2010年07月24日

◆ニンニク(大蒜)

渡部 亮次郎

韓国の人たちはニンニクをよく食べる。観光地慶州で私を担当した観光案内人は「だから韓国人は虫歯が少ないです」と自慢した。ホントかどうかは知らない。

そんなことを言っても郷里・秋田にいた子供時代は食べたことがなかった。明治生まれの母は利用する料理も知らなかったようだし、風邪に薬用ありと聞いても一家で誰も食べなかった。

例によって東京へ出てきて初めて出合ったようなもの。韓国では強精剤だからと、7個つながりを輪切りにした醤油付けを食べたら、夜中に胃痛を起こし、強精どころの話ではなかった。

調べてみるとニンニクには確かに滋養強壮の効果があり、栄養ドリンクや健康食品、一部の薬品にも使われる。生のニンニクの強烈な香りと辛味は、刺激が強過ぎて胃壁などを痛める場合があるが、この症状も主成分アリインの影響といわれる。

栄養主成分のアリイン、クレアチンなどは元来は無臭である。ところが刻んだ際に細胞膜が破れ中からアリナーゼなどの分解酵素が出て栄養成分を分解しアリシン・アリルスルフェン酸といった成分に変化する。これらが独特な臭いのモトである。

古代ギリシア人の間でも,ニンニクを口にしたものは神殿に入ることを許されなかった。一方,古代ローマ人も強臭を嫌ったが,強精な成分があるとして,兵士や奴隷には食べさせたといわれている。

原産地は中央アジアと推定されるが、すでに紀元前3200年頃には古代エジプトなどで栽培・利用されていた。日本には中国を経て8世紀頃には伝わっていたと見られる。

現在の栽培は近東方面から地中海地方,インド,アフリカ,中国,韓国に多く,アメリカにも広がっている。

日本では《本草和名》以後に記載がみられるところから,導入,栽培されたのは10世紀以前からのことといわれる。

中国や韓国から渡ってきたとみられ,品種には早晩性があり,〈遠州極早生〉〈壱州早生〉〈6片種〉〈佐賀大ニンニク〉〈香港〉などがある。繁殖は種球(鱗片か珠芽)で行う。9月に種球を植え付けて翌年5月に収穫する。

ニンニクは、僧侶が荒行に耐えうる体力を養うために食したとされ、その語源はあらゆる困難に耐え忍ぶという意味の仏教用語の「忍辱」とされる。「葷酒山門に入るを許さず」のクンシュの中には入るのじゃないのか。

日本の古代医術ではニンニクは風湿や水病を除き,山間の邪気であるところの瘴気(しようき)を去り,少しずつ長期にわたって食べれば血液を浄化し,白髪を黒くするほか,生で食べれば虫蛇を殺す効能があるが,一度にたくさん食べると目を損なうとされていた。

ニンニクには強烈な異臭にまつわる俗信が多い。ヘビ,サソリ,疫病を駆逐する強力な薬草として古くから各地で用いられた。ハローウィーン(万聖節の宵祭)にはこれを戸口につるして厄を払い,ペスト流行時には死体を清めるのに用いられた。

吸血鬼よけの効能も,B. ストーカーの《ドラキュラ》などの作品でおなじみである。さらに大プリニウスは《博物誌》において,天然磁石をニンニクで擦れば磁力がうせると述べ,ディオスコリデスは《薬物誌》で,ヘビや狂犬による咬傷(こうしよう)や歯痛の特効薬としている。花言葉は〈勇気と力〉。

日本では江戸時代、その臭気により公家・武士階級では食べる事を禁止されていた。ニンニクが広く食べられる様になったのは明治以降である。

しかし、徳川家康は、茶屋四郎次郎に招かれ鯛の天ぷらにニンニクのすりおろしをつけたものが、たいへん美味かったので食べ過ぎて食中毒を起こし、死につながったとも言われる。

ニンニクは油脂によくなじみ、肉類のうまみを引き立てるので,日本でもスープ,いため物,煮込み物その他の肉料理などに多用され,洋風料理,中国風料理などの普及にともなって身近な食品になった。第2次大戦後のことである。

よく行く東京・向島の洋食屋ではメニューに「ニンニク揚げ」がある。必ずと言っていいくらいに頼む。加熱すると匂いが全くしなくなるから安心。しかし家で鰹の刺身に副えるニンニクは生でなくては効き目がない。

食べた後の匂いを防ぐためには、食後に緑茶を飲むと良いとされる。これは、緑茶の成分であるカテキンの殺菌、消臭効果による。また、牛乳やコーヒーを飲むのもよい。

水を飲むだけでも一定の効果があると言われている。なお、近年エジプト産のニンニクをもとにして、品種改良の結果、無臭ニンニクも流通している。

日本の主な生産地。青森県で70%を占める。田子町、十和田市などが多い。青森県内には特に高級品として知られるブランドがある。次いで香川県など。参考資料:平凡社「世界大百科事典」「ウィキペディア」
2007・06・25


2010年07月22日

◆日本三大盆踊り未見

渡部 亮次郎

西馬音内(にしもない)盆踊り

毎年8月16日頃(お盆)に秋田県 雄勝郡 羽後町 西馬音内にて披露される盆踊り。日本三大盆踊りの1つに数えられ、国指定の重要無形民俗文化財となっている。

当然の事だが、古い歴史を持つ踊りであるが起源には諸説ある。踊りには幾つかの種類や、衣装の違いがあるようなのだが、共通しているのは「顔面が見えない衣装」を着る点である。

なぜか、顔を意図的に隠しているので、何か死者を連想させる意図でもあるのだろうか?盆踊りだからかもしれない。私はまだ見ていない。

阿波踊り

8月12日から15日の間に四国の徳島県徳島市にて行われる行事。日本三大盆踊り・四国三大祭の1つ。

約400年の歴史があり、徳島県(旧阿波国)内各地の市町村で開催される、いわば盆踊り。「偉い奴ちゃ、偉い奴ちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らな損々・・・」は有名。未見。

群上(ぐじょう)踊り

毎年、7月から9月にかけて岐阜県郡上市八幡町にある群上八幡宮で開催される伝統的な盆踊りである。1996年に国の重要無形民俗文化財に指定されており、日本三大盆踊りの1つ。

