2008年05月02日

◆日本初メーデーは2日

渡部亮次郎

労働者の権利を獲得するための祭典メーデーだが、日本で最初に行われたのが大正9年。実はこの年、5月1日が土曜日で休みでなかったため、2日の日曜日に開催された。つまり日本初のメーデーは5月2日。

元々イギリスで5月1日は14世紀頃に始まった、花を祝うお祭りだった。

日本より北に位置しているイギリスでは春の訪れと言うとこの頃で、そのやっとやってきた春に対する喜びを味わう祭日として『5月の女王:May Queen』などを決めたり、遊技などをして長く親しまれて来た。(メイクィーンという名前はジャガイモにも付けられている)

その5月1日を労働者の権利を主張したり、団結を図るための集会になったのは1886年のアメリカだった。この日、アメリカ・シカゴで35万人が参加して8時間労働制のを求めるストライキが行われたことに由来する

3年後の第2インターナショナル創立大会で、この日を『万国労働者団結の日』と定め、翌年の1890年に第1回メーデーが開始された。

日本でのメーデーは、まず1901(明治22)年に「二六新報」が「第1回日本労働者大懇親会」と言うものを開催している。これがメーデーの前身とされているが、この日は4月3日だった。

労働者組合主催のものとしては1920(大正9)年、上野公園で開催されたものが一番最初になる。しかしこの第1回メーデーは1日ではなく5月2日だった。実はまだ休日として認められていなかったメーデーなので、多くの人が集合できるようにと日曜日だった5月2日に開催されたのだ。

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2008年05月01日

◆エンパイア・ステート・ビル

                    渡部亮次郎

「エンパイア・ステート」はニューヨーク州の愛称である。そのニューヨークを生まれて初めて訪れたのは1978(昭和53)年2月のこと。国際問題評論家の友人加瀬英明に連れてもらっての旅だった。
もう30年前だ。

最初がロス・アンジェルス。折から解禁されて間もないポルノ映画を鑑に入ったが、観客は我々だけというのに驚いた。なるほどポルノは1度は珍しいが、そんなに見るのは変質者扱いなのだ。

その夜、本場?でステーキを食べようと希望したが、硬いし、味が拙い。醤油とか或いは大根おろしでもなけりゃ食えたもんじゃない。
以後何十回と無く訪れる事になるが、アメリカでステーキは食わない。

さりとて海岸縁のレストランで焼き魚を注文したら、蒸した白身の魚が出てきた。何しろ大振りで味が無い。それこそ醤油でもあれば御の字だが、当時はキッコーマンがそれほど普及してなかった。

その後、日本駐留体験の帰還兵を通じて飛躍的に普及。どんなレストランでも「キッコマン」は備えてあるようになった。キッコーマン社にとって米国はドル箱のはずである。

問題はEmpire State Buildingである。NYを象徴する超高層ビル。話のタネだからと最上階までエレベーターで昇った。最上階102階部分は地上381mの高さにある。

不思議な事に加瀬氏が中心部に突っ立ったまま展望鏡も覗こうとしない。元はといえば私は高所恐怖症者。「ナベさん、このビル、最上階は風で40Cmずつ揺れているんだよ」といわれたら、もう怖くて壁の縁へは行けなくなった。

加瀬氏の従姉オノ・ヨーコさんとその夫ジョン・レノン氏にイタリア街でご馳走になったら、窓の外に黒山の人だかり。彼らがそれほどの有名人である事を私は知らなかった。

翌日、世界貿易センターの最上階のレストランへ知人に招待された。
エンパイア・ステートより高いビル。窓の下をヘリコプターが飛んで行く。途端に怖くなった。

出されたムール貝を急いで口に入れて帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう一皿」という奨めには参った。帰り道、加瀬氏「オレも高所恐怖症なんだよ」。

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2008年04月29日

◆いちょうはやちゃお

                    渡部亮次郎

わがPCはいちょうと打つと公孫樹と出る。原産地中国でこう呼ぶことから、こうなったようだが、アメリカのマイクロソフト社の
発行している大百科事典「エンカルタ」は、中国での別の呼び方「やちゃお」の訛説を紹介している。

東京湾岸の猿江恩賜公園の公孫樹は雄雌100本近いが、花の時期が終わって散歩道を黄色に埋めて、掃除の人たちを煩わしている。

平凡社の世界大百科事典は古すぎて最近の事はさっぱり分からないが、古い事は正確に書いてあるから便利だ。

<中国原産で,現在,浙江省にわずかに自生するだけといわれる。観音像のある所にしばしば老樹があるので,観音像の渡来とともに
僧侶によって日本に持ちこまれたという説がある。

1690‐92年(元禄3‐5)滞日したドイツ人ケンペルによって,はじめてヨーロッパに紹介され,1730年ごろには生樹がヨーロッパに導入された。それ以後,世界の温帯地域に栽植されるようになったといわれる。>。

