2008年05月18日

◆阿部定事件の年生まれ

                     渡部亮次郎

阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月
18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局
部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出
されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本
では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は
少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1
ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起
きた事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから72年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大
百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合ま
さきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店
の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺
された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的
な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあ
となので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から
男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転
々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで
働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定はは、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京
都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現
在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋の
お定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初
めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日
も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になっ
てゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって
(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。こ
のことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうであ
る。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を
強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女
に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。
事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの
女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋
市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介さ
れたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であっ
た。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るように
なると2人は出奔。

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2008年05月17日

◆拉致を招いたカーター

渡部亮次郎

Jimmy Carter アメリカ合衆国39代大統領 1924年10月1日生まれだから83歳でも元気だ。大統領在任は1977年1月20日 ー1981年1月20日だったから我々(園田外相時代)のカウンターパートは国務長官 サイラス・ヴァンス(在任1977−980年 弁護士)だった。

カーターは1953年の父親の死に際し海軍を退役しピーナッツ栽培農家になった。

牧師でもある。1960年代から生まれ故郷のジョージア州の州議会議員を2期務めた後、州知事に当選。1971年から1975年までジョージア州の知事を務めた。

1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬し、最初は「ジミーって誰のこと?」と揶揄される程知名度が低かった。しかし在韓米軍引き揚げを公約するなどウォーターゲート事件(ニクソン共和党大統領)により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民に巧みにアピールし現職のジェラルド・フォード大統領を破って一般投票の50・1%を獲得し勝利した。

在韓米軍の引き揚げの公約は大方の喝采を浴びたが、単に国際情勢に無知だった故の空約束と就任後に気付いて路線を少しづつ修正して行った。しかし、これが北朝鮮による日本人大量拉致を惹き起こしたという指摘がある。

事情に詳しい関係者によれば、北朝鮮の金日成国家主席は韓国から米軍が引揚げるなら、韓国を攻めて統一をなし遂げることに愈々現実味が出てくる。そこでアイディアとして、日本人に仕立て直した北朝鮮人をあらゆる方法で南に入国させて、韓国の混乱を惹起する。
韓国の内部崩壊したところを衝くというわけ。

そのためには「教育者」として日本人を大量に拉致するとして、カーター発言の直後から拉致作戦を開始した。平和ボケした日本人には無い着想。警察も気付かないまま拉致は「粛々」と続けられたのである。カーターにこれを指摘した人はまだいない。

北朝鮮は日本人を相当数、らちしたものの在韓米軍は「引揚げ」ではなく「削減」に留まったことから大作戦は中断、今日に至っているわけだ。

これはCIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけ。イラン革命やその後のテヘランのアメリカ大使館占拠及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」に失敗。

アフガニスタン侵攻 (1979)を許したことなどから、共和党などから、「弱腰外交の推進者」とたたかれることになった。

大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した果実を得られ
大統領職を退いてから世界を驚かせる外交手腕を見せた

この事から「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」と2002年にノーベル賞平和賞を授章した。

しかしその反面「史上最強の元大統領」、「最初から"元大統領"なら良かったのに」と、国内外のマスコミに揶揄された。

1979年には、前々任者のリチャード・ニクソン大統領による中華人民共和国との国交樹立政策を受け継ぎ、反対が強い中華民国と断交し、共産主義国家である中華人民共和国を訪問し国交樹立した。

ここに至るまで、既に国交正常化の上に日中平和友好条約まで結び終えていた園田直外務大臣はヴァンス国務長官に盛んにネジを巻いていた。胡錦濤が来日に当って「井戸を掘った人」として田中真紀子と共に園田の遺族を引見したのはこの理由もあった筈だ。

カーターはアメリカの航空事情を変えることを目的に、航空会社設立の自由化と、国内路線の開設、料金設定の自由化などを盛り込んだ航空自由化政策「ディレギュレーション」政策を導入した。

この結果、目論見どおりに航空会社間の競争が盛んになり、運賃の低下が実現することになり格安航空会社の勃興を生むきっかけとなった。

また同時に大手のうち、パンアメリカン、トランスワールド、イースタンは競争に耐えられずに消えていき、皮肉にもこの政策の推進を後押ししたデルタ航空などの他のアメリカ国内の大手航空会社の衰退にもつながったと言われている。

