2008年05月30日

◆日独伊三国軍事同盟

                     渡部亮次郎

日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい)とは、1940
年(昭和15年)9月27日に日本(大日本帝国)、ドイツ(ナチス・ドイツ)、
イタリア(イタリア王国)の間で締結された同盟条約。

1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年の日独伊三国防共協定に引
き続き、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊
の指導的地位の相互確認。

調印国いずれか1ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると
取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟と見なされ、日本の対英、
対米関係は極端に悪化した。

日中戦争で既に莫大な戦費を費やしていた日本は、蒋介石政権を支援す
るアメリカと鋭く対立していた。欧州戦線で快進撃を続けるナチス・ド
イツを見て、日本政府はドイツと手を結びアメリカを牽制しようと考え
た。

また、日本がアジア太平洋地域の英仏蘭の植民地(インドネシアなど)
を支配することを、事前にドイツに了解させる意図もあった。

実際、外務事務当局が起案した「日独伊提携強化案」には、前述した地
域が日本の生存圏内にあることをドイツは認めるべきという趣旨のこと
が明記されている。

アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、
主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の拡大の
為に撃破しなくてはならないと考えていた。

しかし、巨大な工業力を持つアメリカ合衆国を警戒したヒトラーはアメ
リカを牽制する為にアメリカ及びソ連と背後で対立する日本と手を結ぶ
ことを考えた。

イギリス・アメリカ等の世論はイタリアのムッソリーニ首相を世界平和
を乱す社会悪と認識。もはやイギリス、アメリカとの交渉が不可能となっ
ていた。

そこでムッソリーニは同じファシズム国である日本とも関係を強めてア
ジアにおけるファシズムの影響力を強め、戦後世界でのイタリアの発言
力を強めようと考えていた。

更に、ドイツと既に同盟を結んでいたという既成事実がイタリアの条約
参加に拍車をかけた。

三国同盟の締結に対し、英米協調派が比較的多かった海軍は反発した。
山本五十六、井上成美、米内光政は「条約反対3羽ガラス」と条約推進
派(親独派)から呼ばれていた。

他にも岡田啓介、小沢治三郎、鈴木貫太郎、陸軍では石原莞爾らが条約
締結に反対していた。閣内でも吉田善吾海軍大臣、石黒忠篤農林大臣ら
は反対を唱えた。

だが、吉田海軍大臣の病気辞任と後任の及川海軍大臣、近衛首相・松岡
洋右外相らの説得により、北守南進の国策に沿って「バスに乗り遅れる
な」というスローガンのもと、条約締結に進んだ。

こうして利害関係の一致を見た日独伊は軍事同盟を締結するに至る。

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2008年05月28日

◆国連ポストを敬遠?

                      渡部亮次郎

日本の初代国連大使は加瀬俊一(としかず)氏だと誤解している人が多い。加瀬氏は国連加盟後の初代大使。加盟に努力した初代大使がいた。沢田廉三氏である(1954年4月1日―1955年7月)。

妻の美喜(孤児院エリザベス・サンダースホーム創設者)は元三菱合資会社社長・岩崎久弥の娘で、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘にあたる。兄の節蔵も外交官。

第2次世界大戦を枢軸国の一員として戦った日本にとっての初代
国連大使であるが、在任中に日本の国際連合加盟を実現させる事は出来なかった。しかし、国連大使退任後には外務省顧問に就任し、1956年の日本の国際連合加盟実現に貢献した。

加瀬俊一氏1903年(明治36年)1月12日― 2004年(平成16年)5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。
終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同字の別人である。外務省内では入省年度が早い(1920年入省)彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。
4代目岡崎勝男氏(1961年6月ー1963年6月)は外務事務次官、内閣官房長官(当時は非閣僚)、外務大臣を務めた後、国連大使になった。珍しい経歴と経緯。

1945年10月幣原内閣が発足し、吉田茂が外相になると大幅な人事異動を行った。これを機に岡崎は辞表を提出するが、その身の処し方が吉田の印象に残ったとみえ、直接電話で呼び戻され、しばらく吉田のアシスタントのような仕事をしていた。

翌1946年第1次吉田内閣の発足とともに正式に外務省に復帰し、総務局長、事務次官を務める。この時に戦時中、ユダヤ人7000に勝手にビザを発給したあの杉原千畝に退職勧奨を行っている。

