2008年02月22日

◆新タワーに年500万人

                  渡部亮次郎

東京都墨田区で今夏着工し、関東一円に地上デジタル放送の電波を送り出す高さ610メートルの新タワーの胸算用が試算され首都圏から「新東京タワー」にやってくる人は年間500万と出た人。

これは産経新聞が2008年2月20日の『東京』蘭で報じたもので、
それによれば建設による経済効果は3000億円を超える。首都圏からも大勢が足を運ぶとみられる新しい観光スポット誕生を前に、地元では街並み整備など再開発に取り組み始めている。

新タワーは東武鉄道が100%出資する「新東京タワー株式会社」(墨田区)が建設する巨大な電波塔。平成23年度に完成予定で、今ある東京タワー(高さ333メートル)の2倍近い高さになる。

すんなり建っては「立ち枯れ」になる現在の東京タワー側が高さを事実上足すなどの策を打ち出して地元を心配させる場面もあったがNHKも民放もこれには乗らなかったので新タワー建設は本決まりとなった。

建設にかかる総事業費は500億円。2007年 9月28日、「新東京タワー」の本体施工者を数社による競争入札の上、大林組に決め、請負契約を締結した。

大林組の請負金額は非公表。着工は2008年夏で、工期は3年6カ月を見込む。

2007年10月6日、建設予定地でサーチライト9台を使い、新タワーの脚に見立てた光の束を上空に向けて放出させた。

最初に東京タワー(333メートル)の高さで光を交差させ、その後光を伸ばして610メートルの上空で「新東京タワー」の高さを表現した。これは前年秋に地元住民らが企画、住民や団体から寄付を募って実現したもの。

10月26日、「新東京タワー」の名称案の公募開始、11月25日公募締切り。17,429 件の応募あり。2008年4月に名称検討委員会により数案に絞り込まれた上、一般投票を経て6月に決定の予定。

着工を前に地元、墨田区は大手広告代理店に委託し、新タワーが誕生したときの来場者数や、経済波及効果などを割り出した。

その結果、新タワーへの来場者は年間552万人にのぼると予測。首都圏からがほとんどで、496万人と見込んだ。

飲食やショッピングなどを周辺エリアで楽しむ来場者も入れると、年間で延べ2096万人が訪れると予想。首都圏からは1人当たり年3・3回、延べ1798万人が来場すると算出した。

新タワーの建設に伴う経済効果は3346億円と試算。完成後、来場者の消費活動などに伴う経済効果は毎年1700億円にのぼり、このうち東京都では1300億円、墨田区だけでも880億円の効果があるとの結果が出た。

また、新タワーの建設で、全国では約1万7000人、このうち東京都では約1万2000人の雇用が生まれるとの数字がはじき出されたが、あくまで皮算用である。

下町文化の拠点へ整備

<新タワー建設予定地の墨田区では約3・7ヘクタールにわたって「タワーのある街」の再開発が進められる。

タワーの東側は地上32階、西側は地上7階建ての一体型のビルができ、タワーとつながる。ビルにはレストランなどの商業施設のほか、オフィスや学校といった教育施設を誘致。

水族館や下町らしく「和」をイメージした宿泊施設なども入る。入居するテナントはまだ決まっていないが、「下町文化の雰囲気のある街をつくりたい」(新東京タワー株式会社)。

墨田区では「新タワーを起爆剤に街の活性化を図りたい」(山崎昇区長)考えで、20年度から27年度にかけ、周辺を「下町文化創世拠点」として整備するのに、総額105億7800万円をかける。

20年度の区予算には計6億円を計上。墨田区生まれの浮世絵師、葛飾北斎の偉業を伝える観光拠点として「北斎館」の建設準備に取りかかる。

タワー周辺の道路の電線を地中化し、歩道をバリアフリー化するなどインフラ整備も本格化させる。

山崎区長は「新タワーで街は一変する。住民にも知恵を絞ってもらい誰もが1度は訪れてみたい街を実現したい」と期待している。>
(産経新聞 2月20日8時0分配信)

自宅の近所だから月に何回も側を通るが、早い話、近隣はあまり綺麗とはいえない街。果たしてこんなところにホテルなんかも出来て
観光客が来るだろう、とは想像できない。

だから関係者は一所懸命に胸算用を大手広告代理店に依頼して決して皮算用なんかでないと区民に訴えているのであろう。何しろ再開発が進まず、人口が5年かかって1万しか増えない区だ。タワーが再開発の起爆剤になるよう願っている人は多いだろう。2008.02.20

2008年02月21日

◆中国を社会民主党に?(21日夕刊)

                 渡部亮次郎

産経新聞中国総局長伊藤正氏による長期連載「トウ小平秘録」は一頭地を抜く傑作である。

2008年2月21日の第152回では「社会民主党」ではどうかと言う副題がついていて、トウ氏の敷いた改革開放路線を経済だけでは矛盾が進行するから、これを政治にも広げて議会主義にしたらどうかという論争まで起きている事を指摘している。

これについては、
<新左派系のサイトは、論文を罵倒(ばとう)する文章や書き込みであふれ、毛沢東を修正主義者と侮辱した謝氏を党規約と憲法に違反しているとして逮捕、「炎黄春秋」は廃刊すべしとの意見も出た>(伊藤氏)。

しかし、事態は決してそうはならず、論争は続いている。中でも驚かされたのは「大躍進運動(58年)での餓死者数が3755万人」とあからさまに表現して毛沢東批判が展開されていることである。

この文章を書いたのは、国防大学の元研究員、辛子陵(しんしりょう)氏で「千秋功罪毛沢東」上下巻(書作坊出版)。昨年7月に出版された。

毛沢東により強行された大躍進。辛子陵氏は飢え死にする人が3755万人も出る中、子供や死体を食した例などを暴露し、毛沢東時代の抑圧と貧困を詳述。空想主義に陥った毛沢東の極左主義を徹底的に批判した。

この論文に刺激されて、昨年2月、北京の月刊誌「炎黄春秋」に発表された論文が大きな話題を呼んだ。

筆者は名門、中国人民大学元副学長の謝韜(しゃとう)氏。「民主社会主義モデルと中国の前途」と題し、民主社会主義へ移行、民主政治を実現してこそ「中国を救える」と主張した。

