2016年10月02日

◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部 亮次郎



死んだ元党主席の華国鋒。忽然と現れた彼、華国鋒は毛沢東の庶子
だった。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日
本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂
で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は
皆無だった。

むしろ影が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負
け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権か
ら退く>ことを予感させた。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時
50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中
国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた
後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠
実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。
1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席
から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任し
た。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は
無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は
毛沢東の庶子」と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に
産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月
曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年
には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人
大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、@憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の
腐敗を監督A中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求め
た。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようにな
り、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。
C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国
鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届
を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今
日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒り
を示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」
のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、
「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉
を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局
の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖
反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたよ
うだが、結果は不明だという。2008・10・23(再掲)




2016年10月01日

◆日本のカイロプラクティック

渡部 亮次郎



日本のカイロプラクティックの歴史は1916年にパーマースクールを卒業
した川口三郎が帰国して横浜で開業したことに始まります。1918年には
神奈川県で「カイロプラクティック取り締まり規則」が制定されました。

1930年に東京府警視庁が「療術行為取締規則」を制定し、カイロプラク
ティック手技は「療術」の一部と定義され各県庁への届出によって営業
が許可されました。

1923年には日本初のカイロプラクティック団体「日本カイロプラクティッ
ク協会」が1921年ナショナルスクール卒業の大澤昌壽、1921年ラトレッ
ジカレッジ卒業の小平粂重によって設立されました。

また美座時中など海外のカイロプラクティックを視察し自己で研究して
日本に積極的に紹介しようとした者もいました。

戦前、アメリカで教育を受け日本に帰国したDC(ドクター・オブ・カイ
ロプラクティック)は14人ほどいました。日本人初のDC、森久保繁太郎
はパーマースクール卒業後アメリカに残りました。

川口三郎を初め、田中酉造、芹野伊勢吉、金沢督、大澤昌壽、小平粂重、
千葉忠八、播谷高山、横矢重孝、鈴木泰三、櫻庭豊、鴫原伊直、桜井真
一、桜井静子。戦争により1930年代から留学者が途絶え、1969年にナショ
ナルカレッジを卒業した竹谷内一愿が戦後初のDCとして帰国しました。

戦後、GHQは医師以外の医業類似行為一切を禁止しようとしましたが、幾
つかは難を逃れ制度化されるに至りました。療術に関しては1955年まで
既得権を認められ営業が許可されました。

1947年に全国療術協同組合(現在の全国療術師協会)が結成されて、
1955年の禁止期限中止を求めて活動した為、ようやく1964年に禁止期限
の解除が認められました。

1960年にはHS式無熱高周波療法を行った元炭坑夫が無資格で「按摩師等
方違反」に問われた事件で、最高裁判決は「人の健康に害を及ぼす恐れ
がある医業類似行為にのみ処罰を与える」と言う判決を下しました。

つまりカイロプラクティックを含めた療術治療は有害な場合だけ制限が
あり、無害なら罪にはならないという結果になったのです。この件は
1964年に再度仙台高等裁判所に差し戻され「人の健康に害を及ぼす恐れ
のあるもの」となり有罪で終結しました。

1961年に日本で初めてカイロプラクティックの7団体が団結し「日本カ
イロプラクティック総連盟」(初期は全日本カイロプラクティック総連
盟)が設立しました。7団体は「日米カイロプラクティック協会」(伊藤
緑光会長)、関西カイロプラクティック協会(長井幸男会長)、日本カ
イロプラクティック協会(松本茂会長)、日本カイロプラクティック医
連盟(岸田菱山会長)、全日本カイロプラクティック協会(保坂岳史会
長)、山形カイロプラクティック協会(斉藤利雄会長)、日本カイロプ
ラクタース協会(吉田盛豊会長)。

