2008年01月13日

◆共産党員と社会党員

                  渡部亮次郎

私の育ったところは秋田県の元八郎潟沿岸で、見渡す限り水田の中に1本道の両側に60軒ぐらいがひっそりと暮らす水田単作農家の集落だった。庭にはタモの木と公孫樹しかなかった。木の名を知らないのは田圃育ちだからだ。

農家は殆どが自由党支持。だが1軒だけ共産党支持、もう1軒が社会党支持。その社会党支持者がうちの父母だった。しかし、そのお陰で私たち子供は社会党支持にならず、社会党倒壊後に支持政党無し族にならずに済んだ。

貧しかった。全くの小作農家だったから貧しかった。だから父母は兄が戦争中、県立秋田中学校に合格した時、随分困った。小学校の先生の薦めるまま受験させたものの授業料の捻出に困った。

学校は戦争中であらゆる日常物資が欠乏している事を知ってか知らずか、生徒が携行する雨傘は「洋傘」つまり「蝙蝠傘」。貧乏小作農家にそんな上等な品物のあろう筈が無い。母親はその悔しさを98で死ぬまで語った。

後年私も秋田中学の後身たる秋田高校に入るのだが、愛校心の極めて薄いOBになったのには、このときの恨みがあるからのようである。

敗戦後の学制改革で秋田高校の生徒になった兄は終始、学業成績1番で通した。傍ら長距離走の練習で夕方まで練習にも余念が無く、駅伝競走では新記録を樹立した。頼もしい兄であった。

周囲は当然東京大学に進むものと考え、本人もその気になったが、両親は最後、肯んじなかった。兄が荒れたのは当然である。

やがて気を取り直して隣町五城目町の中学校の代用教員になった。評判のいい先生だったらしい。間も無く秋田魁新報という地元紙の記者試験。

試験は出来たが落とされた。調べたら秋田中学時代、流行のストライキの首謀者だったというためにする中傷が原因と分かり、それを言い出した主筆に抗議、結果合格した。父親が社会党の県支部連合会の役員に名を連ねていたのが原因だったのではなかろうか。

そこから先がわが兄の優れたところで、落とした主筆のところへ押しかけて誤解を解くよう要求。誤解が解けて入社が決ったもののラジオ部という、子会社民放用に新聞原稿をラジオ用にリライトする部門に置かれた。取材には出して貰えない日々が続いた。それでも腐りはしなかった。

お前は大学を出えてくるのだろうが、東京弁をマスターして来い。アナウンアサーになれると言っていた。それが満足にできなかったからではないが、昭和33年2月、卒業式を待たずに、NHK秋田放送局の通信員に世話してくれた。

その後の兄は、やがて社会部長を経て論説委員長から常務取締役になった。次に専務にといわれたそうだが、常務のままで定年前に退社した。交通事故で片目を失明したのがきっかけだった。

さてNHKの通信員。態のいい臨時採用記者。6月まで秋田県警察本部担当の補助。6月から青森県に接する大館市に駐在。毎朝4時に起きて大館警察署を訪問。管内の事件事故、火事の報告書を見せてもらうだけでなく、他のところで起きた事件事故の概要や指名手配なども知り得た。

問題は秋田放送局への送稿である。当時は戦争中の名残で秋田放送局には警察電話が繋がっていた。大館警察署から県警本部を呼んでもらい、県警本部からNHKへ繋いでもらい、泊り明けのアナウンサーに書き取ってもらった。まるで直通電話を持っているような贅沢。

しかも、私は多分東北管内のNHK記者で最も早起きの記者。ニュースは最も新しい。アナウンサーは気を利かせて仙台中央放送局のニュースデスクへ送稿してくれた。午前5時の東北各県向けのニュースに「大館発」が毎日のように流れた。それを聞いてまた寝た。

やがてNHKの翌年度の採用試験を受けるように、となって正式採用され昭和34年7月1日から仙台放送局報道課所属の記者になった。ここまで面倒を見てくださったのは秋田放送局の先輩記者早澤良雄さんである。いつも感謝してここまで来た。

1年後、岩手県の盛岡放送局、ここで4年。後東京の政治部へ。9年居て専ら『文藝春秋』の「政局夜話」を「赤坂太郎」名で書いた。それがもとで田中角栄首相の逆鱗に触れて大阪に左遷。

3年後に東京・国際局に帰還したが官房長官園田直さんに誘われるまま秘書官就任を受諾。NHK在職19年だった。国立(くにたち)の自宅から電車で総理官邸に駆けつけたが、内閣改造で園田さんは外相に横滑り。自動的に行ったこともない外務省で秘書官暮らしを計延べ4年、途中、厚生大臣秘書官も経験した。

退任後、いろいろ考えているうちに栗原祐幸元防衛庁長官の世話で、学生援護会の支援する社団法人日米文化振興会の理事長に就任。1984(昭和59)年8月のことだった。4ヶ月前の4月2日、園田さんが糖尿病による腎不全のため70歳で死んだ。

理事長としては約17年在籍。学生援護会の経営状況の悪化など諸般の事情を勘案して平成13年末で退任。日米文化振興会とは無縁になった。

同会はその後、いろいろな事情を経て秋山直紀氏の管理するところとなり、2006年に日米平和・文化交流協会に変身。秋山氏が参院外交防衛委員会の参考人に呼ばれる事件に繋がる。

思い起こすと父母は子供7人(1人は夭折)を育てるのに懸命だった。父は自作農になるために、早くから八郎潟干拓運動に奔走。父の居ない分を母と姉が背負った。干拓は実現、田圃も増えたが、それ以前に敗戦に伴う占領軍による農地解放で自作農になっていた。

男兄弟3人とも家を出たので妹が婿を迎えて家を継いだ。義弟は渡部家を大きくしたが、数年前、土建業の経営に失敗、家はもちろん田地田畑のすべてを失った。私には帰るべき故郷の家が無くなった。

父はとっくに死んでいたが、せめて遺された母が長く老人施設で暮らすことなく亡くなった事は、むしろ幸福だったのではないかと思っている。
今日1月13日が私の誕生日である。2008・01・13




2008年01月09日

◆舐めたらあかんぜよ

                  渡部亮次郎

Change。この言葉がアメリカの民主党支持者を熱狂させた。いな無党派の若者を熱狂させた。Changeとは「変化」と習ったが実は「変革」というやや強い意味を持った言葉だったらしい。変革。どこの国でも人々は変革を求めている。ヒラリーはこれにやられている。

美女で、既にファーストレディーを経験済み。彼女はそれを「経験」「実績」と訴えたがこれが裏目に出た。「変革」の前には「古い」或いは「古色蒼然」。選挙参謀の誤算だろう。それにエロ爺の夫が出てくれば負けないのが可笑しい。完全に戦略を間違えた。

勝負。まだ分からないが、カネと「実績」を誇るだけでは世の中、甘くない。「舐めたら あかんぜよ」。

<クリントン氏涙ぐむ 初めて弱さ見せた?

