2008年02月19日

◆難しい中華料理原稿

                  渡部亮次郎

中国料理を口にしたのは20歳を過ぎてから、中国の地を踏んだのは1972
年、36歳の時だった。人民大会堂で周恩来首相から接待を受け、ニクソン
大統領は予め断ったという海鼠(なまこ)の醤油煮を生まれて初めて食
べた。

何度も書くようだが、元の八郎潟沿岸で育った私は、魚を生で食べる事
を禁じられていた。肝臓ジストマという恐しい「虫」が居るから、淡水
魚はすべて火を通さなければいけない、と教えられて育った。

しかも八郎潟の鮒や鯰(なまず)は網や釣り針で、只で捕れるから、日
本海の魚を買う必要は無い。つい、刺身や寿司を知らないで育ったわけ
である。

田中角栄首相に同行して北京を訪れた時、沿岸部のごく一部を除いて中
国人も魚の生は食べない事を知った。揚子江(長江)などから捕れる淡
水魚には肝臓ジストマが棲み付いて危険な事を四千年の歴史で学んだの
である。

後年、外務大臣の秘書官になり、トウ小平副首相が日本政府による和食
の晩餐会でいわばメインデッシュたる鮪(まぐろ)の刺身を1切れだけ目
を瞑って食べるのを見た。四川省の山中で育った氏としては、死ぬ思い
だったろう。

しかし、日中間の人的交流が進んだ事もあって、最近では「海の魚は安
全、美味」が知れ渡り、中国人が鮪その他生魚をどしどし食べるように
なった。鮪は日中間で奪い合いになっているらしい。

ところで60歳までは刺身を食べなかったから専ら中国料理を食べたわけ
だが、このことを字にすると大変だ。日本のパソコンには入っていない
字が沢山出て来るからである。最近も北京ダックのことで読者からお叱
りを受けたばかりである。

北京からの報道によると、北京ダックを大量製造するために、ある老舗
が電気オーブンを採用しようとしたところ、大いなる反発を食らってい
るという話だ。

<電気焼き北京ダックに反対76%

北京ダックは老舗の味を守ってー。日刊紙・中国青年報などが市民を対象
に行ったアンケート調査によると、76・8%が北京ダックの伝統的な製法
を改めて電気オーブンで焼く事に反対と回答した。14日付の同紙が報じ
た。調査対象は3066人。

北京ダックの調理法をめぐっては、老舗「全聚徳」が昨年11月の株式上
場に際し、オーブン導入など生産を自動化する計画を発表、論議を呼ん
でいた。

全聚徳の北京ダックは、ナツメなど果物の木で火をおこし、特殊な窯の
中に吊るして焼き上げる製法で有名。調査では、62・8%が電気オーブンの
使用による北京ダックのファストフード化を懸念している。>北京=時
事 産経新聞 2008年1月15日付。

電気オーブンの採用は言わずと知れた北京オリンピックで押し寄せる厖
大な数の客に対応するには致し方ないというところだろうが、市民の反
応はなかなか厳しい。

ところで日本における中国料理店は明治中期、華僑が神戸に開いたもの
が第1号といわれ、その後、横浜でもいわゆる中華街として発展してきた。

横浜中華街は、横浜開港後の幕末から明治初期にかけて、外国人居留地
の一角に中国人が居住したのが始まり。明治4年に日清修好条約が結ばれ
ると、移住者が増加した。現在、中区山下町にあり、200軒以上の中華料
理店が軒を連ね、中国各地の味を提供している。

中国料理は日本の食べ物にも大きな影響を与えた。味噌、豆腐、羊羹、
饅頭、麺類、茶など多くの食品が長い年月の間に日本にもたらされた。
料理自体としては長崎の卓袱(しっぽく)料理やチャンポン、普茶料理な
どが知られる。

第2次世界大戦後満洲からの引揚者が持帰った餃子(ギョウザ)や焼売(シ
ュウマイ)その他の食べ物が人気を呼び、各地に専門の店も生まれて定着
している。出典:「エンカルタ」(マイクロソフト)2008・01・15



2008年02月16日

◆注射を恐れる人々

                  渡部亮次郎

月刊 糖尿病ライフ「さかえ」2008年2月号によると、糖尿病でありながら、まだインスリン療法(自己注射)をしていない患者の多くは注射開始に抵抗感や不安を持っていることが分かった。

これは医薬品製造会社「日本イーライリリー」(神戸市)が2007年11月中旬までに行ったインターネット調査でわかったものだが、逆に既に注射をしている人の3割は「もっと早く始めていればよかった」と答えている。

調査は30〜60歳代以上までの男女各50人、計400人の糖尿病患者が対象。このうちインスリン治療を受けている人は93人、受けていない人は307人。

未治療の患者に注射開始への懸念を尋ねたところ75・6%が「とても心配」「かなり心配」と答えた。主治医から勧められた場合の対応では「気にせずに始める」と答えた患者はわずか4・7%。

「他に選択肢が無いから始める」は37・2%。「メリット、デメリットをじっくり検討」「経口治療薬の増量などを主治医と相談」がいずれも24・1%と慎重派が多く、「断る」も9・9%いた。

ところが既に注射治療中の患者は、開始時期について67・7%が「適切」、29・0%が「もっと早く開始すればよかった」と答えた。これはやってみると複雑でも痛くも無い事が分かるからだろう。

インスリン治療に対する考え(複数回答)では、未治療患者では、
「注射は複雑で面倒」が51・8%でトップ。「始めると一生止められない」36・5%、「インスリン注射するようになったら末期だ」26・7%など否定的な回答が上位を占めた。

これに対し、治療患者は「将来の合併症予防に役立つ」「血糖コントロールがしやすくなる」がそれぞれ63.4%、「他の治療法より効果が高い」が52・7%だった。

気付くように、注射に関する設問に「痛い」が無い。糖尿病の注射に関する限り「痛い」はなくなっているのである。

カナダの整形外科医フレデリック・バンティング(Frederick Banting)と医学生チャールズ・ベスト(Charles Best)が研究室でインスリンの抽出に成功したのが1921年。

