2020年09月16日

◆毛に肝吸虫を食わせた女

渡部亮次郎


肝吸虫(かんきゅうちゅう、学名:Clonorchis sinensis)
は、ヒトを含む幅広い哺乳類を終宿主とし、肝臓内の胆管に寄生する吸虫の一種。古くは肝臓ジストマと呼ばれてきた。

日本列島、朝鮮半島、中国、台湾と東アジア一帯に広く分布し、東南アジアではベトナムに分布する。

タイには似た生態で別属のタイ肝吸虫 Opisthorchis viverrini
が分布して地域によってヒトに濃厚に感染している。

この肝吸虫は川魚に寄生している。だから川魚を刺身にしては食べない。秋田県の旧八郎潟沿岸で育った私が60歳まで刺身を食わなかったのもこのためであり、中国人が最近まで刺身を食べなかったのもこのためである。

最近は海の魚には肝吸虫が寄生してなくて、刺身を食べている日本人が世界一長命であることを知ったので、中国人が急にマグロを食べ始めた。だがトウ小平が1978年に初来日した時はマグロを嫌った。

それなのに第4夫人の江青は夫毛沢東に川魚の刺身を食べさせ、毛はこれを嫌わず、むしろ好物だったと言われている。肝臓ジストマを発症する前に病死したと言うことだろうか。

かつての人気女優であった江青は都会的でスリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だった。やがて毛沢東と出会い、二人は交際を開始するようになった。この時江青は25歳、毛沢東は45歳だった。

しかし当時の毛沢東は賀子珍(毛沢東にとって3番目の夫人)と結婚しており、江青との関係は不倫であった。毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めた。

しかし不倫関係が基であり、さらにスキャンダルで広く知られた江青を毛沢東の妻とすることに対する危惧感が、朱徳や周恩来といった幹部達の反発を招くことになる。

結局、毛沢東は結婚の条件として江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。

幹部たちの反発はあったものの、日中戦争真っただ中の1939年に毛沢東と江青は正式に結婚した。翌1940年には1人目の娘の李訥が生まれた。

国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなった。1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。

当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。

やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。

1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥。京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。

1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。

表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。嫉妬深く自分より優れた所のある女性には容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美を失脚させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。

江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。

さらに、1976年には復活したケ小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の一人として逮捕された。

1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席
あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。

江青は右の足指が6本あった(李志綏著「毛沢東の私生活」上巻243ページより)。

毛沢東の葬儀で江青は黒服に黒のベールで顔を覆っていたが、アルゼンチン大統領ペロンの葬儀の時のイサベル・ペロン夫人(のち大統領)と同じ格好だったので、人々は、毛の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った。

ハリソン・E・ソールズベリー『天安門に立つ
―新中国40年の軌跡』(日本放送出版協会、1989年)によれば、1976年当時の江青の頭髪はかつらで、実際にははげ頭であったという。

「一瞬のうちに毛(沢東)の棺の前で、党幹部の面前で、女二人の取っ組み合いの喧嘩がはじまった。王海容(毛沢東の従兄弟・王季范の孫娘で当時外交部(外務省)副部長)は江青の頭に手を伸ばし、その髪を掴んでぐいと引っ張った。その瞬間、王はあやうく引っくり返って尻もちをつきそうになった。

気がつくと、手には何やら黒い塊がある。驚いて江青を見ると、その頭は卵のようにつるつるだった。黒いものは江青のかつらだったのである」。(「ウィキペディア」)2011・1・25

2020年08月12日

◆カレーライスと海軍

渡部亮次郎


「北海道カレー会議」というグループが一時はあって、事務局を
札幌市に置いて北海道の産物のすべてをカレーライスにして食べ尽くそうと呼びかけていた。2006年現在は休止している。

そのホームページによると

<カレーライスは「印度のカリー」を原点とし、「英国」・「仏蘭西」などを経て「日本」にもたらされた。特に明治期の「英国式シチュー風カレー」が旧帝国海軍のメニューとして採用され、軍人を通じて日本への大きな影響を与え、その後「日本の米」と出会うことにより、独特の「ライスカレー、カレーライス」を作り出したといわれている。

この、明治期の日本海軍によるカレーライス導入こそ国民食への始まりとする見方も有力である。
しかし、明治9年頃、既に我が札幌農学校には「生徒ハ米飯ヲ食スべカラズ」という寮則があったことや、「但シライスカレーハ是ニ非ズ」と言ったといわれていることを知る人は少ない。

この一文を起こした人こそ、あのクラーク博士であり、近代日本の黎明期を支えた多くの偉人達が大志を胸に、日々カレーライスを食していたのだ。日本で、最も早くカレーライスを常食化した地こそ、この北海道であることは疑いもない史実なのだ。近代日本の英知を育んだ「北海道のカレーライス」は偉いのだ。>となっている。

