2008年07月07日

◆人間の皮を被った猿

                     渡部亮次郎

<「食べる」ということは、セックスや排便と同じような生理活動であって、本来は「秘め事」であるべきものだ。>と親しい評論家の加瀬英明さんが指摘している(「頂門の一針」1238号 2008・7・5)

だから加瀬さんは日本のテレビでの料理番組の多さこそは異常だと指摘し、嘆いている。

<チャンネルを回すと、何が美味しいかという食べ物番組を、朝から晩まで流している。これほどテレビで食べ物番組が多い国は、世界に他にない。

タレントとか、セレブといわれる人たちは、何十万人という人々の前で食べることが、恥しくないのか。

経営者の中にも、どの店の何が旨いとか、おいしいとか、好んで話題にする者が少なくないのに辟易させられる。

食べるということは、セックスや排便と同じような生理活動であって、本来は秘め事であるべきものだ。だから、よほど親しい相手でなければ、話すべきことではない。

男であれば、何が美味しいとか、不味いとか、口にしてはなるまい。

食べることに執着することは、精神病理学ではオーラル・フィクゼーション(口腔執着)といって、幼児がオシャブリを啣(くわ)えて離さないような、幼児的なことである。どうも社会が幼児化しているようで、日本の前途が暗い。>

恥をいえば私は1978年1月、モスクワの日本大使館で開かれた日本外務大臣(園田直)の「すき焼午餐会」でグロムイコ外相が左ぎっちょで箸を使い、すき焼を食べたので珍しい光景だと思わずシャッターを切った。後で大臣から猛烈に怒られた。

「口を開けてものを喰う事はセックスと同じ行為なんだよ、知らんのか。口を開いて食事を共にする事は、恥を共にすることだから親しくなる契機(きっかけ)になるんだよ」。

国を代表する者同士が国の予算で高価な料理や高級ワインを飲むのは、従って外交交渉の一環であるわけだ。個人的には親しくなり国家的には国の名誉をかけて失礼の無いレベルの酒肴を出すというわけだ。

日本に国家の賓客が到着すると、国を代表して天皇、皇后両陛下が歓迎式を催され、帰国時は見送りをされる。その間、晩餐会か午餐会が催されるのが仕来りだが、これを中継するテレビが放送できるのは主客のご挨拶に続く乾杯まで。食事場面はご法度である。

したがって両陛下が食事のためにお口を開けたところは一般には公開されたことは無い。これからも無い。食事は生理活動。本来「秘事」という原則が厳しく守られているからである。

この事は下賎階級でも敗戦までは守られていた。歩きながら食べ物を口にする事は恥かしい事と、農家の母親から口を酸っぱくして教え込まれたものだ。

それを破り且つ「良い事」のように振舞って見せたのがアメリカを中心とする占領軍である。大して教養の無いアメリカの田舎の兵隊が人前でガムを噛んだりハンバーガーを歩きながら口に押し込んで見せたから堪らない。日本の馬鹿がそれを真似して粋がって見せた。

汚い兵隊たちを歌手の岡晴夫が「粋なジャンバーのアメリカ兵」と歌った。深刻な敗戦から早く逃げようとすべてをすり替え、アメリカ的な軽薄を受け入れる事が平和に繋がることと誤解してしまった。

今では若い女性も歩きながらパンやおにぎりを食べる。あまつさえ、電車の中で化粧をする事さえ恥かしげも無い。字のとおり化粧とは化けて装うための、いわば「手品」なのだからネタを知られてしまった下手な手品師と同じ。

こういう人種を東京ではでは「おしゃれ しゃれても 惚れ手がないよ」と貶したものだが、もう駄目だ。貶せる「大人」が存在しなくなったもの。いてもこちらが恥かしくなって目を逸らすだけ。

もともと「進駐軍」に化けた占領軍は憲法を始めとする日本の政治体制を徹底的に破壊すると共に世界に冠たる文化社会を腐敗させ2度とアメリカに立ち向かえない無力国家にすることを占領政策の眼目としていた。それが60年余で完成した。

狙いを知らずに占領政策を無批判に受け入れて真っ先に日本人で無くなったのが、労働組合を結成して「聖職」から「労働者」に転落して恥じない日教組である。

その日教組の「製品」が歩きながら物を食ったり電車の中で化粧を公開して恥じない「猿」なのである。いまに車内で性交を公開するのも出てくるだろう。人間の皮を被った猿だから。2008・7・4

2008年07月06日

◆日本人にとっての砂糖

渡部亮次郎 (全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

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日本に初めて砂糖が伝えられたのは,754年(天平勝宝6)に来朝した鑑真(がんじん)によってであるとされることが多い。それは鑑真の第1次渡航のさいの積荷の中に〈石蜜〉〈蔗糖〉の名が見えるためで,この石蜜を氷砂糖とする説も多い。


鎌倉時代に発した狂言《附子(ぶす)》で毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう滑稽さには,当時の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されている。

近世初期の日本の砂糖は,中国・オランダ船が舶載するいわゆる唐砂糖だけで,幕府は初め350万斤(きん)に制限していたが,1715年(正徳5)には430万斤に改定された。

国産糖の初めは琉球(沖縄)で,1623年儀間真常(ぎましんじよう)が家人を福建(中国)に遣わして伝習させたのに始まるというが,事実は1392年福建からいわゆる36姓の唐人が帰化したときにもたらしたものらしい。