【マンチェスター(米ニューハンプシャー州)大治朋子】米大統領選のニューハンプシャー州予備選を翌日に控えた7日、民主党候補のヒラリー・クリントン上院議員(60)が涙ぐむひと幕があった。

各種世論調査でバラク・オバマ上院議員(46)に10ポイント前後引き離されているクリントン氏。「実績と強さ」をアピールしてきただけに、米メディアは「ヒラリーが初めて弱さを見せた」と驚きをもって伝えた。

東部ポーツマスで開いた集会。支持者に「(精神的にも肉体的にも)厳しい選挙運動をどう乗り切っているのか」と聞かれたクリントン氏は「簡単ではありません。正しいことをやっていると信じていなければできない」と答えた。

ひと呼吸置いて「私はこの国からたくさんのチャンスをもらった」と涙ぐんだ。さらに「私は(ブッシュ政権下で)何が起きているのかを見ている。それを覆さなければならない」と語り、思いがこみ上げたように声を震わせた。

次第に普段の口調に戻ったが、米国の民主主義が後退していくとの危機感を指摘しようとしたとみられる。

クリントン氏はアイオワ州の民主党員集会でオバマ氏に惨敗。米メディアは逆転を狙う「戦略」か「疲れているのか」と分析した。>
1月8日10時32分配信 毎日新聞

8日正午のニュースでクリントン氏はオバマ氏のいう「変革」について「変革を私はずっとやって来た」とつい「実績」を誇示しようとした。しかしこれは、いうなればオバマ氏の土俵に上ってしまったわけであり、実績を強調すればするほど引きずりこまれる。

つまりオバマ氏の変革が無党派層に受けているのは共和党のやり方もクリントン氏ら民主党のやって来たことも否定するものである。したがってクリントン氏が「実績」を強調ればするほど厭がれれるという構造になっている。

なんだか小泉純一郎氏と橋本龍太郎氏が総裁選挙を争った時に似ている。「風」に乗った小泉氏に対して橋本氏が「組織」を誇れば誇るほど小泉氏を取り巻く風がさらに強まり、最後はつむじ風になって小泉大勝利。

アメリカの大統領選挙は期間が長い。まだまだ勝負は先だ。これから何が起きるか全く予断を許さない。しかし経験と実績を誇示しようとしてエロ爺を出してきたクリントン氏の作戦は完全に裏目に出ている。2008・01・08

2008年01月08日

◆錦糸町の45階住宅

                渡部亮次郎

机を壁向きから北の窓向きに変えたから、パソコンから目を逸らすと錦糸町の高層ビル街と対面する事になる。中でも右端、昔の精工舎跡地に建ったマンションは45階だからひと際目立つ。霞ヶ関ビルより9階も高い。

錦糸町に45階?誰が想像しただろうか。ましてその奥が押上(おしあげ)という地名が証明しているように明らかに弥生時代は海だったところ。地盤の脆さは深川、江東区と似たり寄ったりのはずだ。

昭和29(1954)年から東京での学生生活を始めたが、当時住んだ文京区という都心でも、まだ戦災の跡として焼け焦げた門柱があちこちに転がっていた。

僅かに皇居に隣接する丸の内地区にマッカーサーに接収された明治生命などのビルが残って並んでいたが、どれも8階建てであった。しかし、これがそれまでの建築基準法による規制の結果とは知る由も無し、関心も無かった。

当然、マイカー時代はまだ到来せず、繁華街でも交通信号はあまり無かったように思う。したがって赤でストップ、青でゴーなんていう意識も無かった。走っているのはバスかトラック。主な道路の真ん中を都電が走っていた。

地方勤務を経て昭和39(1964)年夏、戻ってみたら東京は初のオリムピックを目指しての建築ラッシュ。思い起こせば青山通りが拡幅され掘り返されていた。羽田空港から都心まで初の高速自動車道が建設中だった。

そのオリンピック担当する大臣河野一郎氏を担当させられたから目を瞑る間も無いくらいの忙しさ。折から少雨渇水の夏対策も担当。加えて総理大臣池田勇人氏が喉頭「前」癌症状だという。残業時間が月200時間に達して、歯がぼろぼろになった。

港区の山手に新しく出現したホテルがなんと17階、頂上に回転ラウンジがあるという。しかし驚いてはいけなかった。間もなく官庁街霞ヶ関に東京霞ヶ関ビルが出現し、貿易センターが出現したからである。

<霞が関ビルディング霞が関ビルディング(略称:霞が関ビル)は、東京都千代田区霞が関3丁目にある地上36階、地下3階、地上高147mの超高層ビル(オフィス・商業複合施設)。所有者は三井不動産。

定義にもよるが、一般的に日本最初の超高層ビルとして知られている。設計は山下寿郎設計事務所、施工は三井建設と鹿島建設によるJV(共同企業体)、事業主体は三井不動産である。

東京倶楽部が経営していた旧・東京倶楽部ビル跡と霞会館(旧・華族会館)の敷地に建設され、1965年(昭和40年)3月18日に起工、1967年(昭和42年)4月18日に上棟し、1968年(昭和43年)4月18日にオープンした。耐震設計として鋼材を組み上げた柔構造を採用している。

