2008年05月04日

◆八九三でない刺青

渡部亮次郎

小泉又次郎(こいずみ またじろう、慶応元年5月17日(1865年6月10日)―昭和26年(1951年)9月24日)は、日本の政治家。正二位勲一等。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。

横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。義侠心にあふれ、人情に厚い大衆政治家で、刺青があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。

又次郎の刺青のわけも分からず、刺青をしていたんだからやくざだったと誤解する向きもあるので、この際、詳しく調べてみた。

そもそも日本での刺青(入れ墨)は江戸初期に関西の遊廓でおこった〈入れぼくろ〉の風習が彫物の風俗の始まりである。

これは遊女が愛の証しとして左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり,男女が互いに親指のつけ根にほくろを入れるもので,〈起請(きしよう)彫〉ともよばれた。

この風習は江戸でも流行し,やがて〈某命〉という形式で相手の名前を彫る風も生まれた。

また遊廓の外でも,〈南無阿弥陀仏〉など神仏への誓いの文字を彫る風も行われ,《女殺油地獄》(1721)には腕の彫物で人々を威嚇する風俗も描かれている。

初期の彫物は文字がほとんどで,絵や文様を彫る風はなく,専門の彫師もいなかった。

しかし時代が下ると,鳶(とび),魚屋,駕籠(かご)かき,船頭などの職人や勇み肌の者が粋や伊達(だて)から威勢を示すために競って彫物を施し,また絵柄も豊富となり,色彩を施すようになって
専門の彫師も生まれた。

こうした風潮を強めたのは,《水滸伝》を題材にした絵師の一勇斎国芳の一連の作品で,文化・文政年間(1804‐30)には幕府の禁止にもかかわらず彫物は盛行を極めた。

また江戸の刺青美を完成した国芳の画風を継承した芳年の作品,とくに〈美男水滸伝〉は明治以後の刺青の下絵として大きな影響を与えた。しかし,明治になると彫物は禁じられ,一部の者だけに限られるようになった。(平凡社『世界大百科事典』)

だから昔を論ずるに、刺青をしていたから即ちやくざ者だったと断定しては教養を疑われる事になる。

小泉又次郎は慶応元年(1865年)5月17日、現在の神奈川県横浜市金沢区大道)に鳶職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる。

又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫等を送り込む人入れ業を始める。

又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で海軍兵学校の予備校に入学するが、兄の急死によって家に連れ戻される。

しかしその後も軍人になることを諦めきれず、今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入学するが、またしても父に見つかり「なんとしても家業を継げ」と厳命される。

その際、こんどこそ軍人を諦め鳶職人になることを決意した証に、全身に「昇り龍」の入れ墨を彫って父親に見せつけたという。刺青者は軍人になることができなかったからだ。30歳のころ芸者だった綾部ナオと結婚したが子は出来なかった。子孫は妾腹に繋がる。

その後板垣退助の演説を聴いて政治家を志すようになり、独学で小学校教員となった後、新聞記者などを経て、明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選、後議長をつとめる。

神奈川県議会議員を経て、明治41年(1908年)に憲政本党から衆議院議員選挙に初当選、以後連続当選12回を数える

昭和4年(1929年)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる。

その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての親任式で参内した際には、守衛に一緒に参内した過去に大臣経験のある安達謙蔵の従者と間違われて押し問答をしている。

昭和17年(1942年)に翼賛政治会代議士会長に就任。昭和19年(1944年)から翌20年まで小磯内閣の内閣顧問を務めた。昭和20年(1945年)には貴族院議員に勅選され、翌21年に公職追放されるまで務めた。

昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった。墓所は横浜市金沢区の宝樹院にある。
妻: ナオ(綾部幸吉二女)
妾: 石川ハツ、寿々英(すずえ)など
女: コウ(養子)
女: 芳江(庶子、母は石川ハツ)
婿: 純也(芳江の夫)
孫: 純一郎、正也ら。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ところでやくざ Yakuza 八九三と字をあてる。2枚または3枚の花札を使ったおいちょかぶとよばれる賭博で、8、9、3の目が来ると上がれないことから、中途半端で役に立たない人間を指した。

のち、一般的には堅気の人とは対照的に、職につかない遊び人や、博徒(ギャンブル)や博打(ばくち)打ちを指す言葉となった。

江戸時代の享保の頃から「やくざ」の名称が流行したが、江戸末期の混乱期になって多く現れ、刀を持ち、脇差(わきざし)をかかえ、背中に刺青(入れ墨)を施すなど、異様な風態をてらった。

人別帳から除かれた無宿者(無宿)などが多く、侠客の親分のもとに寄食した。擬制的な親分、子分関係(擬制的親族)でむすばれ、暴力をふるい、法をおかすことが多かった。

第2次世界大戦後、やくざの世界も激変し、構成原理そのものが変わった。都市部では闇市(やみいち)の利権をめぐって、てきや( 香具師)集団が勢力を伸ばし、博徒もこの利権に目を向けて、従来はっきりと類別されていた組織系統が、複雑に入り混じることになった。

やがて、高度経済成長期を経る中で、大組織による系列化がすすむようになった。現在では、暴力を背景にゆすり、たかりをおこなう者、暴力団の成員(構成員、準構成員)を指す。

組織は、○○組を名のり、親分、子分、兄弟分の強力な支配関係で結ばれている。とくに親分への服従は絶対とされる。

跡目相続、親子盃、仁義とよばれる挨拶など、独特の儀式や慣行や隠語をもちその閉鎖性を維持しているが、その活動は、企業化、知能化の色彩を強めている。現在のやくざは刺青があっては幹部になれないといわれている。Microsoft(R) Encarta(R) 2006.
2008・05・01

