2011年01月27日

◆ダグラス・マッカーサー

渡部 亮次郎

1月26日は敗戦後の日本を占領軍代表として支配したダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)の誕生日である。1880年1月26日 生まれ。先祖はイギリス貴族。逝去したのは 1964年4月5日、享年84。

1945(昭和20)年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。

「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。

この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」朝日新聞(1945年8月31)

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在した。朝食に社屋に目玉焼きを注文したが、昼になってやっ1個だけの卵焼きしか出なかった。

降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談をした。この会談に先立ってマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは、玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取った。

その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国軍と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。

「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。

マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。

マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。

この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。

結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、それは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。

第2次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。
 

6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶・飛行機の手配をした。国連軍としてはイギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍やベルギー軍なども展開した。

28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。

7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第8軍を援軍として派遣したほか、イギリス軍も追加派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、軍部の殆どが反対を表明、国防総省からシャーマン海軍作戦部長を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。

この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これはマッカーサーの名声と人気を大きく高め、9月には早くもソウルを奪還した。

その後マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上するものの、トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。

しかしマッカーサーは「中華人民共和国の参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

その結果、中華人民共和国に過度に警戒心を抱かせることとなり、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」の参戦を招くに至った。その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。

1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。

このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。

しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」としてこの意見を退けた。

マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視して北上を続けたために、中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。

マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。

副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。

内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」。

マッカーサーの更迭については、日本の行き過ぎた非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。

また、吉田茂の日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に東京国際空港から離日した。

退任演説を行うマッカーサー1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下両院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。

マッカーサーは最後に、ウェストポイント陸軍士官学校にマッカーサー自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Oldsoldiers never die; they just fade away.)」と言い、有名になった。

この歌には何通りかの歌詞があるが、要約すると「遠くにある古ぼけた食堂で、俺たちは一日三度、豚と豆だけ食う。ビーフステーキなんて絶対出ない、畜生、砂糖ときたら紅茶に入れる分しかない。

だから、おれたちゃ少しずつ消えていくんだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。二等兵様は毎日ビールが飲める、伍長様は自分の記章が大好きだ。軍曹様は訓練が大好きだ、きっと奴らはいつまでもそうなんだろう。だから俺たちはいつも訓練、訓練。消え去ってしまうまで」という痛烈なものである。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨーク市のマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに高齢で支持を得られず断念し、同年レミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。

1964年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が参列した。

筆者は小・中学生の頃。当時は事実を全く知らなかった。こうやって見ると元帥にのぼりつめていたとはいえ、軍人としては多くの判断ミスを重ねている。人間とはこんなもんだろうか。
(「ウィキペディア」)2010・1・25

2011年01月25日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎

こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」として、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに現金を詰めて運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さんは「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露して私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出るわけもない。やはり中央のせいかいである。私に教えたのは政界の、それも実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すのが普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、昭和30年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが角福戦争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙だっ
た。

しかし、福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるという。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎である。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。

(文中敬称略) 2011・1・24


2011年01月23日

◆金持ちは吝嗇(ケチ)

渡部 亮次郎

「金持ちが金にこだわらないと考えるのは貧乏人の考えることだ」と諭(さと)したのは故田中角栄である。その大した遺産を相続した金持ちが真紀子なのだから、真紀子はケチで当然である、と角栄は教えているようなものだ。

昔から世間は人間は得意技で失敗すると教えてきた。得意技にその人間は慢心するから、つい油断と隙ができるのである。貧乏から出発して巨万の富を築いた角栄も得意技のカネ造りを立花隆に暴かれて、首相の椅子を投げ出した。それから云ったのが貧乏人の考え云々の科白である。

「なぜなら金持ちはカネを放さない、ケチだから金持ちになるんだ。金持ちはカネが好きだ。いくらあっても足りない。だから金持ちほどカネにこだわり、カネを欲しがる者はない。

それを金持ちはカネに鷹揚だろうと考えるのは貧乏人の考えることだ。お前のように手にしたカネをすぐ使ってしまうような人は絶対カネ持ちにはなれないよ」。 直話である。

角栄が貧乏に育ったとは周りがいっていることで、本人は如何に貧しかったかなど説明したことはない。父は馬1頭を売って大学にやらしてくれたと宗男はいったが、角栄にその種の逸話はない。

しかし上京後、どうやってカネを作ったかは、時々語った。とくに金脈が「文芸春秋」に暴かれての記者会見で「たとえば他人の土地の隣に土地を買い、石油缶を終日叩けば、隣の人は逃げだしてその土地が安く手に入る」と明かした。もう辞めざるを得ないとはいえ、総理大臣たるものの語ることではなかった。しかし真実だった事は間違いない。

そうやって田中家に財産が残った。真紀子の稼いだものは鐚(びた)1文ありはしない。真紀子は稼ぎ方を知らず、これをただ守って行くしかない。それなのに相続税という名のカネがまるで泥棒のように私から富を奪って行く。

それを補う筈だった数々の会社もなんだか赤字続きでさっぱりだわ。家計を維持し、元総理大臣家の体面を保つための現金収入がどこかにあるの、ないわ。

秘書なんて私の使用人よ、月給をいくらやろうが、やるまいが、私の自由じゃないの。ネコババはこうして成立した。まさに金持ちはカネが必要だったのである。

莫大な(と思うのは貧乏人の考えだが)遺産を相続した真紀子が秘書の月給をねこばばするわけがない、と考えたのは貧乏人の考えだったのだ。

だから真紀子としては証拠の書類などある訳もなく、仮にあったとしても絶対公開することはできないのである。大泣きして辞めたことのある社民党の女性代議士と同じ罪を犯しながらまともに罰せられないのは、自民党内にまだ角栄の怨念が棲みついているからである。

