃、個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。

文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万とも数千万とも言われている。

この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・ケ(トウ)小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。

これを受け1968年毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。1971年の林彪事件以後、人材難からケ(トウ)小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。

ニクソン米大統領と毛沢東毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京における毛沢東=ニクソン会談である。

この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにも拘らず、毛沢東はニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。

これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれる。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、日本より7年も遅い1979年になってからである。その分、台湾との国交継続に成功した。

その後、1972年アメリカの同盟国である日本の田中角栄首相もニクソンの後を追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。

毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していた、といわれる。

なお中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。

ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。

その後も医師らによる懸命な治療は続けられたものの、1976年9月9日0時10分、北京の自宅で側近と主治医に見守られる中、毛沢東は82歳で死去した。

毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。

その後ケ(トウ)小平が党と軍を掌握。華国鋒は失脚して実権を失い毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。

毛沢東の存命中は、国歌義勇軍進行曲の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変された時期もあったが、死後間もなくもともとの歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。一般に、直接「文革」を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。

それにしても共産党幹部による汚職事件の多いこと、資本主義国に優るとは、中国はもはや共産主義国とは言えなくなったのでは無いか。
出典:『ウィキペディア』 2008・09・30