2008年09月05日

◆貝原益軒を知らない?


渡部亮次郎

貝原益軒 かいはら えきけん 1630年11月14日〜1714年10月05日(陰暦 08月27日)。世界最長寿国日本誕生のための学問の元祖とも言うべき大学者なのだ。或いは日本のアリストテレスと称える人もいる。

当時としては驚くべき長寿の83歳の正徳2年(1712年)に自身の実体験に基づいて「養生訓」(ようじょうくん)を遺し2年後、当時としては想像もできない長寿を実践した。長寿を全うするための身体の養生だけでなく心の養生も説くというところに特徴がある。

『孟子』の君子の三楽にちなんで、彼は養生という点からの三楽として次のものを挙げている。

(1)道を行い、善を積むことを楽しむ
(2)病にかかることのないのを快く楽しむ
(3)長寿を全うすることを楽しむ。

また、その長寿を全うするための条件として、彼は、自分の内外の条件を指摘している。まず自らの内にある4つの欲を抑えることとして、次のものを我慢するべきだという。

(1)あれこれ食べてみたいという食欲(メタボ)
(2)色欲(SEX)
(3)むやみに眠りたがる欲(宿酔い?)
(4)徒らに喋りたがる欲(この輩は案外多い)

これらを押さえた上で、季節の暑さ、寒さ、湿度などの変化に合わせた体調の管理、これらが揃って初めて健康で長寿が生きられるという。結婚を39までせず、岡場所へも行かないと言うのでは私に長寿は無縁だ。

これらすべて彼自身の体験で、これは愛妻家であった彼の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都などに物見遊山にでかけたりし、睦まじく長生きしたという。

福岡市生まれ 福岡藩士。大学者として『養生訓』他多くの著書を残す。

1630(寛永7)年11月14日、福岡城内の東邸で誕生、父貝原寛斎(1597-1665)の五男として。父寛斎(孫太夫利貞)は黒田藩主、忠之、光之に前後15年間仕えた。食禄百。50石ほどであった。

益軒は名を篤信(あつのぶ)、通称は久兵衛と言った。6歳で母死別、母親代わりの「地行婆」という家政婦に当たる人に兄弟共に育てられた。

7歳ころ現在の博多築港辺りに移住、幼い頃から環境もあったか、読書好学の精神が見られ平仮名、片仮名を覚え小説・草子類を好んで読んでいた。

8歳の冬、父の異動で一家は穂波群は八木山(現飯塚市)に又父、長兄が島原の乱に参加、留守中次兄から漢字、漢詩等を学びいろいろ勉強、読書好きで「平家物語」「保元物語」・・・古典を人に借りて愛読している。彼が「四書」を始めて読むようになったのは14歳のときである。

11歳の時、福岡に帰り、さらに怡土群(いとぐん)井原村(前原市前原)に移住、この時に「太平記」を読んでいる。次兄存斎について学んだ益軒は、終生特定の師について学ぶことはなかった。

次兄は医学を学びに京都に留学しているが、医学より儒学を好みしかも仏教を排斥、益軒にも仏教信仰を捨てるように教えている。この影響は大きく、この頃当時の新しい学問、朱子学への第1歩を踏み出した。

一方、父からも医薬の知識を受け、自らは「医学正伝」「医方撰要」「万病回春」等を読み、ほぼ医薬の道も知るようになっている。次兄について学んだ儒学、17歳の時に「小学」を読んでいる。

1648(慶安元)年、19歳の時に初めて出仕(藩主に仕えること)、藩主忠之の御納戸御召料方(おなんどおめしりょうかた)という衣服調度の出納係りの近侍となり4人扶持を受けるようになった、これ以降48年間、光之・綱正と3人の藩主に仕えてさまざまな業績を残した。

出仕・長崎生活・浪人・江戸生活(19-27歳)、生涯12回江戸へ。京都へは24回も行っている、福岡藩長崎警備で藩主に同行、一時期藩主の機嫌を損ね、免職、浪人生活(7年間)にもなっている。

この間自費で前後3回にわたって長崎に遊学、積極的に中国文化の摂取・吸収に務め、唐通事・蘭通事とも交際している。

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2008年09月04日

◆スパイからの領収書


渡部亮次郎

大韓民国第5〜9代大統領朴正煕氏が嘆いたことがある。「スパイから領収書を取って来いと会計検査院(?)は言う、わが国の先は長くない」。在任中、青瓦台(大統領官邸)に招いて会談した日本政界の指導者園田直氏に打ち明けたものである。

当時、韓国政府に会計検査院があったかどうかは知らない、日本で言えば会計検査院のように「領収書」一点張りで国家予算の行方を監視する組織の事だろう。

問題は敵のスパイを懐柔するために握らせた現金(ゲンナマ)について領収書が取れるか取れないか。取れないのが常識だが、検査院は「領収書の添付されていないカネは使途不明金」との主張を変えない。

検査院とは、そういう姿勢を貫く事が大事だが、「常識」をまた認めないことには「政治」が行き詰まってしまうのも事実だ。朴大統領としては検査院が業務を厳しく遂行して欲しいが、スパイから領収書を取って来いなどと言う馬鹿げた事は言うべきでないというのが嘆きだったろう。

大手建設コンサルタント会社「PIC」によるベトナムでの贈賄事件は東京地検が8月25日、関係者4人と会社を起訴したことで、一連の捜査は終結(産経新聞26日付)。

<ベトナムでの政府開発援助(ODA)事業をめぐる贈賄事件で、東京地検特捜部は25日、不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)罪で、大手建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)前社長多賀正義容疑者(62)=詐欺罪で起訴=ら4人と法人としての同社を起訴した。

このほか起訴されたのは、元常務高須邦雄(65)、元役員坂下治男(62)、元ハノイ事務所長坂野恒夫(59)の3容疑者>。(同)。

東京地検特捜部の検事たちは一体、ベトナムの公務員たちが、低賃金を補うためODAに絡む多額の「賄賂」を分配し合っている実態を知った上で捜査したのか。

その実態を熟知する日本企業は賄賂の「要求」に応じる結果「落札」する。それに業を煮やした欧米企業がOECDを通じて日本外務省に「実態調査」を要求。

連絡を受けた東京地検は「仕方なし」に捜査に踏み切った、と言うのが実態じゃないか。永年、見て見ぬ振りをした外務省やJICAを責めて月光仮面づらするマスコミだけが「正義の味方」で済まされる問題では無いだろう。