1922年の春が過ぎ、ベストは大量の需要にも応えられるように抽出技術を工夫したが、精製は未熟であった。

別途1921年の発表の直後、イーライリリー社から、彼らは支援の申し出を受けており、4月にこの申し出を受けた。11月にリリー社は技術の革新に成功し、非常に純粋なインスリンの生産に成功した。このインスリンは、アイレチンという名ですぐ市場に出された。

インスリンは口から服用しても胃酸で無効になるため、現在も皮下注射以外に体内に取り込む方法がない。ところが欧米では間なしに患者自身による注射が可能になったらしいが、日本では1980年まで禁止された。患者は60年間、厚生省に見放された。

それを許可したのが園田直さん(故人)である。厚生大臣としては2度目の就任(鈴木善幸内閣)。日本医師会の反対を押し切っての決断だった。

日本でも患者自身による自己注射が可能となったので医療器具メーカーは注射器の工夫、針を極細にして痛みを減ずることに社運を賭けて競争を展開。

いまや日本における注射針の細さは0・2ミリ。世界一の細さ。髪の毛ぐらいで殆ど痛みを感じないレベルとなった。インスリン治療を開始してない患者大多数はこの「極細競争」の物語を知らないから恐れるのだ。

園田さん自身、30代からの糖尿病患者だったが、武道の猛者の癖に注射の痛みを怖がってインスリンを拒否し続けた。大臣在任中は極細針は間に合わなく、1984年4月2日、人工透析の末、腎不全で死んだ。享年70

秘書官としてこの事実を確認し、奇しくも自身、患者となったが極細針の恩恵により「この分ではお袋の歳(98}まで生きられると豪語している私の「注射推奨の弁」を聞いて注射を受け入れて戴きたい。

私は園田さんが死んだ84年の夏に2型を発症した。遺伝と運動不足、暴飲がきっかけだった。その後経口薬投与で頑張ったが、眼底出血を体験。5年前からインスリン自己注射を朝夕の2回。

その結果、いま(72歳)ではかかりつけの医師から「わたなべさんは糖尿病である以外、どこも悪くない」と言われるまでになった。焼酎も楽しんでいる事、当然。すべて注射のお陰である。2008・02・13

2008年02月15日

◆中国が国家的に吐く唾

                  渡部亮次郎

<沖縄の海岸に流れ着く漂着ゴミの数がこの10年間で8・6倍に増え、中でも中国からのゴミをみると13倍にも急増していることが、13日までに明らかになった。

防衛大学校の山口晴幸教授の調査によるもので、どこから漂着したか判別できたゴミのうち、中国製は平成10年には138個だったが、19年には13・3倍の1839個に急増。台湾製2・8倍、韓国製3・0倍よりも増加ぶりが際立つ。>産経ニュース 2008.2.14 00:37

この記事を読んで、今から36年前、日中国交再開に伴ってやってきた中国からの外交団が東京のホテルで絨毯の上に盛んに唾を吐くので関係者が顔をしかめていたのを思い出した。日本に流れ着くゴミは中国が吐く国家的な唾である。


外交団と言えば礼儀正しく綺麗好きと思われ勝ち。彼らは国交再開の伴い都内に大使館を開くためにやってきて、ホテル・ニューオータニに投宿した。

ところが部屋ではベットのスプリングが効き過ぎて安眠できないと騒いで一斉にマットを外させた。なんとなく理解できたが、部屋を出ると絨毯の上に「カーツ、ペツ」と唾を吐く。外交官出身の社長は困り果てていた。

それから6年経って、日中平和友好条約の締結交渉団に外相秘書官として参加。人民大会堂での会談でのあらゆる中国側の足元においてある壷。なんだろうと聞いたら痰壷だという。外交の会談中に中国要人は痰を吐くのか。

中国人の説明によると中国上空には年中、黄砂が飛んでいて人間の口に飛び込んでくる。それを吐き出すためにカーツ、ペツとやらざるを得ないのだという。

黄砂・黄沙とは広辞苑によれば「中国大陸北西部で黄色の砂塵が天空を覆い、下降する現象。3〜5月頃に多い、とある。それを吐き出しているうちに唾を吐く、処構わず吐くことが中国人の癖になったのでは無いか。

何にしたって邪魔なもの、始末に困るものは何時でも何処でも処構わず吐き出すというのが中国人の特徴になっている。それが産業廃棄物であり排水であり公害であり、それがどこの国に流れて誰を汚そうが痛めつけようが知ったことではない、と言う事ではないか。

<中国の平成19年のGDP(国内総生産)は11・4%増と年率2ケタ成長を続ける。沿岸部を中心に消費も拡大しているが、ゴミの廃棄についての整備が追いつかず、そのまま海に捨てられているのが現実のようだ。

調査結果をまとめた山口教授は「中国では大半の人が漂流、漂着ゴミの実態を知らないはず。日本からこうした実態を情報発信していくとともに、政府レベルで海への不法投棄などの取り締まりを働きかける必要がある」と指摘している。>産経ニュース 2008.2.14



2008年02月13日

◆ケ(トウ)小平の沈黙

                  渡部亮次郎

<中国共産党中央規律検査委第一書記の陳雲氏ら保守派は1985年6月、項南福建省書記(肩書は当時)が、金もうけのために国民の健康を危険にさらす偽薬まで作る郷鎮企業を野放しにした−と攻撃した。真の標的はトウ小平氏であり、改革・開放だった。

陳雲氏は、「資本主義の道を歩む自由派」項南氏の解任を要求したが、胡耀邦(こようほう)総書記は「項南書記に直接の責任はない」とかばった。党中央の現地調査でも、偽薬による健康被害はないとしていた。

しかし、項南氏は間もなく解任されてしまう。項氏はこれに不服で、トウ小平氏に直訴状を送ったが、トウ氏からの返事はなかった。トウ氏は保守派の意図を察知し、項南氏を犠牲にせざるを得なかったとみられている。