1979年6月、サミットでの来日時に夫人と共に六本木の焼き鳥店に入った。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れたように報道されたが、実際には大使館側の予約であり、その場に居た客も「仕込み」のサクラであった。文中敬称略。 2008・05・15

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年05月16日

◆茄子の花と母の言葉

                     渡部亮次郎

知り合いの産経新聞外信部記者田北真樹子さんが5月14日付で社会面に執筆した「人」欄によるとブラジルの空軍司令官に2007年2月、初めて日系人が就任、インタビュー記事が載った。

「お母さんの言葉はナスの花と同じ。千に一つの仇(無駄)も無い」この人はサイトウ・ジュンイチさん(65)。青森県出身の父と香川県出身の母との間に1942年、サンパウロ州ポンペイア市で誕生。15歳の頃からパイロットを目指す。

「無理だと思っていたが、働きながら士官学校に通う。今でも思い出す母の言葉がある。「私たちは稲穂のようにならなくてはいけない。伸びれば伸びるほど頭を垂れなさい」

<謙虚さは多民族国家のブラジルには無い価値観だ。むしろ足を引っ張られる。だが、謙虚であり続けたから、250人の同期との出世レースに勝ち抜いて昨年、空軍トップに立った自分がいると自負する。今年、ブラジルに日本人が初めて移住してから100周年を迎えた。

「お母さんの言葉はナスの花と同じ」。ナスの花と親の意見は千に一つも仇がない、とのことわざを用いて母に感謝する。

「残念ながら両親が生きている間に司令官就任を見せることが出来ませんでしたが、私が空軍トップになったことをどこかで見ていて、誇りに思ってくれているでしょう」。

「日本もブラジルも防衛を重視しています。だからこそ、常に準備をしていなければいけません。防衛が必要になったとき、そこでミスがあれば、元に戻すには何百年もかかりますから。>(田北真樹子)

感激してメイルを出したら田北さんからさらに感激的な返事が返ってきた。「サイトウさんの取材は久しぶりに日本人でよかったと思わせくれるような取材でした。

取材後、自分自身が洗われた感じになりました。日本人のいい部分が恐縮した方なんです。ある意味、ブラジルで現代の日本と接していないことがよかったのかも、と、これはこれで情けなくなるようなことを考えさせられましたが・・・。

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2008年05月15日

◆五・一五事件

                     渡部亮次郎

五・一五事件(ごいちごじけんと)は1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国「海軍」急進派の青年将校を中心とする反乱事件。4年後1936年のニ・ニ六事件は陸軍の将校による叛乱事件。

武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅総理を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退した。

事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達された。

また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。

同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いが、本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸、立憲政友会(政友会)本部、警視庁とともに牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。

しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第2の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。

後に小説家松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪(いたる)らが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『昭和史発掘』)。

だが、中谷武世(国士)は首謀者古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したものであって、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたものの、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ている。

また中谷は大川と政党人との関係が希薄であったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している(『昭和動乱期の回想』)。

当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している時代であった。

1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。

計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に容らない点であった。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をした。

それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友であった。故に犬養は満州侵略に反対であり、日本は中国から手を引くべきだとの持論を兼ねてよりもっていた。

これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由なのである。

事件は昭和天皇の勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

なお、事件前日の5月14日には映画俳優のチャーリー・チャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって犬養との会談をキャンセルしたため、難を逃れた。

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2008年05月14日

必読!◆「日中友好の再考を」

                    渡部亮次郎

私は心ならずも記者として日中国交再開を目撃し、日中平和友好条約の締結に携わった。国交回復は22年ぶり、平和友好条約は日本からの資金、技術援助を中国に約束したものだった。

国交回復を決断した時、田中角栄首相は日中戦争の賠償金として「まぁ3億円ぐらい吹っかけて来るかな」と言っていたが、事前に竹入義勝公明党委員長を通しての周恩来首相の回答は違った。

「賠償は要求しません」。これで日本中が「中国ブーム」になり、自民党内ですら中国批判は禁句となった。田中訪中の結果、周恩来のいい出した「日中友好」は両国の合言葉みたいになった。パンダが贈られたのもこの時である。