謝氏は、中国共産党は「中国社会民主党」と改称し、欧州共産主義と同じく民主社会主義に転換、スウェーデン型の政治体制(議院内閣制)に移行すべきだと主張している。毛沢東思想の全面否定を論じても殺されないのだ。

伊藤氏によればトウ小平による改革・開放をめぐる論争は、4年前から始まった。2004年に香港中文大学の郎咸平(ろうかんへい)教授が大手国有企業の国有資産の外資への売却などを批判、新左派が郎氏を支援し、市場経済派の主流派学者を攻撃してからだった。

謝韜(しゃとう)、辛子陵(しんしりょう)両氏は議会制民主主義を提唱、事実上一党独裁を否定していたから衝撃は大きかった。この年秋に第17回党大会を控え、政権側がどう反応するかが注目された。

謝氏らへの反論は2006年4月24日付「光明日報」が開始。党機関紙「人民日報」は5月10日、読者の質問に答える形で、「中国の特色のある社会主義」こそ唯一の道として民主社会主義論を批判したが、論争に区切りをつけたのは、胡錦濤総書記だった。

一党独裁を堅持し、経済建設を重点にしながら党内民主の促進などの改革を進めるという趣旨で、党大会の活動報告の基調にもなった。

謝韜氏らはこの後、胡氏に「(社会主義の)旗を降ろし、民主社会主義の道を行ってはどうか」と伝えたのに対し、胡氏は06年6月25日、中央党学校での演説で、初めて「私は古い旗を掲げ、古い道を行く」と答えたという(黄達公(こうたつこう)編「大論戦」香港・天地図書)。

国内矛盾に飽き足らず毛沢東路線に回帰使用とする左派。「国民経済が発展し人民の生活水準が向上して人民が満足するなら、どんな主義でも構わない」トウ小平氏が87年にこう語ったことに縋る改革派、なんとしてでも『中間点』を探そうとする現実派。3派入り乱れての論争。

広東省の汪洋(おうよう)書記は昨年末以来、思想解放を強調、深センを「政治特区」にして政治改革の実験をする構想を進めている。実験の正体は不明だが、こうした構想が出ること自体、政治改革が不可欠との認識が政権内部に強まっている表れだ、と伊藤氏は見る。

<問題はあるにせよ、中国は資本主義化によって経済発展を遂げ、国民の生活水準も確実に向上した。しかし国民は、党権力と富裕階級が手を結び利益を共有する「権貴政治」への疑問、不満を募らせ、社会は不安定化している。

国民の意思が反映する政治体制の確立を胡錦濤政権は迫られている。謝韜氏らは民主社会主義の要は「民主」にありとし、「党主」の放棄を求めるが、それにはトウ小平氏の「四つの基本原則」の呪縛(じゅばく)を解かねばならない。トウ氏の「遺産」は、なお大きく重い。>(伊藤正)2008・02・21

2008年02月20日

◆昔は安全世界一の日本

                  渡部亮次郎

「世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安
全に旅行できる国はない」と著書に書いたのはイギリスの女性旅行家イ
ザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月31―1904年10月7日)
である。

日本では明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、『日本奥地
紀行』『バード 日本紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)を書いた。

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ
抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳の日本人
男性1人だけ)。

山形県の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方の風景を「東
洋のアルカディア」(牧歌的な楽園)と評した。

1878年に金山を訪れたイザベラ・バードは、ここで長旅から足の容態が
悪化し、この先雄勝峠(秋田県)を超えるということもあって、しばら
く逗留して足の治療と養生を行った。

新庄からやってきた医師による、西洋医学ではない、東洋医学による治
療であった。

彼女は東洋医学に対して懐疑的であったが、それでも足が回復したこと
で認識を改め、さらに医師の人となりや、首長を始めとする人々の知識
欲の旺盛さ、これまでの宿では虻蚊に悩まされていたが、ここで虻蚊を
避ける方法を発見したことなどを好意的に記している。

金山町(かねやままち)は、山形県北東部にある人口約7千人の町。最上郡
に属する。

町域の4分の3を占める森林からの金山杉と、白壁を用いた「美しく古び
る」を目指した金山型住宅、また石造りの大堰と呼ぶ農業用水路には錦
鯉を放流するなど、景観施策に意欲的な町として複数の町並みコンクー
ルにおいて受賞実績がある。

<久保田(今の秋田市)や大館、白沢からの手紙もあり、青森県の碇ヶ
関、黒石からも手紙を書いている。

久保田では「他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである。」と書
いている。

津軽・黒石では七夕祭りの幻想的な透かし絵の提灯行列を見て、その美
しさに1時間も立ち尽くした、と書いている。今の「ねぶた祭り」の原
型だと思われる。>(青森県大鰐町 須藤尚人氏)

イザベラ・バードはまた10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。
これらの体験を 1880年"Unbeaten Tracks in Japan"2巻にまとめた。第1
巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。

その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版され
る。『日本奥地紀行』は、この普及版の翻訳である。明治期の外来人の
視点を通した日本を知る貴重な文献である。

特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本
格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文
献である。

1885年版で省略された部分は『バード 日本紀行』として翻訳されている。

日本奥地紀行で当時の日本をこう書いている。

「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく
安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法
な目にも遭わず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」

また1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、『朝
鮮紀行』を書いている。最初の朝鮮訪問は1894年、バード62歳の時のこ
と。

以降3年のうちに4度にわたり朝鮮各地を旅する。時おりしも東学党の
反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不
穏な政情、伝統的封建的伝統、文化。バードがじかに見聞きした、朝鮮
の情勢を忠実に伝える。

1831年イギリス・ヨークシャーの牧師の長女として生まれる。幼少時に
病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅
に憧れるようになる。

アメリカやカナダを旅し、1856年『The Englishwoman in America』を書
いた。その後、当時の女性としては珍しい旅行家として、世界中を旅し
た。1893年英国地理学会特別会員となる。享年72.

