2007年12月31日

◆大晦日に死ぬと

                 渡部亮次郎

死ぬ日を選ぶ事はできないが、大晦日に死ぬと新聞の年表には残らない。新聞の大晦日に載る年表は前日までに作られるから、その人は、その年の逝去者名簿に載らない事になる。

その人の1人が牛場信彦(うしば のぶひこ)氏である。1984(昭和59)年12月31日ニ75歳で死んだ。福田赳夫内閣で外務大臣園田直の脇で対外経済担当大臣を勤められたからよく知っている。

牛場 信彦氏は1909年11月16日に生まれた。兄に近衛文麿秘書官を務めた牛場友彦がいる。

東京府立一中、第一高等学校を経て、昭和7年、東京帝国大学法学部卒業。同年、外務省入省。戦時中はドイツ、イタリアとの枢軸支持の外交官として活躍した。

戦後になると、武内龍次、黄田多喜夫ら、のちにこれらの事務次官となる2人のあとを受けて、新制・通商産業省3代目通商局長(在任:1952年8月1日―1954年7月15日)に就任。

以後、外務省経済局長、駐カナダ大使、外務審議官、事務次官を歴任した。

昭和45〜48年(1970年〜1973年)、沖縄返還交渉、日米繊維摩擦の交渉大詰めの時代に駐米大使を務め、全米50州余りを相互理解促進のため講演行脚に勤しんだ。

昭和52年(1977年)には、福田赳夫内閣にてその識見・人望の厚さを買われ、対外経済担当大臣に就任、欧米との経済摩擦緩和に東奔西走した。

昭和59年(1984年)、日米諮問委員会(日米賢人会議)では、日本側代表を務めた。1984年12月31日没。享年75。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

当時、外務省では「牛場さんの後につくときは気をつけろ、怪我をする」と言われていた。牛場さんはドアを開けて入ると、後に従ってきている部下の事など忘れて、後ろ手でドアを閉めてしまう。後ろの人は顔に怪我をする、ということであった。

対外経済担当大臣。国際経済問題に園田は弱いという評価を福田首相が下したわけで、園田氏は面子を潰されたわけだが、牛場さんには特別に外務省内の部屋を牛場大臣室として提供するなど気を遣った。

牛場さんもまた園田氏に気を遣い、日に1度は必ず連絡に現れた。秘書官として見ているとそれは実に微笑ましい風景だった。

牛場さん、若い頃はカミソリだった。部下の課長に「君、あれはどうなったかね」と聞いて課長が「ハ?」とでも言おうものなら「キミ、家に帰りたまえ」といった。局長と課長のキミとで「あれ」という懸案は1つぐらいしかない。それを「ハ?」とはなんだ、という事だった。

沖縄返還の実務をアメリカ大使として取り組んだ。それも並みの大使では無い・部下の書記官まで動員して上院、下院議員の説得に当らせた。息子たちはタカ派として育った・2007・12・30

2007年12月28日

◆改めてトウ(!))小平強靭

                   渡部亮次郎

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば小瓶と
渾名されている。また、唐辛子風味のナポレオン(身長150センチと小柄
ながら頭の回転が速く眼光人を刺す如く鋭かった)とも。

トウ蝟子(ハリネズミのトウ)・トウ矮子(チビのトウ)と呼ばれたり
もした。毛沢東はトウ小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

トウ小平氏を初めて見たのは1978年8月10日午後5時半(北京時間)北京
の人民大会堂でであった。日本政府が6年越しの「宿題」としてきた日中
平和友好条約の締結を「悲願」とする園田直外務大臣の秘書官として対
面したのである。

それは政治家園田直の政治生命にかかわる問題だった。世間は官房長官
から外務大臣に「出世」と考えたが事実は「追放」だった。岸信介氏の
策謀だった。だからせめて「宿題」の解決ぐらいしないことには「示し」
がつかなかったのだ。

我々は2日前の8日(火)夕方、日航特別機で北京空港に着いた。それまで
雨が降っていたらしく、出迎えてくれた黄華外相が「あなたは恵みの雨
を持って来てくれました」と歓迎の言葉を述べた。

対して園田外相は「中国では雨降って地流れるというかもしれないが日
本では雨降って地固まるといいます」と切返したことを覚えている。

簡単にいえば、生涯3度目の「復活」をトウ氏が遂げた前年夏から中国政
府は何が何でも日中平和友好条約を締結するよう、方針を転換していた。
この時点では日本の資本と技術に頼るしかなく、条約締結を急ぐ事が急
務になっていた。それを日本大使館が知らなかった。

それを後になって事務方は知っていたように言い、「園田大臣は北京に
は遊びに来たようなものだ(伴公使=当時)と10年後に喋っているが、そう
なら予め確認して大臣に報告するのが公務員の責務では無いか。

それが出来ないから代議士に何度立っても当選できなくて、あたら秀才、
尾羽打ち枯らした末に非業の死を遂げる事になるのだ。

ところで、その後トウ(!))氏は1978年10月、日中平和友好条約締結を
記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談
した。

昭和天皇とはできるだけ対等に対応しようと威張っているように見えた
が、会談を終えたら、すっかり敬服したような態度となり、天皇陛下の
後を歩くようになったことを覚えている。

その後、京都・奈良を歴訪した。日本経済発展の象徴たる新幹線を初体
験。「鞭で追い立てられているようだ」と感想を述べた。中国近代化の
必要性を実感したのではないか。

