2008年08月05日

◆遊んでいた?園田外相


渡部亮次郎

1978年8月13日、園田直外相に従いて日航特別機で北京を訪問した時、日本大使館には佐藤正二大使の下に公使として伴(ばん)正一氏がいた。私は初対面の人だった。

その伴さんが外務省を退官されたあと88年5月に東京・文京区にある(財)日中友好会館の理事長に就任。日中平和友好条約締結10周年にあたる同年8月13日、郷里の高知県高知市の高知阪急ホテルで「日中平和友好条約締結に参加して」と題して講演された。

その講演録を最近、偶然の機会にインッターネト上でみつけたので紹介したい。原文は以下。なお伴氏は中国公使の後退官、衆院選に出たが落選を繰り返した後に日中友好会館理事長。その後死去。

http://www.yorozubp.com/shoichiban/column/1988nicchuyuko.htm

日中平和友好条約は田中、三木の内閣2代に亘って締結できなかったのは中国側の事情による。それが急遽できたのは中国を取り巻く国際情勢が変化したため。

<交渉は大詰めまで我々事務サイドがやった。園田外相は遊んでいたようなものだ>

と園田の死後とはいえ厳しい事を言うものだ。以下、前半部分をほぼ原文のまま紹介する。

後半部分は「終わる対中借款」と題する「頂門の一針」1014号(2007・12・02)上の拙文の中で紹介している。伴氏は昭和26年度外交官試験合格のキャリア。
http://www.melma.com/backnumber_108241/

<日中間のことに携わるのは気の重いことが多いわけでして、私にとっては(理事長就任を)祝って頂くという気分には到底なれません。

そんなことはどうでもいい、と言っているうちに妥協案としてこの記念講演会ということになった訳であります。

日取りについては、そこまで考えずに13日のこの日を取ったんですけれども、実は10年前の丁度今ごろの時刻、当時の北京時間の正午、意気揚々たる園田外務大臣が北京から飛び立ちました。

日本時間で言うと午後1時であります。いま1時半を廻ったところですから、ピタリ10年前の今頃、園田大臣は条約調印の大任を果たし日航特別機の機上で記者団にホラを吹いていたはずであります。

我々大使館員は、ちょっと趣が違いまして、何か気が抜けたような感じで、今頃大臣を見送って空港から帰りつつあった。

それからちょうど10年、この演壇に立って感慨一入であります。

駐中国公使として北京へ

私が昭和52(1977)年に着任いたしまして、経済界、文学の世界、政界の方が北京へみえます。例によりまして、皆さんもご経験がおありでしょうけど、中国へ行くと必ず向こうが歓迎宴というのをやる。

そうするとこちらが又答礼宴というのをやる。その始めにまことに仰々しいかしこまった挨拶をやるわけですけれども、その挨拶をずっと半年間聞いておりまして、ほんとにイヤになりました。

日中平和友好条約が締結に至りませんで誠に申し訳ない。いかにも福田{赳夫}総理が優柔不断でお国に迷惑をかけておりますと解釈されるような挨拶ばかりなさる。日本の政界、経済の方がなさる。

私が1番ガッカリしたのは、誰かが書いた原稿を読んだのかも知れませんが、井上靖さんまでが申し訳ない式の挨拶、少なくとも先方はそう受け取るであろう挨拶をされたときでした。

着任してから1年間で、中国側にそういうおべっかを言わなかった代表団は私の記憶ではたった1つ。それは今は冴えておりませんけれど、二階堂さん。二階堂進さんだけはそんなこと言わなかった。だからよく覚えております。そういう状況でございました。

条約締結交渉の始まり

日本と中国の間には2000年の繋がりというか、親しくなるとどの国もそうなるんですが、日米だってそうだし、日韓だってそうですが、正規の外交ルート以外のいろんなルートやパイプができ上がるものです。

外務省にいた我々はそれを雑音といったわけですけれども、雑音があちらこちらに出る。

雑音といっては失礼になりますが、その1つが矢野訪中。矢野公明党書記長がやってきて、そのときにこともあろうに、安倍晋太郎官房長官のメモなるものを持ってくるわけです。そして向こう側へ渡す。

そしたらその翌々日に廖承志がこっそりホテルの矢野さんのところへ来て中国側のメモを渡す。!)(トウ)小平と矢野さんが話すときにまるで条約交渉みたいな話が行われる。

我々はもうあっと驚いたわけです。こういうことをやっとったら政府間交渉は馬鹿みたいなことになるではないかということで、これの後始末をいたします。中国側も日本側もそれからは雑音が少し減るわけです。

いよいよ外務大臣がいつ来る、などという話に入りかかつておりますと、今後は4月12日明け方、尖閣列島周辺に200隻近い中国の大型の漁船が我が領土、尖閣列島を取り巻くわけです。日本側は上を下への大騒ぎになります。

私もその頃、日本側として尖閣列島問題に対して当然、不快感を示さなくてはいかんと、いつも仲のいい外交部の人たちにモノを言いかけられてもこっちは返事もせん、ブスッとして、「なんということをなさるんじゃ」という顔をし続けたわけでございます。

今後もこれに似たようなことはあるかもしれない。ちゃんと和やかな話をしているときにそんなことしなくてもいいじゃないか。中国側は全く偶然だったというんですけれど、どう考えても偶然とは考えられない、というのが偽らざる気持ちでした。

