2008年09月23日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代


               渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。(9月21日 榊 寿之アンカー)

<『夜のプラットホーム』(よるのプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947年(昭和22年)に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

榊アンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れなかった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくしたこと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげにただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させるとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかかり、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。

レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従って内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll Be Waiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、
このタンゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き残った東京音楽学校出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならない事、全世代、共通の願いではなかろうか。2008・09・21
参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年09月21日

◆猪飼野に通った頃



      渡部亮次郎(全国版メルマガ 頂門の一針・主宰)


猪飼野(いかいの)は、大阪市東成区・生野区にまたがる、鶴橋から桃谷にかけてのJR大阪環状線東側と平野川に挟まる地域とその周辺の地域の総称。住居表示制度施行(1973年)前の地名である。

新住居表示では東成区の「玉津」「東小橋」、生野区の「鶴橋」「桃谷」「中川」「中川西」「勝山北」「勝山南」「舎利寺」「田島」辺りに当たる。

私が大阪暮らしをしたのは1973年夏から3年間。町名整理中だったのだろうが、私の歓迎会をしてくれた連中の誰もが、そんな事は口にせず、安いが高級な牛肉とホルモン焼きをおごってくれた。

秋田と大阪は離れているようで、関係が深く、住み着いている秋田県人の子孫も多い。謎は江戸期に北日本と大阪の物資流通を担っていた「北前船」。それに乗ってきた秋田人の水夫が大阪に留まった。大阪女にいかれたのも多かったろう。

初めて目にする韓国・朝鮮人集落は私にとっては珍しく、宴会といえば猪飼野という時期もあったぐらい。出て来る牛肉に紫色のスタンプが押されてそのまま出て来ることもあった。

内臓を「ホルモン」と呼んでいたが、これは以前は肥料に加工していたものだが、よく洗って「身体に力が付くホルモン(放るもん)」として出せば絶対売れるとか韓国・朝鮮人の知恵の勝利と言う説明も聞いた。

しかし、日韓併合時代、日本人は、自分たちは焼肉を食べていたが現地人には絶対、食べさせなかったらしく、1973年6月に初訪韓した我々日本人記者団に朴政権の閣僚は「大和(やまと)焼き」と言って出してくれたのが「焼肉」。漬けた肉を裁ちばさみで切った。

だから「焼肉こそは韓国が発祥の地」という韓国人の言は正しいが、但し、韓国人は戦前は目にはしても食べさせてもらえなかった料理である。戦後、大阪から帰郷した韓国人が始めたのが韓国式焼肉なのである。

古代・仁徳天皇の時代(5世紀前半)に、多くの「渡来人」がこの地にやってきた。特にこの地域は百済(くだら)からの渡来人が多く、古くは「百済郡」と呼ばれていた。

その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。

さらに、渡来人のもたらした優れた技術により、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に架けられ、通称「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となる。

近代以前は、この地は大阪有数の農村であり、大阪中心部への野菜の供給地であった。第1次世界大戦時の好景気を反映してこの地に工場の立地が相次いだ。

さらに、これまでくねくねと曲がって流れていた平野川をまっすぐに付け替える改修工事が行われ、労働者として朝鮮民族を中心に集められ、人口が急増する。

太平洋戦争を経て、この地に根ざした在日韓国・朝鮮人によってコリアタウンが形成されていった。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「猪飼野(いかいの)」大阪の町から、この町名が消えたのは1973年2月1日。

当時、大阪市は町名変更で猪飼野地区(猪飼野東、猪飼野中、猪飼野西)は7つに分断され、隣接地域と統合。合併され「猪飼野」という町名は姿を消した。

「猪飼野界隈の歴史」では、当時の百済人との交流から千年以上もの時を経た現代まで、猪飼野の歴史として紹介していきます。
http://www.ikuno-koreatown.com/design/rekisi.html

【猪飼野界隈の歴史-序章】

百済門(くだらもん)をくぐるとそこはもう「小さな韓国」です。キムチを売る店、チマチョゴリの色鮮やかな民族衣装の店。焼肉の匂い。あちらこちらで、韓国語が飛び交います。

生野区は、住人の4分の1が、韓国・朝鮮籍だといいますが、このコリアタウン界隈は、明らかにそれより、もっと多くの、朝鮮半島出身者が住んでいます。

まだ日本語のたどたどしいニューカマーもいます。では、どうしてこんなに多くの韓国・朝鮮人が、この地に住んでいるのか。

日韓併合(にっかんへいごう)

明治以来、富国強兵政策をとってきた日本は、日清日露の戦争に勝利した勢いで1910年、朝鮮を併合しました。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と、石川啄木はこれを憂(うれ)いました。朝鮮という国がなくなったのです。

日本列島から、朝鮮半島に、沢山の人が入植しました。列島ではうだつがあがらない人も半島では有利な経済活動をして、メイドを何人も雇えるほど、裕福な生活ができました。

逆に、半島から列島へ働きに来る人もいました。厳しい仕事を、劣悪な条件で働きました。1923年に、済州島(チェジュド)と大阪をつなぐ直行船「第1君が代丸」が就航してからは、済州島からも働きに来ました。

当時、在阪朝鮮人の人口が、毎年1万人ずつ増えたということです。大阪の生野・東成区辺りには、大阪城近くにあった砲兵工廠(ほうへいこうしよう)や、町工場(ゴム・ガラス・鋳物(いもの)・金属・鍍金(めっき)・染色などの製造工場)の仕事をする人が定住するようになりました。

半島から渡ってきた人たちの中には、身体的にはきついけれど、収入のいい土木作業に従事した人たちも多くいました。平野川の改修工事に携わった人たちの中にも、こうした朝鮮人が多くいたようです。

1945年、日本の敗戦は朝鮮の「光復」(クァンボク)です。大喜びで故郷へ帰りました。しかし全員が帰るには、船の段取りにも時問が掛ります。

そうこうするうちに、朝鮮(韓国)へ帰っても仕事がない、とか、政情が不安定、などの理由で、逆流が始まりました。帰り損ねた人、帰ったけれど、ふるさとに仕事がなくてUターンした人が、再び日本で住むことになりました。

大阪には、そのようにして在日韓国・朝鮮人が、たくさん住むようになりました。なかでも、生野区には一番多く在日コリアンが住んでいます。
                           2008・09・13

2008年09月20日

◆四足肉を食べなかった


渡部 亮次郎

私が中学3年生(15歳)の時に罹って死の寸前まで行った「脚気」。今ではビタミンB1欠乏症とわかって、玄米といわないまでも豚肉で補える事が分かっている。

秋田の農村。敗戦直後まで肉屋はなく、肉といえば飼っている鶏の肉だけ。中学2年のとき、生まれて初めて豚肉を食べた。この世にこんな美味しい物があるのかと驚き、豚を飼い始めた。

