2007年11月15日

◆山茶花(さざんか)

                    渡部亮次郎

さんさかと書いてさざんかと読むのは中国語でいうサンサクヮの転じたもの(「広辞苑」)。四国、九州の暖地に自生、というから冬の花とはいいながら秋田で見なかったのは当然。東京・江東区の学校の生垣で11月上旬現在、満開である。

Sasanqua 古くから庭木や生け垣に利用されるツバキ科の常緑高木。日本固有種で、山口県、四国の南西部、九州北部から沖縄の西表(いりおもて)島にかけて分布する。

昭和28年のNHKラジオ歌謡に「さざん花の歌」というのがあって、初めてこの花の名を知ったが、実際に花を見たのは中年過ぎだった。

作詞:寺尾智沙(妻) 作曲:田村しげる(夫) 歌唱:鳴海日出夫

(一)
さざん花は
ひそかにも 咲いている
霜白く
庭の垣根に 降りた朝
母のおもかげ しのばせて

(二)
さざん花は
あの時も 咲いていた
幼い日
落ち葉をたいた けむにむせ
泪誘われ 泣いたとき

(三)
さざん花は
音もなく 散っている
たそがれに
落ち葉を焚けば 流れゆく
煙り哀しい 白い花

野生種は白花で一重咲きだが、古くから品種改良がおこなわれ、赤や桃色、大輪で花弁の数が多い品種などが生みだされた。江戸時代の「花壇地錦抄(かだんちきんしょう)」(1695)には50品種が、「本草花蒔絵(ほんぞうはなまきえ)」(1739)には100品種が記載されている。
また、1869年(明治2)には海外へ持ち出され、欧米やオーストラリア、ニュージーランドでも品種改良が盛んにおこなわれている。
高さ3〜、葉は革質で光沢があり、長さ3〜6cm、幅2〜3cmの長楕円形。花は直径5〜7cmで、10〜12月に咲く。

同じ仲間のヤブツバキ( ツバキ)とは、枝が細く、若い枝に毛があり、花弁と雄蕊(おしべ)がバラバラに散ることで区別できる。サザンカによく似ていて12〜3月に開花するカンツバキは、サザンカとヤブツバキの雑種である。

昔、山茶花究という俳優が居たが、あの方は3X3=9をもじったもので花のことではなかった。

昔、外務省で大臣秘書官をしていた時、日本商工会議所会頭の永野重雄(新日本製鉄会長)さんから大臣に招待があり、その会場に指定してきたのが「山茶花荘」だった。東京・ニューオオタニホテルの別館和室。変哲も無い和室だったが、勘定は相当なものだったようだ。

その時、日程表書き込み係りの女性職員がさりげなく「山茶花」と書き入れたので感心したことを思い出している。今から34年も前のことだ。

少年の頃は名前しか知る術も無かった山茶花。11月に入って散り始めた木もある。今の若い人たちは山茶花なんて知ろうともしないだろう。

昭和51(1976)年の山茶花の演歌は「中山大三郎作詞、猪俣公章作曲の「さざんか」。聴いた事がない。

昭和57年、突如として「さざんかの宿」が大川栄策の歌唱でミリオンセラーになった。作詞吉岡 治 作曲市川昭介。

「くもりガラスを手で拭いて あなた明日が見えますか 愛しても愛しても あぁ 他人(ひと)の妻 赤く咲いても 冬の花 咲いてさびしい さざんかの宿」

人によっては2番の歌詞が凄いという。

「ぬいた指輪の 罪のあと かんでください 思い切り 燃えたって燃えたって あぁ他人(ひと)の妻 運命(さだめ)かなしい 冬の花 明日はいらない さざんかの宿」
資料:Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.  2007・11・14

2007年11月14日

◆訛は抜けない

                   渡部亮次郎

記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、襄さんは東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は民主党に対する説明不足を説明するのに東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れしたが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市
隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。
「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、
マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、
サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。 2007・11・13

2007年11月13日

◆法輪功迫害のわけ

                    渡部亮次郎

革命は徒党である。しかし反革命も初めは穏健な徒党だから、体制側は穏健なうちに潰さなければならないとの使命感を持っている筈だ。それが中国共産党が法輪功を弾圧する理由だ。

法輪功は「単なる気功の一種、弾圧は不当だ」と反論しているが、徒党の核であると共産党は見るのだから「暖簾に腕押し」。「土足」で突っ込んでくる。迫害は半永久的に続くとみなければなるまい。

中国共産党が公に法輪功への弾圧を始めたのは1999年7月。以来、法輪功および法輪功の学習者に対して行われている迫害に関する様々な証言が出ている。

1999年に中国共産党が公に弾圧を始めた後、共産党と法輪功は激しい対立関係にあり、そのことから互いに非難の応酬を重ねている。

法輪功は台湾から中国へと渡ったので、中国政府首脳や人民解放軍幹部といった、権力の中枢にある者は中国(中華人民共和国政府)を滅亡させる目的で台湾政府から送られて来たのだという見方もある。

「ウィキペディア」によれば、法輪功(ファルンゴン、ピンイン)は、気功の1つ。日本では「ほうりんこう」と呼ばれているが、日本法輪大法学会は原語の発音に基づいて「ファルンゴン」と読むよう要請している。

気功とは「広辞苑」によれば「中国の保険養生法、気を養い、体内にめぐらせることにより心身の健康を得るための鍛錬法」である。

単なる健康法をなぜ弾圧したり迫害したり殺して臓器を売ったりする必要があるのか。もちろん健康法に留まっているうちはいいが、信者たちは必ず徒党を組み、集団となり、煽り方一つで反体制グループに成長する可能性が理論的にある以上、早めに芽を摘みに来るのだ。

見方によっては共産党の方が臆病であり、早い段階からの弾圧はさながら弱いもの苛めに映る。だから共産党は将来に確とした自信がないとも映る。

現に「大紀元日本」(ブログ)2007年11月12日付の右肩には中国共産党脱党(団、隊)者数:28,256,982人と出て、7800万党員のなかから本当にこれだけの脱党者があるとなれば、弾圧に弾みがつこうと言うものだ。

