2008年05月15日

◆五・一五事件

                     渡部亮次郎

五・一五事件(ごいちごじけんと)は1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国「海軍」急進派の青年将校を中心とする反乱事件。4年後1936年のニ・ニ六事件は陸軍の将校による叛乱事件。

武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅総理を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退した。

事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達された。

また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。

同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いが、本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸、立憲政友会(政友会)本部、警視庁とともに牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。

しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第2の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。

後に小説家松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪(いたる)らが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『昭和史発掘』)。

だが、中谷武世(国士)は首謀者古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したものであって、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたものの、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ている。

また中谷は大川と政党人との関係が希薄であったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している(『昭和動乱期の回想』)。

当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している時代であった。

1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。

計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に容らない点であった。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をした。

それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友であった。故に犬養は満州侵略に反対であり、日本は中国から手を引くべきだとの持論を兼ねてよりもっていた。

これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由なのである。

事件は昭和天皇の勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

なお、事件前日の5月14日には映画俳優のチャーリー・チャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって犬養との会談をキャンセルしたため、難を逃れた。

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2008年05月14日

必読!◆「日中友好の再考を」

                    渡部亮次郎

私は心ならずも記者として日中国交再開を目撃し、日中平和友好条約の締結に携わった。国交回復は22年ぶり、平和友好条約は日本からの資金、技術援助を中国に約束したものだった。

国交回復を決断した時、田中角栄首相は日中戦争の賠償金として「まぁ3億円ぐらい吹っかけて来るかな」と言っていたが、事前に竹入義勝公明党委員長を通しての周恩来首相の回答は違った。

「賠償は要求しません」。これで日本中が「中国ブーム」になり、自民党内ですら中国批判は禁句となった。田中訪中の結果、周恩来のいい出した「日中友好」は両国の合言葉みたいになった。パンダが贈られたのもこの時である。

このとき周恩来首相は北京から上海まで田中首相に同じ飛行機で同行し、田中首相の帰国を上海空港で見送った。これに従うまでも無く胡錦濤主席をホテルであろうがどこであろうが、両陛下がお見送りに出向かれるのは国家日本の元首たる天皇の賓客(国賓)を寓されるについては当然の行為である。このとき周恩来は「天皇によろしく」と伝言を託した。

それをずるい連中に悪どく利用されたとしても、当方としては礼を尽くしただけの事。非難さるべきは礼を尽くした当方ではなく、悪どく利用した連中の方である。

国賓の接遇には歓迎と歓送の行事はセットになっており、歓迎だけして歓送は都合により省略となっては、世界の笑いものになるだけ。
誰かが国賓待遇を閣議決定しても、「歓送」は入っていなかったと訳のわからぬことを言っていたが、笑止千万である。

歓送風景を中国のマスコミ(官営)は「日本国民の前にさえ滅多に姿を見せない両陛下がわざわざ見送りに来たのは胡錦濤を通じて中国に特別な敬意を表した」と報道したため、見送りはするべきじゃなかった。させた外務省、宮内庁が悪い、となった。

国賓=歓迎行事=お見送りは天皇の接遇慣例上、セットになっているものであり、時あたかも胡錦濤氏に対する日本の世論が反対ムード高揚と言っても、お見送りだけをやめたら天皇は面子を失っただろう。

私は田中首相同行記者(NHK)だったから上海へも同行したが、到着後、市内に散歩に出た途端、初めて中国国民の厳しい視線にさらされ、恐ろしくなってホテルに逃げ帰った事を思い出す。

考えてみれば彼らが日本人を見るのは27年ぶり。中国をして塗炭の苦しみを与えた「犯人」が日本人なのである。この男も日本政府の代表者の一人、憎いなぁ、とその目は恨んでいた。

しかし「日中友好」は全中国人の思っていることでは無い。中国共産党が自らの都合に合わせて持ち出すものに過ぎない。それが証拠に江沢民主席在任中は反日教育を徹底し、日中関係悪化の原因を作ったではないか。胡錦濤がやらぬ保証はない。

江沢民のあれは演技でもポーズでもなかった。日本という外敵を作らねば国家統治が難しい事態に差し掛かっていたからである。日本が戦ったのは中国共産党ではなく蒋介石だったことを人民が思い出しかけたからである。