いずれ、明治天皇が自ら明治5(1872)年に牛肉を食して率先するまでは、日本では長いこと肉食は禁じられていた。その禁忌感覚は後を曳き、明治27―28年の日清戦争、明治37―38年の日露戦争では何万という兵士が戦う前に脚気で命を落とした。

海軍の軍医総監高木兼寛は米糠に大量に含まれている何か(後にビタミンB1と判明)が有効だと唱えたが、陸軍軍医総監だった森林太郎(文豪森鴎外)は糠が有効なら小便も効くだろう、と軽蔑したと言われる。しかし明治天皇も皇后陛下も高木説を信じて、脚気を治された。

一体、我々日本人はなぜ肉食を拒み、猫背の短躯のDNAを遺すにいたったのか。裏辺金好氏のホームページによると、以下の事実が分かった。肉食禁止が同和問題も密接な関係がある。

肉食といえば「文明開化」。しかし、それよりはるか昔の縄文時代の日本は狩猟採集の生活で猪(イノシシ)や鹿(シカ)を食べていた。また、弥生時代に農耕民族になってからも肉食をやめることはなく、それは奈良時代までは当たり前のことなのだった。

問題はこの後。一体どのような理屈からか、仏教が「生きているものを殺(殺生)しちゃあいかん」と提唱。植物だって生きていると思うが肉食する奴はとんでもない奴というレッテルが貼られ、肉食はすたれていった。

676年(天武天皇4年) 4月17日の肉食禁止の詔には、 庚寅、詔諸國曰、自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以降、九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁、且莫食牛馬犬@鷄之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。とある。
 
この詔は、牛、馬、犬、猿、鶏の五畜の肉食を禁じている。その理由は「犬は夜吠えて番犬の役に立ち、鶏は暁を告げて人々を起こし、牛は田畑を耕すのに疲れ、馬は人を乗せて旅や戦いに働き、猿は人に類似しているので食べてはならない」という『涅槃経』の教えによったものらしい。

ただし、雉(キジ)をはじめ鳥肉はその後もずっと食べられた。なお、鶏(ニワトリ)はただ羽の色と鳴き声を楽しむだけのものだった。食用になったのは明治以降。兎(ウサギ)も1羽、2羽と数えて鳥と偽って食べた。

さて、戦国時代。このころ実をいうと焼き肉が登場。足軽(兵士)たちが空腹のあまり農家から牛を盗んで、味噌(普段携帯している)で味付けして鉄板で焼くことを考案したのである。

また、宣教師が牛や馬の肉を食べていたことで、九州を中心に肉食が普及。しかし、どうもそれが豊臣秀吉に厭がられたようで「バテレン(宣教師)追放令」と共に禁止となった。

なるほど牛馬は農家にとって重要な働き手だった。肉食によって失っては駄目だったのである。秀吉は農家の出身。ただし、飢饉の時はそんなことも言っておられず、食べたようだ。

さて、時代は1853年。アメリカからペリーが日本にやってきた。彼は食糧を求め「鶏200羽と牛60頭をよこすように」と言った。

ところが幕府の役人は「なぜ? 船の中で耕作はできないですよ」とお答え。この答えにさぞかしペリーはビックリしただろう。彼は答えた「食べるのですよ」「えっ?」

ここで「なるほど西洋人は肉を食べるものなのか」と、納得したのが最後の将軍となる徳川慶喜。特に豚肉がお気に入りになったようで、人々からは「豚一様」と馬鹿にされた。

だが、明治維新で人々は文明開化の言葉に酔い、肉食に飛びつく。政府もこれを強力に後押しした。特にヒットしたのが「牛鍋」。愛知県犬山市の明治村に行けば、この「牛鍋」を再現したものを食べることができる。

何はともあれ1869(明治2)年に東京の市場として築地に政府が牛馬会社を設立。1872(明治5)年には明治天皇も食べた。仮名垣魯文が著した「安愚楽鍋(あぐらなべ)」の中では「牛肉食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書かれておるほど牛鍋は庶民の間に普及した。

この牛鍋というのは今の関東風のスキヤキであり、そもそも関西には牛鍋はなく、代わりにこれに似た料理をスキヤキと言って牛肉を食べた。で、大正時代にスキヤキという呼称に統一された。

美味しい肉料理の観点からすると、このスキヤキというのは、あまり牛肉本来の旨みを引き出さないものらしい。肉汁をなるべく出さないことで、肉の美味しさを保った料理を作るのがセオリーなのに、スキヤキは肉汁垂れ流しだ。

ところで話は変わるが、ビフテキの名前はどこから来ているか?ここで「ビーフステーキ」の略と言った人は甘い。これは、ビフテックというフランス語から来ている。

さらに言うと、ステーキとは、ステイクという北欧の言葉だ。余計なことだが、北欧と言えば鯨のステーキ。

焼き鳥は大正時代の終わり、大正12年の関東大震災の後から始まった。初めは高級料理だった・・・。今から考えると信じられない。2008・09・13

裏辺研究所   雑学万歳  第11回 日本人と肉食の歴史
http://www.uraken.net/zatsugaku/zatsugaku_11.html#TOP

2008年09月18日

◆河野議長の政界引退を寿ぐ

渡部亮次郎

<河野洋平衆院議長(71)=神奈川17区=が次期衆院選に立候補せず、政界を引退する意向を固めたことが17日分かった。地元議員や支援者らに説明を始めており、18日にも正式表明する。>
9月17日11時22分配信 毎日新聞

私の最も親炙した政治家河野一郎氏の二男だが、その政治姿勢に根本的に反対。申し訳ないが、政治家からの1日も早い引退を待っていた。

この報道によると河野氏は、引退の理由の1つに、2日に広島市で開かれた主要8カ国(G8)下院議長会議でホスト役を務めたことを挙げ、「集大成としたい」と説明した。

何たるザマか。主要8カ国(G8)下院議長会議の議長役など政治的な実績とはおよそ無関係である。引退理由は、これ以上議席を穢しても国益と無関係な自分をようやく発見したと言うに過ぎない。

河野氏は父一郎氏の1965年7月8日の逝去をうけて1967年、衆院旧神奈川3区(当時)で自民党から初当選し、現在14期。連続当選は父親が牢獄にぶち込まれても死守した強力な地盤の賜物。

しかし、その娘真紀子とは見合いまでした仲の田中角栄政権に反対して76年に新自由クラブを結成して脱党、代表を務めた。なんら政界浄化の成果も挙げられないまま86年に自民党に復党。

科学技術庁長官、宮沢喜一内閣の官房長官を経て、93年に自民党総裁に就任したが非自民連立政権の発足で歴代総裁の中でただ1人、首相になれなかった。

自民党総裁として政権奪還の悲願を果たした功労者でありながら内閣総理大臣に就任出来なかった河野の境遇を見かね、森喜朗が議長就任を打診。

2003(平成15)年11月19日に選任。爾来2008年8月26日で、衆議院議長在職1700日を迎えた。現在、現行憲法下で2番目、旧憲法下も含めて歴代3位の長い在職日数となっている。