そう考えると、国会にはカネ持ちといわれる人はたくさんいるから、秘書給与のねこばばは、ほかにももっとあるはずで、暴かれることを恐れた先生から突如穴埋めのカネを時ならぬボーナスとして受け取った秘書もいたかもしれない、と考えるのも貧乏人の考えかな。 (敬称略)
2007.02.16  (再掲)


2011年01月21日

◆民主党の「お荷物」小沢

渡部亮次郎

<小沢元代表 政倫審「拒否」

民主党の小沢一郎元代表は20日午前、自らの政治資金問題で衆院政治倫理審査会(政倫審)の土肥隆一会長が求めていた通常国会冒頭の政倫審出席について、事実上拒否する考えを伝えた。

岡田克也幹事長ら執行部はこれを受け、政倫審での小沢氏の招致議決に踏み切る方針。ただ野党側の反発に配慮し、議決は24日の国会召集日以降に先送りした。

執行部は議決の方針は維持しており、同党は政倫審委員から小沢氏系の議員を排除するなど、単独議決に備える一方、小沢氏が強制起訴されれば、離党勧告などの処分に踏み切る方針だ。>
(毎日新聞 1月20日(木)10時22分配信)

政権奪取の最大功労者が、まるで政権党の「お荷物」か湿った「不発弾」みたいになってしまった。ご本人は「チャーチルになる」と言っているそうだ。70過ぎて首相に返り咲いたのにあやかろうとしているのだろうが、端で見るところ、前途遼遠だ。

わたしは小沢の選挙区たる岩手県で政治記者を4年経験した。だが知っているのは先代の小沢さん。その頃の一郎氏は多分、学生だったろう。その後、岩手を後にしてから先代が急逝したので、自動的に一郎が二世代議士になった。

親父さんは藤山愛一郎派だったが、一郎は田中角栄の世話(カネ)になったので、後の田中派に所属。角栄は一郎に幼くして死んだ息子(正法=まさのり)の成長した姿を見る思いで可愛がった、という。

だが、これは田中の秘書だった早坂茂三が、でっちあげた「伝説」らしい。角栄の引退で行き場を失った早坂が、次に擦り寄るべき実力者一郎を大物に見せるための作文だった。生前の早坂の述懐である。

角栄は大金を集めたが、散財も激しかった。その結果、自民党の大方を手中にし、ライバル福田赳夫を完膚なきまでにやっつけて総理総裁になり「今太閤」とまで言われたものだ。

しかし角栄や金丸信に可愛がられたとはいうものの、カネの使い方は習わなかったのか。土建屋と公共事業を「操作」してカネを集めたようだが、使う相手は自分だけ。更に党のカネすら私したと噂するものさえいる。これを東京地検が暴けなかった。だから俺は潔白だと嘯き続けている。

父親はカネには執着したという噂はない。それなのになぜ息子は蓄財に夢中になるのか。「いや、親が執着できないほど実はカネに不自由したから、敵討ちをしているのだ」と言う人もいる。

この問題については検察審査会の主張が通って、1月中にも強制起訴されるから、真相が明らかになるだろうと言う人がいるが、プロの特捜部が寄ってたかって洗っても起訴できなかったものを、弁護士たちが有罪に出来るとは思えない。何年かけても無駄だろう。

菅はじめ民主党の幹部たちは小沢を追い出せば内閣や民主党の支持率が急上昇すると思い込んで「しゃかりき」だが、わたしは小沢切りを仮に断行できたとしても支持率回復は不可能だと思う。国民は今や、政権交代は失敗だったと反省しており、鳩や菅が無能力なことを見抜いているからである。

小澤は離党も脱党もしない。これをやっても従(つ)いてくるものが皆無であることを知っているからである。1人1区の小選挙区制度の下で、政党の公認を取れなければ落選する以上、離党は自殺行為だからである。

それにしても小澤は竹下派を出て政界の孤児となりかけながら、遂に政権交代を実現、民主党の大恩人と成るべきが、いまや「お荷物」か「湿った不発弾」になってしまった。

「チャーチル」になると言っても、自身、あまりにも薄汚れてしまって魅力が無い。強制起訴される公判に何年が費やされるか知らないが、裁判ストレスは、それでなくとも弱っている心臓には酷く響くことだろう。(文中敬称略)2011・1・20

◆本稿は、1月21日(金)刊「頂門の一針」2160号に
掲載されました。他の卓見をご拝読下さい。

◆<2160号 目次>
・民主党の「お荷物」小沢:渡部亮次郎
・鳥越俊太郎さんは間違っている:岩見隆夫
・私の感覚が間違っているのか:阿比留瑠比
・花岡信昭氏の地頭(ヂアタマ)論 に附して:上西俊雄
・「安易な『胃ろう』やめては」に賛同:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2011年01月19日

◆小沢を怖がる岡田幹事長

渡部 亮次郎

<民主党 執行部、離党勧告視野に攻勢 小沢氏処遇山場へ

民主党執行部が週内にも強制起訴される小沢一郎元代表の処遇について、離党勧告も視野に攻勢を強めている。参院で問責決議を受けた仙谷由人前官房長官の交代に踏み切った菅直人首相は、24日召集の通常国会をにらみ、障害となりかねない小沢氏の処分に焦点を定めた。

小沢氏側は離党拒否の構えを見せており、首相と小沢氏の攻防は週内に山場を迎える。

民主党の岡田克也幹事長は菅再改造内閣の発足に伴う民主党役員人事で、常任幹事会のメンバー差し替えに着手した。小沢氏に離党勧告を出すには党幹部がそろう常任幹事会の決定が必要。「小沢切り」の局面に備え、約30人のメンバーを執行部寄りの顔ぶれに替える動きが加速している。>【毎日新聞 1月18日】

