2008年06月12日

◆水稲単作地帯の性教育

渡部亮次郎

コメを作る稲には水を張った水田に植える水稲と畠に植える陸稲(おかぼ)の2種類がある。日本では水稲が大部分だ。中でも雪の多い日本海岸は二毛作は勿論、裏作もできない。こういうところを専門用語では水稲単作地帯という。

私の生まれた秋田県の旧八郎潟沿岸こそは典型的な水稲単作地帯。加えて地下水位が高く、30センチも掘れば水が上がってくるような土地だから野菜すらろくにできなかった。

東北地方で果樹といえば定番リンゴだが、勿論、水田でリンゴは栽培できない。山や丘なら可能だが、家からそこまでは何キロも歩かなければ到達できない。それくらい水田が広がっていた。

学校で写生の時間があったが、描く対象がない。南米のパンパス(草原)を遠足するようなもので、水田を描くわけには行かない。仕方ないから八郎潟の向こうに坐っている男鹿半島の山しか描かなかった。

秋になると津軽の弘前周辺から行商の伯母さんたちが国鉄(当時)の奥羽線で名産のリンゴを売りに来た。大好物だから母は必ず買ってくれた。

当時は紅玉(紅玉)という品種。皮も実も柔らかかったので、1度に4つも5つも皮ごと食べた。野球部だったから疲れの回復に、とリンゴに加えて砂糖大量に舐めた。

<2006年現在世界では年間約6千万tのリンゴが栽培されている。生産量は中国がトップで、アメリカ合衆国、フランスなどが続く。

日本では青森県、長野県、岩手県で主に栽培されており、青森県は全国の50%のリンゴを生産している。日本の都市でリンゴの生産量が最も多いのは弘前市で全国の約20%を生産している。>「ウィキペディア」

砂糖など甘いものを体内で消化するためにはビタミンB1が必要。
それを知らずにいたものだからビタミンB1欠乏症=脚気になり夏の合宿中に気を失った。心機能を犯す「心臓脚気」と診断された。危うく命を落とすところだった。

先生が医師法違反を承知でこっそり、教員室でビタミン注射を続けて下さったので、間もなく全快。事なきを得た。翌春高校に進学。それでも農作業の手伝いは続いた。

水田単作地帯では季節に合わせて稲作りをする。各家で一斉に苗作りを始めるから田植えは協業で進める事になる。10軒ぐらいが協業を組んでさっさと済まさなければ、苗が伸びすぎてしまって田植えが不能になるからだ。

現在はすべて機械で進める。田植えは各家がそれぞれ1日か2日で済ませることが可能。だから土日だけの農作業、サラリーマン農業.ただし作業は孤独である。女性は田圃から解放された。

昔は田植えに中学生でも動員される。水田に苗を植える女性の前面に脇から苗を蒔き投げる作業は、子供の仕事なのだ。昼になるとあぜ道に弁当をみんなで広げるのだが、そんなところで子供に性教育が施されたものだ。

汚れた下半身を用水路で洗うのだから、女性たちの裸体が眼前に展開する。わざと見せる女性も居る。あまりにも具体的な猥談も展開する。懐かしい思い出だ。昔の農村では、こうしてやんわり性教育が進んだから、いまのような性犯罪は起きなかった。2008・06・10

2008年06月11日

◆ミッドウェー敗北の端緒

渡部亮次郎

太平洋でアメリカと戦っていた日本海軍が「ミッドウェー海戦」に敗れ
たのが大戦敗戦の始まりだったが、これを誘発したのが1942年4月18日の
米空軍ドゥリットル中佐指揮するB25爆撃機16機による京浜地帯中心の本
土爆撃であった。私は秋田県で国民学校1年生(7歳)、何も知らなかっ
た。

この本土空襲は日本軍部に大いなる衝撃を与え、結果、日本敗北に繋が
る。米国としては、劈頭の真珠湾先制攻撃で低下していた戦意の高揚を
狙っただけのもの。後の日本本土空襲に繋がるものではなかった。

だが日本軍部は過剰反応。ミッドウェー諸島にある米軍の陸上基地攻撃
に踏み切った。本土空襲の基地と見たのである。電波探知機も無いのに
無謀な攻撃であった。

中部太平洋のミッドウェー諸島周辺海域で行われた日米両機動部隊によ
る海戦。この海戦を境に戦争の主導権はアメリカに移った。敗戦の始ま
り。だから軍部は隠蔽に懸命だった。

防衛ラインの拡大とアメリカ機動部隊の撃滅を狙った日本は、1942 (昭
和17) 年6月5日、航空母艦4隻を基幹とする47隻の機動部隊で、ミッドウ
ェー諸島にあるアメリカ軍の陸上基地を攻撃した。

