2011年08月31日

◆アマデウスとは誰

渡部 亮次郎


東京・国立に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。25年以上前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが名前だとは知らなかった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart,1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。

モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。

作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。

モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

断片も含め700曲以上に及ぶというが、僅か35年の生涯でこれだけの作品を残したという事は当(まさ)に天才。楽譜に記しながら次の作品を頭に描いていたとしか思えない。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。モーツアルトは歌い、ベートーヴェンは唸ると私が言ったのは当っている。

晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

「下書きをしない天才」と言われることがある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられている。自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。

人気の高いピアノ協奏曲23番においては、数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はモーツァルトがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父親との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げた事が分かっている。

交響曲第39番から41番までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲した、という手順を踏んでいたという事が分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、手紙や各種の資料で確認できるように、生計を立てるために注文を受けて書かれた。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」だった。

彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代だった。

従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。

モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較してその差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは二人がおかれていた社会的状況の差であると言える。

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。

しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになって、ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られた。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。

この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。

遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。

鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。

これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。

検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。(ウイキペディア)

2011年08月29日

◆鹿野を無視した小沢の怨念

渡部 亮次郎


予想いたとおり、小沢は鹿野を無視し、泣き虫海江田を選んだ。

泣き虫は選挙の看板にはならないから、小沢軍団とはいえ、女性議員らチルドレンは小沢の指のあいだから逃げて、看板前原に走る可能性が無いわけじゃない。

<「海江田氏なら政治前進」=小沢氏、女性議員と会食

民主党の小沢一郎元代表は26日夜、都内のイタリア料理店で、三宅雪子衆院議員、谷亮子参院議員ら自身を支持する女性議員約15人と会食した。

出席者によると、小沢氏は党代表選で海江田万里経済産業相を支援する方針を決めたことを説明。「(海江田氏なら)どんどん政治が前に進む。国民の生活に直結する政策をやってくれる。決して諦めることなくマニフェスト(政権公約)を実現する努力を重ねていける」と強調した。> 時事通信 8月27日(土)0時45分配信

財源を見つけることができなくて実行不可能と決った「マニフェスト」。そのマニフェストに拘ることが海江田推薦の理由だと小沢は言うわけだ。これにチルドレンたちは納得するのだろうか。

とにかく小沢には走れる馬が1頭もいないのだ。さりとて前原にも野田にも乗れない。仕方ないから鳩山派にいる海江田を指名するしかなかったのだ。

ひょっとして農林水産大臣の鹿野道彦を指名すると言う観測もあったが、私は「絶対あり得ない」と思っていた。小沢の怨念が、そうさせない。それは何か。

<鹿野は海部党首退任後の第2回新進党党首選挙では小沢一郎の推薦人となり、小沢が当選後の明日の内閣では総務庁長官となった。

しかし鹿野らが推し進めてきた小選挙区制での初の選挙である第41回衆議院議員総選挙で新進党は敗北。この結果を受け、小沢ら執行部の運営に不満を持った羽田孜や奥田敬和らが離党し太陽党を結成するなど党内情勢が不安定に。

更に小沢や自民党の梶山静六・亀井静香らが提唱した保保連合構想によって小沢の求心力はさらに低下する。

1997年、このような状況を受けて小沢の再選を阻止すべく「今こそ新進党は生まれ変わらなければならない」と鹿野は自ら党首選に出馬。小沢と一騎打ちとなり、結果的に小沢の再選を許すも小沢230票・鹿野182票と善戦した。

選挙後、鹿野は小沢の手を取って選挙後の党の団結をアピールするが、小沢は鈍化路線に走り選挙9日後の12月27日に一方的に新進党解党を宣言する。

新進党解党後、党内の反小沢系の保守派議員を集め、1998年1月4日に国民の声を結成し代表に就任。さらに23日、太陽党・フロムファイブ(細川護煕代表)と合流し、羽田を党首にかついで民政党を結党。鹿野は党幹事長に就任するが、間もなく民政党は民主党に合流した。>(ウイキ)

自らに肉薄した者に対する怨念は忘れることができない。それが小沢なのだ。だから側近も離反してゆく。気がついてみれば党代表選挙に乗るべき馬が無くなったのがこの「怨念」である。

つまるところ、小沢は決定的な敗北を喫すれば、政治生命をもはや失いかけている。最早、政界にいてやることがなくなったから、失意の身を何処に置くのだろう。

前原の対抗馬に小沢が海江田を想定している事は、小沢が海江田の経済理論に凄く共鳴しているという情報から、或いはと想定していた。しかし海江田が国会審議中に泣くという飛んでもない失態を演じたので、見捨てたのかと思っていた。だが、こともあろうに西岡参院議長の名を出し、ルーピー鳩山にと止められると海江田しか居なかった。文中敬称略
 

2011年08月28日

世の中を見る目

渡部 亮次郎


私に最も強い影響を与えた人は河野一郎、園田直、重宗雄三。いずれも政治家である。私は大学に行ったが、友人は少なかった。NHKで20年近く暮らしたが、まともな先輩は後に会長になる島 桂次と政治部長になる飯島 博だけだった。

この中で政治家を見分ける手段を教えてくれたのは島である。島は海軍兵学校から東北大学を経てNHKに入局。初任地仙台から盛岡を経て東京政治部。

私は大学こそ違ったが仙台、盛岡を経て政治部という島と全く同じコースを辿って島と会ったのだ。だが、島はそうしたことに無関心だった。つまり「島派」の結成に無関心だった。

それで政治部長になれず、番組部門の部長に飛ばされてから、逆に参議院クラブにいる私をしばしば訪ねてくるようになって、親しく話した。

政局はフィルターをかけて見なければいけない。ある推論で政治家を見直すのだ。福田赳夫が佐藤栄作の後継者と目されているが、それは本当か、佐藤が角栄に傾く事は無いか、カネで福田を見捨てることはないか。

今だったら小沢がまた党代表選挙に立つ事は本当にあり得ないか。

自民党の古手の連中と「大連立」の約束を取り付けて新自由党を立ち上げる事はあり得ないか、考えてみろ、と言うだろう。

菅は政権にしがみつくといっているが、果たして可能だったか。不可能だというフィルターをかけて見てみろと言うに違いない。島にかかれば「角福戦争」で角栄は福田を保護している佐藤首相にカネを積むんじゃないかとも見ていた。

島は、単独会見しか信用しなかった。「不特定多数の記者の前で本音を語れる、度胸のある政治家なんていない。特定の相手にしか話さないのが人間の本性だ。だから記者会見を信用する奴はバカだ」

しかし、今の記者諸君は記者会見を頭から信用して紙面やテレビに流す。単独会見を試みようともしないようだ。だから見通しをしばしば誤る。菅や仙谷が例のビデオを隠してまで日中首脳会談の実現にはしる「愚」を止める記事を書けない。

自慢話と受け取られたら不本意だが、昭和40年代に総選挙の投票日を的中させて報道局長賞を受けたことがある。

NHK政治部の体勢は幹事長田中角栄の言う説を真実と放送したが、その時佐藤首相と向かい合った角栄が緊張して椅子に極めて浅くかけていたといった国対委員長園田直の話から、角栄は投票日の決定を佐藤から一任されていない証拠とみた。

そこで園田氏にどう見るか尋ねたところ「総理は縁起を担ぐから大安に拘るよ」だった。この主張が後に真実となり「訂正記事」が報道局長賞となったのだった。(敬称略)