(だから)「項南伝」によると、86年9月、項南氏は、「晋江偽薬事件」に関する中央規律検査委の「判決」が公表された直後、トウ小平氏の長男、トウ樸方(ぼくほう)氏の訪問を受ける。トウ小平氏の指示で、慰問に行ったのだ。

この数カ月後の87年1月、胡耀邦総書記も解任された。>「トウ小平秘録」(産経新聞2008・02・09)

これも同じ理由からである。保守派から自分の身を守るためには、自分の分身を平気で斬る、これが資本共産主義中国最高実力者の最終哲学であった。

胡耀邦が辞任を強要されたのは1月16日の政治局拡大会議である。罪状は集団指導原則に対する違反と政治原則問題での誤り、つまり「ブルジョア自由化」に寛容だったため、さらには1983年11月に訪日、中曽根康弘首相と会談で独断で日本の青年3千人を招待したことも挙げられた。

11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に選出された。失脚後の胡耀邦は会議等でもほとんど発言しなかったといわれる。11月、胡耀邦の後任総書記になったのは趙紫陽だった。

山崎豊子の代表作の一つである、「大地の子」執筆の際に胡耀邦が全面協力を行い、閉鎖的な中国政府各方面に取材に応じるよう指示を行ったエピソードもある。(出典 文春文庫「大地の子と私」)

1983年11月の中曽根康弘首相と首脳会談、友好関係を築く。この時の日中首脳会談で『日中友好21世紀委員会』の設立に合意。
このとき、背丈の低い胡を都内で見た。それが見納めだった。

これに先立って胡は1978年12月の11期三中全会以後、ケ小平のもとで文革の清算と改革開放政策が進められる中、1980年9月、党主席・首相だった華国鋒は経済政策や文革への姿勢などを批判されて首相を辞任。

その後継に趙紫陽が就任していたが、さらに81年6月に華が党主席も辞任すると、胡耀邦が党主席に就任した。この頃の胡耀邦は「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」とケ小平が語るほどの信任を受けていた。

1982年9月には党規約改正によって党主席制が廃止されて総書記制が導入されると、党トップの総書記に就任し、改革開放路線と自由化路線を打ち出した。

この頃、胡啓立(政治局常務委員)ら、胡耀邦を中心とした共青団グループが改革派として活躍。(現総書記の胡錦涛も胡耀邦に連なる共青団出身である)。1986年5月には「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱して言論の自由化を推進した。

しかし、9月の六中全会では、胡の政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は保守派、長老グループらの批判の矢面にさらされ辞任に追い込まれて行った。

その2年後、第2次天安門事件が起き、趙紫陽も哀れをとどめる事になる。トウがまたも分身を見捨てるからである。1989年4月15日に胡耀邦が心筋梗塞のため死去。

胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、六四天安門事件へと発展した。

ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言をしたことで、ケ小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚したのだ。

それにしても胡耀邦は国民から愛された開明的指導者だった。長老・保守グループの批判、さらにはケ小平の政治的引き締めの要求にも応じなかったため最後は解任されたが、中華人民共和国はその大きなツケを天安門事件として支払うことになった。


2008年02月11日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部亮次郎

建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。2008・2・10

2008年02月10日

◆江沢民は敬虔な仏教徒

                 渡部亮次郎

2008年1月30日から連載が再開された産経新聞中国総局長伊藤正氏による『ケ(とう)小平秘録』は2月8日付で、毛沢東時代「自力更生」のモデルとされた大寨(だいさい)のその後を報じ、関連して「江沢民(こうたくみん)前国家主席夫妻も敬虔な仏教徒だといわれている」と書いた。

<超有名人の郭鳳蓮(かくほうれん)氏は豊富な人脈を活用して内外から資金を集め、大寨ブランドの酒造工場、セメント工場など企業を次々に設立、炭鉱経営にも手を伸ばした。

化学肥料工場などを経営する郭氏の長男、賈小軍(かしょうぐん)氏は昨年、話題を呼んだ。3000万元{4億5000万円9を投じ、かつて「共産主義の桃源郷」と呼ばれた大寨に敷地約1万平方メートルの仏教寺院「普楽寺」を建立したためだ。

賈氏は敬虔(けいけん)な仏教徒で、解放後すべて破壊された寺の再建が夢だったという。これに対し「毛主席にわびろ」といった非難がネット上で浴びせられた。毛沢東は宗教を「精神の麻薬」として徹底的に弾圧した。

しかし、拝金主義を生んだ改革・開放が進み、豊かさが実現するにつれ、各種の宗教が全国で広まった。江沢民(こうたくみん)前国家主席夫妻も敬虔な仏教徒だといわれている。

大寨でも1991年以降、20人余の村民が仏門に帰依したという(中国誌「中国新聞週刊」)。

文革批判が起こった70年代末、「毛沢東」が地に落ち、信仰の危機が訪れた。今はどうか。改革・開放で豊かになったものの、共産党も、党が唱える社会主義も信仰の対象ではなく、人びとは精神のよりどころを失った。

大寨の土産店では観音菩薩(ぼさつ)の絵とともに毛沢東の肖像画が売られていた。それは、中国人の現在の心象を象徴しているように見えた>(伊藤正、矢板明夫)

クレア海外通信(海外事務所だより)北京事務所 「中国の宗教事情」によれば、1954年の憲法でも、公民は宗教信仰の自由を持つと規定されていたが、毛沢東死(1976年)後の1982年の第5期全国人民代表大会第5回会議で憲法が全面的に改正され、次のように「信教の自由を有する」と規定されている。

「(第36条)中華人民共和国の国民は、信教の自由を有する。
いかなる国家機関・社会団体または個人も、国民に宗教の信仰または宗教の不信仰を強制してはならず、宗教を信仰する国民と宗教を信仰しない国民を差別してはならない。

国家は、正常な宗教活動を保護する。いかなる人も、宗教を利用して社会秩序を破壊し、国民の身体・健康を損ない、国家の教育制度を妨害するなどの活動を行うことはできない。 宗教団体と宗教事務は、外国の勢力による支配を受けない」

