2008年04月09日

◆サミット議長への悪夢

                   渡部亮次郎

福田康夫首相は洞爺湖サミットでの議長に執心しているのは父の赳夫首相(故人)が日本で初めてのサミット(東京)開催を目前にしながら果たせなかった、その夢を果たしたいからだ、とマスコミはかしましい。

しかしそれは赳夫首相が幹事長大平正芳との「密約」を一方的に反故(ほご)にして大平の名誉を傷つけた果てに、大平に総裁選で敗北したからである。私は目撃者だ。NHK]政治記者から赳夫内閣の外務大臣秘書官だったからだ。

田中角栄内閣がその金脈で倒れた後、レフトの三木武夫が金銭のクリーンを名目に後継に指名されたが、田中にその後襲い掛かった
ロッキード事件による逮捕に不満を持つ田中は昵懇の大平正芳やライバルの福田赳夫を語らって三木政権を潰した。

これがいわゆる挙党協による三木潰しである。田中は早くから大蔵官僚(主計局長)上がりの福田をライバル視し、悉く争い、結局は総理総裁レースでは自分が制したものの、福田にその椅子を譲る気は持たなかった。

しかし今は三木潰しが先である。自分が表に出るわけに行かないから
<1976年8月19日、反主流(田中派、大平派、福田派、船田派、水田派、椎名派)6派が中心になって自民党議員277人で挙党体制確立協議会(挙党協)を結成させ、代表世話人に船田中元衆議院議長が就任した。

挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。

挙党協は反三木では一致していたが、三木退陣後の構想については福田赳夫と大平正芳のどちらが次期首相になるかで絞りきれていないもろさが存在していた。

三木首相は1976年9月10日、臨時国会召集を決める閣議で衆議院解散で対抗しようとする。一方、挙党協に参加している15名の閣僚は、解散の文書に署名しないことで対抗する。

三木首相は解散に反対する閣僚15名を罷免してまでして、解散権を行使することも考えていた。結局、三木首相は閣僚を罷免してまで解散権を行使せず、結局、執行部は9月15日に内閣改造で一旦は、決着を付けた。

その後、三木は解散権を行使できないまま、日本国憲法では初の任期満了による総選挙となった。挙党協議員は自民党公認を受けたものの、挙党協は党本部と別に選対本部を設置し、自民党分裂選挙の様相を見せた。

総選挙で自民党は過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、それでも改選前8議席減の惨敗であった)、三木内閣は責任を取って退陣した。

その後、福田赳夫と大平正芳はポスト三木を福田とする大福密約を締結、大角両派と福田派がポスト三木の総理総裁に福田赳夫で一致し、挙党協の総裁推薦候補を福田とする。福田は総理総裁に就任し、福田内閣が発足した。

なお、この抗争中である9月6日にベレンコ中尉亡命事件が勃発したが、政府が三木おろしで忙しくてそれどころではなかったので対処に不都合が生じたという。>(ウィキペディア)

この密約を私は後に確認したが、要するに福田の任期は「2年」でこの間大平は「幹事長」として「協力」するとなっていた。しかし福田の後継者の事は書かれてないものの「大平は福田の総裁就任に協力する」となっている以上、後継が大平であるのは当然だった。

2年経ったところで行われる総裁選挙に福田は立候補せず、大平の筆頭推薦人になってくれるものと大平は思っていた。ところが福田からの電話は「立候補する」だった。大平は「なにッ」と立ち上がった。

マスコミは最後まで福田優勢と言い続けたが、福田惨敗。負けず嫌いの福田の吐いた科白「天の声にもたまには変な声がある」。翌年東京の迎賓館で開かれた東京サミットの議長を首相の大平が勤めたのは当然だった。

首相の首席秘書官だった康夫に父は「密約」のことを知らせていなかった。赳夫は多分三枝夫人にも告げてなかったろう。恥ずかしいことだもの。しかし男と男の約束を反故にするような男にサミット議長をする資格は初めから無かったといっていい。

それなのにいわゆる「40日抗争」や不信任案賛成などを仕掛けて大平を死に追いやった福田父子の罪は永遠に消えない。大平の怨念が洞爺湖サミットに顕れないも限らない。文中敬称略 2008・04・07

2008年04月08日

◆回想の細川内閣

                   渡部亮次郎

新生党代表幹事小澤一郎の工作により、非自民連立政権の首班となることを細川護熙が受諾して成立した細川政権。それが突然、退陣を表明したのだ4月8日。1994年の事だった。

あの時、辣腕を振るった小澤氏が今度は民主党代表として政局の主導権を握り、間もなく政権を握ると息巻いているが、果たして如何なる事態が展開するのかしないのか、興味津々ではある。

政治改革に行き詰まった宮沢内閣に対する不信任案の可決を受けた衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党が躍進し、熊本県知事を勤めていた細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。

この選挙で野党第1党の社会党は大敗し、与党で第1党の自由民主党も過半数に達していなかった。その結果、昭和30年(1955年)の党結成後初めて与党の座から降りる事となった(55年体制の崩壊)。

先に自民党竹下派内の対立が原因で自民党を脱党していた小澤一郎の尽力で野党連合政権の樹立に合意した日本社会党・新生党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合(参院会派)の6党派は、自民党との連携を模索していた日本新党・新党さきがけを取り込むため、日本新党代表の細川護煕を首相候補とすることで合意。

日本新党・さきがけも受諾したため、非自民・非共産政権の発足が決定的となった。 細川は近衛文麿(34・38・39代首相)の外孫にあたる。祖父と孫が共に首相となったのは内閣制創設後初めての出来事であった。日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。

細川は政治改革関連法案が参議院での否決させた際、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正に合意し、中選挙区制に代わる国政選挙制度とし
て、小選挙区比例代表並立制に基づく新たな選挙制度を実現した。また、1993年の冷夏によって起こった米不足で、日本のコメ市場の部分開放を受諾した。