中には機銃を積んでいた船もあるというんですからね。 

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2008年08月01日

◆文明は気候風土に立脚


渡部亮次郎

「文明」に関する「広辞苑」(岩波書店)の説明の一節。「弁明」は「生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均などの原則が認められている社会、即ち近代社会の状態」とある。

さすがアカの辞書だが「したがって中華人民共和国は人権尊重も機会均等も認められていないから文明国とはいえない」とは書いていない。

世界陸地の3分の1を占めるアジアは穀物で生命を維持してきた。殆どが米(コメ)と小麦である。米飯、パン,餃子,麺で生きているがこの材料を得るためには人々は農地から遠ざかる事はできない。

また植物を育てる水は上流から流れてくるから、下流は上流に気を遣わざるを得ない。話し合いによれば、それは民主主義と呼ばれるが、長(おさ)の命令に従う場合もある。いずれ平等は尊重されても自由は奔放と同義語だから概ね許されない。

自由の許されない国家は競争力が弱いから外敵に弱い。アジアが大東亜戦争の結果として独立を獲得するまで長く西欧に隷属したのは、このためである。

中国は何千の歴史と誇らしげに言うが、誇れるほど、連綿とした歴史は無い。多民族故の民族抗争の年月を過ごして来たに過ぎない。

近代になっても明(みん)が清(しん)に滅ぼされ、20世紀に入って漢民族が暴力革命によって統一を成し遂げた。

従って中華人民共和国の歴史は1949年10月1日の建国宣言以来僅か59年しかない。彼らを攻めて行った日本陸軍と闘ったのは国民政府軍(蒋介石)であった。毛沢東指揮下の人民軍の敵は内戦としての国民政府軍であった。

これは客観的な事実である。にも拘らず、日本軍と闘ったのは共産党の人民軍であると教える中共の歴史教育は気候風土に反する虚無的教育に過ぎない。

ケ(トウ)小平による外資導入を伴う経済だけの開放改革路線を走った結果、五輪を北京で開催できるところまで来たが、同時に自由経済は束縛を否定するから経済は今や共産党を否定し始めた。

そこで共産党は嘘の歴史をでっちあげ、存在を正当化するのに躍起なのである。これはマルクス理論に反する。

経済が自由であれば政治も自由でなければ矛盾が日に日に拡大し、やがて人民が爆発する事は避けられない。それが何時かは断言できないが、中国人民が世界の「気候風土」に接触する北京五輪がそのスタートである事は間違いない。

8月8日の開会式が迫るにつれて当局の警戒態勢が異常といえるほど緊張するのは以上を意識するからである。周恩来もケ小平も墓を敢えて造らなかったのは「墓を暴かれる」と言う大屈辱を避けた、つまり暴かれること必定を予言して逝ったようなものである。

一方、イギリスから独立したアメリカはアメリカ大陸の燦々たる日光に耐えられなかった。曇天ばかりのヨーロッパの虹彩は音を上げた。サングラスが発明された。気候風土の違いを克服したのである。

やがて自由と冨を求めて世界中から殺到した多民族を政治的に統一するためには国旗と単純明快な政治原則が必要であった。それが民主主義に基づく政治手段である。

地球上で最も単純な政治原則で大国となったアメリカは太平洋戦争で日本には勝利し、その後、日本を多面的に支配しているけれども、あのベトナムに決定的に敗北したほか、イラクでは大変な苦戦を強いられている。

アメリカで多民族社会を統一、統括してきた民主主義は、従って世界共通の政治原則であると誤解したところに失敗の原因がある。

先に勝利した日本に対して民主主義の移植に成功したが、それは日本人が渇望していた。或いは気候風土がワシントンDCに似ていたからに過ぎない。

沙漠では米も小麦もハンバーガーも育たない。砂嵐は常にある。
そこで衆愚政治を展開していたのでは生命の保証が無い。気候風土が文明を作り政治はそれに立脚すると言う立場からすると、アメリカのイラク撤退は不可避であり、イラクの悲劇もまた避けられないであろう。2008・07・31

2008年07月30日

◆懐かしや鯰の味噌煮


渡部亮次郎

毎度語る旧八郎潟(秋田)だが、ここの産物で一番食べたのは鮒(ふな)で、次が何を隠そう鯰(なまず)であった。

「ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である」と各種事典にある。昔の八郎潟沿岸の家庭では泥臭さを消すために味噌煮にするのが普通だっ
た。

春の田植え、秋の稲刈りの際は、いちいち家に戻るのももどかしいからお櫃(ひつ)の飯に味噌煮にした鯰鍋それに漬物を携え、昼飯は青草の上にそれを広げて食べたものだった。

長じて東京で暮すようになり、八郎潟も干拓で縮ったこともあって高校生以後は鯰にはお目にかかってない。

その後、アメリカ南部を旅した際、若い女性たちがダイエットのために鯰を食べることが流行していると現地の人に聴かされて感心したものだ。鯰は低カロリー多蛋白とのことだった。美人を維持するためには鯰をどうぞ、というわけだ。

だとすれば、鯰を常食したために体格が小ぶりに出来たのも頷ける。恨みは深し八郎潟か。とはいえ、1950年代の身長171センチは長身の方だったが。

数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、中には体重が70kgに及ぶものもある。

とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスと並んで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。

アジアでナマズは北海道を除く日本、アジア東部に広く分布する。体は細長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右に押し潰したように平たい。全長60cmに達する。

湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを食べている。長いヒゲには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌(えさ)を探るのに使われる。