2011年08月26日

◆張春橋の軟らかな手

渡部 亮次郎


(再掲)1972(昭和47)年9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)調印。日中国交回復。その足で田中角栄首相は周恩来首相と共に中国側の特別機で上海を訪問した。今でもそうであるように上海は中国の権勢のもう1つの拠点。敬意を表したのである。

その時、上海を代表して出迎えたのは張春橋であった。経歴を改めてみると1969年〜1973年 中共中央政治局委員となっているが、われわれ同行記者団には「上海市長」と紹介された。握手してくれた手はまことに軟らかく乾いていた。未だにあんな手を握ったことは無い。

そう、張春橋こそは、のちに悪名高い「4人組」の1人だった。毛沢東の指示により張春橋は翌日、上海空港からの見送り客を北京の2倍に増やしたのだった。そこで周恩来は別れ際、田中首相に言った、「天皇陛下によろしく」。私は離れたところに置かれたから聞いてないが・・・。

張春橋(ちょうしゅんきょう 1917年〜2005年4月21日)は中国元副首相、4人組の1人。山東省出身。

1930年代までは、上海の作家だった。1938年中国共産党に入党。『晋察冀日報』と『新石門日報』の編集長を歴任。

1949年10月の中華人民共和国成立後、『解放日報』の編集長、上海市常任委員、宣伝部部長、上海市書記候補などの役職に就く。

1958年、『破除資産階級法権』を発表、毛沢東に絶賛された。上海で江青と合流し、文化大革命の発動に関わる。そのおかげで出世はヘリコプターとたとえられる。

1966年〜1969年 中共中央文化革命グループ副リーダー
1969年〜1973年 中共中央政治局委員
1973年〜1976年 中共中央政治局常任委員

1975年〜1976年 国務院副首相
1975年〜1976年 中国人民解放軍総政治部主任

<この文化大革命(文革)によって浮上した江青(中央文革小組副組長の毛沢東夫人)、張春橋(副首相、政治局常務委員)、姚文元(政治局委員)、王洪文(党副主席)の4人とそのグループを「4人組」と言った。

文革では様々なグループが登場したが、林彪グループと並ぶ一大勢力を形成、主に上海を拠点にして活動した。

1971年9月の林彪事件で林彪グループが脱落した後に勢力を伸張。日中国交正常化後の73年8月の10全大会では4人全員が中央政治局入りした。

政治局内で「4人組」(4人幇)を形成、文革の主導権を確立した。その後、批林・批孔運動による周恩来批判、さらには復活していたトウ小
平の打倒へと向かった。

しかし、毛沢東は、1974年7月の中央政治局会議で「4人組をつくってはならない」と、江青、張春橋らを批判。10月には王洪文が長沙の毛沢東を訪れトウ小平を批判、筆頭副総理の就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも思い通りにはならなかった>。「現代中国ライブラリー」

 http://www.panda-mag.net/keyword/ya/yoningumi.htm

彼らが運動の拠り所の1つとした批林・批孔運動とは1973年8月から1976年まで続いたもの。林彪と孔子および儒教を否定し、罵倒する運動。中国の思想のうち、法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間であるとする。

中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた。(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)善人=少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、漢の高祖、漢の文帝、漢の景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。悪人= 孔子、孟子、司馬光、朱熹ら。

この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引き摺り下ろそうとする4人組側の目論見で行われたもので、学者も多数孔子批判を行った。

武則天が善人の中に入っているのは、江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。司馬遼太郎が行った現地レポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。

司馬遼太郎はこの風景を見て非常に衝撃を受け、元々文化大革命に理解を示していたが、これ以降否定的になっていった。(ウィキペディア)

江青は中南海の懐仁堂で電撃的に逮捕。

<1976年1月に周恩来が死去。その後、第1次天安門事件などで民衆の反4人組感情が高揚した。トウ小平を再度の失脚へ追い込んだが、同年9月の毛沢東の死去で権威を失った。

上海からクーデターによる奪権を計画。「江青党主席、張春橋総理」による4人組支配を樹立しようとしたが、10月6日、汪東興が率いる8341部隊によって、中南海の懐仁堂で電撃的に逮捕された。

華国鋒政権による逮捕劇の背後には葉剣英ら軍長老たちがいた。ここに4人組の文革は終焉した。1977年7月の10期3中全会で党籍永久剥奪。続く8月の11全大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結が宣言され、4人組は断罪された。

迫害、追放されていたトウ小平ら“実権派”の指導者たちの名誉は回復され復活した。「4人組」という表現は、主として失脚してから使われるようになった。

1981年の林彪・4人組裁判では、それぞれ死刑から懲役刑の判決が下された。このうち、江青は1991年に獄中自殺。王洪文は服役中の1992年に病死。張春橋は出所後の2005年に胃ガンで死去。姚文元も出所後の2005年末に糖尿病で死去している。「現代中国ライブラリー」

 http://www.panda-mag.net/keyword/ya/yoningumi.htm

張春橋の天国から地獄への道を敢えて示せば次の通りである。(「ウィキペディア」)

1976年10月、隔離審査。

1981年1月、最高人民法院特別法廷で、執行猶予2年付き死刑判決。法廷では黙秘を貫く。1983年1月、無期懲役、終身の政治権利の剥奪に減刑。

1997年12月、懲役18年、10年間の政治権利の剥奪に再減刑。 1998年1月、健康状態を理由に仮出所。 2005年4月21日、胃がんのため、死去。享年88。執筆2007・05・15

2011年08月23日

◆地熱発電と温泉宿

渡部 亮次郎


<地熱発電と言えば、もう大分昔になりますが、九州電力の地熱発電所を見学したことがあります。

その時、案内して下さった職員曰く、地中深く掘った井戸も時期がくると涸れてしまうので、又、あちこちボーリングをしなければならず、しかも、井戸も掘ったら百発百中ではなく、蒸気のとれる井戸に当たるまで何本か掘らねばなりません、1本掘るのに1億円程かかります、と。当時で1億円かかった費用が現在の技術ではどれぐらいかかるのか。

地熱発電が商業的に採算が取れにくいのはこのあたりに理由があるのかも知れません。大阪の頑固親父 2011・8・17>

<費用の件はよく解りませんが、開発の隘路として立地適地に国立公園が多いとか温泉地に与える影響とか多くが有り、一筋縄ではいかないという事を随分以前から聞いて (記事で見て) おりますが。>佐藤雄一 2011・8・18

郷里の秋田県で、友人の佐藤和志さんは仙北市田沢湖の国有林近くで「鶴の湯」という温泉宿を経営し、まあまあの実績をあげているが、原子力発電所の事故をきっかけに広まった脱原発の世論と、それに伴って急速に再浮上した地熱発電論に神経を尖らしている。

例えば、そう遠くない八幡平や湯沢での地熱発電への動きなどを考えると、悠長に構えはいられない。温泉が涸れないよう、反対への「武装」を早めに用意しなければならないと焦りの気持ちは高ぶる。

<岩手県八幡平市で地熱発電を検討

岩手県八幡平市、日本重化学工業、地熱エンジニアリング、JFEエンジニアリングは、岩手県八幡平市八幡平御在所地域で地熱発電の事業化に向けた検討で合意した。

同地域は、全国でも有数の地熱地帯だ。4者はこれまで、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)から委託を受け、同地域の地熱開発促進の調査を行ない、最大で20〜50MW相当の地熱資源の腑存を想定した。