日本の製糖業は,国内の原料作物から砂糖を作る砂糖製造業と,外国から粗糖を輸入してそれを精製する砂糖精製業に分けられる。

現在では北海道でテンサイ(砂糖大根)が,沖縄,鹿児島でサトウキビが作られている。国産糖の生産量は73万t(1981砂糖年度,1981年10月〜82年9月)で総需要量269万tの27・1%を占めている。

砂糖自給率は1975砂糖年度の15・6%から大幅に上昇している。これには,テンサイが北海道の,サトウキビがとくに沖縄の農業の基幹作物であるため,政府がこれらの生産を振興していることがある。

国産糖保護のため,輸入される粗糖には高い関税や調整金が課されている。

国民1人当りの砂糖消費量は,1981砂糖年度で約23kgで,1970年代後半から減少ないし横ばい状態となっている。これには消費者の砂糖離れと競合商品の異性化糖の急増がその背景にある。

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2008年07月04日

◆悲喜交々各位殿

渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

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昭和35(1960)年前後にNHK仙台で記者生活を送った仲間が2006年11月14日夕、九段会館の地下レストランに集まり、懐旧談義に時を忘れた。

中華7品にアルコール呑み放題。会費5000円を集めたが、終わってから500円のお釣を返却。珍しいことだ、お前、永久幹事だと大笑いした。

丁度南米のチリ沖で起きた津波が三陸海岸を襲って死者119人を出した「チリ地震津波」の取材の思い出で話は始まったが、あの時、名文を評価された先輩が「俺は著名な国文学者から直接、電話を貰って用語の誤りを指摘されたことがある」と敢えて恥を披露した。

それは大学入試の合否発表のニュース。合格を小躍りして喜ぶ顔、がっかりする顔、悲喜交々(ひきこもごも)でした、と放送したところ、直後に電話がかかって来たのだと言う。

「悲喜交々とは、一人の顔に喜びと悲しみが交互に表れることであって、あのような場面に使う言葉ではありません」と教え、窘められたというのである。

岩波の四字熟語辞典でも「悲しみと喜びが入混じること」とあり「悲喜交交至る」の略。交々は、入混じり、あるいは代る代る訪れる意とある。名文家にも間違って覚えた若輩時代があったのだ。名文家はスペイン語の名手でもあって南米特派員を経て外信部長になった。

NHKには今はどうか知らないが昔は研修所があって、何年かごと、1週間ぐらい泊まりこみで、文章の錆を落とされた。いい大人に言葉を教える事は世間では憚られるだろう、とそっと教えてくれるのである。

各位のあとに様や殿を付けてはいけない。各位というのは、皆様がた、皆様と言う意味で既に様が含まれているのだ、と。皮切りとは包茎と関係があるから使ってはいけない。本腰を入れるもいけない。性行為と関係があるからだ、といった具合。しかし、各位様殿は至る所で見る。

しかし、最近は新聞が自由に使っている。まだ未熟も出てくる。未熟とは未(いまだ)熟さずの意味だから「まだ」は不要。これらは高校で漢文を不履修する時代だからだろう。

漢字そのものを漢の国(中国)に拠っているのに漢文を履修しないとあっては漢字の使用方法を習わないに等しいから、こういうことが起きる。そのうちに馬から落馬なども読まされるかも知れない、ちょと覚悟が要る。

偉い政治家でも、若い頃に間違って覚えた言葉は世間が直してくれないから、陰で笑われることになる。

芝居や映画の立ち回りを殺陣(たて)というが「さつじん」と読んだり、旗幟鮮明(きしせんめい)を「きしょくせんめい」と読む。偉い人だから聴いている人はまさか注意も出来ず、心の中で馬鹿にしている。

この人は憎悪(ぞうお)を「ぞうあ」と国連で演説した。幸い通訳は予め演説原文を持っていたからhatredと訳したから、本人は笑われずに済んだ。消え入りたい思いをしたのは日本語原文を草した私であった。2006.11.15



2008年07月03日

◆濁酒作りの名人

渡部亮次郎

濁酒(だくしゅ=ドブロク)作りの名人とはわが母だった。先年98歳で夕食が美味しかったと言った直後に死んだ。元気で長生きぽっくりでGNP。大方の理想とする死に方である。

勿論、個人でアルコールを製造する事は日本の場合、法律で禁じられており、母も1度は摘発されて罰金刑に処せられた。しかし舅たる我が祖父、日露戦争の喇叭手は嫁の作った濁酒以外の酒は呑まないのだから仕方ない。

酒を仕込むためには麹が要る.その種麹を買いに行かされるのが次男たる私の役目。対米戦争中から町内の麹屋に通った。つまり小学生時代から脱法行為に加担していたのである。大袈裟?