関東大震災の教訓から東京では31mという高さ制限(いわゆる百尺規制)があったため、当初は9階建てのビルの計画であったが、1962年(昭和37年)8月に建築基準法が改定され、高さ31m制限が撤廃されることとなったために高層ビルへ計画変更された経緯がある。

日本においてはじめての高層ビルの建設のため苦労も多く、そのエピソードはNHKのテレビ番組『プロジェクトX 挑戦者たち』でも取り上げられた。

竣工当時、最上階36階に展望台があり賑わいをみせていたが、その後オフィスに改装された。33階に東海大学校友会館が入居しているが、卒業生などに限らず、普段から自由に(会議や一般で言うところの「飲み会」)などに利用されている。

ビルの総容積は約50万立方メートル(総重量約10万トン)あり、東京ドームが竣工する前は莫大な体積を表現する際に「霞が関ビル何杯分」という表現がよく使われていた。

かくて竣工から40年が経過し、隣接する霞が関コモンゲート西館(175.78m)と東館(156.67m)は、霞が関ビルの高さを上回っている。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

武藤という東大教授が「撓(しな)う竹は折れないことにヒントを得て構想。地震のエネルギーをしなう事で吸収することで解決。31メートル制限は一気に「無制限」になった。

新宿の淀橋浄水場跡地の超高層ビル街は正午のNHKニュースのバックになっているぐらい有名だが、いまや隅田川の河口の先にある佃島も超高層ビルが乱立。東京湾「夢の島」埋立地周辺の「マンション」の高さも相当なものだ。

今や東京のみならず、超高層ビルは全国いたるところに出現。日本のオフィス、住宅事情に革命をもたらした。そういう筆者の住まいも「川向こう」の湿地帯にありながら20階ビルである。

「こんなに高層ビルばかり建てちゃって大震災の時はどうするんだろうと心配する人は多いが、人間は必ず死ぬと分かっていながら、それは自分ではない、と思うのが、これまた人間の常である。
2008・01・07

2008年01月07日

◆福田・大平品格の差

                 渡部亮次郎

毎日新聞のコラムニスト岩見隆夫さんが2008年1月5日のコラm「近聞遠見」で書いている。

<・・・餅、すしはもとよりだが、食べ物は時間が勝負、早く食べるに越したことはない。政治も似たようなところがある。スピード感だ。拙速はまずいが、逡巡(しゅんじゅん)はもっとまずい。政界では、いまも、

「大国を治むるは、小鮮(しょうせん)を烹(に)るが若(ごと)し」

などという格言が使われるからややこしい。老子の言葉、大国を治めるのは、はらわたも骨もそのままの小魚(小鮮)をじっくり煮るようなもの、という意味だ。時間をかけ作為を弄(ろう)さずに、という賢人の教えである。

それも一面の道理だが、いまはテレビとインターネットの超高速伝達社会だ。じっくり、だけではすまない。

手っとり早く安直に、では困るが、餅にカビが生えないうちに、マグロの色があせないうちに、今年は鮮度のいいハンドルさばきをお願いしたい。>

これを読んで内閣改造を見送った総理大臣福田康夫氏のパリでの言動を35年ぶりに思い出した。

この年1978(昭和53)年は当時の総理大臣福田赳夫氏が大平正芳幹事長に「2」年と約束した「自民党総裁任期」の満了年である。11月が来たら退陣すると紙に書いて交わした「密約」を果たさなければならない。

それに先立って福田首相は西ドイツの首都(当時)ボンでのサミットに出席すべく東京を発ち、7月14日午前2時15分(現地時間)パリに途中立ち寄った。

なぜなら「7月14日」こそはフランスの革命記念日であり、首都パリではさまざまな華やかな行事が展開される。人気を盛り上げて密約の反故(ほご)を策する福田父子にとって「パリ祭」は記者サービスの大事な材料であるはずだ。現に首相は私に「亮ちゃん、パリじゃ美味いものをご馳走するぜ」と軽口を聞いてくれたぐらい。

現地時間の午後4時10分からコンコルド広場を囲む有名ホテル「クリヨン」で同行記者諸君と「記者懇談」だという。日本時間ではまだ午前9時過ぎ。みな、些か時差ボケ。折から広場ではファンファーレが鳴り、上空を航空機やヘリが舞ってお祭りは最高潮。それでも福田さんは懇談を止めない。

記者団は総裁再選問題ばかりに食いつくが、総理はサミットの意義ばかりを強調する。堪らず私は総理大臣首席秘書官たる康夫さんに囁いた。外は大賑わい、記者団も心ここにあらずじゃないですか。

「いや、連中はサミットの意味を全く分かっちゃいないんだから、ここはもっと教えなければ駄目です!」。終わった時、祭りは最高潮を過ぎていた。「餅」の食い時は過ぎていた。

ここへ来る2日前の7月12日午前6時30分、私は目白の田中角栄邸玄関前の車中に待機していた。角栄首相(当時)に大阪へ飛ばされたのがきっかけでNHKを途中退職した私。42歳にして園田直外務大臣の秘書官に就任した私。

あろうことか、付いた外相が領袖の福田氏ではなく角栄氏を頼りにすべく極秘に訪ねて来て私もそれに従ってきた。なんという歴史の皮肉であろうか。しかし政治が権力闘争そのものである以上、生き残りのためには『昨日の敵は今日の友』当然なのである。

「福田は2年で終わり、年末には大平政権」で一致してきた園田は意気軒昂。そのままオテル・デュ・クリヨンの部屋に「福田再選への梃入れ要請」に来た森喜朗官房副長官にも「君ら、オレの言う事を聞くなら再選ありうるが、そうでなきゃ無いぜ」と高飛車に言った。

園田氏はあのまま官房長官をしていられたら大平氏を説得して任期1年延長を取り付ける心算で、かなりの自信を持っていた。だが「とにかく官邸から園田を追放して後任にワシの女婿安倍晋太郎を」という親分の注文をもだいしがたく、園田を外相に追いやった。

後で聞けば、片方の大平氏は福田氏が再選に立候補するなどとは信じがたく「まさか」と思っていた。それが挑戦してきて敗れ、かつ「40日抗争」を仕掛けてくるなんて想像もしていなかった。2人の品格の差というしかない。康夫氏は「密約」を最後まで知らされずに父を見送った。2008・01・06