日本に勝利したのは蒋介石であり、中国共産党ではない。蒋介石はその後、共産党との内戦に敗れ台湾に逃れた。それで中華人民共和国の建国を1949(昭和24)年10月1日まで遅れたのはそのためである。

しかし江沢民は実父が占領日本軍への協力者だった事実を隠蔽する一方で、日本との闘いに勝利したのは共産党であるという「嘘」の歴史を全人民に浸透させる目的で「反日教育」を徹底させたのである。

日本に対しては歴史認識で執拗に批判したのに、ベトナムからの中越戦争の謝罪要求については「ベトナムのカンボジア侵略によるものだ」として、謝罪はしていない。

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2008年05月13日

特筆!◆死者80万を隠せる中国

                    渡部亮次郎

地続きの韓国や北朝鮮には地震が無いが中国には結構、地震があり、非公式には死者80万人の唐山地震(とうざんじしん 1976年)を隠したのが共産国・中華人民共和国である。

当時中国は文化大革命のさなかであり、政府は「自力で立ち直る」と外国からの援助を拒否した。このことが犠牲者の拡大をもたらした一因だといわれている。2008・05・12に四川省でM7・8の大地震が起きた。今回はどうか。

何しろ、災害が起きて国力の低下が報じられれば外敵が攻めてくる。故に被害の公表は禁止という共産国。900人が学んでいた小学校が倒壊したが死者は「4人」と発表するようではあまり変わりない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、1976(昭和51)年7月28日3時42分(現地時間、UTC+8)に、中国河北省唐山市付近を震源として発生したマグニチュード7・8の直下型地震が起きた。今回も同じMである。

市街地を北北東から南南西に走る断層に沿って大きな水平右ずれが発生し、激震によって中国有数の工業都市であった唐山市は壊滅状態となった。

この地震による死者は公式記録によれば242,419人、非公式には60万から80万人とも言われ、20世紀最大の被害である。日本人も火力発電所建設のために派遣されていた日立製作所の社員3人が犠牲になった。

中国では1975年2月4日に起きた海城地震の直前に予報を出して被害を大幅に減らす事に成功しており唐山付近で地震が起きる可能性が高い事もわかっていたが、今回は予報を出せず地震予知の難しさを知らしめた。

地震予報を出す仕事をしていた専門家もホテルの部屋で圧死していた。科学のレベルもさることながら、文革のさなかの事。予報がはずれでもしたら、係りの命はやはり無かったろウ。出せなかった。

地震直後、中央政府は治安の混乱を恐れ、地震の5時間ほど後には対策本部を設置し、10万人の人民開放軍兵士を投入し、2万人以上の医療人員を派遣した。現地の混乱は、地震後2日目にはおさまったといわれる。

唐山市ではこの地震によって公式には14万8000人が亡くなり重傷者は8万人以上と被害は市民の21.2%に達し、住宅の全壊率は94%だった。これによって再建がほぼ一段落するまでの約10年間、外国人の立ち入りが制限されていた。

現在は抗震記念館が設けられて到壊した建物や断層の一部が地震遺跡として保存されている。2006年7月28日、中国共産党は唐山市で30周年記念大会を開催、およそ700人が出席して「唐山抗震記念碑」に献花などを行ったと発表した。

<大地震の前の動物の異常行動を列挙すると以下のようなものがあげられる。

ラバの大逃走、動物の絶食、恐ろしい声で犬は吠え、猫は叫ぶ、兎と羊が狂う、水生動物の恐怖行動反応、金魚の夜のダンス、スッポンの悲鳴、青蛙の没黙の集合、鳥と昆虫の奇怪な行動反応、

鸚鵡に驚かされた夜、昆虫の集会、コウモリが白日のもとで飛び回る、鴿は落ちつかない、穴居動物の避難行動、イタチの引っ越し、ネズミは災難を予知、まだら蛇は「警報」、サソリとムカデとアリの大逃去。>(尾池和夫) 2008・05・12

2008年05月12日

◆外務省の海外要人待遇

渡部亮次郎

2008年5月に来日した中華人民共和国の胡錦濤主席の接遇をめぐって国民の間に論議が高まった。中でも両陛下が胡氏夫妻の宿泊先のホテル・ニューオータニへ見送りに行かれることについては相当な識者から反対論が起こった。

しかし、胡主席や中国政権に対する感情はともかく、両陛下のお見送りを初め外務省、宮内庁の接遇には何の落ち度も、行き過ぎも無かったと断言する。一般の人が要人接遇の実態を知らずに感情でことを論じた故の空論であった。

