2011年04月19日

◆自公「復興実施本部」当面応じず

渡部亮次郎

野党への「復興実施本部」入りは、菅首相が国民新党の亀井静香代表に投げさせたクセ球だったが、自公両党は18日、打ち合わせの結果、当面、断ることを決めた。

災害復興に協力することにはやぶさかではないが、この底には菅首相の延命策が隠されていることが明瞭だったためである。

<自民、公明両党の幹事長、国対委員長らは18日昼、都内で会談し、国民新党の亀井静香代表や菅直人首相が東日本大震災の復興に向けて検討している与野党合同の「復興実施本部」(仮称)への参加について、当面応じない方針を確認した。

自民党の逢沢一郎国対委員長は会談後、記者団に対し、民主党内で「菅降ろし」の動きがあることを念頭に「この段階で軽々に判断できる政治状況か見極める必要がある」と述べた。>
産経新聞 4月18日(月)14時6分配信

それよりも何よりもびっくりしたのは産経新聞政治部総理官邸担当記者のキャップ阿比留さんの菅首相への質問(4月12日)である。阿比留さんのブログによればこうある。

<「現実問題として与野党協議にしても、最大の障害となっているのは首相の存在であり、後手に回った震災対応でも、首相の存在自体が国民の不安材料になっていると思う。一体、何のためにその地位にしがみついていらっしゃるのかお考えを聞かせてほしい」。要は震災その他対策に、菅首相がいて邪魔だとはっきりいっているのである。

これに対し菅首相はこう答えました。「阿比留さんの物の考え方がそうだということと、私は客観的にそうだということは必ずしも一致しないと思っています。(中略)私とあなたとの見方はかなり違っているとしか申し上げようがありません」

私はこの質問をするに当たって、まだ菅首相の正体と危険性に気付かないか、あるいはそれこそ私と見方がかなり違っている人からは、強い反発を受けるだろうなと覚悟していました。>

その結果、阿比留さん宛に抗議のハガキが1通だけ来たそうだ。

私もNHK記者の時代、田中角栄内閣の総理官邸記者のサブ・キャップを経験したが、田中首相の金権体質批判をテレビで展開した事はあるが、だからあなた辞めなさいと面と向かっては、恐ろしくて言えなかった。

田中の差し金で大阪に左遷されて事をきっかけに41歳でNHKを退職してしまったが、阿比留さんのような立場の人間から、こう露骨に非難されるようでは、菅首相の政治生命も旦夕に迫っていることを示すものだろう。

これを見ては、自公両党とも復興会議にとても参加する事はできない。首吊りから輪を外してやることに成り、自らの首を締めることになるからである。2011・4・18

2011年04月18日

◆「愛国の花」とデヴィ夫人

渡部 亮次郎

渡邊はま子の歌った「愛国の花」がインドネシアのスカルノ元大統領の好きだった歌として有名になったのは、深田祐介(ふかだゆうすけ)が1970年代に小説『神鷲(ガルーダ)商人』で取り上げてからだった。


「神鷲(ガルーダ)商人」深田祐介著は 文春文庫。

昭和33(1958)年、インドネシアに対する賠償協定が調印されたのに目を付けた日本商社は、巨額の利益を求め画策する。その翌年、日本を訪れたインドネシア大統領スカルノは、ナイトクラブで美貌の歌手、根岸直美を見初める。戦後の日本、アジア関係の原点となる賠償に巻き込まれた人間たちのたどる数奇な運命。

インドネシア大統領第三夫人となった直美は、異国での軋轢に傷つきながらもスカルノの愛情を励みに、確固たる地位を築き上げていく。一方、彼女を利用し、巨利を貪り続けようとする日本商社の思惑と、それをめぐる男たちの野心は何をもたらしたのか。果たして、戦時賠償はインドネシアを救うという神鷲だったのか。

ここで「直美」として描かれているのが、当時、東京・赤阪のクラブ「コパカバーナ」でホステスをしていた根本七保子である。

<翌年、日本を訪れたインドネシア大統領スカルノは、ナイトクラブで美貌の歌手、根岸直美を見初める>と小説では描かれている。そこで2人の心を急速に近づける鍵が「愛国の花」なのである。

<スカルノは立ちあがり、部屋の隅のピアノの傍に歩み寄って、2番の歌詞を直美と一緒に、正確な日本語で歌い始めた。>

<2.老いたる 若き もろともに
  国難しのぐ 冬の梅
  かよわい力 よくあわせ
  銃後にはげむ 凛々しさは>

「新版 日本流行歌史(中)」社会思想社 1995年1月発行によると、「愛国の花」は昭和13(1939)年春の歌。作詞福田正夫、作曲古関裕而(独学)。この年、日本放送協会(敗戦後、NHKと名乗る)の「国民歌謡」として渡邊はま子が歌って好評を博した。

そこでコロムビア・レコードが5月に制作・発売、大ヒットした。4年後(1942年)11月には松竹(大谷松次郎、竹次郎双子の会社)が、これを主題歌にして「従軍看護婦の愛の物語」の映画が作られた。戦意高揚の歌より、叙情歌の方を兵隊たちが歌ったのは明日をも知れぬ命を歌ったからではないか。

「愛国の花」の作詞者の福田正夫は「日本の民衆派の先覚として早くから純粋詩壇で活躍した人」として知られた。

主宰者自身としては、生まれて2年後の歌なので、戦時中、7つ上の姉が歌っていたのを聴いた覚えはあったが、ピンと来なかった。

深田の小説「神鷲(ガルーダ)商人)を読んで、大学生の頃、当時の岸信介首相が対インドネシア賠償で、社会党から国会で汚職臭を追及されていたことを鮮明に思い出す。しかしインターネットで「木下産商」と引いても、もはや該当するものは無かった。

スカルノが日本の歌「愛国の花」を歌えたのは、彼のオランダからの独立運動を援助した日本陸軍の将兵が歌っていたのを覚えていたからで、根本さんがこの歌を知っていたかどうか。