特に8月13日〜16日は、明け方まで夜通し踊り続ける「盂蘭盆会(徹夜踊り)」がある。 期間中に来訪する観光客は30万人に達する。

郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り周回しながら踊る。踊りには曲ごとに定型がある。装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的だが強制ではない。一般からの飛び入り参加に規制はない。

ここも入ったことが無い。2010・7・17

2010年07月21日

◆八郎潟の蜆(しじみ)汁

渡部 亮次郎

干拓される前の八郎潟(はちろうがた)は蜆の名産地でもあった。一部、日本海と繋がる汽水湖だったから、蜆が大量に捕れたのである。殆どが子供の背の立つ岸辺に生息していたから、潜って素手で砂の中から掻き出すのである。

水に潜るころを覚ええると、泳ぎは自然に覚える。誰にも教わらず、蜆捕りで自然に覚えた。夏休みになると、毎日のように八郎潟に泳ぎに行って、必ず蜆を2升ぐらい捕ってきって母親に喜ばれた。そのかわり朝の味噌汁は連日、蜆汁だった。

その八郎潟を干拓して、田圃(水田)にすることに一生を捧げたのがわが父慶太郎である。当時干拓担当の農林大臣とも顔なじみになるくらい県(秋田)と農林省に陳情を続けたようだ。

昭和36(1961)年夏、久しぶりに帰郷すると、干拓の先進国オランダから指導者が来て、盛んに干拓の為の堤防が築かれていて、これっきり八郎潟の蜆は姿を消した。

今、有名な産地は青森県の十三湖・小川原湖、宮城県の北上川、 茨城県の涸沼川・利根川、島根県の宍道湖(七珍の一つとして有名)などがあり、特に宍道湖のものは種苗として全国に供給もされている。

ほかに琵琶湖特産の純淡水産シジミ、セタシジミが存在する。風味ではこのセタシジミがもっとも美味とされ、次いで汽水産のヤマトシジミ (貝) 、マシジミがおいしいとされる。家人はデパートで買ってきて、週に1回ぐらいは蜆汁を食べるが、産地を確かめたことは無い。

シジミ(蜆)とは、淡水域や汽水域に生息する小型の二枚貝である。通常目にする二枚貝のうちでは小型なので「縮み」が転じて名づけられたとする説がある。

日本本土には2-3cm程度のヤマトシジミ Corbicula japonica (全国の汽水)、マシジミ Corbicula leana (全国の淡水)、セタシジミ Corbicula sandai (琵琶湖水系特産がいる。

琉球列島には10cmの大きさに及ぶマングローブシジミ属(ヒルギシジミ属) (Geloina) なども棲む。

1980年代以降は、中華人民共和国、大韓民国、ロシアなどから輸入されたタイワンシジミ (Corbicula fluminea) も多く、日本国内産と比べて、比較的廉価に販売される。また、これらは国内産と比較が難しく、また種の特定も困難なため、産地偽装なども多い。

輸入されたタイワンシジミが野外に逸出したものか、1990年代より日本国内各地で外来のシジミが出現し、在来種との交雑などの懸念が持たれている、と言う。

アメリカ合衆国南西部では1924年までに中国人が食用に持ち込んだとされるタイワンシジミが大量に繁殖し問題になっている。タイワンシジミは1980年代にはライン川に帰化し、ライン・マイン・ドナウ運河を通じてドナウ川にも帰化した。1998年にはすでにエルベ川にも定着している。

味噌汁の具に利用される二枚貝としては、アサリと並んで日本人に最も馴染み深いものである。佃煮・時雨煮などにもされる。

うま味成分の一種であるコハク酸を豊富に含んでおり、江戸時代の昔から肝臓に良い食材とされている。健康食品として「シジミエキス」なども販売されている。また、殻は布でくるんでアクセサリーにすることもある。

市場に出回るシジミのうち最も一般的なのは主に塩分濃度が1.5%以下(海水は約3.5%前後)の水域で採れるヤマトシジミである。

ただし、上記のような種不明の外来種が激増したことにより、これら食用シジミも減少傾向にある。

オルニチンが肝臓に作用するため、俗に「シジミの味噌汁は二日酔いに効く」と言われている。そのため、酒を飲んだ翌日の朝食に味噌汁にして食べる習慣のある家庭が存在する。
                2010・6・27
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年07月20日

◆日の目を見る「氷雪の門」

渡部亮次郎

<1974年に製作され、ソ連の圧力で全国公開出来なかった映画「氷雪の門」 (北海道・稚内市にモニュメントが在る) が再評価され、上映の見込みが立った。

敗戦直後、樺太真岡郵便局電話交換嬢9人の物語。日米戦争を知らない世代は必見の映画。(産經新聞 7月18日 朝刊17面 カルチャー時評から)>札幌在住のメルマガ「頂門の一針」愛読者からの通信である。

メルマガの主宰者渡部亮次郎は、この映画の製作総指揮に当った小倉寿夫、製作の守田康司の両氏と上映不能になった事件をきっかけに知り合った。特に小倉氏は晩年が不幸だっただけに他人事(ひとごと)とは思えない。

「ウィキペディア」から引用して、コトの経緯を振り返る。

「樺太1945年夏 氷雪の門」 監督 村山三男 製作総指揮 三池信 小倉寿夫 製作 望月利雄 守田康司 脚本 国弘威雄

出演者 二木てるみ 藤田弓子 岡田可愛 鳥居恵子 栗田ひろみ 音楽 大森盛太郎 主題歌 九人の乙女

あらすじ
終戦間際の1945年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた(樺太の戦い)。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。

8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出された。そのため引揚者も順次でたが、8月20日のソ連軍の上陸掃討作戦開始まで間に合わなかった。

志願して職場に留まり、そのために追い詰められた女性交換手達は、通信で寄せられるあちこちで次々と殺害される市民の状況から、自らも青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。

九人の乙女の像にも刻まれた「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉。


1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も継続された、ソ連軍の樺太(現サハリン)侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の悲劇(真岡郵便電信局事件)を描いている。


原作は金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』。

元新東宝のプロデューサーであった望月利雄が真岡郵便電信局事件の映画化を立案、まず八木保太郎に、次いで松山善三に脚本執筆を依頼したが、八木稿も松山稿も反戦色の強い脚本となり、望月の製作意図にそぐわないものだった。