共産主義者は、自らの宗教を唯一絶対の真の宗教とみなすがゆえに、他のいかなる精神世界も決定的に否定する。国民を信者と非信者に分け、異端を破門にしたり極刑に処する。伝道者として、レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポト、チャウセスク他がいる。

田中角栄首相による日中国交正常化(1972年)当時は毛沢東が存命、トウ小平は失脚中だったから宗教はタブー、麻雀すら禁止だった。

しかし1980年代以降になると、トウ小平による改革開放に伴い、民衆の宗教信仰心が抑圧された過去に反発する形で甦った。それに政府の宗教保護政策もこれらを支えているため、現在、中国の宗教信仰政策は種々の問題を抱えている。

最近の例では、1999年7月、新興気功集団「法輪功」に対し、中国政府は「迷信や邪説を流布して民衆をだまし、騒ぎを起こして社会の安定を破壊した」と断定、違法組織と認定し、一切の活動を事実上禁止した。

(注)気功は、古来から心身両面の養生法とされ、改革開放政策が進んだ1980年代以降、国がスポーツとして奨励したこともあり、都市の中高年層を中心に広まった。

「法輪功」は、仏教的要素を取り入れた新興気功集団で、創始者の李氏が1992年から活動を始め、日本など約20か国に組織がある。会員数は数千万と称しているが、中国政府は200万人と発表している。

中国は多宗教国家で、仏教、道教、イスラム教、キリスト教の4教を主要宗教とし、宗教信者は1億人余り、宗教活動場所85,000か所、宗教団体3,000余りである。

民族的には全国の55の少数民族が中国全体の信徒の大半を占めており、その居住地域の面積は全国の半分を占めている。

その主な信仰宗教は、仏教(朝鮮族)、ラマ教(チベット族、モンゴル族)、南仏教(タイ族)、道教(ヤオ族)、キリスト教(苗族、朝鮮族)、回教(回族、ウイグル族、カザフ族)、シャーマン(満州族、ホチョ族)である。

宗教の長期の存在を認め、社会主義と宗教の協調を探りつつ、宗教を効果的に現代化の建設に貢献させようとする点は、今後の宗教政策の大きな課題である。

特に法輪功は弾圧の強化に比例するように拡大化していると共に共産党員の脱党運動を展開し、2008年2月8日現在の脱党者数を32,007,044と発表している。今後大きな障害になるだろう。2008・02・08

参考:クレア海外通信(海外事務所だより)|北京事務所 |中国の宗教事情
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/jimusyo/123PEKIN/INDEX.HTM#top

2008年02月09日

◆真鱈のざっぱ汁

渡部亮次郎

真鱈マダラ Pacific Cod は、タラ目・タラ科に分類される魚の一種。北
太平洋に広く分布する大型のタラで、重要な漁業資源となっている。日
本では他にタラ、ホンダラなどとも呼ばれる。

成魚は全長1mを超える大型魚である。体色は褐色で、背中側にまだら模
様がある。スケトウダラやコマイと同様、下顎には1本のひげがあり、背
びれが3つ、尻びれが2つに分かれる。

マダラは日本に分布するタラ類3種の中では最大種である。上顎が下顎よ
り前に出ていて、体側にまだら模様がある。また、頭身が小さく、腹部
が大きく膨らむ。

我々秋田県人は真鱈の身は食べない。頭と内臓だけを塩味の鍋にして食
べる。丸太から四角い柱をとった残りを秋田弁ではざっぱ、津軽弁では
じゃっぱというので、この鍋料理を秋田弁ではざっぱ汁、津軽弁ではじ
ゃっぱ汁と言って珍重する。冬、最高の楽しみである。

煮えたぎった大き目の鍋に荒塩を入れ、そこへ真鱈の頭と内臓を小分けし
てぶち込む。葱、豆腐、白菜を加えてお終い。生姜を利かせたほうが生
臭みを消して美味となる。

いうなれば秋田では下層階級の冬の馳走だが、裕福な家庭に育った友人
たちも「身は要らない」とざっぱをしゃぶる事に専念する。大きな椀で
お代わりを6杯もした人もいる。

今年は都合で2月初めになったが、故郷にいる友人が祝いに「鉈漬け」
を送ってくれる。大根を切れの良くない鉈で削って塩と麹で漬け込む秋
田漬。東京で漬けても気温が高くて酸っぱくなるだけ。秋田で無いと美
味くない。お陰で6人で日本酒を4升も呑んだ。

ところで真鱈は黄海、日本海、東北地方以北の太平洋岸、北はベーリン
グ海、東はカリフォルニア州まで北太平洋に広く分布する。

沿岸から大陸棚斜面の底近くに生息する。夏は深場に移り、水深800mく
らいの深海にも生息するが、冬は浅場に移動して来る。食性は肉食性で、
貝類、頭足類、甲殻類、小魚などいろいろな小動物を捕食する。産卵期
には十分脂が載っているから美味い。

秋田、津軽や北海道周辺海域での産卵期は12月〜3月で、分離沈性卵を産
卵する。産卵前は雄雌共に脂が乗っている。1匹のメスの産卵数は数十万
〜数百万個に及び、これは魚類の中でも多い部類に入るが、成長できる
のはごくわずかである。

稚魚は1年で全長20cmほどに成長するが、この頃までは沿岸の浅場で生活
し、以後体が大きくなるにつれて深場へ移動する。

旬は冬で、底引き網、定置網、延縄、釣りなどで漁獲される。20世紀後
半頃からは輸入ものが多く流通している。

身は柔らかく脂肪の多い白身で、ソテーやムニエル、フライなどの他、
汁物や鍋料理にもよく使用される。身を干物にした「棒鱈」(ぼうだら)
も様々な料理に使われる。生のものを料理する際は傷みが早いことと身
が柔らかいことに注意する必要がある。