この独立運動については畏友で国際問題評論家の加瀬英明氏が小説「ムルデカ」を執筆している。

小説『ムルデカ 17805』
加瀬英明 [著]

自由社〔電話:03-5976-6201.112-0005文京区水道2-6-3〕
2001年5月5日発売
ISBN: 4-915237-28-1
価格: 1600円(税別)

【解説】
インドネシア独立のために、戦った日本人兵士たち
1945年、日本敗戦−−−そして、もうひとつの戦いが始まった。「ムルデカ=独立」の気運が一気に沸き起こるインドネシア。

しかし間もなく、オランダ、イギリスが、再びこの国を統治下に置くべくインドネシアに来攻、独立戦争が勃発した。島崎の教えを受けたインドネシアの青年たちは、真っ先に独立軍に身を投じた。

元日本兵島崎たちは戦犯として、オランダ軍に捕らえられ拷問を受ける。「青年道場」の教え子たちを助けたいという気持ちと、部下を日本へ復員させる責務との間で苦悩する島崎。

やがて、捕虜虐待の罪を着せられ、宮田は処刑されてしまう。遺言は「インドネシア独立に幸あれ」。インドネシアの同志たちの手で奇跡的に救出された島崎は、彼らとともに戦うことを決意する…。

加瀬氏は「日本の多くの青年がアジアを白人の手から取り戻すために生命を捧げた。それがアジアを大きく動かし、大戦後、植民地解放の嵐となって全世界に吹き荒れたのである」という。

スカルノは戦いの先頭で「同僚」日本人たちの歌う「愛国の花」を独立運動の心として歌っていたに違いない。


_
 愛国の花

  福田正夫 作詞
  古関裕而 作曲

 1.真白き富士の けだかさを
 こころの強い 楯として
 御国につくす 女等は
 輝やく御代の 山ざくら
 地に咲き匂う 国の花
     
2.老いたる 若き もろともに
 国難しのぐ 冬の梅
 かよわい力 よくあわせ
 銃後にはげむ 凛々しさは
 ゆかしく匂う 国の花

3.勇士のあとを 雄々しくも
 家をば子をば 守りゆく
 優しい母や また妻は
 まごころ燃ゆる 紅椿
 うれしく匂う 国の花

4.御稜威(みいつ)のしるし 菊の花
 ゆたかに香る 日の本の
 女といえど 生命がけ
 こぞりて咲いて 美しく
 光りて匂う 国の花

(註) 御稜威=「みいつ」の尊敬語。天皇・神などの威光。強い御威勢。
(広辞苑)


2011年04月15日

◆ホスピスとモルヒネ

渡部 亮次郎

必要があって、急にホスピスとモルヒネが、身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということかも知れない。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ (hospitality) と呼び、そこから今日の病院を指すホスピタル (hospital) の語が出来た。

歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。

18世紀末、アイルランドは、イギリスの植民地でプロテスタントによる弾圧により居場所を失った人々が居た。修道女 マザー・メアリ・エイケンヘッド(アイルランド「シスターズ・オブ・チャリティ」(慈善修道女会・カトリック)創立者)はその居場所を創る志を立て、19世紀にダブリンに(ホスピスの原型と思われる)「ホーム」が建てられた。

20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設としての近代ホスピスが、イギリス、アイルランドから始まった。

1967年、セント・ジョセフ・ホスピス(ロンドン, ハックニー(アイルランド人の多い地域)で学んだ女医のシシリー・ソンダース(CICELYSAUNDERS)は、セント・クリストファー・ホスピスを建設、緩和ケアを基本とした、現代ホスピスの基礎を作り、世界的な広がりの先駆けとなった。

アメリカ合衆国では在宅ホスピスが中心である。

ホスピスで、患者の苦痛を除去するために主に用いられるのが麻薬のモルヒネである。

◆本稿は、4月15日(金)刊の「頂門の一針」2232号に
掲載されています。

◆<2232号 目次>
・私が書き残し、伝えたい事:村井正典
・父不在国家:須藤文弘
・大震災が日本の友と敵を峻別した?!:古森義久
・菅政権「さらなる災禍招く」と小沢氏が批判:古澤 襄
・ホスピスとモルヒネ:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2011年04月14日

◆人材発掘怠り2世で沈没自民党

渡部亮次郎
 
昭和39(1964年7月10日、内閣総理大臣池田勇人(はやと)が自民党総裁に3選され、偶然だが、この日から私の政治記者修業が始まった。

池田首相に終始くっつくだけの池田番記者をする一方、自民党内 No2の実力を誇示する河野一郎無任所大臣をも担当。彼が、折からの東京オリンピックと東京都の水不足問題担当大臣に指名されたため、オリンピックと飲み水に詳しくなった。

首相池田は当時の大蔵官僚。佐藤栄作とともに、吉田首相に寵愛され、占領下の日本政治の舵取りをしながら成長した。佐藤の実兄が安保退陣をした首相岸信介。兄弟とも官僚出身。栄作は運輸事務次官から政界入り。

一方の岸は東大に残れと要請されたほどの秀才。当時の商工省に入り、満州国に乗り込んで辣腕を振るった。対する河野一郎は朝日新聞記者から政界入りした、所謂党人派だった。

こうした中で新潟の小学校上がりの若手政治家が、密かに牙を研いでいた。佐藤の派閥に属しながら、池田派の幹部で大蔵官僚上がりの大平正芳を通じて池田に取り入り、遂に大蔵大臣に上り詰める。

田中はノモンハン事件に出征、その後、東京で土建会社を興して蓄財、それを翳して30前に代議士となる。神楽坂の芸者を引かし男児2人を設けた。真紀子は本妻の子である。

このように昭和50年ごろまでの自民党は多士済々だった。殆ど男性ばかりで、兵役経験者が多かった。「死」に直面し、生きながらえた人物が多かった。度胸が据わっていた。

たとえば衆院議員当選9回で初入閣する九州天草出身の園田直(すなお)は、いわゆる「特攻隊」の生き残り。「弾は逃げれば命中する」との信念の持ち主。あらゆる困難を買って出た。日米安保は再軍備の邪魔になると反対投票、除名されて入閣が遅れた。