しかし連立政権内での話し合いが円滑に行かなかったこと、細川自身の金銭スキャンダルが野党・自民党に追求されるにいたり、1994年4月8日に電撃的に辞意を表明、25日に総辞職したのだった。

28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。細川政権は1年に満たない短命政権であった。在職期間263日。

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2008年04月07日

◆お気の毒な福田さん

                   渡部亮次郎

福田康夫内閣総理大臣の人気がガタ落ち。共同26%、産経23・8%である。既に「総辞職もの」の数字だ。国会の雛壇でぐったりしている写真を見ると、つくづく同情を禁じ得ない。

<内閣支持率26%に急落 共同通信世論調査

共同通信社が4、5の両日に実施した緊急電話世論調査で、福田内閣の支持率は26・6%で、政権発足後最低だった3月の前回調査から6・8ポイント急落した。

支持率が“危険水域”とされる30%を割り込んだのは、安倍晋三首相の退陣表明直後の昨年9月以来。「不支持」は59・6%で、初めて半数を超えた前回からさらに9ポイント上昇した。

一方、失効している揮発油税などの暫定税率を元に戻すため、税制改正法案を衆院で再議決する与党の方針には反対が64・4%を占め、賛成は26・2%だった。福田康夫首相は国民の反発を覚悟して再議決に踏み切るのか、厳しい判断を強いられることになる。

内閣を支持しない理由では「首相に指導力がない」が32・5%と最多。「経済政策に期待が持てない」は24・0%で6・2ポイント増え、日銀総裁人事をめぐる混乱などが影響しているとみられる。>
2008/04/05 18:50 【共同通信】

私の主宰するメイルマガジン『頂門の一針』には様々な投書が寄せられるが、「産経までも福田叩き」を始めたと非難する投書が寄せられた。

<最近、産經新聞までもが「福田叩き」に加担して、本当に新聞を読む気がしません。

別に福田さんが格別いいとも思いませんが、今の異常な政治状況を前提にしなければ、小泉さんと較べて云々しても意味が無いことを知るべきではないのか。誰が出て来ようと(小泉さんだって)、今はきっと困るでしょう。

戦後初の「ねじれ」によって生じた政治的停滞が、今後外交にも国民生活にも、教育にもボディーブローのように効いてくるでしょうが、今は政界の表面的な現象のみの報道。

間違いなく、最大の被害者は、国民となることは明らかでありましょう。私の周辺の友人と話していると、こうした意見の方々が、かなりいるのですが、そうした考え方はマスコミにあまり見られない。非常に不思議な感じがしてなり ません。>

この投書が言っているように自民党が参院選に大敗して「ねじれ国会」という最大の難関が待っている事は、前任者安倍さんの敢え無い惨敗で証明済みだった。

このとき敢然と後継に手を挙げたのは幹事長麻生太郎だったが、数日を待たずに元官房長官福田康夫がおずおずと名乗りを挙げたので私は不思議に思った。人柄は悪くは無いが、およそ政治家として優れたところの何も無い人が、突然何故、と。

産経新聞とFNN(フジニュースネットワーク)が4月2、3日の世論調査で福田内閣支持率がまた下落して23・8%になったことを報じた(5日)が、その理由の悉くが、政治家福田康夫の限界を証明して余りある。

経済政策=支持しない74・5%
外交政策=支持しない55・4%
指導力=評価しない  75・4%
年金問題=評価しない 67・6%

みんな落第点。1つだけ5割を超えたのは人柄を評価するの55・3%。それも評価しない28・3%付きである。

しかも産経新聞は6日の『産経抄』で「人の厭がることはやらない」という「癒し系」を自任しているような福田首相・・・靖国神社参拝など「人の厭がること」もやって来た小泉氏が再び人気を集めている事の意味は大きい。と指摘した。

内政においては人の厭がることを敢えて為すことが「指導力」であり外交においても他国の厭がることも敢えて行う事が「国益」である。年金、日銀、ガソリン、チベット、北京五輪、ガス田への対応のすべてに現れた福田指導力は国民の期待に悉く反するものだった。

こうした福田氏の政治家としての欠陥は唯一務めた閣僚ポスト官房長官在任中にすべて指摘されていた事であり、それ故に小泉後の安倍内閣で入閣を検討もされなかった理由であった。

それにも拘らずポスト安倍に急遽浮上した理由は一に掛かって自民党内に潜んでいた中国、韓国、北朝鮮に媚びる勢力及び反麻生一郎勢力の結集であった。

それらの勢力の頂点は既に現役を退いて久しい野中広務である。安倍の退陣情報を逸早く知った野中は京都から急遽上京し、キング・メーカーを自任する森喜朗と組んで各派閥領袖を福田支持で押さえ込んでしまった。

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2008年04月06日

◆竹島「密約」のあった時代

                   渡部亮次郎

韓国人のビジネスマンが日本語で「竹島密約」という本を書き7月を目途に東京の出版社「草思社」から出版する。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について「共に領有を主張しない」という密約があったことを喝破する本である。

日本政府代表を務めた佐藤内閣国務大臣河野一郎。その河野氏を担当して事情を知る記者は私1人になってしまった。著者ロー・ダニエルさんの突然の来訪を受けて、事実を改めて回想する次第。7日夜、江東区内で一献酌み交わす予定である。

ダニエルさんの書き上げた本の「プロローグ」を基に話を進める。
「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月に「日韓基本条約」が正式に締結される5ヶ月前、河野一郎国務大臣と丁一権韓国国務総理の間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事は無い。

端的に言えば、日韓の国交正常化のために領土紛争を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、宇野宗佑衆院議員(後に総理)、嶋元謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国では丁一権、金鐘珞(金鐘泌元韓国総理の兄)。さらに密約を了承した佐藤栄作総理大臣と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元総理大臣で、2年前の2006年6月のことだったという。ダニエル氏は驚きを以って裏づけ取材に奔走、事実を確認した。

いくら当時の河野番でも、宇野氏と毎晩のように呑んだ仲の私でも知らされなかったこと。おそらく中曽根氏も後に総理になったが故に知った事実であったろう。「河野派を除名する」と河野氏に嫌われていたのに、河野氏の急死に救われた経緯があるから。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三氏が「倭(日本)の奴らの悪い行儀を直す」と公言して「わが領土独島」に新たな接岸施設を作り「密約」を無視して問題は今日に至る。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれていなかった。

これを外交の「敗北」と受け取った当時の李承晩大統領は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから竹島・独島の領有権争いが本格化した。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新」をなすためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのためには韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏と朴氏の姪の夫でもある金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

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2008年04月05日

◆健康百話 「変形性関節症」って?