資源としてのポテンシャルの高さから地熱発電可能と判断し、今後、具体的に事業化の検討を進めるとともに、関係諸官庁と許認可の取得などについて協議する。

八幡平市は、再生可能エネルギーの実用性を探り、二酸化炭素排出量削減などの地球温暖化対策に取り組んでいる。日本重化学と同社グループ会社の地熱エンジニアリングは、日本初の松川地熱発電所を立ち上げるなど、地熱発電のパイオニアで、地熱探査や掘削、分析、蒸気生産管理などの資源開発で国内トップクラスの技術力を持つ。

JFEエンジニアリングは、地熱発電分野で全国18か所の発電所のうち、9か所で蒸気設備を建設しており、昨年度にはバイナリー発電システムを商用化した。今後は発電事業への参入も視野に入れている。

4者は早期に検討を進め、2015年には出力7000kW級の発電設備による送電開始を目指す。>2011年7月11日(月) 14時40分 JFE 特別編集

地熱発電は探査・開発に比較的長期間を要し、探査した結果地熱利用がかなわない場合もあり、火山性の自然災害に遭遇しやすいリスクもある。

しかし、運転に際して温暖化の原因となる指摘されているいわゆる温室効果ガスの発生が火力発電より少ない点、燃料を必要としない点、燃料の枯渇や高騰の心配が無い点で、優れたエネルギー源とされる。

また再生可能エネルギー(自然エネルギー)の中でも、安定的な出力が期待できない太陽光発電や風力発電とは異なり、需要に応じて安定した発電量を得られる地熱発電は、ベースロード電源として利用可能である。

地球全体でみた資源量も大きく、特に日本のような火山国においては大きなポテンシャルを有すると言われる。近年の枯渇性燃料の高騰によってコスト的にも競争力が増し、見直されつつある。

日本では1919年に帝国海軍中将・男爵山内万寿治が、軍人として国のエネルギー安全保障に興味を示し、大分県別府で地熱用噴気孔の掘削に成功した。

これを引き継いだ東京電灯研究所長・太刀川平治が1925年に出力1.12kWの実験発電に成功したのが最初の地熱発電とされる。しかし、微力だったことから、山内の死後程なくして地熱発電の実用は立ち消えとなった。

実用地熱発電所は岩手県八幡平市の松川地熱発電所(日本重化学工業株式会社)が1966年10月8日に営業運転を開始したのが最初である。私はこの前後、NHK記者として岩手県内に駐在していたので現地見学を果たした。

地熱発電は石油などの化石燃料を使わないクリーンエネルギーであり、日本では約5%しか自給できない天然ガスにも匹敵する貴重なエネルギーを国産で採掘できることから、原油価格やウラン等の核燃料価格の変動リスクがない国産エネルギーとして、見直しが進められている。

地熱発電はコストが高いとされているが、近年になって費用対効果も向上しており、近年の実績では8.3円/kWhの発電コストが報告されている。

特に、九州電力の八丁原発電所では、燃料が要らない地熱発電のメリットが減価償却の進行を助けたことにより、近年になって7円/kWhの発電コストを実現している。

現在のところ、日本において地熱発電によって生産されている電力の総容量はおよそ535MW(53万キロワット)で2010年段階で世界第8位である[22]。地熱発電に関わる技術は高く、140MWと1基としては世界最大出力の地熱発電プラント(ナ・アワ・プルア地熱発電所)を富士電機システムズ(現在は富士電機(旧富士電機HD)に吸収合併)がニュージーラン
ドに納入するなど、2010年の時点で、富士電機、東芝、三菱重工の日本企業3社が世界の地熱発電設備容量の70%のプラントを供給している。

H22年度の環境省によるポテンシャル調査では、理論的埋蔵量である「賦存量」は設備量にして約3300万kWと見積もっている。

そのうち、地形や法規制等の制約条件が考慮された「導入ポテンシャル」は約1420万kW、経済的要因等の仮定条件に沿った「シナリオ別導入可能量」は、シナリオによって108〜518万kW(温泉発電を含む)と見積も盛られている。

日本国内の地熱発電による発電量は世界的に見ても上位に位置するが、経済大国である日本全土の莫大な総発電量からすると、国内地熱発電の割合は0.2%を担うに過ぎない。

53万キロワットは、福島第一原子力発電所や美浜原子力発電所などにある中型原子炉1基分にすぎない。九州電力では比較的に地熱発電が盛んでが、それでも九州地方全域で生産可能な電力の総量の2%を占めるにとどまる。

日本で地熱発電が積極的に推進されにくい理由は、国や地元行政からの支援が火力や原子力と比べて乏しいこと、地域住民の反対や法律上の規制があるためである。

候補地となりうる場所の多くが国立公園や国定公園に指定されていたり、温泉観光地となっていたりするため、景観を損なう発電所建設に理解を得にくいこと、温泉への影響に対する懸念があること、国立公園等の開発に関する規制があることが地熱発電所の設置を難しくしている。

例えば、群馬県の嬬恋村では2008年に地熱発電の計画が浮上したが、その予定地が草津温泉の源泉から数kmしか離れていないため、温泉に影響が出る可能性が必ずしも排除できないとして草津町が反対している。

草津温泉では、地熱発電と温泉との因果関係の有無を検証するための地下ボーリング調査等を行うことにも断固反対している。

これら諸問題について、地熱発電を推進している日本地熱学会などの推進派グループでは、国立公園内にも巨大ダムや大型施設が立地していることから、環境省の裁量次第で建設できると反論している。

また、地下の地熱エネルギーおよび温泉資源についての科学的調査の結果、日本において地熱発電所が温泉などの周辺環境に影響を与えた事例が一例もないこと(ただし、外国では熱水の還元不足などから温泉に影響を与えた例がいくつか確認されている)から地熱発電所と温泉・観光地との共存共栄は可能であるとの見解を示している。

日本は火山が多く地熱発電に適しており、太陽光発電や風力発電に加えて地熱発電の開発も進めるべきだ、との指摘がなされてきた。

2009年1月には、20年ぶりに国内で地熱発電所を新設する計画が報道されている。2010年には、秋田県湯沢市での事業化検討に向けた新会社の設立や大霧発電所での第2発電所建設計画が進行している。

行政も、2008年には経済産業省で地熱発電に関する研究会を発足させたり、 2010年度には、地熱発電の開発費用に対する国から事業主への補助金を、 2割から3分の1程度にまで引き上げることを検討するなど、2008年から 2009年にかけては地熱発電の促進が積極化しつつあった。

しかし、2010年5月、民主党政権による事業仕分けにより、「地熱開発促進調査事業」と「地熱発電開発事業」の2事業が 廃止や白紙化を前提とした「抜本的改善」の措置をうけることが決定された。このことについて、日本地熱学会は懸念を表明している。

東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故により、再生可能エネルギー開発が喫緊の課題となったことを受け、2011年6月、環境省は、熱発電所設置における二大課題である「国立公園に関わる規制」および「温泉施設に対する影響評価」の見直し作業に入った。(ウィキペディア)23011・8・17

2011年08月22日

◆気高い「きだかい」

渡部 亮次郎


2007年12月19日NHK正午のニュースでアナウンサーが気高い(けだかい)と読むべきを「きだかい」と読んだと呆れて電話があった。記者の先輩だった人からである。

気高いがなぜ「きだかい」になったのか理由は調べようがない。深夜便に出るようになった男のアナウンサーは股引(ももひき)を「またひき」と読んだことがある。

私がNHK国際局でデスクをしていた時、女子アナウンサーは民社党の春日「はるひ」委員長と読み、内科、外科(がいか)と読んでこっちを仰天させた。

アナウンサーとは難しい商売である。間違って覚えてしまっている言葉もあるかもしれないが、つい咄嗟に口を出てしまう誤りがあっても、聴取者には言い訳が利かない。因果な職業であり、同情する。