その後、東京カイロプラクティック協会(竹谷内米雄会長)、香川カイ
ロプラクティック協会、藤川整形外科カイロプラクティック協会(藤川
淳敏会長)、北陸カイロプラクティック協会(木村順二会長)、関東カ
イロプラクティック協会(中島美翠会長)オリエンタルカイロプラクテ
ィック協会(山田新一会長)、旭川カイロプラクティック協会(安原岩
夫会長)、手技整形カイロプラクティック研究会(塩川満蔵会長)の計
15団体が加盟し、アメリカ発祥のカイロプラクティック普及に貢献した
治療家達、伊藤緑光、松本茂、竹谷内米雄が所属していました。

1961年、最高裁判決を踏まえ、衆議院社会労働委員会での質疑で「無届
療術行為者の看板掲示は、医師法・医療法等の規定に反しない限り、職
業選択の自由により制限されない」と答弁しています。

按摩・マッサージ・指圧とカイロプラクティックの関係について、1970年
宮城県知事の紹介に対して厚生省医務局長は「カイロプラクティック療法
は脊椎の調整を目的とする点において、按摩・マッサージ・指圧に含まれ
ないものと解する」と回答しています。

「整体」や「指圧」は中国から伝わった按摩などの治療法を日本独自に
江戸時代までアレンジを加えて発展させてきたものに、明治後期以降海
外から輸入されたカイロプラクティック(創始者パーマー)、オステオ
パシー(創始者スティル)、スポンディロセラピー(創始者エイブラム
ス 後に衰退)などの脊椎に働きかける手技療法の理論と技法を導入し
誕生したものです。

指圧は1964年、柔道整復師が後に単独法になったため「あんまマッサー
ジ指圧師法」が制定されて、浪越徳治郎の経絡を押す母指圧が主流にな
りました。初期には視覚障害者を保護する目的で制定されましたが現在
では健常者も治療にあたっています。

整体は明治後期から大正にかけて「正体」「整體」など様々な表記がさ
れ昭和初期から「整体」という言葉が主流になりました。この頃、平賀
臨、玉井天碧、高橋迪雄、平田内蔵吉などの治療家が普及にあたり多く
の著書を出しました。

戦後は高橋迪雄の影響を受けた野口晴哉、橋本敬三などが活躍して、業
界では整体を統一する試みがなされましたが成功しませんでした。現在
でも整体の定義は曖昧で様々な治療法が乱立しています。中にはカイロ
プラクティックのテクニックを取り入れて整体と標榜しているところも
多くあります。

1991年、厚生省は「医業類似行為に対する取り扱いについて」の通達を
各都道府県庁に送り、「カイロプラクティック療法の医学的効果につい
ての科学的評価は未だ定まっておらず、今後とも検討が必要である」と
の見解を示しました。

この通達は三浦幸雄研究グループの「脊椎原性疾患の施術に関する医学
的研究」をもとに禁忌対象疾患の認識、一部の危険な手技の禁止、適切
な医療受療の遅延防止、誇大広告の規制を促しました。

以降、今でもカイロプラクティックは免許制度(国家資格)がない医業
類似行為に分類されています。世界では80カ国以上の団体が加盟するWFC
(世界カイロプラクティック連合)が1988年に設立されたり、WHO(世界
保健機関)がカイロプラクティックを代替医療として認めたり、2005年
に「カイロプラクティックの基礎教育と安全性に関するガイドライン」
を発行したりしています。

世界の中で大きく出遅れている日本の問題点は、カイロプラクティック
を標榜していてもWHO基準のカイロプラクティック学校で教授されている
ものとは全く異なる技術や理論を学び実践している「自称カイロプラク
ター」が非常に多いことです。

海外で正規なカイロプラクティックを取得した者の一部が、WHO基準以下
の学校やセミナーで「自称カイロプラクター」を送り出しているという
矛盾点もあります。またそのために他の医師や医業類似行為者の理解が
得られず、結果として厚生労働省もカイロプラクティックの免許制度を
保留したままです。

1995年にはアジアや日本で初めてのCCE(カイロプラクティック教育審議
会)アクレディテーションを取得したRMIT大学カイロプラクティック学
科日本校(現在の東京カレッジオブカイロプラクティック)が開校しま
した。

