2017年02月02日

◆五・一五事件

渡部 亮次郎



五・一五事件(ごいちごじけんと)は1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国「海軍」急進派の青年将校を中心とする反乱事件。4年後1936年のニ・ニ六事件は陸軍の将校による叛乱事件。

武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅総理を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退した。

事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達された。

また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。

同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いが、本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸、立憲政友会(政友会)本部、警視庁とともに牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。

しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第2の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。

後に小説家松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪(いたる)らが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『昭和史発掘』)。

だが、中谷武世(国士)は首謀者古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したものであって、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたものの、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ている。

また中谷は大川と政党人との関係が希薄であったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している(『昭和動乱期の回想』)。

当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している時代であった。

1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。

計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に容らない点であった。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をした。

それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友であった。故に犬養は満州侵略に反対であり、日本は中国から手を引くべきだとの持論を兼ねてよりもっていた。

これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由なのである。

事件は昭和天皇の勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

なお、事件前日の5月14日には映画俳優のチャーリー・チャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって犬養との会談をキャンセルしたため、難を逃れた。


チャップリンの訪日は世界旅行の一環。日本人秘書高野虎市が暗殺情報を入手、犬養首相との15日の面会を取りやめ、国技館で相撲観戦をしていたため、難を逃れた。

その後チャップリンは6月2日まで滞在。東京・日本橋で海老の天婦羅ヲ36尾も平らげたので天婦羅男の異名が付いた。生涯計4回の来日を果たした。

時の首相犬養毅が殺害された際の「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名であるが、これは犬養毅の最期の言葉と言う訳ではない。

元々、犯人の青年将校らは問答などに時間をとられては殺害に失敗する恐れがあるため、犬養を見つけ次第射殺する計画であった。

ところが実行時には、表から突入した三上隊が最初に犬養を発見したものの、犬養自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

そこへ、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養腹部に銃撃、次いで三上が頭部に銃撃した。それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言う。

「話せば分かる」「問答無用」という言葉については、元海軍中尉山岸宏の次の回想がある。

「『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て。』と言ったんです」

また、元海軍中尉三上卓は裁判証言で次のように語っている。

「食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ」と申された。

私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て。』と叫んだ。

黒岩が飛び込んできて1発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかめに小さな穴があき血が流れるのを目撃した」

一方、儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養、討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。

海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締規則・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。

当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。

このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

その一方で大川周明ら民間人に対する言渡刑は非常に重かった。このことは、二・二六事件でも民間人の北一輝や西田税が死刑となったことと共通する。2008・05・14

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2017年02月01日

◆君が代完成記念日

渡部 亮次郎



国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

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2017年01月31日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎



L日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなか
った。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京
に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからで
ある。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部にな
ると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪さ
れた前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘され
た。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに
対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党
内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正
常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官とし
て日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供
与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲
げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代
化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技
術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友
好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといっ
て田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識
もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れ
た。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を
条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は
対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたの
だ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳
い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図して
いた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼として
いたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていた
のである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論も
なしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。


あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなっ
たように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共
産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖
国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点
にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。


政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国
が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。
まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのと
きは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇す
るためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪って
しまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する
輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友
好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。





2017年01月30日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎



日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなか
った。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京
に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからで
ある。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部にな
ると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪さ
れた前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘され
た。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに
対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党
内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正
常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官とし
て日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供
与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲
げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代
化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技
術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友
好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといっ
て田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識
もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れ
た。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を
条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は
対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたの
だ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳
い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図して
いた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼として
いたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていた
のである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論も
なしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。


あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなっ
たように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共
産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖
国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点
にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。


政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国
が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。
まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのと
きは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇す
るためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪って
しまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する
輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友
好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。2012・9・30


2017年01月29日

◆日本の脚気史

渡部 亮次郎



脚気(かっけ)と言っても、このごろでは何のことか分からない人が多
い。ビタミンB1欠乏症で最悪は死に至る病。筆者は子どものころ、疲労
回復を急ぐ為,砂糖を大量にたべたところ炎天下で昏倒。脚気が悪化して
心臓が犯されている。良く死ななかったものだ、と診断された。

砂糖でなぜ脚気になるのか。それは体内で砂糖が消化されるためには大量
のビタミンB1が消費されるからである。砂糖を多く食べれば脚気になる理
屈である。

日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない。しかし、
『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されてお
り、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。

江戸時代に入ると、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまり、上層階
級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に
一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方にひろがり、また文化・文政に
町人にも脚気が流行した。

江戸を離れると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」とよばれた。経
験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気
が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。

明治期には、1870年(明治3年)とその翌年から脚気がはやった。東京な
ど都市部、陸軍の鎮台所在地、港町で流行し、上層階級よりも中・下層階
級に多発し、死亡率が高かった。

『人口動態統計』(1899年(明治32年)開始)、『死因統計』(1906年
(明治39年)開始)によれば、明治末期までの国民の脚気死亡者数は、最
小6,500人(1900年)〜最大15,085人(1909年)であった。ただし当時
は、乳児脚気の知識があまりなかったため、「乳児脚気死亡」が大幅に見
落とされており、毎年1万人〜3万人が死亡していたと推測されている。

大正期以降、ビタミンB1(チアミン)をふくまない精米された白米が普及
するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったため、脚
気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も、多くの
患者と死亡者をだし、「脚気」は「結核」とならぶ二大国民病といわれた。

ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年の26,796人がピークであり、
1915年から日中戦争の拡大と移入米の減少によって食糧事情が悪化する
1938年まで年間1万人〜2万人で推移した。

ようやく1千人を割ったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する
1950年代後半のことであった(1950年3,968人、1955年1,126人、1960年
350人、1965年。

しかし、1975年頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してき
た。アルコール依存症患者にも多く、高齢社会(超高齢社会)をむかえた
今日では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されて
いる。

脚気の原因がわからなかった明治期、脚気の流行に拍車がかかり(都市部
の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。

脚気の原因がわからなかった理由として、いろいろな症状があるうえに病
気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者
など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい
食物をとっている者が冒されて一見粗食をとっている者が冒されないこ
と、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの栄養に不可
欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。

明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の
遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒
説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。

ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど
西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」は、たちまち医界で
受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持されつづけた。

海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたったイギリス人
医師のウィリアム・アンダーソン(1873年10月−1880年1月に在日)も伝
染病説を信じていた。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤り
であり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原
因と判明したのは後。

先覚的な業績を挙げたのが海軍軍医の高木兼寛であった。臨床主体のイギ
リス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また
患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。

さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはた
んぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。

その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱ
く質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折
をへて1884年1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の
節約による粗食をまねいていた)が一部みなおされ、洋食への切りかえが
はかられた。

同年2月3日、海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予
防試験をかねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海をおえて無事帰港
した。

乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、
高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づいた医
療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革をすすめた結果、海軍
の脚気発生率が1883年23.1%、1884年12.7%、1885年以降1%未満と激減し
た。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌年3月1日か
らパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。

1885年3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。し
かし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先するドイツ医学を範とし
ていたため、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦
が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死
病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象をあた
えた。

そのため、東京大学医学部を筆頭に、次々に批判された。1ヶ月後の4月
25日には、同誌に村田豊作(東京大学生理学助手)の反論が掲載され、と
くに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化
吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優
秀の理論は、机上の空論であるとされた。

また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかか
りやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問
をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。

そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回
にわたって公表したものの、1886年2月の公表を最後に学理的に反証しな
いまま沈黙した。

のちに高木は「当時斯学会(しがっかい)に一人としてこの自説に賛する
人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁
(はんばく)の声であった」と述懐したように、高木の説は、海軍軍医部
を除き、国内で賛同を得られなかった。

高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べ
ると脚気が減少する」という有益なエビデンスは得られていた。その後も
海軍軍医部は、日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、
石神亨と斎藤有記の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判した。

しかし麦飯優秀説について学問上の疑問点をあげて反論されると両軍医と
も沈黙したなど、学問上の疑問点を解消できずにいた(ビタミンを知らな
い当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)。

麦食縮小以降、脚気が増加する海軍 。高木の思いに反して兵員には、
「銀しゃり」という俗語のある白米飯にくらべて麦飯も不評であり、1890
年2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され
(1945年(昭和20年)まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ない
し麦飯)の混用となった。1917年(大正6年)以降、海軍では麦の割合が2
割5分まで低下した[11]。

学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の
脚気患者が発生しただけであり、陸軍の脚気惨害と対照的であった。

当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患
者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海
軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっているとさ
れるような状況であった。

ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者
数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚
気の入院率が50%〜70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気
の入院率は数%)。

その後、高木とその後任者たちのような薩摩閥のイギリス医学系軍医では
なく、栃木県出身で東京大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局
長になった1915年12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。

脚気患者の増加をうけて海軍省では、1921年に「兵食研究調査委員会」を
設置し、1930年まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない
麦飯で麦の比率をあげることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しいなか、
苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。

1927年から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は
1933年9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した。しかし、胚芽米をつ
くる機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が
多発する夏に供給するのが困難であった。

このため、現場で研究の成果が十分にあらわれず、脚気患者数は、1928年
1,153人、日中戦争が勃発した1937年から1941年まで1,000人を割ることが
なく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)で
あった。

また、現場で炊事を行う主計科では、兵員に不人気な麦の比率を意図的に
下げ、余った「帳簿外」の麦を秘密裏に海へ投棄する(「レッコー」と呼
ばれた)ことも戦前戦中を通して日常的に行われ、脚気の増加に拍車を掛
けた。

戦前、海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型
まで統計に上るようになった事」(それ以前、神経疾患に混入していた可
能性がある)と指摘されていた。

また、その他の原因として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン
欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足
説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、た
んぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」
という信仰がくずれたこととの指摘もある。

海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で
「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米
900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用
した(1894年7月31日)。

ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍省医務局
長)の米飯過信・副食軽視が災いの大もとであった。

戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、し
ばしば兵站がとどこおった。とくに緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達
と補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第五師団長以下が黒粟などを口
にする状況であった。

黄海海戦後、1894年10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気
患者が出ると、経験的に夏の脚気多発が知られているなか、事態を憂慮し
た土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した(1895年2月15日)。

しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上海運す
こぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運(はこび)に
至らさりしは、最も遺憾とする所なり」と、結局のところ麦飯は給与され
なかった。

その困難の一つは、森林太郎(鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したと
される(もっとも上記のとおり勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、
また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務
令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶
ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限があたえられた[23])。

下関条約(日清講和条約)調印後の台湾平定(乙未戦争)では、高温とい
う脚気が発生しやすい条件のもと、内地から白米が十分に送られても副食
が貧弱であったため、脚気が流行した。

しかも、1895年9月18日付けの『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に
掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難であ
る」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、斎藤
有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。

両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた。しか
し、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」という石黒の意
見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を
変えてはならないとした。

そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し
(1896年1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮ま
る兆候がなかった。

ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍軍医総監・序
列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入
された(軍法会議などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任
と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。

陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人(72.3%)
が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍
夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。

ちなみに、総病死者20,159人で、うち脚気以外の病死者が16,095人
(79.8%)であった(陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事
蹟』)。その他の戦死者数には、戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人
(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)[など、さまざまな数字
がある。

多数の病死者が出たように、衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病が
はやり、また広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王が腸チフスを発症
したり、出征部隊の凱旋によってコレラが大流行したりするなど、国内も
安全とは言えなかった(日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年
40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の
戦没者数を大幅に上まわった)。

とくに台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、伝染病がまん
えんし、1895年10月28日、近衛師団長の北白川宮能久親王がマラリアで陣
没し、山根信成近衛第二旅団長も戦病死したほどであった。なお、台湾で
の惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中
枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っているなか、隠蔽(いんぺい)した
い出来事であった。

上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、
日清戦争とその後の台湾平定をあわせて41,431人(脚気以外をふくむ総患
者284,526人。凍傷も少なくなかった)、脚気死亡者4,064人(うち朝鮮
142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人[32])であった。このよう
に陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、
長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと
懇意で、明確な形で責任をとることがなく[33]、陸軍軍医の人事権をもつ
トップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後
年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。

義和団の乱での派遣部隊脚気流行 [編集]トップの陸軍省医務局長が小
池正直にかわっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃
発し、第5師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)
が派遣された[34]。そのときも、首都北京をめぐる局地戦が主で輸送に支
障が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の
給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人
の脚気患者がでた[35]。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。

1901年5月31日、凱旋した第5師団にかわって清国駐屯軍がおかれたとき
(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長にあたえた訓示は、上記
の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した
麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった。

なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』につづけて投稿(1901年5月と7月
に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠まわしの表現で米飯が脚気の原因
という認識をしめした。

しかし、翌1902年4月の『明治33年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』に
は、なぜか脚気のことをまったく記述していない。そして日清戦争で先陣
をつとめ、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の第11
師団に異動した。

日露戦争での陸軍脚気惨害

日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸
軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部
長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵
食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。

その理由として輸送の制約が挙げられ、陸軍は兵員と兵器と弾薬などを送
るのが精一杯で、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった
(近代地上戦での想定補給量の一例)。さらに「麦は虫がつきやすい、変
敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」その上、脚気
予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民あこが
れのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世情
を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたい
という心情があった[42]。

しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増えはじめ、気温
の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦
飯が給与された。

翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、
精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。また国内で、脚気患者の
大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さ
らに大本営の野戦衛生長官で満州軍総兵站監部の総軍医部長、小池正直
(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医
トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづ
いた。

陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第2巻統計、陸軍一等軍医
正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数
999,868人のうち、戦死46.423人(4.6%)、戦傷153,623人(15.4%)、戦
地入院251,185人(25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異な
る])。

戦地入院のうち、脚気が110,751人(44.1%)を占めており、在隊の脚気患
者140,931人(概数)をあわせると、戦地で25万人強の脚気患者が発生し
た(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率をみると、歩兵1.88%、騎兵
0.98%、砲兵1.46%、工兵1.96%、輜重兵1.83%、非戦闘員の補助輸卒
5.32%であり、「軍夫」とよばれていた補助輸卒の数値がいちじるしく高
い(1904年2月〜翌年4月)。患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人につい
で30,559人と多く、過酷な条件のもと任務についていた)。

入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡し
たと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。

陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置

森林太郎

小説家としての森鴎外で著名陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦
争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。

世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法
案」問題に移っていた。『医海時評』が脚気問題を取り上げつづけて孤軍
奮闘するなか(ときにはマッチポンプさえして陸海軍の対立をあおっ
た)、1908年、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された
(同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日
陸軍大臣官邸で発足式)。

当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局
長に就任してまもない森林太郎(ただし日清戦争のとき、石黒野戦衛生長
官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。

その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題
を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、
多額の陸軍費がつぎこまれた。


北里柴三郎発足当初の調査会は、委員長(森・医務局長)と幹事(大西亀
次郎医務局衛生課長)、委員18名、臨時委員2名(青山胤通東京帝国大学
医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長)の計22名で構成された。委員18
名の所属をみると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍医が参
加したほか、伝染病研究所3名、陸軍軍医6名、京都帝大2名、東京帝大3
名、不明2名(日本医史学の大家富士川游・医学博士岡田栄吉)であっ
た。研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)で、
定期的に発表された。

ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査

ロベルト・コッホ調査会の発足式が開かれる直前の1908年6月22日、森
(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学
者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)と帝国ホテル
で会っていた。

脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリ
ベリを研究せよ等の研究法を助言された。調査会の発足後、さっそくバタ
ビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試
験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった。

1908年、都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝
染病研究所)の3委員が派遣されたものの(9月27日〜11月28日まで滞
在)、現地では白米をやめて熟米と緑豆などを食べるようになっており、
また1903年のアチェ戦争(スマトラ島)終結もあってベリベリの入院患者
がほとんどいなかった。

それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが
明らかにされた。しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)がみつからず、食物
原因説に傾くこともなく、歯切れの悪いあいまいな原因論を報告した。

ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)と
ともに伝染病説を支持しつづけ、都築が栄養欠乏説に転換した。

未知栄養素の抽出

都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発

クリスティアーン・エイクマン「動物実験とヒトの食餌試験」という新手
法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった。都築は、動物
脚気の発生実験(エイクマンの追試)を行い、1910年3月の調査会と4月の
日本医学会で発表した。

動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいる
ことを公表したのである。また1911年、都築と志賀潔(1910年8月委員と
なる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効
否試験を行った。

その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値
ではなかったものの、試験をかさねる価値は十分あった。しかし、都築が
12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったた
め、米糠の効否試験は1年で終わった。

都築は、翌1911年4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」
を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮によって調査会でも
発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのよ
うにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり
理解をしめしていたとの見解もある)。

その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するととも
に、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した
卓越した業績であった。

さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定
し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の
発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通
用する内容であり、とくに副食への着眼は、先人の誰も気づいていないも
のだった。

「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究にはげみ、ついに
その製剤を治療薬として販売した(1911年4月アンチベリベリン粉末・丸
などを販売。同年9月、注射液を販売)。

有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)の
アンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期
のはじめまでよく売れ、広く愛用されることになる。

鈴木梅太郎のオリザニン発見

農学者の鈴木梅太郎は、1910年6月14日の東京化学会で、「白米の食品と
しての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した。ニワトリと
ハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと、糠と麦と玄米には
脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏
していることを認めた。

糠の有効成分につよい興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめ
ざして努力した。同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年
1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。と
くに糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまら
ず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、ビタ
ミンの概念をはっきり提示していた。ただし、糠の有効成分を濃縮して樹
脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶にはいたらなかった。
1912年(明治45年)、ドイツの『生物化学雑誌』に掲載された論文で、ピ
クリン酸を使用して粗製オリザニンから有効成分を分離製出、つまりオリ
ザニンを結晶として抽出したこと、その方法などを発表した[55]。

しかし、1911年(明治44年)10月1日、オリザニンが販売されたものの、
都築のアンチベリベリンがよく売れたのに対し、医界に受け入れられな
かった(8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎がはじめてオリ
ザニンを使った脚気治療報告を行った)。なお、上記のオリザニン結晶も
ニコチン酸をふくむ不純化合物で、純粋単離に成功するのが1931年(昭和
6年)であった。その純粋単離の成功はオリザニンが販売されて20年後の
ことであり、翌1932年(昭和7年)、脚気病研究会で香川昇三が「オリザ
ニンの純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。

医学界の混乱 [編集] 臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査 [編
集]都築に刺激されて調査会でも、1910年(明治43年)3月-10月と1911年
(明治44年)6月〜翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた
[56]。しかし、試験方法に欠陥があり(試験委員5人の技量と判断に差が
あり、また副食が規定(コントロール)されていなかった)、食米と脚気
発生の関係について明確な結論をえられなかった。他方、外国など各所の
脚気流行について現地調査をし、食物との関係も調査していた。とくに東
南アジアでの脚気研究は、「脚気は未知栄養物質の欠乏による欠乏性疾
患」と結論される段階にまで進んでいた。しかし国内では、依然として伝
染病説と中毒説の勢いがつよく、「未知栄養欠乏説」はなかなか受けいれ
られず、脚気の原因説をめぐる混乱と葛藤がつづいた。

混乱した要因 [編集]国内の脚気医学が混乱していた要因として、三つ
のことが挙げられる[57]。第一の混乱要因は、都築によるエイクマン追試
により、脚気の原因研究は次の段階に進むものの、同時に新たな論争をも
たらしたことである。端的にいえば、「ニワトリの白米病と、ヒトの脚気
が同じなのか違うのか」、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」
が争点になったのである。前者の動物白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚
気(多様な症状と流動的な病変)とが「同じ」か「違う」かの問題は、類
似点と相違点のどちらを重要視するかのという選択の問題でもあった。そ
の意味で、そもそも脚気患者をみたことがないヨーロッパの研究者と異な
り、日本の中心的な基礎医学者が相違点を選択したのは、必ずしも誤りと
いえない[58]。結果的にその選択は、ヨーロッパでの「実験医学」流行に
便乗し、動物実験だけで安易に未知栄養欠乏説に移行しようとする研究グ
ループを抑制した。脚気の原因を解明するには、動物白米病と脚気の
ギャップをうめる研究が必要であった。