小池達也(医師)


コモンディジーズ、つまり「ありきたりの病気」と呼ばれる疾患群があります。誰がかかっても不思議ではない、めずらしくない病気という意味です。

整形外科の分野では、腰痛・骨粗鬆症・変形性関節症などが含まれますが、そういう病気ほど原因がはっきりしていなくて、治療法も確立していません。そこで、今回はその代表である変形性関節症を取り上げてみましょう。

変形性関節症とは、炎症がひどくないのに関節を構成する軟骨が次第に減少し、疼痛が生じ関節の動きが悪くなる病気です。さらに進行すると、骨棘と言われる骨の出っ張りが周辺部に出現し、さらに関節の動きが悪くなります。世間でお年寄りが、「膝に水が溜まってね、大変よ」と言ってる病気です。

治療法には、運動療法・薬物療法・装具療法・手術療法がありますが、膝の変形性関節症を例にとって説明してみましょう。

運動療法として、最も有名で効果も証明されているのが、大腿四頭筋訓練です。

まず、実際の方法を示しますと、仰向けに寝て片足を膝を伸ばしたままで45度くらい持ち上げます。このとき足首も頭の方へそらせた状態で5つ数えて降ろします。

これが1回で、30回繰り返して1セット、一日に片足3セットずつ繰り返してください。これまで行われた研究で、この運動を繰り返していると、関節に溜まる水が減少し、痛みも軽減し、さらに関節内の水の粘度が上昇して正常に近づくことが報告されています。
 
お金もかかりませんし、副作用もありません。是非やってみてください。ただし、根気は必要です。

次ぎに装具療法です。変形性膝関節症の方は、O脚の方が多いことが分かっています。まっすぐに立って足をそろえて、それでも両膝の間が空いてしまう人です。力学的に考えて、O脚の方は膝の内側ばかりに体重がかかることになり、軟骨の「片減り」が起こってしまいます。

そこで、足の裏に外側が少し高くなった敷物を入れて、体重が内側に集中してかからないようにする方法がよく使われます。実際にこの装具を入れることにより、痛みがかなり軽減される方もおられます。ところが、考えてみてください、足の裏から膝まではかなりの距離があります。

足の裏に薄い敷物を入れただけで本当に効果があるのでしょうか?実際に、これを研究された先生がおられました。すると、足の裏と膝の間には足首の関節があります。せっかく足の裏に敷物を入れたのに、その効果が足首で吸収されてしまうという現象が観察されました。

どうすればよいか?

その先生の結論は、足首まで覆うような装具を作ればより効果が出るというものでした。実際に、そういう装具を作ってくれる装具会社もあります。足の裏に敷くだけでは効果の無かった方は試されても良いかもしれません。

大阪市立大学大学院医学研究科リウマチ外科学 
(NPOおおさかシニアネット 転載許諾)

2008年04月04日

◆脱北者が狙う日本人学校

                  渡部亮次郎

世界各国にある日本人学校は、治安、政情が諸外国に比べ安定している
日本国内の学校に比べて危機管理レベルは高く、多くの日本人学校の校
門は自動ロックで常に施錠され、高い塀や有刺鉄線で囲まれ、警備員が
24時間または授業時間中に常駐している。

学生証、保護者証、来校者証を発行し、IDチップ認識システムを導入し
ている学校もある。

ほとんどの日本人学校においては、登下校時の安全
を確保するためにスクールバスや保護者の送迎による登下校のみを許可
している。

また、政治情勢が不安定な国では現地の日本大使館や現地警察との協力
体制を構築している他、日本国内に緊急連絡室を持つ学校もある。

それでもまだ多くの日本人学校では災害、テロ、反日デモ、感染症に対
する緊急時対策は不十分だといわれている。

使えるマニュアルの作成、備品購入と貯蔵、また災害だけでなく爆弾テ
ロ、暴動、クーデター、ゲリラ乱入、不審者侵入、スクールバスへの投
石などを想定した効果的な対策や避難訓練の充実が必要とされる。

文部科学省は所管の海外子女教育振興財団などを通して日本人学校を始
めとする在外教育施設の安全対策の費用を一部負担している。

防護フェンス、外壁嵩上げ 、有刺鉄線、門の補強、自動開閉ゲート、イ
ンターホン、非常口、遮断機 、防犯カメラ、感知式ライト 、緊急サイ
レン、携帯無線機、携帯誘導灯、校内放送設備。

防煙マスク、校舎の防弾ガラス 通学バスの防爆シート・飛散防止フィル
ム・銃弾貫通防止フィルム 、緊急避難用はしご、緊急時用水のための地
下水ポンプといった物品の設置・購入を援助費で補っている。

中国にある日本人学校が頭を悩ませているのは、難民認定と亡命を求め
る北朝鮮からの脱出者の駆け込み事件である。北京日本人学校は大使館
と異なり治外法権を持っていないにもかかわらず、2003年から2005年の
間に計5回、合計56人の脱北者が侵入した。

関心が北京に行っている間に、大連の日本人学校でも同様の駆け込みが
計画されたが未遂に終わっている。

北京日本人学校はまず在北京日本大使館に連絡を取り、脱北者は大使館
に引き取られて、その大部分が韓国への亡命を果たしている。中国は脱
北者を「不法入国者」として北朝鮮に返す協定を北朝鮮政府と結んでい
るため、この様な日本人学校の対応に非常に不満を持っている。