1949年第24回衆議院議員総選挙に、民主自由党から旧神奈川3区にて立候補し当選する。以後当選3回。

衆院外務委員長を経て、1950年第3次吉田内閣第1次改造内閣で内閣官房長官として入閣する。1952年には国務大臣として、米国ラスク国務次官補と交渉の上、駐留軍への施設提供・費用分担を取り決めた日米行政協定を締結した。

また。同年より外務大臣となり、1954年には日米相互防衛援助協定(MSA協定)を締結した。

このように、吉田対米協調路線の忠実な代弁者として、重要な協定の締結にあたってきたが、あまりに熱心過ぎたためか、1954年4月には日米協会でのスピーチで「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と述べてしまった。

第五福竜丸被爆の悲劇の直後であったために国民の憤激を買った。吉田退陣後は1955年・1958年と続けて落選し、政界を引退する。

その後はアラビア石油相談役、国連大使(1961年―1963年)などを務めた。経歴からすると相当な「役不足」。さぞかし不満なNYの2年間だったことだろう。

その後を継いだのは松井明氏(1963年7月―967年7月)だったが、退任後に大きな話題を残した。

1980年頃に、昭和天皇とダグラス・マッカーサーの会見4回、マシュー・リッジウェイとの会見7回の通訳をした際の極秘メモを手記にまとめた。

侍従長入江相政に出版を止められ、1989年になってから著書にメモがある旨を書いた。1994年1月に産経新聞に手記がある旨を明かした。2002年8月5日に朝日新聞がそのメモの詳細について報道した。

私が外務大臣秘書官になったのは1977年11月だから、当時の国連大使は安部勲氏(1976年4月―1979年7月)。78年2月にNYで就任挨拶をさせていただいたが、伸びた鼻毛の先に鼻くそがついていて可笑しかった。それが退任後、宮内庁の式部官長になったのでまた可笑しかった。

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2008年05月26日

◆国家総動員法の恐怖

                     渡部亮次郎

私の生まれた2年後の第1次近衛文麿内閣時代、当時の企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。大財閥を中心とした経済界はこの法案に対して、法律に拠らない私権の制限であり社会主義的であるとの批判を持っていた。

ところが戦後、日本社会党となる社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

私の高校、大学時代は昭和史はまだ歴史として定着していないという理由で教育されなかった。だから昭和生まれと言っても敗戦前のことは自分で勉強するしかない。いずれ国家総動員法の恐怖を知る者と知らない団塊の世代とでは決定的に違う。

団塊の世代とやらは、民主主義を当然として成長したが、70代の我々はそれを信じられない。それで学生運動に挫折したが、団塊の世代は改革を信じて挫折した。北朝鮮にあこがれた馬鹿もいた。

1938年(昭和13年)4月1日公布,5月5日施行された。シナ事変を戦いながら総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定した。この時点ではまだ対米戦を想定はして
いないが、何か大戦を意識はしている。

1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に廃止された。

同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。

労働問題一般=国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消

物資統制=物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動

金融・資本統制=会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、
社債募集、企業経理、金融機関の余資運用

カルテル=協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入

価格一般=商品価格、運賃、賃貸料、保険料率

言論出版=新聞・出版物の掲載制限

しかも法律上にはこれら統制の具体的内容は明示されず、すべては国民徴用令をはじめとする勅令に委ねられていた。このことから、同法をナチス・ドイツによる授権法(1933年)の日本版になぞらえる説もある。

この結果、日本中すべて「統制」され、すべてに「自由」と「勝手」が無くなり「逼塞感」が充満。結局は対米戦争に突っ込んで行くことになっ
た。

秋田の農家だった私の生家の作業場にはなぜか謄写版があった。コピー機である。だが間もなくインクが買えなくなり無用の長物となった。やがて学校では習字の用紙が無くなり、墨で塗りつぶした新聞紙に水で書いて練習した。洋服もゴム長も「配給」になった。

もともと第1次世界大戦(1914年7月ー18年11月)の教訓により、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。

折からシナ事変(1937年―)の激化に伴い、当時の日本経済でシナで活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。

この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。

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2008年05月24日

◆チリ地震津波の取材

                     渡部亮次郎

チリ地震(チリじしん)は、1960年(昭和35年)5月22日午前4時11分20
秒(日本時間)、チリのバルディビア近海を震源として発生した地震。

日本を含め、環太平洋全域に津波が襲来した。 表面波マグニチュード
(Ms)8.5、モーメントマグニチュード(Mw)9.5と、有史以来観測さ
れた中で最大規模の地震である。四川も及ばない。

