2008年04月05日

◆健康百話 「変形性関節症」って?

小池達也(医師)


コモンディジーズ、つまり「ありきたりの病気」と呼ばれる疾患群があります。誰がかかっても不思議ではない、めずらしくない病気という意味です。

整形外科の分野では、腰痛・骨粗鬆症・変形性関節症などが含まれますが、そういう病気ほど原因がはっきりしていなくて、治療法も確立していません。そこで、今回はその代表である変形性関節症を取り上げてみましょう。

変形性関節症とは、炎症がひどくないのに関節を構成する軟骨が次第に減少し、疼痛が生じ関節の動きが悪くなる病気です。さらに進行すると、骨棘と言われる骨の出っ張りが周辺部に出現し、さらに関節の動きが悪くなります。世間でお年寄りが、「膝に水が溜まってね、大変よ」と言ってる病気です。

治療法には、運動療法・薬物療法・装具療法・手術療法がありますが、膝の変形性関節症を例にとって説明してみましょう。

運動療法として、最も有名で効果も証明されているのが、大腿四頭筋訓練です。

まず、実際の方法を示しますと、仰向けに寝て片足を膝を伸ばしたままで45度くらい持ち上げます。このとき足首も頭の方へそらせた状態で5つ数えて降ろします。

これが1回で、30回繰り返して1セット、一日に片足3セットずつ繰り返してください。これまで行われた研究で、この運動を繰り返していると、関節に溜まる水が減少し、痛みも軽減し、さらに関節内の水の粘度が上昇して正常に近づくことが報告されています。
 
お金もかかりませんし、副作用もありません。是非やってみてください。ただし、根気は必要です。

次ぎに装具療法です。変形性膝関節症の方は、O脚の方が多いことが分かっています。まっすぐに立って足をそろえて、それでも両膝の間が空いてしまう人です。力学的に考えて、O脚の方は膝の内側ばかりに体重がかかることになり、軟骨の「片減り」が起こってしまいます。

そこで、足の裏に外側が少し高くなった敷物を入れて、体重が内側に集中してかからないようにする方法がよく使われます。実際にこの装具を入れることにより、痛みがかなり軽減される方もおられます。ところが、考えてみてください、足の裏から膝まではかなりの距離があります。

足の裏に薄い敷物を入れただけで本当に効果があるのでしょうか?実際に、これを研究された先生がおられました。すると、足の裏と膝の間には足首の関節があります。せっかく足の裏に敷物を入れたのに、その効果が足首で吸収されてしまうという現象が観察されました。

どうすればよいか?

その先生の結論は、足首まで覆うような装具を作ればより効果が出るというものでした。実際に、そういう装具を作ってくれる装具会社もあります。足の裏に敷くだけでは効果の無かった方は試されても良いかもしれません。

大阪市立大学大学院医学研究科リウマチ外科学 
(NPOおおさかシニアネット 転載許諾)

2008年04月04日

◆脱北者が狙う日本人学校

                  渡部亮次郎

世界各国にある日本人学校は、治安、政情が諸外国に比べ安定している
日本国内の学校に比べて危機管理レベルは高く、多くの日本人学校の校
門は自動ロックで常に施錠され、高い塀や有刺鉄線で囲まれ、警備員が
24時間または授業時間中に常駐している。

学生証、保護者証、来校者証を発行し、IDチップ認識システムを導入し
ている学校もある。

ほとんどの日本人学校においては、登下校時の安全
を確保するためにスクールバスや保護者の送迎による登下校のみを許可
している。

また、政治情勢が不安定な国では現地の日本大使館や現地警察との協力
体制を構築している他、日本国内に緊急連絡室を持つ学校もある。

それでもまだ多くの日本人学校では災害、テロ、反日デモ、感染症に対
する緊急時対策は不十分だといわれている。

使えるマニュアルの作成、備品購入と貯蔵、また災害だけでなく爆弾テ
ロ、暴動、クーデター、ゲリラ乱入、不審者侵入、スクールバスへの投
石などを想定した効果的な対策や避難訓練の充実が必要とされる。

文部科学省は所管の海外子女教育振興財団などを通して日本人学校を始
めとする在外教育施設の安全対策の費用を一部負担している。

防護フェンス、外壁嵩上げ 、有刺鉄線、門の補強、自動開閉ゲート、イ
ンターホン、非常口、遮断機 、防犯カメラ、感知式ライト 、緊急サイ
レン、携帯無線機、携帯誘導灯、校内放送設備。

防煙マスク、校舎の防弾ガラス 通学バスの防爆シート・飛散防止フィル
ム・銃弾貫通防止フィルム 、緊急避難用はしご、緊急時用水のための地
下水ポンプといった物品の設置・購入を援助費で補っている。

中国にある日本人学校が頭を悩ませているのは、難民認定と亡命を求め
る北朝鮮からの脱出者の駆け込み事件である。北京日本人学校は大使館
と異なり治外法権を持っていないにもかかわらず、2003年から2005年の
間に計5回、合計56人の脱北者が侵入した。

関心が北京に行っている間に、大連の日本人学校でも同様の駆け込みが
計画されたが未遂に終わっている。

北京日本人学校はまず在北京日本大使館に連絡を取り、脱北者は大使館
に引き取られて、その大部分が韓国への亡命を果たしている。中国は脱
北者を「不法入国者」として北朝鮮に返す協定を北朝鮮政府と結んでい
るため、この様な日本人学校の対応に非常に不満を持っている。

2003年に日本人学校が増設許可を申請したところ、その見返りに外交関
連施設として優遇措置を受けていた立場から、中国政府が直接介入でき
る一般校へ1年以内に登記変更するように要求されたり、「校長が脱北者
の身柄を日本大使館でなく現地の警察に即時に引き渡さなければ、警察
は日本人学校の安全を保証できない」と脅迫に近い通告をしている。

日本国内の世論は、「危険を冒して逃げてきた者なのだから門前払いを
せず校内で匿うべきだ」という意見と、「大使館ならまだしも治外法権
のない日本人学校に駆け込む者は法律に従って中国側に引き渡すべき」
だという意見に分かれる。

実際に日本人学校に通う子ども、その保護者、また子ども達を預かる側
の日本人学校にとっては、切羽詰った脱北者や中国の公安当局が校内で
武力行使することも考えられ、何事も安全を第一に行動しなければなら
ない。