このとき周恩来首相は北京から上海まで田中首相に同じ飛行機で同行し、田中首相の帰国を上海空港で見送った。これに従うまでも無く胡錦濤主席をホテルであろうがどこであろうが、両陛下がお見送りに出向かれるのは国家日本の元首たる天皇の賓客(国賓)を寓されるについては当然の行為である。このとき周恩来は「天皇によろしく」と伝言を託した。

それをずるい連中に悪どく利用されたとしても、当方としては礼を尽くしただけの事。非難さるべきは礼を尽くした当方ではなく、悪どく利用した連中の方である。

国賓の接遇には歓迎と歓送の行事はセットになっており、歓迎だけして歓送は都合により省略となっては、世界の笑いものになるだけ。
誰かが国賓待遇を閣議決定しても、「歓送」は入っていなかったと訳のわからぬことを言っていたが、笑止千万である。

歓送風景を中国のマスコミ(官営)は「日本国民の前にさえ滅多に姿を見せない両陛下がわざわざ見送りに来たのは胡錦濤を通じて中国に特別な敬意を表した」と報道したため、見送りはするべきじゃなかった。させた外務省、宮内庁が悪い、となった。

国賓=歓迎行事=お見送りは天皇の接遇慣例上、セットになっているものであり、時あたかも胡錦濤氏に対する日本の世論が反対ムード高揚と言っても、お見送りだけをやめたら天皇は面子を失っただろう。

私は田中首相同行記者(NHK)だったから上海へも同行したが、到着後、市内に散歩に出た途端、初めて中国国民の厳しい視線にさらされ、恐ろしくなってホテルに逃げ帰った事を思い出す。

考えてみれば彼らが日本人を見るのは27年ぶり。中国をして塗炭の苦しみを与えた「犯人」が日本人なのである。この男も日本政府の代表者の一人、憎いなぁ、とその目は恨んでいた。

しかし「日中友好」は全中国人の思っていることでは無い。中国共産党が自らの都合に合わせて持ち出すものに過ぎない。それが証拠に江沢民主席在任中は反日教育を徹底し、日中関係悪化の原因を作ったではないか。胡錦濤がやらぬ保証はない。

江沢民のあれは演技でもポーズでもなかった。日本という外敵を作らねば国家統治が難しい事態に差し掛かっていたからである。日本が戦ったのは中国共産党ではなく蒋介石だったことを人民が思い出しかけたからである。

日本に勝利したのは蒋介石であり、中国共産党ではない。蒋介石はその後、共産党との内戦に敗れ台湾に逃れた。それで中華人民共和国の建国を1949(昭和24)年10月1日まで遅れたのはそのためである。

しかし江沢民は実父が占領日本軍への協力者だった事実を隠蔽する一方で、日本との闘いに勝利したのは共産党であるという「嘘」の歴史を全人民に浸透させる目的で「反日教育」を徹底させたのである。

日本に対しては歴史認識で執拗に批判したのに、ベトナムからの中越戦争の謝罪要求については「ベトナムのカンボジア侵略によるものだ」として、謝罪はしていない。

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2008年05月13日

特筆!◆死者80万を隠せる中国

                    渡部亮次郎

地続きの韓国や北朝鮮には地震が無いが中国には結構、地震があり、非公式には死者80万人の唐山地震(とうざんじしん 1976年)を隠したのが共産国・中華人民共和国である。

当時中国は文化大革命のさなかであり、政府は「自力で立ち直る」と外国からの援助を拒否した。このことが犠牲者の拡大をもたらした一因だといわれている。2008・05・12に四川省でM7・8の大地震が起きた。今回はどうか。

何しろ、災害が起きて国力の低下が報じられれば外敵が攻めてくる。故に被害の公表は禁止という共産国。900人が学んでいた小学校が倒壊したが死者は「4人」と発表するようではあまり変わりない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、1976(昭和51)年7月28日3時42分(現地時間、UTC+8)に、中国河北省唐山市付近を震源として発生したマグニチュード7・8の直下型地震が起きた。今回も同じMである。

市街地を北北東から南南西に走る断層に沿って大きな水平右ずれが発生し、激震によって中国有数の工業都市であった唐山市は壊滅状態となった。

この地震による死者は公式記録によれば242,419人、非公式には60万から80万人とも言われ、20世紀最大の被害である。日本人も火力発電所建設のために派遣されていた日立製作所の社員3人が犠牲になった。