起訴の結果、日本が日本人を罰する事になるけれども、ベトナム政権が役人たちを罰する事は先ず、ありえない。とすれば馬鹿を見るのは誰なのだ。「角を矯めて牛を殺す」のが「正義」とは聞いて呆れる。正義を貫くためには国益を棄てるのか。

<社会主義体制のベトナムでは公務員の権限は強いが、給与は高くない。日本の外務省によると、外資系企業の最低賃金月額80万〜 100万ドン(約6000円)に対し、公務員や国営企業職員は同54万ドン(約 3500円)。

「副収入」を求める公務員もおり、受注でしのぎを削る企業が接触機会を狙う構図だ。

毎日新聞の取材に、局長は「忙しいので何も答えられない」とだけ語った。外国公務員への贈賄を禁じた今回の不正競争防止法に収賄側を罰する規定はなく、局長が日本で罪に問われることはない。

ベトナムでは、公務員に対する一定の贈賄行為は「商慣習」ともささやかれる。ただ、今回の現金授受は道路建設を担当する市の業務管理局事務所執務室で白昼堂々と行われ、局長側が受注額の15%前後を要求したという。駐在員は「慣習といってもPCIの提供額は多すぎる。5%ぐらいが相場のはずだ」と語る。

市局長が暮らす4階建て自宅ビルは、市中心地に近い大通りに面し、玄関には防犯用シャッター。知人は「本人はまじめな印象だが奥さんは派手だ。子供2人を海外に留学させている」と明かした>(8月5日毎日新聞)

東京地検の手入れの結果、ベトナム側と日本企業による贈収賄が一旦は自粛されるだろう。日本に還るべきODAは清く正しくEU各国に流れる事になるだろう。しかし役人たちの糊口は濡れないとすればどうなるか。

贈賄の無いEU各国企業に賄賂を公然と要求するか。しかしできないとなれば、かねて手馴れた日本企業を再びターゲットにするしかないだろう。こうなれば東京地検の面子は放浪する。

大学で六法全書の暗記に身を窶し、実社会とは隔離されたような法曹の籠で「目んない千鳥」を歌っている検察庁と「有り得ぬ」領収書を求める会計検査院。一見、頭脳が良すぎて「アタマ」が不自由な秀才を連想してしまう。

その人たちに一句。「角を矯(た)めて牛を殺す」=少しの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体を駄目にしてしまうこと(広辞苑=岩波書店)。2008・8・31

2008年09月03日

◆透明人間が降板しただけ


                       渡部亮次郎

<首相退陣表明極秘決断 夫人にも相談せず福田康夫首相の退陣準備は極秘の内に進められた。

首相は1日の記者会見で、退陣決意は先週末と語ったが、実際はそれよりも早かったという。ただ首相は周辺にも一切退陣の意思を漏らさず、貴代子夫人にも相談しなかった。

首相は退陣表明の記者会見の草稿執筆を菅原郁郎秘書官に命じ、菅原氏は31日夕、首相官邸の秘書官室で一気に書き上げたが、会見直前まで官邸外には一切漏れなかったようだ。

首相は退陣表明の記者会見後、肩の荷が下りたのか、「表明のタイミングは9月1、2、3日ぐらいしかなかった。小沢(一郎民主党代表)さんの立候補が決まった日に合わせた」と周辺に本音を語り、退陣表明−自民党総裁選によって、民主党代表選を希薄なものにしたいとの考えだったことを明かした。

「(臨時国会で)29日の所信表明と(民主党も公明党も)言っているのだから、新首相が29日にやればいい」とも語った。>9月2日3時0分配信 毎日新聞

なりたくも無い、元から無能力な人間が無理に祭り上げられていた総理大臣が、切羽詰まって椅子を蹴飛ばした。福田康夫総理大臣の辞意表明(2008.9.1)。意欲、能力なき透明人間の下野に何の感慨があろう。

康夫さんとは父親赳夫政権で彼が父親の下で総理大臣首席秘書官、私が元福田派担当記者の故を以って園田直外務大臣の政務担当秘書官という仲。例の「大福密約」(2年で政権を大平幹事長に譲る)の存在を知っている私、知らぬ彼。波長が合わなくて参ったものだ。

高校では捕手をやっていたらしい。投手をリードする係りだが、どうも彼は投球を受けるだけで手一杯だったらしい。性格もそうで、自己主張すべき哲学も抱負経綸も無い。「友達の厭がることはしない」のは中韓に対してだけでは無い。アイデンテティーが無いのだ。

昨年秋、安倍氏が突如、退陣表明をした時、福田氏は既に長男にバトンタッチする準備中だった。当選僅か6回にして当時すでに71歳。「好きで政治家やってんじゃない」の口癖どおり、性格が政治家に向いていなかった事をつくづく知らされたわけだった。

ところが異変が起きた。引退したはずの元幹事長・官房長官野中廣務氏が京都の奥から出てきて「福田神輿」を手下の古賀誠元幹事長に担がせ、自らも森喜朗初め党内実力者の説得を始めた。

これは奇手にして妙手だった。親中、親韓、半靖国、反麻生との共通項で党内多数を占める妙手。最大派閥の安倍派も旧竹下派も皆乗った。「それなら載ってみるか」と康夫氏、やおら「救国の士」面
して受諾。これが福田政権の実像。元々蜃気楼政権だったのだ。

自らに力なし、友人なし、策士なし。友党の公明に気遣うあまり、しまいには財政政策にかみつかれたばかりか臨時国会の召集日にまで駄々をこねられた。舐められつくしたのだ。

辞めるしか、投げ出すしかなかったのだ。せめて厭味の一つぐらいを放つか、というタイミングが関東大震災の日だったのである。
そのあたりを評論家の花岡信昭氏(元産経新聞政治部長)は私より紳士である。

<「福田退陣-新首相の手による早期解散」の流れをつくったのは公明党だ。内閣支持率の低迷を理由に、連立からの離脱もちらつかせるような態度はいかがなものか、という暗黙の抗議が、福田首相の退陣表明に隠されている。

それを最もよく感じているのは、当の公明党だろう。自民党に対して大きな「借り」を作ったことになる。来年夏の東京都議選対策を最優先させる公明党の立場に、自民党側が最大限の配慮を見せたわけだ。