園田とともに河野派に属した中曽根康弘は内務官僚から海軍主計官を経て政界入り。若くして岸内閣に入閣。その後鳴かず飛ばずの期間が長くなった為、川島正次郎に接近。河野の怒りに触れ、河野が「明日、中曽根を派閥から除名する」と私にいった。

その当日に河野が腹部大動脈瘤破裂で倒れた為、不名誉を免れた。あの時河野が死ななければ政権獲得、大勲位はもらえなかったろう。

こうした人たちが自民党を動かしたわけだが、殆どすべての政治家が息子や縁者を後継者にしている。池田は娘婿を後継者にした。佐藤は次男を、河野も次男たる洋平を指名はしなかったが、結果はそうなった。

岸は女婿たる安倍晋太郎に夢を託して「道ならし」。岸の「安倍狂い」とまで言われた。自民党の将来よりも安倍の出世が大事だった。

園田は「子供を後継者にしない」と高言していたが、死んで見ると未亡人と先妻の子たる次男が後継を争うという見世物を演じた。

忘れてならない人物に大野伴睦 (おおの ばんぼく =ともちか )がいる。

東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。

典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の格言を残したことでも知られる 。出典フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

しかし、この人の遺児も議員になり2世議員の恥を晒した。

ナポレオン時代のフランスの政治家・ジョゼフ・フーシェに例えられ「江戸前フーシェ」や、「寝業師」、「道中師」、「おとぼけ正次郎」と渾名されたりもした川島正次郎は新聞記者から東京市の役人。

それから政界入りし、岸信介のもとで幹事長。佐藤栄作政権では長く副総裁だったが、佐藤が後継首相に福田赳夫を指名しようとしているのを阻止。党人派田中政権の樹立に献身した。子がなかったので二世は作らなかった。

このようにして自民党は新しい血液の混入を拒否、長期政権の地盤を固めていった。

したがって政界入りを目論む者は自民党に背を向けざるを得なかった。特に官僚は自民党を早くから見限った。

松下幸之助が政経塾を作って、結果的に野心家ばかりを養成したのは彼のたった一つの汚点だと思うが、それにしても、その卒業者の悉くが現在の民主党に固まる結果となったのは、厚い壁をたてて彼らを拒否した自民党の罪である。

その壁には古い因習によって人間を差別する壁もあった。思想的に自民党員足るべき資格者がミスミス民主党に走らざるを得なかった例を数多知っている。

こうして自民党は二世、三世議員だらけになり新しい知性の感じられない政党に成り果てた。小泉政権はまだしも安倍晋三、福田康夫、挙句は漢字も読めない麻生太郎で遂に倒産と相成った。

ところで「子供は俺の地位を継ぐべきでない」と高言して死んだ園田の後を息子が継ぐ結果を近くで見ていたが、あろうことか後援会の幹部による会の主導権争いが決定的に影響していた。

幹部の中には思想信条・政策において後継者に相応しい地方議員はいたが、後援会の主導権を失いたくない幹部は、敢えて息子を指名することによって大方の賛同を得、有力県会議員の中央政界進出を封じた。

二世、三世議員の登場にはこうした例が多いのでは無いか。

いずれにしろ、自民党は議員志望者を育成し、党の血液を入れ替える荒仕事を成就させなければ、民主党から次期総選挙で政権を奪回できたにしても、再度奪い返される日は来る。(文中敬称略)
2011・4・9

2011年04月12日

◆小沢氏系に「菅降ろし」の声も

渡部 亮次郎

統一地方選挙における民主党の大敗は予想通りだった。内紛を繰り返すなか、鳩山ルーピーに続いて登場した菅首相は、頭の中が空っぽのパフォーマンス屋。東日本震災という国難に全く対処能力の無いことを日々晒しているさなかの選挙だったから、有権者の大半が怒りを民主党にぶつけた選挙だったから当然の結果だった。

菅に対立する若手中心の小沢系から菅退陣を求める声が公然と出るのはこれまた当然のことだ。特に民主党に担がれたはずの西岡参院議長まで退陣を求められるようになっては、しがみつきの菅ももはや容易ではな
い。

だが、大震災の復興策も固まらない中での菅降ろしは紆余曲折を辿るだろう。

<民主敗北、政権に打撃=小沢氏系に「菅降ろし」の声も【統一選】

10日の統一地方選前半戦で、民主党は自民党との対決型選挙となった知事選などで相次いで敗北、菅政権にとっては手痛い打撃となった。

民主党幹部は「厳しい結果だ」と深刻に受け止めている。東日本大震災や福島第1原発事故の対応が長期化する中、直ちに菅直人首相の進退に発展する可能性は低いが、民主党の小沢一郎元代表に近い議員からは、首相や岡田克也幹事長の責任を問う声も出ている。

民主党の岡田幹事長は11日未明、選挙結果について「非常に残念だ」と肩を落としたが、自らの引責辞任は否定した。

一方、自民党の石原伸晃幹事長は10日夜、「国民は、菅政権にハンドリングを任せて大丈夫か、ということを示したのではないか」との見方を表明。

公明党の山口那津男代表は「菅政権は国民の評価を得られなかった。震災に対する評価が今回の選挙に表れている」と指摘した。

民主党は12都道県知事選のうち、自民党推薦候補と対決した北海道、三重両知事選で敗北。首相のお膝元の東京都知事選は自主投票で不戦敗となった。

党執行部は「国政と地方選とは別」(党幹部)としているが、昨年9月の菅改造内閣発足後、主要な地方選では敗北が続き、大震災や原発事故の対応でも指導力不足と批判され、小沢氏系議員からは「最低でも幹事長の責任は免れない」「首相を降ろすしかない」などと悲痛な声が出てい
る。

