2008年03月19日

◆福田が倒れぬわけ

渡部亮次郎

そのわけは民主党の日銀総裁をめぐるやたらな突っ張り作戦。国民を敵に回したのにも気付かぬその国会対策にある、と指摘するのは先輩記者の古澤襄さん(元共同通信社常務理事)。

<本来ならとっくに支持率が20%を切って危険水域に入っている筈の福田内閣が、まだ30%台の後半にある。それを支えているのは、何でも反対の民主党の下手な突っ張りだろうと思っていたが、読売新聞社の世論調査がそれを示してくれた。

日銀総裁の人事をめぐる民主党の突っ張りに国民の6割は批判的である。福田内閣の支持率はジリ貧状態にあるが、自民党の支持率は30%台で動いていない。それなのに民主党の支持率は20%を切って、一足先に危険水域に入っている。

何とも皮肉な現象である。民主党の突っ張りが相対的に福田内閣の大幅な支持率低下を防いでいることが明らかである。このところメデイアの世論調査は、福田内閣の支持率しか追っていない。ジリ貧状態にあるのは、世論調査をするまでもなく誰の目にも明らかである。

ドカ貧にならずにすんでいるのは何故か。年間で百万件を越す杜父魚ブログの記事アクセスを毎日、分析しているのだが、明らかに民主党の手法が福田内閣の支持率低下を防いでいるという傾向が出ている。>杜父魚ブログ(3月17日)

元々福田首相に総理総裁としての能力があったわけじゃない。それなのに政治的に助兵衛な蜃気楼が麻生政権を阻止するためにはどんな事でもするという引退政治家野中廣務がでっち上げたのが福田「見栄え」政権だったのである。

安倍晋三が政権を投げ出した時、最有力と見られた後継者は明らかに麻生太郎幹事長(当時)だった。改革路線を掲げ、明確に安倍路線継承を明確にしていた。

ところが知らぬ間にスネークが京都在から密かに這い出してきたのにマスコミは全く気付かなかった。引退した政治家が何かを企むなんて想像もしていない。

逸早く安倍の引退と麻生の野望を知った野中は急遽、上京。予て連絡を取っていた福田康夫の意思を再確認。まず渡仏中だった最大派閥の実力者森喜朗を電話で押さえつけた。

「ここはあんたの希望する福田クンで行きますよ。いいですな」。森に文句の言えるわけが無い。あの時、小渕首相が急に倒れた時、
野中ら「5人組」に後継総理にしてもらった恩義。さらに在任中、幹事長として野中に支えてもらった義理がある。

森がそうやって降伏した以上、清和会で野心を掻き立てていた町村がダウン。旧池田派は野中の子飼い古賀誠を通じて抑えられた。旧竹下派は元々野中の本籍地。親分津島雄二といえども野中に立ちふさがるだけの実力は無い。他派閥も福田阻止に動ける態勢にはなかった。

かくて政権構想も野心も無く、今季限りで引退を密かに決意していた男があれよあれよという間に総理総裁に躍り出た。それが福田政権なのだ。だから夢も希望も初めからあるわけではない。決断力の無いものに日銀総裁人事の絵解きなどできる筈がない。

高校で野球部だと投手ではなくキャッチャー。閣僚としては2代の官房長官をしたというが、あんなもの、佐藤栄作内閣までは大臣ポストではなかった。まともな大臣、党三役を経験していない。ただただ喧嘩しないだけのそこらの叔父さんに過ぎない。

理由は理解を超えるが、結果的に媚中、半(反)米で、ビジョンも野望も皆無。ただ親父が2年で追われた総理という椅子に出来れば4年はしがみついていたいだけの無能老人に過ぎないのである。

自民党内で元々強烈に支持した派閥は一つも無い。したがってきっかけさえあれば何時でも簡単に倒れる政権なのである。たとえば野中は今更何もいえないかも知れないが、誰かに「期待外れだったね」と一言洩らせば即倒閣に繋がる。

産経政治部の阿比留瑠比記者が、殆ど嘆いてている。総理官邸で毎日バカ殿を見ていると堪らなくなってくるのだろう。私も外務省から秘書官として先代を見ていた30年前を思い出して、遺伝を考えている。

<私にとって、この「とてつもなく高い支持率」は本当に謎に思えます。日本社会は実は得点主義のではなく減点主義の社会で、「何もしない、何もできない」ということは、意外と評価を低くすることにはつながらないのかと、ふと、そんなことを考えました。>
ご本人のブログより。文中敬称略。2008・03・19


2008年03月17日

◆求心力なき「ポスト胡」

                  渡部亮次郎

報道によれば、昨年秋の中国共産党大会で中央入りしたばかりの習近平氏が、15日の全国人民代表大会で賛成2919票、反対28票で国家副主席に選ばれた。

これで習氏は現時点でポスト胡錦濤の最有力候補となったが、絶対的な実力をもつカリスマ指導者による指名ではなく、拮抗(きつこう)する各派閥による妥協の結果によって選ばれた。その求心力には疑問が残り、5年後、権力継承が無事に行われるかは不明だ(産経新聞北京の矢板明夫記者2008.3.15)。

“次点”となったのは習氏のライバルで筆頭副首相に就任予定の李克強氏。得票はわずか5票だったが、信任投票のためは習氏の名前しか印刷されていなかった投票用紙に、それを消して、李氏の名前をわざわざ書き込んだ者が5人もいたということになる。

共産党内部の権力闘争の痕跡を外部に見せない中国では、選挙で非立候補者が複数票を獲得することは珍しい。事前の根回しを無視した5票は、密室談合で候補者を決めた現指導部に対する、李氏支持の一部代表による不快感の表明といえる。

習氏は、11年前の党大会中央委員候補選挙で、151人中最下位で当選するなど、党内での評判は決して芳しくない。現在の権力構造の中で、各派閥にとりあえずは受け入れられた人選に過ぎない。

