2008年03月31日

◆大連立は「小沢提案」と首相

                  渡部亮次郎

<福田首相は30日のNHK番組で、昨年秋に民主党の小沢代表との党首会談で協議した自民、民主両党による大連立の構想について、小沢氏からの提案だったと述べた。

首相は、参院で与野党が逆転した「ねじれ国会」で政策遂行が難航していることに触れ、「小沢代表も、こういう事態はよく察知され、『連立を考えよう』という提案をされたと私は思う。小沢代表と同じ気持ちだ」と述べた。> 3月30日20時58分配信 読売新聞

この点について産経新聞客員編集委員(元政治部長)花岡信昭氏は
ご自身のメールマガジン550号[2008・3・30]で依然、大連立の可能性あり、と以下のように指摘している。

<小沢氏は福田首相からの電話にも出ないそうだから、なんともはやである。

とはいえ、まだ希望はある。福田、小沢両氏は昨年の大連立構想でいったんは歩み寄った仲だ。10、11月に党首会談が2回開かれたことは伝えられているが、実はこれ以外にもひそかに3回程度は会っている。

それまでは疎遠な関係だったが、互いに、よけいなことは口にしない、シャイでぶっきらぼう、といった性格が似通っていることを発見して、「気脈が通じる関係になった」(政界通)ともいわれる。

となれば、大連立構想は完全には消えていないとみるべきだろう。参院で与党は過半数に17議席不足しているから、この隙間(すきま)を埋めるだけの「中連立」という手もある。

日銀総裁人事で福田首相が武藤敏郎(としろう)氏(64)と田波耕治(たなみ・こうじ)氏(68)を相次いで提示したのは、小沢氏の了解があったためという解説もある。

大体が、そういうことでもなければ、民主党が同意しないことが分かりきっている旧大蔵事務次官出身者を提示したりはしない。>

そうであるなら福田発言は、小沢氏の手の内を暴いたに等しくはないか。大連立反対でいきり立っている民主党内の反小沢勢力をさらに刺激し、小沢氏の動きを封じる以外の何物でもないと思えるからだ。

<事態打開に向け、首相は民主党の小沢一郎代表に党首会談を求めているが、小沢氏は「会ってもよいが、かみ合わない」とにべもない。首相は30日のNHK番組で「粘り強くというが粘り気にも限度がある。玄関どころか門前払いという現状ですかね…」とぼやいた。>産経News 31日

福田首相とは昔、福田赳夫内閣で、福田氏が総理秘書官、私が外務大臣秘書官で働いた仲で、性格やクセも多少は知っているが、いわゆる奇策縦横の人では絶対にない。泥縄といわれようと、縄が必要である限り綯う人である。

したがってNHK番組で「暴露」したのは何らかの「波紋」を期待したものでは無いだろう。これによって小沢氏の足を引っ張る事を計算したものでもないはずだ。小沢氏を窮地に追い込めば小沢氏が「反省」でもすると単純に考えたのかもしれない。

明日からボン(ドイツ)でのサミットだという1978(昭和53)年7月14日のパリ祭のコンコルド広場。大統領も到着して行事が賑やかに始まっているというのに、広場を見下ろすホテル・クリヨンで赳夫総理は記者懇談を中断しようとはしない。

記者団は外の騒ぎに気を取られて総理懇談どころではない。それなのにサミットとは、と「勉強」を続ける総理。「彼らはサミットの何たるかをわかっていないから教えてやるべきだと進言したんだ」と康夫秘書官。

ここまで来て分かっていない者にここで教えたって分かるはずが無いという私。意見は一致しなかった。随行した3閣僚はそれを他所に「ポスト福田」をめぐって密談に余念がなかった。

泥棒が既に逃げた後でも縄を綯うというのが康夫総理の性格である。奇策をと願う大方の期待は水泡に帰する事、間違いない。2008・03.31

2008年03月29日

◆民主党の先も明るくない

渡部亮次郎

日本人は、成功して陽の当たる道を歩いた頼朝より結局報われない悲劇のヒーロー義経を好む。民主党は昨年夏の参院選挙では判官だったが、経済界が混乱した今となっては判官は自民党になった。次期総選挙で民主党は負ける。

様々な調査を分析すると、国会を混乱させる事によって福田政権の打倒を実現し、民主党政権を樹立するという民主党の戦略は国民の支持を失っている。小沢代表は戦略を間違えた。

産経新聞の元政治部長花岡信昭さんは2008年3月中旬、モスクワに出張された。それを26日の産経新聞で触れたが、次の1節が気になった。

<先週の数日間、粉雪の舞うモスクワで過ごした。「日露専門家対話」というシンポジウムに招かれて、日本政治の現状を報告した。

「衆参ねじれ」を背景にした混乱は、向こうの日本研究者にも理解不能のようで、説明に難儀した。(中略)モスクワ訪問は学者、政治家ら十数人のメンバーだったが、その中に、民主党の前原誠司副代表(元代表)もいた。

この重大な時期に国会を離れていたのは、不毛の攻防戦から距離を起きたかったためではないか。>

また一流商社マンの泉幸男氏は自らのメールマガジンで自らがしばしば仕事で滞在する台湾について、その政治状況に触れた後、

<さしずめ小沢一郎氏などは、馬英九当選者のひそみにならい、衆院選に勝って民主党の首相を成立させ、「ねじれ国会」解消でとんとん拍子の田中角栄式政治を……と夢見ているかもしれない。

国民党の立法院がこの8年間、陳水扁大統領の足を引っ張りつづけたよ
うに、民主党の参議院も自民党政権の足を引っ張りつづける。きっと国民は「ねじれ解消」を何よりも切望して、衆院選でも自民党を負けさせるだろう……というわけにはいくまい。

それなりの新鮮感を武器に闘った台湾の馬英九陣営と異なり、日本の民主党執行部はあまりに古顔揃いだ。

参院選のときに、日本の一部をおおった漠然とした期待感は、「何でも反対」戦術を見せつけられて、萎えきった。>(26日)

大學出、中堅サラリーマンが、支持しかかった民主党について、硬直した国会対策を見て「萎えきった」とは尋常ではない。民主党はこうした批判に全く気付いていないのだ。

確かに福田首相や伊吹幹事長の国会対策は上等とはいえないにしろ、民主党の「何でも反対」と映る国会戦術は、それ故に潰えた嘗ての日本社会党を彷彿とさせ、国民に決して好い印象は与えていない。

