2008年01月07日

◆福田・大平品格の差

                 渡部亮次郎

毎日新聞のコラムニスト岩見隆夫さんが2008年1月5日のコラm「近聞遠見」で書いている。

<・・・餅、すしはもとよりだが、食べ物は時間が勝負、早く食べるに越したことはない。政治も似たようなところがある。スピード感だ。拙速はまずいが、逡巡(しゅんじゅん)はもっとまずい。政界では、いまも、

「大国を治むるは、小鮮(しょうせん)を烹(に)るが若(ごと)し」

などという格言が使われるからややこしい。老子の言葉、大国を治めるのは、はらわたも骨もそのままの小魚(小鮮)をじっくり煮るようなもの、という意味だ。時間をかけ作為を弄(ろう)さずに、という賢人の教えである。

それも一面の道理だが、いまはテレビとインターネットの超高速伝達社会だ。じっくり、だけではすまない。

手っとり早く安直に、では困るが、餅にカビが生えないうちに、マグロの色があせないうちに、今年は鮮度のいいハンドルさばきをお願いしたい。>

これを読んで内閣改造を見送った総理大臣福田康夫氏のパリでの言動を35年ぶりに思い出した。

この年1978(昭和53)年は当時の総理大臣福田赳夫氏が大平正芳幹事長に「2」年と約束した「自民党総裁任期」の満了年である。11月が来たら退陣すると紙に書いて交わした「密約」を果たさなければならない。

それに先立って福田首相は西ドイツの首都(当時)ボンでのサミットに出席すべく東京を発ち、7月14日午前2時15分(現地時間)パリに途中立ち寄った。

なぜなら「7月14日」こそはフランスの革命記念日であり、首都パリではさまざまな華やかな行事が展開される。人気を盛り上げて密約の反故(ほご)を策する福田父子にとって「パリ祭」は記者サービスの大事な材料であるはずだ。現に首相は私に「亮ちゃん、パリじゃ美味いものをご馳走するぜ」と軽口を聞いてくれたぐらい。

現地時間の午後4時10分からコンコルド広場を囲む有名ホテル「クリヨン」で同行記者諸君と「記者懇談」だという。日本時間ではまだ午前9時過ぎ。みな、些か時差ボケ。折から広場ではファンファーレが鳴り、上空を航空機やヘリが舞ってお祭りは最高潮。それでも福田さんは懇談を止めない。

記者団は総裁再選問題ばかりに食いつくが、総理はサミットの意義ばかりを強調する。堪らず私は総理大臣首席秘書官たる康夫さんに囁いた。外は大賑わい、記者団も心ここにあらずじゃないですか。

「いや、連中はサミットの意味を全く分かっちゃいないんだから、ここはもっと教えなければ駄目です!」。終わった時、祭りは最高潮を過ぎていた。「餅」の食い時は過ぎていた。

ここへ来る2日前の7月12日午前6時30分、私は目白の田中角栄邸玄関前の車中に待機していた。角栄首相(当時)に大阪へ飛ばされたのがきっかけでNHKを途中退職した私。42歳にして園田直外務大臣の秘書官に就任した私。

あろうことか、付いた外相が領袖の福田氏ではなく角栄氏を頼りにすべく極秘に訪ねて来て私もそれに従ってきた。なんという歴史の皮肉であろうか。しかし政治が権力闘争そのものである以上、生き残りのためには『昨日の敵は今日の友』当然なのである。

「福田は2年で終わり、年末には大平政権」で一致してきた園田は意気軒昂。そのままオテル・デュ・クリヨンの部屋に「福田再選への梃入れ要請」に来た森喜朗官房副長官にも「君ら、オレの言う事を聞くなら再選ありうるが、そうでなきゃ無いぜ」と高飛車に言った。

園田氏はあのまま官房長官をしていられたら大平氏を説得して任期1年延長を取り付ける心算で、かなりの自信を持っていた。だが「とにかく官邸から園田を追放して後任にワシの女婿安倍晋太郎を」という親分の注文をもだいしがたく、園田を外相に追いやった。

後で聞けば、片方の大平氏は福田氏が再選に立候補するなどとは信じがたく「まさか」と思っていた。それが挑戦してきて敗れ、かつ「40日抗争」を仕掛けてくるなんて想像もしていなかった。2人の品格の差というしかない。康夫氏は「密約」を最後まで知らされずに父を見送った。2008・01・06

2008年01月05日

◆農場の集団化は失敗する

                 渡部亮次郎

コルホーズとソフホーズ Kolkhoz:Sovkhoz 旧ソ連の社会主義的農場
の2つの形態。コルホーズは「集団的経営」、ソフホーズは「ソビエト的
経営」のロシア語の略称。

ロシア革命(1917年)によって古くからの地主的土地所有制度は解体され、
土地の国有が宣言された。スターリン時代の1920年代末期(1928年1月4日)
に農業の全面的集団化が強制的に実行された。

屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるも
のの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつ
くられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた
作業日単位で行われていたが、ブレジネフ時代に入ると、職種ごとのノ
ルマと賃金表に基づく貨幣支給に変わって行った。

これに対して、ソフホーズは「国営農場」と訳されることからもわかる
ように、原則的に生産手段のすべてが国有化されており、ここで働くの
は賃金の支払いをうける農業労働者であった。

