2008年03月04日

◆黄砂、東日本まで飛散

                  渡部亮次郎

<砂漠域からの黄砂が、今年初めて九州を中心に観測され始め
た。3日には東日本にまで広がる見込みだ。気象庁は「西日本や沖縄・奄美地方では視程が5キロ未満になる所があり、交通への障害が発生する恐れがある」と注意を呼びかけている。

今年初めての黄砂は2日に長崎県内で観測され、3日には、熊本、福岡、鹿児島県内で観測された。見通しが5キロ未満になる
と車の運転や飛行機の運航に影響が出る恐れがあるという。

同庁は黄砂は3日には東北南部〜関東、北陸地方まで飛散するとみている。>アサヒ・コム 2008年03月03日10時17分

黄砂(こうさ)とは、東アジアや中央アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、主に春を中心に東アジアの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象のことである。降り注ぐ砂のことも「黄砂」と呼ぶ。

日本では江戸時代頃から、書物に「泥雨」「紅雪」「黄雪」などの黄砂に関する記述が見られるようになった。

古くは、日本では少なくとも7万年前以降の最終氷期には黄砂が飛来していたと考えられている。このころ(7万年前〜6万年前)の黄砂の堆積量は、完新世(1万年前〜現在まで)の3〜4倍と、かなり多かったと推定されている。

主な発生地としては、西からタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠、黄土高原がある。国で言えば中国、モンゴルにあたる。このほか、カザフスタン東部など中央アジア諸国の砂漠・乾燥地域も発生源ではないかと見られている。

ただし、砂が舞い上がる条件が整えばどこでも発生しうると考えられており、必ずしも前述の場所が発生地とは限らない。実際に、アジアの広い地域で黄砂のような砂の舞い上がりが発生している。

これらの発生地域はおおむね年間降水量が500mmを割り、所によっては100mm以下という乾燥地帯となっている。そのため、地表が砂で覆われている地域では、風により簡単に砂が舞い上がってしまう。

強い風の場合、砂が地上付近から上空高くまで巻き上げられ、沙塵暴と呼ばれる激しい砂嵐となる。砂が巻き上げられる高さとして、上空7〜8kmという観測結果がある。

黄砂の年間発生量は2億〜3億tで、降下量は日本で1年間に1平方キロメートルあたり1〜5t、北京で1ヵ月間に1平方キロメートルあたり15t程度と推定されている。

時期としては、春に最も多く発生する。春になって高気圧の勢力が弱まるとともに、偏西風が強まり、低気圧が発達しながら通過するなどして風が強い日が増え、黄砂の発生も増えるためと考えられている。春の中盤に入り暖かくなってくると植物が増え、夏になると雨が多くなるため、次第に黄砂の量は減り、秋に最少となる。

黄砂の濃度が高い中国や韓国では、乗用車の速度規制が行われたり、マスク等の着用を奨励したり外出を控えるよう促す情報が出される。気候によっては冬場でも発生し、これが雪に混じると積雪が黄色く見えることもある。

大規模な黄砂が発生したときは、気象衛星などの画像に写り込むことがある。

これまでで最も大きな被害は、1993年5月5日に中国北西部(寧夏回族自治区、内モンゴルアラシャン盟、甘粛省)で発生した沙塵暴。

死者・行方不明者112人、負傷者386人、家畜・牛馬の死亡・行方不明約48万3千頭、4,600本の電柱が倒壊、被害を受けた耕地21万ha、森林被害18万ha、経済損失66億円のほか、多くの道路や鉄道が埋没するという大きな被害を出した。

中国の森林管理局によれば、黄砂の影響を受けている中国人は約4億人で、直接的な被害だけでも540億元(約840億円)に及ぶと言う。

韓国では2006年4月には2015μg/m3が観測され、空の便も韓国国内便6便が欠航している。

韓国政府の推定によれば、黄砂の諸影響による同国での経済損失は、年間およそ3兆〜5兆ウォンにも達するという。

日本では、気象庁により、黄砂とは大陸性の土壌粒子によって視程が10km以下になる現象と定義されている。夏以外に観測されるが、特に春先(3月から5月)によく観測される。

西日本や日本海側で観測されることが多い。山脈を隔てて東側となる東日本や太平洋側、内陸部では観測数は少ないが、時々観測されるようになった。

2000年から2002年の黄砂観測日数が50日前後となり、20日程度だった平年値を大幅に上回った。

日本で観測される黄砂は大気がかすみ、微量の砂が積もる程度で、大きな被害はほとんど報告されないが、健康被害は数多く報告されている。

遠くで観測された例では、アメリカ合衆国のハワイ州やカリフォルニア州などがある。黄砂の成分が、ハワイの森林や海洋のプランクトンの生育に関わっているのと研究結果もある。

北朝鮮やロシアの沿海州・樺太なども黄砂の通過ルートとなっていると考えられている。

中国では、BC1150年頃に「塵雨」と呼ばれていたことがわかっている。史料においてはこのほか、「雨土」「雨砂」「土霾」「黄霧」などの呼称があった。また、BC300年以後の黄砂の記録が残された書物もある。2008・03・03
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2008年03月02日

◆馬も食わない鈴蘭

                  渡部亮次郎

北国の春を彩る花は鈴蘭(すずらん)である。晩春、白色6弁の壷のよう小さな花。芳香を放ち香水の原料にもなるが、どっこい、この花は毒も強く、東北地方でも、放牧されて馬は巧みにこれを避ける。要するに「馬も食わない花」が鈴蘭。

東京都福祉保健局健康安全室によると、鈴蘭に入っている毒はコンバラトキシンなどで「鈴蘭を差した花ビンの水を飲んでも、中毒を起こすことがあります」とのこと。コンバラトキシンでは死ぬことがあるそうだ。

「ウイキペディア」によると、鈴蘭は強心配糖体のコンバラトキシンなどを含む有毒植物。有毒物質は全草に持つが、特に花や根に多く含まれる。

摂取した場合、嘔吐、頭痛、眩暈、心不全、血圧低下、心臓麻痺などの中毒症状を起こし、重症の場合は死に至る。鈴蘭を活けた水を飲んでも中毒を起こすことがあり、これらを誤飲して死亡した例もある。

鈴蘭(ユリ科)。北海道や東北地方の高山に自生する多年草だが、各地の庭などに園芸用として栽培されている。東京・江東区内を散歩していても玄関前で鉢に植えて栽培している家庭を見る。