2003年に日本人学校が増設許可を申請したところ、その見返りに外交関
連施設として優遇措置を受けていた立場から、中国政府が直接介入でき
る一般校へ1年以内に登記変更するように要求されたり、「校長が脱北者
の身柄を日本大使館でなく現地の警察に即時に引き渡さなければ、警察
は日本人学校の安全を保証できない」と脅迫に近い通告をしている。

日本国内の世論は、「危険を冒して逃げてきた者なのだから門前払いを
せず校内で匿うべきだ」という意見と、「大使館ならまだしも治外法権
のない日本人学校に駆け込む者は法律に従って中国側に引き渡すべき」
だという意見に分かれる。

実際に日本人学校に通う子ども、その保護者、また子ども達を預かる側
の日本人学校にとっては、切羽詰った脱北者や中国の公安当局が校内で
武力行使することも考えられ、何事も安全を第一に行動しなければなら
ない。

学校はセキュリティーを強化し、警備員を増員し、脱北者侵入を想定し
た避難訓練も行い、不審者侵入に非常に神経をすり減らしている。

実際に判断をし責任を取るべきである日本国の特命全権大使ではなく、
その様な責任を与えられているわけではない一学校の校長に、日中関係
を左右するような判断と責任がつきつけられているのは理不尽であると
いう意見が多い。2008・03・02
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2008年04月02日

◆天風門下だった園田直

                  渡部亮次郎

4月2日は私が大臣秘書官として仕えた元外務大臣園田直(そのだ すなお)の祥月命日である。昭和59(1984)年のこの日の朝、糖尿病による腎不全のため慶応病院で死去した。僅か70だった。インスリン治療をしていれば後20年は生きられたのに。惜しい人だった。

ところで園田氏は生涯に結婚を3度している。政界では松谷天光光(てんこうこう)との「白亜の恋」で2度目の結婚と思っている人が多かったが、実は、その時の先妻が2度目。日中戦争に志願する以前、京都で山口県出身の女性を入籍、男の子をもうけている。直明(故人)といった。

母子をを天草の両親に預けて何をしたかというと、中国出奔。「狭い日本に住み飽きた。支那にゃ4億の民がある」と青年たちが「中国浪人」に憧れた時代。妻は郷里に出奔。

戦後、代議士になったと聞いた元妻が議員会館に訪ねてきたが面会を拒否。それっきり消息は途絶えた。このため直明氏は死ぬまで母を恋しがり、アルコール依存症になった、といわれた。父より早く死んだ。

園田氏が天風会に入門したのは衆院議員当選9回ながら未入閣だった昭和39年ごろ。衆議院副議長だった。当時、総理大臣佐藤栄作氏は、自民党永年の懸案だった紀元節の復活に腐心、策を探っていた。

それを知った園田氏は野党第1党(2党は民社党で公明党は衆院に未進出)の国対委員長石橋政嗣(後に委員長)と組み、「建国記念日」に「の」を入れて「建国記念の日」とし、いわば換骨奪胎を図る形で解決。政界に「異能政治家」と注目されるきっかけとなった。

中身は聞き出したことは無いが、この間、しばしば中村天風氏に教えを乞うていた事は知っている。園田副議長担当記者だった私も「合宿」に誘われた事もあるが、断った。精神修養とか宗教などには興味が湧かない。

断ったといえば「合気道」への入門も断った。私の中学、高校時代は進駐軍の占領時代で、剣道も柔道も禁止されていた時期。だから武道には一切近付かなかった。汗を流して同性と取っ組み合いをするとは、考えただけで身震いがした。

建国記念の日法案の成立を「手土産」に第2次佐藤内閣に厚生大臣としてやっと初入閣。選挙区でもある熊本県内での水俣病を国として初めて公害病に認定するなど佐藤内閣の「好一点」といわれたりしたが、財界の猛反発のため、次の入閣まで10年間「冷や飯」を食う。

そもそも中村天風とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用する。

<中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 ―1968年12月1日)は日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。本名は中村三郎。

1876年、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として現東京都北区王子で出生。父は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。

福岡市の親戚の家に預けられ、福岡の名門校、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。家伝の随変流の剣術と居合も修行した。幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能になる。

柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得る。

16歳の時に頭山満の紹介で陸軍の軍事探偵(特殊工作員)となり、満州へ赴く。軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。

1904年(明治37年)3月21日コサック兵に捕われた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。

日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。

イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行
く答えを得ることができなかった。

1911年日本への帰国の途上、カイロでインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガの麓で2年半修行する。

1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。その謝礼として財産を得た。東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。

1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。

1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。戦後の1962年、国の認可により「財団法人天風会」となる。1968年12月1日死去。享年92。

「笑顔は万言に勝るインターナショナル・サインである」という言葉を残している。

中村天風に指導を受けた者のうちの著名人。

東郷平八郎 後藤新平 原敬 西竹一 双葉山 定次 山本五十六 浅野総一郎 杉浦重剛 石川素童 山本英輔 尾崎行雄 三島徳七 重宗雄三 左藤義詮 倉田主税 駒形作次 飯田清三 村田省蔵  丹羽喬四郎 松本幸四郎 北村西望 三遊亭円生 大佛次郎 園田直 堀越二郎

松田権六 内海倫 佐々木義武 越後正一 植芝吉祥丸 宇野千代 広岡達朗 安武貞雄 岩松三郎 杉山彦一 島中俊次 素野福次郎 松下幸之助 稲盛和夫 ロックフェラー3世>

植芝吉祥丸とは「合気道」の創始者。園田氏を天風氏に引き合わせたのは植芝氏と思われる。園田氏は直弟子で合気道8段だった。
2008・04・01

2008年03月31日

◆大連立は「小沢提案」と首相

                  渡部亮次郎

<福田首相は30日のNHK番組で、昨年秋に民主党の小沢代表との党首会談で協議した自民、民主両党による大連立の構想について、小沢氏からの提案だったと述べた。

首相は、参院で与野党が逆転した「ねじれ国会」で政策遂行が難航していることに触れ、「小沢代表も、こういう事態はよく察知され、『連立を考えよう』という提案をされたと私は思う。小沢代表と同じ気持ちだ」と述べた。> 3月30日20時58分配信 読売新聞