ただ、今は被災地の復旧・復興対策が急務で、「菅降ろし」には動きにくい状況だ。民主党ベテラン議員は「復旧・復興のための2011年度第1次補正予算の成立までは菅政権で可能だが、その後の第2次補正成立まで乗り切れるかどうか」との見方を示す。

党幹部の1人も「すぐに首相に『辞めろ』とはならないだろうが、じわりと選挙の影響は出てくる」と語った。(続)>
時事通信 4月11日(月)0時52分配信

2011年04月11日

◆男の退き際

渡部亮次郎

神奈川県知事を引退した松沢成文氏が、石原都知事に恨み節を唱えているが、男の退き際として、絶対やってはいけないことである。

一見、正義は松沢氏にある。東京都知事選が近付いたある日、石原氏に呼ばれ、僕のあと(東京都知事)をやってくれと要請され、了承。次期神奈川県知事選には出馬しないと表明した。退路を断ったのだ。

ところが石原氏は、これを撤回、4選出馬を表明したので、既に退路を断っていた松沢氏は、ただの人になってしまった。

<松沢氏、東京都知事選の立候補を撤回

東京都知事選に立候補を表明している松沢成文・神奈川県知事(52)は3月14日、都庁で会見を開き、出馬を撤回すると発表した。

松沢氏は、引退の意向だった石原慎太郎都知事(78)の後継含みとされていたが、石原氏が4選出馬を決めたことで引いた形だ。

会見には、石原氏と上田清司・埼玉県知事(62)も同席。冒頭、上田氏は首都圏の知事同士の争いを避けるため、石原、松沢両氏の調整を進めたと説明。松沢氏は「苦渋の決断だが、受け入れることにした」と述べた。

その理由の一つに東日本大震災を挙げ、「地震がなければ戦っていた可能性が大。知事選があるからと言って県庁を抜け出すのは行政の長として許されない」と話した。

首都圏連合の強化や受動喫煙防止条例制定など、松沢氏の公約は石原氏が引き継ぐという。松沢氏は「石原知事から協力してほしいと言われた。一歩下がって全面的に協力する」と話した。神奈川県知事選に立候補することは「できないと思う」と否定した。

松沢氏は2月に石原氏に出馬を促されたといい、3月1日に正式表明した。石原氏は、いったんは不出馬の意向を決めたが、選挙の結果次第では、自身のこれまで進めた都政の路線が継承されない可能性があるなどとして4選出馬を決意。10日に松沢氏に伝えていた。

都知事選をめぐっては、前参院議員の小池晃氏(50)=共産党推薦=、外食チェーン大手ワタミ創業者の渡辺美樹氏(51)、発明家のドクター・中松氏(82)らが立候補を表明。前宮崎県知事の東国原英夫氏(53)も立候補の意向を固めている。>
(Asahi Com 2011年3月14日22時53分)

聞いているところによれば、石原氏は実際、引退するハラを固めていた。そこで予ねて気脈を通じていた松沢氏にあとを託そうと決意したらしい。

ところが調査会社による世論調査の結果、松沢氏は都民に知られていない上に人気がなく、選挙は前宮崎県知事の東国原英夫氏(53)が優勢の可能性が高いと出た。仕方なし、石原氏は「あえて4選出馬せざるを得ない」との結論に達し、10日にはこれを松沢氏に伝えていた。

<川崎市多摩区生田出身。中学から大学まで慶應義塾で学び、大学卒業後はすぐに松下政経塾に入塾。同期生に鈴木淳司・笹木竜三・前田正子らがいる。在籍中にアメリカ連邦議会の下院議員やメリーランド州の司法長官のスタッフとして活動。

1987年3月に松下政経塾を卒塾。直後、同年4月の神奈川県議会議員選挙に田川誠一が代表を務める進歩党推薦で立候補し、初当選。県政史上最年少議員として注目を集める。この選挙における学生ボランティアに手塚仁雄がいた。

1993年、衆議院議員総選挙に旧神奈川2区から立候補し、初当選。以後3期連続当選。新生党、新進党を経て民主党へ合流。議院運営委員会理事、外務委員会理事、災害対策特別委員会委員長、民主党選挙対策委員会事務局長、民主党次の内閣教育・科学技術ネクスト大臣等を歴任。

1999年、第1回民主党代表選挙に枝野幸男、上田清司、簗瀬進、前原誠司、田中甲、岩国哲人、奥田建ら当選回数が少ない国会議員の支援を得て、菅直人の対抗馬として立候補。得票数は菅の180票に対し51票に留まったものの、大方の予想を上回る票を獲得し善戦。

2003年4月、民主党を離党して無所属候補として神奈川県知事選挙に立候補し、盟友の中田宏横浜市長や石原慎太郎・東京都知事の応援を受け初当選。

2007年4月の神奈川県知事選挙では自民党県連推薦の杉野正候補や共産党推薦の鴨居洋子を破り再選。次点だった杉野の約3倍の得票を集める圧勝となった。

2010年12月、反日教育の疑いがあるとして留保していた朝鮮学校の無償化を解除して交付した。金額は6300万円。>ウィキペディア

ところが松沢氏は舞台裏をぶち負けて、石原氏への恨み節を展開した。メールだのブログだの便利なもので心情を吐露したようだ。
これでは、次の場面で松沢氏に借りを返そうと思っていた石原氏も臍を曲げ、援助しないだろう。

いきなり知事の座を失ってショックだったから、つい、愚痴が飛び出したのだろうが、こういう程度の寸法の人物では次の使い道も余り無いだろう。失敗したな、オイ。2011・4・10



2011年04月10日

◆安全宣伝専念の東電

渡部亮次郎

良く黙っているものだ、東電に対して世の中は。福島第一原発を施工した会社の当時の責任者は「アメリカから取り寄せた設計図をそのまま施
工した。地震も津波も想定なんかしなかった」とどこかで告白していた。世間は津波の凄さにのまれていたからか、何の反応も起きなかった。

東北電力が作った女川原発は地震や津波については軽い被害で済んだ。さすがチリ地震津波の被災地に隣接しているだけあって、東北電力は津
波防波堤(9m)を築いていた。すべてを防げたわけではなかったが、軽くて済んだのは流石である。