しかし索敵活動を軽視したため、すでに作戦を察知していたアメリカ機
動部隊を発見するのが遅れ、アメリカ艦載機の急降下爆撃による急襲を
受けて被害を蒙った。

この海戦で、日本は空母4隻、重巡洋艦( 巡洋艦)1隻、航空機約300機、
将兵約3000名以上を一挙に失ったのに対し、アメリカは空母1隻、航空機
約150機の被害にとどまった。

この結果、航空機多数と空母の損害で中部太平洋での制海・制空権の優
位性を失った日本は、以後、連合軍の反攻にさらされることになった。

アメリカは事前に日本海軍の暗号解読に成功しており、作戦行動のすべ
てを知っていたことが勝敗の分かれ目となった。(Microsoft(R)
Encarta(R) 2006.)

真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、
日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア州
サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を
受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計
画を立てたもの。

アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に
日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のた
めの基地使用は行えなかった。

また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空
母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動ける空
母機動部隊が危険に晒されることを意味した。

そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃
機を空母から発艦させてはどうだろうか」とルーズベルト大統領に進言。
B-25爆撃機を急遽、空母の短い飛行甲板から発進出来るように軽量化を
図った。

陸軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦はトップシ
ークレットとされた。

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2008年06月09日

◆ジョン・マケインとは

渡部亮次郎

<ヒラリー支持派はオバマに負ければ棄権せずに共和党のマケインに入
れるという者が増えているとか。昨年夏に「ヒラリーは大統領になれな
い」と教えてくれたユダヤ系アメリカ人は「オバマは大統領になれない」
と言っています>という信憑性の高い情報が届いた。

「ジョン・マケイン(共和党)大統領」の可能性が高くなってきたのだ
ろうか。元々アメリカ民主党は日本への関心が薄く、特にヒラリーは日
本無視の中国一辺倒だから「歓迎すべき」情報である。

ブッシュ2世は明らかにイラク戦争で失敗した。だから共和党は次期大統
領戦で不利、と観るのが普通だ。それがそうでないのは民主党内の抜き
差し成らぬ内部対立の激しさ。

人種差別よりも激しい女性差別に挑んだヒラリーの命がけの挑戦が、結
局は民主党を犠牲にしたというところでは無いか。30年前の女性運動を
思い出しながら、見守っていた。

ジョン・シドニー・マケイン3世(John Sidney McCain III、1936年8月
29日―)年齢は福田首相と一緒だ。に会った事は無いし取材したことも
無い。「ウィキペディア」が頼りである。

パナマ生まれ。海軍兵学校卒業。連邦下院議員(1983年 - 1987年)、連
邦上院議員(アリゾナ州選出、1987年―)。2008年大統領選挙における
共和党の指名候補である。

共和党の重鎮議員だが、党派にとらわれない議会活動で知られ、しばし
ばmaverick(一匹狼)と形容される。

マケインは同盟国を中心とした民主国家との連携を重視し、2008年大統
領選に向けた外交構想において、それを「民主国家連盟」という概念の
下に提示した(フォーリン・アフェアーズ2007年11-12月)。

2008年大統領選の有力候補のうちでは、比較的日本に対する人脈や関心
が強いと言われており、そのアジア政策の作成には海軍兵学校の後輩に
あたるリチャード・アーミテージが関わっている。

日米同盟の強化、拉致問題を含む北朝鮮の人権問題への関心、日本の国
連安保理常任理事国入りへの賛意、「価値観外交」「自由と繁栄の弧」
への言及などにそれが現れている。

こうした対日関係を重視する政策については、日本政府関係者などに、
現ブッシュ政権との継続性という観点から望ましいとする見解が多いが、
集団的自衛権問題をはじめ安全保障協力における対日要求も強まること
も指摘されている。

タカ派であり、介入主義的な傾向を持つ。ブッシュ大統領の「自由とデ
モクラシーの価値観を世界に広める」「全ての圧政の打倒」といった主
張を支持し、いわゆるネオコンの外交思想と通ずる部分も多い。

現実に、同勢力の論客であるウィリアム・クリストルやジョン・ボルト
ンはマケイン支持を表明している。イラク戦争については「フセイン独
裁打倒」という点から支持、2002年にはジョー・リーバーマンらと共に、
イラクへの武力行使を可能とする決議を提出した。