日産から贈与申し出のあった高級車プレジデント。断るかと思ったら二
つ返事で受け取った。帰国後、分解したかも知れない。コマツにトラク
ターの注文が舞い込んだ、しめたと思ったら4台限り。分解してコピーを
作るためだったという実例がある。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「3中全会」(中国共産党
第11期中央委員会第3回全体会議)において、文革路線から改革開放路
線への歴史的な政策転換を図る。これで毛沢東(既に死去)を超えた。

またこの会議で事実上、中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議
内容が発表された時、全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残って
いる。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教
条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実
権を完全に握った。

(華国鋒を騙して3度目の復活をしたのだ)。だが、人民大会堂では華国
鋒の手下のように振舞っていた。大変なズルシャモンであったのだ。

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2007年12月26日

◆証言 戦後政治の舞台裏

                 渡部亮次郎

こう言う本を元労働大臣・防衛庁長官の栗原裕幸さんが出版された。
正式には「証言 本音の政治 戦後政治の舞台裏」内外出版株式会社発行 ISBN978-4-931410-C0031 1715円。

あとがきによれば満87歳。1993年に政界を引退したが31年に亘った政治家生活を振り返って、後世に自らを伝える事も意義あることと考え、敢えて刊行に踏み切った、とある。

参院時代、自民党国対委員長代行として採決強行の末に成立を見た大学紛争解決のための大学運営臨時措置法案の処理をめぐる真相を初め、関係する政治家が殆ど墓場に持て行ってしまった数々の緊迫する場面についてできる限り「本音」を吐露し、或いは暴露している。

有名な重宗雄三参院議長4選出馬断念の声明を執筆したのは当時NHKの政治記者だった渡部亮次郎君だったと、私も登場している。恥ずかしい次第だ。

栗原裕幸(くりはら ゆうこう)1920年6月5日、静岡県三島市に生まれる。1944年東京帝国大学法学部を卒業。学徒動員を経て戦後、静岡県農業会に就職。1962年以来静岡地方区から参院議員に2回当選。

1972年、衆院に転じ旧静岡2区から連続7回当選。旧池田派(大平、鈴木、宮澤派)に属す。1978年第1次大平内閣に労働大臣として初入閣。1983年第2次中曽根及び86年第3次中曽根内閣でいずれも防衛庁長官を務める。93年引退。

大学法案に始まり、沖縄国会、日中平和友好条約、大福提携から対立、雇用国会、大福40日抗争、防衛費のGNP1%突破、FSX交渉、リクルート事件、伊東正義の反骨など、栗原氏にしても引退後15年経ってようやく語れる話ばかりである。

いわゆる大福密約について片方の福田赳夫氏は「密約文書」の存在を著者で否定して逝去したが、私は連署者の1人である園田直氏からそれぞれ署名の入った現物を見せられている。

この動きについて大平側近だった栗原さんは「東京品川のホテルで福田、大平、保利茂、園田、鈴木善幸会談で大福提携が正式に決った夜、福田さんから私に電話があり『園田君から経過をよく聞いております。有難うございました』と丁寧なお礼の挨拶があった」として、事実を裏付けている。

従って、1978年5月25日大平氏としては総裁選に事実上の出馬表明はしたものの「大平さんは、この段階では、心中、福田さんは必ず自分に譲ると考えていた」。

「それは、先ず福田さんを先に総裁に推した事。保利、鈴木、園田の立会いの上で「2年で交替」という話を福田サイドが提案した事。福田さんと時折交わす話の節々などからいえばそう考えるのも無理は無い」。

しかし「福田側の見方は・・・懸案の成田開港、日韓大陸棚協定、日中平和友好条約などを処理し、福田内閣の国民的評価は高い。今更2年交替の古証文など馬鹿げている」

しかし約束は約束。それを破って喧嘩しようというのなら「やってやろうじゃないか」と怒ったのは大平派よりもロッキード逮捕後「闇将軍」と揶揄された角栄に率いられる田中派だった。

知将・後藤田正晴の陣頭指揮の下、一糸乱れぬ絨毯爆撃を展開。あっという間に形勢を逆転。福田氏は「天の声にもたまには変な声もある」との棄て台詞を吐いて退場。

したがって続く「40日抗争」は何のことは無い福田氏の私怨晴らしに過ぎなかったのだが、面子上、これを公憤に摩り替えたから自民党はあわや分裂の瀬戸際まで追い込まれたのであった。

こうした政局の舞台裏は殆ど明かされぬまま闇に消えるのが普通だが栗原さんは引退後15年にして突如344ページの大作を世に問うて舞台裏を敢えて明らかにした。

ほかにF−1の後継機FSXの開発をめぐる日米交渉の凄まじいまでの迫力ある防衛庁長官としての主張なども臨場感溢れる書き込みは、当事者が明かす事実だけに読んでいて緊張して来る。政局取材に当たるものの必読の書である。

さらに敢えていえば、これから防衛大臣たらむ政治家は政治の鑑として読むべきである。

内外出版株式会社は目黒区鷹番3−6−2
電話03−3712−0141

執筆:07・12・25

2007年12月25日

◆おでん風土記

                 渡部亮次郎

大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「K輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