それもこれも幹事長岡田克也がだらしないからである。幹事長の癖に自称一兵卒でしかない小沢を呼びつけることもせず、党職員を通じてお伺いをしている始末だ。前代未聞の醜態だ。

自民党時代、幹事長は、総裁(党代表)の同志というよりは、ライバルの色彩が濃かった。福田赳夫に対する幹事長大平正芳はコンビというより強烈なライバル。したがって党運営についっての「相談」は殆ど皆無だった。

菅・岡田の関係は微妙だ。ポスト菅を考えればライバルだが、暫くは菅にとっては信頼すべき同志だろう。だが、見るところ、官房長官を降ろされた仙谷代表代理は、権力掌握の野望もだし難いものがあろうから、ほどなく岡田に対して牙を剥く。

だから岡田としては、少なくとも「小沢問題」に関しては強引な手段も辞さず、問題処理の主導権をとらないと、その地位は揺らぎかねない。所謂「原理主義者」らしく、一旦決めたら「猪突猛進」しないとポスト菅では後れをとることになる。菅の先を進まないと駄目だ。

<中野寛成国家公安委員長の後任の両院議員総会長には党代表選で菅首相を支持した直嶋正行元経済産業相を内定。鉢呂吉雄前国対委員長、首相のグループの岡崎トミ子前国家公安委員長はいずれも副代表として、
幹事会に加わる。

このほか、枝野幸男幹事長代理が兼任していた国民運動委員長は渡辺周選対委員長、大塚耕平広報委員長の後任には馬淵澄夫前国土交通相をあてる。一連の人事で、常任幹事会の非小沢色が濃くなった。

人事とともに、岡田氏が進めるのが、衆院政治倫理審査会(政倫審)への小沢氏出席を求める議決だ。岡田氏は17日の記者会見で、政倫審について「役員会では今週中に議決することを決めている」と述べ、小沢氏の申し出がない以上、議決に踏み切る考えを示した。

岡田氏は同日夕、政倫審の土肥隆一会長と国会内で会い、(1)政倫審開催の前提として、18日に幹事懇談会を民主党単独で開催(2)政倫審の開催予定日を示し、政倫審会長名で小沢氏に出席を要求する−−の2点を指示した。

これに先立ち、民主党の国対委員長に就任する安住淳氏は17日、自公両党の国対委員長に招致議決の協力を要請したが、両党は応じなかった。

それでも岡田氏が手続きを急ぐのは、小沢氏の強制起訴が迫っているためだ。議決を受けても小沢氏が出席を拒否する可能性を見越し、強制起訴前に「執行部の決定に従わない小沢氏」を印象づける狙いがある。

菅首相は4日の年頭記者会見で強制起訴時の対応について「政治家としての出処進退を明らかにして、裁判に専念されるべきだ」と踏み込んだ。強制起訴時に何の対応もとれなければ、政権の求心力にも影響する。

執行部内には小沢氏系議員の反発を懸念する声も残るが、岡田氏は17日の会見で、政倫審に出席した後の対応について「(小沢氏が)どういう説明をするかに関わる」と含みを残した。

執行部側には小沢氏の自発的離党を期待する声もあり、強制起訴になった場合はひとまず小沢氏側の対応を見守る構えだ。離党勧告ではなく一段軽い党員資格停止を模索する動きもある。

小沢氏は16日のフジテレビの番組出演で「民主党の政権を成功させなくてはいけないという思いを僕は誰よりも強く思っている」と述べ、自発的な離党はしないとの考えを強調した。>毎日新聞 1月18日(火)2時30分配信2011・1・18

◆本稿は、1月19日(水)刊「頂門の一針」2159号に
掲載されました。他の卓見もご拝読下さい。

◆<2159号 目次>
・小沢を怖がる岡田幹事長:渡部亮次郎
・首相は政官癒着打破やめたのか:屋山太郎
・胡錦濤放言は国内強硬派向け:宮崎正弘
・対中国政策をインドから学ぼう:古森義久
・あだ名しか通用しない妙な組織:古澤 襄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月18日

◆湾岸戦争から20年

渡部 亮次郎

<イラクのクウェート侵攻を機に、米国率いる多国籍軍がイラクを空爆した湾岸戦争の開戦から16日で20年を迎えた。イラクは今でもクウェートに対する多額の戦後賠償を抱え、両国で1000人以上が行方不明になっている。>(CNN 1月17日)

大平内閣で外務大臣を務めた園田直氏(故人)は湾岸戦争に先立つ1980年、大臣を辞任後、総理特使として中東各国を歴訪した。福田赳夫内閣の外務大臣当時、日本の外務大臣としては初めて中東各国を歴訪した園田氏だったが、イラクのフセイン大統領と会ったのは今回が初めてだった。

その園田氏が帰国して面会した私に語った言葉を今でも忘れない。

「あれほど気味の悪い政治家はいない。あれは人殺しの目だ、今に大事件を起こす」。サダム・フセインのことだった。

その10年後の1990年8月、サダム・フセイン大統領率いるイラクは隣国クウェートに侵攻し、同国をイラクの19番目の州にすると宣言。

これに対して米国主導の多国籍軍が91年1月16日に「砂漠の嵐」作戦を開始した。当に園田氏の予想した大事件をフセインは起こしたのだった。

<フセイン政権が崩壊し過去のものになった今でも、クウェートには90年の侵攻による傷跡が残る。世界の紛争に詳しい国際機関「国際危機グループ(ICG)」のジュースト・ヒルターマン氏は「イラクがクウェートを独立国とみなさず、再び自国の19番目の州だと主張しようとするのではないかとの不安をクウェートはまだぬぐい切れない。

