2008年04月23日

◆両国高校脇の通り

                   渡部亮次郎

明治34年創立の府立3中を前身とする都内を代表する名門校、正門横には卒業生芥川龍之介の碑がある、といえば都立両国高校。拙宅から徒歩10分ぐらい。

「現役で大学進学」が目標として掲げられる。土曜授業の導入、多数の講習や特別編成授業の実施などが行なわれており、高い現役進学率を維持している。

この名門高校の横を走っている道路が「大門(おおもん)通り」と呼ばれる片側1車線の細い通り。遊里吉原(よしわら)の大門と嘗ての洲崎(すざき)パラダイスの大門を結んだ通りだったから。吉原はともかく洲崎は洲崎弁天町2丁目となってはいるものの面影はない。

昔の遊女。売春婦は昭和33(1958)年3月31日を限り売春防止法施行により消滅した事になっているが、そこはそれ、法律は厳しく制定し、取り締まりは緩いことが特徴の日本。誰も信じてはいない。

売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。

近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。

その5年後(1589年 天正17年)には、京都柳町に遊廓が作られた。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原(葦原)遊廓を設けた。

17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。

島原、新町、吉原が公許の3大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国に二十数カ所に公許の遊廓が存在し、各宿場にも飯盛女と言われる娼婦がいた。

敗戦翌年の1946年にGHQの指令により遊郭は廃止され赤線に看板を変えるが、これも1958年売春防止法の施行によりいったんは消滅した。

しかし、その後「トルコ風呂」という形で復活し、その後トルコ青年の抗議で業界団体がソープランドなどとして同じ地に続いているところもあり、旅館などの一部にも、わずかだが宿泊業務と別にいまだ同様のサービスをしている所もある。

戦後に存在していた東京近郊の赤線地帯。赤線を知らない人のため。
 
吉原
浅草の北に位置し、江戸時代の花魁(おいらん)の頃からの花街である。吉原大門という交差点の表示に、わずかばかりの名残が見受けられる。明治後期の大火、関東大震災、東京大空襲で灰塵に帰し、戦後は赤線区域に転落。現在も仲之町通り一帯は高級ソープ街として有名。
 
洲崎パラダイス
東西線の木場駅より、南方の川を渡った一画。洲崎弁天町2丁目。芝木好子の小説「洲崎パラダイス」でその名を知られた一大花街の名残は、一杯飲み屋などに見受けられる。街のはずれがすぐ、海だった頃の面影はもうない。
 
品川
京急北品川駅より、南方に旧東海道を下ったあたりに点在していた。戦時中に老舗の遊郭はすべて廃業。戦後は年増が多く、地味な存在であった。
 
柳新地
北千住の駅から荒川に沿って、日光街道を過ぎると大門通に出る。そこがかつての赤線であった。主に農村出身者相手の商売で、格は低かった。
 
新宿2丁目
新宿3丁目駅より御苑方面に向った一帯。料金は割高で女性のレベルも高い花街だった。廃業後はいつしか男娼が集まりだし、いまや国内最大の男娼街と化している。
 
亀戸
亀戸駅より蔵前橋通りへ抜け、横十間川に沿った亀戸天神の真裏。浅草にあった売春窟が関東大震災で移転。戦災で全焼後は地元民相手の商売に落ち着いた。
 
丸健
新小岩駅南口。松島3丁目の一帯。亀戸の売春窟が、空襲後に一部移転したもの。当時のこの付近は田園地帯だった。
 
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2008年04月22日

◆つつじとさつき

                   渡部亮次郎

今は都立猿江恩賜公園の躑躅(つつじ)の豪華さに酔っているが、これで
も20代の終わりごろ、三鷹で皐月(さつき)の盆栽作りに夢中になって
いたことがある。

当時は花の色香よりも木が曲がりくねって生長してゆく様に魅かれた。
花が終わったらすぐに剪定に係り、薬剤散布もちゃんとやらなければ油
虫が花の芯を食ってしまって咲くべき来春の花が咲かない。

だから忙しい政治記者の手には負えなくなって横浜の知り合いに全部く
れてやったが、彼は手入れをし過ぎてすべてを枯らしてしまった。水の
やりすぎによる根腐れ病を起こしたのかも知れない。

私に盆栽造りを奨めてくれたのは河野一郎氏の側に秘書官みたいにして
付いていた藤尾正行代議士(故人)。選挙区の栃木県鹿沼まで招待して
くれた上に何十鉢の皐月の盆栽を貰って下さったのである。

躑躅(ツツジ)の花には薔薇(バラ)や牡丹(ボタン)の花のような豪
華さはないが、庶民的で親しみのもてる可憐さがある。そのような点に
ひかれてか,古くから世界各地で多くの園芸品種が育成されている。

冬にも枯れない常緑性ツツジの園芸品種は日本,落葉性ツツジの園芸品
種はヨーロッパで育成されたものが多い。

日本で造られたツツジの園芸品種は、ケラマツツジからヒラドツツジ、
サタツツジが、ヤマツツジからキリシマやクルメツツジなどが、マルバ
サツキからサツキの各園芸品種が育成されているように,日本固有の野
生種を利用しての品種改良が行われてきた。

一方,ヨーロッパでは中国産、日本産やアメリカ産のジャコウツツジ,
カフカス産などから各園芸品種が改良されているように,他の地域から
導入されたツツジの野生種をもとに品種改良が行われている。

現在世界のツツジの園芸品種の総数は2000以上にのぼるものとみられ,
栽培が容易であるため庭園用,鉢植え用として広く利用されている。

今後,より耐寒性,耐暑性の品種,あるいは花色が黄色や青色のツツジ
園芸品種が育成されるならば,さらに利用されるようになるであろとい
う。

ヒラドツツジは長崎県平戸市の旧武家屋敷の裏庭に植栽されている大型
ツツジの中から選抜されたツツジとその近縁種の総称で,直径10cm前後
の大輪の花をつけ,葉や樹姿も大型となり,平戸市内にある古木では高
さ4m以上に達するものがある。

南九州から沖縄にかけて自生しているケラマツツジを母体に,モチツツ
ジやキシツツジ,リュウキュウツツジが自然交雑してできたものである。

花色は紅,紫,桃,白と多彩であり,早く育つので公園や街路植栽用に
よく利用されている。耐寒性が弱いので利用は西日本が中心になるが,
オオムラサキのような耐寒種もこの仲間に入る。