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2007年12月24日

◆気高い「きだかい」

                   渡部亮次郎

2007年12月19日NHK正午のニュースでアナウンサーが気高い(けだかい)と読むべきを「きだかい」と読んだと呆れて電話があった。記者の先輩だった人からである。

気高いがなぜ「きだかい」になったのか理由は調べようがない。深夜便に出るようになった男のアナウンサーは股引(ももひき)を「またひき」と読んだことがある。

私がNHK国際局でデスクをしていた時、女子アナウンサーは民社党の春日「はるひ」委員長と読み、内科、外科(がいか)と読んでこっちを仰天させた。

アナウンサーとは難しい商売である。間違って覚えてしまっている言葉もあるかもしれないが、つい咄嗟に口を出てしまう誤りがあっても、聴取者には言い訳が利かない。因果な職業であり、同情する。

しかし政治家の日本語誤用は許されない。額賀福志郎財務大臣の言語道断を「げんごどうだん」には呆れた。彼は早稲田大学を出て産経新聞の政治部記者だった。角栄番から茨城県議を経るという経歴豊富な教養人であるはずが、様にならない。

論功行賞を「ろんこうぎょうしょう」と連発した大臣がいた。なんとかコンチェルンの一族だったが、どの学校で何を習ったのか、早くに死んだから恥を長く曝さないで済んだと言うべきだろう。

自民党のある国対委員長は「がっぽうてきてだん」をとって野党の議事妨害を排除するという。記者団はみんな首を捻ったが、長老があとで「合法的手段」と助けてくれた。

それ以前には本会議場(全議員が一堂に会する会議)での演説で「ここで水を飲む」とト書(とがき)まで読んでしまった代議士がいたそうだし、追加更正予算を「おいかさらまさよさん」といった代議士もいたそうだ。

以後は学歴も向上したからこうした話題は少なくなったが、額賀氏の「げんごどうだん」は久々の事だったので言語道断の日本語と話題になったわけだった。

しかしわが大臣も旗幟鮮明を「きしょく」鮮明というものだから
さぞかし外務省は陰で笑った事だろう。私も注意する勇気はなかった。殺陣(たて)をさつじんとも言った。

こういう話題は探せばいくらでもあるはずだ。しかも今は学歴は高いが勉強は全くせずに社会に出てくる子供が益々多くなっていることだから「きだかい」は序の口かと思う。多分「じょのくち」は分からないだろう。2007・12・21

2007年12月23日

◆所得倍増政策の頃

                    渡部亮次郎

産経ソウルの久保田るり子記者は「経済大統領」をアピールした李明博氏は、20代から30代の若者層の支持を集めた。特に20代の保守化現象は今回選挙の特徴だった、という。2007.12.19 22:46。

韓国青年たちの「政治理念よりも就職を」という主張を耳にするたびに思い出す事は、安保改訂反対で一時は自民党岸内閣を倒した大学、高校生たちが次に登場した池田勇人首相の「所得倍増論」でシュンとなった日本の1960年代である。

あれから50年近く経って韓国で学生たちは「88万ウォン世代」と呼ばれている。88万ウォン(約10万円)とは大卒にも拘らず非正規職にしか就けない大卒の平均給与額だ。

盧武鉉政権の経済運営の失敗は若年失業者を増加させ、大卒就職率は48%まで低下、若者層は革新政権に見切りを付けたのだ。「李明博氏圧勝の背景には88万ウォン世代の逆襲」があったのだ」との久保田記者の指摘には説得力があった。

10年前、金大中氏が大統領に当選したのは、朴正煕大統領以来の政治的締め付けに反発する若者の心が、共産主義体制への恐怖心を超越しても民主化に憧れる20代の心を捉えた。

ところが「韓国の20代はこれまで歴史的には過激で政治的だった。革命を求めて連帯してきた。ところがいまは脱政治で保守的で父母にも従順だ。

昔はアルバイトで生活できたが、いまは学費もデートも結婚も、父母に頼らないと生活できなくなったからだ」と禹●(=析の下に日)熏氏はいう。

韓国の非正規職従事者は約800万人、20代で公務員を含む希望の就職先に就けるのは約6%に過ぎないとの調査もある。

韓国経済は10年前の金融危機(IMF管理下)で構造調整を余儀なくされ、盧武鉉政権の大企業優先と公権力拡大の政策は企業の雇用創出能力を激減させた。その結果、経済成長率は約5%だが、大卒は就職難という構造的問題に直面しているのだ。

これについて半島問題に詳しい西岡力氏(東京基督教大学教授)は産経新聞(2007・12・21)の寄稿の中で「(青年の)保守化の流れを作り出した要員は第一に慮政権の無能力と失政だ」と断定している。

この政権が重用した人材は専門知識と実務経験の不足な左翼革命運動家出身だった。ために政策(の誤りから来る)朝令暮改、不正・腐敗蔓延などが繰り返されたという。

思い起こせばわが国の1960年、今考えてみれば岸信介首相の日米安保条約改訂は、歴史の流れに沿った真っ当な流れだった。それにも拘わらず、当時の日本社会党や日本共産党や総評は、安保破棄乃至廃棄に結びつけた大衆運動に繋げようとしてマスコミや学生を操った。

金大中や慮もまた膝を屈してでも北朝鮮と歩みを共にしようとして20代の青年を民族運動の観点から煽った。狙いは当初は当った。しかし戦略的には友好国日本や米国を仮想的視した結果、外資の投資が枯渇し経済が疲弊し、若者の就職先がなくなった。

投票年齢19〜39歳までの若年層の全投票者に占める割合は43・9%。この層が「就職問題を解決する」「経済を生き返らせる」と公約して、経済人としての実績のある李明博氏を支持したのは当然だ。