2008年01月05日

◆農場の集団化は失敗する

                 渡部亮次郎

コルホーズとソフホーズ Kolkhoz:Sovkhoz 旧ソ連の社会主義的農場
の2つの形態。コルホーズは「集団的経営」、ソフホーズは「ソビエト的
経営」のロシア語の略称。

ロシア革命(1917年)によって古くからの地主的土地所有制度は解体され、
土地の国有が宣言された。スターリン時代の1920年代末期(1928年1月4日)
に農業の全面的集団化が強制的に実行された。

屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるも
のの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつ
くられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた
作業日単位で行われていたが、ブレジネフ時代に入ると、職種ごとのノ
ルマと賃金表に基づく貨幣支給に変わって行った。

これに対して、ソフホーズは「国営農場」と訳されることからもわかる
ように、原則的に生産手段のすべてが国有化されており、ここで働くの
は賃金の支払いをうける農業労働者であった。

ソフホーズはコルホーズと比較すると、数は少ないが、社会主義的農業
の模範とされたこともあって、大農場が多く、国家の保護を受けて機械
設備なども整っていた。

フルシチョフ時代以降、経営力の弱いコルホーズを強化し、さらにソフ
ホーズに転じる政策がとられたが、ソフホーズ自体の生産の集約化は後
れ生産性の向上もなく、やがてソ連の解体により市場経済が導入される
と両者ともに解体の道をたどった。(マイクロソフト「エンカルタ」参
照)。

この急速な集団化は多くの犠牲者を出したが、反抗者の排除によるソビ
エト体制の安定化につながり、開拓地などに設立されたソフホーズ(国
営農場)とともにソビエト農業の基本構造となった。

第2次世界大戦でソ連軍に占領され、ソ連型社会主義体制へ移行した東
ヨーロッパ諸国でも、ポーランド以外はこのコルホーズと同形態の集団
農場による農業の集団化を実行した。

一方、ソ連国内では徐々にコルホーズ生産の非効率性が認識され、自留
地における農作物の自由生産と市場での販売が承認されていった。

それでも2億人を超えるソ連国民の食糧は自給できず、コルホーズの生産
性向上は歴代の政権にとって難問であり続けた。人々は働いてもサボっ
ても同じならみんながサボるようになる。

園田直外相時代(1978年―1981年)、アメリカが映したウクライナの衛星
写真を見せられてことがある。それは前日に播種した広大な麦畑の写真
だった。

種麦をコルホーズの人たちが撒いた夜、強い風が吹き、タネは殆ど飛ば
されてしまった。だが人々は「ノルマは果たした」といわんばかりに、
再度の播種には応じない実態を示していた。

やがて収穫の秋が来る。麦の収穫量が極端に少ない。責任はどこにある
か。ノルマの監視を怠った農相が解雇されてお終い。集団農場では働い
ても働かなくても収入は変わらないというのでは、やがて共産主義はつ
ぶれると思ったものだが、間もなく現実になった。

1991年にソビエト連邦が解体され、農業集団化が否定されると、コルホ
ーズの存在意義が問われるようになった。

ソ連型社会主義からの脱却を指向するウクライナなどの各国ではコルホ
ーズが解体され、自営農民の復活に向けた動きが進んだ。

似たようなものに人民中国の人民公社がある。しかし1982年、憲法改正
により廃止された。それでも毛沢東が死んで6年間は形式上存在した。ト
ウの好きな合理性に1番反するのが人民公社だったと思われるが。

1972年9月、時の総理田中角栄氏が国交正常化交渉を目的に初訪中した際、
中国側は北京郊外の人民公社を一行に見学させた。出てきたものは彼ら
が作ったコンクリート製の手漕ぎ船だった。

ソヴィエトに見捨てられて「自力更生」を自らに言い聞かせるしかない
毛沢東。畑で木屑を燃やして製鉄しようとしたり、こうして鉄の足りな
さをコンクリートで補おうとしたり。やがて行き詰まる事必定と見た。

だから毛に苛められたトウ小平が完全復活して経済の開放改革を打ち出
さなければ中国は大変な窮乏に陥っていた事は確かである。

余談だが、経済の改革開放にとって共産党は邪魔である。資本主義経済
は必然的に「統制」を嫌うからである。それでも共産党は資本に立ちは
だかるから資本は袖の下を贈ることで「統制」を逃れようとする。「汚
職」が必然化する。

国家経済を「統制」しなければ、政治的に共産主義政権は成立しない。
従ってトウ小平が経済だけの改革開放に踏み切った時、人民が天安門広
場で政治的な「自由」を求めたのは「必然」であった。

当然、トウは気付いたが後の祭り。如何ともしがたい矛盾を封じるため
には砲火でねじ伏せるしかなかった。当面は抑えたが自分の死後、共産
主義は崩壊する。さすれば自らの墓は暴かれるという屈辱が待ち受けて
いる。だから遺骨の撒布を命じ、墓は作らせなかった。

墓を作らせなかった点では周恩来もそうだが、2人とも中華人民共和国
がいずれ崩壊し、自分の墓を暴かれるという認識では一致していた。だ
から毛沢東は2人にいつも嫉妬心を持っていた。2008・01・01


2008年01月04日

◆ジョン万次郎の帰国

                     渡部亮次郎

遭難後、アメリカで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び、
やがて船員達の投票により副船長に選ばれたジョン万次郎が、1851年
(嘉永4年)、日本へ帰国を果たしたのが1月3日である。

中浜万次郎 なかはままんじろう 1827〜98 ジョン万次郎として知ら
れる。土佐の中浜浦(高知県土佐清水市)の漁師の家に生まれ、1841年(天
保12)14歳のとき、カツオ漁にでて遭難し、鳥島(→ 伊豆諸島)に漂着。
無人島の生活143日にして、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救
助された。