つまり初来日の胡錦濤氏について福田政権は早くから国賓(国家による国家元首=天皇陛下の賓客)として迎える事を閣議決定し、この旨を陛下に「助言」し、外務省、宮内庁が実際の接遇に当たり、問題はなんら生じなかった。

たまたま今回は通常、国賓の宿泊先となるべき赤坂の迎賓館が改装工事中であるため中国側の希望でホテル・ニューオータニを迎賓館代用となった。従って両陛下のお見送り先もホテル・ニューオータニとならざるを得なかったものである。

ホテル・ニューオータニは日中国交正常化に伴って中華人民共和国が臨時の大使館を置いた由緒あるホテル。爾来、中国側は定宿としてこのホテルを使っている。

外国からの賓客の接遇方針の実際を担当するのは外務省である。その実態をフリー百科「ウィキペディア」等から引用して掲載する。

いずれにしろ両陛下がお見送りのため民間ホテルを訪問されたのは国辱物、叩頭外交だというのは無知に基づく誤解。感情論先行の議論に過ぎない。

それを社会的信用のある識者がインターネットで流すのは大衆を誤まった方向へ走らす煽り行為であり、慎むべきである。友人はこれを「田舎の発明家」と命名した。世間知らずのお山の大将ともいえる。

<国賓 こくひん

国家が賓客として招待する外国人。日本の場合,政府あるいは皇室によって招待され,国の費用で接待する。

国賓の対象とされるのは,普通,元首,国王,王族,閣僚,特使などであるが,国際間の往来が頻繁になった近年,閣僚,特使に対して国賓待遇を与えない事例も多くなってきた。

また,これらの公人でも私的な旅行のときなど国賓とされないこともある。>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

<国賓は海外要人に対する外交慣例上における接遇上の扱いであり、おおむね10年に1度の頻度で当該国からの元首や要人の訪問にさいして行われる接遇上の様式である。

慣例では10年以内に国賓として遇された経緯のある対象国や元首に対しては国賓として遇することはなく、公賓ないしは公式実務訪問賓客として扱う。

国賓扱いによる接遇はあくまで儀式的なものであり、接遇による差異が訪問者や当該国に対する特段の政治的意味合いをもつ訳ではない[毎日新聞2008年4月30日] 。

日本 外務省における海外要人の待遇

日本の外務省における海外要人の待遇は、日本政府が滞在費用(対象者の宿泊滞在・国内移動・通信・警護費用等)を負担する公式訪問と、訪問者がすべての経費を負担する非公式訪問の2つに別れる。さらに公式訪問の場合は以下の5つの分かれる。

これらの計画、調整は外務省儀典官室がおこなっており、その長である儀典長は「首席接伴員」として日程に同行することになっている。

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2008年05月10日

◆サッチャーは82歳

                    渡部亮次郎

イギリス初の女性首相にマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)が就任したのは1979(昭和54)年の5月4日。私はその半月後にダウニング街の官邸でお会いしてタバコを止めた。

表敬訪問する園田直外務大臣に秘書官として随行したもので、確か5月21日(月)午後5時15分(イギリス時間)頃から僅か35分間の表敬訪問だった。

園田大臣に警護のため同行したのは警視庁の亀高忠輝警部だった。
2階への階段を昇りながら、壁に隙間の無いぐらい絵画が飾られていた事とあわせて妙に記憶が明確だ。

首相面会の直前、同じ官邸内の蔵相室で会談したハウ蔵相は驚くほどのヘビースモーカーだった。園田さんも私も一緒になって喫煙するものだから、煙は相手が見えなくなるぐらい立ち込めた。

ハウ蔵相はサッチャー首相との会談にも同席してくれた。首相は立ち上がり「日出ずる国の賓客は窓際へ」と園田外相を案内。

私もその脇に座って「煙草を喫ってもいいですか」と訊いたら「どうぞ」との答え。持っていたロングピースを喫い始めたが、灰皿が出てこない。消すのに苦労した。

後で分かったのだが、サッチャーさんは何が嫌いと言って煙草が嫌い。そういえば、さすがのハウ・ヘビー・スモーカーもあそこでは非喫煙者みたいに振舞っていたっけ。

私は馬鹿にされた気がして、それっきり喫煙を止めた。もう30年を越した。やめた直後は禁煙に失敗した夢まで見たが、もう見ない。

サッチャーはその後日本にもお出でになった。皇居を表敬訪問した際、大広間の広い壁に絵が1点しか飾られてないのを見て「少なくて寂しい。もっと沢山飾らなければいけない」といった。