そこで望月は国弘威雄に依頼、おりしも発刊された金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』を原作にして国弘稿が脱稿された。

一方、製作資金集めに奔走した望月は、知人の斡旋で小倉寿夫(小倉興業社長、元新東宝専務)を紹介され、小倉の先輩である三池信(元郵政大臣)が協力を約束した。

1972年5月に三池会長、小倉社長、望月専務の顔ぶれで株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュアー(JMP)が設立され、1973月5月末に『氷雪の門』は撮影を開始した。

ソ連戦車の進撃場面には陸上自衛隊の協力が必要と感じた望月は、4年にわたり防衛庁と交渉を続け、その努力が実って、御殿場で撮影された戦闘場面には、戦車18台がソ連戦車として登場している。

完成した『樺太1945年夏 氷雪の門』は、多くの団体から推薦され、1974年4月から東宝系劇場での上映が予定されていた。「東宝配給」という記述が今も散見されるが、この時点では『樺太1945年夏 氷雪の門』はJMPの自主配給であり、東宝は劇場チェーンとして上映を行なう予定であったにすぎない。

だが、1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長が「非常にソビエトにとって面白くない映画が東宝配給で日本で公開されようとしているのは理解に苦しむ」という苦言を口にした。

これは『樺太1945年夏 氷雪の門』配給 東映洋画部を東宝配給と誤解しての発言であり、パーティに出席した東宝のプロデューサーにとっては寝耳に水であった

この事実を掴んだ東京新聞モスクワ特派員が「東京のソ連大使館が内容を反ソ的とみているという話が当地に伝わってきており、代わりに“モスクワわが愛”の封切りさしとめの声も出ているようだ」と本社に報告、3月12日付け東京新聞夕刊は「ソ連『氷雪の門』に渋い顔」と報じた。

同日、かねてよりソ連の反応を気にしていた東宝営業本部は、自社チェーンでは『樺太1945年夏 氷雪の門』を上映しない旨を決定した。のち3月23日になってモスクワ放送が「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」という論評を流している。
東映の岡田茂社長が事態の収拾に乗り出し、自社が『樺太1945年夏 氷雪の門』を配給するという話を在日ソ連大使館の参事官に通したところ、「たいへん結構です」と感謝されたという。

だが、東映洋画部配給による8月17日からの興行は規模を大幅に縮小、北海道・九州での2週間ほどの劇場公開となり、ほとんど日の目を見なかった。

その後、一部名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などがおこなわれていたが、製作から約36年後の2010年7月17日より全国で順次劇場公開されることになった。

撮影 西山東男 編集 エディー編集室 配給 東映洋画部 公開 1974年8月17日
上映時間 109分(公開時) 153分(ホール等での上映時) 119分(再公開時) 製作費 2億3千万円
2010・7・19

2010年07月19日

◆自由民主党に党歌がある

渡部亮次郎

現役の政治記者時代は、自民党担当が長かったが、党の歌「党歌」があるることを知らなかったが、作詞 岩谷時子 作曲・編曲 山本直純で確かにある。

一、
われらの国に われらは生きて

われらは創る われらの自由

月日の流れを いつも見つめて
   
今日より明日へ  道を拓(ひら)こう
  
一人の幸福(しあわせ)  皆の幸福


二、
われらの愛する われらの子らへ
 
われらは遺(のこ)す  われらの心

すぐれた昔の 文化を伝え

この日の息吹 深く刻もう  
一人の幸福  皆の幸福

三、

われらの山も われらの海も

われらの宝 われらのいのち

明るく輝く 地球の上で

世界の平和 きっと守ろう  
一人の幸福  皆の幸福 皆の幸福


インターネットで聞こうと思えば聞けるが、一度も党本部で耳にしたことの無い歌を、しかも野党の歌を聴いても無駄である。

偶然に岩谷時子(作詞 訳詩家)の経歴を「ウィキペディア」で検索したら、作品群の中に「自由民主党・党歌」と言うのがあって驚いた。

加山雄三の「君といつまでも」ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」
などを作詞し、越路吹雪「愛の讃歌」を訳巣など、色っぽい歌を書いてきた独身女性が政党の党歌を書いていたなんて驚きだ。

それ以上に党歌を作ろう、それには作詞は岩谷と考えた幹部が自民党に嘗ては存在したと言うのが、更なる驚きだった。こうした路線がちゃんと党運営に反映していたら、自民党は落ち目の三度笠を被らなくても済んだのでは無いか。

2010年07月17日

◆潰れた「輿石議長」

渡部亮次郎

先には参議院議長に民主党の輿石東参院議員会長が確定と報じたが、大きな誤報だった。深くお詫びします。昔、参院の取材をしていた時は1度も誤報をしたことが無かったのは当然。しかし新聞など2次情報を元に推測で記事を書くと、誤報になることがある。

参院議長人事をめぐる与野党の非公式折衝で、野党特に自民党は「輿石議長」案に反発を示したようだから、「輿石議長」を潰したのは自民党の功績と言えないことも無い。選挙に勝ったという事はこういうことなのだ。

<輿石氏民主参院議員会長留任へ 民主、参院議長は西岡氏で調整 参院議長人事は15日、民主党が西岡武夫参院議院運営委員長(74)の擁立で調整を進めることになった。

当初輿石(こしいし)東(あずま)同党参院議員会長(74)が有力視されたが、与野党の勢力が逆転した国会運営を乗り切るには「党内に影響力がある輿石氏で結束するしかない」(参院幹部)と、留任する見通しとなった。

野党側は先の通常国会の閉幕をめぐり、輿石氏らが強引に押し切ったと反発しており、「輿石議長」では野党側が反対する可能性もあった。直嶋正行経済産業相(64)や北沢俊美防衛相(72)も取りざたされたが現職閣僚であるため困難とみられている。

民主党は21、22の両日、参院議員会長の立候補を受け付け29日に投開票する。22日に無投票で輿石氏が選出される可能性が高い。

一方、自民、公明、みんなの3党は15日の幹事長・国対委員長会談で、議長や議院運営委員長などの参院人事を3党間で協議していくことで一致した。>産経ニュース 2010.7.15 23:05

