2010年11月20日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎

中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、トウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっついていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマの恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であり、そのメイン・デッシュだったからである。食べないわけにいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だったと知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマに対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はないそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれる。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さんより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけでなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目があったのか。(再掲)

◆本稿は、11月20日(土)刊の全国版「頂門の一針」2101号に
掲載されました。
◆<2101号 目次>
・トウ小平の刺身以後:渡部亮次郎
・小沢一郎氏の政局観:古澤 襄
・仙谷さん、よく言った!!!:古森義久
・ローマ法王庁、再び中国に激怒:宮崎正弘
・小林観爾画伯と吉田屋:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年11月17日

◆カンニング首脳会談

渡部亮次郎

16日付の産経新聞によると「13日夕、僅か約22分間の菅首相と胡錦濤国家主席による日中首脳会談。首相は胡主席ではなく、手元のメモを見つめていた」。首脳会談にカンニングペーパーよろしくメモを持って臨んだ首相は、日本政治始まって以来の椿事であった。

要は中国側に伝えるべき科白が定まっていなかったか、暗記できなかったであり、前代未聞の展開に胡氏も仰天。菅氏が読んだメモの内容など記憶できなかったに違いない。

だとすれば、この首脳会談は無駄だった。有害だった。日本の評価を著しく下げるのに貢献しただけ。それでも菅氏は(日中関係を改善し「首相就任時の6月に戻すことができた」と胸を張ったというのだから「一昨日おいでだ」。

流石に民主党幹部からは「そろそろ首相を代えたほうがいい。メモを見ながら首脳会談をやっているようじゃ駄目だ」と言う声が漏れたと言う。

しかも首相は胡氏に対して、尖閣諸島が日本固有の領土だ」と主張したか否かについて関係者は明らかにしていない。主張しなかったから明らかにできなかったのだ。

菅氏は何ゆえ、首相の座にしがみついているのか。国民に目を向けているのか。

総理官邸の事務方までが言い放っているそうだ「早く退場した方がいい。鳩山さんの方がまだ良かった」。

「ルーピー(愚か者)と呼ばれた鳩山いかだとの評判が霞ヶ関(役人たち)で出ているそうだ。

朝日新聞社が13、14の両日実施した全国世論調査(電話)によると、菅直人内閣の支持率は27%で、前回調査(10月5、6日)の45%から急落した。

不支持率は52%(前回36%)。外交への取り組みや北方領土問題への対応を「評価しない」とする人がいずれも7割を超え、主に外交面での低い評価が支持率低下につながったようだ。

世論調査―質問と回答〈11月13、14日実施〉
菅内閣の支持率が3割を切るのは、6月の内閣発足後初めて。不支持率もこれまでで最も高くなったが、衆院の解散総選挙については「できるだけ早く実施すべきだ」31%を「急ぐ必要はない」60%が大きく上回っている。

内閣を支持しない人にその理由を四つの選択肢から選んでもらうと、64%が「実行力の面」を挙げた。菅首相は9月の内閣改造時に「『有言実行内閣』を目指す」と語ったが、そうは受け止められていない現状がうかがえる。

外交への取り組みについては「評価する」11%、「評価しない」77%で、北方領土問題への対応も「評価する」10%を「評価しない」73%が大きく上回った。

沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐり、衝突の場面を撮影したビデオを政府が一般公開していない判断を聞くと、「適切だ」が12%、「適切ではない」が79%。こうした外交面では、内閣支持層でも「評価しない」などとする見方が多数を占めた。

一方、事業仕分けによる行政のムダの削減について期待するか尋ねたところ、「期待する」が52%、「期待しない」が39%だった。

首相の仕事ぶりへの評価と、首相に今後どの程度期待するかについても聞いた。仕事ぶりでは「大いに」と「ある程度」を合わせた「評価する」が29%、「あまり」と「全く」を合わせた「評価しない」が69%。今後の期待では「大いに」と「ある程度」を合わせた「期待する」が41%、「あまり」と「全く」を合わせた「期待しない」が58%だった。

これについて元共同通信社常務理事の古澤襄氏は自らのブログ杜父魚文庫ブログの中で次のように見ている。

「朝日調査によって不評の菅内閣はとどめを刺されたといえる。

一度、国民の信を失った政権が国民の支持を劇的に回復するのは難しい。政権にしがみつけば、するほど国民の支持離れが加速される」。
2010・11・16

◆本稿は、11月17日(水)刊全国マガジン「頂門の一針」2098号に
掲載されました。他寄稿者の卓見もご高覧下さい。

<2098号 目次>
・カンニング首脳会談:渡部亮次郎
・「過ち」は1年前にあり:皿木喜久
・ロシア大統領国後訪問に無策の日本:櫻井よしこ
・ロシアは歯舞群島と色丹島の返還も凍結か:古澤 襄
・米国留学、日本は下位に転落:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年11月14日

◆色は匂へど散りぬるを

渡部 亮次郎

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん。これが「いろは四十八文字」。日本語のカナのすべてが入っている。

私は昭和17(1942)年に就学したが、教室に掲げられていたのは「アイウエオカキクケコ」の五十音で「いろは」はもっと成長してから教わった。それも見出しの如くに教えられた。誰からだったかは判らない。いわゆる先生からではなかったように思う。

<色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山けふ(きょう)越えて 浅き夢見し ゑ(え)ひ(い)もせず。>美人がいくら容貌が優れて匂う様だからと言ったって、やがては婆さんになってしまうじゃないか・・・と人生を延々と詠って飽きるところがない。

優れた日本語の教本である、と今も思えるが、これを江戸時代にはカルタにして子供に与え,言葉と諺覚えの教材にしていたそうだ。

世界百科事典(平凡社)に拠れば、これは「いろはかるた」と呼ばれ、いろは48文字をそれぞれ頭字とする<たとえ(ことわざ)>を集めていた。諺をかいた読札48枚と、その頭字及び諺の内容を書いた同数の取札とからなり、語呂の良い短句形と単純な遊び方で、正月の子供の遊びなった。