「大きなお世話だ」、と心の中で毒づいた。「これがわび、さびというものですよ。分からなきゃ仕方ないね」

マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日―)。現在82歳で貴族院議員。

女性として初めて保守党党首および英国首相(在任:1979年―1990年)となった。保守的で強硬的な性格から、鉄の女(the Iron Lady)、アッティラ(Attila the Hun)などの異名をとる。尊敬する政治家は同国のウィンストン・チャーチル元首相である。

1979年の総選挙で、イギリス経済の復活と小さな政府の実現を公約として保守党を勝利に導いた党首だったので女性として初めてイギリス首相に就任した。

2008年05月09日

必読!◆再び天皇のお見送りについて

                    渡部亮次郎

来日中の胡錦濤中国主席は9日はホテル・ニューオータニを引き払い横浜を経て関西に向かうため、慣例により天皇皇后両陛下は見送りの挨拶をされるべく、午前10時から胡氏宿泊先のホテルに出向かれる。

これに対して国賓接遇の慣例を知らない人から、天皇のお見送りは必要ないとか、総理大臣にやらせればいいとか頓珍漢な意見で反対意見のみならず、デヴィ・スカルノ夫人のように『反対』呼びかけまでしている人がいる。

結論から言うと、国賓を両陛下がお見送りするのは慣例であって
これまでは殆どの国賓を迎賓館に出向いて見送ってこられた。尤も相手が国家元首ではあっても国賓でない場合は、なさらない。

国賓とは「広辞苑」に拠れば「国家元首が接待する海外からの賓客。主に外国の元首や首相が来日する場合で、歓送迎会(歓迎と歓送)への天皇の出席、21発の礼砲、宮中晩餐会の行事がある」と説明している。礼砲は弾丸を撃ち尽くして敵意が無い、歓迎するという意味。

国賓・公賓など外国賓客(平成11年以降)(宮内庁HP)

ルクセンブルク国大公ジャン同妃両殿下(国賓) オーストリア国大統領夫妻(国賓) ヨルダン国国王アブドッラー王妃両陛下(国賓) ハンガリー国大統領夫妻(国賓)

ノルウェー国国王ハラルド五世王妃両陛下(国賓) 南アフリカ共和国大統領夫妻(国賓) フィリピン国大統領及び同夫君(国賓) インドネシア国大統領及び同夫君(国賓) メキシコ国大統領夫妻(国賓)

モロッコ国国王モハメッド六世陛下(国賓)インドネシア国大統領夫妻(国賓)

平成19年はスウェーデン国国王カール16世グスタフ陛下及び王妃シルヴィア陛下(国賓) ベトナム国主席夫妻(国賓)だった。

今年平成20年は胡錦濤中国主席夫妻が初めてである。

要人は毎年勿論他にも沢山来日されており国家元首や首相も多いが、政府の賓客(公賓)か公式実務か、お構いなしである。国家元首も国賓待遇が複数回は殆ど聞かない。

<国賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる外国の元首やこれに準ずる者で,その招聘・接遇は,閣議において「決定」されます。

皇室における国賓のご接遇には,両陛下を中心とする歓迎行事,ご会見,宮中晩餐,ご訪問がありますが,両陛下はじめ皇族方は心をこめて国賓のご接遇をなさっています>(宮内庁HP)

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2008年05月08日

◆国賓・公賓・公式実務

                     渡部亮次郎

国賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる
外国の元首やこれに準ずる者で,その招へい・接遇は,閣議において
「決定」されます。

皇室における国賓のご接遇には,両陛下を中心とする歓迎行事,ご会見,
宮中晩餐,ご訪問があります。

公賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる
外国の王族や行政府の長あるいはこれに準ずる者で,その招へい・接遇
は閣議「了解」を経て決定されます。