明治の開国と共に来日した英国の植物学者は中国にしかないと思ってきたところ、日本でも全国各地に植えられているのを見て驚いたという記事をどこかで読んだことがある。

<雌雄異株で,一般に古い雄株では枝が挙手したように上向きに伸び,雌株では水平に張る傾向にある。雌株では枝もたわわに種子がつくことがあるので,その重みで枝が水平になることもあるかもしれない。

ときに高さ30m,周囲10mに達する巨木となり,各地で天然記念物に指定されている。青森県十和田湖町法量の善正寺跡のイチョウ(周囲12m,高さ27m),岩手県久慈市長泉寺の大イチョウ(周囲14m),

岐阜県高山市国分寺の大イチョウ(周囲10m),宮崎県高千穂町下野八幡宮のイチョウ(周囲9m,高さ36m)などが巨樹として知られている。>今ではもっと成長しただろう。

問題は「やちやお」のこと。若い人々には苦手な文語文だが、たまには頭の体操をして下さい。

<『大言海』序文が語るいちょうの語源探求。

国語辞書『大言海』5冊は、著者文彦の死後、兄の大槻如電のほか、関根正直、新村出らの指導協力により、1932〜37年(昭和7〜12)に刊行された。

この辞書の特色は、出典をしめし、独特の語源解釈をこころみていることで、ここに紹介した銀杏(いちょう)の語源についての探索にもその本領がよく出ている。>

以下[出典]大槻文彦『大言海』、冨山房、1932年。による。

大槻文彦「大言海の編纂に当たりて」

銀杏(ぎんなん)の成る「いちよう」といふ樹あり。この語の語原、並(ならび)に仮名遣は、難解のものとして、語学家の脳を悩ましむるものにて、種種の語原説あり。

この語の最も古く物に見えたるは、一条禅閤(ぜんこう:兼良公、文明十三年八十歳にて薨(こう)ず)の尺素往来に、「銀杏(イチヤウ)」とある、是れなるべし。

文安の下学集にも、「銀杏異名鴨脚(アフキヤク)、葉形、鴨脚(カモノアシ)の如し」とあり。字音の語の如く思はるれど、如何(いか)なる文字か知られず。

黒川春村大人の硯鼠漫筆(けんそまんぴつ)に「唐音、銀杏の転ならむ」などあれど、心服せられず。

降りて、元禄の合類節用集に至りて、「銀杏、鴨脚子、」と見えたれど、是れも如何なる字音なるか解せられず、正徳の和漢三才図会(わかんさんさいずえ)に至りて、「銀杏(ギンナン)、鴨脚子(イチエフ)、俗云、一葉(イチエフ)」とあり。始めて、一葉の字音なること見えたり。

然(しか)れども、一葉の何の義なるか、不審深かりき。加茂真淵(かものまぶち)大人の冠辞考、「ちちのみの」の条にも、「いてふ」と見ゆ。仮名遣は合類節用集か、三才図会かに拠られたるものならむか。語原は説かれてあらず。

さて和訓栞(わくんのしおり)の後編の出でたるを見れば(明治後に出版せらる)、「いてふ、一葉の義なり、「ちえ」反「て」なり、各一葉づつ別れて叢生(そうせい)せり、因(よっ)て名とす」と、始めて解釈あるを見たり。

十分に了解せられざれど、外に拠るべき説もなければ、余が曩(さき)に作れる辞書「言海」には、姑(しば)らくこれに従ひて「いてふ」としておきたり。

然れども、一葉づつ別るといふこと、衆木皆然り、別に語原あるべしと考へ居たりしこと、三十年来なりき。  

然るに、二、三年前、支那(しな)に行きて帰りし人の、偶然の談に『己(わ)れ支那の内地を旅行せし時、銀杏の樹の下に立寄り、路案内する支那人に樹名を問ひしに「やちやお」と答へたり。

我が邦の「いちよう」と声似たらずや』と語れるを聞きて、手を拍(う)ちて調べたるに、鴨脚の字の今の支那音は「やちやお」なり。

(支那にては、この樹を公孫樹と云ひ、又、鴨脚とも云ふ)是(ここ)に於て、案ずるに、この樹、我が邦に野生なし、巨大なるものもあれど、樹齢七百年程なるを限りとす。

されば鎌倉時代、禅宗始めて支那より伝はりし頃、彼我の禅僧、相往来せり。その頃、実の銀杏を持ち渡りたる者ありて、植ゑたるにて、その時の鴨脚の宋音「いちやう」(今の支那音「やちやお」はその変なり)なりしものと知り得たり。

その傍証は、実の銀杏を「ぎんあん」(音便にて、ぎんなん)と云ふも、宋音なり。実の名、宋音なれば、樹の名の宋音なるべきは、思ひ半(なかば)に過ぐ。

畢竟(ひっきょう)するに、尺素往来の「いちやう」の訓、正しきなり。是れにて、三十年来の疑ひ釈然たり。因りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、仮名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。 Microsoft(R) Encarta(R) 2006.