麹(こうじ)とは、米、麦、大豆などの穀物や精白するときに出来た糠などに、コウジ菌などの食品発酵に有効なカビを中心にした微生物を繁殖させたもの。

日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛など、発酵食品を製造するときに用いる。ヒマラヤ地域と東南アジアを含めた東アジア圏特有の発酵技術である。

麹の作り方。別途培養した麹菌胞子である種麹を、蒸した原料に散布して製造する方法と、以前に製造した麹の中から良質なものを保存しておき、新たに麹を製造する際に蒸米に加えて用いる方法がある。後者の方法を共麹(友麹とも)と呼ぶ。

現在の日本では、もっぱら前者の方法が採用されており、麹を製造する際には種麹を専門に製造する業者が供給する種麹を利用する場合が多い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

母は変わった人だった。偏食を絶対、とがめなかった。また、好きな物は子供でも食べて良かった。濁酒も。「体が呼んでいるんだから」が理由だった。当然、私は小学生ながら酒の味を覚えた。

4つ年上の兄は当然、弟より悪で、爺さんが清酒を飲んでいる時代、酒屋に買いに行かされると、帰る途中、2口、3口呑んでしまい、井戸水を足して帰った。祖父は日本酒がこの頃、水臭くなった、戦争の所為だな、と嘆いたそうだ。

お袋の手順を見ているからある日、兄と一緒に隠れて濁酒製造に挑戦した。毎日、発酵具合を見るべく味見をするのだが、発酵が進まず、甘酒のまま呑みおえてしまった。

母のは3日ぐらいで完成する。少し甘味が残り、アルコール分は十分。何度作っても味は一定していたから名人である。祖父は夕方を待ちきれず、それを瓶から土鍋に汲みだし、囲炉裏で暖めて茶碗で飲むのである。

なるほど濁酒は清酒のようなツンとした刺激臭がなく、なんとなく牛乳のように飲める。祖父としてはそれがたまらなく美味しかったのだろうと思う。母は祖父が80歳で死ぬまで濁酒を造り続けた。

当時、農村では税務署といえば密造酒の摘発隊のこと。後年、秘書官としてつかえた外務大臣園田直(そのだ すなお)さんは、特攻隊生き残りで地元の町長を務めていたころ、摘発隊たる税務署員ちに消防ポンプで水をかけて撃退していた。「日の丸共産党を名乗っていたな」と回想していた。

わが祖父は私が大学2年の夏、脳溢血で倒れた。大きな鼾をかいて意識不明。7日目の朝、母が吸いさしに清酒を入れて口にさしたらとくとくと呑んでその直後に息絶えた。

若い頃からの祖父の酔態の醜さを見聞していたから、その息子たる父は酒は呑めたが呑まなかった。祖父が清酒を呑んで逝った吸いさしで砂糖水を飲んで死んだ。80歳。呑んでも80、呑まなくても80。

最早、私と濁酒の縁は薄くなった。僅かに月に1回、錦糸町で懇談する会でNHK時代からの友人大谷英彦氏が朝鮮半島の酒マッコリを呑むのを横目でみているだけである。  2008・06・30

2008年07月01日

◆東京地検特別捜査部

                      渡部亮次郎

若い頃、記者(NHK)を20年ばかりやったが、警察や検察を担当した事は全く無い。大学も法学部とはいえ政治学科だったから刑法や刑事訴訟法は読んだ事も無い。

政治記者だったが、担当する政治家が逮捕されたり起訴されることも無かったから、こういう片輪な人間が出来上がってしまった。

ところが今年(2008年)は以前、17年間も理事長を務めた社団法人の日米文化振興会が最近社団法人日米平和・文化交流協会に名称変更され、専務理事の秋山直紀氏が防衛不祥事の関係者に浮上しているというので、なぜか私がマスコミに追い回された。

秋山氏の素性を知っている人が私しか居ないのでというのが理由だったようだが、私も実はあまり素性を知らないし、事件の背景にいたってはまるで知らない。

そこで秋山氏を一時は捜査対象にしたらしい東京地方検察庁特別捜査部(とくべつそうさぶ)とは、如何なる存在かを改めて勉強した。

ここは日本の検察庁の一部門であって、特別捜査部(通称特捜部)は東京・大阪・名古屋の各地方検察庁に設置されている。

独自の捜査権限を有している検察庁の中でも、大規模事件など、集中的に捜査を行う必要がある案件に取り組む機関として存在している。検事(副検事)のほかに検察事務官により構成されている。

検事や検察事務官は東大ばかりではなく、中央、明治といった私立大学出身者もかなり目立つ。特に検事は司法試験さえ通っていればいいからだ。

戦後、東京・大阪の2特捜部態勢が続いていたが、1996年に名古屋地方検
察庁にも特捜部が置かれ全国で3特捜部の態勢となっている。

政治家汚職、大型脱税、経済事件を独自に調査する。なお、3地検以外の地方検察庁にもこれに準じた部署として特別刑事部が置かれている。

1947年(昭和22年):東京地検で特捜部の前身「隠匿退蔵物資事件捜査部」、通称「隠退蔵事件捜査部」が発足。
1957年(昭和32年):大阪地検特捜部が発足。
1996年(平成 8年):名古屋地検特捜部が発足。

東京地方検察庁特別捜査部
通称「東京地検特捜部」は現在総勢 検事38名、副検事3名、検察事務官
84名

特別捜査部長(部長:検察官)
特捜事務課(課長:検察事務官)
特捜資料課(課長:検察事務官)
特殊直告第一・二班(責任者は検察官たる班担当副部長)
財政経済班(責任者は検察官たる班担当副部長)

汚職#主な汚職事件のうち、1947年(隠退蔵事件捜査部発足)以降のものを
掲載。

歴代特捜部長

代 氏名 在任期間 主な手掛けた事件 出身校 後職 隠退蔵事件捜査部長

1 田中萬一 1947年11月 - 1948年1月(心得、兼任渉外部長) 中央大学 最高検刑事部長
2 山内繁雄 1948年1月 - 1948年7月 昭和電工事件 最高検検事