日本では地震による津波の被害が大きかった。地震発生から22時間後に
最大で6メートルの津波が24日の未明、三陸海岸沿岸を中心に襲来し、
142人が死亡した。私はそれを取材した。

当時、NHK記者初年兵で仙台中央放送局(当時はこういった)放送部報道
課所属3級放送記者1年生。近所の下宿へいきなりタクシーが迎えに来て局
へ駆けつけた。当直の先輩記者高野悠(ひさし)が「地球の裏側から津
波が来て、三陸沿岸一帯、相当の死者、行方不明者が出た」。

宮城県北部の女川(女川)町(港)への出張を命じられ、確か局車で出発
した。途中、国鉄塩釜駅の跨線橋の上に小型漁船が載っているのを目撃、
被害の酷さを実感した。

後で聞いた話では、当日、NHKのカメラマンが塩釜に泊っていたが、津波
と聞いて高台に避難、津波来襲の瞬間を映せなかった。彼はこれが一生、
祟った(既に故人)。東京勤務が大幅に遅れた。

しかし、私の女川行きも褒められたものではなかった。町が一面の泥濘。
歩けたものじゃないのはともかく、津波の余波?が来襲、と当惑して走
る人々の様をデンスケで録音した心算が、失敗。私も走ったものだから、
リールが空周りしていたのだ。

被害が大きかった岩手県大船渡市では津波により53人が死亡。一方で度
重なる津波被害を受けた田老町(現在の宮古市)では高さ10メートルの
巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。

まず前震がM7.5で始まり、M7クラスの地震が5〜6回続いた後、本震がM8
クラスで発生した。また余震もM7クラスであったために、首都サンティ
アゴ始め、全土が壊滅状態になった

地震による直接的な犠牲者は世界規模で1743人。負傷者は667人。また、
アタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7メートル沈み込むとい
う大規模な地殻変動も確認された。

また有感地震が約1000キロメートルにわたって観測された。史上初の地
球自由振動の観測に成功し、地震波は米国で地球を3周した事が確認され
た。

地球の裏側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かっ
た事が指摘され、以後、気象庁は海外で発生した海洋型巨大地震に対し
ても、たとえばハワイの太平洋津波警報センターと連携を取るなどして
津波警報・注意報を出すようになった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによれば

<今世紀最大の地震。震央はバルディビア市沖であるが,地殻変動は
1000kmにわたって生じ,グアムブリン島(ソコロ島)では5・7mの隆起,海
岸沿いの内陸部では3mに近い沈下がみられた。

チリでは地震動と津波により約2000人の死者が出たが,津波は全太平洋
に波及し,各地に被害をもたらした。

日本では日本時間24日午前2時ごろから5時ごろにかけて太平洋岸の各地
にチリ地震津波の第1波が到着し,三陸沿岸で5〜6mに達したほか,志摩
半島などでも高く,死者119人,行方不明20人,家屋全壊流失2830,半壊
2183の被害がでた。

南アメリカ沖の巨大地震による津波が日本を襲った例は過去に数回ある。
この場合にはハワイも被害を受けているので,日本はハワイと連絡を密
にとることにより,津波の到着の6時間前にその大きさを知ることができ
る。

1960年チリ地震は以前から理論的に予測されていた地球の自由振動が初
めて観測された点でも画期的であった>。

津波取材を終えて1ヵ月後、盛岡放送局(岩手県)に転勤を命ぜられた。こ
こに4年いた。しかし、着任1年後、今度は北上山地で大山火事が起きて3
日3晩、寝なかった。2008・05・23


2008年05月23日

◆鈴木梅太郎の悲劇

                     渡部亮次郎

鈴木梅太郎(すずき うめたろう、1874年4月7日―1943年9月20日)は、
日本の農芸化学者。1910年、米の糠から抗脚気因子として世界初のビタ
ミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見し
たにも拘わらず外国人に功績を先取りされた。

勲等は勲1等。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章
受章者ではあるが科学の世界では悲劇の人といわざるを得ない。医学者
ならざるが故にノーベル賞を逃した。

静岡県榛原郡堀野新田村]に、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。農
科大学(現東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授
を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。東京帝国大
学を退官後は東京農業大学農芸化学科教授に就任している。

ビタミンの発見

1910年、米の糠から抗脚気(かっけ)因子として世界初のビタミンであ
るアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見した。