2008年05月03日

◆「いしり」の美味さ

                     渡部亮次郎

新聞の日曜版で石川県の魚醤「いしり」を知った。烏賊の肝を塩漬けにして発酵させたものの汁だという。東京生まれの家人は私の郷里秋田県の名物「しょっつる」が大好き。「あれとおんなじよ」と乗り気でない。

なぜなら秋田県人のクセに私は鰰(はたはた)の魚醤で仕立てる「しょっつる」鍋はあまり好きではない。だから「いしり」を買っても食べられないだろうと、乗り気出ないのである。

そこで一番小さい瓶を取り寄せて烏賊の刺身につけて食べてみた。臭みが無く、コクがあり抜群に美味しい。烏賊も蛸も蟹も海老も食べないから血液にコレステロールが少ないといわれる私だが、「いしり」で烏賊を丸ごと平らげてしまった。

私が注文した先は(有)カネイシ 

927-553 石川県鳳殊郡能登町字小木18-6
電話:0768-74-0125  Fax:0768-74-1398
http://www.incl.ne..jp/kaneishi/

以下 株式会社 尾崎 発行の「奥能登味情報 特集 いしる」より。

いしりとは?
魚醤油の一種である。スルメイカの肝を樽に塩漬けにし、上から重石をして発酵させる。

春に仕込み、お盆の頃に桶の下に空けた穴から滴り出た汁を煮詰めて、布で濾して出来上がり。

醤油に比べ癖があってとても塩辛いけれど、烏賊の精のこくと味は、格別である。

使い方は、醤油と同様に調味料として使う。薄めて刺身のタレにしてもよし。野菜をつけてもよし。料理の下味、隠し味にも重宝する。
能登半島の内浦(富山湾側)の能都町宇出津では、烏賊が原料の「いしり」である。

一方、外浦(日本海側)の輪島では、鰯の内蔵を原料とする「いしる」となる。

「魚醤油」とは
ずばり「魚類で作った醤油」のことです。
醤油を原料によって分類すると、次の2つに大別されます。
  ・穀醤 : 大豆や小麦を原料とした調味料
  ・魚醤 : 魚類を原料として作った調味料

私たちが日常使っている醤油は、穀醤です。

能登の「いしり」や「いしる」は、魚類を原料として作った醤油で、秋田の「しょっつる」や四国の「いかなご」と並び日本を代表的する魚醤です。最近は、その独特のうまみで、能登を旅した人を中心にファンが増えています。

魚醤は、奈良時代、中国から伝来した穀醤より以前から作られており、日本の醤油の原点とも言えます。

また、魚醤は、東南アジアの各国でも作られています。次のものが代表例です。

・ニョクマム(ベトナム)
・ナンプラー(タイ)
・ タク・トレイ(カンボジア)

いしり鍋の作り方
材料
魚介類 烏賊 小海老
野菜類 茄子 大根 人参 春菊 椎茸 榎茸
たれ いしり 酒 みりん 水
作り方
1 .鍋の具を下ごしらえ

茄子は半月に薄く切る。大根は短冊切りにする。
人参は輪切りにして梅型に抜く。
春菊は、傷んだり汚れた葉先を除き、長さを揃える。

椎茸の石突きは手でひねってとり、かさの裏を軽く洗い、大きいものは2つに切る。

榎茸は、白身を帯びた新鮮なものを選び、根本の部分は切り捨てる。

烏賊は、胴のほうを輪切りにする。足も適当な大きさに切る。
小海老は、さっと洗って頭を取り、殻をむいて背わたを取る。

2008年05月02日

◆百花斉放百家争鳴

渡部亮次郎

1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「百花斉放百家争鳴」を提唱した。百花斉放とは様々な文化を開花させるという意味であり、百家争鳴とはたくさんの意見を自由に論争するということである。

毛沢東がこのような運動を始めた理由は過去さまざま論じられてきたが、定説は無い。毛沢東が自らの権威が揺らいでいると考え、劉少奇、ケ小平らの力を削ごうとしたためとも言われている。

あるいは作家のユン・チアンは、百家争鳴運動は始めから毛沢東が反対派を炙り出すための巧みな罠だったと断定している。渡部亮次郎も同じ意見である。

百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当し、国内の知識人の参加を呼びかけたが、それまでの弾圧などの影響であまり盛り上がらなかった。人民の大半は「罠」を感じたのである。

そこで1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部による最高国務会議を招集し、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。

さらに1957年3月6日から13日にかけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。

これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈なものに変わっていって今度は毛沢東を慌てさせた。

知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することにこともあろうに異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判するようになった。

当初、批判の場は「大字報」と呼ばれた壁新聞と、「座談会」と呼ばれた小規模な集会に限られていた。これは、批判の声に呼応して民衆が蜂起を企てることがないようにとの配慮であった。

運動の中で、ある教授は憲法を紙くず同然だと批判した。別の経済学者は共産党主催の公開批闘会が投獄されるよりもひどいものだと主張した。

劇作家は「芸術に対する『指導』は必要ない。だれがベートーベンを指導できるのか?」と述べた。共産党幹部の1人は「朝鮮戦争を始めとする外国への援助のばらまきをやめよ」と述べた。

「工業生産高のような情報さえ国家機密にしている現状を改善せよ」と要求する者もいた。挙句の果てに、党の機関紙である人民日報も党を間接的に批判するようになった。

百家争鳴運動は地方でも行われた。内蒙古大学のある教授は「モンゴル民族は固有の文化を持っており、むやみに漢化すべきではない」と主張した。逆に言えば、これまで周辺の占領地では、この程度の発言も許されていなかった。