キリシマ R. obtusum Planch. は,小輪で濃紅色の花を数多く咲かせる。
枝がよく伸び背の高い樹姿となるので,公園などに植え込むとたいへん
美しい。

また,枝が伸びる性質を利用して,枝物として生花材料として利用され
ることも多い。鹿児島県の霧島山に自生するヤマツツジから江戸時代に
品種選抜されたもので,日本の園芸ツツジ栽培の草分けとなった品種で
ある。

クルメツツジは,キリシマと鹿児島県南部に自生するサタツツジを親に,
江戸時代末期に久留米で品種改良されたツツジである。小輪で多花性,
枝があまり伸びないのでコンパクトな樹型になり,花時には樹冠一面が
花でおおわれるようになる。

花色は赤,白,桃,紫,淡紫,絞りなどと多彩で非常に派手な色彩のツ
ツジであるため,公園や庭木としての利用が多い。大正年間にウィルソ
ン E.H. Wilson によってアメリカに導入されて以来,ヨーロッパ,アメ
リカでもクルメ・アザレアの名で広く利用されている。

ミヤマキリシマ R. kiusianum Makino は九州の1000m以上の高山にだけ
自生している極小型のツツジで,花の直径は2cm内外,枝は短くつまり,
ツツジ類中ではもっとも小型の部類に属する。

可憐な花型とコンパクトな樹姿から小盆栽として利用される場合が多い
が,耐寒性もあり庭木としても利用できる。ヨーロッパではダイヤモン
ド・アザレアとして近年注目をあびるようになっている。

リュウキュウツツジ R. mucronatum G. Don は日本に野生のあるキシツ
ツジとモチツツジの間の雑種性のツツジとみられる。たいへん丈夫で,
耐湿性,耐寒性があるため,江戸時代からリュウキュウツツジの名で栽
培されてきた。花色は白であるが,近縁種には淡紫のもの,絞りのもの
もある。

皐月(サツキ 陰暦5月のこと)はツツジの仲間であるが,江戸時代から
ツツジと区別されてきた。花型,樹姿にそれほど差はないが,花の時期
がサツキは5〜6月でツツジより際だって遅いのが特色で,サツキの名も
これにちなんでいる。

西日本各地に野生しているサツキと吐菓喇(とから)列島(九州南端から約
130キロ南にある火山島群)付近に野生しているマルバサツキの交雑によ
って品種ができたもの。

両親の形質が対照的であるため,サツキの園芸品種は変異の幅がたいへ
ん広く,サツキ愛好熱の高まる一つの理由になっている。

花色は紅紫,桃,白のほか,絞り花や底白花など,変化のおもしろ味が
あることや,樹姿,葉姿の均整がとれて美しいことから盆栽としてよく
利用されている。

また,刈込みにも耐える性質をもっていることから,庭園用樹としても
利用が盛んである。

ところでツツジの繁殖は一般に挿木による。常緑性ツツジはほぼ一年中
挿木できるが,地温が15〜20℃の季節がいちばん早く発根する。ツツジ
は陽光を好むので,日当りのよい場所に植えるのがよい。

水はけが悪いと根腐れを起こしやすい。酸性土壌を好むので,植え穴に
はピート,腐葉土などの有機質を多量に混入するのがよい。花芽は7〜8
月に分化するので,それ以後に刈り込むと翌年の花が咲かなくなる。

剪定(せんてい)は花後すぐに行うのがよい。肥料は油かすを株の周辺の
地表に置肥するのが安全で,化学肥料は根を傷めるおそれがある。ダニ,
グンバイムシなどの害虫や褐斑病の発生がよくみられるので,5月から9
月までは定期的に薬剤散布を行うとよい。

参考:平凡社『世界大百科事典』 2008・4・17


2008年04月20日

◆海千山千を知らないと

                   渡部亮次郎

外務大臣の秘書官だったとき、英語の通訳が「うみせん やません」の意味を知らなくて往生したことがある。この通訳はいわゆるキャリアでなった外交官だったが、「手練手管 てれんてくだ」も知らなかった。

なるほど灘高や東大はこんな言葉を知らない方が良いかもしれないが、外交の現場では困る。アメリカの外交官は何回も会っているうちに「うみせん やません」「てれん てくだ」を日本語で覚えてしまった。

「海千山千」とは蛇が山に千年、海に千年住むと龍になるというもの。そこから『広辞苑』の説明は「世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪な人」「――海千山千の事業家」と説明している。

通り一遍の説明をしないで有名な金田一京助まで遡る三省堂の国語辞典『新明解』は「あらゆる経験を積み、社会の表裏に通じていて悪賢い人」となっている。

また「手練手管」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。だが政界の寝業師から外務大臣になった園田直氏は褒め言葉と思っていて、言われて怒らなかった。

蛇が千年山で住むと海に降りて蛸になるという話は各地にあり、実際にヘビがタコに変身するところを見た、という目撃談も数多くあるらしい(4月だが1日では無い)。

この蛇が変身した蛸は足が8本ではなく7本しか無いと言われており、そのため、タコを捕まえて足が7本しかなかった場合、海に帰すという習慣が、かなりの地域に分布しているとか。

海千山千と似たものとしては「古狐」「古狸」の言葉もある。妖怪の類と見られることも多いが、年を経た狐はお稲荷様のお使いになるという説もあり、狐には蛇と同様の神聖な面も見られていたのでしょう。

英語にもold fox という言葉があるが、いい意味はあまりない。古狸については古狐以上に良くないイメージがあるが、日本では年を経た狸が、病気で動けない和尚に代ってお寺の勧進をして回ったという話もあり、狸の持つ親しみやすいイメージから、そういう方向も出てきたのかも知れない。
http://www.ffortune.net/symbol/12si/s06/mi02.htm

日本の政界では川島正次郎、大野伴睦、三木武吉といったような人たちはみな「海千山千」で「手練手管」に優れ「歴戦の勇士」といわれ、喜んでいた。

彼らから一時代遅れた田中角栄、保利茂、鈴木善幸、園田直といった人たちは、後から同じように言われて嬉しかったのだろう。実に官僚派に対抗して地位を固めるには海千山千と手練手管で行くしかなかっただろう。それが多少、ずるくても、軽蔑されても官僚を使いこなした。角栄は甘やかしたが。