ソフホーズはコルホーズと比較すると、数は少ないが、社会主義的農業
の模範とされたこともあって、大農場が多く、国家の保護を受けて機械
設備なども整っていた。

フルシチョフ時代以降、経営力の弱いコルホーズを強化し、さらにソフ
ホーズに転じる政策がとられたが、ソフホーズ自体の生産の集約化は後
れ生産性の向上もなく、やがてソ連の解体により市場経済が導入される
と両者ともに解体の道をたどった。(マイクロソフト「エンカルタ」参
照)。

この急速な集団化は多くの犠牲者を出したが、反抗者の排除によるソビ
エト体制の安定化につながり、開拓地などに設立されたソフホーズ(国
営農場)とともにソビエト農業の基本構造となった。

第2次世界大戦でソ連軍に占領され、ソ連型社会主義体制へ移行した東
ヨーロッパ諸国でも、ポーランド以外はこのコルホーズと同形態の集団
農場による農業の集団化を実行した。

一方、ソ連国内では徐々にコルホーズ生産の非効率性が認識され、自留
地における農作物の自由生産と市場での販売が承認されていった。

それでも2億人を超えるソ連国民の食糧は自給できず、コルホーズの生産
性向上は歴代の政権にとって難問であり続けた。人々は働いてもサボっ
ても同じならみんながサボるようになる。

園田直外相時代(1978年―1981年)、アメリカが映したウクライナの衛星
写真を見せられてことがある。それは前日に播種した広大な麦畑の写真
だった。

種麦をコルホーズの人たちが撒いた夜、強い風が吹き、タネは殆ど飛ば
されてしまった。だが人々は「ノルマは果たした」といわんばかりに、
再度の播種には応じない実態を示していた。

やがて収穫の秋が来る。麦の収穫量が極端に少ない。責任はどこにある
か。ノルマの監視を怠った農相が解雇されてお終い。集団農場では働い
ても働かなくても収入は変わらないというのでは、やがて共産主義はつ
ぶれると思ったものだが、間もなく現実になった。

1991年にソビエト連邦が解体され、農業集団化が否定されると、コルホ
ーズの存在意義が問われるようになった。

ソ連型社会主義からの脱却を指向するウクライナなどの各国ではコルホ
ーズが解体され、自営農民の復活に向けた動きが進んだ。

似たようなものに人民中国の人民公社がある。しかし1982年、憲法改正
により廃止された。それでも毛沢東が死んで6年間は形式上存在した。ト
ウの好きな合理性に1番反するのが人民公社だったと思われるが。

1972年9月、時の総理田中角栄氏が国交正常化交渉を目的に初訪中した際、
中国側は北京郊外の人民公社を一行に見学させた。出てきたものは彼ら
が作ったコンクリート製の手漕ぎ船だった。

ソヴィエトに見捨てられて「自力更生」を自らに言い聞かせるしかない
毛沢東。畑で木屑を燃やして製鉄しようとしたり、こうして鉄の足りな
さをコンクリートで補おうとしたり。やがて行き詰まる事必定と見た。

だから毛に苛められたトウ小平が完全復活して経済の開放改革を打ち出
さなければ中国は大変な窮乏に陥っていた事は確かである。

余談だが、経済の改革開放にとって共産党は邪魔である。資本主義経済
は必然的に「統制」を嫌うからである。それでも共産党は資本に立ちは
だかるから資本は袖の下を贈ることで「統制」を逃れようとする。「汚
職」が必然化する。

国家経済を「統制」しなければ、政治的に共産主義政権は成立しない。
従ってトウ小平が経済だけの改革開放に踏み切った時、人民が天安門広
場で政治的な「自由」を求めたのは「必然」であった。

当然、トウは気付いたが後の祭り。如何ともしがたい矛盾を封じるため
には砲火でねじ伏せるしかなかった。当面は抑えたが自分の死後、共産
主義は崩壊する。さすれば自らの墓は暴かれるという屈辱が待ち受けて
いる。だから遺骨の撒布を命じ、墓は作らせなかった。

墓を作らせなかった点では周恩来もそうだが、2人とも中華人民共和国
がいずれ崩壊し、自分の墓を暴かれるという認識では一致していた。だ
から毛沢東は2人にいつも嫉妬心を持っていた。2008・01・01


2008年01月04日

◆ジョン万次郎の帰国

                     渡部亮次郎

遭難後、アメリカで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び、
やがて船員達の投票により副船長に選ばれたジョン万次郎が、1851年
(嘉永4年)、日本へ帰国を果たしたのが1月3日である。

中浜万次郎 なかはままんじろう 1827〜98 ジョン万次郎として知ら
れる。土佐の中浜浦(高知県土佐清水市)の漁師の家に生まれ、1841年(天
保12)14歳のとき、カツオ漁にでて遭難し、鳥島(→ 伊豆諸島)に漂着。
無人島の生活143日にして、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救
助された。

船号にちなんでジョン・マンの愛称でよばれた万次郎は、その利発さを
船長に愛され、マサチューセッツ州の捕鯨基地ニューベドフォードに伴
れた。

この地の学校を優秀な成績で卒業後、ふたたび捕鯨船に乗って働き、ド
レーク海峡や喜望峰を越え、太平洋、大西洋、インド洋を巡航、鎖国時
代の日本人としては珍しい世界体験をしている。