『バード 日本紀行』楠家重敏他訳、雄松堂出版、2002年8月20日、
ISBN4-8419-0295-3  583p 15cm(A6)

「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」時岡敬子訳、講談社学術文庫、
ISBN:9784061593404 (4061593404) 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・02・18



2008年02月19日

◆難しい中華料理原稿

                  渡部亮次郎

中国料理を口にしたのは20歳を過ぎてから、中国の地を踏んだのは1972
年、36歳の時だった。人民大会堂で周恩来首相から接待を受け、ニクソン
大統領は予め断ったという海鼠(なまこ)の醤油煮を生まれて初めて食
べた。

何度も書くようだが、元の八郎潟沿岸で育った私は、魚を生で食べる事
を禁じられていた。肝臓ジストマという恐しい「虫」が居るから、淡水
魚はすべて火を通さなければいけない、と教えられて育った。

しかも八郎潟の鮒や鯰(なまず)は網や釣り針で、只で捕れるから、日
本海の魚を買う必要は無い。つい、刺身や寿司を知らないで育ったわけ
である。

田中角栄首相に同行して北京を訪れた時、沿岸部のごく一部を除いて中
国人も魚の生は食べない事を知った。揚子江(長江)などから捕れる淡
水魚には肝臓ジストマが棲み付いて危険な事を四千年の歴史で学んだの
である。

後年、外務大臣の秘書官になり、トウ小平副首相が日本政府による和食
の晩餐会でいわばメインデッシュたる鮪(まぐろ)の刺身を1切れだけ目
を瞑って食べるのを見た。四川省の山中で育った氏としては、死ぬ思い
だったろう。

しかし、日中間の人的交流が進んだ事もあって、最近では「海の魚は安
全、美味」が知れ渡り、中国人が鮪その他生魚をどしどし食べるように
なった。鮪は日中間で奪い合いになっているらしい。

ところで60歳までは刺身を食べなかったから専ら中国料理を食べたわけ
だが、このことを字にすると大変だ。日本のパソコンには入っていない
字が沢山出て来るからである。最近も北京ダックのことで読者からお叱
りを受けたばかりである。

北京からの報道によると、北京ダックを大量製造するために、ある老舗
が電気オーブンを採用しようとしたところ、大いなる反発を食らってい
るという話だ。

<電気焼き北京ダックに反対76%

北京ダックは老舗の味を守ってー。日刊紙・中国青年報などが市民を対象
に行ったアンケート調査によると、76・8%が北京ダックの伝統的な製法
を改めて電気オーブンで焼く事に反対と回答した。14日付の同紙が報じ
た。調査対象は3066人。

北京ダックの調理法をめぐっては、老舗「全聚徳」が昨年11月の株式上
場に際し、オーブン導入など生産を自動化する計画を発表、論議を呼ん
でいた。

全聚徳の北京ダックは、ナツメなど果物の木で火をおこし、特殊な窯の
中に吊るして焼き上げる製法で有名。調査では、62・8%が電気オーブンの
使用による北京ダックのファストフード化を懸念している。>北京=時
事 産経新聞 2008年1月15日付。

電気オーブンの採用は言わずと知れた北京オリンピックで押し寄せる厖
大な数の客に対応するには致し方ないというところだろうが、市民の反
応はなかなか厳しい。

ところで日本における中国料理店は明治中期、華僑が神戸に開いたもの
が第1号といわれ、その後、横浜でもいわゆる中華街として発展してきた。

横浜中華街は、横浜開港後の幕末から明治初期にかけて、外国人居留地
の一角に中国人が居住したのが始まり。明治4年に日清修好条約が結ばれ
ると、移住者が増加した。現在、中区山下町にあり、200軒以上の中華料
理店が軒を連ね、中国各地の味を提供している。

中国料理は日本の食べ物にも大きな影響を与えた。味噌、豆腐、羊羹、
饅頭、麺類、茶など多くの食品が長い年月の間に日本にもたらされた。
料理自体としては長崎の卓袱(しっぽく)料理やチャンポン、普茶料理な
どが知られる。

第2次世界大戦後満洲からの引揚者が持帰った餃子(ギョウザ)や焼売(シ
ュウマイ)その他の食べ物が人気を呼び、各地に専門の店も生まれて定着
している。出典:「エンカルタ」(マイクロソフト)2008・01・15



2008年02月16日

◆注射を恐れる人々

                  渡部亮次郎

月刊 糖尿病ライフ「さかえ」2008年2月号によると、糖尿病でありながら、まだインスリン療法(自己注射)をしていない患者の多くは注射開始に抵抗感や不安を持っていることが分かった。

これは医薬品製造会社「日本イーライリリー」(神戸市)が2007年11月中旬までに行ったインターネット調査でわかったものだが、逆に既に注射をしている人の3割は「もっと早く始めていればよかった」と答えている。

調査は30〜60歳代以上までの男女各50人、計400人の糖尿病患者が対象。このうちインスリン治療を受けている人は93人、受けていない人は307人。

未治療の患者に注射開始への懸念を尋ねたところ75・6%が「とても心配」「かなり心配」と答えた。主治医から勧められた場合の対応では「気にせずに始める」と答えた患者はわずか4・7%。

「他に選択肢が無いから始める」は37・2%。「メリット、デメリットをじっくり検討」「経口治療薬の増量などを主治医と相談」がいずれも24・1%と慎重派が多く、「断る」も9・9%いた。

ところが既に注射治療中の患者は、開始時期について67・7%が「適切」、29・0%が「もっと早く開始すればよかった」と答えた。これはやってみると複雑でも痛くも無い事が分かるからだろう。

インスリン治療に対する考え(複数回答)では、未治療患者では、
「注射は複雑で面倒」が51・8%でトップ。「始めると一生止められない」36・5%、「インスリン注射するようになったら末期だ」26・7%など否定的な回答が上位を占めた。

これに対し、治療患者は「将来の合併症予防に役立つ」「血糖コントロールがしやすくなる」がそれぞれ63.4%、「他の治療法より効果が高い」が52・7%だった。

気付くように、注射に関する設問に「痛い」が無い。糖尿病の注射に関する限り「痛い」はなくなっているのである。

カナダの整形外科医フレデリック・バンティング(Frederick Banting)と医学生チャールズ・ベスト(Charles Best)が研究室でインスリンの抽出に成功したのが1921年。

