2011年08月08日

◆「日中」を渋った福田総理

渡部 亮次郎


私にとって8月15日の敗戦記念日と共に忘れ難いのは8月12日である。1978年のことだ。耳をつんざくような北京・釣魚台の迎賓館の蝉の合唱。その夜、人民大会堂での日中平和友好条約の署名式。

少し興奮したか、園田直外務大臣は自分の名前を大きく書きすぎて、相手の黄華外交部長が署名のスペースを捜して一瞬、戸惑ったのを私は見ていた。

互いに署名した条約書面を交換したあとシャンパンで乾杯したら、園田さんはグラスをぶつけすぎて、上着の右袖口がすっかり濡れてしまった。

「(締結できなかったら死ぬ覚悟で行くから)代えの洋服はもたないでくれ」と一張羅で来た。えぃ、ままよ。薄いグレイの右袖はシャンパンが次第に黒いしみのように広がっていった。

人民大会堂はこの6年前にも入っていた。1972年9月25日。梅原龍三郎描く「北京秋天」そのもの、それこそ抜けるよう名青空の下、北京空港に降り立ち、その夜には周恩来総理の歓迎宴に同行記者団80人も招かれて、人民大会堂なるどでかいビルでニクソン大統領は断わったという「海鼠の醤油煮」をご馳走になった。

記念写真で私の目の前に立った周恩来総理の頭はちじれっ毛だった。国全体を根底から揺すった紅衛兵による文化大革命はほぼ終息していたが、共産主義政権のマスコミ対処方針が変っていたので興味深かった。

<「近距離記者と遠距離記者があるんです」と説明されて日本側の記者一同は唖然とした。田中首相に同行する記者・カメラマンたちを集めての事前の説明会で、外務省報道課の担当官が言うのである。

記者・カメラマンを首脳に近寄れる範囲、4メートルが近距離記者とすると、遠距離記者は何メートルかい。それが20メートルなんですと、係官は言ったように記憶している。

近距離記者はしかも各社1人に限ると2度目のショック。3度目のショックは記者団機が首相機とは別で、首相機に同乗できるのも各社1人というのであった。

それから本当にびっくりしたのは、NHK政治部長はNHKを代表する近距離及び同乗記者に、それまで角福戦争の敗者・福田赳夫の担当記者だった私を指名した事であった。角さんとは話をしたことも無い。官房長官・二階堂進についても同様。また外相・大平正芳とも話を交わした事も無いから、ただ機内で3人を交互に監視しているしかなかった。

角さんに沈思黙考しろというのは無理だが、それにしても大平外相の沈黙ぶりは異常だった。中国との下交渉など知る由も無いから、どうしたのかな、ぐらいにしか考えなかった。

大平は台湾との訣別をどう処理するかを考えあぐんでいたのだと、後で知った。北京空港からわれわれは何台かのバスに揺られてホテルに入れられた。

首相たちはと言えば、迎賓館で面会謝絶だという。なんだ近距離も遠距離も無いじゃないかと毒づいてみたが、それっきり。>(ネットメディアおおさか「百家争鳴」)

このとき、かのとう小平は島流し中。日本からカネと技術を徴発しての工業、農業、国防、科学技術の近代化(四化)はまだ話題にもなっていなかった。毛沢東が存命中だから、文化大革命失敗で全権力の掌握は出来ていなくても、共産党内は原理原則派が中心をなしていた。

だから共同声明で謳った日中平和友好条約の締結もすぐに可能だと田中総理もそう理解して帰国したが、ソ連(当時)との接近を警戒する中国が、条約の中に「この条約は覇権を求めるものではない」と明記するよう要求し続けたため、6年間も締結できなかった。

福田内閣を作り、自ら官房長官に就任した園田直氏は岸信介元総理の差し金により総理官邸を1年で追われたが、何しろ福田密約内閣の密約当事者であってみれば、福田総理としては閣内No.2の外務大臣として処遇するしかなかった。

園田氏はその間の事情を世間に明らかにするわけに行かなかったので、懸案の日中条約の締結に自ら当たるためとのポーズをとった。しかし肝腎の福田総理は締結に消極的で、条約が出来ても園田に政府代表の資格をなかなか与えようとしなかった。

多分、この頃の福田総理は任期「2年」の密約を一方的に破ろうとしており、そのためには条約の締結という既成事実は「花道」として引退に結び付けられるのでは、と警戒したものであろう。

それはともかく、6年間も筋張っていた中国が「覇権条項」に見向きもせずに条約締結をさながら慌てるように急いだのは、現実主義者のとう小平の再度の復活があった。

園田氏が若い頃に結んだ廖承志氏のルートからは「園田さんが来てさえくれれば間違いなく締結する」とさえ言ってきたものだ。

今考えてみれば4つの近代化の課題に加えて経済の改革開放体制の実施のためには、日本の協力、特に莫大な資金と技術の導入は不可欠である以上、条文の区々たる文言に拘っている時間的余裕はなかったのだ。

しかし、福田総理に上がる在北京日本大使館の情報には残念ながら、そこまで突っ込んで分析した情報は皆無であった。

敗戦と共に日本は独立国家を目指すよりは、貧乏と戦争さえなければ幸せとでもいうインポテンツ国家に成り下がった。このため国家生存のための情報を収集する体制を捨ててしまった。外務官僚上がりの総理吉田茂が外務省からスパイ機能(人員)と予算を取り上げてしまったのである。