今の政界には2世、3世は腐るほどいても、官僚を使いこなせる海千山千は与野党のどこにもいない。舐められっぱなしだ。文中敬称略 2008・04・18

2008年04月19日

◆憲政の神様の落選

                   渡部亮次郎

日本の国会議事堂に行けば、正面玄関ホールに尾崎行雄の胸像に会える。また振り向けば、道路を挟んだ向かい側に尾崎行雄記念館(憲政記念館)がある。あまりに昔の人だからか、会館は利用者が少なく、赤字だとの噂だ。

政治記者になれば当然、尾崎の胸像に面会し「憲政の神様」を改めて学ぶ事になるが、尾崎の政界引退が、吉田茂による「バカヤロー解散」による落選だったとは知らなかった。4月19日。今から55年前、1953年(昭和28年)の今日である。

尾崎行雄おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月 20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。

当時の三重県2区(宇治山田市、松阪市など)で定員4人のところ、前回より8000票も減り27,021票、6位で落選した。赫々たる憲政の実績は次第に忘れ去られていたのである。95歳では無理だった。

号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明治元年)に東京・番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。

その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学する。

しかし塾長の福沢諭吉に反抗して退学、1876年(明治9年)に工学寮(のち帝国大学工部大学、現・東京大学工学部)に再入学する。

1882年(明治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加、1890年(明治23年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。

その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。

1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。

その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

1903年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1914年(大正3年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。

だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して
政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。

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2008年04月18日

◆命の恩人高木兼寛

渡部亮次郎

脚気(かっけ)という病気は今日ではあまり例証の見られない病気だが、
私は15歳のときに罹り、死の寸前まで行った。ビタミンB1の注射を打ち
続けて下さった伊藤徳治郎先生(故人)が恩人だが、治療法そのものの発
見者高木兼寛が最大の恩人というべきだろう。

脚気は白米(玄米から胚芽=ビタミンB1を除去したもの)しか食べない
事によって起こる病気。抹消神経を冒して下肢の倦怠、知覚麻痺、右心
肥大、浮腫を来し、甚だしい場合は心不全により死亡する(広辞苑)。
江戸(東京)病とも呼ばれた。

吉村昭(故人)の力作『白い航跡』(講談社文庫)によれば、1904-05年
の日露戦争による日本側の陸軍の戦死者47,000人。傷病者352,700人中脚
気患者が実に211,600余名。

傷病者のうち結局死亡した者37,200余名だったが、この中に占める脚気
死者は27,800余名だった。「古今東西ノ戦役中 殆ト類例ヲ見サル」戦
慄すべき数であった

私の父方の祖父は日露戦争に出征し、ラッパ手だったが、運よく帰還。
家督を継いでいた兄が八郎潟で漁業中遭難していたため代わって家督を
相続。結果今日の私もあるわけだが、恐ろしい日露戦争時の脚気が43年
後に私を襲ったのである。

中学の野球部で投手、4番、主将だった。暗くなるまで練習。疲労困憊す
るから、帰宅後、砂糖を大量に舐める。疲労は瞬時にして回復、勉強に
切り替えていた。

ところが体内で砂糖が消化するためにはビタミンB1が必要。舐め続ける
とビタミンB1 欠乏症=脚気になることを私も親も知らなかった。夏休み
の野球合宿で打順を待っているとき、突然意識を失った。脚気が悪化し
心臓が悪くなって、死の寸前だった。

明治時代、その脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる人
が日本の海軍軍人、医学者で東京慈恵会医科大学の創設者高木 兼寛(た
かき かねひろ、嘉永2年9月15日(1849年10月30日)―大正9年(1920年)
4月13日)なのである。名前は「けんかん」と呼称されることもある。

薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎市、平成の大合併前の東
諸県郡高岡町)に生まれる。通称は藤四郎。18歳のときから薩摩藩蘭方
医の石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。

明治2年(1869年)、開成所洋学局(後の東大医学部)に入学し英語と西
洋医学を学ぶ。薩摩藩によって明治3年(1870年)鹿児島医学校が創設さ
れると彼は学生として入学したが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに
認められいきなり教授に任命された。

明治5年(1872年)、海軍医務行政の中央機関として創設された海軍軍医
寮(後の海軍省医務局)の幹部になった師、石神良策の推挙で1等軍医
副(中尉相当官)として海軍入り。海軍病院勤務の傍ら病院や軍医制度に
関する建議を多数行ない、この年に大軍医(大尉相当官)に昇進。

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2008年04月17日

◆砂漠でない「月の沙漠」

                   渡部亮次郎

東京音楽学校(現在の国立東京藝術大学)出の流行歌手藤山一郎は太平
洋戦争が激化すると、前々から激戦地に赴き慰問演奏をしたいという希
望があり、1943年(昭和18年)読売新聞社の企画で南方慰問団を結成、
2度南方に赴き、幾度の死線を突破して音楽活動を続けた。

ところが1945年(昭和20年)、インドネシアで終戦を迎え、インドネシ
ア解放軍、イギリス軍の捕虜となる。この抑留体験が大衆音楽家藤山一
郎の人生を決意させた。1946年(昭和21年)、航空母艦「葛城」に乗船
して復員。この間、巷では藤山一郎、南方死亡説が流れた。

帰国後、コロムビア専属藤山一郎としてスタート。ハバネラタンゴの『銀
座セレナーデ』『ふるさとの馬車』が巷に流れたものの放送に出る機会
はなかった。ようやく1947年(昭和22年)、ラジオ歌謡『三日月娘』に
出てファンは藤山の生還を知り歓喜したのだった。

「三日月娘」は藤山の生還第1声、戦後初のヒットとなった。

私は小学6年生。家には未だラジオが無かったが、向かいの友達が兄さん
の買ってきたレコードをかけて呉れて「三日月娘」を聴いた。
「幾夜重ねて 砂漠を越えて 明日はあの娘(こ)のいる町へ
鈴が鳴る鳴る 駱駝の鈴が 思い出させて 風に鳴る」
作詞:薮田義雄 作曲:古関裕而。共に軽快である。