また、側線器官に敏感な電気受容器があることも知られており、他の動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。

鯰は日本ではナマズ科、ギギ科、アカザ科、海生のハマギギ科、ゴンズイ科が知られ、沖縄の石垣島にはヒレナマズが台湾から移殖されて生息している。

ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがあり、全長1mに達する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。

昔の八郎潟沿岸では水田の灌漑用水路の岸に夕方、竹竿の先に泥鰌をエサにして川岸に挿しておくと朝に鯰が釣れた。兄が随分捕った。4歳下の私も真似したが1匹も釣れなかった。止めた。

地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない。

かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、食べてみると美味と分かり鍋物や蒲焼になるようだ。刺身用に寄生虫がつかないように養殖された鯰は、「洗い」にして賞味される。

鯰を英名でキャットフィッシュと呼ぶのは、上顎(うわあご)、種によっては下顎の両側から延びている髭がネコを連想させることに由来する。
2008・01・16資料:マイクロソフトの辞書「エンカルタ」

2008年07月29日

◆鈴木善幸内閣誕生の経緯


                      渡部亮次郎

2007年6月12日は総理在職中に急死した大平正芳さんの28回目の命日だった。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が最近著した「権力の病室 大平総理最期の14日間」(文藝春秋)を読んで、その死を改めて回想すると共に「後継総理 鈴木善幸」と叫んだ田中角栄氏の判断は瞬時だったなぁと思い出した。

私は当時、既に大平内閣の外務大臣(園田直)の秘書官を退任(1979年11月8日)、一代議士の戻った園田氏の私設秘書をしていた。1980年5月30日には第12回の参院選挙が公示されたが、その初日に大平総理は倒れた。

入院先は国家公務員の指定病院としても名の知られた東京虎ノ門病院。発表された病名は過労が引き金となったと考えられる「狭心症」だったが、予ねて総理が自分と同じ糖尿病を持病としていることを知っている園田氏は「いやぁ心筋梗塞の1回目の発作だよ」と主張して譲らなかった。

果たして死後、解剖の結果は当にその通りだったわけだが、心筋梗塞の発作だとすると、近いうちに2回目の発作があるはずで、絶命するだろう、園田氏は早くから言っていた。

園田氏も30歳代で2型糖尿病を発症している。糖尿病のDNAを遺伝により所持しており暴飲暴食、運動不足、肥満によって発症する。酒を嗜まなかったが、豆大福や焼き芋が大好き。3番目の結婚となった天光光(てんこうこう)さんとの結婚直後から大肥満。多分、これが引き金となって発症したはずだ。

糖尿病患者は最終的にはインスリンというホルモンを毎日、1回から3回、注射で体内に補給する必要がある。口から入れても胃液(酸)で無効になるからである。しかし、武道の大家も何が嫌いって注射ぐらい嫌いなものは無いという人。

この後、生涯2度目の厚生大臣になり、患者が自分で注射できるよう、厚生省令の改正を決断するが、その恩恵に浴する事は無かった。理由は後述。

問題の12日は、私は都合で都心のホテルに泊っていたが、午前2時ごろ、園田さんから電話があり「ナベしゃん、総理が亡くなったらしいよ、調べてよ」という。なんでも信仰している新興宗教の教祖に霊感があったというのだ。

古巣のNHK政治部に電話してみたが何も入っていない。結局は午前6時41分になって「5時54分逝去」が発表されてわかったが、やはり大平さんは午前2時25分に本当は絶命していた。後は蘇生が試みられたが空しかったということだったのだ。

5:54 総理死去。立ち会ったのは志げ子夫人、伊東官房長官、田中六助副幹事長、森田一秘書官、次男裕氏夫人、三男明氏夫妻ら。

5:55 鈴木善幸党総務会長
6:15 田中角栄氏
6:35 西村副総裁。桜内幹事長。

園田氏も遺体に対面した。午前7時ごろだったろう。彼は私を伴って「これから目白(田中角栄邸)へ行こう」と言った。予ての大福密約に従って、首班指名では嘗ての親分福田赳夫氏に背いて大平さんに投票したために福田派を除名されていた園田氏。政界「はぐれ鴉」なんて揶揄されていた。目白に行くしかなかった。

しかも誰かに奨められて痩せるためと称して利尿剤を多用。急激に体重を落としたため、人相が変わるほどやせて久しぶりTVの前に姿を現したため、マスコミは悪い噂を立てた。

田中氏とのサシの会談は1時間に及んだ。園田さんは明るい顔に変わって出て来た。後総理には大平派の番頭鈴木善幸氏を推進することで意見の一致を見たと言うのである。

「政界闇将軍」と「政界はぐれ鴉」で一致した「鈴木善幸総理」案は政界で誰一人予想しない奇想天外。もちろん鈴木さんご本人も岩手の漁師が総理大臣になんて想像したこともなかった。衆議院議長は目指していたが。

しかし乃公出でずんば(だいこう いでずんば)=この俺様が出ないで、他の者に何ができるもんか=と言ってきた福田氏も、今回は大平急死の下手人呼ばわりされる中では、田中闇将軍の仕掛けに抗する術はなかった。

あれよあれよと言う中で鈴木内閣は平穏のうちに発足した。郵政、農林の閣僚経験しかなく、長く自民党総務会長としての地味な活動しかして来なかった政治家だけに、外国人記者は口をそろえて言った。Zenko Who?