江戸中期末葉(18世紀後半)までに上方(京都など近畿地方)で作られた。この上方いろはは<一寸先やみの夜>ではじまるが、後から出来た江戸ものは<犬も歩けば棒にあたる>で始まり<犬棒かるた>と呼ばれた。両者に共通するのは<月夜に釜をぬく(盗む)>の一句のみ。

このほか尾張にもそれなりにあったとの説もあるが、いずれ江戸物を残していずれも消滅した、とされている。その時期は大正末期だったようだ。従って江戸育ちでもない当方が江戸かるたなどで遊んだことはないし、見たこともない。 

正月に百人一首のカルタ取りは全国チャンピオンを毎年競うほど今でも盛んだが、いろはの大会は見たことがない。それなのに今頃取り上げるのは、周囲にこのごろやたら、伊呂波カルタや諺を知ってるかい、知ってるかいと聞いてくる人間がいる。それならばと本屋をめぐってみたら「いろはかるた噺」森田誠吾著、ちくま学芸文庫を探し当てたのである。

そういえば赤穂氏十七士による討ち入りが成就した時、幕府はこれを幕府に対する意趣返しと読み、事件の世間に広まることを恐れて他言を禁じた。芝居にすることすら許さなかった。

ところが町中の方に知恵者がいた。仮名手本忠臣蔵。いろは48文字から「ん」を抜けばちょうど四十七に成る事に目をつけて幕府の目を眩ました。

「い」については先に書いたが、「ろ」については上方が「論語読み論語知らず」に江戸は「論より証拠」である。「は」針の穴から天のぞく 江戸は花より団子。江戸にはこの類句に花の下より鼻の下とか一中節(歌)より鰹節、色気より食い気とか心中より饅頭などがあったそうで面白い。 

上方が「臭いものに蝿がたかる」といったが江戸では「臭いものに蓋」で逃げてしまう。これだけではなく江戸は恰好をつけて逃げてしまうのが随分ある。年寄りの冷水(ひやみず)、老いては子に従ふ(う)。楽あれば苦あり。我慢も説くが諦めを教えた諺であろう。

京都、大阪と江戸・東京は元から対立して存在した。幕府が大阪から江戸へ越したし、天皇陛下も明治になってすぐ、ちょっと江戸を見てくると「出張」したまま未だにお帰りがない。当然、文化は上方が先で深い。江戸は後から侍を押し立てて恰好を付けてはいるが田舎者には変わりがない。

現代でこそ教育とか製薬とかには上方にまだ誇りは残っているが、カネ儲けの殆どは東京に行ってしまった。まず商社というのは大阪で始まった日本独特の商売だった。

それが戦後の高度経済成長期に本社を東京に移してしまった。商社にとって命よりも大事な情報が東京一極に集中するようになったからである。その後を追うように銀行が東京に行ってしまった。

徳川を憎く思う上方人は「綸言汗の如し(天子の言葉は汗が体内に戻れないように、一度言ったら言い替えができない)」とか「れん木(すりこぎ)で腹を切る」とか「武士は食わねど高楊枝」などと凋落して行く武士階級を笑った。

「氏より育ち」は江戸っ子をからかったものでもあったのではないか。現在の庶民は毎日読んでる新聞に川柳をよせたり投書をして憂さを晴らしているが、諺を引いて子供を諭すということはなくなった。

本を書いた森田氏は銀座生まれの直木賞作家。ふと伊呂波カルタを懐かしんで玩具屋めぐりをしたが遂に会えなかった。それで高じて遂に文庫本で400ページを超す大冊をあらわすことになった。

なるほど古い物を拒否した敗戦後の教育は「いろはかるた」を捨て、内閣はあいうえおを推進していては、ゐだのゑだのが出てくるいろはすたれていくだろう。しかし、この歳になって改めてかるたに盛られた諺を読むと実に胸にこたえ、腹に沁みる先祖の知恵が蘇って来る。あえて別紙を付して参考に供する次第である。


2010年11月12日

◆農村の神武(ずんむ)たち

渡部 亮次郎

日本の農村に嫁が来なくなる話を初めて書いたのは「楢山節考」を書いて日本中にショックを与えた深沢七郎の「東北の神武たち」という小説だった。1957年、東宝で映画化もされた。九里子亭脚本、市川崑監督だった。

<かつての東北は貧しく、そこに生まれた次男、三男達は「やっこ」と呼ばれ、長男と区別する為にボロを着せられ、ヒゲも伸び放題で、一生、土地も嫁ももらえない存在であった。彼らやっこのあまりにみじめなその姿が、どこか遠い昔の神武天皇に似ているというので、土地では「神武(ズンム)」と呼ばれていた。・・・>

しかしいまや全国の過疎地はどこも長男の「ずんむ」だらけだ。

1957(昭和32)年といえば日本は敗戦からまだ12年。食うや喰わずの境地をやっと脱出したころ。経済白書が「もはや戦後ではない」なぞ生意気なことをほざいて居たが、まだ十分貧しかった。大学生の私は月1万円で何とか暮らせたが。

秋田で「神武」になるべき私が大学に入学できたのはありがたくも両親や兄弟のお陰だが、それらを底で支えたのが「農地解放」だった。

<一般には,連合国軍の占領下に日本で実施された農地改革を指す。それは,1946年10月公布の〈自作農創設特別措置法〉および〈改正農地調整法〉に基づいて47年から50年にかけて実施された。

その骨子は,(1)不在地主の全貸付地と,在村地主の貸付地で保有限度(都府県で平均1ha,北海道で4ha)を超える部分を国が強制買収し,それを小作農に売り渡す(以下略)


(2)自作農の農地最高保有限度を原則として都府県平均3ha(北海道は12ha)とする,

(3)小作料を金納制とし,最高小作料率を設け(田は収穫物価額の25%,畑は15%),小作料統制を実施し,さらに小作契約の文書化を義務づけ,土地取上げの制限を強化し,耕作権の移動を当面知事の許可制とする,

(4)農地の買収・売渡しは2ヵ年間で完了させることとし,買収・売渡し計画の作成主体である市町村農地委員会の階層別委員構成を,地主3,自作農2,小作農5とする,などである。