1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長の胡喬木に対して「右派」を批判する準備を行うように命じた。

◆日本初メーデーは2日

渡部亮次郎

労働者の権利を獲得するための祭典メーデーだが、日本で最初に行われたのが大正9年。実はこの年、5月1日が土曜日で休みでなかったため、2日の日曜日に開催された。つまり日本初のメーデーは5月2日。

元々イギリスで5月1日は14世紀頃に始まった、花を祝うお祭りだった。

日本より北に位置しているイギリスでは春の訪れと言うとこの頃で、そのやっとやってきた春に対する喜びを味わう祭日として『5月の女王:May Queen』などを決めたり、遊技などをして長く親しまれて来た。(メイクィーンという名前はジャガイモにも付けられている)

その5月1日を労働者の権利を主張したり、団結を図るための集会になったのは1886年のアメリカだった。この日、アメリカ・シカゴで35万人が参加して8時間労働制のを求めるストライキが行われたことに由来する

3年後の第2インターナショナル創立大会で、この日を『万国労働者団結の日』と定め、翌年の1890年に第1回メーデーが開始された。

日本でのメーデーは、まず1901(明治22)年に「二六新報」が「第1回日本労働者大懇親会」と言うものを開催している。これがメーデーの前身とされているが、この日は4月3日だった。

労働者組合主催のものとしては1920(大正9)年、上野公園で開催されたものが一番最初になる。しかしこの第1回メーデーは1日ではなく5月2日だった。実はまだ休日として認められていなかったメーデーなので、多くの人が集合できるようにと日曜日だった5月2日に開催されたのだ。

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2008年05月01日

◆エンパイア・ステート・ビル

                    渡部亮次郎

「エンパイア・ステート」はニューヨーク州の愛称である。そのニューヨークを生まれて初めて訪れたのは1978(昭和53)年2月のこと。国際問題評論家の友人加瀬英明に連れてもらっての旅だった。
もう30年前だ。

最初がロス・アンジェルス。折から解禁されて間もないポルノ映画を鑑に入ったが、観客は我々だけというのに驚いた。なるほどポルノは1度は珍しいが、そんなに見るのは変質者扱いなのだ。

その夜、本場?でステーキを食べようと希望したが、硬いし、味が拙い。醤油とか或いは大根おろしでもなけりゃ食えたもんじゃない。
以後何十回と無く訪れる事になるが、アメリカでステーキは食わない。

さりとて海岸縁のレストランで焼き魚を注文したら、蒸した白身の魚が出てきた。何しろ大振りで味が無い。それこそ醤油でもあれば御の字だが、当時はキッコーマンがそれほど普及してなかった。

その後、日本駐留体験の帰還兵を通じて飛躍的に普及。どんなレストランでも「キッコマン」は備えてあるようになった。キッコーマン社にとって米国はドル箱のはずである。

問題はEmpire State Buildingである。NYを象徴する超高層ビル。話のタネだからと最上階までエレベーターで昇った。最上階102階部分は地上381mの高さにある。

不思議な事に加瀬氏が中心部に突っ立ったまま展望鏡も覗こうとしない。元はといえば私は高所恐怖症者。「ナベさん、このビル、最上階は風で40Cmずつ揺れているんだよ」といわれたら、もう怖くて壁の縁へは行けなくなった。

加瀬氏の従姉オノ・ヨーコさんとその夫ジョン・レノン氏にイタリア街でご馳走になったら、窓の外に黒山の人だかり。彼らがそれほどの有名人である事を私は知らなかった。

翌日、世界貿易センターの最上階のレストランへ知人に招待された。
エンパイア・ステートより高いビル。窓の下をヘリコプターが飛んで行く。途端に怖くなった。

出されたムール貝を急いで口に入れて帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう一皿」という奨めには参った。帰り道、加瀬氏「オレも高所恐怖症なんだよ」。

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2008年04月29日

◆いちょうはやちゃお

                    渡部亮次郎

わがPCはいちょうと打つと公孫樹と出る。原産地中国でこう呼ぶことから、こうなったようだが、アメリカのマイクロソフト社の
発行している大百科事典「エンカルタ」は、中国での別の呼び方「やちゃお」の訛説を紹介している。

東京湾岸の猿江恩賜公園の公孫樹は雄雌100本近いが、花の時期が終わって散歩道を黄色に埋めて、掃除の人たちを煩わしている。

平凡社の世界大百科事典は古すぎて最近の事はさっぱり分からないが、古い事は正確に書いてあるから便利だ。

<中国原産で,現在,浙江省にわずかに自生するだけといわれる。観音像のある所にしばしば老樹があるので,観音像の渡来とともに
僧侶によって日本に持ちこまれたという説がある。

1690‐92年(元禄3‐5)滞日したドイツ人ケンペルによって,はじめてヨーロッパに紹介され,1730年ごろには生樹がヨーロッパに導入された。それ以後,世界の温帯地域に栽植されるようになったといわれる。>。

明治の開国と共に来日した英国の植物学者は中国にしかないと思ってきたところ、日本でも全国各地に植えられているのを見て驚いたという記事をどこかで読んだことがある。

<雌雄異株で,一般に古い雄株では枝が挙手したように上向きに伸び,雌株では水平に張る傾向にある。雌株では枝もたわわに種子がつくことがあるので,その重みで枝が水平になることもあるかもしれない。