学校はセキュリティーを強化し、警備員を増員し、脱北者侵入を想定し
た避難訓練も行い、不審者侵入に非常に神経をすり減らしている。

実際に判断をし責任を取るべきである日本国の特命全権大使ではなく、
その様な責任を与えられているわけではない一学校の校長に、日中関係
を左右するような判断と責任がつきつけられているのは理不尽であると
いう意見が多い。2008・03・02
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2008年04月02日

◆天風門下だった園田直

                  渡部亮次郎

4月2日は私が大臣秘書官として仕えた元外務大臣園田直(そのだ すなお)の祥月命日である。昭和59(1984)年のこの日の朝、糖尿病による腎不全のため慶応病院で死去した。僅か70だった。インスリン治療をしていれば後20年は生きられたのに。惜しい人だった。

ところで園田氏は生涯に結婚を3度している。政界では松谷天光光(てんこうこう)との「白亜の恋」で2度目の結婚と思っている人が多かったが、実は、その時の先妻が2度目。日中戦争に志願する以前、京都で山口県出身の女性を入籍、男の子をもうけている。直明(故人)といった。

母子をを天草の両親に預けて何をしたかというと、中国出奔。「狭い日本に住み飽きた。支那にゃ4億の民がある」と青年たちが「中国浪人」に憧れた時代。妻は郷里に出奔。

戦後、代議士になったと聞いた元妻が議員会館に訪ねてきたが面会を拒否。それっきり消息は途絶えた。このため直明氏は死ぬまで母を恋しがり、アルコール依存症になった、といわれた。父より早く死んだ。

園田氏が天風会に入門したのは衆院議員当選9回ながら未入閣だった昭和39年ごろ。衆議院副議長だった。当時、総理大臣佐藤栄作氏は、自民党永年の懸案だった紀元節の復活に腐心、策を探っていた。

それを知った園田氏は野党第1党(2党は民社党で公明党は衆院に未進出)の国対委員長石橋政嗣(後に委員長)と組み、「建国記念日」に「の」を入れて「建国記念の日」とし、いわば換骨奪胎を図る形で解決。政界に「異能政治家」と注目されるきっかけとなった。

中身は聞き出したことは無いが、この間、しばしば中村天風氏に教えを乞うていた事は知っている。園田副議長担当記者だった私も「合宿」に誘われた事もあるが、断った。精神修養とか宗教などには興味が湧かない。

断ったといえば「合気道」への入門も断った。私の中学、高校時代は進駐軍の占領時代で、剣道も柔道も禁止されていた時期。だから武道には一切近付かなかった。汗を流して同性と取っ組み合いをするとは、考えただけで身震いがした。

建国記念の日法案の成立を「手土産」に第2次佐藤内閣に厚生大臣としてやっと初入閣。選挙区でもある熊本県内での水俣病を国として初めて公害病に認定するなど佐藤内閣の「好一点」といわれたりしたが、財界の猛反発のため、次の入閣まで10年間「冷や飯」を食う。

そもそも中村天風とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用する。

<中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 ―1968年12月1日)は日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。本名は中村三郎。

1876年、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として現東京都北区王子で出生。父は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。

福岡市の親戚の家に預けられ、福岡の名門校、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。家伝の随変流の剣術と居合も修行した。幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能になる。

柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得る。

16歳の時に頭山満の紹介で陸軍の軍事探偵(特殊工作員)となり、満州へ赴く。軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。

1904年(明治37年)3月21日コサック兵に捕われた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。

日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。

イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行
く答えを得ることができなかった。

1911年日本への帰国の途上、カイロでインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガの麓で2年半修行する。

1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。その謝礼として財産を得た。東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。

1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。

1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。戦後の1962年、国の認可により「財団法人天風会」となる。1968年12月1日死去。享年92。

「笑顔は万言に勝るインターナショナル・サインである」という言葉を残している。

中村天風に指導を受けた者のうちの著名人。

東郷平八郎 後藤新平 原敬 西竹一 双葉山 定次 山本五十六 浅野総一郎 杉浦重剛 石川素童 山本英輔 尾崎行雄 三島徳七 重宗雄三 左藤義詮 倉田主税 駒形作次 飯田清三 村田省蔵  丹羽喬四郎 松本幸四郎 北村西望 三遊亭円生 大佛次郎 園田直 堀越二郎

松田権六 内海倫 佐々木義武 越後正一 植芝吉祥丸 宇野千代 広岡達朗 安武貞雄 岩松三郎 杉山彦一 島中俊次 素野福次郎 松下幸之助 稲盛和夫 ロックフェラー3世>

植芝吉祥丸とは「合気道」の創始者。園田氏を天風氏に引き合わせたのは植芝氏と思われる。園田氏は直弟子で合気道8段だった。
2008・04・01

2008年03月31日

◆大連立は「小沢提案」と首相

                  渡部亮次郎

<福田首相は30日のNHK番組で、昨年秋に民主党の小沢代表との党首会談で協議した自民、民主両党による大連立の構想について、小沢氏からの提案だったと述べた。

首相は、参院で与野党が逆転した「ねじれ国会」で政策遂行が難航していることに触れ、「小沢代表も、こういう事態はよく察知され、『連立を考えよう』という提案をされたと私は思う。小沢代表と同じ気持ちだ」と述べた。> 3月30日20時58分配信 読売新聞

この点について産経新聞客員編集委員(元政治部長)花岡信昭氏は
ご自身のメールマガジン550号[2008・3・30]で依然、大連立の可能性あり、と以下のように指摘している。

<小沢氏は福田首相からの電話にも出ないそうだから、なんともはやである。

とはいえ、まだ希望はある。福田、小沢両氏は昨年の大連立構想でいったんは歩み寄った仲だ。10、11月に党首会談が2回開かれたことは伝えられているが、実はこれ以外にもひそかに3回程度は会っている。

それまでは疎遠な関係だったが、互いに、よけいなことは口にしない、シャイでぶっきらぼう、といった性格が似通っていることを発見して、「気脈が通じる関係になった」(政界通)ともいわれる。

となれば、大連立構想は完全には消えていないとみるべきだろう。参院で与党は過半数に17議席不足しているから、この隙間(すきま)を埋めるだけの「中連立」という手もある。