この農地改革によって,地主的土地所有制度は基本的に解体され,それにかわって自作農的土地所有制度(自作農体制ともいう)が広範に創出されることとなった。>

<改革前の状態に比べるならば,それは全体として農業生産力と農民の生活水準の上昇に寄与したといってよい。改革後の零細自作農民は,1960年代の高度成長期以降急激に分解を遂げ,農家労働力の脱農・賃労働者化,農家の兼業化が急進する。

しかし,その場合の賃労働者化も,改革前の貧窮小作農民の賃労働者化に比べるならば,総じてよりましな賃労働者化だといってよいのである。暉峻 衆三>平凡社「世界大百科事典」)

米どころ秋田でも、当時は1反歩(10アール=300坪)当り5−6俵(1俵60Kg)ぐらいしか収穫できなかった。しかもその半分は地代として地主の納入しなければならないから、結局、小作人は「死なない程度の生かされていた」のである。(元秋田魁新報常務取締役渡部誠一郎談)

社会主義思想の流入は小作制度の不合理を訴え、全国各地で小作争議が起きた。

<第2期の争議規模をみると,争議1件当り参加地主数約5人,参加小作人数約20人,関係耕地面積10〜20町歩で,第1期と比べて明らかに小規模化した。中小地主の窮迫による自作化をあるいは土地売却要求を原因とした小規模な土地返還争議の激発,これが第2期の小作争議の特徴である。

このような地主攻勢のなかで,小作貧農が争議主体として登場し地主に苛烈に抵抗したのもこの期の特徴であった。小作人のなかでももっとも窮乏化していた小作貧農は,恐慌のもとでわずかの兼業機会も奪われ,土地への執着度はいっそう強まった。

その小作貧農がひとたび小作料減額を要求し,小作料を滞納すると,地主はすかさず土地返還を迫り,小作人の耕作権に対抗する手段に訴えた。それゆえこの期の争議は,小作人にとって,生産と生活の唯一の場である土地をめぐっての命がけの闘争であり,きわめて先鋭的な内容をもっていた。

新潟県王番田争議,同和田村争議,栃木県阿久津争議,山梨県奥野田争議,長野県五加村争議,北海道雨竜蜂須賀争議,秋田県阿仁前田争議などがこの期の代表的争議であるが,深刻な恐慌を背景にきわめて激化した争議形態をとり,天皇制権力の弾圧も苛烈をきわめた。

農民は,防衛的な争議を強いられるなかでも,要求を小作料減免から耕作権確立へとつき進め,地主的土地所有との対抗をより鋭いものとした。

しかし,第1期に引き続きさらに強化された弾圧・規制は,中心的な農民組合活動家に集中して農民組合の活動を困難にした。また満州事変の勃発による排外主義の高揚は,農民運動の中にも右翼的潮流や国家主義的傾向を生み出し左翼的農民運動の分裂・後退を余儀なくさせた。>(同)

戦後のマッカーサーの行った占領政策の詳細については西 鋭夫著「国破れてマッカーサー」(中央公論文庫)のご一読をぜひお奨めする。

<農地改革前の1941年には,小作農は総農家のほぼ3割を占め,多少とも耕地を借りている自小作や小自作農家まで含めると7割に達していた。小作農の5割は経営耕地面積50a未満層に,8割までが1ha未満層に含まれ,自作や自小作農家に比して零細経営に集中していた。

これら小作農は地主から収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収され,かつ地主の都合によって随時土地をとりあげられるなど耕作権(賃借権)がきわめて弱く,地主に債務を背負って人格的にも隷属的である場合が多かった。

こういった貧しい小作農家から紡織工業の女工をはじめ,きわめて低賃金で,劣悪な労働条件に甘んじて働く労働者が多数出現した。

小作農民にとって,小作料減免と耕作権強化,ひいては土地所有権取得による自作農への転化は切実な要求であり,この問題をめぐってはげしい小作争議,小作運動が展開された。

第2次大戦後の農地改革は,耕地の上に成立していた地主的土地所有を基本的に解体し,小作農を著減させ,逆に,圧倒的多数の農家を自作農ないし自小作農家に転化した。暉峻 衆三」(同)

戦前の農村で農家は収穫量の半分以下しか所有できなかった。加えて,化学肥料が発明されておらず、極めて貧しかった。明治時代の日露戦争に農村から徴兵された次三男が満洲に渡る船中で脚気のために大量に死亡したのはこれを物語る。

彼らは農家に生まれながら、白米を食したのは盆と正月ぐらいだったから。村では麦などの雑穀を食していたから結果的にビタミンB1を摂取できていた。

ところが陸軍に入隊すると、白米は無料で無制限、副食物は現金支給だった。彼らは白米に塩をかけたり、漬物だけでたらふく食べ、現金は家元に送金した。

だから極端なビタミンB1不足による脚気で死んだのだ。その医学的意味を陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は解明できなかった。 (この点は吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫)を一読されたい)。

この状態は1945年まで続いた。農地解放を政府はそれまで何度も試みたが、保守勢力の反対に遭って決して実現できなかった。

ところが敗戦とともに進駐してきたマッカーサーの命令で直ちに実現、小作農は直ちに所得を2倍に伸ばし、その後化学肥料の普及、農作技術の発達により所得は更に上昇して4倍に達した。

品種改良、肥料の開発、栽培方法改良が効果的だった。早撒き、早植え、早収穫の「三早栽培」で台風の被害を回避したのなんかは大きな効果だった。

農村にまで進駐軍は来なかったから、大都会のような強姦事件もギヴミー・チョコレート現象も起きなかった。しかし農地を自分のものにしてくれた進駐軍は農民にとって、神様に見えなかったら何に見えただろうか。それに生産したものはすべて自分のものになることから来る意欲の向上。

農民が増えた所得で最初に買ったものは、自転車、ラジオだった。これにより日本の産業界はまず軽工業から発展し始め、やがてそれらが重工業を押し上げ、高度成長を齎すこととなった。農家の子弟が大学に行ける様になったは、その後の兼業が大いに力になったが、過疎を齎して現在に至るのは皮肉である。

