2008年05月09日

必読!◆再び天皇のお見送りについて

                    渡部亮次郎

来日中の胡錦濤中国主席は9日はホテル・ニューオータニを引き払い横浜を経て関西に向かうため、慣例により天皇皇后両陛下は見送りの挨拶をされるべく、午前10時から胡氏宿泊先のホテルに出向かれる。

これに対して国賓接遇の慣例を知らない人から、天皇のお見送りは必要ないとか、総理大臣にやらせればいいとか頓珍漢な意見で反対意見のみならず、デヴィ・スカルノ夫人のように『反対』呼びかけまでしている人がいる。

結論から言うと、国賓を両陛下がお見送りするのは慣例であって
これまでは殆どの国賓を迎賓館に出向いて見送ってこられた。尤も相手が国家元首ではあっても国賓でない場合は、なさらない。

国賓とは「広辞苑」に拠れば「国家元首が接待する海外からの賓客。主に外国の元首や首相が来日する場合で、歓送迎会(歓迎と歓送)への天皇の出席、21発の礼砲、宮中晩餐会の行事がある」と説明している。礼砲は弾丸を撃ち尽くして敵意が無い、歓迎するという意味。

国賓・公賓など外国賓客(平成11年以降)(宮内庁HP)

ルクセンブルク国大公ジャン同妃両殿下(国賓) オーストリア国大統領夫妻(国賓) ヨルダン国国王アブドッラー王妃両陛下(国賓) ハンガリー国大統領夫妻(国賓)

ノルウェー国国王ハラルド五世王妃両陛下(国賓) 南アフリカ共和国大統領夫妻(国賓) フィリピン国大統領及び同夫君(国賓) インドネシア国大統領及び同夫君(国賓) メキシコ国大統領夫妻(国賓)

モロッコ国国王モハメッド六世陛下(国賓)インドネシア国大統領夫妻(国賓)

平成19年はスウェーデン国国王カール16世グスタフ陛下及び王妃シルヴィア陛下(国賓) ベトナム国主席夫妻(国賓)だった。

今年平成20年は胡錦濤中国主席夫妻が初めてである。

要人は毎年勿論他にも沢山来日されており国家元首や首相も多いが、政府の賓客(公賓)か公式実務か、お構いなしである。国家元首も国賓待遇が複数回は殆ど聞かない。

<国賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる外国の元首やこれに準ずる者で,その招聘・接遇は,閣議において「決定」されます。

皇室における国賓のご接遇には,両陛下を中心とする歓迎行事,ご会見,宮中晩餐,ご訪問がありますが,両陛下はじめ皇族方は心をこめて国賓のご接遇をなさっています>(宮内庁HP)

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2008年05月08日

◆国賓・公賓・公式実務

                     渡部亮次郎

国賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる
外国の元首やこれに準ずる者で,その招へい・接遇は,閣議において
「決定」されます。

皇室における国賓のご接遇には,両陛下を中心とする歓迎行事,ご会見,
宮中晩餐,ご訪問があります。

公賓とは,政府が儀礼を尽くして公式に接遇し,皇室の接遇にあずかる
外国の王族や行政府の長あるいはこれに準ずる者で,その招へい・接遇
は閣議「了解」を経て決定されます。

皇室における公賓のご接遇には,両陛下によるご引見や宮中午餐があり
ます。公賓の制度は1964(昭和39年度(池田内閣)に決定された。

「公式実務訪問賓客」とは,外国の元首,王族,行政府の長あるいはこ
れに準ずる者が実務を主たる目的として訪日することを希望する場合,
賓客の地位,訪問目的に照らして政府が公式に接遇し,皇室の接遇にも
あずかる賓客で,その招へい・接遇は閣議「了解」を経て決定されます。

皇室においては,賓客に応じたご接遇が行われています。宮内庁ホーム
ページ)http://www.kunaicho.go.jp/05/d05-01.html

閣議決定: 合議体である内閣の意思決定。閣議における案件処理の中で
は、最も重みを持つ。訂正が殆ど不可能。

閣議了解: 本来主任大臣の権限に属する事項について、それらの事項の
重要性を考慮した上で、閣議に提出して他の国務大臣の意向も聞くこと
が適当と判断されたものについて行われる。

閣議報告: 主要な審議会の答申や省庁の白書等を閣議で披露するような
場合に行われる。

国賓とするかどうかは閣議「決定」,公賓は閣議「了解」。国賓は両陛下
を中心とする歓迎行事,ご会見,宮中晩餐,ご訪問があるが、公賓には
引見や宮中午餐といって両陛下への挨拶と午餐(昼食)どまり。

「公式実務訪問賓客」の接遇はその都度で様々。

国賓・公賓など外国賓客(平成19.20年のみ)宮内庁による。

平成19年

1月
モザンビーク国大統領夫妻(公式実務)