皇室における公賓のご接遇には,両陛下によるご引見や宮中午餐があり
ます。公賓の制度は1964(昭和39年度(池田内閣)に決定された。

「公式実務訪問賓客」とは,外国の元首,王族,行政府の長あるいはこ
れに準ずる者が実務を主たる目的として訪日することを希望する場合,
賓客の地位,訪問目的に照らして政府が公式に接遇し,皇室の接遇にも
あずかる賓客で,その招へい・接遇は閣議「了解」を経て決定されます。

皇室においては,賓客に応じたご接遇が行われています。宮内庁ホーム
ページ)http://www.kunaicho.go.jp/05/d05-01.html

閣議決定: 合議体である内閣の意思決定。閣議における案件処理の中で
は、最も重みを持つ。訂正が殆ど不可能。

閣議了解: 本来主任大臣の権限に属する事項について、それらの事項の
重要性を考慮した上で、閣議に提出して他の国務大臣の意向も聞くこと
が適当と判断されたものについて行われる。

閣議報告: 主要な審議会の答申や省庁の白書等を閣議で披露するような
場合に行われる。

国賓とするかどうかは閣議「決定」,公賓は閣議「了解」。国賓は両陛下
を中心とする歓迎行事,ご会見,宮中晩餐,ご訪問があるが、公賓には
引見や宮中午餐といって両陛下への挨拶と午餐(昼食)どまり。

「公式実務訪問賓客」の接遇はその都度で様々。

国賓・公賓など外国賓客(平成19.20年のみ)宮内庁による。

平成19年

1月
モザンビーク国大統領夫妻(公式実務)

2月
キリバス国大統領夫妻
チェコ国大統領夫妻(公式実務)
アメリカ合衆国副大統領(公式実務)
ルーマニア国首相夫妻
ロシア国首相夫妻
モンゴル国大統領夫妻(公式実務)

3月
ボリビア国大統領
グルジア国大統領夫妻
リベリア国大統領
オランダ国皇太子ウィレム・アレキサンダー殿下
シンガポール国首相夫妻(公式実務)
スウェーデン国国王カール16世グスタフ陛下及び王妃シルヴィア陛下
(国賓)

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2008年05月07日

◆胡錦濤お見送りは当然の儀礼

                    渡部亮次郎

中国の胡錦濤国家主席は日本の国賓としての来日だが、5月9日金曜日の日程の中で10:00 天皇、皇后両陛下にホテルニューオータニへ訪問して頂く(〜10:30)。を叩頭外交と誤解して騒ぐ向きがある。

これだけ見れば誤解も当然だが、その後の胡氏の日程を見れば、両陛下のホテルご訪問は「お見送り」であり、国賓に対する礼儀としては普通の事である。

かの「広辞苑」でも「歓送迎会への天皇の出席、21発の礼砲、宮中晩餐会の行事がある」と説明している。5月7日水曜日に、09:00 皇居にて歓迎式典、天皇陛下への謁見とあって歓迎した以上、お見送りは付き物。

9日は09:00 ホテルニューオータニにて在日チャイナ大使館員や留学生、駐在員らと朝食会。11:20 JFEアーバンリサイクル施設(神奈川県川崎市川崎区水江町)を視察とあって東京を離れるのだから、両陛下としてはその前に「お見送り」が当然。

午前10時に胡氏宿泊のホテルに出向いてお見送りの挨拶をされるのは叩頭でも土下座でも無い。国賓に対する当然の儀礼に過ぎない。
それが屈辱というなら国賓としての招待を拒絶するしかない。

抗議しても両陛下はおやめになるわけにはいかない。胡氏を国賓として接遇する事は内閣が閣議で決定したことであり、天皇陛下といえども憲法上、逆らう事ができないからだ。

一旦、国賓として国家が決定した以上、皇室と政府は最高の接遇は当然であり、歓迎はしても見送りはしないというのは大人としては失礼な行いである。(元政治記者・大臣秘書官)   2008・05・06



2008年05月06日

◆A面あってのB面

                    渡部亮次郎

昔の話。昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一郎と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となるも、それまでに大ヒット。
当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)
東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

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2008年05月05日

◆ジョン・レノンのご馳走

                     渡部亮次郎

ザ・ビートルズ(BEATLES)は世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドという事をジョン・レノンにダコタ・アパートで会うまで知らなかった。

1978年2月のその時、私は福田赳夫内閣の外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、僅か数ヶ月前まではNHKの政治記者出、国内政局の追跡に熱中する生活でビートルズなど皆目知らなかった。