特別捜査部長

1 福島幸雄 1949年5月 - 1950年1月 炭鉱国管疑獄

3 山本清二郎 1953年11月 - 1955年10月 造船疑獄及び造船疑獄指揮権発動、保全経済会事件、陸運汚職事件 中央大学 次長検事、大阪高検検事長

4 天野武一 1955年10月 - 1958年12月 売春汚職事件 東京帝国大学 大阪
高検検事長、最高裁判事

6 河井信太郎 1961年7月 - 1965年9月 武州鉄道汚職事件、吹原・森脇事
件 中央大学 大阪高検検事長 。政治記者かけだしのころ、よく耳にした名前。

7 大江兵馬 1965年10月 - 1967年4月 田中彰治事件、共和精糖事件 京都帝国大学 札幌地検検事正

8 木村喬行 1967年4月 - 1970年3月 日通事件 東京帝国大学 仙台高検検事長

11 大堀誠一 1972年6月 - 1975年1月 協同飼料株価不正操作事件、石油ヤミカルテル事件 東北帝国大学工学部 東京高検検事長

12 川島興 1975年1月 - 1978年3月 ロッキード事件 中央大学 大阪高検検事長

13 吉永祐介 1978年4月 - 1980年6月 ダグラスグラマン事件、KDD事件 岡山大学 検事総長

14 岡村泰孝 1980年6月 - 1981年11月 誠備グループ脱税事件 京都大学 法務事務次官、検事総長

15 藤永幸治 1981年12月 - 1983年1月 三越事件 京都大学 東京高検検事長

16 河上和雄 1983年1月 - 1984年11月 新潟鉄工所ソフトウェア等横領事
件、新薬産業スパイ事件 東京大学 最高検公判部長 。テレビによく出演。

17 山口悠介 1984年11月 - 1987年1月 リッカー事件、撚糸工連事件、平
和相銀不正融資事件、日本共産党幹部宅電話盗聴事件 東京大学 札幌高検検事長

19 松田昇 1987年8月 - 1989年9月 明電工脱税事件、リクルート事件 中
央大学 最高検刑事部長、預金保険機構理事長

20 石川達紘 1989年9月14日 - 1991年1月 国際航業事件、稲村利幸脱税事件 中央大学 名古屋高検検事長

21 五十嵐紀男 1991年1月 - 1993年7月 共和汚職事件、東京佐川急便事件・金丸信巨額脱税事件・ゼネコン汚職事件 北海道大学 横浜地検検事正

22 宗像紀夫 1993年7月 - 1995年7月 ゼネコン汚職事件中村喜四郎元建
設相逮捕、東京協和・安全信用二信組事件 中央大学 名古屋高検検事長

23 上田広一 1995年7月 - 1996年12月 泉井石油商脱税・関空汚職事件 明治大学 次長検事、東京高検検事長

24 熊崎勝彦 1996年12月 - 1998年6月 野村證券・第一勧銀総会屋利益供与事件、防衛庁調達実施本部背任事件 明治大学 最高検公安部長

31 大鶴基成 2005年4月 - 2007年1月 ライブドア事件 東京大学 函館地検検事正

32 八木宏幸 2007年1月―緑資源機構官製談合事件、商社及び防衛関連企業からの収賄容疑による守屋武昌元防衛次官逮捕 中央大学 。

大阪地方検察庁特別捜査部
通称、「大阪地検特捜部」。1957年4月創設。
総勢54名:部長、副部長以下検事13名。副検事3名。事務官38名。

主な事件

大阪タクシー汚職事件 関谷勝利衆院議員逮捕 (1967年4月)
阪大ワープロ汚職事件(1984年7月)
砂利石材船汚職事件(1988年1月)

イトマン事件(1991年7月)
牛肉偽装事件(2004年4月)
和歌山県知事談合・収賄容疑(2006年11月)
枚方市第二清掃工場建設工事(仮称) 官製談合 (2007年5月)

特別捜査部は汚職を取り締まるために時の政権の意向に左右されやすい
と言われている。また、有罪にするために強引な捜査手法が目立つとの
批判もある。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年06月29日

◆インスリン注射不要の夢

渡部亮次郎

2年前の2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝子を入れて培養したら、万能細胞ができた。
iPS細胞=人工多能性幹細胞と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。ノーベル賞だという声が上がっている。細胞や臓器の再生へ、万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、3年ぐらいで、人工細胞ができるかもしれないと言う。
激しい競争があるからだ

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきずいそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすればインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがあるらしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃されると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目になった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップしたりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28


2008年06月27日

◆ベトナム役人の収賄


渡部亮次郎

東京地検特捜部は東京の大手建設コンサルタント「PCI」が政府開発援助(ODA)事業受注のためベトナム政府当局者に数千万円の贈賄をしていた疑いがあるとして、ベトナムの司法当局に捜査協力を要請した模様だ(産経新聞 6月26日付)。

記事に依ればPCIはこのカネを捻出するため関係する香港法人に約1億8600万円を隠したり、内閣府に水増し請求をしたりしたとして26日までに首脳陣が起訴された。

特捜部はベトナムのODA事業受注をめぐる不正競争防止法違反での立件も視野に,捜査を継続させると見られるそうだ。

関係者によると、PCIは平成15年ごろ、同社の現地社員がベトナム政府当局者にドル建てで数千万円の賄賂を提供した疑いがあるという。

産経新聞記者の観測では、特捜部は今後、ベトナム政府当局者本人への事情聴取などの捜査協力も要請すると見られ、不透明な贈賄資金の流れの解明を進めるそうだ。

そんなに簡単に行くとは思えない。日本企業がベトナムのODA事業受注に絡んで政府の担当者に賄賂を渡すという話はかなり前から「常識」といわれていた。年度予算に計上してある、とも。

