2010年12月14日

◆小沢新党期待わずか13・5%

渡部亮次郎

産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が11、12両日に実施した合同世論調査で、焦点になっている民主党の小沢一郎元代表の国会招致問題について聞いたところ「早期に小沢氏の国会招致を実現すべきだ」としたのは70・5%と7割を超えた。

小沢氏と中心とする政界再編に期待感を表明したのは13・5%で、「期待しない」が80・8%と8割を超えた。

これでは小沢氏は「微温湯」。出るに出られない。政倫審出席を拒否して「いじめ」状態に耐えながら生き恥を晒しながら検察審査会の強制起訴を待つしかないところに追い込まれた。

しかも民主党と自民党との比較では、「政策がいい」「政治姿勢に好感が持てる」でいずれも民主党が2〜7ポイント上回ったが、外交安全保障で信頼できるのが自民党と答えた人は60・8%で民主党より48・2ポイントも上回った。

次の衆院選で勝たせたいのは自民党の39・2%に対し民主党は28・9%で、47・4%が次の衆院選を「できるだけ早い時期に行うべきだ」と回答した。

もともと小沢氏の自民党離党(93・6・23)は信念や政策による離反ではなかった。単に自民党竹下派内の内紛で、追い込まれた離党だった。

あれから17年。昨年ようやく政権交代で政界の主流派に復帰下が、その途端に今度もまた内紛から、良く言っても離党勧告されそうである。何とも「お騒がせ」な政治家である。

その最たる原因は小沢氏自身にある。本人は「政治とカネ」問題について「一点の曇も無い」としているが、今回の世論調査でも国民は小沢氏のこの言葉を全く信用していないことがわかる。

小沢氏のカネの話のすべてが角栄や金丸のくびきから逃れた後、つまり自民党を離党したあとに発生したものである。何を目的にゼネコンから多額の献金を得たり、政党助成資金を「操作」したりするのか。

政治資金で土地を買い、自分名義で登記しながら自分は所有して無いと、分かったような分からないことをするのか。

嘗ての田中角栄の手口は阿漕と言われたが、角栄はその一方では周囲にカネを播いた。それが「徳」となって総理の椅子を確保し、野望を達したわけだが、小沢氏には播いた実績もないし「徳」もない。

だから、「早期に小沢氏の国会招致を実現すべきだ」としたのが70・5%と7割を超えた。本人が一点の曇は無いと豪語しても国民は信用していないのである。小沢の後に道はあっても前途には何も無い。          2010・12・13

◆本稿は、12月14日(火)刊の「頂門の一針」2123号に
掲載されました。同誌掲載の著名寄稿者の評論も拝読下さい。
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◆<2123号 目次>
・民主惨敗の茨城県議選と党分裂の危機:古澤 襄
・またぞろ「小沢政局」か:岩見隆夫
・小沢新党期待わずか13・5%:渡部亮次郎
・手持ち無沙汰の「第2の人生」:平井修一
・ドイツ人と銀杏の木:永冶ベックマン啓子
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年12月13日

◆小沢氏、新党断念か

渡部亮次郎

窮地に立つ小沢氏に迷い 「同志に迷惑をかけた」と謝罪 離党後の展望開けずと産経新聞が報じ、「自らの置かれた窮地を悟った小沢氏が、離党説を打ち消そうとしているようにも見えた」と推測した。

<側近の平野貞夫元参院議員も日、「新党を作ったりすることはない。菅さんに挙党態勢を作る気があれば、知恵、力を貸す気持ちがある」と、小沢氏の胸中を推し量りつつ歩調を合わせた。>(産経)

筆者が後に外務大臣になった園田直の秘書官を務めたが、園田氏が若い頃つとめた衆議院副議長当時、その秘書官を務めていたのが平野氏。全く「旧知の仲」である。

平野氏は他方、その当時から田中角栄氏をつうじて小沢氏に接近。国会運営に抜群の知恵を持つ平野氏は、小沢氏に高く評価されていた。

小沢氏の周辺からは多くの「側近」が離反して行ったが、平野氏だけは引退後の現在も「知恵袋」であり続ける。愛娘が小沢側近の樋高参院議員に嫁している通り、小沢氏の信頼は硬い。

その平野氏が小沢氏の離党や新党結成を否定し、党執行部への協力姿勢を示した事は相当な確度を持ってみるべきだろう。

場面は福井県越前市のホテル。11日の同党所属衆院議員のパーティーで、あいさつの終盤にさしかかると、急に神妙な面持ちになって頭を下げた。「私事で多くの同志のみなさんに大変、ご心配、ご迷惑をおかけしていることを、この機会におわびをいたす次第です」何だろうか。

<国会招致問題で渦中の小沢一郎元民主党代表は11日、同党衆院議員のパーティーで「同志に迷惑をかけた」と珍しく謝罪した。岡田克也幹事長らとの亀裂が決定的となりつつある中、離党−新党結成も視野に入れているという小沢氏。

だが、多くの野党は小沢氏との連携に冷ややかで、離党後の展望は開けない。逆に党に残っても政治資金規正法違反事件で強制起訴されば求心力の維持は厳しく、進むも退くも苦難が待ち受ける。そんな小沢氏の迷いが謝罪の言葉となってにじみ出たのかもしれない。

これまで小沢氏は「司法の場で説明する」と国会招致に応じない考えを繰り返してきた。国会招致問題が本格化してからは公の場で謝罪したこともなく、強気だった。

一方、岡田氏らには、小沢氏の招致によりクリーンな姿勢をアピールし、政権浮揚を図る思惑がある。岡田氏は11日、一歩も引かない姿勢を強調しており、小沢氏との溝は埋まらない。

斎藤勁(つよし)国対委員長代理が同日、首相公邸で菅直人首相に役員会での「激突回避」を要請したが、首相から明確な返答はなかった。

「こういう状況で連立するのは、小沢さんの延命策になる」

自民党の森喜朗元首相は11日のテレビ東京番組で、民主、自民両党の大連立に小沢氏が関与するのなら反対する考えを示した。

小沢氏は8日の会合で新党結成を視野に入れた発言をしたが、多くの野党は小沢氏との連携に否定的だ。自民、公明両党幹部は11日、政倫審よりも強制力のある証人喚問への小沢氏出席を求めた。

「民主党の政権を何としても成功させたい」「国民の生活を大事にする政治を民主党政権で実現したい」

小沢氏はパーティーで「民主党政権」の維持を強調した。自らの置かれた窮地を悟った小沢氏が、離党説を打ち消そうとしているようにも見えた。>(産経新聞 2010.12.12 00:35)

◆本稿は、12月13日(月)刊の「頂門の一針」2122号に
掲載されました。
◆<2122号 目次>
・小沢氏、新党断念か:渡部亮次郎
・「侏儒の言葉」と民主党の政局と: 阿比留瑠比
・これなら日本で出産するわけだ:前田正晶
・注目される中国のインフレ率:宮崎正弘
・定住自立圏構想とは:須藤尚人
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月11日

◆小沢氏、新党結成に言及

渡部 亮次郎

「党内抗争」の引き金になるとみられている12日投開票の茨城県議選(定数65)を目前にして小沢氏が新党結成に言及「次のことも考えないと」8日夜 舛添氏らとの会合で延べていたことがわかった。

一方、菅直人首相(民主党代表)は9日、小沢一郎元代表に衆院政治倫理審査会(政倫審)への出席を求める国会の議決を年内に行うことを目指し、13日の党役員会に提起する方針を固めた。

いわば「風雲、急を告げている」感じになっているが、菅氏は「逃げのカン」であるし、小沢氏も新党と口では言うが、前途は楽観できない。両者、しばらく「神経戦」を展開するのではないか。