1922年の春が過ぎ、ベストは大量の需要にも応えられるように抽出技術を工夫したが、精製は未熟であった。

別途1921年の発表の直後、イーライリリー社から、彼らは支援の申し出を受けており、4月にこの申し出を受けた。11月にリリー社は技術の革新に成功し、非常に純粋なインスリンの生産に成功した。このインスリンは、アイレチンという名ですぐ市場に出された。

インスリンは口から服用しても胃酸で無効になるため、現在も皮下注射以外に体内に取り込む方法がない。ところが欧米では間なしに患者自身による注射が可能になったらしいが、日本では1980年まで禁止された。患者は60年間、厚生省に見放された。

それを許可したのが園田直さん(故人)である。厚生大臣としては2度目の就任(鈴木善幸内閣)。日本医師会の反対を押し切っての決断だった。

日本でも患者自身による自己注射が可能となったので医療器具メーカーは注射器の工夫、針を極細にして痛みを減ずることに社運を賭けて競争を展開。

いまや日本における注射針の細さは0・2ミリ。世界一の細さ。髪の毛ぐらいで殆ど痛みを感じないレベルとなった。インスリン治療を開始してない患者大多数はこの「極細競争」の物語を知らないから恐れるのだ。

園田さん自身、30代からの糖尿病患者だったが、武道の猛者の癖に注射の痛みを怖がってインスリンを拒否し続けた。大臣在任中は極細針は間に合わなく、1984年4月2日、人工透析の末、腎不全で死んだ。享年70

秘書官としてこの事実を確認し、奇しくも自身、患者となったが極細針の恩恵により「この分ではお袋の歳(98}まで生きられると豪語している私の「注射推奨の弁」を聞いて注射を受け入れて戴きたい。

私は園田さんが死んだ84年の夏に2型を発症した。遺伝と運動不足、暴飲がきっかけだった。その後経口薬投与で頑張ったが、眼底出血を体験。5年前からインスリン自己注射を朝夕の2回。

その結果、いま(72歳)ではかかりつけの医師から「わたなべさんは糖尿病である以外、どこも悪くない」と言われるまでになった。焼酎も楽しんでいる事、当然。すべて注射のお陰である。2008・02・13

2008年02月15日

◆中国が国家的に吐く唾

                  渡部亮次郎

<沖縄の海岸に流れ着く漂着ゴミの数がこの10年間で8・6倍に増え、中でも中国からのゴミをみると13倍にも急増していることが、13日までに明らかになった。

防衛大学校の山口晴幸教授の調査によるもので、どこから漂着したか判別できたゴミのうち、中国製は平成10年には138個だったが、19年には13・3倍の1839個に急増。台湾製2・8倍、韓国製3・0倍よりも増加ぶりが際立つ。>産経ニュース 2008.2.14 00:37

この記事を読んで、今から36年前、日中国交再開に伴ってやってきた中国からの外交団が東京のホテルで絨毯の上に盛んに唾を吐くので関係者が顔をしかめていたのを思い出した。日本に流れ着くゴミは中国が吐く国家的な唾である。


外交団と言えば礼儀正しく綺麗好きと思われ勝ち。彼らは国交再開の伴い都内に大使館を開くためにやってきて、ホテル・ニューオータニに投宿した。

ところが部屋ではベットのスプリングが効き過ぎて安眠できないと騒いで一斉にマットを外させた。なんとなく理解できたが、部屋を出ると絨毯の上に「カーツ、ペツ」と唾を吐く。外交官出身の社長は困り果てていた。

それから6年経って、日中平和友好条約の締結交渉団に外相秘書官として参加。人民大会堂での会談でのあらゆる中国側の足元においてある壷。なんだろうと聞いたら痰壷だという。外交の会談中に中国要人は痰を吐くのか。

中国人の説明によると中国上空には年中、黄砂が飛んでいて人間の口に飛び込んでくる。それを吐き出すためにカーツ、ペツとやらざるを得ないのだという。

黄砂・黄沙とは広辞苑によれば「中国大陸北西部で黄色の砂塵が天空を覆い、下降する現象。3〜5月頃に多い、とある。それを吐き出しているうちに唾を吐く、処構わず吐くことが中国人の癖になったのでは無いか。

何にしたって邪魔なもの、始末に困るものは何時でも何処でも処構わず吐き出すというのが中国人の特徴になっている。それが産業廃棄物であり排水であり公害であり、それがどこの国に流れて誰を汚そうが痛めつけようが知ったことではない、と言う事ではないか。

<中国の平成19年のGDP(国内総生産)は11・4%増と年率2ケタ成長を続ける。沿岸部を中心に消費も拡大しているが、ゴミの廃棄についての整備が追いつかず、そのまま海に捨てられているのが現実のようだ。

調査結果をまとめた山口教授は「中国では大半の人が漂流、漂着ゴミの実態を知らないはず。日本からこうした実態を情報発信していくとともに、政府レベルで海への不法投棄などの取り締まりを働きかける必要がある」と指摘している。>産経ニュース 2008.2.14



2008年02月13日

◆ケ(トウ)小平の沈黙

                  渡部亮次郎

<中国共産党中央規律検査委第一書記の陳雲氏ら保守派は1985年6月、項南福建省書記(肩書は当時)が、金もうけのために国民の健康を危険にさらす偽薬まで作る郷鎮企業を野放しにした−と攻撃した。真の標的はトウ小平氏であり、改革・開放だった。

陳雲氏は、「資本主義の道を歩む自由派」項南氏の解任を要求したが、胡耀邦(こようほう)総書記は「項南書記に直接の責任はない」とかばった。党中央の現地調査でも、偽薬による健康被害はないとしていた。

しかし、項南氏は間もなく解任されてしまう。項氏はこれに不服で、トウ小平氏に直訴状を送ったが、トウ氏からの返事はなかった。トウ氏は保守派の意図を察知し、項南氏を犠牲にせざるを得なかったとみられている。