しかし、このときの論文がドイツ語に翻訳される際、「これは新しい栄
養素である」という1行が訳出されなかったためオリザニンは世界的な
注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみ
となってしまった。

アベリ酸報告の当時は、東京帝国大学医学部を中心とする多くの医学者
の間で脚気感染症説が信じられていた。某医学者(青山胤通あるいは森
林太郎(森鴎外)のことともいわれる)は「農学者が何を言うか、糠が
効くのなら小便でも効くだろう」と非難したという。

しかし実際にこれによる脚気の治癒例が相次ぎ、脚気感染症説論者もオ
リザニンの効果を信じざるを得なくなった。ただし、森林太郎は死ぬま
で自説の誤りを認めなかったと伝えられている。

森は当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌によ
る感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイ
ギリス医学)と対立した。

自説に固執し、当時陸軍で採用していた脚気対策の治療法として行われ
ていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支
給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。

但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関
係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であ
るとしていた。

ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死
させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木に
より食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためで
ある)。

実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のため
に戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの
日本兵を殺した」との批判も存在している。

日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦
飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争
当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰され
た経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外
の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発
見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。

はじめて詳しい化学実験をしたのは鈴木梅太郎であった。1910年,彼は
米ぬかから有効成分の単離に成功し,12年これにイネの学名 Oryza
sativa にちなんでオリザニンOrizanin と名づけた。しかし成果は世界
的に発表されなかった。

1年後の1911年,ポーランドのフンク Casimir Funk(1884‐1967)がロン
ドンのリスター研究所で米ぬかから鳥類白米病に有効な物質を発見した
と発表し,これに生命vita に必要なアミン amine という意味からビタ
ミン vitamine と名づけ、彼のほうが第一発見者と記録されてしまった。
日本の医学会が鈴木を妬んだからという説が有力である

しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。ま
た、赤痢菌を見つけた志賀潔らが脚気の栄養由来説を支持したこともあ
り、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。

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2008年05月20日

◆文化大革命は毛沢東の仕業

                     渡部亮次郎

1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会
(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委
員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革
命の定義が明らかにされた。

だが実態は、失脚者毛沢東が引き起こした権力奪回闘争であった。大躍
進政策の大失敗により国家主席を辞任して以来、危機感を深めた毛沢東
が、劉少奇国家主席やトウ小平らから権力を取り戻すために仕掛けた大
規模な権力奪還闘争に過ぎない。略称は文革(ぶんかく)。

「政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動」のはずが、実際には
ほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され
た。

結果的に約1,000万人以上((異説では3,000万人))と言われる大量虐
殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間にわたる混乱に陥った。

始めは毛沢東指示の下、国家主席劉少奇からの政権奪還を目的として林
彪の主導により進められた。

林彪の毛沢東暗殺失敗に伴う国外逃亡時の事故死後は、毛夫人江青ら
「四人組」に率いられて毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設
を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争に大
衆を巻き込んだ大粛清であった。

共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家な
どの資本家層が、さらに学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となっ
た。尖兵実働隊が紅衛兵(男女)だった。

その後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが
甚大な被害を受けた。これによって中国の経済発展は20年遅れたと言わ
れている。一般の革命とは一線を画すクーデターだった。

1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、
(1)1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であ
ったこと (2)建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと(3) 中ソ
対立など国際的な社会主義運動の対立 などがある。

1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞
罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した
京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。

1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶
元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の
壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。

8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命
小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているの
は1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。

江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四
人組は実は毛沢東を含めて「五人組」であったとすべきだろう。

原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼
ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大
を続けた。

実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目された!)(トウ)小平や劉少奇
などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判
の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる
吊し上げが日常的に行われた。

実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊
し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦
伯賛、呉!)、儲安平らは自ら命を断った。

極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・
宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏
像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品
で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一
つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって
多くの人々を動かし暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事
に対する、明確な説明あるいは謝罪を行っていない。

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2008年05月18日

◆阿部定事件の年生まれ

                     渡部亮次郎

阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月
18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局
部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出
されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本
では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は
少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1
ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起
きた事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから72年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大
百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合ま
さきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店
の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺
された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的
な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあ
となので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から
男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転
々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで
働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定はは、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京
都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現
在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋の
お定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初
めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日
も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になっ
てゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって
(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。こ
のことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうであ
る。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を
強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女
に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。
事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの
女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋
市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介さ
れたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であっ
た。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るように
なると2人は出奔。