この点について産経新聞客員編集委員(元政治部長)花岡信昭氏は
ご自身のメールマガジン550号[2008・3・30]で依然、大連立の可能性あり、と以下のように指摘している。

<小沢氏は福田首相からの電話にも出ないそうだから、なんともはやである。

とはいえ、まだ希望はある。福田、小沢両氏は昨年の大連立構想でいったんは歩み寄った仲だ。10、11月に党首会談が2回開かれたことは伝えられているが、実はこれ以外にもひそかに3回程度は会っている。

それまでは疎遠な関係だったが、互いに、よけいなことは口にしない、シャイでぶっきらぼう、といった性格が似通っていることを発見して、「気脈が通じる関係になった」(政界通)ともいわれる。

となれば、大連立構想は完全には消えていないとみるべきだろう。参院で与党は過半数に17議席不足しているから、この隙間(すきま)を埋めるだけの「中連立」という手もある。

日銀総裁人事で福田首相が武藤敏郎(としろう)氏(64)と田波耕治(たなみ・こうじ)氏(68)を相次いで提示したのは、小沢氏の了解があったためという解説もある。

大体が、そういうことでもなければ、民主党が同意しないことが分かりきっている旧大蔵事務次官出身者を提示したりはしない。>

そうであるなら福田発言は、小沢氏の手の内を暴いたに等しくはないか。大連立反対でいきり立っている民主党内の反小沢勢力をさらに刺激し、小沢氏の動きを封じる以外の何物でもないと思えるからだ。

<事態打開に向け、首相は民主党の小沢一郎代表に党首会談を求めているが、小沢氏は「会ってもよいが、かみ合わない」とにべもない。首相は30日のNHK番組で「粘り強くというが粘り気にも限度がある。玄関どころか門前払いという現状ですかね…」とぼやいた。>産経News 31日

福田首相とは昔、福田赳夫内閣で、福田氏が総理秘書官、私が外務大臣秘書官で働いた仲で、性格やクセも多少は知っているが、いわゆる奇策縦横の人では絶対にない。泥縄といわれようと、縄が必要である限り綯う人である。

したがってNHK番組で「暴露」したのは何らかの「波紋」を期待したものでは無いだろう。これによって小沢氏の足を引っ張る事を計算したものでもないはずだ。小沢氏を窮地に追い込めば小沢氏が「反省」でもすると単純に考えたのかもしれない。

明日からボン(ドイツ)でのサミットだという1978(昭和53)年7月14日のパリ祭のコンコルド広場。大統領も到着して行事が賑やかに始まっているというのに、広場を見下ろすホテル・クリヨンで赳夫総理は記者懇談を中断しようとはしない。

記者団は外の騒ぎに気を取られて総理懇談どころではない。それなのにサミットとは、と「勉強」を続ける総理。「彼らはサミットの何たるかをわかっていないから教えてやるべきだと進言したんだ」と康夫秘書官。

ここまで来て分かっていない者にここで教えたって分かるはずが無いという私。意見は一致しなかった。随行した3閣僚はそれを他所に「ポスト福田」をめぐって密談に余念がなかった。

泥棒が既に逃げた後でも縄を綯うというのが康夫総理の性格である。奇策をと願う大方の期待は水泡に帰する事、間違いない。2008・03.31

2008年03月29日

◆民主党の先も明るくない

渡部亮次郎

日本人は、成功して陽の当たる道を歩いた頼朝より結局報われない悲劇のヒーロー義経を好む。民主党は昨年夏の参院選挙では判官だったが、経済界が混乱した今となっては判官は自民党になった。次期総選挙で民主党は負ける。

様々な調査を分析すると、国会を混乱させる事によって福田政権の打倒を実現し、民主党政権を樹立するという民主党の戦略は国民の支持を失っている。小沢代表は戦略を間違えた。

産経新聞の元政治部長花岡信昭さんは2008年3月中旬、モスクワに出張された。それを26日の産経新聞で触れたが、次の1節が気になった。

<先週の数日間、粉雪の舞うモスクワで過ごした。「日露専門家対話」というシンポジウムに招かれて、日本政治の現状を報告した。

「衆参ねじれ」を背景にした混乱は、向こうの日本研究者にも理解不能のようで、説明に難儀した。(中略)モスクワ訪問は学者、政治家ら十数人のメンバーだったが、その中に、民主党の前原誠司副代表(元代表)もいた。

この重大な時期に国会を離れていたのは、不毛の攻防戦から距離を起きたかったためではないか。>

また一流商社マンの泉幸男氏は自らのメールマガジンで自らがしばしば仕事で滞在する台湾について、その政治状況に触れた後、

<さしずめ小沢一郎氏などは、馬英九当選者のひそみにならい、衆院選に勝って民主党の首相を成立させ、「ねじれ国会」解消でとんとん拍子の田中角栄式政治を……と夢見ているかもしれない。

国民党の立法院がこの8年間、陳水扁大統領の足を引っ張りつづけたよ
うに、民主党の参議院も自民党政権の足を引っ張りつづける。きっと国民は「ねじれ解消」を何よりも切望して、衆院選でも自民党を負けさせるだろう……というわけにはいくまい。

それなりの新鮮感を武器に闘った台湾の馬英九陣営と異なり、日本の民主党執行部はあまりに古顔揃いだ。

参院選のときに、日本の一部をおおった漠然とした期待感は、「何でも反対」戦術を見せつけられて、萎えきった。>(26日)

大學出、中堅サラリーマンが、支持しかかった民主党について、硬直した国会対策を見て「萎えきった」とは尋常ではない。民主党はこうした批判に全く気付いていないのだ。

確かに福田首相や伊吹幹事長の国会対策は上等とはいえないにしろ、民主党の「何でも反対」と映る国会戦術は、それ故に潰えた嘗ての日本社会党を彷彿とさせ、国民に決して好い印象は与えていない。