(だから)「項南伝」によると、86年9月、項南氏は、「晋江偽薬事件」に関する中央規律検査委の「判決」が公表された直後、トウ小平氏の長男、トウ樸方(ぼくほう)氏の訪問を受ける。トウ小平氏の指示で、慰問に行ったのだ。

この数カ月後の87年1月、胡耀邦総書記も解任された。>「トウ小平秘録」(産経新聞2008・02・09)

これも同じ理由からである。保守派から自分の身を守るためには、自分の分身を平気で斬る、これが資本共産主義中国最高実力者の最終哲学であった。

胡耀邦が辞任を強要されたのは1月16日の政治局拡大会議である。罪状は集団指導原則に対する違反と政治原則問題での誤り、つまり「ブルジョア自由化」に寛容だったため、さらには1983年11月に訪日、中曽根康弘首相と会談で独断で日本の青年3千人を招待したことも挙げられた。

11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に選出された。失脚後の胡耀邦は会議等でもほとんど発言しなかったといわれる。11月、胡耀邦の後任総書記になったのは趙紫陽だった。

山崎豊子の代表作の一つである、「大地の子」執筆の際に胡耀邦が全面協力を行い、閉鎖的な中国政府各方面に取材に応じるよう指示を行ったエピソードもある。(出典 文春文庫「大地の子と私」)

1983年11月の中曽根康弘首相と首脳会談、友好関係を築く。この時の日中首脳会談で『日中友好21世紀委員会』の設立に合意。
このとき、背丈の低い胡を都内で見た。それが見納めだった。

これに先立って胡は1978年12月の11期三中全会以後、ケ小平のもとで文革の清算と改革開放政策が進められる中、1980年9月、党主席・首相だった華国鋒は経済政策や文革への姿勢などを批判されて首相を辞任。

その後継に趙紫陽が就任していたが、さらに81年6月に華が党主席も辞任すると、胡耀邦が党主席に就任した。この頃の胡耀邦は「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」とケ小平が語るほどの信任を受けていた。

1982年9月には党規約改正によって党主席制が廃止されて総書記制が導入されると、党トップの総書記に就任し、改革開放路線と自由化路線を打ち出した。

この頃、胡啓立(政治局常務委員)ら、胡耀邦を中心とした共青団グループが改革派として活躍。(現総書記の胡錦涛も胡耀邦に連なる共青団出身である)。1986年5月には「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱して言論の自由化を推進した。

しかし、9月の六中全会では、胡の政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は保守派、長老グループらの批判の矢面にさらされ辞任に追い込まれて行った。

その2年後、第2次天安門事件が起き、趙紫陽も哀れをとどめる事になる。トウがまたも分身を見捨てるからである。1989年4月15日に胡耀邦が心筋梗塞のため死去。

胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、六四天安門事件へと発展した。

ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言をしたことで、ケ小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚したのだ。

それにしても胡耀邦は国民から愛された開明的指導者だった。長老・保守グループの批判、さらにはケ小平の政治的引き締めの要求にも応じなかったため最後は解任されたが、中華人民共和国はその大きなツケを天安門事件として支払うことになった。


2008年02月11日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部亮次郎

建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。2008・2・10

2008年02月10日

◆江沢民は敬虔な仏教徒

                 渡部亮次郎

2008年1月30日から連載が再開された産経新聞中国総局長伊藤正氏による『ケ(とう)小平秘録』は2月8日付で、毛沢東時代「自力更生」のモデルとされた大寨(だいさい)のその後を報じ、関連して「江沢民(こうたくみん)前国家主席夫妻も敬虔な仏教徒だといわれている」と書いた。

<超有名人の郭鳳蓮(かくほうれん)氏は豊富な人脈を活用して内外から資金を集め、大寨ブランドの酒造工場、セメント工場など企業を次々に設立、炭鉱経営にも手を伸ばした。

化学肥料工場などを経営する郭氏の長男、賈小軍(かしょうぐん)氏は昨年、話題を呼んだ。3000万元{4億5000万円9を投じ、かつて「共産主義の桃源郷」と呼ばれた大寨に敷地約1万平方メートルの仏教寺院「普楽寺」を建立したためだ。

賈氏は敬虔(けいけん)な仏教徒で、解放後すべて破壊された寺の再建が夢だったという。これに対し「毛主席にわびろ」といった非難がネット上で浴びせられた。毛沢東は宗教を「精神の麻薬」として徹底的に弾圧した。

しかし、拝金主義を生んだ改革・開放が進み、豊かさが実現するにつれ、各種の宗教が全国で広まった。江沢民(こうたくみん)前国家主席夫妻も敬虔な仏教徒だといわれている。

大寨でも1991年以降、20人余の村民が仏門に帰依したという(中国誌「中国新聞週刊」)。

文革批判が起こった70年代末、「毛沢東」が地に落ち、信仰の危機が訪れた。今はどうか。改革・開放で豊かになったものの、共産党も、党が唱える社会主義も信仰の対象ではなく、人びとは精神のよりどころを失った。

大寨の土産店では観音菩薩(ぼさつ)の絵とともに毛沢東の肖像画が売られていた。それは、中国人の現在の心象を象徴しているように見えた>(伊藤正、矢板明夫)

クレア海外通信(海外事務所だより)北京事務所 「中国の宗教事情」によれば、1954年の憲法でも、公民は宗教信仰の自由を持つと規定されていたが、毛沢東死(1976年)後の1982年の第5期全国人民代表大会第5回会議で憲法が全面的に改正され、次のように「信教の自由を有する」と規定されている。

「(第36条)中華人民共和国の国民は、信教の自由を有する。
いかなる国家機関・社会団体または個人も、国民に宗教の信仰または宗教の不信仰を強制してはならず、宗教を信仰する国民と宗教を信仰しない国民を差別してはならない。

国家は、正常な宗教活動を保護する。いかなる人も、宗教を利用して社会秩序を破壊し、国民の身体・健康を損ない、国家の教育制度を妨害するなどの活動を行うことはできない。 宗教団体と宗教事務は、外国の勢力による支配を受けない」