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2008年06月08日

◆勿忘六四天安門虐殺

渡部亮次郎

今から19年前、1989年の6月4日、北京の中心地天安門広場で共産党の命令
を受けた人民解放軍が、自由を求める群集に無差別発砲した事件があっ
た。

事件による死者は、中国共産党政府の発表では319人となっているが、数
百人から数万人の間で複数の説がある。しかも広場から完全にデモ隊が
放逐された後に、人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼
却されたという情報があるし、共産党政府によって多くの死体が隠匿さ
れたという報道もある。

共産化された中国は革命家毛沢東存命中は貧しかった。その死後、権力
を握ったトウ小平が外資導入を伴う経済の開放化路線に踏み切った途端、
猛烈な経済成長が始まった。これに並行するように先輩格の共産主義国
家ソヴィエトでは政治の開放化が始まっていた。

1985年3月に登場したミハイル・ゴルバチョフ書記長が、共産党による一
党独裁政権が続いた中で言論の弾圧や思想、信条の自由が阻害されたこ
とや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために
「ペレストロイカ」を表明し同国の民主化を進めていた。

そこで1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和
国でも、1986年5月に胡耀邦総書記が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱し
て言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集
めた。

しかし胡は1987年1月16日の政治局拡大会議でトウ小平ら党内長老グルー
プや保守派によって事実上失脚させられ、11月には後任に改革派ながら
穏健派と目された趙紫陽が総書記に選出された。

失脚後の胡はその後、北京市内の自宅で公安警察の監視のもと外部との
交流を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、その後2年も経たない1989
年4月15日に心筋梗塞のため死去した。

民主化に積極的であった胡の死去を受けて翌16日には北京の大学生を中
心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。

これを契機として16日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心と
したグループが北京市内で小規模な集会を行った。当然「仕掛け人」が
操っていた。

学生を中心とした民主化を求めるデモは、4月22日には西安や長沙など全
土に広がっていった。

これを受け、穏健派の趙紫陽総書記が北朝鮮を公式訪問していた隙の4月
24日に、中国共産党政治局がこの活動を「反政府動乱である」と規定し
人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように
国民に呼びかけた。

だが活動は逆に拡大をみせ、その後の五四運動の70周年記念日にあたる5
月4日には北京の学生、市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会
を行った。

5月中旬には全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数
は50万人近くになり、公安警察による規制は効かなくなり、天安門広場
は次第に意見を自由に発表できる場へと変貌していった。

この様な状況下にもかかわらず、5月15日には、「改革派」として世界的
に知られていた、ソビエト連邦共産党のミハイル・ゴルバチョフ中央委
員会書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表
明するために、当初の予定どおりに北京を公式訪問した。火に油を注い
だ。

その頃、戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本や西側諸
国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党政府によって次々
と遮断されていたものの、アメリカのCNNは依然として生中継を続けてい
た。

6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によっ
て、中国人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を
中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。

一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は
中国共産党首脳部の命令に忠実に市街地で争乱を繰り返す民衆に対して
無差別に発砲した他、装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を
死傷させた。

この様な無差別な武力鎮圧は数時間に亘って行われた。学生運動の主立っ
たリーダー達は武力突入前後には現場から姿をくらまし、支援者らの手
引で海外に亡命した。

天安門虐殺事件。カギはゴルバチョフ、胡耀邦、トウ小平、学生。

あれから19年。資本主義化は一段と進んでいるのだから、自由を渇望す
るマグマは・・・当然であろう。出典「ウィキペディア」
2008・06・03

2008年06月07日

◆私が左翼に染まらなかったわけ

渡部亮次郎

それは反面教師のような両親がいたからである。秋田県中央の日本海につながっていた八郎潟東部沿岸に展開する水田ばかりの農村。
八郎潟の魚と大豆を唯一の蛋白源として育った。

貧しいが故に父親は若い頃から農民運動に奔走。母もそれに同調していたらしい。並行して父は農用地拡大を狙いとして戦前から八郎潟干拓を主張。戦後は県庁に日参していた。

当然、支持政党は戦後は日本社会党。支部の役員を務めた時期もあった。干拓で得た水田は父の死後、女婿がすべて借金のカタに農協に取られて止むを得ず、農家で無くなった。

私の単純な疑問は、日本社会党が米作農民の政党というなら、同じ農家の隣近所はどうして社会党支持じゃないのか、だった。保守政党にも農民支援策が有るのでは無いか。

そんな事よりも戦後何年経っても正月を旧暦でやる風習を何とかしてもらいたいと、村中を新聞メガホンで叫んで廻った。その所為ではなかったろうが、間もなく冬休みと正月が重なるようになった。

大学では総長が新聞は朝日、雑誌は『世界』を読め、と入学式で訓辞したので絶対『世界』は読まなかった。生来、けしかけられると反発する性格が幸いして、全学連の連中のアジ演説には近付かなかった。