ガソリンが1リットル当たり25円も安くなれば消費者が一時的に民主党を評価するだろうが、その代わり空く地方への道路財源の穴はどうするのか。そんな事は知らぬことでは、地方から猛反撃を食うことは必定だ。

百戦錬磨の小沢代表。まさかこれだけで福田倒閣が実現し、自らが直ちにそれにとって替われると思っているはずは無い。いわゆる「大連立」に応じた際、その理由として自ら説明したように、民主党に政権担当能力に無い事を挙げたではないか。

本来の小沢であれば一般財源化プラス何かしらを引き出して引き下がるというのが角栄直伝の戦術だった。それが益々過激化する硬直戦術にも口を出して止めよういるそぶりは見えない。

おそらく「行け行けどんどん」といきり立つ過激勢力を抑える「統治能力」を失い、戦術論への立ち入りを阻止されているのでは無いか。或いは党内が分裂寸前なので、過激論でしか党内を纏めることが不可能になっているのか。

なんだか悶える自民党の将来も暗くなっているが、取って替わるべき民主党にも、明るい日差しは全く見えない。文中敬称略。2008・03・27

2008年03月28日

◆今に続く西山事件

                  渡部亮次郎

1972(昭和47)年3月27日に「西山事件」が始まった。西山太吉は毎日新聞東京本社政治部の外務省担当キャップ。その前の総理官邸クラブでは衝立を挟んで向かい合わせという身近な存在だった。

その後、西山は外務省担当となり、私は衆議院記者クラブを経て自民党福田赳夫担当となり、いよいよ近付いた「角福戦争」の取材に忙殺されていた。

沖縄返還を確実にした佐藤栄作首相は、それ故に求心力を失いつつあったが、外相福田赳夫に政権を譲るハラに変化は無いと自民党内は考えていた。しかし、ライバル田中角栄は「禅譲」を阻止すべく虎視眈々としていた。

そうした中、3月27日午前、衆院3階の第1委員会室での予算委員会で社会党の若手議員横路孝弘が右手に1通の外務省公電のコピーを翳し、「沖縄返還をめぐって日米間に密約あり」と暴露した。「西山事件」の始まりだった。

暴露されたのは1971年5月28日付けで愛知揆一外相が牛場信彦駐米大使に宛てた、愛知外務大臣とアーミン・マイヤー駐日大使会談の内容及び、同年6月9日付けで福田赳夫外相臨時代理と中山駐仏大使の間で交わされた井川外務省条約局長とスナイダー駐日公使との交渉内容の合計3通だった。

この電信内容は、返還に伴う軍用地の復元補償で、米国が自発的に払う事となっている400万ドルを実際には日本が肩代わりする旨の密約の存在が露呈させるものだった。

これらは西山が横路に手渡したものであり、当然ながら野党は大きく問題にしたが、政府の側は「政争の具にした」と認識し、誰が・なぜ・いかなる目的を持って機密文書を漏洩したのか、その背後関係を調べようとした。

西山は、電信内容から個人情報の手がかりを消すことなく横路に手渡したため、決済欄の印影から、文書の出どころが安川壮政治担当外務審議官と分かってしまった。私はこのことにとても立腹したものだ。

この間、毎日を初め朝日などマスコミ各社は「報道の自由」を掲げて居丈高に政府を非難した。しかし、佐藤首相は薄ら笑いを浮かべながら余裕綽々だった。

3月30日 外務省の内部調査で、外務審議官付女性事務官蓮見喜久子が「私は騙された」と泣き崩れ、渋谷のホテルで西山に機密電信を手渡したことを自白した。

事件暴露から8日後の4月4日、外務省職員に伴われて蓮見が出頭、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕。同日、同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で西山も逮捕された。逮捕された西山は情報源が女性の蓮見事務官であることを特に秘匿せず供述している。

4月5日、毎日新聞は朝刊紙上に「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開した。

4月6日、毎日新聞側は西山が女性事務官との情交関係によって機密を入手したことを知る。しかしこの事実が世間に公になることは無いと考えて、「言論の自由」を掲げてキャンペーンを継続。

しかいし4月15日、起訴状の「女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して」というくだりで、被告人両名の情交関係を世間が広く知るところとなる。

ちなみに、この起訴状を書いたのは当時東京地検検事の佐藤道夫(のちに第二院クラブ、民主党参議院議員)であった。

こうして、世論は問題の中心をスキャンダルと認識し、密約の有無から国民の目はそれていった。また、政府は国家機密法の制定を主張した。

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2008年03月27日

◆ベートーヴェンの命日

渡部亮次郎

3月26日は楽聖忌として知られるが、これはベートーヴェンの命日だからである。40過ぎの頃、ボンの生家を訪ねたことがあるが、休日で入館できなかった。以下「ウィキペディア」で「勉強」する。

《楽聖》は他にもバッハやモーツァルト、ショパン、エルマン(ヴァイオリニスト)などにも冠される称号であるが、単に《楽聖》とだけ言った場合はベートーヴェンを指すことが殆どである。日本では《楽聖》といえばベートーヴェンが定着している。

ところが、容姿は小太りで身長も低く、黒い顔は天然痘の痕で酷く荒れていたという。表情は有名な肖像画の数々や、デスマスクや生前ライフマスクを作っていたこともあり判明している。生涯独身。

若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなり、「汚れ熊」が彼のあだ名となった。そうした風体のため、弟子のチェルニーは少年時代に初めて会った時、ロビ
ンソン・クルーソーを思わせる、という感想を抱いた。

浮浪者と間違われて逮捕される事も何度も有った。ただ身なりには無頓着だったが手だけは念入りに洗うのが常であった。

性格は、ゲーテに「その才能には驚くほかないが、残念なことに傍若無人な人柄だ」と評されるように、傲慢不遜であったとされる。頑固さは作品にも反映されている。ゲーテには絶交された。