共産主義者は、自らの宗教を唯一絶対の真の宗教とみなすがゆえに、他のいかなる精神世界も決定的に否定する。国民を信者と非信者に分け、異端を破門にしたり極刑に処する。伝道者として、レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポト、チャウセスク他がいる。

田中角栄首相による日中国交正常化(1972年)当時は毛沢東が存命、トウ小平は失脚中だったから宗教はタブー、麻雀すら禁止だった。

しかし1980年代以降になると、トウ小平による改革開放に伴い、民衆の宗教信仰心が抑圧された過去に反発する形で甦った。それに政府の宗教保護政策もこれらを支えているため、現在、中国の宗教信仰政策は種々の問題を抱えている。

最近の例では、1999年7月、新興気功集団「法輪功」に対し、中国政府は「迷信や邪説を流布して民衆をだまし、騒ぎを起こして社会の安定を破壊した」と断定、違法組織と認定し、一切の活動を事実上禁止した。

(注)気功は、古来から心身両面の養生法とされ、改革開放政策が進んだ1980年代以降、国がスポーツとして奨励したこともあり、都市の中高年層を中心に広まった。

「法輪功」は、仏教的要素を取り入れた新興気功集団で、創始者の李氏が1992年から活動を始め、日本など約20か国に組織がある。会員数は数千万と称しているが、中国政府は200万人と発表している。

中国は多宗教国家で、仏教、道教、イスラム教、キリスト教の4教を主要宗教とし、宗教信者は1億人余り、宗教活動場所85,000か所、宗教団体3,000余りである。

民族的には全国の55の少数民族が中国全体の信徒の大半を占めており、その居住地域の面積は全国の半分を占めている。

その主な信仰宗教は、仏教(朝鮮族)、ラマ教(チベット族、モンゴル族)、南仏教(タイ族)、道教(ヤオ族)、キリスト教(苗族、朝鮮族)、回教(回族、ウイグル族、カザフ族)、シャーマン(満州族、ホチョ族)である。

宗教の長期の存在を認め、社会主義と宗教の協調を探りつつ、宗教を効果的に現代化の建設に貢献させようとする点は、今後の宗教政策の大きな課題である。

特に法輪功は弾圧の強化に比例するように拡大化していると共に共産党員の脱党運動を展開し、2008年2月8日現在の脱党者数を32,007,044と発表している。今後大きな障害になるだろう。2008・02・08

参考:クレア海外通信(海外事務所だより)|北京事務所 |中国の宗教事情
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/jimusyo/123PEKIN/INDEX.HTM#top

2008年02月09日

◆真鱈のざっぱ汁

渡部亮次郎

真鱈マダラ Pacific Cod は、タラ目・タラ科に分類される魚の一種。北
太平洋に広く分布する大型のタラで、重要な漁業資源となっている。日
本では他にタラ、ホンダラなどとも呼ばれる。

成魚は全長1mを超える大型魚である。体色は褐色で、背中側にまだら模
様がある。スケトウダラやコマイと同様、下顎には1本のひげがあり、背
びれが3つ、尻びれが2つに分かれる。

マダラは日本に分布するタラ類3種の中では最大種である。上顎が下顎よ
り前に出ていて、体側にまだら模様がある。また、頭身が小さく、腹部
が大きく膨らむ。

我々秋田県人は真鱈の身は食べない。頭と内臓だけを塩味の鍋にして食
べる。丸太から四角い柱をとった残りを秋田弁ではざっぱ、津軽弁では
じゃっぱというので、この鍋料理を秋田弁ではざっぱ汁、津軽弁ではじ
ゃっぱ汁と言って珍重する。冬、最高の楽しみである。

煮えたぎった大き目の鍋に荒塩を入れ、そこへ真鱈の頭と内臓を小分けし
てぶち込む。葱、豆腐、白菜を加えてお終い。生姜を利かせたほうが生
臭みを消して美味となる。

いうなれば秋田では下層階級の冬の馳走だが、裕福な家庭に育った友人
たちも「身は要らない」とざっぱをしゃぶる事に専念する。大きな椀で
お代わりを6杯もした人もいる。

今年は都合で2月初めになったが、故郷にいる友人が祝いに「鉈漬け」
を送ってくれる。大根を切れの良くない鉈で削って塩と麹で漬け込む秋
田漬。東京で漬けても気温が高くて酸っぱくなるだけ。秋田で無いと美
味くない。お陰で6人で日本酒を4升も呑んだ。

ところで真鱈は黄海、日本海、東北地方以北の太平洋岸、北はベーリン
グ海、東はカリフォルニア州まで北太平洋に広く分布する。

沿岸から大陸棚斜面の底近くに生息する。夏は深場に移り、水深800mく
らいの深海にも生息するが、冬は浅場に移動して来る。食性は肉食性で、
貝類、頭足類、甲殻類、小魚などいろいろな小動物を捕食する。産卵期
には十分脂が載っているから美味い。

秋田、津軽や北海道周辺海域での産卵期は12月〜3月で、分離沈性卵を産
卵する。産卵前は雄雌共に脂が乗っている。1匹のメスの産卵数は数十万
〜数百万個に及び、これは魚類の中でも多い部類に入るが、成長できる
のはごくわずかである。

稚魚は1年で全長20cmほどに成長するが、この頃までは沿岸の浅場で生活
し、以後体が大きくなるにつれて深場へ移動する。

旬は冬で、底引き網、定置網、延縄、釣りなどで漁獲される。20世紀後
半頃からは輸入ものが多く流通している。

身は柔らかく脂肪の多い白身で、ソテーやムニエル、フライなどの他、
汁物や鍋料理にもよく使用される。身を干物にした「棒鱈」(ぼうだら)
も様々な料理に使われる。生のものを料理する際は傷みが早いことと身
が柔らかいことに注意する必要がある。

また、白子(しらこ)と呼ばれる精巣もこってりとした味で珍重され、
流通する際はメスよりオスの方に高い値がつく。白子は「キク」「キク
コ」などとも呼ばれるが、これは房状になった外見がキクの花に似るた
めである。秋田では「だだみ」と称して高値を呼ぶ。