法輪功の創始者は吉林省出身の李洪志。 彼によると、法輪功とは佛家と道家の思想を根底に併せ持つ先史文化に根ざした気功である。

「真・善・忍」という宇宙の特性に基づいて心性を修め、人間の身体を健康にするとともに根本から改善、向上させる修煉を行う功法であるという。

法輪功の主な指導書は『転法輪』(ヅァンファルン)であり、同書をはじめとする李洪志の著作の中で法輪功はよく法輪大法(ファルンダーファ、ピンイン)とも称されている。

法輪功は次のように宣伝している。

<法輪功は世界60カ国以上に広まっている。法輪功はすべて無料で教えられており、その教えに基づいて修煉を行うことで内面の向上や病気治療に顕著な効果がある。

この功法はもともと秘伝の形をとっていて、一般には今まで公開されていなかったが、1992年より公開され、その教えによる精神的・肉体的効果が口伝えに急速に広まったことで、中国をはじめ全世界で1億人以上に学習者が増え、現在も増え続けている。

中国共産党は1999年に法輪功を邪教(いわゆるカルト)と断定し、中国および外国において法輪功学習者を弾圧し続けている。

また、中国政府は96年にアメリカへ移住した李洪志の行動を摘発回避のための逃走・亡命であろうとコメント(コメント日時不明)>

日本では2004年8月27日、日本法輪大法学会が東京都においてNPO法人格を取得。

法輪功を行う人たち(彼らの間では互いを「学習者」と呼んでいる)が、秋葉原駅前(電気街口より中央通へ出る道、ラジオストア前の歩道上)や東京入国管理局前などにて「大紀元時報」を配布している。

1992年 中国で活動を開始
1996年 創始者・李洪志、ニューヨークへ移住
1998年 李洪志、グリーンカードを取得

1999年7月22  中央人民政府、法輪功を全面禁止、李洪志を国際手配(29日)駐在公館を通じてアメリカに身柄引き渡しを要求

2001年 1月23日 北京・天安門広場での焼身自殺事件の模様を中国中央テレビが報道、自殺を図った者は法輪功学習者で、そのうち1人が死亡と報じた。

また後日放送された番組「焦点訪談」で、焼身自殺で全身に負った重度の火傷を治療中の、全身に包帯をきつく巻かれた負傷者の姿が放映された。

法輪功側は、これら一連の報道の矛盾点、疑問点を指摘し、焼身自殺は中国共産党による捏造報道であると主張。

2002年 “言論統制打破”を名目に放送衛星シノサットへの不法割り込みを度々行い、問題視される

2004年8月27日 日本法輪大法学会、NPOとして認可

2005年4月12日 日本法輪大法学会ほか、法輪功への迫害に対し、江沢民と中国大使館を大阪地裁に提訴、日本は世界で15カ国目の訴え(本号スタブ)

2006年3月9日、瀋陽市近郊の蘇家屯地区に生存している法輪功学習者を殺して臓器を取り出すという不法臓器摘出行為を行う収容所があると大紀元が報道。

7月6日、カナダのキルガー、マタス両氏が中国で不法臓器摘出が実施されている可能性が極めて高いとの独自報告を発表したとAFPが報道。

8月11日、国連は不法臓器摘出行為についての申し立て書を中国政府に送付。

これに対して中国政府は11月28日、蘇家屯地区などをNHKなどの報道機関に取材させたことなどを挙げた上で、国連に対して申し立ては事実無根と反論。

2006年4月20日、米国・ワシントンのホワイトハウスで行われた胡錦濤・中国国家主席のスピーチの席上、報道陣席にいた法輪功メンバーの王文怡が法輪功への迫害停止を求め、胡主席に向かって大声で抗議。

2007年5月1日 シノサットへ再度不法に割り込み

法輪功と中国共産党の死闘は中華人民共和国が倒れるまで続くだろう。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 2007・11・12

2007年11月09日

◆東北人には迷惑

                    渡部亮次郎

<小沢代表「口べたな東北かたぎ」と釈明

「口べたな東北かたぎ(気質)でして」。7日午後、東京・永田町の民主党本部で衆参両院議員懇談会に出席した小沢一郎代表。居並ぶ国会議員らを前に「辞職願提出は不器用だった」と釈明した“壊し屋”の目は、潤んでいた。

詰めかけた報道陣がビルの外にまであふれ、異様な熱気に包まれた党本部。マイクに向かった小沢氏はまず深々と一礼し、くちびるをかみ締めながら話した。

「自分は口べたな東北かたぎでして…」。小沢氏がこう話すと、それまで息をのむように静まり返っていた出席者から笑いが漏れ、場の雰囲気がわずかに和らいだ。

「みんなで頑張りましょう」との言葉で着席した小沢氏に向かって、割れるような拍手と「そうだ、頑張ろう!」との声が飛ぶ。小沢氏は立ち上がって「ありがとうございました」と再び頭を下げた。

しかし、続く質疑応答では国会議員から「民主党と国民にギャップがある」「お忙しい体で大変だろうが、代議士会や本会議にもご出席いただきたい」などと厳しい意見が続出。

首を傾け、目を閉じて神妙な面持ちで聞き入る小沢氏の顔には、疲れがにじんでいた。>11月7日17時22分配信 産経新聞

党幹部をドタバタさせた原因を東北人気質のせいにして笑いを誘い場内の雰囲気を和ませたのは政治家らしいズルさだが、納まらないのが我々東北人である。

江戸時代は差別され、戊辰戦争では秋田を除いて「朝敵」にされて
明治政府に苦しめられた。政府側についた秋田藩も、ドジだったとはいえ陸軍でも海軍でも大将には絶対、してもらえなかった。

口下手なのは寒いからあまり口を開きたくない。自然、説明下手になる。だから居並ぶ国会議員らを前に「東北人・・・」と言えば会場は和んだに違い無い。

それはともかく今回、小沢氏のやった事は、老練な政治家として当然のやり方であって、それを瞬間的に理解できない鳩山や菅といった調教不足の素人に原因がある。

仮に大連立に踏み切るとしても、期間は衆議院解散までの短時間である。その間に民主党の参議院支配を梃子に民主党のマニフェスト
を政府・与党にすべて呑ませることが出来る。そうなれば「民主党もたいしたものだ」となって総選挙で大勝する。