しかし砂漠と言うものを見たことの無い少年は、なんとなく「月の沙漠」
で砂漠を連想するだけ。しかし「月の沙漠」は千葉県御宿海岸の砂浜を
モチーフに書かれたと聞いた事があり、本物の砂漠もそれこそ果てしな
く広がる砂丘を連想していた。

ところが41歳の時、想像もしていなかったサハラ砂漠上空を飛んで実見
した。果てしなく広がる不毛の土地は間違いないが、岩山あり、谷あり、
水なし。迷ったら死ぬ事必定の地獄だった。

時々、油田のガス抜きの炎が高い煙突から拭いているのが見えて、ここ
がいまや不毛の地が、厖大な冨をこの国にもたらす油を溜めている事を
改めて知らされるのである。

余談だが、私を乗せたのはサウジアラビア政府提供の大型ヘリだったが、
猛烈な騒音が子守唄になってしばし眠ってしまった。「時差ぼけ」をあ
れほど実感した事は無い。

また駱駝に乗ったキャラバンは確かだろうが、厳しいイスラム教の男女
関係を律する教えを知れば知るほど、三日月娘は夢の世界と知る。

サハラ砂漠砂漠(さばく、沙漠とも)とは、雨があまり降らず降雨量よ
りも蒸発量の方が多い土地。植物がほとんど生息せず、水分も少ないた
め、気温の日較差が激しい。

よって農業には適さず、人間の居住が難しい地域(アネクメネ)である。
砂漠地は岩石(メサ、ビュート)、礫(れき)、砂、ワジ(涸れ川)、
塩湖、一部人などが生息できるオアシスなどで形成されている。

「砂漠」という表記からの連想もあり、一般的には見渡す限り砂地が広
がって風紋を織りなしている情景がよくイメージされるが、実際には岩
原など、地形にはバリエーションがある。世界では岩石砂漠、礫砂漠、
砂砂漠の順に多い。

地球上の砂漠は、毎年600万ヘクタールの規模で拡大を続けている。これ
は、上記のような気候による影響だけではなく人間の活動に伴う要素が
大きい。

砂漠化によって、その地域に居住する人々の食料生産ができなくなる。
二酸化炭素の吸収源である森林が減少し、地球温暖化を加速させる など
という深刻な影響がある。

こうした砂漠化を進行させる原因は、熱帯雨林の過剰な伐採により土地の
給水能力が衰える、家畜の過放牧、過剰な焼畑農業などが指摘されてい
る。

当用漢字制定前は「沙漠」という表記が使用されていたが、「沙」が当
用漢字から外れたために「砂」を用いた「砂漠」という表記が使用され
るようになった。なお、「沙」も「砂」も「すな」という意味を持つ漢
字であり、「水が少いから『沙漠』と書く」というのは俗説。

学術用語としては「desert」に対して「砂漠」という訳語が当てられる。
このため、学術用語の「砂漠」はすなじ(砂地/沙地)だけを指すもので
はないことは既述のとおり。

中国語では沙漠(砂漠)・(礫漠)・岩漠・泥漠・等の総称として「荒
漠」を用いることがある。2008・04・11

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年04月15日

◆康範死して歴史に幕

                   渡部亮次郎

文中に登場する作詞家は2008年4月6日ニ88歳で逝去した川内康範氏、政治評論家は故戸川猪佐武氏である。田中、早坂両氏既に亡く、それより早く児玉が死んだ。たった1人残っていた川内氏死して「角栄もみ消し事件」の一つが歴史の闇に消えた。

世間では田中角栄が総辞職したのは立花隆の「田中角栄研究」と思われているが、違う。あの時の『文芸春秋』に同じく載った「淋しき越山会の女王」と言う記事だった。後に田中が私に言った。「とにかく真紀子に「あのこと」で連日ワーワー言われて、それで参ったのだよ」と。

角栄に神楽坂の芸者だった辻なる女性に男の子2人のいることは側近なら皆、知っていることだったそうだが、越山会なる角栄後援会の会計責任者、佐藤昭の娘・敦子が角栄との不倫の子であるとも喝破したのは、筆者・児玉隆也が初めてだった。

児玉があの原稿を発表いた後、私を訪ねてきて「政治家が自分に不利な記事を差止めるため800万円を差し出すことはありますか」と訊かれた。半端な数字だから「それは無いだろう、半端すぎる」と答えた。

児玉によれば光文社の週刊誌「女性自身」誌デスク在任中、田中の(まだ幹事長)女関係を記事にしようとしたら、著名な作詞家が800万円を差し出して「止めてくれ」といった。

断ったが、社内では「児玉は田中からカネを取って記事を差し止めた」との噂が流され、とうとう社を辞める破目になったのです、と言う話だった。

退社して何年もしないで児玉は文春に「淋しき・・・」を書き憂さを晴らした。ただし児玉はガンに冒され、それからいくばくも無く、40前に死んだ。

片方の立花は有名になったが児玉は死んで、マスコミに乗る機会が途絶えたまま忘れ去られてしまった。そのことを塩田潮は『田中角栄失脚』という本(文春新書)紹介している。戦後政治史の裏面が単行本で暴かれたのは初めてである。

私の身分にも異変があった。記者(NHK)として田中首相の哲学の無さをブラウン管で攻撃するものだから、角栄側近(竹下)から来た抗議の電話。

これに唯々諾々と従ったNHK首脳によって大阪に飛ばされた。飛ばす担当者(政治部長、故人)が告白したのだから間違いあるまい。昭和48(1973)年のことである。問題はその後だ。

こんなNHKにいたって将来はないとみた私は自民党代議士・園田直の招きで彼の外務大臣秘書官になった。福田内閣である。この内閣は三木憎しで固まる田中の支持の結果で出来た政権である。その関係で、かつては仲の良くなかった角栄やその側近とも付き合うようになった。

そのため「あの時、児玉対策にどれほど使ったのか」をマスコミ担当の早坂茂三秘書に質すチャンスが来た。そしたら「3000万円を作詞家らに渡したが記事は止まらず、カネも返って来なかった」との答えを得たと言うわけであった。