ガソリンが1リットル当たり25円も安くなれば消費者が一時的に民主党を評価するだろうが、その代わり空く地方への道路財源の穴はどうするのか。そんな事は知らぬことでは、地方から猛反撃を食うことは必定だ。

百戦錬磨の小沢代表。まさかこれだけで福田倒閣が実現し、自らが直ちにそれにとって替われると思っているはずは無い。いわゆる「大連立」に応じた際、その理由として自ら説明したように、民主党に政権担当能力に無い事を挙げたではないか。

本来の小沢であれば一般財源化プラス何かしらを引き出して引き下がるというのが角栄直伝の戦術だった。それが益々過激化する硬直戦術にも口を出して止めよういるそぶりは見えない。

おそらく「行け行けどんどん」といきり立つ過激勢力を抑える「統治能力」を失い、戦術論への立ち入りを阻止されているのでは無いか。或いは党内が分裂寸前なので、過激論でしか党内を纏めることが不可能になっているのか。

なんだか悶える自民党の将来も暗くなっているが、取って替わるべき民主党にも、明るい日差しは全く見えない。文中敬称略。2008・03・27

2008年03月28日

◆今に続く西山事件

                  渡部亮次郎

1972(昭和47)年3月27日に「西山事件」が始まった。西山太吉は毎日新聞東京本社政治部の外務省担当キャップ。その前の総理官邸クラブでは衝立を挟んで向かい合わせという身近な存在だった。

その後、西山は外務省担当となり、私は衆議院記者クラブを経て自民党福田赳夫担当となり、いよいよ近付いた「角福戦争」の取材に忙殺されていた。

沖縄返還を確実にした佐藤栄作首相は、それ故に求心力を失いつつあったが、外相福田赳夫に政権を譲るハラに変化は無いと自民党内は考えていた。しかし、ライバル田中角栄は「禅譲」を阻止すべく虎視眈々としていた。

そうした中、3月27日午前、衆院3階の第1委員会室での予算委員会で社会党の若手議員横路孝弘が右手に1通の外務省公電のコピーを翳し、「沖縄返還をめぐって日米間に密約あり」と暴露した。「西山事件」の始まりだった。

暴露されたのは1971年5月28日付けで愛知揆一外相が牛場信彦駐米大使に宛てた、愛知外務大臣とアーミン・マイヤー駐日大使会談の内容及び、同年6月9日付けで福田赳夫外相臨時代理と中山駐仏大使の間で交わされた井川外務省条約局長とスナイダー駐日公使との交渉内容の合計3通だった。

この電信内容は、返還に伴う軍用地の復元補償で、米国が自発的に払う事となっている400万ドルを実際には日本が肩代わりする旨の密約の存在が露呈させるものだった。

これらは西山が横路に手渡したものであり、当然ながら野党は大きく問題にしたが、政府の側は「政争の具にした」と認識し、誰が・なぜ・いかなる目的を持って機密文書を漏洩したのか、その背後関係を調べようとした。

西山は、電信内容から個人情報の手がかりを消すことなく横路に手渡したため、決済欄の印影から、文書の出どころが安川壮政治担当外務審議官と分かってしまった。私はこのことにとても立腹したものだ。

この間、毎日を初め朝日などマスコミ各社は「報道の自由」を掲げて居丈高に政府を非難した。しかし、佐藤首相は薄ら笑いを浮かべながら余裕綽々だった。

3月30日 外務省の内部調査で、外務審議官付女性事務官蓮見喜久子が「私は騙された」と泣き崩れ、渋谷のホテルで西山に機密電信を手渡したことを自白した。

事件暴露から8日後の4月4日、外務省職員に伴われて蓮見が出頭、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕。同日、同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で西山も逮捕された。逮捕された西山は情報源が女性の蓮見事務官であることを特に秘匿せず供述している。

4月5日、毎日新聞は朝刊紙上に「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開した。

4月6日、毎日新聞側は西山が女性事務官との情交関係によって機密を入手したことを知る。しかしこの事実が世間に公になることは無いと考えて、「言論の自由」を掲げてキャンペーンを継続。

しかいし4月15日、起訴状の「女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して」というくだりで、被告人両名の情交関係を世間が広く知るところとなる。

ちなみに、この起訴状を書いたのは当時東京地検検事の佐藤道夫(のちに第二院クラブ、民主党参議院議員)であった。

こうして、世論は問題の中心をスキャンダルと認識し、密約の有無から国民の目はそれていった。また、政府は国家機密法の制定を主張した。

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2008年03月27日

◆ベートーヴェンの命日

渡部亮次郎

3月26日は楽聖忌として知られるが、これはベートーヴェンの命日だからである。40過ぎの頃、ボンの生家を訪ねたことがあるが、休日で入館できなかった。以下「ウィキペディア」で「勉強」する。

《楽聖》は他にもバッハやモーツァルト、ショパン、エルマン(ヴァイオリニスト)などにも冠される称号であるが、単に《楽聖》とだけ言った場合はベートーヴェンを指すことが殆どである。日本では《楽聖》といえばベートーヴェンが定着している。

ところが、容姿は小太りで身長も低く、黒い顔は天然痘の痕で酷く荒れていたという。表情は有名な肖像画の数々や、デスマスクや生前ライフマスクを作っていたこともあり判明している。生涯独身。

若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなり、「汚れ熊」が彼のあだ名となった。そうした風体のため、弟子のチェルニーは少年時代に初めて会った時、ロビ
ンソン・クルーソーを思わせる、という感想を抱いた。

浮浪者と間違われて逮捕される事も何度も有った。ただ身なりには無頓着だったが手だけは念入りに洗うのが常であった。

性格は、ゲーテに「その才能には驚くほかないが、残念なことに傍若無人な人柄だ」と評されるように、傲慢不遜であったとされる。頑固さは作品にも反映されている。ゲーテには絶交された。

このように非常に厳しかった反面、実は冗談・語呂合わせを好んだ。諧謔性が発揮された作品も幾つも残っている。また自分も必ずしも楽譜通りに演奏しないのに、楽譜通りに弾かない演奏家には激しい非難を浴びせたという。
日本では、クラシック界の作曲家は「バッハ」、「モーツァルト」のように原語の発音で表記されることも多いが、ベートーヴェンの場合だけなぜか英語読みが一般的になっている。