2月
キリバス国大統領夫妻
チェコ国大統領夫妻(公式実務)
アメリカ合衆国副大統領(公式実務)
ルーマニア国首相夫妻
ロシア国首相夫妻
モンゴル国大統領夫妻(公式実務)

3月
ボリビア国大統領
グルジア国大統領夫妻
リベリア国大統領
オランダ国皇太子ウィレム・アレキサンダー殿下
シンガポール国首相夫妻(公式実務)
スウェーデン国国王カール16世グスタフ陛下及び王妃シルヴィア陛下
(国賓)

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2008年05月07日

◆胡錦濤お見送りは当然の儀礼

                    渡部亮次郎

中国の胡錦濤国家主席は日本の国賓としての来日だが、5月9日金曜日の日程の中で10:00 天皇、皇后両陛下にホテルニューオータニへ訪問して頂く(〜10:30)。を叩頭外交と誤解して騒ぐ向きがある。

これだけ見れば誤解も当然だが、その後の胡氏の日程を見れば、両陛下のホテルご訪問は「お見送り」であり、国賓に対する礼儀としては普通の事である。

かの「広辞苑」でも「歓送迎会への天皇の出席、21発の礼砲、宮中晩餐会の行事がある」と説明している。5月7日水曜日に、09:00 皇居にて歓迎式典、天皇陛下への謁見とあって歓迎した以上、お見送りは付き物。

9日は09:00 ホテルニューオータニにて在日チャイナ大使館員や留学生、駐在員らと朝食会。11:20 JFEアーバンリサイクル施設(神奈川県川崎市川崎区水江町)を視察とあって東京を離れるのだから、両陛下としてはその前に「お見送り」が当然。

午前10時に胡氏宿泊のホテルに出向いてお見送りの挨拶をされるのは叩頭でも土下座でも無い。国賓に対する当然の儀礼に過ぎない。
それが屈辱というなら国賓としての招待を拒絶するしかない。

抗議しても両陛下はおやめになるわけにはいかない。胡氏を国賓として接遇する事は内閣が閣議で決定したことであり、天皇陛下といえども憲法上、逆らう事ができないからだ。

一旦、国賓として国家が決定した以上、皇室と政府は最高の接遇は当然であり、歓迎はしても見送りはしないというのは大人としては失礼な行いである。(元政治記者・大臣秘書官)   2008・05・06



2008年05月06日

◆A面あってのB面

                    渡部亮次郎

昔の話。昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一郎と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となるも、それまでに大ヒット。
当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)
東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

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2008年05月05日

◆ジョン・レノンのご馳走

                     渡部亮次郎

ザ・ビートルズ(BEATLES)は世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドという事をジョン・レノンにダコタ・アパートで会うまで知らなかった。

1978年2月のその時、私は福田赳夫内閣の外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、僅か数ヶ月前まではNHKの政治記者出、国内政局の追跡に熱中する生活でビートルズなど皆目知らなかった。

それが、いきなり彼ら一家の住まいたるニューヨーク・マンハッタンのダコタアパートの自宅に招き寄せられ、2歳の息子を抱きながらフローリングの部屋に三角屋根(ピラミッド)の下に転がるもじゃもじゃ頭の男が「世界一の芸術家」と知って驚いた。

ジョン自身はその時は音楽活動を休んで「主夫で子育てに夢中なんだ。三角屋根は生命に何らかのパワーを与えてくれるんだ」と喋っていた。

「僕の喋り方が叫んでいるように聞えないですか。生まれたリヴァプールは強い風が吹き上げて来る土地で、その風に逆らうように喋る癖がついてしまったんだ」とも。

イギリスのリヴァプールで結成されたのがビートルズ。アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティスト。

その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。

1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

それからほぼ3年後ノ1980年12月8日の夜、アパートの玄関で精神異常者に射殺され満40歳の人生を終えるわけだが、激しくも偉大だった人物の晩年に会えた事を思うとそのたびに興奮するのである。

なぜジョン・レノンに会えたかというと、2番目の夫人となったオノ・ヨーコさんが私の親友で評論家の加瀬英明氏の従姉だからである。

彼の父俊一氏は昭和史に残る著名な外交官だったが、母親萬寿子さんがヨーコさんの父親の妹という関係。英明氏は、鳩山内閣時代に外務政務次官だった園田氏と当時から親しかった。

外務大臣室にやってきて「大物秘書官がアメリカを知らないではあんたが困る場面が出てくるから、ナベさんをアメリカ旅行に案内するよ」とやや強引に了承と旅費を取り付けてしまったのだ。

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2008年05月04日

◆八九三でない刺青

渡部亮次郎

小泉又次郎(こいずみ またじろう、慶応元年5月17日(1865年6月10日)―昭和26年(1951年)9月24日)は、日本の政治家。正二位勲一等。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。

