2016年11月14日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎



日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相に従いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。

逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年11月13日

◆ウィキペディアの穴

渡部 亮次郎



<元特攻隊員の有名人は2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助、元東急フライヤーズ投手黒尾重明、反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人では鶴田浩二がいる。>フリー百科「ウィキペディア」。

ここに外務大臣園田直が居ないのは「ウィキペディア」の穴であり、信頼度を甚だ傷つけるものだ。

園田は陸軍志願兵から日本陸軍最初の落下傘部隊のメンバーとなり、転じて陸軍航空隊の操縦士、更に転じて敗戦間際の1945年8月13日、「天雷特別攻撃隊」の隊長として出動を命じられていた。

全身に爆雷を巻き、千歳基地から太平洋上の米戦艦に体当たりすることになっていたが、悪天候のため、17日に延期。ところが15日に敗戦で一命を取り留めた。しかし本人は「一旦は覚悟した死がなくなって腰が抜けた」とよく語っていた。

8月25日、召集解除となった時、既に園田は31歳になっていた。仕方なし郷里熊本県天草の島に帰り、地元一町田町役場の助役にさせられたが、直後に行われた(1946年4月10日)の衆院選挙に立候補。次点の次で落選。その年の9月には町長に当選。

しかし47年4月25日の総選挙では民主党公認で再挑戦、見事当選。以後、死ぬまで当選を続けた(15回)。野党の衆院議員を妊娠させ、離婚に至ったという事件(白亜の恋事件)でも落選しなかった。

どんなことがあっても慌てるということがなかった。「特攻から生き返った後の人生はお釣みたいなもんだ。恐ろしいことなんてなくなったよ」。

特攻とは、爆弾を抱えた軍用機に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う作戦である。

太平洋大戦末期の日本で、陸海軍あげて大規模な計画的作戦として実施されたが、当然のことながら、攻撃が成功して乗員が生還する可能性は皆無に等しいと言える。

突入失敗で海面に激突したものの奇跡的に助かったり、機体故障による不時着等の理由で乗員が生還した例もあるものの極めて稀であり、出撃すなわち死を意味するといっても過言ではなかった。

この攻撃が行われるようになった理由は、VT信管を代表とするアメリカ軍の対空迎撃能力の飛躍的向上と、航空機性能の開きが圧倒的になったこと、

この戦いに先立って行なわれた台湾沖航空戦により、フィリピンでの稼動航空機数が激減した上にミッドウェー海戦以降ニューギニア戦線などで多くの熟練搭乗員が戦死してしまい、その補充が利かなかったこともあり、通常の航空洋上攻撃では敵空母に対して充分な戦果を期待することができなくなったためである。

このような状況下で確実に戦果をあげることのできる最も確率の高い方法として採用された。

初期には、かなりの戦果を上げることができた。末期になると本土決戦のために練習時間の短い搭乗員を出撃させ、練習時間の長い搭乗員を温存させたために戦果が減ったのである。

命中率は米国立公文書館に保管されている米軍機密資料によれば命中率が56%以上とかなり高かったことがわかる。

特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊である。これは、海軍航空機からなる特別攻撃隊であり、元寇を追い払ったといわれる「神風」の思想の影響からか、特に神風特別攻撃隊と呼称していた。

本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」映画第233号のナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以来、「かみかぜ〜」が定着した。

あまりにも著名であるために、戦後には特別攻撃隊の別称として「カミカゼ」が使われる場合も多く、カミカゼ・タクシーなど。

陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、重爆撃機)と万朶隊(鉾田、軽爆撃機)に始まり、その都度命名された。

その当時の陸軍特攻隊指揮官は富永恭次中将である。しかし、沖縄戦が始まり、回数が増えると、やがて「第○振武隊」のような命名が増えていった(丸には数字が入る)。

沖縄戦では知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。陸軍の特攻を指揮したのは菅原道大中将であった。 また、海上から海上挺身戦隊など(所謂、連絡艇・レ艇)による攻撃も行われた。