輿石氏は「当選してくれば議長」という小沢一郎前幹事長の呟きを信じ、地元山梨県で、山教組の票では足りなくなった選挙情勢をひっくり返すために、公明党とのバーター取引までして辛くも当選してきた。

だが党としては自民党に惨敗と言うのでは、議員会長として責任の一端を負わざるを得ない。加えて頼りとする小沢氏も責任を負うだけでなく自身の「カネ」を巡って折から検察審査会の俎上に乗るという場面に突き当たった。

こうなっては「輿石議長」を推進する者はいなくなる。「国会対策上、党の結束を維持するためには、輿石氏が余人をもって代えがたい」とかなんとか持ち上げられては、議員会長留任を呑まざるを得なかったろう。

誤報した者として「引かれ者の小唄」だが、日教組議長の誕生が1人減ってよかった。

2010年07月16日

◆衆参とも議長は日教組

渡部亮次郎

産経の総理官邸キャップの阿比留瑠比さんが15日のブログで重大なことを指摘している。民主党参議院議員会長輿石 東氏が今回の選挙で辛勝できたのは、地元山梨で、こともあろうに、公明党、創価学会と票のバーター取引をしたためであり、公明党が「参院議長は民主党から」と言っているのは明らかに輿石議長案を支持したものだ、と。

<山口那津男代表は12日、「(比較第一党の)民主党から議長を出すべきだ」と表明したのです。みんなの党の渡辺喜美代表が真っ先に、議長は野党から出そうと呼びかけていたにもかかわらず、です。

この山口代表の姿勢を見て、私は今年3月に覚えた「厭な予感」を思い出しました。ある意味、「点」が「線」としてつながったなと。

それは、2月26日に、小沢氏が都内のホテルで公明党の支持母体である創価学会の首脳クラスと会談し、その席に輿石氏が同席していた件です。

産経は3月2日付の紙面でこれについて「参院選後の民主党と公明党との連携も視野に入れながら、選挙協力の可能性についても意見交換したとみられる」と報じていました。

私個人は、「北教組による違法献金事件などで選挙が苦しくなった輿石氏が、何らかの譲歩、歩み寄りを条件に学会に票提供を要請したのではないか」と思っていました。実に厭な感じだと。>

情報によれば、この点について民主党最大の実力者小沢一郎前幹事長はかねてから「次の参院議長は当選してきたら輿石」と漏らしていた。だからこそ「2・26」会談に輿石氏を態々伴い、創価学会幹部に紹介し、万一の時の「バーター」の道を担保したのである。

阿比留瑠比さんによると、この事実を裏付けるように、読売新聞の山梨版は《… 3745票の僅差(きんさ)で3選を果たした輿石氏の支持組織の中核は、出身母体でもある山教組だ。

山教組には「3日選挙」の伝説がある。「劣勢な選挙も短期間でひっくり返す」ほどの組織力を持つというわけだ。

だが、北海道教職員組合の違法献金事件などで、「先生と選挙」への世間の視線は厳しくなり、今回の参院選は、現職教諭の動きは鈍った。代わって法的に選挙活動の制限がないOBを中心に活動したが、結果は自民党の新人、宮川典子氏(31)にぎりぎりまで追いつめられた。

輿石氏陣営は今回、別の組織票を頼った。公明票だ。

「バーターしませんか」

輿石陣営幹部が複数の公明党議員らの自宅を訪ね歩いていた。同党が山梨選挙区の「自主投票」を表明した6月17日以降のことだ。

輿石陣営が「比例は公明」を指示する代わりに、公明支持者に「選挙区は輿石」を依頼するという非公式の選挙協力の打診だった。

ある公明党市議は証言する。「バーターに応じた。自民党側からは何の働きかけもなかったから」

読売新聞の参院選出口調査にも「バーター」の効果が見て取れる。公明支持層の約5割が宮川氏、2割以上は輿石氏に投票していた。今回、公明党の比例選の得票は4万7646票に上った。(中略)

だが、山教組幹部は意気盛んだ。「宮川氏を支持した自民党県議は来春の県議選で落選させる。選挙の恨みは選挙で晴らす」

山教組が再び「選挙集団」に戻るのかどうか。それを決めるのは現職教諭たちだ。》


阿比留瑠比さんは「こういう選挙協力の実態があればこそ、山口代表の『議長は民主党から』発言が飛び出したのかな、とも考えさせられます。そりゃ、せっかくの輿石氏とのパイプは手放したくないでしょう」と指摘している。

他方、自民党は仲間割れしていて、とても議長獲得で野党統一戦線など組めル体勢でない。初めから議長は無理と見て副議長を狙う人もいたりするから、民主党に舐められるばかりだ。

民主党内は敗戦処理もあり、9月の代表選挙を目指した主導権争いで戦闘力をそがれたまま。菅首相は小沢氏の意向に背いた議長候補は用意できないだろう。だから余程のことが起きない限り次期参院議長はも輿石東氏で決りだ。

そうなれば、横路孝弘衆院議長(父の節雄氏は北海道教職員組合の結成に携わり、日教組副委員長も務めた)と合わせて、衆参両院議長を日教組の組織内議員が独占するという異常事態となる。

衆参両院議長は、首相、最高裁長官と並ぶ日本国の「三権の長」であり、皇室会議のメンバーにもなります。その4人のうち2人までも、長年、国旗・国家反対運動を続けて国を貶め続けてきた日教組という特定政治団体の組織内議員が占めるわけだ。。こんな笑えない喜劇は滅多にありません。こんなことを国民が望むでしょうか?阿比留瑠比さんならずとも嘆かわしいかぎりだ。2010・7・15

2010年07月15日

◆内務省って知っている?