晩春から初夏にかけて花茎を出して穂状に花をつける。果実は球形の赤い液果だそうだが見たことは無い。

君影草(きみかげそう)の別名もある。花言葉は「幸福が訪れる」、「純潔」「純粋」。そこでいろいろな歌手が鈴蘭を歌にして歌っている。

岡本敦郎の歌を聞きながら散歩していたものだから、若い頃盛岡
(岩手県)郊外で見た牧場の風景を思い出したのである。調べてみたら以上の結果だった。

いくつかの自治体の花になっている。
北海道では 札幌市、恵庭市(1973年4月2日制定) 、美瑛町、幕別町、音更町。

長野県の富士見町と 南牧村。飲んだり食べたりしなければ馬に馬鹿にされることもない。2008・03・01

2008年02月29日

◆「三猿」中国特派員

                  渡部亮次郎

中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介し1967年追放処分を受けた 。この時期他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親日派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
  すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させてハナを開かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無いから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化
した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。2008・02・28

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2008年02月28日

◆福田・野中・小泉・麻生

                 渡部亮次郎

唐突に思われるだろうが、福田康夫政権誕生のカギは麻生太郎氏による「部落差別発言」にあり、麻生政権がすんなりとは実現しない原因でもある。

魚住昭『野中広務 差別と権力』によると、麻生太郎は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、野中に以下のとおり批判された。

(魚住昭 『野中広務 差別と権力』講談社 2004年06月29日 ISBN 4062753901)

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会(所属派閥)の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。

君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

野中の激しい言葉に対して麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだったと同書には記されている。

1998年、第18回参議院議員通常選挙大敗で橋本首相が退陣すると、後継の小渕恵三内閣で野中氏が官房長官を務めた。小渕内閣では一転して自自公連立を推進した予て創価学会、公明党には好意的であった。

2000年に小渕首相が倒れると前官房長官(自民党幹事長代理)として小渕側近だった有利な立場から、森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。これで森氏は野中氏に頭が上がらなくなった。

この協議は、首相を「5人組」によって密室で選出させたものとして、野党からも国民からも大きく批判された。だが野中氏は、森氏の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格した。

同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。その直後、野中氏は幹事長を辞任、後任に古賀氏が就任した。古賀氏は早くから「野中の子分」だったのだ。

このように小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたることもあった。

森首相退任に伴う2001年自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀、鈴木宗男氏やら公明党から野中政権待望論が挙がるも、橋本龍太郎、村岡兼造氏ら派幹部からその突出振りを疎まれていたため支持が集まらなかった。この時期、先の麻生発言が飛び出したものである。

結局、野中氏は橋本氏を担ぐことになるが、小泉純一郎氏に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。

2003年自民党総裁選では、主戦論を唱え、青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、新藤義孝外務政務官、村岡兼造元官房長官、大村秀章内閣政務官らと激しく対立。

派内一部議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した。野中氏は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に望んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗、自らは政界を引退を余儀なくされた(2003年10月)。

2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、密かに引退の噂を立てられていた福田康夫氏がにわかに総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。

実はこのとき、安倍引退を逸早く聞きつけた野中氏が麻生政権誕生を危惧して、急遽、京都から上京。子分古賀誠氏の要請で麻生太郎包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新5人組)の
最強の1人なのだ。

古賀氏が自民党選対委員長に就任したこともあり、低下していた野中氏の影響力に変化が生じている。福田不人気にも責任が生じている。

先立ってまず最大派閥を操る森氏から「福田支持」を取り付ける一方、嘗て売った「恩義」(手形)決裁を一気に実行、あっという間に「福田圧勝」のムード醸成に成功した。

15日、自由民主党総裁選挙に対立候補として麻生太郎氏が立候補した。

しかし町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が野中氏によって福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていた(ただし、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった)。また、小泉純一郎氏も事実上福田支持となった。

こうして野中氏は今や福田政権を手に入れた。古賀氏を通じての選挙対策の実権も手中にしている。

「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが、(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。壁を破ってでも食糧援助をすべきだと思って環境整備をしている」(産経新聞、1998年4月7日)

「隣国が困っているのに援助せず、心を通わせないで、拉致疑惑をはじめとする問題が解決するか」(NHK日曜討論、1999年12月5日)

2000年3月、島根県での講演において、北朝鮮へのコメ支援に反対して拉致被害者家族が自民党前に座り込みをした事に対して「日本人の拉致問題を解決しないでコメ支援はけしからんと言うが、日本国内で一生懸命吠えていても横田めぐみさんは返ってこない」

これらのすべてが福田政権に反映していると見るべきだ。福田政権がこのままジリ貧となり、いわば立ち枯れ病で倒れるか、麻生氏が息を吹き返せるか、それらの動きが政界再編製の動きと連動しないか。

私は野中、小泉両氏の動きを賢明に探るのが政治記者だと思っている。2008・02・27

2008年02月27日

◆魂の入っていない仏像

                  渡部亮次郎

現代日本における危機管理の第一人者佐々淳之さん(初代内閣安全保障室
長)が、ご自身のウエブサイト(2008.2.20)で有事の報告は「ショート
・サーキット」でと教示しておられる。

思い起こせば「第10雄洋丸事件」。1974(昭和49)年11月、東京湾で当時
国内最大級の石油タンカー「第10雄洋丸」と貨物船が衝突・炎上した。
死者33人。

しかし10日以上経っても鎮火しなかったため、東京湾外に曳航した上、
海上保安庁の要請で防衛庁(宇野宗佑防衛長官)が、護衛艦4隻と魚雷
を積んだ潜水艦、対戦哨戒機14機を出動させ、まる2日にわたり烈しい
砲雷爆撃を加えて、火災発生から20日後にようやく第10雄洋丸を沈没さ
せた。

ところが宇野長官への報告は防衛庁のルートではなく海上保安庁長官か
ら「ご協力ありがとうございます。ようやく沈みました」との報が先に
入った。

防衛庁は何をして報告が遅れたのか。当時は報告いちいち暗号を組んで
いたからである。沈没を確認した護衛艦長→護衛隊司令官→護衛隊群司
令官→護衛艦隊司令官・・・と段階的に順を追って報告されて行った。

さらに地方総監、潜水群司令官、航空隊司令官などへの報告も加わり、
しかも各報告は暗号化するきまりだったため、その暗号を組んだり解い
たり、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながらノロノロと上にあが
っていったのだ。

あれから34年。防衛省に昇格したからと言って、あの時の暗号報告が平
文報告に変わっただろうか。自衛隊にとって、あらゆる活動は「戦闘」
であり、それらはすべて敵に知れてはならない秘匿事項だから、あると
ころでは暗号が使われているのではないか。