損傷を受けた正規空母は決して少なくはないのだが、沈んだ艦が1隻もないのはアメリカ海軍のダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて向上していたことが大きい。

とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害[8]を特攻機が与えていたことも事実であ
る。

だが、特攻機による攻撃隊とは突入機が特攻隊1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、アメリカ海軍からすれば1日の来襲機数とは直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものである。

南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであれば、エセックス級空母がいかに優れた設計であっても戦没艦の発生は免れなかったであろ
う。

しかし現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機と揃えられず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行えるレベルに復帰できなかった。

唯一1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に翌7日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかった為に散発的な攻撃となり、突入に成功した機は比較的多かったものの撃沈は僅か掃海艇1隻のみであった。

確認されている軍人の特攻(航空特攻以外も含む)戦死者数は陸海軍合わせて6000名を超えるとされる。

隊員に指名されるも生還する例も多い。時期を逸す、機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜、等々理由は様々である。園田もこれに類する。

彼らの大多数は、一様に心に傷を負いながらも戦後復興、経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。

しかし極一部の者は戦中の緊張からか自暴自棄になり反社会的な行為に走る者や、特攻と無関係の者が自らを元特攻隊員と偽り行う犯罪も出現している。

また世間の目も敗残兵として彼らに冷ややかで、彼らすべてを「特攻くずれ」と称し蔑む風潮が蔓延した。


2016年11月10日

◆納豆OK「プラザキサ」なのに

渡部 亮次郎



納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン
(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬
の製造・販売が厚生労働省から承認され、2011年4月から国内で発売され
た。私も2012年4月から服用し始めた。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ
合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分
名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素
に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬
よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほ
か、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせ
ないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、
納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し
切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまっ
たそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」
の発売は実に待ち遠しいものだった。ところが、弁膜症経験者には
まだ許可がでないのは残念至極。

さりながら実は新薬だから医師は厚生労働省の指示で1回に処方できるの
は2週間分だけだったが、2012年4月からは指示が消えた。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられてい
て、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」
の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小
板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固
療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているため
だそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下
流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報
告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用である
ことが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による
変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリ
ングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の
採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないこ
とや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現など
の点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済
的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因
とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一
選択薬として推奨されている。しかし、この「プラザキサ」や現在、開発
が進められているファクター]a阻害剤などが次々に出てくるので、このガ
イドラインも近々変わるだろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったが、@
納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多いA感受性に個人差があり、
血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多
い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もな
く、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンの
マイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大
出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。

しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して
薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと
132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段
が上がる。

60日分が3万円強。高齢期後半は1割負担だからそれでも3000円強。しかも
なぜか尿酸値が急上昇したため、納豆向こう2ヶ月間禁止を言い渡された。

    

2016年11月09日

◆お邪魔虫共産党 

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済
の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。
特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

2016年11月08日

◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎



歌謡歌手の岩崎宏美が1日未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間
には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌ってい
た。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜
9時ごろの奥羽線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。
急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。
銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。76歳になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1再掲



2016年11月05日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣
の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本
人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこっ
たことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の
学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に
玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことで
あるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄
米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食
べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライ
ドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森
一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名です
が、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明な
がらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかっ
て いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験
ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたた
め、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒
でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾
病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問
題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)
は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動してい
た訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確
たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達と
の対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確
立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではない
か」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込
みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずら
い」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創では
ないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、
「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革
案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚
気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸
軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定
する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても
「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為で
しょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近
代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツール
が、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気
に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に
対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で
発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統
計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概
に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上で
その影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対
する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学で
は統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされてい
た。>2006.05.07