「好き好んで政治家になったわけじゃない」というのが福田首相の口癖であった。安倍前首相の突然の退陣による党内の混乱を、自身が立つことで救ったという自負もある。これ以上、政権にしがみついていても得るものはない、と判断したのであろう。

故竹下登氏が「武士(もののふ)の進退は瞬時にして決すべし」と、ことあるごとに言っていたのを思い出した。竹下氏はその言の通り、大方の予測を裏切って早期退陣表明に踏み切った。

政治家は引き際が一番難しい。そういう意味合いでいえば、福田首相のこの段階での退陣表明は世間をあっと驚かせた点で、きわめて効果的であった。>(花岡信昭メールマガジン★616号[2008/09/02] 2008・09・02

2008年09月02日

◆特派員電が偏るわけ


渡部亮次郎


<日本の大手マスコミが、いつもアメリカ大統領選挙で予想を大きく外す傾向があります。

第1に特派員の多くがNYタイムズなど北東部のリベラルな新聞の後追いが多いため、気づかない裡に民主党有利の記事を書いていることです。

第2に日本の特派員はワシントンやNYにいても、記者クラブというムラに住んでいて、独自取材が不得手。積極性がないのが致命傷ですね。もちろん産経の古森さんとか、例外もたくさんいますが。

第3は共和党との人脈が極端に薄いためです。まして特派員の多くの日本人が本質的に民主党リベラル支持派ですから、その分析が偏向しているのです>。(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20(2008)年9月1日(月曜日)通巻第2303号)。

私は国内政治だけの記者をたった20年しかしなかった中途半端記者だったが、NHKというマスコミに居た事は間違いないので他人事(ひとごと)ではなく受け留めた。

記者の途中で1977年11月に、福田赳夫内閣の改造で官房長官から外務大臣になった園田直(そのだ すなお)氏に求められて秘書官(政務担当)に就任した。

その後も園田氏は外務大臣を次の大平正芳内閣、鈴木善幸内閣と3代に亘って勤めたので、私もそれなりに外務省に知己ができた。それとなく彼らの話を聞いていると「外国語に優れた外交官は外務事務次官にはなれない」というジンクスがあるということだ。

その後の外務省人事では、これは外れもあったかもしれないが、その時までの説明によると、人間の頭脳は左脳と右脳があり、外国語を記憶するための脳を発達させると、総合判断力を磨く能力が落ちる。

外国語を磨くと通訳には優れるが、外交官としての判断力とか洞察力、推理力、人事管理能力とかは二の次になってしまうから、省内ナムバー2として、官僚の頂点には立てない、と言う事だった。

NHKや民報、新聞各社も同様だと思うが、記者の採用試験の際、人事部は予め、将来の海外特派員候補として、外国語に優れた人材を採用する。

ただし将来の海外特派員を保証はしない。知らん振りをしてまず地方の支局に一般取材記者として赴任させ、一般的な取材能力を磨かせる。数年後に一旦、東京本社に引き揚げた後、政治部なり経済部なり社会部などで仕上げをした後に、特派員として海外に派遣する。

ワシントンは政治と犯罪NYは国連と株と犯罪が分からなければ話にならないから、予め訓練は東京で受けてきたはずだが、すんなりとは行かない。発表物はこなせるけれども、役人や企業幹部はなかなか単独では取材の応じてはくれない。

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2008年08月31日

◆巴里だより 「丹精を込める」への読者の声

 
                   岩本宏紀(在仏)

<本稿は、本欄8月11日に掲載した上記エッセーへ寄せられた「読者の声」です>。    

・思無邪 。。。。シカゴの男性
残念ながら米国にはあまり丹精を込めた物に出会うことは多くありません。
でも、たまに普通の民家で、しっかりガーデニングされた庭を見ると、ものすごくホッとしますね。

手間隙かけて作ったものは、その作り手の情熱がずんずんと胸に響いてくる感触があります。

思無邪(思いよこしまなし)。純粋に何かを成し遂げようとする心意気を
忘れていた自分を気づかせてくれた、そんな一枚の写真でした。
ありがとうございました。

(岩本: 「思い、邪無し」いい言葉ですね。ぼくも自分を振り返って反省しています。)

・ピアノの演奏とチューリップの育てかた 。。。。巴里の女性

私、本業はピアノでございますが、と〜っても共感できる部分がありました。

‘丹精を込めて‘。良い言葉ですね。
そして、愛おしさという言葉にもとても共感を覚えます。
愛していないと‘それ‘は美しくならないんですね。

‘それ‘とは、いろんなモノが当てはまるのだと思いますが・・・。

私もピアノの作品を弾く時には、とても気を遣います。
それは、まずは作曲者への配慮です。

時代背景や、作曲者のキャラクターもありますし、また
もちろんそれを聴いて下さる観客への配慮でもあります。

クラシック音楽の演奏者とは、常にそこに生きた作曲者の時代を体現するものだと考えています。それを体現するには、まさに‘丹精を込めて‘。
時間をかけて、その一曲一曲と対話をする。

作曲者が何を求めているのか、何を表現したら良いのかを一番に考える。
チューリップを育てている方も、きっと花と会話をしているのではないでしょうか。

日本語には、愛でる、といういう美しい言葉がありますが、その作業員の方のチューリップへの愛情がひしひしと伝わってくる、とても素敵なメールでした。

職人の技とプライド、後世にも残していって頂きたいものですね。

(岩本: ピアニストの仕事のしかたの一面を知ることができて、大変参考になりました。曲と対話しながら自分の演奏を作り上げていくのですね。何事も手間隙かけないとひとの心を打つものはできない、そう感じました。)

・花を綺麗と思える心 。。。巴里の男性
あの公園を満喫するのはタイミングがすべてですね。僕は1度目は成功(満開)、二度目はまだ蕾ばかりでした。

日本では悪質ないたずらで市内の花壇の花が切られたり、
落書きなども話題になっていましたね。
前者についてこちらでは聞いたことがないのです、知らないのか、そういう輩がいないのか!?
後者は特にイタリア人の公衆道徳が悪いとか・・・

いずれにしろ、花を奇麗と思える心を大切にしたいものです、加齢して鈍感になり易いので。

(岩本: 加齢と言えば加齢臭。 耳の後ろや首筋から発するようですね。腸がきれいかどうかも影響すると聞きました。もうひとつ加齢現象は涙脆くなったこと。 そう思うことはありませんか?)(完)
2008年8月13日