ドイツ語では“Beethoven”は「ベートホーフェン」、一般的には「ベートーフェン」と読まれる。だから日本でも明治時代の書物の中には「ベートホーフェン(ビートホーフェン)」と記したものが若干ある。

しかしなぜか程なく「ベートーヴェン」が浸透した(唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である)。

中国では外来語のvをfまたはwの異音と見なすので、「貝多芬
(Beiduofen)」となる。

ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、は1770年12月16日ごろ寒村ボンで生まれ
1827年に死去した。60歳に満たなかった。

父ヨハン、母マリアの次男。ヨハンは宮廷歌手であったが、アルコール依存のために喉を患っており、収入はほとんどなかった。

だから一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父の支援により生計を立てていた。この祖父が亡くなると一層生活が苦しくなった。

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2008年03月26日

◆人間本来は左側通行

渡部亮次郎

長いこと大阪・豊中に住んでいた義兄が73歳になる前日に東京の病院で肝炎のため死去したのは2007年1月22日朝。あれから1年以上が過ぎた。連れ合いだった家人の姉は仕方無しに豊中の家を処分して東京に引き揚げることにした。

姉妹弟たちがその家を見納めがてら伊豆の温泉に漬かろうと出かけるので、餓死を避けるには同行した。それが2008年3月20日のこと。持病のための散歩も3日間無しとなった。血糖値は相当上がった。

大阪では大阪城見物。城には歴史が無いのだから登らずに下で待っていると側から聞えてくるのは中国語ばかりだったのだ。やたら中国人観光客が多い。30年前に勤務した時には想像もつかない風景だった。

日本人のお上りさんで叫ぶのは関西人だけ。まさか地元では叫ばないらしく、どこに居ても叫ぶ中国人だけが、やはり老若男女、
「喚く」のである。

東京から来たお上りさんは水掛不動を見たいという。カーナビは文句なし、最短距離を指示してくれる。私は足を延ばして心斎橋筋を歩いた。30年前、ここで人間の心臓が大抵は左にあることを再確認した思い出の地である。

大阪市内で唯一クルマ通行禁止の道路。人間しか通らない筋(南北)。
何の指示も無いが途絶えることの無い老若男女の流れは必ず「左側通行」。道路交通法とは反対である。東京人は却って法律を守ろうとして人にぶつかっている。大阪は真理に従い東京は役人に従うの図。

物知りに依ると、人が左側通行をしようとするのは、心臓を外敵から守ろうとする本能によるもので、極めて自然な事。むしろ敢えて人に右側通行を迫る道路交通法はむしろ残酷というべきとのこと。大阪人が正しいのだ。

東京の公園を毎日のように散歩しているが、それでも殆どの人は円の中心を左側に置いて、時計回りと逆の「左廻り」にして心臓を内側にしている。ヘソ曲がりは当然いるが。

日本では人も車も昔から左側通行が普通だったが、クルマ社会になったころ(1960年代後半)、人を危険から避けるという名目で、人間だけ「右側通行」に改められた。これをを対面交通という。

これによって、自動車と通行人とが相互を認識しながら通行することができるので事故は少なく、自動車が普及している社会においては法制化されている。対面交通制度は、自動車数の増加に伴い、大半の国で採用されている。

これには左側通行と右側通行とがある。日本においては道路交通法第17条第4項が「車両は、道路の中央から左の部分を通行しなければならない。」(条文中の括弧書き省略)と定めていることから左側通行が採られている。

通行区分採用の沿革については、様々な説がある。日本の左側通行については、江戸時代頃から武士などが左腰に差している刀が触れ合うことを避けて、自然と左側通行になっていたという説が一般に流布しているが、イギリス陸軍に範をとったという説や最初にイギリス車を輸入したからという説もある。

また、欧州大陸諸国の右側通行については、馬車の馭者は右手で鞭を振るうので、対向する馬車に鞭を当てないために自然と右側通行になったという説や、フランス革命の際に教会の定めた左側通行に対抗して右側通行にし、その後、ナポレオンがヨーロッパ各地を占領していったことで普及した説がある。

日本では、後に普及した自動車も通行人と同じく左側通行だったが、自動車の交通量の増大に伴い交通事故の危険性が増加したことから、対面交通が採用されるに至った。

その際、自動車の通行区分を変更すると、全国的に莫大な費用がかかることから、自動車の通行区分をそのまま維持して、通行人の通行区分の方を変更したとされている。

また、これに慣らせるため又児童同士の衝突事故を防止するため、日本の小学校では廊下の右側通行を指導する事例も見受けられる。

しかしながら、鉄道駅では人が左側通行をすることを前提に設計されてきた為、一般道路で人の右側通行が採用されて以降も、人の左側通行が採用されている。

序にクルマの左側通行だが、世界的に見て国の数としては日本などの左側通行は少数で英国、日本など、右側通行採用国が欧米初め多数である。

人口比では左側通行と右側通行の比率は34:66であり、道路の総延長距離で比較すると27・5:72・5になる。

他国に自動車を輸出する自動車メーカーは、同一車種について右ハンドル車と左ハンドル車の両方を設計・製造することが一般的である。

しかし例外的に、左側通行の日本では主に消費者の嗜好から輸入車の一部が左ハンドルで販売されている。逆に、右側通行であるロシアの、特に極東地域(沿海地方やハバロフスク地方など)、モンゴル、ミャンマー、また北朝鮮などでは、日本から右ハンドルの中古車が多数輸入、使用されている。

中国大陸は、戦前・戦中までは上海などのイギリス租界や日本租界、関東州(大連)といった日本の租借地、また満州などが左側通行であったが、1949年の中華人民共和国成立後は、全土が右側通行に変更・統一されている。

台湾、パラオ、フィリピン、朝鮮半島などは、日本に統治されていた時代は日本式の左側通行であったが、日本の敗戦後は右側通行に変更している。

航空機・船舶は右側通行で統一されている。

鉄道の複線区間は各国によってバラバラであるが、自動車の通行区分に準じていることが多い。

ただし、フランスのように左側通行になっているところや、スウェーデンや韓国のように混在しているところもある。路面電車は道路を走ることから、自動車と同じになっていることが殆どである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・03・24