横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。義侠心にあふれ、人情に厚い大衆政治家で、刺青があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。

又次郎の刺青のわけも分からず、刺青をしていたんだからやくざだったと誤解する向きもあるので、この際、詳しく調べてみた。

そもそも日本での刺青(入れ墨)は江戸初期に関西の遊廓でおこった〈入れぼくろ〉の風習が彫物の風俗の始まりである。

これは遊女が愛の証しとして左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり,男女が互いに親指のつけ根にほくろを入れるもので,〈起請(きしよう)彫〉ともよばれた。

この風習は江戸でも流行し,やがて〈某命〉という形式で相手の名前を彫る風も生まれた。

また遊廓の外でも,〈南無阿弥陀仏〉など神仏への誓いの文字を彫る風も行われ,《女殺油地獄》(1721)には腕の彫物で人々を威嚇する風俗も描かれている。

初期の彫物は文字がほとんどで,絵や文様を彫る風はなく,専門の彫師もいなかった。

しかし時代が下ると,鳶(とび),魚屋,駕籠(かご)かき,船頭などの職人や勇み肌の者が粋や伊達(だて)から威勢を示すために競って彫物を施し,また絵柄も豊富となり,色彩を施すようになって
専門の彫師も生まれた。

こうした風潮を強めたのは,《水滸伝》を題材にした絵師の一勇斎国芳の一連の作品で,文化・文政年間(1804‐30)には幕府の禁止にもかかわらず彫物は盛行を極めた。

また江戸の刺青美を完成した国芳の画風を継承した芳年の作品,とくに〈美男水滸伝〉は明治以後の刺青の下絵として大きな影響を与えた。しかし,明治になると彫物は禁じられ,一部の者だけに限られるようになった。(平凡社『世界大百科事典』)

だから昔を論ずるに、刺青をしていたから即ちやくざ者だったと断定しては教養を疑われる事になる。

小泉又次郎は慶応元年(1865年)5月17日、現在の神奈川県横浜市金沢区大道)に鳶職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる。

又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫等を送り込む人入れ業を始める。

又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で海軍兵学校の予備校に入学するが、兄の急死によって家に連れ戻される。

しかしその後も軍人になることを諦めきれず、今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入学するが、またしても父に見つかり「なんとしても家業を継げ」と厳命される。

その際、こんどこそ軍人を諦め鳶職人になることを決意した証に、全身に「昇り龍」の入れ墨を彫って父親に見せつけたという。刺青者は軍人になることができなかったからだ。30歳のころ芸者だった綾部ナオと結婚したが子は出来なかった。子孫は妾腹に繋がる。

その後板垣退助の演説を聴いて政治家を志すようになり、独学で小学校教員となった後、新聞記者などを経て、明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選、後議長をつとめる。

神奈川県議会議員を経て、明治41年(1908年)に憲政本党から衆議院議員選挙に初当選、以後連続当選12回を数える

昭和4年(1929年)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる。

その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての親任式で参内した際には、守衛に一緒に参内した過去に大臣経験のある安達謙蔵の従者と間違われて押し問答をしている。

昭和17年(1942年)に翼賛政治会代議士会長に就任。昭和19年(1944年)から翌20年まで小磯内閣の内閣顧問を務めた。昭和20年(1945年)には貴族院議員に勅選され、翌21年に公職追放されるまで務めた。

昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった。墓所は横浜市金沢区の宝樹院にある。
妻: ナオ(綾部幸吉二女)
妾: 石川ハツ、寿々英(すずえ)など
女: コウ(養子)
女: 芳江(庶子、母は石川ハツ)
婿: 純也(芳江の夫)
孫: 純一郎、正也ら。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ところでやくざ Yakuza 八九三と字をあてる。2枚または3枚の花札を使ったおいちょかぶとよばれる賭博で、8、9、3の目が来ると上がれないことから、中途半端で役に立たない人間を指した。

のち、一般的には堅気の人とは対照的に、職につかない遊び人や、博徒(ギャンブル)や博打(ばくち)打ちを指す言葉となった。

江戸時代の享保の頃から「やくざ」の名称が流行したが、江戸末期の混乱期になって多く現れ、刀を持ち、脇差(わきざし)をかかえ、背中に刺青(入れ墨)を施すなど、異様な風態をてらった。

人別帳から除かれた無宿者(無宿)などが多く、侠客の親分のもとに寄食した。擬制的な親分、子分関係(擬制的親族)でむすばれ、暴力をふるい、法をおかすことが多かった。

第2次世界大戦後、やくざの世界も激変し、構成原理そのものが変わった。都市部では闇市(やみいち)の利権をめぐって、てきや( 香具師)集団が勢力を伸ばし、博徒もこの利権に目を向けて、従来はっきりと類別されていた組織系統が、複雑に入り混じることになった。