農家で農作業に女性は不必要となっている。

 (1)播種ー温室の中で男のしごと

 (2)植え付けー機械-男で十分

 (3)除草ー薬剤散布ー男で足りる。

 (4)水確保ー男で足りる。

 (5)刈り取りー機械、男で足りる。

 (6)乾燥ー機械、女でなくとも良い。

 (7)脱穀、袋詰め-機械ー男。

昔は(2),(3),(5)に女性が動員された。しかも主婦をやりながら、育児もあった。しかし、水田で嫁のやる仕事は皆無になった。

しかし、コメの値が下がり続ける反面、機械は値上がりが続く。兼業農家のお父さんは会社の給料を農機具につぎ込んでいる。或いは後継者がいないのはまだいいほうで、後継者に50になっても嫁がいないのがザラ。

中国やフィリピンから「輸入」した嫁に殺されたり騙されたりの事件が多発しているのはこのため。農家は娘は都会に出して長男には地元から嫁をというが、それは初めから無理。別の人に言わせると、農村の封建制は全く改まっていないことを女性は知っている。だからこそ嫁に来ないのだというが。


2010年11月09日

◆電器屋が演歌を殺した

渡部 亮次郎

何の気なしに入った高校は伝統のある県立校で進学校だった。息がつまってわざと不良ぶって授業をサボったりエロ小説を書いたりした。

そのことはたいがいの友人は知っているが2年の時、NHKののど自慢県大会に出場したことは誰も知らない。「チャペルの鐘」で合格したが、それ以上にはいかなかった。行っていたら今頃老残の元歌手だったかもしれない。

貧しい百姓家だったから柱時計はあったもののラジオはなかったし自転車もなかった。もちろん蓄音器(レコードプレーヤー)はあるはずがない、向かいの家は地主であったから子供のころからレコードをここで聴いた。

友人の長兄は農学校(戦後の農業高校)を出た人で歌好きだったらしく霧島昇、東海林太郎、渡邊はま子、藤山一郎、上原敏といった歌手のレコードが山のように有った。

私は毎日友人のところへ行ってはそうしたレコードを聴いた。垣根の外では兄が耳を傾けて居る筈だった。歌はすぐ覚えた。

民謡のレコードも多かったが、浪曲は全く聴かなかった。民謡には鳥井森鈴(とりい・しんれい)と言う隣町の人の秋田音頭というのがあって、いま振り返れば当然放送禁止の卑猥な文句が平然と唄われていた。

「あの税、この税、役場の税金息つくヒマもない。いっそこれなら有るものブチ売って、一発ぶっぱめて死んだ方ええ」。

酔えば今も唄う私の秋田音頭を余りに卑猥だから東京の友人たちは「替え歌だ」と言うが、おれの方が本物だ、諸君のは放送コードに引っかからないようにした「替え歌」だよ。お上品な進学生はあのころ秋田音頭なんか知らなかった。

アメリカから来た進駐軍は農地解放をやった。小作農は収穫米をすべて自分の物とすることが出来るようになった。農村は豊かになった。まず自転車があふれラジオが入った。そのラジオからは「流行歌」という名の演歌があふれた。

東京ブギウギなんてあらゆる束縛からの途方も無い開放感を唄いつくしてあまりあった。夜、家とは別棟の便所で声高らかに流行歌を歌った。
折角買ってもらった岩波の英和辞典をそこに落としたのもその頃である。

岩手県の盛岡で所帯を持った時、初めてレコードプレーヤーを買った。テレビにはまだ手が届かなかった。N響がやって来た時に聴いたモーツアルトのピアノ協奏曲20番や通学時に秋田駅で毎朝鳴っていたのはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番だと確かめて生まれて初めてレコードを買った。

流行りはじめたステレオのLPだったが、流行歌はまだモノーラルだった。昭和36年に「川は流れる」を沖縄の高校生仲宗根美樹が巻き舌で唄ったが、今探してもあの曲はモノーラルのものしかないから間違いない。流行歌がステレオになるのは昭和39(1964)年ごろだったような気がする。

それから間もなく若い世代は流行歌を離れ、フォーク、ポップス、ニューミュージックに向かうので、流行歌は演歌と呼ばれるようになって今日に至った。またレコードはCDとかMDとかカセット・テープにとって変わられ、プレーヤーはラジカセに変わった。

そこで大変革が起きる。中年以降がCDの聴き方が判らないものだからCDを買わなくなったのである。これで演歌は最大の支持層を喪失した。しかもレコード会社は気づかない。

電器屋。ナショナルとかソニーとか東芝とか。彼らはラジカセが売れに売れるから気がつかなかったがラジカセを買っていたのは極く若い人たちだけであった。中年以降は買わなかった。実は私の姉や兄は今でもラジカセの操作が出来ない。

ラジカセではラジオもCDもカセット、今ではMDも聴ける、しかもラジオはAMもFMも聴ける、操作の仕方はこれこれ、時間予約はこうしてとと店員は説明した心算、こちらも聞いた心算だが、家に帰って来てさてとなると思い出せないのだ。大変だった。プレーヤを操作できないからCDを買うわけがない。

要するにテープならテープだけ、CDならCDだけを聞ける機械を作って売ればいいものを、あれもこれもくっつけるから中年以降には売れなくなったのだ。

しかも電器屋は電器を売り、音響屋はCDとかMDとかテープに詰めて音楽を売るけれども、買った人がそれをどうやって聴くのかなんかはどちらも考えない。

こんなにいい音楽がなぜ売れないのだろう、おかしいおかしいとばかり言っている。それが機能のありったけをくっつけて売った電器屋の罪、中年や老人を混乱させた電器屋の罪、それを分析していない自分たち音楽屋の落度と考えない。いずれにしろ演歌は最大の客を業界は失ってしまったのである。

NHKのラジオ深夜便で最大の呼び物は午前3時台の歌謡曲・演歌の時間である。ファンが多すぎて枠を2時間に広げなければならない時もある。またそれをテーマにした集いをどこで開催しても満員で、抽選に漏れた老人の嘆きがまた番組を賑わせている。

さすがレコード会社はこの番組をCDにして売り出しているが、番組への熱狂ぶりほど売れないのは不景気のせいとばかり考えて、複雑な録音再生器のためだとは気がついていない。