船号にちなんでジョン・マンの愛称でよばれた万次郎は、その利発さを
船長に愛され、マサチューセッツ州の捕鯨基地ニューベドフォードに伴
れた。

この地の学校を優秀な成績で卒業後、ふたたび捕鯨船に乗って働き、ド
レーク海峡や喜望峰を越え、太平洋、大西洋、インド洋を巡航、鎖国時
代の日本人としては珍しい世界体験をしている。

やがて乗組員の選挙によって副船長に選ばれたが、鎖国日本の外国船撃
退が、各国の捕鯨仲間に評判が悪いことを憂い、帰国を決意。

捕鯨の収入と、ゴールドラッシュに湧くカリフォルニアで働いて得た資
金で、捕鯨船アドベンチャラー号を買い入れ、1850年12月27日にホノル
ルを出発、翌51年(嘉永4)1月3日、沖縄の摩文仁(まぶに)海岸(糸満市)に
接岸した。

長崎奉行および土佐藩の取り調べを受けた後、藩士に登用されて中浜姓
を名のる。万次郎の見聞は、取り調べにあたった河田小竜を通じて後藤
象二郎や坂本竜馬にも影響を与えたといわれる。

その後、幕府に招聘されて江川太郎左衛門の手付(秘書役)となり、英語
教授、外交文書翻訳などを務めた、1853年のペリー提督の来航の際は、
徳川斉昭をはじめとする攘夷派は、万次郎がアメリカのスパイをするの
ではないかと懸念し、通訳に起用することに反対した。

しかし1860年(万延元)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使
節には通弁(通訳)主事に選ばれ、咸臨丸で活躍した。多感な青春時代に
アメリカを体験した中浜万次郎(ジョン万次郎)は、当時稀有(けう)な国
際的な視野を持った教養人だったといえる。

艦内での万次郎の存在は大きく、実質的には万次郎が指揮をとっていた。
咸臨丸にはアメリカの測量船のジョン・M.ブルック船長らが便乗し、航
海の技術指導をしたが、ブルックはその航海の様子を日記につけていた。

咸臨丸において、旧暦2月24日、艦長勝はサンフランシスコを前にして
自信が無くなり、秘かに万次郎に相談をかけた。万次郎は航海上のこと
一切を任せてくれるならば、無事着港を引受けると答え、勝は彼に一任
する。

26日カリフォルニヤの山を見、勝は大いに悦(よろこ)び卓絶な航海術に
は実に感心したと述べた。この話は中浜東一郎が父万次郎の直話とこと
わっている。勝のことだからこのような事があったかも知れない。

距離の測定。万次郎がホノルルから帰国の途につき、琉球近くなった時、
ある島を望遠鏡でとらえた。船長は10浬くらい、万次郎は15浬くらいと
言う。

しからば測量しようと、オクタントで測量したところ15浬あったとい
う。 オクタントは原理は同じく六分儀の前身で、90°まで測れる。

万次郎はのち薩摩藩で軍艦操縦や英語の指南役をつとめ、明治政府では
開成学校の英学教授となった。

プロイセン・フランス戦争(1870〜71)には、大山巌らとともに視察のた
めヨーロッパに派遣されたが、その後は病弱を理由に官途を辞した。

2000年(平成12)にアメリカの古書店で万次郎を救出したジョン・ホーラ
ンド号の乗組員ライマン・ホームズの航海日記が見つかった。その中に
は救出された時の様子や船での生活が生き生きと書かれており、万次郎
研究の貴重な資料といわれた。(c) 飯田嘉郎
Microsoft(R) Encarta(R) 2006から引用。

ジョン万次郎は、英語を憶えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音し
ており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なってい
る。

ジョン万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると、「こー
る」=「cool 」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「New
York 」等。

実際に現在の英米人にジョン万次郎の発音通りに話すと十分意味が通じ
る(多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似している)という
実験結果もあり、ジョン万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日
本人にも発音し易い英語として教えている英会話教室もあるらしい。こ
の項の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・01・01


2008年01月02日

◆新年早々の粗相

渡部亮次郎

2008年元日に「北京ダック」を配信したところ読者の一人から誤植を指摘
された上に見識の無さを激しく責めるメイルを戴いた。新年早々の粗相
を平にお詫びする次第。

<新年明けましておめでとうございます。いつも楽しく購読させていた
だいております。しかしながら今日の記事につきましてあまりにも酷い
誤字がありましたので、僭越ながら指摘させていただきます。

> 北京料理として有名な搾鴨子(カオヤーズ)を指す。
> これを搾炉と呼ぶかまど(竈)の中につるして

カオヤーズのカオは、中国語で〔火偏に考〕鴨子と書きます。
【搾】では全く意味が通じません。

> 蛭(ピン)に,甘みそやネギ,キュウリのせん切りといっしょにくるんで
食べる。

【蛭】(ヒル)ではなく【餅】です。
想像しただけで気持悪く、正に中華料理に対しての冒涜です。

双方とも(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)か
ら引用としてありますが、有料のオンライン事典のレベルの低さと、渡
部氏ともあろう人がこんな稚拙な間違いを見逃して正月早々多くの人に
配信したかと思うと残念でたまりません>。(投書者の氏名省略)。

よってご指摘の箇所を訂正して再配信する次第です。それにしても世界
大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスとは平凡社の世界大
百科事典をCDにして販売中のもの。酷い話だ。


私は故あって、60歳まで刺身を食べられなかったから、外食で驕るときは
いつでも中国料理だった。最も好きなのは鱶鰭の姿煮、次が北京ダック
だった。日本での中華料理はこれらが一番高価。

昭和47(1972)年9月、田中角栄首相に同行し、日中国交正常化交渉の取材
で北京を生まれて初めて訪問した時、市内にある北京ダック専門のレス
トランに案内された。

北京ダックは中国原産のペキン種と呼ばれる卵肉兼用のアヒルの通称。
また,これを材料とする北京料理として有名なカオ(火偏に考)鴨子
(ヤーズ)を指す。

生後50日前後のアヒルに高タンパク質の練り餌を1日2〜4回,機械で胃の
中へ押し込む強制給品を行う。この特別に肥育したアヒルを内臓を抜い
て空気でふくらませたものに,飴(あめ)を全身に塗って乾かす。

