肝吸虫(かんきゅうちゅう、学名:Clonorchis sinensis)
は、ヒトを含む幅広い哺乳類を終宿主とし、肝臓内の胆管に寄生する吸虫の一種。古くは肝臓ジストマと呼ばれてきた。
日本列島、朝鮮半島、中国、台湾と東アジア一帯に広く分布し、東南アジアではベトナムに分布する。
タイには似た生態で別属のタイ肝吸虫 Opisthorchis viverrini
が分布して地域によってヒトに濃厚に感染している。
この肝吸虫は川魚に寄生している。だから川魚を刺身にしては食べない。秋田県の旧八郎潟沿岸で育った私が60歳まで刺身を食わなかったのもこのためであり、中国人が最近まで刺身を食べなかったのもこのためである。
最近は海の魚には肝吸虫が寄生してなくて、刺身を食べている日本人が世界一長命であることを知ったので、中国人が急にマグロを食べ始めた。だがトウ小平が1978年に初来日した時はマグロを嫌った。
それなのに第4夫人の江青は夫毛沢東に川魚の刺身を食べさせ、毛はこれを嫌わず、むしろ好物だったと言われている。肝臓ジストマを発症する前に病死したと言うことだろうか。
かつての人気女優であった江青は都会的でスリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だった。やがて毛沢東と出会い、二人は交際を開始するようになった。この時江青は25歳、毛沢東は45歳だった。
しかし当時の毛沢東は賀子珍(毛沢東にとって3番目の夫人)と結婚しており、江青との関係は不倫であった。毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めた。
しかし不倫関係が基であり、さらにスキャンダルで広く知られた江青を毛沢東の妻とすることに対する危惧感が、朱徳や周恩来といった幹部達の反発を招くことになる。
結局、毛沢東は結婚の条件として江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。
幹部たちの反発はあったものの、日中戦争真っただ中の1939年に毛沢東と江青は正式に結婚した。翌1940年には1人目の娘の李訥が生まれた。
国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなった。1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。
当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。
やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。
1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥。京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。
1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。
表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。嫉妬深く自分より優れた所のある女性には容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美を失脚させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。
江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。
さらに、1976年には復活したケ小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の一人として逮捕された。
1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。
1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席
あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。
自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。
葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。
死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。
江青は右の足指が6本あった(李志綏著「毛沢東の私生活」上巻243ページより)。
毛沢東の葬儀で江青は黒服に黒のベールで顔を覆っていたが、アルゼンチン大統領ペロンの葬儀の時のイサベル・ペロン夫人(のち大統領)と同じ格好だったので、人々は、毛の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った。
ハリソン・E・ソールズベリー『天安門に立つ
―新中国40年の軌跡』(日本放送出版協会、1989年)によれば、1976年当時の江青の頭髪はかつらで、実際にははげ頭であったという。
「一瞬のうちに毛(沢東)の棺の前で、党幹部の面前で、女二人の取っ組み合いの喧嘩がはじまった。王海容(毛沢東の従兄弟・王季范の孫娘で当時外交部(外務省)副部長)は江青の頭に手を伸ばし、その髪を掴んでぐいと引っ張った。その瞬間、王はあやうく引っくり返って尻もちをつきそうになった。
気がつくと、手には何やら黒い塊がある。驚いて江青を見ると、その頭は卵のようにつるつるだった。黒いものは江青のかつらだったのである」。(「ウィキペディア」)2011・1・25