ときに高さ30m,周囲10mに達する巨木となり,各地で天然記念物に指定されている。青森県十和田湖町法量の善正寺跡のイチョウ(周囲12m,高さ27m),岩手県久慈市長泉寺の大イチョウ(周囲14m),

岐阜県高山市国分寺の大イチョウ(周囲10m),宮崎県高千穂町下野八幡宮のイチョウ(周囲9m,高さ36m)などが巨樹として知られている。>今ではもっと成長しただろう。

問題は「やちやお」のこと。若い人々には苦手な文語文だが、たまには頭の体操をして下さい。

<『大言海』序文が語るいちょうの語源探求。

国語辞書『大言海』5冊は、著者文彦の死後、兄の大槻如電のほか、関根正直、新村出らの指導協力により、1932〜37年(昭和7〜12)に刊行された。

この辞書の特色は、出典をしめし、独特の語源解釈をこころみていることで、ここに紹介した銀杏(いちょう)の語源についての探索にもその本領がよく出ている。>

以下[出典]大槻文彦『大言海』、冨山房、1932年。による。

大槻文彦「大言海の編纂に当たりて」

銀杏(ぎんなん)の成る「いちよう」といふ樹あり。この語の語原、並(ならび)に仮名遣は、難解のものとして、語学家の脳を悩ましむるものにて、種種の語原説あり。

この語の最も古く物に見えたるは、一条禅閤(ぜんこう:兼良公、文明十三年八十歳にて薨(こう)ず)の尺素往来に、「銀杏(イチヤウ)」とある、是れなるべし。

文安の下学集にも、「銀杏異名鴨脚(アフキヤク)、葉形、鴨脚(カモノアシ)の如し」とあり。字音の語の如く思はるれど、如何(いか)なる文字か知られず。

黒川春村大人の硯鼠漫筆(けんそまんぴつ)に「唐音、銀杏の転ならむ」などあれど、心服せられず。

降りて、元禄の合類節用集に至りて、「銀杏、鴨脚子、」と見えたれど、是れも如何なる字音なるか解せられず、正徳の和漢三才図会(わかんさんさいずえ)に至りて、「銀杏(ギンナン)、鴨脚子(イチエフ)、俗云、一葉(イチエフ)」とあり。始めて、一葉の字音なること見えたり。

然(しか)れども、一葉の何の義なるか、不審深かりき。加茂真淵(かものまぶち)大人の冠辞考、「ちちのみの」の条にも、「いてふ」と見ゆ。仮名遣は合類節用集か、三才図会かに拠られたるものならむか。語原は説かれてあらず。

さて和訓栞(わくんのしおり)の後編の出でたるを見れば(明治後に出版せらる)、「いてふ、一葉の義なり、「ちえ」反「て」なり、各一葉づつ別れて叢生(そうせい)せり、因(よっ)て名とす」と、始めて解釈あるを見たり。

十分に了解せられざれど、外に拠るべき説もなければ、余が曩(さき)に作れる辞書「言海」には、姑(しば)らくこれに従ひて「いてふ」としておきたり。

然れども、一葉づつ別るといふこと、衆木皆然り、別に語原あるべしと考へ居たりしこと、三十年来なりき。  

然るに、二、三年前、支那(しな)に行きて帰りし人の、偶然の談に『己(わ)れ支那の内地を旅行せし時、銀杏の樹の下に立寄り、路案内する支那人に樹名を問ひしに「やちやお」と答へたり。

我が邦の「いちよう」と声似たらずや』と語れるを聞きて、手を拍(う)ちて調べたるに、鴨脚の字の今の支那音は「やちやお」なり。

(支那にては、この樹を公孫樹と云ひ、又、鴨脚とも云ふ)是(ここ)に於て、案ずるに、この樹、我が邦に野生なし、巨大なるものもあれど、樹齢七百年程なるを限りとす。

されば鎌倉時代、禅宗始めて支那より伝はりし頃、彼我の禅僧、相往来せり。その頃、実の銀杏を持ち渡りたる者ありて、植ゑたるにて、その時の鴨脚の宋音「いちやう」(今の支那音「やちやお」はその変なり)なりしものと知り得たり。

その傍証は、実の銀杏を「ぎんあん」(音便にて、ぎんなん)と云ふも、宋音なり。実の名、宋音なれば、樹の名の宋音なるべきは、思ひ半(なかば)に過ぐ。

畢竟(ひっきょう)するに、尺素往来の「いちやう」の訓、正しきなり。是れにて、三十年来の疑ひ釈然たり。因りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、仮名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。 Microsoft(R) Encarta(R) 2006.

これについて世界大百科事典の表現は以下の通り。

<中国名は銀杏,公孫樹または鴨脚樹(ヤーチアオシユー)で,後者は葉形に由来する。これを日本でヤーチャオと聞き,さらにイーチャオと転訛(てんか),後にイチョウとなったといわれる。

また属の学名 Ginkgo は銀杏の音読みを間違って記してしまったもの>。とある。Ginkyoとすべきものだが今更直らない。
2008・04・28

2008年04月28日

◆ムッソリーニ銃殺さる

                    渡部亮次郎

彼が日、独、伊の3国同盟の主人公の一人である事は子供心に知っては
いた。しかし、イタリアそのものが日独より早く連合国に万歳し、日独
に軽蔑された政治家だったので、詳しくは知らなかった。4月28日にパル
チザンに銃殺された。1945(昭和20)年のことである。