大学の新聞部は殆ど代々木(日本共産党)の支部みたいだったから敢えて除名されて助かった。授業はすべてマルクスに繋がっていたから理論は理解したが、染まらずに済んだ。

マルクスに繋がらない授業はベトナム帰りの秋田県人。私の鼻濁音を褒めてくれたので、フランス語に夢中になった。就職試験もフランス語で合格したと言うと、現在となっては信じられないと友人はいう。

社会人になってからは会社の労働組合役員にさせられたことがあったが、彼らの訴えることとやっている事が矛盾してとすぐ分かってやめた。

政治記者としては社会党も共産党も担当したが、マルクスの言った事は理想論。永久に現実のものとならない論、いうなれば念仏みたいなものと理解していたので、1年でクビ。

いわゆる安保騒動の時は仙台にいた。仮に学生だったとしても参加するはずも無い。アジ演説は聞き流してしまう、つむじ曲がりの性格だから、仲間に引っ張られれば引っ張られるほど反発して敵に回ったろう。

こんな性格は誰から伝わったDNAだろうと考えて不思議な気持になる。両親は何に反発して社会主義者になったのか。貧困への反発であろう。私を育て上げるためのマルクス信者だったのではないか。

それなのに、こんな文章を書いては申し訳ないようなものだ。父は80にして老衰死、母やその後も20年近く生きて、98でポックリ死した。これだけは遺伝していて欲しい。08・05・29

2008年06月01日

◆駅弁大学の日

               渡部亮次郎

秋田県に大学は無かったが、占領軍によって各県に1つは国立大学を置くべきだとの考えから秋田師範学校と秋田鉱山専門学校が合併する形で秋田大学が出来た。昭和24年5月31日である。

新制国立大学設置法がこの日、公布されたことに伴うもので、この日、全国で68もの国立新制大学が発足。国立山形高等学校は格下の山形師範学校と一緒にされて山形大学となった。

北隣の青森県・師範学校と国立弘前高校を一緒にして青森ではなく弘前大学とした。青森大学はその後出来た私立大学である。

同時に東京では東京商科大学は一ツ橋大学、東京女子高等師範学校がお茶の水大学と改称された。

占領米軍は対米戦にいたる軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして健全な知識階級の絶対数の不足を指摘し、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになったわけだ。

しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。

とくに、教員養成課程は戦前は中等学校レベルである師範学校が母体となったため「2階級特進」などと揶揄された。

その結果、「国鉄の急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で新制大学が急増した。

そこで辛口論評を得意としていた評論家の大宅壮一がこれを諷して「急行の停まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言した。

かつての進学校生徒などが「地元の駅弁を出て、でもしか教師になり、気楽な一生をすごすのさ」などと使うのが、典型的な用例であった。先生に「でも」なろうか、先生に「しか」なれない人を称して「でもしか先生」と揶揄した。


戦前のいわゆる旧制大学は、1877年にお雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され、1886年の帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。

この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになった。

その後、東京の組織を手本に京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)が各地に誕生した。

なお、京都帝国大学の設立時に、東京の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。

一方、その頃すでに1903年にはいくつかの一定水準に達した専門学校が専門学校令による「私立大学」として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとされる。

その後第一次世界大戦の好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果1918年に公布された大学令によって官立、公立の単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。

これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった。

大宅は特定の大学を指して「駅弁大学」と揶揄したことはなく、その定義は明確ではない。

「東京都以外に所在し」かつ「法学部・医学部がなく」(ただし、近年医学単科大学と合併したところを除く)かつ「教育学部、経済系学部や工学部が中心」の国立大学を指すと考えるのが妥当ではないか。

主に、「旧制師範学校」や「旧制高等学校」が母体となった新制大学を指し、「旧制高等師範学校」、「旧制女子高等師範学校」、「旧三商大」(小樽、東京、神戸)などが母体となっている場合は駅弁には含まれないと考えられる。

1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立綜合大学令と名称変更され、それに伴い各地の帝国大学は改称し、学制は保持しつつも帝国大学の名は消えた。

その後、1949年(昭和24年)に新制大学に包括され(学制改革)、1962年(昭和37年)に各旧制大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学もなくなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』08・05・30

2008年05月31日

◆私が左翼に染まらなかったわけ

                     渡部亮次郎

それは反面教師のような両親がいたからである。秋田県中央の日本海につながっていた八郎潟東部沿岸に展開する水田ばかりの農村。
八郎潟の魚と大豆を唯一の蛋白源として育った。