後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分か
れた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時
は、糠の不純物をとりのぞいて有効成分を純化するため、アルコールがつ
かわれていた。

しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出
されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対し、顕著な効果を
上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をし
なくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復にむかうことが多かっ
た)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定する
ことが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無
効」とも解釈できるような状態であった。

第二の混乱要因は、脚気伝染病説が根づよく信じられていたにもかかわら
ず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。それでも伝染病説は否
定されることなく、1914年(大正3年)に内科学の権威である青山胤通が
『脚気病論』を著し、三浦謹之助のドイツ語論文「脚気」が掲載され、林
春雄が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張
した。

もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たちまち医
界で受け入れられ、その後も根づよい支持があった。当時の東京帝大で
は、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学(長与又郎・緒方知三
郎)など臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏説」に反対していた。

第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。
アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス
(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべて
が不純化合物であった。たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが
上記のとおり1931年(昭和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オ
リザニン「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された。

ビタミン欠乏説の確定 [編集] 欧米のビタミン学の影響 [編集]
カジュミシェ・フンク国内の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミ
ン学が興隆しつつあった。カジュミシェ・フンクは1912年2月に「ビタミ
ン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱し、1914年(大正3年)
に単行本『ビタミン』を出版した。同書は、『イギリス医学雑誌』で紹介
され、世界に知られることになった。結果的に学術論文よりも、単行本で
フンクの新概念が世界の医界で定着した。

結局のところ、欧米での研究動向は、国内に決定的な影響を与えた。1917
年(大正6年)、田沢鐐二(東京帝大、臨時委員)・入沢達吉(東京帝大・
内科学教授、1923年(大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変
説[59]。1918年(大正7年)、隈川宗雄(東京帝大・生化学教授、委員)が
ビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の須藤憲三
委員が10月16日に代理報告)。

1919年(大正8年)、島薗順次郎(同年9月、臨時委員となる)が日本食に
脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証明し、脚気ビタミン欠乏説を唱
導。1921年(大正10年)、大森憲太(慶應大)と田口勝太(慶應大)が
別々にヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違
いないと主張した。1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定
した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。

臨時脚気病調査会による確定 [編集]1922年(大正11年)10月28日、秋
の調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミン
に関するものであった。翌1923年(大正12年)3月3日の第28回総会では、
脚気の原因が「ビタミンB欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加
わったもの」なのかに絞られていた。

そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、調査会の予
算2万円のうち8千円が使われることになった。1924年(大正13年)4月8日
の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚気の原因は、ビタミンB欠
乏である」ことが99%確定した。99%というのは、実験手法の誤差の範囲
について島薗が厳密すぎて研究を深めることを主張したためである。翌
1925年(大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミン欠乏説が完全に確定し
た[60]。

1924年(大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が
廃止された。脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由
とされる。ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であること
から、翌1925年(大正14年)6月3日、いつものとおり陸軍省第一会議室で
報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があっ
た。その席上、入沢(東京帝大)と北島多一(慶應大、調査会発足時から
の最古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することになる
(元委員がすべて参加)。

なお、16年間に委員として39人、臨時委員として13人が参加した調査会で
は、上述のとおり第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の
研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。その中には、個人の業績
として公表されたものも含まれる。また、脚気ビタミン欠乏説を確定した
調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員のすべてが参加)となる
など、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づ
ける見解がある一方[61]、成果を挙げられなかったとする見解もある[62]。

治療・予防法の確立へ [編集] 脚気病研究会の創設と中絶 [編集]1925
年(大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止をうけて創
設された[63]。翌1926年(昭和元年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研
究報告がなされた。とくに東京帝大・島薗内科の香川昇三は、1932年(昭
和7年)に鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」[64]が脚気に特効がある
ことを報告した。

さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927
年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが
脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られ
ていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、1934年
(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。

真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅
させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面をひらい
た。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療
薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策にしぼられてき
た。しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が1937年(昭和12
年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心
は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学にむけられた。そして脚気病研
究会は、以後、中絶された。

なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった
(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人〜2万人)。その理由として、ビタ
ミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこ
と、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分
の摂取が困難であったことが挙げられる。

ビタミンB研究委員会、「特効薬」の開発 [編集]太平洋戦争末期の1944
年(昭和19年)11月16日、ビタミン生産が思いどおりにならない中、突然
「ビタミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した[65]。会
員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての臨時脚気病調査会(陸軍
大臣所管の国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似ていた。
ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を命じ
られることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」(1954年(昭和
29年)以降)としてつづく。

1950年(昭和25年)12月2日の研究会で、京都大学衛生学の藤原元典は、
ニンニクとビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質がで
きると報告した。さらに藤原は、武田薬品工業研究部と提携して研究をす
すめ、1952年(昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニクの成分アリ
シンがB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリ
チアミン」と命名)。そのアリチアミンは、体内でB1にもどり、さらに腸
管からの吸収がきわめてよく、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、
という従来のビタミンB1にはない特性があることを報告した。B1誘導体ア
リチアミンの特性には、研究会の委員一同が驚き、以後、研究会では、そ
の新物質の本体を解明するため、総力をあげて研究が行われた。

また、藤原と提携して研究をすすめる武田薬品工業は、アリチアミンの製
剤化に力を入れた(製品開発のきっかけは、旧陸軍から脚気の治療薬開発
を依頼されたこと)。多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する
製品開発につとめた結果、ついに成功したのである。1954年(昭和29
年)3月、アリチアミンの内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬
の「アリナミン注」が発売された。

ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果をしめした。その効果
によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にもひろく
歓迎され、また同業他社をおおいに刺激した。そして1968年(昭和43年)
までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。アリナミンとその類似
品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されること
となった。国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、1955年
(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92
人と減少したのである[66]。

しかし、1975年(昭和50年)には脚気が再燃し[67][68]、原因には砂糖の
多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ない
ジャンクフードがあることが分かった[69]。

トリビア [編集]脚気に苦しんでいた明治天皇は、海軍や漢方医による
食事療法を希望したとき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学
そのものへの不信をいだき、一時的に侍医の診断を拒否するなどしたた
め、侍医団は天皇の糖尿病の悪化に対して有効な治療を取れなかったので
はないか、ともいわれている[70]。

明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった鍼灸医
等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学
の栄養学の概念を取りいれ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を
投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取りいれはじめた。これが
効果を示したことにより、漢方医の社会的地位の保持に貢献した側面がある。

2017年01月28日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎
 
  