<語録
プロレタリアのイタリアよ、ファシストのイタリアよ、革命のイタリア
よ、全員起立

社会主義とは、ペテンであり、喜劇であり、幻想であり、ゆすりである。

他人を信じることは良いことだが、信じないのはもっと良いことである。

血のみが歴史を前進させる。

ヒトラーは一流国家における二流の指導者、かたや自分は二流国家にお
ける一流の指導者である。

人々は自由に飽き飽きしているというのが真実である。

私はファシズムを創造したのではなく、イタリア人の奥底から引き出し
ただけである。

正義のためには法律を犯すことも許される。そのとき暴力は武器となり、
正義となるのだ。

私は満足している。そして復讐も再評価も望まない。>

第1次大戦後の1919年3月〈戦闘ファッシ〉を結成してファシズム運動を
開始し,21年5月下院議員に当選する。22年10月ファシストのローマ進軍
の圧力によって,国王から組閣令を引き出し,39歳で首相となった。

以後20年にわたって首相の地位にあり,とくに25年1月、力による支配の
方針を表明した後,ファシズム体制を築いて独裁的な権力を掌握した。
ファシズム内の諸潮流の均衡の上に立って,その時々で大臣を交代させ
ながら,みずからは指導者として最高の地位を保持した。

1940年6月10日、イタリアはイギリス、フランスと開戦、同年9月27日に
日独伊3国同盟に調印してドイツと日本の密接な関係を確認した。その
後の1941年12月には日本とアメリカが戦争状態に入ったことを受けてア
メリカにも参戦するなど、日本とドイツと並ぶ枢軸国の一国として本格
的に参戦した。

しかし,敗色が濃くなると政・財・軍各界からの批判が高まり,43年7月24
日ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。

1945年4月に、連合国軍の進撃を避け敗走するドイツ軍とともに中立国の
スイスに脱出する途中、コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザ
ンに発見され、同月28日に銃殺された。

その死体は同行していた愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミ
ラノのロレート広場に逆さ釣りにしてさらされた。ムッソリーニの最期
は、死刑の通知をするレジスタンスに対し、「胸を撃て!」と叫んだとさ
れる。没年月日 1945年4月28日(満61歳没)

彼の死体が、公衆の前にさらしものにされたことを聞いたヒトラーは強
いショックを受け、自決の際に「彼のようになりたくない」と、自身の
死体をすみやかに焼却するよう部下に命じたと言われる。

ファシズムの創始者であることから、「世界で最も優れた写真家3人を
挙げよ」「ムッソリーニが現像し、ヒトラーが複写し、ゲッベルスが拡
大した」というジョークがある。2008・04・24

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び「世界大百
科事典」(平凡社)


2008年04月27日

◆「巴里だより」・屋根瓦の反響

                   岩本宏紀(在仏)
                (2008年4月21日 当メルマガ掲載)


・京都の女性
屋根・・うだつ・・四国の心意気を感じました。
(岩本:「卯建があがらない」はこの言葉が語源だそうですね)

・北海道出身の女性 
私は札幌で生まれ育ちました。
丘の上の我が家から毎日札幌の街の屋根を眺めて過ごした少女時代。
赤や緑や青のトタン屋根はかわいらしい風情です。

そんな私が東京へ来て、電車の中から見ていた明治神宮付近の屋根瓦の美しさに見とれたのを思い出します。
この古い家々はいつの頃か姿を消しました。
なくなってしまった途端、何の魅力もない風景が残り
ここを通過する楽しみはなくなりました。
屋根には物語が存在しています。

チュイルリー公園の観覧車からのパリの街。
私も次回パリを訪れるとき、是非観覧車に乗ってみましょう。
(岩本:色とりどりの屋根というのも、これまたよさそうですね、屋根の雪が落ちて、それでも地面は白という光景を想像すると。)

・元巴里、今は千葉の男性
チュイルリー公園の観覧車、懐かしいですね。
今から17年前も存在していたんですね。
私は、チュイルリー公園の観覧車には、乗った事が無いですが
昨年コンコルド広場で乗る機会がありました。
私は、高所恐怖症なので外の景色を眺める余裕はなかったです。
なので高所でも平気でいられる人達が羨ましいです。

それでは、私が2003年にオルセー美術館の屋上から
モンマルトル(サクレクール寺院)を撮った写真を参考に送ります。

(岩本:オルセーからの眺めもいいですよね)。

・元巴里、今は東京の男性
週末、金毘羅歌舞伎にでかけ海老蔵を堪能してきました。金丸座もなかなか趣があり、よかったです

折角でしたので、金毘羅参りもしてきましたが、奥社からみる町並みに おっしゃられる瓦屋根が拝見でき、素晴らしい景観にうっとりでした。

最近は地震対策で伝統的な瓦をやめ、軽い製品に変えられてる家が多いのは残念ですが、これも時代の流れ、やむを得ません。
南仏のオレンジカラーの屋根がそれにしても懐かしい。

(岩本:四国で海老蔵とは贅沢な旅行でしたね。歌舞伎のあとの日本家屋の
屋根鑑賞、これまたいい取り合せです。南仏の屋根と聞いてふと思いました。円筒を縦長に半分にしたあの形状は、太陽の熱の影響を抑えるためなのですね。表面積が広くなるので熱くならないのでしょう)。(完)

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<岩本さんのエッセー(反響の欄)で、「うだつが上がらない」という記述が出てくる。「うだつ」というのは、「へ」の字型の屋根を補強するために、屋根の両側から支える「垂直三角形の構造部分」のことだそうだ。

木造建築の家は、この「うだつ」で支えないと屋根は設える事が出来ない。つまり、この「うだつ」が上がらないとないと、新築の木造家は完成しないということなる訳だ。

そこから転じて、江戸時代からは「うだつ」を上げることが出来た者は、「出世者」の代名詞になった。庶民は長屋住まいだったから、「うだつ」を上げられた者は、勿論豪商に限られていた。