東京電力の福島原発を実地に見学したことは無いが、施工した責任者の告白通りだとすれば、原発は太平洋に向かって下半身を晒して突っ立っ
ていただけだった。それなのに、東電も政府の保安院も地震と津波が「想定外」だったから、と逃げている。

「想定外」とはなんらかを想定していた者が発することの出来る言葉である。福島第一原発については東京電力も保安院も地震や津波を想定し
ていなかった。少しぐらい想定していたら少しぐらいの対策があったはずだ。

知人が経済産業省や電気事業連合会の予算で原子力発電の「安全」を宣伝する会社を経営しているから、内部事情を少しだけ知っているが、東
電は福島原発に関して「想定」などして来なかった。ただただ「安全」を「宣伝」していただけである。

言い方を変えれば、地震も津波も想定していなかったアメリカの設計図どおりに作ってしまった福島原発に今更、マグニチュード9・0や津波を想
定しても尽くす手段は無かったわけだ。

原発を作り直すなど気が遠くなるから、世論対策で事態を糊塗するしかなかったのだ。マスコミなどに飲ませ食わせて地震や津波を頭から消そ
うとしていたに過ぎない。

専門家の科学的な批判や世論の高まりを交わす為に、「安全」を宣伝するPR会社を設立させて、宣伝費をつぎ込むしかなかったのだ。知人こそ
「いい面の皮」だったわけだ。

こうした面は、原発を持っている国内のあらゆる電力会社に共通である。知人の案内で中部電力浜岡原発を視察したことがあるが、地震や津波対
策の実際について一言の説明も無かった。

今更、人類は原発を否定する事は不可能なところまで依存する体制に産業はある。しかし想定外の自然災害は必ず起きるのだから、安全対策に
莫大な資金をつぎ込む事はやむを得ない。その分を消費者は予め負担を覚悟する必要がある。      2011・4・9

◆本稿は、4月9日(土)刊の全国版メルマガ「頂門の一針」2226号に
掲載されました。
◆<2226号 目次>
・安全宣伝だけの東電:渡部亮次郎
・「義援金詐欺」に引っかかるな:平井修一
・復興案策定前にもたつく政治の機能不全:花岡信昭
・誰が二次災害を拡大させているのか :西村眞悟
・首相難色で消えた幻の「枢密院」構想:古澤 襄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」を購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2011年04月08日

◆たまには谷垣総裁を評価

渡部亮次郎

民主党との大連立をめぐる自民党谷垣総裁について、私のメルマガ読者の反応は、愚図に過ぎると散々だ。

<菅首相の退任を連立の条件にしたという自民党は、結局参加を拒否した。それはそれで結構なのだが、谷垣総裁の優柔不断振りは余りにもだらしがなかった。あの決断は二者択一であって右往左往して総理経験者のご意向を聞きに行くような性質ではない。それが出来ないような総裁には期待できないと再確認した>と手厳しい。

しかし、弁護士にしては仲々の策士だと私は珍しく感心した。総理経験者を尋ね歩いているうちに党内世論を引き付け、入閣希望者たちの欲望抑制に、わざと時間稼ぎをしたのだ。党内運営は単純ではない。策が必要なのだ。

もともと出身派閥の長たる古賀 誠氏が大連立に積極的である。谷垣にしてみれば大震災の震源地が足元だったのだ。そこで単純に考えれば古賀氏と会談すれば簡単だが、そうはしなかった。

中曽根氏を初めとする総理経験者を歴訪、会談を重ねることによって、なんとなく彼らの支持を取り付けた格好をつけ、党運営に関する求心力を確立。「反対」を主張するとみられる小泉氏と最後に会談。小泉氏の意見を借りた形で「反対」の結論を出した。

単純に「二者択一」とばかり、派閥の親分古賀氏と会談していたら「参加」の結論を出さざるを得なかったろう。古賀氏との要らざる対決を回避しながら菅の延命も回避した。

想定を超えた谷垣氏の深謀遠慮に気づかぬマスコミは、例えば産経政治部の佐々木美恵記者は7日の紙面で「谷垣総裁、政局決断できず、総理経験者行脚に時間、優柔不断さ露呈」と厳しい非難を浴びせた。

案外「愚図」と見せて古賀、森喜朗氏ら「参加積極派」との要らざる対決を回避した手腕は評価すべきだ。愚図は相撲をとらずに勝負に勝ったのだから。しかし、党内の人気はでないねぇ。
2011・4・7



2011年04月07日

◆一旦は消えた大連立だが

渡部亮次郎

燃えかけた民主・自民・公明による「大連立」だったが、5日、谷垣自民党総裁が再度、否定したことにより、一旦は消えたように見える。自民党内で積極的に動いた幹部の面々が余りに震災利権に目ざとい連中だったこともあって、大方の了承は取り付けられなかったようだ。

しかし、後述古澤氏の指摘するように「火種」も「策士」も残っているので、目を光らせる必要はある。

<谷垣総裁、大連立拒否「政策すり合わせもない」

自民党の谷垣総裁は5日、菅首相(民主党代表)が呼びかけた両党の「大連立」はできないとの考えを示した。谷垣氏は東京都内で記者団に「政策のすり合わせもないところでの連立はあり得ない。野党として震災対応の協力をやる」と述べた。

党執行部は「菅首相の退陣が大連立の大前提」としており、谷垣氏の発言も、菅政権との間での大連立を否定したものと見られる。

谷垣氏は首相の震災対応についても、「(首相官邸内で)たくさんの役を次から次に作るのは責任と権限を一元化することにつながらない」と批判した。

谷垣氏は同日、総裁経験者回りの一環として海部、小泉両元首相とそれぞれ会談、小泉氏は「健全な野党のあり方を発揮すべきだ」と助言した。

自民党幹部は「総裁経験者は菅政権との大連立に皆、慎重だった」としており、菅内閣が閣僚を増員し自民党に入閣を要請しても断る方針だ。>読売新聞 4月5日(火)20時39分配信