だから業界では、PCIだけが特捜の「いじめ」に遭っているのには何かしら政治的な意図が隠されているのじゃないかとの観測が走っているらしいが、検事はそんな常識を知らないから珍しがって興奮しているだけではないのか。

ベトナムはドイモイの国。経済だけは改革開放という中国と似たところがある。役人の贈賄も中国に似て「構造的」になっているのでは無いか。

<ドイモイ(ベトナム語で「刷新」の意)は、1986年のベトナム共産党・第6回大会で提起されたスローガンであり、主に経済(価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上)、社会思想面で新方向への転換を目指すものである。

市場メカニズムや対外開放政策が導入され、経済面では大きな成果をあげてきた。

ただ、共産党一党支配体制は堅持されている。 切り離せないのは、「社会主義指向型発展」の理念である。

ドイモイの思想分野の一部で、民富や強国・民主・文明社会を掲げて発展するという理念。これは中国が目指す「2050年、文明社会主義国」の系譜を辿っているという見解もある。

どちらにしても、社会主義国の官から民へ経済思考がシフトしている>。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

政府(共産党)が体制を堅持しようとすれば経済を規制して権威を示す必要に迫られる。だが、経済は生産性や利益を目指せば限りなく発展を目指し、規制を跳ね除けようとする。

そこで貧しい役人たちは賄賂と引き換えならばと規制緩和や受注の優先を匂わせる。これで成立するのが、中国とベトナムでの「構造的汚職」なのである。

汚職が構造的である以上、彼らにとって賄賂はもはや不可欠のものである。したがって東京地検の捜査協力要請に応じていたのでは大げさにいえばドイモイが潰れる。産経の見通しは楽観的すぎる。
2008・06・26

2008年06月25日

◆「検閲」を知っているか

渡部亮次郎

「夜のプラットホーム」
作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一 歌 二葉あき子。

敗戦後昭和22(1947)年 の流行歌だが、実は違う。昭和14年、当時は淡谷のり子がレコードに吹き込みをしてコロムビアレコードが発売。しかし世には出なかった。

戦後生まれの人には信じられない制度「検閲」により「発売禁止」処分となったからである。

1 星はままたき 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホームの 別れのベルよ
  さよなら さようなら
  君いつ帰る
2 ひとはちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さようなら
  君いつ帰る
3 窓に残した あのことば
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿があった。我が大君(天皇)に召されての名誉の出征に、妻が人前で泣く事は許される事ではなかった。

若妻にすれば旅立つ夫はもはや生きて還ることのないかも知れぬ運命である。さよなら さようなら 君いつ帰る 悲痛な叫び。これを知らない最近のアナウンサーは単なる旅立ちを何故、こんなに悲しむのかと訝る。

新橋駅でこの情景を目撃した都新聞(現東京新聞)学芸記者奥野椰子夫がコロムビアに入社して翌昭和14年1月に作詞したのがこの歌。しかし中国との戦時下、女々しいと「発売禁止」。

<明治維新後の日本の言論統制は,どの国にも劣らぬほど厳重なものであった。日本の民衆を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いて太平洋戦争の悲劇を招いた原因の一つは,その強力な言論統制にあったといってよい。

満州事変以後のファシズム時代の言論統制は一段と厳しさを加え,自由主義を含むあらゆる反ファシズム言論の息の根を止めた。

すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディアの支配権が政府に握られていった>。平凡社世界大百科事典。

国を挙げて戦っている。戦意高揚。それに反すると認められたものはすべて排除された。現行憲法下で育った人々には想像もつかない「国家統制」が存在したのである。

作曲の服部良一(大阪出身)は諦めきれないと詞も題名も英訳し、「I‘m waiting」と「洋楽版」に、カムフラージュ、作曲者もR・ハッターとして検閲を逃れた。これを知らない世代はR・ハッターを外国人と思って捜している。

戦争が敗戦で終わり、検閲はなくなった。3度目の正直。二葉あき子歌でヒットしたのが昭和22年だった。

戦後、さらにヒットした高峰三枝子の「湖畔の宿」(昭和15年)も途中で発売禁止になったが、内務省が気がついた頃は既にかなり売れた後だった。
       社会思想社版「新版日本流行歌史」(中)。2008・06・22

2008年06月23日

◆沖縄慰霊の日

渡部 亮次郎

慰霊の日は、1945年6月23日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、琉球政府及び沖縄県が定めた記念日である。復帰前は、住民の祝祭日に関する立法(1961年立法第85号)に基づく公休日とされた。

現在でも沖縄県内では公休日である(ただし地方限定の公休日であるため、当該日が日曜日にあたっても翌日が振替休日にはならないが、過去には学校などによって翌日も休日になることもあった)。今年は土曜休みの人は3連休だ。

そのため国の機関や国立大学(琉球大学)以外の役所・学校等は休日となる。毎年この日には糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれる。