しかし政治家の日本語誤用は許されない。額賀福志郎財務大臣(当時)の言語道断を「げんごどうだん」には呆れた。彼は早稲田大学を出て産経新聞の政治部記者だった。角栄番から茨城県議を経るという経歴豊富な教養人であるはずが、様にならない。

論功行賞を「ろんこうぎょうしょう」と連発した大臣がいた。なんとかコンチェルンの一族だったが、どの学校で何を習ったのか、早くに死んだから恥を長く曝さないで済んだと言うべきだろう。

自民党のある国対委員長は「がっぽうてきてだん」をとって野党の議事妨害を排除するという。記者団はみんな首を捻ったが、長老があとで「合法的手段」と助けてくれた。

それ以前には本会議場(全議員が一堂に会する会議)での演説で「ここで水を飲む」とト書(とがき)まで読んでしまった代議士がいたそうだし、追加更正予算を「おいかさらまさよさん」といった代議士もいたそうだ。

以後は学歴も向上したからこうした話題は少なくなったが、額賀氏の「げんごどうだん」は久々の事だったので言語道断の日本語と話題になったわけだった。

しかしわが大臣も旗幟鮮明を「きしょく」鮮明というものだからさぞかし外務省は陰で笑った事だろう。私も注意する勇気はなかった。殺陣(たて)をさつじんとも言った。

こういう話題は探せばいくらでもあるはずだ。しかも今は学歴は高いが勉強は全くせずに社会に出てくる子供が益々多くなっていることだから「きだかい」は序の口かと思う。多分「じょのくち」は分からないだろ
う。

2011年08月19日

◆日米戦争を予測した憂国の士

渡部 亮次郎


朝河貫一のことは、朝河と同郷の外交官古川清さんから聞かされていたが、詳しくは知らなかった。NHKのラジオ深夜便が16日午前4時から放送したので、ウィキで調べてみた。

深夜便で前4時台 〔明日へのことば〕   歴史学者・朝河貫一に教えられた事 と題して語った玉川聖学院講師 山内晴子さんは主婦のあと大学院に入りなおし、朝河の研究で博士号を得た凄い人である。

日露戦争で勝利した日本が軍部の傲慢を抑えられず、これでは日米戦争が避けられなくなると、アメリカにいて心配した朝河の苦悩と活躍を活写した論文による。

朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。イェール大学では“Historian”、“Curator”(キュレーター)、“Peace Advocate”(平和の提唱者)として評価されている人である。1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任した。

業績 の第一に「歴史学者」としての業績がある。古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、後にイェール大学教授となった。

特に「入来文書」(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群の研究が有名で、これをまとめた英語の著書が”TheDocuments of Iriki” (『入来文書』 1929年、昭和4年)である。マルク・ブロックらアナール学派の歴史学者とも交流があった。

第二に「平和の提唱者」としての業績がある。『日露衝突』を著し、全米各地で日露戦争における日本の姿勢を擁護し演説した朝河は、日露戦争後の日本の姿から将来の「禍機」を予測し、日本に警鐘を発するため、1909(明治42)年『日本の禍機』を著した。

『日本の禍機』で発した警鐘は、後に現実のものとなる。1941(昭和16)年11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。朝河は第2次世界大戦中、戦後もアメリカに滞在したが、終生、日本国籍のままであった。

第三に「キュレーター」としての業績がある。1906年の第1回帰国では、米国議会図書館、イェール大学の依頼で日本東アジア関連図書・資料の収集を行った。

イェール大学図書館には、『手鏡帖』(8世紀?17世紀の主要な個人の仏書・手紙・歌書等の筆跡を集めた帖)、『青蓮院尊円法親王御筆』(青蓮院流の初祖、尊円法親王の御筆)、『竹取物語』(奈良絵本)、『厳氏孝門清行録』(朝鮮本)、『烈女傳』(漢籍)、『伊勢物語』(所蔵されているものは室町中期?江戸前期に製作された奈良絵本)等が所蔵されている。

これらの図書・資料は、欧米での日本研究や東アジア研究に必要不可欠なものとなっている。なお、2010年8月には、朝河の呼び掛けに応じ、日本在住の同大卒業生や当時の東京帝国大・黒板勝美が贈った2曲1双の屏風の中に、東大寺を復興した僧・重源(1121-1206)が1192(建久3)年に花押を記した文書を確認したことを、東京大史料編纂所が発表した。

朝河の数々の業績を讃え、2007(平成19)年10月にはイェール大学講師就任 100年を記念し、セイブルック・カレッジ構内に「朝河貫一庭園」が造られた。

この庭園は2000(平成12)年にニューヨークの国連本部にある「平和の鐘」公園を造ったアベ・シンイチロウによってデザインされた。また、ダートマス大学には朝河貫一の業績を記したプラークが朝河貫一博士顕彰協会より贈られた。

これに先立ち、2007(平成19)9年月には、外交官時代にイェール大に学び、自称「弟子」を自認する加藤良三駐米大使(当時)を招いたシンポジウムを福島県郡山市の安積歴史博物館で開催、500人を超す福島県民、安積高校生等に真の国際人・朝河について講演した。

福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。

1874(明治7)年、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島県福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が 4歳の時に描いた馬の絵が現存する。

1878(明治11)年立子山小学校初等科に入学後、同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。その後、川俣小学校高等科(現福島県伊達郡川俣町立川俣小学校)へ移り、1887(明治20)年10月、蒲生義一に就いて英学を学ぶ。

1888(明治21)年、現在の福島県福島市杉妻町にあった福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)に入学する。1889(明治22)年、現在の福島県郡山市に福島県尋常中学校が移転すると、朝河は郡山市の宮本家に下宿し、そこから通学する。福島県尋常中学校在学中、英国人教師トーマス・エドワード・ハリファックスに教えを受ける。

1892(明治25)年3月、同校を首席卒業の後、5月〜8月まで郡山尋常小学校(現福島県郡山市立金透小学校)で英語教授の嘱託を勤める。

1892(明治25)年12月、東京専門学校(現早稲田大学)に編入学し、1895(明治 28)年首席で卒業。同校在学中に大西祝、坪内逍遙、夏目漱石等の教えを受ける。またこの時期、横井時雄により洗礼を受ける。

1895(明治28)年、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰、勝海舟らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学へ編入学する。

1899(明治32)年 米国ダートマス大学を卒業する。

1902(明治35)年イェール大学大学院を卒業する。1902(明治35)年Ph.D.を受ける。

1902(明治35)年ダートマス大学講師となる。

1905(明治38)年 クラウンポイントの教会でミリアム・キャメロン・ディングウォールと挙式する。

1906(明治39)年〜1907(明治40)年米国議会図書館とイェール大学図書館から依頼を受けた日本関係図書収集のため一時帰国する。(第1回帰国)

1906(明治39)年9月?1907年(明治40年)6月早稲田大学文学部講師となる(英語を担当する)。

1907(明治40)年再渡米、イェール大学講師、次いでイェール大学図書館東アジアコレクションキュレーターに就任する。

1907(明治40)年ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍する。

1910(明治43)年同大学助教授となる。

1913(大正2)年ミリアム・朝河と死別する(ミリアムの墓は米国コネティカット州ニューヘブン市内エヴァグリーン墓地にある)。

1917(大正6)年〜1919(大正8)年東京大学史料編纂所に調査・研究のため一時帰国する。(第2回帰国)