<民主党の小沢一郎元代表が8日夜の鳩山由紀夫前首相らとの会合で「次のことも考えないといけない」と新党結成を視野に入れた発言をしたことが9日、分かった。

党執行部が「政治とカネ」の問題をめぐり小沢氏の国会招致実現に動き出す中、小沢氏としては局面打開のために現在の民主党にとどまらないことも選択肢に入れたようだ。

一方、党執行部は、小沢氏が国会招致に応じない場合、離党勧告を突きつけることを検討し始めた。

会合には無所属の鳩山邦夫元総務相と新党改革の舛添要一代表も参加した。小沢、由紀夫両氏は菅直人首相について「おれたちを切って、政権を浮揚させようとしている」と批判した。

そのうえで、小沢氏は「民主党への愛着はある。自民党に政治を戻してはいけないし、民主党が今の形で政権を維持させなければいけないと思う。しかし、それがどうしようもなければ次のことも考えないといけない」と発言した。

民主党内は、小沢氏を支持するグループから両院議員総会の開催や、参院で問責決議を受けた仙谷由人官房長官の更迭を求める動きが顕在化し、執行部との対立が激しさを増している。

小沢氏としては「脱小沢」路線を取る現執行部が居座り続けることも想定し、民主党分裂の覚悟を示したとみられる。

これに対し、小沢氏と距離を置く議員からは「小沢氏を離党勧告するしかない」(中堅)という強硬論が上がっている。>
産経新聞2010.12.10 02:24

<菅直人首相(民主党代表)は9日、小沢一郎元代表に衆院政治倫理審査会(政倫審)への出席を求める国会の議決を年内に行うことを目指し、13日の党役員会に提起する方針を固めた。

年明けの通常国会で新年度予算案の審議を円滑に進めるには、野党が求める小沢氏招致が不可欠と判断した。役員会には強い反対論もあるが、首相は多数決による決定も含め強気の構えだ。

小沢氏は首相の強硬姿勢に対抗し、12日投開票の茨城県議選での民主党苦戦を見越して、13日以降に菅政権を質す両院議員総会の開催を求めるよう側近議員に指示。

小沢氏周辺には、参院で問責決議が可決された仙谷由人官房長官を更迭するための内閣改造論が強まっている。年末の来年度予算編成を前に首相と小沢氏の対立が先鋭化しており、菅政権は緊迫してきた。

民主党執行部は今月に入り小沢氏招致に向けて協議を続けてきた。仙谷氏や岡田克也幹事長は、小沢氏招致を避け続ければ野党が結束して反発し、通常国会の予算案審議が冒頭から紛糾すると判断。

法的強制力はないものの、政倫審出席議員の過半数の議決で小沢氏の出席を求め、菅政権として「政治とカネ」の問題に前向きに取り組む姿勢を示すべきだと強く進言した。

首相は8日の岡田氏との会談でこの方針を了承し、同夜の民主議員との会合で「小沢氏の説明がないと国会が回らない。小沢氏は9月の代表選で自分が説明すると言っており、今がその時だ」と強調。

岡田氏も9日の記者会見で「予算案や関連法案を通していくうえで野党の協力を得るためにも重要だ。小沢氏は国会が決めたことには従うと言っている」と、強い決意を示した。小沢氏が議決に応じない場合は、離党勧告も視野に強い態度で出席を迫る構えだ。

13日の役員会では岡田氏が議決を提案して首相か岡田氏への一任を取り付け、年内に政倫審を開いて議決したい考えだ。

ただ、役員会では小沢氏に近い輿石東参院議員会長らから反対論が噴き出す可能性がある。首相と岡田氏は役員会としては異例の多数決による決定も視野に入れるが、役員会が紛糾すれば決断を先送りする可能性もある。

首相らの強硬姿勢の背景には、「政治とカネ」を重視する公明党に国会運営上の軟化を促す狙いがある。

9日には、民主党の鉢呂吉雄国会対策委員長が公明党の漆原良夫国対委員長と会談し、議決が行われれば賛成するよう要請。公明党幹部は「議決の要請があれば反対できない。小沢氏の問題にけじめがつけば、民主党への協力を考える余地はある」と語った。>
(Asahi Com 2010年12月10日5時0分)

2010年12月10日

◆マスコミへの諦観

渡部亮次郎

私は、マスコミの世界にいたこととは関係なく、マスコミというものを信用しない。「あれはあれで仕方のないものだ」と言う一種、諦めの目で見ている。だから嘘を言われても怒らない。嘘をつかないと立場が無かったろうとの想像が容易だからだ。

事件、事象に客観的に立ち向かうとしても、それを記者として表現するのに客観的という事は殆ど不可能だ。どうしても、どこかに記者自身の感情が入る。

大阪放送局(NHK)でニュース・デスクをしていた時、若い警察担当記者が「枚方市の郊外で野犬数匹が登校途中の小学生たちに噛み付いて怪我をさせた」と言う原稿を送ってきた。一応、ローカルニュースの時間に放送した後、この原稿、私が書けば東京で全国放送するよ、と次のように書き換えて,東京へ送った。

「日本で最も古い大阪・枚方市の団地で、転勤族の捨てて行った犬たちが野犬の群れとなって登校中の小学生の集団を襲い、数人に怪我をさせるという出来事がありました」。果たして全国ニュースになった。

「日本最古の団地」「転勤族」「野犬の群」「小学生の集団」これに食いつかないのは記者じゃない。しかし通り一遍のベタ記事をここまで膨らませるのは「腕」と知恵というより「犬」に対する憎しみの「感情」が先立っている。しかも犬にニュースに対する抗議は不可能だ。

事ほど左様にニュースにはどうしても記者の感情を全く排除する事は不可能だ、と思っている。

世論調査にしたところで設問の仕方で結果は大違い。内閣の支持率調査でも、その内閣に対して好意的に質問は可能だし、その逆も可能。だとすれば設問の内容を検討しないで、出てきた数字だけで判断したら間違うことになる。

まして数字の解説記事も、よほど注意しないと間違う。だから私ははじめから世論調査そのものを眉唾ものと決め付けている。もともと新聞は産経しか読まないし、テレビは殆ど見ない。

産経新聞のテレビ欄を見ると歌舞伎役者の喧嘩沙汰に五月蝿いくらい多くの時間が費やされて顰蹙を買っているようだが、テレビ会社は、視聴率さえとれれば、あとは野となれ山となれなのだから、視聴者のレベルにあわせた番組編成をしているだけだ。

それを「公共の電波を浪費して、くだらない番組を放送するな」とパソコンで叫んでみたところで、テレビは馬耳東風。馬の耳に念仏。わしゃ聞えません。テレビは視聴率が高ければ高いほど儲かる方式になっているから、大衆を教育はしない。精々楽しくさせるだけである。

我々大衆とは賢いものではない。テレビと言っても何処のテレビの何時に誰が言っていたかでは無しに「テレビがそう言っていた」と言いふらす。番組のくだらない部分だけが一人歩きして「世論」となったりする。ましてテレビがわが一定の憶測を秘めて大衆を誘導したら、大衆はひとたまりもなく騙されてしまうはずだ。

だから民放テレビが盛んに開局を始めたころ、辛口の社会評論家大宅壮一が、今日を予想して言った「テレビで一億総白痴化する」と。

実はテレビのレベルを大衆が超えれば、テレビは誰にも見られなくなる。皆に見てもらうためにはテレビはそのレベルを大衆に合わせて居なければならない、逆にいえばテレビは大衆そのものである。

民放は只だというが、スポンサーはその分を商品の原価に被せているのだから、大衆は受け取る商品をつうじて視聴料を払わされているに過ぎない。視聴者はテレビを見ている心算が、スポンサーにテレビを見させられているに過ぎない。

そんなこんなを考えると私はテレビを見ると白痴になるような気がして、見ることをしない。なるほど大宅が言ったようにテレビを見ると思索がいらなくなるから、白痴は大げさとしても利口にはならない。