2016年11月04日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなっ
た日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をは
め込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くよう
な歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさし
の小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出
陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によれ
ばそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停
止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動
員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてら
れた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴
いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、と
されている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植え
られている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前から
すでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に
用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられ
た。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、
その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカス
ズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切
れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈
込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス
(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各
地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬
で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がな
らんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上
経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を
殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身し
たみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見
たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前に
ばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良く
なった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と
言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示して
いるのかな、と思ったりする。
参照:世界大百科事典 エンカルタ事典 

2016年11月03日

◆日本での廃娼運動の歴史

渡部 亮次郎



日本には、江戸時代以来の公娼制度が存在していたが、明治5年に、明治
政府が太政官布告第295号の芸娼妓解放令により公娼制度を廃止しようと
試みた。

しかし、実効性に乏しかったこともあり、1900年に至り公娼制度を認める
前提で一定の規制を行っていた(娼妓取締規則)。1908年には非公認の売
淫を取り締まることにした。

大東亜戦争後の占領下、当時のGHQ司令官から公娼制度廃止が要求された
ことに伴い、1946年に娼妓取締規則が廃止され、1947年に、いわゆるポツ
ダム命令として、婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令(昭和22年
勅令第9号)が出された。

公娼制度は名目的には廃止されたが、赤線地帯は取り締まりの対象から除
外されたため、事実上の公娼制度は以降も存続した。なお、一部の自治体
は同時期に売春それ自体を処罰する条例を制定している。

昭和23(1948)年の第2回国会に、売春等処罰法案が提出された。しか
し、処罰の範囲等に関する合意の形成が不十分であったため、厳格すぎる
として審議未了、廃案となった。

しばらく間を置いた後の1953年から1955年にかけて、第15回、第19回、第
21回、第22回国会において、神近市子ら女性議員によって、議員立法とし
て同旨の法案が繰り返し提出された。しかしこれらは反対多数に遭い、い
ずれも廃案となった。

第22回国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、一時は
法案が可決されるものと思われたが、最終的には否決された。

1956年、第4回参議院議員通常選挙を控える中で、第24回国会が召集され
た。自由民主党は選挙に向けて女性票を維持および獲得しようとの狙いか
ら、売春対策審議会の答申を容れて、一転して売春防止法の成立に賛同した。

法案は5月2日に国会へ提出され、同月21日に可決された。売春防止法は翌
年の1957年4月1日から施行されることになったが、刑事処分については1
年間の猶予期間が設けられ、1958(昭和33)年4月1日から適用するものとさ
れた。

法律が成立して以降も赤線業者は自由民主党の国会議員に接近し、同法を
撤回すべしとの説得を試みた。これに応える形で、自由民主党は1957年5
月に風紀衛生対策特別委員会(略称:風対委)を設置し、審議の場とした。

赤線業者は、転廃業のための満足な猶予期間および国家補償が必要である
として、猶予期間の延長を求め、即時の施行に反対する姿勢を示した。ま
た、自由民主党に対しては、全国で63の市町村長、1の県議会議長、37の
市町村議会議長、25の自由民主党支部長、151の商工会議所から、法の完
全な実施を延期すべきであるとの陳情書が提出された。

1958年4月1日、売春防止法は施行における猶予期間を経過し、以降も売春
の業を営む者に対しては刑事処分が課せられることになった。摘発事例は
少ない。

だから、現在公認の娼婦街は無いが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅
館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の下に、
1958年以前と変わらない営業を継続している地域がいくつもある。

また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風
俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所が
ある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年10月29日

◆A面あってのB面

渡部 亮次郎



昔の話。昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合と発売中止となるも、それまでに大ヒット。当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)

東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府
首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑
誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男と
する。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、古関裕而が満洲から帰国、神戸から東京までの汽車の中で作曲した「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。

「暁に祈る」の「ああ、あの顔で」の出だしは、陸軍省の「ああでもない、こうでもない」のうるさい注文に難渋した作詞者の野村俊夫の愚痴を聞いた、作曲者の古関裕而が、それを使うように薦めたのがきっかけ。