日銀総裁人事で福田首相が武藤敏郎(としろう)氏(64)と田波耕治(たなみ・こうじ)氏(68)を相次いで提示したのは、小沢氏の了解があったためという解説もある。

大体が、そういうことでもなければ、民主党が同意しないことが分かりきっている旧大蔵事務次官出身者を提示したりはしない。>

そうであるなら福田発言は、小沢氏の手の内を暴いたに等しくはないか。大連立反対でいきり立っている民主党内の反小沢勢力をさらに刺激し、小沢氏の動きを封じる以外の何物でもないと思えるからだ。

<事態打開に向け、首相は民主党の小沢一郎代表に党首会談を求めているが、小沢氏は「会ってもよいが、かみ合わない」とにべもない。首相は30日のNHK番組で「粘り強くというが粘り気にも限度がある。玄関どころか門前払いという現状ですかね…」とぼやいた。>産経News 31日

福田首相とは昔、福田赳夫内閣で、福田氏が総理秘書官、私が外務大臣秘書官で働いた仲で、性格やクセも多少は知っているが、いわゆる奇策縦横の人では絶対にない。泥縄といわれようと、縄が必要である限り綯う人である。

したがってNHK番組で「暴露」したのは何らかの「波紋」を期待したものでは無いだろう。これによって小沢氏の足を引っ張る事を計算したものでもないはずだ。小沢氏を窮地に追い込めば小沢氏が「反省」でもすると単純に考えたのかもしれない。

明日からボン(ドイツ)でのサミットだという1978(昭和53)年7月14日のパリ祭のコンコルド広場。大統領も到着して行事が賑やかに始まっているというのに、広場を見下ろすホテル・クリヨンで赳夫総理は記者懇談を中断しようとはしない。

記者団は外の騒ぎに気を取られて総理懇談どころではない。それなのにサミットとは、と「勉強」を続ける総理。「彼らはサミットの何たるかをわかっていないから教えてやるべきだと進言したんだ」と康夫秘書官。

ここまで来て分かっていない者にここで教えたって分かるはずが無いという私。意見は一致しなかった。随行した3閣僚はそれを他所に「ポスト福田」をめぐって密談に余念がなかった。

泥棒が既に逃げた後でも縄を綯うというのが康夫総理の性格である。奇策をと願う大方の期待は水泡に帰する事、間違いない。2008・03.31

2008年03月29日

◆民主党の先も明るくない

渡部亮次郎

日本人は、成功して陽の当たる道を歩いた頼朝より結局報われない悲劇のヒーロー義経を好む。民主党は昨年夏の参院選挙では判官だったが、経済界が混乱した今となっては判官は自民党になった。次期総選挙で民主党は負ける。

様々な調査を分析すると、国会を混乱させる事によって福田政権の打倒を実現し、民主党政権を樹立するという民主党の戦略は国民の支持を失っている。小沢代表は戦略を間違えた。

産経新聞の元政治部長花岡信昭さんは2008年3月中旬、モスクワに出張された。それを26日の産経新聞で触れたが、次の1節が気になった。

<先週の数日間、粉雪の舞うモスクワで過ごした。「日露専門家対話」というシンポジウムに招かれて、日本政治の現状を報告した。

「衆参ねじれ」を背景にした混乱は、向こうの日本研究者にも理解不能のようで、説明に難儀した。(中略)モスクワ訪問は学者、政治家ら十数人のメンバーだったが、その中に、民主党の前原誠司副代表(元代表)もいた。

この重大な時期に国会を離れていたのは、不毛の攻防戦から距離を起きたかったためではないか。>

また一流商社マンの泉幸男氏は自らのメールマガジンで自らがしばしば仕事で滞在する台湾について、その政治状況に触れた後、

<さしずめ小沢一郎氏などは、馬英九当選者のひそみにならい、衆院選に勝って民主党の首相を成立させ、「ねじれ国会」解消でとんとん拍子の田中角栄式政治を……と夢見ているかもしれない。

国民党の立法院がこの8年間、陳水扁大統領の足を引っ張りつづけたよ
うに、民主党の参議院も自民党政権の足を引っ張りつづける。きっと国民は「ねじれ解消」を何よりも切望して、衆院選でも自民党を負けさせるだろう……というわけにはいくまい。

それなりの新鮮感を武器に闘った台湾の馬英九陣営と異なり、日本の民主党執行部はあまりに古顔揃いだ。

参院選のときに、日本の一部をおおった漠然とした期待感は、「何でも反対」戦術を見せつけられて、萎えきった。>(26日)

大學出、中堅サラリーマンが、支持しかかった民主党について、硬直した国会対策を見て「萎えきった」とは尋常ではない。民主党はこうした批判に全く気付いていないのだ。

確かに福田首相や伊吹幹事長の国会対策は上等とはいえないにしろ、民主党の「何でも反対」と映る国会戦術は、それ故に潰えた嘗ての日本社会党を彷彿とさせ、国民に決して好い印象は与えていない。

ガソリンが1リットル当たり25円も安くなれば消費者が一時的に民主党を評価するだろうが、その代わり空く地方への道路財源の穴はどうするのか。そんな事は知らぬことでは、地方から猛反撃を食うことは必定だ。

百戦錬磨の小沢代表。まさかこれだけで福田倒閣が実現し、自らが直ちにそれにとって替われると思っているはずは無い。いわゆる「大連立」に応じた際、その理由として自ら説明したように、民主党に政権担当能力に無い事を挙げたではないか。

本来の小沢であれば一般財源化プラス何かしらを引き出して引き下がるというのが角栄直伝の戦術だった。それが益々過激化する硬直戦術にも口を出して止めよういるそぶりは見えない。

おそらく「行け行けどんどん」といきり立つ過激勢力を抑える「統治能力」を失い、戦術論への立ち入りを阻止されているのでは無いか。或いは党内が分裂寸前なので、過激論でしか党内を纏めることが不可能になっているのか。

なんだか悶える自民党の将来も暗くなっているが、取って替わるべき民主党にも、明るい日差しは全く見えない。文中敬称略。2008・03・27

2008年03月28日

◆今に続く西山事件

                  渡部亮次郎

1972(昭和47)年3月27日に「西山事件」が始まった。西山太吉は毎日新聞東京本社政治部の外務省担当キャップ。その前の総理官邸クラブでは衝立を挟んで向かい合わせという身近な存在だった。