明治政府の富国強兵策による軍隊の増強とともに,脚気は兵営に急速に増加し,明治初年には陸軍で兵士の5分の1から3分の1がこれを発症し,日清・日露の戦時には前線将兵のほぼ4分の1が脚気となり,それは総傷病者数の2分の1というありさまであった。

脚気の病因については,当時なお中毒説・伝染説・栄養障害説がこもごも論ぜられ,治療のきめ手を欠いていたが,イギリスの衛生学を学んできた海軍の高木兼寛は,いちはやく脚気対策の重点を食に置き,兵食改良に着手し,海軍では兵食を米麦混食にしてから脚気は急速に減少した。 

もともと脚気は江戸時代の元禄〜享保年間(17世紀末〜18世紀初め)に江戸で大流行した。この年代は日本人の米食がそれまでの玄米または半つき米から精白度の高い白米に移行した時期と一致している。

また寛政年間(1789‐1801)には京都,文化年間(1804‐18)には大坂で流行した記録がみられ,〈江戸煩い〉あるいは〈大坂腫れ〉などとよばれた。明治になると都市人口の激増や貧困層の増大につれ,食生活の低下とくに青年層における栄養の相対的低下が著しくなり,脚気の急増を招くことになった。

高木兼寛 1849‐1920(嘉永2‐大正9)たかぎかねひろ

明治・大正期の軍医。宮崎県生れ。幼名藤四郎。石神良策,W.
ウィリスに医学を学び,1872年(明治5)海軍省出仕。75年ロンドンのセント・トマス病院医学校に留学し,80年帰国,東京海軍病院長となる。81年成医会をつくり,成医会講習所(京橋区鎗屋町、現在の銀座4丁目)の所
長となる(東京慈恵会医大はこれを原点としている)。

翌82年有志共立東京病院(同大学付属病院の前身)を設立し,85年同院に看護婦養成所を設立し,日本最初のナイチンゲール式近代看護教育を開始した。成医会講習所は何回かの名称・組織の変更を経て今日東京慈恵会医大に至るが,ドイツ医学主流の当時にイギリス医学を導入した。85年には海軍軍医総監となる。

海軍軍陣医学の近代化への貢献は大きいが,とくに脚気減少のために努力した。開化期の先端的文化人としての活躍(鹿鳴館のバザー,神前結婚,オーナードライバー,洋装のすすめ)も忘れることができない。

日露戦争と脚気をテーマとして書かれた吉村昭の小説「白い航跡」(講談社文庫)では海軍軍医総監として、理屈はまだ分からないけれど、とにかく肉や麦(パン)、カレーライスを食べさせれば脚気は治るんだから良いという高木。 

対する陸軍軍医総監森 林太郎(鴎外)はドイツ派医学の代表として脚気黴菌説のパスツールにしたがって農村出身の次男、三男たちに白米をたらふく食べさせ、結果として脚気患者を大量に出現させた。そればかりか、高木を、いわば学無き者として、罵詈雑言を浴びせて非難した。

明治天皇がこれに注目された。皇后が脚気を患っておられた。そこで
高木を陪食に招き、栄養の話を聴かれた。その結果、脚気は治癒した。天皇は高木を4度も陪食に招かれた。鴎外は1度もなし。鴎外が「勲章なぞ貰うな」と遺言して死んだのは腹癒せではないかと私は思ってしまう。      

もともと英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、代わりに日持ちのよい香辛料のカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューはともかくパンでは力がでない、と白米にかけた。

カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けしてかけたところ好評を得て海軍カレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている。肉と小麦粉でビタミンB1が補給されて脚気も治った。

日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用、海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。

肉は主に牛肉、太平洋戦争時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。

その後、復員した兵士がこれを広めたため、カレーライスは全国に広がった。

戦後の復興期、カレーの普及に着目した食品メーカーなどが、海軍カレーに準拠するカレー粉を製造・販売したため、日本のカレーの由来は海軍カレーであるということができる。

現在も海上自衛隊では毎週金曜日にすべての部署でカレーライスを食べる習慣となっている。これは単調な海上勤務で、曜日の感覚を取り戻すためというほか、余っても基地から外出せず週末に居残った者が手軽に食べられるという現実的な理由もあったらしい。

海上自衛隊で食べられているものは「海上自衛隊カレー」と呼ばれる。

現在は、各艦艇・部署ごとに独自の秘伝レシピが伝わるため、作られるカレーは艦艇・部署ごとに異なっている。

従って今日の海上自衛隊のカレーには単一の味・レシピは存在しない。「×××スーパーカレー」というような呼び方をする。×××には艦艇番号などが入る。

なお、カレーライスだけでは不足するカルシウムと葉酸を補うため、牛乳でカルシウムを、サラダで葉酸を補充、さらにタンパク質補強に卵、ビタミンC補強に果物、を加えるなど、栄養学的に献立に工夫を加えることは、海上自衛隊での通例となっている。