そこでわが外務省はアメリカからのいわば2次情報の分析ばかりやっているから、結果はどこかの絵描きと同じで、出来上がったものは「模写」ばかりである。

ソ連の崩壊と共に中国が「中華」に舵を切り替えて対日友好をとっくに捨ててしまったのに、未だに対中友好を推進しようと馬鹿の一つ覚えのような姿勢をとり、心ある人たちをして叩頭外交、属国外交と切歯扼腕させているのは、この「2次情報外交」にあるためである。

絵描きだけでなくジャーナリストと称する物書きも「引用」を続けていると、結果が「盗作」として結実するのとそっくりである。最近は大学教授にも多くなった。


2011年08月07日

◆秋田名物の恐怖・ボツリヌス

渡部 亮次郎

『秋田名物 八森鰰 男鹿(おが)で男鹿ぶりこ 能代春慶 檜山納豆 大館曲(まげ)わっぱ』というのが「秋田音頭」の出だしである。

その秋田名物に恐怖とは穏やかではないが、他郷の人にも美味と賞賛される名物「鰰鮓(はたはたずし)」に昔は「ボツリヌス菌食中毒」事件がつき物だった時代があった。

昭和30(1955)年代 にまだあった。5月に田植えをしていた一団が野良で昼食を済ませた夜、目を剥きながら戸板で次々に担がれて行くが、病院までの途中で悶絶。確実に死んだ。

前の年の師走に捕れた秋田名物の鰰を飯鮓にして保存。約半年後の田植えの時のご馳走に駆けつけた近所の老若男女に昼食に副えてふるまったわけだが、飯鮓は目に見えないボツリヌス菌で全面的に汚染されていたのだ。

ボツリヌス菌とは最近は生物兵器として話題に上る。記者になりたてのころは「青酸カリの2万倍の毒」と教育された。

ボツリヌス菌は世界中の土壌に広く分布しており、また、海や湖の泥の中にも存在する。缶詰やびん詰、真空包装食品など酸素が含まれていない環境下で増殖して、毒素を産生する。

特に飯鮓のように酸っぱくて密閉された状態を最も好んで増殖する。それがなぜ鰰にくっついているか。鰰が産卵する秋田海岸のヘドロに一杯いる。鰰を良く洗えばボツリヌス菌は落ちるわけだが、昔は水道が普及してない農村では、飲み水は近くの井戸で汲み上げ、天秤棒で担いで家に持ち込んでいた。だから貴重品。鰰洗いにもケチった。

しかも昔はボツリヌスなんて知らないから、黴菌がくっついているのも知らずに飯と塩で漬けて密閉するからボツリヌスにとっては天国なのである。最近は農村でも水道が普及したから鰰の飯鮓によるボツリヌス中毒は全く聞かれなくなった。

むしろこのような特徴を持った菌だから保存状態の悪いびん詰や外国産の真空パックされた魚の燻製、酢漬けや塩漬けなどから感染することもある。

日本では鰰鮓のほか、これまでに、自家製の野菜や果物のかん詰、輸入キャビア、自家製の魚の燻製、からしれんこん、ソフトチーズなどで発生例がある。

ボツリヌス菌に感染するとどうなるか。8〜36時間の潜伏時間の後に、吐き気、嘔吐、便秘などの症状が現れるが、特に倦怠感、脱力感、めまいといった症状を示すのが特徴。

症状が進むと、意識はしっかりしているのに二重に物が見えたり、言葉が出にくくなり、時には、おしっこが出なくなったり、歩けなくなったりすることも。

治療が遅れると呼吸困難などから死亡することもあり、恐ろしい細菌として知られている。

以下は出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボツリヌス菌(学名Clostridium botulinum)は、クロストリジウム属の細菌である。グラム陽性の大桿菌および偏性嫌気性菌。土の中に芽胞の形で広く存在する。菌は毒素の抗原性の違いによりA〜G型に分類され、ヒトに対する中毒はA,B,E,F型で起こる。

ボツリヌスの語源はラテン語のbotulus(腸詰め、ソーセージ)であり、19世紀のヨーロッパでソーセージやハムを食べた人の間に起こる食中毒であったためこの名がついた。1896年、ベルギーの医学者エミール・ヴァン・エルメンゲム(Emile van Ermengem)により発見・命名された。

ボツリヌス菌が作り出すボツリヌス毒素(ボツリヌストキシン)は毒性が非常に強く0.5kgで全人類を滅ぼす事が出来ると考えられていたため、生物兵器として研究開発が行われた。

炭疽菌を初めとする他の生物兵器同様、テロリストによる使用が懸念されている。

ボツリヌス毒素の致死量はヒトに対しA型毒素を注射した場合、、ボツリヌス毒素1gの殺傷力は約1000万人とも言われる。自然界に存在する毒素としては最強。

2006年12月8日、厚生労働省は飲料水による症例を世界で初めて確認した、と発表した。

ボツリヌス毒素は主に四肢の麻痺を引き起こす。重篤な場合は呼吸筋を麻痺させ死に至る。その他、複視・構音障害・排尿障害・発汗障害・喉の渇きがみられる。一方、発熱はほとんどなく、意識もはっきりしたままである。

ボツリヌス菌は芽胞となって高温に耐えることができるが、ボツリヌス毒素自体は加熱することで無害化する。A、B型菌を死滅させるには100℃で6時間、120℃で4分間の加熱が必要である。

しかし寿司は生で食べなきゃスシでなくなる。煮たり焼いたりしたスシは見たことが無い。

ボツリヌス毒素自体は100℃で1〜2分の加熱で破壊できる。このため、ボツリヌス菌による食中毒を防ぐには、食べる直前に食品を加熱することが効果的である。(しかし飯鮓の加熱は考えられない)。