これを搾炉と呼ぶかまど(竈)の中につるしてナツメやアンズの薪で焼く。
途中,したたり落ちる油に香料と調味料を加えたものを何度も表面に塗
る。

焼きたてを薄くそぎ切りにし,小麦粉で薄いハスの葉状に作った餅(ピン)
に,甘みそやネギ,キュウリのせん切りといっしょにくるんで食べる。

北京料理は北京を中心に発達した料理。北京は古くから中国の中心となっ
た都で、宮廷料理の伝統があり、また、都に集まる調理人などによって
もたらされた中国各地の料理が加わり、洗練されて北京料理ができあがっ
た。

冬は寒さがきびしいため、油を多めに使い、強い火力でいためる「爆」
や、直火焼きなどの調理法が多く用いられる。油を多く使っても油っこ
さがあまりなく、歯切れがよい。味は一般に塩からい。2008・01・01


2007年12月31日

◆大晦日に死ぬと

                 渡部亮次郎

死ぬ日を選ぶ事はできないが、大晦日に死ぬと新聞の年表には残らない。新聞の大晦日に載る年表は前日までに作られるから、その人は、その年の逝去者名簿に載らない事になる。

その人の1人が牛場信彦(うしば のぶひこ)氏である。1984(昭和59)年12月31日ニ75歳で死んだ。福田赳夫内閣で外務大臣園田直の脇で対外経済担当大臣を勤められたからよく知っている。

牛場 信彦氏は1909年11月16日に生まれた。兄に近衛文麿秘書官を務めた牛場友彦がいる。

東京府立一中、第一高等学校を経て、昭和7年、東京帝国大学法学部卒業。同年、外務省入省。戦時中はドイツ、イタリアとの枢軸支持の外交官として活躍した。

戦後になると、武内龍次、黄田多喜夫ら、のちにこれらの事務次官となる2人のあとを受けて、新制・通商産業省3代目通商局長(在任:1952年8月1日―1954年7月15日)に就任。

以後、外務省経済局長、駐カナダ大使、外務審議官、事務次官を歴任した。

昭和45〜48年(1970年〜1973年)、沖縄返還交渉、日米繊維摩擦の交渉大詰めの時代に駐米大使を務め、全米50州余りを相互理解促進のため講演行脚に勤しんだ。

昭和52年(1977年)には、福田赳夫内閣にてその識見・人望の厚さを買われ、対外経済担当大臣に就任、欧米との経済摩擦緩和に東奔西走した。

昭和59年(1984年)、日米諮問委員会(日米賢人会議)では、日本側代表を務めた。1984年12月31日没。享年75。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

当時、外務省では「牛場さんの後につくときは気をつけろ、怪我をする」と言われていた。牛場さんはドアを開けて入ると、後に従ってきている部下の事など忘れて、後ろ手でドアを閉めてしまう。後ろの人は顔に怪我をする、ということであった。

対外経済担当大臣。国際経済問題に園田は弱いという評価を福田首相が下したわけで、園田氏は面子を潰されたわけだが、牛場さんには特別に外務省内の部屋を牛場大臣室として提供するなど気を遣った。

牛場さんもまた園田氏に気を遣い、日に1度は必ず連絡に現れた。秘書官として見ているとそれは実に微笑ましい風景だった。

牛場さん、若い頃はカミソリだった。部下の課長に「君、あれはどうなったかね」と聞いて課長が「ハ?」とでも言おうものなら「キミ、家に帰りたまえ」といった。局長と課長のキミとで「あれ」という懸案は1つぐらいしかない。それを「ハ?」とはなんだ、という事だった。

沖縄返還の実務をアメリカ大使として取り組んだ。それも並みの大使では無い・部下の書記官まで動員して上院、下院議員の説得に当らせた。息子たちはタカ派として育った・2007・12・30

2007年12月28日

◆改めてトウ(!))小平強靭

                   渡部亮次郎

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば小瓶と
渾名されている。また、唐辛子風味のナポレオン(身長150センチと小柄
ながら頭の回転が速く眼光人を刺す如く鋭かった)とも。

トウ蝟子(ハリネズミのトウ)・トウ矮子(チビのトウ)と呼ばれたり
もした。毛沢東はトウ小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

トウ小平氏を初めて見たのは1978年8月10日午後5時半(北京時間)北京
の人民大会堂でであった。日本政府が6年越しの「宿題」としてきた日中
平和友好条約の締結を「悲願」とする園田直外務大臣の秘書官として対
面したのである。

それは政治家園田直の政治生命にかかわる問題だった。世間は官房長官
から外務大臣に「出世」と考えたが事実は「追放」だった。岸信介氏の
策謀だった。だからせめて「宿題」の解決ぐらいしないことには「示し」
がつかなかったのだ。

我々は2日前の8日(火)夕方、日航特別機で北京空港に着いた。それまで
雨が降っていたらしく、出迎えてくれた黄華外相が「あなたは恵みの雨
を持って来てくれました」と歓迎の言葉を述べた。

対して園田外相は「中国では雨降って地流れるというかもしれないが日
本では雨降って地固まるといいます」と切返したことを覚えている。

簡単にいえば、生涯3度目の「復活」をトウ氏が遂げた前年夏から中国政
府は何が何でも日中平和友好条約を締結するよう、方針を転換していた。
この時点では日本の資本と技術に頼るしかなく、条約締結を急ぐ事が急
務になっていた。それを日本大使館が知らなかった。

それを後になって事務方は知っていたように言い、「園田大臣は北京に
は遊びに来たようなものだ(伴公使=当時)と10年後に喋っているが、そう
なら予め確認して大臣に報告するのが公務員の責務では無いか。

それが出来ないから代議士に何度立っても当選できなくて、あたら秀才、
尾羽打ち枯らした末に非業の死を遂げる事になるのだ。

ところで、その後トウ(!))氏は1978年10月、日中平和友好条約締結を
記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談
した。

昭和天皇とはできるだけ対等に対応しようと威張っているように見えた
が、会談を終えたら、すっかり敬服したような態度となり、天皇陛下の
後を歩くようになったことを覚えている。