このように非常に厳しかった反面、実は冗談・語呂合わせを好んだ。諧謔性が発揮された作品も幾つも残っている。また自分も必ずしも楽譜通りに演奏しないのに、楽譜通りに弾かない演奏家には激しい非難を浴びせたという。
日本では、クラシック界の作曲家は「バッハ」、「モーツァルト」のように原語の発音で表記されることも多いが、ベートーヴェンの場合だけなぜか英語読みが一般的になっている。

ドイツ語では“Beethoven”は「ベートホーフェン」、一般的には「ベートーフェン」と読まれる。だから日本でも明治時代の書物の中には「ベートホーフェン(ビートホーフェン)」と記したものが若干ある。

しかしなぜか程なく「ベートーヴェン」が浸透した(唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である)。

中国では外来語のvをfまたはwの異音と見なすので、「貝多芬
(Beiduofen)」となる。

ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、は1770年12月16日ごろ寒村ボンで生まれ
1827年に死去した。60歳に満たなかった。

父ヨハン、母マリアの次男。ヨハンは宮廷歌手であったが、アルコール依存のために喉を患っており、収入はほとんどなかった。

だから一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父の支援により生計を立てていた。この祖父が亡くなると一層生活が苦しくなった。

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2008年03月26日

◆人間本来は左側通行

渡部亮次郎

長いこと大阪・豊中に住んでいた義兄が73歳になる前日に東京の病院で肝炎のため死去したのは2007年1月22日朝。あれから1年以上が過ぎた。連れ合いだった家人の姉は仕方無しに豊中の家を処分して東京に引き揚げることにした。

姉妹弟たちがその家を見納めがてら伊豆の温泉に漬かろうと出かけるので、餓死を避けるには同行した。それが2008年3月20日のこと。持病のための散歩も3日間無しとなった。血糖値は相当上がった。

大阪では大阪城見物。城には歴史が無いのだから登らずに下で待っていると側から聞えてくるのは中国語ばかりだったのだ。やたら中国人観光客が多い。30年前に勤務した時には想像もつかない風景だった。

日本人のお上りさんで叫ぶのは関西人だけ。まさか地元では叫ばないらしく、どこに居ても叫ぶ中国人だけが、やはり老若男女、
「喚く」のである。

東京から来たお上りさんは水掛不動を見たいという。カーナビは文句なし、最短距離を指示してくれる。私は足を延ばして心斎橋筋を歩いた。30年前、ここで人間の心臓が大抵は左にあることを再確認した思い出の地である。

大阪市内で唯一クルマ通行禁止の道路。人間しか通らない筋(南北)。
何の指示も無いが途絶えることの無い老若男女の流れは必ず「左側通行」。道路交通法とは反対である。東京人は却って法律を守ろうとして人にぶつかっている。大阪は真理に従い東京は役人に従うの図。

物知りに依ると、人が左側通行をしようとするのは、心臓を外敵から守ろうとする本能によるもので、極めて自然な事。むしろ敢えて人に右側通行を迫る道路交通法はむしろ残酷というべきとのこと。大阪人が正しいのだ。

東京の公園を毎日のように散歩しているが、それでも殆どの人は円の中心を左側に置いて、時計回りと逆の「左廻り」にして心臓を内側にしている。ヘソ曲がりは当然いるが。

日本では人も車も昔から左側通行が普通だったが、クルマ社会になったころ(1960年代後半)、人を危険から避けるという名目で、人間だけ「右側通行」に改められた。これをを対面交通という。

これによって、自動車と通行人とが相互を認識しながら通行することができるので事故は少なく、自動車が普及している社会においては法制化されている。対面交通制度は、自動車数の増加に伴い、大半の国で採用されている。

これには左側通行と右側通行とがある。日本においては道路交通法第17条第4項が「車両は、道路の中央から左の部分を通行しなければならない。」(条文中の括弧書き省略)と定めていることから左側通行が採られている。

通行区分採用の沿革については、様々な説がある。日本の左側通行については、江戸時代頃から武士などが左腰に差している刀が触れ合うことを避けて、自然と左側通行になっていたという説が一般に流布しているが、イギリス陸軍に範をとったという説や最初にイギリス車を輸入したからという説もある。

また、欧州大陸諸国の右側通行については、馬車の馭者は右手で鞭を振るうので、対向する馬車に鞭を当てないために自然と右側通行になったという説や、フランス革命の際に教会の定めた左側通行に対抗して右側通行にし、その後、ナポレオンがヨーロッパ各地を占領していったことで普及した説がある。

日本では、後に普及した自動車も通行人と同じく左側通行だったが、自動車の交通量の増大に伴い交通事故の危険性が増加したことから、対面交通が採用されるに至った。

その際、自動車の通行区分を変更すると、全国的に莫大な費用がかかることから、自動車の通行区分をそのまま維持して、通行人の通行区分の方を変更したとされている。

また、これに慣らせるため又児童同士の衝突事故を防止するため、日本の小学校では廊下の右側通行を指導する事例も見受けられる。

しかしながら、鉄道駅では人が左側通行をすることを前提に設計されてきた為、一般道路で人の右側通行が採用されて以降も、人の左側通行が採用されている。

序にクルマの左側通行だが、世界的に見て国の数としては日本などの左側通行は少数で英国、日本など、右側通行採用国が欧米初め多数である。

人口比では左側通行と右側通行の比率は34:66であり、道路の総延長距離で比較すると27・5:72・5になる。

他国に自動車を輸出する自動車メーカーは、同一車種について右ハンドル車と左ハンドル車の両方を設計・製造することが一般的である。

しかし例外的に、左側通行の日本では主に消費者の嗜好から輸入車の一部が左ハンドルで販売されている。逆に、右側通行であるロシアの、特に極東地域(沿海地方やハバロフスク地方など)、モンゴル、ミャンマー、また北朝鮮などでは、日本から右ハンドルの中古車が多数輸入、使用されている。