やがて乗組員の選挙によって副船長に選ばれたが、鎖国日本の外国船撃
退が、各国の捕鯨仲間に評判が悪いことを憂い、帰国を決意。

捕鯨の収入と、ゴールドラッシュに湧くカリフォルニアで働いて得た資
金で、捕鯨船アドベンチャラー号を買い入れ、1850年12月27日にホノル
ルを出発、翌51年(嘉永4)1月3日、沖縄の摩文仁(まぶに)海岸(糸満市)に
接岸した。

長崎奉行および土佐藩の取り調べを受けた後、藩士に登用されて中浜姓
を名のる。万次郎の見聞は、取り調べにあたった河田小竜を通じて後藤
象二郎や坂本竜馬にも影響を与えたといわれる。

その後、幕府に招聘されて江川太郎左衛門の手付(秘書役)となり、英語
教授、外交文書翻訳などを務めた、1853年のペリー提督の来航の際は、
徳川斉昭をはじめとする攘夷派は、万次郎がアメリカのスパイをするの
ではないかと懸念し、通訳に起用することに反対した。

しかし1860年(万延元)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使
節には通弁(通訳)主事に選ばれ、咸臨丸で活躍した。多感な青春時代に
アメリカを体験した中浜万次郎(ジョン万次郎)は、当時稀有(けう)な国
際的な視野を持った教養人だったといえる。

艦内での万次郎の存在は大きく、実質的には万次郎が指揮をとっていた。
咸臨丸にはアメリカの測量船のジョン・M.ブルック船長らが便乗し、航
海の技術指導をしたが、ブルックはその航海の様子を日記につけていた。

咸臨丸において、旧暦2月24日、艦長勝はサンフランシスコを前にして
自信が無くなり、秘かに万次郎に相談をかけた。万次郎は航海上のこと
一切を任せてくれるならば、無事着港を引受けると答え、勝は彼に一任
する。

26日カリフォルニヤの山を見、勝は大いに悦(よろこ)び卓絶な航海術に
は実に感心したと述べた。この話は中浜東一郎が父万次郎の直話とこと
わっている。勝のことだからこのような事があったかも知れない。

距離の測定。万次郎がホノルルから帰国の途につき、琉球近くなった時、
ある島を望遠鏡でとらえた。船長は10浬くらい、万次郎は15浬くらいと
言う。

しからば測量しようと、オクタントで測量したところ15浬あったとい
う。 オクタントは原理は同じく六分儀の前身で、90°まで測れる。

万次郎はのち薩摩藩で軍艦操縦や英語の指南役をつとめ、明治政府では
開成学校の英学教授となった。

プロイセン・フランス戦争(1870〜71)には、大山巌らとともに視察のた
めヨーロッパに派遣されたが、その後は病弱を理由に官途を辞した。

2000年(平成12)にアメリカの古書店で万次郎を救出したジョン・ホーラ
ンド号の乗組員ライマン・ホームズの航海日記が見つかった。その中に
は救出された時の様子や船での生活が生き生きと書かれており、万次郎
研究の貴重な資料といわれた。(c) 飯田嘉郎
Microsoft(R) Encarta(R) 2006から引用。

ジョン万次郎は、英語を憶えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音し
ており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なってい
る。

ジョン万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると、「こー
る」=「cool 」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「New
York 」等。

実際に現在の英米人にジョン万次郎の発音通りに話すと十分意味が通じ
る(多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似している)という
実験結果もあり、ジョン万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日
本人にも発音し易い英語として教えている英会話教室もあるらしい。こ
の項の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・01・01


2008年01月02日

◆新年早々の粗相

渡部亮次郎

2008年元日に「北京ダック」を配信したところ読者の一人から誤植を指摘
された上に見識の無さを激しく責めるメイルを戴いた。新年早々の粗相
を平にお詫びする次第。

<新年明けましておめでとうございます。いつも楽しく購読させていた
だいております。しかしながら今日の記事につきましてあまりにも酷い
誤字がありましたので、僭越ながら指摘させていただきます。

> 北京料理として有名な搾鴨子(カオヤーズ)を指す。
> これを搾炉と呼ぶかまど(竈)の中につるして

カオヤーズのカオは、中国語で〔火偏に考〕鴨子と書きます。
【搾】では全く意味が通じません。

> 蛭(ピン)に,甘みそやネギ,キュウリのせん切りといっしょにくるんで
食べる。

【蛭】(ヒル)ではなく【餅】です。
想像しただけで気持悪く、正に中華料理に対しての冒涜です。

双方とも(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)か
ら引用としてありますが、有料のオンライン事典のレベルの低さと、渡
部氏ともあろう人がこんな稚拙な間違いを見逃して正月早々多くの人に
配信したかと思うと残念でたまりません>。(投書者の氏名省略)。

よってご指摘の箇所を訂正して再配信する次第です。それにしても世界
大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスとは平凡社の世界大
百科事典をCDにして販売中のもの。酷い話だ。


私は故あって、60歳まで刺身を食べられなかったから、外食で驕るときは
いつでも中国料理だった。最も好きなのは鱶鰭の姿煮、次が北京ダック
だった。日本での中華料理はこれらが一番高価。