1930(昭和5)年イェール大学準教授となる。

1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任する。

1941(昭和16)年 日米開戦を避けるため、天皇宛米国大統領親書草案をラングドン・ウォーナーに渡す。

1942(昭和17)年同大学名誉教授となる。

1948(昭和23)年 同大学図書館日本部長兼キュレーターを勤める。

1948(昭和23)年バーモント州ウェストワーズボロで死去する。享年75。遺体はコネチカット州ニューヘヴンのグローヴストリート墓地に埋葬される。また、福島県二本松市の金色(かないろ)墓地に墓が建立されている。


トーマス・エドワード・ハリファックス

福島県尋常中学校時代の朝河に英語を教えたハリファックスは、英国(イングランド)ウィルトシャー州ウェストベリーに生まれる。1871(明治4)年から1874(明治7)年までの約3年間、工部省電信寮に電信技師として採用された後、中村正直の同人社や近藤真琴の攻玉塾等の私塾で英語を教える。

その後ハリファックスは朝鮮に渡り、朝鮮で最初の王立英語学校「同文学」で朝鮮の関税職員や外交官等に英語を教えたり、ソウル〜プサン間の電信線工事に携わったりする。

1890(明治23)年、福島県尋常中学校に赴任する。1892(明治25)年、時の福島県会がハリファックスの解雇を審議することを知った朝河は、「留任嘆願書」を提出した。

しかしその後、ハリファックスの解雇が決まった。福島県尋常中学校を去った後、ハリファックスは長野県尋常中学校(現在の長野県松本深志高等学校)、朝鮮官立英語学校で教鞭をとる。愛嬢アグネス・フローレンス・ハリファックスと共に、韓国ソウル市のヤンファジン(楊花津)外国人墓地に埋葬されている。(「ウィキペディア」)2011・8・16

2011年08月16日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。

古参兵たちにしてみると、隊長戦死では不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎が、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下からと叫んだものだ。「亮次郎、競馬行こう」

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2011年08月15日

◆転失気総理森喜朗

渡部 亮次郎


「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことである。それを知らずに、知らないことを知っている風に済ます人を「てんしき」と昔は言ったらしい。

『論座』という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。五百旗頭 真(防衛大学校校長)、伊藤元重(東京大学教授)ら3人が森喜朗前総理大臣の生い立ちから今日に至るまでに質問。「キーパーソンが語る証言 90年代」と題し、第13回に森氏が登場した。

森氏が1969(昭和44)年12月に無所属ながら初出馬にして初当選を果たした翌年のことだったようだ。森氏と同期当選の中尾宏氏(鹿児島2区=当時=故人)が政界中を触れ回った。

「森がな、選挙区の運動会周りをして、財布をカラにした。親分の福田さんに70万を助けてくださいとお願いしたら、さすが元大蔵省主計局長。おいそれは50万に負からんか」

「その話が角栄(幹事長)の耳に入って、森がすぐ呼ばれた。森クン、これ持ってけよ、カネは邪魔にならんからな、といってポケットに300万円をねじ込んだ。森は受けとったさ」。

私はこの話を中尾氏から何度も聞いた。森氏は否定するだろう。「証言」で「角さんのカネは森さんも受け取ったことがあるんですか」と訊かれて「いやいや」と応えている。

角さんがロッキード事件で逮捕されたとき党内反三木派が挙って挙党体制確立協議会を結成して三木首相の引きずり降ろしに奔走した時、森氏は三木内閣の総務副長官として、少なくとも形式的には三木側近だった。

「証言」では「三木降し」が即福田政権に繋がると思っていたと応えているが、私からすれば不思議としか言いようがない。詰まり三木降しの過程で福田、大平の両氏は三木氏から「ボクの後をやるのは君らのうち誰に決まっているのか」と逆襲されてギャフンとなった二人だったではないか。すぐ福田とは本人もまだ思ってない。

真実はそこで園田直(福田派)保利茂(福田支持)鈴木善幸(大平派)江崎真澄(田中派)による調整が進んだ。森氏はその事実さえ知らないはずだ。

当時は、なんと言っても「闇将軍」田中支配の時代。田中氏が大平氏に手を上げれば即大平総理誕生の情勢だった。そこで園田氏は嘗ての敵陣に乗り込み「2年」を条件に田中氏の了承を取り付け「大福密約」を成立させたのだった。

この陰で福田氏は、総理大臣を「たとい半年でも」と懇願していた。田中氏との「角福戦争」に敗れてすでに5年。齢71である。これが最後のチャンスとは自他共に認めるところだった。森氏は何も知らない。

そうやって衆参両院とも、過半数を上回ること僅か1票というすれすれで成立した老齢内閣。党幹事長に回った大平氏とのすべての調整を考慮すれば、園田氏がこの際、内閣の番頭でもある官房長官に座る以外に妙手はなかった。

しかし、福田氏の親分たる岸信介元総理大臣が背後から、自分の女婿安倍晋太郎の官房長官就任を迫っていたため、福田氏は園田氏の申し出に返事をしなかった。

だが園田氏は「官房長官でなければ今回は入閣しません」との最後通牒を放ち、塩川正十郎氏を副長官として長官室に籠もってしまった。総理は「1年ぐらい我慢するか」と呟いて渋々認めた。

三木内閣にいる森氏がこの経緯を知るわけがない。それなのに「知らない」と言えないから「てんしき」と嗤われる。

1年後官邸から自宅に電話がかかってきて「秘書官になってよ」「あぁ、いいですよ」と応えた。行ってみたら仰天、外務大臣に変っていた。このとき森氏は安倍官房長官の下、官房副長官に発令される。

「証言」で森氏は園田氏がこの人事に不満なのは残した官邸が安倍色に塗り替えられるから、とワケの分らぬことを言っている。キャリア30年の代議士が、そんなことを不満とすると、てんしきさんなら思うのか。

園田氏は「密約延長工作」の破綻が悔しかったのである。だから園田氏が「それで外務大臣として何をするかを考えたんでしょうね。功名心もあって日中(平和友好)条約に取り組んだんです」とは矛盾しており、下卑た判断だ。

日中条約を締結すると言う決意を福田総理が密かに明らかにしたのは、1977(昭和52)年1月4日。世田谷区下馬の総理私邸においてである。

そこには園田官房長官に伴われた中年の男性が正座し、総理の決意を携えて直ちに北京に飛んだ。黒衣(くろこ)の登場だった。

進んで外相を狙い、功名心から日中条約を締結したというのでは、知ったかぶりをするのは許せても、ウソを固めて故人を冒涜するもので紳士欠格者だし、総理大臣経験者として、相当権威を欠くというものだろう。

福田総理は園田外相の怒りを知っており、大平側に寝返って攻略してくるという悪夢も抱いていた。だから日中条約の交渉全権は佐藤正二大使で済まされないかと画策した。

当時、霞クラブで取材した東京新聞記者(その後東海大学教授・故人)の著書『天皇とトウ小平の握手』(行政問題研究所出版局)に詳しい。

ところが、園田外相は加えて、総理がすっかり忘れてしまっているあの「黒衣」から「中国は復活したトウ小平副総理の指示で早期妥結にギヤを切り替えた。大臣が北京入りすれば必ず妥結」という、軍をも交えた情報を得ていた。この情報は大使館が得ていないから、総理の耳には届
かない。