11月14日に戦後最長だった船田中(1780日)に並ぶはずだが次期臨時国会で早期解散がなければの話。さらに同19日には、旧憲法下も含めて歴代1位の大岡育造(1785日)に並び、同20日に、最長記録を更新する見通しである。長男太郎氏も衆院議員。

以下フリー百科『ウィキペディア』による。
主な関係団体
北京オリンピックを支援する議員の会会長
日中友好議員連盟所属
日本国際貿易促進協会会長
日韓議員連盟顧問。

河野の政治姿勢は一貫して平和主義外交・穏健保守である。

以下に、河野の政治姿勢を顕著に示す主な出来事を挙げる。

慰安婦に関する談話
1993年、宮澤喜一改造内閣の官房長官として、「従軍慰安婦問題」に関する日本政府の調査結果を報告した、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる「河野談話」)を発表した。

「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という趣旨の発言を行なった[。

しかし当時官房副長官であった石原信雄がのちに語ったところによると、当時の日本政府の調査では、軍など日本側当局が慰安婦を強制連行したという資料は確認されなかったという。

2007年、安倍晋三首相(当時)「狭義の強制はなかった」とする発言を行った。この発言は事実上河野談話の継承を否定するものとして内外では受け取られたが、その後、日本及び日本政府が河野談話を継承していることを内外に説明した。

遺棄化学兵器に関する取り決め
外務大臣在任中、日本が批准していた「化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」の発効に伴い、同条約4条から要請される、中国国内に遺棄された旧日本軍の毒ガス弾の処理において、中国と取り決めを交わした。

なお、同条約及び付属文書では、遺棄化学兵器の廃棄に必要な資金技術人員施設等すべての必要なものを遺棄した締約国(つまり中国における旧日本軍の遺棄化学兵器については日本)の責任で用意することを求めており、また、遺棄化学兵器の廃棄を発効後10年間(2007年まで)に終了することを求めている。

北朝鮮へのコメ支援
2000年、外務大臣として北朝鮮への50万トンのコメ支援を決定した。

李登輝訪日への反対
2001年の台湾の李登輝訪日問題での対応。中華人民共和国からの強い抗議をうけて自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対した。

戦没者追悼式における発言
2006年8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞で「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と異例の戦争責任論に言及した。

また、2007年8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞においては、「日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げたいと思います 」と述べた。

その他
クリントン米政権時の2000年10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、アメリカ政府は北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除を検討しており、解除に極めて近い状況であったが、日本政府(河野は当時外務大臣)が拉致問題等を理由に指定解除阻止を図っていたことが分かっている。

歴史を無視したたわけ者という以外にない。だから河野の引退を残念がるのは胡錦濤と金正日と韓国の一部だけだろう。2008・09・17

2008年09月17日

◆腹が減っては・・・


渡部亮次郎

記者の大先輩古澤 襄(のぼる)さんが自らのブログで引用(9月14日)した韓国紙「朝鮮日報」(9月10日)によると9日の北朝鮮建国60周年記念行事に主人公であるはずの金正日(キム・ジョンイル)総書記が参加しなかった理由はまだ明かされていない。

<正規軍が参加する大規模な軍事パレードは午前に行われることが通例だったが、今年は午後の遅い時間に、正規軍ではなく労農赤衛隊と赤い青年近衛隊、平壌市民のパレードだけが行われた。>、

これまで閲兵式に参加した軍人たちは、米飯に肉のスープはもちろん、さまざまな土産物を下賜され、最高の待遇を受けてきたが、今回は、トウモロコシすらきちんと支給できないほどに状況が劣悪で、軍人たちの不満は爆発寸前だった。

軍隊の祭りと言うべき閲兵式が飢えのせいで中止となり、不満が危険なレベルに達して今回のイベントが迷走したという可能性が提起されるほどの「飢え」。

<急激な経済悪化と食糧難で、人民軍を「栄失軍(栄養失調の軍隊)」や「強栄失(強い栄養失調の軍隊)」と呼ぶ事態にまで至っている。


金正日総書記は軍隊と銃隊を最も愛したが、人民軍の忠誠度は地に落ちている。

元軍人のある脱北者は、「現在服務中の人民軍兵士の大部分は、1990年代後半の食糧難で親兄弟を葬った痛みを抱えている」と語った。

今でも大部分の兵士から聞こえる声は「親兄弟がひもじい思いをしている」というものばかりで、若い軍人の体制不満は想像以上に深刻な水準にある。

この脱北者は、「軍人が体制に対する希望を持たず、大多数は外部の情報に飢えており、軍隊内で韓国の映画を見たりラジオを聴いたりすることも1度や2度ではない」と語った。>

「人道支援」の名の下に日本始め自由諸国から掻きよせたコメなど食料品が実は庶民には一切渡らずに全部が人民軍の食料になっているとは以前から言われてきた事。

だからこちらは人民餓死しても軍と名の付いた人民は出た腹を撫でているのかと思わせられてきた。だが軍人も飢えているとは穏やかではない。

辞書には「腹が減ると腹が立つ」という諺がある。「人間は空腹になってくると、いらいらし、何に対しても怒りやすくなるということ」との説明が付いている。人民軍は怒りやすくなっているのではないか。

人民軍の訓練が燃料不足で軽減されていると言う観測がかなり前から伝えられていたが、軍人たち自身が腹をすかせているという推測報道に接したのは、初めて。当に「腹が減っては戦ができない」。

The mill stands that wants water.
水不足の水車は動かない 腹が減っては戦(いくさ)が出来ぬ(旺文社『成語林』)。

腹が減っては・・・の諺に付いての興味ある解説に接した。岩波書店の『岩波 ことわざ辞典』である。時田昌瑞著、初版2000年10月18日。時田氏は1945年生まれ、早稲田大学文学部卒、ことわざ研究会会員。

腹が減ってできないのは戦争ではなく「仕事」のこと。武士の間で生まれた諺では無い疑いがある、というのである。

時田氏によれば「腹が減っては戦ができない」という言い方は明治以前には見られず、ただ、江戸末期の脚本『与話情浮名横櫛(よわなさけよこなのうきぐし)』(序幕)に次のような科白(せりふ)があるというのだ。

駕籠乙「なァ棒組、この中(うち)ちょっと遣(や)って来(き)ようか」ト飯を喰う思い入れ。駕甲「ちげえねえ、腹が減っちァ仕事は出来ねぇ、この中に遣って来ようか」と「戦」ではなく「仕事」の形の例がある。