昭和47(1972)年9月、田中角栄首相に同行し、日中国交正常化交渉の取材
で北京を生まれて初めて訪問した時、市内にある北京ダック専門のレス
トランに案内された。

北京ダックは中国原産のペキン種と呼ばれる卵肉兼用のアヒルの通称。
また,これを材料とする北京料理として有名なカオ(火偏に考)鴨子
(ヤーズ)を指す。

生後50日前後のアヒルに高タンパク質の練り餌を1日2〜4回,機械で胃の
中へ押し込む強制給品を行う。この特別に肥育したアヒルを内臓を抜い
て空気でふくらませたものに,飴(あめ)を全身に塗って乾かす。

これを搾炉と呼ぶかまど(竈)の中につるしてナツメやアンズの薪で焼く。
途中,したたり落ちる油に香料と調味料を加えたものを何度も表面に塗
る。

焼きたてを薄くそぎ切りにし,小麦粉で薄いハスの葉状に作った餅(ピン)
に,甘みそやネギ,キュウリのせん切りといっしょにくるんで食べる。

北京料理は北京を中心に発達した料理。北京は古くから中国の中心となっ
た都で、宮廷料理の伝統があり、また、都に集まる調理人などによって
もたらされた中国各地の料理が加わり、洗練されて北京料理ができあがっ
た。

冬は寒さがきびしいため、油を多めに使い、強い火力でいためる「爆」
や、直火焼きなどの調理法が多く用いられる。油を多く使っても油っこ
さがあまりなく、歯切れがよい。味は一般に塩からい。2008・01・01


2007年12月31日

◆大晦日に死ぬと

                 渡部亮次郎

死ぬ日を選ぶ事はできないが、大晦日に死ぬと新聞の年表には残らない。新聞の大晦日に載る年表は前日までに作られるから、その人は、その年の逝去者名簿に載らない事になる。

その人の1人が牛場信彦(うしば のぶひこ)氏である。1984(昭和59)年12月31日ニ75歳で死んだ。福田赳夫内閣で外務大臣園田直の脇で対外経済担当大臣を勤められたからよく知っている。

牛場 信彦氏は1909年11月16日に生まれた。兄に近衛文麿秘書官を務めた牛場友彦がいる。

東京府立一中、第一高等学校を経て、昭和7年、東京帝国大学法学部卒業。同年、外務省入省。戦時中はドイツ、イタリアとの枢軸支持の外交官として活躍した。

戦後になると、武内龍次、黄田多喜夫ら、のちにこれらの事務次官となる2人のあとを受けて、新制・通商産業省3代目通商局長(在任:1952年8月1日―1954年7月15日)に就任。

以後、外務省経済局長、駐カナダ大使、外務審議官、事務次官を歴任した。

昭和45〜48年(1970年〜1973年)、沖縄返還交渉、日米繊維摩擦の交渉大詰めの時代に駐米大使を務め、全米50州余りを相互理解促進のため講演行脚に勤しんだ。

昭和52年(1977年)には、福田赳夫内閣にてその識見・人望の厚さを買われ、対外経済担当大臣に就任、欧米との経済摩擦緩和に東奔西走した。

昭和59年(1984年)、日米諮問委員会(日米賢人会議)では、日本側代表を務めた。1984年12月31日没。享年75。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

当時、外務省では「牛場さんの後につくときは気をつけろ、怪我をする」と言われていた。牛場さんはドアを開けて入ると、後に従ってきている部下の事など忘れて、後ろ手でドアを閉めてしまう。後ろの人は顔に怪我をする、ということであった。

対外経済担当大臣。国際経済問題に園田は弱いという評価を福田首相が下したわけで、園田氏は面子を潰されたわけだが、牛場さんには特別に外務省内の部屋を牛場大臣室として提供するなど気を遣った。

牛場さんもまた園田氏に気を遣い、日に1度は必ず連絡に現れた。秘書官として見ているとそれは実に微笑ましい風景だった。

牛場さん、若い頃はカミソリだった。部下の課長に「君、あれはどうなったかね」と聞いて課長が「ハ?」とでも言おうものなら「キミ、家に帰りたまえ」といった。局長と課長のキミとで「あれ」という懸案は1つぐらいしかない。それを「ハ?」とはなんだ、という事だった。

沖縄返還の実務をアメリカ大使として取り組んだ。それも並みの大使では無い・部下の書記官まで動員して上院、下院議員の説得に当らせた。息子たちはタカ派として育った・2007・12・30

2007年12月28日

◆改めてトウ(!))小平強靭

                   渡部亮次郎

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば小瓶と
渾名されている。また、唐辛子風味のナポレオン(身長150センチと小柄
ながら頭の回転が速く眼光人を刺す如く鋭かった)とも。

トウ蝟子(ハリネズミのトウ)・トウ矮子(チビのトウ)と呼ばれたり
もした。毛沢東はトウ小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

トウ小平氏を初めて見たのは1978年8月10日午後5時半(北京時間)北京
の人民大会堂でであった。日本政府が6年越しの「宿題」としてきた日中
平和友好条約の締結を「悲願」とする園田直外務大臣の秘書官として対
面したのである。