貧しいが故に父親は若い頃から農民運動に奔走。母もそれに同調していたらしい。並行して父は農用地拡大を狙いとして戦前から八郎潟干拓を主張。戦後は県庁に日参していた。

当然、支持政党は戦後は日本社会党。支部の役員を務めた時期もあった。干拓で得た水田は父の死後、女婿がすべて借金のカタに農協に取られて止むを得ず、農家で無くなった。

私の単純な疑問は、日本社会党が米作農民の政党というなら、同じ農家の隣近所はどうして社会党支持じゃないのか、だった。保守政党にも農民支援策が有るのでは無いか。

そんな事よりも戦後何年経っても正月を旧暦でやる風習を何とかしてもらいたいと、村中を新聞メガホンで叫んで廻った。その所為ではなかったろうが、間もなく冬休みと正月が重なるようになった。

大学では総長が新聞は朝日、雑誌は『世界』を読め、と入学式で訓辞したので絶対『世界』は読まなかった。生来、けしかけられると反発する性格が幸いして、全学連の連中のアジ演説には近付かなかった。

大学の新聞部は殆ど代々木(日本共産党)の支部みたいだったから敢えて除名されて助かった。授業はすべてマルクスに繋がっていたから理論は理解したが、染まらずに済んだ。

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2008年05月30日

◆日独伊三国軍事同盟

                     渡部亮次郎

日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい)とは、1940
年(昭和15年)9月27日に日本(大日本帝国)、ドイツ(ナチス・ドイツ)、
イタリア(イタリア王国)の間で締結された同盟条約。

1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年の日独伊三国防共協定に引
き続き、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊
の指導的地位の相互確認。

調印国いずれか1ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると
取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟と見なされ、日本の対英、
対米関係は極端に悪化した。

日中戦争で既に莫大な戦費を費やしていた日本は、蒋介石政権を支援す
るアメリカと鋭く対立していた。欧州戦線で快進撃を続けるナチス・ド
イツを見て、日本政府はドイツと手を結びアメリカを牽制しようと考え
た。

また、日本がアジア太平洋地域の英仏蘭の植民地(インドネシアなど)
を支配することを、事前にドイツに了解させる意図もあった。

実際、外務事務当局が起案した「日独伊提携強化案」には、前述した地
域が日本の生存圏内にあることをドイツは認めるべきという趣旨のこと
が明記されている。

アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、
主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の拡大の
為に撃破しなくてはならないと考えていた。

しかし、巨大な工業力を持つアメリカ合衆国を警戒したヒトラーはアメ
リカを牽制する為にアメリカ及びソ連と背後で対立する日本と手を結ぶ
ことを考えた。

イギリス・アメリカ等の世論はイタリアのムッソリーニ首相を世界平和
を乱す社会悪と認識。もはやイギリス、アメリカとの交渉が不可能となっ
ていた。

そこでムッソリーニは同じファシズム国である日本とも関係を強めてア
ジアにおけるファシズムの影響力を強め、戦後世界でのイタリアの発言
力を強めようと考えていた。

更に、ドイツと既に同盟を結んでいたという既成事実がイタリアの条約
参加に拍車をかけた。

三国同盟の締結に対し、英米協調派が比較的多かった海軍は反発した。
山本五十六、井上成美、米内光政は「条約反対3羽ガラス」と条約推進
派(親独派)から呼ばれていた。

他にも岡田啓介、小沢治三郎、鈴木貫太郎、陸軍では石原莞爾らが条約
締結に反対していた。閣内でも吉田善吾海軍大臣、石黒忠篤農林大臣ら
は反対を唱えた。

だが、吉田海軍大臣の病気辞任と後任の及川海軍大臣、近衛首相・松岡
洋右外相らの説得により、北守南進の国策に沿って「バスに乗り遅れる
な」というスローガンのもと、条約締結に進んだ。

こうして利害関係の一致を見た日独伊は軍事同盟を締結するに至る。

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2008年05月28日

◆国連ポストを敬遠?