園田氏は鈴木内閣には入閣しなかった。しかし3ヵ月後の9月に入って、女性の子宮や卵巣の摘出手術を乱発していた埼玉県の富士見病院事件が起き、ここから齋藤邦吉厚生大臣が千数百万円もの献金を受けていた事が発覚して辞任。

むかし厚生大臣の経験があり、すぐにも国会答弁で野党に対処できるとの鈴木派の栗原祐幸氏らの推薦で園田氏が後任に決まった。大平内閣の外務大臣を退いてから10ヶ月ぶりだった。私はまた秘書官に引っ張り出された。

さらにその8ヵ月後、今度は伊東正義外務大臣が途中退任、後任に園田厚生大臣が横滑りを命ぜられた。1981年5月18日、杉並区富士見が丘のNHKグランドで記者クラブとソフトボールの親善試合をしている最中だった。

この頃から園田さんの身体に糖尿病の合併症が表れるようになった。

腎臓の機能が極端に弱り、浮腫みが酷く成りだした。終いには顔も浮腫むようになって閣議で驚かれたりした。

インスリンの患者自己注射を許可すれば、衛生材料メーカーは競って注射器を携帯用に小さくしたり、針を細くして痛みが軽くなるように研究する。

実際、あれから30年、針の細さは0・2ミリと世界一。毛の細さだから殆ど痛くない。だが許可が遅れたために大平さんも園田さんもその恩恵には浴せ無いまま、共に70歳にして糖尿病のためこの世を去った。
2007・06・17  (再掲)      <「頂門の一針」より転載>


2008年07月26日

◆安倍辞任の真相


渡部亮次郎(電子雑誌・「頂門の一針」主宰者)

<安倍晋三首相は12日、辞任する意向を固めた。参院選で惨敗したものの、内閣改造を断行することによって政権浮揚を図ったが、失敗したことが原因とみられる。これに関連し、麻生太郎幹事長は首相の辞意について「ずっと前から聞いていた。自分には求心力がないと言っていた」ことを明らかにした。

同日午後1時から首相の所信表明演説に対する各党代表質問が予定されていたが、自民党幹部は民主党幹部に対し「わたしは代表質問に出るわけにはいかない。健康上の理由だと首相が言っている」と伝えた。>07年9月12日13時33分配信 時事通信

<自民党の総裁選挙 19日に。政府・自民党関係者によりますと、自民党は、安倍総理大臣の後継を選ぶ総裁選挙を今月14日に告示し、19日に両院議員総会を開いて、国会議員と自民党の地方組織の代表による総裁選挙を行う方向で調整することになりました。>NHKニュース9月12日 16時20分

真相は追々明らかになってくるだろうが、決定的な事は肉体的にも精神的にも限界点に達していた、という事ではないか。半生、精神力を鍛錬する「苦境」に立った事があったとは考えられない。

「参院選で負けても辞めない」は小泉全総理に刷り込まれた事であって、実際の重圧を予想し、自ら決意した事ではなかったはずだ。

私が総理辞意表明の前夜、財界筋から得た情報では、安倍さんの痩せ方が尋常では無い、最盛期より10Kgも痩せた、とのことだった。真相は不明だが、痩せて生気を失っていた事は事実である。

安倍周辺に通じている人の話によると、原因は腸が普通より短い事にある。すぐに消化不良と下痢を繰り返すため、ストレスが溜まるとたちまち痩せることになる。加えて精神力は元々無い。

麻生以外に相談した政治家は無いはずだ。あったとすれば小泉前首相だが、相談すれば「辞めるな」といわれるに違いないから相談しない。派閥を牛耳る森元首相や青木幹雄元参院自民党議員会長は参院選敗戦直後に辞任を勧めて断られた仲だから、今回は無関係。

おそらく「神のお告げがあったから安心してほっぽり投げられた」と周辺は言う。神とは母親にして祖父の一人娘洋子のことである。晋太郎亡後、晋三を総理にする事だけを夢見てきた人。

精神的苦悩で日に日に痩せて行く息子を見るに忍びなく、ついやさしい声をかけたのではないか。おそらく昭恵夫人も同様だったのではないか。

そこで2日前の10日に麻生幹事長とサシで会って、健康上の理由で辞意を匂わせていたようだ。当日の行動記録を読むと夕方5時26分から20分以上も会談している(院内大臣室)。

その一方で小沢民主党代表との党首会談に一縷の望みを託していたのだから、やはりお坊ちゃんというしかない。

こうして「政局」に突如なったわけだが、自民党の領袖たちの中で古賀誠はツンボ桟敷だった。この古賀はおそらく福田康夫に擁立を働きかけると見る向きは多い。これに対して旧経世会(津島派)がどう動くか。

森本首相と青木も福田擁立で動くだろう。だが福田が立たなければ、空振り。

麻生以外は立たない可能性もあり、と事情通。安倍の腹には麻生後継しかないが、後継を指名できる力は残っていない。文中敬称略。 2007・09・12

本稿は安倍辞任表明当日のものだが、今日になっても通用すると確信している。安倍辞任以降の新読者のために敢て再掲した。安倍辞任の情報から独り取り残された観のあった古賀が引退した野中の指令の下、福田康夫を担いで一旗挙げるところ間でも当っていた。              2008・07・25


2008年07月25日

◆国交回復のチョロギ


渡部亮次郎

久しぶりに「チョロギ」を食べた。角館(かくのだて=秋田県仙北市)の安藤醸造さんから戴いた「刻みガッコ」に茶色に漬かって入っていた。日本では東北地方を中心に栽培されている、というが私は北京で初対面だった。それをまた思い出した。