それは政治家園田直の政治生命にかかわる問題だった。世間は官房長官
から外務大臣に「出世」と考えたが事実は「追放」だった。岸信介氏の
策謀だった。だからせめて「宿題」の解決ぐらいしないことには「示し」
がつかなかったのだ。

我々は2日前の8日(火)夕方、日航特別機で北京空港に着いた。それまで
雨が降っていたらしく、出迎えてくれた黄華外相が「あなたは恵みの雨
を持って来てくれました」と歓迎の言葉を述べた。

対して園田外相は「中国では雨降って地流れるというかもしれないが日
本では雨降って地固まるといいます」と切返したことを覚えている。

簡単にいえば、生涯3度目の「復活」をトウ氏が遂げた前年夏から中国政
府は何が何でも日中平和友好条約を締結するよう、方針を転換していた。
この時点では日本の資本と技術に頼るしかなく、条約締結を急ぐ事が急
務になっていた。それを日本大使館が知らなかった。

それを後になって事務方は知っていたように言い、「園田大臣は北京に
は遊びに来たようなものだ(伴公使=当時)と10年後に喋っているが、そう
なら予め確認して大臣に報告するのが公務員の責務では無いか。

それが出来ないから代議士に何度立っても当選できなくて、あたら秀才、
尾羽打ち枯らした末に非業の死を遂げる事になるのだ。

ところで、その後トウ(!))氏は1978年10月、日中平和友好条約締結を
記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談
した。

昭和天皇とはできるだけ対等に対応しようと威張っているように見えた
が、会談を終えたら、すっかり敬服したような態度となり、天皇陛下の
後を歩くようになったことを覚えている。

その後、京都・奈良を歴訪した。日本経済発展の象徴たる新幹線を初体
験。「鞭で追い立てられているようだ」と感想を述べた。中国近代化の
必要性を実感したのではないか。

日産から贈与申し出のあった高級車プレジデント。断るかと思ったら二
つ返事で受け取った。帰国後、分解したかも知れない。コマツにトラク
ターの注文が舞い込んだ、しめたと思ったら4台限り。分解してコピーを
作るためだったという実例がある。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「3中全会」(中国共産党
第11期中央委員会第3回全体会議)において、文革路線から改革開放路
線への歴史的な政策転換を図る。これで毛沢東(既に死去)を超えた。

またこの会議で事実上、中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議
内容が発表された時、全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残って
いる。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教
条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実
権を完全に握った。

(華国鋒を騙して3度目の復活をしたのだ)。だが、人民大会堂では華国
鋒の手下のように振舞っていた。大変なズルシャモンであったのだ。

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2007年12月26日

◆証言 戦後政治の舞台裏

                 渡部亮次郎

こう言う本を元労働大臣・防衛庁長官の栗原裕幸さんが出版された。
正式には「証言 本音の政治 戦後政治の舞台裏」内外出版株式会社発行 ISBN978-4-931410-C0031 1715円。

あとがきによれば満87歳。1993年に政界を引退したが31年に亘った政治家生活を振り返って、後世に自らを伝える事も意義あることと考え、敢えて刊行に踏み切った、とある。

参院時代、自民党国対委員長代行として採決強行の末に成立を見た大学紛争解決のための大学運営臨時措置法案の処理をめぐる真相を初め、関係する政治家が殆ど墓場に持て行ってしまった数々の緊迫する場面についてできる限り「本音」を吐露し、或いは暴露している。

有名な重宗雄三参院議長4選出馬断念の声明を執筆したのは当時NHKの政治記者だった渡部亮次郎君だったと、私も登場している。恥ずかしい次第だ。

栗原裕幸(くりはら ゆうこう)1920年6月5日、静岡県三島市に生まれる。1944年東京帝国大学法学部を卒業。学徒動員を経て戦後、静岡県農業会に就職。1962年以来静岡地方区から参院議員に2回当選。

1972年、衆院に転じ旧静岡2区から連続7回当選。旧池田派(大平、鈴木、宮澤派)に属す。1978年第1次大平内閣に労働大臣として初入閣。1983年第2次中曽根及び86年第3次中曽根内閣でいずれも防衛庁長官を務める。93年引退。

大学法案に始まり、沖縄国会、日中平和友好条約、大福提携から対立、雇用国会、大福40日抗争、防衛費のGNP1%突破、FSX交渉、リクルート事件、伊東正義の反骨など、栗原氏にしても引退後15年経ってようやく語れる話ばかりである。

いわゆる大福密約について片方の福田赳夫氏は「密約文書」の存在を著者で否定して逝去したが、私は連署者の1人である園田直氏からそれぞれ署名の入った現物を見せられている。

この動きについて大平側近だった栗原さんは「東京品川のホテルで福田、大平、保利茂、園田、鈴木善幸会談で大福提携が正式に決った夜、福田さんから私に電話があり『園田君から経過をよく聞いております。有難うございました』と丁寧なお礼の挨拶があった」として、事実を裏付けている。

従って、1978年5月25日大平氏としては総裁選に事実上の出馬表明はしたものの「大平さんは、この段階では、心中、福田さんは必ず自分に譲ると考えていた」。

「それは、先ず福田さんを先に総裁に推した事。保利、鈴木、園田の立会いの上で「2年で交替」という話を福田サイドが提案した事。福田さんと時折交わす話の節々などからいえばそう考えるのも無理は無い」。