当に小沢氏の戦略は「庇を借りて母屋を取る」大博打だったのである。手品に等しい大博打を事細かに身内にしろ説明したら、ネタのばれた手品。途端に崩れてしまう。

説明不足と言って民主党内は騒いだが、騒いだ奴らは、学力はあるが智恵は全く無い「単純性脳膜炎」患者。要するに馬鹿。小沢氏にすれば、こいつらとは「やってられないよ」となったのだ。

だから辞める、ではこれまた単純だったが、既にそこには小沢新党結成への設計図があった。参院で自民、民主の真ん中にあって、政府与党の首根っこを抑える事のできる数、最低17人の参院小沢新党。軽く20人は纏まると踏んでいたようだ。

ところが事情通によると、なんと14人しか読めなかった、小沢が突然弱気になったのが、この時点。辞意表明の夜だった。後はズブズブと沈んだ。

なんともみっともない「幕切れ」のように思えた。しかし、ここから粘るのが東北人の本来の姿。新しい戦略と戦術が練られているはずである。

原作:中曽根康弘 脚本:渡邉恒雄 監督:森喜朗 主演:小沢一郎 助演:福田康夫の演しもの。幕切れなんかで無い。幕開けである。貫禄、経験不足の鳩山や菅、岡田なんかはとても従いては行けない。文中敬称略。2007・11・08

2007年11月07日

◆国家が吐く痰

渡部亮次郎

1972年9月、当時の田中角栄首相に同行して初訪中した時は拝見する事ができなかったが、6年後、78年8月に秘書官として園田直外務大臣に随行して訪れた時には中国幹部は外国賓客と応対する時、足元に痰壷を置いて痰を吐く事を見た。

<人民大会堂は、中華人民共和国の首都北京の天安門広場西端に位置する建築物である。人民大会堂は、中華人民共和国の建国10周年を記念して、ボランティアの手によって、1958年から1959年にかけてわずか10ヶ月で建造された。17万平方メートルを超える床面積を有し、300室の会議場・休憩室・事務室を備えている。

各会議場には中国の行政区分にちなんだ名前が付けられており、各地の風土にちなんだ装飾がなされている。

突貫工事で完成したため、近年天井や壁の崩落や電気配線の故障が起こり始め、改修工事が数回行われている。

内部は全人代や特別の行事がない限り見学ができる。見学に当たっては靴の上からビニールのカバーをつけて入場する。見学時間は毎日変動し、また中国各地からの団体観光客により入場に長時間かかる場合が多い。>「フリー百科「ウィキペディア」

カーッ ペェ。首都北京の人民大会堂。ご承知のように外国賓客と会談する時、ここでは向かい合う事をしないで小さいテーブルを脇にしながら並んで座る。

ふと見ると中国側は自分の右足の下に壷を置いている。当方には置いてない。当時の国家主席華国鋒や副首相ケ(とう)小平と園田外相との会談に立会ったが、会談中、カーッ ペエッと平気で痰壷に痰を吐く。「失礼」も何も無い。

園田氏はよほど堪えたのか「ケ(とう)小平との会談のとき、ワシは必ず痰を吐いてやる!」と意気込んだ。「なかなか痰が出なかったが」と後で言っていたが、カーッといったかと思うとつかつかとケ氏の足元へ数歩歩いて行って「ペッ」とやった。

70を前にして子供じみたところを失わない人だった。それでも会談の冒頭、ケ氏から「あなたは何歳ですか」と問われたのが屈辱だと怒っていたが、中国では相手の年齢を問うのは礼儀だそうです、と説明しても納得しなかった。

ところで私は元記者だから、中国政府の関係者に「あなた方は何故痰を吐くのか」と聴いた。「それは常に口の中に砂が入って来るからです」「それじゃ外国人の口には入らないと決めているのか」と聴き返したが、返事はなかった。

説明によれば「黄砂(こうさ)」が常に飛んでいるので口の中に砂が入って、ざらつくのでつい、カーッ ペエッとやりたくなるらしい。それなら外国からの賓客にも痰壷を用意すべきだが、そこまでは考えないのが中国人である。

日中平和友好条約の締結を契機として始まった経済の開放改革による経済のべら棒な発展。ところがそれに伴う水質汚濁、大気汚染が甚だしく、特に汚染された大気は九州を中心に日本に流れてきて光化学スモッグを惹起させ、日本人の健康を蝕んでいる。

工場は工業排水を川にそのまま流す。だから長江(揚子江)や黄河の汚染は酷いらしく、中国では水が近く使えなくなると言われている。東シナ海、日本海の汚濁も間もないだろう。

大気の汚染に至っては北京オリンピックの開催を危ぶむ向きさえ出てきた。さらに海を渡って九州を中心にした日本にも光化学スモッグをもたらしている。

私が思うには中国では痰を吐くことを相手に失礼な事だと思わないから、工場が排水、排気を痰を吐くように他人のことなど考えずに吐いているのだ。

ここで突然思い出した。1972年9月に日中間の国交が正常化したのに伴って、彼らは東京に大使館を開設すべく何人かがやってきて都内の新興ホテルに滞在した。

その時、ホテルの社長がこぼした。「何しろ、そこらじゅう、絨毯に唾を吐くのです、どんな偉い方もです」。あの頃東京に黄砂は飛来していなかったはず。要するに痰や唾を処構わずに吐くというのは習慣になっていると言う事ではないか。

早く言えば、中国という国家もまた習慣の如く、国家として吐いている痰が中国からの公害なのである。自分が動けば他人に迷惑が掛かると言う考慮が皆無だからできる国家的な傍迷惑。それが中国の越境公害なのである。

嘗て日本では1960-1970年代の高度成長期に「歪(ひずみ)」と称する公害問題が起きた。これは自分はもとより他人に迷惑な事だと考えたから公害対策を懸命に行った。それが中国の毒で光化学スモッグ再発生だ。

しかし中国人には痰が恥だとか他人に対する迷惑だとの価値観は無い。だから誰が死のうが倒れようが知ったことではない。しかも共産党が生き残るのは高度成長が不可欠なのだから、越境公害はいつまでも続く理屈だ。
2007・11・06