それが、いきなり彼ら一家の住まいたるニューヨーク・マンハッタンのダコタアパートの自宅に招き寄せられ、2歳の息子を抱きながらフローリングの部屋に三角屋根(ピラミッド)の下に転がるもじゃもじゃ頭の男が「世界一の芸術家」と知って驚いた。

ジョン自身はその時は音楽活動を休んで「主夫で子育てに夢中なんだ。三角屋根は生命に何らかのパワーを与えてくれるんだ」と喋っていた。

「僕の喋り方が叫んでいるように聞えないですか。生まれたリヴァプールは強い風が吹き上げて来る土地で、その風に逆らうように喋る癖がついてしまったんだ」とも。

イギリスのリヴァプールで結成されたのがビートルズ。アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティスト。

その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。

1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

それからほぼ3年後ノ1980年12月8日の夜、アパートの玄関で精神異常者に射殺され満40歳の人生を終えるわけだが、激しくも偉大だった人物の晩年に会えた事を思うとそのたびに興奮するのである。

なぜジョン・レノンに会えたかというと、2番目の夫人となったオノ・ヨーコさんが私の親友で評論家の加瀬英明氏の従姉だからである。

彼の父俊一氏は昭和史に残る著名な外交官だったが、母親萬寿子さんがヨーコさんの父親の妹という関係。英明氏は、鳩山内閣時代に外務政務次官だった園田氏と当時から親しかった。

外務大臣室にやってきて「大物秘書官がアメリカを知らないではあんたが困る場面が出てくるから、ナベさんをアメリカ旅行に案内するよ」とやや強引に了承と旅費を取り付けてしまったのだ。

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2008年05月04日

◆八九三でない刺青

渡部亮次郎

小泉又次郎(こいずみ またじろう、慶応元年5月17日(1865年6月10日)―昭和26年(1951年)9月24日)は、日本の政治家。正二位勲一等。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。

横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。義侠心にあふれ、人情に厚い大衆政治家で、刺青があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。

又次郎の刺青のわけも分からず、刺青をしていたんだからやくざだったと誤解する向きもあるので、この際、詳しく調べてみた。

そもそも日本での刺青(入れ墨)は江戸初期に関西の遊廓でおこった〈入れぼくろ〉の風習が彫物の風俗の始まりである。

これは遊女が愛の証しとして左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり,男女が互いに親指のつけ根にほくろを入れるもので,〈起請(きしよう)彫〉ともよばれた。

この風習は江戸でも流行し,やがて〈某命〉という形式で相手の名前を彫る風も生まれた。

また遊廓の外でも,〈南無阿弥陀仏〉など神仏への誓いの文字を彫る風も行われ,《女殺油地獄》(1721)には腕の彫物で人々を威嚇する風俗も描かれている。

初期の彫物は文字がほとんどで,絵や文様を彫る風はなく,専門の彫師もいなかった。

しかし時代が下ると,鳶(とび),魚屋,駕籠(かご)かき,船頭などの職人や勇み肌の者が粋や伊達(だて)から威勢を示すために競って彫物を施し,また絵柄も豊富となり,色彩を施すようになって
専門の彫師も生まれた。

こうした風潮を強めたのは,《水滸伝》を題材にした絵師の一勇斎国芳の一連の作品で,文化・文政年間(1804‐30)には幕府の禁止にもかかわらず彫物は盛行を極めた。

また江戸の刺青美を完成した国芳の画風を継承した芳年の作品,とくに〈美男水滸伝〉は明治以後の刺青の下絵として大きな影響を与えた。しかし,明治になると彫物は禁じられ,一部の者だけに限られるようになった。(平凡社『世界大百科事典』)

だから昔を論ずるに、刺青をしていたから即ちやくざ者だったと断定しては教養を疑われる事になる。

小泉又次郎は慶応元年(1865年)5月17日、現在の神奈川県横浜市金沢区大道)に鳶職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる。

又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫等を送り込む人入れ業を始める。

又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で海軍兵学校の予備校に入学するが、兄の急死によって家に連れ戻される。

しかしその後も軍人になることを諦めきれず、今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入学するが、またしても父に見つかり「なんとしても家業を継げ」と厳命される。

その際、こんどこそ軍人を諦め鳶職人になることを決意した証に、全身に「昇り龍」の入れ墨を彫って父親に見せつけたという。刺青者は軍人になることができなかったからだ。30歳のころ芸者だった綾部ナオと結婚したが子は出来なかった。子孫は妾腹に繋がる。