新聞にしたところで事情は余り変わりが無い。「新聞は社会の木鐸」は既に死語である。自民党が殆ど2世3世議員ばかり。やるべきことを何でも先送りするばかりでくだらないからと、日教組教育で赤く染まった連中が民主党への政権移譲を煽った。

煽っているうちは読者は主導権を失ったかに見えたが、新聞としては読者に逆らっては売れないのだから煽っているようで実は読者に諂っていたに過ぎない。それが証拠に政権交代したら部数が格段に増えたという話を聞いていない。

新聞に煽られた、けしからんと言う人がいるが、新聞もまた読者に合わせた紙面を作っているのであって、新聞は読者に煽られていただけである。2010・12・09
◆本稿は、12月10日(金)刊の「頂門の一針」2119号に
掲載されました。著名寄稿者の寄稿もご拝読下さい。

◆<2119号 目次>
・マスコミへの諦観:渡部亮次郎
・台湾の連戦元副主席に孔子平和賞:宮崎正弘
・北朝鮮暴走、世界制覇を目論む中国:櫻井よしこ
・米民主党の対中姿勢の宥和部分とは:古森義久
・プロも読めない為替と株:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月08日

◆鰰(ハタハタ)の季節

渡部 亮次郎

わが郷里秋田では、11月に入ると霙(みぞれ)の毎日だったが、大人たちは鰰(はたはた)の接近を待った。民謡「秋田音頭」にある如く男鹿半島などに来る。

但し私の生まれ育ったところは男鹿半島の付け根にできた汽水湖八郎潟の沿岸だったから、鰰の接近を目にすることはできなかった。産卵の為秋田県各地の沿岸に来る雌の後を追ってきたオスが受精させるべく行動を起こすので海は真っ白になるという。

今年(2010)もすでに東京・日本橋のデパート地下では鰰が売られているそうだから、秋田ではそのシーズンに入ったということだろう。

ハタハタの卵は「ブリコ」と呼ばれる。ハタハタ漁の時期、雌の多くは直径2〜3mmの卵をたくさん腹に抱えており、この卵の周りはヌルヌルとした感触をもった粘液で覆われている。

生のハタハタを焼いた場合、この卵の固まりをかじると口の中で小気味よくプチプチとはじけてうま味が広がる。

塩漬けや味噌漬けにして保存したハタハタの場合、卵の皮がゴムのように硬くなり噛むと顎が疲れるくらいになる。このくらい皮が硬くなると、噛んだ時の音が「ブリッブリッ」という鈍い音になる。これが「ブリコ」と呼ばれるゆえんである。

秋田音頭の歌詞に出てくる「男鹿で男鹿ブリコ」のブリコとはこれのことである。

残念ながら八郎潟沿岸では鮒や鯰が安くふんだんに手に入るので、鰰には余り縁がなかった。たまに串焼きしたのを食べたのは子供のころ。魚醤の汁に切り身をいれたしょっつる鍋を秋田市川反(かわばた)の料亭で食べたのは50歳ごろだった。

鰰の英名は Sailfin sandfish だそうだ。

体長20cm程になり、水深0〜約550mまでの泥や砂の海底に生息する深海魚。生息域は太平洋北部、特に日本海、オホーツク海、アリューシャン列島
など。

秋田県の県の魚に指定されている。主に食用で、しょっつると呼ばれる魚醤で親しまれる。

秋田県では雷の鳴る11月ごろに獲れるのでカミナリウオの別名で呼ばれる。一般にハタハタは漢字では「鰰」(魚偏に神)と書くが、上記の理由から「魚偏に雷」と書く場合もある。また、冬の日本海の荒波の中で獲りにいくことが多いから「波多波多」と書くこともある。

北日本日本海側では底引き網などで獲れる。一時期漁獲量が極端に減少したことを受けて漁獲制限や卵からの孵化、放流事業が行われ一定の成果を収めている。

近年、北朝鮮、韓国からの輸入も増えているが地域に密着した食材であることから高価であるにもかかわらず国内産の人気は高い(1990年代後半、北朝鮮産ハタハタに重量水増しのため石が詰められていたという事件の影響等も否定できない)。

1970年代までは秋田県において大量に水揚げされ、きわめて安く流通していた。あまりの安さに、一般家庭でも箱単位で買うのが普通であった。

冬の初めに大量に買ったハタハタを、各家庭で塩漬けや味噌漬けにして冬の間のタンパク源として食べていた。1980年代に急激に漁獲量が減り、現在では高級魚として高値で取引されている。

1992年9月から1995年8月まで全面禁漁を行ったことも影響したのかここ数年は産卵のため浜に大量に押し寄せて来る姿が見られ、当時の賑わいを取り戻したが遊漁者の転落死亡事故が多発するなどの問題も発生している。

ハタハタの干物食べ方は塩焼き、田楽、ハタハタ汁など。ハタハタ寿司はなれずしの一種で、保存食となる。

鱗が無いことと小骨が少なく脊椎も身から簡単に離れるため、一匹丸ごとかせいぜい頭を落としただけの状態で煮たり焼いたりすることが多い。鮮度のよいハタハタを焼いた場合、尾びれの付け根で骨を折っておくと頭のほうから脊椎が全部きれいに抜け食べやすい。

塩蔵したものや味噌漬けにしたものを煮たり焼いたりして食べることも多い。これらはタンパク源が少なくなる雪国の冬を乗り切るための重要な食材であった。

ハタハタを塩漬けにして発酵させたものは「しょっつる」(塩魚汁または塩汁)と呼ばれる魚醤となる。これを用いてハタハタ、野菜、豆腐などの「しょっつる鍋」をつくる。

秋田では醤油や魚醤による鍋のことを「かやき」と呼ぶため、しょっつる鍋もしばしば「しょっつるかやき」と呼ばれている。なお、「かやき」は大きな貝を鍋代わりに使う意味の「貝焼き」が訛ったものと思われる。

秋田弁では「ハタハタ」の「タ」の音は鼻濁音で発音される(鼻に息を抜きながら発音される)。このため、しばしば「ハダハダ」という音に聞こえる。

秋田では関ヶ原の戦いで佐竹氏が秋田に移封してきた年以降大漁になった事から「サタケウオ」とも呼ばれ、秋田に移った佐竹氏を慕って水戸からやって来たとの伝説がある。
                            2010・12・7
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆本稿は、12月8日(水)刊の「頂門の一針」2117号に
掲載されました。他の寄稿も拝読してください。
◆<2117号・目次>
・高齢者を虐待する側の論理:平井修一
・国内にいる日本人と海外邦人との落差:古澤 襄
・ウィキリークの意外な「機密」とは:宮崎正弘
・鰰(ハタハタ)の季節:渡部亮次郎
・斉藤祐樹を持ち上げるな:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年12月06日

◆お邪魔虫共産党

渡部亮次郎

中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の
汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとした毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だった。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だそうだ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革とは資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化である。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことであって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定するのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部にすれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

◆本稿は、12月6日(月)刊の全国版メルマガ「頂門の一針」2115号に
掲載されました。そのほかの卓見もご覧ください。

<2115号・目次>
・お邪魔虫共産党:渡部亮次郎
・「逃げ」が本質の菅政権:阿比留瑠比
・菅政権が臨時国会を乗切れたわけ:花岡信昭
・権力闘争に魅入られた弁護士:仙谷由人研究(2)
・全てのコインには裏表がある:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月03日

◆周恩来・角栄会談録発見

渡部 亮次郎

38年前の9月29日は北京の人民大会堂で日中共同声明が発せられ、日中の国交が回復した記念の日である。私は当時、NHK政治部記者であり、派遣されて田中角栄総理の特別機
に同乗を許され、「現場」をつぶさに目撃した。