1972(昭和47)年9月25日、田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官の乗った特別機に特に選ばれた5人の記者の1人として同行。梅原龍三郎画伯描く『北京秋天』そのもの、快晴の北京空港に降り立った。日中国交正常化交渉を見守るためである。

しかし、交渉の様子は全く分からない。日本側同行記者団80人に対する説明者の二階堂官房長官の毎日の発表は「発表できる事はありません」だけ。肝腎の田中首相とは釣魚台の迎賓館の部屋で到着翌日に短時間面会が許されただけで、後は梨のつぶて。

ホテルはソヴィエト人の設計とかで、天井がやたらに高くて、シャワーからは湯がろくに出ない。食事はやたら脂っこくて大抵の記者たちは3日目ぐらいで音を上げた。誰言うとなく出た言葉が「こんな時は粥(かゆ)が食いたいね」

そうしたら翌朝が白粥に漬物。それが「チョロギ」の漬物だった。赤く染まっていた。恥かしい話だが日本では東北地方を中心に栽培されているというのに、初対面が北京でとは妙な成り行きだった。実家は秋田の農家なのに、隣近所でも栽培していなかった。

高さ60cmほどに育ち、6月〜7月頃に薄い青紫の花を咲かせる。10月〜11月頃に根にできる塊茎を収穫し食用とする。
Chinese artichoke‖Japanese artichoke‖Stachys sieboldii Miq.

シソ科の多年草。地下にできる塊茎を食用にする。中国の原産で水湿地を好み,日本には元禄年間(1688‐1704)に入ったらしく《農業全書》に最初の記載がある。

和名は朝鮮を経て入ってきたため,朝鮮語のジロイ(ミミズ)の転訛といわれている。

19世紀になってヨーロッパに,20世紀になってアメリカに入ったといわれる。夏から秋に地下茎が伸び,その先端に径約1.5cmで長さ約3cmの白色で駐質の細長い塊茎をつける。

塊茎には数個の輪状のくびれがある。シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ,黒豆に混ぜて正月料理としたり祝儀用に使う。中国では風邪や咳止めにも利用される。平岡 達也(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

以下は「ウィキペディア」による。漢字表記は多数ある。塊茎が蚕の姿に似ていることから「草石蚕」と書かれたり、音から「丁呂木」「丁梠木」と書かれたりする。祝い事の際に食べる場合、縁起をかついで「長老木」「長老喜」「長老貴」「千代呂木」などと書かれることもある。

東北地方のほか京都など西の各地でも栽培されている。西日本での収穫期は東北よりもやや遅く、12月頃になる。その形からネジ芋、法螺芋と呼ばれることもある。

塊茎は長さ1〜3cm程度の巻貝のような形をしており、泥を落とすと白い。この塊茎を塩漬けにしたり茹でたりして食べる。ゆり根に似た食感と生姜のようにピリッと辛い味がする。

塩漬けの場合、4〜5日ほど漬けた後に梅酢やシソ酢に漬けて赤い色をつけることが多い。この赤く漬けたチョロギは、正月のおせち料理によく用いられる。おせちではそのまま単品として用いられるほか、黒豆を煮たものに添えて供されることも多い。

その他の調理法としては、天ぷら、吸い物の具などが挙げられる。チョロギは中国からヨーロッパにも伝わり、フランスでも食用とされる。フランスではクリーム煮やサラダとして食べることがある。

フランスでjaponaise(ジャポネーゼ、日本風)と名前に付く料理には、なぜか必ず付け合せにチョロギを盛り付ける。

稀に、チョロギは魚との食いあわせが悪いと言われることがある。「本草綱目」(著者:李時珍)には「徐風破血、下気精神」とあり、外からの病の侵入から身体を守り、血の滞りを治し、気を静め精神を安定させる効果があるとされている。2008・02・19   (再掲)

2008年07月23日

◆冷奴も味噌も外国頼み


渡部亮次郎

対米戦争の始まった翌年から国民学校(尋常小学校)に入ったが、間もなく道端に大豆を植えさせられた。同時に農家では農地に仮にも隙間があれば大豆を植えたから、毎日が大豆との付き合いだった。

戦争が始まって間もなくは満洲帝国から、今で言えば小型乗用車のタイヤ大の「豆滓(まめかす)」が農家には配給され,戦局激化に伴う食糧難の折には,ご飯に混ぜて食べた。大豆から油脂を搾り取ったあとの滓(かす)。下痢の元になった。

昔から日本は大豆を海外に頼っていたが、戦争中では輸入が不可能。小学生まで動員して少ない国内生産に少しでも上積みしようとしたのだった。

そうした時代になると豆腐屋の親父も戦場に狩り出された。仕方無しにお袋は水に一夜浸した大豆を擂鉢で摩り下ろし(呉=ご)て味噌汁に放った。「呉汁=ごじる」。結構美味かった。また食べたいが面倒だし、東京のマンションでは台所に乾燥大豆は無い。

中国、日本、朝鮮半島で古くから穀物として栽培されており、アメリカへは1800年代の初めに伝わったが、長いこと飼料として栽培され、主流作物ではなかった。

1920年代初め大豆加工業が発展したことによって、大豆栽培に弾みがつき、今日ではトウモロコシ、コムギについてアメリカの主要穀物となっている。

93年にアメリカは世界の生産量の約45%を占め、ブラジル、中国、アルゼンチン、インド、カナダなどが続いている。アメリカ国内では主に中西部とミシシッピ下流域で生産され、ダイズ生産量の40%以上が輸出されている。