その後、西山は外務省担当となり、私は衆議院記者クラブを経て自民党福田赳夫担当となり、いよいよ近付いた「角福戦争」の取材に忙殺されていた。

沖縄返還を確実にした佐藤栄作首相は、それ故に求心力を失いつつあったが、外相福田赳夫に政権を譲るハラに変化は無いと自民党内は考えていた。しかし、ライバル田中角栄は「禅譲」を阻止すべく虎視眈々としていた。

そうした中、3月27日午前、衆院3階の第1委員会室での予算委員会で社会党の若手議員横路孝弘が右手に1通の外務省公電のコピーを翳し、「沖縄返還をめぐって日米間に密約あり」と暴露した。「西山事件」の始まりだった。

暴露されたのは1971年5月28日付けで愛知揆一外相が牛場信彦駐米大使に宛てた、愛知外務大臣とアーミン・マイヤー駐日大使会談の内容及び、同年6月9日付けで福田赳夫外相臨時代理と中山駐仏大使の間で交わされた井川外務省条約局長とスナイダー駐日公使との交渉内容の合計3通だった。

この電信内容は、返還に伴う軍用地の復元補償で、米国が自発的に払う事となっている400万ドルを実際には日本が肩代わりする旨の密約の存在が露呈させるものだった。

これらは西山が横路に手渡したものであり、当然ながら野党は大きく問題にしたが、政府の側は「政争の具にした」と認識し、誰が・なぜ・いかなる目的を持って機密文書を漏洩したのか、その背後関係を調べようとした。

西山は、電信内容から個人情報の手がかりを消すことなく横路に手渡したため、決済欄の印影から、文書の出どころが安川壮政治担当外務審議官と分かってしまった。私はこのことにとても立腹したものだ。

この間、毎日を初め朝日などマスコミ各社は「報道の自由」を掲げて居丈高に政府を非難した。しかし、佐藤首相は薄ら笑いを浮かべながら余裕綽々だった。

3月30日 外務省の内部調査で、外務審議官付女性事務官蓮見喜久子が「私は騙された」と泣き崩れ、渋谷のホテルで西山に機密電信を手渡したことを自白した。

事件暴露から8日後の4月4日、外務省職員に伴われて蓮見が出頭、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕。同日、同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で西山も逮捕された。逮捕された西山は情報源が女性の蓮見事務官であることを特に秘匿せず供述している。

4月5日、毎日新聞は朝刊紙上に「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開した。

4月6日、毎日新聞側は西山が女性事務官との情交関係によって機密を入手したことを知る。しかしこの事実が世間に公になることは無いと考えて、「言論の自由」を掲げてキャンペーンを継続。

しかいし4月15日、起訴状の「女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して」というくだりで、被告人両名の情交関係を世間が広く知るところとなる。

ちなみに、この起訴状を書いたのは当時東京地検検事の佐藤道夫(のちに第二院クラブ、民主党参議院議員)であった。

こうして、世論は問題の中心をスキャンダルと認識し、密約の有無から国民の目はそれていった。また、政府は国家機密法の制定を主張した。

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2008年03月27日

◆ベートーヴェンの命日

渡部亮次郎

3月26日は楽聖忌として知られるが、これはベートーヴェンの命日だからである。40過ぎの頃、ボンの生家を訪ねたことがあるが、休日で入館できなかった。以下「ウィキペディア」で「勉強」する。

《楽聖》は他にもバッハやモーツァルト、ショパン、エルマン(ヴァイオリニスト)などにも冠される称号であるが、単に《楽聖》とだけ言った場合はベートーヴェンを指すことが殆どである。日本では《楽聖》といえばベートーヴェンが定着している。

ところが、容姿は小太りで身長も低く、黒い顔は天然痘の痕で酷く荒れていたという。表情は有名な肖像画の数々や、デスマスクや生前ライフマスクを作っていたこともあり判明している。生涯独身。

若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなり、「汚れ熊」が彼のあだ名となった。そうした風体のため、弟子のチェルニーは少年時代に初めて会った時、ロビ
ンソン・クルーソーを思わせる、という感想を抱いた。

浮浪者と間違われて逮捕される事も何度も有った。ただ身なりには無頓着だったが手だけは念入りに洗うのが常であった。

性格は、ゲーテに「その才能には驚くほかないが、残念なことに傍若無人な人柄だ」と評されるように、傲慢不遜であったとされる。頑固さは作品にも反映されている。ゲーテには絶交された。

このように非常に厳しかった反面、実は冗談・語呂合わせを好んだ。諧謔性が発揮された作品も幾つも残っている。また自分も必ずしも楽譜通りに演奏しないのに、楽譜通りに弾かない演奏家には激しい非難を浴びせたという。
日本では、クラシック界の作曲家は「バッハ」、「モーツァルト」のように原語の発音で表記されることも多いが、ベートーヴェンの場合だけなぜか英語読みが一般的になっている。

ドイツ語では“Beethoven”は「ベートホーフェン」、一般的には「ベートーフェン」と読まれる。だから日本でも明治時代の書物の中には「ベートホーフェン(ビートホーフェン)」と記したものが若干ある。

しかしなぜか程なく「ベートーヴェン」が浸透した(唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である)。

中国では外来語のvをfまたはwの異音と見なすので、「貝多芬
(Beiduofen)」となる。

ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、は1770年12月16日ごろ寒村ボンで生まれ
1827年に死去した。60歳に満たなかった。

父ヨハン、母マリアの次男。ヨハンは宮廷歌手であったが、アルコール依存のために喉を患っており、収入はほとんどなかった。

だから一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父の支援により生計を立てていた。この祖父が亡くなると一層生活が苦しくなった。

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2008年03月26日

◆人間本来は左側通行

渡部亮次郎

長いこと大阪・豊中に住んでいた義兄が73歳になる前日に東京の病院で肝炎のため死去したのは2007年1月22日朝。あれから1年以上が過ぎた。連れ合いだった家人の姉は仕方無しに豊中の家を処分して東京に引き揚げることにした。

姉妹弟たちがその家を見納めがてら伊豆の温泉に漬かろうと出かけるので、餓死を避けるには同行した。それが2008年3月20日のこと。持病のための散歩も3日間無しとなった。血糖値は相当上がった。