現在WFC(世界カイロプラクティック連合)日本代表団体である
JAC(一般社団法人日本カイロプラクターズ協会)が1998年に設立され
WHOのガイドラインの基準に沿った形でカイロプラクティックが法制化さ
れるよう活動しています。


2016年09月30日

◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎



歌謡歌手の岩崎宏美が1日未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間
には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌ってい
た。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行
が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。銚子で
2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。76歳になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1

2016年09月28日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊
重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革
開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にア
メリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

2016年09月27日

◆北前船で裏日本が表だった

渡部 亮次郎



私の郷里(秋田県)には姓に越後谷、越中谷、越前谷、加賀谷、能登谷といった北陸を名乗るのが多い。播磨谷というのは瀬戸内海が先祖か。

若いとき地元の古老に尋ねたら「北前船の男衆(乗組員)が途中の寄港地・秋田の女にいかれて下船し、住み着いたのが子孫だ」とのことだった。

北前船(きたまえぶね)とは耳にした事はあるが、明治以降、全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった、というもの。実感は無い。「ウィキ」に頼る。

<北前船は江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。

買積み廻船とは商品を預かって運送するのではなく、航行する船主自身が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。

(太平洋側だと西風に吹かれてアメリカ大陸まで流される「難破」の危険があったが、日本海にはその危険は殆ど存在しなかった。西風はつねに陸側に吹く)。

西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。

この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。

この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。

これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。

また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。

さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。

前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船。

はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。

北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。

日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。

これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。

スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見方もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに鉄道の普及で水上輸送の意味がなくなって消滅した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鉄道が普及するまでは、東西文化の交流は北前船が担っていた。秋田の女にほだされて下船した男たちは学問の大切さも上方から持ってきた。

東北の名門校として知られる福島県立安積(あさか)高校だが、創立は明治17(1884)年。対する県立秋田高校の創立はそれより11年も前の1873(明治6)年。当に「北前船」のお陰で。いま「裏日本」とやや蔑視されている日本海側は昔は「表」だったのである。

それにしても近畿や北陸の男たちを魅了した昔の秋田女性のどんなところに魅力があったのか、失礼ながら今では確かめようがない。

とはいえ大阪と秋田の縁は未だに深く私の友人の一人も大阪の親戚を頼って就職したが、昔とは逆に自分が婿入りして生涯を全うした。       

2016年09月26日

◆月の沙漠は静岡の海岸?

渡部 亮次郎



月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさをの作品
の一つ。作曲家の佐々木すぐるによって曲を付けられ、童謡として有名に
なった。

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、
講談社発行の雑誌『少女倶楽部』1923年(大正12年)3月号に発表した、
詩と挿画からなる作品である。

これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたこと
で、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた
佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。

また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として「青い鳥楽譜」と呼ば
れる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収めら
れている。

このような経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927
年にラジオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で
録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。

その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つと
なっている。

「沙」の字について

この詩は「ラクダ」に乗った「王子様」と「お姫様」が月下の沙漠を往く
情景を描いており、異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」
という表記が一般的ではないことからか、しばしば「砂漠」と誤記される
が[2]、題名、詩文中ともに一貫して「沙」の字が用いられている。この
字が用いられる理由として

「沙」には「すなはま」の意味がある。

学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)
の風景から発想した。

海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、
「砂漠」ではなく「沙漠」としている。

というものが良く知られている(生前の加藤の述懐による)。
また、モチーフとなった海岸は御宿ではなく、加藤の生地である静岡県志
太郡西益津村(現・藤枝市)近隣の海岸であると「加藤が公言した」とす
る資料もあるが、定かではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年09月24日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけ
にいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06



2016年09月23日

◆缶詰はナポレオン命令

渡部 亮次郎



1795年フランス革命の最中に,ナポレオンはヨーロッパ戦線を東奔西走し
ていた。当時のヨーロッパは新鮮な食物が不足し,一般市民に栄養不良に
よる病気が流行していた。