中国では1975年2月4日に起きた海城地震の直前に予報を出して被害を大幅に減らす事に成功しており唐山付近で地震が起きる可能性が高い事もわかっていたが、今回は予報を出せず地震予知の難しさを知らしめた。

地震予報を出す仕事をしていた専門家もホテルの部屋で圧死していた。科学のレベルもさることながら、文革のさなかの事。予報がはずれでもしたら、係りの命はやはり無かったろウ。出せなかった。

地震直後、中央政府は治安の混乱を恐れ、地震の5時間ほど後には対策本部を設置し、10万人の人民開放軍兵士を投入し、2万人以上の医療人員を派遣した。現地の混乱は、地震後2日目にはおさまったといわれる。

唐山市ではこの地震によって公式には14万8000人が亡くなり重傷者は8万人以上と被害は市民の21.2%に達し、住宅の全壊率は94%だった。これによって再建がほぼ一段落するまでの約10年間、外国人の立ち入りが制限されていた。

現在は抗震記念館が設けられて到壊した建物や断層の一部が地震遺跡として保存されている。2006年7月28日、中国共産党は唐山市で30周年記念大会を開催、およそ700人が出席して「唐山抗震記念碑」に献花などを行ったと発表した。

<大地震の前の動物の異常行動を列挙すると以下のようなものがあげられる。

ラバの大逃走、動物の絶食、恐ろしい声で犬は吠え、猫は叫ぶ、兎と羊が狂う、水生動物の恐怖行動反応、金魚の夜のダンス、スッポンの悲鳴、青蛙の没黙の集合、鳥と昆虫の奇怪な行動反応、

鸚鵡に驚かされた夜、昆虫の集会、コウモリが白日のもとで飛び回る、鴿は落ちつかない、穴居動物の避難行動、イタチの引っ越し、ネズミは災難を予知、まだら蛇は「警報」、サソリとムカデとアリの大逃去。>(尾池和夫) 2008・05・12

2008年05月12日

◆外務省の海外要人待遇

渡部亮次郎

2008年5月に来日した中華人民共和国の胡錦濤主席の接遇をめぐって国民の間に論議が高まった。中でも両陛下が胡氏夫妻の宿泊先のホテル・ニューオータニへ見送りに行かれることについては相当な識者から反対論が起こった。

しかし、胡主席や中国政権に対する感情はともかく、両陛下のお見送りを初め外務省、宮内庁の接遇には何の落ち度も、行き過ぎも無かったと断言する。一般の人が要人接遇の実態を知らずに感情でことを論じた故の空論であった。

つまり初来日の胡錦濤氏について福田政権は早くから国賓(国家による国家元首=天皇陛下の賓客)として迎える事を閣議決定し、この旨を陛下に「助言」し、外務省、宮内庁が実際の接遇に当たり、問題はなんら生じなかった。

たまたま今回は通常、国賓の宿泊先となるべき赤坂の迎賓館が改装工事中であるため中国側の希望でホテル・ニューオータニを迎賓館代用となった。従って両陛下のお見送り先もホテル・ニューオータニとならざるを得なかったものである。

ホテル・ニューオータニは日中国交正常化に伴って中華人民共和国が臨時の大使館を置いた由緒あるホテル。爾来、中国側は定宿としてこのホテルを使っている。

外国からの賓客の接遇方針の実際を担当するのは外務省である。その実態をフリー百科「ウィキペディア」等から引用して掲載する。

いずれにしろ両陛下がお見送りのため民間ホテルを訪問されたのは国辱物、叩頭外交だというのは無知に基づく誤解。感情論先行の議論に過ぎない。

それを社会的信用のある識者がインターネットで流すのは大衆を誤まった方向へ走らす煽り行為であり、慎むべきである。友人はこれを「田舎の発明家」と命名した。世間知らずのお山の大将ともいえる。

<国賓 こくひん

国家が賓客として招待する外国人。日本の場合,政府あるいは皇室によって招待され,国の費用で接待する。

国賓の対象とされるのは,普通,元首,国王,王族,閣僚,特使などであるが,国際間の往来が頻繁になった近年,閣僚,特使に対して国賓待遇を与えない事例も多くなってきた。

また,これらの公人でも私的な旅行のときなど国賓とされないこともある。>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