1945年4月1日にアメリカ軍の沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされている。

この自決がいつあったのかについては、6月22日説と6月23日説があり、現在、沖縄県では6月23日説を採用している。

しかし、どちらが本当に自決があった日であるかについては議論があり1961年に当時の琉球政府が慰霊の日を定めた際にも、当初は6月22日としていたものを、1965年に6月23日に改めた経緯もある。

現在は1974年に制定された「沖縄県慰霊の日を定める条例」により、「我が県が、第2次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)」、6月23日を「慰霊の日」と定めている。

一方で、司令部が壊滅してもそれを知らされなかった兵士たちが抵抗を続けたため、散発的な戦闘は司令部自決の日以降も続いた。このため、慰霊の日を司令官自決の日と定めることに対して疑問を投げかける立場もある。

たとえば沖縄市では、慰霊の日を休日とする一方で、同年9月7日に降伏文書への調印が行なわれたことから、同日を「市民平和の日」と定めている。

1962年から、この日には沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれ、沖縄戦犠牲者の遺族やその子孫などが集まり、式典中の正午には黙祷が捧げられる。また、この日は沖縄県平和祈念資料館が入場無料となる。

1980年代末に国の機関が本格的に週休2日制(土曜閉庁)導入することにあたり、慰霊の日を休日として廃止することが浮上されたが、沖縄県の歴史的経緯などの地域事情により見送られた(その後、あやふやになっていた慰霊の日が日曜日にあたる場合も、翌日でも休日としないことが明確になった)。 2008・06・10
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆よど号犯、「帰国すべきでない」

石岡 荘十

日朝間の公式実務者協議(6/11・12)の波紋が広がっている。そんな中、
よど号のハイジャック犯9人のうち、現在北朝鮮に生き残っている4人
について、ハイジャック計画の首謀者であり、直前に国内で逮捕されて
実行犯とはならなかった塩見孝也氏(67)、元赤軍派議長は、「(いま
さら)帰国すべきでない」との考えを筆者に明かした。

塩見氏は70年、「このままでは安保は乗り切れない」として武装革命集
団・赤軍派を結成し自ら議長に就いた。具体的な闘争として、航空機を
ハイジャック、北朝鮮かキューバに渡り、ここを拠点に世界同時革命を
起す計画だったが、3月15日、警視庁公安部に逮捕され、残る田宮高麿
ら9人が31日、日航機「よど号」を乗っ取りを実行、北朝鮮に入った。

以来38年、よど号犯は、金日成の庇護の下、政治思想・主体(=チュチ
ュ)思想)を学習しながら、貿易会社の経営に当たってきたとされるが、
この間、5人が病死、事故死または海外に出たところで逮捕され、現在、
北朝鮮に残っているのは4人となった。

生存が確認されているのは、
・小西隆裕(63)
・若林盛亮(61)
・安部公博(60)
・赤木志郎(60)

だが、このうち安部と病死した田宮高麿の妻・森順子、若林の妻・佐喜
子(旧姓黒田)の3人は、ヨーロッパ留学中の日本人学生・石岡亨さん
(当時22)と松木薫さん(当時26)の2人を93〜94年拉致した疑いがも
たれている。

有本さんと石岡さんは、85年結婚したが事故死した、松木さんの消息に
ついては「調査中」とされている。

さて、実務者協議の目玉は大雑把に言って、核問題と拉致問題、この2
つだが、その後の新聞などの論調を見ると、テロ支援国家解除の条件に
ついて、核問題については米国が熱心だ。しかし、拉致についてはそれ
ほど重要だとは見ていない、日本だけが置いてけぼりを食うという雰囲
気だ。

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2008年06月18日

◆放るもんはホルモン

渡部亮次郎

首都ソウルの繁華街、明洞(ミョンドン)には焼肉店の看板がひしめき合い、24時間営業の店も登場している。1人当たり3万〜4万ウォン(約3〜4千円)も出せば十分にお腹が満たされる。

最近では、競争の激化により肉質をアピールするために韓牛と掲げる店が増えている。

最近の韓国ではアメリカからの牛肉輸入許可に反対して、就任したばかりの大統領の辞任要求まで掲げられているが、韓国の「食」のイメージとして一般的な“キムチ”のほか“カルビ”などの焼肉料理に代表される牛肉が韓国の食生活に広く浸透し始めたのは、ここ20年程のことといわれている。

私は1973年6月に韓国を初めて訪れた際、朴政権の閣僚から「明日は大和(やまと)焼きをご馳走します」といわれ、てっきり和食を期待して行って見たら大阪で予て盛んだった「焼肉」を裁ち鋏で切り分ける店だったのでちょっと驚いたものだ。

なぜ韓国焼肉料理を「大和焼き」というのか。日本人が遺して行ったレシピだったからである。軍事クーデタにも加担したこの閣僚の説明によれば、併合時代の日本人は現地人に牛肉と砂糖を食べさせなかった。牛肉を砂糖醤油にまぶした牛肉の「焼肉」を現地人が食べたのは1945年の「解放」後である、と。

まず韓国人がまず群がったのは砂糖だった。だから韓国の砂糖消費量は人口当たりで世界のトップに躍り出たそうだ。併合時代の日本人の悪業を聞かされたようで厭だった。

日本での焼肉は戦後、大阪で始まった。やがて韓国人たちが「放るもん)の牛の内臓を「ホルモン」と名づけて「精力」のつくものとして売り出し、遂に語源が分からないぐらい、全国的に普及させた。
大阪勤務3年で「通」になった。