そこで時田氏は、しかし「仕事」では当たり前すぎて印象が弱い。諺特有の誇張の技法を採るならば、「仕事」から「戦」へと発展したものと見るほうが当っているのではあるまいか、と結んでいる。

国際政治を解説した先輩の文章を「国語の時間」にしてしまった、ご寛恕の程を。2008・09・16

2008年09月15日

◆沖縄産モズクから腸の薬


渡部亮次郎

モズクは苦手だが、大腸菌O―157に対する殺菌効果を発揮するなど腸内環境改善作用が確認できたとして、薬品利用の特許が申請される。

<水産物加工・モズク製品販売を展開する海産物の「きむらや」(鳥取県、木村隆之社長)はこのほど、オキナワモズク(本モズク)などに含まれる「フコイダン」に腸内環境改善作用が確認できたとして、薬品利用の特許を出願した。

「きむらや」は昨秋から今春まで、鳥取大学の協力を得てフコイダンの腸内環境改善作用を研究。腸過敏性症候群と呼ばれるストレスなどを原因とした下痢や便秘の改善が見られたという。

同社はこれまでに、「フコイダン」による抗がん剤の副作用の抑制効果でも特許を取得している。酢の物の需要が頭打ちとなり取引価格が低迷する沖縄県産養殖モズクの新たな需要拡大に、県漁連なども期待を寄せている。

フコイダンはモズクやメカブ、コンブなどの海草類に含まれるが、含有量はオキナワモズクが最も多いという。

同社は1996年、製造する味付けモズクが大腸菌O―157に対する殺菌効果を発揮したことを発見。以降、食品としてだけでなく医薬品などとしてオキナワモズクの可能性を研究している。

2006年にはがん細胞と同時に正常な細胞も破壊する抗がん剤の副作用から正常細胞を守る働きも発見し、特許を取得した。

当面は特定保健用食品として液状や粒状の「腸内環境改善剤」を販売する方針で、同時に医薬品としての実用化も目指すという。商品は子会社のキムラヤファンクショナルフーズでネット販売する。
URLはhttp://www.fucoidan1.jp/index.html

沖縄県漁業協同組合連合会(下地敏彦会長)の担当者は「定番の酢の物の需要は頭打ち状態だ。開発は新分野での需要開拓につながる」と期待を寄せた。同時に今後は県内でも2次加工品の開発を進める必要性も指摘した。>琉球新報 2008年9月10日


モズクを食べるのは日本人ぐらいだろう、と思ったが台湾でも食べるようだし、身体にいいと分かったからには、やがてハンバーガーの人も食うだろう。

雪国の海では採れない所為か、秋田生まれの私は東京で大人になったけれど、だからと言ってモズクの酢の物は苦手な食べ物のトップである。

腸は記者時代、水害取材で赤痢にやられて以来、強くないほうだから液状や粒状の「腸内環境改善剤」が販売されたら買いたいものだ。

ところでモズク(水雲、海蘊)は、褐藻綱・ナガマツモ目のうち、モズク科やナガマツモ科に属する海藻の総称。枝分かれのある糸状藻類である。漢字表記では「藻付く」とも。

長さは数十cmほどもあるが、幅は1―数mmほどしかなく、各所で枝分かれする。表面には多糖類が分泌されており、手で触れるとぬめりがある。

おもに熱帯から温帯の浅い海に分布する。日本沿岸では冬から春にかけて、光が届く潮下帯の岩礁に生えるが、夏には他の海藻類と同様に枯れてしまう。

ホンダワラなど他の褐藻類に付着することから「藻付く」という名がついたといわれる。オキナワモズクなどは褐藻ではなく石に直接付着する。

主産地は、日本では沖縄県、日本国外では、トンガが特に有名である。台湾などでも、髪菜(ネンジュモ)の代用品としてオキナワモズクの養殖が試みられており、「海髪菜」という商品名を付けている。

食材としては、食酢で和えた「もずく酢」や、塩に漬け込んだ塩辛などが一般的である。土佐酢、三杯酢などと合わせてプラスチック容器に入れ、そのまま食べられるように加工した食品が主に流通する。

他にも生のモズク(あるいは塩漬けを十分塩抜きしたもの)に衣をつけて天ぷらにしたり、吸い物、雑炊などにも利用される。沖縄では衣が厚い独特のてんぷらにソースをつけて食べる。

海中に自生している時は褐色だが、他の褐藻類と同様熱湯に通すと緑色が出てくる。噛むとワカメのような歯ざわりがあるが、表面の多糖類のため、ぬるぬるとした食感が先に立つ。

成分

ぬめり成分―多糖類(食物繊維)
フコイダン(Fucoidan)―フコース
アルギン酸
フコオリゴ糖
キシロース
カロテノイド - フコキサンチン(ビタミンAの1つ)
アラキドン酸(必須脂肪酸・ビタミンFの1つ)
ビタミンC
ビタミンK
エイコサペンタエン酸(EPA)
フコステロール
アミノ酸 - グリシン
無機質 - マグネシウム、カルシウム、カリウム、リン、ナトリウム、鉄

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2008・09・11

2008年09月12日

◆上海でも焼肉食べるのか


                     渡部亮次郎

上海には4年ぐらい前にも行ったが焼肉屋には入らなかった。中国へ日本食を食いに行く事は無いからだ。だが、情報によれば、このところ上海市内には400あまりの日本料理店があり、そのうち焼肉専門店も年々増加しているそうだ。

中には人気があるため予約なしでは座れない店もあるほどとか。焼肉店の様子は日本と大差ないが、他の日本料理店に比べて中国人客も多いようである。

味について言うならば日本とはかなりの「開き」。日本の「霜降り牛肉」のような上等な肉はあまり見られず、現在はまだ産地やグレードへのこだわりも少ないようだ。

そもそも中国では「肉」といえば豚肉であり、牛肉の消費量は比較的少ない。例えば2004年の上海市都市住民の年間平均消費量は、豚肉18・4キロ、家禽(あひる)11・8キロに対して牛・羊肉は2・5キロである(「上海統計年鑑」)。

年間国内生産量も豚肉4,702万トンに対し牛肉は676万トンで豚肉の1/7しかない(「中国統計年鑑」)。

ただ、「中国人は牛肉が嫌い」なわけではなく、従来は伝統的に食べる習慣がなかったということである。最近では「火鍋」(中国風の寄せ鍋)料理のブームで、羊肉や牛肉の消費が飛躍的に高まっており、また焼肉を好む人も多くなっているというわけだ。

中華料理には焼き網や鉄板で肉をあぶって食べるというスタイルはないことから、中国で焼肉といえば韓国式か日本式ということになる。現在、上海市内に韓式焼肉店は約300店、日式焼肉店は約50店ある。