渡部 亮次郎

敗戦時、国民(小)学校4年生だったから、私は知らない。だが公選によって初代に選ばれた秋田県知事が、それまで内務省から派遣された知事と教わって、その存在を初めて知った。

長じて、出版物の伏字とか、流行歌の発売禁止の歴史を知るに及んで、内務省、内務官僚とは、如何に大きな権力を握っていたかを実感した。それが「ウィキペディア」で簡単に学ぶことができた。

第2次世界大戦前まで内務省は日本での総合的な官庁であり「官庁の中の官庁」とも呼ばれた。日本の底力は内務省にありと睨んでいたマッカーサーはこれを「目の仇」とし、指令によって1947(昭和22)年12月31日廃止した。

自治事務次官を経て日本テレビ社長から読売新聞社長になる小林与三次らが抵抗組の最終勢力だった、とご本人から伺った。

1873(明治6)年に設置され地方行政・警察・土木・衛生などの国内行政を担った。内政・民政の中心となる行政機関であったため、長である内務大臣は内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持ったポストとみなされていた。

後に総理大臣となる中曽根康弘やその官房長官となる後藤田正晴は「内務官僚」だったことを誇りにしていた。大蔵(財務)官僚よりも威張っていた。今の財務・産業官僚の比ではない。

大久保利通を内務卿として設置された当初は、のちの所管事項に加え、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵・司法・文部三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を持っていたのだ。

その後、農林・運輸・逓信など各省が独立し、内務省の所管は大正期には地方行政・警察・土木・衛生・社会(労働)・神道(国家神道)などといった分野に限られるようになった。

各県の知事は内務官僚が派遣されて務めた。知事は本省に帰るとようやく課長になったとか。

このように、戦前各省の総合出先機関的な性格が強かった道府県庁を直接の監督下においていたため、地方行政を通じて各省の所管事項にも直接または間接に関係し、内政の中心としての地位を保ち続けた。

満州事変や日中戦争など戦時色が濃厚になると、防空事務・国土計画を所管に加えたほか、国民精神総動員運動などの国民運動の中心ともなった。1938年には外局であった衛生・社会両局が厚生省として分離されたが、当時の人事は内務省と一体のものとして運用されていた。

1910年代から1930年代にかけては政党員が内務大臣に就任したり、内務官僚出身者が代議士に転身して政党幹部に就任したりすることで省内に大きな影響力を与えた。

一方、自党が選挙に有利になるように反対する省幹部や知事らを更迭して自党を支持する官僚を後任にあてる人事を頻繁に行うようになり、政権党が変わるたびに大規模な人事異動が行われて「党弊」とも呼ばれた。1925年に治安維持法が制定されると、特別高等警察の元締として多くの事件を引き起こした。

1930年代に軍部が台頭すると、それと結んだ革新官僚が政党の影響力を排除した法改正を行うなど、独自の政治力を持つようになる。一方、軍部が地方行政や警察への介入を図ったために、双方の間で権限争いも生じた(ゴーストップ事件など)。戦前の北海道庁・樺太庁・警視庁、各都道府県の特高警察は内務省の下部組織であった。

内務省の内務次官、警保局長、警視総監は「内務省三役」と称された重職で、退任後は約半数が貴族院の勅選議員に選ばれた。

敗戦後、GHQは特別高等警察や政府による検閲、いわゆる国家神道の廃止を指示、さらに内務省のもとでの中央集権的な警察制度の全面的な変革を求めた。また、警察関係を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。

1947年5月3日に施行された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選となるなど、地方行政の大きな転換がなされた(ただし、公職追放との絡みもあり、1945年の段階から内務官僚以外からの知事の政治任命が進んでいた)。

同年末、GHQの指令により内務省は廃止され、74年余に及ぶその歴史に幕を閉じることとなった。

かつて内務省がになっていた業務は多岐に亘るが、現在では主に、地方行政部門は各都道府県、および自治省とその後身の総務省に、警察部門は国家公安委員会・警察庁に、 土木部門は建設省を経て国土交通省に、

衛生・社会部門は対米戦時中に分離した厚生省(およびのちに厚生省より独立した労働省)の後身である厚生労働省に、 それぞれ担われている。今日、特にこれらの省庁を指して「旧内務省系官庁」と呼ぶことが多い。

自民党時代の歴代官房副長官(事務)は殆ど旧内務省系官庁以外からは選ばれなかった。

また、1945年10月、GHQの覚書を受けて当初返還財産の受領機関として設置された内務省調査部(内務大臣官房調査部)の業務は、内務省調査局(1946年8月 ― )、内事局第2局・法務庁特別審査局(1948年)を経て公安調査庁(1952年)に引き継がれた。

神道を統括した外局の神祇院(神社局の後身)の業務は宗教法人である神社本庁に引き継がれた。(文中敬称略)2010・7・9
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2010年07月14日

◆検閲を欺いた服部良一

渡部亮次郎

検閲(けんえつ)制度を知らない世代が多くなった。「何しろ戦前、戦中は検閲制度の為、出版の自由なんか無かったし、演歌だって物によってはレコードが発売禁止にされたのだ。

そんな時代があったんだ」と言っても理解できない人が多くなった。何でも自由は結構な時代だが、その分、放埓な世の中になっていることも事実である。

検閲は江戸時代には江戸幕府によって、戦前・戦中には内務省などによって、敗戦後の連合国占領下には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって行われた。

検閲は大きく分けて事前検閲と事後検閲の2種類あるが、日本において行われたものの多くは事前検閲である。現在の日本において、検閲は日本国憲法によって禁止されている。

敗戦前まではレコードは取り締まられた。製品は解説書2部を添え、規定された様式にしたがって内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

「夜のプラット・ホーム」、「湖畔の宿」などがひっかかった。「夜のプラット・ホーム」は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。

1947(昭和22)年に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるからNHKは戦後の歌に区分けしているが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

「湖畔の宿」作詩 佐藤惣之助だが、作曲はやはり知恵者服部良一。
昭和15年の作品。女優高峰三枝子が歌った。発売禁止になったときはレコードは津々浦々に普及してしまって発禁の被害は余り無かった。役人仕事は戦時中も今も変わらない。榛名湖ガモデル。

1 山の淋しい 湖に
  一人来たのも 悲しい心
  胸の痛みに 耐えかねて
  昨日の夢と 焚き捨てる
  古い手紙の うすけむり


2. 水にたそがれ 迫る頃
  岸の林を 静かに行けば
  雲は流れて むらさきの
  薄きすみれに ほろほろと
  いつか涙の 陽が落ちる


(台詞)
   「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
   静かに静かに黄昏れて行く……。
   この静けさ、この寂しさを抱きしめて
   私は一人旅を行く。
   誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
   幼な児のような清らかな心を持ちたい。
   そして、そして、
   静かにこの美しい自然を眺めていると、
   ただほろほろと涙がこぼれてくる」