日本はダイズ消費量の95%ぐらいを外国に頼っていて、大半はアメリカから輸入している。日本の国内では、北海道、秋田県、栃木県、茨城県、富山県などで生産される。納豆用、豆腐用、エダマメ用が主流である。エダマメは今度エンサイクロペディアに入った。


2004年における世界の10a(1反歩=300坪)当たり収量の平均は 223kgであり、日本の平均収量に比べ3割ほど高い。主産国の単収は、アメリカ:286kg/10a、ブラジル:229kg/10a、パラグアイ:192kg/10a、中国:180kg/10a。

日本の大豆が諸外国に比べて低収であることの主な要因は、油糧用大豆中心のアメリカ・南米に対し、粒大やタンパク質含量等を重視する食品用大豆が中心であるためである。

ちなみに国産大豆と外国産大豆の成分を比較すると、国産大豆はタンパク質含量が多く、外国産大豆は脂質含量が多い。タンパク質含量は国産が35%、米国産が33%。脂質含量は国産が19%、米国産が22%。

わが国では高音多湿な気候の所為で「発酵」による納豆や味噌として食べほか豆腐や枝豆など大豆を直接食べる方が重点となったから品種改良は蛋白質を多くすることに力点が置かれた。

これに対しアメリカでは油脂をしぼるだけが目的だったからこうなった。ダイズの良質な脂肪分は食用油に精製され、サラダオイル、ドレッシング、マーガリン、マヨネーズなどになる。また、ダイズ油は繊維、化学製品などにも使われる。

ただし日本占領軍として滞在した兵士たちが豆腐にダイエット価値を認めた結果、最近は「豆腐ステーキ」が普及している。いくら「長生きの素」とはやしても納豆からは逃げる。臭いらしい。

日本の大豆の輸入相手先は、平成16(2004)年の実績では、
(1)アメリカ(318万トン)、
(2)ブラジル(78万トン)、
(3)カナダ(26万トン)、
(4)中国(19万トン)。

近年、カナダやブラジルをはじめとする南米諸国からの輸入が増加。なお、世界における2004年生産量ベスト6は
(1)アメリカ(8,550万!))、
(2)ブラジル(4,920万!))、
(3)アルゼンチン(3,150万!))、
(4)中国(1,760万!))、
(5)インド(550万!))、
(6)パラグアイ(360万!))
 
豆腐用としては主にアメリカのnon−GMO大豆が使われている。、日本の流通業者が輸入先を中国からアメリカ・カナダに変更したことにより、両国では、日本への食用大豆としての輸出を狙いにした品種改良などが積極的に進められている。

近年、アメリカでGMO大豆の生産が拡大し、消費者から敬遠されたことから、non−GMO大豆の分別流通が短期間に進展した。

GMO大豆とは、組換えDNA技術(酵素等を用いた切断及び再結合の操作によって、DNAをつなぎ合わせた組換えDNAを作成し、それを生細胞に移入し、増殖させる技術)を用いて生産された大豆をいう。

従ってnon−GMO大豆とは、すなわち遺伝子組換えでない大豆をいう。

アメリカでの食品用大豆の主な産地は、アメリカ大豆協会からの聞き取りによると、納豆用は、アーカンソー州、ミネソタ州、アイオワ州、ヴァージニア州。

豆腐用は、主産地は、インディアナ州、オハイオ州、ミシガン州だが、バラエティ大豆も各州(アイオワ、イリノイ、ウィスコンシン、オハイオ、カンザス、ミズーリ、ミネソタ等)が力を入れて開発している。

アメリカIOM大豆とは、5大湖周辺のインディアナ州 (I)、オハイオ州(0)、ミシガン州(M)で生産された黄大豆2等級のもの。本来は油糧用ですが豆腐用にも利用されている。

近年、GMO大豆の生産が増加したことから、食品用大豆ではnon−GMO大豆の分別流通が進んできている。

また、バラエティ大豆とは、アメリカ等から品種を特定して輸入される大豆の総称であり、主な品種に、ビントン81,ビーソン等がある。国産と同様に煮豆、豆腐、納豆等食品用として利用されており、価格もIOM大豆と比べると高価格だ。

バラエティ大豆は、主にアメリカの大学や企業が日本市場向けに開発したもので、煮豆用、豆腐用、納豆用等の用途ごとに品種が異なる。2008・07・20

(財)日本豆類基金協会調査資料及びマイクロソフト社「エンカルタ」参照。

2008年07月19日

◆日本独立もはや不可能

                     渡部亮次郎

北朝鮮のテロ支援国家指定解除をめぐるアメリカの独走を恨んで日本の再軍備や独立論が盛んになったが、日本は今や金玉を抜かれた宦官。こんな政治家で、真の独立なぞ出来るわけがない。

日米安全保障条約を読んだ人が何人いるか。国会議員でも読んだことが無いのに賛成したり反対したりしている。あれを読めば日本は独立国なんかではなく、米国の51番目の「州」であることが明確になる。

<第6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。>

当時の岸信介総理(1956−1960)が、その政治生命を賭した改訂交渉でも、精々ここまでであった。それでも学生ながら反対闘争をした連中が自民党にいる。加藤紘一だ。