今回、自動操舵で直進していたイージス艦の見張り員が、清徳丸の灯光
を目視で確認したのは、2月19日午前3時55分(衝突の12分前)。

しかし、イージス艦は、4時6分までは従来通りの自動操舵を続け、衝突1
分前の時点で、急遽逆推進(後退する体制・ブレーキをかけた状態)に
切り替えたものの、間に合わず衝突したと言われている。

直後からの通知連絡報告の時系列が、次の通りだった。

 4:07 衝突事故発生
 4:23 イージス艦から第3管区海上保安本部へ連絡
 4:48 護衛艦隊司令部が海上幕僚部へ事故報告
 5:頃 防衛省の内部部局へ連絡

 5:36 付近の試験艦・護衛艦が到着
 5:40 石破防衛大臣へ連絡
 5:50 町村官房長官へ連絡
 5:55 官邸に情報連絡室を設置

 6:00 テレビが第1報
 6:05 福田首相へ連絡
 6:18 防衛省に連絡室を設置

事故発生から福田首相に報告が届くまで約2時間を要している。これが昔
の暗号使用のためかどうかは部外者には分からない。仮にそうだとして
も防衛省は内情を明らかにはしないだろう。当然である。

これは民間の事件ではない。北朝鮮や中国の注目は救助能力に集中して
いるのだから、明らかにしてはならない。

一体、マスコミは死者2人に同情して視聴者の涙を絞った方が視聴率が
上がると踏んだものだから、始めからイージス艦悪者説に立脚した。

これについて書こうとしたら別の情報が入ってきた。

<内局職員が速報怠る イージス衝突で防衛相に≫と言うニュースが入
ってきた。 2008/02/25 【共同通信】

<石破茂防衛相へのイージス艦衝突事故の第1報が遅れた問題で、発生
時に統合幕僚監部のオペレーションルームに当直勤務していた内局(背
広組)職員が、同ルーム責任者の制服組(自衛官)幹部から石破氏に速
報するよう指示されたにもかかわらず防衛相秘書官への連絡を怠ってい
たことが24日分かった。防衛省筋が明らかにした。

防衛省には「重大な事故・事件は各幕僚監部が(内局を経由せず)防衛
相秘書官に1時間以内に速報する」とした事務次官通達があり、今回は
統幕か海幕が石破氏に直接速報すべきだった。(暗号でではなかった)。

しかし統幕、海上幕僚監部オペレーションルームいずれの責任者も通達
を認識していなかったことに加え内局職員も対処しなかったことで石破
氏への連絡が発生から約1時間半後になる結果となった。

石破氏は今回の事態を受け、各幕僚長が防衛相に直接速報する仕組みに
通達を改めたが、さらに内局と各幕の情報伝達の在り方を見直す方針だ。


自衛隊は憲法で認められておらず、一見軍隊らしく見えるが、魂の入っ
ていない仏像見たいな者。いくら拝んでもご利益のない仏像同様、国民
が頼りにしても、軍隊のような反応は無いわけだ、事件、事故が発生す
るたびに国民を失望させるのはこのためである。

憲法改正によって自衛隊を正式な軍隊と認知しない限り、同様の事故と
間抜けな連絡体制は何時でも再現される。軍隊ではない。単なる就職機
関である限り、仏像に「憲法に保障された国民の支持」という魂は入っ
てはいない。

言い換えれば自衛隊は災害出動には人道上、応じるが、命を賭けた戦闘
はしないだろう。憲法が要求していないからである。2008・02・25


2008年02月26日

◆錦織君の下品な英語

                  渡部亮次郎

プロテニス界の星錦織君の英語については前田正晶さんが、先に『頂門
の一針』1101号(2008・02・24)で慨嘆したとおりだが、私も「前田様 こ
れは下品。言葉じゃない。しかし、もはや治らないでしょう。日本人と
して恥かしい。誰が教えたのだろう」と同調した。

<彼は質問に答えて「当初は英語が解らず多いに苦労したが今は大丈夫」
と言いたくて
「Now is OK.」と言ったと聞こえた。

さらに2回戦の相手が世界ランキング6位のアンディ・ロデイック(Andy
Roddick)であるが、その抱負を聞かれて
「I want to play Roddick. That’s  why I win today.」
と答えていた>。

<Now is OK.では厳密に言えばここでは”now”が主語で「今が良い」と
なり、「今」と「良い」が同じものになってしまうのであるから。より
詳しく言えば「(私は)今は英語で会話をすることはOKなのだ」と言い
たいのだから、上の話し方のように”now”は主語ではないのである。

正しくは最低でも「It is OK now.」くらいは言わねばならず、主語とい
うか「自分にとっては問題ない」のだから「I have no problem with
English now.」等と言う方が、自分が言いたいことが言えて良いのであ
る。

次の文章だが「I want to play Roddick.」では「ロデイックを演じたい」
になってしまう。少なくとも「I wanted to play against Roddick.」で
なければならず、wantを過去形にしないと「ロデイックと対戦したかっ
た」ことにはならない。さらに「対戦する」のであればagainstを入れな
ければならない>。

<文法を誤ることは無教養の証であることを忘れてはならない。それで
も通じる、いや通じたという実績で当人は安堵して、この文法無視の世
界に安住してしまうのだ。私はそういう例を何人も見てきた。

しかもこの手の人の多くは非常に滑らかに英語を話されるのである。そ
の話し方の中に文法的誤りがあっても「貴方間違えていますよ」などと
お節介なことを言う人などいない。故に一度この道に入った人は先ず文
法遵守の道に戻ってくることはないのである>。

英語を喋る事は簡単でも、英語を母国語とする人たちとビジネスをする
事と同じではない。そのためには英語の文法を若いうちに身につけてお
かなければ、大恥をかくことになる、という大変親切な注意なのである。

そういう私もいきなり外務大臣秘書官にされて英語では苦労したが、高
校時代に厭々やった英文法で助けられた。会話は退官後改めて少しだが
修得した。だから前田さんの仰る事はいちいち尤もなのだ。

以下は前田さんの「追記」であるが、大変示唆に富んだ体験なので敢え
て紹介したい。

<私がアメリカの会社に転身したのが1972年、39歳でした。英語で話す
ことに関しては、高校在学中にはすでにアメリカ人の中で暮らしても不
自由ないくらいになっていましたが、本当の意味で「英語を使う、使え
る」ようになったのはそれ以降でした。

換言すれば、そこから英語を仕事に使うという真の勉強が始まりました。
ここから課題となったのが「思考体系の違い」で何度も何度も繰り返し
て問題が発生しました。それは言葉が話せるだけでは解決しないことば
かりでした。

2001年頃だったか某有名私立大学の先生に研究留学に先立って烏滸がま
しくも個人教授をしたことがありました。その先生が言われたことは
「何で始めから(前田さんが言うように)そう教えてくれなかったのか」
でした。