やがて、高度経済成長期を経る中で、大組織による系列化がすすむようになった。現在では、暴力を背景にゆすり、たかりをおこなう者、暴力団の成員(構成員、準構成員)を指す。

組織は、○○組を名のり、親分、子分、兄弟分の強力な支配関係で結ばれている。とくに親分への服従は絶対とされる。

跡目相続、親子盃、仁義とよばれる挨拶など、独特の儀式や慣行や隠語をもちその閉鎖性を維持しているが、その活動は、企業化、知能化の色彩を強めている。現在のやくざは刺青があっては幹部になれないといわれている。Microsoft(R) Encarta(R) 2006.
2008・05・01

2008年05月03日

◆「いしり」の美味さ

                     渡部亮次郎

新聞の日曜版で石川県の魚醤「いしり」を知った。烏賊の肝を塩漬けにして発酵させたものの汁だという。東京生まれの家人は私の郷里秋田県の名物「しょっつる」が大好き。「あれとおんなじよ」と乗り気でない。

なぜなら秋田県人のクセに私は鰰(はたはた)の魚醤で仕立てる「しょっつる」鍋はあまり好きではない。だから「いしり」を買っても食べられないだろうと、乗り気出ないのである。

そこで一番小さい瓶を取り寄せて烏賊の刺身につけて食べてみた。臭みが無く、コクがあり抜群に美味しい。烏賊も蛸も蟹も海老も食べないから血液にコレステロールが少ないといわれる私だが、「いしり」で烏賊を丸ごと平らげてしまった。

私が注文した先は(有)カネイシ 

927-553 石川県鳳殊郡能登町字小木18-6
電話:0768-74-0125  Fax:0768-74-1398
http://www.incl.ne..jp/kaneishi/

以下 株式会社 尾崎 発行の「奥能登味情報 特集 いしる」より。

いしりとは?
魚醤油の一種である。スルメイカの肝を樽に塩漬けにし、上から重石をして発酵させる。

春に仕込み、お盆の頃に桶の下に空けた穴から滴り出た汁を煮詰めて、布で濾して出来上がり。

醤油に比べ癖があってとても塩辛いけれど、烏賊の精のこくと味は、格別である。

使い方は、醤油と同様に調味料として使う。薄めて刺身のタレにしてもよし。野菜をつけてもよし。料理の下味、隠し味にも重宝する。
能登半島の内浦(富山湾側)の能都町宇出津では、烏賊が原料の「いしり」である。

一方、外浦(日本海側)の輪島では、鰯の内蔵を原料とする「いしる」となる。

「魚醤油」とは
ずばり「魚類で作った醤油」のことです。
醤油を原料によって分類すると、次の2つに大別されます。
  ・穀醤 : 大豆や小麦を原料とした調味料
  ・魚醤 : 魚類を原料として作った調味料

私たちが日常使っている醤油は、穀醤です。

能登の「いしり」や「いしる」は、魚類を原料として作った醤油で、秋田の「しょっつる」や四国の「いかなご」と並び日本を代表的する魚醤です。最近は、その独特のうまみで、能登を旅した人を中心にファンが増えています。

魚醤は、奈良時代、中国から伝来した穀醤より以前から作られており、日本の醤油の原点とも言えます。

また、魚醤は、東南アジアの各国でも作られています。次のものが代表例です。

・ニョクマム(ベトナム)
・ナンプラー(タイ)
・ タク・トレイ(カンボジア)

いしり鍋の作り方
材料
魚介類 烏賊 小海老
野菜類 茄子 大根 人参 春菊 椎茸 榎茸
たれ いしり 酒 みりん 水
作り方
1 .鍋の具を下ごしらえ

茄子は半月に薄く切る。大根は短冊切りにする。
人参は輪切りにして梅型に抜く。
春菊は、傷んだり汚れた葉先を除き、長さを揃える。

椎茸の石突きは手でひねってとり、かさの裏を軽く洗い、大きいものは2つに切る。

榎茸は、白身を帯びた新鮮なものを選び、根本の部分は切り捨てる。

烏賊は、胴のほうを輪切りにする。足も適当な大きさに切る。
小海老は、さっと洗って頭を取り、殻をむいて背わたを取る。

2008年05月02日

◆百花斉放百家争鳴

渡部亮次郎

1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「百花斉放百家争鳴」を提唱した。百花斉放とは様々な文化を開花させるという意味であり、百家争鳴とはたくさんの意見を自由に論争するということである。

毛沢東がこのような運動を始めた理由は過去さまざま論じられてきたが、定説は無い。毛沢東が自らの権威が揺らいでいると考え、劉少奇、ケ小平らの力を削ごうとしたためとも言われている。