                      渡部亮次郎

日本の初代国連大使は加瀬俊一(としかず)氏だと誤解している人が多い。加瀬氏は国連加盟後の初代大使。加盟に努力した初代大使がいた。沢田廉三氏である(1954年4月1日―1955年7月)。

妻の美喜(孤児院エリザベス・サンダースホーム創設者)は元三菱合資会社社長・岩崎久弥の娘で、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘にあたる。兄の節蔵も外交官。

第2次世界大戦を枢軸国の一員として戦った日本にとっての初代
国連大使であるが、在任中に日本の国際連合加盟を実現させる事は出来なかった。しかし、国連大使退任後には外務省顧問に就任し、1956年の日本の国際連合加盟実現に貢献した。

加瀬俊一氏1903年(明治36年)1月12日― 2004年(平成16年)5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。
終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同字の別人である。外務省内では入省年度が早い(1920年入省)彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。
4代目岡崎勝男氏(1961年6月ー1963年6月)は外務事務次官、内閣官房長官(当時は非閣僚)、外務大臣を務めた後、国連大使になった。珍しい経歴と経緯。

1945年10月幣原内閣が発足し、吉田茂が外相になると大幅な人事異動を行った。これを機に岡崎は辞表を提出するが、その身の処し方が吉田の印象に残ったとみえ、直接電話で呼び戻され、しばらく吉田のアシスタントのような仕事をしていた。

翌1946年第1次吉田内閣の発足とともに正式に外務省に復帰し、総務局長、事務次官を務める。この時に戦時中、ユダヤ人7000に勝手にビザを発給したあの杉原千畝に退職勧奨を行っている。

1949年第24回衆議院議員総選挙に、民主自由党から旧神奈川3区にて立候補し当選する。以後当選3回。

衆院外務委員長を経て、1950年第3次吉田内閣第1次改造内閣で内閣官房長官として入閣する。1952年には国務大臣として、米国ラスク国務次官補と交渉の上、駐留軍への施設提供・費用分担を取り決めた日米行政協定を締結した。

また。同年より外務大臣となり、1954年には日米相互防衛援助協定(MSA協定)を締結した。

このように、吉田対米協調路線の忠実な代弁者として、重要な協定の締結にあたってきたが、あまりに熱心過ぎたためか、1954年4月には日米協会でのスピーチで「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と述べてしまった。

第五福竜丸被爆の悲劇の直後であったために国民の憤激を買った。吉田退陣後は1955年・1958年と続けて落選し、政界を引退する。

その後はアラビア石油相談役、国連大使(1961年―1963年)などを務めた。経歴からすると相当な「役不足」。さぞかし不満なNYの2年間だったことだろう。

その後を継いだのは松井明氏(1963年7月―967年7月)だったが、退任後に大きな話題を残した。

1980年頃に、昭和天皇とダグラス・マッカーサーの会見4回、マシュー・リッジウェイとの会見7回の通訳をした際の極秘メモを手記にまとめた。

侍従長入江相政に出版を止められ、1989年になってから著書にメモがある旨を書いた。1994年1月に産経新聞に手記がある旨を明かした。2002年8月5日に朝日新聞がそのメモの詳細について報道した。

私が外務大臣秘書官になったのは1977年11月だから、当時の国連大使は安部勲氏(1976年4月―1979年7月)。78年2月にNYで就任挨拶をさせていただいたが、伸びた鼻毛の先に鼻くそがついていて可笑しかった。それが退任後、宮内庁の式部官長になったのでまた可笑しかった。

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2008年05月26日

◆国家総動員法の恐怖

                     渡部亮次郎

私の生まれた2年後の第1次近衛文麿内閣時代、当時の企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。大財閥を中心とした経済界はこの法案に対して、法律に拠らない私権の制限であり社会主義的であるとの批判を持っていた。

ところが戦後、日本社会党となる社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

私の高校、大学時代は昭和史はまだ歴史として定着していないという理由で教育されなかった。だから昭和生まれと言っても敗戦前のことは自分で勉強するしかない。いずれ国家総動員法の恐怖を知る者と知らない団塊の世代とでは決定的に違う。

団塊の世代とやらは、民主主義を当然として成長したが、70代の我々はそれを信じられない。それで学生運動に挫折したが、団塊の世代は改革を信じて挫折した。北朝鮮にあこがれた馬鹿もいた。

1938年(昭和13年)4月1日公布,5月5日施行された。シナ事変を戦いながら総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定した。この時点ではまだ対米戦を想定はして
いないが、何か大戦を意識はしている。

1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に廃止された。

同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。

労働問題一般=国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消

物資統制=物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動

金融・資本統制=会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、
社債募集、企業経理、金融機関の余資運用

カルテル=協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入

価格一般=商品価格、運賃、賃貸料、保険料率

言論出版=新聞・出版物の掲載制限

しかも法律上にはこれら統制の具体的内容は明示されず、すべては国民徴用令をはじめとする勅令に委ねられていた。このことから、同法をナチス・ドイツによる授権法(1933年)の日本版になぞらえる説もある。