韓国ではその後、牛肉需要は、1988年のソウルオリンピック開催に伴う国内経済の発展が、大きな影響を与えた。1980年代当時の1人当たりの年間牛肉消費量を見ると、わずか2.6kgであったものが、90年には4.1kgに増加し、2000年には8.5kgとこの20年間で3倍以上の伸びを見せている。

2001年1月には、韓国の牛肉市場が自由化されたことで、米国などからの牛肉の輸入量増加が見込まれており、消費量はさらに拡大して行くものと見込まれている。

しかし、一方では、輸入牛肉に対抗して国内各地で「高級肉」としての韓牛(韓国原産の肉牛)の積極的な品種改良や育成が進められている。

韓国で韓牛肥育が本格的に開始されたのは、1970年代に入ってからだ。その後、経済の急激な成長を背景に、国内各地では積極的な生産基盤の整備が進められている。

最近では、京畿道(キョンキドウ)、江原道(カンウォンドウ)など北部地域を中心に、輸入牛肉に負けないための韓牛のブランド化も始まった。日本の「和牛」の遺伝子を用いた品種改良が盛んだ。
将来は「そんな事実は無い」と否定するだろう。

ソウルから南へ約60km、京畿道安城(アンソン)市で200戸の韓牛肥育農家を束ねる「韓牛会」会長の禹(ウー)さん。自らも
350頭の韓牛を肥育し、「韓牛会」としては年間2,000頭を出荷する。

平均出荷体重は約650〜700kg、大手百貨店との契約により販路は安定している。最近の韓牛価格の上昇で、農家の生産意欲も高まっており、100頭以上を肥育する大規模経営が増えてきた。韓牛
に対する消費者の信頼感を維持することが大切と訴えている。

韓国では、現在、国内に114ヵ所のと畜場が設置されているが、枝肉市場を併設しているものは、わずか14ヵ所となっている。このうち6ヵ所が農協により運営され、残り8ヵ所は民間での運営となっている。参考:韓国政府発表資料   2008・06・16


2008年06月17日

◆漢字制限の緩和

        渡部亮次郎

戦争に敗けたのは学ぶべき漢字が多すぎた、難しい漢字も多すぎたと一時、文部省(現在は文部科学省)は漢字を眼の仇のようにして制限してきた。

ところが、このところのパソコンや携帯電話の発達で事情が大きく様変わりしてきた。手では書けない字でもITでは簡単に表現できるようになったからである。

たとえば憂鬱。手では書けないが、パソコンでゆううつと打って変換させると簡単に憂鬱となる。これでは制限漢字にする必要が無いではないか、という論が専門家の間で実際に論議されている。

敗戦翌年の1946年11月16日に内閣から告示されたのが当用漢字(とうようかんじ)「当用漢字表」に掲載された漢字で、1850字だった。当用の意味は「当面用いる」の意味だった。

その結果起きたのが「まぜ書き」の滑稽である。それまで熟語として用いられて来た語の中には、「空挺部隊」のように、熟語を構成する漢字に当用漢字に含まれる漢字と含まれない漢字が混在するものが多数存在した。

これらの熟語では、含まれている部分だけを漢字にし、残りをひらがななどで書く(「空てい部隊」)といういわゆる「まぜ書き(交ぜ書き)」が行われることになったのである。

しかしこの表記法は占領政策である伝統文化の破壊方針に従ったものであり、国民を愚民とする表現制限である等と厳しく批判された。

しかも当用漢字は日本独自の新字体を採用しているため、当用漢字だけの知識では古典を原典のままでは読むことができなくなった。

(他の漢字国も、中華人民共和国等それぞれ独自で=主に草書を基にした新漢字を定めたこともあり、これ以降は、漢字が共通語として通用することが殆どむずかしくなった)。

なお、現在まで漢字の字体を変更しないで継承しているのは、台湾、香港、マカオである。

以上のような反省から出てきたのが現行の「常用漢字」。1981年10月1日に内閣告示第1号「常用漢字表」により発表された。

「法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等、一般の社会生活で用いる場合の、効率的で共通性の高い漢字を収め、分かりやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用の目安」(同告示)を示す。1945字からなる。それでも新聞社は紙面製作の能率の点から漢字を増やす事には消極的だといわれている。

当用漢字との違い
字数の上では以下の95字が増加した。削除された文字はない。
猿 凹 渦 靴 稼 拐 涯 垣 殻 潟 喝 褐 缶 頑 挟 矯 襟 隅 渓 蛍 嫌 洪 溝 昆 崎 皿 桟 傘 肢 遮 蛇 酌 汁 塾 尚 宵 縄 壌 唇 甚 据 杉 斉 逝 仙 栓 挿 曹 槽 藻 駄 濯 棚 挑 眺 釣 塚 漬 亭 偵 泥 搭 棟 洞 凸 屯 把 覇 漠 肌 鉢 披 扉 猫 頻 瓶 雰 塀 泡 俸 褒 朴 僕 堀 磨 抹 岬 妄 厄 癒 悠 羅 竜 戻 枠

字体を改めた字。
当用漢字の「燈」が「灯」に改められた。

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2008年06月14日

◆スギ花粉症が治った

                     渡部亮次郎

東京の川向う(隅田川左岸)に住んでいるが、ここには杉など1本も植わっていない。それなのに10年ほど前、突然杉花粉症にかかって苦しんだ。遠く多摩地方の杉林から飛んでくる杉花粉にやられたのだ。