あるいは作家のユン・チアンは、百家争鳴運動は始めから毛沢東が反対派を炙り出すための巧みな罠だったと断定している。渡部亮次郎も同じ意見である。

百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当し、国内の知識人の参加を呼びかけたが、それまでの弾圧などの影響であまり盛り上がらなかった。人民の大半は「罠」を感じたのである。

そこで1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部による最高国務会議を招集し、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。

さらに1957年3月6日から13日にかけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。

これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈なものに変わっていって今度は毛沢東を慌てさせた。

知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することにこともあろうに異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判するようになった。

当初、批判の場は「大字報」と呼ばれた壁新聞と、「座談会」と呼ばれた小規模な集会に限られていた。これは、批判の声に呼応して民衆が蜂起を企てることがないようにとの配慮であった。

運動の中で、ある教授は憲法を紙くず同然だと批判した。別の経済学者は共産党主催の公開批闘会が投獄されるよりもひどいものだと主張した。

劇作家は「芸術に対する『指導』は必要ない。だれがベートーベンを指導できるのか?」と述べた。共産党幹部の1人は「朝鮮戦争を始めとする外国への援助のばらまきをやめよ」と述べた。

「工業生産高のような情報さえ国家機密にしている現状を改善せよ」と要求する者もいた。挙句の果てに、党の機関紙である人民日報も党を間接的に批判するようになった。

百家争鳴運動は地方でも行われた。内蒙古大学のある教授は「モンゴル民族は固有の文化を持っており、むやみに漢化すべきではない」と主張した。逆に言えば、これまで周辺の占領地では、この程度の発言も許されていなかった。

1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長の胡喬木に対して「右派」を批判する準備を行うように命じた。

◆日本初メーデーは2日

渡部亮次郎

労働者の権利を獲得するための祭典メーデーだが、日本で最初に行われたのが大正9年。実はこの年、5月1日が土曜日で休みでなかったため、2日の日曜日に開催された。つまり日本初のメーデーは5月2日。

元々イギリスで5月1日は14世紀頃に始まった、花を祝うお祭りだった。

日本より北に位置しているイギリスでは春の訪れと言うとこの頃で、そのやっとやってきた春に対する喜びを味わう祭日として『5月の女王:May Queen』などを決めたり、遊技などをして長く親しまれて来た。(メイクィーンという名前はジャガイモにも付けられている)

その5月1日を労働者の権利を主張したり、団結を図るための集会になったのは1886年のアメリカだった。この日、アメリカ・シカゴで35万人が参加して8時間労働制のを求めるストライキが行われたことに由来する

3年後の第2インターナショナル創立大会で、この日を『万国労働者団結の日』と定め、翌年の1890年に第1回メーデーが開始された。

日本でのメーデーは、まず1901(明治22)年に「二六新報」が「第1回日本労働者大懇親会」と言うものを開催している。これがメーデーの前身とされているが、この日は4月3日だった。

労働者組合主催のものとしては1920(大正9)年、上野公園で開催されたものが一番最初になる。しかしこの第1回メーデーは1日ではなく5月2日だった。実はまだ休日として認められていなかったメーデーなので、多くの人が集合できるようにと日曜日だった5月2日に開催されたのだ。

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2008年05月01日

◆エンパイア・ステート・ビル

                    渡部亮次郎

「エンパイア・ステート」はニューヨーク州の愛称である。そのニューヨークを生まれて初めて訪れたのは1978(昭和53)年2月のこと。国際問題評論家の友人加瀬英明に連れてもらっての旅だった。
もう30年前だ。

最初がロス・アンジェルス。折から解禁されて間もないポルノ映画を鑑に入ったが、観客は我々だけというのに驚いた。なるほどポルノは1度は珍しいが、そんなに見るのは変質者扱いなのだ。

その夜、本場?でステーキを食べようと希望したが、硬いし、味が拙い。醤油とか或いは大根おろしでもなけりゃ食えたもんじゃない。
以後何十回と無く訪れる事になるが、アメリカでステーキは食わない。

さりとて海岸縁のレストランで焼き魚を注文したら、蒸した白身の魚が出てきた。何しろ大振りで味が無い。それこそ醤油でもあれば御の字だが、当時はキッコーマンがそれほど普及してなかった。

その後、日本駐留体験の帰還兵を通じて飛躍的に普及。どんなレストランでも「キッコマン」は備えてあるようになった。キッコーマン社にとって米国はドル箱のはずである。

問題はEmpire State Buildingである。NYを象徴する超高層ビル。話のタネだからと最上階までエレベーターで昇った。最上階102階部分は地上381mの高さにある。