護衛艦は優れた冷凍貯蔵設備(戦時には遺体安置室となる噂もある)を有し、食材はほぼ一般家庭と同程度の鮮度が保障されている。海上自衛隊カレーは、味、コク、香り、ボリュームの4拍子すべてが高レベルであり、一般の洋食屋にあるカレーの味では追従を許さない。

海上自衛隊カレーには各部隊、各艦艇で独特の隠し味がありたとえば赤ワイン、ミロ、ゆであずき、インスタントコーヒー、コカコーラ、ブルーベリージャムなどさまざまである。


実際海上自衛隊カレーの味に惹かれて海上自衛隊に入隊するものもあり、その中には自らの職種を給養として、海軍カレーの伝統継承に人生を投じるものまでいるのである。

給養員は勤務において実務経験を得ることができ、調理師、栄養士などの資格取得も可能である。海上自衛隊の給養員として勤務し、その後独立して店を構えたものもいる。

神奈川県横須賀市は、「よこすか海軍カレー」というキャッチフレーズを用いて海軍カレーの振興につとめている。これは、日本海軍横須賀鎮守府が海軍カレーを採用していたことから、カレーライスは横須賀から全国に広がったととらえたためである。

横須賀市のウェブサイトに「カレーの街よこすか」というホームページを設け、地元の商工会議所や飲食店などで「海軍割烹術参考書」などを基に海軍カレーのオリジナルレシピを再現するなど、町おこしを行なっている。

ところで脚気である。ビタミン B1の欠乏によって起こる栄養障害性の病気。ビタミン
B1は酵母,穀類の胚芽,もやし,豆類に多量にまれているので,日本人の標準的な食事をとっているかぎり,B1欠乏になることは少ない。

しかし,精米して胚芽をとり除いた白米にはB1はほとんど含まれていないので,白米ばかり食べていると
B1欠乏となる可能性がある。江戸時代の中ごろから白米食の習慣が普及したため,脚気の病因がつきとめられ,その対策がとられるようになる大正時代ころまでは,脚気は日本全国において多発し,毎年2万人以上が脚気のために死亡した
という。

昭和になってからは脚気とビタミン
B1との関係についての知識が一般にも普及し,胚芽米,七分づき米,強化米(B1添加米)などが奨励されて脚気は激減し,それによる死亡例などはほとんどみられなくなった。

ところが1973年以降,高校生(男子に多い)を中心に脚気と思われる症
例の多発が気づかれ,学会に報告されて問題となっている。

多発の理由としては,(1)白米食の普及,(2)即席食品,加工食品,保存食品の増加,(3)清涼飲料水,菓子類などからの糖質の多量摂取,(4)偏食による
B1摂取量不足,(5)激しい運動,発汗,などがあげられている。

糖質の分解にはビタミンB1が必要なので、甘いものを
多食すると欠乏症になりやすい。
(産経新聞2006・5・14及び平凡社「世界大百科事典」、ウィキぺディア等を参照)2006.05.16

2020年07月25日

◆日本にもあった徴兵制度

渡部亮次郎


夜のプラットホーム 作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
昭和22年 

1 星はままたき 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホームの 別れのベルよ
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


2 ひとはちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


3 窓に残した あのことば
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

これが徴兵制度の実態である。歌は戦時中に作られた。新婚の夫は再び帰還しないかも知れない。東京・新橋駅の柱の陰で泣き崩れる新妻を見て新聞記者奥野椰子夫が詩を綴った。当然発売禁止になった。

仕方なし、戦後の昭和22年に二葉あき子の歌でヒットした。戦後になってみると、出かける夫は「旅」に行く風情。だが本当の意味は「死出の旅」だったのだ。それを考えると私はこの歌を歌えない。

日本では1873(明治6年)年に国民皆兵を目指す徴兵令が出され、のち兵役法となった。大日本帝国憲法では兵役の義務が盛り込まれた。当初は、免役率が80%と高く、肉体的に頑強な男性の中から、籤引きでごく僅かのみ徴兵されていた。

しかし、不公平感から全国で徴兵反対運動が起こり、そのため徴兵制度は大改正され1889(明治22)年には法制度上、男性に対して国民皆兵が義務付けられた。

実際に徴兵される男性が増加して行き、大東亞戦争末期には、700万人以上も根こそぎ徴兵された。敗れた1945(昭和20)年に廃止された。

日本の徴兵制度は戸籍制度を前提にしており、明治6年1月10日法では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。

だから渡部家では日露戦争(明治37~38)に次男の慶蔵が応召した。

戸籍法の適用を受ける日本国民の男性は、満20歳(1943年からは19歳)の時に受ける徴兵検査によって身体能力別に甲-乙-丙-丁-戊の5種類に分けられた。

甲が最も健康に優れ体格が標準である甲種合格とされ、ついで乙種合格、丙種合格の順である。丁は徴兵に不適格な身体である場合、戊は病気療養中に付き翌年に再検査という意味である。