2008年03月25日

◆プライバシー訴訟




        渡部亮次郎

プライバシーとは、個人の私生活に関する事柄(私事)、およびそれが
他から隠されており干渉されない状態を要求する権利をいうと言われな
くとも今やプライバシーは日本語同然、誰知らぬ者の無い「日本語」だ。

しかし、「日本語」としては新しい存在であり、超著名な作家が元東京
都知事候補に訴えられて、しかも敗訴するまでは、日本人の殆どが無視
してきた根源的な権利だったのである。

つまり自決した作家三島由紀夫が、日本で最初のプライバシー侵害裁判
の被告であり、日本人が、人間に、そんな権利があることを知った始ま
りだった。それが1961(昭和36)年3月15日に訴えられたプライバシー裁
判だった。

英単語「Privacy」をカタカナ表記したもので、「私事権」と訳されるこ
ともある。

日本国憲法には明文規定はないが、第13条(個人の尊重)によって保障
されると解されている。日本では「宴のあと」事件の際にプライバシー
という言葉が使われたことから注目され、人格権として認められるよう
になった。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴
のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三
島と出版社の新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京
地方裁判所で起したのである。

有田八郎(ありた はちろう、1884年9月21日―1965年3月4日)は新潟県
佐渡郡真野町(現在の佐渡市)出身の男性外交官、政治家である。息子
圭輔も外交官になり園田直外相当時(1972年から74年ごろ)は父同様、外
務事務次官だった。

八郎は山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立
憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を
務めたことで知られている。

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近
衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後ま
で反対したが戦後は公職追放。追放解除後は戦前と対照的に革新陣営に
属し日本の再軍備に反対したことで有名である。

<原告の主張
 
 1.被告平岡公威は三島由紀夫のペンネームをもつ小説家であるが、
雑誌「中央公論」の昭和35年1月号から同年10月号にわたって「宴のあ
と」と題する小説を連載執筆したのち、被告佐藤亮一を発行者、被告新
潮社を発行所としてこれを1冊にまとめた同一題名の小説の刊行を許諾
し、被告新潮社は昭和35年11月15日付で右初版15,000部以上を刊行しそ
の後も重版を刊行発売している。

 2.「宴のあと」の梗概は『「野口雄賢」という妻を失った独身の60
才を過ぎた外交官出身の男でかつて小国の公使をつとめたことがあり、
外務大臣にもなり戦後衆議院議員に立候補して当選したが2度目は落選
し、「革新党」の顧問となっていたが同党から推されて東京都知事選挙
に立候補した。

この野口は都知事選挙の有力候補であつたので「保守党」の対立候補の
擁立は人選難に陥り、現職の都知事は辞めそうでなかなか辞めない有様
であったところ、野口の妻「福沢かづ」の経歴、行状を誹謗した怪文書
「野口雄賢夫人伝 山漁人著」がばらまかれたため野口は山の手方面で
人気をおとし、また選挙資金を調達するため料亭「雪後庵」を売却する
ことも「佐伯首相」に妨害されて野口は選挙の終盤戦で資金がなくなり、
反対に保守派からは買収の金が流れ出し、

さらに投票日の前日に「野口雄賢危篤」のビラがまかれたりして結局都
知事選挙は「敵の謀略と金の勝利」に帰し「20万ちかく引き離され」て
野口は惜敗した。野口の妻福沢かづは少女時代から「苦労のかずかず」
を重ねてきた女で著名な料亭「雪後庵」の女将であったが野口と結ばれ
妻の座にすわり都知事選挙のために野口にかくれて「雪後庵」を抵当に
入れて資金をつくるべく奔走し同料亭は休業するに至った。

しかし怪文書がばらまかれ選挙が野口の敗北に終ったのち野口に背い
て「雪後庵」を再開するため野口とは遂に離婚した。』というのである。

 3.(一) このように「宴のあと」に登場してくる主要人物には
「野口雄賢」と「福沢かづ」という仮名が用いられているけれども以下
に指摘するようにこの小説が一般読者に与える印象としては「野口雄賢」
が原告、「福沢かづ」が畔上輝井をさしていることは明らかであり、そ
の効果は原告及び畔上輝井の実名を挙げた場合と異らない。

(中略)

 7.このように「宴のあと」は原告の私生活をほしいままにのぞき見
し、これを公表したものでありこれによって原告は平安な余生を送ろう
と一途に念じていた一身上に堪えがたい精神的苦痛を感じた。

そこで「宴のあと」の作者、発行者、発売者である被告等は共同して原
告に精神的苦痛を与えたものとして、原告に対し損害を賠償すべき義務
があるが、原告の損害を填補するには被告等が共同で請求の趣旨第1項
記載の謝罪広告を掲載し、且つ慰藉料として少くとも金100万円を支払わ
なければならない。

よって被告等に対し共同して請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告および
慰藉料ならびに後者に対する本件訴状各送達の後である昭和36年3月
26日からその支払済まで年5分の割合による民法所定の遅延損害金の
支払を求める。>

裁判所は原告の主張を全面的に認め、「プライバシー」は流行語にもな
り日本人に定着した。画期的な裁判だったのである。

裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」とい
う論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、
三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有
田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省
時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、こ
の事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・03・23


2008年03月19日

◆福田が倒れぬわけ

渡部亮次郎

そのわけは民主党の日銀総裁をめぐるやたらな突っ張り作戦。国民を敵に回したのにも気付かぬその国会対策にある、と指摘するのは先輩記者の古澤襄さん(元共同通信社常務理事)。

<本来ならとっくに支持率が20%を切って危険水域に入っている筈の福田内閣が、まだ30%台の後半にある。それを支えているのは、何でも反対の民主党の下手な突っ張りだろうと思っていたが、読売新聞社の世論調査がそれを示してくれた。

日銀総裁の人事をめぐる民主党の突っ張りに国民の6割は批判的である。福田内閣の支持率はジリ貧状態にあるが、自民党の支持率は30%台で動いていない。それなのに民主党の支持率は20%を切って、一足先に危険水域に入っている。

何とも皮肉な現象である。民主党の突っ張りが相対的に福田内閣の大幅な支持率低下を防いでいることが明らかである。このところメデイアの世論調査は、福田内閣の支持率しか追っていない。ジリ貧状態にあるのは、世論調査をするまでもなく誰の目にも明らかである。