ある意味でそれは無い物ねだりですが、先生を悩ましたことは「有無相
通じない、腹芸がない、言わなくとも相手が解ってくれるだろう等が通
じないことを何故教えてくれなかったのか」なのです。思考体系の違い
です。私は彼らのそれを「二進法的思考」と呼んでいます。

すなわち、錦織君の「トップ100(後で50に言い直していましたが)が目
標」と言ったように、日本語では誰でもが「入ることだな」と解釈して
くれますが、彼らは「それがどうした」と言いかねません。こういう点
を学校教育で教えるわけがないのです。

先生はそう言いたかったのです。錦織君の頭の中は現時点では日本語の
思考体系なのでしょう。早くその違いに気が付かねば、何れは「そんな
つもりで言っていない」か「何故解ってくれない」という問題に撞着す
るでしょう。英語はそういうギスギスした厭らしい言語なのです。

私が数多く犯した「言わなかったために発生した」ミスの中で初期にこ
ういう例がありました。日本で品質の大問題が起きて、得意先と綿密に
打ち合わせた上で他にも緊急な問題があり急遽本社に出張しました。

本社では副社長、各担当マネージャー、中央研究所主任研究員、工場か
らは工場長と技術サービス部長も参加の大品質会議となりました。

私は全員に得意先の要望である「改造品が生産され次第そのテスト用の
見本紙をX枚航空便で送るとこと」を伝えて会議を終わって次の目的地に。
そして約1週間後に工場に出張した際に確認してみました。

技術サービス部長に「見本は予定通りに送ってくれたか」を確認すると、
その答えが何と「それは君が製造計画担当に本社で指示しておくべきこ
とで、我々の問題ではない。何の手配もされていない。直ちにここから
本社に連絡してその後に工場の事務部門に依頼に走れ」でした。

一言もありませんでした。見本の手配は私の仕事ですが、副社長以下全
員が出ていた会議で言えば、誰かが必ず(日本の組織で経験したように)
手配してくれただろうと思い込み、何ら確認もしないで終わっていたの
でした。

一言「担当に連絡する時間がないので宜しくお願いします」と言ってか
ら次の目的地に行くべきでした。このように彼らは「言わなかったこと
を相手の胸中を察して動く人種ではない」のです。

敢えて自分の失敗を例に挙げましたが、ここには言葉だけの問題ではな
い思考体系の違いまで読んでいないと「通じない」ことがあると知らね
ばならないということを言いたくて、長々と書いた次第です。

だが、失敗しないと解らないのも苦しいものです。誰かに教えて上げた
くても、実感を伴わないでしょう。しかし、あの場合は間に合いました
が、間に合わないか、取り返しがつかないことは多いのです。

であればこそ、私は「英語の勉強は余程必要がない限り、それほど必要
ではない。目的を良く考えて取り組め。問題は思考体系の違いまで認識
するかしないかにもある」と言うのです。

さらに、リタイヤー以後は「日米企業社会における文化の違い」と「思
考体系の違い」を語り、且つ書いてきました。この難しい点は「経験し、
また失敗がないと実感がないこと」です。

この上記の先生には「事前に良く聞いてからアメリカに行きましたから、
さして違和感を覚えませんでした」と言って頂けました。

先生がこうして初めて渡米されたのが42歳で、思考体系の違いなどを十
分即座に解って頂ける学者でした。であればこそ理解されたのかも知れ
ませんが、良かったなと思いました。>2008・02・23


2008年02月24日

◆祝「トウ小平秘録」完遂

                  渡部亮次郎

約1年に及んだ「トウ小平秘録」シリーズは2008年2月22日付、「153」回でついに終了、産経新聞を読む意欲が半減した。

伊藤 正 (イトウ タダシ)。産経新聞中国総局長兼論説委員。
1940年埼玉県生まれ、東京外国語大学中国語科卒。65年共同通信社に入り、72〜74年香港支局長、74〜77年北京支局員、83〜86年ワシントン支局員を経て、87〜91年北京支局長。編集局次長、論説委員長など歴任。

2000年7月産経新聞社に移り、同年12月から現職。76年と89年の2度の天安門事件を現場取材した唯一の西側記者として知られる。

香港、北京で既に足掛け20年の中国駐在経験である。これだけ長く駐在して中国をウオッチした外国人は少ないし日本人記者としては初めてでは無いか。

他の異国と違って、共産中国には報道の自由は無い。日本との国交がまだ回復する以前に結ばれた日中記者交換協定が回復後もそのまま延長されているためである。

中国を政治的に批判する事は許されないし、中国側の機嫌を損ねれば、直ちに国外退去を命じられる。実際に過去何回もあったし、逮捕監禁された例もある。

その言動は二六時中監視され、牽制され、記事が真実と当局のご機嫌の間で当惑、逡巡を禁じえないのが実態だ。それでもインターネットと携帯電話の普及で、事情は大分変わってきた。

<それでも中国国内の中国語サイトで、検索できない項目が多数ある。「天安門事件」はその一つだが、本連載「トウ小平(しょうへい)秘録」も検索できなくなった。>と伊藤さんは暴露している。

共産国から資本主義経済へ劇的に変化させたトウ小平。3度の失脚と3度の復活。その生涯はまた謎に満ちたものであるが、丹念な資料の分析と多彩な人脈を駆使した取材で、未知の事実を多々明らかにした。歴史的な著作となった。



【トウ小平秘録】(153 最終回)第6部「先富論」の遺産(2008.2.22)を抜粋・紹介して、連載の完結を惜しみつつ大いなる祝意を表する次第である。

<■命の恩人だが神ではない

「海 その愛」の楽譜が欲しいと、複数の知人から頼まれた。まだテレビを持つ家庭は少なかったが、少なくとも数百万の中国人がその演奏を聴き、何がしかのショックを受けたに違いない。

音楽ほど同時に、かつ大勢の人の感性に訴える表現形態はない。それは電波に乗って国境を越えていく。新制作座の演奏は、青年層ら中国人の心に響き、外国文化への欲求をかき立てた最初のシーンだったと思う。

その欲望を満たす物質的条件が大半の中国人にはなかった。本連載では、文革で失脚したトウ小平(しょうへい)氏が69年に下放した江西省の工場で、80人の従業員家庭のどこにもラジオがないと知ったときの失意を書いた。それが改革・開放への執念を生んだ、とも。

今年の春節中、友人Aの家庭に招かれた。200平方メートルほどの部屋には、大型プラズマテレビなど電子製品が並ぶ。ほかにマンションを3戸所有、車もある。離婚して女手一つで育てた息子は米国に留学させた。