中毒になった場合、毒素の中和剤はウマ血清しかない。(ただし、乳児ボツリヌス症では致死率が低いこともあり、一般的に使われない)ワクチンは研究者用にボツリヌストキソイドが開発されているが、中毒になってから用いても効果がない。 また、米国においてボツリヌス免疫グロブリンが開発されている。

日本では、いずしなどのなれずし、きりこみなどによる中毒が北海道・東北地方を中心に報告されている(E型による)。

1984年、熊本県で製造された真空パックの辛子蓮根を食べた36人(1都12県)がボツリヌス菌(A形)に感染し、内11名が死亡した。

原料のレンコンを加工する際に滅菌処理を怠り、なおかつ真空パックし常温で保管流通させたために、土の中に繁殖する嫌気性のボツリヌス菌がパック内で繁殖したことが判明した。

2006年12月8日厚生労働省は、井戸水の飲用から宮城県の0歳男児に乳児ボツリヌス症が発症したと発表。同省によれば、飲料水による同症が確認されたのは世界で初めてとのこと。

1995年、イラクにおいて20,000リットルのボツリヌス毒素が見つかり、廃棄された。

オウム真理教(現アーレフ)も研究していた。1993年に東京・亀戸の新東京総本部(登記上の主たる事務所)で発生した悪臭騒動の原因とされる。

2006年7月12日、警察庁と産業技術総合研究所とでボツリヌス毒素を10分で検出する方法を共同開発した。(従来の方法では1-4日を要した。)新技術は糖とボツリヌス毒素を結合させ、レーザーで検出する。

2011年08月06日

◆カギの隠れたニュース

渡部 亮次郎

菅首相の進退を占うキーワードは「左翼との繋がり」であって「単なる我欲」ではない。それを無視して取材していても間違いを繰り返すだけだ。菅は我欲でしがみついているのではない。世界の左翼からの指図に従ってしがみついているのだ。岡田幹事長やマスコミは勘違いをしている。

東北の県境の町では子供2人殺し事件で町の評判はガタ落ち。そこで風評だから新聞やテレビは表には出さないが、地元の人たちは初めから「商売」の邪魔だから娘も殺したべ、と言い合っていたようだ。

んだ、警察も客だったんじゃねが。んだがら事件を事故にして封印しようとしたのだべ。なんたて、玄関におどごの靴あったら、家さ入って来るな、といわれていて、夜でも外で待っている幼い娘。気の毒でみていられねがったな。

「商売」の事件のキーワード(かぎ)は「売春」。「次々に男をくわえ込んで自宅に連れ込むんだもの、娘は邪魔になる。まして別れた亭主とのこどもだもの、可愛くないときだってあるべさ」となれば殺人の動機は露呈していた。

だが、人々は見て見ぬふり。集落同士ならいくらでも喋るが、それ以外のマスコミや警察からは尋ねられても絶対語らない。都会での捜査とは違った壁に阻まれるわけだ。住んで見なければ理解できない。

そこで手馴れた記者なら記者は一種の「色めがね」を被せて考える。この場合はキーワード。直訳すれば「鍵となる言葉」だ。この事件の場合は、犯人が実は売春をしていたのではないかとの疑いで言動を洗いなおすことである。

関西で若い男が小学校に刃物を持って侵入し、何人もの児童を殺傷する事件があった。東京の感覚では、精神異常を疑るが、関西ではいわれなき「被差別」を疑う。だが口は絶対つぐむ。昔、部落出身を理由に入学を拒否されたことへの仕返しだった、

ニュースには絶対「被差別」は出ないまま犯人は望んで刑死を早めた。被差別を知らない人には未だに不可解なニュースであった。

金大中事件の政治決着を田中政権がなぜ急いだか。これは証拠はないが大統領の犯罪に違いない。だとすれば現金で決着を図るだろうと大阪で見ていたら、その通りになった。あれこれ法律や正義や面子を持ち出して騒ぐと、韓国の政権そのものが危態に瀕する。

そこでこの事件のキーワードは「現ナマ」。日本で生まれて財を成し、朴政権の財布と言われていた在日韓国人が用立てたのだ。

現ナマの紙袋は2つあり「一つは奥さんに」といったら総理は「そうだ、1つは外務大臣にだな」と答えた。これを知っているものといないものとでは、解説記事に雲泥の差が出る。

取材に当たって、こういうメガネを何枚も用意して政治家を観測しろと教えてくれたのは若い頃の島桂次記者(のちにNHK会長・故人)である。「角栄が福田に勝つものは学識ではない。それは現ナマと人情だけだ。そうやって個々の政治家を洗ってみろ。結論はすぐ出る」。確かにその通りだった。

福田康夫は安倍の対立候補たりうるか。識見が邪魔して立てない。康夫さんと私は福田内閣で大臣秘書官同士で働いた仲だから、他人よりは康夫さんを分かる。彼は元から立つ気は無いのだと判断できた。

この際のキーワードは「面子」である。なるほど中国、韓国との関係で靖国参拝不要の主張はインテリの自分としてはいまさら翻すことはできない。しかし、だからと言って反安倍勢力に乗り、森派を割って出ても勝ち目があるか。

ない。だから出ない。初めから決まっていた話だ。だから「私が出ると言いましたか」との科白も予測できたのである。マスコミは証拠もなしに「出るだろう」と決め、終いには外国に行くことが決意の証拠などとワケの分らぬことを流して、読者、視聴者をだました。