ドカ貧にならずにすんでいるのは何故か。年間で百万件を越す杜父魚ブログの記事アクセスを毎日、分析しているのだが、明らかに民主党の手法が福田内閣の支持率低下を防いでいるという傾向が出ている。>杜父魚ブログ(3月17日)

元々福田首相に総理総裁としての能力があったわけじゃない。それなのに政治的に助兵衛な蜃気楼が麻生政権を阻止するためにはどんな事でもするという引退政治家野中廣務がでっち上げたのが福田「見栄え」政権だったのである。

安倍晋三が政権を投げ出した時、最有力と見られた後継者は明らかに麻生太郎幹事長(当時)だった。改革路線を掲げ、明確に安倍路線継承を明確にしていた。

ところが知らぬ間にスネークが京都在から密かに這い出してきたのにマスコミは全く気付かなかった。引退した政治家が何かを企むなんて想像もしていない。

逸早く安倍の引退と麻生の野望を知った野中は急遽、上京。予て連絡を取っていた福田康夫の意思を再確認。まず渡仏中だった最大派閥の実力者森喜朗を電話で押さえつけた。

「ここはあんたの希望する福田クンで行きますよ。いいですな」。森に文句の言えるわけが無い。あの時、小渕首相が急に倒れた時、
野中ら「5人組」に後継総理にしてもらった恩義。さらに在任中、幹事長として野中に支えてもらった義理がある。

森がそうやって降伏した以上、清和会で野心を掻き立てていた町村がダウン。旧池田派は野中の子飼い古賀誠を通じて抑えられた。旧竹下派は元々野中の本籍地。親分津島雄二といえども野中に立ちふさがるだけの実力は無い。他派閥も福田阻止に動ける態勢にはなかった。

かくて政権構想も野心も無く、今季限りで引退を密かに決意していた男があれよあれよという間に総理総裁に躍り出た。それが福田政権なのだ。だから夢も希望も初めからあるわけではない。決断力の無いものに日銀総裁人事の絵解きなどできる筈がない。

高校で野球部だと投手ではなくキャッチャー。閣僚としては2代の官房長官をしたというが、あんなもの、佐藤栄作内閣までは大臣ポストではなかった。まともな大臣、党三役を経験していない。ただただ喧嘩しないだけのそこらの叔父さんに過ぎない。

理由は理解を超えるが、結果的に媚中、半(反)米で、ビジョンも野望も皆無。ただ親父が2年で追われた総理という椅子に出来れば4年はしがみついていたいだけの無能老人に過ぎないのである。

自民党内で元々強烈に支持した派閥は一つも無い。したがってきっかけさえあれば何時でも簡単に倒れる政権なのである。たとえば野中は今更何もいえないかも知れないが、誰かに「期待外れだったね」と一言洩らせば即倒閣に繋がる。

産経政治部の阿比留瑠比記者が、殆ど嘆いてている。総理官邸で毎日バカ殿を見ていると堪らなくなってくるのだろう。私も外務省から秘書官として先代を見ていた30年前を思い出して、遺伝を考えている。

<私にとって、この「とてつもなく高い支持率」は本当に謎に思えます。日本社会は実は得点主義のではなく減点主義の社会で、「何もしない、何もできない」ということは、意外と評価を低くすることにはつながらないのかと、ふと、そんなことを考えました。>
ご本人のブログより。文中敬称略。2008・03・19


2008年03月17日

◆求心力なき「ポスト胡」

                  渡部亮次郎

報道によれば、昨年秋の中国共産党大会で中央入りしたばかりの習近平氏が、15日の全国人民代表大会で賛成2919票、反対28票で国家副主席に選ばれた。

これで習氏は現時点でポスト胡錦濤の最有力候補となったが、絶対的な実力をもつカリスマ指導者による指名ではなく、拮抗(きつこう)する各派閥による妥協の結果によって選ばれた。その求心力には疑問が残り、5年後、権力継承が無事に行われるかは不明だ(産経新聞北京の矢板明夫記者2008.3.15)。

“次点”となったのは習氏のライバルで筆頭副首相に就任予定の李克強氏。得票はわずか5票だったが、信任投票のためは習氏の名前しか印刷されていなかった投票用紙に、それを消して、李氏の名前をわざわざ書き込んだ者が5人もいたということになる。

共産党内部の権力闘争の痕跡を外部に見せない中国では、選挙で非立候補者が複数票を獲得することは珍しい。事前の根回しを無視した5票は、密室談合で候補者を決めた現指導部に対する、李氏支持の一部代表による不快感の表明といえる。

習氏は、11年前の党大会中央委員候補選挙で、151人中最下位で当選するなど、党内での評判は決して芳しくない。現在の権力構造の中で、各派閥にとりあえずは受け入れられた人選に過ぎない。

産経北京の野口東秀記者によれば、習氏は太子党である。たいしとうとは中国共産党の高級幹部の子弟等で特権的地位にいる者たちのこと。太子は英語のPrinceの意。

党組織だけでなく、コネを生かして企業経営等に関わる場合もある。なお大抵は親の方が地位・知名度共に上だが、曽慶紅のように子のほうが出世した例もある。

習氏は故胡耀邦元総書記にも近かった故習仲勲の息子。1953(昭和
28)年生まれの54歳。文革時代は地方に下放された経験もあるが85年以降はとんとん拍子で出世。ついにポスト胡の最前線に躍り出た。しかし、求心力も人気も無いという。

それは出世の陰に不人気の江沢民前国家主席の「ヒキ」が存在するからだという。これについて野口記者は党政治局の派閥抗争のバランス上、今回、習氏がトップに立ったがこれから試される指導力如何ではどうなるか分からないとしている。

とくに矢板明夫記者は「今後、状況が変化する可能性もある。政治手腕が問われる中、すきがあれば、ライバル李克強氏を代表格とする共産主義青年団(共青団)による巻き返しも予想される」と。

矢板氏はまた「中国の指導者は、約20年前の江沢民政権から建国にかかわった革命経験者がほぼいなくなった。

戦時中の軍功と違って、平和時代に群を抜く実績を積むことは難しく、その後の幹部選抜の際、権力闘争の激しさが増したといわれる。
カリスマ不在の中国の政治はさらに不透明な時代に突入する」と指摘している。2008・03・16