クウェートは、そうした事態が繰り返されないという何らかの保証を求めるだろう」と解説する。

国連は昨年12月にフセイン政権時代のイラクに対する制裁を解除した。しかし、クウェートとの間の懸案解決を求める国連決議はまだ有効だ。

イラク、クウェートなどの国では今でも1000人以上の行方が分からなくなっており、両国と赤十字国際委員会が協力して消息を調べている。

イラクは戦後賠償の支払いも続けている。政府によればこれまでに300億ドル相当を支払ったが、まだ200億ドル以上の負担が残る。賠償金は同国の主な収入源である石油収入から支払っている。

政府報道官は、イラクは自国のためにも資金が必要であり、既に十分な額を支払ったと主張。「サダムが他者に損害を与えたことは認めるが、もう十分だ」「破壊された自分たちの国を再建するためにできる限りの資金が必要だ」と述べた。

両国の国境は国連の手を借りてようやく確定したが、双方にとって未解決の問題は残り、イラクの約200世帯は転居を迫られている。

両国間に今も残るこうした緊張の緩和に向けて、クウェートのナセル首相は12日、バグダッドを訪問した。同国高官のイラク訪問は数十年ぶりとなる。イラクのマリキ首相も近くクウェートを訪問する見通しだ。

一方で、両国関係に進展の兆しはあっても、根本的な問題は両国の信頼関係の欠如にあり、その構築は容易ではないと指摘する声もある。>
(CNN.co.jp 1月17日(月)11時51分配信)

サッダーム・フセイン 1937年4月28日―2006年12月30日)死は絞首刑による。日本語の慣例ではサダム・フセイン、または単にフセインとすることが多い。

1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任した。

1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、近代イラク成立以降からイラクのナショナリストらによってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。

サッダーム政権は、1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言し、国連安全保障理事会からの撤退要求を黙殺した。

しかし、アメリカ合衆国をはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカ合衆国を主力とする多国籍軍に敗退した。

イラク軍は負けた腹いせであるかのようにクウェートの米石油企業の油井を含む732本の油井を破壊しており、300人以上のクウェート人捕虜をイラク領内に連行し、撤退した。

湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカ合衆国を主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器などの大量破壊兵器は廃棄したという。しかし相変わらず独裁体制だけは行っており、クウェートにまともに補償もしなかった。

クリントン政権時代はイラクを仮想敵国とみなしていたために米英軍は空爆を行っており、イラクと友好関係のロシア、中国、フランスが空爆に反対していた。

しかしサッダームは中国・ロシアとは貿易をしていたものの、北朝鮮の金正日体制と違い、後ろ盾として味方にはつけなかったため、のちにアメリカに攻撃を受けた。

2003年3月20日、アメリカ合衆国大統領ブッシュは予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。

4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。後にFBIの取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。

5月2日、ブッシュ大統領はペルシア湾上に浮かぶ空母にて演説、「戦闘終結宣言」を出した。

2003年12月13日、サッダームはアメリカ合衆国陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり、身の周りの世話をしていた旧政権支持者の子息2人と共に逮捕された。

拳銃を所持していたが抵抗や自決などはしなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えた。

また、サッダームの拘束作戦に参加していた元米兵による「大統領は拘束時、地面に掘った穴に隠れていた」とされる米軍発表は捏造だったとする証言もある。

証言したのは、レバノン出身の元米海兵隊員。アラブ系8名を含む20名の部隊に所属。サッダームを3日間、捜索していた。それによると「拘束時、部隊は激しい抵抗に遭い、米海兵隊員1名が死亡した」「大統領自身も建物の2階の部屋の窓から発砲してきた。

我々はアラビア語で『抵抗しても意味はない。降伏すべきだ』と叫んだ」「フセイン大統領が、拘束時に穴に隠れていたとする映像は米軍がデッチあげたもの。あの穴は使われなくなっていた井戸だった」という。この元隊員によれば、部隊が大統領を実際に拘束したのは12月12日で、米軍発表の前日だという。

2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラーム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。

2006年12月30日、サッダームは、米軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。

アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。

刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。

その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたが、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参りを止めるよう命じた。(ウィキペディア)2011・1・17

◆本稿は、1月18日(火)刊の「頂門の一針」2158号に
掲載されました。その他寄稿者の卓見もご高覧下さい。

◆<2158号 目次>
・湾岸戦争から20年:渡部亮次郎
・産経・FNN調査の内閣支持率は28・3%:古澤 襄
・チュニジアの「ジャスミン革命」をどう読むか:宮崎正弘
・政治家の涙:古森義久
・おじいさんは車で買い物へ:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月16日

◆NYのカレーライス

渡部 亮次郎

アメリカへ行くと、どういうわけか焼き魚とカレーライスが食べたくなったものだ。ところがアメリカ人はおしなべてカレーの匂いが大嫌いだそうで、どのレストランでもメニューには無い。

また魚を焼く匂いは人間を焼く匂いだといって厭がる。ロスアンジェルスでは、なんとか、ボイルで勘弁してくれないかといわれた。あれから何十年、事情は変わったろうか。

先ごろ某市のレストランがNYのど真ん中マンハッタンにカレーライスの食堂を進出させたというニュースがあったが、大丈夫だろうかと思ってしまう。客は日本人と何国人だろう。匂いが厭だと周囲から文句を付けられないか。

1970年代の終わりごろからニューヨークでNHK特派員をしていた堀 徹男君は元はといえば政治部の同僚だった。NYではメイン・ストリートの五番街に程近いアパートで奥さんと2人暮らしだった。

この奥さんは数年前、東京で急死されたが、早くにNHKを退職した私だからネット・ワークが及ばず、とうとう葬儀に参列する事はできなかった。それが未だに気がかりであるぐらい、堀夫人には世話になったのである。