2008年08月30日

◆マッカーサー到着が今日


渡部亮次郎

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、マッカーサーが8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。降り立った彼はコーンパイプを咥え威張っていた。

以後罷免される1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。日本軍の恐ろしさを知り、テロを恐れたと言うのが一般的な解釈だ。

滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。

不思議に思ったマッカーサーは、料理人を呼び出して問いただした。料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が1つ手に入りました」と答えた。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、牛ならぬ鯨肉のステーキであった。

マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされた。

9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の我々はショックを受けた。マの計算に入っていた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。

占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいたが、すべての工作は失敗した。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

1950(昭和25)年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

半島育ちの作曲家古賀政男は丘 灯至夫に詞を書かせ「涙のチャング」を作曲。動乱で民族が「思想」で殺しあう悲劇を訴えた。歌唱したのは平壌出身の歌手小畑実だったが、気付いた日本人は限られていた。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)や麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

だから北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから1人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。

マッカーサーは状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。

1951年になると、核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛けた。

毎日新聞と共に朝日新聞がマッカーサーに感謝する文章を掲載した。今では想像もできない。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支持を得られず断念した。

1964(昭和39)年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。「偉人」として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂(マッカーサー時代の首相)が出席した。2008・08・27

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年08月28日

◆政治家の内懐と外面

渡部亮次郎

先輩の政治記者古澤 襄(のぼる 元共同通信社常務理事)さんが2008年8月23日、自らのブログに書いておられる。政治記者は永遠のアウトサイダーと。http://blog.kajika.net/

<昭和30年代に岸内閣が出来た頃、”岸派の三羽烏”といわれた派閥記者がいた。毎日新聞の安倍晋太郎、共同通信の清水二三夫、日経新聞の大日向一郎の三氏。

岸首相は閑があると(東京湾岸)東雲(しののめ)の河川敷ゴルフ場に行ったが、ゴルフから上ってくると、いつも岸首相、中村長芳秘書官と清水氏の3人連れ。

こうなると政治記者というより秘書ではないかと私などは思ったものである。事実、清水氏はしばらくして共同を退社して、山口県の防長新聞の専務になった。防長新聞のオーナーは女優の有馬稲子さんのご主人、岸側近の財界人だった。

ところが防長新聞の経営をめぐって清水氏はオーナー氏と大喧嘩のあげく、さっさと退社して東京に戻ってきてしまった。清水氏と親しかった私は東京のホテルのバアで退社のいきさつを聞かされた。岸さんは烈火のごとく怒って清水氏を破門にしたそうである。

「政治記者として誰よりも岸に食い込んだと自負していたが、結局は政治記者とか政治評論家というのは永遠のアウトサイダーだな。岸の家の子郎党になって、それを知ったよ」と破門となった割には、意外とサバサバしている>。

この話を読んで、園田直(衆院副議長、官房長官、外相3度、厚生大臣2度)を担当する政治記者からとうとう彼の秘書官になって政治家の外面(外面)と内面(うちづら)を見分けた経験を思い出した。

結論から言えば、防長新聞の専務になった清水さんは現役政治記者の感覚で仕事をしただろうからオーナーと真っ向から衝突しない方がおかしい。自分の方が上だと思っているからである。

政治家は政治記者を「敵」と思っている。機嫌をとらなければ面倒だと思って「対等」を装う。記者は勘違いしてその政治家が気を自分に許したと思い込んで、本当に対等と思い込んでしまう。

また、財界人に対して政治家は財政的援助を受けながら、殆どは「利権」で「報恩」をしているから対等のようには表面上は振舞わない。「下」と見せる。

これを見た政治記者は財界人といえども献金を受けていない俺は財界人より「上」だと思い込む。何しろ「オレは岸首相と対等だ」と思い込んでいるから尚更である。オーナーと喧嘩になるのは当然である。

園田さんとは十数年の交際の末に秘書官になったが、その日から私邸の玄関からの出入りを禁じられた。秘書官は「官」と言えども使用人。台所から出入りしろ。「対等感」をぺしゃんこにされた。清水さんはこうしたことがないまま専務になったから失敗したのではないか。

「使用人」扱いされたことからいいこともあったが悪い事も起きた。上司たる大臣を客観視するようになった。またいつ食道を断たれるかの不安を消すため、大臣の延命を画すると言う行動をとるようになる。

園田さんが「福田大平密約」(総理を福田は2年務めた後を大平に譲る=書面)の履行を信じ、一方の福田総理は「反故」を目指して動き出した頃、私は元政治記者だった故を以って反福田の田中角栄への接近を図っていた。

園田氏は私の動きに気付かぬ素振りをしながら、ちゃっかり私の差し出した座布団に坐り、外務大臣を大平内閣でも務め、次の鈴木善幸内閣では厚生大臣と外務大臣を務めた。いずれも田中氏の支持の裏付けがあったからである。

国連での演説原稿まで書いて貰えば,秘書官は使用人で無くなる。だから時には煙たくもなる。そこで敢えてこちらが使用人を演じると安心している。これが政治家の実態。私が政治家を断念した理由の一つである。

役目を終えた後、私は1銭の慰労金も求めず去った。もはや私の方が上だった。

こうした事は岸首相にとどまらず、古今東西、どの政治家でも同じであるはずだ。政治記者は親しくなればなるほど、政治家の全体像を見たように思い込むが、それは勘違いなのだ。政治家は内懐を記者には絶対見せない。

仮に見せたら、その人物は使用人扱いにされ使い捨てにされる。その私を拾ってくれたのは、園田さんを知る前に知り合った河野謙三さん(元参議院議長)だった。私が反河野、重宗議長支持だったことを知りながら。
2008・08・23

2008年08月27日

必読!◆逮捕するな いや逮捕せよ


渡部亮次郎

畏友秋山直紀(社団法人 日米平和・文化交流協会専務理事)が拘置所に縛られて1ヶ月が過ぎた。ところが最近入手した情報によると秋山逮捕は東京地検特捜部のチョンボの上塗りだった。しなくても良い逮捕を敢えて強行したものらしい。