中国大陸は、戦前・戦中までは上海などのイギリス租界や日本租界、関東州(大連)といった日本の租借地、また満州などが左側通行であったが、1949年の中華人民共和国成立後は、全土が右側通行に変更・統一されている。

台湾、パラオ、フィリピン、朝鮮半島などは、日本に統治されていた時代は日本式の左側通行であったが、日本の敗戦後は右側通行に変更している。

航空機・船舶は右側通行で統一されている。

鉄道の複線区間は各国によってバラバラであるが、自動車の通行区分に準じていることが多い。

ただし、フランスのように左側通行になっているところや、スウェーデンや韓国のように混在しているところもある。路面電車は道路を走ることから、自動車と同じになっていることが殆どである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・03・24

2008年03月25日

◆プライバシー訴訟




        渡部亮次郎

プライバシーとは、個人の私生活に関する事柄(私事)、およびそれが
他から隠されており干渉されない状態を要求する権利をいうと言われな
くとも今やプライバシーは日本語同然、誰知らぬ者の無い「日本語」だ。

しかし、「日本語」としては新しい存在であり、超著名な作家が元東京
都知事候補に訴えられて、しかも敗訴するまでは、日本人の殆どが無視
してきた根源的な権利だったのである。

つまり自決した作家三島由紀夫が、日本で最初のプライバシー侵害裁判
の被告であり、日本人が、人間に、そんな権利があることを知った始ま
りだった。それが1961(昭和36)年3月15日に訴えられたプライバシー裁
判だった。

英単語「Privacy」をカタカナ表記したもので、「私事権」と訳されるこ
ともある。

日本国憲法には明文規定はないが、第13条(個人の尊重)によって保障
されると解されている。日本では「宴のあと」事件の際にプライバシー
という言葉が使われたことから注目され、人格権として認められるよう
になった。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴
のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三
島と出版社の新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京
地方裁判所で起したのである。

有田八郎(ありた はちろう、1884年9月21日―1965年3月4日)は新潟県
佐渡郡真野町(現在の佐渡市)出身の男性外交官、政治家である。息子
圭輔も外交官になり園田直外相当時(1972年から74年ごろ)は父同様、外
務事務次官だった。

八郎は山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立
憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を
務めたことで知られている。

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近
衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後ま
で反対したが戦後は公職追放。追放解除後は戦前と対照的に革新陣営に
属し日本の再軍備に反対したことで有名である。

<原告の主張
 
 1.被告平岡公威は三島由紀夫のペンネームをもつ小説家であるが、
雑誌「中央公論」の昭和35年1月号から同年10月号にわたって「宴のあ
と」と題する小説を連載執筆したのち、被告佐藤亮一を発行者、被告新
潮社を発行所としてこれを1冊にまとめた同一題名の小説の刊行を許諾
し、被告新潮社は昭和35年11月15日付で右初版15,000部以上を刊行しそ
の後も重版を刊行発売している。

 2.「宴のあと」の梗概は『「野口雄賢」という妻を失った独身の60
才を過ぎた外交官出身の男でかつて小国の公使をつとめたことがあり、
外務大臣にもなり戦後衆議院議員に立候補して当選したが2度目は落選
し、「革新党」の顧問となっていたが同党から推されて東京都知事選挙
に立候補した。

この野口は都知事選挙の有力候補であつたので「保守党」の対立候補の
擁立は人選難に陥り、現職の都知事は辞めそうでなかなか辞めない有様
であったところ、野口の妻「福沢かづ」の経歴、行状を誹謗した怪文書
「野口雄賢夫人伝 山漁人著」がばらまかれたため野口は山の手方面で
人気をおとし、また選挙資金を調達するため料亭「雪後庵」を売却する
ことも「佐伯首相」に妨害されて野口は選挙の終盤戦で資金がなくなり、
反対に保守派からは買収の金が流れ出し、

さらに投票日の前日に「野口雄賢危篤」のビラがまかれたりして結局都
知事選挙は「敵の謀略と金の勝利」に帰し「20万ちかく引き離され」て
野口は惜敗した。野口の妻福沢かづは少女時代から「苦労のかずかず」
を重ねてきた女で著名な料亭「雪後庵」の女将であったが野口と結ばれ
妻の座にすわり都知事選挙のために野口にかくれて「雪後庵」を抵当に
入れて資金をつくるべく奔走し同料亭は休業するに至った。

しかし怪文書がばらまかれ選挙が野口の敗北に終ったのち野口に背い
て「雪後庵」を再開するため野口とは遂に離婚した。』というのである。

 3.(一) このように「宴のあと」に登場してくる主要人物には
「野口雄賢」と「福沢かづ」という仮名が用いられているけれども以下
に指摘するようにこの小説が一般読者に与える印象としては「野口雄賢」
が原告、「福沢かづ」が畔上輝井をさしていることは明らかであり、そ
の効果は原告及び畔上輝井の実名を挙げた場合と異らない。

(中略)

 7.このように「宴のあと」は原告の私生活をほしいままにのぞき見
し、これを公表したものでありこれによって原告は平安な余生を送ろう
と一途に念じていた一身上に堪えがたい精神的苦痛を感じた。

そこで「宴のあと」の作者、発行者、発売者である被告等は共同して原
告に精神的苦痛を与えたものとして、原告に対し損害を賠償すべき義務
があるが、原告の損害を填補するには被告等が共同で請求の趣旨第1項
記載の謝罪広告を掲載し、且つ慰藉料として少くとも金100万円を支払わ
なければならない。

よって被告等に対し共同して請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告および
慰藉料ならびに後者に対する本件訴状各送達の後である昭和36年3月
26日からその支払済まで年5分の割合による民法所定の遅延損害金の
支払を求める。>

裁判所は原告の主張を全面的に認め、「プライバシー」は流行語にもな
り日本人に定着した。画期的な裁判だったのである。

裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」とい
う論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、
三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有
田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省
時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、こ
の事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・03・23