2007年11月06日

◆庇で母屋を取る

                  渡部亮次郎

福田首相のやる事は危なくて見ていられない。危うく庇(ひさし)を貸して母屋を取られるところだった。小沢に持ちかけた民主党との連立の事だ。

庇とは軒に差し出した雨、日光よけの小屋根のこと。戸建ての家にはあるが、マンションには囲炉裏、掘炬燵と同じく存在しない。面倒をみてやった者から、逆に被害を蒙ることのたとえ(岩波ことわざ辞典)。

小沢にしてみれば、いくら参院で多数を制していても自分たちの政策は一つとして成立しない。衆院を自公に抑えられているからである。

そこへ「渡りに舟」とばかりに福田首相から「政策協議」と言う名の連立話が来た。福田首相にして見れば、参院を占拠されている現状では政府与党の提出法案は1本も成立していない以上、苦しみぬいた挙句、苦肉の策である。

当に「しめこのうさぎ」。小沢は自衛隊の海外派遣では国連云々で「鬼の首」をとった事もあり、弾む思いで党本部に帰った。「やったぜ!」。

政策協議を続ければ、参院多数をテコに民主党の主張の数々を政府与党に呑ませることができ、さすが民主党と国民をさらに寄せ付ける事ができる。説明なんかしなくたって明々白白の「事実」では無いか。

ところが、民主党幹部の誰一人、これを理解できる者はいなかった。何もしなくても次の総選挙では完全に勝利できると思い込んでいる。早く衆院を解散に持ち込むためにも自民党を助けるような事はすべきでない、の一点張り。分かっちゃいない。

民意はいまや反小泉にある。それが跳ね返って反安倍になっただけ。国民は今や、田中角栄のバラマキ政策に期待し「大きな政府」を渇望しているのだ。特に地方はそうである。それが地方で自民が負けた原因である。民主党の勝利とは言えない。小沢はそう読んだ。

ところが誰もこう考える奴はいない。批判一色。党首失格?「もうやってられないよ」。辞意表明は当然の帰結であった。

民主党は慰留するだろうが、小沢は辞意を翻す事はあるまい。男が廃る。小人数を纏めて政府に生殺与奪を迫れる新党結成に邁進するだろう。

庇(ひさし)を貸して母屋を取られる、と言うことわざがあるところを見れば、こういう事は事実として昔から随分存在したのだろう。
福田さん、危ないところだったね。 文中敬称略。2007・11・05

2007年11月04日

◆原敬が暗殺された日

                    渡部亮次郎

11月4日は「平民宰相」原敬(はら たかし)が東京駅で刺殺された日である。1921年(大正10年)11月4日のことだった。

犯人は、鉄道省(当時)山手線大塚駅職員であった中岡艮一(なかおか こんいち)。殺人犯にも拘らず3度もの大赦で1934年には早くも釈放された

大塚駅の転轍手であった中岡は、以前から原敬首相に対して批判的な意識を持っていた。中岡の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。

その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は首相暗殺を考えるようになった。

かくて1921年11月4日、京都での政友会大会へ向かうため東京駅に来た原は、午後7時25分頃、突進してきた中岡に凶器を胸に突き刺された。傷は右の肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された中岡は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。

しかもこの裁判は異例の速さで進められ、また調書等もほとんど残されていないなど「謎」が多い裁判として知られ、その後の中岡の“特別な”処遇(3度もの大赦で1934年には早くも釈放された、戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなど。

本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。

無期懲役の判決を受けたが3回の恩赦により1934年出獄。獄中で回想録「鉄窓十三年」を書いた。出獄後は目立った政治活動はしていないが頭山満と関係を持ったとされる。

また満州で陸軍司令部に勤務したといわれる。戦後復員したとの情報もあるが詳細は不明。中岡が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとはわかっていないが、前述した原の政治に対する不満の他に、以下のような話もある。

玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。有名な右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。

犯行の1か月前、中岡と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、

実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、中岡が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したという。

このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。

原は65歳の生涯であった。彼の政治力が余りに卓抜していたために、原亡き後の政党政治はバランスを失ってしまうことになる。
原こそは卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であった。

当時の政治の裏側を知るには、原の残した『原敬日記』(はらけいにっき)が格好の史料であるが、一個人としての原敬の実像を知るには、原の養子である原圭一郎(本名原貢)の回想録『ふだん着の原敬』が格好の資料である。

『原敬日記』は、一般には1875年に帰省した際の日記から、暗殺直前の1921年10月25日までに書かれた日記の総称であるが、暗殺を予期して認めた遺書の中で「当分世間に出すべからず」と厳命しており、公開されたのは1950年のことである。

近年では、原敬が大正天皇と近かったことから、大正天皇と『原敬日記』の関係についても研究されている。

原敬は、1856(安政3)年2月9日、盛岡藩盛岡城外「本宮村」(現在の盛岡市本宮)で盛岡藩士 原直治の次男として生まれた。

後に「平民宰相」と呼ばれた原は、実は祖父・直記が家老職にあったほどの上級士族の家柄だが、20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に編入された。彼は家柄についての誇りが強くいつの場合もみずからを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。

また、後年、号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、それは原の薩長藩閥への根深い対抗心を窺わせる。戊辰(ぼしん)戦争で「朝敵」となった東北諸藩(除く秋田藩)の出身者が、「白河以北一山百文」と薩長出身者から嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからである。

白河とは福島県白河市のことで、古来より「白河関」がみちのくへの入り口であった。

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2007・11・02

2007年11月03日

◆祝祭日は廃止された

                    渡部亮次郎

家の近所に新しくは医者が開業したが、案内板に休診日は「祝祭日」と出ている。祝祭日(しゅくさいじつ)とは、祝日と祭日のふたつを総称する言葉だが、祝祭日は1948年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって全て廃止されて存在しない。「国民の祝日」だけががそれに代わった。

元々祝祭日は、国家が休日とする法定休日(米:legal holiday,英:bank holiday)。建国や独立などの歴史的出来事に由来する祝日と慣習的に休日としていた宗教上の祭日を合わせて呼び表す語。

日本では明治時代は「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号)によって、大正時代には「休日ニ關スル件」(大正元年勅令第19号)によって、昭和時代には「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)によって定められていた。

しかし敗戦に伴い昭和23(1948)年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって祝祭日は一旦、全て廃止され、国民の祝日がそれに代わった。