北海道では「タチ」(マダラは真ダチ、スケソウダラは助ダチ)とも呼
ばれ、新鮮なものが寿司ねたなどで生食されている。

マダラのたらこ(卵巣)はスケトウダラよりも硬いが、未熟なものは柔
らかくスケトウダラよりも大型でボリュームがあるため、煮付けや焼き
物にすると美味である。北陸地方では「真子(まこ)」と呼ばれ良く食
される。

他にも肝臓から取り出した脂肪は肝油に用いられる。

チャンジャマダラやスケトウダラの胃を唐辛子などの香辛料、砂糖、塩
などに漬け込んだものをチャンジャといい、コリコリとした食感を楽し
む。もとは韓国の食材だが日本でも売られるようになった。

真鱈の 陸揚げ漁港(2002年度)
第1位 - 石巻漁港(宮城県)
第2位 - 歯舞漁港(北海道)
第3位 - 羅臼漁港(北海道)
第4位 - 八戸漁港(青森県)
第5位 - 女川漁港(宮城県)

資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年02月02日

◆捕鯨反対を操る者

 渡部亮次郎

またまた米大統領選挙に一石を投じそうなラルフ・ネーダー氏。私は彼の名に触れると、捕鯨反対運動の不純さを思い起こしてしまう。いわゆる刷り込みになっている。外相秘書官時代、アメリアで刷り込まれたものだ。

ラルフ・ネーダー(Ralph Nader 1934年2月27日― )は、大企業の持つ力に批判的なアメリカの社会運動家、弁護士であり、長年環境問題、消費者の権利保護問題や民主化問題に携わる人物である。

ネーダーは、近年のアメリカの対外政策は帝国主義的で、大企業への利益誘導を行っており、民主主義の根本と人道に反しているとして批判をしている。

彼は独立系の大統領候補として有名であり、1996年と2000年には緑の党から立候補した。しかし、2004年の選挙では緑の党から公認を得られず、無所属候補として出馬し幾つかの州で改革党などから公認を得て選挙戦を戦った。2008年も立候補を検討中と伝えられている。

ところで、1965年、彼は『どんなスピードでも自動車は危険だ:アメリカの自動車に仕組まれた危険』Unsafe at Any Speed:The Designed-In Dangers of the American Automobileという乗用車の欠陥を指摘する本を出版し全米に衝撃を与えた。

アメリカの自動車産業がシートベルトなど安全装置の導入に抵抗し、安全性向上のための投資を渋っていると述べ、特にジェネラルモーターズ(GM)製「シボレー・コルベア」に欠陥が多いと告発した。(もっとも、その最大の欠陥であるサスペンションの設計ミスは1964年製からは修正されていたのであったが)。

GMはこの本を徹底的に無視する一方、彼を貶める為に探偵をも雇って粗探しをしたが失敗し、逆にプライバシーの侵害であるとしてネーダーに訴えられて賠償金を支払うことになった。

GMはまた1966年には上院の自動車安全問題分科会への出席を余儀なくされ、ネーダーに一連の妨害を謝罪することとなり、その後コルベアは生産中止に追い込まれた。(「ウイキペディア」)

アメリカから始まった捕鯨反対運動はラルフ・ネーダーのこの動きと軌を一にするのだ。わが国外務省高官(故人)が捕鯨委員会の会議で生卵をぶつけられると言う屈辱的な出来事の起こったのもこの頃である。

その頃(1977-81)、外相秘書官としてワシントンDCをしばしば訪れていたが、米政府高官が解説する捕鯨反対運動への資金提供者はGM以外の何者でもなかった。

GMは消費者の反対運動の勢いを他に向けたい。顧問弁護士らが頭をひねった末、捕鯨反対運動と思い定めたGMは他のメーカーとかたって莫大な資金を消費者団体に渡しながら捕鯨反対運動推進をそそのかした。消費者団体の主なメンバーはまっしぐらに捕鯨反対運動に走った、と言うものだった。

捕鯨反対派の中には、クジラの巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいこと、ヒトと同起源の哺乳類である事を挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と食のタブー的主張する者もいて運動を盛り上げた。

昔は鯨油のために鯨を追って日本近海まで航海し、挙句の果てに鯨漁基地確保のために日本に開国を迫ったアメリカなのに、言うなればアメリカのお陰で日本は食文化の一端を失おうとまでしている。私はもはや捕鯨は諦めざるを得ないと思っている。

捕鯨推進派は、芸をするブタなどを例に挙げ、「ブタも高度な知能を持っているが、なぜ食べることが許されるのか。クジラが駄目でブタが良いというのは、単なる文化的差異に過ぎない」と反論している。

しかし、ここまで来ると宗教・政治の問題になるので、国際捕鯨委員会(IWC)等公式の場で捕鯨反対運動が否定される事態はまず期待できない。

いずれにしろ風桶屋論で言って、捕鯨反対論を世界的にしたのは米自動車メーカーGMだとすれば、GMはラルフ・ネーダーさえ居なければ運動は起こす必要が無かった、と逃げるだろう。

それより前に運動にカネは出してなかった、と開き直るのが先だろう。しかし人間、刷り込みを消すにもカネと時間がかかるものだ。2008・02・01


2008年02月01日

◆安物中国餃子で命失う

                   渡部亮次郎

昔から「安物買いの銭失い」と言いならされてきたが、中国に関する限
り、安さに釣られて冷凍餃子(ギョウザ)を買えば、下手をすると命を
失いかねない事になった。

いくら安くても、よく見て中国製と分かったら、少なくとも食品は絶対
買わないという人が出てきて当然だ。餃子になぜ殺虫剤が混入したのか、
まだ報道されていないが、分かるも出には相当、時間がかかるだろう。
責任者は雲隠れしたりするのが普通だから。

<「餃子で被害」17都道府県85人に さらに拡大へ

中国製ギョーザ中毒事件で、厚生労働省は31日、全都道府県に同様の事
例の報告を指示するとともに、製造元の中国・河北省の「天洋食品」か
らギョーザ以外の食品を輸入していた計19社の社名と品名を公表、自治
体を通じて各社に販売中止を要請した。

