渡部 亮次郎
中国史における四人組(よにんぐみ)とは、中華人民共和国の文化大革命(犠牲者2000万人といわれる)を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名のことを指す。ほかの「四人組」と区別する為に「文革四人組」とも呼ばれる。2005年までに全員が死亡した。
特に毛沢東の4番目の夫人でもあった江青(こうせい)は獄中で首吊り自殺した。
プロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧し殺害したが、中国共産党中央委員会主席毛沢東の死後に失脚し、特別法廷で死刑や終身刑などの判決を受けた。
中華人民共和国では四人組のことを話すときにわざと指を五本立てて話すことがある。これは、四人組の横暴を許した毛沢東を指し、四人組ではなく実際は毛沢東を首魁とした五人組であった事を暗示しているという。
1960年代半ばから約10年間にわたる文化大革命(文革)において、江青(中国共産党中央政治局委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(国務院副総理、党中央政治局常務委員)、姚文元(党中央政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張。
1971年9月の林彪墜死以降、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。日本から田中角栄首相が初めて中国を訪問、周恩来総理と日中共同声明を発表したのは72年9月だった。
その時、私はNHK記者として田中一行に同行。周恩来との記念写真に納まった。その後、田中首相は上海を訪問して1泊。上海市長としての帳春橋が歓迎に当たり、私も握手を「賜った」。この事は別のところで書いたが、実に軟らかい手だった。
なお、このときの別れ際、送ってきた周恩来が田中首相に「天皇陛下に宜しく」と発言したと言うが、私ははなれた場所にいたので聞き漏らした。
それから2年後の1973年8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり、この時から局内に四人組が成立する。
四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に周恩来を批判する批林批孔運動や、復活していた?(トウ)小平の打倒へと続いた。
毛沢東は1974年7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文が!)小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。
1976年1月の周恩来の死去を契機に、第一次天安門事件などで民衆の反四人組感情が高揚したが、四人組は権力闘争を続け、?小平を再度の失脚へ追い込んだ。
続く1976年9月9日の毛沢東の死去で、四人組はその象徴を失ったにも拘わらず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようと、毛の遺体を永久保存させるなどしたが、政権は華国鋒に引き継がれた。華は毛沢東が革命中、ある女性に生ませた「息子」だった。
その急速な出世ぶりは「ヘリコプター」の離陸に譬えられた。
国防部長(大臣)で反文革派の葉剣英(中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒らと文革堅持を主張する四人組の対立は毛の死直後から急激に表面化した。
上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕された。
四人組は1977年7月の第10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の第11回党大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定され、また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。
1980年11月20日から1981年1月25日までの間、四人組は最高人民法院特別法廷でクーデター計画や幹部および大衆の迫害など、4件の罪状によって裁かれた。
江青:容疑を全面否認し、1981年に死刑判決(後に無期懲役に減刑)。
1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。
自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を説得し、北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。
また葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。
死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。
王洪文:容疑を全面的に認め、1981年に無期懲役判決。1992年、病死。
張春橋:黙秘を貫き、1981年に死刑判決(後に懲役18年に減刑)。2005年、胃癌のため死去。
姚文元:容疑の一部を認め、1981年に懲役20年判決。2005年、糖尿病のため死去。
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2011・5・6