また、白子(しらこ)と呼ばれる精巣もこってりとした味で珍重され、
流通する際はメスよりオスの方に高い値がつく。白子は「キク」「キク
コ」などとも呼ばれるが、これは房状になった外見がキクの花に似るた
めである。秋田では「だだみ」と称して高値を呼ぶ。

北海道では「タチ」(マダラは真ダチ、スケソウダラは助ダチ)とも呼
ばれ、新鮮なものが寿司ねたなどで生食されている。

マダラのたらこ(卵巣)はスケトウダラよりも硬いが、未熟なものは柔
らかくスケトウダラよりも大型でボリュームがあるため、煮付けや焼き
物にすると美味である。北陸地方では「真子(まこ)」と呼ばれ良く食
される。

他にも肝臓から取り出した脂肪は肝油に用いられる。

チャンジャマダラやスケトウダラの胃を唐辛子などの香辛料、砂糖、塩
などに漬け込んだものをチャンジャといい、コリコリとした食感を楽し
む。もとは韓国の食材だが日本でも売られるようになった。

真鱈の 陸揚げ漁港(2002年度)
第1位 - 石巻漁港(宮城県)
第2位 - 歯舞漁港(北海道)
第3位 - 羅臼漁港(北海道)
第4位 - 八戸漁港(青森県)
第5位 - 女川漁港(宮城県)

資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年02月02日

◆捕鯨反対を操る者

 渡部亮次郎

またまた米大統領選挙に一石を投じそうなラルフ・ネーダー氏。私は彼の名に触れると、捕鯨反対運動の不純さを思い起こしてしまう。いわゆる刷り込みになっている。外相秘書官時代、アメリアで刷り込まれたものだ。

ラルフ・ネーダー(Ralph Nader 1934年2月27日― )は、大企業の持つ力に批判的なアメリカの社会運動家、弁護士であり、長年環境問題、消費者の権利保護問題や民主化問題に携わる人物である。

ネーダーは、近年のアメリカの対外政策は帝国主義的で、大企業への利益誘導を行っており、民主主義の根本と人道に反しているとして批判をしている。

彼は独立系の大統領候補として有名であり、1996年と2000年には緑の党から立候補した。しかし、2004年の選挙では緑の党から公認を得られず、無所属候補として出馬し幾つかの州で改革党などから公認を得て選挙戦を戦った。2008年も立候補を検討中と伝えられている。

ところで、1965年、彼は『どんなスピードでも自動車は危険だ:アメリカの自動車に仕組まれた危険』Unsafe at Any Speed:The Designed-In Dangers of the American Automobileという乗用車の欠陥を指摘する本を出版し全米に衝撃を与えた。

アメリカの自動車産業がシートベルトなど安全装置の導入に抵抗し、安全性向上のための投資を渋っていると述べ、特にジェネラルモーターズ(GM)製「シボレー・コルベア」に欠陥が多いと告発した。(もっとも、その最大の欠陥であるサスペンションの設計ミスは1964年製からは修正されていたのであったが)。

GMはこの本を徹底的に無視する一方、彼を貶める為に探偵をも雇って粗探しをしたが失敗し、逆にプライバシーの侵害であるとしてネーダーに訴えられて賠償金を支払うことになった。

GMはまた1966年には上院の自動車安全問題分科会への出席を余儀なくされ、ネーダーに一連の妨害を謝罪することとなり、その後コルベアは生産中止に追い込まれた。(「ウイキペディア」)

アメリカから始まった捕鯨反対運動はラルフ・ネーダーのこの動きと軌を一にするのだ。わが国外務省高官(故人)が捕鯨委員会の会議で生卵をぶつけられると言う屈辱的な出来事の起こったのもこの頃である。

その頃(1977-81)、外相秘書官としてワシントンDCをしばしば訪れていたが、米政府高官が解説する捕鯨反対運動への資金提供者はGM以外の何者でもなかった。

GMは消費者の反対運動の勢いを他に向けたい。顧問弁護士らが頭をひねった末、捕鯨反対運動と思い定めたGMは他のメーカーとかたって莫大な資金を消費者団体に渡しながら捕鯨反対運動推進をそそのかした。消費者団体の主なメンバーはまっしぐらに捕鯨反対運動に走った、と言うものだった。

捕鯨反対派の中には、クジラの巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいこと、ヒトと同起源の哺乳類である事を挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と食のタブー的主張する者もいて運動を盛り上げた。

昔は鯨油のために鯨を追って日本近海まで航海し、挙句の果てに鯨漁基地確保のために日本に開国を迫ったアメリカなのに、言うなればアメリカのお陰で日本は食文化の一端を失おうとまでしている。私はもはや捕鯨は諦めざるを得ないと思っている。

捕鯨推進派は、芸をするブタなどを例に挙げ、「ブタも高度な知能を持っているが、なぜ食べることが許されるのか。クジラが駄目でブタが良いというのは、単なる文化的差異に過ぎない」と反論している。

しかし、ここまで来ると宗教・政治の問題になるので、国際捕鯨委員会(IWC)等公式の場で捕鯨反対運動が否定される事態はまず期待できない。

いずれにしろ風桶屋論で言って、捕鯨反対論を世界的にしたのは米自動車メーカーGMだとすれば、GMはラルフ・ネーダーさえ居なければ運動は起こす必要が無かった、と逃げるだろう。

それより前に運動にカネは出してなかった、と開き直るのが先だろう。しかし人間、刷り込みを消すにもカネと時間がかかるものだ。2008・02・01


2008年02月01日

◆安物中国餃子で命失う

                   渡部亮次郎

昔から「安物買いの銭失い」と言いならされてきたが、中国に関する限
り、安さに釣られて冷凍餃子(ギョウザ)を買えば、下手をすると命を
失いかねない事になった。

いくら安くても、よく見て中国製と分かったら、少なくとも食品は絶対
買わないという人が出てきて当然だ。餃子になぜ殺虫剤が混入したのか、
まだ報道されていないが、分かるも出には相当、時間がかかるだろう。
責任者は雲隠れしたりするのが普通だから。