しかし「福田側の見方は・・・懸案の成田開港、日韓大陸棚協定、日中平和友好条約などを処理し、福田内閣の国民的評価は高い。今更2年交替の古証文など馬鹿げている」

しかし約束は約束。それを破って喧嘩しようというのなら「やってやろうじゃないか」と怒ったのは大平派よりもロッキード逮捕後「闇将軍」と揶揄された角栄に率いられる田中派だった。

知将・後藤田正晴の陣頭指揮の下、一糸乱れぬ絨毯爆撃を展開。あっという間に形勢を逆転。福田氏は「天の声にもたまには変な声もある」との棄て台詞を吐いて退場。

したがって続く「40日抗争」は何のことは無い福田氏の私怨晴らしに過ぎなかったのだが、面子上、これを公憤に摩り替えたから自民党はあわや分裂の瀬戸際まで追い込まれたのであった。

こうした政局の舞台裏は殆ど明かされぬまま闇に消えるのが普通だが栗原さんは引退後15年にして突如344ページの大作を世に問うて舞台裏を敢えて明らかにした。

ほかにF−1の後継機FSXの開発をめぐる日米交渉の凄まじいまでの迫力ある防衛庁長官としての主張なども臨場感溢れる書き込みは、当事者が明かす事実だけに読んでいて緊張して来る。政局取材に当たるものの必読の書である。

さらに敢えていえば、これから防衛大臣たらむ政治家は政治の鑑として読むべきである。

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電話03−3712−0141

執筆:07・12・25

2007年12月25日

◆おでん風土記

                 渡部亮次郎

大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「K輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


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2007年12月24日

◆気高い「きだかい」

                   渡部亮次郎

2007年12月19日NHK正午のニュースでアナウンサーが気高い(けだかい)と読むべきを「きだかい」と読んだと呆れて電話があった。記者の先輩だった人からである。

気高いがなぜ「きだかい」になったのか理由は調べようがない。深夜便に出るようになった男のアナウンサーは股引(ももひき)を「またひき」と読んだことがある。

私がNHK国際局でデスクをしていた時、女子アナウンサーは民社党の春日「はるひ」委員長と読み、内科、外科(がいか)と読んでこっちを仰天させた。

アナウンサーとは難しい商売である。間違って覚えてしまっている言葉もあるかもしれないが、つい咄嗟に口を出てしまう誤りがあっても、聴取者には言い訳が利かない。因果な職業であり、同情する。

しかし政治家の日本語誤用は許されない。額賀福志郎財務大臣の言語道断を「げんごどうだん」には呆れた。彼は早稲田大学を出て産経新聞の政治部記者だった。角栄番から茨城県議を経るという経歴豊富な教養人であるはずが、様にならない。

論功行賞を「ろんこうぎょうしょう」と連発した大臣がいた。なんとかコンチェルンの一族だったが、どの学校で何を習ったのか、早くに死んだから恥を長く曝さないで済んだと言うべきだろう。

自民党のある国対委員長は「がっぽうてきてだん」をとって野党の議事妨害を排除するという。記者団はみんな首を捻ったが、長老があとで「合法的手段」と助けてくれた。

それ以前には本会議場(全議員が一堂に会する会議)での演説で「ここで水を飲む」とト書(とがき)まで読んでしまった代議士がいたそうだし、追加更正予算を「おいかさらまさよさん」といった代議士もいたそうだ。

以後は学歴も向上したからこうした話題は少なくなったが、額賀氏の「げんごどうだん」は久々の事だったので言語道断の日本語と話題になったわけだった。

しかしわが大臣も旗幟鮮明を「きしょく」鮮明というものだから
さぞかし外務省は陰で笑った事だろう。私も注意する勇気はなかった。殺陣(たて)をさつじんとも言った。

こういう話題は探せばいくらでもあるはずだ。しかも今は学歴は高いが勉強は全くせずに社会に出てくる子供が益々多くなっていることだから「きだかい」は序の口かと思う。多分「じょのくち」は分からないだろう。2007・12・21

2007年12月23日

◆所得倍増政策の頃

                    渡部亮次郎

産経ソウルの久保田るり子記者は「経済大統領」をアピールした李明博氏は、20代から30代の若者層の支持を集めた。特に20代の保守化現象は今回選挙の特徴だった、という。2007.12.19 22:46。

韓国青年たちの「政治理念よりも就職を」という主張を耳にするたびに思い出す事は、安保改訂反対で一時は自民党岸内閣を倒した大学、高校生たちが次に登場した池田勇人首相の「所得倍増論」でシュンとなった日本の1960年代である。

あれから50年近く経って韓国で学生たちは「88万ウォン世代」と呼ばれている。88万ウォン(約10万円)とは大卒にも拘らず非正規職にしか就けない大卒の平均給与額だ。

盧武鉉政権の経済運営の失敗は若年失業者を増加させ、大卒就職率は48%まで低下、若者層は革新政権に見切りを付けたのだ。「李明博氏圧勝の背景には88万ウォン世代の逆襲」があったのだ」との久保田記者の指摘には説得力があった。