北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと
怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も
言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っている
のだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と
思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解だが、まったく的
外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいの
である。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らす
だけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与
えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が
五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは
当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために
注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるとい
う言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうか
い)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知ら
ないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃ
になったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新
潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝
心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。
共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろ
う。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければま
ずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意
がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」
だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様
は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に
日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。
保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角
さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福
田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな
政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内
閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相
が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの
各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが
人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは
実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみ
に立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領
様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分
たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人の
いけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締
結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけて
きて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。
こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書
として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃ
ないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北
としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分
のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条
件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだか
ら、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫
氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が
日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほど
の損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技
術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど
が日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわ
けがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でい
い、東京では「馬鹿」と嗤う。
(了)2005.02.23 加筆2006.03.25

2017年01月26日

◆粋そのもの西条八十(やそ)

渡部 亮次郎



西条八十は早稲田大学仏文科の教授でありながら、童謡「歌を忘れたカナリヤ」から「とんこ節」「芸者ワルツ」まで数多くの作詞を通じて日本の歌謡界に君臨した粋人である。

文末にリストを掲載しますが、戦前、戦中、戦後と筆者が歌わなかった歌はないくらい、歌謡界に尽力している。それでいて本人は音痴だったと子息らは明かしている。

「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)の作詞をデパート社長から依頼された宴席でのこと。「なんですか、最近の歌は。とんこ節、なんて下品なんでしょう」と社長。「あれは私の作品です」。

それは失礼しました。それよりひどいのは芸者ワルツですと社長が嘆けば八十「あれも私の作詞です」と。結局「有楽町で逢いましょう」は弟子の佐伯孝夫が担当した。ちなみに作曲はシベリア抑留帰り「異国の丘」の吉田正。

「トンコ節(昭和24年)

作詞:西条八十
作曲:古賀政雄
唄:久保幸江・加藤雅夫、

あなたのくれた おびどめの
達磨の模様が チョイト気にかかる
さんざ遊んで ころがして
あとでアッサリ つぶす気か
ネー トンコトンコ

言えばよかった ひとことの
何故に言えない 打明けられない
バカな顔して また帰る
恋は苦しい おぼろ月
ネー トンコトンコ

こうしてこうすりゃ こうなると
知りつつこうして こうなったふたり
ほれた私が 悪いのか
迷わすお前が 悪いのか
ネー トンコトンコ

ゲイシャ・ワルツ 昭和27年(1952年)
作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌唱:神楽坂はん子

(一)
あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスのなやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思い出ワルツ

(二)
空には三日月 お座敷帰り
恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた
これが苦労の はじめでしょうか

(三)
あなたのお顔を 見たうれしさに
呑んだら酔ったわ 踊ったわ
今夜はせめて 介抱してね
どうせ一緒にゃ くらせぬ身体

(四)
気強くあきらめ 帰した夜は
更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し


戦時中は「軍歌」も多く作詞した。

若鷲の歌

作詞 西条八十
作曲 古関裕而
歌手 霧島 昇


若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい

西條 八十(さいじょう やそ 1892(明治25)年1月15日 ー 1970(昭和45)年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。

親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。漢字表記は旧字体の西條が正しい。

東京府出身。1898(明治31)年、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。旧制早稲田中学(現早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。

吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

王将は作詞、作曲 船村徹、歌 村田英雄の3人とも将棋を全く指せなかった。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。


名前は筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。

天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた時期がある。

森村誠一の小説『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。1977年に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。なおテレビドラマは、4度製作放映された(2009年8月現在)。

1967年に作詞した「夕笛」は舟木一夫によって歌われ、最後のヒット曲となったが、三木露風の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。

担当編集者の回想に、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。著者は友人の詩人大木惇夫の次女である。 

主な著作

『西條八十全集』 (全17巻 国書刊行会刊 1991年-2007年)

『西條八十著作目録・年譜』 (中央公論事業出版 1972年)
同刊行委員会、西條八束編 

研究書・著作
『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社 1967年)
『西條八十自伝 唄の自叙伝』(人間の記録29:日本図書センターで再刊、1997年)
『女妖記』(中公文庫で再刊 2008年) 自伝的小説集

詩集(象徴詩・純粋詩)
『砂金』(1919年、自費出版)(復刻:日本図書センター、2004年)
『見知らぬ愛人』(1922年)
『美しき喪失』(1929年)
『一握の玻璃』(1947年)

詩集(その他)

『空の羊』
『少女純情詩集』 (国書刊行会で復刻、1984年)
『水色の夢』
『西條八十詩集』 (角川春樹事務所:ハルキ文庫で再刊、2004年)ISBN4758430942

訳詩集
『白孔雀』(1920年)
『世界童謡集』 水谷まさる共訳 (冨山房百科文庫で再刊、1991年)

『かなりあ』(『赤い鳥』1918年11月号)
『肩たたき』
『鞠と殿様』
『お月さん』
『水たまり』
『西條八十 名作童謡西条八十…100選』上田信道編 (春陽堂書店、2005年)


歌謡曲(流行歌)

『当世銀座節』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1928年)
『お菓子と娘』(作曲:橋本国彦、1929年)
『東京行進曲』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)

『鞠と殿さま』(作曲:中山晋平、歌唱:平井英子、1929年)
『愛して頂戴』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)
『唐人お吉の唄(明烏編)』(作曲:中山晋平、歌唱:藤本二三吉、
1930年)

『アラその瞬間よ』(作曲:中山晋平、歌唱:藤野豊子1930年)
『この太陽』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年)
『女給の唄』(作曲:塩尻精八、歌唱:羽衣歌子、1931年)

『侍ニッポン』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)、1931年)
『ルンペン節』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?、(たまき)1931年)
『わたしこの頃変なのよ』(作曲:町田嘉章、歌唱:四家文子、1931年)

『銀座の柳』(作曲:中山晋平、歌唱:四家文子、1932年)
『天國に結ぶ戀』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)・四家文
子、1932年)
『涙の渡り鳥』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小林千代子、1932年)

『東京音頭』(作曲:中山晋平、歌唱:小唄勝太郎・三島一声、1933年)
『佐渡を想えば』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1933年)
『サーカスの唄』(作曲:古賀政男、歌唱:松平晃、1933年)

『来る来るサーカス』(作曲:古賀政男、歌唱:淡谷のり子、1933年)
『十九の春』(作曲:江口夜詩、歌唱:ミス・コロムビア(松原操)、1933年)
『祖国の護り』(作曲:村越国保、歌唱:小野巡、1934年)

『勝太郎子守唄』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1936年)『花言葉の唄』(作曲:池田不二男、歌唱:松平晃・伏見信子、1936年)『戦友の唄』(『同期の桜』の元歌、作曲:大村能章、歌唱:樋口静雄、1938年)

『旅の夜風』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・ミス・コロムビア、1938年)