<防衛汚職:秋山理事、山田洋行から25万ドル受領認める 参考人質疑で否定。

防衛関連企業からのコンサルタント料などを隠したとして所得税法違反(脱税)の疑いで逮捕された秋山直紀容疑者(58)が東京地検特捜部の調べに対し、防衛専門商社「山田洋行」から06年10月に25万ドル(約3000万円)を受領したと認めていることが関係者の話で分かった。「交流協会が行う事業の旅費や宿泊費などに使った」と供述しているという。

山田洋行では当時、元専務の宮崎元伸被告(70)=前防衛事務次官の守屋武昌被告(63)への贈賄罪で起訴=が退社し、「日本ミライズ」を設立。海外メーカーとの代理店契約(商権)をミライズに奪われることを恐れた山田洋行は、久間章生元防衛相の支援要請文書を秋山容疑者に託し、25万ドルを提供したとされる。

秋山容疑者は、今年1月の参院外交防衛委員会の参考人質疑で受領を否定したが、特捜部は8月13日、この25万ドルを含む約7300万円を隠したとして再逮捕。

関係者によると、秋山容疑者は最近、25万ドルの受領を認めたが、政治家への資金提供は認めていない。>毎日新聞 2008年8月22日 東京朝刊

実は、特捜部はすでに5月下旬に1度秋山の逮捕状を請求しようとしたが、上の最高検察庁から物言いがついて見送った。特捜部はこの時、東京地検特捜部が無理に3000万円の脱税額で秋山を逮捕しようとした。

脱税に関して任意捜査ではなく逮捕するには、脱税額が1億円を突破することが要件というのが慣例だから、特捜部は無理を通そうとしたわけだ。

最高検 3000万円では額が低すぎる。別件逮捕か。秋山を叩いて政治家を摘発できる決定打はあるのか。

特捜部 確かな立件情報はない。

最高検 ではダメだ。さらに脱税額を積み上げないと逮捕できない。

反対したのは最高検刑事部のトップである刑事部長を務め、7月1日付で東京地検検事正に就いた岩村修二だという。

岩村は、特捜部が八木部長が失意の内に転出した後、新部長ながら何も知らない佐久間達哉に脱税額を倍額の7000万円台まで積み上げたことを良しとし、秋山逮捕のゴーサインを出した。もはや政界ルートに及ばないのを承知である。

秋山と政界ルートをワンセットでやらせろと迫った特捜部長の八木宏幸には逮捕を許さず、7月14日付で八木と交代したばかりの右も左もわからない佐久間達哉に、淡々と脱税事件を立件させたのはなぜか。岩村と佐久間は言い得ぬ関係にあるのだそうだ。

「10年前、経営破たんした旧日本長期信用銀行の粉飾決算事件で元頭取らを逮捕したのが、特捜部副部長だった岩村。戦後史上最大のこの粉飾決算を主任検事として解明したのが佐久間。

岩村は当時『オレの後で特捜部を背負うのは佐久間しかいない』と岩村は当時から絶賛していた。

しかし2人が手がけた長銀事件は“国策捜査”の走りといわれたが、最高裁で7月18日、元頭取ら3人は無罪となった。岩村、佐久間の代失点が白日の下にさらされた。

「体制側によって決められた答え通りの逮捕劇を演じるのが、この2人の特徴。しかも、長銀事件で無罪を出してしまったことで、今後あらゆる事件を小さくまとめようとするだろう。その第1弾が政界ルートとは一切関係のないただの秋山脱税事件。

“最後の捜査派検事”と呼ばれた八木のような政界狙いの大胆な捜査など、もはや望むべくもない、とある司法記者。頑なな政界ルートへの扉をこじ開けて突き進む捜査など、今の特捜部には無理な相談なのだ、と訳知りは慨嘆した。

という事は逮捕の秋山氏は東京地検特捜部の「面子立て」あるいは「恥の上塗り」の犠牲者と言う事にならないか。秋山を叩けば政治家をふん捕まえられる、と秋山氏を舐めてかかった東京地検特捜部のチョンボ。

庶民は特捜検事を正義の剣士と信じているが、大学生活4年を六法全書暗記で費やし、社会的な常識を備えるいとまがないまま、「人をみたら泥棒と思え」という世界にドップリ漬かってきた人種。

元々「変人」でしかない。「権力を持っている」変人。「逮捕するな いや逮捕せ」無関係の民間人を3日も呼びつけて交通費は愚か日当も出さなくてもいいと考える馬鹿。

憲法で軍備を禁止しながら軍備を増強せざるを得ない自衛隊。それでいて装備、武器調達の情報収集力はゼロ。だから秋山が生まれ役に立ち、自衛隊は世界に伍してきたのだ。

それを脱税如きで罪を着せ裁くというのは天に唾する愚挙以外の何ものでもない。六法全書を知り祖国の命運を知らないものを本当の馬鹿という人を私は止めない。

中には常識豊かな人もいるだろうが、概して法匪という片輪人間。
桑原くわばら。         2008・08・25

2008年08月26日

◆日本の賄賂で暮らす公務員

渡部亮次郎


PCI前社長ら4人起訴
ベトナム政府高官に贈賄−東京地検>
(8月25日15時52分配信 時事通信)

先日、東京地検特捜部の検事に問うたが、明確な答えは得られなかった。一体、ベトナムの公務員たちは、ODAに絡む多額の「賄賂」を生活の足しに分け合っている実態を知った上で捜査しているのか。

答えが無いから教えてやるが、その実態を熟知する日本企業が賄賂の「要求」に応じる結果「落札」する。それに業を煮やした欧米企業がOECDを通じて日本外務省に「実態調査」を要求。

連絡を受けた東京地検は「仕方なし」に捜査に踏み切った、と言うのが実態じゃないか。永年、見て見ぬ振りをした外務省やJICAを攻める月光仮面(マスコミ)だけが「正義の味方」で済まされる問題では無いだろう。

日本が日本人を罰する事になるけれども、ベトナム政権が役人たちを罰する事は先ず、ありえない。とすれば馬鹿を見るのは誰なのだ。「角を矯めて牛を殺す」のが「正義」とは聞いて呆れる・

<ベトナムでの政府開発援助(ODA)事業をめぐる贈賄事件で、東京地検特捜部は25日、不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)罪で、大手建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)前社長多賀正義容疑者(62)=詐欺罪で起訴=ら4人と法人としての同社を起訴した。

このほか起訴されたのは、元常務高須邦雄(65)、元役員坂下治男(62)、元ハノイ事務所長坂野恒夫(59)の3容疑者。 

【関連】<ODA不正野放し わいろ立件 元常務メモ決め手
(2008年8月5日東京新聞 朝刊)