これについて世界大百科事典の表現は以下の通り。

<中国名は銀杏,公孫樹または鴨脚樹(ヤーチアオシユー)で,後者は葉形に由来する。これを日本でヤーチャオと聞き,さらにイーチャオと転訛(てんか),後にイチョウとなったといわれる。

また属の学名 Ginkgo は銀杏の音読みを間違って記してしまったもの>。とある。Ginkyoとすべきものだが今更直らない。
2008・04・28

2008年04月28日

◆ムッソリーニ銃殺さる

                    渡部亮次郎

彼が日、独、伊の3国同盟の主人公の一人である事は子供心に知っては
いた。しかし、イタリアそのものが日独より早く連合国に万歳し、日独
に軽蔑された政治家だったので、詳しくは知らなかった。4月28日にパル
チザンに銃殺された。1945(昭和20)年のことである。

<語録
プロレタリアのイタリアよ、ファシストのイタリアよ、革命のイタリア
よ、全員起立

社会主義とは、ペテンであり、喜劇であり、幻想であり、ゆすりである。

他人を信じることは良いことだが、信じないのはもっと良いことである。

血のみが歴史を前進させる。

ヒトラーは一流国家における二流の指導者、かたや自分は二流国家にお
ける一流の指導者である。

人々は自由に飽き飽きしているというのが真実である。

私はファシズムを創造したのではなく、イタリア人の奥底から引き出し
ただけである。

正義のためには法律を犯すことも許される。そのとき暴力は武器となり、
正義となるのだ。

私は満足している。そして復讐も再評価も望まない。>

第1次大戦後の1919年3月〈戦闘ファッシ〉を結成してファシズム運動を
開始し,21年5月下院議員に当選する。22年10月ファシストのローマ進軍
の圧力によって,国王から組閣令を引き出し,39歳で首相となった。

以後20年にわたって首相の地位にあり,とくに25年1月、力による支配の
方針を表明した後,ファシズム体制を築いて独裁的な権力を掌握した。
ファシズム内の諸潮流の均衡の上に立って,その時々で大臣を交代させ
ながら,みずからは指導者として最高の地位を保持した。

1940年6月10日、イタリアはイギリス、フランスと開戦、同年9月27日に
日独伊3国同盟に調印してドイツと日本の密接な関係を確認した。その
後の1941年12月には日本とアメリカが戦争状態に入ったことを受けてア
メリカにも参戦するなど、日本とドイツと並ぶ枢軸国の一国として本格
的に参戦した。

しかし,敗色が濃くなると政・財・軍各界からの批判が高まり,43年7月24
日ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。

1945年4月に、連合国軍の進撃を避け敗走するドイツ軍とともに中立国の
スイスに脱出する途中、コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザ
ンに発見され、同月28日に銃殺された。

その死体は同行していた愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミ
ラノのロレート広場に逆さ釣りにしてさらされた。ムッソリーニの最期
は、死刑の通知をするレジスタンスに対し、「胸を撃て!」と叫んだとさ
れる。没年月日 1945年4月28日(満61歳没)

彼の死体が、公衆の前にさらしものにされたことを聞いたヒトラーは強
いショックを受け、自決の際に「彼のようになりたくない」と、自身の
死体をすみやかに焼却するよう部下に命じたと言われる。

ファシズムの創始者であることから、「世界で最も優れた写真家3人を
挙げよ」「ムッソリーニが現像し、ヒトラーが複写し、ゲッベルスが拡
大した」というジョークがある。2008・04・24

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び「世界大百
科事典」(平凡社)


2008年04月27日

◆「巴里だより」・屋根瓦の反響

                   岩本宏紀(在仏)
                (2008年4月21日 当メルマガ掲載)


・京都の女性
屋根・・うだつ・・四国の心意気を感じました。
(岩本:「卯建があがらない」はこの言葉が語源だそうですね)

・北海道出身の女性 
私は札幌で生まれ育ちました。
丘の上の我が家から毎日札幌の街の屋根を眺めて過ごした少女時代。
赤や緑や青のトタン屋根はかわいらしい風情です。

そんな私が東京へ来て、電車の中から見ていた明治神宮付近の屋根瓦の美しさに見とれたのを思い出します。
この古い家々はいつの頃か姿を消しました。
なくなってしまった途端、何の魅力もない風景が残り
ここを通過する楽しみはなくなりました。
屋根には物語が存在しています。

チュイルリー公園の観覧車からのパリの街。
私も次回パリを訪れるとき、是非観覧車に乗ってみましょう。
(岩本:色とりどりの屋根というのも、これまたよさそうですね、屋根の雪が落ちて、それでも地面は白という光景を想像すると。)

・元巴里、今は千葉の男性
チュイルリー公園の観覧車、懐かしいですね。
今から17年前も存在していたんですね。
私は、チュイルリー公園の観覧車には、乗った事が無いですが
昨年コンコルド広場で乗る機会がありました。
私は、高所恐怖症なので外の景色を眺める余裕はなかったです。
なので高所でも平気でいられる人達が羨ましいです。