40代(22・5%)も李明博氏への支持が強かった。40代は盧武鉉政権誕生の原動力となった386世代(当時30代、80年代に民主化運動に参加、60年代生まれ)だ。5年前に進歩政権を選んだ、当時の盧武鉉支持層がそのまま李明博氏支持に回ったことになる。

世代論に詳しい高麗大の李名鎮副教授(41)は「若年層の保守化は同時に新しいものへの志向でもある。李明博氏のような政治家は、韓国の既存の政治家にはいなかった。

盧政権の選択は反エリートだったが、李明博氏は過去の政治へのアンチテーゼで、経済回復と発展への選択ともいえる」と分析している。

安保闘争のときの1960年6月も高度経済成長など想像もできない貧しい時代だった。政治のスローガンに「経済成長」を掲げる首相はどこにもいなかった。

しかし倒れた岸の後に登場した池田が「所得」を話題にするや否や国民、若者もまた雪崩を打つように「倍増」に群がったのだった。

それを考えれば韓国は怒るかも知れないが、これから「理念」よりも「実利」「所得」の歩みを始めるのではなかろうか。いうなれば韓国は「金大中」に漸く別れを告げたのである。文中敬称略。2007・12・21

2007年12月22日

◆薬害肝炎訴訟団の不条理

                  渡部亮次郎


薬害肝炎弁護団HP
http://www.hcv.jp/1126opinion.html
 
全国原告代表
『わずかな原告しか登れない登山道を350万人が登り、頂きにたどり着けるはずがありません。

薬害肝炎全面解決のために、一般肝炎対策実現のために、今後も
闘っていきます。切り捨ては許しません。』
 
大阪原告代表
『この訴訟はウイルス性肝炎患者350万人の恒久対策を獲ち取るための闘いであるといいわれ、原告はその代表であると、私も肝に銘じて闘ってきました。』
 
九州原告
『責任をもって350万人のウイルス性肝炎患者救済のための道筋を作ることが、私たち薬害肝炎原告団の役割だと思っています。』
 
薬害肝炎九州弁護団 弁護士
「この薬害肝炎訴訟の中で、1人でも切り捨てを許すことは、実は、加害に加害を重ねることだ。

国や製薬会社に1人でも切り捨てをゆるすこと、あるいは、裁判所に1人でも切り捨てを許すような線引きをしようとすることは、犯罪であるということを、私たちは多くの国民の皆さんに訴える」。

そこで問題発生を時系列に整理するとこうなる。

(1) 当該血液製剤開発〜1985年
1977年アメリカでB型肝炎ウィルスが原因でフィブリノゲンの販売禁止。

だが日本ではB型肝炎は不活性化されていたため販売継続。(ここを知らない、または意図的に混同している人が多い。)

ちなみにこの不活化処理がたまたま存在が知られてなかったC型にも効いていた。

(2) 1985年8月〜
それまでB型肝炎不活化処理に使っていた物質に発ガン性が発見され使用禁止に。しかも偶然、新しい方法ではC型肝炎を不活化できなくなった。

1987年 血液製剤由来と思われる非A型非B型の未知の肝炎の集団発生を受けて厚生省とミドリ十字が調査開始。

調査中の感染拡大を懸念し原因は不明な段階ながら予備的措置として過熱化を決定。

1987年4月20日 ミドリ十字 非加熱フィブリノゲン自主回収開始。1987年4月30日 厚生省 加熱フィブリノゲンの製造承認。

(3) 1988年5月〜
1988年5月 厚生省 加熱フィブリノゲンの回収等を決定。
1988年6月 ミドリ十字 各医療機関にフィブリノゲンの返品を要請 。

(4) 1989年 アメリカでC型肝炎ウィルス発見。


米国FDAですら規制していなかった以前の肝炎まで全て一律救済しろは、さすがに無理である。
「薬害を批判していながら、未承認薬の認証を早く求めるのは矛盾である。マスゴミはこの事は指摘しない。
 
さらに問題なのは、今回の「FDAの規制以前の患者まで一律救済」
を認めたら、一切、新薬を認証できなくなる恐れがある。
 
他の病気の患者が、最新の薬が使えなくなり、話題の万能細胞
の治療も、将来日本だけ普及できなくなる危険性がある。

政府は、FDA規制以前の患者に休載の金を出さないとは言っていない。和解金としてではないが、基金からきちんと金を支給すると
言っている。
ただ、「FDA規制以前の患者まで国の責任にするな、これから
医療行政が動かなくなるから」ということである。

ハンセン病の補償の時は、政府は裁判所の和解案に従った。今回も政府は裁判所の和解骨子案に従っている。
 
患者団体側の主張「FDA規制以前の患者まで一律救済」は、
話が飛躍している。
 
しかもマスコミは印象操作をして、政府がおかしいと言っているが、
政府は法治国家の三権分立に従っているだけである。批判するなら、そういう和解骨子案を出した裁判所を批判すべきだ。
 
どう駄々こねても、裁判所の和解案から大きく外れた飛躍をするわけにはいかない。首相の一存でそんなことができたら、それこそ法治国家ではなくなる。

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2007年12月21日

◆朝鮮半島非核化へ決意

                渡部亮次郎

<【ソウル西脇真一】韓国大統領選挙で当選した野党ハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)前ソウル市長(66)は一夜明けた20日午前、ソウル市内で記者会見した。