50歳代のAは、文革中に農村に下放、辛酸をなめ尽くした。それでも希望を失わず、大学に推薦入学するチャンスをつかみ、改革・開放の波に乗って商売に成功、今日の豊かさを手にした。

Aはトウ小平氏について「命の恩人」と呼びながら、「毛沢東と違って神ではない」と言った。現在の生活は自分で勝ち取ったものとの自負心がかいま見えた。

北京でたまに行くスナックがある。興に乗ると革命歌を歌う。毛沢東賛歌の「大海を行くには舵(かじ)取りがいる」などだ。20歳前後のホステスはけげんな表情をする。なぜ毛沢東が「紅い太陽」なのか理解できないらしい。

革命歌をもっぱら流す店もあるが、政治的背景はなく、毛沢東を商売のタネにしているだけだ。

ホステスのほとんどは地方の農村出身者だ。夜7時に出勤、宿舎に帰るのは午前3時ごろという。長時間労働の報酬は、月1500元(1元は約15円=22,500円)前後。生活費を切りつめ実家に送金している女性が多い。出稼ぎ農民工と同じだ。

それでも地方に比べれば格段の高収入だ。安徽省出身の19歳の女性は、地元の食堂で朝8時から翌午前1時まで皿洗いなどの下働きで月200元)3000円)余だった。

黒竜江省出身の21歳の女性は、地元病院で看護師をしていた時代の賃金は350元(4500円)だったが、3カ月以上未払いだった、という。

 彼女たちの出身地の状況を聞く。ほとんどの共通点は党幹部の腐敗と金持ち階層の横暴への怒りだ。彼女たちの情報量は多い。その中には決して報道されない指導者のスキャンダルや暴動事件などの情報もある。

情報入手の主な手段は携帯電話だ。最近はパソコンを持つホステスも増えた。

中国の携帯電話は既に6億台に近づき、ネットユーザーも2億人を突破した。貧しい農民の間でも携帯電話の普及が著しい。それもまた経済発展の成果である。

本連載では何度か、専制政治の支柱はペンと鉄砲だと書いたが、こうした情報伝達手段の発達の結果、ペンの規制は無力化しつつある。

それでも中国国内の中国語サイトで、検索できない項目が多数ある。「天安門事件」はその一つだが、本連載「トウ小平(しょうへい)秘録」も検索できなくなった。

トウ小平氏は20年前、実事求是(事実に基づき真理を追究する)に立ち、世界と中国の現実を直視、毛沢東信仰を破り、改革・開放を断行した。現実主義の徹底がトウ氏の改革路線の神髄だ。

いま、トウ小平氏の時代には想像もできなかった変化が進む。トウ氏の定めた改革・開放と社会主義原則堅持の路線は、現実から乖離(かいり)し、多くの矛盾が噴出している。

トウ小平路線は不可侵というタブーを打破し、現実に即した改革の実行こそ、トウ氏の遺産を生かす道と思われるのだが。>(伊藤正)
2008・02・22

2008年02月23日

◆餓死者は3755万人

                 渡部亮次郎

中華人民共和国が1949(昭和24)年10月1日、毛沢東によって建国宣言された国である事は知っていた。またその同じ毛沢東によって強行された大躍進政策が悉く失敗し、厖大な餓死者を出した事も知っていた。

だが餓死者の具体的な数字については、愛用の「ウィキペディア」
では「2000万から5000万と言われているがはっきりした数字は解っていない」とし、「岩波現代中国事典」(1999年刊)も「1500万~4000万人」としか表現していない。

ところが共同通信社以来、北京に10年以上駐在している産経新聞社中国総局長の伊藤正氏が2008年2月21日付産経紙に掲載した「トウ小平秘録」第152回で「餓死者は3755万人」と具体的数字を報じた。おそらく世界初である。

これを明らかにしたのは中国、国防大学の元研究員辛子陵氏で2007年7月に刊行した著書「千秋功罪毛沢東」上下巻(書作坊出版)の中であった。そこには飢餓の末、子供や死体を食した例などを暴露していた。

辛子陵氏は中国人民大学元副学長の謝韜氏とのコンビで「中国共産党は中国社会民主党と改称しスウェーデン型の政治体制(議院内閣制)に移行すべきだと主張。

そこで毛沢東が大躍進政策や文化大革命でいかに大きな誤りを犯したかを具体的に暴露する必要があり、その一環として大躍進政策の失敗による餓死者数を明らかにしたものである。激しい批判に曝されているのは当然だから数字の根拠には自信が有るのだろう。

1957(昭和32)年11月6日、ソ連共産党第1書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。

毛沢東はこれに触発され、政権樹立後9年目の1958年の第2次5ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越すという壮大(無茶)な計画を立案した。

しかし、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の下で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。

1958年10月から、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中、
素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、1117万トン生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。

それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。

しかも農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

1958年2月から、4害(伝染病を媒介するハエ、カ、ネズミと、農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開され、スズメを大量に駆除した。

北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除したが、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。

スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。

人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がった。

また、今は完全に間違いだとされているルイセンコ(ソビエト)の学説に基づいた稲の密植など農業開発は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。秋田県でも親戚の若者が親たちの止めるのも聞かずに密植をやり大失敗したのを見た。

地方政府が誇大な成果を党中央に申告した結果、中央政府は申告に従って地方に農産物の供出を命じ、地方政府は農村から洗いざらい食料を徴発したため、広範囲の農村で餓死者続出の惨状が起きたというのである。

飢饉の最悪期にも都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている。

1959年毛沢東はこの政策失敗を認めて国家主席を辞任した。毛沢東はこれによって実質的な権力を失い、代わってケ小平・劉少奇などが修正主義的路線に基いて経済を再建していくことになる。

しかしこの後も中国共産党指導部における権力闘争は続き、林彪と四人組は毛沢東が失った権力を取り戻すために文化大革命を引き起こし空白の10年を作った。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




2008年02月22日

◆新タワーに年500万人

                  渡部亮次郎

東京都墨田区で今夏着工し、関東一円に地上デジタル放送の電波を送り出す高さ610メートルの新タワーの胸算用が試算され首都圏から「新東京タワー」にやってくる人は年間500万と出た人。

これは産経新聞が2008年2月20日の『東京』蘭で報じたもので、
それによれば建設による経済効果は3000億円を超える。首都圏からも大勢が足を運ぶとみられる新しい観光スポット誕生を前に、地元では街並み整備など再開発に取り組み始めている。

新タワーは東武鉄道が100%出資する「新東京タワー株式会社」(墨田区)が建設する巨大な電波塔。平成23年度に完成予定で、今ある東京タワー(高さ333メートル)の2倍近い高さになる。