大阪では大阪城見物。城には歴史が無いのだから登らずに下で待っていると側から聞えてくるのは中国語ばかりだったのだ。やたら中国人観光客が多い。30年前に勤務した時には想像もつかない風景だった。

日本人のお上りさんで叫ぶのは関西人だけ。まさか地元では叫ばないらしく、どこに居ても叫ぶ中国人だけが、やはり老若男女、
「喚く」のである。

東京から来たお上りさんは水掛不動を見たいという。カーナビは文句なし、最短距離を指示してくれる。私は足を延ばして心斎橋筋を歩いた。30年前、ここで人間の心臓が大抵は左にあることを再確認した思い出の地である。

大阪市内で唯一クルマ通行禁止の道路。人間しか通らない筋(南北)。
何の指示も無いが途絶えることの無い老若男女の流れは必ず「左側通行」。道路交通法とは反対である。東京人は却って法律を守ろうとして人にぶつかっている。大阪は真理に従い東京は役人に従うの図。

物知りに依ると、人が左側通行をしようとするのは、心臓を外敵から守ろうとする本能によるもので、極めて自然な事。むしろ敢えて人に右側通行を迫る道路交通法はむしろ残酷というべきとのこと。大阪人が正しいのだ。

東京の公園を毎日のように散歩しているが、それでも殆どの人は円の中心を左側に置いて、時計回りと逆の「左廻り」にして心臓を内側にしている。ヘソ曲がりは当然いるが。

日本では人も車も昔から左側通行が普通だったが、クルマ社会になったころ(1960年代後半)、人を危険から避けるという名目で、人間だけ「右側通行」に改められた。これをを対面交通という。

これによって、自動車と通行人とが相互を認識しながら通行することができるので事故は少なく、自動車が普及している社会においては法制化されている。対面交通制度は、自動車数の増加に伴い、大半の国で採用されている。

これには左側通行と右側通行とがある。日本においては道路交通法第17条第4項が「車両は、道路の中央から左の部分を通行しなければならない。」(条文中の括弧書き省略)と定めていることから左側通行が採られている。

通行区分採用の沿革については、様々な説がある。日本の左側通行については、江戸時代頃から武士などが左腰に差している刀が触れ合うことを避けて、自然と左側通行になっていたという説が一般に流布しているが、イギリス陸軍に範をとったという説や最初にイギリス車を輸入したからという説もある。

また、欧州大陸諸国の右側通行については、馬車の馭者は右手で鞭を振るうので、対向する馬車に鞭を当てないために自然と右側通行になったという説や、フランス革命の際に教会の定めた左側通行に対抗して右側通行にし、その後、ナポレオンがヨーロッパ各地を占領していったことで普及した説がある。

日本では、後に普及した自動車も通行人と同じく左側通行だったが、自動車の交通量の増大に伴い交通事故の危険性が増加したことから、対面交通が採用されるに至った。

その際、自動車の通行区分を変更すると、全国的に莫大な費用がかかることから、自動車の通行区分をそのまま維持して、通行人の通行区分の方を変更したとされている。

また、これに慣らせるため又児童同士の衝突事故を防止するため、日本の小学校では廊下の右側通行を指導する事例も見受けられる。

しかしながら、鉄道駅では人が左側通行をすることを前提に設計されてきた為、一般道路で人の右側通行が採用されて以降も、人の左側通行が採用されている。

序にクルマの左側通行だが、世界的に見て国の数としては日本などの左側通行は少数で英国、日本など、右側通行採用国が欧米初め多数である。

人口比では左側通行と右側通行の比率は34:66であり、道路の総延長距離で比較すると27・5:72・5になる。

他国に自動車を輸出する自動車メーカーは、同一車種について右ハンドル車と左ハンドル車の両方を設計・製造することが一般的である。

しかし例外的に、左側通行の日本では主に消費者の嗜好から輸入車の一部が左ハンドルで販売されている。逆に、右側通行であるロシアの、特に極東地域(沿海地方やハバロフスク地方など)、モンゴル、ミャンマー、また北朝鮮などでは、日本から右ハンドルの中古車が多数輸入、使用されている。

中国大陸は、戦前・戦中までは上海などのイギリス租界や日本租界、関東州(大連)といった日本の租借地、また満州などが左側通行であったが、1949年の中華人民共和国成立後は、全土が右側通行に変更・統一されている。

台湾、パラオ、フィリピン、朝鮮半島などは、日本に統治されていた時代は日本式の左側通行であったが、日本の敗戦後は右側通行に変更している。

航空機・船舶は右側通行で統一されている。

鉄道の複線区間は各国によってバラバラであるが、自動車の通行区分に準じていることが多い。

ただし、フランスのように左側通行になっているところや、スウェーデンや韓国のように混在しているところもある。路面電車は道路を走ることから、自動車と同じになっていることが殆どである。
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2008・03・24

2008年03月25日

◆プライバシー訴訟




        渡部亮次郎

プライバシーとは、個人の私生活に関する事柄(私事)、およびそれが
他から隠されており干渉されない状態を要求する権利をいうと言われな
くとも今やプライバシーは日本語同然、誰知らぬ者の無い「日本語」だ。

しかし、「日本語」としては新しい存在であり、超著名な作家が元東京
都知事候補に訴えられて、しかも敗訴するまでは、日本人の殆どが無視
してきた根源的な権利だったのである。

つまり自決した作家三島由紀夫が、日本で最初のプライバシー侵害裁判
の被告であり、日本人が、人間に、そんな権利があることを知った始ま
りだった。それが1961(昭和36)年3月15日に訴えられたプライバシー裁
判だった。

英単語「Privacy」をカタカナ表記したもので、「私事権」と訳されるこ
ともある。

日本国憲法には明文規定はないが、第13条(個人の尊重)によって保障
されると解されている。日本では「宴のあと」事件の際にプライバシー
という言葉が使われたことから注目され、人格権として認められるよう
になった。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴
のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三
島と出版社の新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京
地方裁判所で起したのである。

有田八郎(ありた はちろう、1884年9月21日―1965年3月4日)は新潟県
佐渡郡真野町(現在の佐渡市)出身の男性外交官、政治家である。息子
圭輔も外交官になり園田直外相当時(1972年から74年ごろ)は父同様、外
務事務次官だった。

八郎は山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立
憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を
務めたことで知られている。