それでは、私が2003年にオルセー美術館の屋上から
モンマルトル(サクレクール寺院)を撮った写真を参考に送ります。

(岩本:オルセーからの眺めもいいですよね)。

・元巴里、今は東京の男性
週末、金毘羅歌舞伎にでかけ海老蔵を堪能してきました。金丸座もなかなか趣があり、よかったです

折角でしたので、金毘羅参りもしてきましたが、奥社からみる町並みに おっしゃられる瓦屋根が拝見でき、素晴らしい景観にうっとりでした。

最近は地震対策で伝統的な瓦をやめ、軽い製品に変えられてる家が多いのは残念ですが、これも時代の流れ、やむを得ません。
南仏のオレンジカラーの屋根がそれにしても懐かしい。

(岩本:四国で海老蔵とは贅沢な旅行でしたね。歌舞伎のあとの日本家屋の
屋根鑑賞、これまたいい取り合せです。南仏の屋根と聞いてふと思いました。円筒を縦長に半分にしたあの形状は、太陽の熱の影響を抑えるためなのですね。表面積が広くなるので熱くならないのでしょう)。(完)

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<岩本さんのエッセー(反響の欄)で、「うだつが上がらない」という記述が出てくる。「うだつ」というのは、「へ」の字型の屋根を補強するために、屋根の両側から支える「垂直三角形の構造部分」のことだそうだ。

木造建築の家は、この「うだつ」で支えないと屋根は設える事が出来ない。つまり、この「うだつ」が上がらないとないと、新築の木造家は完成しないということなる訳だ。

そこから転じて、江戸時代からは「うだつ」を上げることが出来た者は、「出世者」の代名詞になった。庶民は長屋住まいだったから、「うだつ」を上げられた者は、勿論豪商に限られていた。

「うだつ」を上げる時は、匠、大工は勿論町中の人々が集まって、勢いのいい「よいしょ!」の掛け声を掛け合いながら、「うだつ」を引き上げる盛大な行事をしたらしい。「うだつ」が上がると祝宴となり、庶民もこれにあやかって町中が大騒ぎになつたそうだ。

だから、それをやれるだけの私財を持ちながら屋敷を作れない者に対しては、「うだつが上がらない男」と称されたらしい。

岩本さんのエッセー反響欄を拝読して、「うだつ」の由来とそれに纏わる話を綴ってみた。・・・・・・・毛馬 一三>

2008年04月26日

◆広島原爆500倍の放射能

渡部亮次郎

チェルノブイリ原子力発電所事故は、22年前の1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)にソビエト連邦(現 ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が起こした原子力事故。

4号炉はメルトダウンののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。

この規模の原発事故は前例がなく、世界の原子力開発で史上最悪の事故といわれている。

長期的な死者数は、事故の放射線被曝とガンや白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的見地から根拠のある数字というのは示されておらず、数百人とも数十万人とも言われる。

2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によると、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5千人が既に死亡した。ウクライナ国内(人口5千万)の国内被曝者総数342・7万人の内、作業員は86・9%が病気にかかっている。周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

当時、爆発した4号炉は休止中であった。原子炉が止まった際に備えた実験を行っていたところ、制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。この爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。

その放出量は莫大であり、かつて広島に投下された原子爆弾の500倍とも言われている。

当初、ソビエト連邦政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れこの事故を公表しなかった。そのため、何も知らない付近住民は避難もさせられないまま甚大な量の放射線をまともに浴びることになってしまった。

しかし翌4月27日、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所でこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソビエトも事故の公表に踏み切った。日本でも、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。

爆発後も火災は続き、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、核の火に赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソビエト政府によれば、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとされる。

死者はソビエト政府の発表では運転員・消防士合わせて31名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。

事故によりチェルノブイリ周辺は高濃度の放射性物質による汚染により居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われた。

ソ連の発表によると、事故から1ヶ月後に原発から30km以内に居住する約11万6千人すべてが移住したという。しかし、老人などの中には生まれた地を離れるのを望まなかった人もおり、このような一部の人は移住せずに生活を続けた。

爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、のべ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せっかん)と呼ばれている。

事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。

爆発事故による放射性物質による汚染は、付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアも多かった。

事故の原因については炉の特性による予期せぬ事態の発生と、作業員の不適切な対応が災いし、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。

当初ソビエト政府は、事故は運転員の操作ミスによるものとしたが、のちの調査結果などはこれを覆すものが多い。重要な安全装置の操作が、運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかっただろうと考えられる。

爆発時、炉心内部の放射性物質は推定10t前後大気中に放出され、北半球全域に拡散した。周辺地域の家畜に放射性物質が蓄積され、肉、ミルク等も汚染された。


日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため、政府は、日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きないという説明を行った。2008・04・23

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年04月25日

◆歌手小畑実の命日

渡部亮次郎

4月24日は朝鮮半島出身の演歌歌手小畑実の命日。2年前の原稿再掲。

戦前から甘く囁くような歌い方で大人気だった歌手小畑実(1923-1979)。
死後もファンクラブは解散せず、命日(4月24日)には必ず鎌倉の霊園で
偲ぶ会が開かれ、全国からファンが集まる。私のところにもCD8枚163
曲の全集がある。

朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌
手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会など
では出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身と
され、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩
の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太
郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

秋田県人として一言いうと、小畑というのは秋田県北部に多い姓で、そ
の昔、小畑勇二郎という知事がいた。しかし秋田県内で小畑実の幼い頃
を知る人はいなかったので、小畑を秋田県人と信じる人は少なかった。

小畑が東京で姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ
殺人被害者の小畑達夫その人である。事件は日本共産党の宮本顕治らが
起こした

昭和18年にビクターに移籍し、「婦系図の歌」(現在は「湯島の白梅」)
「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒット。勘太郎はやくざで戦時下なら
御法度なのだが、明治維新の協力者でもあったいう触れ込みで、吹き込
みが許可された経緯がある。

ところがこの勘太郎、稲垣浩という「無法松の一生」などで知られる映
画監督の愛称「イナカン」から作詞家の佐伯孝夫らが創作したもので、
実在の人物ではない。それなのに信州で勘太郎の墓発見などというガセ
ネタが流れたことがある。

戦後はテイチクからキングに入り、「長崎のザボン売り」「星影の小径」
などヒットを連発。長崎にザボン売りがいたわけじゃなく、作詞の石本
美由起が想像して作詞。それを江口夜詩が作曲してピアノの上に置いた
ら、弟子の小畑が「これ下さい」となって歌ったところ大ヒット。

横道にそれるが江口夜詩。(えぐち よし、本名江口源吾、1903年
(明治36年)7月1日 -1978年(昭和53年)12月8日)は、昭和期の作曲家。
長男は同じく作曲家の江口浩司(「下町の太陽」などの作曲者)

岐阜県上石津町(現・大垣市)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、
第1期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家
としての将来を嘱望された。

海軍省委託生として、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学
してチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を
仰ぎて』を完成させる。

(渡部註:海軍としては将来の軍楽隊指揮者と期待して東京音楽学校(現
在の東京芸術大学)に6年間通学させていたのに、江口は勝手に辞めてし
まった。妻を亡くしたことと無縁ではない。)

また、1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲
『挙国の歓喜』を発表した。

1931年(昭和6年)に海軍を退役し(実際は裏切って)、翌年、亡妻(よ
し子)をしのんで作曲した『忘られぬ花』が大ヒット。これを期にそれ
までクラシック作曲家を嘱望されていた江口は流行歌の作曲家の道を歩
むことになる。

その後『十九の春』、『秋の銀座』、『月月火水木金金』、『長崎のザ
ボン売り』、『憧れのハワイ航路』、『赤いランプの終列車』、『瓢箪
ブギ』など数々のヒット曲を生み出した。

生涯にわたる作曲数は4000曲を超え、古賀政男とは終生ライバル関係に
あった。

1963年(昭和38年)、パーキンソン病に冒され、長い間の闘病生活を余
儀なくされながら、1978年(昭和53年)12月8日死去。享年75。

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2008年04月24日

◆山田敬蔵が勝った日

渡部亮次郎

郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。

誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。2008・04・22

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年04月23日

◆両国高校脇の通り

                   渡部亮次郎

明治34年創立の府立3中を前身とする都内を代表する名門校、正門横には卒業生芥川龍之介の碑がある、といえば都立両国高校。拙宅から徒歩10分ぐらい。

「現役で大学進学」が目標として掲げられる。土曜授業の導入、多数の講習や特別編成授業の実施などが行なわれており、高い現役進学率を維持している。

この名門高校の横を走っている道路が「大門(おおもん)通り」と呼ばれる片側1車線の細い通り。遊里吉原(よしわら)の大門と嘗ての洲崎(すざき)パラダイスの大門を結んだ通りだったから。吉原はともかく洲崎は洲崎弁天町2丁目となってはいるものの面影はない。

昔の遊女。売春婦は昭和33(1958)年3月31日を限り売春防止法施行により消滅した事になっているが、そこはそれ、法律は厳しく制定し、取り締まりは緩いことが特徴の日本。誰も信じてはいない。

売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。

近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。

その5年後(1589年 天正17年)には、京都柳町に遊廓が作られた。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原(葦原)遊廓を設けた。

17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。

島原、新町、吉原が公許の3大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国に二十数カ所に公許の遊廓が存在し、各宿場にも飯盛女と言われる娼婦がいた。

敗戦翌年の1946年にGHQの指令により遊郭は廃止され赤線に看板を変えるが、これも1958年売春防止法の施行によりいったんは消滅した。

しかし、その後「トルコ風呂」という形で復活し、その後トルコ青年の抗議で業界団体がソープランドなどとして同じ地に続いているところもあり、旅館などの一部にも、わずかだが宿泊業務と別にいまだ同様のサービスをしている所もある。

戦後に存在していた東京近郊の赤線地帯。赤線を知らない人のため。
 
吉原
浅草の北に位置し、江戸時代の花魁(おいらん)の頃からの花街である。吉原大門という交差点の表示に、わずかばかりの名残が見受けられる。明治後期の大火、関東大震災、東京大空襲で灰塵に帰し、戦後は赤線区域に転落。現在も仲之町通り一帯は高級ソープ街として有名。
 