「核のない朝鮮半島平和時代を必ず切り開く。南北間で今、最大の懸案は北朝鮮に核を廃棄させることだ」と語り、朝鮮半島の非核化実現に強い決意を示した。李氏は来年2月25日、第17代大統領に就任する。

李氏は「国民は理念ではなく実用(主義)を選んだ。成長の恩恵が庶民と中産階級に届く新たな発展体制を開く」と、改革を断行して経済成長を推進する考えを示した。

「建国、産業化、民主化を経て今や、先進化へと進まなくてはならない」と述べ、新たな国家建設に着手する意向を明らかにした。

中央選管が20日未明発表した選挙結果(開票率100%)は、李氏と次点だった大統合民主新党の鄭東泳(チョン・ドンヨン)元統一相(54)との得票差が531万7708票で得票率差は22・6ポイント。過去8回行われた直接大統領選の中で最大の得票差だった。> 12月20日11時33分配信 毎日新聞

李明博氏は就任まで2ヶ月あまりも待たなければならない。その間政敵は陰に陽に妨害に走るし、狂信的なものは暗殺を企てる危険も否定できない。

韓国では朴正煕大統領が現に側近にとはいえ暗殺されたし、その前に起きた在日韓国人文世光による暗殺未遂事件(夫人が流れ弾で死去)は陰に北朝鮮=朝鮮総連ありと噂されたものだ。

特に今回は10年ぶりの政権交代であり、その分、10年間、得をして来た左翼の連中は利権を一挙に失うわけだし、北は「最大の懸案は北朝鮮に核を廃棄させることだ」と語られては何をするか分からない。身辺を十分、警戒すべきだ。

1968年1月21日未明、朴正煕韓国大統領暗殺未遂があった(青瓦台襲撃未遂事件)。北朝鮮の特殊部隊31名が朴大統領暗殺を企てソウル市内に侵入、銃撃戦により阻止された。

私は1977年6月、訪韓した際、襲撃隊員のたった1人の生き残りと会見したことがある。ソウルは電気もない貧しい街。襲撃は必ず成功すると教え込まれてやってきたが、未明に南山から市街を覗くと輝くばかりの夜景。「しまった、東京へきてしまった」と隊長が呟いた、と言っていた。

ところで「暗殺」はいつの時代にもある。古今東西変わらない。
1979年10月26日 韓国・朴正煕大統領、暗殺される。KCIAの金載圭部長による(10・26事件)。 それ以来現在までこれだけつづいている。何時あってもおかしくないのだ。

1980年9月 ニカラグア前大統領のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ、亡命先で暗殺される。

1980年12月8日 歌手ジョン・レノン暗殺。犯人はマーク・チャップマン。ジョンをNYのダコタ・アパートに訪ね、イタリア街でご馳走になってから2年と経っていなかった。

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2007年12月19日

◆加瀬俊一氏の再登場

                  渡部亮次郎

日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特に民主党の小沢一郎代表が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10恃55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

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2007年12月18日

◆久間章生さんの復帰

渡部亮次郎

初代防衛大臣久間章生(きゅうま ふみを 衆院長崎2区 当選9回 勤
続27年 67歳)氏は「解離性大動脈瘤」の大手術を無事終えて、早くも
12月13日夜、千代田区内の会場で開かれた地元出身者中心の会合に元気
な姿を見せた。

出席者の話によるとこの会合は入院前に決まっていた「久間章生君を囲
む会」でルポール麹町ロイヤルクリスタルで開かれた。

この夜はたまたま「関東長崎県人会(赤坂プリンスホテル)」とダブっ
ていたので参加者が少ないのではと心配されたがた、参加者約150人で主
催者をほっとさせた。

少し遅れて久間代議士が到着、挨拶した。出席者によれば久間氏は次の
ような趣旨のことを述べた。

「東京・府中市の榊原記念病院で『解離性大動脈瘤』という難病の大手
術を受けた。午前中から始まり翌未明まで15時間にも及んだ。

心臓をいったん人工心臓に置換え、本物の心臓を3時間の期限以内に処
置するという難手術。しかし石原裕次郎が死んだ頃と段違いの医療技術
の進歩のおかげ」と説明。

防衛省等の「不祥事」については「すべて堂々と受けて立つ。やましい
ことはない」「政治家が『この企業は立派な企業だ』と紹介するのは当
然のこと、その先に(『発注せよ』などという)行くのはいけない。

私は脇が甘いと言われているらしいが、そこのところの節度はきちんと
している。そのつもりで、今後ともよろしくお願いしたい。明日から活
動は開始するが、年内静養しながら、来年は本格的にがんばりたい」と
報告。

報道陣は(代議士と親しい)2人だけ。カメラを回ししっかりインタビ
ューをしていたそうだ。2007・12・14

(上記関連原稿)

◆「裕次郎の死因は肝臓癌」
                石岡 荘十(ジャーナリスト)
上記1028号で本メルマガ主宰の渡部亮次郎氏が、「初代防衛大臣久間章生(67)氏は「解離性大動脈瘤の大手術を無事終えて、13日夜、会合に元気な姿を見せた」と伝えているが、この夜の久間氏の言葉には幾つか誤解を与える文言がある。

この記事の中で書かれているように、病名、解離性大動脈瘤が話題にな
るたびに、石原裕次郎のケースが関連して話題となり、久間氏も「石原
裕次郎が死んだ頃と段違いの医療技術の進歩のおかげ」と説明したそう
だ。