それが突然に治った。医者も珍しがる珍現象だと思うが、それは今、密かに流行っている植物性乳酸水が効いた以外に考えられない。

私の花粉症は毎年2月末から3月初めに始まっていた。朝からくしゃみ、涙目、水っ洟の連続。偶然乗ったタクシーの運転手さんに教えられて、数年後にはある種のホルモン剤を注射して防止していたが、2007年は症状が全く出なかった。これはこの年が花粉の飛散量が極端に少ない年という気象庁の説明どおりで、良かったと合点していた。

ところで今年。例年になく花粉の飛散量は多量との予報。だからホルモン注射にそろそろ行こうと覚悟していたが,1度もくしゃみをせぬうちに気がつけば既に梅雨。もはや花粉症はシーズンそのものが終わっていた。つまり、いつの間にか私の杉花粉症は全快していたのである。

1度かかったら一生治らないのは糖尿病と同じといわれている花粉症。それから脱出出来た事例がここに出来したのである。何もしないのに、治った。くしゃみも、涙目も、水っ洟もどこかへ飛んで行ってくれた、良かったよかったと、梅雨入りの日に祝杯を挙げた。それにしても何故?

はたと膝を打った。一昨年から日にグラス1杯ずつ飲み始めた植物性乳酸水。血糖値抑制に効くと聞いて呑んでいるが、そういえばこれはアトピーにとても効果があると聞いていた。だから花粉症にも効いたのではなかろうか。

だが医学的に証明されているわけでは無いから宣伝するわけには行かない。仮にも元厚生大臣の秘書官が薬事法違反の片棒を担ぐわけには行かない。だがそれ以外に納得できる事実は無いのだから、話題ではあるだろう。

スギ花粉症になるのは日本人では5人に1人。東京都知事石原慎太郎さんもそうだと告白していた。

日本でスギ花粉症の症例が報告されたのは全く新しい。東京オリンピックの前年昭和38(1963)年である。記録を言えば栃木県日光の杉並木が植えられたのは17世紀だから、杉花粉は17世紀から飛んでいた。しかし杉花粉症が発症したのは20世紀も後半だ。300年の間、日本人は花粉症をなぜ発症しなかったのだろうか。

これについて東京医科歯科大学名誉教授藤田紘一郎氏はNHKラジオなどに出演して「17世紀の日本人は回虫にかかり、いろんな細菌がいましたから、それがアレルギーを抑えていたのです。

ぜんそく、花粉症、アトピーは1950(昭和25)年には全くなかった。それが1965(昭和40)年以降急激に増え出した。1950年の回虫感染率は62%でした。回虫の感染率が5%を切った1965年から増えだしたわけです」と断言している。

さらに藤田氏は驚くべき事例を挙げてサナダムシの効き目を説明しているのだ。

<15歳の女の子ですが顔がアトピーでタダレて人前にも出られず、3度自殺しかけたというのです。そこで、私にサナダムシで治療して欲しいというのです。

その子にサナダムシを飲ませ、ナオミと名前をつけ、お腹にナオミちゃんがいるんだから勝手に自殺してはいけないと諭しました。その後彼女はだんだんアトピーが治り早稲田大学に入りました。

西洋医学の功績が非常に大きいのは、1つの原因を1つの物質で治すということだと思います。たとえば、糖尿病はインシュリンの分泌が足りないから起きますので、インシュリンを与えればよいということです。

西洋医学で手をつけられないのは免疫のバランスが重要因子である疾患です。アレルギーとガンは免疫の両極端にあります。日本癌学会は何十億円と使って研究していますが、ガンの発生を止めることはできていません。

アレルギー学会も何十億円と使っていますが、毎年アレルギー患者が増えています。今こそ、東洋医学的な発想が必要です。東洋医学とは個人個人のバランスを見る学問です。

西洋医学では風邪を引けばみんな同じ薬が出ますが、東洋医学では脈をとり、舌を見てその人がどのようにバランスが崩れているかを見て、そのバランスを正しくすることによって病気を治そうということです。

西洋医学的な考え方で足りないことは「自然治癒力」という概念です。それをもっと大切にしなければなりません。自然治癒力とは、自然の中で生きてきた力です。

私たちは地球上で40億年生きています。抗生物質が発見されて高々100年ですが、もう限界が出ている。自然治癒力、たとえば皮膚常在菌というのは皮膚に棲んでいて皮膚を守っている。

腸には腸内細菌が百兆個もいて、腸内環境を正しく保っているのです。女性の膣の中にはデーデルライン乳酸菌という細菌がいて膣を守っている。

寄生虫はみんな悪者かというとそうではないのです。人の寄生虫は人の中でしか子供を産めないわけですから、人の寄生虫は人を大事にするわけです。

寄生虫、ウイルス、細菌というのは独りでは生きられない。必ず宿主が必要です。だから、その宿主は大事にする。

人の腸内細菌は人を守っている。これまでの研究では寄生虫だけでなく、いろんなウイルス・細菌もアレルギーを抑えていることが分かっています>。

私の植物性乳酸菌が杉花粉症にどうやってどのように効いたかが医学的に証明されなければ宣伝してはいけない話ではある。だが花粉症に対する抵抗力がついていたからこそ治ったのである。おそらく昨年、飛散量云々ではなく既に治っていたものと思われる。
2008・06・12