すんなり建っては「立ち枯れ」になる現在の東京タワー側が高さを事実上足すなどの策を打ち出して地元を心配させる場面もあったがNHKも民放もこれには乗らなかったので新タワー建設は本決まりとなった。

建設にかかる総事業費は500億円。2007年 9月28日、「新東京タワー」の本体施工者を数社による競争入札の上、大林組に決め、請負契約を締結した。

大林組の請負金額は非公表。着工は2008年夏で、工期は3年6カ月を見込む。

2007年10月6日、建設予定地でサーチライト9台を使い、新タワーの脚に見立てた光の束を上空に向けて放出させた。

最初に東京タワー(333メートル)の高さで光を交差させ、その後光を伸ばして610メートルの上空で「新東京タワー」の高さを表現した。これは前年秋に地元住民らが企画、住民や団体から寄付を募って実現したもの。

10月26日、「新東京タワー」の名称案の公募開始、11月25日公募締切り。17,429 件の応募あり。2008年4月に名称検討委員会により数案に絞り込まれた上、一般投票を経て6月に決定の予定。

着工を前に地元、墨田区は大手広告代理店に委託し、新タワーが誕生したときの来場者数や、経済波及効果などを割り出した。

その結果、新タワーへの来場者は年間552万人にのぼると予測。首都圏からがほとんどで、496万人と見込んだ。

飲食やショッピングなどを周辺エリアで楽しむ来場者も入れると、年間で延べ2096万人が訪れると予想。首都圏からは1人当たり年3・3回、延べ1798万人が来場すると算出した。

新タワーの建設に伴う経済効果は3346億円と試算。完成後、来場者の消費活動などに伴う経済効果は毎年1700億円にのぼり、このうち東京都では1300億円、墨田区だけでも880億円の効果があるとの結果が出た。

また、新タワーの建設で、全国では約1万7000人、このうち東京都では約1万2000人の雇用が生まれるとの数字がはじき出されたが、あくまで皮算用である。

下町文化の拠点へ整備

<新タワー建設予定地の墨田区では約3・7ヘクタールにわたって「タワーのある街」の再開発が進められる。

タワーの東側は地上32階、西側は地上7階建ての一体型のビルができ、タワーとつながる。ビルにはレストランなどの商業施設のほか、オフィスや学校といった教育施設を誘致。

水族館や下町らしく「和」をイメージした宿泊施設なども入る。入居するテナントはまだ決まっていないが、「下町文化の雰囲気のある街をつくりたい」(新東京タワー株式会社)。

墨田区では「新タワーを起爆剤に街の活性化を図りたい」(山崎昇区長)考えで、20年度から27年度にかけ、周辺を「下町文化創世拠点」として整備するのに、総額105億7800万円をかける。

20年度の区予算には計6億円を計上。墨田区生まれの浮世絵師、葛飾北斎の偉業を伝える観光拠点として「北斎館」の建設準備に取りかかる。

タワー周辺の道路の電線を地中化し、歩道をバリアフリー化するなどインフラ整備も本格化させる。

山崎区長は「新タワーで街は一変する。住民にも知恵を絞ってもらい誰もが1度は訪れてみたい街を実現したい」と期待している。>
(産経新聞 2月20日8時0分配信)

自宅の近所だから月に何回も側を通るが、早い話、近隣はあまり綺麗とはいえない街。果たしてこんなところにホテルなんかも出来て
観光客が来るだろう、とは想像できない。

だから関係者は一所懸命に胸算用を大手広告代理店に依頼して決して皮算用なんかでないと区民に訴えているのであろう。何しろ再開発が進まず、人口が5年かかって1万しか増えない区だ。タワーが再開発の起爆剤になるよう願っている人は多いだろう。2008.02.20

2008年02月21日

◆中国を社会民主党に?(21日夕刊)

                 渡部亮次郎

産経新聞中国総局長伊藤正氏による長期連載「トウ小平秘録」は一頭地を抜く傑作である。

2008年2月21日の第152回では「社会民主党」ではどうかと言う副題がついていて、トウ氏の敷いた改革開放路線を経済だけでは矛盾が進行するから、これを政治にも広げて議会主義にしたらどうかという論争まで起きている事を指摘している。

これについては、
<新左派系のサイトは、論文を罵倒(ばとう)する文章や書き込みであふれ、毛沢東を修正主義者と侮辱した謝氏を党規約と憲法に違反しているとして逮捕、「炎黄春秋」は廃刊すべしとの意見も出た>(伊藤氏)。

しかし、事態は決してそうはならず、論争は続いている。中でも驚かされたのは「大躍進運動(58年)での餓死者数が3755万人」とあからさまに表現して毛沢東批判が展開されていることである。

この文章を書いたのは、国防大学の元研究員、辛子陵(しんしりょう)氏で「千秋功罪毛沢東」上下巻(書作坊出版)。昨年7月に出版された。

毛沢東により強行された大躍進。辛子陵氏は飢え死にする人が3755万人も出る中、子供や死体を食した例などを暴露し、毛沢東時代の抑圧と貧困を詳述。空想主義に陥った毛沢東の極左主義を徹底的に批判した。

この論文に刺激されて、昨年2月、北京の月刊誌「炎黄春秋」に発表された論文が大きな話題を呼んだ。

筆者は名門、中国人民大学元副学長の謝韜(しゃとう)氏。「民主社会主義モデルと中国の前途」と題し、民主社会主義へ移行、民主政治を実現してこそ「中国を救える」と主張した。

謝氏は、中国共産党は「中国社会民主党」と改称し、欧州共産主義と同じく民主社会主義に転換、スウェーデン型の政治体制(議院内閣制)に移行すべきだと主張している。毛沢東思想の全面否定を論じても殺されないのだ。

伊藤氏によればトウ小平による改革・開放をめぐる論争は、4年前から始まった。2004年に香港中文大学の郎咸平(ろうかんへい)教授が大手国有企業の国有資産の外資への売却などを批判、新左派が郎氏を支援し、市場経済派の主流派学者を攻撃してからだった。

謝韜(しゃとう)、辛子陵(しんしりょう)両氏は議会制民主主義を提唱、事実上一党独裁を否定していたから衝撃は大きかった。この年秋に第17回党大会を控え、政権側がどう反応するかが注目された。

謝氏らへの反論は2006年4月24日付「光明日報」が開始。党機関紙「人民日報」は5月10日、読者の質問に答える形で、「中国の特色のある社会主義」こそ唯一の道として民主社会主義論を批判したが、論争に区切りをつけたのは、胡錦濤総書記だった。