10年前、金大中氏が大統領に当選したのは、朴正煕大統領以来の政治的締め付けに反発する若者の心が、共産主義体制への恐怖心を超越しても民主化に憧れる20代の心を捉えた。

ところが「韓国の20代はこれまで歴史的には過激で政治的だった。革命を求めて連帯してきた。ところがいまは脱政治で保守的で父母にも従順だ。

昔はアルバイトで生活できたが、いまは学費もデートも結婚も、父母に頼らないと生活できなくなったからだ」と禹●(=析の下に日)熏氏はいう。

韓国の非正規職従事者は約800万人、20代で公務員を含む希望の就職先に就けるのは約6%に過ぎないとの調査もある。

韓国経済は10年前の金融危機(IMF管理下)で構造調整を余儀なくされ、盧武鉉政権の大企業優先と公権力拡大の政策は企業の雇用創出能力を激減させた。その結果、経済成長率は約5%だが、大卒は就職難という構造的問題に直面しているのだ。

これについて半島問題に詳しい西岡力氏(東京基督教大学教授)は産経新聞(2007・12・21)の寄稿の中で「(青年の)保守化の流れを作り出した要員は第一に慮政権の無能力と失政だ」と断定している。

この政権が重用した人材は専門知識と実務経験の不足な左翼革命運動家出身だった。ために政策(の誤りから来る)朝令暮改、不正・腐敗蔓延などが繰り返されたという。

思い起こせばわが国の1960年、今考えてみれば岸信介首相の日米安保条約改訂は、歴史の流れに沿った真っ当な流れだった。それにも拘わらず、当時の日本社会党や日本共産党や総評は、安保破棄乃至廃棄に結びつけた大衆運動に繋げようとしてマスコミや学生を操った。

金大中や慮もまた膝を屈してでも北朝鮮と歩みを共にしようとして20代の青年を民族運動の観点から煽った。狙いは当初は当った。しかし戦略的には友好国日本や米国を仮想的視した結果、外資の投資が枯渇し経済が疲弊し、若者の就職先がなくなった。

投票年齢19〜39歳までの若年層の全投票者に占める割合は43・9%。この層が「就職問題を解決する」「経済を生き返らせる」と公約して、経済人としての実績のある李明博氏を支持したのは当然だ。

40代(22・5%)も李明博氏への支持が強かった。40代は盧武鉉政権誕生の原動力となった386世代(当時30代、80年代に民主化運動に参加、60年代生まれ)だ。5年前に進歩政権を選んだ、当時の盧武鉉支持層がそのまま李明博氏支持に回ったことになる。

世代論に詳しい高麗大の李名鎮副教授(41)は「若年層の保守化は同時に新しいものへの志向でもある。李明博氏のような政治家は、韓国の既存の政治家にはいなかった。

盧政権の選択は反エリートだったが、李明博氏は過去の政治へのアンチテーゼで、経済回復と発展への選択ともいえる」と分析している。

安保闘争のときの1960年6月も高度経済成長など想像もできない貧しい時代だった。政治のスローガンに「経済成長」を掲げる首相はどこにもいなかった。

しかし倒れた岸の後に登場した池田が「所得」を話題にするや否や国民、若者もまた雪崩を打つように「倍増」に群がったのだった。

それを考えれば韓国は怒るかも知れないが、これから「理念」よりも「実利」「所得」の歩みを始めるのではなかろうか。いうなれば韓国は「金大中」に漸く別れを告げたのである。文中敬称略。2007・12・21

2007年12月22日

◆薬害肝炎訴訟団の不条理

                  渡部亮次郎


薬害肝炎弁護団HP
http://www.hcv.jp/1126opinion.html
 
全国原告代表
『わずかな原告しか登れない登山道を350万人が登り、頂きにたどり着けるはずがありません。

薬害肝炎全面解決のために、一般肝炎対策実現のために、今後も
闘っていきます。切り捨ては許しません。』
 
大阪原告代表
『この訴訟はウイルス性肝炎患者350万人の恒久対策を獲ち取るための闘いであるといいわれ、原告はその代表であると、私も肝に銘じて闘ってきました。』
 
九州原告
『責任をもって350万人のウイルス性肝炎患者救済のための道筋を作ることが、私たち薬害肝炎原告団の役割だと思っています。』
 
薬害肝炎九州弁護団 弁護士
「この薬害肝炎訴訟の中で、1人でも切り捨てを許すことは、実は、加害に加害を重ねることだ。

国や製薬会社に1人でも切り捨てをゆるすこと、あるいは、裁判所に1人でも切り捨てを許すような線引きをしようとすることは、犯罪であるということを、私たちは多くの国民の皆さんに訴える」。

そこで問題発生を時系列に整理するとこうなる。

(1) 当該血液製剤開発〜1985年
1977年アメリカでB型肝炎ウィルスが原因でフィブリノゲンの販売禁止。

だが日本ではB型肝炎は不活性化されていたため販売継続。(ここを知らない、または意図的に混同している人が多い。)