中国の牛肉の産地は、河南、河北、山東、吉林省など華北、東北地域に多い。牛肉の対象となる牛は「黄牛」といわれる農耕牛の系統や、水牛が多い。

韓国式焼肉はタレの味で勝負し、日本のように肉そのものの品種やグレードにはうるさくないため、主にこうした肉を使用している。

かつて上海の日本式焼肉店も、中華料理や韓国料理と同じ牛肉を使用していたが、近年になって、霜降りの「黒毛和牛」を使用しているという宣伝文句で差別化をはかる店が次々と現れた。中には、「神戸牛」や「松阪牛」を出すという店もある。

ただし、日本は中国から狂牛病発生国に指定され、中国への牛肉の輸出は禁止されている。従って、もし「神戸牛」や「松阪牛」という日本産の牛肉が出回っているとすれば、それは通常ルートで入ってきた商品ではない。

中国で食べることのできる「黒毛和牛」には大きく2つのルートがある。1つは「オーストラリア産」で、もう1つは「中国産」である。

2004年中国の牛肉輸入は、オーストラリアからが最も多く、2,147トン(生鮮・冷蔵・冷凍、骨付き・骨なし合計、以下同)であった。次いでニュージーランド825トン、ブラジル422トンの順である。米国からは41トンで、2002年の8,422トンから著しく減少している(「税関統計」)。

オーストラリア産牛肉の中には、黒毛牛の血統のものがあり、それらのうち上質のものが「黒毛和牛」として日本式焼肉店で出されている。

一方、中国産の黒毛牛の流通ルートが確立されたのは、つい最近のことである。

2005年8月に日中合弁で遼寧省に設立された大連兼松雪龍食品有限公司は、瓦房店市(大連郊外)の「雪龍牧場」で黒毛和牛の血統を肥育し、併設の食肉センターで加工し、中国各地に販売している。

肥育技術は、鹿児島県の業者が指導している。現在牧場には約1万頭肥育されており、2年後には1万5,000頭に増加する予定である。

懐が豊かになると本物(日本産)を食べたくなるのは何処でも同じ。

2006年4月、上海市出入境検験検疫局は市内の食品会社や卸売市場の検査を行い、日本、米国、カナダから密輸された牛肉2トン余りを押収した。

このニュースが5月10日付けの新聞で一斉に報道され、狂牛病発生地域からの牛肉密輸に対し警告が発せられる形となった。

この摘発報道を受けて、日本式焼肉店でもフリーペーパーに載せる広告から「黒毛和牛」や「神戸牛」などといった表記を減らし、「黒毛牛」という表記にとどめるものが増えたそうだ。

2008年でも魚の底に日本から牛肉を密輸しようとした事件が北海道で摘発されている。反面、国内生産も本格化しそうだ。

税関統計によれば、2002年に9,000頭、2003年に4万1,000頭、2004年に6万9,000頭と、この3年間で約12万頭の種牛がオーストラリアから輸入された。

遼寧省には「雪龍黒牛」のほかに、オーストラリアから導入したアンガス牛(イギリス原産の黒毛牛)を大規模に飼育している「大連華牧集団」もあり、焼肉用牛肉の一大生育地が形成されつつある。

また「焼肉文化」は地方都市にも徐々に波及しようとしている。大分県で建設業を経営する深田栄次さんは、2002年に単身で湖北省の荊州市に乗り込み、牧場経営を始めた。

今後、中国でも焼肉を食べる時代が来るだろうと見込んで、研修生受け容れなどで縁のあった荊州市に投資をした。現在、黒毛アンガス牛を約200頭肥育しており、省都の武漢市に焼肉店を開く準備中をしている。

魚が中心の日本料理は、地方都市に浸透しにくいのに対し、焼肉は中国人社会に比較的簡単に受け入れられやすいらしい。羊肉しゃぶしゃぶの「火鍋」料理がここ5年の間に中国で急速に拡大したように、日式焼肉が中国全土に拡大することも十分に考えられる。

焼肉が普及すれば、それを中心としてロースター、炭、タレ、サイドメニューなどの分野でのビジネスチャンスも発生する。

また、日本からの牛肉の輸入が解禁されれば本物の「黒毛和牛」も流通することになり、富裕層を中心に顧客層の幅、数も更に増加するとみられ、今後の展開が注目されよう。2008・08・04

参考;『中国経済』(JETRO)2006年9月号
http://www.pref.oita.jp/14300/shanghai/report/2006-4.htm

2008年09月11日

◆佐藤千夜子色気なし


                    渡部亮次郎

佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日―1968年(昭和43年)12月13日)は日本初のレコード歌手。
1946年(昭和21年)、千葉の教師から大金を詐取して逮捕。

1952年(昭和27年)、古着屋からかつて自分の所有品だったコートを無断で持ち帰ろうとして新聞沙汰となり、事実上芸能界から引退。

本名は佐藤千代。山形県天童市出身。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。

日本初のレコード歌手だったから、初めは各方面で「もてた」。後に歌謡界の大御所となる古賀政男も「酒は涙か溜息か」が名曲となったのも千夜子に最初に歌ってもらったからだった。

しかし、とにかく色気が無い。女性らしい、ふくよかさゼロ。温かみも皆無。ただただ高い声で叫んでいるだけだ。ソプラノかも知れないが、当時の日本男性、歌手が女性でありさえすれば夢中になったとは情けない。

子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン(Miss.Kirwan)と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。

ミッション系である普連土女学校(現普連土学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し強い感銘を受け、音楽を志す。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学。在学中に作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情らと知り合う。中山、野口と共に「全国歌の旅」に出る。

1925年(大正14年)、ラジオ放送(NHK)が開始され、ラジオを通して歌うようになり「青い芒(すすき)」でレコードデビュー。発売元は内外蓄音器(後の太平蓄音器)。

1928年(昭和3年)、中山、野口らと共に行っていた「新民謡・新童話コンサート」から生まれた「波浮の港」を日本ビクターよりリリース。これが日本初の商業レコードとされている。

「波浮の港」は10万枚の大ヒットとなる。同年に「当世銀座節」をリリースしヒットする。また古賀政男の「影を慕いて」を歌う。これにより、古賀はメジャーデビューのきっかけを掴む。

1929年(昭和4年)、「東京行進曲」を5月1日にリリース。菊池寛原作の同名小説を映画化した作品(主演夏川静江、入江たか子)の主題歌に用いられ、日本初のタイアップ曲。25万枚以上を売り上げ特大ヒットとなった。

また、全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となる。この曲は「歌謡曲」というジャンルを確立した曲でもある。「東京行進曲」のB面曲だった「紅屋の娘」も一世を風靡した。

同年、「愛して頂戴」「黒ゆりの花」をリリースしこれらもヒットを記録。

1930年(昭和5年)、「唐人お吉の歌(黒船篇)」、「この太陽」をリリース。次々とヒットを飛ばす。同年にイタリアに渡る。理由については、中山との不倫問題を決着させるため、当初から志望していたオペラ歌手になるためなどの説がある。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。
しかし、アメリカに残る伝説では日本を出発した船中で日本人の柔道家と恋仲になり、イタリアへ渡る前、爛れた生活を送った。