それにしても3000万円がなぜ800万円にしかならなかったのか。おそらく作詞家と相棒の政治評論家(元読売政治記者)が山分けで猫糞しちまった残りが800万円だったのだろう。

「田中角栄失脚」を読めば作詞家と政治評論家は誰であるか、すぐ推測がつく。こうしたカネを角栄氏はどうせ阿漕な悪事で稼いだんだからいいじゃないか、というのが一般的かもしれないが、あなたは、この話を聞かされて、何を思われますか。

以上を2006年11月26日のわがメイルマガジン「頂門の一針」641号に掲載したら、NHK政治部で同僚だった大谷英彦氏から興味深い話を教えてくれたので追加する。

<角栄のマスコミ買収」を読んで7〜8年前の記憶が蘇りました。
共産党の市会議員もネコババをやりかねないという話です。

川崎市の住宅街に必死の思いのローンでマンションに移って間もなく、裏の谷底みたいな空き地に学生寮が立つというニュースが入り、マンション住民は大騒ぎになった。

その空き地は「取り付け道路もないから、建物は建たない。将来は
緑地にでもなる」と聞いて入居した人も多かったので、早速「建設反対住民集会」が開かれ、誰が呼んだのか、川崎市の共産党市議が「反対闘争」を指導することになった。

「タスキを作れ」「座り込みをやれ」という指導に、居住者の中の最高検の検事らと共に反旗をひるがえし、理事会メンバーも一新。

言い出した以上は解決策が必要。調査の結果、建築主は賄い付き社員寮で成功、今度は学生寮にも進出しようという神田の会社と分かった。

@会社は来年4月の新学期までに完成させないと儲けが減る。
A大手銀行から1人、役員が入っている。

この2点を突破口に当方の要求をのませようという作戦で、地元選出の小泉純一郎代議士が衆院大蔵委員長だったのに目をつけ「協定書の実行保証人」ということで案文を作った。

といっても、議員会館で飯島勲秘書に口頭了解をも求めただけだが・・

4月完成には1日でも惜しいだろうから、交渉中も工事をやらせた結果双方まずまずの解決になった。

日照を失う時間に応じて各戸が補償金を受取ったが、合計額は共産党市議が最初に持ち帰った返事の6倍になった。

相手の社長も満足だったのかホテルオークラに理事を招待してくれた。その席で「いくらなんでも補償金600万では無理ですよ」と発言したら社長は色をなした。「冗談じゃない。私は1千万は提示してましたよ」

あの市議ははじめから400万を抜く気だったのか。共産党でもやるんだ!

九州で公安調査庁の関係者と飲んだ席で、それを披露した。翌年の統一地方選挙で共産党の候補者は交代していた。「へー、公安と代々木(日本共産党)はパイプがあるんだ!」深く感じ入りました。>
文中敬称略 2008・04・13  


2008年04月14日

◆金賢姫の動静は不明



        渡部亮次郎

2007年に アメリカに向けて、亡命のために出国したとの情報が流れるも
現在、大韓民国政府並びに韓国のアメリカ大使館はこの情報を否定。し
かしその後の動静は不明である。

大韓航空機爆破事件の金賢姫死刑囚の特別赦免を韓国政府が決定したの
が今から16年前の1990年の昨日4月12日であった。

大韓航空機爆破事件は、1987年11月29日、イラク・バグダッドから、ア
ラブ首長国連邦アブダビ、タイ・バンコク経由、韓国・ソウル行きの大
韓航空858便・ボーイング707型機が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
の工作員によって飛行中に爆破された航空テロ事件である。乗客・乗員
115人が犠牲となった。

乗客の殆どは中東から帰国する出稼ぎ韓国人男性。事件直後、バグダッ
ドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した不審な男女2名がいた。

この2名は日本の旅券を持っており、30日午後にバーレーンにガルフ航空
機で移動し、同国のマナマのホテルに宿泊していた。

韓国当局もこの「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っ
ていたため、当地の韓国大使館代理大使が、その日の夜に接触した。

これは事件の直前に日本赤軍の丸岡修が日本の東京で逮捕されたが、丸
岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行き
を計画していたことが明らかになっており、日本赤軍が本拠地とする中
東が舞台であることから、事件の関与が疑われていた。

そのため韓国当局は早い時点で2人をマークしていた。また日本政府当局
は「日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。

この2名はバーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとして
いた為、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、その場
で旅券を確認したところ、偽造であると判明した。

日本大使館には身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、
警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸
うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服
毒自殺した。同伴の女も自殺を図ったが一命を取りとめた。

バーレーン警察による取り調べが行われた後、女の身柄は12月15日に韓
国へ引き渡された。その時彼女は自殺防止用のマスクを被せられていた。

ソウルの国家安全企画部で尋問が行なわれたが、女は当初日本人になり
すまし、ついで黒龍江省出身の中国人「百華恵」であると供述、容疑を
否認し続けた。

しかし、取調員からの「普段愛用している服のブランドは?」という質
問に、韓国のブランド名を答えてしまった事から日本人でない事がばれ、
この事をきっかけに一連の航空機爆破の犯行を認め、北朝鮮工作員の金
賢姫(??? キム・ヒョンヒ)であることが判明した。

なお金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾
が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2
人の座っていた機体前方の7A,7B近くのラックの中に入れており、爆発物
は彼女がバックの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。

金賢姫(キム・ヒョンヒ、1962年1月27日―)は、現在46歳。

大韓航空機爆破事件を実行する為「李恩恵」と呼ばれる女性から1981年7
月―1983年3月まで東北里2階3号招待所で日本語教育(日本から拉致され
た田口八重子とみられている)を受け、「蜂谷真由美(はちや まゆみ)」
という名の日本人になりすました。

事件の折り現地バーレーンの警察に捕まる直前、「蜂谷 真一(はちや
しんいち)」と言う名の日本人になりすましていた共犯の金勝一(キム
・スンイル)と共に、煙草を吸うふりをして服毒自殺を図る。

が、金賢姫だけは一命を取りとめた(金賢姫は全く毒物を服用していな
いと言う意見もある)。

その後、韓国国家安全企画部(国家情報院)に引き渡され尋問される際
も中国語や日本語で返答していたが、隠し切れずに自白した。自白後、
聖書を通してイエス・キリストを知り、ソウルのヨイドにある中央浸礼
教会で受浸、クリスチャンになった。