2008年03月16日

◆取り返しのつかぬ失敗

                  渡部亮次郎

民主党がまとまりのない党内を纏めるために政府提案の
日銀正副総裁人事同意案件を参院で否決した事は、中立
であるべき日銀総裁の人事を政争の具にしたもので、
マスコミですら批判に廻ってしまった。「風」頼みの民
主党にとって取り返しのつかない大失敗となった。

こうした状態を昔のひとは「覆水盆に返らず」と言った。
広辞苑にも出ている。

周の呂尚(太公望)が読書に耽ったので、妻が離縁を求め
て去った。後に尚が斎に封じられると再婚を求めて来たが、
尚は盆を傾けて水をこぼし、「その水を元のように返せば
その請を容れよう」と言った、と言う故事。

先輩記者の諭しによると新聞の論説が一斉に民主党を批判
していることは鳩山幹事長にとって想定外だったらしい。
新聞という世論の風頼みの民主党だから、日銀の総裁人事
に不同意といっても新聞論説から支持されると甘くみていた、
ということだ。

土台、中立であるべき日銀総裁の人事を政争の具にすること
が間違っている。

国際的な景気後退、経済不安がいわれている時に、参院多数
を武器にして福田政権を揺さぶろうというのは党利党略以外
の何ものでもない。

それが新聞に支持されると判断したところにお坊ちゃん幹事
長の甘さがある。日頃、付き合いのある鳩山番の記者たちに
「論説委員たちは財務省に毒されている」とぼやいたそうだ。

「論説はほとんど読まれないから・・・」と自らを慰めながら
民主党の支持率低下をさかんに心配しているという。そんな事
をいうなら民主党支持者の何が論説を読んで支持したというのか。

これについて、産経新聞に客員編集委員として戻り、再度現場
に通じている元政治部長の花岡信昭氏は内部事情を指摘する。

<民主党がこういうかたくなな態度を崩さなかったのは、
党内のバラバラ状況が原因だ。小沢代表は武藤氏容認に
傾いた時期があったのだが、最後は大勢に従った。

党内がまとまっていないと、外に向かって強く出る以外
にない。日銀総裁人事は民主党の「お家の事情」に左右
されてしまった。

参院本会議では、民主党会派の3人が棄権、2人が欠席
した。先の新テロ特措法採決に続く造反だ。

今後の展開を考えると、参院で与党は過半数に17人足り
ないが、この分を埋めることができれば、「中連立」に
向けての突破口となる。

この日の棄権・欠席組はそのさいの軸となるという意味
合いが込められている。>花岡信昭の「メイルマガジン
543号」から

花岡氏はまた鳩山幹事長の采配ぶりについて自らのブログ
(2008/03/09)で次のように指摘していた。
http://hanasan.iza.ne.jp/blog/

<民主党の鳩山幹事長は「別の人を出してくれば党首会談
を受けてもいい」といった発言をした。

ここに鳩山氏の政治的非力さが透けて見える。鳩山氏がこう
言ったからといって、もし、福田首相が武藤総裁案とは違う
案を出してたら、どういうことになるか。

福田首相の政治力はそこで終わる。野党第1党が反対している
ことは前から分かっていたことで、それを承知の上で出して
きたのである。

だから、鳩山氏は事態打開に向けての発言をしたのではない。
混迷の責任は福田首相にあるという構図を作り出そうという
ことにすぎない。

福田首相としては、こうなったらテコでも退(ひ)かない
だろう。退いたら、政治的なダメージは取り返しがつかない
ほど大きい。・・・

・・・日本の中央銀行総裁が空席になるのだから、世界経済
に与える影響は多大なものがあるだるう。株安にはずみも
つくに違いない。

だが、今回の構図はきわめて分かりやすい。そう複雑に入り
組んだ話ではない。悪いのは民主党。世界中がそう思ってくれる。

これは福田首相にとって悪い展開ではない。民主党はいよいよ
政権担当能力の欠如ぶりを天下に晒したことになった。

「財政金融の分離」が民主党の主張だが、財金分離は金融庁発足
で制度としても確立したのだ。そこを見据えない「武藤忌避論」
は反対のための反対でしかない。>

しかし、党内で求心力を欠いている小沢氏は断行できなかった。
民主党は政権担当能力の無さをさらけ出してしまった。
衆院選挙では負けが確定した。幹事長も東大工学部の頭では
政治家に向かない。

次の衆院選で惨敗した時、日銀武藤総裁安を改めて認めるから
政権をくださいといっても「覆水は盆に返らず」2008・03・13


2008年03月15日

◆カメレオン鳩山由紀夫

                  渡部亮次郎

秘書官として仕えた外務大臣園田直の前任者が鳩山威一郎さんだった。
また若い頃記者として追っかけた河野一郎さんの亡くなった親分が鳩山
一郎元首相だった。ハトヤマとはそれ以外に縁は無い。

如何なる縁か田中角栄さんの秘書に東大出の若い人鳩山邦夫という人が
なったと聞いてしばらくしたら衆院議員になった、と聞き、なるほど3代
目かと納得がいった。

ところが何年かして専修大学助教授をしている長兄由紀夫氏も衆院議員
になると聞いて、それなら初めからなっていたらいいのにと思った。爾
来、好感がどうしても持てない。「遅れてきた中年」である。

<鳩山兄弟、40億円ずつ「同時株損」? 世界株安で

米国のサブプライム問題に端を発する世界同時株安をめぐり、鳩山邦夫
法相は22日の閣議後の記者会見で、自らの保有株で「損害」が出ている
と語った。

法相は、ブリヂストンを創業した祖父・石橋正二郎氏から贈与を受けた
同社株の株価が下落したことで「40億円損をしたんではないかと言われ
ている」と言及。

兄の鳩山由紀夫・民主党幹事長も同じ株を持っていることを踏まえ、
「私が損をしたということは兄も40億円損をしたということ。『兄弟同
時損害』ということでしょうね」と話した。>2008年01月22日15時54分
 Asahi Com

鳩山由紀夫1947年2月11日、当時はまだあった紀元節の生まれ(61歳)当
に団塊の世代 。既に還暦を過ぎてもまだ1回も入閣していない。事もあ
ろうに金権派閥から新党さきがけに走って以来リベラルばかりに拘り、
ついに野党の幹事長だ。