明治憲法下の祝祭日一覧

1948年の祝日法制定時点までの祝祭日を以下に示す。今日11月3日は文化の日なんかではなく「明治節」つまり明治天皇の誕生日を祝う祝日だったのである。

祝日

四方拝 (新年)1月1日
紀元節 2月11日
天長節  4月29日
明治節 (明治時代には天長節) 11月3日
新年宴会 1月5日
このうち、新年宴会を除く4つを四大節(しだいせつ)といった。

祭日

元始祭 1月3日
春季皇霊祭 春分日(3月21日ごろ)
神武天皇祭 4月3日
秋季皇霊祭 秋分日(9月23日ごろ)
神嘗祭 10月17日
新嘗祭 11月23日
大正天皇祭 12月25日

敗戦間もない昭和23年7月20日に法律第178号として 成立、同日施行された「国民の祝日に関する法律」は実質3条から成り、平成17年まで8回の改正を経て現行の国民の祝日年間15日が制定されている。

しかし相当、こじつけや連休増やしのための安直な弄りが目立ち、国民的行事を伴った祝日は少ない。

第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。

第2条 「国民の祝日」を次のように定める。

元日 1月1日 年のはじめを祝う。

成人の日 (元は1月15日だったが)1月の第2月曜日で、連休増やし策である。おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする成年を祝いはげます。

建国記念の日 政令で定める日(後に紀元節と同じ2月11日となった)建国をしのび、国を愛する心を養う。「の」が入り建国記念日ではないために国家行事は行われない。

春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。昔の春季皇霊祭

昭和の日 4月29日(昔は昭和天皇誕生日だった。その後「みどりの日」などというわけの分からぬ休日に堕したが、国会にも少しは良識が残っていて昭和の日となった。

激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

憲法記念日 5月3日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。

みどりの日 5月4日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。(連休の穴埋めのための祝日)

こどもの日 5月5日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。古来、端午の節句だった。

海の日 7月の第3月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。

敬老の日 9月の第3月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。 昔は老人の自殺の最も多い日だった。

秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。昔の秋季皇霊祭

体育の日 10月の第2月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。1964年の東京オリンピックを記念するため開会式ノのあった10月10日が元だったが、連休対策でこうなった。

文化の日 11月3日 元の明治節(明治時代には天長節)自由と平和を愛し、文化をすすめる。 文化を進めるとは。

勤労感謝の日 11月23日 元の新嘗祭(収穫感謝祭) 勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。

天皇誕生日 12月23日 天皇の誕生日を祝う。マッカーサーはこの日を選んで東條元首相らを絞首刑に処した。

第3条 「国民の祝日」は、休日とする。

2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。

3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。

(改正はその後8回行われて現在のように無残な姿に堕してしまった。アメリカの真似だろうが、結果、アメリカは国旗、国歌を尊んで国歌の統一を成し遂げているが、日本は国旗、国歌を尊んでいない。連休ばかりやっているうちに統一の取れない連休国家に堕する事間違いない)。

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執筆:07・11・02

2007年11月02日

◆銀シャリの時代

                   渡部亮次郎

<銀舎利(「しゃり」は俗に米粒の意)白米の飯。1940年代、わが国の食糧不足の時代の語。>(広辞苑)。そのコメ不足を象徴する食糧管理法がやっとなくなったのが11月1日。1995年のことだった。

食糧管理制度は、日本における主食である米や麦などの食糧の価格や供給等を国が管理する制度をいう。

食糧管理法は戦時中の1942(昭和17)年、東條内閣の時に制定された。内容は、食糧の生産・流通・消費に亘って政府が介入して管理するというものであり、目的は食糧の需給と価格の安定である。

この食糧管理法(いわゆる食管法)に基づき創設されたのが食糧管理制度。食糧管理法は53年後の1995年に廃止され、代わりにいわゆる食糧法が制定されたことを受け、食糧管理制度の呼称も食糧制度と改められた。

また、2004年にはその食糧法に大幅な改正がなされるなど、制度の内容は時代と共に大きく変化してきている。

食糧管理法では、米は生産者(農家)から国が買い上げてそれを売って行くことを基本としていた。米の流通に関しても実に厳しい決まりがあり、取扱いが出来るのは、国の指定や県の許可を受けた一部の人間に限られていた。

これに代わって平成7年からスタートした食糧法では、国が買い上げるのではなく、農家や流通業者の人たちがもっと自由に米を売って行くことができるようになった。

米の流通に関する決まりも緩められ、誰でも一定の条件を満たせば米を取り扱うことができるようになっている。コメは53年の長きに亘って国民を縛っていたのである。

食糧管理法が制定された1942年とは、米英との戦争を始めた翌年というよりも、41年の12月8日に開戦したのだから、法制定は開戦とほぼ同時と言ってよい。

私は小学校(国民学校)に入ったばかりの子供だったから、実情を全く記憶していない。いずれ学校へ弁当を持って行けない状態ではなかった(当時、学校給食は制度として無かった)。戦況の悪化と足並みを揃えて各地で食糧が不足し、農家の我が家でもメシに麦は勿論、脂肪を絞ったあとの豆滓を混ぜて炊くようになった。

こんなものを食べなければ戦争に勝てないのかなぁなどと考えているうち、1945年8月15日、遂に降参(ギブアップという英語は子供は誰も知らなかった。英語は「敵国後」として喋るも習うも禁止されていた)。

敗戦。田圃も敗戦していた。肥料欠乏のため地力ガタ落ち。頻発する水害。伴う病虫害に対して抑える農薬皆無。当然、全国どこでも凶作。食糧統制についての警察の目は一層厳しくなった。

農家も生産量のすべてを「供出」を命令され、縁の下とか藁山の中に隠匿した者は警察にしょっ引かれた。又、秋田市あたりからコメを買出しに来る人も多かった。しかし買った人を警察が追いかける。
背負っておもいから必ずとっ捕まる。可哀想だった。

<昭和22年10月11日東京地方裁判所の経済統制担当・山口良忠判事(当時34歳)が、ヤミ食糧を拒絶して餓死した。死後20日余り経った111月4日、朝日新聞が「食糧不足が生んだ英雄」とスクープ記事を掲載した。