産経北京の野口東秀記者によれば、習氏は太子党である。たいしとうとは中国共産党の高級幹部の子弟等で特権的地位にいる者たちのこと。太子は英語のPrinceの意。

党組織だけでなく、コネを生かして企業経営等に関わる場合もある。なお大抵は親の方が地位・知名度共に上だが、曽慶紅のように子のほうが出世した例もある。

習氏は故胡耀邦元総書記にも近かった故習仲勲の息子。1953(昭和
28)年生まれの54歳。文革時代は地方に下放された経験もあるが85年以降はとんとん拍子で出世。ついにポスト胡の最前線に躍り出た。しかし、求心力も人気も無いという。

それは出世の陰に不人気の江沢民前国家主席の「ヒキ」が存在するからだという。これについて野口記者は党政治局の派閥抗争のバランス上、今回、習氏がトップに立ったがこれから試される指導力如何ではどうなるか分からないとしている。

とくに矢板明夫記者は「今後、状況が変化する可能性もある。政治手腕が問われる中、すきがあれば、ライバル李克強氏を代表格とする共産主義青年団(共青団)による巻き返しも予想される」と。

矢板氏はまた「中国の指導者は、約20年前の江沢民政権から建国にかかわった革命経験者がほぼいなくなった。

戦時中の軍功と違って、平和時代に群を抜く実績を積むことは難しく、その後の幹部選抜の際、権力闘争の激しさが増したといわれる。
カリスマ不在の中国の政治はさらに不透明な時代に突入する」と指摘している。2008・03・16

2008年03月16日

◆取り返しのつかぬ失敗

                  渡部亮次郎

民主党がまとまりのない党内を纏めるために政府提案の
日銀正副総裁人事同意案件を参院で否決した事は、中立
であるべき日銀総裁の人事を政争の具にしたもので、
マスコミですら批判に廻ってしまった。「風」頼みの民
主党にとって取り返しのつかない大失敗となった。

こうした状態を昔のひとは「覆水盆に返らず」と言った。
広辞苑にも出ている。

周の呂尚(太公望)が読書に耽ったので、妻が離縁を求め
て去った。後に尚が斎に封じられると再婚を求めて来たが、
尚は盆を傾けて水をこぼし、「その水を元のように返せば
その請を容れよう」と言った、と言う故事。

先輩記者の諭しによると新聞の論説が一斉に民主党を批判
していることは鳩山幹事長にとって想定外だったらしい。
新聞という世論の風頼みの民主党だから、日銀の総裁人事
に不同意といっても新聞論説から支持されると甘くみていた、
ということだ。

土台、中立であるべき日銀総裁の人事を政争の具にすること
が間違っている。

国際的な景気後退、経済不安がいわれている時に、参院多数
を武器にして福田政権を揺さぶろうというのは党利党略以外
の何ものでもない。

それが新聞に支持されると判断したところにお坊ちゃん幹事
長の甘さがある。日頃、付き合いのある鳩山番の記者たちに
「論説委員たちは財務省に毒されている」とぼやいたそうだ。

「論説はほとんど読まれないから・・・」と自らを慰めながら
民主党の支持率低下をさかんに心配しているという。そんな事
をいうなら民主党支持者の何が論説を読んで支持したというのか。

これについて、産経新聞に客員編集委員として戻り、再度現場
に通じている元政治部長の花岡信昭氏は内部事情を指摘する。

<民主党がこういうかたくなな態度を崩さなかったのは、
党内のバラバラ状況が原因だ。小沢代表は武藤氏容認に
傾いた時期があったのだが、最後は大勢に従った。

党内がまとまっていないと、外に向かって強く出る以外
にない。日銀総裁人事は民主党の「お家の事情」に左右
されてしまった。

参院本会議では、民主党会派の3人が棄権、2人が欠席
した。先の新テロ特措法採決に続く造反だ。

今後の展開を考えると、参院で与党は過半数に17人足り
ないが、この分を埋めることができれば、「中連立」に
向けての突破口となる。

この日の棄権・欠席組はそのさいの軸となるという意味
合いが込められている。>花岡信昭の「メイルマガジン
543号」から

花岡氏はまた鳩山幹事長の采配ぶりについて自らのブログ
(2008/03/09)で次のように指摘していた。
http://hanasan.iza.ne.jp/blog/

<民主党の鳩山幹事長は「別の人を出してくれば党首会談
を受けてもいい」といった発言をした。

ここに鳩山氏の政治的非力さが透けて見える。鳩山氏がこう
言ったからといって、もし、福田首相が武藤総裁案とは違う
案を出してたら、どういうことになるか。

福田首相の政治力はそこで終わる。野党第1党が反対している
ことは前から分かっていたことで、それを承知の上で出して
きたのである。

だから、鳩山氏は事態打開に向けての発言をしたのではない。
混迷の責任は福田首相にあるという構図を作り出そうという
ことにすぎない。

福田首相としては、こうなったらテコでも退(ひ)かない
だろう。退いたら、政治的なダメージは取り返しがつかない
ほど大きい。・・・

・・・日本の中央銀行総裁が空席になるのだから、世界経済
に与える影響は多大なものがあるだるう。株安にはずみも
つくに違いない。

だが、今回の構図はきわめて分かりやすい。そう複雑に入り
組んだ話ではない。悪いのは民主党。世界中がそう思ってくれる。

これは福田首相にとって悪い展開ではない。民主党はいよいよ
政権担当能力の欠如ぶりを天下に晒したことになった。

「財政金融の分離」が民主党の主張だが、財金分離は金融庁発足
で制度としても確立したのだ。そこを見据えない「武藤忌避論」
は反対のための反対でしかない。>

しかし、党内で求心力を欠いている小沢氏は断行できなかった。
民主党は政権担当能力の無さをさらけ出してしまった。
衆院選挙では負けが確定した。幹事長も東大工学部の頭では
政治家に向かない。

次の衆院選で惨敗した時、日銀武藤総裁安を改めて認めるから
政権をくださいといっても「覆水は盆に返らず」2008・03・13


2008年03月15日

◆カメレオン鳩山由紀夫

                  渡部亮次郎

秘書官として仕えた外務大臣園田直の前任者が鳩山威一郎さんだった。
また若い頃記者として追っかけた河野一郎さんの亡くなった親分が鳩山
一郎元首相だった。ハトヤマとはそれ以外に縁は無い。