しかし、当時(1972年)9月25日に到着して以来4日間に亘った田中総理と中国の周恩来総理による日中首脳会談で何がどう話されたかについては、会談に同席した二階堂進官房長官が「一切発表できません」と説明を拒否。

最後に共同声明がいきなり発表されただけだった。マスコミも私も田中・周恩来会談のことは掘り起こす事もしないまま忘れていた。だが最近になってパソコンの中を遊弋していたら

<データベース『世界と日本』 戦後日本政治・国際関係データベース東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室>に突き当たった。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/

[文書名] 田中総理・周恩来総理会談記録を発見して初めて全文を読むことが出来た。

[場所] 北京
[年月日] 1972年9月25日〜28日 極秘無期限となっている。30年の期限が過ぎたので 公開されたのであろう。周恩来は「武力大国にならない」とか「台湾の武力解放はしない」とか殊勝なことを言っている。

私自身は共同声明の6年後、今度は外務大臣園田直の秘書官に発令(福田赳夫総理大臣辞令)され、共同声明に謳われながら、6年間も締結のできなかった日中平和友好条約の締結プロジェクトに携わった。

しかし田中・周恩来による日中首脳会談の記録については時間的余裕が無かったし、見せてくれとも言わなかった。「極秘無期限」では外部から来た秘書官風情に外務官僚が拒否するに決まっていると知っていたからでもある。

秘書官を退官した後、わずか3年で園田は腎不全により70歳で他界した。私も別の仕事に就き、今回、ようやく「極秘無期限文書」に会うこととなった。その時すでに37年の歳月が流れていた。無念、無残也。

記録は厖大である。特に興味のある向きは下記のHPで当ってほしい。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/

以下、概略を抜き出す。

田中総理: 台湾問題につき、問題は日本国内、特に自民党内に問題がある。私は訪中前、佐藤前総理に決意を伝えた。彼は十分理解してくれた。台湾との関係については私と大平との政治力が試される問題である。しかし、日中の長い歴史のためには、その程度の困難は覚悟している。

周総理: 何か物事をやろうとすれば、必ず反対する者が現われる。

田中総理: 私が中国との国交正常化を決意した最大の理由は、中国(共産党)が世界を全部共産党にしようなどとは考えておらず、大中国統一の理想をもっている党であって、国際共産主義の理念の下に行動しているのではないと考えたからである。

周総理: まず自分の国のことを立派にやっていくことが大事で、他国のことは他国自身が自分でやるべきだ。今後は日中関係をできるだけ緊密なものにしたい。まず、飛行機の相互乗り入れからやりたい。

田中総理: 結構である。

周恩来:日中は大同を求め小異を克服すべきであり、共通点をコミュニケにもりたい。

日米関係にはふれない。これは日本の問題である。台湾海峡の事態は変ってきているから、条約(日米安保、米華相互防衛条約)そのものの効果も変ってきている。

台湾問題にソ連の介入を許さないという点で、日米中3国の共通点がある。中国側としては、今日は日米安保条約にも米華相互防衛条約にも、ふれずにゆきたい。日米関係については皆様方にお任せする。中国は内政干渉はしない。【第1回会談】

(日米安保条約を周恩来は口を開くたびに非難していた。しかし、2ヶ月前に訪中した公明党訪問団=代表:竹入義勝委員長に対して、周恩来は、安保条約には触れない、と断言していた。知らなかったのは国民だけ)。

周総理: 日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。戦争のため幾百万の中国人が犠牲になった。日本の損害も大きかった。

我々のこのような歴史の教訓を忘れてはならぬ。田中首相が述べた「過去の不幸なことを反省する」という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の「中国人民に迷惑をかけた」との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では迷惑とは小さなことにしか使われないからである。【第2回会談】

周総理: 日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという日本外務省の考え方を聞いて驚いた。

蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。

我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。

我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。

田中・大平両首脳の考え方を尊重するが日本外務省の発言は両首脳の考えに背くものではないか。(戦時賠償を要求しないことも竹入委員長を通じて予め日本政府に伝えられていたが、当然竹入は極秘を守った)

日米安保条約について言えば、私たちが台湾を武力で解放することはないと思う。(「思う」としているところが微妙だ。不倒翁といわれた用心深さがうかがわれる)。

1969年の佐藤・ニクソン共同声明はあなた方には責任がない。米側も、この共同声明を、もはやとりあげないと言った。佐藤が引退したので、我々の側はこれを問題にするつもりはない。

したがって日米関係については、何ら問題はないと思う。我々は日米安保条約に不満をもっている。しかし、日米安保条約はそのまま続ければよい。国交正常化に際しては日米安保条約にふれる必要はない。

日米関係はそのまま続ければよい。我々はアメリカをも困らせるつもりはない。日中友好は排他的なものでない。国交正常化は第3国に向けたものではない。日米安保条約にふれぬことは結構である。米国を困らせるつもりはなく、日中国交正常化は米国に向けたものでない。

ソ連に対しては、日中双方に意見があるが、条約やコミュニケには書きたくない。日ソ平和条約交渉の問題につき、日本も困難に遭遇すると思うが同情する。北方領土問題につき、毛は千島全体が日本の領土であると言った。だからソ連は怒った。

茅台酒がウォッカより良いとか、ウィスキーが良いとか、コニャックが良いとか、そのような新聞記者が言うような問題は中国側には存在しない。【同】

田中総理: 大筋において周総理の話はよく理解できる。日中国交正常化は日中両国民のため、ひいてはアジア・世界のために必要であるというのが私の信念である。

賠償放棄についての発言を大変ありがたく拝聴した。これに感謝する。中国側の立場は恩讐を越えてという立場であることに感銘を覚えた。中国側の態度にはお礼を言うが、日本側には、国会とか与党の内部とかに問題がある。(ODAで賠償相当額を掠め取られたとの指摘にどう応えるか)

しかし、あらゆる問題を乗り越えて、国交正常化するのであるから、日本国民大多数の理解と支持がえられて、将来の日中関係にプラスとなるようにしたい。 【同】

田中総理: 自民党の中には、国交正常化に十分の時間をかけろという意見が多い。それは、中国が大きな力で統一されたが、その中国に不安をもっているためである。他の社会主義国は別として中国は日本に対し内政不干渉であるという考えが国交正常化の前提となっている。

日本の国内で、中国が革命精神の昂揚をやることはない。日中間に互譲の精神と内政不干渉、相手の立場を尊重するという原則が確認されれば、自民党内もおさまると思う。

(日中国交回復が「角福戦争」の争点となっていただけに、田中総理は今回、条約ではないから国会の批准は必要としないものの、国会での論戦よりも自民党内福田派からの反撃を強く懸念し、遂に相手国首脳に苦衷をうちあけてしまった)

周総理: その点は自信をもってほしい。【同】

周総理:経済力について言えば、中国は20世紀の末になっても、1人当り国民所得で日本のレベルに到達できるかどうか全く判らない。中国の国民総生産は昨年は1、500億ドルである。但し、サービスは入っていない。

7億の人口であるから、1人当り国民所得はせいぜい200ドルである。日本は昨年は1人当りで国民所得はいくらですか。(田中総理の説明を聞き)それでは、今世紀の末になっても、到底、日本のレベルに到達できないと思う。(人口はあれから34年が経ったとはいえ、13億人。当時の統計が不完全だったのが真相ではないか)

我々は財政上、先端的な武器は持ちえない。また軍事大国には決してなりたくない。日本がどれだけの自衛力を持つかは日本自身の問題であり、中国側からは、内政干渉はしない。

田中総理: 日本は核兵器を保有しない。防衛力増強は国民総生産の1%以下におさえる。軍隊の海外派兵はしないという憲法は守るし、これを改変しない。侵略は絶対にしない。だから日本に危険はない。

国交正常化の結果、中国が内政に干渉しないこと、日本国内に革命勢力を培養しないことにつき、確信を持ちたいというのが、大平と私の考えである。中国が革命を輸出しないということが私の最大のみやげになる。