不透明さが度々指摘されてきた政府開発援助(ODA)をめぐって、汚職事件が摘発された。「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)から、ベトナム・ホーチミン市幹部への贈賄容疑。

東南アジアでは、わいろが「商習慣」ともいわれる。日本側の政府機関も「見て見ぬふり」との指摘もあるが、PCI元常務が残していた手帳が決め手となり、関係者が逮捕された。 

逮捕されたPCI元常務高須邦雄容疑者(65)は「メモ魔」(PCI幹部)と呼ばれていた。東京地検特捜部が立件する決め手となったのは、そのメモの押収だった。そこには、いつ、どこで、誰にいくら渡したのかが、詳細に書かれていたとみられる。

ホーチミン市にある東西ハイウエー・水環境業務管理局事務所の一室。高須容疑者は、ここで堂々と米ドルを手渡したとされる。2003年には、元PCIハノイ事務所長の坂野恒夫容疑者(58)も同行。同局の局長から、受注額の1割程度を要求されていたという。

舞台となったのは、途上国が行うインフラ整備などに、国際協力銀行(JBIC)を通じて資金を貸す円借款事業だった。

発注権限を持つのは現地国の政府。ベトナムなどに駐在してODA事業に携わった企業関係者は「現地の役人へのわいろは常識」と明かす。「特にインフラ整備では、実弾(現金)なしで仕事は取れない」

ODAではまず、現地国が日本に個別プロジェクトを要請する。だが、現地に精通したコンサルやゼネコンが現地国に働き掛けて、プロジェクトを初めから“仕込む”例も多いという。

こうした受注活動について「JBICや国際協力機構、外務省は当然知っているが、見て見ぬふりだ」と関係者は指摘する。だが、今回の贈賄容疑について、JBICは「うちは資金を出して入札手続きや実施状況を監理するだけ。贈収賄は当事者間の問題だ」と突き放す。

借款契約の具体的な中身や事前調査への参加企業についても、JBICは「相手国や受注先の同意がいる」として一切情報開示していない。

年間約8千億円(2006年度)もの公金がつぎ込まれる円借款は、「途上国が事業主体」という建前の下、不透明さがつきまとっている>。

<収賄側の幹部、立件は難しく ホーチミン市人民委

【ハノイ=共同】政府開発援助(ODA)事業受注をめぐり、大手建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)から多額の現金を受け取ったとされるベトナム南部ホーチミン市人民委員会の担当局長は、東京地検特捜部がPCIの前社長ら4人を逮捕した4日も通常通り勤務している。

ベトナム政府関係者によると、担当局長はベトナム公安当局の調べに現金の受け取りは認めつつも、わいろ性を否定している。

日本はベトナムにとって最大のODA供与国で、ODAを今後減額されたくないとの政治的配慮などから、収賄容疑で局長が立件される可能性は低いとみられる。

ホーチミン市人民委員会職員は担当局長について「今日も普通に働いている。取材は外務省を通してください」と答えるのみ。しかし、外務省も6月に報道で疑惑が発覚して以降、局長に関する取材を受け付けていない。

ベトナムの首相顧問経験者は「局長を逮捕すれば、ほかに何人も逮捕しなければならなくなる。多額の金は独り占めするのでなく、ホーチミン市の幹部らで分け合っている」と打ち明けた>。

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2008年08月25日

◆政治を遊んだ大阪


渡部亮次郎

大阪出身の作家司馬遼太郎によると、徳川時代の二百数十年間、大阪詰めの江戸派遣武士は毎年多くても300人ぐらいであった。少なすぎて存在感が無かったし、今で言う徴税(税務署)員みたいなものだったから軽蔑されるだけだった。

まして大阪人にしてみれば太閤さんを潰してもうた憎っき家康。おまんらの言いなりになって堪まるか、という反抗心のこりかたまり。
大阪人の反東京感覚はここに端を発する。

武士の成れの果てが公務員と言う名の役人だが、彼ら行政官は政府(東京)や政治家(国会議員、知事、市長、府会議員,市議会議員)といった権力者に対して、元々強い反抗心と不信感を持っている。

そこが東京と根本的に異なる点である。東京は何十年経っても「サムライ」の街。「お上」という名の「権力」に対する抵抗力が元々無い。ただ「従う」だけ。尽くすは嘆願、陳情あるのみ。

そこへ行くと大阪。伊丹空港騒音公害訴訟、新幹線騒音公害訴訟、数々の大気汚染訴訟。「お上」のなさる事に徹底的に逆らう。恐れない。東京とまるっきり違う。お上や政治家を信用せず、勝手に行政を行なう気風がある。隠し財源の根っこがここにある。

なるほど明治維新で権力の中枢は江戸(東京)に移ったかもしれない。天皇様も江戸へ「出張」したまま,何代たっても京都めお戻りでない。だが「出張」のままであって「遷都」を宣言されていないでは無いか。なにさ。

江戸が政(まつりごと)でいくんなら、いけ、それがなんぼのもんじゃ。わいらは商売でいきまっさ。煙もうもう京阪工業地帯。煙の多さが大阪の繁栄をうたっとるやないか。煙の都、八百八橋の水の都や。

新聞社かて放送局かて始まりは大阪や。世界に冠たる総合商社も大阪が始まり、銀行かてそうやないか。東京で始まったもん、あるけ。
政府とやらだけやないか。

大阪はこうして「政治」を貶し、商売に没頭していた。それが証拠に知事に共産主義者の大学教授をしてみたり、テレビ漫才師を知事にしてみたりしてきた。自分たちが世界的変革の嵐に曝されていることに気付かなかった。「政治を遊んで」いた。

昭和40年代の経済大成長とは変革の嵐だった。エネルギーが石炭から石油へと変わって産業構造が変わった。九州と大阪の縁が切れた。得意としてきた繊維産業は素材産業ではなくデザイン産業に変わっていた。「感覚産業」など想像もしていなかった。もはや追いつける産業は無い。

それを大阪「財界」は1970年の万国博覧会による景気刺激策で凌ごうとしたが、万博は大阪に何も齎さなかった。刺激しても動ける産業は既に無かった。千里ニュータウンが残っただけだ。

しかも経済活動は通産官僚という名の現代武士に「規制」され、彼らの足元にひれ伏さなければ「情報」は取れなくなってしまっていた。だから銀行も商社も「霞ヶ関」に引っ越してしまった。