如何なる縁か田中角栄さんの秘書に東大出の若い人鳩山邦夫という人が
なったと聞いてしばらくしたら衆院議員になった、と聞き、なるほど3代
目かと納得がいった。

ところが何年かして専修大学助教授をしている長兄由紀夫氏も衆院議員
になると聞いて、それなら初めからなっていたらいいのにと思った。爾
来、好感がどうしても持てない。「遅れてきた中年」である。

<鳩山兄弟、40億円ずつ「同時株損」? 世界株安で

米国のサブプライム問題に端を発する世界同時株安をめぐり、鳩山邦夫
法相は22日の閣議後の記者会見で、自らの保有株で「損害」が出ている
と語った。

法相は、ブリヂストンを創業した祖父・石橋正二郎氏から贈与を受けた
同社株の株価が下落したことで「40億円損をしたんではないかと言われ
ている」と言及。

兄の鳩山由紀夫・民主党幹事長も同じ株を持っていることを踏まえ、
「私が損をしたということは兄も40億円損をしたということ。『兄弟同
時損害』ということでしょうね」と話した。>2008年01月22日15時54分
 Asahi Com

鳩山由紀夫1947年2月11日、当時はまだあった紀元節の生まれ(61歳)当
に団塊の世代 。既に還暦を過ぎてもまだ1回も入閣していない。事もあ
ろうに金権派閥から新党さきがけに走って以来リベラルばかりに拘り、
ついに野党の幹事長だ。

2008年の節分すぎ、「小沢一郎民主党代表、再選立候補せず」という怪
情報が流れた際、突如「小沢再選支持」と言い出して、ベテラン政治記
者に笑われた。

幹事長留任のためなら小沢再選しかないからである。こういうのを嘗て
の河野一郎氏は競馬馬に譬えて「調教不足」と言い捨てたものだ。

曽祖父・鳩山和夫(外務次官、衆院議長) 祖父・鳩山一郎(首相) 父
・鳩山威一郎 (大蔵事務次官、外相)

選出選挙区 北海道第9区。昔ここに鳩山家の牧場があっただけの縁で当
選できる。先祖とは有難いが由紀夫は何も貢献していない。当選回数 7
回 民主党(鳩山グループ) 党役職 幹事長 ネクスト国務大臣

これまで新党さきがけ代表幹事、民主党(日本 1996-1998)代表(初代)、
民主党(日本 1998-)代表(第2代)を歴任。

東京都文京区に大蔵官僚だった父・鳩山威一郎、母・安子の長男として
生まれる。学習院初等科、学習院中等科、東京都立小石川高等学校を経
て、東京大学工学部を卒業しスタンフォード大学博士課程を修了する。

この時、他人(ひと)妻だった妻・幸(宝塚歌劇団卒業生。タカラヅカ
時代の芸名・若みゆき) を知り結婚。

間にできた長男・紀一郎は東京大学大学院工学系研究科助教である。代
議士にもし出れば5代目になる。今のところ話は無い。

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◆雪解けが待ち遠しい山菜

                  渡部亮次郎

<植物食べ中毒、1人重体=散歩の女性に勧められ調理−宮城

11日午後7時半ごろ、宮城県大崎市岩出山の民家で、カブのような植物の
煮物料理を食べた女性(65)が突然、気分が悪くなった。

女性は病院に搬送されたが、けいれん症状を起こし意識不明の重体。煮
物を調理した近所の女性(65)も吐き気などを訴え入院した。県警鳴子
署は食中毒の疑いがあるとみている>。2008年3月12日9時31分配信 時事
通信

秋田の日本海沿岸近くで育ったので、山菜にはあまり縁がなかった。精
々、ワラビ、ゼンマイ、ミズを五城目(ごじょうのめ)の道路端に展開
される青空市場で買って食べた。

カロリーはゼロ。終戦直後の空腹を満たすものでは全くなかったが、何
しろ山菜の登場は長かった冬がようやく終わった事を象徴する何よりの
喜びだった。

東京下町生まれの家人は秋田から送って来る茸(きのこ)には高い関心
を示すが、山菜にはあまり。私だけが地元の雪解けを首を長くして待つ
次第。おひたし、味噌汁の実など堪えられない。

関東や関西にも山菜はあるだろうが、人々が探しに山入りしたとは聞い
た事がない。天草出身の園田直外務大臣(故人)も話題にした事が無かっ
たから、九州にも山菜は無いのかもしれない。雪の積もらない山だと春
も乾いているから生えないか。

都会生活の間は尊敬する先輩門間吉右衛門さんに甘えた。中年になって
角館や田沢湖に遊ぶようになってからは田中昭一さんに主に面倒を見て
もらっている。しかし今年は雪の消えるのが遅い分、山菜の春も遅くな
るらしい。

山菜(さんさい)とは、山野に自生しているものだが、最近は里で栽培
されるのも出てきた。

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2008年03月13日

◆ゴーストップ事件(大阪・天六事件)

                  渡部亮次郎

ゴーストップとは交通信号機を指す。戦前、戦中はこう言ったようだ。昨
今、日本には言論不自由時代なぞ無かったと思い込んでいる人が毎日、増
えてゆく。

それだけ若い人に比べて老人が少なくなっているのだろう。それが自然だ
からどうでもいいが、アメリカとの戦争に負けるまでは日本は言論の自由
はなかった。だから敗戦が良かったというのでは絶対に無いが。

戦前、戦中は何かというと「そんなことを言うと憲兵に捕まるぞ」と目上
の人に注意された。憲兵って?という若い人のために「ウィキペディア」
で調べていたら、脱線。関連して「ゴーストップ事件」が出てきてしまっ
た。

ゴーストップ事件(天六事件ともいう)は、1933(昭和8)年に大阪市の天
六(てんろく)交叉点で起きた出来事、およびそれに端を発する日本陸軍と
日本警察の大規模な抗争のことである。

満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて
動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。

発端
1933年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰
労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一1等兵が信号無視をし
たとして、交通整理中であった曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査
が注意し、天六派出所まで連行した。

その際、中村1等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論した為つ
かみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村1等兵は鼓膜損傷全治3週間、
戸田巡査は全治1週間の怪我を負った。