「うだつ」を上げる時は、匠、大工は勿論町中の人々が集まって、勢いのいい「よいしょ!」の掛け声を掛け合いながら、「うだつ」を引き上げる盛大な行事をしたらしい。「うだつ」が上がると祝宴となり、庶民もこれにあやかって町中が大騒ぎになつたそうだ。

だから、それをやれるだけの私財を持ちながら屋敷を作れない者に対しては、「うだつが上がらない男」と称されたらしい。

岩本さんのエッセー反響欄を拝読して、「うだつ」の由来とそれに纏わる話を綴ってみた。・・・・・・・毛馬 一三>

2008年04月26日

◆広島原爆500倍の放射能

渡部亮次郎

チェルノブイリ原子力発電所事故は、22年前の1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)にソビエト連邦(現 ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が起こした原子力事故。

4号炉はメルトダウンののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。

この規模の原発事故は前例がなく、世界の原子力開発で史上最悪の事故といわれている。

長期的な死者数は、事故の放射線被曝とガンや白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的見地から根拠のある数字というのは示されておらず、数百人とも数十万人とも言われる。

2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によると、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5千人が既に死亡した。ウクライナ国内(人口5千万)の国内被曝者総数342・7万人の内、作業員は86・9%が病気にかかっている。周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

当時、爆発した4号炉は休止中であった。原子炉が止まった際に備えた実験を行っていたところ、制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。この爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。

その放出量は莫大であり、かつて広島に投下された原子爆弾の500倍とも言われている。

当初、ソビエト連邦政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れこの事故を公表しなかった。そのため、何も知らない付近住民は避難もさせられないまま甚大な量の放射線をまともに浴びることになってしまった。

しかし翌4月27日、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所でこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソビエトも事故の公表に踏み切った。日本でも、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。

爆発後も火災は続き、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、核の火に赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソビエト政府によれば、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとされる。

死者はソビエト政府の発表では運転員・消防士合わせて31名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。

事故によりチェルノブイリ周辺は高濃度の放射性物質による汚染により居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われた。

ソ連の発表によると、事故から1ヶ月後に原発から30km以内に居住する約11万6千人すべてが移住したという。しかし、老人などの中には生まれた地を離れるのを望まなかった人もおり、このような一部の人は移住せずに生活を続けた。

爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、のべ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せっかん)と呼ばれている。

事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。

爆発事故による放射性物質による汚染は、付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアも多かった。

事故の原因については炉の特性による予期せぬ事態の発生と、作業員の不適切な対応が災いし、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。

当初ソビエト政府は、事故は運転員の操作ミスによるものとしたが、のちの調査結果などはこれを覆すものが多い。重要な安全装置の操作が、運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかっただろうと考えられる。

爆発時、炉心内部の放射性物質は推定10t前後大気中に放出され、北半球全域に拡散した。周辺地域の家畜に放射性物質が蓄積され、肉、ミルク等も汚染された。


日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため、政府は、日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きないという説明を行った。2008・04・23

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2008年04月25日

◆歌手小畑実の命日

渡部亮次郎

4月24日は朝鮮半島出身の演歌歌手小畑実の命日。2年前の原稿再掲。

戦前から甘く囁くような歌い方で大人気だった歌手小畑実(1923-1979)。
死後もファンクラブは解散せず、命日(4月24日)には必ず鎌倉の霊園で
偲ぶ会が開かれ、全国からファンが集まる。私のところにもCD8枚163
曲の全集がある。

朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌
手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会など
では出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身と
され、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩
の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太
郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

秋田県人として一言いうと、小畑というのは秋田県北部に多い姓で、そ
の昔、小畑勇二郎という知事がいた。しかし秋田県内で小畑実の幼い頃
を知る人はいなかったので、小畑を秋田県人と信じる人は少なかった。

小畑が東京で姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ
殺人被害者の小畑達夫その人である。事件は日本共産党の宮本顕治らが
起こした

昭和18年にビクターに移籍し、「婦系図の歌」(現在は「湯島の白梅」)
「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒット。勘太郎はやくざで戦時下なら
御法度なのだが、明治維新の協力者でもあったいう触れ込みで、吹き込
みが許可された経緯がある。

ところがこの勘太郎、稲垣浩という「無法松の一生」などで知られる映
画監督の愛称「イナカン」から作詞家の佐伯孝夫らが創作したもので、
実在の人物ではない。それなのに信州で勘太郎の墓発見などというガセ
ネタが流れたことがある。

戦後はテイチクからキングに入り、「長崎のザボン売り」「星影の小径」
などヒットを連発。長崎にザボン売りがいたわけじゃなく、作詞の石本
美由起が想像して作詞。それを江口夜詩が作曲してピアノの上に置いた
ら、弟子の小畑が「これ下さい」となって歌ったところ大ヒット。

横道にそれるが江口夜詩。(えぐち よし、本名江口源吾、1903年
(明治36年)7月1日 -1978年(昭和53年)12月8日)は、昭和期の作曲家。
長男は同じく作曲家の江口浩司(「下町の太陽」などの作曲者)

岐阜県上石津町(現・大垣市)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、
第1期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家
としての将来を嘱望された。

海軍省委託生として、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学
してチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を
仰ぎて』を完成させる。

(渡部註:海軍としては将来の軍楽隊指揮者と期待して東京音楽学校(現
在の東京芸術大学)に6年間通学させていたのに、江口は勝手に辞めてし
まった。妻を亡くしたことと無縁ではない。)