3. ランプ引き寄せ 故郷へ
  書いてまた消す 湖畔の便り
  旅の心の つれづれに
  ひとり占う トランプの
  青い女王の 淋しさよ


「夜のプラット・ホーム」は当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだが、中国戦線へ出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞があるとして、戦時下の時代情勢にそぐわないと検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。

その2年後の1941(昭和16)年、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤が発売された。作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という名前の人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。所謂「輸入の洋楽盤」だから検閲の対象にならなかった。

しかもR.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていた、ドイツ系のハーフの男性の変名であった。服部の方が、検閲官より頭が良かった。さすが大阪人。息子が服部克久でやはり作曲家。

この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。


敗戦後、新憲法が制定されて検閲は禁止になったはずだったが連合国軍による占領下でGHQによる検閲がおおっぴらに行なわれた。                                    

1945(昭和20)年に、「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16、9月10日)や「日本ノ新聞準則ニ関スル覚書」(SCAPIN-33、9月21日)(いわゆるプレスコード)等を発出した。

民間検閲支隊により日本のマスコミなどへの事前検閲や事後検閲を行い、反占領軍的と判断した記事(占領軍兵士による犯罪なども含まれた)などを弾圧して全面的に書き換えさせた。

これらのGHQによる行為は個人の手紙や電信電話にまで及び、検閲は隠匿され日本国憲法施行下にあっても強力に実行された。犯人とか容疑者を米国人と分かる書き方は禁止された。

しかし、検閲に協力した人々の証言がほとんどないためその実態には未解明な部分も多い。

文学評論家の江藤淳は戦後の占領政策における検閲の方針(江藤はこれを「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム<戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画>」と称している)と関連する資料を明らかにし、占領期はGHQによる検閲と一般人の目に見えない自己検閲によって自由な発言ができず、閉鎖された「言語空間」が形成されたことを解明している。

日本国憲法第21条第2項前段において検閲は明確に禁止されている。「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010・7・5




2010年07月12日

◆ 言い訳「悪」菅に「No」

渡部亮次郎

参議院の開票速報を見ていたが、自分の予測と余りにも一致していたので、
焼酎を1杯、余計に呑んで、寝てしまった。「有権者は言い訳ばかりする
「悪」菅にNoを突きつけたのだ、日本人は賢い)と夢うつつに考えていた。

菅はト書きを失くしたヘボ役者である。半生、他人の揚げ足取りをして、
とうとう首相の椅子をモノにしたが、さて、自前の芝居をするにも
シナリオがない。

カナダのサミットに行って「中国(共産党)を招け)と提案。恥をかいた。
サミットこそは民主主義、資本主義大国の牙城なのだから、各国首脳が
菅の発言を無視したのは当然だった。

菅は自らの発言のバカらしさに気づいて愧じた。

財務大臣になってみて「ギリシャ」問題の意味を官僚に聞かされて初め
て知った。ならば財政再建をしない日本は第2のギリシャになる。消費
税を上げるしか方法は無い。

そこへ自民党が10%を提案。これまでは攻撃するところを、「オンブオ
バケ」宜しく尻馬に乗った。自分用のシナリオが無い方である。

「消費税」と言っただけで有権者は反発する。特にばら撒き政策の恩恵
を蒙らない年寄り家庭は激しく反発した。反応に驚いた菅は慌てて言い
訳を始めた。年寄りは「言い訳」が嫌いな世代だ。菅は負けた。

「政権交代」は今や嫌われている。有権者は反省しているのだ。ただし
旧政権党の自民党は余りにも粗末と改めて分かったから、直ちに民主党
を見捨てないだろうが、その信頼度は極度に低下している。

しかもだ、この敗戦を自らの復権に利用しようと狙っている人が秘策を
練って菅の足元を狙っている。小沢だ。イチカバチかの「内戦」を挑む
はずである。選挙結果より、もっと面白いのが民主党の内戦だ。民主党
は分裂に向かっている。(文中敬称略)2010・7・12

■本稿は7月12日刊全国メルマガ「頂門の一針」1976号に
掲載されたものです。卓越した政治評論をご拝読下さい。

◆<1976号・目次>
言い訳「悪」菅に「No」:渡部亮次郎
「日の丸」「君が代」嫌いの首相?!:古森義久
外国人参政権―朝日の暴論再び:東郷勇策
バブル崩壊に向かう中国経済:伊勢雅臣
沈没か、それとも増税か:平井修一
話 の 福 袋
反     響
身 辺 雑 記

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 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年07月10日

◆ペンシルロケット

渡部亮次郎

1958(昭和33)年3月、NHK秋田放送局で取材見習いが始まった。
東京で警視庁取材の長かった中山光雄さんが「ナベ、ペンシルロケットの取材に付いて来るか?」というので、局のジープに同乗して、雪道をいそいだ。

ロケット? ペンシル? 道川(みちかわ)海岸?、秋田高校を出たはずなのに、東京で過ごした4年間で、地元のニュースは何も知らなかった。

東大生産技術研究所の工学博士糸川英夫を中心とするAVSA研究班によって研究の始まった『ペンシルロケット』は、1955(昭和30)年4月12日、東京都国分寺の廃工場跡地で水平発射公開実験に成功。

いよいよ上空へ向けての発射実験は海岸から打ち上げて海に落下させるほかないが、当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。

船舶や航空機の航路を避け漁業への影響が少ない場所として、秋田県岩城町の勝手川河口南側の道川(みちかわ)海岸が選定された。秋田市内から車で1時間ぐらいの寒村の海岸。

上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。全長わずか30Cm。当に鉛筆ロケットだ。

1955(昭和30)年8月6日に行われた道川での最初の発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗であった。

急遽ロケットの固定方法を改良し、同日2回目の発射実験は成功した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒であった。

私が取材初体験したのも、この頃。寒風吹きすさぶ)砂浜にゼンマイを一杯に巻いたデンスケ(録音機)を放置して、退避。ロケットはヒュルンと日本海上空へ飛んで行った、と思ったら嘘。海を睨んでいる取材団の背後に墜落した。それでも、その夜、「録音ニュース」として全国に放送された。まだテレビの無い頃だった。