『悲しき子守唄』(作曲:竹岡信幸、歌唱:ミス・コロムビア、1938年)
『支那の夜』(作曲:竹岡信幸、歌唱:渡辺はま子、1938年)

『東京ブルース』(作曲:服部良一、歌唱:淡谷のり子、1939年)
『純情二重奏』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・高峰三枝子、1939年)
『誰か故郷を想わざる』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)

『春よいずこ』(作曲:古賀政男、歌唱:藤山一郎・二葉あき子、1940年)
『お島千太郎旅唄』(作曲:奥山貞吉、歌唱:伊藤久男・二葉あき子、1940年)
『熱砂の誓い(建設の歌)』(作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男、1940年)

『蘇州夜曲』(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇・渡辺はま子、1940年)
『愛馬花嫁』(作曲:万城目正、歌唱:ミス・コロムビア・菊池章子・渡辺はま子、1940年)
『そうだその意気』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操・李香蘭、1941年)

『高原の月』(作曲:仁木他喜雄、歌唱:霧島昇・二葉あき子、1942年)
『若鷲の歌』(作曲:古関裕而、歌唱:霧島昇・波平暁男、1943年)
『風は海から』(作曲:服部良一、歌唱:渡辺はま子、1943年)

『湖畔の乙女』(作曲:早乙女光、歌唱:菊池章子、1943年)
『麗人の歌』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1946年)
『悲しき竹笛』(作曲:古賀政男、歌唱:近江俊郎・奈良光枝、1946年)

『旅の舞姫』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1947年)
『三百六十五夜』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操、1948年)
『恋の曼珠沙華』(作曲:古賀政男、歌唱:二葉あき子、1948年)

『トンコ節』(作曲:古賀政男、歌唱:久保幸江・加藤雅夫、1948年)
『青い山脈』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)
『花の素顔』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1949年)

『山のかなたに』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)
『赤い靴のタンゴ』(作曲:古賀政男、歌唱:奈良光枝、1950年)
『越後獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1950年)

『角兵衛獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)
『こんな私じゃなかったに』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『娘十九はまだ純情よ』(作曲:上原げんと、歌唱:コロムビア・ローズ、1952年)

『ゲイシャ・ワルツ』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『丘は花ざかり』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1952年)
『伊豆の佐太郎』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1952年)

『ひめゆりの塔』(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男、1953年)
『哀愁日記』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1954年)
『白鷺三味線』』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1955年)

『ピレネエの山の男』(作曲:古賀政男、歌唱:岡本敦郎、1955年)
『この世の花』(作曲:万城目正、歌唱:島倉千代子、1955年)
『りんどう峠』(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)

『娘船頭さん』(作曲:古賀政男、歌唱:美空ひばり、1955年)
『別れたっていいじゃないか』(作曲:上原げんと、歌唱:神戸一郎、1956年)
『しあわせはどこに』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1956年)

『王将』(作曲:船村徹、歌唱:村田英雄、1961年)
『絶唱』(作曲:市川昭介、歌唱:舟木一夫、1966年)
『夕笛』(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年)

『芸道一代』(作曲:山本丈晴、歌唱:美空ひばり、1967年)
『乙女はいつか星になる』 1972年、ツームストーンズの歌で、自主制作による限定盤シングル(オーミック N-501)として発売。

西條八十の遺作に西田陽一が作曲した1985年発売の乙女隊のデビューシングル。1993年に「西条八十生誕100周年記念曲」として牧奈一慶が作曲し、飛鳥あおいが歌った別の楽曲もある。

「天國に結ぶ戀」「ルンペン節」 この2作は、作詞者が柳水巴になっているが、西條八十の変名である。

小説

1924年(大正13年)3月「少女倶楽部」読みきり『はかなき誓』から、1960年(昭和35年)11月「なかよし」連載『笛をふく影』まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、多く刊行され大人気を博した。

『人食いバラ』 ゆまに書房で復刻、2003年、解説唐沢俊一
 
校歌
「西條八十全集 第10巻」(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録作品に
『早稲田中学校・高等学校第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)
『横浜市立大学校歌』
『横浜市立鶴見工業高等学校校歌』
『藤沢市立藤沢小学校校歌』
『富山県立富山中部高等学校校歌』
『茨城県立下館第一高等学校校歌』
『富山県立桜井高校』
『日出学園(千葉県)園歌』
『姫路市立琴丘高等学校校歌』
『岡山県立倉敷工業高等学校校歌』
『高岡市国吉小学校校歌』
『北海道立北海道池田高等学校校歌』
『小松島市立小松島中学校校歌』
『滋賀県立近江八幡商業高等学校校歌』
『兵庫県立加古川西高等学校校歌』
『練馬区立石神井東小学校校歌』
『私立桜丘中学・高等学校校歌』
『平和生命保険株式会社 社歌』
未収録作品には、
『明治大学校歌』(「児玉花外」作詞とされているが、西条の作である)

軍歌
『若鷲の歌』
『同期の桜』
『戦友の唄(二輪の桜)』
『桜進軍』
『比島決戦の歌』
『決戦の大空へ』
『乙女の戦士』
『そうだその意気』
『祖国の護り』
?『学徒進軍歌』
『ああ梅林中尉』

(「ウィキペディア」)



2017年01月25日

◆北前船で裏日本が表だった

渡部 亮次郎



私の郷里(秋田県)には姓に越後谷、越中谷、越前谷、加賀谷、能登谷といった北陸を名乗るのが多い。播磨谷というのは瀬戸内海が先祖か。

若いとき地元の古老に尋ねたら「北前船の男衆(乗組員)が途中の寄港地・秋田の女にいかれて下船し、住み着いたのが子孫だ」とのことだった。

北前船(きたまえぶね)とは耳にした事はあるが、明治以降、全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった、というもの。実感は無い。「ウィキ」に頼る。

<北前船は江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。

買積み廻船とは商品を預かって運送するのではなく、航行する船主自身が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。

(太平洋側だと西風に吹かれてアメリカ大陸まで流される「難破」の危険があったが、日本海にはその危険は殆ど存在しなかった。西風はつねに陸側に吹く)。

西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。

この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。

この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。

これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。

また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。

さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。

前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船。

はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。

北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。

日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。

これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。

スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見方もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに鉄道の普及で水上輸送の意味がなくなって消滅した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鉄道が普及するまでは、東西文化の交流は北前船が担っていた。秋田の女にほだされて下船した男たちは学問の大切さも上方から持ってきた。

東北の名門校として知られる福島県立安積(あさか)高校だが、創立は明治17(1884)年。対する県立秋田高校の創立はそれより11年も前の1873(明治6)年。当に「北前船」のお陰で。いま「裏日本」とやや蔑視されている日本海側は昔は「表」だったのである。