<「餃子で被害」17都道府県85人に さらに拡大へ

中国製ギョーザ中毒事件で、厚生労働省は31日、全都道府県に同様の事
例の報告を指示するとともに、製造元の中国・河北省の「天洋食品」か
らギョーザ以外の食品を輸入していた計19社の社名と品名を公表、自治
体を通じて各社に販売中止を要請した。

各自治体で被害の訴えなどを集計しているが、北海道、福島県、埼玉県、
東京都、神奈川県、静岡県、愛知県、大阪府、沖縄県などで新たに「中
国製ギョーザなどを食べて体調が悪くなった」との届け出があることが
産経新聞の調べで分かった。

これまでの不調の訴えは、17都道府県85人に上っている。いずれも31日
昼までの途中集計であることから、届け出はさらに増えそうだ。

厚労省が社名を公表した19社には含まれていないが、マルハと日本ハム、
日本食研も同日、天洋食品の工場から原料を調達していたとして、商品
を自主回収すると発表した。

舛添要一厚労相は「冷蔵庫を見て、(回収対象の商品は)絶対に口にし
ないでほしい」と国民に呼び掛けている。

各地の保健所には、問題が発覚した30日夕以降、同様の被害情報が複数
寄せられており、厚労省は各都道府県の担当課に電子メールで情報提供
を要請。同じ冷凍ギョーザが原因とみられるケースが含まれていないか
どうか確認を急ぐ。>1月31日16時6分配信 産経新聞

信用や面子を重んずる国と思ったが、口がざらつくと自分だけの都合で
処構わず唾を吐く習慣からすると、どうも信用や面子は外国人には通用
せず、売り物は自分の手を離れれば「後は野となれ山となれ」が中国の
哲学のように思えてくる。

餃子(ギョウザ、ギョーザ)とは小麦粉に水を加えて薄くのばして作っ
た皮で肉やエビなどで作った具を包み、茹でたり焼いたり蒸したりした
食べ物である。中国では煮て食べる水餃子が主流。

昭和29(1954)年3月、東京に出てきて初めてお目にかかった食べ物だった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、日本には戦
後満州からの引揚者がレシピを持込んだ。

日本人は惣菜として食べるから薄目の皮を使い焼いて食べる焼き餃子が
主流である。具にニラやニンニクを用い、また白菜の代わりにキャベツ
を用いることがある。水餃子が主流の中華圏ではニンニクは入れない。

中国では豚肉、白菜、ニラなどを使った一般的なものの他に牛肉 羊肉
ロバ肉 サワラ エビ フカヒレ 豆腐 を入れる。

餃子の歴史は古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の遺跡からはすで
に食べられていた痕跡が見つかっている。敦煌の唐代の墳墓では、副葬
品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されている。

もともとは華北の料理で、北京語の発音では「ジャオズ」といい、華南
では点心(食事代わりの軽い食品)として食る蒸し餃子がある。

華北の餃子が皮は厚めにして湯に入れて茹でる食べ方が主流なのは主食
を兼ねたものが多いからであ。

餃子はその発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子
の形に似ていることにより縁起の良い食べ物としても珍重される。

また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願
い食される。また皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子
を食したという。

日本では大衆的な中華料理店やラーメン店などのメニュー、家庭の手軽
な惣菜として定着しているが、北京や上海では餃子にお目にかかったこ
とは無い。日本で初めて餃子を食べた人物は徳川光圀とされている。亡
命していた朱舜水から教わったという。

一方朝鮮半島から流入してきた餃子もあり、これは白菜の代わりに大根
を用いる、と言うが未だ食べた事は無い。2008・01・31

 
       ★

2008年01月29日

◆顔色で見通す政局

渡部亮次郎


<安倍前首相:「戦う政治家として再び全力を尽くす」 

安倍晋三前首相が26日、地元・下関市の豊浦町と長門市で新春の集いを
開いた。前首相は多くの後援会員を前に「再び戦う政治家として、この
地選出の政治家として新たな思いで全力を尽くす」とあいさつした。

豊浦町の川棚グランドホテルお多福では、山口選出の林芳正、岸信夫両
参院議員のほか、後援会員約600人が出席した。

前首相は開会中の通常国会に触れ「国民生活を守るという観点から与野
党が協力することも必要」と主張。

また、祖父の岸信介元首相の故事を引き「(戦犯として収容されていた)
60年前、刑務所を釈放されて政治活動を再開したのがネズミ年だった。
今年は同じえと。私も政治家として新たな歩みを始める」と述べた。>1
月27日16時0分配信 毎日新聞〔下関版〕


ところで以下はは一昨年秋に掲載したものの再掲だが安陪さんについて
『頂門の一針』は総理就任前から政治家の顔色を見て健康不安を指摘、
短期政権を予測していた。

政局を見通す記者が以前は居たからである。しかし今の政治記者は顔色
を見ても判断できないから,見ることさえしない、と言う話。

昔、NHK政治部で一緒だった大谷英彦さんが、安倍晋三さんの顔色の悪さ
を指摘して「安倍政権、発足後、意外な展開になるかも知れない」と言
ってきたので、なるほど鋭い読みだと敬服した。

<問題は、安倍晋三の顔のくすみです。(2006年9月17日の)フジとテレ朝
は3人がスタジオに同席していましたから、多分事前のVTR収録でしょ
う。想像ですが、収録も昼間だったと思います。

NHKは安倍だけ外からの中継参加でした。朝9時からのナマ番組です
から、多分、安倍さんは早起きしたのでしょう。

途中、3人を顔のドアップがありました。安倍さんの目の下の皮膚の色
は他の2人と格段に違っていました。テレビは残酷です。

先にテポドン発射の朝、官邸に駆けつけた安倍官房長官は目の下に隈が
できていた、と週刊誌が健康不安を書いていましたが、それを目の当た
りにした思いです。

安倍政権発足後、この爆弾がどうなるか。意外な政局の焦点になりそう
です。>(これが見事に的中した!)