ペンシルの飛翔実験は1955年(昭和30年)8月8日で終了し、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の『ベビーロケット』の発射実験を開始した。

標準型であるベビーS型は、ペンシル300と同様の発煙剤による光学追跡であったが、ベビーT型でテレメータを搭載し電磁気的な追跡が可能となった。またベビーR型では、パラシュートによる機器回収の実験を行った。

私は6月には転勤。ロケット発射実験とは縁が切れたが、ベビーロケットは、この年12月までに計13機が打ち上げられた。到達高度は6kmであった。

1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての国際地球観測年(IGY)に日本が参加を表明したことを受け、文部省(現文部科学省)は、大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川に打診。

1956(昭和31)年1月、東大生研へ正式に協力要請が下された。ペンシルおよびベビーで経験を積んだAVSA研究班は、本格的な観測用ロケット『カッパ(K)ロケット』の開発に着手した。

ベビーよりも大型となるカッパを打ち上げるにあたって、発射場は同じ道川の勝手川河口北側500mの海岸へと移された。1956(昭和31)年9月24日、K-1型が初飛翔。到達高度は10kmであった。

カッパの開発は必ずしも順風満帆ではなかったが、1958(昭和33)年9月、K-6型が高度60kmに到達した。当初目標の高度100kmには及ばなかったものの、この観測データをもって日本はIGY参加の責務を果たした。

IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960(昭和35)年にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。

たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。道川からの打ち上げは高度300―350kmが限界とされた。

この頃には米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した。

その結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年(昭和37年)2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設が着工された。1963(昭和38)年12月9日開所)。

内之浦への新実験場の建設が決まった後も、東京から近く、梅雨の期間が短いために夏季の実験・観測に有利である秋田ロケット実験場では、高度300km未満に限定のうえ継続して飛翔実験を行う予定だった。

しかし1962(昭和37)年5月24日夜、K-8型10号機が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった(固体推進剤内にクラックが生じていたことによる異常燃焼が原因とされている)。

死傷者は出なかったものの、事故を機に地元の協力が得られなくなり、安全対策にかかる費用の問題もあり、道川での発射実験は全て中止、実験場閉鎖へと追い込まれた。

以後の東大によるロケット飛翔実験は内之浦へ全面的に移行することとなる。1955(昭和30)年から1962(昭和37)年にかけて秋田ロケット実験場から打ち上げられたロケットは、計88機であった。

なお、東大の道川からの撤退に際し1962(昭和37)年10月、秋田県能代市にロケットモーターの地上燃焼実験施設「能代ロケット実験場(現能代多目的実験場)」が開設された。

現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類は一切現存していない。岩城町が建立した「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、日本の宇宙開発最初期の舞台であった歴史を今に伝えている。

私はその後、大館、仙台、盛岡、東京、大阪と転勤し41歳でNHKを退職した。今日の日本ロケト産業の隆昌を見る時、道川の果たした役割はもっと大きく顕彰されて然るべきものと思う。2010・7・8
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■7月10日刊・全国版メルマガ「頂門の一針」1974号のご案内
<目次>
・選挙は水もの、最後の一日で決まる:古澤 襄
・仙谷官房長官を罷免せよ!:東郷勇策
・菅直人氏は政治カメレオンか:古森義久
・鳩山前総理と日本の存在感:加瀬英明
・無知蒙昧は知っている:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年07月08日

◆リラ=ライラック

渡部 亮次郎

日本語にすると何かしらロマンチックになるのだろうか、アルプスの牧場には楡(にれ)の木に鳥が啼いたり、札幌の時計台には楡の花が咲くと、高校の先輩東海林太郎(しょうじ たろう)が歌っている。

同じように情緒的に歌われるのが「リラ」の花である。長じてヨーロッパへ旅するまでは実物に出会ったことはなかった。ブリュッセルのレストランの庭に紫色の薫り高い花が満開だった。「あれはライラック即ちリラの花だよ」とドイツ育ちの友人が教えてくれた。

吉岡妙子「リラの花かげ」、岡本敦郎(あつを)「リラの花咲くころ」

倍賞千恵子「リラの花散る町」、加門 亮「リラ冷えの街」は、みんな「ライラック」を歌っていたのだ。それを知っていたかどうかは無関係だ。リラはフランス語、英語がライラック。

ライラック(Lilac、学名:Syringa vulgaris)はモクセイ科ハシドイ属の落葉樹。ライラックの呼称は英語の仮名転写に由来し、他にフランス語由来のリラでも呼ばれる。和名はムラサキハシドイ(紫丁香花)。

ヨーロッパ原産。春(日本では4―5月)に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく香水の原料ともされる。

日本には近縁種ハシドイ(紫丁香花) (Syringa reticulata) が野生する。開花はライラックより遅く、6―7月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも
呼ばれることがある。

花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。

ハシドイの名は、木曽方言に由来する。属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという。

欧州の民間伝承では白い花のライラックを家に持ち込むと不吉なことが起こるとされている。(「ウィキペディア」)2010・7・4

リラ=Lilas、Lilac。そう、リラはライラックの別称ですが、音楽にも乗り安いし、何となく情緒的な叙情的な感じがするから、リラの方が良いでしょう。

寺尾智沙・田村しげる夫妻の手によるものですが、白い花の咲く頃より、より抒情的でよりメランコリックな出来上がりになっております。

この作品も岡本敦郎が歌って大ヒットさせました。リラの花弁は白、ピンク、薄紫、紫と色々ありますが、宝塚歌劇団の「すみれの花咲く頃」のフランス原曲も実は原詩を訳すと「リラの花咲く頃」。

この場合は白いリラの花です。さらに、このフランス曲にも原曲があって、ドイツ原曲の「ニレトコの花が咲く時」というらしいです。ニレトコ(ドイツ)→リラ(フランス)→すみれ(日本)となったわけです。リラの
花咲く頃