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2008年05月17日

◆拉致を招いたカーター

渡部亮次郎

Jimmy Carter アメリカ合衆国39代大統領 1924年10月1日生まれだから83歳でも元気だ。大統領在任は1977年1月20日 ー1981年1月20日だったから我々(園田外相時代)のカウンターパートは国務長官 サイラス・ヴァンス(在任1977−980年 弁護士)だった。

カーターは1953年の父親の死に際し海軍を退役しピーナッツ栽培農家になった。

牧師でもある。1960年代から生まれ故郷のジョージア州の州議会議員を2期務めた後、州知事に当選。1971年から1975年までジョージア州の知事を務めた。

1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬し、最初は「ジミーって誰のこと?」と揶揄される程知名度が低かった。しかし在韓米軍引き揚げを公約するなどウォーターゲート事件(ニクソン共和党大統領)により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民に巧みにアピールし現職のジェラルド・フォード大統領を破って一般投票の50・1%を獲得し勝利した。

在韓米軍の引き揚げの公約は大方の喝采を浴びたが、単に国際情勢に無知だった故の空約束と就任後に気付いて路線を少しづつ修正して行った。しかし、これが北朝鮮による日本人大量拉致を惹き起こしたという指摘がある。

事情に詳しい関係者によれば、北朝鮮の金日成国家主席は韓国から米軍が引揚げるなら、韓国を攻めて統一をなし遂げることに愈々現実味が出てくる。そこでアイディアとして、日本人に仕立て直した北朝鮮人をあらゆる方法で南に入国させて、韓国の混乱を惹起する。
韓国の内部崩壊したところを衝くというわけ。

そのためには「教育者」として日本人を大量に拉致するとして、カーター発言の直後から拉致作戦を開始した。平和ボケした日本人には無い着想。警察も気付かないまま拉致は「粛々」と続けられたのである。カーターにこれを指摘した人はまだいない。

北朝鮮は日本人を相当数、らちしたものの在韓米軍は「引揚げ」ではなく「削減」に留まったことから大作戦は中断、今日に至っているわけだ。

これはCIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけ。イラン革命やその後のテヘランのアメリカ大使館占拠及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」に失敗。

アフガニスタン侵攻 (1979)を許したことなどから、共和党などから、「弱腰外交の推進者」とたたかれることになった。

大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した果実を得られ
大統領職を退いてから世界を驚かせる外交手腕を見せた

この事から「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」と2002年にノーベル賞平和賞を授章した。

しかしその反面「史上最強の元大統領」、「最初から"元大統領"なら良かったのに」と、国内外のマスコミに揶揄された。

1979年には、前々任者のリチャード・ニクソン大統領による中華人民共和国との国交樹立政策を受け継ぎ、反対が強い中華民国と断交し、共産主義国家である中華人民共和国を訪問し国交樹立した。

ここに至るまで、既に国交正常化の上に日中平和友好条約まで結び終えていた園田直外務大臣はヴァンス国務長官に盛んにネジを巻いていた。胡錦濤が来日に当って「井戸を掘った人」として田中真紀子と共に園田の遺族を引見したのはこの理由もあった筈だ。

カーターはアメリカの航空事情を変えることを目的に、航空会社設立の自由化と、国内路線の開設、料金設定の自由化などを盛り込んだ航空自由化政策「ディレギュレーション」政策を導入した。

この結果、目論見どおりに航空会社間の競争が盛んになり、運賃の低下が実現することになり格安航空会社の勃興を生むきっかけとなった。

また同時に大手のうち、パンアメリカン、トランスワールド、イースタンは競争に耐えられずに消えていき、皮肉にもこの政策の推進を後押ししたデルタ航空などの他のアメリカ国内の大手航空会社の衰退にもつながったと言われている。

1979年6月、サミットでの来日時に夫人と共に六本木の焼き鳥店に入った。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れたように報道されたが、実際には大使館側の予約であり、その場に居た客も「仕込み」のサクラであった。文中敬称略。 2008・05・15

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年05月16日

◆茄子の花と母の言葉

                     渡部亮次郎

知り合いの産経新聞外信部記者田北真樹子さんが5月14日付で社会面に執筆した「人」欄によるとブラジルの空軍司令官に2007年2月、初めて日系人が就任、インタビュー記事が載った。