森氏は「証言」で福田総理の「決断」は昭和53(1978)年8月6日(日)午後6時、箱根プリンスホテルの福田・園田会談だったと強調するが、有田圭輔外務事務次官は北京入りの特別機を既に数日前に手配していたし、

私はそれを見て、中国首脳への土産の絵画、大使館員への食パンの注文を既に終えていた。総理からゴーサインが出なければみんな辞職する覚悟は出来ていた。包囲されていたのは総理の方だった。

付随して森氏は角福戦争敗北後、7-8人の子分を連れて福田派に合併した園田氏が派内で会長代行にのし上がるなど実力を発揮したために派内の不安が高まったと指摘しているが、本末転倒も甚だしい。

角福戦争時、NHKの福田派担当記者だった私から言わせれば、福田派には園田氏のような喧嘩士が皆無だった。だから園田氏に派の実権を握られたのである。森氏は盛んに安倍氏と園田氏が対等な実力を持っていたように説明するが、冗談も程ほどにしてもらいたい。

安倍氏に敵・田中角栄の牙城に単騎乗り込んで政権委譲の約束を取り付けてくる離れ業が出来たのか。なぜ、竹下登にしてやられたのか。森氏にその度胸があったのか。28年も経ってから死人を足蹴にして己を高く売りつけるとは見下げ果てた元記者(森氏は元日本興行新聞=産経系の記者)よ。「てんしき」だ。

福田氏があえなく大平氏に敗れた後、密約を楯に福田支持をしなかった園田氏は福田派を除名され「政界のはぐれ烏」と成り果てた。それでも福田氏が大平批判を控えれば、ポスト大平は福田さんだといい続けた。

しかし福田氏の「乃公(だいこう)出でずんば」の過剰自信は遂に大平首相を死に追いやり、自らも納得のいかぬまま生涯を終えた。時宜を得て歴史を目撃した私の確かな証言である。(了)

2011年08月14日

◆スパイは普通のおっさん

渡部 亮次郎


スパイがスパイらしく見えたら、それは失敗だ。平和ボケ日本人は「あんなに子供たちにも優しかったおじさんがスパイだなんて信じられない」というが、そう信じさせるのがスパイの初歩なのだ。

2006年7月初旬に起きた北朝鮮によるテポドンなどの発射事件では、各国スパイの活躍による様々な情報収集が攻防の前提になった事は当然である。

スパイと売春婦は人類史上,最も古典的な職業といわれるくらいだから、人間が、派閥であれ、自治体であれ、国家であれ、集団を維持して行くための必要不可欠の情報人間がスパイなのだ。

20世紀に入るや、科学と技術の進歩により、人工衛星や盗聴器、インターネット等、様々なスパイ機器が前面に出てきたが、所詮、心を読まなければ、相手の抱いている意図の真相を把握できない以上、スパイの需要は益々高まっている。

スパイ (Spy) とは敵対勢力などの情報を得るため、合法違法を問わずに情報入手や諜報活動などをする者の総称である。工作員(こうさくいん)間諜(かんちょう)、間者(かんじゃ)、密偵(みってい)とも呼ぶ。

“スパイ”と呼ぶのは敵方の者のみで、味方の者はエージェント(代理者)と称する言い方もある。

政治・経済・軍事機密・科学技術などの情報をいち早く入手することは戦時・平時を問わず戦略上重要であり、この種の行為は古代から行われてきた。世界各地の神話や古文書にもしばしば描写される。日本の忍者やお庭番もスパイの範疇に属する。

SPYは、espy(見つける、探し出す)と同じで古期フランス語でespion(見張る者)の意味がある。espionage(諜報活動:現仏語)の語源。印欧語で「見る」を意味する語幹「spek」に由来する。

近代以降、各国はスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げた。特に第2次世界大戦後の東西冷戦期には、世界各地で激しいスパイ活動が行われ、多くのスパイ事件が発覚してもいる。

この状況は、米ソ2極体制が終結した現在でも変わってはいない。一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官・駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。

小説、映画の影響により派手な活動が連想されがちであるが、古典的表現である「外套と短剣」に表されるように、実際のスパイは実に地味な活動をしている事が多く、本来別の存在である。

忍者や007シリーズ等、大衆向けに膾炙したフィクションが先入観の原因と考えられる。このような破壊活動などは実際には軍特殊部隊によって行なわれている。

あるいは、よくありがちな敵組織に潜入して情報を得るというのも特に大国の間では極めて少ない。なぜなら、基本的に情報公開されているため、合法的に調べれば目的の情報というのは意外に簡単に得られるから
である。

しかも、そのようなリスクを犯す方法よりも、目的とする情報がある機関の職員に、異性の諜報員が近づき、恋愛感情につけ込んで情報の取得を頼むケースの方が圧倒的に多い。上海総領事館事件は耳新しい。

スパイをテーマとした小説や映画、漫画などは、冷戦期に盛んに送り出されたものの、近年はやや下火になりつつある。

また危険な任務が多いのに基本的に給料が安い(ケースオフィサーは公務員 内通者に至っては報酬が贋金で支払われたりする事も)為、現在の先進国に限って言えば人気がなく進んでやろうとする人間は稀である。

プロ野球のスコアラーが、次の対戦相手の戦力・戦術分析の為に試合を観戦したりする事から、「スパイ」と表現される事もある。企業における産業の技術情報などのスパイ行為については産業スパイと言う。

戦争を放棄した日本はなぜか諜報活動を自ら放棄したのはおろか、他国のスパイを取り締まる法律も放棄した。スパイ天国である。北朝鮮による拉致事件が大手を振って展開された所以である。国民はまだ目が覚めない。

日本を舞台にした戦後のスパイ事件としては、韓国大統領に当選するはるか以前に韓国の政治家金大中氏が韓国の工作員に東京で拉致され、日本海に沈められそうになりながら母国に運ばれて解放されるという事件
が大きい。

私は昭和48年6月ごろ、東京で反朴政権活動を展開する金大中について、在日韓国大使館の金在権公使に質問したことがある。そしたら金公使は「そのうち何とかなりますよ」と不気味に笑った。

私は直後に大坂へ転勤になって問題から遠ざかったが、同年8月8日に事件は起きた。金大中が何者か(韓国中央情報部=KCIA説が有力)により東京都千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から拉致されたのである。

もともと金大中は1971(昭和46)年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補。軍事独裁を強いていた民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)に挑戦。敗れはしたが、わずか97万票差までの肉薄だった。

朴正煕は民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えざるを得なかった。大統領選直後、金大中が交通事故に遭った。あきらかに暗殺工作だった。

股関節の障害を負った。その後、金大中も危機感を覚えたのか日本に逃亡し、日本、アメリカを中心に民主主義運動を行っていたさなかの拉致事件だったのだ。

朴正煕は金大中が国内に居ないことを利用し、国内に戒厳令を発令した。その頃、私はソウルを訪問した。閣僚も高官も夜12時前には帰宅した。スパイは夜動くから、捕まえやすいとのことだった。丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA)長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談した。

逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

そんな中、首都警備団長尹必上h(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。

しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

1973年8月8日昼頃、東京のホテル・グランドパレス2212号室で金大中は同ホテルに宿泊していた梁一東韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを何者かに襲われ、空部屋だった2210号室に連れ去られる。犯人グループは、エレベータで地下に降りる途中、金大中にクロロホルムを嗅がせて意識を朦朧とさせた後、ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、船で神戸港から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中は「船に乗るとき、足に錘をつけられた」と後日語っている。