福田康夫の性癖、置かれた立場、旧田中派への支援要請の屈辱等々を考慮すれば、立候補の可能性は初めからゼロである。しかも勝てない勝負は絶対しないという知識人としての含羞がある。ムードや煽てに乗るようなバンカラでもない。立つといいましたかは決まっていたのだ。

先輩は「政界一寸先は闇」という嘗ての副総裁川島正次郎の言葉を引いて諌めてくださる。その通りだが、だからと言ってどこかのTV局のように「不透明」を連発していたのでは、オアシを取れない。

う。つまり色眼鏡をいくつも用意して、流動的に変化する人心の中に必ず存在する「原則」を掴み取れと諭しているのではないか。

それにしても○○とぼかした記事の如何に多いことか。○が多くなると○○は却って顕在化するのが原則だ。触ってはいけないから○○にするのでは○○は更に多くなってゆくだろう。読者や視聴者は自分でカギを持たなければ分らないニュースだらけの世の中だ。(文中敬称略)


2011年08月05日

◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。今から60年前の高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。NHKラジオ第1放送「歌の日曜散歩」で声の綺麗な女性キャスター坪郷さんが「便り」を読み上げて、そのように伝えていた。

つまり便りを寄せた聴取者が詩の解釈を間違えたまま投書したのに、坪郷さんがそのまま放送していたのである。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。

そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、異郷で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

秋風の立つとともに「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

他人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。

それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。

西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(一文は麻生総理大臣とは無関係)


2011年08月03日

◆小沢氏、内閣不信任案再提出の意向

渡部 亮次郎

堪忍袋の緒が切れた?

何時までも居座ろうとする菅首相を斬るには、慣例を破ってでも内閣不信任案を再提出する意向を民主党内で元代表の小沢氏が固めたと3日付の産経新聞が1面トップ4段抜きで報じた。

面妖なことに、新聞ではこう報じながらWebではなかなか報じず、私をやきもきさせた。江澤民死去と誤報したばかりの産経。自信を失っているのかなと危ぶんだが、午前10時を過ぎてようやくWebにも出した。この通りなら民主党は遠からず分裂し、政界再編成が始まる。

<民主党の小沢一郎元代表が、8月31日の会期末までに衆院に内閣不信任決議案を提出する意向を固めたことが2日分かった。複数の小沢氏周辺が明らかにした。

同一国会に同一議案を再提出できない「一事不再議」の慣例があり、自民、公明両党が再提出に慎重なため、衆院会派「民主党・無所属クラブ」による提出を目指す。

党執行部が発議に難色を示したならば、小沢氏は新党・新会派結成を視野に賛同者を募る構えだ。

周辺によると、小沢氏は8月中旬までは岡田克也幹事長ら党執行部による菅直人首相退陣を促す動きを見守る構え。それでも首相が退陣を拒めば、小沢氏自らが党執行部に不信任案提出を促す考えだという。

党執行部が提出に難色を示した場合、不信任案の発議に必要な50人以上の賛同者を集めて提出に踏み切る方針。衆院事務局は慣例を理由に会派代表の民主党幹事長の承認が得られなければ受理しない公算が大きいが、その場合は新党・新会派を結成して不信任案を提出する算段だとされる。

不信任案に関し、小沢氏は7月28日の記者会見で「不信任案は提出者と理由が違えば一事不再議に反するものではない。首相が辞めないのならば民主党議員全員が深刻に考え、決断すべきだ」と述べ、民主党・無所属クラブによる再提出に含みを残した。

首相は平成23年度第2次補正予算、特例公債法案、再生エネルギー特別措置法案の成立を「退陣3条件」に掲げながら辞任時期を明言しておらず、与野党には「3条件をクリアしても居座る腹づもりではないか」との不信感が強い。

これが特例公債法案と再生エネルギー特措法案の成立の障害となっており、岡田氏らによる自発的な退陣を促す作戦は手詰まり感がある。

小沢氏は「首相を退陣させるには不信任案しかない」と周囲に説き続けており、会期内決着への決意は固いという。>
産経ニュース 2011.8.3 10:08


◆卒中予防のために

渡部 亮次郎

脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。梗塞の実態と対策への無関心の結果である。あらゆる病気が人類をねらっていると考え、地策を講じておくべきだ。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血
脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧があがった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。佐藤栄作夫人、高峰三枝子さんら。頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞
動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄、長嶋茂雄氏ら。

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血
脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状とも考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験した。

高血圧性脳症
高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。今年になって新薬が許可になったが処方は1年間は2週間が限度なので、私はまだ使用していない。来年4月から処方期間が延びるのに期待しいている。

ワーファリンは納豆、コロレラなどビタミンKを多量に含むものによって効果が減殺されるから、納豆の好きな人は堪える。小生は東北生まれなのに納豆好きでは無いので助かっている。

果たしてワーファリンが効いているか否か。毎月1回、採血して調べる。平成23年8月1日は、その日だった。結果はOK。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はワーファリンを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射できなかった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。近くの都立墨東病院に決めてもいいらしい。2011・8・1


2011年07月31日

◆岸の安倍狂い 福田の自分狂い

渡部 亮次郎

国家の進路には命を張った岸信介だったが、娘婿安倍晋太郎の出世のことになると、なりふり構わなかった。

それを評して世間は「岸の安倍狂い、福田の自分狂い」と言った。総理大臣を辞任した時の岸はまだ63歳。当初は復活の野心がなかったわけじゃないが、実弟の佐藤栄作が総理になったあたりから女婿の安倍晋太郎を「総理にする」ことばかりに奔走した。