「お母さんの言葉はナスの花と同じ。千に一つの仇(無駄)も無い」この人はサイトウ・ジュンイチさん(65)。青森県出身の父と香川県出身の母との間に1942年、サンパウロ州ポンペイア市で誕生。15歳の頃からパイロットを目指す。

「無理だと思っていたが、働きながら士官学校に通う。今でも思い出す母の言葉がある。「私たちは稲穂のようにならなくてはいけない。伸びれば伸びるほど頭を垂れなさい」

<謙虚さは多民族国家のブラジルには無い価値観だ。むしろ足を引っ張られる。だが、謙虚であり続けたから、250人の同期との出世レースに勝ち抜いて昨年、空軍トップに立った自分がいると自負する。今年、ブラジルに日本人が初めて移住してから100周年を迎えた。

「お母さんの言葉はナスの花と同じ」。ナスの花と親の意見は千に一つも仇がない、とのことわざを用いて母に感謝する。

「残念ながら両親が生きている間に司令官就任を見せることが出来ませんでしたが、私が空軍トップになったことをどこかで見ていて、誇りに思ってくれているでしょう」。

「日本もブラジルも防衛を重視しています。だからこそ、常に準備をしていなければいけません。防衛が必要になったとき、そこでミスがあれば、元に戻すには何百年もかかりますから。>(田北真樹子)

感激してメイルを出したら田北さんからさらに感激的な返事が返ってきた。「サイトウさんの取材は久しぶりに日本人でよかったと思わせくれるような取材でした。

取材後、自分自身が洗われた感じになりました。日本人のいい部分が恐縮した方なんです。ある意味、ブラジルで現代の日本と接していないことがよかったのかも、と、これはこれで情けなくなるようなことを考えさせられましたが・・・。

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2008年05月15日

◆五・一五事件

                     渡部亮次郎

五・一五事件(ごいちごじけんと)は1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国「海軍」急進派の青年将校を中心とする反乱事件。4年後1936年のニ・ニ六事件は陸軍の将校による叛乱事件。

武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅総理を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退した。

事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達された。

また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。

同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いが、本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸、立憲政友会(政友会)本部、警視庁とともに牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。

しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第2の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。

後に小説家松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪(いたる)らが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『昭和史発掘』)。

だが、中谷武世(国士)は首謀者古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したものであって、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたものの、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ている。

また中谷は大川と政党人との関係が希薄であったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している(『昭和動乱期の回想』)。

当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している時代であった。

1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。

計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に容らない点であった。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をした。

それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友であった。故に犬養は満州侵略に反対であり、日本は中国から手を引くべきだとの持論を兼ねてよりもっていた。

これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由なのである。

事件は昭和天皇の勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

なお、事件前日の5月14日には映画俳優のチャーリー・チャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって犬養との会談をキャンセルしたため、難を逃れた。

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2008年05月14日

必読!◆「日中友好の再考を」

                    渡部亮次郎

私は心ならずも記者として日中国交再開を目撃し、日中平和友好条約の締結に携わった。国交回復は22年ぶり、平和友好条約は日本からの資金、技術援助を中国に約束したものだった。

国交回復を決断した時、田中角栄首相は日中戦争の賠償金として「まぁ3億円ぐらい吹っかけて来るかな」と言っていたが、事前に竹入義勝公明党委員長を通しての周恩来首相の回答は違った。

「賠償は要求しません」。これで日本中が「中国ブーム」になり、自民党内ですら中国批判は禁句となった。田中訪中の結果、周恩来のいい出した「日中友好」は両国の合言葉みたいになった。パンダが贈られたのもこの時である。

このとき周恩来首相は北京から上海まで田中首相に同じ飛行機で同行し、田中首相の帰国を上海空港で見送った。これに従うまでも無く胡錦濤主席をホテルであろうがどこであろうが、両陛下がお見送りに出向かれるのは国家日本の元首たる天皇の賓客(国賓)を寓されるについては当然の行為である。このとき周恩来は「天皇によろしく」と伝言を託した。

それをずるい連中に悪どく利用されたとしても、当方としては礼を尽くしただけの事。非難さるべきは礼を尽くした当方ではなく、悪どく利用した連中の方である。

国賓の接遇には歓迎と歓送の行事はセットになっており、歓迎だけして歓送は都合により省略となっては、世界の笑いものになるだけ。
誰かが国賓待遇を閣議決定しても、「歓送」は入っていなかったと訳のわからぬことを言っていたが、笑止千万である。