結果、裕次郎の死因が解離性大動脈瘤だったという印象を与えるが、裕
次郎の死因については誤解がある。久間氏だけでなく、このことが話題
となったとき、私の友人に訊いてみると、そう思っている人が少なくな
いようだった。

誤解はそれだけではない。

久間氏は解離性大動脈瘤を「難病」だったと思っているようだが、正確
に言うと難病とはいえない。

難病については、昭和47年の難病対策要綱に、「原因不明、治療方針未確
定であり、かつ、後遺症を残す恐れが少なくない疾病(後略)」と定義さ
れている。解離性大動脈瘤は原因不明の病気ではない。

ただ手術は、人工心肺装置を用いた体外循環を行い、心臓を停止させた
り、脳への血流を一時的に遮断したりして、破裂している血管、或いは
破裂しそうな血管を人工血管に置き換える大がかりなものだ。

離性大動脈瘤のタイプ、緊急かどうか、破裂しているかどうかによって
危険性も違ってくる。ほとんどが緊急であり、血管の壁も弱くなってお
り、手術の危険性も高くなる。

心臓血管外科専門医を認定する認定機構がA,B,Cの3段階に分類している
心臓手術の難易度でも、「C」つまり「最も難しい手術のひとつ」とはさ
れているが、難病の定義でいう「治療方針が未確定」の病気ではない。

先に京都大学医学部心臓血管外科部長を退官した「ゴッドハンド」を持
つといわれる米田正始医師も、「この病気は手術しないと発症2日間で
約半分が死亡し、1週間で8−9割が死亡 する恐ろしい病気ですが、手
術すれば、経験豊かなチームなら95%以上の確率で救命できます。

ただし手術前に心臓がすでに止まっていたとか、全身が厳しくやられて
いたなどの場合は救命できないことがあり、速やかな治療がそれほど重
要 なわけです。もし久間氏がまずまず良い状態で手術に間に合っておら
れれば、榊原記念病院(東京・府中市)の チームならおそらく大丈夫で
はないかと思います。もし現時点でとくに問題なければ予後はまずまず
良好です」とコメントしている。

私の友人の奥さんも、最近、大和成和病院(神奈川・大和市)で手術を
受けたが、術後の経過は良好だ。

なお、病名は「大動脈解離が正しいものと思われる」と元教授は言って
いる。

もうひとつ、久間氏は「心臓をいったん人工心臓に置換え----」と言っ
ているようだが、多分、「人工心肺装置」の間違いではないかと思われ
る。人工心臓はまったく別の心臓病治療のため、心臓を切除して体内に
埋め込まれる人工臓器である。人工心肺は、弁膜症で弁置換手術のとき
にも使われる体外循環のための医療機器で、私もその経験がある。

さて石原裕次郎の死因である。

12月16日(金)放送されたNHKの「プレミアム10」で、まき子夫人(北原三枝)は山根基代さん(前NHKアナウンサー室長)のインタビューに応えて、「解離性大動脈瘤の手術は成功したが、その後、肝臓癌であること
が分かった。死因は肝臓がんだった」という趣旨の話をしている。ただ、
「本人には告知しなかった」とはっきりと答えている。

ほとんどの心臓疾患はいまや、治療法があり患者は助かる。ただし大動
脈解離のような手術の危険性の高い病気の手術は“名医”でなければ手
に負えない。しかし、癌治療法は名医であってもいまだそのレベルには
達していない。

なお兄の石原慎太郎東京都知事は著書『弟』の中で、「若い時の深酒が
早世の遠因になった」と書いている。その深酒の季節が、そこまで来て
いる。2007.12・16


2007年12月14日

◆徒ならぬ福田・小沢関係

                    渡部亮次郎

事情通に言わせると、民主党小沢一郎代表氏。中国ゴマスリ遠足から帰ってから元気がないという。

また週刊新潮は13日発売の2007年12月20日号でこてんぱん。「中国の“皇帝”に卑屈な態度で拝謁した小沢氏。が、開会中の国会を無視して強行した訪中に見るに耐えないと党内からも批判が噴出」と厳しく4ページに亘って笑われている。

これでは従(つ)いていった国会議員連中ですら、選挙のことを考えれば行かないほうが良かった?

捜査が政界ルートに向かって進展中とされる防衛省過剰接待事件。十何年前、自民党当時、田村秀昭空将を参院議員に仕立てるために山田洋行の宮崎専務(当時)との間に金銭の授受が噂されたものの「時効」で救われた言われたものだ。

ところが、経緯を熟知する人物に言わせると、「時効になっていない部分がある」と言い、小沢氏が自民党を抜け、さらに民主党に加わってからも防衛庁(当時)の事務官をめぐって田村氏の時と同じような事をして、東京地検が嗅ぎまわっているようなことを言う。

つまり今度の事件で或いは地検に呼び出されるのではないかとマスコミが追い回しているこの人物に言わせると、小沢氏は民主党へ行ってからも防衛利権と繋がっていた証拠だというわけである。

このことに関しては2007年11月上旬ごろ変な情報がインターネット上を流れた。

<ああいう利権から得たカネというのは、日本国内で保管するから表沙汰になって地検に把握される。山田洋行の1億を当時専務だった宮崎(日本ミライズ社長)が使い込んだとかいう話は、アメリカにあっても日本企業だから出た話。