      JASRAC Code No.094−2028−2

     リラの花咲く頃


     作詞:寺尾智沙
   作曲:田村しげる
   歌唱:岡本敦郎
   MIDI制作:滝野細道



   1.リラの花が 胸に咲く今宵
     ほのかな 夢の香に
     ああ 思い出の あの囁き
     遠く遥かに 聞こえ来るよ


   2.リラの花が 胸に散る今宵
     やさしく 手を組し
     ああ 過ぎし日の あのメロディー
     霧の彼方に 流れ行くよ


   3.リラの花が 胸に哭く今宵
     はるばる 別れきて
     ああ 懐かしの あの面影
     ひとり狭霧の 小径(みち)を行くよ

2010年07月07日

◆作詞家岩谷時子94歳

渡部 亮次郎

ラジオ深夜便が作詞家岩谷時子(いわたに ときこ)特集をやった。昔からとてもセンスの良い詩を沢山書いてきた人。越路吹雪のマネジャーをしながらザ・ピーナッツ『恋のバカンス』や加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』、園まり『逢いたくて逢いたくて』など数多くのヒット曲を生み出してきた。

大正5(1916)年3月28日うまれというから、すでに94歳ながら独身、帝国ホテル住まいを続けて現役。もっと詳しく知りたくて、検索に「岩谷時子の近況」と入れたら「岩谷時子さんから元気をもらう」 2006/07/2909:12 と言うのに出会った。

産経新聞で「正論」の名編集長と言われた大島信三さんのブログだった。ジャーナリスト。新潟県出身。平成21年1月末、編集委員を最後に産経新聞社を退社。とある。4年前のエントリであるが、貴重な「近況」が探れる。

<いま、朝食を終えた食卓で、小学館から月に2回発行される、雑誌『サライ』8月3日号を開いている。新聞の広告で、銀座の特集を組んでいるというのを知って、書店で買ってきた。

目次をみると、なるほど、銀座大特集のオンパレードだ。しかし、最初に見たのは、冒頭のインタビュー欄。作詞家の岩谷時子さんが、登場している。まさか、ここで岩谷さんの近況を知るとは、思いもよらなかった。雑誌というのは、こういうハプニングがあるから楽しい。

岩谷さんに、お会いしたことはないが、昔、電話で随筆をお願いしたことがある。そのとき、いただいた手紙を、いまも大切に保管している。

「作詞を続けて半世紀以上。『お嫁においで』『恋のバカンス』など、世代を超えて歌い継がれる数々の名歌を世に送り出してきた」というキャプションのついた90歳の岩谷さんの写真は、とても若々しい。

現在(06年7月29日)は、日比谷の帝国ホテルに住んでいる。そういえば、オペラ歌手の藤原義江も帝国ホテル暮らしだった。

岩谷さんのご自宅は大田区にあり、3年前までは、週末だけ帝国ホテルに泊まって集中的に仕事をしていたが、なにかと便利なので、いまはすっかりホテル生活者。自宅には、めったに帰らないとか。

「世に送った作品は1300曲以上。気力と好奇心は、今も健在」と前文にある。昨年(05年)春、岩谷さんは、階段で転び、大怪我をした。医師たちは、自力で歩くのはむつかしいだろう、退院しても車椅子が必要になるだろう、と思っていたらしい。

岩谷さんは、心のなかで「絶対に歩けるようになる」と。「やっぱり気力が大切ですね。悩んでも、なにも解決できないと思ったら、頭を切り替えて、悩むというエネルギーを前向きな方向に使うことです」と語る岩谷さんは、いまなお現役の作詞家として創作活動をつづけているのだ。けさは、岩谷さんから、元気のもとをもらったような気分で清々しい。

岩谷さんは、越路吹雪のマネージャーだった。「彼女から報酬をもらったことはありません。だから、越路さんは、わたしのことを欲のない世話好きのお姉さんと思っていたんじゃないかしら。

わたしにしてみれば、彼女は世話のやける妹でしたけどね」(笑い)と、岩谷さんは、インタビューで語っていた。

ひとり娘の岩谷さんが、お嫁に行ったら、寂しくなると、親は結婚をすすめなかった。恋や愛の歌も、体験からではなく、想像の産物。

「その点、越路さんは、恋多き女で、彼女が昭和34年に結婚するまで、わたしがずっと恋の使者でした。恋が終わるときも、相手の方に引導を渡しに行かされる。

最初はお互い好きで心を寄せながら、別れのときがくる。すると、相手につらい思いをさせたと越路さんは悩んで、わたしに行ってくれってことになるんです。でも、相手の男性はみな、“時子さんも大変やなあ”と気遣ってくれまして」

帝国ホテルのとなりは日生劇場。昔、ここで越路吹雪の歌を聴いた。あのボリュームあふれる、歌声も懐かしい。>

<越路吹雪と歩んだ半生

1916年京城(現在のソウル特別市)生まれ。5歳の頃に西宮市に移住。市立西宮高等学校を経て神戸女学院に進学。1939年神戸女学院大学部英文科卒業後、宝塚歌劇団出版部に就職。月刊誌『歌劇』の編集長を務めた。

そうした中、偶然編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪と出会う。二人は意気投合し、越路の相談相手となる。

越路が宝塚を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。上京し、越路の付き人を務める。

1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。会社員として働く傍らも越路をサポートし、越路が死去するまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けた。

しかし、あくまで「越路が好きだから支えていた」という岩谷は、越路が亡くなるまでマネジメント料としての報酬は1円も受け取らなかった。(※第29回菊田一夫演劇賞授賞式において、岩谷時子を演じた高畑淳子が証言)

マネージャーとして活動する一方で、越路が歌うシャンソンの訳詞を手掛けたのきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』や加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』、園まり『逢いたくて逢いたくて』など数多くのヒット曲を生み出してきた。

一方、オリジナルの詞にとらわれず独自の解釈で詞を当てることもある。例としては、エディット・ピアフが歌った「愛の讃歌」は元の歌詞が「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容であるのに対し、岩谷訳詞では一途な愛を貫くという賛歌となっている。

ミュージカル『ミス・サイゴン』の訳詞を手がけたことがきっかけで、同作品に主演した本田美奈子と親交を深める。本田の才能を「越路の再来」と高く評価し、数多く詞を提供した。

偶然にも、本田が死去する直前、足を負傷して本田と同じ病院に入院。ボイスレコーダーを通して、当時無菌室に入っていた本田を激励した。

2009年7月7日『一般財団法人 岩谷時子音楽文化振興財団』を立ち上げる。

2009年10月、文化功労者。<「ウィキペディア」)2010・7・4