今の政治記者は、政治家をわっと取り囲み、発言を一言も聞き逃すまい
と懸命だが、顔色を読み取ろうとしている記者をTVで見たことがない。
TV記者は映像と声を採取すれば終わりと、散ってゆくが、新聞や通信の
記者もそれ以上はやらない。

昔はTVが無かったから、我々も政治家に群がったけれども、決して其処
で真相は吐露されているとは考えられないから、どこかで単独取材の機
会を狙って再度、取材を心がけたものだ。

続きを読む≫≫

2008年01月26日

◆薩摩揚に思い出す

渡部亮次郎

先輩から恒例の薩摩揚げが薩摩から届けられた。令夫人のご郷里が薩摩・
鹿児島だからである。戦前、戦中に貧しい家庭に育った私に、少年時代、
薩摩揚げ、蒲鉾、はんぺんを食した記憶はない。

ごく幼い頃、鮭の缶詰とかバナナを食べた記憶はあり、大東亜戦争の敗
戦後、何年もしてから食べたが、魚肉のすり身を成型して作ると言う薩
摩揚げ、蒲鉾、はんぺんの類は敗戦後9年の春、上京して初めて食べた。

それよりも薩摩揚げが沖縄で異常に高値で、それは琉球王朝が隣の薩摩
藩の無法な支配を受けたことの遺恨からであると説明され、改めて驚い
たものだ。

このときの用事は琉球における主席(知事にかわる)をアメリカ政府の
認知により初めて住民の選挙(公選)によって行われので、それを取材、
報道するためだった。

アメリカ軍に占領された沖縄は当時まだアメリカの施政権下にあり、高
等弁務官が島のすべてを握っていた。折からベトナム戦争が激化し、嘉
手納空港はB52爆撃機の発着が慌しかった。

言葉も良く通じないまま島中を駈けずり周り「4万の差で屋良朝苗(やら
ちょうびょう)氏が当選するはず、と東京に連絡した。

翌日、軍政部の係官が「NHKがそのように放送していた」という。NHKが
選挙の予測を放送するわけがないから,私の電話を盗聴していたと告白し
たようなものだった。

何しろ朝から晩まで、いや、飲み屋でもバーでも尾行されていた。なん
で筑紫哲也(朝日新聞)でなく俺を尾行するのだ、と追及したら、朝日
新聞は配達前に空港で没収できるが、ミスターワラナベの電波は没収で
きないから、都合悪い取材を妨害しなければならないとの返答。震えが
来た。

尾行されながらの昼食。1ドル360円時代に「おでん茶飯」が4ドルぐら
いで法外に高かった。高い理由が福岡からの薩摩揚げの空輸。その理由
が嘗ての薩摩による琉球支配への反発だった。450年以上前の怨恨が脈々
と受け継がれているのである。

豊臣秀吉の時代、朝鮮に於ける戦いで秀吉が薩摩藩に命じて琉球王尚寧
に対し7000人分の食料10ヶ月分を翌年2月末迄に坊津港まで搬入するよ
う指示したところ、財政窮乏を理由に割り当ての半分を送って来なかっ
た。

しかも尚王その一方の宗主国たる明の朝鮮に対する思いを配慮したこと
などに、秀吉、琉球の間で命を受けた薩摩藩主島津義久の立場は深刻で
あった。

ややあって秀吉が亡くなり徳川家康の時代となった後も尚王の手落ちが
重なり、結局薩摩藩は樺山権左衛門久高を総大将として1609年(慶長14
年)3000名の兵を出して首里城を攻略してしまうこととなってしまった。
450年以上前の怨恨が脈々と受け継がれているのである。

琉球諸島は、廃藩置県により明治12年沖縄県となる。第2次世界大戦後
アメリカはその統治の間再び琉球を公称した。面積2388平方キロ、神奈
川県よりやや広い。1945年4月からの米軍の艦砲射撃で徹底的に破壊され
た後占領。自治権を失った。

爾来、米軍基地の島とされ、今日に至っているが、施政権は佐藤栄作首
相による対米交渉により1972年5月15日に返還された。

題は沖縄では無い、薩摩揚げだった。由来については諸説があるが、島
津藩(通称薩摩藩)による琉球侵攻のさいに、琉球料理のチキアギー
(チギアギ)を持ち帰ったものが転じて「薩摩揚げ」になったとされて
いる。鹿児島県でいう「つけ揚げ」は、「チキアギー」が訛ったもので
ある。

今度頂戴した薩摩揚げの原料は南ダラ、エソ、タイカジキのすり身とあ
る。こうした魚肉のすり身に塩・砂糖などで味付けし、形を整えて油で
揚げる。 厚さ1-2cmほどの丸形・小判形あるいは角形をしていることが
多い。ほかに、ゴボウ、イカ、ゆで卵などの素材を包み込んだものもあ
り、異なった形状をしている。

鹿児島県産が特に有名なことから、東日本では「薩摩揚げ」と呼ばれる
が、西日本では「天ぷら」と呼ぶ人もあり、鹿児島県では「つけ揚げ」
と呼ばれる。「揚げ半(ぺん)」など、その他の異称も多い。

そのまま、あるいは軽く焼いてしょうが醤油やからし醤油で食べる。お
でんだね、うどんの具、皿うどんの具、煮物の材料にも用いられる。(再
掲)

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007.02.16


2008年01月25日

◆政局を見る色眼鏡

                   渡部亮次郎

「政局には常にフィルター(色眼鏡)を掛けて見なけりゃ駄目だ」。これは故島桂次(元NHK会長)に繰り返し教えられた事だ。とんでも無い、想像もできないことが展開されているのでは無いか、常に疑惑の目で政局を見ろ、と言う教えだった。

<フィルター(フィルタ、filter)とは、与えられた物の特定成分を取り除く(あるいは弱める)作用をする機能をもつものである。ある成分以外の全成分を弱めることにより、その成分だけを強調する効果を得る場合もある。さらに、各成分に対し何らかの処理を施す場合もある。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若い頃、青空に浮かんだ雲を、白さを強調して撮影するにはレンズに黄色いフィルターを嵌めて撮影した。すると青空と雲の白さのコントラストが強調してプリントできた。