2008年の節分すぎ、「小沢一郎民主党代表、再選立候補せず」という怪
情報が流れた際、突如「小沢再選支持」と言い出して、ベテラン政治記
者に笑われた。

幹事長留任のためなら小沢再選しかないからである。こういうのを嘗て
の河野一郎氏は競馬馬に譬えて「調教不足」と言い捨てたものだ。

曽祖父・鳩山和夫(外務次官、衆院議長) 祖父・鳩山一郎(首相) 父
・鳩山威一郎 (大蔵事務次官、外相)

選出選挙区 北海道第9区。昔ここに鳩山家の牧場があっただけの縁で当
選できる。先祖とは有難いが由紀夫は何も貢献していない。当選回数 7
回 民主党(鳩山グループ) 党役職 幹事長 ネクスト国務大臣

これまで新党さきがけ代表幹事、民主党(日本 1996-1998)代表(初代)、
民主党(日本 1998-)代表(第2代)を歴任。

東京都文京区に大蔵官僚だった父・鳩山威一郎、母・安子の長男として
生まれる。学習院初等科、学習院中等科、東京都立小石川高等学校を経
て、東京大学工学部を卒業しスタンフォード大学博士課程を修了する。

この時、他人(ひと)妻だった妻・幸(宝塚歌劇団卒業生。タカラヅカ
時代の芸名・若みゆき) を知り結婚。

間にできた長男・紀一郎は東京大学大学院工学系研究科助教である。代
議士にもし出れば5代目になる。今のところ話は無い。

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◆雪解けが待ち遠しい山菜

                  渡部亮次郎

<植物食べ中毒、1人重体=散歩の女性に勧められ調理−宮城

11日午後7時半ごろ、宮城県大崎市岩出山の民家で、カブのような植物の
煮物料理を食べた女性(65)が突然、気分が悪くなった。

女性は病院に搬送されたが、けいれん症状を起こし意識不明の重体。煮
物を調理した近所の女性(65)も吐き気などを訴え入院した。県警鳴子
署は食中毒の疑いがあるとみている>。2008年3月12日9時31分配信 時事
通信

秋田の日本海沿岸近くで育ったので、山菜にはあまり縁がなかった。精
々、ワラビ、ゼンマイ、ミズを五城目(ごじょうのめ)の道路端に展開
される青空市場で買って食べた。

カロリーはゼロ。終戦直後の空腹を満たすものでは全くなかったが、何
しろ山菜の登場は長かった冬がようやく終わった事を象徴する何よりの
喜びだった。

東京下町生まれの家人は秋田から送って来る茸(きのこ)には高い関心
を示すが、山菜にはあまり。私だけが地元の雪解けを首を長くして待つ
次第。おひたし、味噌汁の実など堪えられない。

関東や関西にも山菜はあるだろうが、人々が探しに山入りしたとは聞い
た事がない。天草出身の園田直外務大臣(故人)も話題にした事が無かっ
たから、九州にも山菜は無いのかもしれない。雪の積もらない山だと春
も乾いているから生えないか。

都会生活の間は尊敬する先輩門間吉右衛門さんに甘えた。中年になって
角館や田沢湖に遊ぶようになってからは田中昭一さんに主に面倒を見て
もらっている。しかし今年は雪の消えるのが遅い分、山菜の春も遅くな
るらしい。

山菜(さんさい)とは、山野に自生しているものだが、最近は里で栽培
されるのも出てきた。

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2008年03月13日

◆ゴーストップ事件(大阪・天六事件)

                  渡部亮次郎

ゴーストップとは交通信号機を指す。戦前、戦中はこう言ったようだ。昨
今、日本には言論不自由時代なぞ無かったと思い込んでいる人が毎日、増
えてゆく。

それだけ若い人に比べて老人が少なくなっているのだろう。それが自然だ
からどうでもいいが、アメリカとの戦争に負けるまでは日本は言論の自由
はなかった。だから敗戦が良かったというのでは絶対に無いが。

戦前、戦中は何かというと「そんなことを言うと憲兵に捕まるぞ」と目上
の人に注意された。憲兵って?という若い人のために「ウィキペディア」
で調べていたら、脱線。関連して「ゴーストップ事件」が出てきてしまっ
た。

ゴーストップ事件(天六事件ともいう)は、1933(昭和8)年に大阪市の天
六(てんろく)交叉点で起きた出来事、およびそれに端を発する日本陸軍と
日本警察の大規模な抗争のことである。

満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて
動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。

発端
1933年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰
労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一1等兵が信号無視をし
たとして、交通整理中であった曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査
が注意し、天六派出所まで連行した。

その際、中村1等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論した為つ
かみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村1等兵は鼓膜損傷全治3週間、
戸田巡査は全治1週間の怪我を負った。

この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し駆けつけた憲兵隊
の伍長が中村を連れ出してその場は収まるが、その2時間後、憲兵隊は
「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として
曽根崎署に対して抗議した。

当時、第8連隊の松田連隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝
わって事件が大きくなり、平和的に事態の収拾を図ろうと考えていた曽根
崎署の高柳博人署長の考えもむなしく、21日には事件の概要が憲兵司令官
や陸軍省にまで伝わっていた。

この後の当事者の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出し
たのは中村1等兵である。」と、逆に中村1等兵は「信号無視はしていな
いし、自分から手を出した覚えはない。」と両者まったく違う主張を繰り
返した。

軍部と内務省の対立
6月22日、第4師団の井関大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではな
く、皇軍に拘る重大な問題である」と声明した。

それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官
も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と言明した。6月24日の寺内
寿一第4師団長(寺内正毅の息子)と縣(あがた)忍大阪府知事の会見も
決裂した。

この結果、問題は寺内と粟屋という軍部と警察(すなわち内務省)との対
立の様相を示す。

この議論は平行線を辿り、また、新聞と雑誌もこれを「軍部と警察の正面
衝突」などと大きく報じたことによって過剰なほどの騒ぎとなった。

「天皇陛下の軍隊」に対して「天皇陛下の警察官」を自任する警保局を中
心とする内務官僚たちは新たな政治勢力として意識され、「新官僚」(後
の新々官僚とは別物)と呼ばれた。彼らは主に1910年代に東大を上位の成
績で卒業し、中堅の幹部に昇進していた者たちであった。