この間の13年には赤坂百太郎と再婚、4人の子供を設ける。戦火が激しくなった18年暮れには伊藤は福島に帰郷し、レコード吹き込みの度に上京した。

戦後は主にラジオ歌謡で活躍、「イヨマンテの夜」はのど自慢で大人気を誇るヒットとなった。他にも「あざみの歌」「山のけむり」などの叙情的な歌のヒットがある。

私生活では宝塚の桃園みかと同棲し、妻であった赤坂百太郎から「生活費を入れない」と25年、家庭裁判所に訴訟を起こされ、後に離婚している。

53年に紫綬褒章、58年に勲四等旭日小綬章を受章。持病のぜんそくに加え晩年は糖尿病で、浅草の国際劇場のステージでは、痙攣からマイクにすがりつきながら鬼気迫る歌唱をみせたという。

55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。57年春には関係者の間では危篤とされていた。

涙もろく、「酒を飲まない奴は信用できない」が口癖だった。その反面で、極度の潔癖症でもあり、楽屋なども絶対に他の歌手と同室しなかったという。

服装には無頓着で、10年以上前の体に合わなくなった背広でステージに上る事もしばしばであった。レパートリーは何でもこなしたが、本人は抒情歌を好んでいたという。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。

住まいは中野区沼袋だった。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。
 
昭和12年   露営の歌(松平晃、中野忠晴、霧島昇、佐々木章)
昭和14年   父よあなたは強かった(二葉あき子、霧島昇、松原操)
       白蘭の歌(二葉あき子)
昭和15年   暁に祈る
       高原の旅愁
       お島千太郎旅唄(二葉あき子)
       熱砂の誓い
昭和23年   シベリヤ・エレジー
昭和25年   イヨマンテの夜
昭和26年   あざみの歌
昭和27年   山のけむり
昭和28年   君いとしき人よ

引用:『日本流行歌通史』
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

2016年10月26日

◆のど自慢の日

渡部 亮次郎



ものの本によると、日本では1年365日、毎日、何かの日である。たとえば
2007年に地方選挙の後半戦の投票日だった4月22日は、
(1)地球の日(アースデー)
(2)清掃の日(清掃法制定記念日)
(3)霊山神社例大祭(福島県)
(4)多賀祭(滋賀県)だった。

いい加減に1月19日と入れたら、パソコンは1月19日はのど自慢の日と出た。

<NHKラジオの視聴者参加番組「のど自慢素人音楽会」が1946(昭和21)年
のこの日にスタートしたことに由来。

スタート当初の参加応募者は900人にものぼり、そのうち予選を通過した
のは30人。応募者が歌った曲で多かったのは、当時の人気歌手・霧島昇が
歌う『リンゴの唄』『旅の夜風』『誰か故郷を想はざる』などだったそうだ。

「のど自慢」は「明るく楽しく元気よく」をモットーに、1948年には早く
も全国コンク−ルが実施されるほどの人気を博し、NHKにおける戦後最初
のヒット番組となり1953(昭和28)年にはテレビ放送が開始され、ラジオと
テレビで同時放送されるほどに成長していった。

実は北島三郎、島倉千代子、美空ひばりはこの番組の常連。大物歌手とし
てその名を知られる3人だが、彼らも当時は鐘の数を気にしつつ歌ったの
だろうか>。

若原一郎、三船浩は合格によってレコード会社からスカウトされて歌手に
なった。荒井恵子もそうだった。荒井は「森の水車」を初めて唄ったが
NHK専属で、レコード会社には属してなかったから販売されたレコードや
CDは残っていない。

「のど自慢」はいまではNHKの看板番組である。この世に歌がある限り続
くのではないかと思われるぐらいだが、この世に歌がいくらあっても唄う
のは大嫌いと言う人が居る。音痴である。だが音痴は訓練によって治るも
のだそうだ。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると

音痴 おんち

<大脳の先天的音楽機能不全の状態。聴覚,言語など,ほかの精神的・肉
体的機能が健常で,特に音楽的能力だけが劣っている場合をいう。これに
対して,かつて音楽能力があった者が疾病,外傷など何らかの原因によっ
てその能力を失った場合を〈失音楽症〉という。

音痴の原因は,大脳右半球に推定される音楽中枢の発育障害による機能不
全であるとされ,遺伝と環境の双方に起因するものとみられているが,医
学的には未解決である。

音痴は感覚性音痴と運動性音痴に大別される。前者は,音楽の認知,理
解,記憶に障害があるために音高やリズムの感受そのものが不可能な状態
を言いう。

後者は,音高の連続的変化のパターンを組み立てる運動統合中枢に支障が
あるため,歌うと調子はずれになるものを言う。しかし,俗に音痴といわ
れるのは難しい音程をうまく歌えない場合であり,正しい訓練や音楽環境
をつくることで,矯正は可能とされている。山本 文茂>
音痴についてインターネットで検索した。その結果、297万件も出てきた。
如何に音痴に悩む人が多いかを物語るものではないだろうか。
その中にこういうのがあった。

山本恵理子の「音痴について」である。
http://www.osaka-c.ed.jp/matsubara/kadai/27ki/kadair21.htm

なぜ音痴になるか
『人はなぜ音痴になるのか』 音に対する感覚が鈍く、音程やリズムが正
確にとれず歌が正しく歌えないこと。三重大学教育学部の弓場徹助教授
は、「音痴の原因は、出力(脳から声帯に指令が伝わり、震わせて音を出
す)する際の、輪状甲状筋の訓練不足によるものである。」と語った。

輪状甲状筋は声帯を引きのばす筋肉で、低い声を出す時に声帯を縮め、高
い声を出す時は声帯を前後にのばす。そして、他の背中や足などの筋肉と
同じく、鍛えなければ成長せず衰えてしまうのである。

歌を歌う時は、普通の会話のより高い音域を使う場合が多いため、輪状甲
状筋の働きが不可欠だ。自分のことを音痴と思っている人は、歌う機会を
避ける傾向がみられる。兵庫教育大学音楽科の鈴木寛教授は、小脳モデル
(処理系)について次のように説明した。

初めて自転車に乗る時、バランスがうまく保てず、転びながらその問題点
を修正して大脳が学習する。その情報は大脳に集約され「自転車に乗る」
という一つのモデルが小脳に移り記憶される。

1度、小脳モデルが記憶されれば、何年も自転車に乗らなくもすぐに乗る
ことができるという。歌を歌う場合の小脳モデルは、音程を取り正しい音
を発生し、リズムをとるというものである。大脳に作られた音の高さを判
断する基準に音階スキーマというものがある。

正しいスキーマが形成されている場合は、耳からある音が入ってくると
A=Vという判断ができる。しかし誤ったスキーマが形成されている場合
は、A=Vという判断ができずに音痴になってしまう。

人は6歳頃まで音階スキーマが形成されてしまう。赤ちゃんは知らず知ら
ずのうちに母親の声を真似している。自分を守ってくれる母親と他人をな
るべく早く認識し、コミュニケーションをとろうとするためである。そし
て、この特性のため母親の声や、音程までも真似するようになる。

他にも音痴の原因となる環境として、

1.音の出るおもちゃなどの電池がきれかかり、変な音を出す。

2.音楽や両親の会話を聞く機会がすくない等がある。

音痴を治すには裏声を意識的に出すことによって輪状甲状筋を鍛えたり、
音を認識しながら根気よく練習し音階スキーマを改善する方法がある。

つまり、音痴は適切な訓練方法によって克服できる!『音痴を治すに
は?』音痴は運動音痴(運痴)と比較される。どちらも運動系の微妙な調
節がうまくゆかない。それが原因で運動嫌い、歌嫌いになる可能性もあ
る。運痴は指導によりある程度は矯正できるが、音痴はどうだろうか。