このような状況にある限り、米国に押し付けられた憲法を改正することなどで出来るわけがない。安保条約の破棄と核保有の再軍備を米国に認めさせる政治家がどこにいる。主張する政党がどこにある。

<どんな条約を結び,どんな義務を負っても,独立権はそこなわれないとはいえない。弱い主権国家が強い主権国家と保護条約を結んで被保護国となる場合,その独立権は制限され,その国家は,半主権国,不独立国などと呼ばれることになる。>松田 幹夫(平凡社「世界大百科事典」)

弱い主権国家=日本が強い主権国家=アメリカと結んでいる保護条約こそ日米安全保障条約以外の何物でない以上、日本は半主権国、非独立国なのである。

強い主権国家=アメリカに憲法を押し付けられ、再軍備を事実上禁止されている国、日本。北朝鮮に国民を拉致されても、中国、韓国に領土を侵略されても手も足も出ない国を独立国とはいえない。

2008年7月8日の「クライン孝子日記」に「一読者」と称する方が次のような意見を述べておられた。

<米朝緩和は米国が日本に自分で核自衛しなさいといっているのです。未来は過去の延長ではありません。過去を見て将来を考えるのは、バックミラーを見ながら運転するのと同じと言う警句があります。日本人は過去に縛られた頭を切り替える必要があると思います。>

一見、論理的なので説得力があるように見えるが、日本の真の独立と核の所有をアメリカを認める理由がどこにあるだろうか。空論に過ぎない。

翻って国家の現状を見る秋(とき)、統率者たるべき首相(福田康夫)は国家尊厳の志向者足らんとしているや。国家固有の領土についてさえ本来の主張を貫く事をせず、なおかつ隣国の政治情勢を混乱させてテンとして恥じない。

「相手国の厭がることをしないのが福田政治」などと暢気なことをほざいているが、結局それは世界全体に阿(おもね)ることに過ぎない。同盟国に対しては仕方無いにしても中国、韓国、北朝鮮に阿ることが外交の真髄とは聞いて呆れる。

彼は日本を尊厳ある独立国を目指している統率者では断じて無い。むしろ国を敵に売るものの何者でもない。売国者である。売国者を総理に担ぐ国を世界は独立国とは認めない。

戦前、戦後を生きてきて、わが国政党政治の実態をつぶさに観察してきたが、流石に国家を社会主義国会に売ろうとした日本社会党は消滅した。

その対極にあるかに見えた政党こそは自由民主党であった。しかし、
それもいつの間にか一部権力者の私物と化してしまった。だからこそ既に政界引退を密かに決意していた老人を急遽、首相にしてしまったのである。

この演出者は引退して時の経つ京都の野中広務氏と元首相森喜朗氏である。己の恣意的権力発條力維持だけを確保するために両者は妥協したのである。福田氏はそれに含み笑いをしながら乗っただけである。

来るべき総選挙で政権が民主党に移る事は必至である。だが小澤一郎代表が、日本を独立志向の国家に相応しい国家として運営して行く保証は一つも無い。郵政省復活を言い出しているようでは何も期待できない。さりとて、どこへも逃げられないよ、ご同輩。
2008・07・19

2008年07月15日

◆飲めない水道水

    渡部亮次郎(全国版電子雑誌{頂門の一針」 主宰)


日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民
共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相につ
いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水に
は飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人
が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量
に含まれている。逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard
water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでい
るため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』
というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けるこ
とができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水
素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。
煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでい
るもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、
現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等
にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合
(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取
すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような
理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれている
ミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているもの
もいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウ
ムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちに
くい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の
保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカ
ルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結び
つくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の
洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏
れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加
熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下
させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保
は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のため
の施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定
期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海
外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸
ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。
ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気
です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を
飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下が
る。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖
分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若
い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使っ
たのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく
汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。2008・07・10

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年07月12日

◆国産泥鰌やーい

                     渡部亮次郎

島根県に伝わる「泥鰌掬い」は水田を動き回る泥鰌をザルで掬い捕る百姓の動作がとてもユーモラスな様に見えたことから生じた民俗舞踊。泥鰌がそれだけ農民に重用されていた事の裏づけでもあろう。

日本でドジョウは以前は各地の水田などから多量に生産,漁獲されたが,第2次大戦後に水銀系農薬の使用が盛んになり,そのため1957(昭和32)年から63(昭和38)年ころまで天然産のドジョウの産額が死滅に近いぐらいに著しく減少した。

そこで各地で農家の副業を兼ねてドジョウの養殖が試みられた。種苗生産の一環としてカエルの脳下垂体ホルモン注射による卵の催熟法が開発されて人工採卵の技術なども進歩した。

一方,稲田などに低毒性の農薬を使用するようになって,天然ドジョウの生産はやや回復した。しかし,現在では生産が消費に追いつかず,韓国から活魚で輸入している。

だが、韓国ドジョウはなぜか国産ドジョウよりも骨が硬く、市場では安く取り引きされている。だから国産泥鰌やーいなのである。しかし、ほぼ死滅したのだから最早無いもの強請(ねだ)りである。

ドジョウは日本では古くから食べられていたはずだが,室町時代になるまで文献に名を見ることができない。上流階級が食べてなかった証拠だろう。

浅井了意の《東海道名所記》を見ると,牛の皮を切って馬糞とかきまぜ,水に浸しておくとドジョウになるという俗説があったようで,こんなことから食用が卑(いや)しまれていたのかもしれない。