その後板垣退助の演説を聴いて政治家を志すようになり、独学で小学校教員となった後、新聞記者などを経て、明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選、後議長をつとめる。

神奈川県議会議員を経て、明治41年(1908年)に憲政本党から衆議院議員選挙に初当選、以後連続当選12回を数える

昭和4年(1929年)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる。

その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての親任式で参内した際には、守衛に一緒に参内した過去に大臣経験のある安達謙蔵の従者と間違われて押し問答をしている。

昭和17年(1942年)に翼賛政治会代議士会長に就任。昭和19年(1944年)から翌20年まで小磯内閣の内閣顧問を務めた。昭和20年(1945年)には貴族院議員に勅選され、翌21年に公職追放されるまで務めた。

昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった。墓所は横浜市金沢区の宝樹院にある。
妻: ナオ(綾部幸吉二女)
妾: 石川ハツ、寿々英(すずえ)など
女: コウ(養子)
女: 芳江(庶子、母は石川ハツ)
婿: 純也(芳江の夫)
孫: 純一郎、正也ら。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ところでやくざ Yakuza 八九三と字をあてる。2枚または3枚の花札を使ったおいちょかぶとよばれる賭博で、8、9、3の目が来ると上がれないことから、中途半端で役に立たない人間を指した。

のち、一般的には堅気の人とは対照的に、職につかない遊び人や、博徒(ギャンブル)や博打(ばくち)打ちを指す言葉となった。

江戸時代の享保の頃から「やくざ」の名称が流行したが、江戸末期の混乱期になって多く現れ、刀を持ち、脇差(わきざし)をかかえ、背中に刺青(入れ墨)を施すなど、異様な風態をてらった。

人別帳から除かれた無宿者(無宿)などが多く、侠客の親分のもとに寄食した。擬制的な親分、子分関係(擬制的親族)でむすばれ、暴力をふるい、法をおかすことが多かった。

第2次世界大戦後、やくざの世界も激変し、構成原理そのものが変わった。都市部では闇市(やみいち)の利権をめぐって、てきや( 香具師)集団が勢力を伸ばし、博徒もこの利権に目を向けて、従来はっきりと類別されていた組織系統が、複雑に入り混じることになった。

やがて、高度経済成長期を経る中で、大組織による系列化がすすむようになった。現在では、暴力を背景にゆすり、たかりをおこなう者、暴力団の成員(構成員、準構成員)を指す。

組織は、○○組を名のり、親分、子分、兄弟分の強力な支配関係で結ばれている。とくに親分への服従は絶対とされる。

跡目相続、親子盃、仁義とよばれる挨拶など、独特の儀式や慣行や隠語をもちその閉鎖性を維持しているが、その活動は、企業化、知能化の色彩を強めている。現在のやくざは刺青があっては幹部になれないといわれている。Microsoft(R) Encarta(R) 2006.
2008・05・01

2008年05月03日

◆「いしり」の美味さ

                     渡部亮次郎

新聞の日曜版で石川県の魚醤「いしり」を知った。烏賊の肝を塩漬けにして発酵させたものの汁だという。東京生まれの家人は私の郷里秋田県の名物「しょっつる」が大好き。「あれとおんなじよ」と乗り気でない。

なぜなら秋田県人のクセに私は鰰(はたはた)の魚醤で仕立てる「しょっつる」鍋はあまり好きではない。だから「いしり」を買っても食べられないだろうと、乗り気出ないのである。

そこで一番小さい瓶を取り寄せて烏賊の刺身につけて食べてみた。臭みが無く、コクがあり抜群に美味しい。烏賊も蛸も蟹も海老も食べないから血液にコレステロールが少ないといわれる私だが、「いしり」で烏賊を丸ごと平らげてしまった。

私が注文した先は(有)カネイシ 

927-553 石川県鳳殊郡能登町字小木18-6
電話:0768-74-0125  Fax:0768-74-1398
http://www.incl.ne..jp/kaneishi/