自民党を国交正常化問題について全部賛成に回らせることが問題解決のカギである。

周総理: 我々のところでも、日中国交正常化に、少数の者が反対した。また、彼らは米中関係改善にも反対した。林彪がそうだった。また我々の方も人民に説明する必要がある。人民を教育しなければ、「三光政策」でひどい目にあった大衆を説得することはできない。【同】

周総理: 1959年6月、フルシチョフは中国との間に締結した原子力に関する協定を一方的に破棄した。インドの挑発によって発生した中印国境紛争に際しても、ソ連はインドを支持した。

フルシチョフはアイゼンハワーとの会談がうまくいかなかったので、その鬱憤を中国に向けた。

そこでソ連は対中国援助物資も提供を打ち切り、1,300余の技術者も一斉に引き揚げた。

ソ連は反面教師であり、我々は余儀なく自力更生の原則に立った。

田中総理: ソ連は日本との間で不可侵条約を結んでいながら(敗色濃厚となると日本に対し)首つりの足を引っ張ったので、日本としては、ソ連を信用していない。 (首吊りの足を引っ張る、とは角さんといわれた庶民派らしい表現だ)

周総理: 我々は日本がソ連と話をするのは容易でない、4つの島を取り返すのは大変だと思っている。【第3回会談】(この観測は正確だった)

周総理:  話が変るが過去の歴史から見て、中国側では日本軍国主義を心配している。今後は日中がお互いに往来して、我々としても、日本の実情を見たい。

田中総理: 軍国主義復活は絶対にない。軍国主義者は極めて少数である。戦後、衆議院で11回、地方の統一選挙が7回、参議院が9回選挙をした。革命で政体を変えることは不可能である。また国会の2/3の支持なくして憲法改正はできない。 日本人は領土の拡張がいかに損であるかをよく知っている。

日本人は現在、2人づつしか子供を生まない。このままでいけば、300年後には日本人がなくなってしまう。日本を恐れる必要はない。

田中総理: (日本列島改造計画を説明し)軍国主義復活のために使う金はない。 (土建屋上がりと揶揄された所以の発言。カネが別のところに掛かりすぎるから軍事大国にならないとか、少子化傾向だから危険が無い、との発言は経済大国日本の代表としては少々情けない)

周総理: 日本は核戦争にはどのように対処するのか?ソ連は核戦争禁止、核兵力使用禁止を提唱しているが、これは人をだますペテンであるから、あばく必要がある。

核非保有国がソ連のペテンにかかる恐れがある。

彼らは核兵器の禁止を口にするが廃棄するとは決して言っていない。これはペテンだ。ソ連に対する警戒心を失えば、ソ連にやられてしまう。

田中総理: 日本の工業カ、科学技術の水準から、核兵器の製造ができるがやらない。また一切保有しない。 【同】

田中総理: 尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。

周総理: 尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。 【同】(なぜ良くないのか。後に!)小平もこの手口で逃げた。禍根はここに始まっていたのか)

周総理: 私は日本の社会党より、ひらけている。社会党は「非武装」をやかましく言うから、日本が自衛力をもつのは当然ではないかと言ってやった。

田中総理: それはどうも。【同】

田中総理: 台湾問題につき、問題は日本国内、特に自民党内に問題がある。私は訪中前、佐藤前総理に決意を伝えた。彼は十分理解してくれた。

台湾との関係については私と大平との政治力が試される問題である。しかし、日中の長い歴史のためには、その程度の困難は覚悟している。

周総理: 何か物事をやろうとすれば、必ず反対する者が現われる。

田中総理: 私が中国との国交正常化を決意した最大の理由は、中国(共産党)が世界を全部共産党にしようなどとは考えておらず、大中国統一の理想をもっている党であって、国際共産主義の理念の下に行動しているのではないと考えたからである。

周総理: まず自分の国のことを立派にやっていくことが大事で、他国のことは他国自身が自分でやるべきだ。今後は日中関係をできるだけ緊密なものにしたい。まず、飛行機の相互乗り入れからやりたい。

田中総理: 結構である。【第4回会談】

抜書きは以上である。翌日、共同声明に調印。周恩来も同乗して上海を訪問。(歓迎に出た張春橋は、後に「4人組」の1人として処断された。)共同声明から4年後に周恩来、毛沢東が相次いで死去。復活してきた!)(とう)小平が、1978年には資本主義経済導入に踏み切った。

その結果、100万ドル以上の資産を持つ中国人ミリオネアは25万人に達するという時代になった。

「今世紀の末になっても、到底、日本のレベルに到達できないと思う。我々は財政上、先端的な武器は持ちえない。また軍事大国には決してなりたくない。日本がどれだけの自衛力を持つかは日本自身の問題であり、中国側からは、内政干渉はしない」といった周恩来の見通しも約束もすべて空文と化したことを痛感するのみである。田中・周恩来会談はひょっとして幻だったのか。【文中敬称略】

◆上記特稿は、12月3日(金)刊「頂門の一針」2112号に
掲載されました。他の卓見もご欄下さい(編集部)

<2112号・目次>
・周恩来・角栄会談録発見:渡部亮次郎
・大改造か内閣総辞職と真紀子節炸裂:古澤 襄
・2年後の総統選挙は50vs50の可能性:宮崎正弘
・三島由紀夫の死をみつめて:加瀬英明
・中国と北朝鮮は「悪の枢軸」:古森義久
・生活大革命を断行:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年12月02日

◆湯河原に重宗邸なく

渡部 亮次郎

家人の姉妹達が夫婦で旅行することになり、7人で車で出かけた。28日。好天だった。途中、箱根で紅葉を見たいということになったが、箱根の紅葉はさっぱり。箱根神社に参拝と言うが、へそ曲がりは下車もせず。

目的地は湯河原温泉だと言う。穏やかでなくなった。湯河原は当時の参議院議長重宗雄三の別荘の所在したところである。ここで記者の枠を超えて重宗・福田会談をセットした上に、産経新聞の沖野三記者とともに、その後の昼食会にも加わった。

当時は、ポスト佐藤栄作を巡って、本命福田赳夫、対抗馬田中角栄が「戦争」と言われたぐらい激しく争っていた。参院議長重宗はそれまでの経緯からして福田支持とされていたが、それを強固にする為に企てられた会談だった。

「戦争」と表現された福田と田中の争いは熾烈を極めたが、途中、重宗が河野謙三の「乱」により失脚を契機に田中が次第に巻き返し結果は、大平、三木、中曽根と組んだ田中が勝利した。

田中内閣発足とともに私はなぜか総理官邸担当のNHKサブキャップに就任したが、1年を待たずに展開した田中批判の舌鋒が田中の逆鱗に触れることとなって大阪に左遷。その直後、重宗は病死した。

その重宗の別邸のあった湯河原町。別邸は胸のつっかえるような急な坂の途中にあったはずだが、あれから既に何十年も経っている。当時を知る人を捜すこともできず、悲しみだけが私を襲ってきた。だが皆にはこれを一言も語らなかった。

大阪からは3年で戻ったが政治部へは戻れず、そのうちに園田直の外務大臣就任に伴ってNHKを退職、秘書官に就任。以後も複雑な経歴を辿って今日があるのだ。

翌日、大磯で古い「鰻屋」で昼食。「国よし」といった。1808年の創業。吉田首相はおろか伊藤博文も愛用した店と言う。一番安い鰻重で4200円もした。美味かったが半分しか食べられなかった。その昔の客に島崎藤村があったと書かれていたからである。