各自治体で被害の訴えなどを集計しているが、北海道、福島県、埼玉県、
東京都、神奈川県、静岡県、愛知県、大阪府、沖縄県などで新たに「中
国製ギョーザなどを食べて体調が悪くなった」との届け出があることが
産経新聞の調べで分かった。

これまでの不調の訴えは、17都道府県85人に上っている。いずれも31日
昼までの途中集計であることから、届け出はさらに増えそうだ。

厚労省が社名を公表した19社には含まれていないが、マルハと日本ハム、
日本食研も同日、天洋食品の工場から原料を調達していたとして、商品
を自主回収すると発表した。

舛添要一厚労相は「冷蔵庫を見て、(回収対象の商品は)絶対に口にし
ないでほしい」と国民に呼び掛けている。

各地の保健所には、問題が発覚した30日夕以降、同様の被害情報が複数
寄せられており、厚労省は各都道府県の担当課に電子メールで情報提供
を要請。同じ冷凍ギョーザが原因とみられるケースが含まれていないか
どうか確認を急ぐ。>1月31日16時6分配信 産経新聞

信用や面子を重んずる国と思ったが、口がざらつくと自分だけの都合で
処構わず唾を吐く習慣からすると、どうも信用や面子は外国人には通用
せず、売り物は自分の手を離れれば「後は野となれ山となれ」が中国の
哲学のように思えてくる。

餃子(ギョウザ、ギョーザ)とは小麦粉に水を加えて薄くのばして作っ
た皮で肉やエビなどで作った具を包み、茹でたり焼いたり蒸したりした
食べ物である。中国では煮て食べる水餃子が主流。

昭和29(1954)年3月、東京に出てきて初めてお目にかかった食べ物だった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、日本には戦
後満州からの引揚者がレシピを持込んだ。

日本人は惣菜として食べるから薄目の皮を使い焼いて食べる焼き餃子が
主流である。具にニラやニンニクを用い、また白菜の代わりにキャベツ
を用いることがある。水餃子が主流の中華圏ではニンニクは入れない。

中国では豚肉、白菜、ニラなどを使った一般的なものの他に牛肉 羊肉
ロバ肉 サワラ エビ フカヒレ 豆腐 を入れる。

餃子の歴史は古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の遺跡からはすで
に食べられていた痕跡が見つかっている。敦煌の唐代の墳墓では、副葬
品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されている。

もともとは華北の料理で、北京語の発音では「ジャオズ」といい、華南
では点心(食事代わりの軽い食品)として食る蒸し餃子がある。

華北の餃子が皮は厚めにして湯に入れて茹でる食べ方が主流なのは主食
を兼ねたものが多いからであ。

餃子はその発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子
の形に似ていることにより縁起の良い食べ物としても珍重される。

また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願
い食される。また皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子
を食したという。

日本では大衆的な中華料理店やラーメン店などのメニュー、家庭の手軽
な惣菜として定着しているが、北京や上海では餃子にお目にかかったこ
とは無い。日本で初めて餃子を食べた人物は徳川光圀とされている。亡
命していた朱舜水から教わったという。

一方朝鮮半島から流入してきた餃子もあり、これは白菜の代わりに大根
を用いる、と言うが未だ食べた事は無い。2008・01・31

 
       ★

2008年01月29日

◆顔色で見通す政局

渡部亮次郎


<安倍前首相:「戦う政治家として再び全力を尽くす」 

安倍晋三前首相が26日、地元・下関市の豊浦町と長門市で新春の集いを
開いた。前首相は多くの後援会員を前に「再び戦う政治家として、この
地選出の政治家として新たな思いで全力を尽くす」とあいさつした。

豊浦町の川棚グランドホテルお多福では、山口選出の林芳正、岸信夫両
参院議員のほか、後援会員約600人が出席した。

前首相は開会中の通常国会に触れ「国民生活を守るという観点から与野
党が協力することも必要」と主張。

また、祖父の岸信介元首相の故事を引き「(戦犯として収容されていた)
60年前、刑務所を釈放されて政治活動を再開したのがネズミ年だった。
今年は同じえと。私も政治家として新たな歩みを始める」と述べた。>1
月27日16時0分配信 毎日新聞〔下関版〕


ところで以下はは一昨年秋に掲載したものの再掲だが安陪さんについて
『頂門の一針』は総理就任前から政治家の顔色を見て健康不安を指摘、
短期政権を予測していた。

政局を見通す記者が以前は居たからである。しかし今の政治記者は顔色
を見ても判断できないから,見ることさえしない、と言う話。

昔、NHK政治部で一緒だった大谷英彦さんが、安倍晋三さんの顔色の悪さ
を指摘して「安倍政権、発足後、意外な展開になるかも知れない」と言
ってきたので、なるほど鋭い読みだと敬服した。

<問題は、安倍晋三の顔のくすみです。(2006年9月17日の)フジとテレ朝
は3人がスタジオに同席していましたから、多分事前のVTR収録でしょ
う。想像ですが、収録も昼間だったと思います。

NHKは安倍だけ外からの中継参加でした。朝9時からのナマ番組です
から、多分、安倍さんは早起きしたのでしょう。

途中、3人を顔のドアップがありました。安倍さんの目の下の皮膚の色
は他の2人と格段に違っていました。テレビは残酷です。

先にテポドン発射の朝、官邸に駆けつけた安倍官房長官は目の下に隈が
できていた、と週刊誌が健康不安を書いていましたが、それを目の当た
りにした思いです。

安倍政権発足後、この爆弾がどうなるか。意外な政局の焦点になりそう
です。>(これが見事に的中した!)

今の政治記者は、政治家をわっと取り囲み、発言を一言も聞き逃すまい
と懸命だが、顔色を読み取ろうとしている記者をTVで見たことがない。
TV記者は映像と声を採取すれば終わりと、散ってゆくが、新聞や通信の
記者もそれ以上はやらない。

昔はTVが無かったから、我々も政治家に群がったけれども、決して其処
で真相は吐露されているとは考えられないから、どこかで単独取材の機
会を狙って再度、取材を心がけたものだ。

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