そこで島論を現在の政局に当てはめてフィルターを用意するとなると、如何なる事が想像できるだろうか。順不同で考えてみる。

@ 自民党内に福田内閣打倒の動き。この不人気じゃ、とてもじゃないが選挙にならない。人気を取れそうな麻生太郎を担ごう、という動きは無いか。

A「たかり」に終始する公明党を排除するために自民・民主「大連立」を復活させる動きは無いか。

B社会党復活への動きは無いか。

C参院廃止を、憲法改正と関係なく実現する研究が進んでいないか。

D小泉カムバック作戦は無いか。

E小沢引退作戦は無いか。

F共産党解党はあり得ないか。

G考えれば切りがない。

しかし、若い政治記者と話してみると、目先の現象を追うばかりで、こうしたフィルターを1個も持ち合わせていない。だから渡邉恒雄構想に基づく「大連立」の動きを知る由も無かったわけだ。

先輩記者{共同通信社}の古澤襄さんは@の動きをとても注目している。1月21日の夜、不倶戴天で不仲と見られている福岡県選出の代議士麻生太郎、古賀誠両氏が、高村外相(高村派会長)、久間章生(津島派幹部)両氏を交えたとはいえ会談した事は、少なくとも麻生政権阻止を掲げてきた野中、古賀両氏に何らかの「決心の変更」があったのでは無いかというわけだ。

古賀氏が自民党の中核に歩を進め得たのは野中廣務氏の推薦によって幹事長のポストに座ったことがきっかけである。だから古賀氏が「中」宏池会の親分になれても彼の「親分」は依然として野中氏なのである。

元共同通信記者のノンフィクション作家魚住昭『野中広務 差別と権力』によると、

<麻生太郎は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、野中に以下のとおり批判された。

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなぁ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。

君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんて出来よう筈がないんだ。私は絶対に許さん!」

野中の激しい言葉に麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだったと同書には記されている。>(「ウイキペディア」)

先に安陪晋三氏が総辞職を決意した際、後継に麻生の浮上する事に危機感を持った野中氏は政界を引退した身であるにも拘らず郷里京都から急遽、上京し、大車輪で麻生政権の芽を摘んだ。

それが半年も経たずして子分古賀氏に麻生氏との会談を許した事は野中氏に心境の変化をもたらす何事かがあったと推測したくなるのである。

21日夜の4者会談は、古澤氏によれば「洞爺湖サミット前の衆院解散はさせない」ことで一致した。しかし勘繰ればサミット後は福田首相に何も「保障」はしないことで一致したとも取れる。

或いはサミットを花道にして福田を引退させ、後継は麻生と言う事で阿吽の呼吸、と言う事も勘繰れる。しかし、新聞、TVには「フィルター」のかかった観測記事は1行も出ていない。   2008・01・24



2008年01月23日

◆秋山氏が朝日を提訴

                 渡部亮次郎

防衛省事務次官不祥事に関連して、「山田洋行から1億円を受け取った」などと報じられた社団法人日米平和・文化交流協会の専務理事秋山直紀氏は1月17日付で、先ずこのことを最初に報道した朝日新聞社を相手取り、名誉毀損で社団法人と共に東京地裁に提訴した。

訴状によると朝日新聞社が平成19年11月30日から12月1日にかけて報じた秋山氏と社団法人日米平和・文化交流協会に関する記事はすべて事実無根であるため、著しく名誉を毀損されたので、団体(会長瓦力氏)と秋山氏に各5500万円を払い、朝日新聞とそのホームページに謝罪訂正記事の掲載を求めている。

これにより公判は2月中にも開始されるものと見られているが、司法関係者は「朝日のみならず読売や毎日の報道どおりなら秋山氏はとっくに逮捕、起訴されてなければ辻褄が合わない。マスコミは山田洋行側に踊らされたのではないか」と指摘している。

また別の事情通は「秋山氏は単なる民間人であって、仮に受領していてもなんら犯罪を構成しない。新聞もTVも山田洋行側だけの指摘で、秋山氏の立場になんら配慮しないで一方的に報道した。秋山氏の訴えは当然だ」と指摘している。

問題の記事は、
(1) 平成19年11月30日付朝刊。「山田洋行/防衛族団体側に1億円か/毒ガス弾処理受注/協力費支出の文書」

(2) 同日付夕刊
  山田洋行/協力費1億円裏金から/米の子会社が支出

(3) 12月1日付朝刊
  山田洋行1億円 防衛職員を参考人聴取 東京地検 ガス弾処理めぐり

これらの記事に就いて訴状は次のように訴えている。

(1)の記事こそ疑問形になっているが、朝刊1面トップでセンセーショナルに取り上げている。(2)と(3)に就いては断定的で誤解と名誉毀損となる。

とくに山田洋行から国防族議員に対し、国発注事業の受注のために多額の利益提供を行った事、しかも秋山氏がこれに関与している事を示唆し、読者にその旨印象付けるものとなっている。

しかし安全保障研究所の米国の関連団体などというものはそもそも存在しておらず、したがって90万ドル(約1億円)を受け取りようが無い上、安全保障研究所も原告らも、この金を受け取った事実は無い。この記事は事実無根である。

特に原告秋山が授受に事実を強く否定しているにも拘わらず、支払いを受けた関連団体の特定すら出来ないままの報道。極めて杜撰な取材に基づく「中傷」記事である。

これについて日米平和・文化交流協会は朝日新聞社に対し、平成19年12月4日付で、名誉毀損を指摘した上で、謝罪と謝罪訂正記事の掲載を求めたが、適切な対応は無かった。

そこで原告らはそれぞれ5500万円の損害賠償を求めると共に謝罪訂正記事の掲載を要求する、としている。

秋山氏はまたテレビ朝日が12月9日に放送した「サンデープロジェクトでの司会者田原総一朗氏の発言は、秋山氏がさも山田洋行から1億円を受け取ったかのように取れるもので事実に反する、訂正を申し入れた(1月17日付)。                 2008・01・22