渡部 亮次郎
菅内閣の財務大臣野田佳彦 (のだ よしひこ)氏が後継首相候補に浮上している。菅首相より10歳も若いことに加えて野田氏が後継となれば,政策の継続性が確保できるという判断があるという。
<野田財務相擁立で調整=仙谷、岡田氏ら一致―民主代表選
民主党の仙谷由人代表代行(官房副長官)、岡田克也幹事長らは9日までに、退陣表明した菅直人首相の後継を選ぶ党代表選に野田佳彦財務相(54)を擁立する方向で調整に入った。
東日本大震災からの本格的復興策を盛り込む2011年度第2次補正予算案や、11年度予算執行を裏付ける特例公債法案の早期成立に向け、野田氏が後継となれば政策の継続性が確保できると判断した。
野田氏は同日、衆院議員会館で開いた自身のグループの会合で「こういうときにバタバタするのは良くない。一球入魂で職責を果たすのみだ」と、職務に専念する姿勢を示すにとどめた。
ただ、出馬には前向きとされ、同氏周辺は「推されれば立候補する」と強調。岡田氏に近い党幹部は記者団に「野田氏は有力な後継候補だ」と述べた。>時事通信 6月9日(木)8時15分配信
<演説力は「党内ナンバー1」と言われており、2005年の総選挙の際は、候補者の応援演説の依頼が岡田代表(当時)、菅直人、小沢一郎に次いで多かった。衆院選挙に初出馬した際にJR津田沼駅前で12時間連続で選挙演説したことがある。
企業献金を受け取らず、個人献金のみで政治活動をしたり、毎朝、駅前での演説を県会議員になる前から20年間毎日続けるなどの活動は、松下政経塾出身者の選挙スタイルのパイオニアになっている。
地元の千葉県に松下政経塾の地域政経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立するなど、地元の人材育成にも努めている。
財務省ではたばこ増税に積極的に取り組んだが、自身は1日2箱の愛煙家で「(増税は)切ないテーマ」と認める。趣味は格闘技観戦で、最強と考えるプロレスラーはジャンボ鶴田。
自身も柔道2段の有段者で、学生時代の大会で秒殺された相手が山下泰裕に秒殺されたというエピソードがある。超党派で作る格闘技振興議員連盟の会長を務めている。
第162回通常国会における2005年1月21日の小泉純一郎首相による施政方針演説の中で、凶弾に倒れながらも「男子の本懐」と漏らした濱口雄幸首相を小泉が自らになぞらえたことに対して、
1月25日の代表質問の場において、狙撃後も命をかけて国会に出席し説明責任を果たしたことが浜口の真骨頂であり、ぼかして逃げるあなた(小泉)とは違うと批判した。
政策通とされ若手保守系議員を中心とした「野田グループ」の領袖である。沖ノ鳥島が領土であることを批判した唐家セン中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実効支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べたことがある。
更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したことがある。
小泉純一郎内閣総理大臣に宛てた質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は不可思議」、「南京大虐殺肯定派の論理は破綻している」と政府の戦後史観の対応の甘さを批判した。
「安全保障基本法」「緊急事態法」の制定を主張している。かつては永住外国人への地方参政権付与に関して容認派であったが、菅内閣で外国人参政権に明確に反対を表明している。
1957年5月20日に千葉県船橋市に陸上自衛隊第一空挺団の隊員だった父の長男として生まれる。実弟は船橋市議会議員の野田剛彦。
学生時代は立花隆に憧れてジャーナリストになることを希望していた。1980年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業する。
1985年に松下政経塾を1期生として卒業し、家庭教師、都市ガスの点検員、私設教育相談所長、青年政治機構副幹事長を経て、1987年千葉県議会議員選挙に立候補。
各新聞社の選挙予想では「野田は独自の戦い」と泡沫候補扱いだったが、当時最年少の29歳で当選する。県議は2期務めた。
1992年日本新党結成に参加し、1993年第40回衆議院議員総選挙には日本新党公認で千葉1区から当選する。
日本新党では副代表幹事などを務め細川内閣を支えるが、細川内閣の総辞職、新党さきがけや日本社会党の離脱に伴う羽田内閣の崩壊を経て、野党となった日本新党は解党し、同年新進党結党に参加する。
1996年第41回衆議院議員総選挙では全選挙区最小得票差の105票差で自民党の田中昭一に敗れ、落選した
。
2000年第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で当選し、国政に復帰。民主党総務局長に就任。2001年民主党ネクスト・キャビネット(次の内閣)で行政改革・規制改革担当大臣に就任する。
2002年8月菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため同じ松下政経塾の後輩に当たる前原誠司、松沢成文らと「第二期民主党をつくる有志の会」を結成。
9月の代表