<大連立に否定的=「健全野党」、谷垣氏に求める―小泉元首相

自民党の谷垣禎一総裁は5日午後、都内で小泉純一郎元首相と会い、党派を超えて東日本大震災の復興に取り組むため、党内で容認論が広がる民主党との大連立について、意見を求めた。

小泉氏は「今は健全な野党の在り方をしっかり発揮すべきだ」と述べ、政権の外から協力するのが望ましいとの考えを伝え、谷垣氏は「全くその通りだ」と応じた。

会談後、谷垣氏は記者団に「政策の擦り合わせもない連立はない。野党として徹底的に震災対応に協力すると言っており、これをきちっとやる」と強調しつつ、「これからも、いろんなことを見ないといけない」と述べ、情勢を見極める姿勢を示した。>
時事通信 4月5日(火)20時53分配信

◆本稿は、4月6日(水)刊の「頂門の一針」2223号に
掲載されたものです。
◆<2223号 目次>
・一旦は消えた大連立だが:渡部亮次郎
・大連立の火種は残っている:古澤 襄
・「これで(首相を)2年できる」:阿比留瑠比
・菅氏では国民はもう頑張れない:遠藤浩一
・中国が市場から資金回収開始:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
◆購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



2011年04月06日

◆大連立は利権への群がり

渡部 亮次郎

俄かに表面化した民主党政権への自民・公明参加による「大連立」への動きは、単なる震災復興事業の「利権」ほの群がりに過ぎない。震災・復興への党派を超えた協力という美名と入閣という餌の先には復興事業にかかわる「利権」への黒い欲望がある。

自民党の谷垣総裁が即座に拒否して消えたかに見えた大連立構想が、俄かに現実味を帯びてきたのには、ワケがある。元総理大臣森 喜郎、元幹事長古賀 誠、既に引退したはずの野中広務元官房長官の各氏が、そうはならじと、実現に向けて大きく動き出したからである。

更に予ねて、大連立を主張していた大勲位中曽根氏の後押しが効いた。谷垣氏は4日、都内で中曽根康弘元首相と会談し、いきなり民主党との対決路線を放棄した。

かねて大連立論者である中曽根氏は「頼まれれば閣僚も出す。どの閣僚を取るかが大事だが、挙国的な態勢を作る意味では協力した方がよい」とアドバイス。

「公明党との関係を重んじるべきだ。災害立法が終わったら仕事は終わったと考えてよい。菅首相と進めていく形を取った方がいい」と付け加えると、谷垣氏は「同感です」とあっさり応じた。

要するに、東日本大震災から被災者をいかに救済するかという視点を忘れ、何十兆円になるか想像もつかない大利権の甘い汁をを民主党にだけ吸わせる手は無いというドス黒い欲望が先に立つ発想なのである。

このままでは「やはり利権に目が無いという自民党の体質は変わっていない」と言う批判が定着するという大チョンボになるだろう。

<大連立「二段階構想」着々と 前のめりの自民 慌てる民主

東日本大震災を受け、民主党の安住淳国会対策委員長は4日、閣僚を17人から20人に3人増員する内閣法改正を与野党国対委員長会談で正式に提案した。

自民、公明両党から実務型閣僚3人をまず入閣させ、本格的な大連立に持ち込む「2段階構想」の誘い水だといえる。自民党の谷垣禎一総裁は近く各派領袖とも会談し、一任を取り付ける構えだ。

数十兆円規模の復興予算を目の前にぶら下げられ、すっかり前のめりとなった自民党。逆に民主党から「菅直人首相が延命してしまう」と戸惑いの声が漏れ始めた。

「できるだけ早く菅政権を追い込む方針でしたが、大震災が起きてそのままの方針ではいかなくなりました…」

谷垣氏は4日、都内で中曽根康弘元首相と会談し、いきなり民主党との対決路線を放棄した。

かねて大連立論者である中曽根氏は「頼まれれば閣僚も出す。どの閣僚を取るかが大事だが、挙国的な態勢を作る意味では協力した方がよい」とアドバイス。

「公明党との関係を重んじるべきだ。災害立法が終わったら仕事は終わったと考えてよい。菅首相と進めていく形を取った方がいい」と付け加えると、谷垣氏は「同感です」とあっさり応じた。

谷垣氏は5日に小泉純一郎元首相と会い、その後各派領袖とも会談する考え。2段階構想への「地ならし」は着々と進んでいる。

山本一太参院政審会長は「菅首相がトップに座ったままのなし崩し的な連立には反対だ」と語ったが、もはや少数派だ。子ども手当など「ばらまき4K」政策に菅(KAN)首相を足した「5K外し」が大連立の絶対条件だったはずだが、すでに忘れられつつある。

それほど終戦以来の巨大復興プロジェクトは半世紀にわたり政権を担った自民党には魅力的なのだ。「これに関わらなければ自民党の名折れだ」(中堅)との声まで上がる。

浮足立つ自民党を横目に民主党の岡田克也幹事長はさらにアクセルを踏み込んだ。

「大連立の最大の意義は衆参のねじれを解消することだ。経験のある党に加わってもらうことは十分にあり得る」

岡田氏は4日の記者会見でこう語り、復興という大義名分を強調。公明党との連立も「政策の共通性が多いならばどの党とも連立を構成することはありうる」と歓迎した。

枝野幸男官房長官も「全面的に協力するとおっしゃっていただき、有意義な提案もいただいた。今後ともそうした姿勢で行動いただけるとありがたい」と謝意を示した。

このような急ピッチな大連立への潮流に民主党の非主流派は戸惑いを隠さない。

小沢一郎元代表に近い川内博史衆院議員は「首相や仙谷由人官房副長官が言う大連立は、自分たちに都合よく政治を取り運びたいということだけだ」と語気を強めた。

このまま2段階構想が進めば、首相は居座りを決め、小沢氏を中心に非主流勢力は埋没しかねない。そんな懸念は日増しに強まっている。>
(産経ニュース 2011.4.4 21:41)
2011・4・5