7月17日、中村1等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴
行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害
罪)、同第206条(名誉毀損罪)で告訴した。

8月24日、事件目撃者の1人であった高田善兵衛が憲兵と警察からの度重
なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺、国鉄吹田操車場内で轢死体となっ
て発見された。

また、この事件の処理に追われていた曽根崎署長の高柳は疲労で倒れ入院
したが、7月18日その一報を知った寺内は井関に「事件で心痛のあまり病
状が悪化すると気の毒なので、適当にお見舞いするように」と伝えたとの
逸話がある。しかしその10日後、高柳は逝去した。

終結
最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が
調停に乗り出し、11月19日に和解が成立した。

11月20日、当事者の戸田と中村が仲介した大阪地方検事局の和田検事正の
官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表さ
れていないが、警察側が譲歩したものだというのが定説となっている。

事件の影響
結局この事件は軍と警察の面子の張り合いにすぎなかったが、解決を一番
喜んだのは師団長の寺内だという。この後、現役軍人に対する行政措置は
警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部が法を超えて次第
に国家の主導権を持つきっかけのひとつとなった。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』            2008・03・10



2008年03月12日

◆日本にもあった碧素

                  渡部亮次郎

碧素へきそ。戦時中に使われた言葉で、後のペニシリンのことである。日本でのペニシリンの開発は、昭和18年12月ドイツから送られてきた医学雑誌中のペニシリンの記事を見た陸軍軍医学校の一軍医少佐の提案で始まった。

翌昭和19(1944)年2月1日、医、薬、農、理など各学界の専門家を集め、陸軍軍医学校で開かれた第1回ペニシリン委員会が事実上のスタートになり、その年の5月には粗製とはいえペニシリンは実際に臨床に使われ、劇的な効果を上げた。

しかし、物資の不足、空襲などで工場での大量生産には至らず、運に恵まれた少数の人達だけが、ペニシリンにより命を救われ敗戦を迎えた。

その後、研究は東北大学などで続けられ「日本初のペニシリンの製造開始は1947(昭和22)年3月11日」(東京堂出版「366日の話題事典」80P)。経緯は角田房子著「碧素・日本ペニシリン物語」昭和53年7月15日発行 新潮社に詳しい。

世界でペニシリンの作用を最初に発見したのは、1928(昭和3)年、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングである。しかし、生産できる量がわずかだったので、医学界からは無視された。

その12年後の1940年にイギリスの生化学者アーネスト・チェーン、同じくイギリスの病理学者ハワード・フローリーらによって再発見され、量産にも道が開けた。

ハワード・フローリー(1898〜1968)は、強力な抗生剤であるペニシリンの性状を明らかにして、1945年にノーベル生理学・医学賞を同時受賞した。また、カビからペニシリンを分離する方法を開発した。

翌41年といえば昭和16年。12月8日には大東亜戦争の始まった年だが、この年に臨床的にペニシリンの有効性が確認された。

これをうけて、アメリカではイギリスの研究者を招いて、大規模な量産を開始した。ちょうど第2次世界大戦のさなかだったため、製造された薬品は、大量に戦場へと送られていった。

ペニシリンの存在を日本国民が初めて知ったのは、昭和19(1944)年1月27日の朝日新聞の記事だった。

「敵米英最近の医学界 チャーチル (首相) 命拾い ズルホン剤を補うペニシリン」アルゼンチン(当時、中立国)ブエノスアイレス発。

風邪から肺炎を起こしたチャーチルがペニシリンで命を救われた話と、ペニシリンの紹介記事が載せられた。しかし一部の人にしか知られなかった。

敗戦(1945年8月15日)後、進駐してきた米軍からペニシリンを貰って結核から立ち直った日本人の話は耳にしたものだが、実際に日本の製薬会社が製造したのは敗戦2年後だった。

ペニシリンは始め、数種類の成分がまじった状態で抽出されたのちその中のペニシリンGという物質が薬として利用されるようになったもの。

ペニシリンGは、細菌の細胞壁の合成を阻害する。そのため細菌は成長も増殖もできず、破壊される。ブドウ球菌、肺炎球菌、連鎖球菌、淋菌、髄膜炎菌、破傷風菌、梅毒スピロヘータなどに効果がある。

これにより細菌性の心内膜炎、敗血症、ガス壊疽(えそ)、淋病、しょう紅熱など、死にいたる病が治るようになった。ペニシリンの作用は、細胞壁を持たない人間の細胞にはおよぶことはなく、一般に副作用も少ない。

ただ、稀にアレルギー反応が起き、ショック(アナフィラキシー)で死亡することもある。使用前にアレルギー反応テストをおこなうのはこのためである。アレルギー体質の人は、とくに注意を要する。

注射でしか投与されないのはペニシリンが酸に弱く、飲み薬として使用すると、胃酸でこわされてしまうためである。糖尿病用のインスリンと同じ。

ペニシリンの登場によって、それまで治療出来なかった様々な病気が治せるようになったが、まもなくペニシリンが効かないブドウ球菌が現れた。

ペニシリン耐性黄色ブドウ球菌である。この菌はペニシリナーゼという特殊な酵素を産生し、これによってペニシリンは破壊されてしまうのである。

また、エンテロコッカス(腸球菌)、呼吸器や尿管に感染を起こす多くのグラム陰性菌は、ペニシリンそのものの作用に抵抗することもわかった。そこで、細菌のペニシリンに抵抗するメカニズムを研究し、ペニシリンを改良した半合成のペニシリンが得られるようになった。

そのひとつアンピシリンは、グラム陰性菌や腸球菌をはじめ効果を及ぼす対象範囲が広いうえ、酸に強く飲み薬としても使用できる。またメチシリンは、ペニシリナーゼを産生するブドウ球菌に有効である。

しかし、新しい抗生物質が広く使われるようになると、細菌は再びそれに抵抗するようになる。メチシリンに対しても、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌が現れ、大きな問題になっている。

抗生物質と耐性菌とのいたちごっこは、ペニシリンの登場以来くりかえされている。(マイクロソフト「エンカルタ大百科」2006)

女性に患者の多い腎盂炎は最新の抗生物質ならすぐ効くが健保だと効きにくい注射をされる事がある。新薬が健保用に搭載されるまで1年はかかり、菌の方が強くなるからだと厚相秘書官時代に教えられた。2008・03・10