以下 株式会社 尾崎 発行の「奥能登味情報 特集 いしる」より。

いしりとは?
魚醤油の一種である。スルメイカの肝を樽に塩漬けにし、上から重石をして発酵させる。

春に仕込み、お盆の頃に桶の下に空けた穴から滴り出た汁を煮詰めて、布で濾して出来上がり。

醤油に比べ癖があってとても塩辛いけれど、烏賊の精のこくと味は、格別である。

使い方は、醤油と同様に調味料として使う。薄めて刺身のタレにしてもよし。野菜をつけてもよし。料理の下味、隠し味にも重宝する。
能登半島の内浦(富山湾側)の能都町宇出津では、烏賊が原料の「いしり」である。

一方、外浦(日本海側)の輪島では、鰯の内蔵を原料とする「いしる」となる。

「魚醤油」とは
ずばり「魚類で作った醤油」のことです。
醤油を原料によって分類すると、次の2つに大別されます。
  ・穀醤 : 大豆や小麦を原料とした調味料
  ・魚醤 : 魚類を原料として作った調味料

私たちが日常使っている醤油は、穀醤です。

能登の「いしり」や「いしる」は、魚類を原料として作った醤油で、秋田の「しょっつる」や四国の「いかなご」と並び日本を代表的する魚醤です。最近は、その独特のうまみで、能登を旅した人を中心にファンが増えています。

魚醤は、奈良時代、中国から伝来した穀醤より以前から作られており、日本の醤油の原点とも言えます。

また、魚醤は、東南アジアの各国でも作られています。次のものが代表例です。

・ニョクマム(ベトナム)
・ナンプラー(タイ)
・ タク・トレイ(カンボジア)

いしり鍋の作り方
材料
魚介類 烏賊 小海老
野菜類 茄子 大根 人参 春菊 椎茸 榎茸
たれ いしり 酒 みりん 水
作り方
1 .鍋の具を下ごしらえ

茄子は半月に薄く切る。大根は短冊切りにする。
人参は輪切りにして梅型に抜く。
春菊は、傷んだり汚れた葉先を除き、長さを揃える。

椎茸の石突きは手でひねってとり、かさの裏を軽く洗い、大きいものは2つに切る。

榎茸は、白身を帯びた新鮮なものを選び、根本の部分は切り捨てる。

烏賊は、胴のほうを輪切りにする。足も適当な大きさに切る。
小海老は、さっと洗って頭を取り、殻をむいて背わたを取る。

2008年05月02日

◆百花斉放百家争鳴

渡部亮次郎

1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「百花斉放百家争鳴」を提唱した。百花斉放とは様々な文化を開花させるという意味であり、百家争鳴とはたくさんの意見を自由に論争するということである。

毛沢東がこのような運動を始めた理由は過去さまざま論じられてきたが、定説は無い。毛沢東が自らの権威が揺らいでいると考え、劉少奇、ケ小平らの力を削ごうとしたためとも言われている。

あるいは作家のユン・チアンは、百家争鳴運動は始めから毛沢東が反対派を炙り出すための巧みな罠だったと断定している。渡部亮次郎も同じ意見である。

百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当し、国内の知識人の参加を呼びかけたが、それまでの弾圧などの影響であまり盛り上がらなかった。人民の大半は「罠」を感じたのである。

そこで1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部による最高国務会議を招集し、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。

さらに1957年3月6日から13日にかけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。

これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈なものに変わっていって今度は毛沢東を慌てさせた。

知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することにこともあろうに異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判するようになった。

当初、批判の場は「大字報」と呼ばれた壁新聞と、「座談会」と呼ばれた小規模な集会に限られていた。これは、批判の声に呼応して民衆が蜂起を企てることがないようにとの配慮であった。

運動の中で、ある教授は憲法を紙くず同然だと批判した。別の経済学者は共産党主催の公開批闘会が投獄されるよりもひどいものだと主張した。

劇作家は「芸術に対する『指導』は必要ない。だれがベートーベンを指導できるのか?」と述べた。共産党幹部の1人は「朝鮮戦争を始めとする外国への援助のばらまきをやめよ」と述べた。

「工業生産高のような情報さえ国家機密にしている現状を改善せよ」と要求する者もいた。挙句の果てに、党の機関紙である人民日報も党を間接的に批判するようになった。

百家争鳴運動は地方でも行われた。内蒙古大学のある教授は「モンゴル民族は固有の文化を持っており、むやみに漢化すべきではない」と主張した。逆に言えば、これまで周辺の占領地では、この程度の発言も許されていなかった。

1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長の胡喬木に対して「右派」を批判する準備を行うように命じた。