内容は「今こそ、判検事は法の威信に徹しなければならぬと、ギリギリの薄給から一切のヤミ(食糧)を拒否して配給生活を守った」と書かれていた。

終戦から2年を経た昭和22年頃は、未だに食糧難で国民全体が餓えていた。このため、国からの配給では満足に食べられず、都会の人達は東京近郊や郊外の農家に食糧を買出しに押しかけていた。

これに対して政府は米、味噌、醤油、酒など殆どの食糧は「食糧統制法」の下、徹底的な管理をしていた。折角、農家から米(ヤミ米)を入手しても、列車や道路で警察官に発見されると没収される時代であった。

そのような時代背景にあって、山口判事は「自らヤミ食糧を取り締まる立場であり、自分がヤミ食糧を購入し食することは許されることではない」と一切のヤミ食糧を拒否したのだった。>(「事件史探求」)

あらゆる生活物資が闇屋、ブローカー、闇市で流通した昭和20年代。米どころ東北からは1人で何十キロもの白米を持ち夜行列車で都内に持ち込む担ぎ屋という商売もあった。上野の手前の赤羽で一斉検束に遭うという不運もしばしばだったらしい。

1954(昭和29年春、大学に入った。コメは未だ配給。農家の子供だから、自己消費分1年間白米60キロを役場の証明書付で持参。どういうわけか遠縁の伯母に騙し取られて1粒も口に入らず。半年で10キロも痩せた。

都会でコメの飯のことを「銀しゃり」と言って渇望したのは1960年ぐらいまで。やがて所得倍増、高度経済成長と共にコメへの飢餓感は薄れ、ハンバーガー、ピザのほうが若者には好かれるようになって行く。

1993年(平成5年)に起こった全国的な冷害の影響で同年後半から翌1994年にかけて日本国内の米が著しい供給不足(「コメ不足」)となり、価格の暴騰・外国産米の緊急輸入などが起きて食糧管理制度の脆弱性に対する非難が増加した。

このため、政府による管理を強化する一方、農家でも米を直接販売できるようにするなど、政府はそれまでの方針と異なる方向への運用改善を余儀なくされた。この政府の管理は食管法が廃止される直前の1995年10月まで続けられた。

1995年(平成7年)、米の市場開放で、アメリカから米を輸入するようになる(ミニマム・アクセス)。しかし、その米は日本の国内消費でなく他国への援助の用途にだけ振り分けられた。

この2つの出来事は、結果として食糧管理法の廃止・食糧法の制定という大制度改革の要因となった。

1994年(平成6年)12月14日、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(いわゆる食糧法)が公布、一部の条項を除き翌1995年11月1日に施行され、これに伴い食糧管理法は廃止となった。

また、制度の呼称としての「食糧管理制度」も内容の変更に沿って「食糧制度」に改められた。ただし、食糧管理特別会計・食糧管理勘定など、一部の用語には「管理」の文字が残った。

食糧法の施行により、農家が自由に米などの作物を販売出来るようになった。これはその後の米輸入解禁に備え、あらかじめ自由に米を流通させることで日本国内の農家の競争力・対応力の向上を目指したものである。一方で、政府による管理は緩和されることとなった。


1970年代に食生活の変化の影響で米が余るようになり、備蓄米が年間生産相当量まで達する事態も生じた。このため政府が主導して減反政策を推進してきたが、2004年に方針を転換し同政策をやめることとなった。

食糧法を大幅に改正する主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律等の一部を改正する法律が2004年(平成16年)4月1日に施行された。

これは従来からの農業従事者に限らず誰でも自由に米を販売したり流通させることが出来るようになるなど、1995年の食管法廃止・食糧法制定に匹敵するような制度改革が実施された。
出典:フリー百科「ウィキペディア」2007・11・

2007年10月31日

◆解離性大動脈瘤

                      渡部亮次郎

初代防衛大臣久間章生(きゅうま ふみお)氏が解離性大動脈瘤
の治療を受けるため、2007年10月30日、どこかの病院に入院した。

折から国会や東京地検で騒ぎになっている「山田洋行」問題に関係しているのでは無いかと囁かれている中での入院とあって、いろいろな憶測が流れているが、親しい関係者の話からすると、実態は緊急を要する「本物」のようだ。

今から42年前の昭和40年7月8日夜、急逝した自民党の「実力者」河野一郎氏の死因も当にこれで、破裂した後だったから、駆けつけた日本医師会会長武見太郎氏、心臓病の世界的権威榊原しげる博士も打つ手が無かった。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると解離性大動脈瘤は別名で、正式には大動脈解離(大動脈乖離とも、だいどうみゃくかいり、Aortic dissection)という。

なんらかのきっかけによって、3層構造を作っている大動脈のうち真ん中の層の膜(中膜)に血流が入り込んでしまい、層構造が別々に剥がれていく(解離してしまう)病気である。大動脈瘤の一種として分類されることがある。

快楽亭ブラック (2代目)、俳優の故・石原裕次郎、加藤茶らが罹患した疾病である。両人とも緊急手術で生還した。しかし瘤が破裂してしまったら河野さんのように死ぬ。

後に弟で参院議長になる謙三さんも解離性大動脈瘤になったが、破裂前に検査で発見できて手術で生還している。

症状としては強烈な痛みは患者の96%に見られ、解離の場所を推定するのにも重要な症状である。心不全症状を起こすこともあるほか、初発症状が突然死であることもある。

また、解離によって血圧の上昇または低下が起こるほか、胸水の貯留が見られることもある。

検査・診断
激痛から大動脈解離を疑う。胸部X線で大動脈陰影や上縦隔の拡大が見られることがあるが、特に所見が見られないこともあるため、基本的にCTやMRIで診断する。

CT
静脈内に造影剤を注入して造影する撮影法が基本である。真腔、偽腔、フラップの検出が可能で、感度は83〜87%、特異度は87〜100%と高い。最近登場したヘリカルCTはより正確な診断が可能であり、感度は96%、特異度は100%にも及ぶ。