このとき大阪は未だ共産党知事を戴きながら、役人という名の下級武士たちは「裏金予算」で知事、市長ら政治家を欺いていた。徳川時代からの「必要悪」と断じて、平然としてきた。それはそうだろう、裏予算で生きられるのだから知事が共産党であろうが漫才師であろうが「関係ない」。

こうした「下級武士」の感覚は、感覚である以上,一朝一夕に今更、治るものではない。ところが府民がやっと目覚めたので、まともな知事が出現し、まともな政治をやりだしたから、下級武士(小役人)たちの勝手の違ったのが昨今の大阪ではないか。

大阪府民も市民も「政治」を軽蔑し、油断しているうちに、賢明な若者はどんどん江戸を目指すようになった。昭和50年頃からである。前後していわゆる「情報化」の時代、IT産業が始まるが、まともな政治家を育成していなかった大阪はITにも取り残された。

すでに「財界」と言えるほどの財「界」は存在しない。空疎なゼッケンだけだ。法人税,法人所得税は日に日に減ってゆく。人口も減ってゆく。大阪は既に第二首都とは言えなくなった。そのことを一番知りたくないのが大阪府民ではないか。

大阪人は政治家を軽んじ、無関心を決め込み、人気投票さながらに選挙をふざけてきたが、この間、本当に必要としたのは大阪の将来を握る政治家だったのである。指導者を失った大阪。馬鹿にした分だけ政治家が必要な時に政治家はいない。 2008・08・22

2008年08月24日

◆森永砒素ミルク事件


                     渡部亮次郎

手許にある『366日の話題事典』によると森永砒素(ひそ)ミルク中毒事件は、1955(昭和30)年の8月24日から表面化したとなっているが、事実は6月頃から起きていた。

被害者12,344人、うち死亡者130名と言われているこの事件は主に西日本を中心として起きた。わが国で食の安全性が問われた事件の第1号である。

粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者。私は大学2年生で、東京・三鷹に下宿。事件の経過を新聞で注目していた。テレビは一般化していなかった。

森永側が原因をミルク中の砒素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年の裁判中のことである。更に事件から51年後の2000年には6月から7月にかけて、近畿地方を中心に雪印集団食中毒事件が発生した。

この際、雪印乳業大阪工場の杜撰な管理体制が暴露され、元社員たちは「あの雪印がこんな事故を起こすとは。自分達の経験は、教訓は一体何だったのか」と嘆いたという。

当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。

実際には森永乳業が1953(昭和28)年頃から乳製品の溶解度を高めるために、安価であるという理由で工業用の砒素を触媒にして作られた化合物を粉ミルクに添加していた。

まだ食糧難の時代。森永乳業製の粉ミルクの購入には医師の処方箋が必要であった。それほど珍重されていたと言う事でもある。しかし1955年8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ「事件」として発覚することとなる。

1956年当時の厚生省の発表によると、砒素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名とされた。

だが当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、これ以上の患者が発生したことは確実である。また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者は多かった。

患者は、2008年8月23日現在も脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神疾患等の重複障害に苦しんでいる。

手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。

また、就職差別や結婚差別を受けたり、施設に封じ込められたりした被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で、今なお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多い。

なお、森永側が原因をミルク中の砒素化合物と認めた1970年の裁判中の際、森永側は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた(一方、納入業者はまさか食品に工業用の薬品を使用するとは思わなかったという)。

しかし後に、国鉄仙台鉄道管理局がボイラー用の「洗剤」として、森永と同様、日本軽金属が生成した第二燐酸ソーダを使っていたにもかかわらず、使用前の品質検査で砒素を検出し返品していた事実が明らかとなった。

「食品」としての品質検査が必要ないと主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生した。

その後、2001年から2002年にかけて発生した雪印牛肉偽装事件(雪印乳業本体ではなく子会社不監督)がイメージ上の決定打となって、グループの解体・再編を余儀なくされる結果となった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・08・22


2008年08月23日

◆青森県に見る学徒動員史


          渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)


「花の蕾の若桜
五尺の命引き下げて
国の大事に殉ずるは
我等学徒の面目ぞ
あゝ、紅い(くれない)の血は燃ゆる」

昭和19年の軍国歌謡「あゝ紅いの血は燃ゆる」の歌詞に言う通り、大正未から昭和の初めに生を受けた戦中派世代の学校生活は、国家と共にあった。

私は昭和11年1月生まれ。16年12月の大東亜戦争開戦時は未就学と言う状況だったから、18年8月23日の学徒勤労令や女子挺身勤労令には無関係に過ごせた。

だが、あの時代、旧制中学以上の先輩たちは「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」との教育勅語が辿り看いた結末は、教育の崩壊でしか無かった。

太平洋戦争も末期になると、学校は実質的にその機能を失い、全ての学生生徒は、国のため学徒勤労報国隊として、工場や軍施設で労働することを強制された。発見した青森県に関する資料から少々長いが実態を見る。

学徒勤労動員に先立つ勤労奉仕が最初に指令されたのは日中戦争勃発直後、昭和12年7月31日付各地方長官宛文部次官通牒「今回ノ北支事変二関シ執ルベキ措置二関スル件」である。

この通牒は「派遣応召ノ軍人ノ遺家族ノ実情二応ジ最寄在住ノ生徒児童又社会教育諸団体ヲシテ其ノ生業、家事、通信等二関シ適当二労力奉仕ヲ為サンムルコト」を指示したものだった。

翌13年1月、中華民国の首都南京は陥落したものの、首都を重慶に移した蒋介石政権は徹底交戦を展開、日本政府は青年男子の応召を繰返した。その結果、農村の労働人口は激減し、工場労働力も不足の一途をたどった。

そこで文部省は、13年6月9日「集団的勤労作業運動実施二関スル件」を地方長官宛てに通牒、一律に中等学校(5年制)に対し「夏季休暇ノ始期・終期其ノ他適当ノ時期二於テ概ネ低学年ハ三日高学年ハ五日」集団的勤労動員をさせることを指示した。

昭和14年、日中戦争も2年目になると、学校生徒への自覚を促すために、5月22日「青少年學徒ニ賜リタル勅語(天皇陛下の命令)」が発せられ、「教育勅語」と並ぶ重要な指針とされた。