歓送風景を中国のマスコミ(官営)は「日本国民の前にさえ滅多に姿を見せない両陛下がわざわざ見送りに来たのは胡錦濤を通じて中国に特別な敬意を表した」と報道したため、見送りはするべきじゃなかった。させた外務省、宮内庁が悪い、となった。

国賓=歓迎行事=お見送りは天皇の接遇慣例上、セットになっているものであり、時あたかも胡錦濤氏に対する日本の世論が反対ムード高揚と言っても、お見送りだけをやめたら天皇は面子を失っただろう。

私は田中首相同行記者(NHK)だったから上海へも同行したが、到着後、市内に散歩に出た途端、初めて中国国民の厳しい視線にさらされ、恐ろしくなってホテルに逃げ帰った事を思い出す。

考えてみれば彼らが日本人を見るのは27年ぶり。中国をして塗炭の苦しみを与えた「犯人」が日本人なのである。この男も日本政府の代表者の一人、憎いなぁ、とその目は恨んでいた。

しかし「日中友好」は全中国人の思っていることでは無い。中国共産党が自らの都合に合わせて持ち出すものに過ぎない。それが証拠に江沢民主席在任中は反日教育を徹底し、日中関係悪化の原因を作ったではないか。胡錦濤がやらぬ保証はない。

江沢民のあれは演技でもポーズでもなかった。日本という外敵を作らねば国家統治が難しい事態に差し掛かっていたからである。日本が戦ったのは中国共産党ではなく蒋介石だったことを人民が思い出しかけたからである。

日本に勝利したのは蒋介石であり、中国共産党ではない。蒋介石はその後、共産党との内戦に敗れ台湾に逃れた。それで中華人民共和国の建国を1949(昭和24)年10月1日まで遅れたのはそのためである。

しかし江沢民は実父が占領日本軍への協力者だった事実を隠蔽する一方で、日本との闘いに勝利したのは共産党であるという「嘘」の歴史を全人民に浸透させる目的で「反日教育」を徹底させたのである。

日本に対しては歴史認識で執拗に批判したのに、ベトナムからの中越戦争の謝罪要求については「ベトナムのカンボジア侵略によるものだ」として、謝罪はしていない。

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2008年05月13日

特筆!◆死者80万を隠せる中国

                    渡部亮次郎

地続きの韓国や北朝鮮には地震が無いが中国には結構、地震があり、非公式には死者80万人の唐山地震(とうざんじしん 1976年)を隠したのが共産国・中華人民共和国である。

当時中国は文化大革命のさなかであり、政府は「自力で立ち直る」と外国からの援助を拒否した。このことが犠牲者の拡大をもたらした一因だといわれている。2008・05・12に四川省でM7・8の大地震が起きた。今回はどうか。

何しろ、災害が起きて国力の低下が報じられれば外敵が攻めてくる。故に被害の公表は禁止という共産国。900人が学んでいた小学校が倒壊したが死者は「4人」と発表するようではあまり変わりない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、1976(昭和51)年7月28日3時42分(現地時間、UTC+8)に、中国河北省唐山市付近を震源として発生したマグニチュード7・8の直下型地震が起きた。今回も同じMである。

市街地を北北東から南南西に走る断層に沿って大きな水平右ずれが発生し、激震によって中国有数の工業都市であった唐山市は壊滅状態となった。

この地震による死者は公式記録によれば242,419人、非公式には60万から80万人とも言われ、20世紀最大の被害である。日本人も火力発電所建設のために派遣されていた日立製作所の社員3人が犠牲になった。

中国では1975年2月4日に起きた海城地震の直前に予報を出して被害を大幅に減らす事に成功しており唐山付近で地震が起きる可能性が高い事もわかっていたが、今回は予報を出せず地震予知の難しさを知らしめた。

地震予報を出す仕事をしていた専門家もホテルの部屋で圧死していた。科学のレベルもさることながら、文革のさなかの事。予報がはずれでもしたら、係りの命はやはり無かったろウ。出せなかった。

地震直後、中央政府は治安の混乱を恐れ、地震の5時間ほど後には対策本部を設置し、10万人の人民開放軍兵士を投入し、2万人以上の医療人員を派遣した。現地の混乱は、地震後2日目にはおさまったといわれる。

唐山市ではこの地震によって公式には14万8000人が亡くなり重傷者は8万人以上と被害は市民の21.2%に達し、住宅の全壊率は94%だった。これによって再建がほぼ一段落するまでの約10年間、外国人の立ち入りが制限されていた。