引き換えて子分の福田赳夫氏は自分の出世しか考えなかったので「福田は自分狂い」と言う不名誉な評が残った。

古手の政治記者なら知っていることだそうだが、福田の周りにいた私には却って聞こえて来なかった。同僚だった前田一郎さん(元NHK解説委員)に最近、教わった。

なるほど、例のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にも出ている。

<(岸は)晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。>

私が外相時代に秘書官を勤めた園田直について岸は自民党にいる2人の秘密共産党員の1人と決めつけ、国対委員長、官房長官、外務大臣と進む都度、追放を仕掛け、その後を安倍晋太郎に襲わせることに成功した。

実は知り合いのノンフィクション作家塩田潮の取材にに協力をした故を以て、ご労作『昭和の怪物 岸信介の真実』ワック?刊を送っていただ
いた。

岸については、その晩年の何年か、東京・内幸町の日石本社(現新日本石油)の3階にあった岸事務所を定期的に訪ねて、時々の政局に対する「見識」を拝聴したものだが、詳しくは「研究」しないまま今日に至っ
た。

だから、この本によって初めて知る事は多かった。以下、ウィキペディアも参照。
 
1)元士族(武士)の家柄。信介は山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第5児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。3歳のころ一家は田布施に帰郷し造り酒屋を営む。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。

実家の佐藤家について、自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、特に曽祖父・信寛の威光がまだ輝いておったのである。

また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった」と述べている。

長兄市郎は海軍中将。岸より6歳年下の栄作は親戚佐藤寛子(ひろこ)家に入り婿。佐藤家から佐藤家に行ったので実家を継いだものと誤解されるが、岸も佐藤も養子だ。

2)旧制岡山中学、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)、第一高等学校 (旧制)を経て、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。 

3)高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。帝国大学では彼らの在学中に銀時計下賜を廃止しているため、正確な席次は不明。

岸は憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧める一方で、周囲は大蔵省や内務省に入ることを期待。岸は官界へ進み、敢えて農商務省を選択した。

4)多くの異名を持った事でも知られる。旧満州国での官僚時代、軍部・財界の実力者であった東條英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右らと共に、満州の「2キ3スケ」と綽名され、総理辞任後の晩年は、なお政財界に隠然たる影響力を有した事から、「昭和の妖怪」(元々は西園寺公望の綽名)などと称された。

 5)1944年7月13日には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條に対して、既に岡田啓介元総理らと気脈を通じていた現職閣僚(国務大臣。代議士は辞任)の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職に追い込んだ。

東條の側近である四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、「叩き斬ってやる!!」と恫喝するも岸は折れなかった。やむなく東條は、7月18日内閣総辞職を決意した。

6)戦争犯罪容疑で逮捕拘留されたが、岸は戦犯不起訴となり、東條ら7名の処刑の翌日(1948年12月24日)に釈放された。東條への抵抗を評価されたとの説、アメリカ自身の占領政策の変更説あり、確定的な説はない。
 
7)1953年(昭和28年)に自由党公認候補として衆議院選挙に当選。1954年(昭和29年)吉田茂により自由党を除名されると、新たに日本民主党を結成し幹事長に就任。

かねて2大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955(昭和30)年に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。

8)1956(昭和31)年12月、外務大臣として石橋湛山内閣に入閣するが、2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。石橋により後継首班に指名され、石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。

頭脳の良さは記憶力、判断力の良さに止まらず、事務的処理能力においても飛びぬけていた。加えて度胸の据わったところ。派閥が自然に常に出来た。

娘洋子の婿には官僚ではなく新聞記者を希望。友人の紹介で毎日新聞記者の安倍晋太郎を知ったが、安倍は旧友の息子でもあったので話は急展開した。この夫婦に出来た3人の男の子のうちの次男が安倍総理である。三男信夫が岸家の養嗣子となった。岸の長男信和に子がないため。

9)1960年(昭和35年)6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診されていた防衛庁長官・赤城宗徳がこれを拒否した。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考える所まで追いつめられたが、条約の自動承認と、アイゼンハワー米大統領の訪日延期が決定。

「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の1960年6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。

 10)「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と言うのが岸の口癖、何度か聞かされた」。(元共同通信社常務理事古澤襄)

岸は妖怪なんかではないが、怪物ではあった。以後、これほどの政治家を大和民族は持てなかった。安保騒動で総辞職を余儀なくされたのは返す返すも残念であった。河野一郎とは初めは良かったが政権の途中から不倶戴天(ともに天を戴かず)の敵となった。

岸は安倍に夢を託したまま1987年8月7日に逝去。しかし安倍晋太郎も4年後には無冠のまま逝去。2006年になって孫が政権の座に着いた。岸も晋太郎も予想していただろうか。(文中敬称略)


2011年07月30日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎

私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。

支那事変の始まったのは小生の誕生1年後の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて胡瓜畑に隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は

<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。

これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。(再掲)

2011年07月20日

◆秋田弁「どぶできゃし」菅首相

渡部 亮次郎

菅首相の国会答弁を19日午後。TVで初めて見た。北朝鮮と極めて近い政治団体に民主党が2億円以上もの献金をしていた問題。ここ1週間、産経新聞だけが執拗に報道してきた。

それをこの日の衆院予算委員会で自民党の古屋圭司氏がパネルなど様々な小道具を使いながら、それこそ執拗に追究した。

しかし、菅首相は、その資金を使って三鷹市会銀選挙に立候補(落選)した男が日航機ハイジャック事件の主犯を父とし、日本人拉致事件の犯人を母とする人物であった事は、全く知らなかった、と逃げた。