何を隠そう、NYでカレーライスを作って戴いたのである。下手をすると、アパートの管理組合に呼び出され、退去を命じられる危険を冒しての「冒険」を強いたのである。

カレーソースを手軽に作るため、日本では市販の即席カレールーが使われている。製品としての粉末の即席カレールーはハウス食品が1926年に(商品名・「ホームカレー粉」)、固形の即席カレールーは、エスビー食品が1954年にそれぞれ日本で最初に製造した。

2004年度のカレールー(家庭用即席カレー)国内出荷額は676億円とされ、各社のシェアはハウス食品約61%、エスビー食品約28%、江崎グリコ約10%と推計される(日本経済新聞社)寡占市場である。

しかしNYでは当時、そんな物はどこにも売っていない。堀夫人はどこをどう捜して私にカレーライスを作って下さったのだろうか。今では謎である。

いずれ話はワルドーフ・アストリア・ホテルに滞在中だった園田外務大臣にばれた。「ナベしゃん、ワシも食いたかったとバイ」とこぼされた。

カレーライス 肉や野菜を、さまざまな香辛料をブレンドしてつくられたカレー粉で調味したカレーソースで煮こみ、米飯にかけて食べる料理。ライスカレーともいう。

カレーの語源は、ソースを意味するタミル語のカリだといわれている。もともとはインド料理であるが、日本へは1859年(安政6)の開港以降イギリスから伝えられたとされている。国産のカレー粉は1923年(大正12)山崎峯次郎によりつくられ、発売された。

本場インドのカレーは粘り気がなく、また、ヨーロッパでは米飯は副えものであるのに対し、日本では米飯が主で、かけるソースもとろみがある(小麦粉=ビタミンB1が多い)という日本独特のものとして発達した。

薬味に福神漬けやラッキョウを副えるのも日本特有である。固形の即席カレーが1954 (昭和29) 年ヱスビー食品から初めて売り出されて以来、さまざまな味の即席カレーが各社から発売され、カレーライスは家庭料理だけでなく、レストランなどのメニューでも定番となっている。

カレーソースに用いる主材料によって、ビーフカレー、ポークカレー、チキンカレー、野菜カレーなどがある。関西と関東の食肉文化の違いから一般的にカレーといえば関西では牛肉を使用したビーフカレーが、関東では豚肉を使用したポークカレーが定番とされている

またカレーライスにカツをそえたカツカレーや、うどんにカレーソースをかけたカレーうどんといったものもある。

カレーライスが全国に広まることとなった経緯として「戦前、普段米を食べることが少ない農家出身の兵士たちに白米を食べさせることになった海軍だったが、当初カレーには英国式にパンを供していた。

しかし、これは概して不評だったため白米にカレーを載せたところ好評となり、調理が手早く出来て肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを兵員食に採用した。

その後、除隊した兵士がこのカレーライスを広めたため、全国に知られることになった」という説がある。日本の海軍は英国から習得したものだからである

ただし、陸軍が普及に貢献したとする説もある。いずれにせよ、日本においては軍隊がカレーの普及に大きな役割を果たしたとみられる。


2011年01月14日

◆仙谷氏は国対委員長に

渡部 亮次郎

官房長官仙谷氏の退任は13日になって新聞各紙が一致したが、一時は副総理も囁かれた、次のポストについて「国対委員長」と初めに報じたのは毎日だった。

また昔は自民党内閣の閣僚、現在は「たちあがれ日本」共同代表与謝野馨氏の離党しての入閣を、初めて確定的に報じたのは時事通信だった。

<内閣改造 、代表代行兼務…最終調整
菅直人首相は12日、仙谷由人官房長官を交代させ、後任に民主党の枝野幸男幹事長代理を充てる意向を固め、党大会翌日の14日に内閣改造を行う最終調整に入った。

仙谷氏は党代表代行で処遇し、「ねじれ国会」対策の責任者として国対委員長を兼務させる方向。昨秋の臨時国会で仙谷氏とともに参院の問責決議を受けた馬淵澄夫国土交通相も交代させる。

菅政権の内政・外交を取り仕切ってきた仙谷氏は「影の首相」と呼ばれ、交代させた場合の打撃を懸念する首相はギリギリまで続投を模索。しかし、自民、公明など野党は「仙谷氏続投なら審議拒否」と宣告し、

民主党出身の西岡武夫参院議長も「院の決議は重い」と野党に同調。通常国会に提出する11年度予算案の審議や、首相が「政治生命をかける」と意気込む社会保障と税の一体改革へ向けた与野党協議を進めるには、野党との協調を優先した方がいいと判断した。

臨時国会で野党に政策協議を呼びかけながら失敗した反省から鉢呂氏を交代させ、重量級の国対委員長として仙谷氏に代表代行と兼務させることで野党対策を強化。仙谷氏の「更迭」色を払拭するだけでなく、政策ごとの部分(パーシャル)連合や将来的な連立組み替えもにらんだ「攻めの国対」を打ち出す狙いがある。

ただ、自公両党は11年度予算案に反対する方針を示し、子ども手当法案など予算関連法案が成立する見通しは立っていない。自民党は予算審議を行き詰まらせる「3月危機」によって衆院解散・総選挙に追い込む構え。

同党幹部は12日夜、「仙谷国対」について「仙谷氏には『ふざけるな』という感情がある。なかなか調整には応じられない」と拒否感を隠さない。

公明党は自民党とは温度差があり、山口那津男代表は11日、日本記者クラブの会見で「党の役職は何であれ、直接の問責の対象ではない。そこまで拡大して考えるべきではない」と述べ、仙谷氏が党の要職に起用されても反発しないことを示唆している。

首相は公明党との連携を期待しており、そのためにも民主党の小沢一郎元代表の「政治とカネ」の問題にけじめをつける必要があると判断。仙谷氏の後任に小沢氏批判の急先鋒(せんぽう)、枝野氏を充てることには「脱小沢」路線の堅持を明確にする意味がある。>
毎日新聞 1月13日(木)2時32分配信