1934年(昭和9年)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与されるもののオペラで名声を得ることはできなかった。

同年に帰国し、日本国内での復帰を目指すが、若手の台頭などもあり果たせず終わる。彼女の時代は終わっていた。

戦時中は南方戦線の慰問をして回る。山本五十六に前線で兵士が愛唱していた「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと依願されたこともあった。

癌は乳癌に始まり、嘗てアメリカで馴染んだ男性の縁者が東京に呼び出されて面会すると、乳癌の悪臭で息が詰まったと言う。


1968年(昭和43年)12月13日、ガンのため都立大久保病院で死去。享年71。生涯独身で家族はいなかった。地元天童市の共同墓地に埋葬されている。同市の佐藤千夜子記念館は佐藤の生家を再現したものである。

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「東京行進曲」は当時としては天文学的なセールスを記録し、大震災で消滅していた銀座の柳がこの曲の「昔恋しい銀座の柳」の歌詞から復活したという経緯もある位であった。

この「東京行進曲」の4番は元々、「長い髪してマルクス・ボーイ、今日も抱える赤い恋」という歌詞だったが、「シネマ見ましょか、お茶飲みましょか、いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞に改められた。

作詞家の西条八十は後に、この歌が縁になって小田急の顧問に迎えられている。また「愛して頂戴」の作曲者は松竹蒲田音楽部となっているが、実際は中山晋平が、あまりに低俗な歌のため作曲者として実名を出すのを憚ったという話がある。

飛ぶ鳥落とす勢いであった千夜子だが、当時は流行歌手の地位は低く、本来、クラシックを目指していた事情もあり、「東京行進曲」の印税で人気絶頂の4年にイタリアへオペラの勉強のため留学。

しかしこれが千夜子の命取りになった。5年間のブランクは、もはやレコード界に千夜子の席を用意していなかった。ミラノでも日本民謡などは評価されたが、肝腎の西洋ものは全く評価されず、派手な生活もあって領事に金の無心をするなど滅茶苦茶な生活を送っていた。

9年の日本への帰国船では、ローマで交友があったテニス日本代表選手が先に帰国途中の船からインド洋に身投げをした事から、その場所を通りかかった際に洋上に花束を投げて故人の好きだった「上州小唄」を歌い、大変な話題になった。

しかし肝腎な歌の方では鳴かず飛ばず。これ以降の千夜子は歌と関係のない話題で世間を騒がせ続ける事になる。

しばらくは二流の劇場でアリアなどを歌っていたが、10年にはミラノ領事に借りた金を返さなかった事から、領事の遺族に訴えられ、新聞沙汰になる。

戦時中は南方戦線の慰問などをしてまわり、18年には山本五十六に前線で兵士が愛唱している「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと頼まれたりもしている。

その後は地方巡業などで生計を立てるが、26年には銀座のビル内でたまたま強盗に遭遇し縛り上げられ、この事件は当時の新聞などで大変な話題となった。

ガンとなり、外人家庭のメイドなどをして暮らし、晩年はその日の生活費を無心して歩くほどの困窮を極めた。

死の直前までリサイタルを開く事を夢見て、入院先の病院でも担当医師に「東京行進曲ってご存知?」と問うて、世代的に千夜子の名声を知るべくもない壮年のその医師が東京音頭と勘違いして答えると、大変に不機嫌な態度をとったり、最後の最後まで往年の名声を忘れられずに生きた不幸な人だった。

派手な生活も改める事を出来ず、43年8月に医療保護患者として都立大久保病院に入院、11月に知人が見舞いに訪れた際にも「モンテカルロでバクチで儲けた」などとかつての栄光の日々の思い出話ばかりをしていたという。

生涯独身で家族はいない。天童教会の共同墓地に眠る。訃報は新聞の東京版のみの掲載となり、その死を知ったのは都内在住者など一部に限られた。

その数奇な運命はNHKの朝ドラ「いちばん星」のモデルとなった。故郷の天童には佐藤千夜子記念館がある。

「誰か昭和を思わざる」。
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer04.html

2008年09月09日

◆「負けるが勝ち」とは



渡部亮次郎

「負けるが勝ち」とは「一時は相手に勝ちを譲り、強(し)いて争わないのが、結局は自分に勝利をもたらすということ」(「大辞泉」)「強いて争わず、相手に勝ちを譲るのが結局は勝利となる」(広辞苑)

連合国に敗戦を体験した世代はこの諺を叩き込まれた。しかし体験せず、生まれ落ちた瞬間から自由と民主主義と自己主張の大切さを教え込まれた団塊の世代以降の人たちは、負ける事が最後には勝者になることの真意が理解できない人が多い。

ところがインターネットを逍遥していたら、多分、アメリカからの留学生が、自己主張の国育ちの青年が、京都のおばあさんからこの諺を教わり、納得した事を弁論大会で語っていた。

日本で得た知識や経験

「負けるが勝ち」 ジョシュワ・ウィークス(Joshua Weeks)
http://kyotowestlions.jp/benron01/t01-06.html

この間、お世話になっているホストファミリーのおばあさんからおもしろい話を聞きました。日本では「負けるが勝ち」という慣用句がある、という話でした。

僕はその日、ホストのお母さんと小さなケンカをしていたので、おばあさんはその解決法をアドバイスしようとしたのです。

「負けるが勝ち」というのはつまり、自分が賛成していなくても周りの人の意志に流されたり、自分が悪くないと思っても謝ったり、自分のプライドを犠牲にすることで結局自分が得をする、ということです。

「私はずっとこうして生きてきて、今は友達がいっぱいいて、楽しいのや。お兄ちゃん(僕のこと)もね、日本語上手やけど、日本人の心がまだわからへんやろ?」とおばあさんは言ってくれました。

この話を聞いて、僕はいろいろ考えさせられました。アメリカ人と日本人の心理の違いとか、集団主義と個人主義とか、両国の子供の育て方とか。そして僕は、アメリカ人は、これで何が学べるのかということも考えました。

僕のホストファミリーには2歳と5歳の子供がいて、ホストのお母さんとよく子供の育て方やケンカの解決のし方について話をしています。

日本では、ケンカなどをする時、お互いの行動を読み、自分の行動をそれに合わせて大ゲンカを避けることが好ましいと、お母さんが言いました。これを「以心伝心」と呼びます。

しかし子供達は小さい頃にまだこういったことができなくて、自分が考えたことをそのまま口に出してしまいます。

歳をとって行くにつれ、だんだん他人と調和して接することができるようになると、お母さんが続けました。

僕の考えでは、このような社交性はおばあさんが言っていた「負けるが勝ち」にとても似ていると思います。日本ではこのように、周りを見て、自分から合わせようとする行動が社会化と見られているようです。さらに一生を通して、このことが人間の成長と思われているようです。