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近
衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後ま
で反対したが戦後は公職追放。追放解除後は戦前と対照的に革新陣営に
属し日本の再軍備に反対したことで有名である。

<原告の主張
 
 1.被告平岡公威は三島由紀夫のペンネームをもつ小説家であるが、
雑誌「中央公論」の昭和35年1月号から同年10月号にわたって「宴のあ
と」と題する小説を連載執筆したのち、被告佐藤亮一を発行者、被告新
潮社を発行所としてこれを1冊にまとめた同一題名の小説の刊行を許諾
し、被告新潮社は昭和35年11月15日付で右初版15,000部以上を刊行しそ
の後も重版を刊行発売している。

 2.「宴のあと」の梗概は『「野口雄賢」という妻を失った独身の60
才を過ぎた外交官出身の男でかつて小国の公使をつとめたことがあり、
外務大臣にもなり戦後衆議院議員に立候補して当選したが2度目は落選
し、「革新党」の顧問となっていたが同党から推されて東京都知事選挙
に立候補した。

この野口は都知事選挙の有力候補であつたので「保守党」の対立候補の
擁立は人選難に陥り、現職の都知事は辞めそうでなかなか辞めない有様
であったところ、野口の妻「福沢かづ」の経歴、行状を誹謗した怪文書
「野口雄賢夫人伝 山漁人著」がばらまかれたため野口は山の手方面で
人気をおとし、また選挙資金を調達するため料亭「雪後庵」を売却する
ことも「佐伯首相」に妨害されて野口は選挙の終盤戦で資金がなくなり、
反対に保守派からは買収の金が流れ出し、

さらに投票日の前日に「野口雄賢危篤」のビラがまかれたりして結局都
知事選挙は「敵の謀略と金の勝利」に帰し「20万ちかく引き離され」て
野口は惜敗した。野口の妻福沢かづは少女時代から「苦労のかずかず」
を重ねてきた女で著名な料亭「雪後庵」の女将であったが野口と結ばれ
妻の座にすわり都知事選挙のために野口にかくれて「雪後庵」を抵当に
入れて資金をつくるべく奔走し同料亭は休業するに至った。

しかし怪文書がばらまかれ選挙が野口の敗北に終ったのち野口に背い
て「雪後庵」を再開するため野口とは遂に離婚した。』というのである。

 3.(一) このように「宴のあと」に登場してくる主要人物には
「野口雄賢」と「福沢かづ」という仮名が用いられているけれども以下
に指摘するようにこの小説が一般読者に与える印象としては「野口雄賢」
が原告、「福沢かづ」が畔上輝井をさしていることは明らかであり、そ
の効果は原告及び畔上輝井の実名を挙げた場合と異らない。

(中略)

 7.このように「宴のあと」は原告の私生活をほしいままにのぞき見
し、これを公表したものでありこれによって原告は平安な余生を送ろう
と一途に念じていた一身上に堪えがたい精神的苦痛を感じた。

そこで「宴のあと」の作者、発行者、発売者である被告等は共同して原
告に精神的苦痛を与えたものとして、原告に対し損害を賠償すべき義務
があるが、原告の損害を填補するには被告等が共同で請求の趣旨第1項
記載の謝罪広告を掲載し、且つ慰藉料として少くとも金100万円を支払わ
なければならない。

よって被告等に対し共同して請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告および
慰藉料ならびに後者に対する本件訴状各送達の後である昭和36年3月
26日からその支払済まで年5分の割合による民法所定の遅延損害金の
支払を求める。>

裁判所は原告の主張を全面的に認め、「プライバシー」は流行語にもな
り日本人に定着した。画期的な裁判だったのである。

裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」とい
う論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、
三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有
田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省
時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、こ
の事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。

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2008・03・23


2008年03月19日

◆福田が倒れぬわけ

渡部亮次郎

そのわけは民主党の日銀総裁をめぐるやたらな突っ張り作戦。国民を敵に回したのにも気付かぬその国会対策にある、と指摘するのは先輩記者の古澤襄さん(元共同通信社常務理事)。

<本来ならとっくに支持率が20%を切って危険水域に入っている筈の福田内閣が、まだ30%台の後半にある。それを支えているのは、何でも反対の民主党の下手な突っ張りだろうと思っていたが、読売新聞社の世論調査がそれを示してくれた。

日銀総裁の人事をめぐる民主党の突っ張りに国民の6割は批判的である。福田内閣の支持率はジリ貧状態にあるが、自民党の支持率は30%台で動いていない。それなのに民主党の支持率は20%を切って、一足先に危険水域に入っている。

何とも皮肉な現象である。民主党の突っ張りが相対的に福田内閣の大幅な支持率低下を防いでいることが明らかである。このところメデイアの世論調査は、福田内閣の支持率しか追っていない。ジリ貧状態にあるのは、世論調査をするまでもなく誰の目にも明らかである。

ドカ貧にならずにすんでいるのは何故か。年間で百万件を越す杜父魚ブログの記事アクセスを毎日、分析しているのだが、明らかに民主党の手法が福田内閣の支持率低下を防いでいるという傾向が出ている。>杜父魚ブログ(3月17日)

元々福田首相に総理総裁としての能力があったわけじゃない。それなのに政治的に助兵衛な蜃気楼が麻生政権を阻止するためにはどんな事でもするという引退政治家野中廣務がでっち上げたのが福田「見栄え」政権だったのである。

安倍晋三が政権を投げ出した時、最有力と見られた後継者は明らかに麻生太郎幹事長(当時)だった。改革路線を掲げ、明確に安倍路線継承を明確にしていた。

ところが知らぬ間にスネークが京都在から密かに這い出してきたのにマスコミは全く気付かなかった。引退した政治家が何かを企むなんて想像もしていない。

逸早く安倍の引退と麻生の野望を知った野中は急遽、上京。予て連絡を取っていた福田康夫の意思を再確認。まず渡仏中だった最大派閥の実力者森喜朗を電話で押さえつけた。

「ここはあんたの希望する福田クンで行きますよ。いいですな」。森に文句の言えるわけが無い。あの時、小渕首相が急に倒れた時、
野中ら「5人組」に後継総理にしてもらった恩義。さらに在任中、幹事長として野中に支えてもらった義理がある。