それにしても近畿や北陸の男たちを魅了した昔の秋田女性のどんなところに魅力があったのか、失礼ながら今では確かめようがない。

とはいえ大阪と秋田の縁は未だに深く私の友人の一人も大阪の親戚を頼って就職したが、昔とは逆に自分が婿入りして生涯を全うした。        (2013・1・5)

2017年01月24日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることは分かったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)


2017年01月22日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



散歩する恩賜公園は落葉樹の殆どが裸になって冬支度を急いでいるが、
鈴懸(すずかけ・プラタナス)だけは落葉が遅れて、汚い様を見せてい
た。

スズカケノキ(木) (common) plane‖Platanus orientalis 日本には明
治初めに渡来し,小石川植物園に植えられた。秋に多数の小堅果からな
る直径3〜4cmの球形の集合果が山伏の着る篠懸の衣に付いている房の形
に似ているところから,鈴懸という和名がついた。

バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し,紀元前からすでにイタ
リアに入り,16〜17世紀にはフランス,イギリスでも街路樹に用いられ
たという。

日本で栽植されているものは,スズカケノキのほかに2種ある。

アメリカスズカケノキ P.occidentalis L.(英名 buttonwood)は高さ30m,
とくに大きなものでは50mになり,樹皮は乳白色で小さくはがれる。葉は
浅く切れ込み,集合果は1個が柄で垂れる。北アメリカ東部に分布し,日
本には1900年に入ったが,あまり広められていない。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ(一名カエデバスズ
カケノキ) (英名 Londonplane)で,スズカケノキとアメリカスズカケノ
キの雑種といわれ,樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込み
は両種の中間で全形がカエデの葉に似る。集合果は1〜2個ずつ垂れる。

スズカケノキの仲間は,やせ地や低湿地でもよく生長し,公害に強く,
刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。

日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木
で広がり始め,今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用
いられている。

スズカケノキ科 Platanaceae は1属だけからなり,ヨーロッパ南東部か
らインドまで,インドシナ半島,北アメリカからメキシコに6〜8種が隔
離的に分布する。(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサー
ビス)

「友と語らん 鈴懸の径(みち) 通いなれたる 学舎(学びや)の街 
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」と灰田勝彦
が唄ったのは昭和17(1942)年。

兄の灰田晴彦が作曲、それに新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ
た。大東亜戦争に命令されて出陣する学生たちは、万感の思いを込めて
この歌を唄ったという。

あの戦争中はまず学徒動員が日中戦争が始まって間もない1938年(昭和13)
ころから、食糧、軍需品生産の人手不足を補うために行われた。学生、
生徒の勤労動員。学徒勤労動員ともいう。

大東亜争中の44(昭和19)年3月の学徒動員令からは中学生(旧制)以上は全
員、軍需工場などに動員され、45年8月の敗戦まで、学校教育は事実上、
停止した。(地域で差があるが、旧制中学の1、2、3へ年生は食糧増産
のために農家への勤労動員に駆り出され、軍需工場に動員されたのは四、
五年生)

学徒出陣はそれに続く措置。戦争下で、徴兵猶予制度の廃止により理工
科系・教員養成系をのぞく大学生・高専生を入営させた措置。それまで
大学生、高等専門学校の生徒には、26歳まで徴兵猶予の特典があった。

しかし満洲事変につづく日中戦争で兵員の不足に悩んでいた政府は、
1941(昭和16)年10月以降、修学年限の短縮による繰り上げ卒業の措置で
兵員を補った。

戦局の悪化でさらに兵員の不足が深刻になると、1943年10月に「在学徴
集延期臨時特例」を公布して、20歳以上の学生・生徒の徴兵を決定。
「徴兵猶予」とう特典を消して徴兵をかけたわけだ。

10月21日、冷雨のなか明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で、文
部省主催の出陣学徒の壮行会出が挙行された。東京とその近県から集まっ
た出陣学徒は、東条英機首相の閲兵と激励を受け、場内を行進。

スタンドを埋め尽くした6万5000人の家族・級友・女子学生などがこれを
見送った。出陣学徒は、13万人とも20万人とも推定されている。

中国大陸や南方戦線、南太平洋へ送られ多くの戦死者を出した。1949年
には戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」が出版され、大きな反響を
よんだ。参考:マイクロソフト「エンカルタ」

2017年01月20日

◆のど自慢の日は1月19日

渡部 亮次郎



ものの本によると、日本では1年365日、毎日、何かの日である。たとえば
2007年に地方選挙の後半戦の投票日だった4月22日は、
(1)地球の日(アースデー)
(2)清掃の日(清掃法制定記念日)
(3)霊山神社例大祭(福島県)
(4)多賀祭(滋賀県)だった。

いい加減に1月19日と入れたら、パソコンは1月19日はのど自慢の日と出た。

<NHKラジオの視聴者参加番組「のど自慢素人音楽会」が1946(昭和21)年
のこの日にスタートしたことに由来。

スタート当初の参加応募者は900人にものぼり、そのうち予選を通過した
のは30人。応募者が歌った曲で多かったのは、当時の人気歌手・霧島昇が
歌う『リンゴの唄』『旅の夜風』『誰か故郷を想はざる』などだったそうだ。

「のど自慢」は「明るく楽しく元気よく」をモットーに、1948年には早く
も全国コンク−ルが実施されるほどの人気を博し、NHKにおける戦後最初
のヒット番組となり1953(昭和28)年にはテレビ放送が開始され、ラジオと
テレビで同時放送されるほどに成長していった。

実は北島三郎、島倉千代子、美空ひばりはこの番組の常連。大物歌手とし
てその名を知られる3人だが、彼らも当時は鐘の数を気にしつつ歌ったの
だろうか>。

若原一郎、三船浩は合格によってレコード会社からスカウトされて歌手に
なった。荒井恵子もそうだった。荒井は「森の水車」を初めて唄ったが
NHK専属で、レコード会社には属してなかったから販売されたレコードや
CDは残っていない。

「のど自慢」はいまではNHKの看板番組である。この世に歌がある限り続
くのではないかと思われるぐらいだが、この世に歌がいくらあっても唄う
のは大嫌いと言う人が居る。音痴である。だが音痴は訓練によって治るも
のだそうだ。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると

音痴 おんち

<大脳の先天的音楽機能不全の状態。聴覚,言語など,ほかの精神的・肉
体的機能が健常で,特に音楽的能力だけが劣っている場合をいう。これに
対して,かつて音楽能力があった者が疾病,外傷など何らかの原因によっ
てその能力を失った場合を〈失音楽症〉という。