しかも政府の拉致問題の最高責任者として、この事実を謝罪せよ、という古屋氏の度重なる要求に対しても謝罪せず、古屋氏の質問時間切れを待って逃げ切った。

TVを良くご覧になる読者の方々は菅について、予ねて「質問に正面から応えない」「言い訳ばかりする」といった非難が寄せられていたが、初めて、そのことを自ら確認した次第。

またなでしこジャパンについて訊かれたのに、趣旨を摩り替えて、「退任拒否」を表明するとは、恐れいった神経。こういうのをわが郷里秋田では「どぶできゃし」というのを思い出した。東京弁では「ずるしゃもん」か。

目的の為には、言い分をコロコロ変え、前言を翻し、嘘を吐(つ)き、言い訳をくりかえし平然と逃げ回る卑怯でずるい奴のことを言う言葉だ。

わが田舎で、このレッテルを貼られたら少なくとも村会議員には当選しない。

本当にずるい人間を首相に戴く不幸を味わう。「宰相不幸時代」だね。


<菅首相 「私も諦めないで頑張る」なでしこ優勝で答弁

菅直人首相は19日午前の衆院予算委員会で、サッカー女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会での日本代表の優勝に関連し「私もやるべきことがある限りは、諦めないで頑張らなければならないと感じた」と述べ、政権運営への意欲を重ねて示した。自民党の小池百合子氏への答弁。

また、民主党の近藤洋介氏が同党内でも退陣を求める動きがあることに触れて心境を尋ねたところ、首相は「(東京電力福島第1)原発事故に対しても、今日(収束に向けた)ステップ1の段階がほぼ予定通り終了し、一定の収束の方向が見えてきた」と実績を強調。

退陣時期については「6月2日の(民主党)代議士会で申し上げた考え方は一切変わっていない」と述べ、震災復興に一定のめどが付いた段階の若い世代に責任を引き継ぐ考えに変わりないことを示すにとどめた。>毎日新聞 7月19日(火)11時20分配信


2011年07月18日

◆北国に復興の息吹なし

渡部 亮次郎

機会を得て、7月16日、岩手県の陸前高田市と大船渡市の被災地を視察した。言葉を失い、茫然自失が真相だった。特に陸前高田は、巨人一撫でされたように街がすべて消滅したいた。

歌手千昌夫のホテルのように鉄筋コンクリートの建物は、外側は残っていても中がすべて荒れて、もはや使い物にならない。

大船渡も大同小異。街の海岸沿いは死の街。道路は開通しているが、街の在った道の両側は瓦礫と壊れた車の山である。復旧は全く不可能、復興を口に出しては見るが、完成したイメージが全く涌いてこない。

両市に共通なのは復興への動きが全く見えてこないことである。行政の詳しい事は知らないが、菅首相がいくら口で色々言っても、「政府が何か手をくだした」という証拠は何処にも発見できなかった。

仮設住宅を建てようにも、陸前高田市には小高い丘は存在しない。次の津波がやってきても両市は復興してないかもしれない。


2011年07月17日

◆脚気根絶の恩人高木兼寛

渡部 亮次郎

夏が本格的になると、野球部の合宿中、心臓脚気のため、グラウンドで卒倒した中学3年の夏を思い出す。脚気はビタミンB1の不足から起こり、やがて心臓にも及び、手当てが遅れれば、失明することが判ってい
る。

しかし、明治年代、ドイツ留学も果たし、日本陸軍医総監として医学界トップにあった森林太郎(文豪:森鴎外)が「栄養説」そのものに反対し主唱者で、後に医学博士第1号となる、高木兼寛(慈恵会医大創設者)をいじめぬいたことを知る人は少ない。

実は明治天皇と皇后陛下は脚気を高木による栄養指導で全快させた。そのため両陛下は高木を4回も宮中に招かれ、高木は陪食を賜った。しかし森は一度も召されなかった。

だから森は死の床で述べた遺言で「死後、宮中から如何なる沙汰があっても拝辞せよ」と述べた。勲章の追贈などがあっても断れ、というわけである。後の文学研究者たちは、これを「謎」と考えた。

しかし「脚気」に関する高木いじめを知れば、森の遺言は「恨み、つらみ」だったことは明確である。森は文学では「文豪」となったが、ライバルをいじめ、医学上も「試論」を許さなかった心の狭さを知れば、どうかと思わせる人物だったように思う。

今度の東日本大震災で名が知られた岩手県田野畑村。ここに通い詰めた作家吉村昭は「白い航跡 上・下 講談社文庫」で事実を喝破下が森非難はしていない。「鴎外の歴史小説に深い畏敬の念を抱く私は、医学者としての思わぬ森林太郎の動きを知り、誠に興味深かった」と述べている。
さすがだ。

蛇足だが、私の脚気は砂糖の摂り過ぎが原因だった。野球による疲労回復には生の砂糖が特効薬。しかし、砂糖の消化には大量のビタミンB1が不可欠。遂に脚気になったわけ。担任の先生の素人注射で快癒した。

高木兼寛を「ウィキペディア」から紹介するにとどめる。叙爵の無いのを恨んで死んだ森とは対照的な人物だったようだ。

<高木 兼寛(たかぎ かねひろ、嘉永2年9月15日(1849年10月30日) - 大正9年(1920年)4月13日)は日本の海軍軍人、医学者。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。「けんかん」とも呼称される(有職読み)。当時なじみの薄かったカレーをかっけの予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。

薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎県宮崎市、昭和の大合併前の東諸県郡穆佐村、昭和の大合併後から平成の大合併前までは東諸県郡高岡町)に生まれる。通称は藤四郎。

18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年(1869年)、開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学ぶ。明治3(1870)年、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学するが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された。