大東亜戦争(1941-45年)では、甲から順次徴兵されて行った。当初、一番体格が標準的である甲種の国民が抽選で選ばれた場合に「現役兵」として徴兵されるにとどまっていた。

具体的にはおおよそ10人に1人から4人に1人程度であり、これらの兵士が正規の訓練を受け、終えた兵であった。

しかし、戦局が激化するにつれ、現役兵としての期間を終えた後の予備役・後備役にあった(元の生活に戻っていた)元兵士の国民も召集令状によって召集された(徴兵は増え、大戦末期の昭和20年には徴集率は九割を超えた)。

この召集令状(召集時に来る命令書)は用紙の色が赤いので(実際はピンク)、「赤紙」と広く国民に呼ばれた。

通常、現役での徴兵を「徴集」、予備役・後備役での徴兵を「召集」と呼んで区別していた(混乱期には区別せずに「徴集」を用いることもあった)。

この召集制度が悪用された例として竹槍事件がある。真珠湾攻撃による日米開戦時の首相であった東条英機は、戦争遂行の為に「東条幕府」と揶揄される程の独裁的政治を行った事で様々な問題や軋轢を生んでいた。

また、軍務や政務に私情を持ち込む傾向があり、反対意見に耳を塞いだのみならず、個人的に嫌いな人物や敵対者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをした。

東条が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。

そうした中、1944年2月23日の毎日新聞朝刊に『竹槍では勝てない、飛行機だ』と新名丈夫記者(当時37歳)が執筆した記事が掲載された。

新名の記事は「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」という意味の記事で、陸軍の本土決戦構想に反対する海軍の指導によって書かれた。

この記事に対し、東条は自分に批判的な記事を書いた新名を二等兵として召集し、激戦地となることが予想される硫黄島へ送ろうとした。

これに対し、新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であったことから、海軍が召集に抗議した。そのため、新名は海軍の庇護により連隊内で特別待遇を受けて3ヵ月で召集解除になった。

その後、東条の意志で陸軍が新名を再召集しようとしたが、海軍が先に徴用令を出し新名を救った。

召集令状が届けられた人は「出征兵士を送る歌」などが流れる中、家族・地区(隣組など)を挙げて送り出された。

さらに、大東亜戦争末期になると、兵力不足が顕著になり、文科系学生への徴兵(学徒出陣)や熟練工、植民地人の徴兵が行われた。

戦後は陸海軍省の解体にともない軍そのものは消滅し、徴兵制度の根拠となる兵役法は昭和20年11月17日に廃止された。

その後警察予備隊(後の自衛隊)が発足したものの、憲法9条などに見られる国民の軍隊アレルギーから徴兵制は見送られ、志願制が採用された。

現在の自衛隊は完全志願兵制を採用している。
一部の保守系の政治家の中に徴兵制復活の意見も存在しないわけではない。

だが、仮にそれを政策として実行しようとした場合、世論の批判や選挙への影響が懸念されるという政治的なリスクもあり、政治家の個人的見解として述べられることはあっても、実際の政策課題として国会などで議論されることはない。


なお、戦時中でも徴兵拒否者はいたとされ、俳優の伴淳三郎は召集令状は受け取っていたのだが、徴兵検査にはきれいに化粧、女装をして出かけていき、その格好を見た検査官が激怒、検査場から追い出され、検査直前に醤油を大量に(一升瓶1本分)飲み、「肝臓病」を装って徴兵を逃れている(一時的に同一症状が出せる)。

他にも灯台社の明石順三による徴兵拒否が有名。
出典:「ウィキペディア」2008・05・05

2020年07月22日

◆ 訛は抜けない

渡部亮次郎


記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、襄さんは東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は民主党に対する説明不足を説明するのに東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れしたが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。

「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、
マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。2007・11・13

2020年07月20日

◆二・二六事件前に生まれたが

渡部 亮次郎(頂門の一針 主宰)


昭和11(1936)年1月1に生まれた。その1ヶ月半後にににろくじけん が起きた、と大人になってから知った。私の前に琢次郎が次男として生まれたが、夭折。私はだから三男なのだが、亮次郎、次男扱いである。

二・二六事件の事は全く知らないまま、大東亜戦争に突入、国民学校(小学校)4年(昭和20=1945年)8月20日に敗戦。二・二六事件とは無関係の心算で75歳になった。

百科事典によると1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタという括り方になる。満洲事変開始前後から軍部の中で対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展した。

さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。

1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の斬殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。

皇道派青年将校は,拠点である第1師団の満洲派遣が決定されると,現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行に突きすすんだ。