<国賓は海外要人に対する外交慣例上における接遇上の扱いであり、おおむね10年に1度の頻度で当該国からの元首や要人の訪問にさいして行われる接遇上の様式である。

慣例では10年以内に国賓として遇された経緯のある対象国や元首に対しては国賓として遇することはなく、公賓ないしは公式実務訪問賓客として扱う。

国賓扱いによる接遇はあくまで儀式的なものであり、接遇による差異が訪問者や当該国に対する特段の政治的意味合いをもつ訳ではない[毎日新聞2008年4月30日] 。

日本 外務省における海外要人の待遇

日本の外務省における海外要人の待遇は、日本政府が滞在費用(対象者の宿泊滞在・国内移動・通信・警護費用等)を負担する公式訪問と、訪問者がすべての経費を負担する非公式訪問の2つに別れる。さらに公式訪問の場合は以下の5つの分かれる。

これらの計画、調整は外務省儀典官室がおこなっており、その長である儀典長は「首席接伴員」として日程に同行することになっている。

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2008年05月10日

◆サッチャーは82歳

                    渡部亮次郎

イギリス初の女性首相にマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)が就任したのは1979(昭和54)年の5月4日。私はその半月後にダウニング街の官邸でお会いしてタバコを止めた。

表敬訪問する園田直外務大臣に秘書官として随行したもので、確か5月21日(月)午後5時15分(イギリス時間)頃から僅か35分間の表敬訪問だった。

園田大臣に警護のため同行したのは警視庁の亀高忠輝警部だった。
2階への階段を昇りながら、壁に隙間の無いぐらい絵画が飾られていた事とあわせて妙に記憶が明確だ。

首相面会の直前、同じ官邸内の蔵相室で会談したハウ蔵相は驚くほどのヘビースモーカーだった。園田さんも私も一緒になって喫煙するものだから、煙は相手が見えなくなるぐらい立ち込めた。

ハウ蔵相はサッチャー首相との会談にも同席してくれた。首相は立ち上がり「日出ずる国の賓客は窓際へ」と園田外相を案内。

私もその脇に座って「煙草を喫ってもいいですか」と訊いたら「どうぞ」との答え。持っていたロングピースを喫い始めたが、灰皿が出てこない。消すのに苦労した。

後で分かったのだが、サッチャーさんは何が嫌いと言って煙草が嫌い。そういえば、さすがのハウ・ヘビー・スモーカーもあそこでは非喫煙者みたいに振舞っていたっけ。

私は馬鹿にされた気がして、それっきり喫煙を止めた。もう30年を越した。やめた直後は禁煙に失敗した夢まで見たが、もう見ない。

サッチャーはその後日本にもお出でになった。皇居を表敬訪問した際、大広間の広い壁に絵が1点しか飾られてないのを見て「少なくて寂しい。もっと沢山飾らなければいけない」といった。

「大きなお世話だ」、と心の中で毒づいた。「これがわび、さびというものですよ。分からなきゃ仕方ないね」

マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日―)。現在82歳で貴族院議員。

女性として初めて保守党党首および英国首相(在任:1979年―1990年)となった。保守的で強硬的な性格から、鉄の女(the Iron Lady)、アッティラ(Attila the Hun)などの異名をとる。尊敬する政治家は同国のウィンストン・チャーチル元首相である。

1979年の総選挙で、イギリス経済の復活と小さな政府の実現を公約として保守党を勝利に導いた党首だったので女性として初めてイギリス首相に就任した。

2008年05月09日

必読!◆再び天皇のお見送りについて

                    渡部亮次郎

来日中の胡錦濤中国主席は9日はホテル・ニューオータニを引き払い横浜を経て関西に向かうため、慣例により天皇皇后両陛下は見送りの挨拶をされるべく、午前10時から胡氏宿泊先のホテルに出向かれる。

これに対して国賓接遇の慣例を知らない人から、天皇のお見送りは必要ないとか、総理大臣にやらせればいいとか頓珍漢な意見で反対意見のみならず、デヴィ・スカルノ夫人のように『反対』呼びかけまでしている人がいる。

結論から言うと、国賓を両陛下がお見送りするのは慣例であって
これまでは殆どの国賓を迎賓館に出向いて見送ってこられた。尤も相手が国家元首ではあっても国賓でない場合は、なさらない。