その時代の食品の保存法は昔ながらの乾燥,塩蔵および薫製によってなさ
れていたが,長い航海をする船員は塩蔵肉や乾パンで我慢しなければなら
なかったため,海軍部内には壊血病が蔓延していた。

ナポレオンは軍隊の士気を高め戦闘力を維持するためには,栄養豊富で新
鮮美味な食糧を大量に供給する必要性を痛感し,従来の方法によらない食
品貯蔵法を懸賞金つきで募集することを政府に命じた。

懸賞にこたえ、1804年にフランスのニコラ・アペールにより長期保存可能
な瓶詰めが発明され賞金1万2000フランを与えられた。

たが、ガラス瓶は重くて破損しやすいという欠点があった事から、1810年
にイギリスのピーター・デュランド(Peter Durand)が、金属製容器に食品
を入れる缶詰を発明した。これにより、食品を長期間保存・携行すること
が容易になった。

ただし、初期のものは殺菌の方法に問題があり、たびたび中身が発酵して
缶が破裂するという事故を起こした。これはのちに改良された。

また、1833年にはフランスのアンシルベールによって、缶のふたの回りを
はんだ付けし、熱で溶かして缶を開ける方式が考案された。その後、1860
年代にブリキが発明されてからは、缶切りが登場するようになった。

当初、缶切りは発明されず、開封は金鎚と鑿を用いる非常に手間のかかる
ものだった。戦場では缶を銃で撃って開けることもあったが、撃たれた衝
撃で中身が飛び散ってしまい使い物にならなくなることも多々あったという。

このため内容物が固形物に限られ、液状のドリンク類は入れられなかっ
た。缶切りが発明されると液体なども入れられるようになり、内容物のバ
リエーションが広がった。さらに缶切りが無くても開けられる様にプル
トップ(イージーオープン缶)が発明された。

缶詰は、初期には主に軍用食として活用された。特に、アメリカ合衆国の
南北戦争で多く利用された。のちに一般向けにも製造されるようになり、
現在では、災害対策用の備蓄用食品(非常食)としても利用されている。

現在作られている缶詰は日本で約800種類,世界では約1200種類といわれ
ている。原料の種類別では魚介類,果実類,野菜類,畜肉類に大別される。

加工調理方法の別では魚介類は水煮・塩水漬・油漬・味付け・みそ煮・蒲焼き・
薫製油漬・トマト漬・香辛料漬・その他の調味料漬が,果実類はシロップ漬・
水煮(固形詰)・ジャム・ゼリーなどがある。

果実類として大きな地位を占めるのは果汁である。野菜類としては料理の
原材料となる水煮が主体であるが,味付け,漬物などもある。畜肉類は水
煮,味付け,ハム,ベーコン,ソーセージや各種の調理食品がある。

特殊に入るものとしては,各種の調理食品,米飯類,ソース,めん類のか
け汁,しるこ,甘酒などの飲物などがある。食品缶詰の規定には当てはま
らないが,コーヒー,紅茶,緑茶の真空パックや不活性ガス(おもに窒素
ガス)を充てんし,香りや味を保持させるための缶詰もある。

ペット用のペットフード缶詰の生産も多い。そのほか食品ではないが培養
土に種子を入れ,開缶後水をやれば花の咲く缶詰,おもちゃの缶詰,下着
類の缶詰も作られている。

1812年にイギリスのドンキンにより缶詰製造は企業化されたが,その後イ
ギリス,アメリカなどで企業化が進んだ。1890年には自動製缶機械に一大
進歩をみたことにより,1901年に容器のみを作るアメリカン・キャン社が
設立され,缶詰製造業界に一紀元を画した。

製造量は南北戦争後の1870年で約4000万函といわれているが,第1次・第2
次世界大戦の軍用食としての需要の増大により,缶詰産業も各種の技術革
新とともに発展をとげた。