日本語が堪能。北朝鮮で李恩恵と一緒に暮らし、日本の文化や習慣、料
理などを習得した。ちなみに、好きな歌手は山口百恵で、日本の民謡だ
けでなく山口百恵の曲も多く歌える。

父 ― 金元錫。
母 ― 林名植。開城出身(朝鮮戦争前は韓国領)のため隠していた。
妹 ― 賢玉。結婚していたが、夫は心臓麻痺で死亡。
弟 ― 賢洙。
弟 ― 範洙。15歳で皮膚癌で死亡している。

1962年1月27日 外交官キューバ駐在の北朝鮮大使館3等書記官の父と教
師の母との長女として生まれ、生後間もなく父の赴任先であるキューバ
へ。4歳の時に北朝鮮の首都平壌に帰国。

1989年、死刑判決が確定したが、翌1990年 韓国政府によって特赦される。
それが4月12日だったのだ。この特赦は政治的配慮からで、北朝鮮当局か
らの強い要請によるものとされているが未確認。

特赦後、外交官であった実父を含む家族が強制収容所に収容されたこと
を知らされる。

1997年、日本テレビのスペシャル番組「あの人は今!?」に出演。その際、
市川森一にコロッケなどをご馳走した。

1997年、」ボディーガードであった元国家安全企画部員の男性と結婚し
た。その後名前を変え、男児を出産し、ソウル市内で普通の主婦として
暮らしていた。

2005年、国家情報院が事件の再捜査を決定。証人として金賢姫が証言す
る事になった。

しかし、2007年、アメリカに向けて、亡命のために出国したとの情報が
流れたが、現在、大韓民国政府並びに韓国のアメリカ大使館はこの情報
を否定。とはいえ その後の動静は不明である。

後になって、そもそも大韓航空機爆破事件が韓国の国家安全企画部(現
・国家情報院)が仕組んだ謀略ではないのかという疑惑が浮上。

これについて2005年2月、国家情報院の「過去事件の真実究明をとおした
発展委員会」が事件の再捜査を決定。だが、現時点では金賢姫本人の証
言の見通しは立っておらず、実現の可能性は皆無と言う見解である。

事件直後に東ヨーロッパや中東における、金賢姫と金勝一の足跡を丹念
に追った日本人ジャーナリスト野田峯雄は、バーレーンの病院で担当医
師から証言を得た。

それは「金勝一は瀕死の状態だったが、金賢姫には何の異常も見られな
かった」というものだった。ここから金賢姫は本当に北朝鮮の工作員な
のかと問いかけた『破壊工作―大韓航空機爆破事件、葬られたスパイた
ちの肖像』(JICC出版局)を1990年に発表している。

さらにこのノンフィクションを参考にして韓国の作家が2003年、事件は
韓国の国家安全企画部(現・国家情報院)が仕組んだ謀略ではないのか
という疑問を呈した小説『背後』を発表、韓国でベストセラーとなった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・04・11



2008年04月11日

◆ラジオ歌謡の頃

渡部亮次郎

最近、メルマガを通じて知り合った前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。

ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラジオ歌謡」だった。

その前から田舎の家の向かいに1級上の友達がおり、兄さんの買ってきたレコードを蓄音機に載せて聞かせてくれた。霧島昇、東海林太郎、藤山一郎、渡辺はま子、二葉あき子らの歌を小学生が繰り返し聴くのだから頭に染み付く。

それから親父がラジオを買ってきた。戦争に負けて2年経っていた。
当時は民放がまだ無い。NHKでは「ラジオ歌謡」を聴くようになり、高校3年(1958年)、NHK秋田放送局の「のど自慢」に出場して「チャペルの鐘」を歌った。

NHKラジオはなぜかジャズを放送しなかった。さりとてプレイヤーが無いから無理にジャズに親しむ機会のいないまま青春は終わった。終わりは「うたごえ酒場」だった。

ラジオ歌謡(らじお かよう)は、1946年から1962年までNHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送されていた歌番組である。

戦前、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」の目的で始められた「国民歌謡」が、1940(昭和15)年頃を境に戦意高揚、思想統制の道具とされてしまったことを受け、敗戦後、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が『ラジオ歌謡』だった。

また、戦後間もなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったのも、番組登場のきっかけになった。

第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎(やまごや)の灯(ともしび)」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」など、現在も叙情歌として親しまれている作品が数多く発表された。

1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりもラジオ歌謡に登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。

番組では、ただ歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことに配慮したためである。

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2008年04月10日

◆解散風に福田首相は?

渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」・主宰)


福田首相は辞めないのか、という声が次第に高まる中で小泉元首相や古賀選対委員長が解散、総選挙近しを感じさせる「挨拶」を放った。

<小泉元首相 「大事ななんとかの風」 解散総選挙近し?
小泉純一郎元首相は7日夜、横浜市内のホテルで開かれた自民党神奈川県連のパーティーであいさつし、「そろそろ大事ななんとかという風が吹き出した気がする。

前回の衆院選のときの圧勝というのはそうあるものではない。よほど気を引き締めなければならない」と述べ、衆院の解散総選挙の時期が近づいているとの認識を示した。

その上で、小泉氏は「ねじれ国会というが、大きな時代の変化が到来した。首相のときに『大胆かつ柔軟に』という言葉をよく使ったが、今これが大事だ。強い者が生き残るとはかぎらない。政治家も政党も変化に対応できる者が生き残っていく」と強調した。

一方、古賀誠選対委員長も同じパーティーで「年内の解散はないと言い続けてきたが、私も年内の選挙はないとは言わずに、もう危ないぞと言わせていただかなければならない。全力で逆風のなかで立ち向かっていきたい」と述べた。>産経新聞 2008.4.7 20:30

衆院の解散権を持つのは福田康夫首相だから、端で騒ぎ立ててもどうにもならないように見えるが、首相の支持率が「危険水域」の30%を大きく割った直後、両氏の発言の真意をめぐって党内はざわついている。

特に福田政権樹立に最大の力を尽くした野中廣務氏に近い古賀氏が、選対委員長としての立場でありながら突如、解散を口にしたことの意味は大きい。これで野中氏が福田離れを始めたと受け取った向きもある。