不思議な事に加瀬氏が中心部に突っ立ったまま展望鏡も覗こうとしない。元はといえば私は高所恐怖症者。「ナベさん、このビル、最上階は風で40Cmずつ揺れているんだよ」といわれたら、もう怖くて壁の縁へは行けなくなった。

加瀬氏の従姉オノ・ヨーコさんとその夫ジョン・レノン氏にイタリア街でご馳走になったら、窓の外に黒山の人だかり。彼らがそれほどの有名人である事を私は知らなかった。

翌日、世界貿易センターの最上階のレストランへ知人に招待された。
エンパイア・ステートより高いビル。窓の下をヘリコプターが飛んで行く。途端に怖くなった。

出されたムール貝を急いで口に入れて帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう一皿」という奨めには参った。帰り道、加瀬氏「オレも高所恐怖症なんだよ」。

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2008年04月29日

◆いちょうはやちゃお

                    渡部亮次郎

わがPCはいちょうと打つと公孫樹と出る。原産地中国でこう呼ぶことから、こうなったようだが、アメリカのマイクロソフト社の
発行している大百科事典「エンカルタ」は、中国での別の呼び方「やちゃお」の訛説を紹介している。

東京湾岸の猿江恩賜公園の公孫樹は雄雌100本近いが、花の時期が終わって散歩道を黄色に埋めて、掃除の人たちを煩わしている。

平凡社の世界大百科事典は古すぎて最近の事はさっぱり分からないが、古い事は正確に書いてあるから便利だ。

<中国原産で,現在,浙江省にわずかに自生するだけといわれる。観音像のある所にしばしば老樹があるので,観音像の渡来とともに
僧侶によって日本に持ちこまれたという説がある。

1690‐92年(元禄3‐5)滞日したドイツ人ケンペルによって,はじめてヨーロッパに紹介され,1730年ごろには生樹がヨーロッパに導入された。それ以後,世界の温帯地域に栽植されるようになったといわれる。>。

明治の開国と共に来日した英国の植物学者は中国にしかないと思ってきたところ、日本でも全国各地に植えられているのを見て驚いたという記事をどこかで読んだことがある。

<雌雄異株で,一般に古い雄株では枝が挙手したように上向きに伸び,雌株では水平に張る傾向にある。雌株では枝もたわわに種子がつくことがあるので,その重みで枝が水平になることもあるかもしれない。

ときに高さ30m,周囲10mに達する巨木となり,各地で天然記念物に指定されている。青森県十和田湖町法量の善正寺跡のイチョウ(周囲12m,高さ27m),岩手県久慈市長泉寺の大イチョウ(周囲14m),

岐阜県高山市国分寺の大イチョウ(周囲10m),宮崎県高千穂町下野八幡宮のイチョウ(周囲9m,高さ36m)などが巨樹として知られている。>今ではもっと成長しただろう。

問題は「やちやお」のこと。若い人々には苦手な文語文だが、たまには頭の体操をして下さい。

<『大言海』序文が語るいちょうの語源探求。

国語辞書『大言海』5冊は、著者文彦の死後、兄の大槻如電のほか、関根正直、新村出らの指導協力により、1932〜37年(昭和7〜12)に刊行された。

この辞書の特色は、出典をしめし、独特の語源解釈をこころみていることで、ここに紹介した銀杏(いちょう)の語源についての探索にもその本領がよく出ている。>

以下[出典]大槻文彦『大言海』、冨山房、1932年。による。

大槻文彦「大言海の編纂に当たりて」

銀杏(ぎんなん)の成る「いちよう」といふ樹あり。この語の語原、並(ならび)に仮名遣は、難解のものとして、語学家の脳を悩ましむるものにて、種種の語原説あり。

この語の最も古く物に見えたるは、一条禅閤(ぜんこう:兼良公、文明十三年八十歳にて薨(こう)ず)の尺素往来に、「銀杏(イチヤウ)」とある、是れなるべし。

文安の下学集にも、「銀杏異名鴨脚(アフキヤク)、葉形、鴨脚(カモノアシ)の如し」とあり。字音の語の如く思はるれど、如何(いか)なる文字か知られず。

黒川春村大人の硯鼠漫筆(けんそまんぴつ)に「唐音、銀杏の転ならむ」などあれど、心服せられず。

降りて、元禄の合類節用集に至りて、「銀杏、鴨脚子、」と見えたれど、是れも如何なる字音なるか解せられず、正徳の和漢三才図会(わかんさんさいずえ)に至りて、「銀杏(ギンナン)、鴨脚子(イチエフ)、俗云、一葉(イチエフ)」とあり。始めて、一葉の字音なること見えたり。

然(しか)れども、一葉の何の義なるか、不審深かりき。加茂真淵(かものまぶち)大人の冠辞考、「ちちのみの」の条にも、「いてふ」と見ゆ。仮名遣は合類節用集か、三才図会かに拠られたるものならむか。語原は説かれてあらず。