その後、京都・奈良を歴訪した。日本経済発展の象徴たる新幹線を初体
験。「鞭で追い立てられているようだ」と感想を述べた。中国近代化の
必要性を実感したのではないか。

日産から贈与申し出のあった高級車プレジデント。断るかと思ったら二
つ返事で受け取った。帰国後、分解したかも知れない。コマツにトラク
ターの注文が舞い込んだ、しめたと思ったら4台限り。分解してコピーを
作るためだったという実例がある。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「3中全会」(中国共産党
第11期中央委員会第3回全体会議)において、文革路線から改革開放路
線への歴史的な政策転換を図る。これで毛沢東(既に死去)を超えた。

またこの会議で事実上、中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議
内容が発表された時、全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残って
いる。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教
条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実
権を完全に握った。

(華国鋒を騙して3度目の復活をしたのだ)。だが、人民大会堂では華国
鋒の手下のように振舞っていた。大変なズルシャモンであったのだ。

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2007年12月26日

◆証言 戦後政治の舞台裏

                 渡部亮次郎

こう言う本を元労働大臣・防衛庁長官の栗原裕幸さんが出版された。
正式には「証言 本音の政治 戦後政治の舞台裏」内外出版株式会社発行 ISBN978-4-931410-C0031 1715円。

あとがきによれば満87歳。1993年に政界を引退したが31年に亘った政治家生活を振り返って、後世に自らを伝える事も意義あることと考え、敢えて刊行に踏み切った、とある。

参院時代、自民党国対委員長代行として採決強行の末に成立を見た大学紛争解決のための大学運営臨時措置法案の処理をめぐる真相を初め、関係する政治家が殆ど墓場に持て行ってしまった数々の緊迫する場面についてできる限り「本音」を吐露し、或いは暴露している。

有名な重宗雄三参院議長4選出馬断念の声明を執筆したのは当時NHKの政治記者だった渡部亮次郎君だったと、私も登場している。恥ずかしい次第だ。

栗原裕幸(くりはら ゆうこう)1920年6月5日、静岡県三島市に生まれる。1944年東京帝国大学法学部を卒業。学徒動員を経て戦後、静岡県農業会に就職。1962年以来静岡地方区から参院議員に2回当選。

1972年、衆院に転じ旧静岡2区から連続7回当選。旧池田派(大平、鈴木、宮澤派)に属す。1978年第1次大平内閣に労働大臣として初入閣。1983年第2次中曽根及び86年第3次中曽根内閣でいずれも防衛庁長官を務める。93年引退。

大学法案に始まり、沖縄国会、日中平和友好条約、大福提携から対立、雇用国会、大福40日抗争、防衛費のGNP1%突破、FSX交渉、リクルート事件、伊東正義の反骨など、栗原氏にしても引退後15年経ってようやく語れる話ばかりである。

いわゆる大福密約について片方の福田赳夫氏は「密約文書」の存在を著者で否定して逝去したが、私は連署者の1人である園田直氏からそれぞれ署名の入った現物を見せられている。

この動きについて大平側近だった栗原さんは「東京品川のホテルで福田、大平、保利茂、園田、鈴木善幸会談で大福提携が正式に決った夜、福田さんから私に電話があり『園田君から経過をよく聞いております。有難うございました』と丁寧なお礼の挨拶があった」として、事実を裏付けている。

従って、1978年5月25日大平氏としては総裁選に事実上の出馬表明はしたものの「大平さんは、この段階では、心中、福田さんは必ず自分に譲ると考えていた」。

「それは、先ず福田さんを先に総裁に推した事。保利、鈴木、園田の立会いの上で「2年で交替」という話を福田サイドが提案した事。福田さんと時折交わす話の節々などからいえばそう考えるのも無理は無い」。

しかし「福田側の見方は・・・懸案の成田開港、日韓大陸棚協定、日中平和友好条約などを処理し、福田内閣の国民的評価は高い。今更2年交替の古証文など馬鹿げている」

しかし約束は約束。それを破って喧嘩しようというのなら「やってやろうじゃないか」と怒ったのは大平派よりもロッキード逮捕後「闇将軍」と揶揄された角栄に率いられる田中派だった。

知将・後藤田正晴の陣頭指揮の下、一糸乱れぬ絨毯爆撃を展開。あっという間に形勢を逆転。福田氏は「天の声にもたまには変な声もある」との棄て台詞を吐いて退場。

したがって続く「40日抗争」は何のことは無い福田氏の私怨晴らしに過ぎなかったのだが、面子上、これを公憤に摩り替えたから自民党はあわや分裂の瀬戸際まで追い込まれたのであった。

こうした政局の舞台裏は殆ど明かされぬまま闇に消えるのが普通だが栗原さんは引退後15年にして突如344ページの大作を世に問うて舞台裏を敢えて明らかにした。

ほかにF−1の後継機FSXの開発をめぐる日米交渉の凄まじいまでの迫力ある防衛庁長官としての主張なども臨場感溢れる書き込みは、当事者が明かす事実だけに読んでいて緊張して来る。政局取材に当たるものの必読の書である。

さらに敢えていえば、これから防衛大臣たらむ政治家は政治の鑑として読むべきである。

内外出版株式会社は目黒区鷹番3−6−2
電話03−3712−0141

執筆:07・12・25

2007年12月25日

◆おでん風土記

                 渡部亮次郎

大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「K輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


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2007年12月24日

◆気高い「きだかい」

                   渡部亮次郎

2007年12月19日NHK正午のニュースでアナウンサーが気高い(けだかい)と読むべきを「きだかい」と読んだと呆れて電話があった。記者の先輩だった人からである。

気高いがなぜ「きだかい」になったのか理由は調べようがない。深夜便に出るようになった男のアナウンサーは股引(ももひき)を「またひき」と読んだことがある。

私がNHK国際局でデスクをしていた時、女子アナウンサーは民社党の春日「はるひ」委員長と読み、内科、外科(がいか)と読んでこっちを仰天させた。

アナウンサーとは難しい商売である。間違って覚えてしまっている言葉もあるかもしれないが、つい咄嗟に口を出てしまう誤りがあっても、聴取者には言い訳が利かない。因果な職業であり、同情する。