森がそうやって降伏した以上、清和会で野心を掻き立てていた町村がダウン。旧池田派は野中の子飼い古賀誠を通じて抑えられた。旧竹下派は元々野中の本籍地。親分津島雄二といえども野中に立ちふさがるだけの実力は無い。他派閥も福田阻止に動ける態勢にはなかった。

かくて政権構想も野心も無く、今季限りで引退を密かに決意していた男があれよあれよという間に総理総裁に躍り出た。それが福田政権なのだ。だから夢も希望も初めからあるわけではない。決断力の無いものに日銀総裁人事の絵解きなどできる筈がない。

高校で野球部だと投手ではなくキャッチャー。閣僚としては2代の官房長官をしたというが、あんなもの、佐藤栄作内閣までは大臣ポストではなかった。まともな大臣、党三役を経験していない。ただただ喧嘩しないだけのそこらの叔父さんに過ぎない。

理由は理解を超えるが、結果的に媚中、半(反)米で、ビジョンも野望も皆無。ただ親父が2年で追われた総理という椅子に出来れば4年はしがみついていたいだけの無能老人に過ぎないのである。

自民党内で元々強烈に支持した派閥は一つも無い。したがってきっかけさえあれば何時でも簡単に倒れる政権なのである。たとえば野中は今更何もいえないかも知れないが、誰かに「期待外れだったね」と一言洩らせば即倒閣に繋がる。

産経政治部の阿比留瑠比記者が、殆ど嘆いてている。総理官邸で毎日バカ殿を見ていると堪らなくなってくるのだろう。私も外務省から秘書官として先代を見ていた30年前を思い出して、遺伝を考えている。

<私にとって、この「とてつもなく高い支持率」は本当に謎に思えます。日本社会は実は得点主義のではなく減点主義の社会で、「何もしない、何もできない」ということは、意外と評価を低くすることにはつながらないのかと、ふと、そんなことを考えました。>
ご本人のブログより。文中敬称略。2008・03・19


2008年03月17日

◆求心力なき「ポスト胡」

                  渡部亮次郎

報道によれば、昨年秋の中国共産党大会で中央入りしたばかりの習近平氏が、15日の全国人民代表大会で賛成2919票、反対28票で国家副主席に選ばれた。

これで習氏は現時点でポスト胡錦濤の最有力候補となったが、絶対的な実力をもつカリスマ指導者による指名ではなく、拮抗(きつこう)する各派閥による妥協の結果によって選ばれた。その求心力には疑問が残り、5年後、権力継承が無事に行われるかは不明だ(産経新聞北京の矢板明夫記者2008.3.15)。

“次点”となったのは習氏のライバルで筆頭副首相に就任予定の李克強氏。得票はわずか5票だったが、信任投票のためは習氏の名前しか印刷されていなかった投票用紙に、それを消して、李氏の名前をわざわざ書き込んだ者が5人もいたということになる。

共産党内部の権力闘争の痕跡を外部に見せない中国では、選挙で非立候補者が複数票を獲得することは珍しい。事前の根回しを無視した5票は、密室談合で候補者を決めた現指導部に対する、李氏支持の一部代表による不快感の表明といえる。

習氏は、11年前の党大会中央委員候補選挙で、151人中最下位で当選するなど、党内での評判は決して芳しくない。現在の権力構造の中で、各派閥にとりあえずは受け入れられた人選に過ぎない。

産経北京の野口東秀記者によれば、習氏は太子党である。たいしとうとは中国共産党の高級幹部の子弟等で特権的地位にいる者たちのこと。太子は英語のPrinceの意。

党組織だけでなく、コネを生かして企業経営等に関わる場合もある。なお大抵は親の方が地位・知名度共に上だが、曽慶紅のように子のほうが出世した例もある。

習氏は故胡耀邦元総書記にも近かった故習仲勲の息子。1953(昭和
28)年生まれの54歳。文革時代は地方に下放された経験もあるが85年以降はとんとん拍子で出世。ついにポスト胡の最前線に躍り出た。しかし、求心力も人気も無いという。

それは出世の陰に不人気の江沢民前国家主席の「ヒキ」が存在するからだという。これについて野口記者は党政治局の派閥抗争のバランス上、今回、習氏がトップに立ったがこれから試される指導力如何ではどうなるか分からないとしている。

とくに矢板明夫記者は「今後、状況が変化する可能性もある。政治手腕が問われる中、すきがあれば、ライバル李克強氏を代表格とする共産主義青年団(共青団)による巻き返しも予想される」と。

矢板氏はまた「中国の指導者は、約20年前の江沢民政権から建国にかかわった革命経験者がほぼいなくなった。

戦時中の軍功と違って、平和時代に群を抜く実績を積むことは難しく、その後の幹部選抜の際、権力闘争の激しさが増したといわれる。
カリスマ不在の中国の政治はさらに不透明な時代に突入する」と指摘している。2008・03・16

2008年03月16日

◆取り返しのつかぬ失敗

                  渡部亮次郎

民主党がまとまりのない党内を纏めるために政府提案の
日銀正副総裁人事同意案件を参院で否決した事は、中立
であるべき日銀総裁の人事を政争の具にしたもので、
マスコミですら批判に廻ってしまった。「風」頼みの民
主党にとって取り返しのつかない大失敗となった。

こうした状態を昔のひとは「覆水盆に返らず」と言った。
広辞苑にも出ている。

周の呂尚(太公望)が読書に耽ったので、妻が離縁を求め
て去った。後に尚が斎に封じられると再婚を求めて来たが、
尚は盆を傾けて水をこぼし、「その水を元のように返せば
その請を容れよう」と言った、と言う故事。

先輩記者の諭しによると新聞の論説が一斉に民主党を批判
していることは鳩山幹事長にとって想定外だったらしい。
新聞という世論の風頼みの民主党だから、日銀の総裁人事
に不同意といっても新聞論説から支持されると甘くみていた、
ということだ。

土台、中立であるべき日銀総裁の人事を政争の具にすること
が間違っている。

国際的な景気後退、経済不安がいわれている時に、参院多数
を武器にして福田政権を揺さぶろうというのは党利党略以外
の何ものでもない。

それが新聞に支持されると判断したところにお坊ちゃん幹事
長の甘さがある。日頃、付き合いのある鳩山番の記者たちに
「論説委員たちは財務省に毒されている」とぼやいたそうだ。