MRI
さまざまな断面で鮮明な画像を得られるのが特徴である。解離の範囲や状態を正確に把握するのに適している。感度・特異度はともに96%。

心エコー
内膜フラップを検出できれば確定できる。

病態として、正常な層構造が壊れた大動脈は弱くなり、最悪の場合破裂してしまう。

また、大動脈の出発点である大動脈起始部(バルサルバ洞)から心臓にかけて解離が進めば、そこから出ている冠動脈の血流を阻害して心筋梗塞を起こしたり、大動脈弁輪拡張に伴い大動脈弁を壊したり(大動脈弁閉鎖不全症)、心臓を包む心嚢という袋の中に出血を起こしたりする(心タンポナーデ)。これらの合併症は死に至るものであり、大動脈解離が危険な病気である所以といえる。

治療・予後をどうするか。予後はStanford AであるかStanford Bのどちらかによって大きく異なる。

Stanford Bの場合、脳に血流を送る腕頭動脈、左総頚動脈が保たれるため、保存的に治療が行われる。

ただし、腹腔動脈、腎動脈に解離が及んだ場合は手術適応となりえる。Stanford Aの場合、腕頭動脈、左総頚動脈に血流が減少し脳死の危険が高いので、緊急手術適応となる。大動脈弁に解離が及んで大動脈弁閉鎖不全、心筋梗塞、心タンポナーデを起こした場合、非常に予後は悪い。

以下、心臓手術体験者で文藝春秋社から著書の出している元NHK記者石岡荘十氏の見解を付します。

国内で心臓(血管)外科の看板を掲げている病院は400を超えるが、年間100例の実績のある病院はその3分の1に満たない。

さらに、日本で心臓血管外科専門医を標榜する医師は1900人に上るが、「まあまあ信頼できる実績を持つ医師」は、100人いるかどうかだといわれる。最も悲観的な数字は、「お任せできる心臓外科医」はという数字を挙げる専門家もいる。

そこで、こんな名医をどうやって見つけるかだが、手っ取り早いのは病院のホームページ検索だ。神の手を持つといわれる京都大学の正始元教授は、「年間200例の実績がなければまあまあの技術レベルは維持できない」という。

例えば、政治家ご贔屓の虎ノ門病院。「手術日は毎週月、火、水、金で、2004年4月から2005年3月31日までの手術総数は150例であった。内訳は冠状動脈バイパス術が45例----」とある。

小渕元首相が入院した順天堂大学病院は、年間(‘06年)473件。橋本元首相が入った慶応病院は年間手術例の数は公表していないが、ポートアクセス法の成功例を誇っている。

大学病院は地域医療の中心的存在だが、こと医療技術に関する限り、ブランドが実力を表すとは限らない。中には年間数例の実績しかないところもある一方で、大和成和病院(神奈川県・大和市)のように年間500例を超える心臓専門の民間病院も存在する。

久間氏の“職権”がらみで推測すると防衛医科大学も候補の1つたりうるが、ここの実績(’06)は、「心臓血管手術総数192例、冠動脈バイパス手術27例---」とある。

久間氏がどのような基準や情報にもとづいてどの医師と病院を選択したのかは分からないが、他人事ではない。高齢者は例外なく心臓病の予備軍である。 心臓手術の経験者としてはこの際、久間さんの無事な生還を切に祈る。2007・10・30



2007年10月30日

◆リンゴ主産地は中国

渡部亮次郎

秋の果物の王者リンゴ。生まれ在所秋田や隣の山形県にもあるが、なんと言っても北隣の青森県、それも日本海岸の津軽だ。尤も敗戦後間もなく流行した霧島昇と並木路子の「リンゴの唄」の映画のロケ地は秋田県増田町である。

リンゴの原産地はなんとなくアメリカだと思っていたが原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地だといわれている。

現在日本で栽培されているものは、明治時代以降、西洋から導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。

だから台湾にリンゴはなく、日本からの土産が珍重される所以である。

江戸時代に栽培されていたリンゴは、中国から入ったワリンゴ(ジリンゴ)1種だけで、明治以後に導入されたリンゴとは別種である。
現在、和リンゴは長野県上水内郡飯綱町で1軒の農家が栽培してその姿を伝えている。

和リンゴの実は、大きさ直径3 - 4cm、重さは30gぐらい。熟すると赤くなり、収穫適期はお盆前である。 また2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存するワリンゴや野生種を調査し数十種類の木(数百本)を育て、収穫した実はお盆に各地の寺社に奉納している。

リンゴをはじめてアメリカにもたらしたのは種子を携えて行った初期の開拓者だった。マサチューセッツ・ベイ・カンパニーの記録によると、早くも1630年にニユーイングランドに生育していたという。

種子は宣教師、貿易業者、アメリカ先住民によって西方にもちこまれた。ジョン・チャップマンがたったひとりでアメリカ中西部にひろくリンゴの木を植えたといわれている。しかし品種改良はあまりしなかったのかニューヨークあたりの辻で売られているリンゴは極小さい。

セイヨウリンゴがはじめて日本に入ったのは、江戸末期の1861〜64年(文久年間)江戸・巣鴨の屋敷に植えられたものとされるが、本格的な導入は1872年(明治5)に開拓使によっておこなわれた。

それ以来、600種をこえる品種が入ってきたが、現在、市場に出荷されている品種は、日本で育成されたものを含めて十数種にとどまる。

明治初期に導入され、現在も栽培されている品種には、祝(いわい)、紅玉(こうぎょく)、国光(こっこう)、旭(あさひ)などがあり、大正期に導入されたものに、デリシャス、スターキングデリシャス、ゴールデンデリシャスがある。

敗戦後、弘前周辺から国鉄奥羽線に乗っておばさんたちが秋田へ手作りのリンゴを売りに来た。それより前の戦時中は売りに来なかったものだ。高校の頃は1日に紅玉を6個も食べた。歯も当然丈夫だったから皮も剥かずにかぶりついた。

第2次世界大戦後は日本国内でも品種の育成がおこなわれ、青森県りんご試験場の育成のつがる、陸奥(むつ)が登場した。

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2007年10月28日

◆インターフェロンの怪

                   渡部亮次郎

舛添さんの足が地に着いていない。インターフェロンにしか肝炎治療が頼れないとしても、近親者のやっていた事を見たところでは、「インターフェロン治療によりC型は5〜9割、B型は3〜4割が治るとされている」という話は信じてはいけない。