ところが江戸時代になると,《雍州府志》(1682)が〈甚味甘美〉,《本朝食鑑》(1697)が〈味最鮮美〉というように,大変美味なものと認められるようになっていた。

食べ方としては,《料理物語》(1643)が〈鰌 汁,すし〉と記しているように,みそ汁やなれ寿司にしていたようである。

ドジョウのなれ寿司は,狂言《末広がり》などを見ても,当時はごく一般的な食べものだったらしいが,間もなく他のなれ寿司ともども姿を消した。

現在,ドジョウ料理で最も好まれているのは「柳川なべ」で,丸のままのドジョウ汁やドジョウ鍋を嗜む人は少なくなっている。

その柳川なべは骨抜きドジョウを使うが,裂いて頭と内臓と骨を除くという調理法に気がついたのは江戸時代も後期に入ってからのことであった。

なお,江戸時代にはドジョウに強精効果があると信じられていたようで,《好色一代男》などの西鶴の作品その他にその例を見ることができる。

ドジョウは高級魚と縁の無い農民にとって動物性食品として重要なものであった。ドジョウを捕るには,夜間灯火を点じて水面を照らし水中に静止しているものをすくい取り,または鋭い針を植えた棒などで突いて捕った。

また,竹を細く割って編んだ筌(うけ)を小流にすえてとる漁法も行われた。私の兄はこの方法で捕る名人だったが私は1匹も捕れなかった。

冬は冬眠状態となって餌(えさ)をほとんど食べないのでやせており、旬(しゅん)は7月ごろとなる。今や地方より東京の下町にある「どぜう屋」の方が便利な事態になった。

また、ドジョウはスズキやヒラメなどの釣り餌(え)としても利用されていたが、最近はすぐれたルアーが出まわるようになったために餌としての利用は減ってしまった。(マイクロソフト「エンカルタ」)

ドジョウは中国、台湾、朝鮮半島にも分布する。

多くのドジョウ料理店などでは「どぜう」と書かれていることもあるが、歴史的仮名遣では「どぢやう」が正しい。(大槻文彦によれば高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから、「どぢょう」としたという)。

「どぜう」の表記は、江戸時代の商人が、「どぢやう」が四文字で縁起が悪いとして、同音に読める「どぜう」と看板に書くようになったのが始まりといわれている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

なお,〈柳の下にいつも鰌はおらぬ〉ということわざは,偶然得た幸運を再び同じ方法で得ることができるとは限らないという意味だが,ドジョウの生息する場所が川柳の育っている湿田地域に多かったことから出たものであろう。(平凡社「世界大百科事典」)
 2008・07・07





2008年07月11日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

          渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正でもない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みんなして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃からは女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょう)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生して大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止めたものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測していたが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられている。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもちなど稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しかしせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコクビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス 2008・07・07




2008年07月10日

◆「鮮人に砂糖食わすな」

渡部亮次郎

小便が甘くなる糖尿病だが、砂糖を食いすぎたからなる病気ではない。口から入れた栄養素を血肉に変化させるためのホルモン「インスリン」が膵臓の「ランゲルハンス島」から十分に出なくなる病気である。

インスリンに見向きされなかった栄養(ブドウ糖)が小便に混じって廃棄されるから糖尿病と名づけられた。

往々にして糖尿病は甘い物の摂り過ぎと誤解している人がいる。だがそのために糖尿病になる人は稀だ。私は少年の頃、砂糖を食べすぎたら脚気になった。ビタミンB1欠乏症である。日露戦争当時何万の将兵がこれで死んだ。

つまり砂糖や糖分を消化するにはビタミンB1が不可欠。砂糖を食ってビタミンB1を補充しないと脚気になる理屈である。脚気は昔の病気だろ、この世から消えたと思っている向きに警告。清涼飲料水は砂糖過剰。それで最近、脚気になっている人(若者)が多いそうです。

先にどこかに書いたが、併合時代、統治する日本人は朝鮮人に砂糖を全く与えなかった。高価だったからである。砂糖醤油にまぶした牛肉(やまと焼き)をどれほど食べたかったことか。1973年に訪韓した際、朴正権の閣僚が述懐していた。

だから1945年8月15日、日本から解放されるや、韓国の国民1人当りの砂糖消費量は一時的に世界一になったそうだ。「焼肉」は日本人が韓国で始めたものなのだ。

ところで砂糖 さとう Sugarは蔗糖を主成分とする代表的な甘味料。原料は蔗糖を含む植物で、砂糖黍(さとうきび)からは甘蔗糖、テンサイ(砂糖大根)からは甜菜(てんさい)糖またはビート糖が造られる。

また、砂糖楓サトウカエデ(楓)からはカエデ糖(メープルシロップ)、サトウヤシ(椰子)からはヤシ糖、サトウモロコシからはソルガムシュガー(バイオマス)がつくられている。

紀元前327年アレクサンドロス大王の西インド遠征の折、すでにインドではサトウキビの茎から蜜を造っていた。サトウキビは、原産地と考えられるニューギニアから7世紀ごろ地中海東部に伝わったが、砂糖は薬として扱われ珍重されていた。

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2008年07月09日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎 (全国版電子雑誌「頂門の一針・主宰」)

「頂門の一針」のホームページには下記から手続きしてください。(無料)
     http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

  

河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、
広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らだ「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野一郎河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日は、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05