国賓とは「広辞苑」に拠れば「国家元首が接待する海外からの賓客。主に外国の元首や首相が来日する場合で、歓送迎会(歓迎と歓送)への天皇の出席、21発の礼砲、宮中晩餐会の行事がある」と説明している。礼砲は弾丸を撃ち尽くして敵意が無い、歓迎するという意味。

国賓・公賓など外国賓客(平成11年以降)(宮内庁HP)

ルクセンブルク国大公ジャン同妃両殿下(国賓) オーストリア国大統領夫妻(国賓) ヨルダン国国王アブドッラー王妃両陛下(国賓) ハンガリー国大統領夫妻(国賓)

ノルウェー国国王ハラルド五世王妃両陛下(国賓) 南アフリカ共和国大統領夫妻(国賓) フィリピン国大統領及び同夫君(国賓) インドネシア国大統領及び同夫君(国賓) メキシコ国大統領夫妻(国賓)

モロッコ国国王モハメッド六世陛下(国賓)インドネシア国大統領夫妻(国賓)

平成19年はスウェーデン国国王カール16世グスタフ陛下及び王妃シルヴィア陛下(国賓) ベトナム国主席夫妻(国賓)だった。

今年平成20年は胡錦濤中国主席夫妻が初めてである。

要人は毎年勿論他にも沢山来日されており国家元首や首相も多いが、政府の賓客(公賓)か公式実務か、お構いなしである。国家元首も国賓待遇が複数回は殆ど聞かない。

<国賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる外国の元首やこれに準ずる者で,その招聘・接遇は,閣議において「決定」されます。

皇室における国賓のご接遇には,両陛下を中心とする歓迎行事,ご会見,宮中晩餐,ご訪問がありますが,両陛下はじめ皇族方は心をこめて国賓のご接遇をなさっています>(宮内庁HP)

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2008年05月08日

◆国賓・公賓・公式実務

                     渡部亮次郎

国賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる
外国の元首やこれに準ずる者で,その招へい・接遇は,閣議において
「決定」されます。

皇室における国賓のご接遇には,両陛下を中心とする歓迎行事,ご会見,
宮中晩餐,ご訪問があります。

公賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる
外国の王族や行政府の長あるいはこれに準ずる者で,その招へい・接遇
は閣議「了解」を経て決定されます。

皇室における公賓のご接遇には,両陛下によるご引見や宮中午餐があり
ます。公賓の制度は1964(昭和39年度(池田内閣)に決定された。

「公式実務訪問賓客」とは,外国の元首,王族,行政府の長あるいはこ
れに準ずる者が実務を主たる目的として訪日することを希望する場合,
賓客の地位,訪問目的に照らして政府が公式に接遇し,皇室の接遇にも
あずかる賓客で,その招へい・接遇は閣議「了解」を経て決定されます。

皇室においては,賓客に応じたご接遇が行われています。宮内庁ホーム
ページ)http://www.kunaicho.go.jp/05/d05-01.html

閣議決定: 合議体である内閣の意思決定。閣議における案件処理の中で
は、最も重みを持つ。訂正が殆ど不可能。

閣議了解: 本来主任大臣の権限に属する事項について、それらの事項の
重要性を考慮した上で、閣議に提出して他の国務大臣の意向も聞くこと
が適当と判断されたものについて行われる。

閣議報告: 主要な審議会の答申や省庁の白書等を閣議で披露するような
場合に行われる。

国賓とするかどうかは閣議「決定」,公賓は閣議「了解」。国賓は両陛下
を中心とする歓迎行事,ご会見,宮中晩餐,ご訪問があるが、公賓には
引見や宮中午餐といって両陛下への挨拶と午餐(昼食)どまり。

「公式実務訪問賓客」の接遇はその都度で様々。

国賓・公賓など外国賓客(平成19.20年のみ)宮内庁による。

平成19年

1月
モザンビーク国大統領夫妻(公式実務)

2月
キリバス国大統領夫妻
チェコ国大統領夫妻(公式実務)
アメリカ合衆国副大統領(公式実務)
ルーマニア国首相夫妻
ロシア国首相夫妻
モンゴル国大統領夫妻(公式実務)