昭和11(1936)年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。

栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。

坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実(まこと)内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。

渡辺錠太郎教育総監の長女渡辺和子さんは現在、ノートルダム清心学園理事長だが、2月23日未明、ラジオ深夜便の再放送に出演し、殺害現場唯一の目撃談を語った。

小学校4年しか行かない陸軍大将だったが、「彼らには僕が邪魔なんだよ」とかねて覚悟していたことを夫人にかたっていたそうだ。

また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し,襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。

さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。

村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入。

さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。

しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。

これに対し天皇は重臣殺傷に激怒された。海軍も激しく反発,杉山元(はじめ)陸軍次官,石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集した。

27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され,28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により,29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し,戦闘態勢をとるとともに,ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告した。

青年将校らは奉勅命令に動揺し,目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順,青年将校らは逮捕された。

また皇道派の理論的指導者北一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、および西田税(みつぎ)らも逮捕され,クーデタは失敗した。

陸軍首脳部は当初、反乱を容認するかのような措置をとった失態を隠し,事件に対する非難をそらすため,青年将校らを極刑に処す方針をとり,一審制・非公開・弁護人なしの特設軍法会議で,7月5日17名に死刑の判決を下した。

12日に15名を処刑,翌37年8月19日北,西田,村中,磯部を死刑に処した。

この間〈粛軍〉人事により皇道派系分子は一掃され,寺内寿一(ひさいち)陸相ら新統制派が陸軍主流として実権を掌握し,事件の威圧効果を利用して広田弘毅内閣の組閣に干渉,軍部大臣現役武官制復活など軍部の政治的発言力の著しい強化をもたらした。

結局,統制派的勢力は,皇道派のクーデタを利用したカウンター・クーデタにより,皇道派を環(ほふ)るとともに対英米協調的勢力を屈伏させ,圧倒的優位を築いたのである。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス 江口 圭一筆

以下は「ウィキペディア」による。

<二・二六事件を記念し死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。二・二六事件の首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がそれである。

17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。 なお、昭和11年7月12日の刑の執行では15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。

当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から、小部隊による演習が行われたが、これは処刑時の発砲音が外部に聞こえないようにする為だったという。

グーグルには〜 二・二六事件がわかりにくい理由 〜
・「昭和維新」と言いながら、実は陸軍の派閥抗争だったから
・陸軍首脳の態度が天皇の激怒でがらっと変わったから
・陸軍首脳が事件の責任を右翼民間人に押し付けようとしたから
・事件を利用して、陸軍(統制派)が逆に勢力を伸ばしたからとしている。

現在のNHK放送センターは、代々木練兵場跡地にある。2011.2・25

2020年07月15日

◆論ずべき政治が無い

渡部亮次郎


政治を論じなくなって久しい。論ずべき政治がなくなったからだ。夢と希望を政治に賭けなくなったからだ、とも言える。

だから、強いて政治を論じれば、政治家の悪口になってしまう。そこでなるべく政治を取り上げないように苦心しているわけだ。

特に小選挙区になってから、大局を論ずる政治家が登場しなくなった。否、論ずる必要がなくなったのだ。天下、国家の将来を論ずるよりも、ちんけな「公約」をばら撒けば当選出来るようになったから政治家は楽である。

だから、まるで御用聞きのような物言いをする政治家ばかりになった。思想も政策も必要ない。辻立ちして「政権交代」と世論に一致する声を挙げていれば当選だもの。

時々は国会の論戦に耳目を集中させようとするが、くだらないアラ探しばかり。週刊誌にまかせておくだけでいいようなものばかり。とても聞いていられない。

一昔前は日米安保論で日が暮れたものだが、最近は防衛問題はさっぱり聞かれなくなった。国民に関心が無いから票にならないからだろう。それでも論じなければならないのが、安保、防衛問題なのだが。今回は安保法制で少しは国会も賑わうかも知れないが。

教育についてもそうだ。昔は日教組と文部省(当時)は激しく対立して緊張関係にあったが、昨今は役人が日教組と癒着して自分たちの週休2日制さえ確保されれば、後はどうでもいいようだ。

民主党すなわち日教組だから、少しは残っていた教育の中立性はどこかに消し飛んで、教育に関する限り、日本社会党左翼の風、復活という不愉快な事態になるだろう。

私は、日本がだんだん、つまらなくなって行くのは、みんなが塾教育を是認したからではないかと密かに思っている。塾では試験に失敗しない方法ばかりを教える。無駄の集積の結果としての成功などとは絶対に教えない。

しかし、世の中の実際は殆どが失敗の連続と、失敗から導き出された成功への道である。失敗を重ねる事が結果的に人間のスケールを大きくするし、金太郎飴でない、個性的な人材を育成する。