島崎は兄の娘つまり「姪」を手篭めにした不道徳漢。許せない。聞けば、湯河原に住まいし、墓もここにあるという。

29日、午後4時帰宅、解散。5時から高校の同期生10人で防衛省近くの料亭で忘年会。どうしたわけか余り酔わず、帰宅後呑み直した。

こうして2日間、散歩もせず、鯨飲馬食に打ちすぎて30日朝の血糖値が表れるのに打ち震えたがなんとたったの「120」とはこは如何に。文中敬称略。2010・11・30


2010年11月29日

◆東大安田講堂事件

渡部 亮次郎

東大安田講堂事件は、1969年(昭和44年)1月18日、19日に、全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。この影響で、この年の東京大学の入学試験は中止され、次年度の入学者は0人となった。

その頃、私は既に政治記者をしており、自民党を担当、学生たちの行動を冷たい目で見ていた。菅首相も仙谷官房長官もこうした学生運動で左翼思想を深めていった。

東大安田講堂は安田財閥の創始者、安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設されたが、神奈川県大磯の別邸で右翼に暗殺された安田を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。

東京大学建築学科の建築家、内田祥三(のちの総長)が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当した。1921(大正10)年に起工、関東大震災による工事中断を経て1925(大正14)年7月6日に竣工した。

震災後に建てられた学内の建築が茶色のスクラッチタイルで統一されているのに対し、本講堂が理学部旧1号館と同じ赤レンガなのはこのためである。

1960年代後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第2次反安保闘争と時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や新左翼の学生が武力闘争を展開する学園紛争(大学闘争)が起こった。

全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。

学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り深刻な社会問題に発展していった。

その中で、東京大学では、医学部の学生が登録医制度反対などを唱え通称インターン闘争に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。

その後、更に闘争は激化し、1968(昭和43)年3月12日に医学部総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。

6月15日に医学部学生が安田講堂を再度占拠し、大学当局の大河内一男東大総長は警察力を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。

以後、大学当局は打開を図ったが更に学生の反発を招き、東大全学部の学生ストライキ、主要な建物多数の封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

工学部列品館を占拠したML派の瀧沢征宏(明治大学生)が書いた「造反有理」のスローガンは有名である。

9月30日の日大大衆団交を受けて、佐藤内閣が動き出す。佐藤首相、幹事長田中角栄、国対委員長園田直らはこの事態を学園紛争ではなく、80年安保反対闘争の前哨戦ととらえ、完全に治安対策として取り締まる決意を固めた。

だから政府自民党が大学管理法の制定決意を固めたのは既にこの時機だった。この後、事態は完全に政治問題と変化する。

11月22日、全学バリケード封鎖にむけて全共闘系7千名、阻止する日共(民青)系7千名が全国から集まり、にらみあう。全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対を各派に恫喝的に説得する。

結果的に全学バリケード封鎖は中止となり、背景を知らない学生の一部では、戦時中のレイテ沖海戦の史実と絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる。民青系に敗北したと言うより、民青系と衝突してでも強行しようという意思が、内部から崩壊したのである。

11.22以降の下り坂

大河内総長の後任に法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年1月10日、国立秩父宮ラグビー場で「東大七学部学生集会」を開催。

民青系や学園平常化を求めるノンポリ学生と交渉によりスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。

封鎖解除1日目

警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。

しかし強固なバリケードと学生の予想以上の抵抗に機動隊は苦戦を強いられ、午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。テレビの視聴率は高かった。

封鎖解除2日目

1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が3階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで抵抗していた学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。

警察側の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。

ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判で起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から80〜100名程度の東大関係者が東大構内に立て籠もったと推定している。

更に、秩父宮ラグビー場における七学部学生集会粉砕闘争で駒場共闘の中心メンバーが100人以上逮捕されていることも考慮しなければならない。

東大全共闘の一部と革マル派は封鎖解除前日の17日「兵力温存」を理由に大学構内から脱出、当日抵抗していたのは他セクトと地方を含む他大学からの応援部隊が中心であった。

革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクト(特に中核派)との対立を深める結果となった。

なお、学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの暴挙が行われた。

紛争によって荒廃した大講堂は20年間に亘り、法学部・文学部の物置として使われていた(事務室は順次学生部などとして使われるなどしていた)。

富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり 1989年に大講堂の改修工事が完了し、こけら落としはスティーヴン・ホーキングの来日講演であった。それ以後、卒業式などの全学的行事に使われるほか、公開講座なども行われている。

出典:フリー百科「ウィキペディア」

こうした学生運動にあわせて大学管理の法律が整備されて行った。これをきっかけに運動は沈静化。今日では学生運動は存在しなくなった。


<安田善次郎(やすだぜんじろう)1838‐1921(天保9‐大正10)

明治・大正期の実業家。無一文から出発し,一代にして財を築きあげ,安田財閥の祖となった。富山藩の下級士族の家に生まれる。父の善悦の代に士族身分を買ったが,善次郎の幼年時代は農業もあわせ営む貧しい生活であった。

1858 (安政5) 年,商業で身を立てる志を抱いて江戸へ出,銭両替商に奉公した。62 (文久2) 年、鰹節商に入婿したが,銭投機に失敗して離縁。64 (元治1) 年に銭両替商安田屋として独立した。66 (慶応2)年に日本橋小舟町に移り安田商店と改称したころから古金銀,太政官札,公債の売買によって巨利を博し,一躍財をなした。

80年安田銀行を設立,善次郎が中心となり1876年に設立した第三国立銀行とともに,安田の金融事業の柱となった。その後,銀行新設に参加したり,経営の悪化した銀行を引き受けたりして,一大金融網を築きあげ,〈銀行王〉と呼ばれた。

安田系企業を統轄するための持株会社として1912年合名会社保善社を設立した。その間,日本銀行理事,農工商高等会議議員,日本興業銀行創立委員などを務めた。また浅野総一郎,雨宮敬次郎ら実業家の事業を援助した。

晩年には日比谷公会堂,東京帝国大学講堂(安田講堂)の寄付や,東京市政調査会の後援など,公共的事業も行った。21年9月,大磯の別荘において暴漢朝日平吾に刺殺された。>
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2010年11月27日

◆情報孤島脱出の顛末

渡部亮次郎

2010年11月24日夜、パソコンが何処とも繋がらなくなり、一切の情報が入らなくなった。だからメルマガ「頂門の一針」の配信が不可能になった。読者からの反応も来ているのやら来てないやらも分からない。そのうちに固定電話も繋がらなくなった。情報孤島に取り残されて様なものだ。

頂門の一針の読者は4700人余。元々は「週刊」の予定で始めたものだが、つい短気だから何時の間にやら「日刊」になった。それが予告無しの休刊だから、問合せやら何やらがきているだろうが、なにせサーヴァーと繋がらないのだから、確認不能なのである。北朝鮮の砲撃は気になるが、予報すら入ってこない。

特に北朝鮮の砲撃については元共同通信社常務の古澤襄さんの情報と分析に早く接したいと焦るが、古澤さんのブログに繋がらないのだからどうすることもできない。

インターネットの無い時代はテレビ、新聞が頼りだった。しかし前身がテレビ記者だった私はテレビを信用しない。特に信用できないのが古巣のNHK。最近は国際的な視点が偏りすぎる。

インターネットを逍遥して収集した情報が頼り。それに古澤さんの情報と分析に中国とアメリカに強い評論家宮崎正弘さんの情報が大事。国内政治では産経の総理官邸キャップ阿比留氏の分析が正確だと思う。それらのすべてがみえないのだから息が止まりそうだ。

実はPCに関するハードの部分はすべて家人の担当である。私がすべきだと言う方もいらっしゃるが、何しろ機械音痴。見かねた家人がその都度、メーカーとかサーヴァーと電話でやり取りして解決してくれて今日に至った。

今回はしかし、全くサーヴァーと繋がらないという初の事態。焦った。焦ったけれども、如何ともし難い私は25日は早朝から定期的眼底検査(年に3回)の当日。家人も会社づとめ。