「歌う」運動のメカニズムは、喉頭筋群の複雑さもあり未だに不明な点が
多い。聴覚能の問題もある。一体どのように声をだしたら良いのか科学的
なアプローチは少ない。

発声には声帯を動かす伸展筋と声門を閉じる閉鎖筋という2つの拮抗的な
筋の運動に、呼吸の圧力が加わった3要素が関係するのだが声帯を伸展さ
せて裏声を生み出す輪状甲状筋の構造と機能に着目。

結果的に裏声(ファルセット)を中心に音を合わせてうまく歌うトレーニ
ングが音痴矯正に有効という。骨格筋は伸展時により大きな力が発揮され
るので、この方法は歌う運動の燃費を高めるかもしれない。

具体的に何をやればいいかというのには次のような説がある。

1)はっきりとした裏声を出せるようにする。

2)裏声で簡単なメロディーを歌う。

3)裏声で歌い始め、表声の音程まで下がっていく。※表声というのは胸
声のこと。

誤りも多くて評判が良くないリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』だが、ここでは、音痴(おんち)とは、音感が無いか劣
る人を言うと決め手、次のような珍談を紹介している。

<・・・リズムを合わせるという感覚が鈍い人もおり、歌っている途中でど
んどんずれて早くなったり遅くなってしまう場合も見られる。

最も有名な例は、フローレンス・フォスター・ジェンキンスという富豪の
夫人がオペラファンで、1944年にカーネギーホールで「客に金を払って」
リサイタルを開いた。(あの戦争中!!)

このときの録音は現在The Glory of Human voices (RCAより発売、ASIN
B000003F97)(国内盤のタイトルは『人間の声の栄光』)というタイトル
でCD化されている。

このCDが国内大手CDショップで発売された際、「チョーオンチ」という販
促ポップが付けられた事がある。またこのジェンキンス夫人の音痴ぶりを
題材にしたミュージカル"Souvenir"がある。

音痴は訓練で克服できる場合が大半だが、まれに音感がない(耳で聞いた
音程を声で再現することが出来ない)人もいる。一種の病気(異常)であ
り、このタイプの音痴は直すことができないと言われる。有名人では俳優
のジェームズ・ディーンがこのタイプだったと言われている。

転じて、音の認識に限らず特定の能力が劣る人に対しても使う。例えば、
味覚に対しての味音痴、東西南北等方角把握能力に対しての方向音痴、運
動能力に対しての運動音痴、機械に対しての機械音痴、等がある。>

痴呆とか痴人とかが差別語になっているようだが、音痴はどうなんだろ
う。2007・04・23

2016年10月25日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済
の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。
特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

  

2016年10月24日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎
 
  
北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと
怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も
言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っている
のだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と
思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まった
く的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいの
である。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らす
だけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与
えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が
五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは
当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために
注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるとい
う言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうか
い)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知ら
ないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃ
になったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新
潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝
心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。
共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろ
う。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければま
ずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意
がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」
だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様
は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に
日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。
保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角
さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福
田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな
政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内
閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相
が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの
各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが
人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは
実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみ
に立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領
様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分
たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人の
いけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締
結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけて
きて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。
こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書
として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃ
ないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北
としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分
のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条
件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだか
ら、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫
氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が
日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほど
の損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技
術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど
が日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわ
けがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でい
い、東京では「馬鹿」と嗤う。
(了)2005.02.23 加筆2006.03.25櫻井よしこ

「テレビ討論会でクリントン有利が決定的に アジア各国を籠絡する中国
に対抗できるか」



日本時間の10月10日午前、米国大統領選挙戦2回目のヒラリー・クリント
ン氏vsドナルド・トランプ氏の討論会には気がめいった。

「うそつき」「下品でわいせつ」「愚か者」「不作法者」「無資格者」
等、考えつく限りの罵詈雑言を互いに投げ付け合った90分間だった。これ
が世界の超大国のリーダーたらんとする人物同士の討論かしらと、視聴し
たおよそ全員が思ったはずだ。
 