アメリカ人はこれで何が学べるのでしょうか。

アメリカでは、争いをどう解決しているのかと質問されても、答えは不明です。自分が「素直に生きている」と思い、争いが続いても謝らないでいられる人が多いと思います。

日本では、平和そのものが好ましい目的として考えられているからこそ、人は簡単にうなずいたり、謝ったりすることができます。

アメリカ人も平和を自分のプライドより優先したら、ケンカや問題の解決や、平和の達成に役に立つはずです。

僕はその日、ホストのお母さんとケンカしてしまった時、早くこれに気付き、早く謝ったとしたら、絶対に問題が解決され、進んで行けるようになったはずです。

アメリカには、日本人、またはアジア人の「集団主義」を「自我の抑圧」として非難する人がたくさんいると思います。僕も、日本人の行動の中で個人の意志がなくされているのではないかと思ったことがあります。

しかしおばあさんの話を聞いて、彼女の生活を見て、感覚的に、「集団主義」を通じて幸せになっている人がいる、と分かりました。

毎日何時間も色々な地元に散らばっている友達と嬉しそうに話して、こう生きてきたことを誇り、そして自分の人生に満足感を持っている人だと強く感じました。

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2008年09月08日

◆隠す事は顕(あらわ)る


渡部亮次郎

What is done by night appears by day.
直訳すると、夜行なわれた事は日中にばれる。英語でもこう言って戒めている。「隠す事は顕(あらわ)る」。

「隠し事は、隠せば隠すほど、人々の注意を惹き、早く知れ渡ってしまう」ということ。「隠せば、いよいよ現る」「隠すより現る」とも。旺文社「成語林」より。

だから「壁に耳あり 障子に目あり」と言った。それなのに福田首相の隠し事(総理を辞めたい)は最後まで顕れなかった。見事なのはこれだけにしても。醜女がサングラスをすると却って目立つと同じ。

<福田首相辞任 4月から「辞めたいなあ…」

退陣会見(9月1日)は突然のものだったが、首相にはすでに今年4月から退陣の2文字が頭をよぎっていた。

首相が後見人でもある森喜朗元首相に辞意を漏らしたのは、改正租税特別措置法の衆院再可決を前にした今年4月だった。

大連立構想の破綻(はたん)に始まり、日銀総裁の空席、ガソリン税の暫定税率失効と「ねじれ国会」にくたびれ果て、「辞めたいなあ。もう外遊もしたくないよ」と、森氏に赤裸々に語っていた。

首相は、4月末から5月の大型連休にかけて予定していたロシアとイギリス、ドイツ、フランスの欧州3カ国訪問を取りやめたいと漏らした。

ロシアとのパイプが深い森氏は「少なくともロシアだけは行くべきだ」と説得した。

その結果、首相は欧州3カ国歴訪は見送ったものの、ロシアには出向き、メドべージェフ、プーチンの新旧大統領と会談した。

森氏らは、北海道洞爺湖サミットが終了後、声高に内閣改造熱をあおった。

森氏は福田首相が内閣改造(8月1日)を断行する半月ほど前の7月中旬、周辺にこう語った。「おれは福田さんの背中を押してやるだけだ。自前の内閣を作って、9月までしか持たないかもしれないが、そこまでは頑張ってほしい」

人事を断行しても支持率は低迷。身内の公明党からも揺さぶられ、臨時国会の乗り切りは誰の目から見ても容易ではなかった。

森氏が首相から、退陣表明の連絡を受けたのは1日午後7時半過ぎ。緊急会見のわずか2時間前だった。2人の関係からすれば水くさいものだ。

驚いた森氏は「待て。慌てるな。これから官邸に行く。話し合おう」と電話口で食い下がった。

首相はきっぱり拒否した。「来なくていいですよ。もう遅い。記者会見をすでにセットしたから」

決断できないリーダーと言われた福田首相の最後の決断だった。>
(9月3日2時31分配信 毎日新聞)

明確に分かるように、この記事は森氏の述懐で成り立っている。福田首相は「辞めたい」と4月から言い始めていたことを明快に述べている。

ところが、私のところに「福田は辞めるよ」との特ダネ情報のメイルで入ってきたのが4月8日だった。直接、森氏からではなかったが、森氏に接近できる筋からではあった。

あの時点で「辞めたい」という福田首相の声を生で聞いたのは今のところ森氏しかいない。だとすれば森氏がどこかで誰かに洩らしたからこそ「4月8日」情報が、密かながら流れたのである。

だから専門家筋では「福田辞任は近い」と見るのが一般的だった。従って、内閣改造と党4役入れ替えを断行(8月2日)したことに驚いた筈である。「辞意を撤回したかな」と。

隠せば顕(あらわ)る。顕れなかったところからすると逆に福田首相は隠さなかったのか。辞意表明のタイミングを狙い始めた頃は既に顔に出ていたと、彼と親しい「山堂」氏(『頂門の一針』常連執筆者)は言っている。

毎日、追いかけている政治記者1年生たちの目が節穴だったのは残念だったが、何もできなかった福田氏、自分の危機管理だけは出来たという事か。そこが「あなたと違うんです」か。

ところで「隠せば顕(あらわ)る」は「広報」の本質を突いている。
そこには「情報」が元々「秘匿」の必然性を持っているから、「広報」は「秘匿」したほうが効果を大きくすると言う原則になる。

「実は、ここだけ、きみにだけ明かす話なんだけどね」と相手を特定して話した話は「特ダネ」だから大きく報道される。「抜かれた」各社は仕方なし「後追い」。これを役人にやらせると共同発表にするから各社一斉「ベタ」(1段)扱いで終わり。確かに情報は「操作
できる。2008・09・07


2008年09月07日

◆小池首相は大穴過ぎる?