夕方になって電話の関係でNTTの若い社員が修理に来てくれた。電話の不通はインターネットからの影響らしいとは言うが、それから先が分からない、という。電話回線からPCへは有線ではなく無線(ラン)で繋いでいる。

彼はその辺りも良く分からないらしく、近くにいた仲間を呼んで、2人で2時間半のいろいろ弄った末、「悪いのはパソコンです」と言って退散してしまった。

困った家人はPCのメーカーを電話で呼び、いろいろやり取りしていたが埒は明かない。私は勝手にも悪酔いを焼酎で始めた。

しかし、凄いもんだ。「繋がったわよ」と軽い一言。何をどうしたのかの説明は面倒くさいらしい。とにかく9時ごろ、情報孤島は脱出できた。投稿が沢山寄せられていた。それを確認して眠った。

要するにいろいろ弄っているうちに「ウイルス・バスターの緊急ロックがいつの間にか掛かっていたので、それを解除したら繋がった。偶然発見したのよ。試行錯誤の連続よ」という。

それにしても緊急ロックが何故、いつ掛かったのか。多分あの2人がいろいろ弄っているうちに掛かったのかも知れないが、そうじゃないかもしれない。

電話線はインターネットの影響で不通になったとNTTはいったが詳しい説明はしないし、パソコンの何が影響したかの説明もシナイママ「パソコンの事は分かりません」と退散してから「謎」は「なぞ」のままである。   2010・11・26

◆本稿は、11月27日(土)刊の「頂門の一針」2107号に
掲載されました。その他寄稿もご覧下さい。

<2107号 目次>
・情報孤島脱出の顛末:渡部亮次郎
・中国にも北朝鮮への”特効薬”はない:古澤 襄
・沖縄の奇怪な反米、反日傾向:古森義久
・「中国は沖縄独立運動を支持せよ」と中国有力紙:伊勢雅臣
・本質を見ぬ屋山太郎氏:東郷勇策
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年11月26日

◆ASEANの口頭試問

渡部 亮次郎

ASEAN(アセアン)東南アジア諸国連合は、2010年現在は加盟10カ国だが、当初は5カ国だけだった。

東南アジア諸国連合Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。

域内の人口は約5億8000万人(2005年)と多く、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定 (NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

結成当初から日本は会談参加を希望していたが拒否されていた。後でわかったが、フィリピンが強硬に反対していたからだった。

1978年になって、ようやく外相会談への参加が認められ、当時、福田赳夫内閣の外相園田直(そのだ すなお)がインドネシア・バリ島での会議に出発した。秘書官の私にとって東南アジアへの同行は初めてだった。

政治記者から秘書官に転身してまだ数ヶ月。記者の癖は抜けなかった。園田氏もそこを利用していた。中でも締結を目指す日中平和友好条約に関するマスメディアの反応探りに期待していた。

さて、バリ島。西洋式の立派なホテル(ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル)。朝早く、会議会場の下見に出かけた。事務の秘書官(後の国連大使佐藤行雄氏)は会議での大臣発言の打
ち合わせに忙しいが、政務の私は、この場合は閑である。

しかし、見ておどろいた。ASEAN側が一列の5人が並び、向かいに日本の席がただ1つ。「これじゃまるで口頭試問だ」と大臣に報告。大臣は「佐藤君、せめて6角形にして貰えんかね」と命令。

希望通り、椅子は6角形に配置換えされた。面白かったのはその後。

会議の冒頭、園田氏が発言を求め「このたび皆様の口頭試問を受けに参りましたソノダです」と言ったから、会場は爆笑。一気に日本ノペースになってしまったのだ。

その実、ASEAN側は「口頭試問」を考えていたのだ。特に、太平洋戦争中、フィリピンに軍事顧問として滞在していたアメリカのマッカーサーに副官(秘書官)として付いていたロムロ外相は、例の「アイ・シャル・リターン」以来の憎しみを消せないでいたから、この会議への日本の参加反対の急先鋒だった。

聞けば園田はあの戦争中、特攻隊の生き残りだという。この際、徹底的に虐めてやろうと企んでいたのだ。私がどこかから拾ってきた情報を耳にしていたわが外相は、「口頭試問」の企みを逆手に取ることで、一瞬にしてASEANの懐に入りこむのに成功したのだ。

しかも、それ以来、ロムロは園田と親友になった。

園田氏は旧制中学しか出ていない。シナ事変以来、昭和20年の敗戦まで11年間を戦場で過ごした。敗戦時は陸軍の戦闘機の操縦士から「特攻隊」の隊長に指名。出撃の2日前に敗戦となった。

郷里、九州の天草で町の助役から衆院選に出馬して落選。町長を経て当選。厚生大臣2度、官房長官、外相3度。70歳、腎不全により僅か70で逝去。

ASEANでのやり取りから、私は政治家は学歴では無い。頭の良さ、機転の利かせ方にカギがあるとつくづく思った。鳩山や菅にあるのは学歴だけだ。2010・11・24


2010年11月23日

◆豪州捕鯨反対の真相

渡部 亮次郎

(再掲)私自身は鯨を食べる事無しに育ったが、聞くところによると、ある時点まで鯨は低収入層にとっては牛や豚肉に替わる貴重な動物蛋白源だった。だから今になってみると鯨をもう一度食べてみたいという人は多い。

貧しく育ちながらアメリカで教える大学教授に上り詰めた知人は、なんとか鯨カツを食べてみたい、と言う。トンカツより安かったから母親は泣く泣く買った鯨カツだったのに。

そんな折、北海道にスキーをしに来たオーストラリア(豪州)人たちが、何十台ものリフトに捕鯨反対の落書きをしていったのでスキー場側を困らせているという記事を目にした。営業妨害では無いか。

<「捕鯨反対」落書き? 旭川のカムイスキーリンクス ゴンドラの半数以上

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/77456.html

【旭川】北海道旭川市神居町西丘の民間スキー場「カムイスキーリンクス」のゴンドラリフト内で、捕鯨反対のメッセージと受け取れる落書きが多数見つかっている。

クジラの絵とローマ字で「TABENAIDE(食べないで)」と書かれ、“被害”は103台あるゴンドラ(4人乗り)のうち、62台に上る。落書きはオーストラリア政府や米国の反捕鯨団体による調査捕鯨への反対の動きが道内でも報道された1月から増加。

黒や緑色のマジックで書かれたらしく、漫画風に描かれたクジラが「食べないで」と訴えている。

道内では近年、オーストラリアなどからの外国人スキー客が急増。「これ以上の迷惑行為はやめてほしい」と困惑顔だ。> 北海道新聞(02/2208:00)

インターネットを逍遥していたら「桜木朱雀」と名乗る方がブログで、

<オーストラリアの反捕鯨運動は、一部の狂信的な民間団体による勝手な行動ではなく、オーストラリア政府の肝煎りによって行なわれている>という指摘があった。一読に値すると考えるので紹介する。

http://www.suzaku-s.net/2008/01/aussie-the-economic-animals.html

<その抗議運動の実態は、海域に船を出す妨害活動やデモ運動だけでなく、「テロ」としかいいようのない暴力的・破壊的なものだ。

オーストラリアの市民団体による常軌を逸した抗議や、環境テロ集団による狂気の「襲撃」の背景には、もちろんオーストラリア人が生まれながらに(ある意味“建国の理念”として)持っている差別意識、白豪主義が見え隠れする。

しかし、それを政府が後押ししているとなると、やはりもう1つの当たり前の事情…金の問題が丸見えになります。

オーストラリアでは、約2,800万頭(2006年現在)もの牛が飼育されています。また、生産する牛肉の65%以上を輸出する世界最大級の牛肉輸出国であり、その経験と技術が品質をしっかり支えています。

さらに、オーストラリアにとって最大の牛肉輸出市場は日本。したがって、日本のお客様のさまざまな好みに合わせた牛肉を生産することができ、食文化の多様化に対応している。