この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し駆けつけた憲兵隊
の伍長が中村を連れ出してその場は収まるが、その2時間後、憲兵隊は
「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として
曽根崎署に対して抗議した。

当時、第8連隊の松田連隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝
わって事件が大きくなり、平和的に事態の収拾を図ろうと考えていた曽根
崎署の高柳博人署長の考えもむなしく、21日には事件の概要が憲兵司令官
や陸軍省にまで伝わっていた。

この後の当事者の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出し
たのは中村1等兵である。」と、逆に中村1等兵は「信号無視はしていな
いし、自分から手を出した覚えはない。」と両者まったく違う主張を繰り
返した。

軍部と内務省の対立
6月22日、第4師団の井関大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではな
く、皇軍に拘る重大な問題である」と声明した。

それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官
も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と言明した。6月24日の寺内
寿一第4師団長(寺内正毅の息子)と縣(あがた)忍大阪府知事の会見も
決裂した。

この結果、問題は寺内と粟屋という軍部と警察(すなわち内務省)との対
立の様相を示す。

この議論は平行線を辿り、また、新聞と雑誌もこれを「軍部と警察の正面
衝突」などと大きく報じたことによって過剰なほどの騒ぎとなった。

「天皇陛下の軍隊」に対して「天皇陛下の警察官」を自任する警保局を中
心とする内務官僚たちは新たな政治勢力として意識され、「新官僚」(後
の新々官僚とは別物)と呼ばれた。彼らは主に1910年代に東大を上位の成
績で卒業し、中堅の幹部に昇進していた者たちであった。

7月17日、中村1等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴
行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害
罪)、同第206条(名誉毀損罪)で告訴した。

8月24日、事件目撃者の1人であった高田善兵衛が憲兵と警察からの度重
なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺、国鉄吹田操車場内で轢死体となっ
て発見された。

また、この事件の処理に追われていた曽根崎署長の高柳は疲労で倒れ入院
したが、7月18日その一報を知った寺内は井関に「事件で心痛のあまり病
状が悪化すると気の毒なので、適当にお見舞いするように」と伝えたとの
逸話がある。しかしその10日後、高柳は逝去した。

終結
最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が
調停に乗り出し、11月19日に和解が成立した。

11月20日、当事者の戸田と中村が仲介した大阪地方検事局の和田検事正の
官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表さ
れていないが、警察側が譲歩したものだというのが定説となっている。

事件の影響
結局この事件は軍と警察の面子の張り合いにすぎなかったが、解決を一番
喜んだのは師団長の寺内だという。この後、現役軍人に対する行政措置は
警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部が法を超えて次第
に国家の主導権を持つきっかけのひとつとなった。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』            2008・03・10



2008年03月12日

◆日本にもあった碧素

                  渡部亮次郎

碧素へきそ。戦時中に使われた言葉で、後のペニシリンのことである。日本でのペニシリンの開発は、昭和18年12月ドイツから送られてきた医学雑誌中のペニシリンの記事を見た陸軍軍医学校の一軍医少佐の提案で始まった。

翌昭和19(1944)年2月1日、医、薬、農、理など各学界の専門家を集め、陸軍軍医学校で開かれた第1回ペニシリン委員会が事実上のスタートになり、その年の5月には粗製とはいえペニシリンは実際に臨床に使われ、劇的な効果を上げた。

しかし、物資の不足、空襲などで工場での大量生産には至らず、運に恵まれた少数の人達だけが、ペニシリンにより命を救われ敗戦を迎えた。

その後、研究は東北大学などで続けられ「日本初のペニシリンの製造開始は1947(昭和22)年3月11日」(東京堂出版「366日の話題事典」80P)。経緯は角田房子著「碧素・日本ペニシリン物語」昭和53年7月15日発行 新潮社に詳しい。

世界でペニシリンの作用を最初に発見したのは、1928(昭和3)年、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングである。しかし、生産できる量がわずかだったので、医学界からは無視された。

その12年後の1940年にイギリスの生化学者アーネスト・チェーン、同じくイギリスの病理学者ハワード・フローリーらによって再発見され、量産にも道が開けた。

ハワード・フローリー(1898〜1968)は、強力な抗生剤であるペニシリンの性状を明らかにして、1945年にノーベル生理学・医学賞を同時受賞した。また、カビからペニシリンを分離する方法を開発した。

翌41年といえば昭和16年。12月8日には大東亜戦争の始まった年だが、この年に臨床的にペニシリンの有効性が確認された。

これをうけて、アメリカではイギリスの研究者を招いて、大規模な量産を開始した。ちょうど第2次世界大戦のさなかだったため、製造された薬品は、大量に戦場へと送られていった。

ペニシリンの存在を日本国民が初めて知ったのは、昭和19(1944)年1月27日の朝日新聞の記事だった。

「敵米英最近の医学界 チャーチル (首相) 命拾い ズルホン剤を補うペニシリン」アルゼンチン(当時、中立国)ブエノスアイレス発。

風邪から肺炎を起こしたチャーチルがペニシリンで命を救われた話と、ペニシリンの紹介記事が載せられた。しかし一部の人にしか知られなかった。

敗戦(1945年8月15日)後、進駐してきた米軍からペニシリンを貰って結核から立ち直った日本人の話は耳にしたものだが、実際に日本の製薬会社が製造したのは敗戦2年後だった。

ペニシリンは始め、数種類の成分がまじった状態で抽出されたのちその中のペニシリンGという物質が薬として利用されるようになったもの。

ペニシリンGは、細菌の細胞壁の合成を阻害する。そのため細菌は成長も増殖もできず、破壊される。ブドウ球菌、肺炎球菌、連鎖球菌、淋菌、髄膜炎菌、破傷風菌、梅毒スピロヘータなどに効果がある。

これにより細菌性の心内膜炎、敗血症、ガス壊疽(えそ)、淋病、しょう紅熱など、死にいたる病が治るようになった。ペニシリンの作用は、細胞壁を持たない人間の細胞にはおよぶことはなく、一般に副作用も少ない。

ただ、稀にアレルギー反応が起き、ショック(アナフィラキシー)で死亡することもある。使用前にアレルギー反応テストをおこなうのはこのためである。アレルギー体質の人は、とくに注意を要する。