若者にとって便利な道具は年寄りにとっては実に不便なものだと言う事に電器屋やレコード屋が気づいた時、その担当者は既に定年退職して会社に居ない。

なぜそんな事を言うかというと、レコード会社の役員と喧嘩になったことがあるからだ。「それをレコード会社の責任にするのはおかしい」というから「売れないで困っているのはあなたがたの方だから電器屋に注文をつけないからだ。言ったらいいじゃないか」と言ったが聞かなかった。状態はあのままである。

ここ15年ぐらいは目の白内障だったから小遣いは専ら本よりもCD買いに費やしてきた。演歌、クラシック、俗曲、落語など手当たり次第だった。狭いアパートで置き場所に困り文句を言われている。

しかも今やもっと小さくて機能の優れたMDに時代は変わった。やがて時代はさらに進んでMDも古いことになるだろう。パソコンがあればCDもMDもDVDも家に置く必要はなくなるだろう。悔しいといえば悔しい。

尤も歌謡曲とか演歌とか、中年以上の年齢層に好まれる歌が流行らなくなったのには歌に「詩」やロマンが無くなったせいでもある。詩がすべて口語になったから詞はまるで「説明」であってロマンが欠乏している。

だから演歌を殺したのは嘗ての文部官僚だといった方がいいかもしれない。最後に棄て台詞「今に日本人は和歌が全く理解できなくなるだろう」。
〔了〕2004.02.07

◆本稿掲載の11月9日(火)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2090号を
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<2090号 目次>
・JNN世論調査の支持率は30・3%に急落:古澤 襄
・改めて思う国民の権利と義務:阿比留瑠比
・英国首相が財界率いて北京入り:宮崎正弘
・ねあか、ぼちぼち、あきらめず:平井修一
・電器屋が演歌を殺した:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年11月07日

◆全共闘政権の成立

渡部亮次郎

2010年6月4日に成立した内閣の首班は菅直人だから、世上はこれを「菅内閣」と呼んでいるが、これは違う。菅が政治家としての見識に欠けているからだけでなく、すべての案件に対して優柔不断であることを突かれて、官房長官の仙谷由人に振り回されているから実質「仙谷内閣」である。

その仙谷も菅も学生時代は全共闘に所属した左翼活動家だったし、中でも仙石は安田講堂にもこもった札付き。政治家のスタートは日本社会党なのだから根っからの「アカ」。

仙谷 由人(せんごく よしと、1946年1月15日 ― )は、日本の政治家、弁護士、全共闘系学生運動家。衆議院議員(6期)、内閣官房長官(第78代)、凌雲会会長。

民主党政策調査会会長(第7代)、有限責任中間法人公共政策プラットフォーム代表理事、衆議院決算行政監視委員長、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)、内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)などを歴任した。

この辺りまでは小沢一郎嫌いが目立つ程度で、国民の被害も小さかったが、官房長官になって化けの皮を脱いだ。国の根本を変え、中露に日本を売り渡そうとしている。

閣内の調整役を、道勘違いしたのか、国会だけでなくすべての局面で内閣の先頭に立ち、日本全体を振り回している。これを厳しく批判するマスコミはいまのところ産経新聞だけ。

各社がこれにつづかないと見て取るや、産経を公の場で非難し、詰ること夥しい。権力を手中にしたから、若い頃から夢見た全共闘政権の樹立に成功したと勘違いしているようだ。

「この世をば わが世とぞ思う もち月の かけたることも なしと思えば」と詠んだ藤原道長野心境だろうか。(文中敬称略)
2010・11・6

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<「頂門の一針」2088号・目次>

・全共闘政権の成立:渡部亮次郎
・中露に舐められる日本アチャチャ:山堂コラム 343
・「尖閣」ビデオ流出の衝撃!:花岡信昭
・狂歌師、自民・伊吹氏の詠む歌:阿比留瑠比
・需要創出の知恵を:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年11月05日

◆「お前の女房は元から俺の女房」

渡部 亮次郎

わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969 (昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。

日本の常識ではそうだろう。だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。

だから外交課題には適さない。理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相らは、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。 

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。

「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。


2010年11月02日

◆監視される中国特派員

渡部亮次郎

中国に多少通じる人と会うと、「北京や上海の日本人記者は碌な記事を送ってこない」「中国に批判的な記事は1行も書かない」と非難する。

だが、事情を知れば、この非難は的外れだ。日中間には「政治三原則」遵守を義務付けられた「日中記者交換協定」と言うものが存在し、中国における日本人記者の取材活動を縛り、監視しているのである。

しかも、それを暴露すれば直ちに「国外追放」が待っている。追放されたら2度と中国へは入国できない。彼ら彼女らは片時も自由を得られず怯えながら取材をしているのである。

1964(昭和39)年9月には、LT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることになった。

1968(昭和43)年3月、LT貿易は計画の期限を迎えてあらたに覚書「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が交わされ、覚書貿易(MT貿易)へ移行した。

このとき双方が「遵守されるべき原則」として「政治三原則」が明記された。「政治三原則」とは、周恩来・中華人民共和国首相をはじめとする中華人民共和国政府が、従来から主張してきた日中交渉において前提とする要求で、以下の三項目からなる

(1)日本政府は中国を敵視してはならない。
(2)米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない。

中華人民共和国政府の外務省報道局は、これに基いて各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に抵触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。盗聴は24時間である。

三原則を拡大解釈すれば、少しでも中国に批判的な記事は抗議の対象となる。ひいては日本記者たちに自己規制を強いる結果となる。それが中国の狙いだった、と推測される。

記者交換協定の改定に先立つ1967(昭和42)年には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。

この1968(昭和43)年の記者交換協定の改定は、日中国交正常化(1972年)の4年前のことだったが、北京で交渉に当たった田川誠一・衆議院議員(故人)らと中華人民共和国政府との間で「結論は一般には公表しない」ことが決められ、その内容も報道されなかった。

筆者は当時、自民党担当のNHK記者だったが、後の「角福戦争」の前哨戦たる派閥抗争を追うのに忙しく、記者協定は勿論、日中そのものに関心が無かった。それにしても大変な「箍(たが)」がはめられていたものである。