また、1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲
『挙国の歓喜』を発表した。

1931年(昭和6年)に海軍を退役し(実際は裏切って)、翌年、亡妻(よ
し子)をしのんで作曲した『忘られぬ花』が大ヒット。これを期にそれ
までクラシック作曲家を嘱望されていた江口は流行歌の作曲家の道を歩
むことになる。

その後『十九の春』、『秋の銀座』、『月月火水木金金』、『長崎のザ
ボン売り』、『憧れのハワイ航路』、『赤いランプの終列車』、『瓢箪
ブギ』など数々のヒット曲を生み出した。

生涯にわたる作曲数は4000曲を超え、古賀政男とは終生ライバル関係に
あった。

1963年(昭和38年)、パーキンソン病に冒され、長い間の闘病生活を余
儀なくされながら、1978年(昭和53年)12月8日死去。享年75。

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2008年04月24日

◆山田敬蔵が勝った日

渡部亮次郎

郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。

誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。2008・04・22

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2008年04月23日

◆両国高校脇の通り

                   渡部亮次郎

明治34年創立の府立3中を前身とする都内を代表する名門校、正門横には卒業生芥川龍之介の碑がある、といえば都立両国高校。拙宅から徒歩10分ぐらい。

「現役で大学進学」が目標として掲げられる。土曜授業の導入、多数の講習や特別編成授業の実施などが行なわれており、高い現役進学率を維持している。

この名門高校の横を走っている道路が「大門(おおもん)通り」と呼ばれる片側1車線の細い通り。遊里吉原(よしわら)の大門と嘗ての洲崎(すざき)パラダイスの大門を結んだ通りだったから。吉原はともかく洲崎は洲崎弁天町2丁目となってはいるものの面影はない。

昔の遊女。売春婦は昭和33(1958)年3月31日を限り売春防止法施行により消滅した事になっているが、そこはそれ、法律は厳しく制定し、取り締まりは緩いことが特徴の日本。誰も信じてはいない。

売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。

近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。

その5年後(1589年 天正17年)には、京都柳町に遊廓が作られた。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原(葦原)遊廓を設けた。

17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。

島原、新町、吉原が公許の3大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国に二十数カ所に公許の遊廓が存在し、各宿場にも飯盛女と言われる娼婦がいた。

敗戦翌年の1946年にGHQの指令により遊郭は廃止され赤線に看板を変えるが、これも1958年売春防止法の施行によりいったんは消滅した。

しかし、その後「トルコ風呂」という形で復活し、その後トルコ青年の抗議で業界団体がソープランドなどとして同じ地に続いているところもあり、旅館などの一部にも、わずかだが宿泊業務と別にいまだ同様のサービスをしている所もある。

戦後に存在していた東京近郊の赤線地帯。赤線を知らない人のため。
 
吉原
浅草の北に位置し、江戸時代の花魁(おいらん)の頃からの花街である。吉原大門という交差点の表示に、わずかばかりの名残が見受けられる。明治後期の大火、関東大震災、東京大空襲で灰塵に帰し、戦後は赤線区域に転落。現在も仲之町通り一帯は高級ソープ街として有名。
 
洲崎パラダイス
東西線の木場駅より、南方の川を渡った一画。洲崎弁天町2丁目。芝木好子の小説「洲崎パラダイス」でその名を知られた一大花街の名残は、一杯飲み屋などに見受けられる。街のはずれがすぐ、海だった頃の面影はもうない。
 
品川
京急北品川駅より、南方に旧東海道を下ったあたりに点在していた。戦時中に老舗の遊郭はすべて廃業。戦後は年増が多く、地味な存在であった。
 
柳新地
北千住の駅から荒川に沿って、日光街道を過ぎると大門通に出る。そこがかつての赤線であった。主に農村出身者相手の商売で、格は低かった。
 
新宿2丁目
新宿3丁目駅より御苑方面に向った一帯。料金は割高で女性のレベルも高い花街だった。廃業後はいつしか男娼が集まりだし、いまや国内最大の男娼街と化している。
 
亀戸
亀戸駅より蔵前橋通りへ抜け、横十間川に沿った亀戸天神の真裏。浅草にあった売春窟が関東大震災で移転。戦災で全焼後は地元民相手の商売に落ち着いた。
 
丸健
新小岩駅南口。松島3丁目の一帯。亀戸の売春窟が、空襲後に一部移転したもの。当時のこの付近は田園地帯だった。
 
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2008年04月22日

◆つつじとさつき

                   渡部亮次郎

今は都立猿江恩賜公園の躑躅(つつじ)の豪華さに酔っているが、これで
も20代の終わりごろ、三鷹で皐月(さつき)の盆栽作りに夢中になって
いたことがある。

当時は花の色香よりも木が曲がりくねって生長してゆく様に魅かれた。
花が終わったらすぐに剪定に係り、薬剤散布もちゃんとやらなければ油
虫が花の芯を食ってしまって咲くべき来春の花が咲かない。

だから忙しい政治記者の手には負えなくなって横浜の知り合いに全部く
れてやったが、彼は手入れをし過ぎてすべてを枯らしてしまった。水の
やりすぎによる根腐れ病を起こしたのかも知れない。

私に盆栽造りを奨めてくれたのは河野一郎氏の側に秘書官みたいにして
付いていた藤尾正行代議士(故人)。選挙区の栃木県鹿沼まで招待して
くれた上に何十鉢の皐月の盆栽を貰って下さったのである。