渡部亮次郎

確かな筋の情報だと総選挙は11月9日(日)の投票日で動かないだろう、という。年寄り趣味で日めくりを繰ってみると「先負」である。自民党が投票日を「大安」以外に持ってきた例は殆ど無い。いいのかな。公示日は10月28日ということになる。

昔の保守系政党は選挙の投票日を「大安」の日にする事に拘った。1960年代の佐藤栄作総理大臣時代、幹事長の田中角栄が総選挙の投票日を国会運営の都合上から決めようとして適当な日を口にしたが、国会対策委員長だった園田直が別の日取りを口にした。

NHKは幹事長の言った日を見出しにとってニュースを流したが、園田は「総理は縁起を酷く担ぐ人だから、ワシの言った日になる」と断言。実際、園田の言うとおりになった。私はいわば「訂正記事」を放送して報道局長賞を貰った。

さて、今回、自民党の総裁選挙は9月22日に投開票日。結果もその筋によると、「麻生首相は動かないと思うが、小池百合子首相の大穴が出るかもしれない。小泉元首相はそれを予言している」と言う。

今の自民党の総裁選挙劇は多分に仕組まれた段取りを踏んでいる。民主党が密室で小沢3選を強引に決めたのに対して、自民党幹部は次から次へと立候補の名乗りをあげることを容認しているのだとか。

マスコミも山本一太まで追いかける騒ぎだ。自民党はマスコミから民主党を孤立させる一方、候補乱立で麻生を決選投票に追い込み、各派が恩を売るハラだ。

臨時国会は9月24日に召集、ただちに衆院で新首相の選出が行われ、夕刻から組閣。新内閣の顔ぶれが決まる。麻生首相ならほとんどの閣僚が留任、幹事長と官房長官を中心とした小幅人事になるだろう。

しかし、大穴の小池女性総理となると、新内閣の顔ぶれはガラリと変わる。小泉改革派が復活し女性閣僚も大幅に増えるだろう。政策がどう変わるかより、日本憲政史上初の女性宰相と言うことで、世の中、騒然となることだろう。

民主党はその前日に小沢代表が無競争で3選されている。マスコミ上は沈黙のままだ。新首相の所信表明は9月29日。10月2日から各党代表質問を行って早ければ3日に衆院解散。総選挙は10月28日公示、11月9日投票日となる。

自民党に話題を浚われた形の民主党は今になって小沢無競争3選を早々と決めたのは戦術的な誤りと言っているが祭り後の侘しさなった。完全に自民党の総裁選劇に埋没している。22日までこの調子が続くであろう。

それに大穴の小池女性総理にでもなるとマスコミは衆院解散後も小池内閣を追い回さねばならない。新閣僚のインタビューだけで10日以上はかかるから、民主党の出る幕はなくなる。「いかにも小泉さんが考えそうな劇場型の政治である」。と長老。

「日本初の女性首相を売り文句にする小池百合子元防衛相、意外と人気がない。地方県連では小池氏の声がかからない。

小池人気が沸かないのは、小泉構造改革がここにきて叩かれる傾向が強まっていることと無縁ではない。小泉改革の継承者というのは、もはや錦の御旗ではなくなっている。それだけ大都市と地方の格差が大きくなっている証拠だろう。

麻生人気の高まりで、反麻生の急先鋒だった野中広務氏は沈黙を守っている。

どうやら総裁選をやるまでもなく麻生首相の道筋が固まったようだ」。大穴狙いは駄目か。                  2008・09・07


◆おらゴム長と織田信長


渡部亮次郎

「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈(いずれも故人)らに流れを発する「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」を指す場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」が付く曲は概ね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12(1937)年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。参考:ウィキペディア  誰か昭和を思わざる http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html

2008年09月06日

◆麻生総理阻止の野中


渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)


元政治記者とは言えど、現場を離れて久しい。国会議員の大半と対面した事が無い。厭がる福田を無理矢理、担ぎ上げる主役を演じたとされる引退者野中広務という人とも会ったことは無い。

厚生大臣秘書官時代、京都の医療団体によるアサヒビール株の買占め事件が起こり、担当部長を派遣したが、官側とみられた副知事は買占め側だったので慌てたことがある。野中が副知事だった。

以下はすべてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠る。ただ、ウィキをつなげて読むと今の「坊ちゃん政治家」、いな森喜朗、小泉、麻生クラスでもとても太刀打ちできまい、と納得せざるを得ない。

共同通信社社会部出身の作家魚住昭の『野中広務 差別と権力』によると、麻生太郎は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の自由民主党総務会で、野中に以下のとおり非難された

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。

そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

大勇会=たいゆうかいは、自由民主党内の派閥のひとつ。旧河野グループ。現在衆議院議員10名・参議院議員1名で構成されている。

1998年12月、宏池会=宮澤派=が加藤紘一会長の加藤派となることに河野洋平が反発する形で脱退・結成。会長は河野。メンバーには息子の河野太郎がいる。

部落問題を抱えない殆どの東北人に、被差別問題の深刻さは理解が困難だろう。秋田生まれの私も大阪勤務を経験して初めて少し理解した程度。

口先では普通に付き合いながら、心の底では軽蔑されている屈辱。想像を絶する被差別感。拭っても拭いきれない。

先祖が止むを得ず家畜の屠殺に関与していただけを理由に就職や結婚で受けるいわれなき被差別。これによって自殺に追い込まれる例も多い。

関東にも戦前はあったが、東京大空襲で文字通り殆ど消滅したので、実感する人はなくなった。被差別だった人が権力を持つと如何なる事になるか、日本政界は野中によって初めて振り回された。

2000年に小渕首相が倒れると、野中幹事長「代理」が呼びかけて森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。(これ以後、森は野中に頭が上がらない)。

この協議は、首相を5人組によって密室で選出させたたものとして、野党から厳しく追及され、国民からも大きく批判された。野中は、森の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格し『権力』を握った。

国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫民主党代表に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した(野党ながら鳩山も野中に頭が上がらない)。

同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。その直後、野中は幹事長を辞任、後任に古賀が就任した(加藤も古賀も野中に頭が上がらない)。

この頃、小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたることもあった(「影」だから逆に威力がある)。

森首相退任に伴う2001年自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀、鈴木宗男らや公明党から野中待望論が挙がるも、橋本龍太郎や村岡兼造ら派幹部からその突出振りを疎まれていたため支持が集まらず、結局橋本を担ぐことになる。先の麻生発言は、このような時期になされた。(恨みは骨髄に徹した)。

橋本派は業界団体との強いパイプなどから圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。

2003年自民党総裁選で、主戦論を唱え、青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、新藤義孝外務政務官、村岡兼造元官房長官、大村秀章内閣政務官らと激しく対立。

一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した(「毒まんじゅう」はこの年の流行語大賞に選出され、本人が授賞式に出席した)。

野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に望んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。

2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を『非情の政治』と批判した。また、野中自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。

2005年の第44回衆議院議員総選挙に立候補せず引退。かつて選挙区(京都府第4区)で後継者指名をした田中英夫(前亀岡市長)が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民党から公認を得られず無所属で出馬するも落選。

刺客として自民公認で出馬した中川泰宏元船井郡八木町長に敗れたもの。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、2002年の京都府知事選に笹野貞子元民主党副代表の応援を受けて立候補・落選して以来、野中との対立が決定的なものとなった。

小泉の後継者である安倍晋三が総理大臣を辞職すると、古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新5人組)の1人とも言われた。しかも手下の古賀誠が自民党選対委員長に就任していることもあり、低下していた野中の影響力がまた大きくなっている。

2006年10月より平安女学院大学客員教授として政治学を中心とした教育、研究を実施している。(文中敬称略)出典:「ウィキペディア」2008・09・05