「論説はほとんど読まれないから・・・」と自らを慰めながら
民主党の支持率低下をさかんに心配しているという。そんな事
をいうなら民主党支持者の何が論説を読んで支持したというのか。

これについて、産経新聞に客員編集委員として戻り、再度現場
に通じている元政治部長の花岡信昭氏は内部事情を指摘する。

<民主党がこういうかたくなな態度を崩さなかったのは、
党内のバラバラ状況が原因だ。小沢代表は武藤氏容認に
傾いた時期があったのだが、最後は大勢に従った。

党内がまとまっていないと、外に向かって強く出る以外
にない。日銀総裁人事は民主党の「お家の事情」に左右
されてしまった。

参院本会議では、民主党会派の3人が棄権、2人が欠席
した。先の新テロ特措法採決に続く造反だ。

今後の展開を考えると、参院で与党は過半数に17人足り
ないが、この分を埋めることができれば、「中連立」に
向けての突破口となる。

この日の棄権・欠席組はそのさいの軸となるという意味
合いが込められている。>花岡信昭の「メイルマガジン
543号」から

花岡氏はまた鳩山幹事長の采配ぶりについて自らのブログ
(2008/03/09)で次のように指摘していた。
http://hanasan.iza.ne.jp/blog/

<民主党の鳩山幹事長は「別の人を出してくれば党首会談
を受けてもいい」といった発言をした。

ここに鳩山氏の政治的非力さが透けて見える。鳩山氏がこう
言ったからといって、もし、福田首相が武藤総裁案とは違う
案を出してたら、どういうことになるか。

福田首相の政治力はそこで終わる。野党第1党が反対している
ことは前から分かっていたことで、それを承知の上で出して
きたのである。

だから、鳩山氏は事態打開に向けての発言をしたのではない。
混迷の責任は福田首相にあるという構図を作り出そうという
ことにすぎない。

福田首相としては、こうなったらテコでも退(ひ)かない
だろう。退いたら、政治的なダメージは取り返しがつかない
ほど大きい。・・・

・・・日本の中央銀行総裁が空席になるのだから、世界経済
に与える影響は多大なものがあるだるう。株安にはずみも
つくに違いない。

だが、今回の構図はきわめて分かりやすい。そう複雑に入り
組んだ話ではない。悪いのは民主党。世界中がそう思ってくれる。

これは福田首相にとって悪い展開ではない。民主党はいよいよ
政権担当能力の欠如ぶりを天下に晒したことになった。

「財政金融の分離」が民主党の主張だが、財金分離は金融庁発足
で制度としても確立したのだ。そこを見据えない「武藤忌避論」
は反対のための反対でしかない。>

しかし、党内で求心力を欠いている小沢氏は断行できなかった。
民主党は政権担当能力の無さをさらけ出してしまった。
衆院選挙では負けが確定した。幹事長も東大工学部の頭では
政治家に向かない。

次の衆院選で惨敗した時、日銀武藤総裁安を改めて認めるから
政権をくださいといっても「覆水は盆に返らず」2008・03・13


2008年03月15日

◆カメレオン鳩山由紀夫

                  渡部亮次郎

秘書官として仕えた外務大臣園田直の前任者が鳩山威一郎さんだった。
また若い頃記者として追っかけた河野一郎さんの亡くなった親分が鳩山
一郎元首相だった。ハトヤマとはそれ以外に縁は無い。

如何なる縁か田中角栄さんの秘書に東大出の若い人鳩山邦夫という人が
なったと聞いてしばらくしたら衆院議員になった、と聞き、なるほど3代
目かと納得がいった。

ところが何年かして専修大学助教授をしている長兄由紀夫氏も衆院議員
になると聞いて、それなら初めからなっていたらいいのにと思った。爾
来、好感がどうしても持てない。「遅れてきた中年」である。

<鳩山兄弟、40億円ずつ「同時株損」? 世界株安で

米国のサブプライム問題に端を発する世界同時株安をめぐり、鳩山邦夫
法相は22日の閣議後の記者会見で、自らの保有株で「損害」が出ている
と語った。

法相は、ブリヂストンを創業した祖父・石橋正二郎氏から贈与を受けた
同社株の株価が下落したことで「40億円損をしたんではないかと言われ
ている」と言及。

兄の鳩山由紀夫・民主党幹事長も同じ株を持っていることを踏まえ、
「私が損をしたということは兄も40億円損をしたということ。『兄弟同
時損害』ということでしょうね」と話した。>2008年01月22日15時54分
 Asahi Com

鳩山由紀夫1947年2月11日、当時はまだあった紀元節の生まれ(61歳)当
に団塊の世代 。既に還暦を過ぎてもまだ1回も入閣していない。事もあ
ろうに金権派閥から新党さきがけに走って以来リベラルばかりに拘り、
ついに野党の幹事長だ。

2008年の節分すぎ、「小沢一郎民主党代表、再選立候補せず」という怪
情報が流れた際、突如「小沢再選支持」と言い出して、ベテラン政治記
者に笑われた。

幹事長留任のためなら小沢再選しかないからである。こういうのを嘗て
の河野一郎氏は競馬馬に譬えて「調教不足」と言い捨てたものだ。

曽祖父・鳩山和夫(外務次官、衆院議長) 祖父・鳩山一郎(首相) 父
・鳩山威一郎 (大蔵事務次官、外相)

選出選挙区 北海道第9区。昔ここに鳩山家の牧場があっただけの縁で当
選できる。先祖とは有難いが由紀夫は何も貢献していない。当選回数 7
回 民主党(鳩山グループ) 党役職 幹事長 ネクスト国務大臣

これまで新党さきがけ代表幹事、民主党(日本 1996-1998)代表(初代)、
民主党(日本 1998-)代表(第2代)を歴任。

東京都文京区に大蔵官僚だった父・鳩山威一郎、母・安子の長男として
生まれる。学習院初等科、学習院中等科、東京都立小石川高等学校を経
て、東京大学工学部を卒業しスタンフォード大学博士課程を修了する。

この時、他人(ひと)妻だった妻・幸(宝塚歌劇団卒業生。タカラヅカ
時代の芸名・若みゆき) を知り結婚。

間にできた長男・紀一郎は東京大学大学院工学系研究科助教である。代
議士にもし出れば5代目になる。今のところ話は無い。

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