2011年04月03日

◆右手負傷顛末記=再刊ご挨拶

渡部 亮次郎

少し大振りのホッチキスを操作していて、右掌に打撲傷、手首に捻挫、全治2ヶ月の診断という珍しい体験をした。やっとパソコンを打つ許可が出たので、こうして駄文を綴ってはいるが、近所の整形外科には未だに通いつづけているのだから、顛末の末には未だ至ってはいない。

メルマガ「頂門の一針」は2000号をはるかに超しているが、各号のトップページを100号ごとにホッチキスで綴じている。100枚を綴じるのだからやや大振りではある。PLUS−50Dとある。

昨年11月20日の2101号が2200号に達したのが3月5日(土)のこと。暫くほっといたが、3月21日の夕方5時ごろ、表紙をつけた上で、正確には102枚を右手で押して綴じた。「なんだか変な感じだな」という思いはあった。

しかし、そのまま向島の洋食屋ヘビーフ・シチュウで焼酎を飲みに行った。あいにくシチュウは売り切れ。仕方なく以前は良く食べていたハンバーグを肴に呑んでいた。

2杯目ぐらいに右掌が腫れて来た。仕方なしガンガン呑んで寝た。ところが22日朝になると手首も痛くなって目が覚めた。またまた使うが、仕方なく、馴染の行徳駅前の皮膚科へ行ったが今日まで休診ときた。

また仕方なく、家人がかかった事のある江東区住吉2丁目の真田整形外科医院に入った。もう夕方だった。

白髪の真田医師、患部をちらと見ただけで「ホッチキスの誤操作による打撲症と手首の捻挫ですね。転んで手を突いて怪我する代わりにホッチキスで掌を激しく叩いたわけです」?????叩いた心算が叩かれたわけ。

要するに打ち方が悪かったのだろう。打ったとき、一寸変と感じたのは、掌の中心で打っていなかったから感じたものだったようだ。

とにかく親指の付け根辺りに大きく赤く腫れた瘤。手をそらしたり、内側に曲げたりすると手首は激しく痛むのだ。

以後毎日のように医院に通っておよそ10日。痛みは捻挫だけに成り、指先だけなら使ってもよいとの許可が4月1日に出た。

医者からPC打ちを止められていた間、「頂門の一針」を休刊していたが、切りのいいところで日曜日の4月3日から配信を再開することを決意した次第。

読者の多くからお見舞いのメールを戴きました。わざわざ拙宅を焼酎持ちで訪れてくださった方もありました。本当に有難うございました。これをもって休刊のお詫びと再刊のご挨拶といたします。 2011年4月3日。

◆本稿は、4月3日(日)刊「頂門の一針」2220号に
掲載されました。右手負傷が快癒され、再刊された
ことに心からお祝い申し上げます。読者の皆様、どうか
他の卓見も拝読ください。(netmo編集部)

◆<再刊2220号 目次>
・右手負傷顛末記=再刊ご挨拶:渡部亮次郎
・東電「貞観地震」の解析軽視:毎日新聞
・この巨大地震が教えたもの:矢野惠之助
・出でよ、平成の後藤新平:花岡信昭
・「原発キライ」と言われても:平井修一
・花粉症ぶっ飛ばした放射能:山堂コラム 383

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



2011年03月28日

◆ミネソタの卵売り

渡部 亮次郎

昭和26(1951)年2月発売のレコードに「ミネソタの卵売り」という割に流行した歌謡曲があった。41歳の若さで死ぬ事になる暁テル子が元気に唄った。東京浅草生まれ。SSK(松竹少女歌劇団)出身。

佐伯孝夫作詞、利根一郎作曲である。
「コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ
私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 人気者 
つやつや生みたて 買わないか 卵に黄身と 白味がなけりゃ 
お代は要らないコッコッコッコッ コケッコ」(2番省略)

悪い事に後年、NHK記者から園田直外務大臣の秘書官になったとき、その「ミネソタ」に出張する用事ができた。米国ミネソタ州の「ミネアポリス」にあるミネソタ大学である。

そこで大学関係者に確かめてみたが、何方も???

ミネソタが卵の特産地と言う事は無いとの結論だった。その後、どこかで作詞の佐伯孝夫さんの家にミネソタからの客が来ているところへ卵売りが来たので、この唄ができたという放送を聞いたような気がする。

暇にあかせて本をひっくり返したり、インターネットを暫く逍遥してみたが、いまのところ「確証」はつかめない。「卵とミネソタはなぜ結びついたか」お教えを乞う。

3番
コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ

私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 美人です皆さん卵を 食べなさい 美人になるよ いい声出るよ 朝から晩まで
コッコッコッコッ コケッコ

序に卵の豆知泉

国民1人当たりもっとも卵を食べるのはイスラエル人。
日本人が1年間に食べる卵の量は313個平均。1週間に6個食べている計算になる。

東京ではLサイズ・Mサイズがよく売れる。名古屋では小さめのMサイズとMSサイズがよく売れる。大阪では圧倒的にLサイズがよく売れる。

日本以外では、生卵をそのまま食べるということはあまりしない。

生卵をごはんに掛けて食べた元祖は東京日日新聞(毎日新聞)編集長の岸田吟行。円筒状の容器を持歩き、そこに卵を割り入れシェイクした物を、洋皿に盛ったライスにかけて食べた。つまり明治10年頃に日本で考案された洋食の一種だった。

目玉焼きで白身は65℃ぐらいで固まり始まり、黄身は70℃でゲル状、73℃で半熟になる。

卵の黄身の色が濃いと栄養価がありそうな気がするが、それは間違い。与えるエサによっていくらでも濃い色を出すことができる。

卵の丸い方に針で3ヶ所くらい穴をあけてゆでると、不思議な事に黄身は真ん中に落ち着く。

卵は尖った方を下にしておくと長持ちする。

ニワトリの卵には殻が白いものと赤いものがある。一般的には白が普通で、赤い卵は栄養素が多く含まれていると思われているが、実際は両者に差はない。この色の差はニワトリの品種の違いが原因。