さて和訓栞(わくんのしおり)の後編の出でたるを見れば(明治後に出版せらる)、「いてふ、一葉の義なり、「ちえ」反「て」なり、各一葉づつ別れて叢生(そうせい)せり、因(よっ)て名とす」と、始めて解釈あるを見たり。

十分に了解せられざれど、外に拠るべき説もなければ、余が曩(さき)に作れる辞書「言海」には、姑(しば)らくこれに従ひて「いてふ」としておきたり。

然れども、一葉づつ別るといふこと、衆木皆然り、別に語原あるべしと考へ居たりしこと、三十年来なりき。  

然るに、二、三年前、支那(しな)に行きて帰りし人の、偶然の談に『己(わ)れ支那の内地を旅行せし時、銀杏の樹の下に立寄り、路案内する支那人に樹名を問ひしに「やちやお」と答へたり。

我が邦の「いちよう」と声似たらずや』と語れるを聞きて、手を拍(う)ちて調べたるに、鴨脚の字の今の支那音は「やちやお」なり。

(支那にては、この樹を公孫樹と云ひ、又、鴨脚とも云ふ)是(ここ)に於て、案ずるに、この樹、我が邦に野生なし、巨大なるものもあれど、樹齢七百年程なるを限りとす。

されば鎌倉時代、禅宗始めて支那より伝はりし頃、彼我の禅僧、相往来せり。その頃、実の銀杏を持ち渡りたる者ありて、植ゑたるにて、その時の鴨脚の宋音「いちやう」(今の支那音「やちやお」はその変なり)なりしものと知り得たり。

その傍証は、実の銀杏を「ぎんあん」(音便にて、ぎんなん)と云ふも、宋音なり。実の名、宋音なれば、樹の名の宋音なるべきは、思ひ半(なかば)に過ぐ。

畢竟(ひっきょう)するに、尺素往来の「いちやう」の訓、正しきなり。是れにて、三十年来の疑ひ釈然たり。因りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、仮名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。 Microsoft(R) Encarta(R) 2006.

これについて世界大百科事典の表現は以下の通り。

<中国名は銀杏,公孫樹または鴨脚樹(ヤーチアオシユー)で,後者は葉形に由来する。これを日本でヤーチャオと聞き,さらにイーチャオと転訛(てんか),後にイチョウとなったといわれる。

また属の学名 Ginkgo は銀杏の音読みを間違って記してしまったもの>。とある。Ginkyoとすべきものだが今更直らない。
2008・04・28

2008年04月28日

◆ムッソリーニ銃殺さる

                    渡部亮次郎

彼が日、独、伊の3国同盟の主人公の一人である事は子供心に知っては
いた。しかし、イタリアそのものが日独より早く連合国に万歳し、日独
に軽蔑された政治家だったので、詳しくは知らなかった。4月28日にパル
チザンに銃殺された。1945(昭和20)年のことである。

<語録
プロレタリアのイタリアよ、ファシストのイタリアよ、革命のイタリア
よ、全員起立

社会主義とは、ペテンであり、喜劇であり、幻想であり、ゆすりである。

他人を信じることは良いことだが、信じないのはもっと良いことである。

血のみが歴史を前進させる。

ヒトラーは一流国家における二流の指導者、かたや自分は二流国家にお
ける一流の指導者である。

人々は自由に飽き飽きしているというのが真実である。

私はファシズムを創造したのではなく、イタリア人の奥底から引き出し
ただけである。

正義のためには法律を犯すことも許される。そのとき暴力は武器となり、
正義となるのだ。

私は満足している。そして復讐も再評価も望まない。>

第1次大戦後の1919年3月〈戦闘ファッシ〉を結成してファシズム運動を
開始し,21年5月下院議員に当選する。22年10月ファシストのローマ進軍
の圧力によって,国王から組閣令を引き出し,39歳で首相となった。

以後20年にわたって首相の地位にあり,とくに25年1月、力による支配の
方針を表明した後,ファシズム体制を築いて独裁的な権力を掌握した。
ファシズム内の諸潮流の均衡の上に立って,その時々で大臣を交代させ
ながら,みずからは指導者として最高の地位を保持した。

1940年6月10日、イタリアはイギリス、フランスと開戦、同年9月27日に
日独伊3国同盟に調印してドイツと日本の密接な関係を確認した。その
後の1941年12月には日本とアメリカが戦争状態に入ったことを受けてア
メリカにも参戦するなど、日本とドイツと並ぶ枢軸国の一国として本格
的に参戦した。

しかし,敗色が濃くなると政・財・軍各界からの批判が高まり,43年7月24
日ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。