そもそも湾岸戦争時に1兆円もの特別会計が組まれたが、ああいう防衛利権は海外で”食う”から、日本ではまず表に出ない。過去の報道をくまなく分析・調査すると、○○が海外に隠し資産を持っていることはもはや暗黙の了解、政界の常識と言っていい>というものであった。

この情報を流した人物は「従って福田首相と小沢代表の会談は連立や政策協議もさることながら、本筋は防衛利権捜査の行方をめぐるきわどい取引が主テーマと断じていた。憶測ではないとは言うが、あまりにも大きな話ではある。

ところで2人の党首会談をめぐる自民、民主の「大連立」話。どうもあれで終わったとは思えない。そんな単純なものではなかったはずだからである。

それは小沢のハラが元々政界再編成による大保守政党の編成にあると見るからである。小沢の魂は、菅や横路との心中にあるのではない。公明抜き保守の再編成にあると見るからである。

田中角栄に引き立てられて育った小沢一郎。旧田中派で金丸信をめぐる野中広務との対立から派内に居られなくなり、遂には脱党した。その結果新党を立ち上げて細川内閣を作って自民党を公明党に売り渡すこととなった。

しかし、これは小沢の本意では絶対無いはずである。小沢こそは保守政治の真髄に迫って行く政治家であるはずだ。だから角栄が本物に育て上げようとしたのである。金丸が目を掛けたのである。

多くの人は福田・小沢会談は過去のものと思っているが、私は小沢が最終的な大保守合同への野望を棄てるはずは断乎として無い、と思うものだから回線は繋がったままだと思う。2007・12・13

2007年12月13日

◆韓国中興の祖 朴大統領

                   渡部亮次郎

朴正煕パク・チョンヒ 大韓民国第5〜9代大統領(963年10月15日―1979
年10月26日 )盧武鉉現大統領はじめ誰がなんと言おうと近代韓国の基礎
を築いた最大の功労者である。

1963年、大統領に就任するや、国家主導で産業育成を図るべく、経済開
発院を設立した事を手始めに、財閥や国策企業を通じて、重工業にベト
ナム参戦により得たカネ、モノを重点的に投入した。

園田直さんによると、青瓦台(大統領官邸)の地下1階のトイレのドアが
閉まってなかったといって衛兵にビンタを食らわしたそうだ。

国家主導で産業育成によって作られた代表的なものに、日本の八幡製鐵
所をモデルとした浦項製鉄所がある。また「日本経済の急成長の秘密は
石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。

この結果、日本との国交が無かった1961(昭和36)年には国民1人あたり
の所得がわずか80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620
ドルといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるとい
う「漢江の奇跡」を成し遂げた。

工業化にある程度成功したころには農業の遅れが目立つようになり、そ
れを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の
近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。

中央情報部長・金載圭は朴正煕大統領の古い友人だったが、学生運動の
弾圧が生ぬるいとして無能をしばしば叱責され、ライバル関係にある車
智!)警護室長からも攻撃を受けていた。

このため、金載圭は両人の殺害を計画するようになった。1979年10月26
日、ソウル市宮井洞の中央情報部所属の秘密宴会場で大統領らと晩餐を
共にした。

その際、反政府学生らが釜山の米国文化館を占拠した事件について大統
領が責任を追及し、車智!)室長が批判を加えて来ると、金載圭は晩餐会
場から出て直属部下の朴興柱・朴善浩に銃声がすれば控え室の警護員を
射殺するよう指示した。

晩餐会場に戻った金載圭は朴正煕と車智!)にそれぞれ2発撃ち、銃声を聞
いた朴善浩らは大統領府警護員らを射殺した。晩餐会場には大統領府秘
書室長金桂元や女性ホステス(有名歌手と女子大生)もいたが、無事だっ
た。

間もなく金載圭らは現場を脱出したが、緊急国務会議で逮捕令が出され、
27日午前0時40分に大統領殺害犯として逮捕された。

その直後に全国に非常戒厳令が敷かれ、陸軍参謀総長鄭昇和大将が戒厳
司令官に就任した。捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した保安司
令官全斗煥少将によって進められ、金載圭とその部下らに死刑が宣告さ
れた。

ちなみに、次期大統領となる崔圭夏は事件の一報を耳にしたとき、「金
日成がこの事を知ったらどうなることか」と涙ながらに語ったという。

この事件により、韓国では第四共和国体制が終了し、第五共和国体制へ
移行していく。

2007年現在の大韓民国においては政治的な事情もあり評価は各人の立場
においてまちまちではあるが、一般論においては、政治面では目的の為
には不当な手段のも厭わないものの、私人としては清廉であると評価さ
れつつある。

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開
発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判されつづけていたが、民主
化後その達成感によって運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになっ
たと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」
と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。

政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正
煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという
声が高くなっている。

独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であり、ネポティ
ズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世
を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるともい
われる。

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身
の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕
を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民
主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因とな
った。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済
格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東
アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。

経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむし
ろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず
人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

批判的な見地からは独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配に
おける対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委
員会の名簿に記載された。

2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下
反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍
士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終
的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとな
る)という一幕もあった。

朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝國
の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは
歴史家によって意見がまちまちである。

1999年にはアメリカの雑誌『TIME』で「今世紀もっとも影響力のあった
アジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。

出生:1917年11月14日 なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があ
るがこれは旧暦での表記であり実際には上記の日にちが正しい。死去
:1979年10月26日