後に外務大臣の秘書官に転身。「協定」の改訂にも関心を寄せたが一度味を占めた中国側の壁はもはや鉄壁だった。交渉に応じようともしなかった。

この不明朗な措置は、後に「一部の評論家などから、日中記者交換協定が、中国への敵視政策をとらないという政治三原則に組み込まれ、報道の自由を失っているとの批判を招く」一因になったとされる。

また協定の存在自体により、中国に対する正しい報道がなされず、中国共産党に都合の良いプロパガンダしか報道されていないという批判もある。

その後、中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂(みのる)は、中国の壁新聞(街頭に貼ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた。この時期は朝日新聞を除いた他の新聞社も、追放処分を受けている。

他社の記者がすべていなくなった北京で朝日の秋岡特派員は林彪が1971年9月13日、逃亡途中で墜落死したにもかかわらず生存説を打電し続けるという有名な誤報事件を起こした。

1968(昭和43)年6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に亘って拘留される(鮫島事件)。

1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。

このように、中国共産党に都合の悪い記事を書くことは、事実上不可能である。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。

中国語習得を売り物に入社した記者は殆ど中国にしか用事が無い。中国に入国できなくなれば商売上がったりだ。だから滞在中は中国から睨まれないよう萎縮して取材するしかない。それを評して「まともな記事を送って来ない」と非難するのは的外れでは無いか。

余談ながら、1972年9月、日中国交正常化のための田中角栄首相の北京訪問の際、同行したが、望遠レンズの使用が禁止された。狙撃銃が仕込まれているかも知れない、というのだ。

また、日中首脳に10mまで近づける記者は「近距離記者」で特別待遇。それ以外の「遠距離記者」は「観衆」扱いだった。外国の商業メディアの記者は「反革命分子」同然なのである。
参考「ウィキペディア」2010・10・30

◆本稿掲載11月2日(火)刊の「頂門の一針」2083号を
ご高覧ください。(netmo編集部)

◆<2083号 目次>
・監視される中国特派員:渡部亮次郎
・中共的「平和」の欺瞞:平井修一
・「潮目」になるか北海道5区補選:花岡信昭
・一番機で安倍元首相が訪台:宮崎正弘
・グローバル化の新たな波:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年10月31日

◆既成事実化狙う「会談拒否」

渡部亮次郎

「日中首脳会談は無いだろう」という中国側の観測記事の直後、ハワイからチャター機でハノイに飛んできた前原外相が中国の楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相との会談の後、首脳会談は多分ある、と語ったので、私は「あれ?」と思った。

<【ハノイ=坂井広志】ベトナムを訪問中の菅直人首相は29日夕(日本時間同日夜)、ハノイ市内のホテルで、日中韓首脳会談を行った。その後、中国の温家宝首相と会談する方向で最終調整していたが、中国側は会談拒否の考えを示した。

中国外務省の胡正躍次官補は日本側が首脳会談を実施するためのムードを壊したと、会談拒否の理由を説明した。

菅直人首相は温首相と会談することで、9月に沖縄・尖閣諸島沖でおきた中国漁船衝突事件後に悪化した日中関係の改善につなげたい考えだった。

胡次官補は29日午前(日本時間同)に行われた日中外相会談の内容について、「日本側が事実と異なる発表をした」と批判した。

29日午前の前原誠司外相と中国の楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相の会談では、尖閣諸島問題について、前原氏が「日本固有の領土だ」と主張したのに対し、楊氏は中国側の立場を強調し、議論は平行線に終わった。

前原氏は中国のレアアース輸出停止問題に懸念を表明。楊氏は「駆け引きの材料にすることはない」と述べた。

前原氏は中国が延期を発表した東シナ海ガス田開発をめぐる条約締結交渉の再開も要請した。ガス田「白(しら)樺(かば)」(中国名・春(しゅん)暁(ぎょう))で中国が単独で掘削している疑いも事実関係をただした。楊氏は「交渉については必要な環境を整えたい」と述べるにとどめた。>産経新聞 2010.10.29 22:24

尖閣問題について中国は戦略上、領有の既成事実化を狙っている。したがって日本に対して「会談」や「話し合い」の必要性を全く持っていない。菅内閣の言う「両国の互恵的云々」にも真実は関心を持っていない。

とにかく、歴史的な証拠があろうと無かろうと、尖閣諸島の領有権を確立しなければ、共産党政権は崩壊し、中華人民共和国は消滅するとまで思い込んでいる。南、東シナ海のみならず太平洋制覇の野望を達成する為である。

昔、その道に達した粋人が言った。女性は未遂を言いふらし、男性は既遂を言いふらす」だから女性に手を出したら既遂にしなければ言いふらされて恥をかくと。

中国の今は上の心境であろう。「尖閣を領有する」と宣告した以上、これを「既遂」にしなければ軍部の反発で胡政権は求心力を喪失してしまう。したがって、仮に温家宝首相が菅首相に「謁見」を許しても「笑顔」を見せたら軍の反発を招くだけ。

笑顔ぬきに菅に何を語るか。語るものなんかあり得ない。<中国側は最初からハノイで日中首脳会談をする気がないのは、中国外務省が繰り返しコメントしている。しかし対中弱腰外交を非難されている菅首相は、ここで日中首脳会談を実現し、戦略的互恵関係を誇示したい思惑があった。日中首脳会談は菅首相にとって必要だったのである。>元共同通信
常務理事 古澤襄氏)。

菅首相にあるのは「その場しのぎ」のやりくりだけ。国家観なく、日本国運営の目的も戦略も所持していない。尖閣問題の戦略もない。

ただ人気取りのため「何か一所懸命、動いている」を国民に「姿」として見せたいだけ。とっくに中国に見透かされている。首脳会談に応じるだろうと思うのは政治感覚がまるで欠如していることを天下に晒しただけ。

日本はこんなのしか首相がいないという恥をハノイでロイターやAFPを通じて世界に晒した。
2010・10・30

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◆<2081号 目次>
・既成事実化狙う「会談拒否」:渡部亮次郎
・温家宝首相への突き上げ深刻:宮崎正弘
・政権交代は米国からの真の独立のためだとMr.L:阿比留瑠比
・幣原“軟弱外交”再び:平井修一
・衆愚政治、元凶は小沢・小泉:山堂コラム 342
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年10月27日