1945年4月に、連合国軍の進撃を避け敗走するドイツ軍とともに中立国の
スイスに脱出する途中、コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザ
ンに発見され、同月28日に銃殺された。

その死体は同行していた愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミ
ラノのロレート広場に逆さ釣りにしてさらされた。ムッソリーニの最期
は、死刑の通知をするレジスタンスに対し、「胸を撃て!」と叫んだとさ
れる。没年月日 1945年4月28日(満61歳没)

彼の死体が、公衆の前にさらしものにされたことを聞いたヒトラーは強
いショックを受け、自決の際に「彼のようになりたくない」と、自身の
死体をすみやかに焼却するよう部下に命じたと言われる。

ファシズムの創始者であることから、「世界で最も優れた写真家3人を
挙げよ」「ムッソリーニが現像し、ヒトラーが複写し、ゲッベルスが拡
大した」というジョークがある。2008・04・24

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び「世界大百
科事典」(平凡社)


2008年04月27日

◆「巴里だより」・屋根瓦の反響

                   岩本宏紀(在仏)
                (2008年4月21日 当メルマガ掲載)


・京都の女性
屋根・・うだつ・・四国の心意気を感じました。
(岩本:「卯建があがらない」はこの言葉が語源だそうですね)

・北海道出身の女性 
私は札幌で生まれ育ちました。
丘の上の我が家から毎日札幌の街の屋根を眺めて過ごした少女時代。
赤や緑や青のトタン屋根はかわいらしい風情です。

そんな私が東京へ来て、電車の中から見ていた明治神宮付近の屋根瓦の美しさに見とれたのを思い出します。
この古い家々はいつの頃か姿を消しました。
なくなってしまった途端、何の魅力もない風景が残り
ここを通過する楽しみはなくなりました。
屋根には物語が存在しています。

チュイルリー公園の観覧車からのパリの街。
私も次回パリを訪れるとき、是非観覧車に乗ってみましょう。
(岩本:色とりどりの屋根というのも、これまたよさそうですね、屋根の雪が落ちて、それでも地面は白という光景を想像すると。)

・元巴里、今は千葉の男性
チュイルリー公園の観覧車、懐かしいですね。
今から17年前も存在していたんですね。
私は、チュイルリー公園の観覧車には、乗った事が無いですが
昨年コンコルド広場で乗る機会がありました。
私は、高所恐怖症なので外の景色を眺める余裕はなかったです。
なので高所でも平気でいられる人達が羨ましいです。

それでは、私が2003年にオルセー美術館の屋上から
モンマルトル(サクレクール寺院)を撮った写真を参考に送ります。

(岩本:オルセーからの眺めもいいですよね)。

・元巴里、今は東京の男性
週末、金毘羅歌舞伎にでかけ海老蔵を堪能してきました。金丸座もなかなか趣があり、よかったです

折角でしたので、金毘羅参りもしてきましたが、奥社からみる町並みに おっしゃられる瓦屋根が拝見でき、素晴らしい景観にうっとりでした。

最近は地震対策で伝統的な瓦をやめ、軽い製品に変えられてる家が多いのは残念ですが、これも時代の流れ、やむを得ません。
南仏のオレンジカラーの屋根がそれにしても懐かしい。

(岩本:四国で海老蔵とは贅沢な旅行でしたね。歌舞伎のあとの日本家屋の
屋根鑑賞、これまたいい取り合せです。南仏の屋根と聞いてふと思いました。円筒を縦長に半分にしたあの形状は、太陽の熱の影響を抑えるためなのですね。表面積が広くなるので熱くならないのでしょう)。(完)

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<岩本さんのエッセー(反響の欄)で、「うだつが上がらない」という記述が出てくる。「うだつ」というのは、「へ」の字型の屋根を補強するために、屋根の両側から支える「垂直三角形の構造部分」のことだそうだ。

木造建築の家は、この「うだつ」で支えないと屋根は設える事が出来ない。つまり、この「うだつ」が上がらないとないと、新築の木造家は完成しないということなる訳だ。

そこから転じて、江戸時代からは「うだつ」を上げることが出来た者は、「出世者」の代名詞になった。庶民は長屋住まいだったから、「うだつ」を上げられた者は、勿論豪商に限られていた。

「うだつ」を上げる時は、匠、大工は勿論町中の人々が集まって、勢いのいい「よいしょ!」の掛け声を掛け合いながら、「うだつ」を引き上げる盛大な行事をしたらしい。「うだつ」が上がると祝宴となり、庶民もこれにあやかって町中が大騒ぎになつたそうだ。

だから、それをやれるだけの私財を持ちながら屋敷を作れない者に対しては、「うだつが上がらない男」と称されたらしい。

岩本さんのエッセー反響欄を拝読して、「うだつ」の由来とそれに纏わる話を綴ってみた。・・・・・・・毛馬 一三>