<官房長官、枝野氏で調整 与謝野氏入閣も検討
仙谷官房長官の後任をめぐっては、首相は当初、幹事長として政権運営を支えた岡田氏の起用を検討していたが、岡田氏は慎重姿勢を崩さなかった。このため、昨年6月の菅内閣発足当初に幹事長に抜擢した枝野氏起用で調整することになった。

官房長官で調整している枝野氏を補佐するため、仙谷氏は首相補佐官などのポストで首相官邸に残すことが検討されている。

昨年11月から12月にかけて首相は自ら与謝野氏と会談を繰り返し、民主党との連立を打診した経緯もある。

首相側はすでに、与謝野氏側に対して入閣に向けた非公式な打診をしている。13日にも改めて入閣などを求め、条件が整えば与謝野氏がたちあがれ日本を離党し、入閣する方向。ただ、首相補佐官となる案も取りざたされている。> (Asahi Com 2011年1月13日4時0分)

<与謝野氏が離党へ=政府の要職に―たちあがれ
たちあがれ日本の与謝野馨共同代表は13日、内閣改造に合わせて政府の要職に就くため離党する意向を固めた。同日午前にも離党届を提出する。同氏の周辺が明らかにした。

同党は昨年末、菅直人首相から打診された連立を断ったが、首相との折衝に当たった与謝野氏は参加を主張していた。> 
時事通信 1月13日(木)8時59分配信

<与謝野氏は13日午前、東京都内で同党の平沼赳夫代表に離党届を提出した。

与謝野氏は13日午前、都内の自宅前で記者団に「離党届を出すことは1週間前から決めていた」と語り、離党届提出後、国会内で行った記者会見では「政策に現実性を与えるつもりで仕事をしてきた」とし、最重要課題として財政再建や社会保障制度改革、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を挙げ、「できることがあれば(菅内閣を)手伝いたい」
と述べ、政権入りへの意欲を示した。

与謝野氏は無所属で活動する。平沼氏は与謝野氏との会談で「それなりの考えがあることは理解する」と述べたが、離党届の扱いは保留した。

与謝野氏は昨年11月以降、首相と2回にわたって会談するなど、菅政権への協力を探っていた。しかし、同12月27日にたちあがれの連立政権入りが破談になったことに不満を持ち、以後は党の会合を欠席していた。

首相は消費税率引き上げによる財政再建論者の与謝野氏を閣内に取り込むことで、6月にも方向性を示す税と社会保障制度改革論議に道筋をつけたい考え。社会保障の抜本改革には自民、公明両党も賛同しており、与謝野氏に野党との橋渡し役を期待する狙いもあるとみられる。

与謝野氏は当選10回で72歳。自民党時代には党政調会長、官房長官、財務・金融・経済財政担当相など要職を歴任した。政権交代後の昨年4月、谷垣禎一総裁の党運営を批判して自民党を離党し、平沼氏らとたちあがれ日本を結党した。(毎日 13日)

今回の結果、菅首相の政治力は弱体化し、人材払底の現状も露呈した。菅政権の命脈は長くは無い。2011・1・13

◆本稿は、1月14日(金)刊の「頂門の一針」2154号に
掲載されました。

◆<2154号 目次>
・仙谷氏は国対委員長に:渡部亮次郎
・小沢問題はいま :古森義久
・TPPに日本は参加すべきでない:宮崎正弘
・対中戦略は無いのか?:櫻井よしこ
・町おこしの“火起こし組”を:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月13日

◆改造は14日 仙谷焦点

渡部 亮次郎

<こうした中、菅首相は12日朝、岡田幹事長に対して内閣改造を14日に行うことを伝えた。最大の焦点は仙谷官房長官の処遇だが、首相側近の一人は「菅首相は代えたくないだろうが、代えざるをえないと思っているようだ」と話している。しかし、首相周辺には「続投させるべきだ」との意見も残っており、後任の調整も絡んで、まだ紆余(うよ)曲折も予想される。>
日本テレビ系(NNN) 1月12日(水)17時3分配信


内閣改造を控えた菅首相は注目の人物仙谷由人官房長官の留任もしくは副総理への横滑りを含む閣内残留を策して秘策を練ってきたが、産経系列の「夕刊フジ」は2011.01.12の紙面で、

<菅ついに「仙谷外し」決断へ 西岡が引導“居座り工作”頓挫>と報じ「悲観論」を伝えた。

<菅直人首相(64)が探っていた「影の宰相」こと仙谷由人官房長官(64)の留任が、ついに頓挫しそうだ。菅首相から留任を直訴された西岡武夫参院議長(74)が、「仙谷長官のままでは参院本会議開会を認めないこともある」と強く反発したためだ。

無任所の副総理として閣内に残すウルトラCも検討されているが「仙谷外し」の外堀は埋められつつある。

西岡議長は11日の会見で、「参議院の総意として、閣僚に対して辞任要求を伴った問責決議案が可決した以上は、閣僚は辞任すべきであると確信している」と述べ、仙谷氏の辞任を強硬に迫った。

これには伏線がある。西岡氏は10日夜、参院議長公邸で菅首相と会談。関係者によると、菅首相は遠回しな表現で仙谷氏が留任した場合の対応などを聞いたためだ。

菅首相はニヤニヤしながら議長公邸を後にしたが、「西岡氏から『参院は通常国会冒頭から全面ストップの可能性が高い』などと具体的な事態を聞き、かなりショックを受けていた」(首相周辺)という。「仙谷続投」に、事実上赤信号がともった瞬間だった。