一党独裁を堅持し、経済建設を重点にしながら党内民主の促進などの改革を進めるという趣旨で、党大会の活動報告の基調にもなった。

謝韜氏らはこの後、胡氏に「(社会主義の)旗を降ろし、民主社会主義の道を行ってはどうか」と伝えたのに対し、胡氏は06年6月25日、中央党学校での演説で、初めて「私は古い旗を掲げ、古い道を行く」と答えたという(黄達公(こうたつこう)編「大論戦」香港・天地図書)。

国内矛盾に飽き足らず毛沢東路線に回帰使用とする左派。「国民経済が発展し人民の生活水準が向上して人民が満足するなら、どんな主義でも構わない」トウ小平氏が87年にこう語ったことに縋る改革派、なんとしてでも『中間点』を探そうとする現実派。3派入り乱れての論争。

広東省の汪洋(おうよう)書記は昨年末以来、思想解放を強調、深センを「政治特区」にして政治改革の実験をする構想を進めている。実験の正体は不明だが、こうした構想が出ること自体、政治改革が不可欠との認識が政権内部に強まっている表れだ、と伊藤氏は見る。

<問題はあるにせよ、中国は資本主義化によって経済発展を遂げ、国民の生活水準も確実に向上した。しかし国民は、党権力と富裕階級が手を結び利益を共有する「権貴政治」への疑問、不満を募らせ、社会は不安定化している。

国民の意思が反映する政治体制の確立を胡錦濤政権は迫られている。謝韜氏らは民主社会主義の要は「民主」にありとし、「党主」の放棄を求めるが、それにはトウ小平氏の「四つの基本原則」の呪縛(じゅばく)を解かねばならない。トウ氏の「遺産」は、なお大きく重い。>(伊藤正)2008・02・21

2008年02月20日

◆昔は安全世界一の日本

                  渡部亮次郎

「世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安
全に旅行できる国はない」と著書に書いたのはイギリスの女性旅行家イ
ザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月31―1904年10月7日)
である。

日本では明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、『日本奥地
紀行』『バード 日本紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)を書いた。

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ
抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳の日本人
男性1人だけ)。

山形県の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方の風景を「東
洋のアルカディア」(牧歌的な楽園)と評した。

1878年に金山を訪れたイザベラ・バードは、ここで長旅から足の容態が
悪化し、この先雄勝峠(秋田県)を超えるということもあって、しばら
く逗留して足の治療と養生を行った。

新庄からやってきた医師による、西洋医学ではない、東洋医学による治
療であった。

彼女は東洋医学に対して懐疑的であったが、それでも足が回復したこと
で認識を改め、さらに医師の人となりや、首長を始めとする人々の知識
欲の旺盛さ、これまでの宿では虻蚊に悩まされていたが、ここで虻蚊を
避ける方法を発見したことなどを好意的に記している。

金山町(かねやままち)は、山形県北東部にある人口約7千人の町。最上郡
に属する。

町域の4分の3を占める森林からの金山杉と、白壁を用いた「美しく古び
る」を目指した金山型住宅、また石造りの大堰と呼ぶ農業用水路には錦
鯉を放流するなど、景観施策に意欲的な町として複数の町並みコンクー
ルにおいて受賞実績がある。

<久保田(今の秋田市)や大館、白沢からの手紙もあり、青森県の碇ヶ
関、黒石からも手紙を書いている。

久保田では「他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである。」と書
いている。

津軽・黒石では七夕祭りの幻想的な透かし絵の提灯行列を見て、その美
しさに1時間も立ち尽くした、と書いている。今の「ねぶた祭り」の原
型だと思われる。>(青森県大鰐町 須藤尚人氏)

イザベラ・バードはまた10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。
これらの体験を 1880年"Unbeaten Tracks in Japan"2巻にまとめた。第1
巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。

その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版され
る。『日本奥地紀行』は、この普及版の翻訳である。明治期の外来人の
視点を通した日本を知る貴重な文献である。

特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本
格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文
献である。

1885年版で省略された部分は『バード 日本紀行』として翻訳されている。

日本奥地紀行で当時の日本をこう書いている。

「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく
安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法
な目にも遭わず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」

また1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、『朝
鮮紀行』を書いている。最初の朝鮮訪問は1894年、バード62歳の時のこ
と。

以降3年のうちに4度にわたり朝鮮各地を旅する。時おりしも東学党の
反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不
穏な政情、伝統的封建的伝統、文化。バードがじかに見聞きした、朝鮮
の情勢を忠実に伝える。

1831年イギリス・ヨークシャーの牧師の長女として生まれる。幼少時に
病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅
に憧れるようになる。

アメリカやカナダを旅し、1856年『The Englishwoman in America』を書
いた。その後、当時の女性としては珍しい旅行家として、世界中を旅し
た。1893年英国地理学会特別会員となる。享年72.

『バード 日本紀行』楠家重敏他訳、雄松堂出版、2002年8月20日、
ISBN4-8419-0295-3  583p 15cm(A6)

「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」時岡敬子訳、講談社学術文庫、
ISBN:9784061593404 (4061593404) 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・02・18



2008年02月19日

◆難しい中華料理原稿

                  渡部亮次郎

中国料理を口にしたのは20歳を過ぎてから、中国の地を踏んだのは1972
年、36歳の時だった。人民大会堂で周恩来首相から接待を受け、ニクソン
大統領は予め断ったという海鼠(なまこ)の醤油煮を生まれて初めて食
べた。

何度も書くようだが、元の八郎潟沿岸で育った私は、魚を生で食べる事
を禁じられていた。肝臓ジストマという恐しい「虫」が居るから、淡水
魚はすべて火を通さなければいけない、と教えられて育った。

しかも八郎潟の鮒や鯰(なまず)は網や釣り針で、只で捕れるから、日
本海の魚を買う必要は無い。つい、刺身や寿司を知らないで育ったわけ
である。

田中角栄首相に同行して北京を訪れた時、沿岸部のごく一部を除いて中
国人も魚の生は食べない事を知った。揚子江(長江)などから捕れる淡
水魚には肝臓ジストマが棲み付いて危険な事を四千年の歴史で学んだの
である。

後年、外務大臣の秘書官になり、トウ小平副首相が日本政府による和食
の晩餐会でいわばメインデッシュたる鮪(まぐろ)の刺身を1切れだけ目
を瞑って食べるのを見た。四川省の山中で育った氏としては、死ぬ思い
だったろう。

しかし、日中間の人的交流が進んだ事もあって、最近では「海の魚は安
全、美味」が知れ渡り、中国人が鮪その他生魚をどしどし食べるように
なった。鮪は日中間で奪い合いになっているらしい。