また小泉氏の福田支持は元々消極的なものだったから、解散風を煽る発言は福田支持終了を宣言したと受け止める向きも多いことだろう。

肝腎の福田首相は洞爺湖サミットで念願の「議長」を務めることで政局の主導権を固め、場合に依っては内閣改造を匂わせて難局を乗り切ろうとしている。

こうした動きに対して野党民主党は小澤一郎代表がサミット前の解散を狙っている事を先に明らかにしている。伝えられるところでは衆院本会議への欠席が続くなど健康状態の悪化は否定できない状態らしいし、党内の掌握にも難点があるようだ。

そうした中、日銀人事について財務省出身の渡辺博史・一橋大教授を副総裁とする政府案を小澤氏は認めない、鳩山幹事長は認める、と完全に意見対立が表面化するなど党内に亀裂が走ったかに見えたが、小澤主張が通ったようだ。

<日銀人事、民主が渡辺副総裁案に不同意

民主党は8日夜の役員会で、政府が国会に提示した日銀人事案のうち、副総裁候補である財務省の前財務官、渡辺博史・一橋大教授(58)について、不同意とすることを決めた。> 4月8日20時34分配信 読売新聞

これで福田首相の日銀人事案は3度否定されたわけで益々沽券にかかわる事態となった。世論の支持率はさらに低下する事、必至である。そこへ仕掛ける自民党実力者からの解散風は、めぐりめぐって首相の足を引っ張る事は確実である。つまり小泉、古賀(野中廣務)の福田離れを証明したようなものだ。

新聞もTVも慎重だからこのところの政界の動きを何も報じない。しかし見えないところで解散風と共にポスト福田の動きが激しく渦巻いている事は確実である。文中敬称略。2008・04.08

2008年04月09日

◆サミット議長への悪夢

                   渡部亮次郎

福田康夫首相は洞爺湖サミットでの議長に執心しているのは父の赳夫首相(故人)が日本で初めてのサミット(東京)開催を目前にしながら果たせなかった、その夢を果たしたいからだ、とマスコミはかしましい。

しかしそれは赳夫首相が幹事長大平正芳との「密約」を一方的に反故(ほご)にして大平の名誉を傷つけた果てに、大平に総裁選で敗北したからである。私は目撃者だ。NHK]政治記者から赳夫内閣の外務大臣秘書官だったからだ。

田中角栄内閣がその金脈で倒れた後、レフトの三木武夫が金銭のクリーンを名目に後継に指名されたが、田中にその後襲い掛かった
ロッキード事件による逮捕に不満を持つ田中は昵懇の大平正芳やライバルの福田赳夫を語らって三木政権を潰した。

これがいわゆる挙党協による三木潰しである。田中は早くから大蔵官僚(主計局長)上がりの福田をライバル視し、悉く争い、結局は総理総裁レースでは自分が制したものの、福田にその椅子を譲る気は持たなかった。

しかし今は三木潰しが先である。自分が表に出るわけに行かないから
<1976年8月19日、反主流(田中派、大平派、福田派、船田派、水田派、椎名派)6派が中心になって自民党議員277人で挙党体制確立協議会(挙党協)を結成させ、代表世話人に船田中元衆議院議長が就任した。

挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。

挙党協は反三木では一致していたが、三木退陣後の構想については福田赳夫と大平正芳のどちらが次期首相になるかで絞りきれていないもろさが存在していた。

三木首相は1976年9月10日、臨時国会召集を決める閣議で衆議院解散で対抗しようとする。一方、挙党協に参加している15名の閣僚は、解散の文書に署名しないことで対抗する。

三木首相は解散に反対する閣僚15名を罷免してまでして、解散権を行使することも考えていた。結局、三木首相は閣僚を罷免してまで解散権を行使せず、結局、執行部は9月15日に内閣改造で一旦は、決着を付けた。

その後、三木は解散権を行使できないまま、日本国憲法では初の任期満了による総選挙となった。挙党協議員は自民党公認を受けたものの、挙党協は党本部と別に選対本部を設置し、自民党分裂選挙の様相を見せた。

総選挙で自民党は過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、それでも改選前8議席減の惨敗であった)、三木内閣は責任を取って退陣した。

その後、福田赳夫と大平正芳はポスト三木を福田とする大福密約を締結、大角両派と福田派がポスト三木の総理総裁に福田赳夫で一致し、挙党協の総裁推薦候補を福田とする。福田は総理総裁に就任し、福田内閣が発足した。

なお、この抗争中である9月6日にベレンコ中尉亡命事件が勃発したが、政府が三木おろしで忙しくてそれどころではなかったので対処に不都合が生じたという。>(ウィキペディア)

この密約を私は後に確認したが、要するに福田の任期は「2年」でこの間大平は「幹事長」として「協力」するとなっていた。しかし福田の後継者の事は書かれてないものの「大平は福田の総裁就任に協力する」となっている以上、後継が大平であるのは当然だった。

2年経ったところで行われる総裁選挙に福田は立候補せず、大平の筆頭推薦人になってくれるものと大平は思っていた。ところが福田からの電話は「立候補する」だった。大平は「なにッ」と立ち上がった。

マスコミは最後まで福田優勢と言い続けたが、福田惨敗。負けず嫌いの福田の吐いた科白「天の声にもたまには変な声がある」。翌年東京の迎賓館で開かれた東京サミットの議長を首相の大平が勤めたのは当然だった。

首相の首席秘書官だった康夫に父は「密約」のことを知らせていなかった。赳夫は多分三枝夫人にも告げてなかったろう。恥ずかしいことだもの。しかし男と男の約束を反故にするような男にサミット議長をする資格は初めから無かったといっていい。

それなのにいわゆる「40日抗争」や不信任案賛成などを仕掛けて大平を死に追いやった福田父子の罪は永遠に消えない。大平の怨念が洞爺湖サミットに顕れないも限らない。文中敬称略 2008・04・07

2008年04月08日

◆回想の細川内閣

                   渡部亮次郎

新生党代表幹事小澤一郎の工作により、非自民連立政権の首班となることを細川護熙が受諾して成立した細川政権。それが突然、退陣を表明したのだ4月8日。1994年の事だった。