注射でしか投与されないのはペニシリンが酸に弱く、飲み薬として使用すると、胃酸でこわされてしまうためである。糖尿病用のインスリンと同じ。

ペニシリンの登場によって、それまで治療出来なかった様々な病気が治せるようになったが、まもなくペニシリンが効かないブドウ球菌が現れた。

ペニシリン耐性黄色ブドウ球菌である。この菌はペニシリナーゼという特殊な酵素を産生し、これによってペニシリンは破壊されてしまうのである。

また、エンテロコッカス(腸球菌)、呼吸器や尿管に感染を起こす多くのグラム陰性菌は、ペニシリンそのものの作用に抵抗することもわかった。そこで、細菌のペニシリンに抵抗するメカニズムを研究し、ペニシリンを改良した半合成のペニシリンが得られるようになった。

そのひとつアンピシリンは、グラム陰性菌や腸球菌をはじめ効果を及ぼす対象範囲が広いうえ、酸に強く飲み薬としても使用できる。またメチシリンは、ペニシリナーゼを産生するブドウ球菌に有効である。

しかし、新しい抗生物質が広く使われるようになると、細菌は再びそれに抵抗するようになる。メチシリンに対しても、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌が現れ、大きな問題になっている。

抗生物質と耐性菌とのいたちごっこは、ペニシリンの登場以来くりかえされている。(マイクロソフト「エンカルタ大百科」2006)

女性に患者の多い腎盂炎は最新の抗生物質ならすぐ効くが健保だと効きにくい注射をされる事がある。新薬が健保用に搭載されるまで1年はかかり、菌の方が強くなるからだと厚相秘書官時代に教えられた。2008・03・10

2008年03月11日

◆マルクスに染まらず

渡部亮次郎

1954(昭和29)年4月に法政大学へ入ったら、大内兵衛総長が「新聞は朝日、雑誌は世界を読むように」と訓示があった。これは入るべき大学を間違えたと思った。

なるほど次の日からの講義のすべてがマルクスに終始した。これは駄目だと秋田に帰った。しかし、両親は社会党員だから話が通じない。とにかく隣近所への見栄えもある、来年、違う大学を受けなおすと言っても経済的余裕が無い、と言われて泣く泣く戻った。

田舎では犬は自分の食う分の重さを背負えない、と爺さんに教え込まれたが、マルクスは人間は自分が食う以上のものを稼ぐ。雇った資本家はその稼ぎの余剰分を搾取する、と教える。

しかし人間は欲に駆られて生きて行く動物である。稼ぎに追いつく貧乏無しと言うじゃないか。生きている限り働くのが人間の務めと教えられて育った。オレはマルクスは止めた。

だから法政大学の4年間は参考書らしきものを図書館か下宿で読んで過ごした。小説はあまり読まなかった。夜になると焼酎を飲んだ。私鉄駅のガード下で。

マルクスの「資本論」は政治や経済の教科書ではない。あれはお経だ。信ずる奴は騙されるが、信じない奴にとっては端(はな)から聞く耳を持たない。だからソビエトのように1度は騙されても70年ぐらいしか保(も)たない。予想通りだった。

社会党に在って小作人の僻み根性の代表だった佐々木更三から仇敵のように疎まれた江田三郎。彼は「構造改革論」の主張者として歴史に残る。参院議長江田五月の父親である。記者時代、1年だけ担当した。

1960年総選挙のころから、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようという穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程があいまいであった平和革命論を補強しようというものであった。

しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田と彼を取り巻く、若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱えるようになった。

1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として

アメリカの平均した生活水準の高さ
ソ連の徹底した生活保障
イギリスの議会制民主主義
日本国憲法の平和主義

をあげ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした。いわゆる江田ビジョンである。これが新聞報道されると、話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの話をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た。

しかし、社会党内では、従来の社会主義の解釈を逸脱するものとして批判され、江田は書記長を辞任して、組織局長に転じた。

この中で江田ビジョンですら「徹底した生活保障」としてソ連を目標の一つとしたが、ソ連は1991年12月25日に大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦は解体され消滅した。

ソ連による「壮大な実験」が失敗した事により日本社会党もほぼ消滅したではないか。

私の父は秋田県で若いときから小作争議の先頭に立ち、戦前から社会主義者だったらしい。従って戦後は率先して日本社会党員として奔走していた。母も同調していた。

しかし私は社会党が農民の暮らしを楽にする政党と言うなら村中が党員になるはずなのに、投票すらしない。社会党の主張は何時まで立っても実現しない、これは宗教団体に過ぎないと反発した。

それでも大学では労働運動史や賃金論を一所懸命学んだが、ついに運動に走らずに済んだ。卒業が1958年だったので「60年安保」に巻き込まれることも無く済んだ。既にNHK仙台で働いていた。

しかし、人生の終盤に至って考えれば、要するに私は人に説得されない性格のようであって、先輩や周辺も初めから匙を投げていたのかもしれない。

併せて父母や法政大学が反面教師になってくれて助かったのかもしれない。2008・03・09

2008年03月10日

◆東京大空襲がきょう

渡部亮次郎

「東京大空襲」と言った場合、特に、規模が最も大きい1945年(昭和20
年)3月 10日に行われた空襲を指す。大東亜戦争に行われた空襲の中でも
とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。

当時はTVが無い。新聞も極小さかった。小学校(国民学校)4年生。東京
なんて知らないから、そこで何万人も死んだなんて全く知らないで育っ
た。やがて空襲は秋田にもやってきて敗戦となった。

空襲を行ったB-29戦略爆撃機3月10日の大空襲は、日本の中小企業が軍需
産業の生産拠点となっているとして、市街地と市民そのものを攻撃対象
に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第
313、第314の3個航空団が投入された。

1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29
爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川
地区へ初弾が投下された。

深川の三業地と芸者衆が全滅した。その後、城東(江東区)地区にも爆
撃が開始された。午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。
火災の煙は高度7000mまで達し、秒速20mと台風並みの烈風が吹き荒れた。

東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、殆どの機銃と弾薬
を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。

投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46を
中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、
投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。