ところで60歳までは刺身を食べなかったから専ら中国料理を食べたわけ
だが、このことを字にすると大変だ。日本のパソコンには入っていない
字が沢山出て来るからである。最近も北京ダックのことで読者からお叱
りを受けたばかりである。

北京からの報道によると、北京ダックを大量製造するために、ある老舗
が電気オーブンを採用しようとしたところ、大いなる反発を食らってい
るという話だ。

<電気焼き北京ダックに反対76%

北京ダックは老舗の味を守ってー。日刊紙・中国青年報などが市民を対象
に行ったアンケート調査によると、76・8%が北京ダックの伝統的な製法
を改めて電気オーブンで焼く事に反対と回答した。14日付の同紙が報じ
た。調査対象は3066人。

北京ダックの調理法をめぐっては、老舗「全聚徳」が昨年11月の株式上
場に際し、オーブン導入など生産を自動化する計画を発表、論議を呼ん
でいた。

全聚徳の北京ダックは、ナツメなど果物の木で火をおこし、特殊な窯の
中に吊るして焼き上げる製法で有名。調査では、62・8%が電気オーブンの
使用による北京ダックのファストフード化を懸念している。>北京=時
事 産経新聞 2008年1月15日付。

電気オーブンの採用は言わずと知れた北京オリンピックで押し寄せる厖
大な数の客に対応するには致し方ないというところだろうが、市民の反
応はなかなか厳しい。

ところで日本における中国料理店は明治中期、華僑が神戸に開いたもの
が第1号といわれ、その後、横浜でもいわゆる中華街として発展してきた。

横浜中華街は、横浜開港後の幕末から明治初期にかけて、外国人居留地
の一角に中国人が居住したのが始まり。明治4年に日清修好条約が結ばれ
ると、移住者が増加した。現在、中区山下町にあり、200軒以上の中華料
理店が軒を連ね、中国各地の味を提供している。

中国料理は日本の食べ物にも大きな影響を与えた。味噌、豆腐、羊羹、
饅頭、麺類、茶など多くの食品が長い年月の間に日本にもたらされた。
料理自体としては長崎の卓袱(しっぽく)料理やチャンポン、普茶料理な
どが知られる。

第2次世界大戦後満洲からの引揚者が持帰った餃子(ギョウザ)や焼売(シ
ュウマイ)その他の食べ物が人気を呼び、各地に専門の店も生まれて定着
している。出典:「エンカルタ」(マイクロソフト)2008・01・15



2008年02月16日

◆注射を恐れる人々

                  渡部亮次郎

月刊 糖尿病ライフ「さかえ」2008年2月号によると、糖尿病でありながら、まだインスリン療法(自己注射)をしていない患者の多くは注射開始に抵抗感や不安を持っていることが分かった。

これは医薬品製造会社「日本イーライリリー」(神戸市)が2007年11月中旬までに行ったインターネット調査でわかったものだが、逆に既に注射をしている人の3割は「もっと早く始めていればよかった」と答えている。

調査は30〜60歳代以上までの男女各50人、計400人の糖尿病患者が対象。このうちインスリン治療を受けている人は93人、受けていない人は307人。

未治療の患者に注射開始への懸念を尋ねたところ75・6%が「とても心配」「かなり心配」と答えた。主治医から勧められた場合の対応では「気にせずに始める」と答えた患者はわずか4・7%。

「他に選択肢が無いから始める」は37・2%。「メリット、デメリットをじっくり検討」「経口治療薬の増量などを主治医と相談」がいずれも24・1%と慎重派が多く、「断る」も9・9%いた。

ところが既に注射治療中の患者は、開始時期について67・7%が「適切」、29・0%が「もっと早く開始すればよかった」と答えた。これはやってみると複雑でも痛くも無い事が分かるからだろう。

インスリン治療に対する考え(複数回答)では、未治療患者では、
「注射は複雑で面倒」が51・8%でトップ。「始めると一生止められない」36・5%、「インスリン注射するようになったら末期だ」26・7%など否定的な回答が上位を占めた。

これに対し、治療患者は「将来の合併症予防に役立つ」「血糖コントロールがしやすくなる」がそれぞれ63.4%、「他の治療法より効果が高い」が52・7%だった。

気付くように、注射に関する設問に「痛い」が無い。糖尿病の注射に関する限り「痛い」はなくなっているのである。

カナダの整形外科医フレデリック・バンティング(Frederick Banting)と医学生チャールズ・ベスト(Charles Best)が研究室でインスリンの抽出に成功したのが1921年。

1922年の春が過ぎ、ベストは大量の需要にも応えられるように抽出技術を工夫したが、精製は未熟であった。

別途1921年の発表の直後、イーライリリー社から、彼らは支援の申し出を受けており、4月にこの申し出を受けた。11月にリリー社は技術の革新に成功し、非常に純粋なインスリンの生産に成功した。このインスリンは、アイレチンという名ですぐ市場に出された。

インスリンは口から服用しても胃酸で無効になるため、現在も皮下注射以外に体内に取り込む方法がない。ところが欧米では間なしに患者自身による注射が可能になったらしいが、日本では1980年まで禁止された。患者は60年間、厚生省に見放された。

それを許可したのが園田直さん(故人)である。厚生大臣としては2度目の就任(鈴木善幸内閣)。日本医師会の反対を押し切っての決断だった。

日本でも患者自身による自己注射が可能となったので医療器具メーカーは注射器の工夫、針を極細にして痛みを減ずることに社運を賭けて競争を展開。

いまや日本における注射針の細さは0・2ミリ。世界一の細さ。髪の毛ぐらいで殆ど痛みを感じないレベルとなった。インスリン治療を開始してない患者大多数はこの「極細競争」の物語を知らないから恐れるのだ。

園田さん自身、30代からの糖尿病患者だったが、武道の猛者の癖に注射の痛みを怖がってインスリンを拒否し続けた。大臣在任中は極細針は間に合わなく、1984年4月2日、人工透析の末、腎不全で死んだ。享年70

秘書官としてこの事実を確認し、奇しくも自身、患者となったが極細針の恩恵により「この分ではお袋の歳(98}まで生きられると豪語している私の「注射推奨の弁」を聞いて注射を受け入れて戴きたい。

私は園田さんが死んだ84年の夏に2型を発症した。遺伝と運動不足、暴飲がきっかけだった。その後経口薬投与で頑張ったが、眼底出血を体験。5年前からインスリン自己注射を朝夕の2回。

その結果、いま(72歳)ではかかりつけの医師から「わたなべさんは糖尿病である以外、どこも悪くない」と言われるまでになった。焼酎も楽しんでいる事、当然。すべて注射のお陰である。2008・02・13