軍医少監(少佐相当官)であった明治8(1875)年、当時の海軍病院学舎(後に海軍医務局学舎を経て海軍軍医学校となる)教官の英国海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校英国聖トーマス病院医学校に留学。

在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し明治13(1880)年帰国。 明治18(1885)年には海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任した。

明治21(1888)年日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与された。さらに日露戦争で麦飯の有効性が注目されていた明治38(1905)年には、華族に列せられて男爵位を授けられた。

この時、人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられる(死去の直後に従二位の位と勲一等旭日大綬章が追贈された)。

明治25(1892)年予備役となったが、その後も「東京慈恵医院」「東京病院」等で臨床に立ちつつ、貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職に就いた。長男は医学者の高木喜寛、次男は医学者の高木兼二。

彼は日本の医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色で学理第一・研究優先になっているのを憂い、英国から帰国後の明治14(1881)年、前年に廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵らと共に、臨床第一の英国医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。

当時講習所は夜間医学塾の形式で、講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。成医会講習所は明治18(1885)年には第1回の卒業生(7名)を送り出し、明治22(1889)年には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。

さらに明治15(1882)年には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立、院長には当時の上官である戸塚文海海軍医務局長を迎え自らは副院長となった。

そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17(1884)年移転、明治20(1887)年には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。

一方、ナイチンゲール看護学校を擁する聖トーマス病院で学んだ経験から、医療における看護の重要性を認識し、その担い手となる看護婦の育成教育にも力を尽くした。

陸軍卿大山巌夫人捨松ら「婦人慈善会」(鹿鳴館のバザーで知られる)の後援もあって、明治18(1885)年日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立し米国宣教師リードらによる看護教育を開始。明治2(1888)年には昭憲皇太后臨席のもと第1回卒業生5名を送り出した。

この3つはそれぞれ後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。

当時軍隊内部で流行していた脚気について海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決にとりくみ、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気発生率が1883(明治16)年23.1%、1884年12.7%、1885年以降1%未満と激減した(詳細は「日本の脚気史」を参照のこと)。

1885(明治18)年3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。

このため、東京大学医学部から次々に批判された。とくに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の説は、机上の空論であることが実証された。

その大沢からの反論に対し、高木は反論できず、海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。のちに高木は「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁(はんばく)の声であった」と述懐している。

当時の医学界の常識としては、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。このように高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることができなかった。

一説には、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまったのではないかとの見解もある。

しかし現実には、高木とその後任者たちのような薩摩閥ではなく、東京大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局長になった1915(大正4)年12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。

脚気患者が増えたためであり、1928(昭和3)年1,153人、日中戦争が勃発した1937(昭和12)年から1941(昭和16)年まで1,000人を下まわることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)であった)。

一説には、その理由として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、たんぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰がくずれたこと、脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになったこと(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)、などが原因とする見解もある。

麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上にビタミンの発見があった。

南極大陸の南緯65度33分・西経64度14分に"Takaki Promontory"すなわち「高木岬」という岬があるが、これは彼の名にちなんで付けられた地名である。日本人で南極大陸の岬の名前になった人物は高木兼?だけである。


2011年07月14日

◆菅はやはり革命家

渡部 亮次郎

菅首相の新左翼への出鱈目な献金が産経出報じられ、遂に13日には、そのカネが民主党に交付された国税からなされたようだと報じた。酷くないかい、菅クン。舐めたらあかんぜよ。

革命家菅 直人。「任期中は一定期間内の独裁者」というのは本音だった。独裁者は反革命で殺されるまで辞めないものだ。菅のしがみつきは単なる未練で派内のだ。革命が成就した以上、辞めるなんてあり得ないのだ。

<菅直人首相の資金管理団体「草志会」が日本人拉致事件容疑者親族の周辺団体に献金していた問題で、献金の“原資”は民主党本部から供給された格好になっていたことが12日、明らかになった。

草志会から献金を受けた政治団体「政権交代をめざす市民の会」や、拉致事件容疑者の長男(28)が所属する政治団体「市民の党」はどのような組織なのか。後者の代表者の発言からは、学生運動以来消えることのない「革命への情熱」が浮かび上がる。

「僕は、革命のために選挙をやっている」「目的は革命なんだから、最終的には中央権力を変えなければならない。だけど革命派が強い拠点地域を作っていくことは重要です」

平成16年の季刊誌「理戦」の対談記事で、市民の党の酒井剛代表はこう語っている。

記事や関係者によると、酒井氏は上智大学在籍時代に学生運動に参加し、「日本学生戦線」を組織した。昭和57年、田英夫・元社民連代表(故人)や宇都宮徳馬・元衆院議員(同)らと政治団体「MPD・平和と民主運動」を立ち上げ、平成8年に市民の党を結成。「斎藤まさし」の名で各地の選挙運動を手掛け、「無党派選挙のプロ」などと呼ばれている。か
つては田氏の娘婿だったという。

市民の党について公安関係者は「セクトに所属していないさまざまな左派、元活動家が集まった団体」との認識を示した。

酒井氏は産経新聞の取材に菅首相との関係について、「彼が国会議員になる前から知っている。田英夫さんからの紹介。30年ぐらい前、彼が4度目でやっと初当選した選挙も応援していた。ずっとケンカしながら一緒にやってきている」と述べている。

一方、めざす会は酒井代表の呼びかけで、民主党衆院議員候補を選挙支援するため平成18年に結成。代表の奈良握(にぎる)氏は市民の党出身で、同党に毎年約150万円を個人献金するなど関係は密接だ。奈良氏は今月10日投開票の神奈川県厚木市議選で7選を果たしている。>
産経ニュース 2011.7.13 11:11