音痴の原因は,大脳右半球に推定される音楽中枢の発育障害による機能不
全であるとされ,遺伝と環境の双方に起因するものとみられているが,医
学的には未解決である。

音痴は感覚性音痴と運動性音痴に大別される。前者は,音楽の認知,理
解,記憶に障害があるために音高やリズムの感受そのものが不可能な状態
を言いう。

後者は,音高の連続的変化のパターンを組み立てる運動統合中枢に支障が
あるため,歌うと調子はずれになるものを言う。しかし,俗に音痴といわ
れるのは難しい音程をうまく歌えない場合であり,正しい訓練や音楽環境
をつくることで,矯正は可能とされている。山本 文茂>
音痴についてインターネットで検索した。その結果、297万件も出てきた。
如何に音痴に悩む人が多いかを物語るものではないだろうか。
その中にこういうのがあった。

山本恵理子の「音痴について」である。
http://www.osaka-c.ed.jp/matsubara/kadai/27ki/kadair21.htm

なぜ音痴になるか

『人はなぜ音痴になるのか』 音に対する感覚が鈍く、音程やリズムが正
確にとれず歌が正しく歌えないこと。三重大学教育学部の弓場徹助教授
は、「音痴の原因は、出力(脳から声帯に指令が伝わり、震わせて音を出
す)する際の、輪状甲状筋の訓練不足によるものである。」と語った。

輪状甲状筋は声帯を引きのばす筋肉で、低い声を出す時に声帯を縮め、高
い声を出す時は声帯を前後にのばす。そして、他の背中や足などの筋肉と
同じく、鍛えなければ成長せず衰えてしまうのである。

歌を歌う時は、普通の会話のより高い音域を使う場合が多いため、輪状甲
状筋の働きが不可欠だ。自分のことを音痴と思っている人は、歌う機会を
避ける傾向がみられる。兵庫教育大学音楽科の鈴木寛教授は、小脳モデル
(処理系)について次のように説明した。

初めて自転車に乗る時、バランスがうまく保てず、転びながらその問題点
を修正して大脳が学習する。その情報は大脳に集約され「自転車に乗る」
という一つのモデルが小脳に移り記憶される。

1度、小脳モデルが記憶されれば、何年も自転車に乗らなくもすぐに乗る
ことができるという。歌を歌う場合の小脳モデルは、音程を取り正しい音
を発生し、リズムをとるというものである。大脳に作られた音の高さを判
断する基準に音階スキーマというものがある。

正しいスキーマが形成されている場合は、耳からある音が入ってくると
A=Vという判断ができる。しかし誤ったスキーマが形成されている場合
は、A=Vという判断ができずに音痴になってしまう。

人は6歳頃まで音階スキーマが形成されてしまう。赤ちゃんは知らず知ら
ずのうちに母親の声を真似している。自分を守ってくれる母親と他人をな
るべく早く認識し、コミュニケーションをとろうとするためである。そし
て、この特性のため母親の声や、音程までも真似するようになる。

他にも音痴の原因となる環境として、

1.音の出るおもちゃなどの電池がきれかかり、変な音を出す。

2.音楽や両親の会話を聞く機会がすくない等がある。

音痴を治すには裏声を意識的に出すことによって輪状甲状筋を鍛えたり、
音を認識しながら根気よく練習し音階スキーマを改善する方法がある。

つまり、音痴は適切な訓練方法によって克服できる!『音痴を治すに
は?』音痴は運動音痴(運痴)と比較される。どちらも運動系の微妙な調
節がうまくゆかない。それが原因で運動嫌い、歌嫌いになる可能性もあ
る。運痴は指導によりある程度は矯正できるが、音痴はどうだろうか。

「歌う」運動のメカニズムは、喉頭筋群の複雑さもあり未だに不明な点が
多い。聴覚能の問題もある。一体どのように声をだしたら良いのか科学的
なアプローチは少ない。

発声には声帯を動かす伸展筋と声門を閉じる閉鎖筋という2つの拮抗的な
筋の運動に、呼吸の圧力が加わった3要素が関係するのだが声帯を伸展さ
せて裏声を生み出す輪状甲状筋の構造と機能に着目。

結果的に裏声(ファルセット)を中心に音を合わせてうまく歌うトレーニ
ングが音痴矯正に有効という。骨格筋は伸展時により大きな力が発揮され
るので、この方法は歌う運動の燃費を高めるかもしれない。

具体的に何をやればいいかというのには次のような説がある。

1)はっきりとした裏声を出せるようにする。

2)裏声で簡単なメロディーを歌う。

3)裏声で歌い始め、表声の音程まで下がっていく。※表声というのは胸
声のこと。

誤りも多くて評判が良くないリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』だが、ここでは、音痴(おんち)とは、音感が無いか劣
る人を言うと決めて、次のような珍談を紹介している。

<・・・リズムを合わせるという感覚が鈍い人もおり、歌っている途中でど
んどんずれて早くなったり遅くなってしまう場合も見られる。

最も有名な例は、フローレンス・フォスター・ジェンキンスという富豪の
夫人がオペラファンで、1944年にカーネギーホールで「客に金を払って」
リサイタルを開いた。(あの戦争中!!)

このときの録音は現在The Glory of Human voices (RCAより発売、ASIN
B000003F97)(国内盤のタイトルは『人間の声の栄光』)というタイトル
でCD化されている。

このCDが国内大手CDショップで発売された際、「チョーオンチ」という販
促ポップが付けられた事がある。またこのジェンキンス夫人の音痴ぶりを
題材にしたミュージカル"Souvenir"がある。

音痴は訓練で克服できる場合が大半だが、まれに音感がない(耳で聞いた
音程を声で再現することが出来ない)人もいる。一種の病気(異常)であ
り、このタイプの音痴は直すことができないと言われる。有名人では俳優
のジェームズ・ディーンがこのタイプだったと言われている。

転じて、音の認識に限らず特定の能力が劣る人に対しても使う。例えば、
味覚に対しての味音痴、東西南北等方角把握能力に対しての方向音痴、運
動能力に対しての運動音痴、機械に対しての機械音痴、等がある。>

痴呆とか痴人とかが差別語になっているようだが、音痴はどうなんだろ
う。

2017年01月18日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎



日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラ
が大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を
縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもた
らした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では
「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日
に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化
や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは
日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然
として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界
一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全
に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿
病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本
で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠
んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日
(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年
は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろ
う。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓が
どのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続
いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889
年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあ
と、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切って
も切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。
膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大
学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は
萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読
んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実
行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。
このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのは
さらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果
は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用に
は耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化
学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した
結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿
病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一
途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が
極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延
しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、
ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が
低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激
増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変
で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響し
ている。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を
発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられて
いる。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣
が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くな
かった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食と
は無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展
により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描
くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であった
のだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の
結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高
脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40
年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結
果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経
済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べてい
たものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当
然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」
http://members.jcom.home.ne.jp/3220398001/discovary/index.html


        

2017年01月16日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。外交儀礼上食べないわけに
いかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えて━いる。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06