選に立候補するにあたっては、前原との間でどちらが立候補するかで調整に難航するが、民主党若手議員を代表する形で野田が立候補する。
この代表選挙では敗北するものの、選挙戦を通じて認知度を得る。その後、鳩山代表に政策調査会長への就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選挙の出馬を取りやめた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞した。
2005年第44回衆議院議員総選挙では千葉13選挙区の中で野田の選挙区である千葉県第4区のみ唯一民主党として自民党の藤田幹雄に944票差に迫られながら勝利した。
2002年12月、民主党国会対策委員長に就任する。国対委員長としては、審議拒否をしない方針で国会運営に臨んだ(2003年11月退任)。
2005年9月の総選挙で民主党が大敗し、辞意を表明した岡田克也党代表の後任選びでは前原誠司を推し、中堅、若手議員をまとめ前原勝利の一因を作る。当初は幹事長に就任予定だったが、菅直人が固辞した国対委員長に就任した。
2006年2月に永田寿康が引き起こした堀江メール問題では、当初このメールの信憑性を疑わず永田を擁護する対応をとったこともあり、国会論戦の指揮監督をおこなう立場として責任を取り、同月に国対委員長を辞任した。
なお、このメール問題について、2008年に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然備わっている危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘している。
2008年8月、「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張し、民主党代表選への出馬を表明したが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなど自らのグループを纏め切れず、更にいわゆるメール問題の張本人の一人である野田の立候補には全党的に反発が強く、推薦人(20人)確保の目処が立たず、出馬を断念した。これにより、小沢体制の継続が事実上決まった。
これについて2008年9月7日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で立候補を断念した経緯を語った。出馬断念の代償は大きく、民主党の次代を担う七奉行と呼ばれた野田は大きな打撃を受ける。
結束力を誇った野田グループは出馬断念派と積極派に分裂して解散論も飛び出すほど脆弱な組織となり、馬渕澄夫は退会した。
2009年5月の小沢辞任に伴う代表選挙では岡田克也を支援したが、鳩山由紀夫に敗れる。ただ、岡田が鳩山代表の下で幹事長に就任すると、幹事長代理として執行部入りし、復権を果たした。
]同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、防衛大臣就任が取り沙汰されたが、近著で集団的自衛権の行使を主張しているなど、党内や連立政権での意見対立を刺激することが懸念され、見送られた。
野田の手腕を高く評価していた藤井裕久財務大臣の意向により、財務副大臣に就任。2010年1月に藤井が健康上の問題を理由に辞任すると後任候補の1人として名前が上がった。
藤井も野田を後任に推薦する意向だったが、菅直人が国家戦略相から横滑りする形で副総理兼財務相に就任した。
2010年6月、鳩山首相が辞任を表明。鳩山内閣の財務大臣だった菅が後継首相となり、野田が副大臣から昇格する形で菅の後任の財務大臣に就任した。初入閣での財務相就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣を含めても異例である。
同年8月20日、為替動向について記者会見で「重大な関心をもって注意深くみていく」と述べる一方、為替介入についてはコメントを避けた。
9月8日、円高について衆院財務金融委員会での答弁で「明らかに一方的に偏っている」とし、「必要なときには為替介入をふくむ断固たる措置をとる」「産業の空洞化にもつながりかねないということで、強い懸念をもっている」と述べた。
9月15日、政府・日本銀行が「円売りドル買い」の為替介入に踏み切ったことを発表。この介入により1ドル=82円台から1ドル=85円台に急落した。
10月8日、1ドル=81円台に上昇したことを受け「より一層重大な関心を持ってマーケットの動向を注視し、必要なときには介入を含めて断固たる措置をとるという姿勢に変わりはない」と述べた。
また同日ワシントンで開かれた先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では為替介入について「批判的な意見は出なかった」と説明した 。
2010年9月に発足した菅改造内閣では財務大臣に再任。2011年1月の内閣改造に際しては、内閣官房長官への横滑りも取り沙汰されたが、野田が財務大臣続投を強く希望したため、菅再改造内閣でも留任した。
著書 『民主の敵―政権交代に大義あり』新潮社、2009年7月 ISBN 978-4106103230
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2011・6・9