当夜は低気圧の通過に伴って強い北西風が吹いており、この強風が以下
の条件と重なり、大きな被害をもたらした。

警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉出来ず空
襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の3月10日午前
0時15分)。

「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先
行するパス・ファインダー機が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して
閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して
発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。

狙い撃ちの攻撃で、着弾は高高度爆撃よりはるかに精密になった。後続
編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲
を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下
予定地域ではない荒川周辺まで広げた。このため、火災範囲は更に拡が
った。

折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。

東京近郊の飛行場に配備されていた夜間戦闘機隊が迎撃に向かったが、
猛火による猛烈な上昇気流と煙により迎撃は困難を極めた。やがて火災
の煙と灰で各飛行場は離陸が困難になった。

これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人以上とも言わ
れる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上
の面積(約40平方キロメートル)が焼失した。

焦土と化した東京の下町。この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的に
した物であり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収され
た物を参考に開発された。

当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発ま
たは0.02〜0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを
破壊力の主軸にしている。

しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。
そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、こ
れが木造を主とする日本家屋を直撃した。

火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の
学校などに避難した人もいたが、火災の規模があまりにも大きいため、
火災旋風が至る所で発生し、建物に炎が滝のように流れ込み、焼死する
人や、炎に酸素を奪われ窒息死する人も多かった。

また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅
田川は凍死・溺死者で川面が溢れていた。逆に、東武伊勢崎線沿いに内
陸の春日部・草加方面へ脱出し生存した例が散見される。

3月10日は日露戦争の奉天戦の日であり、陸軍記念日となっていた。日本
の戦争継続の気力を削ぐため、あえてこの記念日が選ばれたと言われて
いる。

3日後の3月13-14日に大阪大空襲が行われた。

3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。3月10日に次いで被害の
大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、それまで空襲を受けていな
かった山の手が主な対象になった。死傷者は7415人、被害家屋は約22万
戸の被害となった。

3月―5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区の
立川、八王子なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各
地方都市に向けられていく。

1944年11月24日にヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮によりはじめられ
た本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみ攻撃するピンポイ
ント攻撃であったが、思わしい効果が上がらなかったため、翌年の1945
年1月21日にカーチス・E・ルメイ少将と交代した。

「軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的
だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けたルメイは、大規
模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりの
リスクを背負っていた。それは、

(1)燃料節約のためB29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コー
スを外れる危険性があった。

(2)低高度(高度7千〜8千フィート)からの焼夷弾を投下する。日本上空
の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的
になりやすい。

(3)爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾の搭載量を
増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。

というもので、猛将とよばれたルメイも一睡もせずに攻撃隊の返事を待
っていたという。

「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想
できぬ。」「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのであ
る」とルメイ自身証言している。

これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各
地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。

建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間
人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強
い。しかし日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を
放棄している。

戦後1964年(昭和39年)に日本政府は、日本本土爆撃を含む対日無差別
爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、航空自衛隊の育成に貢献
したとの理由で勲一等旭日章を授与した。

近年では、戦勝国政府に対する極端な擦り寄りではないかと言う批判の
声もあるが、真珠湾空襲に大きく関わった源田実は当時この勲章授与を
賞賛した。

しかしルメイは後年、「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁
かれていた」と述べている。ルメイの前任者ヘイウッド・ハンセル少将
は高高度からの軍事目標への精密爆撃にこだわった故に解任されている。

無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ大統領たちの選択であっ
たと言ってよい。もっとも、同じアメリカ軍内でもチェスター・ニミッ
ツ元帥などはルメイをあからさまに批判しており評価は分かれている。

身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀る震災慰霊堂に合わ
せて納められ、現在は東京都慰霊堂になっている。慰霊堂では毎年3月10
日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大
震災及び東京大空襲についての展示がある。

東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的
として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連
の空襲による正確な犠牲者数は不明である。

東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念
する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名
簿(1942-1945年の空襲犠牲者)を納めている。

東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。

丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を受けたが、空襲
を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命
館や明治生命館などがあった為と言う。

築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国
際病院があったからだとも言われる。

中央区の佃島・月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋
が残っている。3月10日の下町空襲で甚大な被害を受けた旧・深川区(現
在の江東区)とは晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。

ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近
も空襲は受けていない。

神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるが定か
ではない。また神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあ
るが、米軍はドレスデン爆撃など文化財の破壊を意識せず(むしろ好んで)
行っていることから信憑性は高くない。

皇居は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿
(明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。このため、松平恒雄
宮内大臣が責任を取って辞任している。

3月10日、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。

<後の戦犯裁判で、B29の搭乗員を処刑した罪に問われた岡田資(たす
く)中将の法廷闘争を描いた映画「明日への遺言」(小泉堯史監督)が、
今月1日から全国で公開されている。

リーダーのあり方や無差別爆撃の非人道性を問うた作品だ。戦争体験者
らにまじって若い観客も目立ち、関心の高さをうかがわせる。米国の国
際映画祭でも上映され、拍手が鳴りやまなかったという。

日本と米国の特に若い人たちに、無差別爆撃の戦争責任について、改め
て問い直し、検証してほしい。>産経新聞「主張」2008・3・9」

太田仲三郎    実業家。3月の空襲で死去。
立花家扇遊    芸人。3月の空襲で死去。
豊嶌雅男     力士。3月の空襲で死去。
古屋慶隆     政治家。3月の空襲で死去。
枩浦潟達也    力士。3月の空襲で行方不明。
吉村操      映画監督・脚本家。3月の空襲で死去。

石井菊次郎    元外交官・外務大臣。5月の空襲で行方不明。
織田萬      法学者。5月の空襲で死去。
4代目柳家枝太郎 落語家。5月の空襲で死去。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・03・09


2008年03月09日

◆翌檜とは残酷な

                  渡部亮次郎

ある総理大臣が不能になった衆院議長を「マシュマロ君」と呼んだのは
冗談にしても失礼だが、江東区が精神薄弱者の作業所に翌檜(あすなろ)
と名づけたのは残酷すぎないか。

明日は檜になろうとしても絶対なれないのが翌檜(あすなろ)の意味。さ
も希望があるように見せるのはどうか。我々は根拠も無く明日に希望を
見出そうとするが、翌檜に明日は絶対無いのだ。だから残酷だと言うの
だ。