<肝炎治療「年10万人に」 舛添厚労相、助成に前向き
舛添厚生労働相は27日、治療費の公費負担を柱とするウイルス性肝炎患者の支援策を来年度から始めて、「インターフェロン治療」を受ける人を「年間約10万人に倍増させたい」との考えを明らかにした。

与党は、B型・C型肝炎患者の自己負担額の上限を所得に応じて月1万〜3万円程度とし、残りを公費助成する方向で調整している。来年度当初予算では、少なくとも200億円程度の財源が確保できる見通しだ。

ウイルス性肝炎患者(肝硬変や肝癌を含む)はB型・C型合わせて約60万人。自覚症状のない感染者は300万人程度と推定されている。この中には血液製剤フィブリノゲンによる薬害患者・感染者約1万人が含まれる。

インターフェロン治療によりC型は5〜9割、B型は3〜4割が治るとされているが、治療費が月7万円程度と高額で、現在は年間約5万人しか治療を受けていない。

自覚症状がなく、感染に気づいていない人も多いことから、政府や自治体はこれまでウイルス検査の呼びかけや検査費の補助を行ってきたが、治療費支援は一部の自治体にとどまっていた。

ただ肝炎は、放置すると一定の確率で肝硬変や肝がんに進行する。インターフェロン治療を早期に受ける人が増えれば将来的にがん患者が減り、医療費抑制にもつながるとの判断で、来年度から治療費助成を始める。>Asahi Com 2007年10月27日12時00分

義兄本間俊二(家人の次姉の夫)は自覚の全くないうちにC型肝炎と診断され、約30年後に肝臓癌のため2007年1月22日、死去した。73歳の誕生日の前日だった。

本間は若い時から洋酒の輸入商をしており、フランス、イギリス、イタリア等との取引で忙しい毎日を送っていたが、その一方でC型肝炎対策にも忙しかった。大阪が本拠地だったから、いろいろと呼び声の高い病院を訪れたといっていた。

その中で出てきた治療法の1つがインターフェロンの注射だった。「高価でもありますが、効かない場合もあります」といわれながら投与を受けた。受けた患者何十人が会を結成して励ましあったが、効いたのは本間はじめほんの一握りだった。大多数の患者には効かなかった。

2006年12月初頭、千葉県浦安市のホテルに招かれた。「私は40台で死ぬと思っていました。それがこうして72まで生きてこられたのは全くインターフェロンのお蔭です。だけど私は成功した数少ない1人なのですよ」と語った。

その半月後、本間と会ったら黄疸が酷くなっていた。それでも宇都宮での孫たちとの年末年始の団欒を楽しみに12月27日、運転して出かけた。

だが健康状態は悪化。2007年1月3日に帰京する時には運転を娘に代わってもらってきて、翌4日にはかかりつけの都内の病院に緊急入院。その18日後に死亡した。
間違い無しの肝臓癌だった。C型肝炎の終着駅であった。

厚生労働省の役人は「インターフェロン治療によりC型は5〜9割、B型は3〜4割が治るとされている」と舛添大臣に説明し、大臣も鵜呑みのまま記者団に語った。記者団も又それを鵜呑みにして記事として流した。

しかし、インターフェロンはそれほど頼りにならない。その実態はウィキペディアにもかかれていない。壮大な無駄を厚労省がやろうとしているように思えてならない。 2007・10・27

2007年10月27日

◆モルヒネの1万倍

                      渡部亮次郎

モルヒネの1万倍の効力、1滴で巨象を麻痺させる麻酔薬をロシア政府が合成している事が明らかになった。2007年10月24日付の産経新聞でモスクワの内藤泰朗特派員が伝えた。

実はロシア・チェチェン共和国の独立派武装勢力がモスクワの劇場を武力で占拠し、人質の観客130人が犠牲になった事件。あれから5年経った。

あの時、ロシア特殊部隊が人質救出作戦で使用し「無力化ガス」と呼ばれた秘密ガスの主成分が、欧米の専門家の調査で漸く明らかになり「カフェンタニル」と分かった。

事件発生から56時間経った2002年10月26日未明、ロシア特殊部隊が「無力化ガス」を劇場の通気孔から噴霧し、人質と武装勢力を気絶させて突入。

先立って武装勢力は10月23日、約900人の観客らを人質に劇場に立てこもり、チェチェン共和国からのロシア軍の撤退を要求。聞き入れられなければ人質もろとも劇場を爆破すると脅迫。

ロシア側はこれを拒否すると共に無力化ガスを噴霧した後の突入を決断したのだった。

しかし「救出」とは言うものの大量の中毒死者が出て「行き過ぎ」が叫ばれながらプーチン政権は同ガスの成分を未だに公表せず、使用の正当性を主張している。

ガスの死者。チェチェン人武装勢力42人、人質の約15%に当る130人。いずれも中毒死だった。うち10人は子供だった。

内藤特派員がロシアの英字日刊紙「モスクワ・タイムズ」の報道として伝えるところによれば秘密のヴェールに包まれていたガスの主成分は、ロシア保安当局が開発したもので、1滴で巨象をも麻痺させることができる。

人工的に合成された「カフェンタニル」。麻酔薬として知られるモルヒネの1万倍の効力を持ち、象など大型動物の麻酔薬に使われるという。人間への効力が予め試されていなかったとすれば、犠牲者は生贄だったのではないか。


<欧米の専門家は事件でのロシア側の作戦が「狡猾な離れ業だった」と評価し、劇場を血の海にしなかったロシア当局の判断が正しかった徒の見解を示している>(内藤特派員)

ところで日本の北方領土近海で暴れまわっているのはロシア人ではなくチェチェン人たちだと聞いた事があるが、独立派武装勢力は弱体化したために、我々の関心も低くなっているが、扮装は終わっていない。

<チェチェン紛争はロシア南部チェチェン共和国の独立要求に対して独立阻止を目指すロシア軍が1994年、同共和国に侵攻して始まった。

96年に一旦休戦したが、99年に再燃。ロシア側の圧倒的な軍事攻勢で、独立派武装勢力は弱体化。だが2002年10月のモスクワ劇場占拠、モスクワの地下鉄や旅客機の爆破(04年)、北オセチア共和国の学校占拠(同)など紛争のテロ化が進む。

紛争による双方の犠牲者は推定で数万人に上ると見られている。>(10月24日産経新聞)。2007・10・26