政治の世界も、戦争帰りが国会議員であるうちは、度胸の据わった大物が沢山いて面白かった。しかもなぜか社会党には戦争帰りが少なかった。思想犯としてブタ箱を経験した「闘士」は左翼思想をさらに左に傾けてやまなかった。

彼らは自民党体制のブレーキ役を任じていた。ブレーキが如何に利いてもエンジンにはなれないことに気付かぬまま、社会党は消滅した。

自民党の戦争帰り。役人上がりの後藤田でも主計将校。中曽根もそう。田中角栄は2等兵でノモンハンに行ったが病気で帰還した経験があった。園田直の如きは特攻隊生き残り。竹下も立川にいた。しかし、シベリア抑留を体験した宇野宗佑で戦争体験の首相は終わった。

それ以後の自民党政治家は塾体験の2世ばかりが首相。失敗や敗戦の体験が無いから、人間として余りにもスケールが無い。小さすぎる。貫禄も風格も無い。タダの人だから国民を惹きつける魅力が全く無い。

民主党は、自民党に風格や貫禄や魅力のあった時代に、そこから撥ね退けられた人物や、自民党の隙間を探せなかった人物と社会党と民社党の残滓である。要するにかすでしかない。

経済の高度成長と共にあった頃の自民党に比肩する実績など挙げられるわけが無い。化けの皮はすぐ剥げるが、それまで長かった。
(文中敬称略)2009・09・04

2020年07月09日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部亮次郎


アメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有り、何よりも中国への刺激を避けることを最優先に考えており、私から言えば「アメリカは先覚問題から常に身をかくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢に鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている。

なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先するというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでもサンフランシスコ平和条約2条に帰結する。

なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しないことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張の争いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本にはない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更するわけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している。2013・12・27


2020年07月03日

◆「小京都」返上の湯河原

渡部亮次郎


<99年から「相模の小京都」をうたい観光PRを続けてきた神奈川県湯河原町が、キャッチフレーズに「小京都」を使わない方針を決めた。

冨田幸宏町長は取材に「町民から『どこが小京都か』という疑問の声もあった。現実的に町が小京都になじむかというと難しい。今後は町として使うことはない」と語り、事実上「小京都」を返上する格好だ。

「小京都」は京都と自然や景観が似ていたり、歴史的なつながりがあることなどを条件に「全国京都会議」(事務局・京都市観光協会)から加盟が認められれば、「小京都」を名乗ることができ、青森県弘前市や山口県萩市など全国約50カ所が小京都をうたっている。

湯河原町は京都出身の日本画家、竹内栖鳳(せいほう)画伯が晩年を過ごしたり、京都・仙洞(せんとう)御所に同町吉浜海岸の「一升石」と呼ばれる浜石が献上されたことなどから、加盟が認められたという>。毎日新聞
1月28日(金)11時59分配信

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
小京都と呼ばれる地域が集まる団体として「全国京都会議」が存在する。全国京都会議は京都市を含む26市町により、1985年に結成された。1988年の第4回総会で加盟基準が次のように定められた。

1.京都に似た自然と景観
2.京都との歴史的なつながり
3.伝統的な産業と芸能があること

以上3つの要件の一つ以上に合致しておれば常任幹事会で加盟を承認される。全国京都会議には小京都のほか、「本家」である京都市も参加し、事務局を同市観光協会内においている。

