渡部 亮次郎
昭和11(1936)年1月1に生まれた。その1ヶ月半後にににろくじけん が起きた、と大人になってから知った。今日が75年目の当日である。私の前に琢次郎が次男として生まれたが、夭折。私はだから三男なのだが亮次郎、次男扱いである。
二・二六事件の事は全く知らないまま、大東亜戦争に突入、国民学校(小学校)4年(昭和20=1945年)8月20日に敗戦。二・二六事件とは無関係の心算で75歳になった。
百科事典によると1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタという括り方になる。満洲事変開始前後から軍部の中で対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展した。
さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。
1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の斬殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。
皇道派青年将校は,拠点である第1師団の満洲派遣が決定されると,現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行に突きすすんだ。
昭和11(1936)年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。
栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。
坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実(まこと)内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。
渡辺錠太郎教育総監の長女渡辺和子さんは現在、ノートルダム清心学園理事長だが、2月23日未明、ラジオ深夜便の再放送に出演し、殺害現場唯一の目撃談を語った。
小学校4年しか行かない陸軍大将だったが、「彼らには僕が邪魔なんだよ」とかねて覚悟していたことを夫人にかたっていたそうだ。
また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し,襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。
さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。
村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入。
さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。
しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。
これに対し天皇は重臣殺傷に激怒された。海軍も激しく反発,杉山元(はじめ)陸軍次官,石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集した。
27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され,28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により,29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し,戦闘態勢をとるとともに,ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告した。
青年将校らは奉勅命令に動揺し,目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順,青年将校らは逮捕された。
また皇道派の理論的指導者北一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、および西田税(みつぎ)らも逮捕され,クーデタは失敗した。
陸軍首脳部は当初、反乱を容認するかのような措置をとった失態を隠し,事件に対する非難をそらすため,青年将校らを極刑に処す方針をとり,一審制・非公開・弁護人なしの特設軍法会議で,7月5日17名に死刑の判決を下した。
12日に15名を処刑,翌37年8月19日北,西田,村中,磯部を死刑に処した。
この間〈粛軍〉人事により皇道派系分子は一掃され,寺内寿一(ひさいち)陸相ら新統制派が陸軍主流として実権を掌握し,事件の威圧効果を利用して広田弘毅内閣の組閣に干渉,軍部大臣現役武官制復活など軍部の政治的発言力の著しい強化をもたらした。
結局,統制派的勢力は,皇道派のクーデタを利用したカウンター・クーデタにより,皇道派を環(ほふ)るとともに対英米協調的勢力を屈伏させ,圧倒的優位を築いたのである。
世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス 江口 圭一筆
以下は「ウィキペディア」による。
<二・二六事件を記念し死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。二・二六事件の首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。
17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。 なお、昭和11年7月12日の刑の執行では15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。
当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から、小部隊による演習が行われたが、これは処刑時の発砲音が外部に聞こえないようにする為だったという。
グーグルには〜 二・二六事件がわかりにくい理由 〜
・「昭和維新」と言いながら、実は陸軍の派閥抗争だったから
・陸軍首脳の態度が天皇の激怒でがらっと変わったから
・陸軍首脳が事件の責任を右翼民間人に押し付けようとしたから
・事件を利用して、陸軍(統制派)が逆に勢力を伸ばしたからとしている。
現在のNHK放送センターは、代々木練兵場跡地にある。2011.2・25
◆本稿は、2月26日(土)刊の「頂門の一針」2193号に
掲載されました。他の卓見も必読下さい。(編集部)
◆<2193号 目次>
・カダフィの外国人傭兵部隊の素性:宮崎正弘
・中東民主化で中国共産党が姿を隠す:古森義久
・リビア脱出相次ぐ中国人とロシア人:古澤 襄
・二・二六事件前に生まれたが:渡部亮次郎
・「ゴパン」人気に水を差す:平井修一
・話 の 福 袋
・反 響
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