あの時、辣腕を振るった小澤氏が今度は民主党代表として政局の主導権を握り、間もなく政権を握ると息巻いているが、果たして如何なる事態が展開するのかしないのか、興味津々ではある。

政治改革に行き詰まった宮沢内閣に対する不信任案の可決を受けた衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党が躍進し、熊本県知事を勤めていた細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。

この選挙で野党第1党の社会党は大敗し、与党で第1党の自由民主党も過半数に達していなかった。その結果、昭和30年(1955年)の党結成後初めて与党の座から降りる事となった(55年体制の崩壊)。

先に自民党竹下派内の対立が原因で自民党を脱党していた小澤一郎の尽力で野党連合政権の樹立に合意した日本社会党・新生党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合(参院会派)の6党派は、自民党との連携を模索していた日本新党・新党さきがけを取り込むため、日本新党代表の細川護煕を首相候補とすることで合意。

日本新党・さきがけも受諾したため、非自民・非共産政権の発足が決定的となった。 細川は近衛文麿(34・38・39代首相)の外孫にあたる。祖父と孫が共に首相となったのは内閣制創設後初めての出来事であった。日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。

細川は政治改革関連法案が参議院での否決させた際、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正に合意し、中選挙区制に代わる国政選挙制度とし
て、小選挙区比例代表並立制に基づく新たな選挙制度を実現した。また、1993年の冷夏によって起こった米不足で、日本のコメ市場の部分開放を受諾した。

しかし連立政権内での話し合いが円滑に行かなかったこと、細川自身の金銭スキャンダルが野党・自民党に追求されるにいたり、1994年4月8日に電撃的に辞意を表明、25日に総辞職したのだった。

28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。細川政権は1年に満たない短命政権であった。在職期間263日。

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2008年04月07日

◆お気の毒な福田さん

                   渡部亮次郎

福田康夫内閣総理大臣の人気がガタ落ち。共同26%、産経23・8%である。既に「総辞職もの」の数字だ。国会の雛壇でぐったりしている写真を見ると、つくづく同情を禁じ得ない。

<内閣支持率26%に急落 共同通信世論調査

共同通信社が4、5の両日に実施した緊急電話世論調査で、福田内閣の支持率は26・6%で、政権発足後最低だった3月の前回調査から6・8ポイント急落した。

支持率が“危険水域”とされる30%を割り込んだのは、安倍晋三首相の退陣表明直後の昨年9月以来。「不支持」は59・6%で、初めて半数を超えた前回からさらに9ポイント上昇した。

一方、失効している揮発油税などの暫定税率を元に戻すため、税制改正法案を衆院で再議決する与党の方針には反対が64・4%を占め、賛成は26・2%だった。福田康夫首相は国民の反発を覚悟して再議決に踏み切るのか、厳しい判断を強いられることになる。

内閣を支持しない理由では「首相に指導力がない」が32・5%と最多。「経済政策に期待が持てない」は24・0%で6・2ポイント増え、日銀総裁人事をめぐる混乱などが影響しているとみられる。>
2008/04/05 18:50 【共同通信】

私の主宰するメイルマガジン『頂門の一針』には様々な投書が寄せられるが、「産経までも福田叩き」を始めたと非難する投書が寄せられた。

<最近、産經新聞までもが「福田叩き」に加担して、本当に新聞を読む気がしません。

別に福田さんが格別いいとも思いませんが、今の異常な政治状況を前提にしなければ、小泉さんと較べて云々しても意味が無いことを知るべきではないのか。誰が出て来ようと(小泉さんだって)、今はきっと困るでしょう。

戦後初の「ねじれ」によって生じた政治的停滞が、今後外交にも国民生活にも、教育にもボディーブローのように効いてくるでしょうが、今は政界の表面的な現象のみの報道。

間違いなく、最大の被害者は、国民となることは明らかでありましょう。私の周辺の友人と話していると、こうした意見の方々が、かなりいるのですが、そうした考え方はマスコミにあまり見られない。非常に不思議な感じがしてなり ません。>

この投書が言っているように自民党が参院選に大敗して「ねじれ国会」という最大の難関が待っている事は、前任者安倍さんの敢え無い惨敗で証明済みだった。

このとき敢然と後継に手を挙げたのは幹事長麻生太郎だったが、数日を待たずに元官房長官福田康夫がおずおずと名乗りを挙げたので私は不思議に思った。人柄は悪くは無いが、およそ政治家として優れたところの何も無い人が、突然何故、と。

産経新聞とFNN(フジニュースネットワーク)が4月2、3日の世論調査で福田内閣支持率がまた下落して23・8%になったことを報じた(5日)が、その理由の悉くが、政治家福田康夫の限界を証明して余りある。

経済政策=支持しない74・5%
外交政策=支持しない55・4%
指導力=評価しない  75・4%
年金問題=評価しない 67・6%

みんな落第点。1つだけ5割を超えたのは人柄を評価するの55・3%。それも評価しない28・3%付きである。

しかも産経新聞は6日の『産経抄』で「人の厭がることはやらない」という「癒し系」を自任しているような福田首相・・・靖国神社参拝など「人の厭がること」もやって来た小泉氏が再び人気を集めている事の意味は大きい。と指摘した。

内政においては人の厭がることを敢えて為すことが「指導力」であり外交においても他国の厭がることも敢えて行う事が「国益」である。年金、日銀、ガソリン、チベット、北京五輪、ガス田への対応のすべてに現れた福田指導力は国民の期待に悉く反するものだった。

こうした福田氏の政治家としての欠陥は唯一務めた閣僚ポスト官房長官在任中にすべて指摘されていた事であり、それ故に小泉後の安倍内閣で入閣を検討もされなかった理由であった。

それにも拘らずポスト安倍に急遽浮上した理由は一に掛かって自民党内に潜んでいた中国、韓国、北朝鮮に媚びる勢力及び反麻生一郎勢力の結集であった。

それらの勢力の頂点は既に現役を退いて久しい野中広務である。安倍の退陣情報を逸早く知った野中は京都から急遽上京し、キング・メーカーを自任する森喜朗と組んで各派閥領袖を福田支持で押さえ込んでしまった。

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