ちなみにこの不活化処理がたまたま存在が知られてなかったC型にも効いていた。

(2) 1985年8月〜
それまでB型肝炎不活化処理に使っていた物質に発ガン性が発見され使用禁止に。しかも偶然、新しい方法ではC型肝炎を不活化できなくなった。

1987年 血液製剤由来と思われる非A型非B型の未知の肝炎の集団発生を受けて厚生省とミドリ十字が調査開始。

調査中の感染拡大を懸念し原因は不明な段階ながら予備的措置として過熱化を決定。

1987年4月20日 ミドリ十字 非加熱フィブリノゲン自主回収開始。1987年4月30日 厚生省 加熱フィブリノゲンの製造承認。

(3) 1988年5月〜
1988年5月 厚生省 加熱フィブリノゲンの回収等を決定。
1988年6月 ミドリ十字 各医療機関にフィブリノゲンの返品を要請 。

(4) 1989年 アメリカでC型肝炎ウィルス発見。


米国FDAですら規制していなかった以前の肝炎まで全て一律救済しろは、さすがに無理である。
「薬害を批判していながら、未承認薬の認証を早く求めるのは矛盾である。マスゴミはこの事は指摘しない。
 
さらに問題なのは、今回の「FDAの規制以前の患者まで一律救済」
を認めたら、一切、新薬を認証できなくなる恐れがある。
 
他の病気の患者が、最新の薬が使えなくなり、話題の万能細胞
の治療も、将来日本だけ普及できなくなる危険性がある。

政府は、FDA規制以前の患者に休載の金を出さないとは言っていない。和解金としてではないが、基金からきちんと金を支給すると
言っている。
ただ、「FDA規制以前の患者まで国の責任にするな、これから
医療行政が動かなくなるから」ということである。

ハンセン病の補償の時は、政府は裁判所の和解案に従った。今回も政府は裁判所の和解骨子案に従っている。
 
患者団体側の主張「FDA規制以前の患者まで一律救済」は、
話が飛躍している。
 
しかもマスコミは印象操作をして、政府がおかしいと言っているが、
政府は法治国家の三権分立に従っているだけである。批判するなら、そういう和解骨子案を出した裁判所を批判すべきだ。
 
どう駄々こねても、裁判所の和解案から大きく外れた飛躍をするわけにはいかない。首相の一存でそんなことができたら、それこそ法治国家ではなくなる。

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2007年12月21日

◆朝鮮半島非核化へ決意

                渡部亮次郎

<【ソウル西脇真一】韓国大統領選挙で当選した野党ハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)前ソウル市長(66)は一夜明けた20日午前、ソウル市内で記者会見した。

「核のない朝鮮半島平和時代を必ず切り開く。南北間で今、最大の懸案は北朝鮮に核を廃棄させることだ」と語り、朝鮮半島の非核化実現に強い決意を示した。李氏は来年2月25日、第17代大統領に就任する。

李氏は「国民は理念ではなく実用(主義)を選んだ。成長の恩恵が庶民と中産階級に届く新たな発展体制を開く」と、改革を断行して経済成長を推進する考えを示した。

「建国、産業化、民主化を経て今や、先進化へと進まなくてはならない」と述べ、新たな国家建設に着手する意向を明らかにした。

中央選管が20日未明発表した選挙結果(開票率100%)は、李氏と次点だった大統合民主新党の鄭東泳(チョン・ドンヨン)元統一相(54)との得票差が531万7708票で得票率差は22・6ポイント。過去8回行われた直接大統領選の中で最大の得票差だった。> 12月20日11時33分配信 毎日新聞

李明博氏は就任まで2ヶ月あまりも待たなければならない。その間政敵は陰に陽に妨害に走るし、狂信的なものは暗殺を企てる危険も否定できない。

韓国では朴正煕大統領が現に側近にとはいえ暗殺されたし、その前に起きた在日韓国人文世光による暗殺未遂事件(夫人が流れ弾で死去)は陰に北朝鮮=朝鮮総連ありと噂されたものだ。

特に今回は10年ぶりの政権交代であり、その分、10年間、得をして来た左翼の連中は利権を一挙に失うわけだし、北は「最大の懸案は北朝鮮に核を廃棄させることだ」と語られては何をするか分からない。身辺を十分、警戒すべきだ。

1968年1月21日未明、朴正煕韓国大統領暗殺未遂があった(青瓦台襲撃未遂事件)。北朝鮮の特殊部隊31名が朴大統領暗殺を企てソウル市内に侵入、銃撃戦により阻止された。

私は1977年6月、訪韓した際、襲撃隊員のたった1人の生き残りと会見したことがある。ソウルは電気もない貧しい街。襲撃は必ず成功すると教え込まれてやってきたが、未明に南山から市街を覗くと輝くばかりの夜景。「しまった、東京へきてしまった」と隊長が呟いた、と言っていた。

ところで「暗殺」はいつの時代にもある。古今東西変わらない。
1979年10月26日 韓国・朴正煕大統領、暗殺される。KCIAの金載圭部長による(10・26事件)。 それ以来現在までこれだけつづいている。何時あってもおかしくないのだ。

1980年9月 ニカラグア前大統領のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ、亡命先で暗殺される。

1980年12月8日 歌手ジョン・レノン暗殺。犯人はマーク・チャップマン。ジョンをNYのダコタ・アパートに訪ね、イタリア街でご馳走になってから2年と経っていなかった。

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2007年12月19日

◆加瀬俊一氏の再登場

                  渡部亮次郎

日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特に民主党の小沢一郎代表が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10恃55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

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