朴 正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日―1979年10月26日)日本語読
みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(-1945年)。ハンナラ党代表
の朴槿恵は長女。

植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡亀尾(グミ)(現在の亀尾市)で生ま
れた。貧しい農村部家庭の5男2女の末子であった。

父親は科挙に合格したが、日本によって韓国が併合された後に没落し墓
守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は
苦しく、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」
と語っていたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2007年12月09日

◆宮澤ダメ、角栄OK

                  渡部亮次郎

1970年代、日本最大の関心は沖縄の返還であったが、アメリカのそれは日本からの繊維製品の過剰輸出であった。当時は佐藤栄作内閣。先に突然、政権を投げ出した安陪晋三の大叔父に当る。

ことの発端は、1969年1月、アメリカ大統領ニクソンが、自らの選挙期間中に、繊維産業保護を公約したことだ。

これに基づいて、スタンズ商務長官が日本に来て、毛・合繊製品の対米輸出規制の協定締結を要請した。

7月に開かれた日米貿易経済合同委員会では、アメリカ側が公式に繊維製品の対米輸出の自主規制を求め、ここから「日米繊維問題」の政治化が始まった。

ニクソン大統領の大票田である南部の繊維業者の突き上げもあって、強硬なものとなった。しかし日本では、大屋晋三当時「帝人」社長を会長とする日本繊維産業連盟が結成され、貿易自由の観点から譲らなかった。

政府でこの問題の対処に当ったのは宮沢通産大臣。東大出で、外交官試験にも通った俊才。佐藤は彼を官房長官に抜擢しようとして派閥幹部の田中角栄に阻止された事がある。だから難題の日米繊維交渉への期待は大変なものだった。

71年の田中通産大臣の時まで日米の妥協点には至らなかった。

2005年に出版された「宮沢喜一回顧録」(岩波書店)でまず宮沢氏は佐藤首相が繊維問題についてどのように考えているのか、ということに関して次のように回想している。

<おそらく佐藤さんとしては、沖縄(返還)という大きな国益のために、殊に日本の繊維業界がアメリカをそんなに困らせているのなら、それは規制するのが国益に合うと考えられたのだろうと、私は想像します。・・(中略)・・

実際問題としては、法律問題は突っ切るとしても、行政としては、業界が横を向いていれば一切動かない。1つひとつの品物を押さえなければならない。しかしそういう事を佐藤さんは、無理もないけれど、ご存知でなかった。>(p.243)

このような佐藤首相の意を受けて、宮沢氏は通産大臣になったわけだが、通算省・産業界が共に反対していた中で、宮沢では解決できなかった。

<形としては、私は自分なりの哲学でいろいろやってみたけれど、それは結局この問題の妥結には持ち込めず、田中通産大臣が千何百億という金を出すという決心をすることによって、最終的に業界が泣き止むという経緯をとったわけです。>(p.253)

この「千何百億円を出す」(正確には2000億円の補正予算)という政策は田中通産大臣だったからこそできた荒技だが、とにかくこういう荒技をもってしなければ問題を解決しなかったのである。

宮澤に出来なくて田中角栄に出来たわけとは何であったか。国の財布を握っている大蔵(当時)官僚の肝を田中が握っていたからである。2000億円ものカネを一気に出させる人脈を大蔵省の持っていたが、宮澤には何も無かった。

角栄になくて宮澤にあったのは哲学である。日米繊維交渉を哲学で考えたのが宮澤。しかし田中は哲学は無関係だった。「要するに解決すればいいんだろう? 日本の繊維業者を納得させるのは哲学なんかじゃない、カネだ」。

糸(繊維)が解決しなければ縄(沖縄)が還ってこない。来なけりゃ親分(佐藤)が倒れる、佐藤が下手な倒れ方をしたら、後釜を狙う俺(田中)が困る、だから糸はオレの問題なのだ。それだから2000億を工面(補正予算編成)してくれ。

ハイ分かりました、という大蔵官僚。そのために何年にも亘って小遣いを配ってきた。池田内閣時代、小学校しか出ていないオレがこともあろうに大蔵大臣になり、それを支えてくれた大蔵官僚がいればこそ、ここまで来られた。その浪花節で糸は解決し、縄は還って来た(1972年5月15日)。

先立つ1月の日米首脳会談に佐藤首相は外務大臣福田赳夫のほかにわざわざ通産大臣田中角栄も帯同。旅行中に「福田を先に総理をやらせろ」と田中を口説く心算だった。

ところが自分の選挙公約を2日前に果たしてくれた田中をニクソンは大歓迎。食事では脇に座らせる気遣いまで下。これでは佐藤のほうが挫けた。これで田中は勢い付き。遂に7月には福田を蹴落とし佐藤の後釜に座った。

よくよく考えてみれば、宮澤が哲学的にコトに当って失敗した事から角栄が政権を獲得できたようなもの。角栄の恩人は宮澤である。だが角栄は口の利けるうちは「宮澤を総理にしてはいけない。あれは秘書官は勤まるが総理大臣は務まらない」といい続けた。

「要するに解決」が哲学の無い田中の哲学だった。そのためにした事は官僚を手馴付ける事だった。今日康夫内閣を苦しめている独立法人改革の足踏みも遠因は角栄に遡る事は確かである。旧田中派のお陰で政権を握った康夫だが、角栄に苦労しているとは、皮肉の限りだ。文中敬称略。2007・12.08