広辞苑によると「翌檜 (「明日は檜になろう」の意)ヒノキ科の常緑
高木。5月ごろ花を開く。果実は楕円形の球果。材は建築材、船材、枕木
など。木曾の五木の一つ。別名ひば、しろび、あて、あすひ、あすはひ
のき。

翌檜は実は東北地方の木である。つまり東北には檜は生えない。檜より
価値において低い翌檜しかない。正確ではないが能登半島以北には翌檜(
ヒバ)しか生えないと聞いたことがある。

<アスナロ(明日檜:翌檜) False Arborvitae ヒノキ科の常緑高木の1
種。山地の尾根筋などの乾燥地や、湿地の周辺などに生え、乾湿両極端
の環境に適応し、日陰にも強い。

アスヒ、オニヒノキ、オニヒバともよばれる。和名のアスナロは、「枕
草子」にもみられるように「明日はヒノキになろう」という意味だと俗
にいわれるが、その名の由来は、ヒノキに比較して葉が厚いという意味
で、アツバヒノキとよばれ、それが「明日はヒノキ」→「明日はヒノキ
になろう」→「明日なろ」と転じたものともいわれる。

日本の固有種で、本州および四国、九州に分布する。

木材は水湿に強く、腐りにくい。木目は美しいが、特有の精油成分によ
る異臭が一般には好まれない。建築や土木、家具、船舶、車両、桶(おけ)
などに用いられる。木曽地方では、ヒノキやサワラ、クロベ、コウヤマ
キなどと共に「木曽の五木」のひとつに数えられる。

アスナロの変種であるヒノキアスナロは、ヒバともよばれ、球果がやや
まるく、北海道の渡島半島以南、本州北部に分布する。青森県の下北半
島、津軽半島にはヒノキアスナロの純林があり、秋田のスギ林、木曽の
ヒノキ林とともに日本三大美林の一つに数えられる。>

1936年生まれの私が「あすなろ」という名に初めて接したのは井上靖の
小説「あすなろ物語」であるが、それが「ひば」のことだとは知らなかっ
た。

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2008年03月07日

◆展望なき小沢戦略

渡部亮次郎

前から言っているように、少なくとも戦後政治史上、国会で審議を拒否した野党が、次の場面で政権を取った例は皆無である。

<審議拒否継続、民主党内から異論も

民主党の簗瀬参院国会対策委員長は、鴻池予算委員長が5日も職権で委員会を開会しようとしたことを批判し、与党側の謝罪がなければ審議拒否を続ける考えを示しましたが、党内からは、異論も出始めています。

3月5日に行われた民主、共産、社民の野党3党の参院国対委員長会談で、共産党の井上国対委員長は、民主党に対し「参議院では民主党が過半数を持っているのだから、早期の審議入りに対する努力をするべきではないか」と注文をつけました。

午前に開かれた民主党の参議院議員総会でも、出席者から「審議拒否を続けるのは世論に支持されない」「議論の場で政府・与党を追及するのが筋ではないか」といった意見が出されるなど、審議拒否を続ける民主党執行部の方針に、党内から異論も出始めています>TBSニュース(05日15:30)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に披露された野党の審議拒否批判。以下の通り。

<近年では審議拒否は反対論が多くなってきている。昔は審議拒否をすることで、メディアから注目され重要議題という世間の注目が集まる効果もあった。

だが、近年では重要議題は審議拒否如何に拘わらずメディアで注目されていることから、審議拒否の意味が低下している。「怠け得」という批判も多い。

国会を1日開くのに2億円かかるといわれてるため1週間も拒否をし続けると10億を超える税金の損害を発生させるため、近年では与党よりも野党に矛先が向くことがある>。

政治の素人が大分部分の有権者にとって、審議拒否は職務怠慢という理屈が最も分かりやすいから、民主党の審議拒否継続に合わせて民主党に対する批判は日増しに高まる。これは自明の理だ。

<自民、公明の与党側は「焦りを強めている」といった報道もあるが、なに、焦ってなんかいない。民主党の「自滅」を待っているだけだ。

むしろ困っているのは民主党の方だろう。「起きる」ための仕掛けを今や自ら考えなくてはならないからだ。

与党側に「強行」採決を謝罪させ、道路特定財源問題で集中審議を約束させる、といったあたりで起きてくるのではないか。謝ってすむことなら、与党側はなんだってやる。謝罪文のひとつやふたつ、わけのないことだ。

まあ、この1週間がせいぜいだろう。いずれ、世論は野党側にきつく出てくる。いつまでも審議拒否を続けられるはずがない。>

これは「頂門の一針」(2008・3・6)に載った元産経新聞政治部長花岡信明氏の指摘。確か花岡氏は小沢氏とも親しいはずだが、残念ながら小沢氏の戦術に批判的といわざるを得ない。

それにしても小沢氏。野党に下っても、政権ぐらい、すぐ手中に出来ると踏んでの自民党脱党だったのだろうか。或いは竹下派内の野中広務氏らとの確執が堪えられないぐらい深刻だったのだろうか。

政策においても、国会対策においても、自民党のそれは1955年の発足以来、日に日に磨きを掛けてほぼ完成されたものだった。それを一夕にして弊履の如く棄てさせるほど新党結成の魅力があったとでも言うのだろうか。

しかも国会での無様振りには国会議員同士でさえ、飽き飽きしているようで、現在の政局から小沢的なもの、旧社会党的なもの、何よりも創価学会公明党的なものを徹底的に排除した超党派勢力結集の機運がこれで益々高まっている。

そうとあっては、一体小沢氏の戦略は何だったかと問われるだろう。
日米安保体制を身体を張って守ろうとした故小沢佐重喜氏。その遺志を継いで日本社会党と戦うために政治家になったはずの一郎氏が最近は日本社会党そっくりになったので、岩手在勤4年の経歴を持つわたしはがっかりしている。 2008・03・06