産卵用のニワトリとして知られている白色レグホンが産むのは白い卵。それに対して赤い卵を産むのはハーバードコメットを始めとしていくつか種類がいる。

実はそれ以外にアローカナと言うニワトリは青い卵を産む。この色付の卵を産む理由は、野生だったニワトリが外敵から卵を守るためのカモフラージュだったと言われている。

ファイト一発!? 戦後歌謡史に『ミネソタの卵売り』と言う曲がありますが、昔は卵を売りに来る人がいました。

それは江戸時代からあった商売ですが、江戸時代に玉子売りが出現するのは多くは吉原などの遊郭でした。

と言うのも、卵は精力増強に役に立つ、それも即効性があると信じられていた為に、遊郭で頑張るぞ!?と言う人々が買い求めたのです。

当時の川柳などを見ても、奥さんが旦那にむりやり生卵を飲ませると言う話がいくつか残されています。

《玉子割って飲ます女房の下心》

《もう一つお吸いねぇと生玉子》

2つ目の川柳などは1つでは足りず、2つ飲ませればいつもの倍の働きをするのではないか?と言う女房のたくらみが描かれていたりするのです。

この「生卵=即効性の精力増強」と言う考えは江戸時代の中期に出てきた俗説で、現代でも信じている人も多いものです。しかし実際に医学的に考えると、そのような即効性の精力増強剤としての効能はほとんどありません。

温泉卵

白身が半熟、黄身が固まっている温泉卵を作るのは意外に簡単。白身は70度で固まり、黄身は60度で固まる性質を持っているので、65度程度のお湯に漬けておけば簡単に作れます。

酒を飲む前の生卵

酒を飲む前に生卵を飲んでおくと酔いの回りが遅くなります。

これは卵の黄身に多量の脂肪分が含まれている為で、胃の中で脂肪に解けたアルコールは吸収されにくくなる為です。

鳥の卵は、もともとは白くてまん丸だった物が、次第に現在のような「卵形」と呼ばれる形に変わったものといわれます。これは親鳥が卵を抱いて温める際、誤って転がしても、そのまま転がっていかずに卵は軸を中心に回転して、自然に元の位置に戻ってくるようになっていると言うのです。同じ鳥でも、その産卵条件によって形が違って来ます。

ウミガラスやペンギンなどのように、断崖や岩の上に産卵する種類の鳥ほど、その卵の一方の端がとがり、反対にフクロウなどの卵は木の穴に産卵する鳥は、落とす心配がなく球形だといわれています。

この地球上でもっともたくさんの卵を産むのは、魚のマンボウ。1度の産卵で3億程の卵を産むが、もともと体の弱い魚で、成魚になるのはその中で2、3匹と言う少ない数なので、海がマンボウで埋まるという事はない。


2011年03月25日

◆鼻濁音を発音できない歌手

渡部 亮次郎

東京に出てきたころは、秋田訛が如何に強烈なものかの自覚がなかったから何のことか分からなかった。「訛ってなんだい」。だが、2,3日すると分かった。東京の言葉とは別物だ。急に恥ずかしくなった。

しかも学校卒業後になったのはNHKの記者。テレビに出演して喋らなければならなかったので訛を直すのには苦労した。しかし、そのうちに気づいたことがあった。関西の人はがぎぐげごの鼻濁音が出せないということである。

大阪出身の谷村新司、京都の都はるみが特に耳障りだ。だが、だからと言って彼らの人気に響いているわけじゃない。耳障りになっているのは私だけのようだ。

日本人の英語発音について、アメリカ語に堪能な知人前田正晶氏は耳障りな発音が横行シテイルとしばしば怒っておられるが、アメリカ語に標準語があるわけじゃない、国中が勝手に訛って話しているだけ。

前田さんに英語を教えた人、雇われたアメリカ資本の会社の人たちだって、みんなして訛っていただけじゃないのか。


<鼻濁音(びだくおん)とは、日本語において、濁音の子音(有声破裂音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。音声上はま行の /m/ やな行の /n/ と同じ鼻音の一種軟口蓋鼻音である。

戦争中、大阪から秋田へ疎開してきた女子児童が、国語の本を読んだら「が」、「ぎ」、「ぐ」、「げ」、「ご」の発音が全く秋田発音と異なるので「おかしな言葉だ」と思った。東京からの疎開児童は大阪のような発音はしなかったからだ。

その違いが「鼻濁音」の有無であることを知ったのは大人になってからである。戦後生まれの関西出身の歌手に鼻濁音の出せない人が多い。渡哲也(淡路島)も出せない。いや、鼻濁音の何たるかに関心すら無いのかもしれない。

鼻濁音は近畿地方より東の方言において、が行(か行の濁音)、すなわち、が、ぎ、ぐ、げ、ごに現れ、これをガ行鼻音またはガ行鼻濁音という。東京も使用地域に含まれるため、ガ行鼻音は日本語の標準的な発音と見なされ、NHKなどの報道機関でもガ行鼻音が徹底されてきた。

しかし、一般的な日本の国語教育では、鼻濁音などの音韻指導は学習内容に含まれていない。また、日本語の母語話者であっても、鼻濁音を用いるか用いないか、また鼻濁音を規範的と捉えているかそうでないかには地域差・個人差がある。

大別すれば、鼻濁音は近畿地方・中部地方から東の地域(群馬弁、埼玉弁、新潟弁などは除く)にみられることで、四国・中国地方・九州の方言ではほとんど使わない。

また、鼻濁音の使用地域でも、東京のように鼻濁音に対して規範的な意識を持つ地域もあれば、近畿地方のように鼻濁音がそれほど重視されない地域もある。

昨今では元々鼻濁音を使う地域でも、中年層以下では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは使えなく)なってきている。若手のアナウンサーやタレント、歌手でもこの傾向が見られる。これは全国的な傾向である。
(「ウィキペディア」)

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。