菅首相と仙谷氏は、「仙谷氏が細かな政策を交通整理し、菅首相が重要政策を判断する。2人の役割分担はうまく機能していた」(政府関係者)という、切っても切れないほどの仲。それだけに、菅首相は何とか仙谷氏を官邸内に留めるよう模索してきた。

前原誠司外相(48)や蓮舫行政刷新担当相(43)、枝野幸男党幹事長代理(46)らが「問責に法的根拠は乏しい」などと、仙谷氏続投を求めていたことも追い風にしていた。

しかし、参院で多数を握る野党は「仙谷氏は『国務大臣』として問責決議を受けた。閣内に残るなら、参院での審議拒否は変わらない」(参院自民党幹部)と一歩も退かない構え。

菅首相が通常国会で協力を渇望する公明党も「明確な誠意ある対応がなければ、われわれは審議には応じられない」(山口那津男代表)とハードルを上げつつある。

それだけに、枝野氏らが進言する「残留のまま通常国会を正面突破」する案は、本会議開会の権限を持つ西岡氏が野党側と同一歩調を取る以上、難しくなったと判断したとみられる。

ただ、西岡氏は「首相はまだ決断していないと感じた」と話しており、仙谷氏をめぐる菅首相の迷走はまだまだ続きそうだ。>(夕刊フジ 2011.01.12)

一方党内でも。
<岡田克也幹事長は10日、訪問先の那覇空港で記者会見し、参院で問責決議された仙谷由人官房長官の処遇に関し、「参院の意思が示されたのは真摯(しんし)に受け止めなければならない」と述べ、17日に予定される内閣改造で仙谷氏の交代は避けられないとの見通しを示した。>(11日産経新聞)

「退任やむを得ず」 仙谷氏処遇で藤井氏民主党の藤井裕久元財務相は7日、TBSのテレビ番組収録で、内閣改造の焦点となっている仙谷由人官房長官の処遇に関し、通常国会での平成23年度予算案と関連法案の審議で野党の協力を得るため退任はやむを得ないとの認識を示した。

理由について「国民生活に直結した予算を放っておくわけにはいかない」と指摘。同時に「問責決議を受けたから辞めるというのは、本当はおかしい。民主党が野党のときにやったことは反省すべきだ」とも述べた。藤井氏は6日に仙谷氏と会談している。 (産経ニュース 2011.1.7 22:47)。2011・1・12 

◆本稿は、1月13日(木)刊「頂門の一針」2153号に
掲載されました。
◆<2153号 目次>
・改造は14日 仙谷焦点 :渡部亮次郎
・何!馬鹿も休み休み言え:西村眞悟
・離島防衛を主眼とした海兵隊の創設が必要:古澤 襄
・手分けして機密漏洩を釈明の旅:宮崎正弘
・やれるぞ!日本:MoMotarou
・地元志向は若者の苦渋の選択?:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年01月12日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎

毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣、佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいた。

1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否し、ミサイルで撃墜されたとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。林彪事件には今なお謎が多い。

林彪を失った毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたトウを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。


2011年01月10日

◆中国にはびこる“ヤミ移植”

渡部 亮次郎

中国にはびこり、日本人の利用者もかなり多いとは”ヤミ移植“。神戸市の 60代男性が腎臓移植費用名目で約1千万円をだまし取られたとして、元民間団体幹部ら2人を詐欺罪で告訴したと報じられたばかり。

しかし、予想では、この種の真相取材が中国政府に規制されているらしく、実態はなかなか報じられない。そうしたなか産経新聞は9日、社会面のいトップで「年間1万例超、「大国」の実態は」と報じたので紹介する。
 
中国は2007年に外国人への臓器移植が原則禁止されたものの、水面下では今でも“ヤミ渡航移植”が横行している。年間1万例以上の臓器移植が行われる「移植大国」。豊富な臓器の供給源は死刑囚とされ、人道的立場から国際社会の非難も浴びてきた。中国の臓器移植の実像を追った。
 
 ■“袖の下”要求も…

「腎臓移植にかかる費用は、総額で800万〜1200万円。中国人に少ない0型の血液型の場合は費用がさらに割高になる」数年前まで中国の移植病院とつながりのある医療機関のスタッフだった男性は中国での外国人の腎臓移植費用についてこう証言した。

男性によると、費用の内訳は治療費、手術費のほか、スタッフの渡航、滞在費▽ドナー(臓器提供者)の臓器状態の確認費▽移植病院との連絡費▽入院中の食費−など。

最近では数百万円単位の“袖の下”を現地病院から要求されることも増えている。手術前に費用を払わなければ待機入院さえできないため、神市の男性のように患者が事前に現金を支払うのが慣例だという。

「年間10人程度の患者を中国の病院に紹介した。日本人特有の死生観や国の啓発活動不足で国内の移植医療は広がらない。ドナー不足の現状では患者は海外に希望を見いだすしかない」。男性はこう主張する。
 
 ■禁止も外貨魅力で…

国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、中国で1年間に執行される死刑数を「少なくとも数千件」と推計している。中国で実態調査を行った岡山大大学院の粟屋剛教授(生命倫理学)によると、中国では死刑囚からの臓器提供が認められており、「臓器提供の9割は死刑囚」とされる。

年間1万例以上の臓器移植が実施されているにもかかわらず、その流れは不透明だ。日本では国の許可を受けた社団法人日本臓器移植ネットワークが臓器の斡旋(あっせん)を行う唯一の機関だ。

しかし、医療機関の元スタッフの男性によると、中国にはネットワークのような組織は存在せず、医師と刑務所の関係者の個人的ルートで臓器斡旋が行われるのだという。

死刑囚ドナーや不透明な臓器の流れは世界保健機関(WHO)や人権団体などから批判を浴び、中国は07年、臓器売買を禁じる法律を制定した。原則的に外国人への移植も禁じた。