2008年03月06日

◆花粉症に戦(おのの)く

                  渡部亮次郎

数年前から花粉症になった。シーズンになると外出しようものなら鼻水
と涙が止まらない。目は痒くて堪らない。今年(2008)も3月入り。そろそ
ろかと戦いている。

花粉症は体内から寄生虫を撲滅しすぎたためとする説を唱え、自ら腸内
にサナダ虫を入れた教授がいる事は耳にしていたが、4日朝、ラジオ深夜
便に登場した。「皆さん」の放送局もアジなことをするじゃないか。

<藤田 紘一郎(ふじた こういちろう)、1939年生まれ医学博士。東京
医科歯科大学名誉教授。花粉症の原因を寄生虫を撲滅しすぎたためとす
る説を広めたことでも知られる。

自身の研究の一環として、自らの腸内で“きよみちゃん”と名付けた寄
生虫と共生している。人間総合科学大学教授。専門は、寄生虫学、感染
免疫学、熱帯医学。

中国東北部(旧満州)生まれ。感染免疫学・寄生虫学の視点から公衆衛
生についての執筆多数。特に寄生虫関連の一般書で広く知られるように
なった。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インターネットで追跡したら2004年4月18日に福井県職員会館101号室で
のご講演速記録に出合った。第22回「ちょっといって講座」での「人と回
虫とウイルスの深い仲」。ご好意に甘えて部分引用をさせて頂こう。

<アトピー、ぜんそく、花粉症は40年前にはなかった病気ですが、なぜ
今日こんなに増えてきたかです。

スギ花粉症になる日本人は5人に1人です。日本で初めてのスギ花粉症
の症例は1963(昭和38)年に出ました。日光のスギ並木は17世紀に植えら
れましたから、17世紀からスギ花粉は飛んでいるということです。

17世紀の日本人は回虫にかかり、いろんな細菌がいましたから、それが
アレルギーを抑えていたのです。ぜんそく、花粉症、アトピーは1950(昭
和25)年には全くなかった。それが1965(昭和40)年以降急激に増え出した。
1950年の回虫感染率は62%でした。回虫の感染率が5%を切った1965年
から増えだしたわけです。

35年前には奄美大島の住民の5%〜10%がフィラリア病にかかっていま
したが、われわれの研究で1978年フィラリア病は日本から完全になくな
ってしまいました。回虫などの寄生虫も同じように減ってきました。

その後インドネシア・カリマンタン島に調査に行きました。カリマンタ
ン島の子供たちは、うんこが流れている川で元気に水遊びをしているわ
けです。

私が、こんな汚いところで遊んでいると病気になるよというと、子供た
ちはうんこ・おしっこがなぜ汚いのかと聞き返すのです。

ところが、この子供たちの肌はつるつるしておりアトピーがない、ぜん
そくがない、花粉症がないのです。なぜアレルギー病がないのかという
のが私の生涯の研究テーマになりました。

50年前、私が小学生の頃はほとんど全員が回虫を持っていました。駆虫
のために、用務員室で海人草をグツグツと煮たものを飲まされました。
ものすごく苦いのです。

夜になると、肛門から回虫が出てくるのですがそれを引っ張り出して、
洗って学校へ持って行くのです。一番長いのは1等賞、数が多いのは最
多賞です。翌日は先生の机の上には回虫が山盛りになっていました。

しかし、誰も変には思っていませんでした。寄生虫は全員いるものだと
思っていました。そのころ杉鉄砲という遊びをしていました。竹筒に杉
の実を入れてパチンと打つわけです。

その実を取るときには全身花粉まみれになっていましたが、誰も花粉症
になっていませんでした。私は子供の頃の経験とインドネシアの調査か
ら回虫がアレルギーを抑えている!と思いました。

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2008年03月05日

◆「107」人が目指すもの

                  渡部亮次郎

「せんたく議連」超党派の107人で発足

<北川正恭・前三重県知事らが結成した「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(せんたく)と、これと連携する超党派の議員連盟「せんたく議員連合」の合同発足総会が3日、都内のホテルで開かれた。

議連には、自民(51人)、民主(47人)、公明(8人)、国民新(1人)各党の計107人が参加した。

議連の共同代表は、自民党の河村建夫・元文部科学相、民主党の野田佳彦・元国会対策委員長が務めるほか、自民党から園田博之政調会長代理、菅義偉選挙対策副委員長、民主党から岡田克也、前原誠司両副代表ら党幹部も加わった。

議連は、国会改革、地方分権、「霞が関」改革、地球環境問題の各テーマで分科会を設けて議論し、次期衆院選の各党政権公約(マニフェスト)に反映させていく考えだ。河村氏らは当面、国会改革を重点として、会期制の見直しなどを検討課題に位置づけた>。3月3日19時32分配信 読売新聞

顔ぶれを見ると、改革小泉支持者と小沢忌避者ばかりである。公明から入ったのは忍者であろう。果たしてこれが「新党」まで進むだろうか。新党が出来れば大変な人気を博するだろうが、身を捨てて奔走する「竜馬」が居ない。誰か立て!竜馬

自民党支持者では、票欲しさに創価学会・公明党の「たかり」に唯々諾々と応ずる自民党に相当強い不満が高まっている。特に連立重視の立場から国会対策上、公明党への譲歩続きだから福田首相への支持率低下はそれを裏付ける何物でもない。

一方、民主党の党運営について小沢路線への党内不満も高じている事は隠せない。小沢のピノキオが山岡国対委員長だが、硬直した自民党対決が、果たして来るべき衆院選挙での民主党勝利に結びつくとは限らない、との批判が燻っている。

判官贔屓というものがある。源義経を薄命な英雄として愛惜し、同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情と贔屓。日銀総裁人事への不同意をあからさまにする民主党に対しては財界だけでなくビジネスマン幹部からも自民党への「判官贔屓」が出ている。

去年の参院選挙。あれを民主党の勝利と見るか自民党の敗北と規定するか。私は自民党安倍坊ちゃん政治に対する地方住民、農村の拒否反応と見る。決して民主党歓迎ではない。二者択一だから民主党に入れただけである。

そう分析しない菅直人代表代行や鳩山幹事長は「反自民」の姿勢を強めることで次期衆院選挙でも勝利できると考え審議拒否という強行策をとっているが、これは大失敗に終わるはずだ。審議拒否をした野党が果実を手にした事は憲政史上あり得ない。

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