しかし政治家の日本語誤用は許されない。額賀福志郎財務大臣の言語道断を「げんごどうだん」には呆れた。彼は早稲田大学を出て産経新聞の政治部記者だった。角栄番から茨城県議を経るという経歴豊富な教養人であるはずが、様にならない。

論功行賞を「ろんこうぎょうしょう」と連発した大臣がいた。なんとかコンチェルンの一族だったが、どの学校で何を習ったのか、早くに死んだから恥を長く曝さないで済んだと言うべきだろう。

自民党のある国対委員長は「がっぽうてきてだん」をとって野党の議事妨害を排除するという。記者団はみんな首を捻ったが、長老があとで「合法的手段」と助けてくれた。

それ以前には本会議場(全議員が一堂に会する会議)での演説で「ここで水を飲む」とト書(とがき)まで読んでしまった代議士がいたそうだし、追加更正予算を「おいかさらまさよさん」といった代議士もいたそうだ。

以後は学歴も向上したからこうした話題は少なくなったが、額賀氏の「げんごどうだん」は久々の事だったので言語道断の日本語と話題になったわけだった。

しかしわが大臣も旗幟鮮明を「きしょく」鮮明というものだから
さぞかし外務省は陰で笑った事だろう。私も注意する勇気はなかった。殺陣(たて)をさつじんとも言った。

こういう話題は探せばいくらでもあるはずだ。しかも今は学歴は高いが勉強は全くせずに社会に出てくる子供が益々多くなっていることだから「きだかい」は序の口かと思う。多分「じょのくち」は分からないだろう。2007・12・21

2007年12月23日

◆所得倍増政策の頃

                    渡部亮次郎

産経ソウルの久保田るり子記者は「経済大統領」をアピールした李明博氏は、20代から30代の若者層の支持を集めた。特に20代の保守化現象は今回選挙の特徴だった、という。2007.12.19 22:46。

韓国青年たちの「政治理念よりも就職を」という主張を耳にするたびに思い出す事は、安保改訂反対で一時は自民党岸内閣を倒した大学、高校生たちが次に登場した池田勇人首相の「所得倍増論」でシュンとなった日本の1960年代である。

あれから50年近く経って韓国で学生たちは「88万ウォン世代」と呼ばれている。88万ウォン(約10万円)とは大卒にも拘らず非正規職にしか就けない大卒の平均給与額だ。

盧武鉉政権の経済運営の失敗は若年失業者を増加させ、大卒就職率は48%まで低下、若者層は革新政権に見切りを付けたのだ。「李明博氏圧勝の背景には88万ウォン世代の逆襲」があったのだ」との久保田記者の指摘には説得力があった。

10年前、金大中氏が大統領に当選したのは、朴正煕大統領以来の政治的締め付けに反発する若者の心が、共産主義体制への恐怖心を超越しても民主化に憧れる20代の心を捉えた。

ところが「韓国の20代はこれまで歴史的には過激で政治的だった。革命を求めて連帯してきた。ところがいまは脱政治で保守的で父母にも従順だ。

昔はアルバイトで生活できたが、いまは学費もデートも結婚も、父母に頼らないと生活できなくなったからだ」と禹●(=析の下に日)熏氏はいう。

韓国の非正規職従事者は約800万人、20代で公務員を含む希望の就職先に就けるのは約6%に過ぎないとの調査もある。

韓国経済は10年前の金融危機(IMF管理下)で構造調整を余儀なくされ、盧武鉉政権の大企業優先と公権力拡大の政策は企業の雇用創出能力を激減させた。その結果、経済成長率は約5%だが、大卒は就職難という構造的問題に直面しているのだ。

これについて半島問題に詳しい西岡力氏(東京基督教大学教授)は産経新聞(2007・12・21)の寄稿の中で「(青年の)保守化の流れを作り出した要員は第一に慮政権の無能力と失政だ」と断定している。

この政権が重用した人材は専門知識と実務経験の不足な左翼革命運動家出身だった。ために政策(の誤りから来る)朝令暮改、不正・腐敗蔓延などが繰り返されたという。

思い起こせばわが国の1960年、今考えてみれば岸信介首相の日米安保条約改訂は、歴史の流れに沿った真っ当な流れだった。それにも拘わらず、当時の日本社会党や日本共産党や総評は、安保破棄乃至廃棄に結びつけた大衆運動に繋げようとしてマスコミや学生を操った。

金大中や慮もまた膝を屈してでも北朝鮮と歩みを共にしようとして20代の青年を民族運動の観点から煽った。狙いは当初は当った。しかし戦略的には友好国日本や米国を仮想的視した結果、外資の投資が枯渇し経済が疲弊し、若者の就職先がなくなった。

投票年齢19〜39歳までの若年層の全投票者に占める割合は43・9%。この層が「就職問題を解決する」「経済を生き返らせる」と公約して、経済人としての実績のある李明博氏を支持したのは当然だ。

40代(22・5%)も李明博氏への支持が強かった。40代は盧武鉉政権誕生の原動力となった386世代(当時30代、80年代に民主化運動に参加、60年代生まれ)だ。5年前に進歩政権を選んだ、当時の盧武鉉支持層がそのまま李明博氏支持に回ったことになる。

世代論に詳しい高麗大の李名鎮副教授(41)は「若年層の保守化は同時に新しいものへの志向でもある。李明博氏のような政治家は、韓国の既存の政治家にはいなかった。

盧政権の選択は反エリートだったが、李明博氏は過去の政治へのアンチテーゼで、経済回復と発展への選択ともいえる」と分析している。

安保闘争のときの1960年6月も高度経済成長など想像もできない貧しい時代だった。政治のスローガンに「経済成長」を掲げる首相はどこにもいなかった。

しかし倒れた岸の後に登場した池田が「所得」を話題にするや否や国民、若者もまた雪崩を打つように「倍増」に群がったのだった。

それを考えれば韓国は怒るかも知れないが、これから「理念」よりも「実利」「所得」の歩みを始めるのではなかろうか。いうなれば韓国は「金大中」に漸く別れを告げたのである。文中敬称略。2007・12・21