しかし事件を察知したアメリカの通報を受けて自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行、解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

警視庁はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金は外交特権を盾に拒否。日本政府は金東雲に対し日本では初となるペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セグァン)が朴正煕殺害を決行し、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・ジョンギュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭の、警護室長に就任した車智諸・BR>(チャ・チチル)に対する反感から、10・26事件(朴大統領暗殺事件)がおき、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。

後年(2006年2月5日)、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が韓国政府により公開され、日韓両政府が穏便に事を済ませ政治決着を図ろうとしていたことが明らかになった。

第二次世界大戦前には「ゾルゲ事件」が起きたが、国民は敗戦後の極東軍事裁判で明らかにされるまで全容を知らなかった。ドイツ人のジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895年10月4日 -1944年11月7日)が日本を舞台にして繰り広げたスパイ事件のことである。これについては別に執筆したので省略する。

アメリカとの戦争を始めるに先立って日本陸軍はアメリカ本土にスパイを放った。新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)である。

新庄は陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任し、階級は陸軍主計大佐に至る。情報将校としてアメリカの国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。

新庄の死後日米開戦当日に行われた葬儀に駐米大使館職員が参加していた事が最後通牒の遅れた原因とする説がある。

明治30年9月農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校を経て大正4年12月主計(会計・給与などを担当する軍人)候補生となる。

陸軍派遣学生として昭和3年3月東京大学経済学部を卒業、大学院を昭和5年3月に修了するなどインテリに養成される。

昭和12年8月主計中佐に進み、昭和16年1月参謀本部からアメリカ出張を命ぜられた。任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。

所謂スパイであるが、4月に到着以後、非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。

諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。

元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。

これらの調査結果を日本の参謀本部に報告書として提出するが、渡米から、3ヶ月働きづめだった新庄は、ワシントン市にあるジョージタウン大学病院で開戦直前の12月4日急性肺炎を併発し没する。45歳だった。

新庄の葬儀が最後通牒の遅れた事に関係するという説が、ノンフィクションライターである斎藤充功の著書に記されている。

12月4日に逝去した新庄の葬儀は12月7日、日本時間では12月8日にあたる。12月8日は日本が海軍の戦力を以って真珠湾を攻撃した日であり、後には開戦記念日と呼ばれる。

この日日本はアメリカに対し最後通牒を行いその通告文をアメリカ国務長官コーデル・ハルに渡す事を予定しており、その日時は12月8日午前3時現地時間で12月7日午後1時を定刻としていた。

攻撃の前に予め開戦の意志を伝えるというのが目的であったが、定刻を過ぎてもその最後通牒は行われず、真珠湾攻撃は午後1時15分(日本時間8日午前3時15分)に始まる。

日本からの文書を翻訳・浄書するのが遅れた為などの言い訳があるが、この事から騙し討ちと呼ばれる。予てからその原因は大使館職員の怠慢であったと言うのが定説であるが、斎藤の調べでは来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使らの葬儀出席が原因と言う。

新庄の葬儀は現地時間で午後に行われ、磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使が参加しており、その来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言うのだ。

ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。しかし、こうした事実も国民は戦後になって初めて知らされた。しかも関係者はなにごとも無かったかのように事務次官や大使に出世した。

2011年08月11日

◆前兆で脳梗塞を防げる

渡部 亮次郎


高血圧や糖尿病患者を待ち伏せしているのは脳梗塞であるが、これには前兆があり、それを見逃さずに治療すれば事無きを得る、という公開講座があるという招待状が来たので7日に東京女子医大弥生講堂に出かけた。

午後1時、既に満員。約300人の中老年の男女。半身不随になる脳梗塞は恐ろしいのだ。だが防げるというのだから、これだけの人気なのだ。

脳梗塞というのは、脳に血液を運ぶ血管が詰まって(梗塞)脳の一部が壊死する為に半身不随になるか。即死するかの病気。これに脳出血とクモ膜下出血を合わせて「脳卒中」という。

長嶋さんの掛かったのは脳梗塞、美貌の女優で歌手だった高峰三枝子がクモ膜下出血で死亡した。わが同期生清沢君は脳梗塞のあと脳出血で亡くなった。

高血圧の友人は多いし、糖尿病の友人も多い。第一、筆者自身がインスリン注射を欠かせない糖尿病患者にして高血圧を飲み薬で抑えているで身はないか。

今では脳梗塞と言っても、3時間以内に搬入して注射をすれば詰まった血栓を溶かす薬(t−PA)があるからと安心している人が多いが、学会の調べだとかつぎ込まれた患者でt-PAを使えた患者はわずか7%に過ぎない。

長嶋さんは3時間を過ぎていたため後遺症が残った。だから前兆とは何かを知りたいのだ。

脳梗塞の前兆とは「TIA」という。一過性脳虚血発作。(1)片腕の力がだらんと抜けた (2)舌がもつれた (3)歩きづらく、片側に倒れそうになった (4)顔が歪んで、口元が痺れた (5)目の半分がぱっと見えなくなった。

こうした症状が出たが30分ぐらいで治ったから「脳梗塞にかすられたが治った」と本人も回りも思ってしまうらしい。失礼ながら専門でない医者にもそう誤解する医者がいると専門医はいう。

ところが、TIAを発症した患者の4〜20%がそれから90日以内に脳卒中を発症し、その約半数は48時間以内であったとの報告がある。TIAだったら必ず、すぐ救急車hに来てもらい専門医に掛かれば、脳卒中は80%抑制できる。独り寝していると発見が遅れる。

シンポジュームに出てくださった大学教授たちは、口をそろえて「「TIAは脳梗塞の前触れ発作。本格的な脳梗塞が起こりかけている警告サインです。一寸ヘンだなと思っているうちに症状が消えても油断は禁物。回復したからと安心せずに、すぐに専門医の診察を受けてください」と呼びかけていた。

特に東京都の場合は救急車に「TIAです」と告げただけで専門病院に運んでくれる態勢ができているそうです。2011・8・8

2011年08月10日

◆日米首脳会談見送りの公算

渡部 亮次郎


この記事については8日にごく一部を紹介したが、以下、詳しく紹介します。ここまで国際的に呆れられても辞めない菅首相のしんけいというのは「異常」としかいえませんね

<米、日程調整を“拒否”

米政府が、9月前半に予定されていた日米首脳会談の日程調整を事実上拒否していることが7日、分かった。複数の日本政府高官が明らかにした。菅

直人首相の退陣時期が不透明な上、仮にオバマ大統領が菅首相と会談しても議題や成果が乏しいためだ。原子力発電を推進したい米政府は首相の「脱原発」方針にも強い不快感を伝えてきており、首脳会談は見送られる公算が大きくなった。

政府高官によると、7月以降、外務省が首脳会談の日程を固めるため再三にわたり米国務省に調整を打診。しかし、9月前半まで残り1カ月となっても国務省は候補となる日程を一切返答してきていない。

「9月はオバマ大統領の日程が窮屈になってきている」と、首脳会談の調整を後回しにしていることさえ示唆したという。

枝野幸男官房長官は5日、菅首相が訪米して行う日米首脳会談について「実務的に調整しているところだ」とだけ述べている。

米政府が首脳会談に消極的なのは、現状では日米同盟の「深化」に向け明確なメッセージを打ち出せないとの判断があるためだ。

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設問題が進展しないことを受け、パッケージである沖縄海兵隊のグアム移転経費に米議会の削減圧力が強まっている。