なお、全国京都会議に加盟していなくても、観光宣伝などを目的とした自称、他称の「小京都」は多い。

目次 [非表示]
1 小京都一覧
1.1 全国京都会議加盟自治体
1.2 過去に全国京都会議に加盟していた自治体
1.3 その他の小京都

小京都一覧 [編集]
全国京都会議加盟自治体

(京都府京都市)
青森県弘前市
岩手県盛岡市

岩手県遠野市
宮城県柴田郡村田町
宮城県大崎市岩出山地区

秋田県仙北市角館町 - 「みちのくの小京都」と称される。
秋田県湯沢市
山形県山形市

栃木県栃木市(「小江戸」とも)
栃木県足利市
栃木県佐野市

茨城県古河市
埼玉県比企郡小川町
埼玉県比企郡嵐山町

神奈川県足柄下郡湯河原町(2011年4月よりキャッチフレーズに「小京都」を使わない方針)
新潟県加茂市 - 「越後の小京都」と称される。
長野県飯山市

長野県飯田市
愛知県西尾市
愛知県犬山市

富山県南砺市城端地区
福井県大野市
福井県小浜市

岐阜県高山市 - 「飛騨の小京都」と称される。
岐阜県郡上市八幡町
三重県伊賀市上野地区

兵庫県篠山市
兵庫県豊岡市出石町 - 「但馬の小京都」と称される。
兵庫県たつの市龍野町 - 「播磨の小京都」と称される。

鳥取県倉吉市
島根県松江市
島根県鹿足郡津和野町 - 「山陰の小京都」と称される。

岡山県津山市
岡山県高梁市
広島県尾道市

広島県竹原市 - 「安芸の小京都」と称される。
山口県山口市 - 「西の京」と称される。
山口県萩市

愛媛県大洲市 - 「伊予の小京都」と称される。
高知県四万十市中村地区 - 「土佐の小京都」と称される。
高知県安芸市

福岡県朝倉市秋月地区
佐賀県小城市小城町
佐賀県伊万里市

熊本県人吉市
大分県日田市
大分県杵築市

宮崎県日南市飫肥地区
鹿児島県南九州市知覧町 - 「薩摩の小京都」と称される。


過去に全国京都会議に加盟していた自治体

北海道松前郡松前町
岩手県水沢市(現・奥州市)
山形県酒田市

長野県松本市
石川県金沢市
広島県三次市
徳島県那賀郡那賀川町(現・阿南市)

2011・1・28

2020年06月29日

◆「尖閣」から遁走の売国政権

渡部亮次郎


<尖閣ビデオは非公開、「日中」再悪化を懸念
政府・与党は7日、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件の様子を海上保安庁が撮影したビデオについて、公開に応じない方針を固めた。

公開すれば日中両国で相互批判が再燃し、4日の日中首脳会談を機に改善の兆しが出てきた日中関係が再び悪化しかねないとの判断からだ。

国会がビデオ提出を求める議決をした場合などは、予算委員会など関連委員会の「秘密会」への提出とし、限定的な開示にとどめたい考えだ。

衆院予算委員会は7日開いた理事懇談会に法務省の小川敏夫法務副大臣らを呼び、ビデオの扱いについて協議した。法務省側は「中国人船長を起訴するか否かの結論が出ていない段階で、捜査資料を出したケースは今までない」と説明し、現時点での国会提出に難色を示した。与党側も慎重な姿勢を示した。>
読売新聞 10月8日(金)5時14分配信

この答弁からして反日だ。あわてて釈放した船長を起訴する自信もハラも無いくせに「起訴するか否かの結論が出ていない段階で、捜査資料を出したケースは今までない」とは誤魔化しもいい加減にしろ、だ。

今度の尖閣問題について菅首相には国家的見地にたった戦略がまるでない。背負っているのが日本という国家の運命であり、その誇りであるという責任感がまるでない。

7日、偶然、取材できたところによると、最初、菅首相の訪米中、仙谷官房長官は、困り抜いた挙句、民間人の手づるで元中国政府高官に接触。

そのルートで、ASEM会場での「偶然」の温首相との会談設営に成功した。これが「改善の兆し」なんだそうだ。

その結果、菅首相と仙谷官房長官は「これ以上もめさせない」で一致。問題のヴィデオの非公開の方針を決めたしまった。言うなれば「尖閣」を手放す結果を招くかも知れないが、菅政権維持のためには、日中関係を穏便に保つこと、止む無しと決めたのである。

これは明らかな「売国行為」である。或いは「偶然」会談をセットした「根回し」の際、ここまで約束させられた疑いも濃厚だ。「今は書かないで欲しい」というのが、7日取材の中国側の態度だったことからの推測だ。

尖閣諸島が日本固有の領土、東シナ海に領土問題が存在しない事は様々な資料からも歴然たる事実である。たとえばジャーナリストの水間政憲氏が「週刊ポスト」(10月15日号)で明らかにした1960年4月に北京市地図出版社発行の「世界地図集」では尖閣諸島は日本の領土として日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されている。

水間氏によれば、その12年後の1972年発行の同じ北京市地図出版社の地図ではいきなり自国領として「釣魚島」「赤尾嶼)とか書き変えてある。

更に驚くべき事に中国は「清」時代の地図の改竄まで行なっているのだ。「目的のためには、どんな手段も正当化してしまうのだ」(水間氏)。

1960年4月に北京市地図出版社発行の「世界地図集」は日本外務省中国課が現在も所蔵しているはず。それなのに、中国と対等に向き合うのが厭だとばかり、遁走した菅首相。さっさと総辞職すべきだ。
私は中国人にされたくない。2010・10・8

2020年06月22日

◆「あきたこまち」の誕生

渡部亮次郎


郷里の秋田県産の米「あきたこまち」が届けられ、コメの美味しさを堪能した。新米が早く食べたいと、南国の早稲を買っていたが、比べるのもおかしいぐらい秋田産が美味い。

「あきたこまち」の食味について公的食味試験機関「日本穀物検定協会」1984年11月の総合評価は「0・944」。これは新潟県産「コシヒカリ」「0・7〜0・8」、同「ササニシキ」は「0・5〜0・6」を大きく上回るものだった。

穀物検査官は「『あきたこまち』の高い数値はこれまで出たことがなかった」と評した。これを契機にマスコミや流通業界の関心が高まり、とくに県外における知名度向上に弾みがつき29年の歴史が流れた。