青少年學徒ニ下シ賜ハリタル勅語

國本ニ培ヒ國力ヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚タ遠シ 而シテ其ノ任實ニ繋リテ汝等青少年學徒ノ雙肩ニ在リ 汝等其レ氣節尚ヒ廉恥ヲ重ンシ古今ノ史實ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長シ執ル所中ヲ失ハス嚮フ所正ヲ謬ラス 各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ氣風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ(今の若い人たちには理解不能では無いか)。

戦局が泥沼化する中、勤労奉仕はさらに強化され、中学校では男子生徒の登下校は、戦闘帽にゲートル、盡忠報國が合言葉となり、軍事教練が重視されていった。

昭和16年になると、物資、とりわけ食糧、家畜飼料の不足が著しくなり、その増産が急務とされた。5月8日「青少年学徒食糧飼料等増産実施運動二関スル件」が通牒され、勤労奉仕は正課に準じて取り扱うこととされ、すべての学校田植えや稲刈り、除草などの作業を30日以内行うことが指示された。(県立青森高女の田植え奉仕の写真あり)
 
太平洋戦争の勃発により合言葉は「鬼畜米英」となり、多くの学校で英語の授業が廃止され、勤労奉仕の時間に当てられた。

昭和18年4月17日付け東奥日報が百石町に在郷軍人会、青年団員等1000名の竹槍部隊が結成された事を伝えるなど戦局はますます厳しくなっていった。

野辺地町を中心に県下中等学校連合演習が開催された8月14日、青森県は「県下学徒ノ戦時体制ヲ確立シ其ノ総力ヲ結集シテ戦力増強二挺身セシメ献身奉公ノ実威力ヲ培ヒ 至誠尽忠ノ精神ヲ涵養スル」することを目的とした「青森県学徒報国隊組織二関スル件」を通達、以後学徒の勤労奉仕は学校ごとに組織された軍隊編成の報国隊により実施する事となった。

次いで18年8月25日「学徒ヲシテ将来ノ軍務二備へ国防能力ノ増強ヲ図ラシムルト共二必要二当タリテハ直接国土防衛二全面的二協力セシメ或ハ学徒ヲシテ挺身国家緊要ノ業務二従事セシメ其ノ心身ノ錬成ヲ全カラシムルコト」意図した、「学徒戦時動員体制確立要綱二関スル件」を通達。

学校報国隊を国土防衛に動員し得るよう整備すること、学徒を食糧増産、国防施設建設、緊急物資生産、輸送力増強などに重点して動員すること、中学校以上の女子学徒に対し看護訓練を強化する事を指示した。これにより食糧増産の為、夏休み返上で勤労作業が実施される、直接国家の労働生産の一環に繰り込まれることとなった。

「撃ちてし止まむ」「学徒出陣」が合言葉となっていた18年10月12日、戦局の緊迫に応じて学校教育の制度全般を検討再桶する必要が生じ、「教育二関スル戦時非常措置方策」が閣議決定された。

昭和19年3月から5年制中学の4年終了生にも上級学校入学資格を付与すること、男子商業学校の工業学校への転換・整理縮小等の方針が定められた。

これにより、青森県内の商業学校は工業学校に転換することとなり、19年4月1日青森第二工業学校と改名、商業科の募集を停止した。

昭和19年1月18日学生生徒を勤労に動員できる期間を1年につき概ね4ヶ月とした「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定された。

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2008年08月21日

◆中国特派員を縛る協定


渡部亮次郎

中国特派員を雁字搦めに縛る協定の存在を知っていますか。この協定があるので、中国に派遣されたわが国特派員たちは取材の自由をまったく失い、監視されつつ、国外追放処分に怯えながら記事を送って来る。

そのが記事が往々にして中国のお先棒か次の色彩を帯びたり、ゴマすりだったりする事は当然である。国外退去ともなれば中国語記者はそれで人生を閉ざされるのだから神経のやせ細る思いで自己規制に身を更に削るのである。

日中記者交換協定がそれである。一般の人は見たことも聞いたことも無いはずである。だが日本と中国の間で取り交わされた、日中双方の記者を相互に常駐させる取り決めのこと。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」は厳然として日本を縛っているのである。

@日本政府は中国を敵視してはならない

A米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない

B中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない

すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない・日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。

違反すると、記者が中国国内から追放される。中国に対する正しい報道がなされていないと批判があるのはこの協定のためだ。

始まりは国交正常化前の1964(昭和39年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助(元通産大臣)事務所と廖承志(早稲田大学卒業)事務所が、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員(自民党)と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

要するに日中国交正常化に弱腰な自民党政府にシビレを切らした新聞、通信、放送各社が自民党内親中派の松村氏らの尻を叩いて結ばせた民間協定である。

記者交換に関する具体的な事務は、入国手続きを含めて廖承志事務所と高碕事務所を窓口として連絡し、処理する。

交換する新聞記者の人数は、日中とも8人以内とし、1社1人の記者を派遣することを原則とする。

第1回の記者の派遣は、1964年6月末に実現することをめどとする。 記者の相手国における1回の滞在期間は、1年以内とする。

相手方新聞記者の安全を保護するものとする。 取材活動に便宜を与えるものとする。(嘘吐きは協定の始まり)。

双方の記者は駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を順守するとともに、駐在国が外国新聞記者に与えるのと同じ待遇を受けるものとする。相手側新聞記者の通信の自由を保障する。

かねて周首相と松村氏との間に意見一致をみた両国友好親善に関する基本5原則、すなわち両国は政治の体制を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重して、相侵さないという原則を松村・廖承志会談において確認し、この原則のもとに記者交換を行なうものである。

協定は猫を被っていた。1966年に走資派排除の文化大革命が始まるとキバを剥き始めるがん日本側はそれも受け入れてしまう。佐藤栄作内閣下の1968(昭和43)年3月6日、新聞記者の相互交換についても、発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。

問題はコミュニケの内容である。

「双方は、日中両国は近隣であり、両国国民の間には伝統的な友情があると考え、日中両国国民の友好関係を増進し、両国関係の正常化を促進することは、日中両国国民の共通の願望にかなっているばかりでなく、アジアと世界の平和を守ることにも有益であると認めた。

中国側は、われわれの間の関係を含む中日関係に存在する障害は、アメリカ帝国主義と日本当局の推し進めている中国敵視政策によってもたらされたものであると指摘した。

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