3月
ボリビア国大統領
グルジア国大統領夫妻
リベリア国大統領
オランダ国皇太子ウィレム・アレキサンダー殿下
シンガポール国首相夫妻(公式実務)
スウェーデン国国王カール16世グスタフ陛下及び王妃シルヴィア陛下
(国賓)

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2008年05月07日

◆胡錦濤お見送りは当然の儀礼

                    渡部亮次郎

中国の胡錦濤国家主席は日本の国賓としての来日だが、5月9日金曜日の日程の中で10:00 天皇、皇后両陛下にホテルニューオータニへ訪問して頂く(〜10:30)。を叩頭外交と誤解して騒ぐ向きがある。

これだけ見れば誤解も当然だが、その後の胡氏の日程を見れば、両陛下のホテルご訪問は「お見送り」であり、国賓に対する礼儀としては普通の事である。

かの「広辞苑」でも「歓送迎会への天皇の出席、21発の礼砲、宮中晩餐会の行事がある」と説明している。5月7日水曜日に、09:00 皇居にて歓迎式典、天皇陛下への謁見とあって歓迎した以上、お見送りは付き物。

9日は09:00 ホテルニューオータニにて在日チャイナ大使館員や留学生、駐在員らと朝食会。11:20 JFEアーバンリサイクル施設(神奈川県川崎市川崎区水江町)を視察とあって東京を離れるのだから、両陛下としてはその前に「お見送り」が当然。

午前10時に胡氏宿泊のホテルに出向いてお見送りの挨拶をされるのは叩頭でも土下座でも無い。国賓に対する当然の儀礼に過ぎない。
それが屈辱というなら国賓としての招待を拒絶するしかない。

抗議しても両陛下はおやめになるわけにはいかない。胡氏を国賓として接遇する事は内閣が閣議で決定したことであり、天皇陛下といえども憲法上、逆らう事ができないからだ。

一旦、国賓として国家が決定した以上、皇室と政府は最高の接遇は当然であり、歓迎はしても見送りはしないというのは大人としては失礼な行いである。(元政治記者・大臣秘書官)   2008・05・06



2008年05月06日

◆A面あってのB面

                    渡部亮次郎

昔の話。昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一郎と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となるも、それまでに大ヒット。
当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)
東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

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2008年05月05日

◆ジョン・レノンのご馳走

                     渡部亮次郎

ザ・ビートルズ(BEATLES)は世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドという事をジョン・レノンにダコタ・アパートで会うまで知らなかった。

1978年2月のその時、私は福田赳夫内閣の外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、僅か数ヶ月前まではNHKの政治記者出、国内政局の追跡に熱中する生活でビートルズなど皆目知らなかった。

それが、いきなり彼ら一家の住まいたるニューヨーク・マンハッタンのダコタアパートの自宅に招き寄せられ、2歳の息子を抱きながらフローリングの部屋に三角屋根(ピラミッド)の下に転がるもじゃもじゃ頭の男が「世界一の芸術家」と知って驚いた。

ジョン自身はその時は音楽活動を休んで「主夫で子育てに夢中なんだ。三角屋根は生命に何らかのパワーを与えてくれるんだ」と喋っていた。

「僕の喋り方が叫んでいるように聞えないですか。生まれたリヴァプールは強い風が吹き上げて来る土地で、その風に逆らうように喋る癖がついてしまったんだ」とも。

イギリスのリヴァプールで結成されたのがビートルズ。アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティスト。

その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。

1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

それからほぼ3年後ノ1980年12月8日の夜、アパートの玄関で精神異常者に射殺され満40歳の人生を終えるわけだが、激しくも偉大だった人物の晩年に会えた事を思うとそのたびに興奮するのである。

なぜジョン・レノンに会えたかというと、2番目の夫人となったオノ・ヨーコさんが私の親友で評論家の加瀬英明氏の従姉だからである。

彼の父俊一氏は昭和史に残る著名な外交官だったが、母親萬寿子さんがヨーコさんの父親の妹という関係。英明氏は、鳩山内閣時代に外務政務次官だった園田氏と当時から親しかった。

外務大臣室にやってきて「大物秘書官がアメリカを知らないではあんたが困る場面が出てくるから、ナベさんをアメリカ旅行に案内するよ」とやや強引に了承と旅費を取り付けてしまったのだ。

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