◆何時まで「皆さんの」NHKか

渡部亮次郎

東京の街を見回して気の付くことだが「喫茶店」が殆ど姿を消し、新たに登場したのが単身客相手のコーヒー屋だ。友達同士、喫茶店に入って音楽で癒しながら話に興じると言うことが無くなった。

コーヒー屋では自分だけを癒している女性や男性を目にするが、話し込んでいる客は皆無だ。なんとなく「孤独」でパーソナルな時代になった。

企業や団体で、慰安旅行が忌避されてもはや久しい。会社の上役や同僚といること自体が「ストレス」であるから、温泉宿で一緒に酒を呑んでもストレスがたまるだけ。

だからストレスが溜まったら、こっそりコーヒー屋に一人で入り、独りで癒すのだろうか。団体を忌避し、孤独が癒しになる時代が到来したのだろう。

そうかと思うとNHKはいつまでも「皆さんの」を叫んでいる。ラジオ深夜便では午前4時の直前「何時でも何処でも安心をお届けするNHKラジオ。NHKのラジオとテレビの放送は皆さんの受信料で作られています」とコマーシャルを必ず放送している。

あれを聴くと「皆さん」というグループか階層があって、その人たちの出す受信料なる資金で、番組がNHKじゃない場所で制作されているのだ、と聞える。NHKが制作しているのではなく別の会社によって制作「されている」と。

「あなたの払って下さる受信料で私共が番組を作っているのです。ですから受信料は必ず払って下さるよう御願します」とは聞えない。

聞えないコマーシャルは無駄。誰一人これに気が付かないというのだからNHKには人が沢山いるようで、「誰もいない海」なのだ。

日本でも、初め、ラジオの放送が始まった時、それは高価であって、番組は各家庭が家族一緒に茶の間で楽しむものだった。だからNHKも聞いているのが「あなた」ではなく「みなさん」だった。

だが、いまやテレビもラジオも一人ひとりで視聴する時代になっている。パーソナルなものに変化したのである。喫茶店がなくなったと同様、放送は家族団らんの道具ではなくなったのである。

だからNHKの呼びかけは「皆さん」から「あなた」に切り替えなければ時代遅れなのである。NHKは「みなさまの」から「あなたの」NHKにならなければならなくなっているのである。

あるいはNHKの経営陣はNHKを受信していないのかも知れない。少なくともラジオ深夜便の午前4時直前の「コマーシャル」を聞いてないのだろう。

聴かされて高価の全く無い、それよりも逆効果のコマーシャルは明日も流れるだろう。NHKには人はいるが人材はいないからなぁ。
(2010・10・26)

◆本稿は、10月27日(水)刊の「頂門の一針」2077号に
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◆<同号 目次>
・何時まで「皆さんの」NHKか:渡部亮次郎
・反政府、反共産党への起爆剤を狙う:宮崎正弘
・悪装も米国の謀略だった:前田正晶
・気になったベタ記事・ミニ記事: 阿比留瑠比
・裏切り者の仙谷由人:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年10月26日

◆鳩山由起夫の脳は特殊

渡部亮次郎

前首相鳩山由起夫の発言を聞いているとバカじゃなかろうかと思うが、それでは失礼だから彼の脳は「特殊」と言うことにしておく。

民主党を今のように苦境に陥れたのは自分なのに「だから俺は党内に残る」という。居なくなってくれなければ困る、と言うのが真相なのに、それが全然判っていない。呆れる。

<鳩山前首相が引退方針を事実上撤回 「党の状況が思わしくない」

民主党の鳩山由紀夫前首相は24日夕(日本時間同日夜)、訪問先のベトナム・ハノイで同行記者団と懇談し、首相退任時に次期衆院選には出馬しないとしてきた自らの去就について「議員を続ける方向に気持ちが傾いてきている。今年中に結論を出す」と述べ、政界引退の方針を事実上、撤回した。

撤回の理由について「民主党の状況が思わしくない。自分なりの役割を投げ出していいのかという、いろいろな声をもらっている」と述べた。>(共同)(産経ニュース 2010.10.24 22:24)

ある社の政治部長経験者は語る。「元首相」としての仕事が予想以上に多く、いい気分にさせられているのではないでしょうか。最高の待遇で世界中に行けますし」。それしか考えられない。

在任中、政治家に不適合であることを散々見せ付けて、日本の国際的地位を低下させた。世界観が無いから、国際情勢が読めない。日米関係、日米安保条約の本質を知らないから、沖縄問題で、日米関係を根本的にこじらせてしまった。

こじらせてしまってから「抑止力」に初めて気づいて天下に恥を晒した。東シナ海に「友情」などを持ち込むから。中国に徹底的に舐められた。そこで尖閣紛争を招き寄せた。

東南アジア各国は固唾を呑んで鳩山政権を注視したが、おおかた「だめだこりゃ」と見放した。

謂うまでも無く、引きずり降ろされるように政権を投げ出したのは喝采だった。だが、引き継いだ菅政権の不人気の大半は鳩山政権に原因がある。

自分なりに民主党の状況が思わしくないと判っているのだから、自分の消えることが民主党のためであり、日本のためであることにどうして脳が働かないのだろうか。

「自分なりの役割を投げ出していいのかという、いろいろな声をもらっている」と言うのは、華やかな「前首相役」を演じていたい為の誤魔化しでしかない。とってつけた「屁理屈」でしかない。

若い頃、政治記者を20年ほど務めたが、こんな、ヘンテコリンな脳を見たことが無い。これは絶対政治家では無い。己の楽しみのために公金を無駄遣いする「ゼニクイムシ」だ。自分を政治家だと思っているのなら、まず政界から自分を駆除しろ。(文中敬称略)
2010・10・25

◆本稿は、10月26日(火)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2076号に
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◆<2076号 目次>
・鳩山由起夫の脳は特殊:渡部亮次郎
・町村氏当選の意義:花岡信昭
・先島諸島に県警機動隊配備を:泉 幸男
・突如ガイトナーは中国へ飛び密談:宮崎正弘
・新国際線ターミナルに見る予算の立て方:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年10月24日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎

「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日
本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事
はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口
一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝てい
るところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同
行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国
交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入
りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡っ
て「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし
随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、
「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引
見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて
初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと
考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」と
ばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちであ
る。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官も「平和状態」をいつも望む余り、
中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまって
いる。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相
のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も
軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して
周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨の
ある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりす
るが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらす
ぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心
底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会
見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんな
に(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。
(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイ
での日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰
囲気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボー
ルは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言した
ことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよ
いのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、
両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。
(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙い
だが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底
から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田
直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そ
のうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取する
ハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはな
らない。2010・1022

◆本稿は、10月24日(日)刊の「頂門の一針」2074号に
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◆<2074号 目次>
・「喧嘩は済みましたか」:渡部亮次郎
・誰も助けてはくれん:山堂コラム 341
・「ビデオは倉庫に眠るものさ」:阿比留瑠比
・注目せよ、尖閣に隠れるガス田問題:櫻井よしこ
・習近平の背後には利権巣窟特権階級:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記


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2010年10月22日

◆墜ちる人工衛星

渡部 亮次郎

1977年11月、NHK国際局(当時)副部長から福田赳夫内閣の外務大臣(園田直=そのだ すなお)の秘書官に発令された。NHKとは体質が合わないと思っていたので、喜んで応じた。

翌年1月に初外遊に同行、モスクワに向かった。まだ健在だった「ソ連」との外相定期協議に出席したもの。

そこから帰国。あさってからは中東各国歴訪に出発だと覚悟を決めて羽田空港に着陸した途端、有田外務事務次官が飛び込んできたから驚いた。「ソ連の人工衛星が墜落して来る」との報告。

人工衛星の墜落は現在では珍しいことではなくなったらしいが、その時は初めてのことだったので驚いたわけだ。

「それでどうしますか)と大臣。

有田さんは落ち着いたもの。「まだ墜落予想地点が分かりませんから、地点が確定するまで“極秘"にいたします」で終わり。マスコミといえども○○○桟敷。発表はそれから1週間後ぐらいだった。

結局、カナダ国内の山地に墜落が確定したからだった。その時はイラン、アラブ首長国連邦、サウディアラビアなど石油産油国を回っていたので記憶がはっきりしない。

いずれにしても外務省が握る外交機密は、政府が発表しないかぎり国民は知らない、ということなのだ。官房長官のオフレコ懇談などで洩れる事はあるが、それ以外に洩れることは殆ど無い。

そういう観点からすると毎日新聞政治部記者(当時)西山太吉氏によって引起された、沖縄返還に絡む「外務省機密漏洩事件」は特殊な例だった。女性事務官が絡んだものだったからである。

<佐藤栄作内閣下、米リチャード・ニクソン政権との沖縄返還協定に際し、公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報をつかみ、毎日新聞社政治部の西山が社会党議員に漏洩した。

政府は密約を否定し、逆に、東京地検特捜部が、起訴状において、西山が情報目当てに既婚の事務官に近づき酒を飲ませた上で性交渉を結んだと述べ、情報源の外務省女性事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕した。

これにより、報道の自由を盾に取材活動の正当性を主張していた毎日新聞はかえって世論から一斉に倫理的非難を浴びることになった。

西山が逮捕され、社会的に注目されるなか、密約自体の追求は完全に色褪せてしまった。また、取材で得た情報をニュースソースを秘匿しないまま国会議員に流し公開し、情報提供者の逮捕を招いたこともジャーナリズムの上で問題となった。

この事件の後、西山の所属した毎日新聞社は、本事件での西山のセックススキャンダル報道を理由とした不買運動により発行部数が減少し、全国紙の販売競争から脱落。また、オイルショックによる広告収入減等もあり、1977年に一度倒産した。

以後、大手メディアの政治部が国家機密に関わる事項についてスクープするということがなくなった(リクルート事件をスクープしたのは政治部ではなく社会部)。

裁判においては、検察側は国家機関による秘密の決定と保持は行政府の権利及び義務であると前提付けた上で、報道の自由には制約があると主張し、国家公務員法の守秘義務は非公務員にも適用されると主張した。

また、報道の自由がいかなる取材方法であっても無制限に認められるかが争われたが、前掲の理由により最終的に西山に懲役4月執行猶予1年、女性事務官に懲役6月執行猶予1年の有罪が確定した。

なお、一審判決後、西山は毎日新聞を退社し、郷里で家業を継いだ。

2005年4月 、西山が「国家による情報隠蔽・操作が容易にできることを裁判を通じて国民の前に明らかにする」として国家賠償請求を東京地裁に提訴。

2010年4月9日 。密約訴訟判決。東京地裁(杉原則彦裁判長)は「国民の知る権利を蔑ろにする外務省の対応は不誠実と言わざるを得ない」として外務省の非開示処分を取り消し、文書開示(本当に存在しないなら“いつ” “誰の指示で” “どの様に”処分されたのかも)と原告一人当たり10万円の損害賠償を国に命令。

西山は文京区民センターでの講演『知る権利は守られたか』でこの判決を「歴史に残る判決」と評価し、「われわれが裁判を起こして今回の判決を導き出していなければ、外務省の外部有識者委員会による報告書が密約問題に関する唯一の解明文書となり、国民の知る権利は封殺されていただろう」と述べた。

なお、行政訴訟では一審で勝訴したものの事件には関係ないため自身の有罪判決は変わらないが再審請求は「全く考えていません」>
< >内は「ウィキペディア」 2010・10・19

◆本稿は、10月22日(金)刊の全国「頂門の一針」2073号に
掲載されています。著名寄稿者の卓見を下記アドレスから手続き
して拝読下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

◆<2073号 目次>
・墜ちる人工衛星:渡部亮次郎
・尖閣「領有権」の棚上げを中国が打診:宮崎正弘
・中国の「世論戦争」に備えよう:古森義久
・開き直りふんぞり返る仙谷氏に贈る言葉:阿比留瑠比
・入れ墨者の入浴お断り:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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