それでもヤミの移植は依然として続いている。

粟屋教授は昨年、上海で軍経営の病院など3医療施設で渡航移植の調査を実施した。窓口で「この病院では移植が受けられるか」と尋ねたところ、「(移植は)直接医師に交渉してほしい」といわれたという。

「中国国内の移植可能施設は約400。高価な移植設備とスタッフ、技術をそろえた施設はもうけが出る外国人の移植をやりたい。中国政府も外貨を稼ぐことができるゆえに、大目にみている部分はあるだろう」粟屋教授はこう指摘する。

 ■国内移植の増加を

「中国で移植を受けても成績はよくない。みんなが元気になれるわけではないといっているのだが…」

こう話す東邦大学の相川厚教授(腎臓学)のもとには、中国で腎臓移植を受けてきたという患者が救急搬送されてくる。術後の管理が悪いため感染症を引き起こし、亡くなるケースも少なくない。

日本移植学会は倫理指針で、死刑囚からの臓器移植を「ドナーの自由意思を確認することが困難」として国内外問わず禁じている。

相川教授はいう。
「藁(わら)にもすがる気持ちで臨むのだろうが…。われわれができることは、国内の移植件数を増やすことぐらいだ」
(産経ニュース2011.1.8 23:21)
  

2011年01月08日

◆あり得る仙谷留任

渡部亮次郎

<国会召集28日軸に…首相ら協議
菅首相(民主党代表)は6日午前、首相官邸で民主党の岡田幹事長らと会談し、通常国会の召集日程や小沢一郎元代表の衆院政治倫理審査会(政倫審)招致問題などを協議した。

召集日について結論は持ち越したが、28日を軸に調整している。

小沢氏の招致問題では、岡田氏が「小沢氏に(政倫審出席を)働きかけていく」と経過を説明した。内閣改造・党役員人事は議題に上らなかったという。>
読売新聞 1月6日(木)14時35分配信

この通りだろう。内閣改造は既定の方針だから、中身は菅首相の胸先三寸、最早秘中の秘。余人は口を出せない段階に至った。おそらく民主党大会の13日以降に具体化するだろうが、更迭の対象と予想されていた官房長官がこのところ欝状態と思いきや、なんと躁状態とも言いえるほど張り切っている。

民主党内部には野党批判の及ばない党代表代行への転出という予想があるが、私は予想外!官房長官留任がありうると思う。大変な賭け。外れたら怖いから新聞もテレビ、ラジオも書けない。

留任説の根拠は、菅内閣における仙谷氏の「位置」である。政策のすべてについて情報を収集し、内閣としての決断を下しているのは首相ではなく官房長官たる仙谷氏である。

この事は普天間問題はともかく、菅内閣にとって危機的外交決断のすべてを仕切ったのが首相ではなく仙谷氏だったことが如実に証明している。

菅氏はそれなりに政治家として経歴は伸ばしてはいるが、政府与党責任者として懸案を決断し、責任を負った経験は少ない。

そこへ行くと仙谷氏は弁護士としての経験から「懸案処理」には自信を持って立ち向かえる。だからこそ尖閣事件の処理に率先して先頭に立ったのである。

事ほど左様に、いまや仙谷「官房長官」抜きの菅政権歯考えられなくなっている。自民党政権では、官房長官が首相抜きに政権の生殺与奪の権を握ったと言う例はなかった。

しかし、初めて政権を握った民主党だからこそあり得る現象なのだ。
市民運動の経験は政局運営には全く役に立たない。そこへ行くと「法廷闘争」で「権力」と具体的に戦った仙谷氏の弁護士経験は、菅氏の政権維持に必要欠くべからざる「核」である。

仙谷官房長官を失えば菅は倒れる。いまや 菅首相はそれを強烈に意識せざるを得ないところへ追い込まれている。

これに対して党内からは対立する小沢グループや、民主党出身の西岡参院議長が仙谷氏の交替を求めている。野党も参院で問責決議をうけた仙谷氏らが辞任しなければ通常国会の審議を拒否するといっている。

ここに重点を置いて改造劇を展望すれば仙谷更迭がけつろんになるが、菅首相が「政権しがみつき」を優先する以上、仙谷残留は十分考えられる。野党の「審議拒否」も長続きはしない。2011・1・6

◆本稿は、1月8日(土)刊の「頂門の一針」2148号に
掲載されました。他の卓見もご高覧ください。
◆<2148号 目次>
・あり得る仙谷留任:渡部亮次郎
・菅首相:揺れる胸の内 焦点の仙谷処遇は:古澤 襄
・西岡参院議長が「菅・仙谷には国を任せられない」:古澤 襄
・中国、「分散投資」を展開:宮崎正弘
・梅ヶ枝の手水鉢:上西俊雄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
◆購読(無料)申し込み御希望の方は
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 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2011年01月03日

◆糖尿あってこその息災

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。その夜だけははやはりイン・ポテンツになった。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代に既に発症していた。また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという自覚もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病院。現在は慶応義塾大学の支配下にある。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ東京高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから22年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて5月27日に受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった)といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。(その友人が10月、脳梗塞のため58と言う若さで先に逝ってしまった)。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きるこうした「合併症」で死ぬのだ。

それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して、結果として半身不随などの後遺症が残るが、3時間以内にTPAを処方すれば無事だとか。

血栓が出来ないように、血液をさらさらにする薬「ワーファイン」を2年まえから服用している。薬の効果を維持する為禁止されている食物がある。それが納豆、乾燥若布、クロレラ。納豆はもともと嫌いだから問題は無い。

糖尿があればこそ、1日2回での1万歩散歩など医師の言いつけを守っている。ここ20年は風邪も引かない。植物性乳酸水で業病「花粉」も克服した。2011年を迎え、1月13日には晴れて「後期高齢者」となる。当に「一病息災」である。2010・12・31


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