洲崎パラダイス
東西線の木場駅より、南方の川を渡った一画。洲崎弁天町2丁目。芝木好子の小説「洲崎パラダイス」でその名を知られた一大花街の名残は、一杯飲み屋などに見受けられる。街のはずれがすぐ、海だった頃の面影はもうない。
 
品川
京急北品川駅より、南方に旧東海道を下ったあたりに点在していた。戦時中に老舗の遊郭はすべて廃業。戦後は年増が多く、地味な存在であった。
 
柳新地
北千住の駅から荒川に沿って、日光街道を過ぎると大門通に出る。そこがかつての赤線であった。主に農村出身者相手の商売で、格は低かった。
 
新宿2丁目
新宿3丁目駅より御苑方面に向った一帯。料金は割高で女性のレベルも高い花街だった。廃業後はいつしか男娼が集まりだし、いまや国内最大の男娼街と化している。
 
亀戸
亀戸駅より蔵前橋通りへ抜け、横十間川に沿った亀戸天神の真裏。浅草にあった売春窟が関東大震災で移転。戦災で全焼後は地元民相手の商売に落ち着いた。
 
丸健
新小岩駅南口。松島3丁目の一帯。亀戸の売春窟が、空襲後に一部移転したもの。当時のこの付近は田園地帯だった。
 
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2008年04月22日

◆つつじとさつき

                   渡部亮次郎

今は都立猿江恩賜公園の躑躅(つつじ)の豪華さに酔っているが、これで
も20代の終わりごろ、三鷹で皐月(さつき)の盆栽作りに夢中になって
いたことがある。

当時は花の色香よりも木が曲がりくねって生長してゆく様に魅かれた。
花が終わったらすぐに剪定に係り、薬剤散布もちゃんとやらなければ油
虫が花の芯を食ってしまって咲くべき来春の花が咲かない。

だから忙しい政治記者の手には負えなくなって横浜の知り合いに全部く
れてやったが、彼は手入れをし過ぎてすべてを枯らしてしまった。水の
やりすぎによる根腐れ病を起こしたのかも知れない。

私に盆栽造りを奨めてくれたのは河野一郎氏の側に秘書官みたいにして
付いていた藤尾正行代議士(故人)。選挙区の栃木県鹿沼まで招待して
くれた上に何十鉢の皐月の盆栽を貰って下さったのである。

躑躅(ツツジ)の花には薔薇(バラ)や牡丹(ボタン)の花のような豪
華さはないが、庶民的で親しみのもてる可憐さがある。そのような点に
ひかれてか,古くから世界各地で多くの園芸品種が育成されている。

冬にも枯れない常緑性ツツジの園芸品種は日本,落葉性ツツジの園芸品
種はヨーロッパで育成されたものが多い。

日本で造られたツツジの園芸品種は、ケラマツツジからヒラドツツジ、
サタツツジが、ヤマツツジからキリシマやクルメツツジなどが、マルバ
サツキからサツキの各園芸品種が育成されているように,日本固有の野
生種を利用しての品種改良が行われてきた。

一方,ヨーロッパでは中国産、日本産やアメリカ産のジャコウツツジ,
カフカス産などから各園芸品種が改良されているように,他の地域から
導入されたツツジの野生種をもとに品種改良が行われている。

現在世界のツツジの園芸品種の総数は2000以上にのぼるものとみられ,
栽培が容易であるため庭園用,鉢植え用として広く利用されている。

今後,より耐寒性,耐暑性の品種,あるいは花色が黄色や青色のツツジ
園芸品種が育成されるならば,さらに利用されるようになるであろとい
う。

ヒラドツツジは長崎県平戸市の旧武家屋敷の裏庭に植栽されている大型
ツツジの中から選抜されたツツジとその近縁種の総称で,直径10cm前後
の大輪の花をつけ,葉や樹姿も大型となり,平戸市内にある古木では高
さ4m以上に達するものがある。

南九州から沖縄にかけて自生しているケラマツツジを母体に,モチツツ
ジやキシツツジ,リュウキュウツツジが自然交雑してできたものである。

花色は紅,紫,桃,白と多彩であり,早く育つので公園や街路植栽用に
よく利用されている。耐寒性が弱いので利用は西日本が中心になるが,
オオムラサキのような耐寒種もこの仲間に入る。

キリシマ R. obtusum Planch. は,小輪で濃紅色の花を数多く咲かせる。
枝がよく伸び背の高い樹姿となるので,公園などに植え込むとたいへん
美しい。

また,枝が伸びる性質を利用して,枝物として生花材料として利用され
ることも多い。鹿児島県の霧島山に自生するヤマツツジから江戸時代に
品種選抜されたもので,日本の園芸ツツジ栽培の草分けとなった品種で
ある。

クルメツツジは,キリシマと鹿児島県南部に自生するサタツツジを親に,
江戸時代末期に久留米で品種改良されたツツジである。小輪で多花性,
枝があまり伸びないのでコンパクトな樹型になり,花時には樹冠一面が
花でおおわれるようになる。