2011年07月12日

◆後任いない菅、三木似の強み

渡部 亮次郎

「君ら、僕にやめろというが、僕がやめたと君らのうち、どっちがやるか決っているンかい」と三木に言われたギャフンとなった福田赳夫と大平正芳。後任の決まっていないことをいいことに居座りの長期化をねらう菅首相を見ていると、つい「三木降し」が昨日のことのように甦る。

但し、当時はまだ大阪でデスク稼業中。「ウィキ」のお世話になります。

1975年から1976年にかけ起こった、三木武夫内閣総理大臣の退陣を狙って自由民主党内の倒閣運動を「三木降ろし」という。1976年前半の動きを「第一次三木おろし」、1976年後半以降の動きを「第二次三木おろし」ということもある。

アメリカの航空機会社「ロッキード」社が、日本への旅客機売り込みのために田中角栄前首相ら日本の政界に多額の工作資金をばら撒いた「ロッキード事件」。

発事件覚後、三木は「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」との態度を表明し、予算委員長の荒舩清十郎を後押しして1976年2月16日、事件関係者として小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅社長の檜山広等の証人喚問と、病床にあった児玉誉士夫を病院で尋問を実現、その全容を明らかにした。

しかし、この三木の姿勢に対し、自民党内部の反発と怨念をかもし出し、こうした中、三木政権生みの親である椎名悦三郎は、「はしゃぎすぎ」と発言し、三木退陣工作を勧める。これが、いわゆる「第一次三木おろし」である。

この動きに対してマスコミ、世論が「ロッキード隠し」と批判を強め、これを受け一旦は「第一次三木おろし」が収まった。

しかし、同年7月27日の田中角栄の逮捕で再び、三木おろしの動きが活発化していく。田中角栄が8月17日に保釈されると、8月19日には反主流6派(田中派・大平派・福田派・船田派・水田派・椎名派)が中心となって自民党議員277人で挙党体制確立協議会(挙党協)を結成し、代表世話人に船田中元衆議院議長が就任、「第二次三木おろし」が始まる。

挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。挙党協は反三木では一致していたが、三木退陣後の次期首相擁立について福田赳夫か大平正芳の二人のどちらかに絞りきれていない脆さが存在していた。

三木は「ロッキード事件解明」という世論の支持を背景に衆議院解散とこれに反対するであろう閣僚の罷免をちらつかせて対抗を図る。臨時国会召集を決める1976年9月10日の閣議で三木は会期冒頭での衆議院解散を諮ったが、挙党協に参加している15閣僚は解散署名に拒否する姿勢を示す。

三木は閣僚を罷免してまで解散権を行使することはなく、9月15日に内閣改造と自民党役員人事の刷新を行い、派閥の領袖である福田・大平以外の13閣僚を交代させた。

最終的に三木は挙党協の攻勢をしのぎきったが、臨時国会の閉幕と共に挙党協から次期総理・総裁候補に推挙された福田が閣内から去る。

12月に行われた日本国憲法下では初の任期満了による総選挙では、挙党協議員は自民党公認を受けながら、党本部とは別に選対本部を設置し、自民党分裂選挙の様相を見せた。

総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、定員が20増えていたにも拘わらず改選前8議席減と惨敗といってよい結果だった)、三木内閣は責任を取って退陣した。

その後、福田赳夫と大平正芳はポスト三木を福田とする大福密約を締結、大角両派と福田派がポスト三木の総理総裁に福田赳夫で一致し、挙党協の総裁推薦候補を福田とする。福田は総理総裁に就任し、福田内閣が発足した。

なお、この抗争中である9月6日にベレンコ中尉亡命事件が勃発したが、政府が三木おろしで忙しくてそれどころではなかったので対処に不都合が生じたという。

ロッキード解明を掲げて閣僚罷免してでも衆議院解散を断行していれば、三木内閣は存続できたとする意見もあった。しかし、三木自身は後年において閣僚罷免してまで衆議院を解散することは、「議会の子」と呼ばれていたこともあり憲政に反するとして、行わなくてよかったと述懐している。

椎名(副総裁)裁定で三木を推挙した椎名が三木おろしに回ったことについて、椎名は「産みの親だが、育てるとは言ったことはない」と答えて
いる。

逮捕された田中角栄であるが、「第一次三木おろし」にはそこまで積極的ではなく、積極的であった派内の二階堂進などに表立った行動を控えるように指示した。

田中は三木を退陣させると、宿敵であった福田を首相にしてしまう恐れがあると考えていたからであったと思われる。

幹事長だった中曽根は、挙党体制確立協議会のアキレス腱であるポスト三木(三木退陣後、福田、大平のいずれが後継首相になるかを、挙党協は直前まで決められなかった)について、「大福も 夏を過ぎれば 饐えるなり」と川柳で皮肉った。

三木武夫の秘蔵っ子だった海部俊樹は官房副長官として党内反対勢力に対する解散構想と解散断念を目の当たりにした。15年後の1991年に海部は首相として、三木と同じく党内反対勢力に対して解散構想をする政局になるも、結局解散権を行使できず、またこれを乗り切ることが出来ないまま退陣となった(海部おろし)。

三木おろし時は一年生議員であった小泉純一郎は、29年後の2005年に首相として党内の反対勢力を一掃するため、解散権の行使を決断。解散詔書の閣議決定に署名しない閣僚1人を罷免してまで解散を断行した(郵政解散)。小泉はこの時の三木について、大勝負で解散できなかったとしている。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                          2011・7・10


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