この結果、日本中すべて「統制」され、すべてに「自由」と「勝手」が無くなり「逼塞感」が充満。結局は対米戦争に突っ込んで行くことになっ
た。

秋田の農家だった私の生家の作業場にはなぜか謄写版があった。コピー機である。だが間もなくインクが買えなくなり無用の長物となった。やがて学校では習字の用紙が無くなり、墨で塗りつぶした新聞紙に水で書いて練習した。洋服もゴム長も「配給」になった。

もともと第1次世界大戦(1914年7月ー18年11月)の教訓により、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。

折からシナ事変(1937年―)の激化に伴い、当時の日本経済でシナで活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。

この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。

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2008年05月24日

◆チリ地震津波の取材

                     渡部亮次郎

チリ地震(チリじしん)は、1960年(昭和35年)5月22日午前4時11分20
秒(日本時間)、チリのバルディビア近海を震源として発生した地震。

日本を含め、環太平洋全域に津波が襲来した。 表面波マグニチュード
(Ms)8.5、モーメントマグニチュード(Mw)9.5と、有史以来観測さ
れた中で最大規模の地震である。四川も及ばない。

日本では地震による津波の被害が大きかった。地震発生から22時間後に
最大で6メートルの津波が24日の未明、三陸海岸沿岸を中心に襲来し、
142人が死亡した。私はそれを取材した。

当時、NHK記者初年兵で仙台中央放送局(当時はこういった)放送部報道
課所属3級放送記者1年生。近所の下宿へいきなりタクシーが迎えに来て局
へ駆けつけた。当直の先輩記者高野悠(ひさし)が「地球の裏側から津
波が来て、三陸沿岸一帯、相当の死者、行方不明者が出た」。

宮城県北部の女川(女川)町(港)への出張を命じられ、確か局車で出発
した。途中、国鉄塩釜駅の跨線橋の上に小型漁船が載っているのを目撃、
被害の酷さを実感した。

後で聞いた話では、当日、NHKのカメラマンが塩釜に泊っていたが、津波
と聞いて高台に避難、津波来襲の瞬間を映せなかった。彼はこれが一生、
祟った(既に故人)。東京勤務が大幅に遅れた。

しかし、私の女川行きも褒められたものではなかった。町が一面の泥濘。
歩けたものじゃないのはともかく、津波の余波?が来襲、と当惑して走
る人々の様をデンスケで録音した心算が、失敗。私も走ったものだから、
リールが空周りしていたのだ。

被害が大きかった岩手県大船渡市では津波により53人が死亡。一方で度
重なる津波被害を受けた田老町(現在の宮古市)では高さ10メートルの
巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。

まず前震がM7.5で始まり、M7クラスの地震が5〜6回続いた後、本震がM8
クラスで発生した。また余震もM7クラスであったために、首都サンティ
アゴ始め、全土が壊滅状態になった

地震による直接的な犠牲者は世界規模で1743人。負傷者は667人。また、
アタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7メートル沈み込むとい
う大規模な地殻変動も確認された。

また有感地震が約1000キロメートルにわたって観測された。史上初の地
球自由振動の観測に成功し、地震波は米国で地球を3周した事が確認され
た。

地球の裏側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かっ
た事が指摘され、以後、気象庁は海外で発生した海洋型巨大地震に対し
ても、たとえばハワイの太平洋津波警報センターと連携を取るなどして
津波警報・注意報を出すようになった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによれば

<今世紀最大の地震。震央はバルディビア市沖であるが,地殻変動は
1000kmにわたって生じ,グアムブリン島(ソコロ島)では5・7mの隆起,海
岸沿いの内陸部では3mに近い沈下がみられた。

チリでは地震動と津波により約2000人の死者が出たが,津波は全太平洋
に波及し,各地に被害をもたらした。

日本では日本時間24日午前2時ごろから5時ごろにかけて太平洋岸の各地
にチリ地震津波の第1波が到着し,三陸沿岸で5〜6mに達したほか,志摩
半島などでも高く,死者119人,行方不明20人,家屋全壊流失2830,半壊
2183の被害がでた。

南アメリカ沖の巨大地震による津波が日本を襲った例は過去に数回ある。
この場合にはハワイも被害を受けているので,日本はハワイと連絡を密
にとることにより,津波の到着の6時間前にその大きさを知ることができ
る。

1960年チリ地震は以前から理論的に予測されていた地球の自由振動が初
めて観測された点でも画期的であった>。

津波取材を終えて1ヵ月後、盛岡放送局(岩手県)に転勤を命ぜられた。こ
こに4年いた。しかし、着任1年後、今度は北上山地で大山火事が起きて3
日3晩、寝なかった。2008・05・23