花色は赤,白,桃,紫,淡紫,絞りなどと多彩で非常に派手な色彩のツ
ツジであるため,公園や庭木としての利用が多い。大正年間にウィルソ
ン E.H. Wilson によってアメリカに導入されて以来,ヨーロッパ,アメ
リカでもクルメ・アザレアの名で広く利用されている。

ミヤマキリシマ R. kiusianum Makino は九州の1000m以上の高山にだけ
自生している極小型のツツジで,花の直径は2cm内外,枝は短くつまり,
ツツジ類中ではもっとも小型の部類に属する。

可憐な花型とコンパクトな樹姿から小盆栽として利用される場合が多い
が,耐寒性もあり庭木としても利用できる。ヨーロッパではダイヤモン
ド・アザレアとして近年注目をあびるようになっている。

リュウキュウツツジ R. mucronatum G. Don は日本に野生のあるキシツ
ツジとモチツツジの間の雑種性のツツジとみられる。たいへん丈夫で,
耐湿性,耐寒性があるため,江戸時代からリュウキュウツツジの名で栽
培されてきた。花色は白であるが,近縁種には淡紫のもの,絞りのもの
もある。

皐月(サツキ 陰暦5月のこと)はツツジの仲間であるが,江戸時代から
ツツジと区別されてきた。花型,樹姿にそれほど差はないが,花の時期
がサツキは5〜6月でツツジより際だって遅いのが特色で,サツキの名も
これにちなんでいる。

西日本各地に野生しているサツキと吐菓喇(とから)列島(九州南端から約
130キロ南にある火山島群)付近に野生しているマルバサツキの交雑によ
って品種ができたもの。

両親の形質が対照的であるため,サツキの園芸品種は変異の幅がたいへ
ん広く,サツキ愛好熱の高まる一つの理由になっている。

花色は紅紫,桃,白のほか,絞り花や底白花など,変化のおもしろ味が
あることや,樹姿,葉姿の均整がとれて美しいことから盆栽としてよく
利用されている。

また,刈込みにも耐える性質をもっていることから,庭園用樹としても
利用が盛んである。

ところでツツジの繁殖は一般に挿木による。常緑性ツツジはほぼ一年中
挿木できるが,地温が15〜20℃の季節がいちばん早く発根する。ツツジ
は陽光を好むので,日当りのよい場所に植えるのがよい。

水はけが悪いと根腐れを起こしやすい。酸性土壌を好むので,植え穴に
はピート,腐葉土などの有機質を多量に混入するのがよい。花芽は7〜8
月に分化するので,それ以後に刈り込むと翌年の花が咲かなくなる。

剪定(せんてい)は花後すぐに行うのがよい。肥料は油かすを株の周辺の
地表に置肥するのが安全で,化学肥料は根を傷めるおそれがある。ダニ,
グンバイムシなどの害虫や褐斑病の発生がよくみられるので,5月から9
月までは定期的に薬剤散布を行うとよい。

参考:平凡社『世界大百科事典』 2008・4・17


2008年04月20日

◆海千山千を知らないと

                   渡部亮次郎

外務大臣の秘書官だったとき、英語の通訳が「うみせん やません」の意味を知らなくて往生したことがある。この通訳はいわゆるキャリアでなった外交官だったが、「手練手管 てれんてくだ」も知らなかった。

なるほど灘高や東大はこんな言葉を知らない方が良いかもしれないが、外交の現場では困る。アメリカの外交官は何回も会っているうちに「うみせん やません」「てれん てくだ」を日本語で覚えてしまった。

「海千山千」とは蛇が山に千年、海に千年住むと龍になるというもの。そこから『広辞苑』の説明は「世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪な人」「――海千山千の事業家」と説明している。

通り一遍の説明をしないで有名な金田一京助まで遡る三省堂の国語辞典『新明解』は「あらゆる経験を積み、社会の表裏に通じていて悪賢い人」となっている。

また「手練手管」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。だが政界の寝業師から外務大臣になった園田直氏は褒め言葉と思っていて、言われて怒らなかった。

蛇が千年山で住むと海に降りて蛸になるという話は各地にあり、実際にヘビがタコに変身するところを見た、という目撃談も数多くあるらしい(4月だが1日では無い)。

この蛇が変身した蛸は足が8本ではなく7本しか無いと言われており、そのため、タコを捕まえて足が7本しかなかった場合、海に帰すという習慣が、かなりの地域に分布しているとか。

海千山千と似たものとしては「古狐」「古狸」の言葉もある。妖怪の類と見られることも多いが、年を経た狐はお稲荷様のお使いになるという説もあり、狐には蛇と同様の神聖な面も見られていたのでしょう。

英語にもold fox という言葉があるが、いい意味はあまりない。古狸については古狐以上に良くないイメージがあるが、日本では年を経た狸が、病気で動けない和尚に代ってお寺の勧進をして回ったという話もあり、狸の持つ親しみやすいイメージから、そういう方向も出てきたのかも知れない。
http://www.ffortune.net/symbol/12si/s06/mi02.htm