国別の生産量では,1970年ころまではアメリカが全世界の70〜75%を占め
ていたが,80年には世界の総生産量(約20億函)の40%を占めるだけとなった。

またイギリスが主要生産国から脱落し,発展途上国の進出が目だってきて
いる。この主な理由としては,作業員の人件費の高騰,原料確保の困難
(漁業の200カイリ問題など)などがあげられる。なお,アメリカに次ぐ生
産国はドイツ,フランス,イタリア,日本などの先進諸国である。

資料:世界大百科事典及び『ウィキペディア』 

2016年09月22日

◆変節漢小澤一郎の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の
狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠
“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が
2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だ
が、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認
識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁
が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていま
した。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、
認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任
にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですか
ら、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっております
が、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについて
はあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非
は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう
戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりに
それを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう
問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって
戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんであ
りましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれ
は別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。
 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、
靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感
じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していた
とは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像すること
すら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれ
た。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用し
たもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法
律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所
条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中
国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の
満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違
う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、
1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて
殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた
後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求し
てきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。
国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に
基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言わ
れる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけな
い。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そ
こに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯
のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカの
マッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太
子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによ
る死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、
我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいか
に変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究
したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。
現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】2006・08・10

2016年09月21日

◆蘖(ひこばえ)知ってる?

渡部 亮次郎



少年の頃、実家はまだ囲炉裏だったし、炊事はすべて薪に頼っていた。だ
から春になったら里山での柴刈りに動員されたものだ。何年も前に刈った
柴の根元から生えた新しい芽を鉈で切り取る作業である。

やがて上京して大学に入った。その頃から実家でも燃料はプロパンガスに
なり暖房は石油に代わったから、山での柴刈りのことはすっかり忘れていた。

最近、散歩する都立猿江恩賜公園では、昨年秋、直系30cmぐらいに育っ
た植木を何本も伐採した。ところが新しい春とともに切られた株のねもと
から横へ新しい芽が吹き出した。これを蘖(ひこばえ)と呼ぶ。

子供のころに里山で刈っていた柴もあれはじつは蘖だったのだ。

蘖(ひこばえ)とは、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
(以下「ウィキペディア」による)。

太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」という。
春から夏にかけて多く見られるが、俳句では春の季語となっている。

森林伐採の後、切り株からの蘖によって新たな森林ができるようにするこ
とを萌芽更新という。かつての里山はこれによって維持された。カシ類な
どは種子からの株は単独の茎をまっすぐに立てるが、切り株からでた場合
はやや斜め、切り株から外向きにでることが多い。

芽が大きな木にまで成長する頃には切り株自体は枯れて腐って消失する
が、わずかに間を開けて複数の幹が、それぞれやや外向きに伸びていれ
ば、その内側に切り株があったのだと分かることもある。

幹を切らなくても、環境悪化などによって主茎が弱った場合などには蘖が
多数でることがある。

2016年09月19日

◆好きな作詞家星野哲郎

渡部 亮次郎



流しから歌手になった北島三郎は今や歌謡界の大御所だがプロになって初
めて出したレコードは発売早々「放送禁止」になった。「「ブンガチャ
節」で合いの手が卑猥とされたためだった。作詞星野哲郎、作曲船村徹。

ならばと出したのが同じコンビによる「なみだ船」これが大ヒットとなっ
て大歌手北島三郎が誕生した。北島は一滴も呑めない。サイダーが大好きだ。

水前寺清子を売り出したのも星野。「涙を抱いた渡り鳥」「三百六十五歩
のマーチ」など。「恋は神代の昔から」でデビューした畠山みどりも星野
作詞。

かと思うと「黄色いさくらんぼ」という色っぽい作品も星野が書いた。ク
ラブのホステスからかかってきた誘いの電話をヒントに書いた「昔の名前
ででています」小林旭の歌も星野。

美空ひばりの遺作となった「みだれ髪」は塩屋岬へ出かけて書いた。

そういう星野だが運命は数奇。腎臓結核のため下船した船乗り。腎臓摘出
で療養中、作詞したものを投稿したところを作曲家の船村徹に見出されて
作詞家になった。腎臓1つで85まで長生きした。