29年前の1984年9月7日に秋田県品種対策協議会を開催し、県農業試験場が作り出した「秋田31号」を奨励品種に採用することを決定した。

同日、知事が県農協中央会長、県農業試験場長同席のもと記者会見を行い、品種名を「あきたこまち」と命名し奨励品種に採用したことを発表した。

命名の由来は、秋田県雄勝町に生まれとされる美人の誉れ高い平安時代の歌人「小野小町」にちなみ、秋田で育成した美味しい米として、末永く愛されるように願いを込めた。

「あきたこまち」は、母親の「コシヒカリ」から良食味性を、父親の「奥羽292号」から早熟性を受け継いでいる。

このことから、寒冷地北部でも新潟の「コシヒカリ」並の良食味米栽培が可能となり、倒伏や「いもち」病に対する抵抗性も「コシヒカリ」以上の特性を持っている。

さらに、炊飯すると米粒に美しい光沢と粘りがあり、食味に関する特性は申し分がなかった。

米どころ秋田県とは言いながら10a(1反歩=300坪)当たり平均収量は、戦前(1945年以前)の200s台から1950年頃には350s台に急増。

その後、1955(昭和30)年は450s、1965(昭和40)年には550sと大幅な伸びを示した。この要因は、戦後の食糧難時代に、農地解放に伴う生産者の増産意欲の高揚とともに、保温折衷苗代、三早栽培(早播き、早植え、早刈り)などの普及及び県の増産運動「健康な稲作り運動」と相まって、全県民的な普及によって助長された。

こうした技術開発と多収品種の導入により1976年、1977年、1980年には「反収日本一」となり全国で最も安定多収県として位置づけられた。また、全国の多収穫競作会では秋田県から「米作日本一」が続出するなど、多収技術が開花した時代であった。

しかし1970年代に入ると、全国的に米の生産過剰となり生産調整が始まった。秋田県も政府米の在庫を抱えながら、多収栽培から脱却できない産地であった。つまり、多収栽培を行うのではなく量より質、消費者に喜ばれる、売れる米づくりへと転換せざるを得なかった。

このような背景から、1974年に秋田県農協中央会が水稲育種事業の実施を県に要請し、翌年に県が水稲育種事業の開始(再開)を決定した。

つまり秋田県では1913年から1941年までの25年間、交雑育種を手掛けて育成したが、その後中断していたのだ。1977年の福井県農業試験場へ調査・享受の折、同場で75年に交配した「コシヒカリ」(母)×奥羽292号(父)の「福交60−6」のF2種子1株を譲り受けた。

譲受けた「福交60−6」は、1981年に系統選抜4年目(F6)を迎え、系統名(地方番号)を「秋田31号」と命名した。1983年には系統選抜6年目(F8)を迎え、1群8系統の栽植し2系統20株を選抜し育成段階を終了した。

当時「コシヒカリ」は育成して約30年になっていたが、それまで「コシヒカリ」を親に交配した品種を奨励品種に採用した事例がなく、「秋田31号」が最初の品種であった。

しかも、「コシヒカリ」の欠点である耐病性、耐倒伏性、収量性を改善した早生品種で、食味は「コシヒカリ」を上回った。

県農協中央会と農協経済連が「美人を育てる秋田米」のキャッチフレーズを発表し、秋田県初の水稲新品種誕生に花を添えた。

県外出荷が開始された「あきたこまち」は、新品種V類の中で破格の仮渡し金60Kg20,133円の高値で取引された。また、キャンペンガール「こまち娘」が誕生し、市女傘を身につけた平安朝の姿と、秋田で育成した美味しい米「あきたこまち」として大いに印象づけた。

出典:秋田県農林水産技術センター農業試験場次長 児玉 徹 氏作成の資料。

2020年06月19日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモチーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり
たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでいたのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に私は高校2年生。関心は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京都千代田区)で生まれた。
最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。
このころから肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多く残したことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦らが弟子のような存在として知られている。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載されたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのなかで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的名作となっている。
昭和28(
195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去(満48歳没)2010・5・26執筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2020年06月12日

◆「しょっつる」は苦手?

渡部亮次郎


「しょっつる」は秋田の冬を代表する名物鍋。標準語でいえば「塩汁」。秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたのは40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売っていて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっつる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られている。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚なうま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働きが強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メーカーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっけ醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いくつかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアでは、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いられる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマムとも)
が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam
paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・イカン
(kecap ikan)
などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。


歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語:
garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」
(kechiap) という魚醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにしたり、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレなどを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵させる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いものから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調えるものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11


2020年06月05日

◆「きりたんぽ」怖い

 渡部亮次郎


今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になったが、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べない。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。

あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれている。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らなかった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていない。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当なものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウンサー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいったニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考えている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つとかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。2020・1・5


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