現在は抗震記念館が設けられて到壊した建物や断層の一部が地震遺跡として保存されている。2006年7月28日、中国共産党は唐山市で30周年記念大会を開催、およそ700人が出席して「唐山抗震記念碑」に献花などを行ったと発表した。

<大地震の前の動物の異常行動を列挙すると以下のようなものがあげられる。

ラバの大逃走、動物の絶食、恐ろしい声で犬は吠え、猫は叫ぶ、兎と羊が狂う、水生動物の恐怖行動反応、金魚の夜のダンス、スッポンの悲鳴、青蛙の没黙の集合、鳥と昆虫の奇怪な行動反応、

鸚鵡に驚かされた夜、昆虫の集会、コウモリが白日のもとで飛び回る、鴿は落ちつかない、穴居動物の避難行動、イタチの引っ越し、ネズミは災難を予知、まだら蛇は「警報」、サソリとムカデとアリの大逃去。>(尾池和夫) 2008・05・12

2008年05月12日

◆外務省の海外要人待遇

渡部亮次郎

2008年5月に来日した中華人民共和国の胡錦濤主席の接遇をめぐって国民の間に論議が高まった。中でも両陛下が胡氏夫妻の宿泊先のホテル・ニューオータニへ見送りに行かれることについては相当な識者から反対論が起こった。

しかし、胡主席や中国政権に対する感情はともかく、両陛下のお見送りを初め外務省、宮内庁の接遇には何の落ち度も、行き過ぎも無かったと断言する。一般の人が要人接遇の実態を知らずに感情でことを論じた故の空論であった。

つまり初来日の胡錦濤氏について福田政権は早くから国賓(国家による国家元首=天皇陛下の賓客)として迎える事を閣議決定し、この旨を陛下に「助言」し、外務省、宮内庁が実際の接遇に当たり、問題はなんら生じなかった。

たまたま今回は通常、国賓の宿泊先となるべき赤坂の迎賓館が改装工事中であるため中国側の希望でホテル・ニューオータニを迎賓館代用となった。従って両陛下のお見送り先もホテル・ニューオータニとならざるを得なかったものである。

ホテル・ニューオータニは日中国交正常化に伴って中華人民共和国が臨時の大使館を置いた由緒あるホテル。爾来、中国側は定宿としてこのホテルを使っている。

外国からの賓客の接遇方針の実際を担当するのは外務省である。その実態をフリー百科「ウィキペディア」等から引用して掲載する。

いずれにしろ両陛下がお見送りのため民間ホテルを訪問されたのは国辱物、叩頭外交だというのは無知に基づく誤解。感情論先行の議論に過ぎない。

それを社会的信用のある識者がインターネットで流すのは大衆を誤まった方向へ走らす煽り行為であり、慎むべきである。友人はこれを「田舎の発明家」と命名した。世間知らずのお山の大将ともいえる。

<国賓 こくひん

国家が賓客として招待する外国人。日本の場合,政府あるいは皇室によって招待され,国の費用で接待する。

国賓の対象とされるのは,普通,元首,国王,王族,閣僚,特使などであるが,国際間の往来が頻繁になった近年,閣僚,特使に対して国賓待遇を与えない事例も多くなってきた。

また,これらの公人でも私的な旅行のときなど国賓とされないこともある。>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

<国賓は海外要人に対する外交慣例上における接遇上の扱いであり、おおむね10年に1度の頻度で当該国からの元首や要人の訪問にさいして行われる接遇上の様式である。

慣例では10年以内に国賓として遇された経緯のある対象国や元首に対しては国賓として遇することはなく、公賓ないしは公式実務訪問賓客として扱う。

国賓扱いによる接遇はあくまで儀式的なものであり、接遇による差異が訪問者や当該国に対する特段の政治的意味合いをもつ訳ではない[毎日新聞2008年4月30日] 。

日本 外務省における海外要人の待遇

日本の外務省における海外要人の待遇は、日本政府が滞在費用(対象者の宿泊滞在・国内移動・通信・警護費用等)を負担する公式訪問と、訪問者がすべての経費を負担する非公式訪問の2つに別れる。さらに公式訪問の場合は以下の5つの分かれる。

これらの計画、調整は外務省儀典官室がおこなっており、その長である儀典長は「首席接伴員」として日程に同行することになっている。

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