米側は、首脳会談を開けば普天間移設を議題にせざるを得ず、5月の首脳会談のように「進展」を誓い合うだけではグアム経費にも悪影響が及ぶと懸念する。

経済分野でも、菅政権が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉への参加判断を先送りしながら、欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)締結に向けた協議を先行させていることに不満を募らせる。菅首相は9月下旬にニューヨークで開かれる国連総会出席にも意欲を示すが、演説で「脱原発」を表明すれば、米国の原子力政策にもダメージを与えるとの警告も発してきている。

今月22日にはバイデン米副大統領が来日し菅首相と会談するが、その場で首脳会談の見送りを通告してくる可能性もある。>

産経新聞2011.8.8 09:25


<居座り首相に国際社会も“菅無視” 日本の首脳外交は休眠状態に 退陣表明後も居座り続ける菅直人首相に対し、国際社会が“菅無視”を鮮明にし始めた。米国による事実上の首脳会談拒否に加え、米国債の格下げ問題で緊密に連携している各国首脳も、菅首相のことは眼中にないようだ。

7日に行われた先進7カ国(G7)の財務相代理緊急協議を前に、米国のオバマ大統領やフランスのサルコジ大統領、ドイツのメルケル首相ら米欧州各国の首脳は頻繁に連絡を取り合っていた。一歩対応を誤れば、世界的な金融危機を引き起こしかねないとの強い危機感があるためだ。

ところが、菅首相のもとには各国首脳からの連絡は一切なかった。世界3位の経済大国の首相であるにもかかわらずだ。

政府筋は「日本だけに連絡がこなかったのか事実関係は分からない。そもそも米国と欧州の経済状況がテーマだから」と強弁する。

しかし、2008年のリーマン・ショック時には、当時の麻生太郎首相がサルコジ大統領、中国の温家宝首相ら各国首脳と金融サミット(G20)の枠組み作りに向けた調整を行っていた。

各国首脳からすれば、「去りゆく首相」は信用に値しないと判断するのも当然だろう。

実際、菅首相の居座りで日本外交は完全にストップしていると言っても過言ではない。

3月11日の東日本大震災も外交日程に影響を及ぼしたが、それでもサルコジ大統領や温首相ら4人が日本を訪れた。

しかし、6月2日の退陣表明後に訪日した外国首脳はインドネシアのユドヨノ大統領、西アフリカに位置するトーゴのニャシンベ大統領、日本が国家承認したばかりのクック諸島のプナ首相の3人だけ。現時点で首相との会談が確定している元首もいない。

予定されているのは7日に来日した潘基文国連事務総長と、22日に来日するバイデン米副大統領との会談ぐらい。ただ、米国はバイデン氏の訪日をアジア各国歴訪の一環と位置付けており、日本政府内ですら「バイデン氏のアジア歴訪の重点は、来日前後に予定している中国訪問」との観測が出るありさまだ。

各国による「日本パッシング(素通り)」は、もはや深刻なレベルに達している。外務省幹部もこう嘆いた。

「日本の首脳外交は休眠状態が続くだろう」>(新井好典)産経ニュース 2011.8.8 11:25

2011年08月09日

◆民主党、深まる世代間対立…次期代表選巡り

渡部 亮次郎


日曜日の読売新聞によれば、菅首相(民主党代表)の後継を決める民主党代表選を巡り、党内で世代間対立の様相が強まっているそうだ。いくら騒いでも菅首相はやめそうにない。だからやめさせる手立てがあるわけじゃなし。

同じ日曜日似配達された「月刊誌 文藝春秋 9月号」は痺れをきらしたように脱「菅」・叛旗の閣僚独占手記と来た。海江田万里「覚悟の手記 大臣辞任を決意させた菅総理大臣の電話」 野田佳彦財務大臣は「わが政権構想。 馬淵澄夫は「代表選一匹狼の挑戦状」である。

見出しこそ威勢はいいが、手勢も資金も、序に気概も不十分な御託を並べたって、さしたる影響は無い。文春に設けさせるだけだ。

そうした中で読売を読んでみても興奮を覚えるフレーズは探してもどこにもないのだが、どうせ休日のひまつぶし。

<若手議員からは、首相、鳩山前首相、小沢一郎元代表の「トロイカ(3頭立て馬車)」が中心となった政治に終止符を打ち、若返りを図るべきだとの声が相次ぐ一方、ベテラン議員は「新体制では、経験こそ必要だ」と訴えて、巻き返しを模索している。

「鳩山さん、菅さん、小沢さんを含めた大先輩が創業し、政権交代という上場を果たした。今問われているのは、中興のステージへのリーダーシップだ」

衆院当選3回の馬淵澄夫前国土交通相は2日の講演で、「世代交代」を強調し、代表選への出馬に強い意欲を示した。

首相は、6月2日の民主党代議士会で、「若い世代への引き継ぎを果たす」と言明して退陣表明をしながら、いまだに辞任していない。居座りを決め込む首相と、退陣に道筋をつけられない民主党執行部に対して、中堅・若手議員の間では、「このままでは、民主党に対する国民の信頼が落ちる一方で、次の選挙では、全員落選する」との危機感が広がって
いる。

馬淵氏の発言は、こうした声にこたえることで、自らの支持基盤を広げる狙いがあるとみられる。

党内では、若手がグループを超えて集まり、ポスト菅」候補を品定め
する動きも出ている。


津島恭一衆院議員ら当選1〜3回の議員で作る「メロスネット」は、馬淵氏のほか、野田財務相や、前原誠司前外相、玄葉政調会長を次々と招いて意見交換している。津島氏は、小沢元代表を支持するグループに所属している。

党内には、これまで「親小沢か反小沢」を軸に党内抗争を繰り広げてきたことが一番の問題点だったとして、「首相が退陣に伴って政界を引退すれば、鳩山、小沢両氏にも引導を渡せる」と、トロイカ世代の一斉退場を求める声も出ている。

これに対し、ベテランは世代交代の針が進むのを食い止めようと懸命だ。

当選11回の鹿野農相を推す増子輝彦参院議員は「民主党は、もう失敗は許されない。党や官僚のマネジメント、国会対策をきちんとやるには、政治経験のあるベテラン以外にない」と語り、中堅議員らへの働きかけを強めている。

4日夜に都内のホテルで開かれた鹿野氏の擁立を目指すグループの会合には、鳩山、小沢グループのほか、菅グループや旧社会党系グループにそれぞれ足場を置くベテラン議員ら約20人が顔をそろえた。

この日の会合では、篠原孝農水副大臣が「将来の首相候補の条件の充足の状況」と題した資料を配り、過去の首相や米仏大統領の前歴などを引き合いに「当選回数、党の役職、閣僚の経験、全てを勘案して、次期首相は鹿野さんしかいない」と力説した。 >

(読売新聞 8月7日(日)12時0分配信)

文芸春秋で「選挙プランナー」を肩書きとする三浦博史氏が明らかにしている次期総選挙の予測義数は次の通り。( )内は現有議席。

民主党 164(301、国民新党3(3)、新党日本1(1)、新党大地1(1)、自民党222(118、公明党28(21)、共産党7(9)、社民党4(6)、みんなの党36(5)、たちあがれ日本4(2)、新党改革0(0)、減税日本2(1)、無所属8(11)。当るも八卦、当らぬも八卦。自公で過半数となれば民主党は野党に転落。

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