日本は、オーストラリアにとって最大のお客。特に米国産牛肉のBSE問題以来、「オージービーフは天然素材で育てていて安心でヘルシー」というプロモーションも奏功し、輸入量はうなぎのぼりのようです。ジェトロのデータによれば、日本一国で、オーストラリアの総輸出量の20%をまかなっているのです。

    2004年    2005年    2006年
    金額(豪弗) 金額      金額   構成比(%)
日本  22,219    28,462     32,456   19.8
中国  11,014    16,127     20,376   12.5
韓国   9,171    10,959     12,321    7.5
米国  9,546     9,264  10,071  6.2
(オーストラリア - 輸出統計(国別) - ジェトロ)

これで日本人が鯨という超効率のいい動物性蛋白質を消費することを思い出したら…。もし、日本が牛肉と完全に袂別し、国家として鯨食を選択したら…。

もちろん、今の日本と日本人が、こんな非現実的な選択に踏み切る、踏み切れるはずもないのですが、オーストラリア人は先の大戦で見た日本人の団結力を未だに恐れているのかもしれない。

それにしても、日本から今後も金を引き出すために、捕鯨船を襲撃し、大使館で日の丸を汚し、日本を恫喝して、肉を売りつけようとする。ヤクザな商売ですね。

しかも、「草だけを食べさせるのでクリーンで健康的」と謳われるオージービーフは日本の消費量が増えると牛肉の値段が上がり、オーストラリアの一般家庭にとってはまったくありがたくない話のようです。牛が排出するメタンガスによる温室効果も、無視できません。

オーストラリアというのはもともと真水の量が少なく、このために牧場では地下水を汲み上げては牛の飼育に使ってしまうために、地中の水分が減少して砂漠化が進行してしまうという。

オーストラリア産の牛肉を食べれば食べるほど地球環境が破壊され、オーストラリア人に憎まれる。鯨を食べれば、オーストラリア人に襲われる。

こうして考えると、私たちが何を食べるべきか、何を食べるべきでないかがどうやら見えてくるような気がします。>2008年01月15日 23:20

2010年11月21日

◆NHK毛虱物語

渡部 亮次郎

NHKは41歳の冬まで19年間を記者として過ごした職場だが、最近は不祥事続きで料金を払わない視聴者が増えたそうで、組織としては落ち目である。

学生たちの就職希望ランキングから滑り落ちることおびただしいものがあるそうだ。なんでこんな事にと思い巡らすうちに仲間が毛虱(けじらみ)と呼ぶ人物に思い当たり、あの男こそが真犯人だと気付いた。

たった1人の人物こそがNHK転落の犯人なのである。

40年近くも前に途中退職した身だから、彼に面識は無い。私の目から見て実に全うな人物と思う後輩は彼のことを「毛虱(けじらみ)」と言って軽蔑し、一切、交際しない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

<毛虱は吸血昆虫で成虫の大きさは1mm〜2mmで肉眼的には、陰毛の毛根にしがみついている時は「シミ」に、陰毛を移動中には「フケ」にしか見えないため、発見には苦労する。

成虫は陰毛の毛根にフック状の鈎爪で身体を固定して皮膚から吸血する。卵は陰毛に粘着している>。

なるほど云い得て妙である。社内の出世頭の陰部に寄生し、栄養を蓄え、主の力をひけらかして己も出世して行く。出世が始まると虎の威を借る狐宜しく威張り散らして頂上を目指す。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

彼が何故「狐」でなく「毛虱」かと聞いたところ、出典はその昔のシマゲジ騒動にあった。

<政治記者出身の島桂次は1989年4月、NHK会長に就任。任期中は衛星放送の本放送を開始したり、NHKエンタープライズなどの関連会社を活用した商業化路線を進めたりした。

島会長によるNHK商業化路線は、NHKに民間の手法を導入することによって番組の質を向上させ、受信料に頼らない経営で国際的なメディア戦争に生き残ろうとしたとの評価がある一方、金儲け第一主義で公共放送のあり方を歪め、2004年から相次いだ不祥事の元凶をつくったとする批判もある。

1991年4月、放送衛星の打ち上げ失敗の問題を巡って、国会の逓信委員会で滞在場所について虚偽の答弁をしたことが問題となり、7月に会長職を引責辞任した。ちなみに問題を追及したのは当時逓信委員長だった野中広務である。

会長辞任後1996年6月23日、急性呼吸不全のため死去。68歳。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛虱氏はこのとき、野中氏と組んで、島追放に大いに実績を挙げた。

解説者によると島氏は後輩の海老沢勝二氏に寝首を掻かれる恐怖感に駆られ海老沢氏を理事の地位から外郭団体の社長に追放。そこで海老沢氏は島氏に敵意を持ったとされる。事実かどうかは分らないが、普通はそうなる。

その時、毛虱氏は海老沢側近となり、島への復讐劇を演出、遂に成功する。その時、当然ながら海老沢氏の恥部を把握、いうなれば海老沢褌の中で毛虱として生息し始めたのである。海老沢氏は会長として復活。毛虱氏を寵愛せざるを得なくなった。

担当は国会。NHKは政府の監督を受け、予算を国会に握られているため、その対応の指揮をとる部局の存在意義は高く、責任者たる毛虱氏の存在は大きかった。そこで事件が起きた。というよりも毛虱氏の自作自演である。

朝日新聞がすっぱ抜いた番組改編事件。女性団体が2000(平成12)年12月、慰安婦問題を取り上げた民間法廷を開催。NHKが翌01年1月、特集番組でこの法廷について放送したが、内容について事前に安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が容喙して変更させたとするもの。

インテリがNHKに番組内容の変更を事前に求めたら如何なることが起きるかを知悉しているから、そのようなことをあの2人がやれるわけが無い。それをしもやる目的もないし、度胸も無い。

田中角栄はやった。政権批判を続ける政治記者渡部亮次郎が邪魔なので口実を設けて地方へ左遷するよう竹下登氏を通じてNHK政治部長に申し入れ、NHKは渡部の辞表を受理せず、大阪に飛ばした。それ1回きりである。

ところが毛虱氏は狐への変身を図った。予算案の説明に行ったら安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が、あの番組を批判していたよ、と局内に流した。ありもしないことをでっちあげて番組制作部局を脅したのである。毛虱が狐に化けた瞬間だった。

政界や国会の事情に疎いディレクターたちは震え上がり、担当者は狐を虎と思い込み朝日新聞に垂れ込んでしまった。裁判まで起こされ、2007年1月29日には東京高裁でおかしな判決まで出され、200万円の損害賠償を命じられ、上告する騒ぎになっている。

事件の後、毛虱氏はとうとう理事(役員)に上り詰めたが、虎が途中退陣したため狐も途中で辞めた。しかし己の欲望のためにはNHKの組織なんかどうなってもいいとする毛虱式の風潮はNHKの内部に広く深く蔓延した。モラルとは一朝にして崩れる。一大不払い運動を招き寄せる結果となって今に至る。

しかも毛虱氏は虱らしく退職後も今度は外郭団体に潜りこんだ。流れてくる情報では好き勝手をやって職員を腐らせている。毛虱氏本人に犯人意識は無いから、自分がNHK周辺にいる限りNHKが衰退して行くことを知らない。だから私も毛虱氏の本名も顔も知らない。

◆本稿は、11月21日(日)刊の全国版メルマガ「頂門の一針」2102号に
掲載されました。他の著名寄稿者の寄稿を下記ら手続きしてご高覧ください。
       http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

◆<2102号 目次>
・柳田法相更迭、後任法相の名:古澤 襄
・尖閣は「戦術的互損」だ :岩見隆夫
・菅内閣は「ごめんなさい内閣」:古森義久
・情報統制から言論統制へ:山堂コラム 345
・中国バブルいよいよ崩壊へ:宮崎正弘
・NHK毛虱物語:渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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