躑躅(ツツジ)の花には薔薇(バラ)や牡丹(ボタン)の花のような豪
華さはないが、庶民的で親しみのもてる可憐さがある。そのような点に
ひかれてか,古くから世界各地で多くの園芸品種が育成されている。

冬にも枯れない常緑性ツツジの園芸品種は日本,落葉性ツツジの園芸品
種はヨーロッパで育成されたものが多い。

日本で造られたツツジの園芸品種は、ケラマツツジからヒラドツツジ、
サタツツジが、ヤマツツジからキリシマやクルメツツジなどが、マルバ
サツキからサツキの各園芸品種が育成されているように,日本固有の野
生種を利用しての品種改良が行われてきた。

一方,ヨーロッパでは中国産、日本産やアメリカ産のジャコウツツジ,
カフカス産などから各園芸品種が改良されているように,他の地域から
導入されたツツジの野生種をもとに品種改良が行われている。

現在世界のツツジの園芸品種の総数は2000以上にのぼるものとみられ,
栽培が容易であるため庭園用,鉢植え用として広く利用されている。

今後,より耐寒性,耐暑性の品種,あるいは花色が黄色や青色のツツジ
園芸品種が育成されるならば,さらに利用されるようになるであろとい
う。

ヒラドツツジは長崎県平戸市の旧武家屋敷の裏庭に植栽されている大型
ツツジの中から選抜されたツツジとその近縁種の総称で,直径10cm前後
の大輪の花をつけ,葉や樹姿も大型となり,平戸市内にある古木では高
さ4m以上に達するものがある。

南九州から沖縄にかけて自生しているケラマツツジを母体に,モチツツ
ジやキシツツジ,リュウキュウツツジが自然交雑してできたものである。

花色は紅,紫,桃,白と多彩であり,早く育つので公園や街路植栽用に
よく利用されている。耐寒性が弱いので利用は西日本が中心になるが,
オオムラサキのような耐寒種もこの仲間に入る。

キリシマ R. obtusum Planch. は,小輪で濃紅色の花を数多く咲かせる。
枝がよく伸び背の高い樹姿となるので,公園などに植え込むとたいへん
美しい。

また,枝が伸びる性質を利用して,枝物として生花材料として利用され
ることも多い。鹿児島県の霧島山に自生するヤマツツジから江戸時代に
品種選抜されたもので,日本の園芸ツツジ栽培の草分けとなった品種で
ある。

クルメツツジは,キリシマと鹿児島県南部に自生するサタツツジを親に,
江戸時代末期に久留米で品種改良されたツツジである。小輪で多花性,
枝があまり伸びないのでコンパクトな樹型になり,花時には樹冠一面が
花でおおわれるようになる。

花色は赤,白,桃,紫,淡紫,絞りなどと多彩で非常に派手な色彩のツ
ツジであるため,公園や庭木としての利用が多い。大正年間にウィルソ
ン E.H. Wilson によってアメリカに導入されて以来,ヨーロッパ,アメ
リカでもクルメ・アザレアの名で広く利用されている。

ミヤマキリシマ R. kiusianum Makino は九州の1000m以上の高山にだけ
自生している極小型のツツジで,花の直径は2cm内外,枝は短くつまり,
ツツジ類中ではもっとも小型の部類に属する。

可憐な花型とコンパクトな樹姿から小盆栽として利用される場合が多い
が,耐寒性もあり庭木としても利用できる。ヨーロッパではダイヤモン
ド・アザレアとして近年注目をあびるようになっている。

リュウキュウツツジ R. mucronatum G. Don は日本に野生のあるキシツ
ツジとモチツツジの間の雑種性のツツジとみられる。たいへん丈夫で,
耐湿性,耐寒性があるため,江戸時代からリュウキュウツツジの名で栽
培されてきた。花色は白であるが,近縁種には淡紫のもの,絞りのもの
もある。

皐月(サツキ 陰暦5月のこと)はツツジの仲間であるが,江戸時代から
ツツジと区別されてきた。花型,樹姿にそれほど差はないが,花の時期
がサツキは5〜6月でツツジより際だって遅いのが特色で,サツキの名も
これにちなんでいる。

西日本各地に野生しているサツキと吐菓喇(とから)列島(九州南端から約
130キロ南にある火山島群)付近に野生しているマルバサツキの交雑によ
って品種ができたもの。

両親の形質が対照的であるため,サツキの園芸品種は変異の幅がたいへ
ん広く,サツキ愛好熱の高まる一つの理由になっている。

花色は紅紫,桃,白のほか,絞り花や底白花など,変化のおもしろ味が
あることや,樹姿,葉姿の均整がとれて美しいことから盆栽としてよく
利用されている。

また,刈込みにも耐える性質をもっていることから,庭園用樹としても
利用が盛んである。

ところでツツジの繁殖は一般に挿木による。常緑性ツツジはほぼ一年中
挿木できるが,地温が15〜20℃の季節がいちばん早く発根する。ツツジ
は陽光を好むので,日当りのよい場所に植えるのがよい。

水はけが悪いと根腐れを起こしやすい。酸性土壌を好むので,植え穴に
はピート,腐葉土などの有機質を多量に混入するのがよい。花芽は7〜8
月に分化するので,それ以後に刈り込むと翌年の花が咲かなくなる。

剪定(せんてい)は花後すぐに行うのがよい。肥料は油かすを株の周辺の
地表に置肥するのが安全で,化学肥料は根を傷めるおそれがある。ダニ,
グンバイムシなどの害虫や褐斑病の発生がよくみられるので,5月から9
月までは定期的に薬剤散布を行うとよい。

参考:平凡社『世界大百科事典』 2008・4・17