2008年05月23日

◆鈴木梅太郎の悲劇

                     渡部亮次郎

鈴木梅太郎(すずき うめたろう、1874年4月7日―1943年9月20日)は、
日本の農芸化学者。1910年、米の糠から抗脚気因子として世界初のビタ
ミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見し
たにも拘わらず外国人に功績を先取りされた。

勲等は勲1等。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章
受章者ではあるが科学の世界では悲劇の人といわざるを得ない。医学者
ならざるが故にノーベル賞を逃した。

静岡県榛原郡堀野新田村]に、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。農
科大学(現東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授
を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。東京帝国大
学を退官後は東京農業大学農芸化学科教授に就任している。

ビタミンの発見

1910年、米の糠から抗脚気(かっけ)因子として世界初のビタミンであ
るアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見した。

しかし、このときの論文がドイツ語に翻訳される際、「これは新しい栄
養素である」という1行が訳出されなかったためオリザニンは世界的な
注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみ
となってしまった。

アベリ酸報告の当時は、東京帝国大学医学部を中心とする多くの医学者
の間で脚気感染症説が信じられていた。某医学者(青山胤通あるいは森
林太郎(森鴎外)のことともいわれる)は「農学者が何を言うか、糠が
効くのなら小便でも効くだろう」と非難したという。

しかし実際にこれによる脚気の治癒例が相次ぎ、脚気感染症説論者もオ
リザニンの効果を信じざるを得なくなった。ただし、森林太郎は死ぬま
で自説の誤りを認めなかったと伝えられている。

森は当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌によ
る感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイ
ギリス医学)と対立した。

自説に固執し、当時陸軍で採用していた脚気対策の治療法として行われ
ていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支
給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。

但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関
係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であ
るとしていた。

ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死
させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木に
より食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためで
ある)。

実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のため
に戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの
日本兵を殺した」との批判も存在している。

日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦
飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争
当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰され
た経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外
の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発
見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。

はじめて詳しい化学実験をしたのは鈴木梅太郎であった。1910年,彼は
米ぬかから有効成分の単離に成功し,12年これにイネの学名 Oryza
sativa にちなんでオリザニンOrizanin と名づけた。しかし成果は世界
的に発表されなかった。

1年後の1911年,ポーランドのフンク Casimir Funk(1884‐1967)がロン
ドンのリスター研究所で米ぬかから鳥類白米病に有効な物質を発見した
と発表し,これに生命vita に必要なアミン amine という意味からビタ
ミン vitamine と名づけ、彼のほうが第一発見者と記録されてしまった。
日本の医学会が鈴木を妬んだからという説が有力である

しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。ま
た、赤痢菌を見つけた志賀潔らが脚気の栄養由来説を支持したこともあ
り、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。

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2008年05月20日

◆文化大革命は毛沢東の仕業

                     渡部亮次郎

1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会
(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委
員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革
命の定義が明らかにされた。

だが実態は、失脚者毛沢東が引き起こした権力奪回闘争であった。大躍
進政策の大失敗により国家主席を辞任して以来、危機感を深めた毛沢東
が、劉少奇国家主席やトウ小平らから権力を取り戻すために仕掛けた大
規模な権力奪還闘争に過ぎない。略称は文革(ぶんかく)。

「政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動」のはずが、実際には
ほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され
た。

結果的に約1,000万人以上((異説では3,000万人))と言われる大量虐
殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間にわたる混乱に陥った。

始めは毛沢東指示の下、国家主席劉少奇からの政権奪還を目的として林
彪の主導により進められた。

林彪の毛沢東暗殺失敗に伴う国外逃亡時の事故死後は、毛夫人江青ら
「四人組」に率いられて毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設
を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争に大
衆を巻き込んだ大粛清であった。

共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家な
どの資本家層が、さらに学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となっ
た。尖兵実働隊が紅衛兵(男女)だった。

その後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが
甚大な被害を受けた。これによって中国の経済発展は20年遅れたと言わ
れている。一般の革命とは一線を画すクーデターだった。

1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、
(1)1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であ
ったこと (2)建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと(3) 中ソ
対立など国際的な社会主義運動の対立 などがある。

1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞
罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した
京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。

1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶
元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の
壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。

8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命
小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているの
は1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。

江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四
人組は実は毛沢東を含めて「五人組」であったとすべきだろう。

原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼
ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大
を続けた。

実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目された!)(トウ)小平や劉少奇
などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判
の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる
吊し上げが日常的に行われた。

実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊
し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦
伯賛、呉!)、儲安平らは自ら命を断った。

極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・
宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏
像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品
で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一
つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって
多くの人々を動かし暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事
に対する、明確な説明あるいは謝罪を行っていない。

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