<星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 –―2010年
11月15日)。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金
井市に在住していた。各所で「星野哲朗」という表記がされることがある
が、「哲郎」が正しい表記。

妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライター
の有近真澄。

1925(大正14)年9月30日、山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐
に生まれる。1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大
学)を途中結核で休学しながらも卒業。

翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業
の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざる
を得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余
儀なくされる。

闘病期間中に作詞を学び、1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募
した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌
1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発
表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、
同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも
八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家
として活躍することになる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マ
ドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査
員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属
契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村
徹の作品を数多く世に輩出することになる。

1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移
籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて
手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び[、数々のヒット作を生み出した。

1996年(平成8年)7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家
協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)。2001年(平成13
年)10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めて
いる(2004年(平成16年)9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、
1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日
には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の
名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地であ
る小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与
されている。

1985年(昭和60年)2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立
される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記
念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度
「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の
病院でで死去。85歳没。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀
所で営まれた。

喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村
徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつ
らいよ」の曲に乗せて出棺された。その後、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に
付された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

ちなみに旧暦・新暦での違いはあるが、11月15日と言えば坂本龍馬の命日
である。大政奉還を見届けて約1か月後に京都・近江屋で暗殺された英傑
にちなみ、星野哲郎も生涯かけて作詞の金字塔を建てた偉人であるとファ
ンから述懐されている。

星野哲郎の死去に当たり、NHK(日本放送協会)が追悼番組『追悼 作
詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンに
て放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ
作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、
そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人
がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにあり
て歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称してい
た。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いた
ことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手
も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想し
て星野が名付けたものである。>ウィキペディア

2016年09月18日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)

血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。

日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性に
ついて、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経
口血糖降下剤の使用があるではないか」と回答している。

これが1970年代の実態だったのである。このような状況に対して、当時の
「日本糖尿病協会」は、インスリン発見50年を迎えて、なおインスリン自
己注射が認められない現状を打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚
生大臣をはじめ関係各方面に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳
情したが全く受け入れられなかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)

このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自
己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を
要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。

この年ようやくインスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得
られた。その内容は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200
点加算するというものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影
響をもたらし、血糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要
性と有用性の実証へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略) 2007・05・24


2016年09月17日

◆中国で糖尿病患者が急増

渡部 亮次郎



3月31日、英メディアは「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻
化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿
病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。写真は中国の病院。

2012年3月31日、英ロイター通信は「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく
病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え
続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。3日付で環球時報
(電子版)が伝えた。


この30年で中国人の生活は空腹に耐え忍ぶ毎日から、ウエスト周りのぜい
肉を気にするまでに急変した。これに伴い、「金持ちのぜいたく病」と呼
ばれる糖尿病などの病気も急増しているが、現状の医療制度では対応しき
れていないというのが現状だ。

こうした慢性疾患の治療費急増が、14億の国民に最低限の医療保険を保障
しようとしている中国政府の重い負担となっている。医学雑誌「ランセッ
ト」によると、中国で高額医療費に苦しんでいる世帯は2011年時点で、8
世帯中1世帯の割合に上ることが分かっている。

生活レベルの向上に加え、平均寿命が延びたことにより、慢性疾患に苦し
む人が増えている。例えば、糖尿病の罹患(りかん)率は1980年の1%か
ら、現在は10%近くにまで増加した。これは米国人の罹患率とほぼ同じだ。

シンガポール国立大学の公衆衛生大学院とハーバード公衆衛生大学院が発
表した白書によれば、中国の2011年の糖尿病関連の医療費は年間約170億
ドル(約1兆3900億円)。全世界の総額4650億ドル(約38兆2000億円)と
比べれば微々たるものだが、これは中国の医療費全体の約5%を占め、さ
らにその割合は今後13%にまで上昇するとも予測されている。

米国で糖尿病関連の医療費が全体に占める割合は約10%。もはや米国をし
のぐ勢いといえるだろう。中国には現在、約9200万人の患者がいるとされ
ているが、これが2030年には1億3000万人にまで増加するとみられてい
る。(翻訳・編集/NN)