だが、それが世界政治の冷酷な現実である。明白になったのは、2回目の
討論でも1回目同様、国際政治や外交、安全保障に関する議論は二の次
だったこと、またクリントン氏がさらに優勢になったことである。
 
米「ウォールストリート・ジャーナル」紙は社説でこう述べた。

「トランプ氏は(わいせつな表現で既婚女性に迫る様子を語った)テープ
が暴露される以前に、すでに支持率を落としつつあった。このまま下落が
続けば、共和党員の良心と共和党の政治的生き残りのために、トランプ氏
を見限っても無責任だと非難はできない」
 
さらに、大統領選挙と同時に行われる上下両院議員選挙で過半数を維持す
るには「クリントン阻止」で団結し全力を尽くせと檄を飛ばしている。
「ヒラリーの国内政治目標はいずれもオバマ大統領のそれらよりも左翼的
で、ナンシー・ペロシが(もし下院議長になれば)それらの法案を可決す
るだろう」と書いて、米国社会がリベラル方向に振れることを警告している。
 
10月8日号の当欄で書いたように、トランプ氏が大統領になった場合、世
界は大混乱に陥ると思うが、かといって、クリントン氏なら安心かといえ
ば、全くそうではない。彼女主導の政治に私は少なからぬ不安を覚えてい
る。現状を見ると不安はいや応なしに高まる。

なぜなら、オバマ大統領が重い腰を上げて築き始めたアジア・太平洋地域
の「団結」が中国に崩され、米国の力がさらに弱まっているからである。
 
今年2月15日、オバマ政権は初めての米・ASEAN(東南アジア諸国
連合)首脳会議を米カリフォルニア州で開いた。曲がりなりにも
ASEAN10カ国全てが参加し、南シナ海での中国の蛮行を念頭に「航行
の自由」と「域内活動の非軍事化と自制を促す」ことを、共同文書で確認
した。中国の強い影響下にあるカンボジアまで署名したことは、オバマ政
権の成果である。
 
しかし、そうした成果を中国は覆してきた。9月7日にラオスの首都ビエン
チャンで開催された日本・ASEAN首脳会議では、安倍晋三首相が南シ
ナ海問題に関するオランダ・ハーグの常設仲裁裁判所の判定を尊重すべき
だなどと発言し、ASEAN首脳は支持の意向を示した。
 
だが、翌日の日・米・中・ASEAN首脳会議ではASEAN諸国が中国
に説得され、議長声明から仲裁裁判所の判定に関しての言及がスッポリ抜
け落ちた。議長国のラオスやカンボジアの姿勢がぐらついているのだ。
 
加えてフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領の中国への急接近であ
る。合理的な範疇を超えたフィリピンの反米親中路線は南シナ海問題にと
どまらず、アジアの海における米中関係の行方に大きな影響を与える。
 
こうした中で米国の新大統領、恐らくはクリントン氏が登場する。彼女が
ホワイトハウス入りするのは来年1月20日、それまでの約3カ月間、中国は
全力で勢力を拡大するだろう。その状態が新大統領にとっての外交、安保
のいわばスタート台となる。
 
その時点でクリントン氏が中国を押し返せるか。そんな難事に取り組むよ
り、現実的に判断して中国と結び、日本は両国の谷間に追い込まれかねな
い。その可能性も念頭に、日本は準備を進めているはずだ。外交、安保、
いずれも厳しい時代を私たちは迎えている。

『週刊ダイヤモンド』 2016年10月22日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1154

2016年10月23日

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎



朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った北国・秋田では子ども時代はお目にかから
なかった。敗戦後、缶詰を初めて食べて美味しかった。しかし生を食べた
のは大人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

1年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。