日本の政界では川島正次郎、大野伴睦、三木武吉といったような人たちはみな「海千山千」で「手練手管」に優れ「歴戦の勇士」といわれ、喜んでいた。

彼らから一時代遅れた田中角栄、保利茂、鈴木善幸、園田直といった人たちは、後から同じように言われて嬉しかったのだろう。実に官僚派に対抗して地位を固めるには海千山千と手練手管で行くしかなかっただろう。それが多少、ずるくても、軽蔑されても官僚を使いこなした。角栄は甘やかしたが。

今の政界には2世、3世は腐るほどいても、官僚を使いこなせる海千山千は与野党のどこにもいない。舐められっぱなしだ。文中敬称略 2008・04・18

2008年04月19日

◆憲政の神様の落選

                   渡部亮次郎

日本の国会議事堂に行けば、正面玄関ホールに尾崎行雄の胸像に会える。また振り向けば、道路を挟んだ向かい側に尾崎行雄記念館(憲政記念館)がある。あまりに昔の人だからか、会館は利用者が少なく、赤字だとの噂だ。

政治記者になれば当然、尾崎の胸像に面会し「憲政の神様」を改めて学ぶ事になるが、尾崎の政界引退が、吉田茂による「バカヤロー解散」による落選だったとは知らなかった。4月19日。今から55年前、1953年(昭和28年)の今日である。

尾崎行雄おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月 20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。

当時の三重県2区(宇治山田市、松阪市など)で定員4人のところ、前回より8000票も減り27,021票、6位で落選した。赫々たる憲政の実績は次第に忘れ去られていたのである。95歳では無理だった。

号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明治元年)に東京・番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。

その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学する。

しかし塾長の福沢諭吉に反抗して退学、1876年(明治9年)に工学寮(のち帝国大学工部大学、現・東京大学工学部)に再入学する。

1882年(明治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加、1890年(明治23年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。

その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。

1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。

その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

1903年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1914年(大正3年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。

だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して
政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。

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2008年04月18日

◆命の恩人高木兼寛

渡部亮次郎

脚気(かっけ)という病気は今日ではあまり例証の見られない病気だが、
私は15歳のときに罹り、死の寸前まで行った。ビタミンB1の注射を打ち
続けて下さった伊藤徳治郎先生(故人)が恩人だが、治療法そのものの発
見者高木兼寛が最大の恩人というべきだろう。

脚気は白米(玄米から胚芽=ビタミンB1を除去したもの)しか食べない
事によって起こる病気。抹消神経を冒して下肢の倦怠、知覚麻痺、右心
肥大、浮腫を来し、甚だしい場合は心不全により死亡する(広辞苑)。
江戸(東京)病とも呼ばれた。

吉村昭(故人)の力作『白い航跡』(講談社文庫)によれば、1904-05年
の日露戦争による日本側の陸軍の戦死者47,000人。傷病者352,700人中脚
気患者が実に211,600余名。

傷病者のうち結局死亡した者37,200余名だったが、この中に占める脚気
死者は27,800余名だった。「古今東西ノ戦役中 殆ト類例ヲ見サル」戦
慄すべき数であった

私の父方の祖父は日露戦争に出征し、ラッパ手だったが、運よく帰還。
家督を継いでいた兄が八郎潟で漁業中遭難していたため代わって家督を
相続。結果今日の私もあるわけだが、恐ろしい日露戦争時の脚気が43年
後に私を襲ったのである。

中学の野球部で投手、4番、主将だった。暗くなるまで練習。疲労困憊す
るから、帰宅後、砂糖を大量に舐める。疲労は瞬時にして回復、勉強に
切り替えていた。

ところが体内で砂糖が消化するためにはビタミンB1が必要。舐め続ける
とビタミンB1 欠乏症=脚気になることを私も親も知らなかった。夏休み
の野球合宿で打順を待っているとき、突然意識を失った。脚気が悪化し
心臓が悪くなって、死の寸前だった。

明治時代、その脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる人
が日本の海軍軍人、医学者で東京慈恵会医科大学の創設者高木 兼寛(た
かき かねひろ、嘉永2年9月15日(1849年10月30日)―大正9年(1920年)
4月13日)なのである。名前は「けんかん」と呼称されることもある。

薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎市、平成の大合併前の東
諸県郡高岡町)に生まれる。通称は藤四郎。18歳のときから薩摩藩蘭方
医の石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。

明治2年(1869年)、開成所洋学局(後の東大医学部)に入学し英語と西
洋医学を学ぶ。薩摩藩によって明治3年(1870年)鹿児島医学校が創設さ
れると彼は学生として入学したが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに
認められいきなり教授に任命された。

明治5年(1872年)、海軍医務行政の中央機関として創設された海軍軍医
寮(後の海軍省医務局)の幹部になった師、石神良策の推挙で1等軍医
副(中尉相当官)として海軍入り。海軍病院勤務の傍ら病院や軍医制度に
関する建議を多数行ない、この年に大軍医(大尉相当官)に昇進。

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